« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009.04.30

能楽ワークショップ(能デビュー!?)

090430 日は大きなイベントがありました。私の勤務する学校で、卒業生による能楽ワークショップが行われたのです。私は僭越ながら司会進行を勤めさせていただきました。
 講師を担当した教え子は、はっきり申してワタクシにそそのかされて、その世界に入った者です。私の出た大学を卒業したのち、東京芸大に入り直しまして、そして、はっきり申してワタクシの予想以上に頑張ってくれまして、厳しい世界でプロとしてやっていく覚悟を決めてくれました。現在、無形文化財である某氏の内弟子となり、稽古を重ねております。
 そんな教え子が母校でワークショップを開き、私がそれをフォローする役をさせていただく…こんな幸せなことはありません。最近、ホント多いんですよね。社会に出て活躍している卒業生にいろいろ教わることが。
 これは教師の喜びですね。どんどん先生が増えていくわけですからね。
 さて、今日の講座ですが、なにしろ能なんて全然知らない高校生500人以上を対象とするわけですから、これは大変です。ただ、一曲舞って見てもらってもどうしようもありません。正直寝てしまう。ですから、演出が大切なんですね。まあ、そういう一見つまらなさそうなものを、あるいはそういう先入観を持ってしまっているものを、楽しく見せる、魅せるのは私の仕事です(笑)。
 まあ、普段からそういうことばかりしてますからね。私の授業は正直エンターテインメントですし、このブログもまあ、日常の些事をいかにそれらしく書くかが勝負ですからね。自分の視点というのが、常にそういう感じなんですよ。
 ですから、能なんか(脳軟化って変換されちゃった…笑)は、まあ得意分野です。私自身が能の面白みを、その現代性に見ていますから。高校生の好きないろいろな分野と重ねて解説できます。
 ある程度そういうことが功を奏したんでしょうかね。おかげさまで、1時間以上生徒たちはかなり集中してくれました。もちろん、演者の方々の素晴らしい謡いと仕舞、そして貴重な面(おもて)などがあってのことです。
 今日は全くの入門編でしたから、本当の「能」の一端に触れただけですけれど、何事も導入が大切です。そういう意味では充分な成果があったのではないでしょうか。私もこれだけ身近に舞や謡を体験するのは初めてです。大変勉強になりました。
 ちなみに、ワタクシごとですが、今回、恐れ多くも能デビューを果たしてしまいました。上の写真で右端に座っているのは、実はワタクシでございます。坊さん役ではありません(笑)。富士山にもゆかりの深い「小袖曽我」での母親役であります。まあ、5分ほど動かずそこにいるだけのことですが(笑)。
 しっかし、実際やってみまして驚きましたよ。ただ、あの姿勢で座っているだけで、見事に足をつりました(笑)。美しい姿勢を保つのは本当に難しい。はっきり言ってなめてました。場合によってはツレはああやって同じ姿勢を1時間も保っていなければなりません。これはさすがにハッタリではどうにもなりませんね。日々の心身の稽古が絶対に必要です。恐れ入りました。
 まあ、このような貴重な経験をさせていただき、ますます能に対する興味がわいてまいりました。近々彼女らの師匠の舞台も拝見できそうです。楽しみですね。
 能におけるカタのあり方や、様式美、記号性、そして反復と一回性、また、呼吸と空間、時間との関係などなど、本当に興味をそそります。そして、最近読み直してビンビン感じまくっている「花伝書」。これからの人生のヒントの宝庫であるような予感がしています。
 このような機会を与えてくれた教え子と、そしてそれを快く許してくださったお師匠様、また協力してくだった教え子と同期のTくん、本当にありがとうございました。次もまた楽しみです。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.29

お寺のコンサート〜宴会(縁会)

↓妙にしっくり。ご本尊とチェンバロと渡辺さん。
Uni_2449 回で4回目となる、富士吉田吉祥寺での渡辺敏晴さんのコンサート。お寺でチェンバロという珍しい演奏会です。
 今までは私もヴァイオリンで協力させていただきましたが、今回は完全にお客さんとして、しっかり堪能させていただきました。
 まずは住職のお話と座禅から。東洋とか西洋とか、仏教とかキリスト教とか、いろいろな壁や境目をとっぱらって、心を無にして、こだわりを捨てて音楽を聴きましょう。うん、まったくその通りです。私も最近ようやく自分のこだわりや偏見を捨てることができるようになってきました。
 しかし、これもまた、いつも言うように、ある意味こだわってきたから到達できた境地とも言えます。「コトをきわめてモノに還る」。いろいろな器から溢れ出して、いつのまにか元の自然に還る。気持ちいいですね。
 そういう気持ちになって聴く音楽はまた最高でした。いつものように渡辺さんは、イタリアン・チェンバロだけでなく、和楽器である胡弓も演奏。また、自らの歌による弾き語りもあり、いつものように変化に富んだ楽しい演奏会です。
 曲目も面白いですね。フランスやイギリスのバロック音楽はもちろん、日本民謡や、現代の音楽、そして渡辺さんのオリジナルまで。オリジナル良かったなあ。竹久夢二の詩にシンプルだけれども深みのあるメロディーと和声を施し、ステキな小品に仕上げていました。やっぱり日本語の歌はいいなあ。
 さてさて、コンサート終了後は、演奏者の渡辺さんと、その弟さんで声楽家の渡辺さん、そして、吉祥寺住職の渡辺さん、三人の渡辺さんと我が家で宴会を催しました。これがまた濃い濃い。マニアックすぎて、普通の人はついてこれないだろうなあ(笑)。考えてみると、音楽家の渡辺さんご兄弟もお寺のご子息なんですよね。ま、見た目は私が一番坊さんっぽいんですが。
 まずは、我が家のお宝「耀わん」の気をたっぷりいただいてから呑み始めました(住職は禁酒の行)。禅、仏教、書、音楽、霊、酒、気…話はどんどん広がっていくのですが、到達するところは実は一つだったりして。その拡散しながら収斂していく、そして循環していく、まるで宇宙の仕組みを見るような話の連続に、なんとなく皆興奮気味。眠気も忘れて語りました。
 それにしても、三人の渡辺さん、まったくすごい人生を歩んでいらっしゃいますね。私なんかとても足元にも及ばない。多いに刺激を受けましたよ。
 ある意味、全く違った場所で全く違った人生を歩んできた者どうしが、こうして富士山で出会って語り合う。全く縁というのは不思議なものです。宴会ならぬ縁会だなあと、つくづく思った次第です。
 これもまた、お互いに何かにこだわってやってきたからでしょうね。そして、こだわったコトが縁を生み、こだわりを超えた広がりを生む。そしてまた溶け合ってモノに還っていくんでしょうか。なにか、今日のコンサートと縁会で、そういう永遠なる変化と循環のイメージが頭に浮かびました。
 皆さん、ありがとうございました。
 これからももっとたくさんの方々と「縁会」楽しんで行きたいと思います。まだ見ぬ縁者の皆さん、積極的にアプローチしてきてください。受け入れ態勢は整っていますので(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.28

『爆笑問題のニッポンの教養 「シンプル最高/再考 ~原研哉(デザイン思想)」』(NHK)

20090428_1 ろいろな意味でタイミングのいい番組でした。
 つい最近、武蔵野美術大学に入学したばかりの教え子とデザインの話をじっくりしたばかりでしたし、記事的にはサウンド・オブ・サイレンスの記事の中で「色即是空・空即是色」について書いたばかりでした。
 原研哉さんの文章については、2月に東大の問題の記事でとりあげていました。そして、なんと言っても、今日ちょうど能楽師野村四郎さんのインタビューを読んだばかりだったので、番組の「空」とか「間」とか、そういうキーワードが実にしっくり解りました。
 原さんの言うことと、野村さんの言うことと、あまりにも同じなのでビックリ。たとえば、あの香水の箱の傾きというか、歪みというか、ズレは、能の「スレ」そのものですね。ちょっとはずすと野暮になってしまう危険もある微妙なスウィング。
 シンプル、エンプティー。複雑なものを通って簡素なものに到達する。そして、その「空」「間」こそ、無限の可能性を秘めている。何もないはなんでもあり。まさに「色即是空・空即是色」です。ワタクシ流に申せば、「コト」を極めて「モノ」に至るということでしょうか。
 「当たり前を新しく」。これもある意味「空即是色」ですね。無意識を意識に変換するわけですから。なるほど、原さんが言うように、アートとデザインは似て非なるものどうしですね。アートは「自分の頭で考えろ」ですが、デザインは「他人の頭で考えろ」か。ふむふむ。
 いつも書いているように、「コト」化していくことは、対象を殺すことです。生命力を奪って固定していく行為です。しかし、そこからはみ出して、また蠢き出すのが、「ホンモノ」です。私たちには「コト」化という本能があり、世の中のカオス(モノ)をサブミットして、随意な「コト」に変換して、器や箱に整理して、そして安心を得ようとします。たとえば言語化や習慣化や常識化がそれですね。
20090428_guest そこには安心はあるかもしれませんが、創造性はありません。原さんの言うデザインは、そこに生命の種を再び植え付ける行為なんでしょうね。もう一度芽吹かせるわけです。その効果的な方法として、シンプルとかエンプティーを使うのは、たしかに日本独自の手法でしょう。
 なるほど、貴族的な豪奢な美を極めて、戦乱というカオスを経て、そして至った「簡素の美」「禅味」「幽玄」「空」「雅」「渋味」「粋」。それは実に高度な領域なのかもしれません。
 「秘すれば花なり」…世阿弥。カッコいいなあ。しかし、変態チックでもあるな(笑)。
 私も、こうした日本独自の美意識のようなものを、もっと世界に広めるべきだと思いますよ。もっと自信を持っていいでしょう。たしかに、そういうものは現代の経済至上主義、商業主義の中では、なかなか輝けません。しかし、今こういう時代を迎えて、ようやくまた日本的美意識が再評価されるのかもしれませんね。これからは、「空」や「無」や「簡素」や「知足」がファッションになっていってほしいものです。
 先ほど、ウチの娘たちが、何かのごっこ遊びに興じていました。何もないところに、全てを生み出して、そしてそれを共有している様子を見て、これこそ、「空即是色」だなと思いました。こういう子どもの感覚、すなわち、「コト化=仕事」に毒されていない子どもの「モノノケ」性こそ、実は最もクリエイティヴなものなのかもしれません。そういう意味で、原さんはやっぱり大きな子どもなんですよね。素晴らしいことです。
 一度全てを白紙に戻して「モノ」の本質に迫る。原さんのデザインに、そういう可能性を強く感じました。ああ、面白かった。

爆問学問公式

不二草紙に戻る
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.27

焼かりんとう (菓寮 花小路)

Og0000840b え子がお土産に買ってきてくれました。「革命的かりんとうの誕生」…決して大げさではありません。この「かりんとう」はすごい!いや、これはもしかすると「かりんとう」ではないのかもしれない。
 なにしろ、油で揚げてないんですから。「かりんとう」と言えば油菓子。油で揚げるからあの香ばしさが出るわけで、油で揚げてないなんて、そのアイデンティティーに関わるじゃないですか。
 ところが、食してみて驚き。たしかに目隠しして食べたとして、「これなあんだ?」と聞かれれば、やっぱり「かりんとう!」と答えるでしょう。そしてまた、今までの「かりんとう」以上においしい。「かりんとう」を超えた「かりんとう」。
 油のしつこさがない分、黒糖の微妙な甘さや芳香がお口に広がって気持ちいい。そして、焼き菓子特有のあのサクサク感。じとっとした感じが好きな方には物足りないかもしれませんが、私は好きですねえ、この食感。ついついもう一つとなります。えっと、黒糖は沖縄伊江島のものだとか。
Uni_2425 実はこうした非油揚げ系食品がブームなんですよね。油で揚げてないドーナツとか、ポテトチップスとか、唐揚げとか…。油で揚げてない唐揚げってのが一番すごいな。自家撞着(笑)。
 そうそう、今日先日の血液検査の結果が返ってきました。一日一食にしてからもうすぐ丸5年。おかげさまでずいぶんと各数値が改善されております。どうもウチの家系なのか、粗食の割りにはコレステロール値が高いんですけど、最近はその方が長生きするというのが定説になりつつありますから、まあいいとしましょう。ちなみに中年男性が気になる中性脂肪の数値ですが、70台です。理想的な数値ですね。3食食べたら一体どうなるんでしょうか。
Uni_2428 で、そういう飽食の時代に、どうしても油分を摂取しすぎるじゃないですか。ま、つまり食べたいけど太りたくないっていう需要があって、こういう不揚菓子類が増えてきているんでしょう。特に女性でしょうか。スイーツには目がないけれども、ダイエットもしたいという方々たくさんいらっしゃるでしょうね。ですから、こういう商品を開発するということは、ビジネス的にもチャンスだと思いますよ。商品開発の基本は、消費者の欲望を満たすことにあります。女性の相矛盾する大きな欲望を同時に満たすことができれば、それは売れますよ。
 前、「桜えびかりんとう」を紹介しましたね。あれも定期的に食べてます。そこでちょっと思いついたんですけど、油で揚げない「桜えびかりんとう」があったらいいなあ。お酒のおつまみに最高だろうなあ。
 右上の写真は、ウチの黒猫と「かりんとう」です。エサだと思ったのか、メタボの弥右衛門が近寄ってきました。さすがに食べませんでした(笑)。左上の写真は子猫のミーと「かりんとう」です。これは遠近法のせいか、ずいぶんとデカく見えますね。これはちょっと大げさとは言え、案外大きめです。子どもたちにとっては、もう少し小さい方が食べやすいようです。でも、もうちょっと小さくなりますと、猫のウ○コそのものになってしまいますね(笑)。

花寮 花小路 公式

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.26

サイモン&ガーファンクル 『サウンド・オブ・サイレンス』

51um6aycnil_sl500_aa240_ 日、今日と東京でいろいろお勉強。来年度の大仕事の一環です。
 そのついでと言ってはなんですが、途中音楽仲間との初見大会にも参加してきました。今日演奏したのはシャコンヌやタランテラといった、循環バス(グランド・バス)系、すなわち私の好きな「輪廻系」の曲たちでした。
 世界中の民族音楽には、こうした循環系の楽曲が多くあります。最近のヒップホップ系の曲も、こうした循環系ばかりですね。今も昔も大衆音楽の基本はこういったところにあったのでしょう。音楽的構造は単純ですが、そこに与えられる即興的変奏は変化に富み、深みを感じさせます。人間や自然の一日や四季や人生や歴史までもが、このような反復と変化、模倣と創造を繰り返しているからでしょうか。
 充実の時間を過ごして帰宅し、テレビをつけましたら、BS-iの「SONG TO SOUL〜永遠の一曲」で「サウンド・オブ・サイレンス」をやっていました。サイモン&ガーファンクルも、現代に民族音楽をよみがえらせたミュージシャンですね。ま、ほとんどポール・サイモンの才能ですが。
 今日の番組では、この佳曲の三つのヴァージョンにまつわる話を中心に、この曲がいかに画期的であるかが、関係者たちによって語られました。
 私は、あらためて「これは禅問答だな」と思いましたね。見事な公案ですよ。アート・ガーファンクル自身も、ジャケット裏のライナーノーツで「あとは皆さんが考えてください」みたいに言ってますね。まるで老師の言葉です。
 考えてみれば、「サウンド・オブ・サイレンス」というタイトル自体、「色即是空・空即是色」ですよね。「静寂(沈黙)の音」。番組中、訳者の山本安見さんによる解説でもありましたが、次の一節がポイントです。

