形容動詞って何??(その2)
昨日の続きです。「きれいだ」の「だ」や、古語の「あはれなり」の「なり」はいったい何者なんでしょう。
「なり」や「だ」が形容動詞というものの語尾でないとしたら、基本そっくり同じ活用をする断定の助動詞ではないか…いやいや、本当にそうなんでしょうか。
ここでことわっておきますが、現代語の「だ」は「にてある=である」の進化形(ポケモンかい!)…じゃなくて変化形、「です」は「にてさうらふ=でそうろう」の変化形ですので、いずれも「なり(にあり)」から変化したものですから、これからの話は全て古語の「なり」、あといちおう「たり」ですかね、こちらを中心にお話します。
今書きましたように、一般に断定の「なり」と言われるものは「にあり」が縮まったものと解釈されています。実はこの「にあり」の「あり」、これが鍵を握っていると思っているんです。ここが肝心なところです。
私は、「あり」というラ変動詞(私はこれにも異論がありますが)は、単純に「なし」の対義語で、存在していることを表すのではないと考えているのです。私は自分の「モノ・コト論」の流れから、この「あり」を、「認識」を表す語と定義しているんです(動詞ではない)。自己の認識の外にある「モノ」を内部に「コト」として取り込んだことを表すのが「あり」だと思っているんです。それは結果として「存在」の意味も包含しますが、かといって単にそれのみを表すものではありません。
同じラ変動詞に分類されている「侍(はべ)り」が、本来「偉大なる存在のおそばにお仕えする」という意味であるのは興味深い事実です。他者の存在が前提となっていますからね。その「はべり」が「あり」の丁寧語として用いられているのですから、「あり」にも他者依存性があることを示唆していると言えないでしょうか。
そういう目で、たとえば助動詞の「けり(過去・詠嘆・気づき)」や「たり(存続・完了)」、「めり(視覚による推定)」や「なり(聴覚による推定)」などを、もう一度見直してみましょう。
「けり」は「き(過去)+あり」、「たり」は「て(完了)+あり」、「めり」は「目(見え)+あり」、「なり」は「音(ね)+あり」に違いないと思います。そして、それらはいずれも、「あり」が付くことによって、自分が観察者として認識したという感じがするんですね。「私はそう情報として受け取った」とでも言えましょうか。他者から喚起されたと言ってもいいでしょう。「き」は個人的な事情や感情を超えて絶対的な感じがしますし、完了の「て(つ)」にしてもそうです。事実の叙述ですね。それが「あり」が付くことによって他者と自己の間の次元になる。
まず、「あり」の機能について、そのように考えるのが私の文法のベースになっています。いろいろな所で活躍するんですよ、この「あり」が。私の文法…「不二文法」とでも呼びましょうか(笑)…では「あり」がとっても重要なんです。
ですから、形容動詞と言われるものの語尾「なり」についても、同様に「あり」の機能と意味を加味して考えたいのです。すなわち、一般に形容動詞と言われる「○○なり(たり)」は、対象の「○○性」を認識した、対象から「○○」を読み取れる、対象から「○○」を喚起された、対象が「○○に(と)」思われる(自発の「れる」です)、という意味になると考えたいわけです。
その証拠と言えるかわかりませんが、いわゆる形容動詞の連用形とされる「○○に」の形の古い例、たとえば「あはれに」などは、「思ふ」などの知覚動詞にかかることが多い。その「思ふ」などを内包したのが「あり」であり、結果として「○○なり(にあり)」は「○○に(と)思われる」という意味になるというわけです。
形容動詞に、「〜げなり」とか「〜かなり」とかいう形が多いのも示唆的です。「げ(気)」や「か」はそういう気配、雰囲気を表すので、それを感じる、認識するというように考えると辻褄が合います。
ですから、「清し」と「清げなり」または「清らかなり」、「楽し」と「楽しげなり」などは、やはり違ったニュアンスを持っているとすべきです。形容詞の方が事実説明的、抽象的で、後発の形容動詞の方が個別的な感じがしますね。塚原鉄雄さんが、形容詞を「属性の抽出」、形容動詞を「状態の判定」としたのとつながるかもしれません。少し観点が違いますが。
というわけで、もし、私の考えが正しいとしたら、一般に形容動詞と言われる単語の、その語尾の「なり」や「たり」は、単純に断定の助動詞というわけではなく、その上接の言葉が示す性質を自分が認識したこと表し、結果として、いろいろな品詞(形容詞や名詞、感嘆詞など、外来語含む)を、形容詞風の意味と機能に変える働きのある辞であるということになります。
