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2009.05.31

感謝!100万アクセス達成!

1 5月31日、東京で隠密活動していたのですが、その夜に100万アクセスに到達したようです。本当に読んでくださる皆さまに感謝です!
 チリも積もれば山となる…いえいえ、皆さまの温かい一票…ではなく、一件というか一見というか一瞥というか一読というか、そういう貴重なもののをチリだなんて表現してはいけませんね、宝も積もれば山となる、とでも言えばいいのでしょうか、いずれにせよ、全ては皆さまのおかげです。ありがとうございます。
 実際のところは、100万アクセスというより、100万ページビューと言った方が正確です。重複アクセスもカウントしていますので。また、100万というのはあくまでも左の猫ちゃんの上にあるカウンターでの話であって、ココログのカウンターではまだ92万ちょっとなんです。ま、でも、まあいいや。とにかくめでたい数字が表示されたことは確かですから。
 それにしてもですね、自分でもこんなにたくさんの方に見てもらえるブログになるとは思っていませんでした。最初の1ヶ月は1日に一ケタのアクセスしかない日が続いていましたからね。それが今では1000を超える日もあったりする…感無量です。
 丸5年で100万ですから、平均すると1日500強ということでしょうか。最初の2年くらいは1日200から300の日が続きましたから、そんな感じでしょう。それが3年目ぐらいからでしょうかね、Googleでの検索順位が突然上がりまして、それで通りすがりの方、一見さんが激増したんです。そこから定期的な読者になってくれた方もたくさんいまして、今さらながらGoogle様の力には驚きを感じます。あんまり悪口言えないな。
 それにしても、こんな一般人の、それも決まったテーマもない、思いつきを書きなぐっているだけのブログに、こんなにアクセスがあるというのも不思議ですね。不必要に長いし、形式もいわゆるブログ風でなく、普通の作文風で読みにくいし。文章自体も平成軽薄体で品格が感じられないし(笑)。
 ただ、本当にブログというツール、メディアの力には感動します。正直、自分の発信しているこのブログのおかげでずいぶんと人生が変わりました。100万のアクセスの中から、どれだけ貴い御縁が生まれたことでしょう。絶対に出会わなかったであろう方々と、どれだけ知り合い、言葉を交わし、そして実は今日もそうだったのですが、実際にお会いすることになったことか。本当にインターネットというのは画期的なインフラですね。まさにインター(つなぐ)ネット(網)です。
 そしてブログというメディアもまた、シンプルではありますが、今までのパラダイムを崩す可能性を持っています。つまり、私のような一般人と、いわゆる有名人が同じ土俵に上がることができる可能性を提供してくれるんですね。
 たとえば、Googleの検索結果では、有名な学者さんや、芸能人さんなどのブログの隣に、私のブログが位置することができるんですね。これは以前の社会ではありえないことでした。だって例えば雑誌などで、有名人の書いた記事と、私が書いた記事が並んで掲載されるなんてことはあり得なかったじゃないですか。
 それと、私の言葉が、そうした方々に直接届くということですね。つまり、私がおススメしたものの作者御自身が、私の記事を読んでくださる可能性が非常に高くなったということです。先ほど書きましたように、どういうわけか私のブログはGoogle様に高く評価されていますので、たとえばCDや本を紹介したとすると、その記事がAmazonの当該ページに次いで第2位に表示されたりするわけです。そうしますと、やはり作者の方々ご本人としては、ついつい読んでしまうのではないでしょうか。実際、そのようなことが機縁で、直接ご連絡いただいたり、お会いしたりする機会を得ています。これも5年前には考えられないことでした。
 ですから、この毎日の修行のような作業も、ものすごくやり甲斐のあるものなんです。私にとっては、原稿料なんかよりもずっとずっとありがたい報酬がいただけるわけですからね。
 いや、それを期待して毎日書いているわけではありませんよ。そういういやらしい気持ちを持つと、文章というのは書けないものです。あくまで無垢に、自分の中から生まれてくる言葉を書き留めているだけです。それが世界に発信され、ある意味私に代わって勝手に活動してくれているという感じでしょうか。そういう意味では、そんな言葉たちにも感謝したいと思います。
 さあ、次の目標は…なんて、あんまり力んだりするとダメですよね。今までどおり自然体で、な〜んも考えず、全てを言葉たちに言霊におまかせします。というわけで、これからも皆さん、こいつら言葉たちをよろしくお願いいたします。とりあえず死ぬまで続けます。たぶん。

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2009.05.30

インスタントコーヒーをかきまぜる時の音がだんだん高くなるのはなぜ?

Uni_2612 起きると、まずコーヒーを淹れて飲みます。というか、私は一日一食(夕食のみ)なので、朝はコーヒーを2杯飲むだけです。
 で、今日も朝5時、優雅に早朝コーヒーをいただこうかと思ったら、あれれ?買い置きしておいたはずのコーヒー・ペーパーが見当たらないぞ。どこにしまいこんだんだ?
 朝の習慣が崩れるというのは、一日のスタートとしてはあまり望ましくない事態です。しかたなく、たまたま見つけたインスタント・カフェオレを飲むことにしました。
 スティックから粉末をカップに入れ、沸かしたお湯を注ぎます。トクトクトク…この音の音程がだんだん高くなるのは、これは理屈でわかります。楽器みたいなものです。
 さて、それでいよいよ、かきまぜる段になりました。スプーンを回します。すると、スプーンとカップが触れ合う音が聞こえてきますよね。その音程もまただんだん高くなります。
 のちにもう一杯入れて録音してみました(笑)。
 こちらです。
 これは皆さんも経験なさっていることと思います。今まで、私も何度となくこの妙なる音楽を聞いてきたわけですが、なんでだろうと思ったのは、実は今日が初めてでした。
 2杯目、すなわち録音した時は、スプーンを回転させる速度をなるべく一定に保つようにしてみました。なんとなく、回転が速くなると音程が高くなるような気がしたからです。これはモーター音やエンジン音からイメージされるとおりですね。
 しかし、結果は上の録音のように、やっぱり高くなっていく。これはいったいなんでなんでしょう。
 私の足りないおミソで考えられる理由…というか、なんとなくイメージされる因果関係の「因」を書き出してみました(全然科学的ではありません)。あえて、先ほどの回転速度も入れておきます。

1 液体の回転速度(流体速度)
2 溶解の度合い(固体と液体の比率)
3 カップの温度変化
4 気泡の量(液体と気体の比率)

 1については、先ほどの実験の結果却下。2はあり得ますね。固体と液体では音の速度も変わりますし、伝達しやすい周波数にも変化が生じそうです。3は、たとえばただのお湯とか、ドリップしたコーヒーをかきまぜても、全く音程は変化しませんので却下。4も2と同様の理由で可能性があります。
 皆さんは、どうお考えでしょうか。これって、みんなが経験している割に、なぜか考えられてこなかったんじゃないでしょうか。
 私なんか、おそらくもう数百回聞いていながら、全然疑問に思わなかった…どころか、この音程が上がり切ったらかきまぜ終了!みたいなシグナルとして聞いていたりして(笑)。
 しかし、いざ考えてみたら、やっぱりわからない。2と4を確かめようにもどう実験していいかわからん。というわけで、ネットで調べてみたら、百家争鳴、侃々諤々。だいたい私の考えた四つの意見があったり、「気分がハイになって実際は変化していない音程が高くなっているように聞こえる」という2ちゃんぽい意見もあったり、とっても面白いことになっていました。
 と、そこに伏兵現る。な、なんと、高校生がこの謎に挑んで、なんとか賞まで獲っていた!
 こちらです。
 むむむ、4ってことか…。やるな大門高校理科部。
 私の足りないおミソでは、どうも音速と周波数の関係がいまいちよくわからないのですが、経験上、弾性と音程の関係というのはわかりますね。ま、簡単に言うと、金属みたいな硬いものを叩いた時はキンキン高い音がするし、軟らかいものではボンボン低い音がします。
 また、遠くの雷は低い音がしますよね。これは空気(気体)が高音を伝達しにくいからでしょう。
 自分の声を録音すると低く聞こえるというのも関係がありそうです。自分の声はふだん、空気の振動とともに骨という固体の振動の両方を聞いています。録音は空気(気体)だけですからね。
 ま、あんまり安直に妄想しますと、科学的ボロが出てしまうので、このへんでやめときます。
 ただ、一つ、私の仮説の2も多少あるような気がするのですが。つまり、2と4の複合的な「果」だと思うんですけど、どんなもんでしょうね。

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2009.05.29

アトラス・バッテリー(韓国製自動車用バッテリー)

Img56222418 の前、パソコンと車と腕時計とデジカメがいっぺんに動かなくなった話を書きました。
 そのうち、パソコン(iMac)はすでに臓器移植のドナーとなって昇天し、新しい命(新型iBook)として生まれ変わりました(買ったのではありませんが)。
 腕時計は叩いたらまた動き出しました。ただし1日に10分ほど遅れます。クオーツなのになんで遅れるのか、逆に興味津々です。
 洗濯されたデジカメはさすがに蘇生せず、キーホルダーとしての本来の天命を全うしています。
 で、車なんですが、ようやく今朝復活しました。
 ここ数日は自分の車なしの生活でした。朝はカミさんに送ってもらい、夜は家族総出で迎えに来てもらいました。なんだか、それはそれで新鮮でしたね。意外なところで家族のコミュニケーションがとれました。みんな楽しそうでした。たまにはいいですね。「もののあはれ」が生む小さな幸せ…。
 動かなくなった理由は非常に単純かつ古典的でして、いわゆるバッテリー上がりです。今乗っているエブリィランディというレアな車は、一昨年のちょうど今頃、埼玉で見つけて購入したものです。中古です。その時、バッテリーは新品に替えてもらったので、2年経っていたわけですね。実はその間、全くバッテリーのメインテナンスというものをしませんでした。
 昔は、車の故障というとまずはバッテリーでしたから、それなりに液量などを注意し、たまには電圧を測ったりしてましたけど、最近はメインテナンス・フリーのバッテリーが最初から搭載されていたりして、ついつい放置するクセがついてしまっていたんですね。
 特にこういう箱形の車では、ボンネットを開けてもそこにバッテリーはありませんから、ついつい見る機会を失いがちです。今回もそうでした。正直バッテリーの存在を忘れてた。
 少し兆候はあったんです。エンジンの始動がいまいちスカッといかないなとは思っていた。そこでなんとかすべきだったんですよねえ。いけませんね。
 それにしても、2年でバッテリーがここまでへたるというのは、ちょっと今までにない事態でした。助手席のシートをカパッと開けて初めて(!)この車のバッテリーというものを見ましたけど、別に液量には問題はありませんし、特に端子の部分に粉が吹いてるとか、そういうこともありませんでした。たしかに2年前には新品だったと思われる風体です。
 とういうことは、単純に過放電というか、電気の使いすぎだったのでしょうか。たしかに、ライト+フォグライト+カーオーディオ+iPod+カーナビ+車内DVDプレーヤー+ETCという感じですから、無理があったのかなあ。それに、通勤では行きは富士山を下るわけですから、ついついニュートラルにしてしまいますし(笑)。スバルラインの終わりのところって、自由滑走でちょうどいいスピードになるんですよ。
 まあ、そんなことをしながら2年間過ごしましたからね、ユアサ・バッテリーくんには、知らないところで難儀をさせてしまっていたようです。
 さあ、それでどうしようか、ということになりました。まあもう1台の車と直結して始動し、充電するというのが一番手っ取り早いんでしょうけど、2年間酷使したし、まあ車検も近いので自分で交換するのが一番安上がりになりそうだという結論に至りまして、カー用品屋さんに行ってみました。1万円持って。
 そうしたら、ガーン!1万円じゃ買えないじゃないですか!?えっ?バッテリーってそんなに高かったっけ。
 なにしろ、私の記憶は20年前で止まっていましたからね。数千円という感覚しかなかった。あの頃は550ccもしくは360ccの軽自動車だったしなあ。甘かった。
 格安でも1万3000円。相場では1万8000円くらい出さないとダメみたい。そんなお金ないよう〜。
 そこでいつものネット検索です。ほとんど趣味です(笑)。そしたら、あるある、アヤシイのが。そして安い。
 ある意味車の心臓部であるバッテリーに、そういうアヤシイものを使うのもなんですけど、なにしろ先立つものがない。ない袖は振れない。というわけで、結局この韓国製バッテリーを買いました。税込み送料込みで6195円也。
 ちょいと心配な分、しっかりメインテナンスするようになりますから、案外長持ちするかもしれませんよ。
 そうそう、最近メインテナンス・フリーな製品が多すぎ、その結果、世話を焼くことが減り、そしてそれが愛情不足につながるということが多くないですか?一面ではそれは素晴らしいことであり、技術の進歩であり、人類の勝利ではあるけれども、なんだろう、この寂しさは。昭和と平成の違いは、実はそこのところにあったりするのではないか…そんな気もする最近です。
 とは言え、やはりいつも書いている通り、バッテリーというヤツは最後の「言うこときかないヤツ」ですね。これからハイブリッド・カーとか電気自動車とかいう時代が来そうな感じですけど、大丈夫でしょうかね。電池の技術に関しては日本は先進国ですけど、それでも基本的に昭和と変わってないような気もします。というか、あの化学反応自体は数百年、いや世界が生まれてから何も変わってないわけですから。
 やっぱりEDLCに期待しましょうかね。

カーショップRCA 2号店

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2009.05.28

能楽部発足

Imgp1442_17 日は能楽部の発足式がありました。本校に新しいクラブの誕生です。
 高校の能のクラブというのは、ちょっと珍しいですね。もちろん、全国にはいくつかありますけれど、卒業生が指導するというのはあまりないのではないでしょうか。
 4月30日に、全校生徒を対象に能楽ワークショップを行ないました。その後アンケートをしてみましたら、おおむね好評で、やはり難しいと言われる能などの日本の伝統芸能も、紹介の仕方によっては、充分現代の高校生の心に響くものであることがわかりました。
 うむ、やっばりプレゼンテーションの方法、演出というものが、エンターテインメントには非常に重要なんですよね。同じものを提供するにしても、やっぱりお客様の立場に立ってないと。音楽もプロレスもみんな一緒。もちろん、授業もです!
 考えてみれば、先生なんて職業は「つまらないことを面白く伝える」のが仕事みたいなもんですからね。中には「面白いこともつまらなく伝える」という猛者もいらっしゃいますが(笑)。私は「面白いことをもっと面白く伝える」のがモットーですので、つまらないことは最初から相手にしません…というか、面白くないことなんか世の中にありませんからね。あるのは食わず嫌いだけ。
 そう、私にとっても「能」は食わず嫌いだったんです。嫌いではなかったかもしれませんが、食わず知らずだったことはたしか。それが、教え子のおかげで、こんなにはまってしまうとは…。でも、この歳になって目覚めて良かったと思いますよ。他の分野と重ねて、俯瞰的に眺めることができますから、楽しさも百倍です。
 自分の話はいいとして…それで、アンケートの中に、「能クラブができたら入部したい」という項目を設けておきましたら、けっこうな数の生徒が○をつけました。よし、じゃあクラブ発足だ!ということになりまして(計画は以前からありましたが)、本日を迎えたとういことです。
 本来なら責任をとって(?)ワタクシが顧問をつとめるべきですけれど、ちょっと別件で忙しいので、若手に譲りました。あまりに突然のオファーだったので、若手はかなり動揺してましたが。彼は物理の先生ですので、「能は宇宙論だ!」とかワケ分からんこと言って丸め込みました(笑)。
 さあ、本日の発足式に集まった部員は5人。一人通院のため欠席でしたので、実質6人の部員でスタートとなります。男女とも3名ずつ。ちょうどいい人数とバランスですよね。正直、こんなに集まるとは思わなかった。お前ら偉い!マニアックすぎる!
 今日は、校長先生の発足の辞のあと、早速お稽古に入りました。扇の持ち方、開き方に始まり、差込、開きの基本動作まで。いきなり能の真髄に触れたような気がしましたね。生徒たちは全くの初めてです。しかし、「型」にはまることによって、すっかり「様」になるから面白い。やっぱり「型」は大切だなあ。「型」にはまるって全然悪いことじゃないし、全ての基本ですよね。
 いつかも書きましたが、「学習」とは「真似び、慣らう」ことです。その本来の「学習」のためには絶対に「型」が必要です。まずは「型」にはまってみること。型を真似し、繰り返してその型に慣れること。カタなしはダメです。型にはまって、のちに型破りを目指すのです。
 さて、今日の初稽古で、意外だったというか、感動したのは、最後にちょっとだけやった謡の真似事です。高校生にとって、ああいう歌唱は、ちょっと抵抗があるんじゃないかなあ、と思っていたんですけど、全くの杞憂でした。彼ら、実に大きな声で先輩の真似をしていました。素晴らしい。これぞ「食わせず知らず」というヤツですか。勝手な先入観はいけませんね。まず食わせてみる、食らわせてみるというも教育には重要なのでしょう。
 さあ、これから彼らはどんな活動を見せてくれるでしょう。私もできるかぎり参加して勉強してみたいと思います。なんかとってもいい予感がします。生徒たちにとっても、学校にとっても、そして私にとっても。みんな頑張ろうぜ!!まずは、8月1日の初舞台(!?)を目指して。

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2009.05.27

『ネコ好き自分の取扱書』 Chien Chat (イーストプレス)

