「カタ破り」と「カタ無し」
今日は朝から東京。5月17日のハイドンの練習に久々に参加しました。6時間近くたっぷりハイドンに浸り、その天才ぶりを再発見。
指揮者の坂本徹さんのおっしゃるとおり、ハイドンはいきなり驚くようなことをやらかす。おやじギャグ風に言えば、まさに「は〜い、ドン!」という感じで、「は〜い」という予兆はないではないのですが、その「ドン!」があまりに予想外で、演奏する方もとまどってしまいます(ほとんど初見でしたので…)。
かと思うと、コテコテに基本に忠実というか、古典的(ハイドンにとって伝統的という意味)な手法も多々使われていて、まさに統一と変化、予想通りと予想外、ワタクシ的に申しますところの、「コト」と「モノ」のバランスが絶妙です。
これが統一と予想通りと「コト」に終始していれば、凡庸な作曲家で終わっていたでしょう。そうそう、先々週、先週とで放送されたSONGSの松任谷由実もハイドンみたいでした。歴史に名を残す天才の仕事ぶりは、やっぱり似ています。
さて、練習が終わって、私は東京芸大に向かいました。芸大卒の教え子と合流するためです。彼女は今、能楽師の卵として頑張っています。今月末にちょっと協力を願って、能楽を高校生に紹介するイベントを企画しているところなんです。
いろいろ話をしている中、彼女の友人の画家の卵さんが師匠に言われたという言葉が心にピンと来ましたので、ネタにさせていただきます。
「型破りはいいが、形なしはダメだ」
ふむふむ。なるほど。
「カタ」という言葉は、私の「モノ・コト論」の中では、「コト」と同源とされ、人間の意識下における認識の結果、あるいは認識のための方便のことを指します。もちろん、「語る」や「固む」、「片付く」「かたす」などの動詞もそれに端を発します。
つまり、簡単に言いますと、「カタ」というのは容れ物なんですね。ほら、記号論的物言いをする時、よく出てくるじゃないですか。混沌とした世の中を、「コトバ」という容れ物を使って整理していくみたいな言い方。境界線を引いて行くというような。その「認識」「概念化」こそが、「カタにはめる」行為です。
それで、今日も能楽師の卵と話したんですけどね、本当の芸術は、容れ物がちゃんとあるんだけれども、そこからどんどん溢れ出てきてしまうものなんです。溢れ出なきゃダメなんです。
言葉もそうです。我々は、日常生活においては、いろいろと面倒なので、かなり妥協してですね、実世界や我々の感情というモノを、かなり抽象的に扱っています。それでコト足りるように、社会をシステム化してきたからです。
でも、時々モノ足りなくなりませんか?たとえば、「楽しかった」とか「悲しい」とか日記に書いてみて、とてもそんな言葉では表現し尽くせない、そんな容れ物には入り切らない何かが溢れ出てきてしまうことありますよね。
そういう、カタを破って溢れ出てしまうモノこそ芸術の種子なのです。私が時々「コトを極めてモノに帰る」みたいなことを言うのもそういう意味なんです。モノは生命力と言い換えてもいい。コトは死体、死骸です。養老孟司さんの言う「イカとスルメ」ですね。
我々が使う認識や表現の方便、たとえば言葉や学問や法律など、私たち人類が発明して来た「コト」「カタ」は、生きていて無常であり転変する「モノ」を殺して永遠化するためのものでした。しかし、そのカタという牢獄を破って飛び出してしまう、そんなエネルギーを持った何かも存在します。そんな溢れ出す「モノ」を持った何かが、優れた音楽や詩や肉体表現になっていくんですね。
ですから、もうお分かりと思いますが、最初から「カタ」がなくて、容れ物も作らないで、ただメチャクチャに為したものは、芸術にならないんです。「カタ無し」では、お話にもなりません。まずは、ちゃんと「カタ」を学んで、そこに思いっきり詰め込んでみて、それでも溢れ出るモノがあるのか。それはやってみないと分かりません。自分が天才なのか、歴史に名を残す芸術家なのかは、「カタ」を知り、「カタ」を極めてみないと分からないのです。
帰宅してテレビをつけましたら、日曜美術館で「妙心寺展」の紹介をやっていました。ここには「型破り」が、それこそ溢れ出るほどたくさんありましたね。海北友松や狩野山雪の作品には、敗者としての怨念や哀しみが、見事に溢れ出ていました。「カタ」として上手いとか下手とか、そういう次元ではありません。絵という器や、様式や常識という容れ物から完全に逸脱した「モノ」でありました。
後半に紹介された白隠の禅画も象徴的でしたね。特に達磨図。若い頃はいかに写実的に描くか、つまり「コト」化することに執心していた白隠。しかし、「表現し切れないものがある」と自らが記したように、上手に描こうとすればするほど、達磨は死んで行く。そして、晩年到達したの境地がこのような「型破り」な達磨図でした。溢れ出すモノを溢れ出すままにしておく。そこに、確かな禅の境地があったのです。
禅の世界では形式を特に重んじます。修行においては、同じ動作をひたすら正しく繰り返します。また、例えば公案などをもって、言葉の無意味性と徹底的に戦います。そうした「カタ」「コト」を極める行為の末に、「モノ」の真理に近づけるというわけです。
これは宗教、芸術のみならず、いろいろなものにあてはめることができますね。スポーツもそうです。イチローや長嶋や王の例を挙げるまでもありません。私の関わっている教育もそうです。校則や教科書で生徒を型にはめることが仕事です。しかし、それを突き破って成長して行く、そういう生徒を育てなければなりません。生徒に媚びた「カタ無し」のやり方は、これは教育ではありませんね。
私自身もまだまだ「カタ」「コト」を極めていません。もっともっと先人の残した型や言葉や仕事を学ばなければなりませんね。この歳になって、そのことに気付くなんて。若かりし頃はそんな「カタ」に反発することばかり考えていました。まあ、それもまた必要なことだったのでしょうが。
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