People talking without speaking
People hearing without listening

 「人々は語ることなく話していた。人々は耳を傾けることもなく聞いていた」ということでしょうか。そう言えば、「語ると話す」についてはこちらに書きましたね。柳田国男です。彼は「ハナシ派」でしたっけ。ポール・サイモンとは仲良くなれそうにないな(笑)。
 この部分、現代のコミュニケーション不全の象徴として解説されることが多いのですが、もしそうだとすると、タイトルも「サイレント・オブ・サウンド」になりそうなものです。「音の虚しさ」みたいな感じで。
 この転回の仕方は、まさに「色即是空・空即是色」のロジック…いやレトリックですね。たしかに無意味な騒音もたくさんありますが、饒舌な沈黙もたくさんあります。意味のありそうな無意味や、無意味そうな意味とか。世の中には前者が充満していますよね。それがヒトとカネを動かしているとも言えます。そんな商業主義に対するレジスタンスとも取れます。
 皮肉なのは、この曲に、彼らの意思を飛び越えて、トム・ウィルソンによって音が加えられて、そうしてヒットしたという事実です。この曲は、ある意味「コト」によって生命を得たとも言えるわけです。いつも言っているように、ホンモノはいろいろな「コト」という器を与えられても、そこから溢れ出るように成長していくものです。「コト」は本来「モノ」の生命を奪う行為ですが、それでも生き続けるのがホンモノというわけです。
 私もこの歳になりますとね、たしかに坂崎さんと同じで、ポール・サイモンのソロ・ヴァージョンがいいなあと感じます。あれが原点なんでしょうね。しかし、そこにいろいろと加えられて、そうして死んでいくのではなく、どんどん力を持っていったというところが、やっぱりすごい、天才の残した名曲だなあ、と思わせました。歴史に残る「シゴト」とは実は「ホンモノ」のことだったのですね。やっぱり「コト」は「モノ」にかなわない。しかし、「コト」をきわめて「モノ」に至る。
 むむむ、この名曲の考案によって、何かが悟れたような気がします(笑)。

Amazon サウンド・オブ・サイレンス(紙ジャケット仕様)

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009.04.25

『永久保存版 木村盛綱が撮った「プロレス50年」』  (別冊宝島 1610)

2 とといの草彅(なぎ)くんの記事に、たまたま登場した秋田県仙北地方。カメラマンの木村盛綱さんも仙北の出身だそうです。アイヌですな。縄文ですな。
 ああ、そうそう、ちょうど最近こういうニュースがありましたっけ。西仙北高校の校長先生に、あの茂木優さんが就任されたとか。東北の白熊と称され、モントリオールオリンピックで活躍されたレスリング界の重鎮です。のちの長州力、すなわち吉田光雄のライバルですね。最強の校長先生ですねえ。ウチの職場の後輩(教え子でもある)がレスリングに縁があり、茂木先生と花火した(!)ことがあるらしいんですけど、なんとも魅力的ないい人だそうです。うむ、アイヌだ。縄文だ。
 私も秋田に縁が出来ましてね、彼の地の男性諸氏と接する機会がいろいろと増えましたけど、皆「気は優しくて力持ち」っていう感じなんですよね。普段、とっても柔和でおっとりしているんですが、いざという時には熊と戦って勝っちゃう。そんな感じです。
 で、このカメラマン木村盛綱さんも、そういう方なんでしょう。力道山やジャイアント馬場やデストロイヤーに可愛がられ、他のレスラーたちからも一目も二目も置かれていたと言います。そんな木村さんのお人柄と、レスラーたちの木村さんへの思いが、この本には溢れています。
 これはお世辞抜きに「永久保存版」ですよ。なんか、一枚一枚見ていたら、涙が出てきました。この涙にはいろんな意味があると思いますよ。いろんな味がしました。
 古き良き時代を懐かしむということももちろんあります。自分の今までの人生(50年には及びませんが)を振り返って感慨に浸ったとも言えます。そして、プロレス的モノノケ世界、すなわち神話世界、物語世界が消えてしまったことに対する哀しみもあるでしょう。もちろん、木村さん自身に対する尊敬や感動の涙もありました。
 それにしても、なんでこんなに「絵になる」んでしょうね、昔のレスラーたちは。体の輪郭だけでなく、全体の佇まいというか、発しているオーラが、今のレスラーたちと全く違う。日本人も外人も。
 これはレスラー側、プロレス界側の問題ではないのでしょう。やはり、私たち見る側の「夢」がなくなったからでしょう。あの頃は、私たちの「夢」が、彼らをどんどん物の怪に成長させて行ったのです。格闘技界に限らず、今の世の中は「リアル」な勝ち負けだけ。実に味気ないデジタルな世界です。
 もう、こういう愚痴は何度も何度も書いてきたので、今日はやめときましょう。ただ、今回そうした時代の変化のきっかけについて、ちょっと気付いたことがあったので書いておきます。
 この貴重な写真集によって、プロレス黄金の50年を復習しましてね、どこから、そして誰からそうした変化が見られるようになったのか考えてみましたら、ジャンボ鶴田がそれではないかと気づいたんですね。
 私は大の鶴田ファンであり、鶴田最強伝説を信じる者なんですけど、実は彼にちょっとした違和感を抱いているのも確かです。彼はそれこそ物の怪的な体躯と、怪物的なスタミナを持った優れたプロレスラーです。しかし、この本でも紹介されているとおり、その日常生活はある意味プロレス的ではなく、一般人的でした。「就職」発言からしてそうですね。
 そういう一般人的な風情が、リング上にも現れていました。そこに私も正直物足りなさを感じていましたし、たとえば天龍なんかもかなり腹を立てていたわけでしょう。もちろん、それだからこそ、そこに「もし鶴田が本気を出したら」とか「もし鶴田がプロレス的生き方をしていたら」とか「もし鶴田が総合をやっていたら」などという「伝説」や「物語」が生まれるわけですね。そういう意味での「夢」を、彼は残しましたが。ま、時々本気になってましたからね。物の怪の片鱗を、それこそ天龍なんかに引き出されて、「もし」の先の世界を垣間見せてくれましたっけ。そのチラ見せなん感じ、デレツン(?)な感じが、彼の魅力なんですけどね。
 そして、UWFの存在ですね。Uが目指したものは、物の怪的、見世物小屋的なものではありませんでした。よりスポーツライクなもの、ある種のリアルなものでした。そこから総合格闘技へのラインが生まれ、今に至るわけですね。
 私の理想のプロレスは、いつも書いているとおり、それら全てを総合、包含し、それでもまだまだ器から溢れ出すような、そういうものです。細分化されたものではなく、もっとダイナミックなものです。これは実はプロレスだけでなく、音楽その他の芸術でも同じことが言えるんですけどね。そういう意味では、いわゆる「71年体制」は絶妙だったのかもしれません。戦いという「場」における最小単位は「2」です。全てが完全に総合されて「1」になっては、そこに戦いは存在しません。一方、それが今みたいに「無数」に細分化されてしまっては、完全に生命力を失ってしまいます。今は、その無数が、みんな仲良くですからね。戦いじゃありませんよ。
 そういう意味で、巻末にある椎名誠と夢枕獏のドリーム対談は興味深い。夢を失いつつあった時に、二人は違う方向に進みました。椎名さんはある種の諦めの境地に至り、夢枕さんは自分をだましてまで「リアル」の消費に走った。いずれにしても、ちょっと寂しさを感じましたね。私たちもその二つの選択肢しか持たなかったわけですから。
 と、いろいろ書いてしまいましたけど、そんなことより、何より木村さんの写真が素晴らしいということを最後にもう一度申し上げておきましょう。このお値段でこのクオリティー。プロレスファンなら必携でしょう。

Amazon 木村盛綱が撮った「プロレス50年」

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.24

草彅(なぎ)剛くんと二・二六事件

27 の続きです。過激すぎて(?)書けなかったことを、今日は書いてしまいます。もちろん、これは私の紡ぐ物語であり、なんの意味もないと言えばなんの意味もありませんので、あしからず。
 まあ、例によって、半分まじめで半分ふまじめなんてす。私はそのスタンスがとっても大切だと思うんですよ。二元的、二分法的な思考からは何も生まれませんから。デジタルは「殺す」行為です(地デジも…笑)。
 さて、世間を大騒ぎに導いた「草彅剛事件」ですが、彼が騒いだ…いや、縄文の祈りを捧げた場所「檜町公園」のことをご存知でしょうか。
 東京ミッドタウンに隣接する近代的な公園ですね。私も一度行ったことがありますが、再整備されまして、とっても清潔なオシャレな公園となっています。
 この公園付近、実は歴史的に見てとんでもない霊的な場所なんです。そう、二・二六事件の決起場所の一つなんですよね。
 ご存知のように、東京ミッドタウンは旧防衛庁跡地に再開発されました。旧防衛庁跡地と言ってしまえばそれまでですが、実はその歴史は江戸時代までさかのぼります(実際は旧石器時代の遺物もたくさん出ていますけど)。
 江戸時代、赤坂檜町には長州藩毛利家の屋敷がありました。当時は檜がたくさんあったそうで、それで檜屋敷と呼ばれていたとのことです。幕末、長州討伐の際、幕府に接収され、のち明治維新で政府のものとなりました。そして、明治4年に軍有地になり、陸軍歩兵第一連隊が置かれることになります。
Rebel_troops_in_february_26_inciden そして、昭和11年(1936年)、ここを舞台にあの事件が始まります。二・二六事件です。
 ここ檜町駐屯地の第一歩兵連隊からは、クーデターに必要な多くの武器が供給されました。その日週番司令であった山口一太郎大尉は、青年将校たちに基本同情的であり、武器の持ち出しを黙認したのです。
 二・二六事件の目的や背景は、単純に「君側の奸」を排し、天皇親政を復活させるということでは表現し切れません。
 以前読んだ『神々の軍隊 三島由紀夫、あるいは国際金融資本の闇』にもあったように、そこにはまさに縄文以来紡がれ続けてきた「縦糸」の存在があったを忘れるわけにはいきません。
 その縦糸に今、草彅剛くんがつながったということですね(笑)。腐った総務省へ天誅を下すために、彼はあの場に導かれ、英霊たちと交信したのでしょうか。
 「クサナギ」の剣は、スサノオの尊が退治した八岐大蛇のしっぽから出てきた剣で、天叢雲剣とも言われますね。「アメノムラクモ」命という神が元伊勢伝承や度会氏の伝承につながるところから、出口なおや王仁三郎への流れも感じられます。このへんについては、私独特の解釈があるにはあるんですけど、今日は割愛します。マニアックすぎるので。
 いずれにせよ、今回の一件は単なる芸能人による泥酔顰蹙事件として片づけるわけにはいきません。彼が韓国との架け橋となっていることも、あることを象徴しているかもしれません。
 「縦糸(経糸)」の地下伏流は、こうして時々地表に噴出するんですよね。霊的な磁場(ポイント)で。ま、こんなふうに今回の「四・二三事件」を見ている人もいないと思いますけど(笑)。私は、半分おふざけ、半分まじめです。
 今回もまた、官憲の手によって、事件は鎮圧されました。鳩山さんに言わせれば、まさに「絶対許さない」不逞の輩、不祥の事件だったのでしょう。歴史は繰り返す…かな?

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009.04.23

GJ!草彅剛(くさなぎつよし)くん!!

090423kuisanagi01_4 「だったら何が悪い!」…草彅剛。「めちゃくちゃな怒りを感じる」「最低の人間だ」…鳩山邦夫総務相。「GJ!」…蘊恥庵庵主。「これでいいのだ!」…バカボンのパパ。
 さすがに騒ぎすぎでしょう。天才バカボンを毎日観ている私たちからしますと、えっ?これが犯罪なの?なんでみんな笑って許せないの?と思ってしまいます。
 だいいち、みんな草彅くんの裸だったら見たいでしょう(笑)。私が同じことをやったら逮捕されて然るべきです。迷惑だからです。
 ちなみに、全国学力テストの実施日を一日間違えた鹿児島の小学校もGJ!です。まさに中央にまつろわぬ薩摩隼人。熊襲。土蜘蛛。よくやってくれました。立派です。とりあえず同業者から言わせていただきますと、「私ならとてもできない」。
 ああそうそう、「草彅氏」って秋田なんですよね。仙北地方に多い名前です。おぼない節で有名な生保内に国指定の重要文化財「草彅家住宅」があります。こっちは蝦夷だな。
 ちなみに縄文文化では、草原に全裸であぐらをかき、大声でアイヌ語を叫ぶ儀式があります。今回も、飲酒による泥酔のために、彼のDNAが騒ぎ出したのでしょう。赤坂という現代日本の象徴のような場所でこの儀式が行われたことに、ある種の感動を覚えます。あの人工的な空間の中で一人自然に還り、誤った方向に突っ走る日本に警告を送ったのです。
 そして、私が今回、草彅くんGJ!と言った最大の理由は、鳩山総務相に「めちゃくちゃな怒り」を感じさせたということです。私は総務省に「めちゃくちゃな怒り」を感じていますから。地デジという中央集権的な暴力に、私はこのブログでしつこいほど反発の意を表明してきました。
 ですから、地デジ推進イメージ・キャラに選ばれた草彅くんが、こうして自らの身を挺してゲリラ的活動に出たことに拍手を送ってあげたいと思います。
 ちょっと前にも書いたような気がしますが、私のような者が一人ブログで吠えたところで、地上波デジタルへの移行の動きを止めることはできません。しかし、彼がこうして縄文の呪いをもって総務省に攻撃をしかければ、大きな影響を与えることをできるでしょう。実に立派です。偉い!
 これで国民も気付くでしょう。我々が地デジという国家的暴力にさらされていることを。そして、地デジ化が、戦後最も醜い政策であることを。
 奇しくも、2年後の完全移行が難しいというニュースが流れた直後に、彼の祈りが始まりましたね。草彅くんは、まさにイエス・キリストになったのでした。東北のイエス。
 マスコミもひどいですね。本当にどうかしていますよ、ニッポン。自分たちのことは棚に上げて、人をみんなで責めることで、集団的安心を得ようとする。それも半分は興味本位です。自分たちで考えていますか?こういう衆愚が一番怖い。
 そして、地デジ移行は昼の12時に、との発表。白昼公然暴力ですよ。それにしても、鳩山総務相の発言、あれはまずいでしょう。国家が一個人に対して、ああいうことを言っていいのでしょうか。完全に逆効果ですね。自爆乙!
 …と、報道や世論があまりに目に余るので、こうして極端に書かせていただきました。どうぞ真意をおくみ取りくださいませ。

草彅(なぎ)剛くんと二・二六事件

不二草紙に戻る

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2009.04.22

『人體問答』 金子尚政 著 田中義兼 閲

 リードル婦人世界など、実に興味深い貴重な書籍を持ってきてくれた生徒が、新しい資料を提供してくれました。これもまた珍しい。
Uni_2407_2

 まずは奥付を見てみましょう。
Uni_2412
 明治10年の発行ですね。明治4年に文部省が設置され、欧米の教育法が導入され、5年に「学制」が制定。8年に満6歳から14歳の8年間を「学齢」とすることが決定しました。その直後の、師範学校のテキストですね。人体について、小学生にどのように教えればよいか書かれています。