78160000 る教室に、いわゆる「説明書シリーズ」「説明書系」と言われるたぐいの書籍が山積みになっていたので、テキトーに拾い読みしてみました。
 全部似たような装丁に似たような構成、紙面。そして似たような価格設定。しかし、出版社はみんな違っていたりして、この業界の厳しさ(すなわち、なりふり構わないプライドのなさ)が垣間見られ面白かった。
 みんな似たような感じとは言いましても、それなりに、いや、それだから、ライターやデザイナーやイラストレーターの技量の違いが明確にわかるという利点(なんの?)もあります。もちろん、同じテーマを扱っておきながら、互いに内容に矛盾があるところなんかも、まるで分裂、分派した教団の教義を見るようで楽しい。
 ま、そんなどうでもいいことを考えながら読んでる人もいないと思いますけどね。たぶん、こういう説明書系を読むのは女性が多いと思われますから、作る側はこんなオタクな男なんか、ハナっから想定していないのでしょう。
 そう言えば、オタクオヤジついでに言っておくと、こういうシリーズって、その存在自体矛盾がありますよね。だって、もともと女性って説明書、取説、マニュアルっていうのが大の苦手でしょ?ウチのカミさんなんかも、もうそういう説明書とか読む以前に見るのもいやだと申しております。
 ま、私も基本取扱説明書なんか熟読しませんけどね。男は違った意味で取説読みません。読まなくてもわかるわけです。
 そう考えると、取説って可哀想な存在ですよね。だって、いろいろと企業には責任がありますから、そうプロダクト・ライアビリティーっていうんですか、そういう面倒なこと(法律)がありますから、重箱の隅に至るまでちゃんと説明しとかないといけない。説明責任を果たしとかないと、責任逃れできませんからね。なのに誰にも読んでもらえない(一部の取説マニアを除いて)。
 話を元に戻します。我々男子は、「コト」にこだわりますので、結局他を支配するというか、コントロールすることに喜びを覚えます。車を操ったり、パソコンを改造したり。
 そうか、女性は、いわゆる製品としての「モノ」よりも、まず自分という「モノ」の取扱いに興味があるのかな。女性は他をコントロールする以前に、自分のコントロールが難しいのかもしれません。自分に興味がある、自己愛が強いとも言えますかね。母性というのも、基本は自己愛です。母親にとって、子どもは自分の分身ですから。
 で、こういうシリーズは、ほとんどが女性の興味をそそるものです(最近の草食系男子も読んでるかも)。ですから、そこんとこを突いた企画なのかもしれませんね、説明書シリーズ。普通に考えれば、他者の取扱いのために取説を熟読すると思いますけど、こういう本の読者って、ほとんどが自分にあてはまるのを読むわけでしょ?誰かの扱いに困って、その誰かの属性にあてはまる本を購入している例は少なそうです。
 そういう私もご多分にもれず、「ネコ好き」やら「AB型」やらの本をまず手に取りました。そして、読んでみました。なんだ、これら、全然説明書じゃないじゃん。説明書、取説の体を為してない。取説って、こういう時はこうしろ、ここを押すとこうなる、つまり使い方の説明のはずじゃないですか、この本たちは、そういう内容じゃなくて、スペックとか特徴(特長)とか、そういうのの羅列ですね。
 それも、けっこう「そりゃ違うよ」とか「え?そうか?」っていうのが多い。もし、電化製品の取説がこんな感じだったら、それこそ説明責任を問われちゃいますね。ま、結局この手の本は、昔からある心理テスト(エセだけど)の最新ヴァリエーションってことになりそうですね。
 文句言ってるわけじゃないですよ。面白かったから。でも、一冊15分で読み切れてしまうのに税込み1050円は高いよなあ。
 それでも、別の視点から見ると、それなりに価値があったものもありました。もちろん微妙な共感と反発、疑問という、本来の文学的意味からしましても。それが、この本でした。「ネコ好き自分の取扱書」。これはもうちゃんと「自分」って言ってるとこが良心的と言えば良心的。例によって取扱書にはほとんどなってませんが、ポエムとしては面白かった。
 独特の視点と感性と、そして文体が、読んでいてなかなか心地よかった。これを詩集と言えるかは微妙ですけど、ある種の文学性は感じられましたね。リズムの強弱、あるいは緩急が絶妙でした。そう、好きな音楽を聴いているような感覚で読めましたね。
 結局、自分は単純に猫が好きで、そして、そういう自分が好きなのでしょう。これは私に限らず、皆がそうなんだと思います。結局自分が好き。ま、それでいいんじゃないですか。
 こういったシリーズのブームがどこまで続くか分かりません。そろそろ市場には飽きが来ているように見受けられます。次はどうやって、ナルシストたちの心をくすぐるか…実は、古典の世界からずっと、文学というものは、自己愛の充足のために存在してきたのでした。他者への変身願望や、現実からの逃避願望なんてのも、単に自己愛の裏返しであるということです。
 なにかと不安な世の中、こういう時こそ、頑張れ文学界、出版業界!

Amazon ネコ好き自分の取扱書

楽天ブックス ネコ好き自分の取扱書

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2009.05.26

デジカメを洗濯!?

 の防衛戦と神の子復活のDREAMについて書こうかと思いましたが、とんでもなく塩なことになってしまっていたのでやめます。注目のジャカレイ対メイヘムも痛い結果だったようで…格闘技界もピンチですね。
 そこで、どうでもいい家庭内での戦いの話を書きます。
 相手はついにデジカメを洗濯するという荒技(反則技)に出ました!
 最近、パソコンと車と腕時計がほぼ同時に壊れました。どれも電源系統の異常のようです。そして、ついにデジカメまで…。こちらは電源とかそういう問題ではなく…。
Toycam_01 いえいえ、そんなにご心配なさらないでください。デジカメと言っても、650円で買ったものですので。650円です、ハイ。
 実は、ちょっと前に何かのネットショッピングのついでに、オマケで650円のデジカメを買ったんです。ちょうどトイデジカメほしいなと思ってたし、それ以前に車の鍵にちょっと大きめなキーホルダーを付けたいなと思っていたんで、こいつを買ったんですよ。車の鍵がよく見当たらなくなるんで。
 おかげで車のキーは存在感を増し、私としては本来の目的を果たしたつもりだったんです。それが、よりによって、こんなに存在感があるのにも関わらず、ウチのカミさんはこいつが入っているズボンをそのまま洗濯機に投入し、ポチッとな…ガラガラガラ…「ゴメン、洗っちゃった」。
 あーた、洗っちゃったじゃないっしょ!?買ったばっかりで、まだほとんど写してないのに…絶対、わざとだ!
 そう言えば、去年のエイプリルフールには、USBメモリーの洗濯をやってくれましたっけ。これはなぜか全く無事という、それこそ四月馬鹿みたいな結末で笑って終わったんですけどね、さすがにこちらは無傷というわけにはいかないでしょう。
 というわけで、もちろん溺死です。水死です。短いつきあいだったな…。
 ま、キーホルダーとしての機能は全く失われていないし、見た目も全く変りがないので、このまま使ってもいいんですけどね、なにしろ、このデジカメ、シースルーでして、電気回路が丸見えなんです。電池も。それがなんとも虚しいじゃないですか。哀しいじゃないですか。
 というわけで、このカメラで撮った(試験撮影した)全ての写真をここに掲載し、そして世界に発信して、冥福を祈ろうと思います。今見ると、けっこう味のある写真が撮れてますね。生涯5枚しか撮影されなかったデジカメかあ…なんか、またまた「もののあはれ」ですなあ。
↓ウチの黒猫ミー
1
↓UFO?
Photo002_2
↓赤と青の発色テスト
Photo003
↓JK?
Photo004
↓B29?
Photo007
 あっ、そうだ、実はこのデジカメの死亡よりも、もっとショックなことがあったんだ。もう一つ死亡した「モノ」があった。
 これってキーホルダーとして使っていたわけじゃないですか。つまり、それは脇役であって、主役は「キー」なわけですよね。その車のキーが…ガーン!
 キーレスエントリー機能って、フツーに電気回路ですよね。そう、そちらも見事に死亡しました。多少の水分、雨とか、日常生活の中での水分くらいには耐え得るように作られているでしょうけど、さすがに洗濯機でガラガラガラには耐えられんよな。あ〜あ。
 やっぱり、「キーレスエントリーキー」なんていう自己矛盾自体が変なんですよね。てことは、最近の「キーレススタート」なんかどうなっちゃうだろ。洗濯しちゃったら、始動もできないってことでしょうかね。変な世の中ですよね。
 電動ウィンドウが出始めの頃、水没した時に窓が開けられないではないか!とか言われてましたが、最近ではもう手動式の方が珍しがられますね。昔、初代アルトに乗ってた時、よく友人と電動ウィンドウごっこをやってました。ホントは思いっきり手動なのに、さりげない顔して、電動っぽく(あのスピードとスムーズ感で)窓を開けるという、どうでもいい遊びでした。高速の料金所とかでやってました(笑)。
 ところで、カミさんがこの荒技を出した、その理由はなんだったのでしょうか。何の恨みがあって…。

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2009.05.25

Dropbox (究極のオンライン・ストレージ)

 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
3 サービス!しかも無料!こりゃすごいわ。自動差分バックアップ機能がすごすぎる。これを待っていた!
 キターって、もうとっくに来てたんですけど、遅ればせながら導入いたしました。
 先日、あえなくiMacくんがお亡くなりになり、いや、脳死状態になり、自宅にて手術をし、最近替えたばかりのメモリーと、そしてハードディスクを取り出しまして、つまり臓器移植手術ですね、その結果レシピエントたるiMacくんはお亡くなりになりました。なんか、臓器移植ってなあ、やっぱり罪だよなあ…ぜったい、「提供します」なんて書いたドナーカードなんか持たないぞ!
 その結果、とりあえずは家のMacBookと、あと職場ではある人に借りた新型MacBookで仕事ができることになりまして、なんとか急場をしのいでおります。データは無事でした。
 さあ、その「iMac蘇生せず」の記事でも書きましたけれど、こういうことがあって初めてバックアップの大切さを知るバカなワタクシでありました。
 家のMacBookはLeopardなので、いちおう例のTime Machineという機能によって、1時間ごとに差分バックアップをしてくれます。
 そして、今回、ウワサのDropboxを導入いたしまして、さすがにこれで完璧でしょう(ってちょっと遅いんだよ!)。
 いやあ、このDropbox、ウワサどおり、いやウワサ以上の優れものですね。感動しました。
 2Gまで無料のオンライン・ストレージなんて、掃いて捨てるほどありますけど、こいつはちょっと、いやメチャクチャ違う。
 ものすごく簡単に説明します。
 サービスに参加すると、自分のパソコン上に自動的に「Dropbox」というフォルダが生成され、そのフォルダの内容が、オンラインでリアルタイムにクラウドと同期することになります。ですから、大切なデータ、たとえば私が仕事で使っている書類などは、このフォルダにぶちめば、とりあえずアップロードなどの手間もなく、全く自動的にクラウドにそのコピーが生成されるわけです。私の場合、300MBくらいの「お仕事フォルダ」をつっこみまして、30分ほどでそのコピー作業が終わりました。もちろん、バックグラウンドで勝手にやってくれるので、気にする必要はありません。
 まあ、そこまでは似たようなサービスもありますよね。でも、全然違うのはここからです。ここからが究極の「もののあはれ」撃退術です。昨日、あれほど「もののあはれ」の肩を持っておいて今日はこれですからね(笑)。全く人間の「シゴト」というのは恐ろしいものです。
 えっと、それでですね、自動的に同期する(バックアップする)ということは、たとえばある書類を修正して保存するじゃないですか。もちろん自分のパソコン上で。そうすると、本当に瞬時にそれをクラウドに差分バックアップするんですよ。ワープロ書類程度でしたら、まさに瞬間です。つまり、クラウドのコピーも勝手に修正される。
2 しかし、しかし、ここからがまたすごいわけです。
 たとえば、こういうことありますよね。「あっ、上書き保存しちゃった!」とか「やべ!間違って捨てちゃった!」とか「三日前の状態からやり直したい」とか。それが解決できなくて「もののあはれ」を感じることが多いじゃないですか。このDropboxを使えば、そんな悩みも一気に解決です。
 なんと、パソコン上で上書き保存したファイルもですね、雲の上では実質的に別名保存されていくんですよ。つまり、「あ〜あ」と思ったら、雲の上の神様におうかがいをすれば、昔の全てのファイルが保存されてるんで、すぐに復元できるんです。まさに雲上の神様、仏様ですよ。
 さらにさらに便利なのは、職場のパソコンのDropboxと、家のパソコンのDropboxを同期させることもできるんです。というか、これもまた勝手に同期してくれるんです。ですから、同じアカウントでクラウドとつながれば、そこにも勝手にコピーが生成される。もう一つのバックアップができるとも言えますし、職場と自宅で同じ仕事ができるとも言えます。
 そう、日曜日に家で仕事してある書類を修正するじゃないですか。月曜日職場に行くとですね、そちらのファイルも更新されているということです。これはですね、たとえばMacなんかでは、有料サービスを使えば簡単にできたことですけど、なにしろ無料ですからね。今までのようにUSBメモリーに入れて持ち歩いたり、メールで送ったりしなくてすむ。これは便利ですし、安全です。
 そのほかにも、共有したり公開したり、まあいろんな機能がありまして、あと何と言っても、導入が楽で、かつインターフェイスもシンプルでわかりやすい。マニュアルやヘルプの必要はありません(英語読めないだけかも)。それから、Windowsはもちろん、MacやLinuxにも完全対応している点でしょうかね。
 ううむ、これはすごい。究極の、理想の、夢のサービスだ。これを無料で享受できるなんて、それこそ夢のようですね。ちなみに、2Gで足りなくなったら、有料で50Gのコースなどを選べます。それでも安いよなあ、この内容なら。
 とにかく、一度お試しあれ。人間は面倒だとやるべきこともやらなくなります。その点、このDropboxは画期的です。「面倒」の部分を巧みに取り除いたからです。開発者の方々に感謝します。私のような無精者を救う、まさに雲上の神様ですね…と、書いたところでなぜか高木ブーの雷様が頭に浮かんでしまった(笑)。

Dropbox

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2009.05.24

『未来への提言 ドナルド・キーン』 (NHK) 〜「もののあはれ」論

~もう一つの母国 日本へのメッセージ~
362057 ソコンが起動しなくなり、10年もつはずの腕時計が2年で止まり、ついに今晩、車のエンジンがかからなくなりました。「ああ…」。不安や怒りではなく、ある種の感慨に浸っております。これぞ「もののあはれ」。
 テレビをつけると、ちょうど見逃した番組の再放送をやっていました。日本文学研究者のドナルド・キーンさんの「もののあはれ」論でした。「うつろいゆくもの、はかないものへの共感」。「四季、季節のうつろいに美を発見する」。
 「四季も他人も友とすべきだ」…これがキーンさんのメッセージでした。
 これは芭蕉の「風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす」をもとに考えた言葉だとか。
 こんなふうに、我々日本人でも、あるいは私のような国語のセンセイでも、よく理解していないことを、キーンさんはいくらでも知っているという感じです。
 写真は、昨年文化勲章を受賞された時のものです。外国人としては初めての受賞でした。
 キーンさんが日本文学の中心に据えるのは、やはり「もののあはれ」です。キーンさんは「もののあはれ」をたしか“a sensitivity to things”と訳しました。「あはれ」を「sensitivity」と訳したのは名案ですね。一方、「もの」を「things」と訳したのはどうでしょうか。「thing」にも、日本語の「もの」同様、多様な意味があり、案外双方相似たところがあるので、悪くないと思います。
 ただ、じゃあ「もの」って「things」って何?と聞かれると、キーンさんもなかなか答えられないと思います。結局、「移り行くもの」「はかないもの」という結論になってしまう。
 私はいつも言っているように、自分の外部が全て「もの」であるという考えですから、結論的には一緒になるかもしれません。しかし、そこに「もの=自己にとっての外部=他者=不随意な存在」というプロセスを設けているので、より鮮明に「もののあはれ」をとらえていると自負しています。
 それで、そういう私の勝手な考えからしますと、キーンさんの最後に書いた「四季も他人も友とすべきだ」というは、まさに「ものをあわれみましょう」ということになりますね。キーンさんは「四季」とは「自然」のこと、「他人」とは「外国人」のことと言っておられましたけれど、そこのところをワタクシ流に(乱暴に)まとめてしまうと、「もの=自己にとっての外部=他者=不随意な存在」と友だちになっちゃおう!ということになるわけです。
 これは実にいいことですね。近代西洋文化は不随意な「もの」を制御し、疑似的にではあれ、「こと」という随意な存在に変換することに執心、終始してきました。その結末が現代社会の憂鬱です。たしかに、我々日本人こそ、本来の「もののあはれ」的な生き方、良い意味での諦めというものを思い出すべきなのかもしれません。
 とは言うものの…私は、壊れゆく「もの」に美を発見できるのでしょうか…笑…泣。
 とりあえず、パソコンや時計や車がないと仕事になりません。まさに、「もの」を馴致して奴隷化し「こと」をなして(シゴトして)いたわけですよね。そして「もの」の反乱に撹乱せられている。ううむ、ちょっと反省。反省するから許してちょうだい、という気分ですね。反省の意をはっきり表すには、それこそ出家するしかないわけなんですが。それもできないしなあ。
 しかたがない、お金を払って(罰金を払って)許してもらうしかないんですかね。ああ、そうか。経済って「もの=自然=他者」への無礼に対する罰金システムのことなのか。今、気づいた。さっさと「あはれ=嗚呼」と言って降参(出家)しちゃえばいいのに、それができない。だから金で示談に持ち込むというわけか。
 それはいいとして、キーンさんと三島由紀夫との関係について一言。
 この番組でも少し触れられていましたが、キーンさんは三島由紀夫から遺書を受け取っています。自決の翌日手紙が届くんですよね。そこには「小生たうたう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」とありました。
 いかにも三島らしい言葉遊びと取れますが、いや、なんだか子どもみたいな、というか、暴走族の言語センスみたいだな、とも思えますよね。
 実はこれって、キーンさんが考えたんです。番組ではそのようには紹介されませんでした。三島がキーンさんのことを手紙で、「怒鳴土起韻様」「怒鳴土鬼韻様」「奇院先生」とか書いてくるんで、キーンさんが仕返しに考えてやったんですよね。それがあまりにうまい具合に行ったのか、つまり日本古来の言霊が発動しちゃったのか、いずれにせよ、この戒名(?)が三島の自決を後押ししてしまったというのは、実に皮肉なことであります。
 まあ、キーンさんによって、三島のモノガタリはある意味見事な結末を迎えたわけですから、キーンさんの日本文学への影響は多大なものがあるということですね。三島の死によって、日本文学も死んだわけですし。
 ところで、そんなキーンさんですが、もう70年くらい日本語を勉強されているにもかかわらず、いまだに外国人風な日本語をお話しになりますね。そんなところに、ちょっと安心し、最後の優越感を抱いている、心のねじまがった日本人がここにいます(笑)。