かと言って、形容詞とは明らかに素性も機能も違いますので、「ナ形容詞」とするのもどうかと思います(日本語教育上はそれでもよいと思いますが)。
というわけで、それを一体なんと呼べばいいのか、私はまだ考え中です。だいたい、その「なり」を助動詞としていいかも、ちょっと微妙ですね。渡辺実さんは、たしか「なり」を判定詞としていましたね。ちょっと近いような気もします。
ま、いずれにしても、形容動詞なる品詞は明らかに不自然な虚構であり、それに洗脳されてきた戦後教育界やら、無反省とは言わないけれど、逆の意味でとらわれ続けたとも言える国語学界(日本語学界)は、そろそろ覚醒しなくちゃいけませんね。
認識の「あり」を伴った「にあり」が、いわゆる断定の助動詞「なり」になっていく過程や仕組みについても書こうかと思いましたが、長くなったのでやめときます。
また、いつか続きを書こうかな。そんなこんなで、たぶんあと1000年くらいしたら、私の「不二文法」の全体像を発表できるでしょう(笑)。
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コメント
検索の結果、たまたま導かれて読ませていただきました。今日がはじめてですので、この「形容動詞」についての二つの文章についてだけのコメントです。ご了解ください。
英和辞典(英英辞典でも)で単語を引くと、発音記号につづいて記載されているのは「v」とか「n」とか「adj」なんてやつ――品詞の別ですね。日本語の辞書ではこういうのが出てきません。何かというと引き合いに出される『広辞苑』もそうですし、私のよく使っている『新潮社国語辞典』でも同じく。
「形容動詞」の存在を認めるのか、認めないのか、話がまとまらないのでは、載せようがありませんか。
ただ、言葉の意味を知るというのは、その使われ方を知り、使い方を知ることと別ではない筈です。だとしたら、いくら仲間割れがあるとは言っても、品詞の別に代表されるような、文法上の情報が記載されない辞書が一般的だというのは困ったことだと私は思います。
「形容動詞」についても、重要なのは「だ」や「な」をいったい何と見なすかではなくて、どう考えたら「使いこなすものとしての言葉」として有効かではないでしょうか。
たとえば、こんな感じです。
「健全な肉体」「健全な精神」という表現と「健康な肉体」「健康な精神」。これは、どれも違和感はありませんね。では「健全的な肉体」というのはどうでしょうか。あまり「一般的」ではありませんね。それでは「健康的な肉体」は?
「健康的」なんとかは今や巷では「普通的」ですね。
でも、私には大きな違和感があります。なによりもまず気持ちが悪いのです。
(「それは普通だ」とは言いますが、「それは一般だ」とは言いません。で、「普通的」はおかしく、「一般的」はおかしくありません。だいたいそういう構造になっています。そして、やたらに「~的」という表現を使うと馬鹿じゃないかと思われるようです)
「健康」は――命名はともあれ――形容動詞的な使用が適当な言葉です。だから、それに「的」をつけるのはオカシイだろう、という考えの筋道が可能です。
閑静的も神聖的も荘厳的も、現在のところは一般的ではないでしょうね。多くの人は違和感を覚えるでしょう。それと同様ですから「健康的」もオカシイはずなんですが……。
私のATOKでは(そう新しい版ではありません)「健康的」は、すんなり変換できます。上の閑静的その他は、すんなり変換しません。このあたりの事情が――単なる商売上の理由以外に――どうなっているのか、詳しいところは私は知りません。ただ、何と命名するかは別として、形容動詞の概念なしに“使える”日本語変換辞書を作れるかどうか、ということを問いたいですね。これは、別にコンピュータ・ソフトだけの問題ではなく、上に書いたような「言葉を使いこなす」という意味で言っています。
蛇足にもう一つ。「違っていた」の意味で「ちがかった」と言う人がけっこういます。これは、おいし“かった”、美し“かった”などという具合いなのでしょう。こういう変な表現も――日常生活とは何の関係もないように見なされているらしき――文法とやらを持ち出さないことには説明できないのではないかと私は考えています。
「形容動詞」の問題も、そんな面から考える必要があるのではないかと思うのです。
いきなりの書き込みを失礼しました。それでは、また。
投稿: 田中 敏 | 2012.03.21 02:33