 ちょっと内容を紹介。「鼻」の部分です。3行目の軟骨の説明が面白いですね。牛肉の白いヤツってことですね(笑)。↓click!
Uni_2414

 実は、この本の面白いのは冒頭の口絵です。全部紹介します。天然色(カラー)です。まず最初の一枚。ステキなパンツはいてますね。
Uni_2408_2

 二枚目は後姿。江戸の浮世絵の伝統が感じられる描写です。髪形もステキですね。
Uni_2409_2

 三枚目はガイコツ。腰のひねり具合がキュート。
Uni_2410_2

 四枚目は血管図。さりげなくイチモツが登場。
Uni_2415

 五枚目は内臓図。内臓が全体に上にあるような…。それよりこの表情ステキ過ぎ。つぶらな瞳。
Uni_2416

 そして謎の六枚目。「闘力の図」って、プロレスだなこりゃ。どう見ても、バックを取ってジャーマン・スープレックスを仕掛けようとしているのに対し、足をフックしてこらえようとしていますね、こりゃ。かっこいいぞ。
Uni_2411_2

 ちなみに奥付にある發兌人の「内藤傳右衛門」は、今の山梨日日新聞の基礎を作った、甲府の書店温古堂の書籍商です。山梨ではちょっとした有名人ですね。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.21

『爆笑問題のニッポンの教養 「永久エネルギー誕生!~原亨和(触媒化学)」』(NHK)

20090421_1 日、地熱発電とEDLCという記事で、ちょっと科学者の皆さんを揶揄してしまいましたね。マッチポンプだ!とか言って。
 今日の爆問学問は「永久エネルギー誕生!」ということで、まさにそんなようなお話。原先生、やっぱり私と同世代で、同じような科学教育(洗脳?)を受けてきたようですね。そして今でも少年のまま(笑)。「石油がなくなったらどうしようという不安」…オイル・ショックのトラウマですね。
 そして、先生、「今の生活の水準を保ったまま、生き残る」という「サバイバル・サイエンス」について、熱く語っていたようです。
 …「ようです」と書いたのは、なななんと、この番組10分の1しか観ていないからです。最新のサイエンスは、この番組のほとんど全てをモザイク状にしてくれました。
 この季節になりますとね、ここ富士山では非常に大きな自然の変化があるんです。無数の木々が芽吹きますでしょ。そうしますと、そこを通ってくるUHF波が大きな影響を受けまして、地デジの映りが悪くなるんです。
 ちゃんとアンテナを設置しろよ!とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし、「今の生活の水準を保ったまま」テレビを観たいじゃないですか。ほんとうにすぐそこに送信所があるんですよ。アナログ波の時は、室内アンテナで充分だったんです。だから地デジも室内アンテナで観たいですよね。
 と、最新の科学も、このように自然の複雑さにはとても対応できないわけです。良かれと思って(たぶん)やったデジタル化が、思わぬところで以前の科学(アナログ)以上の不便を生んでしまうことは多々あります。
 まあ、それにしても、「カーボン固体酸」、こりゃすごい発見、発明ですね。水に溶けない硫酸かあ。たしかに少年の私だったら、大興奮でしょう。でも、今やいいおじさんになり、科学に対してある種の虚無主義になり、仏教などをちょいとかじったワタクシからしますと、ううん、ちょっと怖いなあというのが正直なところです。
 考えてみると、「触媒」というものは、人間の欲望の象徴のようなものです。自然の化学反応の速度を加速する。いわば時間を操ることですから。それは「もののあはれ」、すなわち自然が思いどおりにならないことを認めない行為の、最も顕著な形ですから。
 化学的な触媒に限らず、あらゆるテクノロジーは触媒的な性質を持ち、触媒的にふるまっているとも言えますね。全ての科学は、時間の短縮か、逆に伸長のために発達してきたとも言えるのです。
 ま、私が原先生の立場でしたら、人間の脳ミソに働く触媒を開発しますね(笑)。知足を促す触媒。不安は執心から生まれますから、そういう執着を溶解する触媒。そんなに急がないで、ゆっくり歩んでいくための触媒。うん、結局、反応速度を落とす触媒ってことなのかな。そんなに焦らないでって。
 欲望の反応速度を落とす触媒かなんかを、テポドンかなんかに積んで、アメリカに落としてもらいましょうかね(すみません、不謹慎で)。
 いや、冗談抜きで、戦争の火種は全てエネルギー問題ですからね。縄張り争いって結局そうでしょ。土地や人民はエネルギー源です。
 先ほど書いたように、しっかり観てないし聞いてないんですけど、まあ、原先生は仏教的には悟りからほど遠いなと思いました。ちょっとキリスト教的な焦燥感というか、ある種の終末観というか、そんなものすら感じてしまいました。
 とりあえず、硫酸は水に溶けていいと思います(笑)。

爆問学問公式

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.04.20

カー・コンピューター・パッド (車内用簡易テーブル)

Uni_2402 れから、仕事やら趣味やらで、東京へ泊まりがけで行くことが多くなります。車で行って、車に泊まって、車で帰ってくるというパターンですね。え?車で寝るの?と思われる方も多いと思いますが、毎度知らない町を気兼ねなく散策しながら楽しむには、これが一番です。夏は暑くてかないませんけど。
 で、そんな時のために一つグッズを買いました。ちょっとしたテーブルです。ハンドルに引っかけて使うヤツです。
 送料込みで1080円という怪しい商品でしたから、あんまり期待していなかったんですが、まあ普通にコンビニ弁当食べたりするには充分でしょう。ただ、10キロまで耐えられるなんて書いてありますが、絶対ムリです。
 しかし、そういう実用性以上に元を取れたなって思わせてくれたのが、その箱です!
 まあ、だいたい中国製品のパッケージとか取説とかって、とってもVOWなことになってるものですが、これは久々に高度というか、やるな!と思わせる内容だったので紹介します。
 まず、上の写真です。この製品のアイデンティティーにも関わることです。コンピューターパッドと銘打っているだけあって、たしかにPCが乗っかってますね。ああ、こうしてノートパソコンも使えるのかと、つい思ってしまいますね。でも、よ〜く見てみますと、このPC妙に小さくないですか?隣に写っている懐かしいシェイプのケータイと比べてみましょう。いったいどこの製品でしょう。最近は小型低価格ノートパソコンがはやってますけど、この時代にこんなコンパクトな製品があったなんて。ちょっと欲しいぞ(笑)。
1 ちなみに、ウチのMacBookはかろうじて乗っかりましたが、とてもタイピングできる状況ではありませんでした。あと、表面はすべり止め加工って書いてありますけど、思いっきりすべります。それから、左にあるペットボトルを立てるためとおぼしき穴は、浅すぎて実用性があんまりありません。500mlまでOKなんて…実際置くと重みで傾きます(笑)。
 さて、続きまして、箱側面を見てもらいましょう。もう説明はいりませんね。「テーブル」が縦書きになって、こういうことになってます(笑)。まあ、たしかに外国語の、こういう微妙な事情は、私たちも分かりませんよね。でも、なんか新鮮。よく先方が間違える「ン」と「ソ」については、ちゃんと区別できてますね。感心、感心。
↓click!
Uni_2403 しかし!盲点がありました。裏面の説明書きです。特長の3行目の最後はフォントが重なってしまった事故でしょう。これはまあいいとして、5行目ですね。なんと言っても圧巻なのは。
 「ボトル」の「ボ」、これどう見ても「木」に濁点が付いてます。すぐあとの「ホルダー」も「木ルダー」になっている。ううむ、漢字の国らしからぬ、いや、らしい間違いなのか!?漢字に濁点を付けるとは…やるな。よく子どもの頃とか、ふざけて漢字に濁点をつけたりしてましたが、こうして活字で見るのは案外初めてかも。よく頑張りました。
Uni_2405 ←click!続いて、英語による説明です。いきなり不思議な英語になっています。全体に文法を無視した素晴らしい英作文ですね。意味あり気に途中で終わってる文もあるし(笑)。Feature の最後、いきなり「More convenience」だけになっちゃってるし。だいいち日本語の「特長」と全然違うこと書いてあるよなあ。
 How to install もシンプルでいいっすね。全然ハウトゥーじゃねえよ!わからんえねよ!と言いたい。取り付ける前に上の絵を見ろって(笑)。いや、conference という動詞(?)はどういう意味なんだ?すごいですね。でも、ちゃんと取り付けられたから、言語なんてこれでいいのか。

★送料無料★~忙しいときの仕事や食事に!持ち運び便利です!~カーコンピューターパッド

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.19

「カタ破り」と「カタ無し」

B0063958_913457 日は朝から東京。5月17日のハイドンの練習に久々に参加しました。6時間近くたっぷりハイドンに浸り、その天才ぶりを再発見。
 指揮者の坂本徹さんのおっしゃるとおり、ハイドンはいきなり驚くようなことをやらかす。おやじギャグ風に言えば、まさに「は〜い、ドン!」という感じで、「は〜い」という予兆はないではないのですが、その「ドン!」があまりに予想外で、演奏する方もとまどってしまいます(ほとんど初見でしたので…)。
 かと思うと、コテコテに基本に忠実というか、古典的(ハイドンにとって伝統的という意味)な手法も多々使われていて、まさに統一と変化、予想通りと予想外、ワタクシ的に申しますところの、「コト」と「モノ」のバランスが絶妙です。
 これが統一と予想通りと「コト」に終始していれば、凡庸な作曲家で終わっていたでしょう。そうそう、先々週、先週とで放送されたSONGSの松任谷由実もハイドンみたいでした。歴史に名を残す天才の仕事ぶりは、やっぱり似ています。
 さて、練習が終わって、私は東京芸大に向かいました。芸大卒の教え子と合流するためです。彼女は今、能楽師の卵として頑張っています。今月末にちょっと協力を願って、能楽を高校生に紹介するイベントを企画しているところなんです。
 いろいろ話をしている中、彼女の友人の画家の卵さんが師匠に言われたという言葉が心にピンと来ましたので、ネタにさせていただきます。

「型破りはいいが、形なしはダメだ」

 ふむふむ。なるほど。
 「カタ」という言葉は、私の「モノ・コト論」の中では、「コト」と同源とされ、人間の意識下における認識の結果、あるいは認識のための方便のことを指します。もちろん、「語る」や「固む」、「片付く」「かたす」などの動詞もそれに端を発します。
 つまり、簡単に言いますと、「カタ」というのは容れ物なんですね。ほら、記号論的物言いをする時、よく出てくるじゃないですか。混沌とした世の中を、「コトバ」という容れ物を使って整理していくみたいな言い方。境界線を引いて行くというような。その「認識」「概念化」こそが、「カタにはめる」行為です。
 それで、今日も能楽師の卵と話したんですけどね、本当の芸術は、容れ物がちゃんとあるんだけれども、そこからどんどん溢れ出てきてしまうものなんです。溢れ出なきゃダメなんです。
 言葉もそうです。我々は、日常生活においては、いろいろと面倒なので、かなり妥協してですね、実世界や我々の感情というモノを、かなり抽象的に扱っています。それでコト足りるように、社会をシステム化してきたからです。
 でも、時々モノ足りなくなりませんか?たとえば、「楽しかった」とか「悲しい」とか日記に書いてみて、とてもそんな言葉では表現し尽くせない、そんな容れ物には入り切らない何かが溢れ出てきてしまうことありますよね。
 そういう、カタを破って溢れ出てしまうモノこそ芸術の種子なのです。私が時々「コトを極めてモノに帰る」みたいなことを言うのもそういう意味なんです。モノは生命力と言い換えてもいい。コトは死体、死骸です。養老孟司さんの言う「イカとスルメ」ですね。
 我々が使う認識や表現の方便、たとえば言葉や学問や法律など、私たち人類が発明して来た「コト」「カタ」は、生きていて無常であり転変する「モノ」を殺して永遠化するためのものでした。しかし、そのカタという牢獄を破って飛び出してしまう、そんなエネルギーを持った何かも存在します。そんな溢れ出す「モノ」を持った何かが、優れた音楽や詩や肉体表現になっていくんですね。
 ですから、もうお分かりと思いますが、最初から「カタ」がなくて、容れ物も作らないで、ただメチャクチャに為したものは、芸術にならないんです。「カタ無し」では、お話にもなりません。まずは、ちゃんと「カタ」を学んで、そこに思いっきり詰め込んでみて、それでも溢れ出るモノがあるのか。それはやってみないと分かりません。自分が天才なのか、歴史に名を残す芸術家なのかは、「カタ」を知り、「カタ」を極めてみないと分からないのです。
Photo02 帰宅してテレビをつけましたら、日曜美術館で「妙心寺展」の紹介をやっていました。ここには「型破り」が、それこそ溢れ出るほどたくさんありましたね。海北友松や狩野山雪の作品には、敗者としての怨念や哀しみが、見事に溢れ出ていました。「カタ」として上手いとか下手とか、そういう次元ではありません。絵という器や、様式や常識という容れ物から完全に逸脱した「モノ」でありました。
 後半に紹介された白隠の禅画も象徴的でしたね。特に達磨図。若い頃はいかに写実的に描くか、つまり「コト」化することに執心していた白隠。しかし、「表現し切れないものがある」と自らが記したように、上手に描こうとすればするほど、達磨は死んで行く。そして、晩年到達したの境地がこのような「型破り」な達磨図でした。溢れ出すモノを溢れ出すままにしておく。そこに、確かな禅の境地があったのです。
 禅の世界では形式を特に重んじます。修行においては、同じ動作をひたすら正しく繰り返します。また、例えば公案などをもって、言葉の無意味性と徹底的に戦います。そうした「カタ」「コト」を極める行為の末に、「モノ」の真理に近づけるというわけです。
 これは宗教、芸術のみならず、いろいろなものにあてはめることができますね。スポーツもそうです。イチローや長嶋や王の例を挙げるまでもありません。私の関わっている教育もそうです。校則や教科書で生徒を型にはめることが仕事です。しかし、それを突き破って成長して行く、そういう生徒を育てなければなりません。生徒に媚びた「カタ無し」のやり方は、これは教育ではありませんね。
 私自身もまだまだ「カタ」「コト」を極めていません。もっともっと先人の残した型や言葉や仕事を学ばなければなりませんね。この歳になって、そのことに気付くなんて。若かりし頃はそんな「カタ」に反発することばかり考えていました。まあ、それもまた必要なことだったのでしょうが。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.18

剣丸尾樹海散歩

 日はあんまり気候がいいので、家族で近所を散歩。近所と言っても、ここは富士山ですから、いきなり樹海ですよ。ただ、いわゆる青木ケ原樹海ではなく、剣丸尾という溶岩流上の樹海です。スバルラインの近くと言えばイメージしてもらえるでしょうか。
 子どもたちも様々な発見に大興奮。いやあ、自分たちで言うのもなんですが、いい所に住んでますねえ。最高のレジャーでした。
 以下写真で紹介します。