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2009.05.23

フジファブリック 『CHRONICLE』

51xp1xxzebl_sl500_aa240_ 生フジファブリック。私の好みを知ってて作ったんじゃないの?というくらい、ちょっとくどいくらいにツボを押さえてきましたね。
 TEENAGER以来1年4ヶ月ぶり、4枚目のフルアルバムは、スウェーデンはストックホルムで録音。志村正彦くんが全ての曲を主導して作ったと言います。
 志村くん、昨年の5月、伝説の市民会館ライヴを実現させ、一つの夢を完結させました。そして、折り返し地点を通過して、今度は過去を引きずるのではなく、全く新しい世界に挑戦したようです。
 それをもって、昔の方が良かったというのは簡単です。もう何度もレミオロメンのところで書いてますが、アーティストというのは、常に挑戦していく存在であり、また、少なくとも享受者たる一般人よりも才能も勇気もあり、常に数歩先を行くものです。ですから、それについてゆけないファンがいるのは当然です。
 これもいつも出す例ですけれど、あのビートルズをリアルタイムで体験していると考えてみてください。似たアルバムがありますか?似た楽曲がありますか?常に変化し続け、ある意味裏切り続けたのです。それも音楽史上最大級の裏切りばかりですよね。そこが彼らの偉大なところです。
 今回、私好みだと言ったのは、まさにヨーロッパのテイストが満載だということです。それこそビートルズから入って、ユニコーンの奥田民生も大好きなELOの熱狂的なファンになり、その後バロック音楽に進んだ私は、コテコテのヨーロッパ好きである(だった?)わけでして、それはつまり、近代和声やオン・ザ・ビートな拍動、破綻をきたさない構成美などが好きだったということです。あと、どちらかというと長調優先。
 今回のアルバムはそういう意味で、今までのような、非ヨーロッパ的な、ドロドロした、変態的な、土俗的な、日本的な、下吉田的な、西裏的な、吉田うどん的な、いわゆるフジファブリックらしさがなくなっています(吉田うどんはDVDに出てきましたが…笑)。潔いほどに。あるいは意識的になんでしょうかね、とにかくそれらが消えています。
 もちろん、多少は面影がないとは言えませんよ。間接的と言えば間接的ですが、ある意味民族音楽的でもあります。スウェーデンですから、純粋なヨーロッパではありませんし。
 そうそう、パロック音楽で言えば、まさにスヴェーリンクという感じですね。彼のオルガン音楽のようです。
 あと、そうですねえ、バロックではなくロックで言えば、同じ北欧のMewと似た印象でしょうかね。私好きなんですよ。こういうの。近代西洋音楽の理論からちょっとはずれたやつ。そのちょっとというのが難しいんですけどね。
 で、今回志村くんがやりたかったことは、いちおう音楽をかじって生きているワタクシからしますとね、三つのことに集約できると思いますよ。それが私には心地よかったけれども、もしかすると、全体的に単調なイメージを与えてしまったかもしれません。
 なにしろ、しつこいほどそこにこだわっている。明らかに確信犯的にいくつかのことをやっています。いや、もし無意識だとしたら、それはそれでヤバいかもしれません。ややストーカー的とも言えますよ。やっぱり変態なのか(笑)。
 まず第一に、サブドミナント指向が強いということです。Aメロの出だしが、トニック→サブドミナントと進行する曲が、ざっと聴いた所で15曲中5曲ありますし、サビでも使われています。また、Aメロがサブドミナントから始まる曲3曲あります。これは中世以前のヨーロッパによく見られるパターンですね。まあ、やさしく言えばフォーク・ミュージックだということですね。
 第二に、これが最も特徴的なところだと思いますが、サビに、ある古典的王道進行が使われ続けるということです。わかりやすくキーをCにして説明しますと、G→E7/G#→Amという、バロック以降多用されるようになったプチ転調法です。ドミナントからトニックに行くと見せかけて、平行調に一時的に転調するやつですね。それでだいたいすぐにまた戻る。ですから、結果としてG→E7/G#→Am→Gとなることが多い。それを今回のフジファブリックは15曲中8曲でやっています。
 実はこの進行って、胸キュン、切なさの記号になるんですけど、志村くんそんなに胸キュンしてるのかな(笑)。ちょっとこの胸キュンの連続は異常です。普通アルバムで2回使えばもうお腹いっぱいなんですけどね。私だったら、この変態的な連用はできません。おかげで、14曲目でも、コードがドミナントに行くたびに、「また胸キュンするんじゃないか?」とドキドキしてしまいました。結局胸キュンしないで終わるんですけどね。だから確信犯的に感じるんですよ。なんか振られたような、肩透かしくらったような、遊ばれたような気さえしてしまった。志村的思わせぶり…ってか?
 それから、それらと対照的にマイナー・コードで演奏されるロック色の濃い曲。今までにないタイトなリズムの曲たちですね。そしてそれらには必ず志村流ラップが盛られています。ロック&ラップ、それが4曲。
 というわけで、上の三つに分類されない曲は、厳密にはありません。12が微妙ですが、あれもロックンロールですから、サブドミナント指向が強い。ロックンロールはフォーク発祥です。
 これらの要素は、はっきり申して私の好みですので(ラップはちょっと苦手ですが)、全然問題なく受け入れることができましたし、私も大人(おじさん)ですからね、こういう変化には全然驚きません。自分自身の音楽の嗜好も極端に変ってきましたから。
 このアルバムは、今説明したある種の徹底ぶりによって、志村くんが、富士吉田の、それも西裏的な風情(それはある意味トラウマだったのかもしれない)を吹っ切って、世界にはばたく第一歩となる記念すべき作品となるでしょう。私は純粋にこのヨーロッパ的世界(くるり的とも言えるが…)を楽しめましたし、次は何をやらかしてくれるかという、彼らの新たな可能性を感じることもできました。もちろん、歌詞の世界でも全く同様のことが言えます。
 これから、毎回全然違うアルバムを出してほしいですね。最近型にハマってしまって生命力を失っていくバンドが多いんです。フジファブリックは、もっと自由に、ファンを困惑させ、市場を混乱させてほしい。次はアフリカで録音とか、中国で合宿とか、いいんじゃないですか?期待しています。

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2009.05.22

『Ayuのデジデジ日記 2000-2009 A』 浜崎あゆみ (講談社)

06353709 代の思想家浜崎あゆみ。私が吉本隆明だったら、王仁三郎、みきの後にあゆを並べたことでしょう。これは冗談ではありません。

 思想家=社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人をいう。

 現代において、この定義に最もピタリとはまるのは間違いなく彼女です。はあ?と思った方は、彼女の言葉や仕事ぶりを知らないだけです。
 まさに、オニ、みきに通じる大衆性とカリスマ性を持ち合わせた人物ですね。ある種の宗教性を持っているとも言えます。現に今回私にこの貴重な本を見せてくれた生徒も、いわゆる典型的な「あゆ信者」です。単なるアイドル(偶像)というくくりでは、とても表現し切れない重い存在感があります。同性に人気というが象徴的ですね。
 だいたいの女性は広義の腐女子根性を持っていて、たとえば今日も話題になっていましたが、「阿修羅」に萌えたりするわけです。しかし、それはあくまでも「萌え=をかし」の感情であって、決して彼(?)の思想や行動に共感しているのではない。
 ところが、浜崎あゆみを信奉する女性たちは、間違いなく彼女の生き様や生き方を学び(真似び)、自らの人生の指針にしています。もちろん、女性のみならず、たとえば私なんかも彼女にはかなり影響を受けていると言えます。
 彼女の持つそうしたカリスマ性は、日本の伝統的な女系の神々に直結するものであると、私は常々思っています。非常に単純化してしまうなら、彼女は現代のオオヒルメ(天照大神)だということになるでしょう。
 そんなオオヒルメの、輝かしくも苦悩に満ちたこの10年間のお姿とお言葉が満載されたこの本。信者にとっては、まさに聖典というべき内容になっています。
171075_c450 ああ、そうそう、今日のニュースに「あゆ、事情聴取か?」みたいなのがありましたね。4月7日に渋谷109の前で行われた、この聖典の発売記念イベントに8000人の信者が集まり、交通に多大なる障害をもたらしたのだとか。道路交通法違反で神をしょっぴくということでしょうかね。これはまさに、オニやみきに与えられた弾圧の歴史を思い起こさせます(ちょっと大げさかな…笑)。
 まあ、それほどの影響があるということですよ。そしてこの本が待望されていたということですよ。
 私もじっくりこの本…とても写真集とは言えない…をじっくり拝見拝読いたしましたが、なるほどこれは美しく、そして深い。
 冒頭、オオヒルメが苦悩のあまり、天の岩戸に隠れなさった頃の日記もあります。そうですねえ、結局「Duty」の頃が一番きつかったのではないでしょうか。あれが2000年発表のアルバムでしたから、ある意味この日記たちは、天の岩戸開きの物語とも言えるかもしれませんね。
 デジデジ日記と称しながら、そこには古来のアナログ的言霊があふれています。基本手書きの文字がそのまま印刷されています。お筆先ですね(笑)。
 さりげない、今どきの女の子の言葉のように見えますが、実はその内容は、まさにお筆先の名にふさわしい。そう、大衆の、田舎の一婆さんの言葉で神の言葉を媒介した、「出口なお」や「中山みき」のお筆先に匹敵するものです。
 最後のロングインタビューから、彼女の言葉のアンソロジーに至る部分に至って、私たち信者の心は崇高な地点に救い上げられ、そして恍惚のあまり涙が溢れてくるのでした。いや、ふざけているのではなく、私はじ〜んとしてしまいましたよ。まじで。というか、いつのまにか私も信者という設定になってるし(笑)。
 そうですねえ、彼女は「瑞と厳」の魂、両方を持っているように感じるんですね。とても軟らかく優しい部分と、とても鋭利で厳しい部分と、それを自分に対しても他者に対しても持っているんです。そして、そういう思想と行動の中心にあるのが、「自信」です。ただ、その「自信」の源であり対象である「自分」は、常に他者によって存在させられている存在であると、彼女は意識しています。
 その「自己」と「他者」の相互依存的関係という「真理」を、「感謝」と「奉仕」の心をもって、そして「言葉」と「歌」と「ファッション」という手段によって、我々に伝えてくれるのが、浜崎あゆみという神です。
 この聖典を読んで、あらためて、彼女がまだ神になりえていない頃の「渚のシンドバッド」を観ますと、やはりカリスマにはある時、神が降りるんだな、ということがわかります。それを背負った彼女の苦悩は、それ以前の普通の女の子だった頃の苦悩と、全く趣を異にしています。
 「なお」「みき」「あゆ」、そこには痛々しくも崇高な「女」の姿があります。男は何やってるんだ!自分も含めて…と思わずにいられませんね。
 今、最もお会いしてみたいカリスマの一人ですね、浜崎あゆみ。

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2009.05.21

『思想のアンソロジー』 吉本隆明 (筑摩書房)

1 想家。憧れの職業(?)ですね。かっこいい。哲学者や小説家や宗教家よりも自由な感じがします。哲学は学問ですし、小説は商売、宗教は労働ですからね。思想は学問でもないし商売でも労働でもない。しいて言うなら、思想は読書という趣味の延長かな。
 と、ずいぶんと勝手なことを言っていますけど、本当のところはどうなんでしょうかね。辞書をひいてみますと、こう書いてあります。

社会・人生などについての深い思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に影響を与える人をいう。

 なるほど。よけいわからない(笑)。わかるんだけど、わからない。でもかっこいい。
 実はですね、私、自分のことをプチ(エセ)思想家だと思ってるんですよ(笑)。私のことを辞書的に言いますとこうなります。

社会・人生などについての浅はかな思想をもつ人。特に、その内容を公表し、他に悪影響を与える人をいう。

 ね?ちょっと似てるでしょ?というわけで、本当に私、最近よくわからないんですよ。自分がなんでこのブログを毎日続けているか。いろいろと結果は出ているような気もしますが、本来の目的がよくわからない。別に、他に悪影響を与えようとは思ってないしなあ。でも公表してる。ま、単なる自己顕示欲とも言えますけどね。
 それが、この本を読んで、少しわかったような気がしたんですよ。吉本さん、こういう本を書きたかったらしい。
 この本は本当にアンソロジー、ベスト盤みたいな感じで、とっつきやすいんですよ。全部で、70近い人の言葉について、ちょっとした随想を書いています。それぞれが2ページから4ページくらいで終わるので、そうですね、ちょうどブログの記事くらいの長さで終わっています。だから読みやすい。私のような、長い本を読めない人には最高です。
 その70近い人の選択が、また憎い。というか、私はこのブログをやっていてよくわかるんですが、「自分はこんなに自由だぞ」ということを主張しているように思える。「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ!」だぞって。
 だって、千石イエスや藤田まことに始まって、世阿弥や宣長、福沢諭吉、川端康成、柳田国男なんていう王道も通りつつ、最後は出口王仁三郎と中山みきでしめてますからね。憎い。もうその選択と並べ方で、この本の目的は達成されています。
 私は吉本さんほど博学ではありませんので(当たり前だ)、正直知らない人もいました。あるいは名前は教科書で知っていても、その思想は全く知らないというケースも多々あり。
 で、全体を読み終わって、そう、最後の思想家(決して宗教家ではない)二人、すなわちオニさんとみきちゃんを読んで、よ〜くわかりました。日本の思想が。いや、日本には思想がないということが。思想にならないのが日本の思想であるということが。そして、それがとっても魅力的であって、だから、日本の思想家は、いわゆる思想家ではなく、結局、私のような(?)、夢想家、妄想家であり、吉本さんもまた、その例外ではないという、実に面白い結末を迎えてるんですね、この本は。まるで小説のような結末です。
 それを象徴しているのが、私が興味を持っている二人、佐藤信淵出口王仁三郎の言葉に対する吉本さんの評でしょうか。ちょっと引用します。まず、佐藤信淵「経済要略下」について。

「何となく八方美人的で、つまらないことを得意になって説教しているようにおもえる。しかし、日本の経済学、産業策、政治学、制度論は、この信淵のような八方から借りてきた理念を綴り合わせて、常識的な安定支配を述べるものばかりだったとも言える…ただ学的な体系の意志もないし、折衷的である」

 つづいて王仁三郎「弥勒の世に就いて」に対する評。

「天然自然のすべてを万霊とする未開的な宗教性のうえに、仏教、儒教、土俗道教などの信仰や倫理を混合したものだが、王仁三郎の気宇の巨きさで、自在に伸縮される容器を具えているといえよう…野放図すぎる柄の大きさをしめしている。いいかれば、里の活き神信仰としての大本教の反知識性と破れを繕うことをしない庶衆の姿勢が、総合、融和されて出ている。いくらでも侮れるが、侮っても裂け目から、また芽が出てくるような気がして、永遠のたたかいの場を提供しているとおもう」

 これですね。これこそ日本の「物語」世界です。モノの混沌たる生命力。吉本さんはさすがよくわかっていらっしゃる。そして、ご自身もこの混沌たるアンソロジーを編むことによって、思想の、思想家の総合は、決して思想や思想家にはなりえないことを証明しているように思えます。
 ですから、この本は見事な「物語」になっているわけで、私は実に気持ちよく読むことができたのです。細部にこだわるのが学問だとしたら、やはり吉本さんは(いちおうワタクシも)学者ではないし、学者様になりあがったり、なりさがったりできない人種のようですね。
 
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2009.05.20

もののあはれ…iMac蘇生せず?

Uni_2602_2 ってしまった!!なんで、こんな大切な時に…。
 4年半ほど愛用してきた職場のiMacが意識不明の重体です。2年ほど前から電源ユニットの調子が悪く、突然起動しなくなるという症状が出ていました。しかし、それでも何回か(何百回か)電源ボタンを押せば立ち上がったり、あるいは分解して内部にあるあるポタンを「ポチッとな」するとなおったり、まあだましだまし使ってきたんですよ。
 と、言いますか、あることに気づいてからは問題なく使っていた。そう、「電源を落とさなければ起動する必要がない」ということに気づいたんです。それ以来起動しっぱなしにしておいたわけです。もちろんずっと使い続けていればいろいろと重くなってしまったりしますから、一日一回は「再起動」をしましたよ。そうなんです。電源ボタンを使わないソフトウェア的再起動、すなわちメニューからの再起動には全く問題がなかったのです。それで、2年間なんの問題もなく動いてきました。
 それがですね、昨日の朝のことです、いつもどおりその再起動をしようと思って、メニューへマウスを持っていたその時、誰か生徒に話しかけられたんです。それで、なにかの会話をして、その続きでなにかを考えながら、いつもの青く脈打つあのボタンをクリックしたんですよ。それが「再起動」ではなく「システム終了」だと気づいたのは、実はそれをクリックする寸前のことでした。
 寸前のことですから、やめれば良かったのですが、まあ不思議なものですね、そういう時ってスローモーションみたいに時間が流れるにもかかわらず、体のコントロールが効かないんですよ。小学校5年生の時の交通事故もそうでした。まさにスローモーションなのによけられない、止まれない。
 これって私の「モノ・コト論」で言いますと、意識という「コト」は時間の流れに従順でないが、身体という「モノ」は時間に絶対服従であるということですよね。脳のCPUは、そういう緊急事態においては通常のクロック数を大幅に上回る処理能力を見せるわけです。しかし、ハード(自然)たる身体はいつものとおりの鈍重さ。それで、こういうことが起こるのでしょう。
 というわけで、私の意識(コト)とは裏腹に、私の体(モノ)はしっかり「ポチッとな」しちゃったわけです。それで、隣のドロンジョ様が、「あれ?それ自爆ボタンじゃないのかい?」とツッコミを入れる…笑…いやいや…泣。
Uni_2603_2 そして、人工呼吸器あるいは人工心臓の電源を切られたiMacくんは、蘇生しなくなってしまいました。
 折しも中間テストを作らなければならない時期。そして、来年度の大仕事のための資料を完成しなければならない時期。よりによってそんな時にこんなことになるなんて。いやいや、「こんなことになる」じゃなくて、「こんなことをする」だよな。iMacくんが悪いんじゃなくて、私が悪いんです。
 しかし、さっき書いたような、「コト」と「モノ」のずれというか矛盾というもの、これこそが「もののあはれ」だと思うんですよ。いつも言っているように、本居宣長や和辻哲郎や小林秀雄や、最近では吉本隆明が言っているいいかげんな「もののあはれ」の定義じゃだめなんです。
 今回のように、時間の経過に伴って生じる不随意な変化、そして、自分の内部たるコトと外部たるモノのズレ、意識と自然の葛藤、こういうものが「もののあはれ」ですよ。「もの」という言葉の定義を皆さん間違ってらっしゃる。
 なんて、コト世界(つまり妄想)に逃避してる場合じゃないな。モノたるもの全て「生老病死」を避けられないとおっしゃったのはお釈迦様でありますが、まさに無常であります。iMacの成仏を祈りましょう。
 うわっ、また変なこと言って現実逃避しちゃった。そうじゃなくて、大切なデータやら何やら全部このiMacの中に入ってるんですよ!全然仕事にならない。今や我が職場でMac使いは私だけですし。大ピンチだあ!
 バックアップもここ1週間くらいサボっていたので、一番大切なデータたちは外付けハードディスクには入っていません。もうこうなったら、分解して内蔵ハードディスクを救出するしかないかなあ。そして、新しいMacを買うしかないのか!?でもなあ、このiMac、G5なんですよ。ウチにはIntelだと動かないソフトやハードがたくさんあるし、いやそれ以前にOS9のソフトもまだclassic環境で使ってたんですよ。それにIntelだと基本的には親指シフト使えないし…。まさに時代の流れに取り残された挙げ句の「もののあはれ」ですぞ。
 とりあえず、内蔵ハードディスクを取り出して、これにはめてデータを救出し、そして家のMacBookで作業するしかないな。ああ、困った。お金全然ないし…。
 仕事のパソコンのデータ・バックアップは絶対必要ですね。そんな当たり前のことを、いつも後悔という形で思い知るワタクシでありました。ここまで来ると、自分はあえてそういう複製作業をせず、「もののあはれ」を嘆じているとしか思えませんね。桜は散るからこそ美しい…ってか?

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2009.05.19

常総学院に惜敗!(春季高校野球関東地区大会)

土壇場で同点に!!
200905198197331n 晴らしい試合でした。我が富士学ミラクルと木内マジックが互角の勝負を展開。身贔屓抜きで富士学ミラクルの方が観客を盛り上げたのではないでしょうか。しかし、やはり…さすがは木内マジック。結果は延長10回7対9で惜敗。
 本日、春の関東大会準決勝でした。本校は中間テスト寸前ということもあり、生徒、先生の現地応援はなし。私たちは休み時間に放送される途中経過に一喜一憂。
 一番盛り上がったのは当然、9回裏7対7の同点に追いついた時でしたね。
 いやあ、もう7回終了3対7の時点ではですね、私なんかも上の先生と「あと1点は取りたいですね」というような会話をしていました。試合開始直後に3点取られて、その直後3点取り返した時点でもうミラクルだと思いましたが、その後はずっと0点に押さえられてきましたからね。そして、1点ずつ引き離されていくいや〜な展開。さすがに、常総の底力に圧倒されている感じだったんです。
 そして、放課後になり、能楽部創設のための仕事で生徒を集めている時でした。正直言いますと、ちょうどこうしているうちに試合終了だろうなと思っていたんです。そうしたら、放送で「7対7の同点で延長戦になりました!」と言うじゃないですか!もう大興奮ですよ。涙が出てしまいました。
 結果としては延長10回に2点取られてそのまま試合終了となってしまいましたが、どうでしょうね、木内監督の脳裏に富士学苑の名前がしっかり刻印されたんじゃないでしょうか。
 甲子園出場20回、優勝3回準優勝2回を誇り、名将と言われる木内監督率いる強豪常総学院にここまでかじりついて、そして彼らを苦しめたというだけで、小さな田舎の私学の選手たちは素晴らしい勉強をさせていただいたと思いますし、なにしろ大きく成長したことと思います。そして、私たちに感動を与えてくれてありがとう!
 木内常総と言うと、最近では、ダルビッシュ率いる東北を破った試合が印象に残っていますね。2003年の夏の決勝戦です。あの試合でも独特の強攻策が光りました。ちなみにあの年は私の母校静岡高校も甲子園に出場し、常総学院にやられています。完敗でした。今日の試合の詳細はわかりませんが、やはり独特の選手起用や戦略が見られたのでしょうかね。選手や監督が帰ってきたら、労をねぎらうとともに、いろいろ聞いてみたいところです。
 いずれにしても、県大会優勝横浜戦勝利、そして今日と、たった2週間の中で、生徒たちはどれだけ成長したことでしょう。日頃の地道な練習はもちろん大切です。しかし、こういう「実体験」こそが最も大きな成長の糧です。それは例えば本校のジャズバンド部にも言えますね。本番こそ最高の練習です。
 そういう姿を見るにつけ、本当に教師という仕事の素晴らしさと難しさを実感しますね。教室の中、あるいはグランドの中だけではない、「本物の場」をいかに提供できるか、それも「名将」の条件かもしれません。その点、大学入試指導が中心になっている私の立場で、いったいどういうプロデュースができるのか、あらためて考えてみたいと思いました。
 もう一つ最後に。本校は本当に小さな目立たない田舎の私学です。野球部もほとんどが地元の生徒です。彼らは雄大な富士山に見守られながら、自然と人の輪の中で、地味ながらも純粋な高校生活を送っています。勉強も一生懸命し、登校中に気がつけば必ず路上のゴミを拾って捨て、地元の人たちにさわやかに挨拶し、常に自分たちが野球ができるのは親や地域の皆さんのおかげであるという感謝の気持ちを忘れない。私たち先生が言うのもなんですが、本当にかわいい子どもたちです。だからこそ、私たちも純粋に応援したい気持ちになりますし、純粋に感動できるのだと思います。そこだけは、本当に自慢できますね。立派です。
 さあ、次は夏です。この体験を自信につなげて、ぜひ富士学苑らしい試合をしてください。心から応援します。
 でも、その前に中間テストがもうすぐだね。そっちの努力も忘れずに(笑)。彼らの大学進学のことも真剣に考えてやらなければ。私はそちらの指導を抜かりなくやるつもりです。それしかできませんし。

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2009.05.18

横浜高校にリベンジ!(春季高校野球関東地区大会)

2009kanto_haruyagura 辱を果たしました。いやあ、よくぞ頑張ってくれました。我が富士学苑高校、昨年の同じ大会で延長戦の末惜敗した横浜高校に、今度は見事にサヨナラ勝ち!感動です。
 なにしろ相手は神奈川県1位の名門横浜高校ですからね。いくら昨年好勝負を展開したからと言って、そう簡単には勝たせてくれないだろうというのが、大方の見方でした。まあ当然でしょう。
 しかし、内心期待していた部分もあります。今年のチームは昨年以上に点を取られないチームだからです。そして粘り強い。
 ですから、先取点を取ればもしかするとという気持ちもありました。しかしなあ、ホントに勝っちゃうとは。中間テストが近いということもあって、今日はジャズバンドと応援団(コール・リーディング部)だけが現地に向かい、ほとんどの生徒と先生は逐一入る情報に一喜一憂しておりました。久々に興奮したなあ。リアルタイムでわからないので、妄想が広がるわ、神仏に祈るわ、なんだかこの感覚懐かしいですね。思いを馳せるというのはいいものです。
3 それにしても、奇跡的な結果ですよ。今日のスコアを見てください。先制点を取って、一度逆転されて、そして追いつき延長戦へ。そして、10回裏にタイムリーが出てサヨナラ勝ちです。この展開よく覚えておいてくださいね。
2 で、こちからが昨年のスコアです。先制点を取って、一度逆転されて、そして追いつき延長戦へ。そして、11回裏にタイムリーが出てサヨナラ負けでした。
 そっくり同じ展開。しかし、今年はウチが後攻でした。同じリベンジでも、ここまでそっくり返すかっていう感じですよね。いやあ、ホント、横浜高校と2年連続当たるだけでも奇跡的だと思ってましたが、まさかこういう試合内容になるとはねえ…不思議なご縁すら感じます。
 今回サヨナラ安打を打ったのは、非常に素晴らしいセンスを持った天才肌の選手です。彼のバット・コントロールは見事としか言いようがありません。ほとんど指先のレベルですね。イチロー並みですよ。冗談抜きで。打席でのパフォーマンスも面白いですし、きっと関東でも注目されているでしょう。
 今日完投した2年生投手も、小柄な左腕ながら、球にキレもありますし、なんと言っても制球力があって、緩急自在のピッチングをします。特にあのスライダーは、右打者にとっても、左打者にとっても、なかなか打ちにくいでしょう。精神的にも成長し、ピンチにも堂々としていますし、こういう経験を通して、また一段と自信をつけていると思います。
 その他の選手も派手さはありませんが、堅実な守りと勝負強い打撃を見せてくれます。小粒ですがよくまとまったチームですよ。
 さあ、いよいよ明日は、これまた超強豪常総学院との準決勝です。胸を借りるという気持ちよりも、同じ高校生として堂々と挑んでもらいたいと思います。とにかく、こうして公式戦で甲子園常連校とガチ勝負できるということだけでも、彼らにとってはものすごい勉強でしょうし、本当に一日一日成長していくきっかけになることでしょう。
 そして、夏に向けて勢いをつけてほしいと思います。甲子園初出場も夢ではないかもしれません。頑張れ野球部諸君!

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2009.05.17

東京クラシカルシンガーズ&オーケストラ・オン・ピリオド・トウキョウ第8回演奏会 『すごいぞハイドン!~ネルソン・ミサ』

200905172 来場くださった皆さまありがとうございました。おかげさまで、悪天候の中ながら、満員に近いお客様に聴いていただきました。
 いやあ、今日はなんとなく演奏していて気持ちよかったなあ。いつもこのオケとコーラス、そして坂本徹さんの指揮は楽しいのですが、今回は特に気持ちよかった。
 自分の演奏は、それはもちろん問題ありありでしたけれど、なんていうのかなあ、全体の一体感が良かったのですよ。本番ならではの集中力というのでしょうか。やっぱり練習と本番は違う。一人一人の気持ちが少しずつ違うだけでも、全体としてこうなるのかという感動。
 気持ちが一つになっている時の、あの高揚感と波動感ですね。お客様にもそれが届いているのがわかりました。呼吸が一つになるんですね。
 昨日が昨日でしたから、私はそれなりの精神性で臨んだコンサートでした。高山選手の言う「試合をつくる」なんていうことは、私のレベル、それにヴィオラというパートの性質上難しいとは思います。けれども、ちょっとカッコつけて言うなら、「離見の見」「有主風」を目指しました(なんちゃって)。
 いやいや、まじめに、プロレスも能もみんな一緒ですよ。エンターテインメントであり、アンサンブルであり、ファンタジーあふれるフィクションであり、それがリアルである…。
 それにしても、ハイドン兄弟、今までちゃんと聴きもしないで生きてきましたが、こうして演奏に加わってみますと、本当にいいですね。聴いていた両親やその友人の皆さんも、大変満足してくれたようです。演奏以前に、おそらくはハイドンの音楽の美しさ、力強さが彼らの心を打ったのでしょう。
 今回もまた、オーケストラ以上にコーラスと独唱の皆さんが良かったですねえ。声楽の方々と一緒にやりますと、本当に勉強になります。我々…いや私がいかに普段無言の音楽を奏でてるかわかります。歌でなく、単なる音の羅列になっちゃってるんですよね。パターン化した意味のない動きはダメです。プロレスでも能でも。
 それから、これら全ての芸能表現に共通していますけれど、そこに演劇性がないとダメですね。ここで言う演劇性というのは、誤解の可能性を顧みず言うなら、「大げさ」な表現のことです。その場で遠くにいる多くの人に伝えるには、それなりのオーバー・アクションや、オーバー・エクスプレッションが必要なんですよね。それが思いやりであり、サービス精神です。それもまた「離見の見」とも言えますね。
 今回は宗教曲ももちろん素晴らしかったのですが、器楽奏者として特に興味があり楽しめたのは、トランペット協奏曲でしたね。本番前に、ソリストの中村孝志さんにいろいろと教えていただきました。なにしろこのキー・トランペット自体、世界にそうそうあるものではありませんし、吹きこなす人もそんなにいません。ですから、こういう形で、いちおうオリジナル楽器のオケでの演奏会というのは、本当に貴重だと思います。
 そして、中村さんの本番の気合いのこもった演奏が素晴らしかった。いやあ、みんな本番に強いなあ。練習より本番の方がいいっていうのは、もしかしてアマチュアの得意技なんでしょうかね。プロは逆のことも多いと聞いたことがありますから。ま、自分なんか、練習からしっかりまじめに集中してやれよ!っていう感じですけど、それができてたら、それこそプロになってるのかもしれませんね。他のことをしないで楽器の練習だけしてたら、今頃立派な演奏家になってるかもしれません(笑…ないない)。
 ま、逆に言えば、普段の仕事や趣味が音楽に反映するのかもしれないなあ。それがアマチュアの音楽の、プロにない良さだったりして。
 いずれにせよ、こういう素晴らしい音楽を奏でる、その一翼を担えるというのは素晴らしいことですし、ありがたいことです。昨日からの続きになりますけれど、本当に何事も長くやっていると、いいことありますね。みんなみんな自分の力というより、皆さんのおかげであります。
 もし呼んでいただけるなら、これからもこのメンバーと一緒にやっていきたいと思います。

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2009.05.16

ありえない一日…全ての邂逅に感謝

 週末もすごい方々との出会いがありましたが、今週もまた信じられない方々とお会いし言葉をかわすことができました。そして学ぶこと多数。まったくご縁とはありがたきものです。
 本当に最近の私の身に起きることは「夢が叶う」とか、そういうレベルではありません。「夢にも思わなかったことが向こうからやってくる」という感じで、ちょっと恐ろしささえ感じます。
 というわけで、今日はあまりにいろいろなことがありましたので、ごく簡単にダイジェスト版で記録しておきます。
Uni_2599_2 今日まず衝撃的だったのは、ポストの中の郵便物でした。そう、これは先週末からの続きですね。朝、東京方面にでかける寸前に郵便が届きました。その中に、出口光さんがお送りくださった貴重な資料があったのです。その内容たるや、もうなんというか、雷がどかんと落ちたという感じでした。これについてはもう少し調べてみて、わかったことを紹介したいと思います。
 そして、春の高校野球関東大会、見事我が校は宇都宮北高校に3対1で勝ちました。これで月曜日、準々決勝、横浜高校戦です。昨年のリベンジを果たしてほしいですね。頑張れ!生徒諸君!
Uni_2564 さて、私は東京で一仕事終え、カミさんと合流して高円寺のプロレスリング・ジム「スネークピット・ジャパン」へ。今日は現三冠王者高山善廣選手を招いてのキャラバン(勉強会)です。前回の桜庭和志選手の時以来ですね。それにしても、なんという贅沢な講師陣でしょう。これも一重にスネークピット主宰である宮戸優光さんのご人徳のおかげです。
 プロレスライター、プロレスの生き字引である流智美さんの司会で始まった今回のキャラバン。高山選手は3時間近くにわたって彼のプロレスを、そして総合格闘技を語り尽くしてくれました。デビューから現在に至るまでの、様々な試合や出会いについて、ていねいに質問に答えながら、実に誠実に語ってくれました。あまりに多くのことを学ばせていただきましたが、やはり印象に残ったのは、「試合をつくる」というキーワードでしたね。これは、最近、観阿弥や世阿弥の著書を読みながら、自分なりに考えていたことがあったので、非常に腑に落ちるものがありました。
 そして、なんといっても、高山選手の心の強さですね。喘息や脳梗塞、その他の怪我などを乗り越えて、そして各団体のトップを張るようになり、そして三冠チャンピオンにまで昇りつめた。その努力はただものではありません。「心のプロレスラー」を標榜するワタクシではありますが、本物のプロレスラーの前では、まったくのカタ無しであります。
 あと、高山選手の自己プロデュース力と、チャンスをつかむ(縁を作る)才能でしょうか。ああ、この人は頭もいいし、人間的にも魅力がある人なんだなと、つくづく感じました。世界をきわめるあらゆる要素を持っています。もちろん、昔ながらのプロレスラーらしいたたずまい、風格、体躯、顔も。
Uni_2583_2 そして、そして、ワタクシにとって夢のような出来事はまだまだ続きます。高山選手は今回、三冠ベルトを持参してくれました。そして、なななんと、そのベルトを交えて一緒に写真を撮っていただきました!うるうる…。もうプロレス・ファンとしてこんな喜びはありません。生きてて良かった…。
 私の肩にかかっているのは、あの、あの、インターナショナル・ヘビー級のベルトです。この王座に輝いたそうそうたるレスラーたちの名前をご覧ください!