↓スタートはカラマツとフジザクラとミツバツツジの森から。
Uni_2342

↓まずは鳥の巣を発見。
Uni_2348

↓コブシ満開。
Uni_2349

↓いよいよ樹海らしくなってきました。
Uni_2352

↓一つ目の溶岩樹型を発見。
Uni_2353

↓母親による木登り指導。
Uni_2357

↓二つ目の樹型を発見。今度は侵入成功。
Uni_2361

↓三つ目の樹型では雪を発見!
Uni_2366

↓四つ目は横臥型樹型。天然の冷蔵庫で氷柱もありました。
Uni_2370

↓天然のマユを発見。黄金に輝いていました。
Uni_2373

↓スバルラインのトイレでシュールなデザインを発見。
Uni_2377

↓富士山に穴をあけるアリたち。
Uni_2379

↓樹海にはいろんな形の木があって楽しいですね。
Uni_2381

↓ホオの葉とカマキリの卵で変身!
Uni_2383

↓自然のくぼみで休憩。これが気持ちいいんだなあ。
Uni_2385

↓目をあけるとこんな光景が…。気持ちよすぎ。
Uni_2386

↓ママはこのあと降りられなくなって困ってました(猫みたい)。
Uni_2389

↓ウサギのうんこが金色に輝いて宝石みたい。
Uni_2390

↓富士山麓は今、桜が満開。
Uni_2393

↓ゴールには見事なミツバツツジが。
Uni_2397

 というわけで、楽しい1時間の旅でした。世の中の子どもたちも、DSなんてやってないで、こういう所で遊びましょう。ずっと楽しいし、エキサイティングですよ。

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009.04.17

恐怖!ウロコ人間…あるいはワッフル、もしくはメロンパン

 事件!と、娘たちは叫んで、2階でまだ寝ている母親を起こしに行きました。私は何が起きたかわかりません。
 階段を下りてきたカミさんは、私の顔を見るなり大爆笑。いったい何なんだよ〜!
 娘たちが恐怖し、カミさんは爆笑したのは、私の顔でした。そんなあ、いつもの顔でしょ!?と思って、差し出された鏡を見た私は、やはり恐怖し爆笑したのでした。なんだこりゃ〜!?
 寝グセってありますよね。これはたしかに困り者です。人間なら誰しも一度はこの寝グセというやつのために、朝の貴重な時間を取られたり、学校や会社で友達に笑われた経験がおありでしょう。
 しかし、私には頭の毛はありません。剃髪していますので。いわゆる寝グセは物理的に発生しえません。
 でも、たしかにこれは一種の寝グセと言えるかも。まずはその拡大写真をご覧下さい。
3 うむ、見事な網目だ。ソフトなワッフルといった風情。
 なんでこんなことになったかと言いますと、昨日は新しいシーツの上に寝たんですよ。そのシーツがなんともハードなワッフル仕立てになってましてね。実に不思議なシーツなんです。でも、たしかに寝ているとそのデコボコがいい刺激になって気持ちいい。
 で、私は前書いたように「うつぶせ寝」じゃないですか。だから枕も使わないんですよ。ふとんに顔を埋めて寝ているというわけです。
 たしかに、私のかすかな記憶によると、昨日はそのワッフルの刺激が気持ちよく、何度も顔の寝返り(?)を打ち、右の頬、左の頬、そして後頭部と、頭部全体を均等に網焼きしていました。
 そして見事に焼き上がったのが、このザマであります(笑)。
2 少し離れた所から見てみましょう。ほら、見事でしょ。
 ワッフルと思えばまだ可愛いが、しかし見方によっては、これはウロコ人間ですよね。人面魚ならぬ魚面人。事情を知らない人が見れば、なんかの病気かと思ってしまいます。娘たちが恐怖したのも当然です。
 よく見ると、耳の中までしっかり網目がついてる。無事だったのは頭頂部だけなんです。右側も後も、ついでに両腕もワッフルになってました。
 落ち着いた娘たちは、メロンパンみたい!と喜んでました。いったい、オレって…。
 しかし、大変だったのは、実はこの後なんです。
 さあ、この状態で仕事に行けるか!?大ピンチです。
 若い時なら、肌の弾力というか、復元力というか、形状記憶力というか、そういう性能が高いけれども、もうさすがに半世紀近く経ってかなり材質が劣化してますからね、あと1時間で戻るわけはない…。
 髪の毛が少しでもあれば、なんとなくごまかされますが、それもありません。帽子をかぶったままでいるわけにも行かず、誰かさんの入場のようにタオルを頭からスッポリかぶっているわけにも行きません。もちろん、覆面レスラーのようにマスクをかぶって行くわけにも…。
 これはもう休むしかない…真剣にそう考えました。私のキャラ的に、これをネタにしてもいいんですけどね。生徒たちも大笑いしてくれるでしょう。さすがに夕方くらいになれば修復されるとは思います。
 いや!今日は心電図と血液検査があるんだ!保健所の人にこんな顔を見せるわけにはいかない!恥ずかしいとかそういう次元じゃないよ〜。
 しかし、私たちはあきらめませんでした。
 ここからは家族の共同作業です。ま、私は寝てるだけでしたけど。そう、私が床に寝て、女衆3人で私の顔の皮の引き伸ばしにとりかかったのです。思わぬところで家族の触れ合いが…なんちゃって。
 家族愛は強いですね。不可能を可能にしてくれました。見事にワッフルはホットケーキになりました(?)。なんか妙に赤いホットケーキでしたけど(笑)。30分以上かかりましたよ。
 しかし参ったな。明日からは顔の所にバスタオルを敷いて寝ることとしよう。このシーツどこで買ったんだ?全国で売り出されてるのかな?みんなどうしてるんだろう。特にお坊さんは気をつけた方がいいですよ。全面メッシュになっちゃいますよ。

不二草紙に戻る
 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.04.16

地熱発電とEDLC

Chinetuhatuden 年時代は理系を目指していたのに、なぜか文学部国文学科を出て、国語のセンセイになってしまったワタクシです。
 しかし、いまだに理系の研究職に憧れている部分もありまして、先日も白衣を着ている夢を見ました。単純と言えば単純な夢ですね(笑)。
 ただセンセイという仕事はいいところがありまして、自分の夢を生徒に託すことができるんですね。それでいろんな生徒がずいぶんと私に人生を変えられました。
 芸術系に行かされた生徒もたくさんいますね。音楽、美術、文学、伝統芸能…これもまた自分の夢でしたから。
 で、理系だったらこれをやってくれとか、これからはこの時代だろとか、まあテキトーに、いや適切に(?)指導をしたりするわけです。無責任と言えば無責任かもしれませんけど…いやいや、けっこう責任重大です。
 逆に、文学部なんか行くなよ!喰ってけねえぞ、とも言ってきまた。本読んでましたって言っても、企業は取ってくれないぞ、と。
 世の中の風潮でもありますが、なんとなく文系、それもいわゆる人文科学の分野は、世の中のためになってないような気がしていました。その点、理系すなわち自然科学や、文理中間とも言える社会科学は世のため人のためになっているし、お金にもなると。
 でも、最近少し考えが変わってきたんです。もしかすると人文科学が一番世のためになってるかもしれない。経済性の低い文学なんていう慰め事の方が、地球環境にはずっと優しいんじゃないか。物質的な豊かさや、自分の属する共同体の安定を求めるよりも、それぞれの人間が自らの内面にウジウジこだわって、ひきこもっている方が、おそらく他の生物や無生物のためには大いに有益ではないかと。
 しかし、人間の歴史はそのことに気づかず、こうしてやってきてしまいました。だから今さらそのことに気づいてもしかたないと言えばしかたないし、あるいはその崇高な哲学を生徒たちに押しつけて、そういうひきこもり生活をさせたとしたら、もっとダメなセンセイと言われること必定です。
 せいぜい宗教家にでもなって一人で山にでもひきこもっていなさい、ということになるのでしょう。
 そう言えば、私が少年の頃、「科学」や「工業」や「技術」は憧れの的でした。私もご多分に漏れず、将来の夢と言えば「科学者」「エンジニア」と書いていました(あるいはプロ野球選手と)。そうして、いかに地球上の、あるいは宇宙空間のエネルギーを自分たちのものにするか、それに携わることがカッコいい、正しいことだと思っていました。
 私と違って、その夢に向かってしっかり勉強をして、それを叶えた人たちもたくさんいて、そうしてこの「豊かな」世の中を作り上げてくれました。ありがたいことですし、立派なことです。
34_zenn_silver_1 そして、今、理系の方々が一生懸命取り組んでいらっしゃるのが「エコ」です。今度はいかにエネルギーを無駄遣いしないかが、最大の課題になっています。最先端でスマートでカッコよくて、そしてなぜか金になるのが「エコ」です。
 自然科学は、いかに個人の感情を抜きにした(しようとした)ものと言っても、やはり人間の所業ですからね、結局人間の本能を満たすために使われてしまった。当面の本能、欲望は豊かで楽な生活でしたから、自然科学がこのような世の中の発展に寄与したのは当然と言えば当然でしょう。しかし、今度はもっと根源的な本能に関わることになった。すなわち生存の本能です。
 このままでは、人類は滅亡してしまう、自然環境的にやばいということになってきたわけです。そこで、今度は、ある意味全く逆のベクトルで自然科学が活躍することになったのです。
 これって、考えようによっては、理系のマッチポンプとも言えますよね。理系のお仕事には、実はそういう自己生産性があるんです。本質が拡大再生産的なんです。
 と、ずいぶんと前置きが長くなりました。どうでもいいことをベラベラとすみません。
 で、結局今日言いたいことは、そんな屁理屈ではなくて、とりあえず我々の生存、人類の存続、地球の長寿化のために必要なエネルギー研究はですね、この二つだと思うんです。もし自分が理系の研究者だったらやってみたいこと、つまり、生徒にやらせたいことはこの二つです。
 地熱発電と電気二重層コンデンサ(EDLC=ウルトラ・キャパシタ=スーパー・キャパシタ)。
 これが実用的になれば、とりあえずエネルギー問題の大半は解決すると思うんだけどなあ…。たとえば、無尽蔵で半永久的に供給される地熱でもって発電した電気を、大容量の高性能キャパシタに数秒で充電して、電気自動車を1000キロくらい走らせる。
 それこそ国策で真剣に取り組めば、あっという間に可能になるような気がするのですが。日本は両方得意なはずなのに、今一つ研究が進んでいないような気がするんですよねえ。プロデューサー、ディレクターが悪いのかなあ。
 そうか、とりあえず、教え子を総理大臣にするしかないか。まずそこから始めなきゃ世の中は変えられないってことかな。あるいは人類全員を洗脳して、哲学者にしてしまうか(笑)。

地熱発電の基礎知識

「5分の充電で800km」新キャパシタ電気自動車

東大が開発したキャパシタ自動車

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.04.15

麻生太郎の誤読の件

Asou 検協会の馬鹿親子の会見を見ていて、なんとも言えない怒りに…と思ったらそうでもありませんでした。
 最近ウチでは、無印天才バカボンと元祖天才バカボンばかり見ているので、彼らくらいの悪漢では満足しないのでしょう。
 漢字と言えば、麻生首相の誤読問題が盛り上がっていますね。これもまたバカボン・クオリティーからしますと、ちょっと物足りない。まあ、一国の首相としてはよくやってる方だと思いますが。もうちょっとぶっ飛んだ読み方を披露してもいいのでは。
 考えてみれば、漢字の読みなどと言うのは、まさに社会的なルール、慣習であって、単なる多数決の結果に過ぎないことが多いものです。それで、その常識とやらを知らないと、まさに常識を疑われ、非常識な人間と決めつけられ、社会性や教養のないダメ人間だとされてしまう。
 そこんとこをうまいこと商売にしたのが大久保昇でした。その片棒を担いでしまった、いやまだ担いでいるワタクシは、ものすごく辛く恥ずかしい心境です。今日もまた、生徒から漢検の受検者を募ってしまった…。
 逆にそこんとこを全く気にしないで、社会のフィクションに抗っている(そんな意識すらありませんが)のが、バカボンのパパです。だいいち彼は漢字というものをほとんど知りません。ハナから相手にしていません。そこに真実を見出せないからでしょう。彼にとっては、まさに漢字なんてナンセンスです。意味がありません。しかし、世間では彼のことをナンセンスと言います。その場合のセンスとは、おそらく社会性のことなんでしょう。
 さて、先ほど、麻生さんの誤読はまだイマイチだと申しました。なぜなら、彼の誤読はパパレベルに達していないからです。まだ、センス(意味)やセンス(社会性)を充分に含有しているからです。
 たとえば、最近で言えば「弥栄」を「いやさかえ」と読んだ、あれは間違いか、それとも正しいかと騒ぎになっていますが、正直そんなことはどうでもいい。間違いと言う人も正しいと言う人も、両者とも社会のルールに縛られているからです。それなら私は、「弥栄」は「いやさかはえ」であると言いたい。万葉集にそうありますから。
 未曾有を「みぞうゆう」と読んだ。これも別に騒ぐことではない。「未」は「み」、「曾」は「そう」、「有」は「ゆう」ですから、社会的な慣習を抜きにすれば麻生さんの方が正しいとも言えてしまう。有無とか怪我なんかもそうです。
 詳細を「ようさい」と読んだ。これも非常に高い社会性、教養のなせる誤読です。いちいち説明しなくてもわかりますよね。同様なのは、低迷(ていまい)や破綻(はじょう)でしょうか。
 音訓の整合ということで言えば、前場や思惑も、「まえば」「しわく」の方がより自然とも言えてしまう。
 踏襲を「ふしゅう」、順風満帆を「じゅんぷうまんぽ」と読んだのはその逆ですが、ある意味訓読みを正しく知っているということにもなりますね。
 「基盤」を「きはん」、「措置」を「しょち」、「頻繁」を「はんざつ」と読んだというのは、これはもしかすると、原稿に「規範」、「処置」、「煩雑」と書いてあったのかもしれない。日中両国首脳の往来はたしかに「煩雑」ですからね(笑)。
 「決然」を「けんぜん」と読んだと報道されましたが、これも原稿に「顕然」、「軒然」、「喧然」、「慊然」とあったかもしれない。意味わかりませんが(笑)。
 とまあ、麻生さんのおかげで、ずいぶんと勉強になりますね。授業のネタとしても最高です。
 「あ、そう」言えば、「麻生」の読みも難しいよなあ。苗字としても「あさお」「あそお」「あそう」などがあります。生徒に「まお」ちゃんもいましたっけ。地名としては「あさお」「あさぶ」などがありますね。麻生太郎も、もしかすると「あそおたろお」かもしれませんね(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009.04.14

『文章は接続詞で決まる』 石黒圭 (光文社新書)