初代 ルー・テーズ
第2代 力道山
第3代 ジャイアント馬場
第4代 ボボ・ブラジル
第5代 ジャイアント馬場
第6代 ジン・キニスキー
第7代 ジャイアント馬場
第8代 ボボ・ブラジル
第9代 大木金太郎
第10代 ドリー・ファンク・ジュニア
第11代 ブルーザー・ブロディ
第12代 ドリー・ファンク・ジュニア
第13代 ブルーザー・ブロディ
第14代 ジャンボ鶴田
第15代 スタン・ハンセン
第16代 ジャンボ鶴田
第17代 ブルーザー・ブロディ
第18代 ジャンボ鶴田

 それを今、こうして高山選手が私の肩にかけてくれている…ね、死んでもいいと思っちゃいますよね。まさに夢のようです。ちなみにカミさんが持っているのはUNヘビー級のベルト。高山選手が持っているのがPWFヘビー級のベルトです。そして、その三冠を統一したのは、言うまでもなく、山梨の誇り、尊敬するジャンボ鶴田選手です。感激…。
 さて、夢はここで終わりません。まだまだ続きます。
Uni_2589 高山選手との時間を終えた私は、すぐに杉並大宮八幡神社へ向かいました。プロレスの次は薪能です。いや、私の中では両者は非常に似た芸能であり、神事であります。そのへんについてはこちらの記事に少し書きました。
 今日は教え子がお世話になっている野村四郎師による殺生石がメインでした。まさに空間を自在に操る闌位の至芸。静と動の絶妙なコントラスト。ワキやお囃子や地謡との激しいせめぎあいとアンサンブル。
 高山選手のお話をたっぷり聞いたあとでしたので、能舞台がどう見ても四角いリングに見えてしまう(笑)。いや、しかし、あえてこう書きますが、まさに四郎先生の舞は、チャンピオンの舞ですよ。完全に「試合をつくっている」。有主風の為手。うん、全てのジャンルにおいて頂点は同じですね。
 そして、終演後、楽屋にお招きいただきまして、四郎先生とお話しさせていただく機会を得ました。これも普通ではありえないことですね。重要無形文化財でいらっしゃるわけですから。いったいどうなっているのでしょう。お疲れのところ、私のような者にていねいにお言葉をかけてくださりまして、本当にありがたく存じました。全てのお言葉、一挙手一投足に「花」がありました。感激。
 さてさて、まだまだ続くんですよ。自分でも信じられません。
Uni_2591_2 大宮八幡をあとにした私は阿佐ケ谷へ向かいました。ここでは、先ほどのキャラバンの皆さんが、往年の名レスラー、マティ鈴木さんを囲む会を催していたのです。マティさんは、ジャイアント馬場さんにかわいがられ、ジャンボ鶴田をはじめとする多くのレスラーを育てた方です。今ではアメリカに永住し、実業家として活躍されています。もちろん私は初対面。短い時間ではありましたが、私が持参した古いプロレスの写真を懐かしそうに眺めながら、楽しいお話をしてくださいました。やはり、なんというか、風格というか、歴史の重みを感じる素晴らしい方でしたね。ありがとうございました。
Uni_2590_2 そして、もう一人、まだまだ現役の名レスラー、プロレス歴35年の渕正信選手も来て下さいました。憧れのレスラーの一人ですよ。もう、渕さん、渋過ぎ。かっこよすぎ。こちらも短い時間ではありましたが、能とプロレスの話など、実に興味深い示唆をいただきました。渕さん独特の語りは、実に味わい深いものがありました。また、ぜひぜひお話したいですね。ありがとうございました。
 囲む会がお開きになったあとは、元UWF戦士の宮戸優光さんとおしゃべり。思わぬところで「禅」や「呼吸」や「青少年の教育」の話になりました。こちらもまたぜひゆっくりと、じっくりとお話しさせていただきたく思います。
 うむむ、しかし、いったいこの一日はなんだったのでしょう。今までの人生の中で最も濃い一日だったかもしれません。本当に「縁」というのは素晴らしいものです。出会いというのは楽しいものです。私もこの感謝の気持ちを忘れず、誰かに何かを還元していきたいと思っています。
 今日私と語ってくれた皆さま、本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。

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2009.05.15

『HUMAN LOST』 太宰治 (太宰と王仁三郎)

Dazai_panf 日、小・中といじめに遭い、学校に行けなかった女子の話を聞いて、みんなで盛り上がりました。なんだよ、それって単なる自慢話、モテ話じゃないか!って、みんなでツッコミを入れつつ、大笑い。
 ひどい!とか言わないでくださいよ。本人もめっちゃ嬉しそうでしたし、なんだか「幸せです…」とか言ってたし、まあ、そうやって昇華してやることもまた、先生の大きな仕事です。今になっても、大変だね、頑張れよ、なんて言うわけいかないでしょ。しっかし、面白かったな。
 ちょうど、その前の授業で太宰治の「人間失格」論をやったんたです。青山の過去問に安藤宏さんの文章が出てたんですよ。例の「弱さを演じるということ」「悲劇の主人公になりきれなかった」っていうヤツです。私はそれに昔からとっても違和感を抱いていましたので、そんな話もまじえながら、「ダメ人間とはなんなのか」、「ダメ人間こそ幸福な人間」という話をしました。
 こちらに私の「人間失格」論をちょっと書いてますが、今日の女子の話と、太宰のグダグダ文学は、私にとってはほとんど同じ響きを持っています。なんだよ、結局お前のモテ話かよ!ってね。それで自分は不幸だって愚痴って、人に共感されて、優しくされて、励まされて、いやオレ(ワタシ)の方がダメ人間だと思われることで、相対的に自分が持ち上げられ、しまいには人間を失格になって「神様」に昇格して終わるなどという、究極のギャグでしめくくる。まったくもって太宰(&その女子)のユーモアセンスは大したものです(笑)。
 なんて、ホントのことばかり書いていると、去年の秋みたいに太宰からシャレにならない報復を受けるので、このへんでやめときます。
 まあ、それにしても太宰治との縁にも不思議なものを感じますよ。実は来年度から私が仕事をするであろう場所はですね、太宰治が何度か逗留した、まさにその場所なんですよ。彼の小説にも出てきます。いやあ、ついにここまで来たかっていう感じです。
 今年は生誕100年ということもありますしね、私は「富士山と太宰治」をテーマに、いろいろと読み直しをしてみようと思っています。そこで、今日は昭和11年に書かれた「HUMAN LOST」を読んでみました。太宰が御坂峠を訪れる直接的なきっかけがこの作品にありますからね。
 これはいかにも精神病的な散文詩とも言える作品であり,ある意味とっても太宰らしいトラップ(に見えるトリック)がしかけられている作品です。解釈も無限に広がるでしょう。細部にこだわると全体が見えなくなるという「詩的」な仕掛けが見事ですね。やるな太宰。
 縦書き文庫を埋め込んでみましょう。なにかの関係で見られない人、ケータイでアクセスしている人は青空文庫でどうぞ。あるいはpdf版でどうぞ。

 いかがでしたか?内容以前に、この音楽的な、あるいは講談的なリズムがたまりませんね。天才の技です。うむ、謡の大ノリみたいだ。
 ところでところで、この作品には、ワタクシ的にとっても注目すべき部分があります。そう、太宰治が出口王仁三郎について書いているんですよ!!これは非常に貴重な記述です。

「あなた知っている? 教授とは、どれほど勉強、研究しているものか。学者のガウンをはげ。大本教主の頭髪剃り落した姿よりも、さらに一層、みるみる矮小化せむこと必せり、

 学問の過尊をやめよ。試験を全廃せよ。あそべ。寝ころべ。われら巨万の富貴をのぞまず。立て札なき、たった十坪の青草原を!」

 大本教主とはもちろん出口王仁三郎のことです。この小説が書かれた前年、大本はあの世界史的にも稀有な大弾圧を受けました。もちろんそれをふまえての記述です。王仁三郎は官憲によって収監されました。その時、あのトレードマークとも言える不思議な髪の毛をバッサリ切り(切られ)ました。その姿を新聞か何かで見たのでしょうかね、太宰は。その印象をこうした比喩として使っているわけです。正直、小馬鹿にした感じがしますね。これが当時の、あのご時世の、大本や王仁三郎に対する正しいイメージでありましょうし、あるいは時代の空気がそれを要求していたとも言えるでしょう。不敬の輩、大逆賊の肩を持つわけにもいきませんしね。
 実は当時の文学界と王仁三郎の関係は、意外に深いものがあるんですね。太宰の敬愛した芥川龍之介も間接的に、いや私のカンによると直接的に王仁三郎の影響を受けています。去年芥川龍之介と富士山という記事でちょっと書きましたね。
 あとですね、川端康成は伊豆の湯本館で何度も王仁三郎に会っていますし、あとそうですねえ、有名どころでは、これは文学と言えるか微妙ですが、柳田国男の「遠野物語」の成立にも、大本信者の佐々木喜善が大きく関わっています。その佐々木の友人であり、宗教的ライバル(?)であった宮沢賢治にも間接的に大きな影響がありましたね。エスペラントという共通点もありますし。
 今、ちょっとこういう視点で当時の文学界を眺めなおす作業もやっています。また、面白いことがわかったら報告します。
 ちょっと話がそれました。太宰は「HUMAN LOST」を発表後、富士山に向かいます。そして富士山は彼の人生を大きく変えます。そして晩年、「HUMAN LOST」は「人間失格」へと昇華していくのでした。富士山をしても、彼を根本的に変えることはできなかったのです。
 そして、王仁三郎と太宰は同じ年に天国へ行きました。

Amazon 太宰治全集〈3〉

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2009.05.14

またやっちゃった…「WELLCOME!?」

About_img01 ちら富士北麓では、勝ち負けのないスポーツの祭典「第11回IVVオリンピアード」が始まりました。1968年から始まったこの一大イベント、今回初めてヨーロッパを離れ、日本で、ここ富士山麓で開催されます。折りからの世界恐慌や新型インフルエンザの影響もあり、参加人数の減少が心配されましたが、結局日本を含む27の国・地域から計9000人が参加するそうです。今日は河口湖ステラシアターで開会式が行われ、ウチの学校のジャズバンド部が華やかな演奏を披露しました。生徒諸君お疲れさま!
 そにれしても、このロゴ&マスコット、微妙だな。微妙すぎる…。
 …と、そんな国際的なイベントで、また山梨県はやらかしてしまいました(笑)。
Uni_2544 会場付近に林立する歓迎ののぼり。よく見ますと、いやよく見なくても不自然です。そう、そうなんです。またやっちゃったんです。「WELLCOME」。ここまでこだわるのはどうして?と思わせるほどの徹底ぶりですなあ。
 で、その余計な「L」のところになんだか貼ってある。貼って隠すと余計に目立つ。もういっそのこと、これは山梨の方言表記だということにしちゃえばいいのでは。
 前回2年前は、山梨県の観光キャンペーンののぼりでした。こちらのWELLCOMEですね。これはですね、結局全部回収されて、全部作り直されました。おそらく数十万本。私だけでなくたくさんの人が指摘したんでしょうね。それでいったい県民の税金のいくらが無駄に使われたのでしょう。もうあきれるのを超えて笑えますね。
Uni_2545 で、富士河口湖町としては、2年前もっとすごいことをやらかしてましたね。こちらFESTIBALてす。これはマジやばいでしょう。もちろん誰かが気がついて(というか誰でも気がつくよな)訂正されました…かと思ったら、こちらはけっこううまいことやりましたよ。
 今回のオリンピアードののぼりみたいにテープ貼っちゃうとよけいに目立つし、ほら、そういう訂正シールってはがしたくなるじゃないですか。ある意味強烈なアピール力を持ってしまう。そこで、これはですね、間違った「B」のところに微妙にかかるように、なんだか別の情報が書いてあるシールを斜めに貼っちゃったんですよ。私はそれを新宿駅で見ました。おっ!こう来たか!と感心するやら苦笑するやら…。
 まあとにかくですね、こういう大切なものを作る時には、何重にもチェックをかけましょうよ。いくらお役所仕事とはいえ、いやいやお役所仕事だからこそねえ。
 関係者はもう聞きたくないでしょうけど、やっぱり面白いから、最後に伝説の富士吉田市の大失態を再び紹介します(前の記事から引用します)。もう一度笑ってやってください!!

 さてさて、ついでに面白い話を一つ。地元の人は覚えてますかね。去年富士吉田市でですねえ、2002年のワールドカップの時にカメルーンの選手団がキャンプをしたことを記念して(それ自体よくわからないコンセプトですけど)、記念碑を建てたんですよ。で、盛大に除幕式をした。バッと幕を取ったらですねえ、「World Cup」が「Would Cup」になってた(笑)。で、結局あの大仰な記念碑を作り直したんです。まったくねえ、なんで製作過程で誰も気づかないんでしょう。もう、これは完全にギャグですよね。

オリンピアード公式

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2009.05.13

下吉田駅のベンチ〜ドラマ「祭ばやしが聞こえる」

Uni_2540 日は奉仕活動で地域の清掃をいたしました。え〜とですね、今日は高校総体の開会式の日でして、スポーツマンはそれぞれの試合会場へ、そして選ばれし者たちはあの驚異の演劇空間で行進し、そしてそして、ある意味選ばれなかった(いや、選ばれたのかも)者&高体連に所属せず我が道を行く野球部の諸君は、学校に残って奉仕活動…と、そういうあんばいになっております。実に複雑極まる非教育的状況です(笑)。
 私は一時期、演劇担当(行進担当)でありましたが、最近は選ばれざる者に属することになりまして、学校周辺の清掃の指導をするようになりました。今日もそれです。生徒諸君は大変熱心に清掃に励んでくれまして、道行く方々に「ごくろうさん」「ありがとね」と言われ、まんざらでもない様子。選ばれざるゆえの選ばれし幸福を味わっておりました。いいことですね。
 さて、そんなまじめな生徒を尻目に、私はちょっと自分の趣味に走ってしまいました。ごめんなさい。まずは近所の魚屋さんに突撃し、とんでもないものを借りてきました。これについては、来週あたりご紹介できると思います。初めて会う私に、あんな貴重なものを貸してくださる魚屋さんのきっぷの良さ。かっこいい!粋だねえ。
 そして、生徒を帰宅させたあと、富士急行線下吉田駅に行き、待合室のベンチの写真を撮ってきました。
 この下吉田駅、いろいろな歴史を堆積させた駅です。最近お色直ししてちょっときれいになっちゃいましたけど、基本的な風情は昔と変わりません。昭和4年、往時の名古屋駅を模して(ミニチュア化して)作られたと言われている駅舎です。織物業で当地が栄えていた頃、富士吉田の玄関はこの下吉田駅でした。太宰治も、何度もこの駅を下りました。
 今では全く静かな駅となってしまいましたが、ここから始まる下吉田昭和レトロ地区は、まさに昭和がフリーズドライ化されている遺跡の様相を呈しており、いろいろな映画やドラマの撮影場所となっています。最近では、ウッチャンの「ピーナッツ」や「力道山」(近いうちに紹介します)が有名どころでしょうか。
 ウチの学校はその一角にあるんですよ。いいでしょ(笑)。あっそうそう、フジファブリックの志村正彦くんも、この地域に生まれ育ちました。だからこそ、ああいう音楽を作るようになったんですよ。
 で、今から30年ほど前になりますが、このあたりを中心にオール・ロケが行われた名作ドラマがありました。ショーケンこと萩原健一といしだあゆみが出演した「祭ばやしが聞こえる」です。このドラマでの共演がきっかけで、二人は結婚したのでした。

 私も当時少し観た記憶があります。いろいろ縁があってこの地に生活するようになって、改めて観てみたいと思うのですが、残念ながら再放送もあんまりされませんし、ビデオやDVDにもなっていません。YouTubeに少しだけ上がっていたので、観てみたらまあいろいろ見たことがある風情が…。
2 そこで今日はふと思いついて、下吉田駅に行ってみたわけです。そしたら、なんとまあ、30年前の風情がそのまま残ってるじゃありませんか。上のYouTubeの映像の中で、いしだあゆみが座っていた木のベンチ、まだ普通に使われてました。バックの壁面との位置関係も一緒ですから、まあ間違いないでしょう。
 背板の棒が一本折れちゃってますが、基本昔のままの「たたずまい」を保っております。いろいろな人生を背負って折れちゃったんでしょうかね。それもまた趣深い。
Uni_2542 さすが富士急。富士急は車両自体、一番若くて30歳くらいですからね。私と同じくらいの年齢になる車両もしっかり現役で走ってます。だから、ベンチくらいで驚いてはいられないのかもしれません。鉄道マニアの方々にはたまらないでしょうね。まさに「もったいない」を地で行く…いや、ある意味開き直って古いものを使い続ける空間がここにあります。でも、更新不可能なモノたちのが醸す「たたずまい」は、意外にいいものですよ。

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2009.05.12

『日本の古本屋』 (古書データベース)

Logo しい本が見つかる。買える。毎日新しい国内最強の古書データベース。
 と銘打たれたサイトです。もうずいぶん前から大変お世話になっております。このたび、サイトのデザインもおしゃれにリニューアルし、またようやくクレジットカードが使えるようになりましたので、おススメすることにいたしました。
 古書店巡りというのは、ある意味ネット社会と相容れない部分があります。古書の持つ質感や、古書店自体のたたずまい、店主との対話、そしてなんと言っても古書の香り。どれもインターネットやコンピュータの苦手とするモノです。
 ですから、どんな時代になっても、古書店はなくならないでしょう。街で新刊を扱う書店が苦戦を強いられ、ネット書店に客を奪われていても、古書店はさりげなく、しかし悠然とそこにあり続けると思います。
 とは書いてみたものの、実情はそんなに甘くないとも聞きます。つまり、古書文化自体が消えつつあるのです。御存知のように、若者たちの古書店のイメージは、昔ながらのそれではなく、ブックオフに象徴される「新」古本屋となっています。彼らの視点には、質感やたたずまい、歴史的意味などはあまり含まれていません。ただ読みたい本が安く手に入ればよい。
 そうした中、「旧」古本屋も手をこまねいているわけにはいかないのでしょうね。こういう現代的なメディア戦略も打ち出さざるを得なくなったようです。
 しかし、そのおかげと言ってはなんですが、私たち地方に住む者が、神田に出かけなくとも、一瞬で狙った本を探すことができるようになりました。これは実に画期的なことです。ありがたいことです。
 もちろん、それはあくまで「狙った本」についての便利さであって、古書文化の中心をなす、意外な出会いやセレンディピティーはあまり期待できません。
2nd_logo まあそれにしても、こうやって神田のみならず全国津々浦々の古本屋さんから、いろいろな歴史や人々の思いをしみこませた古書が届くというのは、なんか新しい種類の感慨を催させますね。本にちょっとした書き込みを見つけた時など、私たちは単なる本に向かうのとまた違った想像力をかりたてられるものです。
 なにしろ、目標は全国古書籍商業協同組合加盟の2300以上の古本屋さんの参加だそうですから、その蔵書数は膨大です。また、サイトの説明にもあるように、絶版書、希覯本はもちろん、室町期の写本から中国・朝鮮・ヨーロッパの古書、さらには美術品まで、そのデータベースに含まれています。そういう意味では、一つの検索ワードから意外な出会いが生まれる可能性もありますね。今までとは違うセレンディピティーはあるっていうことか…。
 私は比較的古い時代の本を必要とする趣味を持っているので、これからも大いに活用させていただこうと思っています。リニューアルに伴い、使い勝手もよくなりましたし、「想」-IMAGINEによる連想検索もできるようになりました。コンピュータによる連想から、とんでもない発見がある場合もありますからね。
 まあ、これはこれで充分に重宝しながら、今までどおりリアル古書店巡りも続けることでしょう。やっぱりあの香りが好きだから。

日本の古本屋

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2009.05.11

追悼 三木たかし先生

 あ、またもや歌謡界の巨星墜ちぬ。市川昭介先生阿久悠先生遠藤実先生に続いて、こうして三木先生の追悼記事を書かねばならないなんて…。
 三木たかしさんの楽曲は、本当に心に残るものが多い。それも本当に多くのジャンルに及んでいます。演歌の名曲もたくさん残されていますが、それらもいわゆる演歌の王道からは実は大きく外れたものが多い。案外とクラシック的な手法を好んで使っています。まさに東洋音楽と西洋音楽の見事なコラボレーションを実現された方でした。
 今日は三木先生の楽曲の中で、ふと思い出されたものをいくつかご一緒に聴きまして、ご冥福をお祈りいたしましょう。
 一言最初に申し上げましょう。三木先生の曲は、イントロと歌の入りの1小節がすごい。もうそれだけで、その音楽世界に引き込まれてしまいます。優れた作曲家は皆そうなのですが、特に三木先生はすごいと思います。
 以下ランダムに思いついたまま紹介します。

 まずは、三木先生のお姿を拝むことができるこの映像。歌声も聞くことができます。ギターの名手でもありました。曲は森山良子さんに提供した「禁じられた恋」です。三木先生の出世作。ここでは石川さゆりさんが歌っています。

 続きまして、少年時代私も大好きだった「みずいろの手紙」です。紅白バージョンですね。あべ静江さんにマッチした端正な曲。ちなみにギターはクロード・チアリさん。

 次は「さくらの唄」です。なかにし礼さんの歌詞に見事な曲をつけました。隠れた名曲。美空ひばりさんによる神懸かり的な歌をお聞きください。す、すごい…。

 岩崎宏美さんの「思秋期」です。これも名曲ですなあ。故羽田健太郎さんのピアノも素晴らしい。

 三木たかしさんの天才性を象徴する曲「夜桜お七」。これは音楽的にあまりに過激な曲です。どこからこういうアイデアが浮かんでくるんでしょうか。音楽史上に残る名曲。世界中にこんな曲ありません。

 そして、この曲も忘れられません。私たちも何度も演奏しています。いろいろな形で。演歌としては実はリズムからして破格でした。また、最初の「あなた」のメロディーでいきなり日本語のアクセントを無視しています。三木先生は日本語の高低アクセントにとらわれない人でした。そこを批判する人もいましたが。私の中ではユーミンと三木さんの破格は許せます。

 最後はあえてこの曲を。ある意味最も歌われ、聞かれている曲かもしれません。シンプルながらポイントを押さえた工夫が光ります。間違いなく22世紀にも歌われているでしょう。

 本当に心よりご冥福をお祈りします。

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2009.05.10

物学(ものまね)

01839911 しぶりに世阿弥の(実際は観阿弥の…ですが)「花伝書(風姿花伝)」を読んでいます。本来は、世阿弥の使う「もの」という言葉についての分析が目的だったのですが、ついつい内容に心動かされてしまう。学(まね)ぶべきこと多し。
 そこで、今日は他のこととも重ねて思ったことをいくつか書き留めておきます。
 以前、学習と教育の違いについて書きました。こちらの記事です。学習とは「真似び慣らう(真似をし慣れる)」ことであると。これは語源的にもほぼ間違いありません。世阿弥も「物学条々」と書いていますから、今から600年ほど前までは、「学ぶ」ということは「真似る」ことであるという意識が、今よりかなり強かったものと思われます。中国語の「学」には、そのような意味はありません。単純に「教えを受ける」という意味です。
 特に世阿弥が重視する「物学」。これはつまり「物を真似る」ということですね。そして、「物」という言葉は、私の「モノ・コト論」的解釈によれば、自己の外部を指します。すなわち他者全体を指しますから、「物学」とは「他者を真似る」ということになりますね。「ものまね」という言葉は、現代では完全に慣用句化して「モノマネ」とカタカナ表記までされるようになっていますから、そのような語源意識もほとんどなくなってしまっています。
 先日、NHKの「日本の伝統芸能」という番組で、野村四郎さんの「船弁慶」の一部が紹介されていました。わかりやすい解説と見事な舞にいたく感動したのですが、その中でのいわゆる「物学」のすごさに驚きもしました。
 一般に「ものまね」と言えば、いかにそっくりにするかというのがポイントとなりますね。そのためには、いかに外見や声や動作を本物に近づけるのが一番の方法です。しかし、能においては、「真似ぶ」ということは、単なるコピーを演ずることではありません。いや、そうした複製から最も遠い所で真似ようとしているとも言えます。
 この「船弁慶」では、女性である静御前を男性である四郎さんが演じ、また、成人である義経を子方が演じていました。西洋的なリアリズムを求めるなら、こんなことにはなりませんよね。もちろん、話し方や動きも極度に記号化されているのが能の特徴ですから、現代的な「ものまね」のイメージからすれば、あるいは全く似てないとも言われかねません。
 しかし、もちろんその昇華された記号性の中に、日本的なリアリズムがあるわけですね。そこのところで、こちら観る側の意識の参画が重要になってくるのでして、つまり私たちもその次元にまで同行しないと、何もわからない事態になってしまうのです。能は観客とともに作られるというのは、まさにそういうことです。うん、プロレスも全く一緒ですな。最近、想像力&創造力に欠けた客が多いこと多いこと。
 ですから、能における「物学」とは、花伝書にもあるとおり、他者の「たたずまい」を真似るものであり、ある意味目に見えない空気に学ぶということになります。そして、いつも私が言うように、記号化(コト化)することによって、最終的に「モノ」に還る、コトという器からモノが溢れ出て、その器と溢れる何かとの相乗が、その芸の個性というか、芸術性というものになるのです。
Photo01 今日のNHK「日曜美術館」では、片岡球子が紹介されていました。私は不勉強で、片岡さんと言えば「富士山」だと思っていました。もちろんその「富士山」たちも、すさまじい高次元のリアリズムを見せてくれますね。コピーからはあまりにかけ離れた表現です。しかし、あまりに富士山らしい富士山。
 私などその富士山に住み、富士山と対峙せざるを得ない日々を送っているわけですが、そのようにあまりに日常になってきますと、富士山の外見上のあり方など、あまり意味をなさなくなります。ごく身近な家族に対するのと同じですよね。その存在の認識は、もっと深く無意識的になっていきます。すなわちワタクシ的に言えば、コトではなくモノとしてとらえるということですね。その、本来表現しがたい「モノ」を表現したのが、片岡球子さんの富士山です。ですから、それは造形的な部分ではなく、もっと高次なところで私の富士山像と重なっているわけです。
Photo02 しかし、今回はその富士山以上に、60歳を過ぎてからの「面構」シリーズや、100歳まで描き続けた「裸婦」シリーズに驚きと感動を覚えました。「面構(つらがまえ)」では、古い日本の彫像や絵画を真似て学んでいました。「裸婦」は、実は片岡さんの苦手とする分野だったそうです。それを最晩年にあそこまで高めた。あえて苦手なモノに臨むその姿勢には心打たれました。
 私の考える「モノ」には「未知・不随意・想定外」といったような意味も含まれています。そう考えると、片岡さんはまさに「モノ」に挑戦して、「モノ」を真似て、そこから学んで、そうしてあのとんでもない次元の作品を作り上げたのだと言えます。そこには、対象を絵として残すという「コト」の器と、そこから溢れ出す対象及び片岡さんの何か…個性なのか、たたずまいなのか、オーラなのか…があって、私たちの心を動かします。作品が死んでいないわけですね。器に、箱に入れて殺そうとしても(永遠化しようとしても)、それでも死なない生命力、ダイナミズム。それこそが「モノ」であり、モノをコトに極めて再びモノに還った、高い次元での表現ということになるのだと思います。
Photo03 片岡球子さんについて語る銅版画家の山本容子さんの言葉が象徴的でしたね。
「苦手の連続がものを生み出す」
 つまり、満足しないということでしょうね。終わりなき挑戦。そしてそれは楽しいことであり「遊び」であると。まさに「物(未知・不随意・想定外)から学ぶ」ということでしょうね。
 やはり、人は思い通りにならない時にこそ成長しているのですね。辛い時、不快な時こそチャンスなんです。「嘆きの中に天命がある」というのも同じことでしょう。

「まね」=「まねく」か?…発展記事…「ものまね」とは…

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2009.05.09

『新・刑事コロンボ 「かみさんよ、安らかに」』 (NHK BS-hi)

REST IN PEACE, MRS. COLUMBO
1 曜日の夜は家族でコロンボを鑑賞するのが恒例。今日は観る四人が四様で面白かったなあ。一番集中し、心配し、感動し、興奮していたのはウチの(我が家の)かみさん。続いて上の娘。下の娘はなぜか今回は集中せず、別のことをしながらチラ見していました。怖かったのかな。私は途中展開が読めてしまったので、なるべくそう思わないようにするのに一生懸命でした。
 それにしてもウチの(我が家の)かみさんの興奮のしかたは尋常ではない。ストーリーに入り込むのはもちろん、とにかくコロンボが「かっこいい」「かわいい」「ステキ」だと言い続けている…笑。
 ウチのかみさんがコロンボに惚れる理由はこちらに書きました。「モサっとしていのに猛者」というギャップ萌えですね。それから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン的、プロレスリング的、マタギ的手法でしょうか。まあ、わからないでもない。
 そういう意味でも今回の「かみさんよ、安らかに」はちょっと異色作でしたね。脚本や演出の細部に多少不満がないでもありませんが、それでも充分に楽しめる作品でした。旧シリーズに比べ、新シリーズはいろいろとパターン崩しをしていまして、それが功を奏している場合とそうでない場合とがあります。今作は、かなり思い切ったことをやった分、刺激の強さという意味では成功例になったと言っていいでしょう。
 いきなり、「ウチのかみさん」の葬儀のシーンから始まります。昔コロンボが逮捕し、獄中死したある男の妻が逆恨みをし、コロンボに配偶者を失う悲しみを与えた上で、コロンボ本人をも殺そうとするという、かなり過激なシナリオです。タイトルや冒頭のシーンからして、コロンボに欠かせない「ウチのかみさん」が本当に死んでしまったと思ってしまいますよね。
 そして、最後のシーンでは、コロンボも死にかけます。子どもたち(&我が家のかみさん)は本気で泣きそうになってました。私は内心ほくそ笑んでましたが。
 私としては、そうした意外な展開よりも、名女優ヘレン・シェイヴァー演ずる犯人のヴィヴィアン・ディミトリーの病的な殺意に恐怖を覚えましたね。実際脚本上、彼女はある種の精神疾患ということになっていました。まあ、そうしないと、この異常なシナリオを構成できませんよね。
 一般に女性の恨みは怖いと言われますが、実際には女性は上書き的思考が得意なので、案外悪いことはあっさり忘れる傾向があるものです。しかし、疾患などによってその上書き機能が正常に働かないと、このような継続的な復讐心や嫉妬心を生み出すことになります。古今東西にわたって物語化されてきた「生き霊」になって時空を超えてしまう女性や、死んでも死に切れない女の幽霊などは、皆そういう背景があるものと思われます。
 今作でも、その点が強調されていたと思います。そこには、ある種の悲しみが感じられますね。成仏できない悲しみといいますかね。誰かが、医学的なこととは別のやり方で救ってあげないと、犯人自体が可哀想なんです。私にはそれがなんとも痛々しかった。
 コロンボはその恨みのターゲットですし、刑事という仕事柄、そういう役割は果たせません。異常な犯罪に対しては、異常な捜査方法で臨むしかないわけです。ある意味非常に残酷なやり方で彼女をさらに不幸に追い込むしかなかったのです。魂の救いはそこにはありませんでした。
2 最後に、コロンボは思いっきり頬を張られます。強烈なビンタです。ガチでした。珍しいシーンではありますが、しかしまた、その癒されない、行き場のない魂を、ほんの少しでも昇華するためには、どうしても必要なシーンだったとも思います。私はあれで少し救われた気がしました。
 なかなかの名作であったと思います。

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2009.05.08

「たたずまい」とは

猫は「たたずまい」の天才…「場」に溶け込む
Eyj 昨日、昨日と、本当にいろいろなことがありました。そのいろいろなことの中に、ある共通したテーマがあったような気がします。それが「たたずまい(佇まい)」です。
 オーケストラの練習では、音のたたずまいが非常に重要だと感じました。演奏全体のたたずまいというのももちろんですが、その中での自分の音のたたずまいですね。それがしっくり来るかどうか。
 阿修羅展での仏像たちの「たたずまい」。それは、私にとってはあまり好ましいものではありませんでした。では、阿修羅くんを取り巻くおばさんたちの「たたずまい」はどうだったでしょう。博物館前の巨樹の「たたずまい」は?
 デザイナーの教え子と話した時も、「たたずまい」がテーマでした。デザインされた「モノ」が醸し出す「たたずまい」。彼はそれを重視したいと言いました。
 そして、「王仁魂復活プロジェクト」。そこにもいろいろな「たたずまい」がありましたね。皆さん、素晴らしい「たたずまい」を持った方々でした。その点、私はかなり心細い…。桐の箱と、和綴じされた和紙の解説と、和紙の折り紙に包まれた王仁の言霊CDの「たたずまい」もまた、CDらしからぬ「たたずまい」を醸し出していました。
 さあ、この「たたずまい」とはなんなのでしょう。普通「様子・有様・雰囲気」などと簡単に訳されていますが、もっと深い「何か」があることを、私たちは実感しています。日本人はこの言葉大好きですからね。しかし、我々はこの「たたずまい」という言葉を、それこそ「雰囲気」的に使ってしまっています。今日は、私の専門分野からその本当の意味を考えてみたいと思います。
 まずは語源から考えましょうか。
 「たたずむ(佇む)」という言葉がありますね。おとといの阿修羅展の記事で私も使っています。「仏像は正面にたたずんで観るべきものです」と。
 「たたずまふ」は「たたずむ」という動詞の未然形に反復・継続を表す「ふ」という接尾語が付いたものです。それは間違いないでしょう。未然形の、未だ完成・固定されていないイメージを味わいましょう。
 では、「たたずむ(佇む)」の語源はどういうものでしょうか。一般には「立た住む」と捉えられることが多いようですが、「立つ」の未然形が「住む」という動詞につながるのはやや不自然です。イメージ的にも、「たたずむ」様子が「立っている」状態とは限らない感じがしますよね。
 そこで、古い使用例を調べてみますと、こんなことが見えてきます。10世紀後半の蜻蛉日記にこういう文があります。

 「だらにいとたうとう誦みつつ、礼堂にたたずむ法師ありき」
 陀羅尼(呪文)をとても尊く唱えながら、礼堂に「たたずむ」法師がいた。

 少しあとに書かれた源氏物語の末摘花には次のような例があります。

 「なにやかやと世つける筋ならで、その荒れたる簀の子にたたずままほしきなり」
 何やかやと色恋沙汰ではなくて、(ただ)あの荒れた簀子に佇んでみたいのだ。

 源氏が荒れた邸で琴を弾く常陸宮の姫君に会いたくて妄想しているシーンです。ま、結果、妄想は裏切られ、姫君は象の鼻の持ち主(末摘花)だったわけですが(笑)。
 この二つの例から何がわかるのでしょうか。そう、実は両者とも「場所」「ロケーション」が重要になっているんです。「礼堂」「荒れたる簀の子」ですね。そんなこと当たり前じゃないかって?そう当たり前ですが、ちょっと待ってください。次に行きます
 次に「たたずまふ」の古い例を確認してみましょう。源氏と同時期の枕草子「正月一日」から。

 「われはと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、奥の方にたたずまふを」
 自分こそが思っている女房が、のぞきながら気合いを入れて、(部屋の)奥の方にたたずんでいるのを。