33403473 の前、「なので」について書きました。書いてみてわかったのですが、私自身話し言葉ではけっこう使ってましたね。そして、それはたしかに「なので」であって、他の接続詞には代えられないということもわかりました。
 そんな「なので」についても、ほんの少しですが触れられています。話し言葉の接続詞として扱われていました。特に問題視はされていませんでした。
 それにしても、よくぞこれだけたくさんの接続詞をとりあげて、それぞれ分析してまとめあげましたね。すごい。
 何がすごいって、その研究の成果もですけど、なんというか、私からしますと、こうして文章作法を文章で書いているところがすごい。わかります?有名な作家の皆さんの「文章読本」なんかまさにそうなんですけど、文章の作法について文章で論じるわけですから。わかります?まず、自分の文章がちゃんとしてなきゃいけないじゃないですか。それってすごいプレッシャーだと思いますよ。
 たとえば音楽の作法を言葉で説明するのは、そんなにドキドキすることじゃありません。絵画とかもそうでしょう。スポーツもそうです。言葉、文章に関する時だけは、なんか、生き方を生き様で見せるような感じで、ちょっとこそばゆいし、自信がなかったりするじゃないですか。
 それを石黒さんは見事にやってのけてるから、偉いなって思うんです。マネできませんね。
 内容的に感心したのは、「文末の接続詞」という発想でしょうか。なるほど、いわゆる接続詞だけではなく、文末表現がそういう働きをすることもありますね。
 と言いますか、文脈というものがあるかぎり、いわゆる接続詞や文末表現だけでなく、全ての文は接続詞的な機能を持っているとも言えますね。あるいは、人生は接続詞だとも…笑。いや、まじでそんなことを思いました。
 ところで、この本でもブログの文体についての記述がたくさんありましたけれども、私のこの文体、先日も書いたように「講演書き起こし体」、あるいは「平成軽薄体」と呼ばれています(自分に)。で、よく指摘されるんですが、今も出てきた「で」とか、「ま(あ)」とか、あと、頻発するいわゆる「順接の『が』・『けれど』」、これは意識的に使っているのかということについて。
 実は、これはかなり意識的に使っています。ブログでの私の文体です。いちおう私も文章家のはしくれだと自認しておりまして、それなりにいろいろな文章を書き分けることができるつもりです。いろいろと事情があって、ブログではこういう文体を使っています。その事情についてはナイショ。
 いやあ、真のプロレスラーではありませんが、実はガチもできるけど、あえて軽薄を前面に出すというのが、私の理想です。なんちゃってね。ま、ドリフみたいになりたいんですよ(?)。
 というわけで(これもよく使いますね。無理やりフィナーレに持っていっちゃう荒技)、この本を読むと、接続詞の使い方が気になって、文章が「決まる」どころか、なんだか関節技が決まっちゃったみたいに身動きできなくなります。つまり、今まで自然に書いていた文が書けなくなる。ご注意を(笑)。

Amazon 文章は接続詞で決まる

楽天ブックス 文章は接続詞で決まる

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.13

『漢検のひみつ』 (学研まんがでよくわかるシリーズ)

Book 「検のひみつ」…大久保理事長親子の悪行の数々が、まんがでわかりやすく紹介されています。
 …かと思ったら、なんだ漢検の宣伝じゃねえか。こうやって子どもを洗脳しようとしていたな。
 家に帰ってきたら小学校4年生になった上の娘が「これ借りてきたよ!」と嬉しそうに持ってきました。カミさんもニヤニヤして、「面白そうでしょ」と言います。
 もちろん二人ともふざけているのです。娘に今、なんで借りてきたのかと確認しましたら、「なんか、おもしろそうだし、パパが漢検とケンカしてるみたいだったし、テレビでいろいろやってたし、今話題だから」と。
 我が娘ながらよく分かっているぞよ(笑)。
 ふむふむ、「漢検のひみつ」、初版は去年の9月か。そろそろメスが入ろうかという時期ですな。私もちょっと裏から情報をいただいていた頃です。退職金の話とかね。
 その後の展開は皆さんご存知の通り。まあいろいろと盛り上がりましたよ。特に生徒たちは、私を取り巻くいろいろな漢検協会をめぐる事件(?)に興奮気味でしたっけ。
 このブログの記事で復習しますと、こういうことでした。
 ニュースになった翌日、ヤッター!とばかりに「儲」…漢検協会やるな!という記事を書きました。それが検索で協会の公式ページのすぐ下に出てくるという、ちょっと予想外の事態になりましてね、生徒たちが「こりゃあ、絶対漢検の人見てるよな」「ヤクザだからやばいんじゃないの?」みたいなことを言い始めた矢先、鉄砲玉が飛んできました(笑)。偶然にしては出来過ぎている。
 そのことも暴露してしまいました。さすがに面倒くさいので、刑事コロンボの記事に見せかけて(?)。
 その後、一回だけ電話がかかってきました。謝罪…というより言い訳の電話でした。それも、私が書いたようなカワイイ声の京都弁ではなく、おばちゃんの標準語でした。おねえちゃんだったら許そうかと思いましたが、おばちゃんに、「この前は実施状況の確認にご協力いただきまして、ありがとうございました」とか言われたら、いやみの一つでも言ってやりたくなりますよね。ま、言ってやりましたが。
 そうそう、ファックスも一回来ました。今年度1回目の受検者を、従来の金額のまま募集していると、ニュースで報道された途端、すぐに言い訳のファックスが来ました。その対応ぶりが笑えるというか、呆れるというか、腹が立つというか…。で、結局値下げは100円から500円ですと!?噴飯せざるを得ないっす。大久保親子は理事にとどまるというし。もう腐り切ってます。
 個人的にはですね、学校全体で今年度の受検をボイコットしたいところなんですよ、ホントは。でも、生徒たちの受検の意志を無視するわけにもいきませんし、大学入試や就職にまで関わってくるという構造が出来上がっている限り、それをするのは難しい。国としても業務停止命令も出せないでしょう。クヤシイですね。
 漢検協会をぶっつぶすのは実は簡単です。別の団体が良識的で良心的な漢字検定を始めればいいのです。昔はありましたが、今ではほとんど壊滅してしまいました。漢検協会がそれらをぶっつぶしてデカくなってきたのです。ここで国も協力してですね、大きな運動を起せばいいんですよ。うん、こうなったら、私が中心になって「新漢検」を作りましょうか。そして、「信者」をたくさん集めて「儲」けましょうか(笑)。

学研公式

日本漢字能力検定協会

「説明責任果たしていない」漢検を文科省が厳しく批判

不二草紙に戻る
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.04.12

形容動詞って何??(その2)

Hassy 日の続きです。「きれいだ」の「だ」や、古語の「あはれなり」の「なり」はいったい何者なんでしょう。
 「なり」や「だ」が形容動詞というものの語尾でないとしたら、基本そっくり同じ活用をする断定の助動詞ではないか…いやいや、本当にそうなんでしょうか。
 ここでことわっておきますが、現代語の「だ」は「にてある=である」の進化形(ポケモンかい!)…じゃなくて変化形、「です」は「にてさうらふ=でそうろう」の変化形ですので、いずれも「なり(にあり)」から変化したものですから、これからの話は全て古語の「なり」、あといちおう「たり」ですかね、こちらを中心にお話します。
 今書きましたように、一般に断定の「なり」と言われるものは「にあり」が縮まったものと解釈されています。実はこの「にあり」の「あり」、これが鍵を握っていると思っているんです。ここが肝心なところです。
 私は、「あり」というラ変動詞(私はこれにも異論がありますが)は、単純に「なし」の対義語で、存在していることを表すのではないと考えているのです。私は自分の「モノ・コト論」の流れから、この「あり」を、「認識」を表す語と定義しているんです(動詞ではない)。自己の認識の外にある「モノ」を内部に「コト」として取り込んだことを表すのが「あり」だと思っているんです。それは結果として「存在」の意味も包含しますが、かといって単にそれのみを表すものではありません。
 同じラ変動詞に分類されている「侍(はべ)り」が、本来「偉大なる存在のおそばにお仕えする」という意味であるのは興味深い事実です。他者の存在が前提となっていますからね。その「はべり」が「あり」の丁寧語として用いられているのですから、「あり」にも他者依存性があることを示唆していると言えないでしょうか。
 そういう目で、たとえば助動詞の「けり(過去・詠嘆・気づき)」や「たり(存続・完了)」、「めり(視覚による推定)」や「なり(聴覚による推定)」などを、もう一度見直してみましょう。
 「けり」は「き(過去)+あり」、「たり」は「て(完了)+あり」、「めり」は「目(見え)+あり」、「なり」は「音(ね)+あり」に違いないと思います。そして、それらはいずれも、「あり」が付くことによって、自分が観察者として認識したという感じがするんですね。「私はそう情報として受け取った」とでも言えましょうか。他者から喚起されたと言ってもいいでしょう。「き」は個人的な事情や感情を超えて絶対的な感じがしますし、完了の「て(つ)」にしてもそうです。事実の叙述ですね。それが「あり」が付くことによって他者と自己の間の次元になる。
 まず、「あり」の機能について、そのように考えるのが私の文法のベースになっています。いろいろな所で活躍するんですよ、この「あり」が。私の文法…「不二文法」とでも呼びましょうか(笑)…では「あり」がとっても重要なんです。
 ですから、形容動詞と言われるものの語尾「なり」についても、同様に「あり」の機能と意味を加味して考えたいのです。すなわち、一般に形容動詞と言われる「○○なり(たり)」は、対象の「○○性」を認識した、対象から「○○」を読み取れる、対象から「○○」を喚起された、対象が「○○に(と)」思われる(自発の「れる」です)、という意味になると考えたいわけです。
 その証拠と言えるかわかりませんが、いわゆる形容動詞の連用形とされる「○○に」の形の古い例、たとえば「あはれに」などは、「思ふ」などの知覚動詞にかかることが多い。その「思ふ」などを内包したのが「あり」であり、結果として「○○なり(にあり)」は「○○に(と)思われる」という意味になるというわけです。
 形容動詞に、「〜げなり」とか「〜かなり」とかいう形が多いのも示唆的です。「げ(気)」や「か」はそういう気配、雰囲気を表すので、それを感じる、認識するというように考えると辻褄が合います。
 ですから、「清し」と「清げなり」または「清らかなり」、「楽し」と「楽しげなり」などは、やはり違ったニュアンスを持っているとすべきです。形容詞の方が事実説明的、抽象的で、後発の形容動詞の方が個別的な感じがしますね。塚原鉄雄さんが、形容詞を「属性の抽出」、形容動詞を「状態の判定」としたのとつながるかもしれません。少し観点が違いますが。
 というわけで、もし、私の考えが正しいとしたら、一般に形容動詞と言われる単語の、その語尾の「なり」や「たり」は、単純に断定の助動詞というわけではなく、その上接の言葉が示す性質を自分が認識したこと表し、結果として、いろいろな品詞(形容詞や名詞、感嘆詞など、外来語含む)を、形容詞風の意味と機能に変える働きのある辞であるということになります。
 かと言って、形容詞とは明らかに素性も機能も違いますので、「ナ形容詞」とするのもどうかと思います(日本語教育上はそれでもよいと思いますが)。
 というわけで、それを一体なんと呼べばいいのか、私はまだ考え中です。だいたい、その「なり」を助動詞としていいかも、ちょっと微妙ですね。渡辺実さんは、たしか「なり」を判定詞としていましたね。ちょっと近いような気もします。
 ま、いずれにしても、形容動詞なる品詞は明らかに不自然な虚構であり、それに洗脳されてきた戦後教育界やら、無反省とは言わないけれど、逆の意味でとらわれ続けたとも言える国語学界(日本語学界)は、そろそろ覚醒しなくちゃいけませんね。
 認識の「あり」を伴った「にあり」が、いわゆる断定の助動詞「なり」になっていく過程や仕組みについても書こうかと思いましたが、長くなったのでやめときます。
 また、いつか続きを書こうかな。そんなこんなで、たぶんあと1000年くらいしたら、私の「不二文法」の全体像を発表できるでしょう(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009.04.11

形容動詞って何??(その1)

Hassy 容動詞ってなんですか?私は国語の先生なんですけど、この形容動詞というやつを教えるのが一番いやです。百歩譲ってもその存在を認めたくありません。だいいちネーミングのセンスが悪い。
 この前書いた接続詞「なので」はあり??という記事で、「形容動詞の存在に疑問を持っている」と書きましたところ、説明してほしいとのコメントをいただきましたので、ほんの一端ではありますが愚説を紹介します。まずは、グチから。
 今学校で教えられてる、というか、半世紀以上にわたって教えられてきた、いわゆる「学校文法」は、この方の文法です。橋本進吉。このおっさん(失礼)がむか〜し唱えたことが、今まで正しいとされて、無思慮無反省な学校の先生方によって、なかば強制的に教えられ、テストにまで出され…。
 なんとなく、このおっさん好きになれないんだよなあ。橋本文法もあんまり好きになれないし、上代特殊仮名遣いも認めたくないし、第一このおっさん、狩野亨吉のおっさんと一緒に、あのトンデモ中のトンデモ「竹内文書」を偽書だとかぬかしおったからなあ。夢もシャレもない(笑)。
 国語学を学び、国語の教師をしながら、橋本進吉をおっさんなんて呼べるのは私くらいでしょう。まあ、この人自身が悪いわけではなく、その無思慮無反省な輩が悪いんですけどね。
 さて、いきなりトンデモな発言から始まってしまいましたが、そのセンスの悪い「形容動詞」を正式に認めたのは、たしかに橋本進吉です。それが教科書や辞書に採用されて、すなわち国家の定説となって半世紀以上になります。
 しかしこの間、この形容動詞を教えられて不自然に感じたり、違和感を抱いたりした人はそうとういると思いますよ。ちょっと復習してみましょう。goo辞書でひいてみましょうか。

けいよう-どうし 【形容動詞】
品詞の一。用言に属し、活用があり、終止形語尾が、口語では「だ」、文語では「なり」「たり」であるもの。事物の性質・状態などを表す点では形容詞と同じであるが、形容詞とは活用を異にする。「静かだ」「にぎやかだ」「はるかなり」「堂々たり」の類。活用は、口語では一種類であるが、文語にはナリ活用・タリ活用の二種類がある。

 ほかに形容動詞としては、現代語では「〜的だ」というのがたくさんありますね。「新鮮だ」とか「優秀だ」とか。古語で有名なのは「あはれなり」とか「つれづれなり」とか。
 で、あんまり詳しいことは書きませんけど、これが我々フツーの日本人からすると、どうしても一つの単語としてはとらえにくいんですよね。洗脳されていない自然な脳ミソとしては、どう考えても「静か+だ(なり)」とか、「新鮮+だ(なり)」とか、そんなふうにとらえたくなる。
 これは当然です。「私は先生だ」という場合には、「先生」という名詞+「だ」という断定の助動詞と解釈されるからです。これは納得ですよね。ですから、当然「新鮮だ」も「新鮮」+「だ」にしたくなるじゃないですか。でも、学校文法ではこう分けてはいけなくて、「新鮮だ」で一語としなければなりません。本能的に気持ち悪いですよね。
 実際問題、「すっごい静か…」とか、「超新鮮!」とか、「はるか遠く」とか、「威風堂々」とか、そういう表現も日常的に行われているので、そこで切りたくなるのも当然です。なのに、なぜ一語ととらえなければならないのか、それはまあWikipediaの形容動詞の項あたりを読んでください。ここでは巷説の繰り返しはしません。
 まあ、たしかにそうした巷説の言い分もわからないでもない。そう説明されれば、まあそうかな、で思考停止して妥協して丸暗記する方が楽です。でも、私は自分の性格からして、どうも自分の実感に反すること、本能的に不快に思うことをそのままにできないんですね。
 そうそう、形容動詞を丁寧に「静かです」とか「新鮮です」とか言いますよね。これって学校文法だとうまく説明できないんですよ。一語と考えるとたしかにそうですね。もちろん、強引に「〜です」をも形容動詞としちゃったり、特別なケースとして説明している人もいますが、ちょっと無理ないっすか?
 それで考えてみました。そして、こういう結論に至りました。
 いわゆる形容動詞は、やはり2語に分けられるべきである。「新鮮だ」だったら、「新鮮」+「だ」であるということです。この場合、「新鮮」は名詞としてよいでしょう。あるいは中国語の形容詞としてもいいです。では、「だ」とか「なり」というのは何なんでしょうか。よく言われるように「断定の助動詞」だとしていいのでしょうか。いや、実はそこに大きな間違いの原因があると思うのです。