 男根の形をした棒(粥杖)で、新婦のお尻をたたくという楽しく土俗的な遊び(まじない)をしようとするシーンですね。ここでも「奥」というロケーションと「隠れている」という行為の関係が肝心です。
 続いて、「たたずまひ」という名詞形の古い例。

 平安初期の東大寺諷誦文の例です。これは古い。9世紀前半。

 「経行(たたずまひ)も吉く遠見も怜(おもしろし)」

 実はこれが重要な例なんです。「経行」という字を当てているところが大切。「経」は「たて(縦)」という意味です。「たて」「たた」は「ただ」とも語源的につながっています。「経」と同じ意味を表す「径」を「ただ」と読む例もあります。「ただ」の意味は「直」「只」「唯」という字で考えると解りやすい。「ストレート」「ダイレクト」「オンリー」「ピュア」というイメージですね。不純物や障害物がなく、直接何かと何かがつながっている感じです。
 つまりですね、「たたずむ」というのは、その「場」に相応しい状態でそこにしばらくいる、「場」の空気と一体になって存在する、そこに「しっくりはまる」という感じなんですね。ですから、その反復形の名詞形「たたずまい(たたずまひ)」の意味は、もうお分かりになると思います。
 何かの「たたずまい」と言った場合、実は単にその「何か」が雰囲気を発しているのではなくて、つまり、その「何か」が主体ではなくて、あくまでその「何か」を取り巻く「場」が主体なのです。楽器の音もそう、阿修羅もそう、デザインもそう、CDケースもそう、王仁魂の方々もそうです。「醸し出す」とは言っても、単にそれ自体がアウラを発しているのではない。あくまで全体の空気感なのです。
 その「場」というものには、もちろんいろいろな要素があります。物理的な空間としての「場」だけでなく、歴史の堆積としての「場」、そこに存在する物や者たちのアンサンブルが醸す「場」、そして、人の気持ちが創る「場」。そういう複層的、相互依存的な「場」の中で、その一つの要素たる「何か」に注目した時にですね、その「何か」がちゃんと「場」の創出に機能しているかどうか、それこそがそのモノの「たたずまい」ということになりそうです。ちゃんと正しい役割を果たしているかどうかなんです。
 古い例をもっと見てみると、だんだん自然物、たとえば山や雲などに「たたずまひ」を使うようになっていきます。自然物は自然にその役割を果たしている、自らの分をわきまえ、正しく他に活かされ、他を活かしているということでしょうかね。
 こう考えてくると、この言語化、数値化、あるいは英語化できそうにない「たたずまい」という言葉を、日本人が好んで使う意味も分かってきますね。
 「たたずまい」。早く身につけたいものです。

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2009.05.07

王仁魂復活プロジェクト

出口汪さん出口光さんに囲まれデレデレの私…
090507 ったく人生は何が起きるかわかりません。「コトよりモノ・心より物・自己より他者」を標榜して憚らないワタクシでありますが、さすがに今回の一件は、全て受け入れるにある程度の時間がかかりそうです。「私」という小さな「器」には、とても入り切らないほどのモノが注がれてしまいました。
 今日の私は、東京で一仕事し、そしてデザイナーとして活躍している教え子に会い、そして夕刻から「王仁魂(おにたま)復活プロジェクト」の発足パーティーに参加させていただいたのです。
 新宿の某高層マンションのスカイラウンジ…本当に私のような者がそこにいて良いのだろうかというような、とてもとても崇高な、濃い、そして重い(雰囲気は明るく楽しいものでしたが)場にこうしている自分…窓越しに見える霧に霞んだ新宿の夜景も相まって、まさに夢の中にいるような心地でした。
 このプロジェクトは、私も多大な影響を受けている出口王仁三郎を歴史の闇の中からすくい出し、その精神について学び合い、それぞれの仕事(天命)の中で、それを活かしそれを広めるという目的のもとに始まりました。
 王仁三郎のカリスマ遺伝子を引き継いだ出口光さん出口汪さんさんが中心となり、各界のそうそうたる方々が参集して立ち上げられたこのプロジェクト。そこになぜ私が…いつもの突撃の成果かと思いきや、なんと今回は先方からのお誘いがあったのです。信じられませんよね。
 元はといえば、出口光さんがこちらの記事にコメントをくださったのが始まりでした。もうそれだけでも私には信じられないことだったのですが、その後も光さんとはメールでのやりとりが何回かあり、お互いにどうしてもお会いしなければならないような状況になってきたのでした。
 また、仕事上どうしても汪さんにもお会いしたい、でも無理だろうなあ…と思っていたところでしたので、これまた驚きでした。こういう形でお二人との初対面が実現するとは。それも同時に。いったいどういう力が働いているのでしょう。
 今日、皆さまの前でもお話しさせていただきましたとおり、私と出口王仁三郎との出会いは四半世紀前まで遡ります。当地富士北麓に残る怪文書「宮下文書(富士古文献)」の研究(というほどのものではありませんが)を始めてしばらくした頃に、ある書物で「出口王仁三郎」という名前を初めて見ました。ん?これはいったい誰なんだろう。不思議な名前だなあ。そんなふうに思ったのがつい少し前のような気がします。
 それから四半世紀、私もいつのまにか今の職場(高校)に定着し、また住いを富士山に構えながら、地元に根ざした、つまり富士山から見た出口王仁三郎像を自分なりに作り上げてきました。そして、2年半くらい前でしょうか、不思議なご縁をいただいて、王仁三郎の耀わんをお預かりすることになってからというもの、まあ様々なことが滝の落ちるように進展していったのでした。もちろん、受験国語を指導するようになって20年以上、日常的に、すなわちゆったりと、汪さんの様々な書物や参考書などに支えられてきたことも書いておかねばなりませんが、教材として汪さんの論理エンジンを正式に使い始めたのは、ちょうど耀わんをお預かりした頃からでした。本当に不思議なことが重なっていますね。
 今日も申しました。耀わんは「web0.0(神々のネットワーク)」とつながるデバイスであるようです。そのネットワークにちゃっかり乗らせていただいた私は、今日、まさにいろいろな点が線になり、今の自分が富士山でこの仕事をしているということの意味、まさに天命というものをしっかり感じることができました。今までの全ての「コト」に、ちゃんと意味があり、全て必然であったと、私は自信をもって言い切れるようになりました。
 王仁三郎が目指した「みろくの世」「大和(だいわ)」「宗教のない世界」、さまざまな境界線を取り払った「物語」の実現のため、私はこういう仕事をし、音楽にいそしみ、プロレスを愛し、そしてこの「古今東西硬軟聖俗なんでもござれ」なブログを書いているかもしれません。これはたしかに宗教とは一線を画す「何か」です。もしかすると、これ全体が「芸術」なのかもしれない。
 私をこの場に導き、招いてくださった方々、そして、こんなどこの馬の骨かもわからぬ者を温かく迎えてくださった方々、全ての皆さまに感謝申し上げます。私は私なりのやり方で、理想の実現のために努力していきたいと思います。
Onitama ところで、今日は別の意味で驚きの出会いもありました。いや、別の意味ではないな。同じ意味に違いありません。
 最初に名刺交換をさせていだいた方の中に、なんと「小久保隆」さんがおいでになったのです!私は思わず「バッハ・リヴォリューションの小久保さんですよね!?」と、まあマニアックなお訊ねをしてしまいました。小久保さんビックリされて、「バッハ・リヴォリューションなんて死語だよ!」とお笑いになっておりました。たしかにそういう枕詞で呼ばれることはないでょうね。
 ちょっと前の話になりますが、私、小久保さんの「デジタル・バッハ」をブログで紹介していたんですよね!まさか、こういう形でこういう時期にこういう場所でお会いできるとは…。小久保さんは、上の写真にある「出口王仁三郎実声言霊集 王仁魂復活」というCDの制作に関わっていたんです。古い貴重なレコードからノイズを取り除きデジタル化するという、とんでもなく大変な作業を、心を磨きながら全うしたそうです。しかしなあ、このネットワーク上で出会っちゃうとはなあ…不思議すぎます。
 いずれにしても、「縁」「気脈」というのは、実に尊いものです。そして、そのご縁を大切にしなければなりません。お釈迦さまのおっしゃる通り、私たちは「縁起」する存在です。「縁起」しかできない存在です。そして、他を「縁起」させる存在です。「ご縁」を大切にするということは、自分を他者を、そしてその総合であるこの世を大切にすることだと思います。これからの人生、そういう心積もりでやっていきます。本当にありがとうと言いたい。誰にともなく感謝したい今日の私です。

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2009.05.06

『国宝 阿修羅展』 (東京国立博物館)

2 判の阿修羅展に行ってきました。評判通りの混み方でした。
 日本人はこういうブームが大好きです。メディアもそういうブームをあおります。私はそれも日本文化の特質の一つだと思っていますから、そこも含めて今回は楽しんできました。
 阿修羅像そのものに関しては皆さんがおっしゃる通りの優れた造形だと思いますので、詳しくは語りません。
 今回なんと言っても興味深かったのは、「おばさん」たちでした(笑)。まずおばさん率が非常に高かった。8割以上。いや9割か。つまり、おばさんたちは阿修羅くんに萌えたいわけです。ヨンさまとかに対する感情と同じです。腐女子魂であります。
 それはそれで問題ありません。なぜなら、興福寺所蔵の阿修羅像は、奈良時代のおばさんの総代表が作らせたものだからです。光明皇后ですね。阿修羅像だけでなく八部衆全体に、彼女の趣味が色濃く反映しているのは間違いありません。
 そんな不謹慎な。あれは母親の供養のために作らせたものであり、高貴な魂の生んだ傑作である。そうおっしゃる方もおいででしょう。もちろん、そういう一面も認めた上で、あえて違った側面を強調したいと思うのです。
 これが父親の供養であったなら、彼女はああいう造形を求めなかったのではないでしょうか。いわば、そういう女性的な「萌え」の感情が二重に増幅されて、悲しみの中にすらああいう美を生み出してしまったのでしょう。そして、そこにまた千年以上経ったのちの女性たちが「萌える」わけですから、やはり日本文化というのは「いとをかし」です。
 その証拠に、あのショップの熱気はなんですか。フェルメールの時宝塚の時も感じましたが、実物よりそうした商品といいますか、自分の身近に所有する、いわば「萌え=をかし(招きたい)」の対象物に興味を抱いてしまう。これは私がこのブログで何度も繰り返している、女性的、貴族的、本来のオタク的心性のなせるわざです。「をかし」は母性を基調とした心の色合いなのです。
 私はそれを卑下したり嫌悪したりは、絶対にしません。それこそ日本文化の底流にあるものだと信じているからです。「モノ・コト論」で言いますと、また出ました、「コトを窮めてモノに至る」「コトを窮めてモノに還る」というやつですよ。「もののあはれ」は「をかし」の蓄積がないと生まれません。
 ま、ちょっと意地悪に苦言を呈させていただきますか。「きゃー、カワイイ!」と年甲斐もなく叫ぶおばちゃんすらいて、実はですね、とても仏像を鑑賞する雰囲気ではなかったのですよ。最前列をキープしたおばちゃんたちは、係員の「懇願」も無視して、そこに居座り続けていました。そんな中、ちゃんと脱帽して合掌礼拝していたのは、私だけでしょう(それも変なのかな…笑)。
 また、「海洋堂制作阿修羅フィギュア売り切れ」の告知と、阿修羅ファンクラブ公式ソングが流れているのには、正直ちょっと萎えましたね。私なりに全ての展示を味わい尽くしたその掉尾に、あの高見沢さんの歌声はさすがにキツかった。
 まあ、それはそれでいいとしましても、ああやって多くの優れた仏像の中で(特に八部衆の中で)阿修羅像だけを特別扱いするのはどうでしょう。あまりの特別扱いに阿修羅像自体が恐縮しているように感じました。いつの時代も女性はアイドルを求めているのでしょうか。それこそが、宗教心のルーツであるとも言えないこともない…のかな。
 さて、一つだけどうしても書いておきたいことがあります。おばさん方は、阿修羅くんの顔(特に正面の顔)を凝視することに執心しておられましたけど、私は彼の全体像をとらえることにこだわりました。それもやはり正面からのお姿ですね。仏像は基本、裏側なんか観るべきものではありません。私にもたしかに裏側や横の二つのお顔を見てみたいというミーハーな感情もありました。しかし、基本仏像は正面にたたずんで観るべきものです。
 そうして観た阿修羅像はたしかに見事に周囲の空気を作り出していました。オーラと言ってしまって良いか、それはよくわかりません。もう少し正確に表現するなら、一番上の手は空を支え、真ん中の手は地を押さえ、合掌する手は私たちの心を包んでいたわけです。そこを含めてのバランスと言いますか、全体の佇まいは、たしかに他の仏像たちにはない独特のイメージを喚起するものでしたね。
090506 ショップの喧騒を抜けて、すっかり現実の世界に帰ってきた私は、国立博物館の建物を出ました。そこには、あれは何の木なんでしょうかね、巨木が空に向かってそびえていました。ああ、阿修羅と全く同じだ。私はそう感じました。空を支え、地を押さえ、私たちの心を包んでくれる。きっと、あの仏師は自然のこういうところを真似て、ああいう美を作り出していったんでしょうね。そんなことは、あのおばさん方にはどうでもいいことなのかもしれませんが(笑)。

注 この文章での「おばさん」「おばちゃん」は、ある一部の人たちを指す言葉であり、一般的な女性を表すものではございません。あしからず。

阿修羅展公式

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2009.05.05

祝!春の関東高校野球県大会優勝!

1 った〜!!春の高校野球でウチの高校が優勝しました!春の関東県大会優勝は17年ぶり2回目です。秋の大会では3年前に優勝していますので、県ナンバー1はその時以来ということになりますね。
 この結果、群馬県で行われる関東大会に山梨県第1位として出場することになりました。春の関東大会は昨年に続き2年連続となります。そう、昨年は山梨県開催ということで、第4位のギリギリ出場でしたっけ。しかし、横浜高校と大接戦を展開し、いい夢を見させていただきました。心に残る名勝負でしたね。
 今年も1回戦を突破すると、順当に考えて再び横浜高校と対戦することになります。雪辱を果たしたいところです。
 今年のチームは走攻守のバランスが非常によい上に、どんな相手に対しても平常心を保って臨める優れた精神力を持っています。試合の中でも、大きく崩れることがありません。今までのウチのチームは、少しムードが悪くなるとずるずる行く傾向があったのですが、今年のチームは一味違います。日常生活でも明るく元気でひた向きな彼ら、グランドの上でもそのままの勢いを見せてくれます。
 3年前の記事にも書きましたが、ウチの学校は私学でありながら、ほとんど全て県内の、それも富士五湖地区の生徒で構成されている地元チームです。今や公立でさえも、全県一区を利用して、県内の各地域からいい選手を集めようとしている中、こうして「地元」にこだわるのは、もしかすると非常に特別な、貴重なことなのかもしれません。あくまでも、地域に根差し、地域に奉仕し、地域に還元していくという、創立以来のポリシーは、いつまでも変りません。今日活躍した選手たちも、ずっと地域で育ち、地域の大人たちが見守ってきた子どもたちです。
 それからもう一つ、全国の強豪私学の中には、全国から野球留学生を受け入れ、彼らに勉強よりも野球中心の学校生活をさせるところが多くあります。もちろん、私学という一つの企業としてのやり方として、それもありだとは思いますが、ウチはそういうことは絶対にしません。これも創立以来の伝統ですね。
 2年前の春に、ウチの学校では文武両道を目指す新しいクラスをスタートさせました。ある意味理想の教育を実現するためです。そのクラスの1期生が3年生となり、今回のチームの中心として活躍しています。その全国的にも珍しいシステムを持ったクラスは、実は私のアイデアによって作られたものですし、今年度はそのクラスの副担任をしていることもあって、日頃の彼らの頑張りを見ている者としては、今回の優勝は特に嬉しく感じるのであります。
 彼らの目標はもちろん甲子園出場です。その足がかりとして、寸前の大会であるこの春の関東県大会で優勝できて本当に良かった。ここでハイレベルな関東大会を経験できるのは、非常に幸運なことです。昨年の横浜高校との名勝負を体験した選手もたくさん残っていますし、こうしてどんどん自信をつけていって、そうして夏を迎えてほしいですね。期待しています。おめでとう!そして、頑張れ!生徒たち。

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2009.05.04

『ねこ耳少女の量子論〜萌える最新物理学』 竹内薫ほか (PHP研究所)