その2に続く。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.04.10

中川翔子 『Magic Time』

51jecimbi1l_sl500_aa240_ 続詞「なので」はあり?なんて次元を、とっくに飛び越えている、いうなれば、夏目漱石レベルの天才「しょこたん」。彼女の新語創造能力はずば抜けています。
 最近では、えっと、「バッカルコーン!!」ですか。以前記事にしたギザカワユスにせよ、まあいまだ本人は使い続けてますからね。単なる流行語ではないようです。
 彼女の新語というのは、厳密に言うと完全なる新語ではありません。「バッカルコーン!!」も実はすでに存在していた言葉ですよね。そう、クリオネの触手みたいなヤツです(って私も初めて知りました)。しょこたんは、そういう現存する言葉の語感(音感)から、それが与えられた本体をも巻き込んで新たな意味を与え、そして敷延するという能力を持っているようにうかがえます。これは簡単なようで難しいことですよ。
 普通、新語というのは、既存の音と意味の組み合わせの、そのまた組み合わせによって作られることがほとんどです。つまり語源というか、意味上の語幹が存在するんですね。アニメのキャラ名なんかも案外そういうベースを持っていたりします。ところが、彼女は本来の「意味」ではなく、本体が持っているイメージと語感(音感)の偶然のマッチングの部分に注目して、そこから新たな「意味」を生み出してしまうんです(ってよく分からん説明だな)。
 つまり、ある海洋生物のキャラクターやデザインと、そこにまじめに与えられていた「スカシカシパン」とか「バッカルコーン」とかいう、言われてみれば珍奇な名称のマッチングというかミスマッチングを、我々に気づかせてくれる、だけでなく、その「気づき」から、全く別の感嘆的存在を現出させることができるのですね(って余計分からん説明だな)。
 とにかくですね、彼女の言語世界は、記号論への挑戦なのです(笑)。マジで。シニフィエもシニフィアンもバッカルコーン!?
 そんな天才、中川しようこ(電波りようこみたいだな…いや、こっちが真似したのか)のニューアルバムを遅ればせながら聴いてみました。『スカシカシパンマン・ザ・ムービー』を貸してくれた人が、こちらもわざわざ貸してくれました。生徒の妹さんです。
 で、で、これが、いい!バッカルコーン!!(使い方間違ってるかな?)
 これはいいですよ。正直感動してしまったっす。ギザヨス(って言うのかな)。だって、だって、なんか懐かしいんだもん。
 歌謡曲バンドで、80年代アイドルのカバーをやることがけっこうある私は、とにかく、最近あの頃の楽曲のクオリティーの高さを再認識して感動することが多いんですけど、このアルバムはその頃にタイムスリップさせてくれるんですよ。
 まず、歌がうまい!こんなにうまかったっけ、しょこたん。楽曲によって声も歌い方も微妙に調整していますけど、基本キラキラしていて、しっかり往年のアイドルしてます。時代を超えていますねえ。
 得意のアニソン風のポップ・ロックもなかなかいい。アニソンへの愛を感じますね。しかし、なんと言ってもやっぱり80年代風楽曲でしょう。なにしろ、松本隆&筒美京平の黄金タッグまであります!いやあ「綺麗ア・ラ・モード」は超名曲っす。すごい。王道。
 本当に彼女は「タレント」ですね。今もカミさんと話してたんですけど、しょこたんとあやや(松浦亜弥)がいるから、いわゆる芸能界は安泰だなと。若いのに妙に昭和を感じる。
 最近、家族でドリフを観ることがよくあります。当時のアイドルたちが捨て身でコントをやり、そのすぐあとにまじめにアイドルになりきって歌う、そういう姿を見て、ああ、すごいなあ、プロだなあ、と思うことしばしば。そういうパワーというか、アドリブと演技と両方できる「タレント」。これってあらゆる分野で欠如してますよ、平成の世の中では。
 このアルバムはぜひ聴いてみましょう。特におじさんたち!絶対はまります。それにしてもうまいな…。
 ああ、そうそう、私の母は、ある場所でしょこたんのおばあちゃんとよく会うそうです。おばあちゃんも音楽に並々ならぬ愛情を注いでいらっしゃるとか。やっぱり血筋でしょうかね。才能は遺伝するのか。

Amazon Magic Time 

不二草紙に戻る

| | コメント (0)

2009.04.09

接続詞「なので」はあり??(その2)

Uni_2331 村く〜ん!「市民会館」の桜、満開ですよ〜!
 さてさて、昨日の続きです。接続詞「なので」は許されるのか。なぜ、ここへきて「なので」が増殖しているのか。「だから」との違いは何なのか考えてみたいと思います。
 「だから」と「なので」は、そのまま交換できるのでしょうか。私が小論文の指導をしていて、接続詞「なので」が出てきたら、それを「だから」に直せばことは済むのでしょうか。実はそういうわけにはいかないのですね。ですから、こうして「なので」が台頭するようになったのです。
 「だから」の「だ」と、「なので」の「な」については、いちおう断定の助動詞の終止形と連体形としておきます。私は形容動詞の存在に疑問を持っている者なので、そういうことにさせてください。そこのところについて語ると長くなるので、ここでは割愛します。
 まあとにかく「だ」と「な」は基本同じものですから、そこに意味的な違いはないとしてよいでしょう。そうすると、「から」と「ので」の違いか気になりますね。
 もちろん「から」と「ので」は接続助詞として文中で普通に用いられています。あっそうだ。昨日は漱石が「ので」を接続詞として使っていると書きましたけれど、実は「から」も接続詞として文頭で用いられていたんですよ。主に江戸時代でしょうか。
 さて、「から」については、皆さんもおわかりのように、始点・出発点・起点を表す「から」から生じたものです。ですので(…「ですので」は許されるのか!?)、古くはそういう意識をもって接続助詞として、あるいは接続詞として用いられていたと想像されます。すなわち、前半部分の叙述内容が後半部分の叙述内容の因果的な起点となっているのです。まあ、「○○が起きたことから、△△が起きた」ということでしょうか。ですから、結果として、原因・理由を表すことになります。
 一方の「ので」ですが、こちらの形成については、私は独自の見解を持っています。得意の「モノ・コト論」で片づけちゃいます。一般には「の」は格助詞と捉えられるようですが、私は「もの」の変化形ととらえています。そして「で」は普通に「にて」の短縮形。ですから、もともとは「ものにて」であったとするのです(まったく学問的考証はしていませんので、あしからず)。
 で、いつも書いているように、私は「もの」という語に「不随意・自己の外部」という意味を見いだしていますから、「ものにて」には、自分の意志や予想に反してという意味合いが生じると考えるのです。次の例を見てください。

強い風が吹いたので、あちこちの看板が倒れたりとばされたりしてしまった。
電車が遅れたので、遅刻しました。
遅くなるので、帰らせていただきます。

 これらの「ので」はなんとなく「から」に代えにくくないですか。前半部分が不本意な感じがするからです。「から」にすると語調が強すぎて、バランスが悪くなるような気がします。ちなみに、これらの「ので」は「もので」に代えることができます(ちょっと不自然なものありますけど)。そうすると、「もの」の不随意・不本意な感じがよく出ますよね。

彼が来てくれたので、助かりました。
○○大学に合格できたので、東京に行きます。
あまりに美しかったので、声をかけてしまった。

 これらの場合も「から」より「ので」の方がふさわしい。なぜなら、前半部分が予想外な幸運だからです。
 ちなみに、伝えたい相手にとって不本意であろうと想像される時にも、それに自分も共感しているかのように「ので」を使う時もあります。結果として丁寧なお願い、へりくだった命令(?)の表現になります。例えば次のような文です。

試合終了後は大変混雑いたしますので、お帰りの切符は今のうちにお求めになっておいてください。

 これらは、私の言う「迷惑・恩恵の受身」とちょうど同じ感じですね。日本人の自己責任感のなさや、他力観にもつながる独特な心性の現れです。
 「から」は単純に論理的な原因・理由を表すと言ってよいでしょう。それに比べて「ので」は、より高度な、繊細なニュアンスを持っているんです。実に日本人的な、ね。
 そうすると、「だから」よりも「なので」が丁寧な印象を与えるという事実、「なので」は女性の方が多く使うという事実もうなずけるというものです。
 音韻的にも、濁音で始まり、硬いk音に連続する「だから」よりも、軟らかいn音の連続する「なので」の方が優しい印象を与えます。また、「だから言ったじゃないか」とか、単独で「だ・か・ら〜」というような、自己主張の強い表現があるせいもあって、より自分を出したくない時、より丁寧に言いたい時、より謙虚な姿勢を見せたい時は、「なので」を使いたくなる気持ちもわかります。空気を読むとそういうことになるんですね。
 さて、話を元に戻します。昨日引用したフジファブリックの志村くんの言葉です。
 「…今日は叶いました、夢が。(拍手)なので、」「…音楽をやる9年間というのは、楽しいことだけじゃなかったんですね。だから、そういう気持ちを全部含め、いろんな出会いや別れや、いろんなことやものがあって、今日の日がある。だから、今日ライヴができて、とりあえずその日は、その今までは報われたかなと、そういう自分は報われたかなと思ってます。ありがとうございます」
 最初の「なので」は、昨日書いたように「ありがとうございます」という気持ちから出た接続詞だと思いますから、そう前半部分が予想外、予想以上のことだったのでしょう。つまり「夢が叶った」ということに他者からの恩恵を感じているということです。その感謝の気持ちや謙虚な気持ちが、「だから」ではなく「なので」という接続詞を選ばせたのでしょう。もちろん無意識的にですが。
 引用した後半に「だから」が2回出てきますね。これは話し言葉ならではの高度な(?)用法なので、ちょっと説明が難しいのですが、とにかく強い自己の実感が読み取れますね。内容的には皆さまのおかげという感じもありますが、気持ちとしては謙虚というより、自信に満ちている感じがします。
 と、まあ、こんな理屈はどうでもいいんですよ。私たちはこうして微妙な気持ちやニュアンスや空気感を、言葉を選択しながら表現しているのです。ほとんど無意識のうちに。
 で、結局、接続詞「なので」はありなのか?こうして考えていくと、あれほど「なので」を嫌っていたワタクシでさえ、なんとなく「ありかも」と思い始めてしまうから面白いですね。皆さんは、私の駄文を読んで、どう思いましたか?
 今まで、そういう微妙なニュアンスを表す接続詞がなかったのです。ですので(←これが「なので」に近いかな)、「なので」が生まれてくるのは当然のことであり、どんどん定着していくというのも当然のことなのです。言葉とはそういうものです。これは生物の進化と同じようなものでしょう。
 ただ、まだまだ公認というわけではありませんし、年長者に読んでもらう文(例えば入試小論文)では、使わない方がいいでしょうね。それこそ空気を読んで、使いましょう。話し言葉でもね。

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009.04.08

接続詞「なので」はあり??(その1)

1 ジファブリックの『Sugar!!』が届きました。CDも充分良かったのですが、なんと言っても、あの「市民会館(地元民はそう呼ぶ)」ライヴのDVDがねえ…。もう、また泣いちゃいましたよ。そして、私自身も何ヶ所か映ってるし、これは家宝ですね。
 とにかく、改めて「茜色の夕日」は名曲だと痛感しました。
 うむ、山梨県は、「3月9日」と「茜色の夕日」と、あといちおう(?)「島唄」を生んだだけでも、もう充分音楽の歴史に貢献していますよ。世界に誇る、100年後に残る名曲たちですから。クラシックになります。素晴らしい。
 ところで、あの志村正彦君の感動的なMCに水を差すようで申し訳ないのですが、日頃気になっていることを書かせていただきます。
 いや、私は志村君の日本語のセンスが大好きですからね。今回も「茜色の夕日」のモノ・コト論と同様に、御本人は決して意識していないであろう、しかし、日本語の大切な本質をついた、彼の無意識の言語選択のセンスがうかがえる話になるのではないでしょうか。
 「…今日は叶いました、夢が。(拍手)なので、」と語りだしたのは、彼の知られざるプロ・ミュージシャンとしての苦悩、そして普通の大人が幸せそうに見える葛藤でした。「…音楽をやる9年間というのは、楽しいことだけじゃなかったんですね。だから、そういう気持ちを全部含め、いろんな出会いや別れや、いろんなことやものがあって、今日の日がある。だから、今日ライヴができて、とりあえずその日は、その今までは報われたかなと、そういう自分は報われたかなと思ってます。ありがとうございます」
 「なので」は結局、その後の長い長い深い深い言葉全てを包括していたのでした。まあ、簡単に言ってしまえば、「叶いました、夢が。なので、(皆さんに)ありがとうございます(と言います)」ということですね。そういう意識の上に使った「なので」なのでしょう。
 ところで、最近、小論文の指導をしていて気になるのが、この「なので」という接続詞です。私は話し言葉ではそれほど違和感を抱かないのですが、書き言葉だと正直ゲゲッと思ってしまいます。かなり抵抗感があるんです。最近…そうですねえ、ここ5年くらいでしょうか、「だから」とか「そのため」とかの代わりに「なので」をじゃんじゃん使ってくるんですよ。で、そのたびに、「こんな日本語はない!」と言って直させるんです。
 実は、今度小学校4年生になったウチの娘も作文で使ってました。で、これは先生に注意されないのかと聞くと、されないとのことでした。その証拠に小学校の文集をざっと見たら、出てくる出てくる、「〜。なので」が。あれ〜、いつのまにか、「なので」が公認になってるのか?自分が取り残されてるとか…?
 いろいろと辞書などを調べてみますと、ほとんど接続詞としての「なので」は認められていません。三省堂くらいでしょうかね、積極的に先取しているのは。
 しかし、もうお気づきと思いますけれど、「だから」にしても、もともとは「〜だから」としか用いられなかったものが、独立して接続詞として一般化したものです。同様なものには、「でも」「なのに」「ならば」「にもかかわらず」「だとすれば」などがありますね。口語ですと、「だって」なんかもそうです。さらに最近では「(ん)なわけない」とかありますね。静岡では「だもんで」もよく使われます。「んだ」もある意味その一種かな(笑)。
 「なので」も、あと10年くらいすれば、全ての辞書に接続詞として載るかもしれませんね。そういう言葉の変化については、いつも書いている通り、私は容認派です。ただ、まだ生理的に書き言葉としての「なので」には違和感があるということです。そのうち慣れるかもしれません。
 ちなみに、明治時代、平成の若者よりも先を行っていた人がいるんですよ。それは、かの文豪、夏目漱石です。彼の「それから」にこんな部分があります。

『其代り帰つても、落ち付かない様な、物足らない様な、妙な心持がした。ので、又外へ出(で)て酒を飲んだ』

 かつて好きだったが、今や友人の細君になってしまった三千代さんの所へ行こうか迷ったあげく、結局勇気が出ず、帰ってくるシーンです。いきなり「ので」ですからね。「なので」より過激です。さすが漱石。
 私はこの例を知っていましたから、娘に「今度は『なので』じゃなくて『ので』って書きな。それで先生に直されたら、『いや、漱石も使っています』と言え」なんて教えました(笑)。ああ、いやな親、いやな先生ですね。もちろん冗談ですけど。
 …と、ここまで書いて、これはだいぶ長くなりそうなので、明日に続けます。明日は「から」と「ので」の機能やニュアンスの違いから、志村くんの「なので」と「だから」を分析しようかと思います。

その2へ

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009.04.07

「Time is Money」のお話

↓「Time is Money」と言ったらしい?フランクリンさん
5975835 前、「Love or Money」のお話という記事を書きました。あれはなかなか評判が良かったというか、いろいろと議論を巻き起こしましたっけ。実は私もよくわからないまま書いていたんですけどね。ま、どの記事もいつもそうですけど(笑)。
 今日もまた、よくわからないまま書き出します。「時は金なり」という話です。「時は金なり」というと、「時間はとっても大切なものだ、無駄にするな」的な解釈がされますが、今日はちょっとひねくれた観点から書いてみようと思います。どうなることやら。
 「金で時間を買う」という言い方、時々聞きますね。一般的には、たとえば「普通列車でなく新幹線で行って早く目的地に着く」とか、「温泉旅館に行って、のんびりした時間を過ごす」とか、そういうニュアンスで使われていると思います。
 つまり、作業の効率化にせよ、休暇の有効利用にせよ、いずれにしても、自分の思いどおりになる時間を作るために、お金を払っているわけです。お金をケチって普通列車に乗るとしたら、出かける時間を早くしなければならないかもしれませんし、仕事が終わる時間が遅くなるかもしれません。そうすると、自宅でくつろぐ時間は減りますね。また、温泉旅行に行くお金をケチりますと、結局家でダラダラ過ごしてしまったり、パチンコで散財したりして、なんとなく満足が得られません。やっぱり、自分の理想の時間を持つためにはいろいろとお金がかかるんです。
 で、今日の私は、それをどんな意味でとらえるかと言いますと、ある意味「Time is Money」を、比喩ではなくて等式としてしまう。つまり、お金の働きを「自分の理想の時間を買うためのものである」と定義するのです。それ以外の機能や目的を認めません。非常に単純化してしまうのです。
 そうして、我々の「買い物」を見直してみますと、実は全てその定義の中に収まってしまうことがわかります。ためしに昨日お金を払って手に入れた物品やサービスを思い出してみてください。食べものはもちろん、電話代とか電気代とも入りますよ。
 それらにお金を払わなかったら、いったいどういう時間を過ごしたことでしょう。もちろん、結果として、断食ができて体調が良くなったとか、真っ暗な中で過ごせて自分を見つめることができたとか、そういう意味付けもできるでしょう。しかし、それはあくまで結果論であって、お金を払うのは基本、未来の時間に対してです(料金後払いというのも、契約が成立するのは事前です)。
 で、その買い物の値段に対する感覚というのが面白いんですね。つまり、購入前に予想していた時間の充実予想に対する実際の充実度、すなわち理想にどこまで近づけたかということと、実際払った対価の関係によって、我々は得したとか、損したとか思うわけです。
 某国製の安物を買ったらすぐ壊れた。でも、そんな時はそれほど損したとは思いません。安かろう悪かろうと予想していたのです。一方、国産の高い製品を買ったはいいが、いきなり壊れたというような時は、かなり腹立たしくなります。予想に反しているからですね。
 長持ちするしないという問題だけではありません。面白かった面白くなかったとか、おいしかったおいしくなかったとか、気持ちよかったよくなかったとか、そういう基準もあります。まあ、いろいろですね。そんなことは当り前と言えば当り前で、今まではそういう「価値」をお金で買うというような考え方が一般的だったと思います。それを、ちょっとひねくれて、そういう「時間」を買うというふうに考え直すんです。
 そうすると、もう一つのことが分かってきます。お金を使うのではなく、その逆、お金を稼ぐということの意味です。すなわち「仕事」の意味ですね。我々は大概いやいや仕事をしています。そんなことない、仕事が楽しい!とか、人様のために働くというのは気持ちがいい!仕事を通して自己実現できるなんて最高!という人もいるでしょう。でも、それって、かなり無理があるじゃないですか。ま、率直に言ってしまうと、それってかなり自己暗示的です。そうしないとやっていけませんからね。
 我々の仕事のほとんどは、人様のためになんかなっていません。だいたい無駄遣いさせているだけです。それが資本主義の基本ですから。そんな真実に気づいたら、我々はすぐに食いっぱぐれます。だから、自己暗示をかけて、あるいは自己洗脳をして、急場を乗り切って、そうしているうちに人生が終わります。
 いずれにしても、我々は自分の理想からかけ離れた苦痛な時間を過ごすことによって、その対価としてお金を得ています。そうして、今度はその得たお金で、理想に近いと予想される未来の時間を買っているわけです。あの車を運転している自分を予想したり、あの音楽を聴いている自分を予想したりして。
 まあ、その理想とやらも、ずいぶんと自己暗示的、自己洗脳的であるわけでして、そんな真実をも知ってしまったら、我々は生きる喜びも望みも失ってしまうでしょう。そうしたら出家でもするしかない。後藤組の組長さんみたいに(笑)。彼はまじめに悟ったのでしょう。本当の理想の「時間」は、「金」でも「暴力」でも「権力」でも買うことができないと…。
 こう考えてきますと、我々人間が構築してきた「経済」という虚構(なぜ虚構かは、あえて語りません。まあ本当に「経世済民」かどうか考えれはすぐ分かるでしょう)は、「時間」を「金」でやりとりするところから始まったと言えるように思えてきます。「時間」はいつでもここに満ちているはずですが、まるで空気に対するように我々はそれに対して無意識的です。我々が意識する「時間」は、実は不快な時と快い時だけなんです。その意識される「時間」たちを、人と人との間で交換する手段として、あるいは道具として「金=カネ=貨幣=money」が発明されたところから、経済活動は始まったと言えますね。そう、実は物々交換が端緒ではなかったのです。
 と、筆にまかせて書いてきましたが、書いてるうちになんだかとんでもない方向に行ってしまったようです。すみません。
 結局、「Time is Money」という言葉、実は格言でも名言でもなく、おそろしい言葉だということを言いたかったのです。「時間はお金のようにとっても大切なものだ、無駄にするな」…とんでもない言葉ですね。ワタクシの「モノ・コト論」的に言うなら、「モノ」の最たる存在である、いわば神であるところの「時間」を、さもしい卑小な人間の「コト」の最たる存在である、いわば悪神であるところの「カネ」で比喩しているんですからね。そんなのを例えば教室や職場に貼って標語にしているような人がいたら、もうその人はかなり悪神に魂を売ってますよ。な〜んて、昔の私はしっかり教室に貼ってましたけど(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2009.04.06

いぶりがっこ(の語源)

Lp_iburigakko_tumami_b2 田のおみやげとして、いつも職場に配っているのが、これ。お菓子よりも評判がいいんです。生徒たちにも大人気で、たくさん買って行ってもすぐになくなってしまいます。先生たちは「ビールか焼酎がほしくなるなあ…」と、あまりのおいしさに仕事中、ある意味苦しんでいますが(笑)。
 この製品のいいところは、小袋に入っていて、スナック菓子のようにつまめることですね。たしかに、お酒のつまみにも最高ですね。
 「いぶりがっこ」は漬け物の一種です。「燻り」「がっこ(漬け物)」という名前からも分かるとおり、スモークされているのが特徴です。ものすごく簡単に言ってしまうと、「たくあんの燻製」という感じでしょうか。
 秋田は冬の間日光に恵まれませんので、日干しができません。そこで、昔の秋田の家には必ずあった囲炉裏の上に大根を吊るして、その熱で水分を飛ばしたんですね。結果として、広葉樹の薪から出る香ばしい煙で燻されて、見事なスモーク大根になるというわけです。
 その独特の香と味わいがたまらないんですね。一つ食べますと、止まらなくなることうけあいです。いまだ食したことのない方は、ぜひともお試しあれ。この個装スナックタイプは入門には最高だと思いますよ。
 現在では、秋田でも囲炉裏のある家はずいぶんと減ってしまいましたので、自家製のいぶりがっこというのは、なかなか食べられません。かと思ったら、そうした古来の文化を守ろうということでしょうか、横手市山内地域では「いぶりんピック」なるものが開かれているそうです。手作りのいぶりがっこの味を競う大会だとか。
 どうでもいいことですが、日本語学的に言いますと、「いぶりん」までが平仮名で、「ピック」だけカタカナというのが、絶妙というか意外な秋田的センスだと思います(笑)。
 わが山梨県の鳴沢村も漬け物文化が発達していて、お茶のお伴はお菓子ではなく漬け物です。家庭訪問なんか行きますと、各家庭の漬け物をいただいて、お腹いっぱいになってしまったりします。それぞれ個性があっていいんですよねえ。
 漬け物というのは、優れた発酵食品であり、保存食品ですね。まさに日本の田舎の知恵そのものです。今、そういう文化が絶えつつあるというのは、ちょっと淋しいものです。ウチもそうですけど、漬け物石なんか見たことない子供が増えてるんじゃないでしょうか。
4 ところで、秋田では漬け物全般のことを「がっこ」と言うのですが、どういう語源があるのかと思って、ちょっと考えてみました。
 秋田には、「雅香」がなまったとの俗説があるようですが、日本語学的にいうと、ちょっとありえないでしょうかね。いくら漢語の日常語化することの多い秋田と言っても、やや無理がありそうです。「雅香(がこう)」という漢語は、私の知る限り使われていません。
 「がっこ」の「っこ」が、東北特有のあの接尾辞、つまり愛着を表す「〜っこ」だと考えてもいいのですが、そうすると、「が」が何かということになってしまいますね。「が」だけで使われている例も見当たらないので、これも却下しておきます。
 そうしますと、やはり単純に「こうこう」の訛りだと考えた方が良さそうですね。「おこうこ」とか言う時の「香香」です。これは大根の漬物の女房言葉として広く使われていました。「香」の音読みは本来「かう」ですので、「おこうこ」の歴史的仮名遣いは「おかうこ」になります。
 その「かうこ」が「がっこ」に音韻変化することは、それほど不自然ではありませんね。「はうし(法師)」が「ぼっち」…「ひとりぼっち」の「ぼっち」…になったりする例はたくさんありますから。
 ちなみに、この個装「いぶりがっこ(薪割り)」を製造販売している雄勝野きむらやさんですが、「いぶりがっこ」を商標登録しているんですよね。ホームページが「iburigakko.com」というところがすごい!w

いぶりがっこ小袋入(大)(きむらや)

雄勝野きむらや

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.04.05

埋草神社の奇跡!?…スギッチ帰還

2 2年間行方不明だったスギッチが発見されました!
 まずは、その発見の様子を動画にしましたので、左の画像をクリックしてご覧下さい。
 レミオロメンで有名な埋草神社の境内で、スギッチは2年間、じっとうつぶせのまま、発見されるのを待っていたのです!それを、なんと落とし主であるウチの娘が偶然発見するという奇跡。神様ありがとう。そして、スギッチよ、ごめん!
 しかし、結構グロ動画ですね(笑)。目が取れてるし。ま、これだけ見ても事情が全くわからないと思いますので、ちょっと説明します。
Uni_2289 今日は、レミオロメン仲間による恒例のお花見の日でした。御坂あたりは、5分咲きから8分咲きといった感じでしたが、お天気にも恵まれ、みんな大満足。皆さん持ち寄りのお弁当をぜいたくな肴にして、私は地元夏目原の「腕相撲酒造」…すごい名前だな…のにごり酒「黒駒の勝蔵」をぐいぐい頂きました。黒駒の勝蔵とは、有名な甲州の侠客の名前ですね。甲州は独特の侠客文化があったんですよ。
 桜もちょうど満開、菜の花も満開、虫たちもせっせと活動し、生命感溢れる、まさに春!ということで、レミオロメンの歌詞の世界がそこら中に満ち溢れていました。気の合う仲間とこうして1年に1回楽しい時間を過ごせるというのは、実に幸せなことです。こんな出会いを作ってくれたレミオロメンには、本当に感謝です。

Uni_2273 さて、それでですね、我々は最後にこれもまた恒例となっている「埋草神社」への参拝をしました。埋草神社とレミオロメンの関係については、こちらの動画をご覧になるとよくわかると思います。
 境内の桜もまたちょうど見頃でして、子供たちを筆頭にみんな歌う歌う…「Sakura〜Sakura〜♪」。きっと藤巻くんもこの桜を思い浮かべながら、あの曲を作ったのでしょう。
 我々は昨年一昨年も、埋草神社を訪れているのですが、その一昨年ですね、ウチの上の娘が、春休みに秋田でゲットしてきたスギッチの人形をなくしてしまったんですよね。その時はどこでなくしたか、実はわからなかったのです。だから、泣く泣くあきらめてしまっていたんです。
041403 で、今日ウチに帰ってきてあらためて確認したら、その2年前、神社で撮ったこの写真に、スギッチを持っている娘の姿が映ってるじゃないですか。そうか、やっぱりこの時スギッチはこの神社にいたんだ!拡大してみるとこんな感じです。Sgおお、スギッチよ。ごめん!娘はこの後、この神社の境内を駆け回っているうちに、お前を落としてしまったのだ。それから2年間、お前は参道の脇の草むらの中に突っ伏したまま、雨にさらされ、風に吹かれ、雪に埋もれ、雑草や虫たちにまみれ、こうしてじっと待っていたんだな…。うぅ…涙。
 いや、それにしても不思議なのは、この2年間誰にも拾われなかったということです。ある意味保護色であるとは言え、2年前は新品でしたからね、多少は目立つと思いますし、レミオファンのみならず、多くの人が訪れたはずなのに、どうして拾われなかったのか…。
 そしてまた、今日のこの日に、落とした本人、ウチの上の娘に発見されるなんて!もちろん娘はスギッチのことなんて忘れてましたでしょうし、探す気など全くなかったのです。ただ、あの時と同じように、境内を駆け回っていただけです。
 ううむ、やっぱり何か神がかっている。埋草神社の神様(なかなか個性的な神様なのですが…)、ありがとうございました。さっそく、救助されたスギッチを御神体として、ウチの神棚に安置いたしました。
 いやはや、それにしても不思議なことはあるものです。ぞ〜っとする反面、なんかとっても幸せな気持ちですよ。なんかいい予感!(笑)…なんて、スギッチにとってはとんでもない2年間だったと思いますが(泣)。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009.04.04

『刑事コロンボ 「だまされたコロンボ」』 (NHK BS-hi)