今日の記事は壊れ気味です。ご注意を。
56970560 またまネット上で佐野量子さんの懐かしい映像を観ました。そこでふと思ったのが「佐野量子の量子論」ってのを出したらどうかな、というどうでもいいこと。今では武豊騎手の奥さんですから、「武量子(たけかずこ)の量子論」が正しいな、なんてさらにどうでもいいことを考えていました。ついでに、量子さんが漁師…じゃなくて量子のようにふるまったら、豊さんは大変だろうな、いや、全ての女は量子的存在である…なんてことまで瞬時に考えてしまった。
 量子論に関して、そして、こういう「どうでもいいこと」と「重要なこと」が同時に存在し得ることに関して、私は1月に「二重スリット実験」に思うという記事を書きました。
 そこに、これもたまたまですが、「そういう(量子論のような)非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)…」と書いています。そう書いたちょうど1週間後くらいにこのマンガが出たわけですから、私の独言にも実は科学的予測性があったのかもしれません。
 いや、私のそうした意識の前に、量子がふるまいを変えて、そうしてこの本が出たのかもしれない。あの時、瞬間あんなふうに思ったから、今のこの私を取り巻く世界があるのかもしれない。そうして無限に重層的な世界を、私たちは無限選択的に歩んでいるのかもしれない。量子論は究極的にはそんな世界観をも創出しますね。
 私の量子論に対する結論は、その記事にも書いたとおり、「言葉」が悪いのだ!量子は量子!これでいいのだ!という、実に哲学的、バカボンのパパ的なものです。それは今も変りませんし、絶対に正しいと信じています。この世は漫画的、あるいは夢的、妄想的であるべきです。
 さてさて、話を本題に導かねば。そんな漫画的な世界をマンガにしてしまったのが、この本です。私の前に座っている、いつもいろいろなネタを提供してくれる理科の先生(女性)が持っているのを見つけて、借りて読んでみました。
 結論。やっぱり量子論は「とっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的」でした。量子さんはやっぱり豊さんを苦しめていたっていうことです(笑)。そう、そういう量子の存在の仕方やふるまいを、女性の「萌え」要素と重ねて表現するという究極の方法、さらに、シュレディンガーの猫に対する我々猫ヲタのシンパシーを露骨に利用するという禁断の手法を、この本は恥ずかしげもなく披露してしまっています。なんということでしょう。
 その理科の先生の蔵書の一つである『元素周期 萌えて覚える化学の基本』をお借りした時と同じことを叫ばせてもらいます。
 PHP研究所よ!これでいいのか?!Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 まあ、いいのでしょう。昨日の記事にも関係しますが、「繁栄」と「平和」と「幸福」という絶対矛盾を実現するには、たしかにオタク的生き方をするしかありませんからね。世界はオタク化すべきです。非核化なんて無理なことはあきらめて、オタク化を推進すべきです。六者協議は北朝鮮の非核化を目指すのではなく、オタク化を目指すべきです。オタク三原則、オタク平和都市宣言、東南アジアオタク地帯条約…ああ、頭がおかしくなってきた(笑)。
 まあ、これほど、この本には破壊力があるってことですよ。今までいろいろな萌え系の学習書を紹介してきましたが、これほど自然なものはありませんでした。素材を無理矢理萌え風に料理しているのではなく、素材自体が萌え的なんです。量子のふるまいはツンデレなんです。
 そう考えてくると、「萌え」というものは、まさにこの世の萌え出づる原点「量子」への共鳴なのでしょうか。では、私の「萌え=をかし論」からすると、枕草子は量子文学ということですか!?ww
 もうわけがわかりません。やっぱりこの世は漫画的です。バカボンの世界です。やっぱり霊界物語は正しかった。最新物理学がやっと霊界物語に追いついたってことですかね。
 最後に一言。やっぱり「超ひも理論」って、訳し方のセンスがバカボンしてますよ。もう、この世は粒でも波でもひもでも何でもいいような気がしてきます。
 全ての女はツンデレな「量子」であり、全ての男はその「超ひも」である…これでいいのだ!これでノーベル賞とれないかな(笑)。

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2009.05.03

エコとは?

↓何この可愛くないキャラクターは…笑
Top_logo 月の15日から「エコポイントの活用によるグリーン家電普及事業(仮称)」が始まります。もとは7月から実施の予定だったものが、買い控えによる家電の販売低迷が起きたために前倒しするとのこと。
 皆さん、もうとっくにお気付きと思いますが、これは環境対策ではなく追加経済対策です。「エコロジー」を騙った「エコノミー」政策です。
 もう一つ、なんだか紛らわしいものに「エコ・アクション・ポイント」というのがあります。こちらは一見純粋な環境対策のようにも見えますが、ポイント付加による購買意欲の向上が伴い、また、事業所もそれを企業イメージのアップに利用する点では、やはりエコノミー・アクションに過ぎないとも言えましょう。
 非常に単純化して言ってしまえば、「エコロジー」と「エコノミー」は相矛盾するものだということになります。そんなことは小学生でも解ります。しかし、大人たちはその矛盾を隠蔽して、いや見て見ぬふりして、「エコ」という巧みな言葉を振り回します。「エコ」とつづめて言うことによって、天使と悪魔を同居させてしまう。だから、私にとって「エコ」は単なる「偽善」の記号にしか過ぎません。
 今日、卒業した生徒たちのmixiの日記を見ていたら、「江古田(エコだ!?)」に住む女子が「エコは嫌いだ!」というようなことを書いていました。そして、とっても面白いことに気づいて、エコの偽善を軽く超越する遊びに興じておりました。
 彼女曰く「いっぽん、棒を足せばいいんだ! 」。
 そう、つまり、エコの「コ」に一画足して「ロ」にしちゃえ!ということです。つまり「エロ」ですな。彼女が提唱する「エロ」は、「節約エロレシピ名人」「エロバッグ」「エロキュート」「NHK地球エロ2009」「エロガラス」「ガチャピンのエロカイロ」…。
 うむ、なるほど。はっきり言って、こっちの方がずっと上品ですよ。「エコ」のような偽善は微塵も感じません。ある種の自然体の潔さというか、野性の生命力のようなものを感じさせ、これぞ本当のエコロジーであると言いたくなりますね。
 そうそう、ちょっと前に「我々が左右の手で大事に抱えているものとは…!?」という記事を書きましたね。左右という漢字に含まれる「エロ」成分こそ、人間の本質だと語りましたっけ。
 世の中では、なぜか「エコ」という偽善、ウソの標榜は許されるのに、「エロ」という真理の方は隠蔽されてしまいます。たまに草彅(なぎ)剛くんのように、自分の偽善に堪え切れず真理を体現する人もいますが、そうするとたいがい「公然わいせつ」とか言われて弾圧されます(彼の行動についての私の意見は「GJ!草彅剛(くさなぎつよし)くん!!」「草彅(なぎ)剛くんと二・二六事件」をご覧ください)。
 公然偽善罪っていうのはないんでしょうかね。あっそうだ、公然の「エロ」は「ポルノグラフィー」と言われますが、公然の「エコ(偽善)」は「エコ・ポルノグラフィー」って言われるんですよ。御存知でしたか?辞書にはこうあります。
「エコ・ポルノグラフィー:環境問題に対する人々の関心を利用した,企業の広告・広報活動」
 全く破廉恥ですよね。
 もう一つ、ワタクシらしい(?)言葉遊びを披露しましょう。
 「えこ」と入力して変換されるのは、「エコ・eco・依怙」ですね。前の二つは今までお話として、最後の漢字、どっかで見たことありませんか?そう、「えこひいき」の依怙ですね。
 さて、この依怙という言葉ですが、もともとの意味は「自分の利益・私利・わがまま」という意味なんです。まさに「エゴ」(笑)。面白いでしょ。我が山梨県にある大善寺の文書(1196年)にこういう文言があります。
「就中於寺内更無一分依怙」
 つまり、寺の中ではエゴは許されないということです。私利私欲を捨てて利他に生きることを目標とする仏教なら当然のことですね。
 まあ、いずれにしてもですね、「エコロジー」と「エコノミー」を一緒くたにし、「エゴ」の濁点(汚点)を隠蔽して「エコ」と騙り、世の中に「依怙」を蔓延させるくらいなら、いっそ「エロ」を全裸で叫んでいた方が、ずっと地球に優しいということですよ。
 私も「エコポイント」やら「エコ・アクション・ポイント」なんて集めないで、「エロポイント」や「エロ・アクション・ポイント」集めようかな。あっ、それもまずいか(笑)。

関係記事
地熱発電とEDLC
偽善エコロジー
ほんとうの環境問題
環境問題はなぜウソがまかり通るのか
常識はウソだらけ

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2009.05.02

感謝!不二草紙5周年!

↓早朝、パジャマ姿で修行に励む筆者
Uni_2462 日、本ブログ「不二草紙 本日のおススメ」は5周年を迎えました。これもひとえに皆様方のご支援のおかげです。本当にありがとうございました。
 5年という一つの区切りを迎えましたので、本日をもちまして、いったん断筆させていただきます。仕事も大変に忙しくなってまいりましたし、社会的な立場も変りつつあり、好き勝手なことを書きづらい雰囲気も周囲に流れています。2000近い戯れ言を書き散らして、地球の文化環境をもだいぶ汚してきましたので、もうそろそろ悪行はやめようかと。そして、なにしろ、毎日の負担が大きすぎます。
 …と書こうかとも思いましたが、やっぱりもう少し続けてみることにしました(笑)。
 いやあ、実際毎日けっこうストレスになってるんですよ。基本前日の分を翌朝早く起きて書くというスタイルなんですけど、もう寝ている最中から、何書こうかな、どう書こうかなと考えてしまい熟睡できない始末。昼間も見るもの聞くもの、全てネタとしてとらえるクセがついてしまいまして、大変と言えば大変(面白いと言えば面白い)。
 とにかくもう三度の飯より…いや一食主義なので一度の飯か…一度の飯と同じくらい大切な生活の一部になってますので、ここでやめると自分が死ぬんじゃないか、頭に栄養がいかなくなってボケるんじゃないかと心配にもなっちゃうんですよ。だから、やっぱりやめたくてもやめられないと。
 三日坊主エセ坊主の私が、これだけ一つのことを続けるのは、本当に珍しいことです。毎日休まず続けるという意味では、まあ生業である今の仕事は別として、つまりは、やらなくてもいいことを5年も続いたわけですからね、これは自分史の中で画期的なことですよ。自分で自分をほめてやりたい!とか思ったら、三人目の(?)自分が「小学校は6年だぜ」と言ってニヤッとしやがった。
 そうか、あれはたしかに毎日6年続いたな。義務教育っていったって、小学校なんか遊びの延長みたいなもんだからなあ。行かなくても生きていけるし。そうか、まだ小学生の自分にも到達してないんだ。あいつに負けるのはちょっと悔しいな、と思えてきました。うん、やっぱりもうちょっと続けよう。来年の今日でようやく小学生レベルなんだな。
 まあ、それにしても、このブログというツールのおかげで、自分の人生は大きく変わりましたね。ちょうどいい時代に生まれたということです。もともと、文章を書くのが嫌いな、というか面倒くさい人間でしたので、どちらかというと、絵や音楽で表現する方に走っていたんです。でも、どこかで文章、言葉に対する未練というか、憧れというか、あるいは、「もしかすると、自分が一番得意なのは、絵とか音楽ではなくて、言葉を操ることなんじゃないか」という妙な、全く根拠のない自信のようなものがあったのも事実でした。それをこうやって実現できる「場」が、実にいいタイミングで現れたというわけです。
 実際、私の頭の中はずいぶんと活性化して、半分諦めかけていた自分の人生というものに、再び光が差した、そう、ちょうど小学生の頃の自分のように、もしかして自分って…みたいな感覚がよみがえってきたんですね。
 また、単なる脳内の妄想だけでなく、私を取り巻くリアル世界もずいぶん変わってきたんです。とにかく、このブログを通じて、多くの方々とつながることができた。絶対に出会うことのなかったであろう方々と、ありがたい御縁で結ばれることになった。これは実に大きなことでした。
 私の分身である私の「言葉」が、ネット社会の気脈に乗っかって、世界中に拡散、いや言葉は「コト」であり情報ですから、拡散して希薄になっていくわけではありませんね、増殖して行ったんですよ。それを偶然、あるいは必然的にとらえてくださった方が本当にたくさんいらして、そして、実際につながった。やはり、言葉はメディアなんですね。媒介するものなんです。
 あと、ブログというメディアが私に適していたのは、「無責任」「いいかげん」が許されるという点です。インターネット世界自体が、そういう「モノ」性を帯びた、メタ・ネイチャーであると思うんですが、私のある種の「物の怪」性が、そこに実にマッチしていたということですね。
 先ほど「何を書こう、どう書こう」とか格好つけて書きましたが、実は何も考えずに、構想もなしに、毎日書き始めているんです。そうすると、どんどん勝手に筆が進む(実際は筆ではなくキーボードですが)。今もそうです。で、これこそが「物語」の本質であると思うんですね。「モノ」を「カタル」という行為は、まさにこれです。そういう意味では、このブログはプチ霊界物語なのです。私自身が、どこかの世界とこの世界との媒介役になっているのかもしれませんね。その証拠と言ってはなんですが、今まで書いてきた2000近い文章の内容、実はほとんど覚えていません(笑)。単にいいかげんなだけかもしれませんが。まさに無責任野郎、ハッタリ王の面目躍如ですな。ははは。
 と、そんなわけで、私の無責任なハッタリ物語を読んでくださる方々に、心から感謝申し上げながら、とりあえず小学生並みを目指して、まずはあと1年間頑張ってみます。よろしくお願いいたします。そうこうしてる内に、100万アクセスにも到達しそうですね。そしたら、また考えます。
 断筆とりやめ!断筆っていう言葉には憧れはありますが、まだそういうレベルではありませんし。精進します。

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2009.05.01

夏用帽子2点

2 日は卒業生に大いにお世話になりましたが、今日は今日でたくさんの卒業生が学校に遊びに来ました。ゴールデンウィークが始まり、皆地元に帰ってきてるんですね。
 いろいろな大学でいろいろな生活をエンジョイしている先輩に触れることは、現役の高校生にとって最高の刺激になります。卒業生たちも、自分が現役の時憧れた先輩のようになれたことを楽しんでいます。それぞれの土地のお土産を持ってくるのが一つのならわしになっているというか、お土産を現役たちに配って、「ありがとうございます!」って言われること自体が楽しみや憧れになっているんですよね。おかげで、先生たちはたくさんのおいしい食べ物にありつけるわけです(笑)。なかなかいい伝統ができたぞ。
 今年の春卒業させた(元)ギャルたちも数人帰ってきて、久々の再会。みんなそれなりにステキな女子大生になってて、ちょっと嬉しいような恥ずかしいような。でも、しゃべると昔のまんまで懐かしい。それにしても、東女と京女と慶應かよ!ステキすぎる。ぜひ合コンを企画してもらいたいっす(笑)。
 そうそう、最近の卒業生は今から4年以上前に卒業した生徒ですと、私のこのステキなスキンヘッド姿を見たことないのもいるわけでして、その反応が案外面白い。ちょっと嬉しいような恥ずかしいような…じゃなくて、えっ?どうしたの?マジで出家したの?と、どちらかというと心配そうな顔をするんですね。大笑いっていうことはあんまりない。もっと盛り上がるかと思えば、案外そうでもないんで、ちょっと残念だったりして。せっかく体を張ったネタを提供してるのに(笑)。
 ま、確かにこれも「髪型」の一種に過ぎないわけですからね。人が髪型を変えた時って、「えっ?どうしたの?」ってまず聞くじゃないですか。それで次には「似合うじゃん」とか「なんかさっぱりしたね」って言いますよね。つまり、まずは「心配」するわけです。髪型が大きく変るというのは、だいたい短くなった時、すなわち髪を切った時ですよね。突然伸びるものではありませんから。そうすると、やっぱり、心の中の何かを「切り捨てた」と思われるわけですよ。「髪は女の命」ですから。ま、私は男ですけど。
 で、これは私の体験なので一般性があるかどうか分かりませんが、だいたい誰かの髪が突如短くなるとですね、心配すると同時に、ちょっとドキッとするものです。あるいは心配してるふりをして、実はちょっとときめいていたりするものです(笑)。そういう意味では、特に女性の場合、断髪というのは大きな武器だと思います。ま、単にこれは私の趣味の問題かもしれませんが。ロングのお好きな御仁にはこの理論は通用しないか。
 では、私のスキンヘッドはどうかというと、これは究極兵器ということになりますね。案外久々に会った女性たちをドキッとさせてたりして(笑)。いや、実は自分でもちょっとドキッとしたんですよ。なぜなら、生まれて初めて露出した…いやいや生まれた時は露出していたか…私の頭頂部は見事な富士山型をしていたんですよ。きれいに尖っていた。それがけっこうカッコよかったんです。
 なんか私、生まれてくる時、参道…じゃくて産道をうまくくぐり抜けられなくて、お医者さんがなんらかの器具で私の頭頂部をはさんで引っ張り出したんだそうで、たぶんその時、この見事な富士山が形成されたのでしょう。いやあ、人生何が幸いするかわかりませんね。
 おっと、今日は私の頭の形の話じゃなかった。帽子の話だ。
 昨年の春に、春用帽子2点という記事を書きました。今度は夏用の帽子を二つ買ったので、それを紹介します。
 まずは今までもいろいろなタイプを愛用してきたハンチング。今回のは実に涼しそうです。冒頭の写真がそれです。写真だとわかりにくいと思いますが、実はこれ特殊な紙で出来てるんですよ。紙で織り上げてある。ちょっと珍しいでしょ。これは実に風通しもよく、また風合いや肌触りもよい優れものです。さっそく気に入って職場にもかぶって行ってます。
1 続きましてはこちら。これはちょっと憧れてたんです。最近の若者って、夏でもニット帽かぶってるじゃないですか。あれって暑くないのかなあ?でも、ちょっとカッコいいな、って思ってたんですよ。で、調べたらいいのがあったので買ってみました。
 一見暑そうでしょ。でも、実はヒンヤリ涼しいんですよ。なんでも、クールマックスという新素材を使っているそうでして、うたい文句によれば、「綿素材の5倍の速さで汗を吸収、蒸散し、体の快適な湿度を保持し、体温を下げるという新素材」とのこと。たしかにヒンヤリして気持ちいいですね。夏にこうして耳を隠せるのはいいですよ。私の耳、かなり外に張り出しているので、普通の帽子だとけっこう日焼けしちゃうんですよ。
 と、ちょっとオシャレな帽子を二つ買ってみましたが、服装の方は相変わらず洒落っ気のない野暮なまんまですので、これからはちょっとそっちの方にも気を遣ってみようかな。この歳になって、オシャレに目覚めたりして(笑)。

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 こちちのピン・ヘッドというお店、対応もとっても速く、また、送られてきた商品に手書きのメッセージなんかが添えられてて、とっても好印象を持ちました。こういうちょっとしたことが、教師業にも大切なんだよなあ…。最近その辺かなり手抜きだったんで、反省しました。

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