1 日のコロンボは面白かった。こういうパターン崩しというのは魅力的ですね。
 タイトルのとおり、今回はコロンボが完全にだまされました。結末的にはある意味逆転勝利でしたが、左の写真のシーン、犯人からの乾杯を拒否するところでは、いつもと違うコロンボの表情を見ることができました。いつものとおりの完璧な推理が、結局自らを敗北に導いてしまいました。屈辱と怒りの表情です。
 皆さんご存知のとおり、コロンボはいわゆる倒叙ものです。先に犯人と犯行現場を提示しておいて、いかにコロンボがそれをつきとめていくかという部分と、追いつめられる犯人の心理状態を楽しむ作りになっています。
 この倒叙ですと、犯行の背景や犯人像を詳しく描写できますので、シリーズとしては常に変化を楽しむことができます。単なるトリックものとして、あるいは謎解きものとしてではなく、人間ドラマとして長期間提供することが可能となるわけです。
 日本では、コロンボの二番煎じとも言われた「古畑任三郎」シリーズがこの技法を使いました。まあ、あれは三谷幸喜お得意のパロディーですからね。日本版コロンボと言ってもよいものです。
 で、今回の「だまされたコロンボ」は、その倒叙のパターンを崩した、というか、倒叙のパターンを利用したセルフ・パロディーのような趣向になっていたわけですね。原題は「COLUMBO CRIES WOLF」。邦題だと視聴者もちょっと構えてしまうかも。期待もしてまう反面、余計な予想をも喚起してしまいます。タイトルの難しさですね。
 結果として、我々視聴者もいつものパターンに乗っかって観ていると、すっかりだまされてしまうようにできていました。それこそが狙いだったのでしょう。ただ、最後はしっかり我々が溜飲を下げるようにできていましたね。そうしないと、みんななんとなく不満というか、消化不良というか、裏切られたような感じになってしまったことでしょう。
 予定調和というのは、それはそれで魅力ですよね。安心して観ていられる。しかし、そればかりだと、いずれ飽きられますし、興奮というようなものはなくなっていきますよね。かといって、いつも一寸先は闇だと、それはそれで不安ですし疲れちゃいます。ですから、そのバランスというのが非常に重要になってくるわけですよね。統一と変化。音楽の魅力と一緒です。
 ちょうど今、プロレス誌「Gスピリッツ」の最新号をじっくり読んでいるところなんですが、ここでは、まさに「予定調和を崩す」という意味での「対抗戦」について多くが語られています。
 最近のプロレスが、あまりに行儀良くなってしまっている、ある種のパターンにはまってしまっている、ということを再認識させる内容です。今は、ある意味では対抗戦ばかりなんですが、それもまた、どこか緊張感のないものばかり。美しいアンサンブルばかりでは、みんな飽きてしまいますね。レベルは高い好勝負が提供されているのは事実ですけれど、どうもあまりに予定調和的で、「闘い」の本質がうまく表現できていないんですね。
 音楽も全く一緒です。クラシックの演奏なんか、本当に予定調和に陥りやすい。どこまでアドリブを混入し、練習と違うことをし、一瞬でも緊張感を醸すか。これをできる演奏家はなかなかいませんよ。ジャズならまだしも、ポップスの世界でもそれはやっちゃだめみたいに言われていますから。
 そういうことを思い出しながら、今回の「だまされたコロンボ」を観ていました。ドラマもプロレスも音楽も、フィクションです。そこにどれだけリアルが混入するか、あるいはフィクションのパターンを豊かなものにするか。もしかしすると、昨日書いた「宗教」もそういうものかもしれないなあ。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009.04.03

『平成宗教20年史』 島田裕巳 (幻冬舎新書)

34498103 んか懐かしかったなあ…。この20年間をしっかり復習することができました。おそらく「平成政治20年史」や「平成経済20年史」、あるいは「平成音楽20年史」なんかよりもずっと自分にとって懐かしめるでしょう、「宗教」は。
 そんなことを言うと、この人はどんな人なんだと思われるでしょうね。でも、しょうがないですね、私はそういう人なんで。わざとそうしてるわけでもなく、別に「宗教」に依存しているわけでもないのですが、どうも縁はあるんですよね。
 もちろん、新宗教や新新宗教だけでなく、既成宗教にも縁が深いですよ。職場の母体は禅宗のお寺ですし(ついでにスキンヘッドだし)、趣味は神社巡りですし、キリスト教の音楽を盛んに演奏しますし、最近は少しイスラムの勉強も始めました。
 古めの新宗教関連としては、今ちょうど富士講の本も読んでますし、天理、金光、住吉あたりにも興味があります。そして、なんといっても不思議なご縁があって、ウチの鬼門には出口王仁三郎の耀わんが鎮座してますしね。大本も私に大きな影響を与えています。私は、霊的な何かをもって生まれて来ちゃったんでしょうか。
 まあ、このようにいろいろな宗教に触れているために、すっかり免疫ができているのもたしかです。かなり冷静にいろいろな宗教を観察することができると思います。
 そうした流れからか、とにかくこの本に登場する数々の怪しい平成宗教とも、変な縁がいろいろあったし、今でもあったりするんですよねえ。新新宗教については、だいたい敵対することが多かった。オウムをはじめとして、妙な教団に知り合いや生徒が入信してしまって、それを奪回したり(脱会させたり)、まあその過程でなぜか幹部にならないかと勧誘されたりしましたから(笑)。
 つい最近も、某学会と対立する某教団の人とケンカしましたし、こちらにも書いたように、懲りないアホ教団の粉砕に協力したりしました。ま、とにかくそっち方面では、私にはかかわるなと言われてるそうですから、我ながら大したもんだと思いますよ(笑)。あんまり調子に乗ってると抹殺されかねないので、なるべく自重してますけどね。
 この本は、以前紹介した『日本の10大新宗教』の続編です。『日本の10大新宗教』もとてもいい本でしたが、こちらも私にとっては非常に有用でした。単に懐かしむというだけでなく、宗教に投射される時代の空気というか、我々平成日本人の心性というか、そういうものが手に取るようにわかりました。そして、それが昭和の我々とどう違うのか、ということですね。
 案外心に残ったのが、共産主義と新宗教の関係です。共産主義が実質的に意味をなさなくなった平成という時代に、迷走を始めた新宗教たち。ある意味共産主義というのは、個人よりも集団の幸福を求めるわけでして、かなり宗教に近いものがありますね。というか、ほとんど宗教です。その宗教が「カネ」に負けたんです。それで、新宗教も「神」より「カネ」になっちゃったんですね。困ったものです。
 「カネ」は悪神のイコンですね。マネーの世界は、王仁三郎が嫌う「われよし」「つよいものがち」そのものです。資本主義、市場経済の時代の宗教は悪神に魂を売ってしまったのでしょうか。
 そういう意味も含めて、これからは再び共産主義が注目されるでしょうし、本来の宗教も復活することでしょう。さすがに人間はどこまでも馬鹿ではないと思います。あと何年か、何十年かして、平成の人間はいったいどうしてあんなだったのだろうと不思議に思う世が到来してほしいものです。
 私は、現在の我々の状態は、かの戦争の時の我々よりも、ずっと重症だと思いますよ。洗脳されているんです。あの時もそうだったように、洗脳されていることに気づく人は少ない。何か大きな変革が起き、いや、もちろん戦争はいやですし、核爆弾が投下されるなんてのはもっといやですけど、我々にかけられたマインド・コントロールが解かれ、我々に覚醒を促す何かが起きないとダメなんでしょうか。
 あっ、そう言えば、お隣の某国が「人工衛星」を打ち上げるとか言ってたなあ。明日あたりその「何か」が起きたりして…いやいや、そんなものに頼らず、我々は自らの力で覚醒しなければいけませんね。
 それにしても、島田さん、オウム関係ほかで、ずいぶんと苦労されましたね。ほとんど修行ですよ。法難とでも言おうか。そのおかげさまをもって、現在のような境地や地位を獲得されたわけですから、やはり全ての経験には意味があるということですね。島田さん自体が、なんか「神」に思われてきましたよ(笑)。

Amazon 平成宗教20年史

楽天ブックス 平成宗教20年史

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.02

スギ花粉のお話

5 日、生スギッチ初めて見ました。「釣りキチ三平」を観に行った大曲のイオンで仕事してました。なぜかコナン君と一緒にいました。二人はどういう関係なのでしょう。スギッチさんはたしか秋田県の県職員だったと記憶していますが、コナン君の映画の宣伝なんかしてていいんでしょうか(笑)。
 スギッチが県のキャラになるくらいです。秋田県と言えば秋田杉。杉の数はハンパじゃありません。どこを見回してもリアルスギッチ(つまり杉の木)ばかりです。面積比では全国一です。
 では、花粉症の方が多いかといいますと、残念ながら人口比は全国最低レベルです。43位だったかな。これは不思議ですね。
 逆にですね、我が山梨県は花粉症率全国一位です。たしかに周りの人はみんな鼻かんでる。くしゃみをしている。マスクをしている。しかし、杉の木の本数はなぜか全国最低レベルなんですよね。実に不思議だ。
 この事実については、実にテキトーな説明がなされています。曰く、「秋田の人はスギ花粉に慣れている」、「山梨には他県からスギ花粉が飛んでくる」と。
 そんな説明で納得できるわけありませんよね。実にテキトーです。では、どうしてこういうことになるのか。実は生スギッチに会った日まで、私にもさっぱり分からなかったんです。でも、その夜、リアル三平(一平)こと、カミさんのお父さんが、リアル三平(一平)ならではの重要なヒントを与えてくれました。
 ちょっと回りくどくなりますが、その時の話の流れを紹介します。まず、義理の弟と一日一食の話をしてたんですよね。その中で、栄養不足で精力が減退するんじゃないか、というよくある質問をされたんです。で、いやいや、それが逆なんだよ、みたいなことを言ってるところに、義父がやってきました。
 ふむふむ、なるほど、と義父もうなずいています。それで、私が、どんな動物も満腹な時には寝てばかり、ハングリーな時にこそいろいろ盛んになる、ミジンコとかもピンチの時に繁殖するじゃないっすか、というようなことを言ったんですね。そしたら、父がこう言ったんです。
 「そういえば、杉でも日の当たらないような所のやせてる木が、やたらと花粉を飛ばすなあ」
 私はその時、あっそうか!と思わず小膝を打ちました。さすが山のことを知り尽くしている。都会のもやしっ子である私なんかには、そんなこと全然わかりませんよ。
 杉の木も生命の危険を感じると、そうやって子孫を残そうとするんじゃないでしょうかね。生き物として、そういう発想というか、そういう行動に出るのは理にかなっています。
 そうすると、予想されることがありますね。秋田は今でもスギッチ…ではなく杉の産地として有名です。ですから、植林された杉は比較的ていねいに扱われています。しっかり間伐され、枝打ちされ、健康的に育っているものが多い。
 しかし、例えば山梨の杉なんか、たしかにひどいですよ。植えたはいいけれど、もうあとは放置。林業、衰退の一途をたどっていますからね。植えられた杉にとっては迷惑きわまりない話です。もう全てのスギッチが生命の危機に瀕しているとも言えます。ですから、バンバン花粉をまき散らすんじゃないでしょうか。
6 はなこさんという環境省のサイトを見てみましょう。たしかに秋田だけ花粉の飛散量が少ないですよね。これってやっぱりスギッチが元気で幸せだからじゃないでしょうか。
 人間界でも、この飽食の時代はまた少子化の時代でもあります。戦争や飢饉の時には出生率が上がったりもします。先進国よりも発展途上国の方が子だくさんです。まあ、あまり単純に語ってしまうことにも危険性はありますが、全くありえない話ではないのでは。
 杉花粉症は日本に独特の病気です。それも私が生まれた60年代の中ごろから突然始まりました。戦後国策として植林されたスギッチたちが、高度成長の始まりとともに見捨てられていった時期と重なります。
 どんどん豊かになって行く人間と、その人間の都合で集められ、のちに放置された、奴隷たちの反乱なのかもしれません。スギッチを奴隷だなんて思わず、県の職員にまで抜擢した秋田県民には、恩恵だけが与えられているわけです。
 私は、別にそのことに気づいてではありませんが、5年ほど前に一日一食を始め、その翌春には、超重症だった花粉症がほぼ完治してしまいました。それについてはこちらに書いたとおりです。今年もほとんど発症することなく、そのシーズンを終えられそうです。
 私は、結果としてスギッチに大事なことを学びました。花粉症に悩む皆さん、ちょっと発想を変えてみてはいかがでしょうか。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.04.01

我々が左右の手で大事に抱えているものとは…!?

2 勉強の時間です。
 「左」と「右」の最初の2画の書き順が違うことは、皆さん御存知でしょう。左は「一」から、「右」は「ノ」から書きますね。で、左の画像でもわかるとおり、「右」の「ノ」はちょっと短めです。実際には「左」の「一」も、もうちょっと短く書くんじゃないでしょうか。すなわち、1画目は短く書くのです。書道などやると、そう教わりますよね。
 この「左右」の字は自分の目から見た、自分の手の形を基本にして出来上がりました。つまり1画目の短い方が指というか手のひらというかで、長い2画目が腕ということになります。指(手のひら)から書くと覚えておけば、どっちがどっちだったか忘れても大丈夫ですね。
1 右の画像は説文解字の例を「左右」並べてみたものです。腕と手のひらがよくわかりますね。そして、それぞれ何かを持っているわけです。
 一般的には、「左」の「工」は呪具であり、「右」の「口」は祝告を収める器だとされています。そして、右手に器(口)を持って、左手に工を持って、なんらかの作法を行ない、神意を尋ねたのです。
3 そうそう、「尋」という漢字ですが、これこそ左右の手を合わせた様子を表す字です。左の画像はやはり説文解字のものです。たしかに手のひらも二つありますし、「工」も「口」もありますね。で、神に「尋ねる」となるわけです。
 そして、神様というのは、なんだかんだ言って私たちを助けてくれるわけですよね。それで、「左」にも「右」にも「助ける」という意味が生じます。それをさらにわかりやすく、あるいは俗っぽく人間の行動に変換したのが「佐」や「佑」という字です。「佐助」「佑助」という言葉がありますね。「さすけ」と「ゆうすけ」じゃないですよ。「さじょ」と「ゆうじょ」です。
 さてさて、話を元に戻します。「左右」という漢字ですが、もう一度右上の説文解字を見てみてください。自分の目から見た両の手と、抱えているものです。だんだんそう見えてきますね。さっき書いた通り、それぞれ神の意思を尋ねるための大切な道具です。「工」と「口」。
 もっとよく見てみてください。そして、ついでに一番上の活字の「左右」ももう一度。真ん中の「尋」の説文もどうぞ。
 「工」と「口」…「工と口」…「工口」…「エロ」…!
 しまった!だんだん「エロ(えろ)」にしか見えなくなってきたぞ。いかんいかん(笑)。これは神聖なる文字であり、神聖なる道具のはずなのに…。だめだだめだ、両の手で大事に抱えているのは、どうしても「エロ」でしかない!
 こちら漢字の成り立ちアニメ君をご覧下さい。もう、完全に「エロ」ですね!
 そう、実は、我々人間は左右の手で「エロ」を大事に抱えているのでした。
 …という夢を秋田で見たんです。自分でも今まで気づかなかったことを、夢の中で自分に教わりました。いったいどんな高度な(?)夢を見てるんだ、オレって…笑。
 …と、こういう夢を見たことを、実は忘れてたんですけれど、今日のネット・ニュースを見て思い出したんですよ。「エロマンガ島が沈没」っていう、エイプリルフールに毎年登場するネタです。
 ちなみに、今日の「左右」に関する記事自体にはウソはないと思いますよ。たぶん。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »