吉井和哉 『VOLT』
日本のロック再び!ザ・イエロー・モンキー時代の超名盤「SICKS」に迫る充実度。いや、より高度な、すなわちストレートでシンプルな日本語ロックになっているかもしれない。
ソロになってからの吉井さんは、いろいろな意味で自分自身と向かい合うことが多く、そのためそうした内省的なミュージシャンが陥りがちな、短調でコードの循環するパターンにはまっていました。それがある意味では魅力であったのですが、しかし一方で、イエモン時代の妖しい輝きに欠けると思っていたのは、私だけではないでしょう。
内側に爆縮するのもまたロックの正しいあり方の一つではあります。しかし、吉井和哉のロックはやはり外に爆発してほしかった。もう一度そういう吉井和哉に会いたかった。そんな夢がこのVOLTで実現しました。いやあ、やっぱりスカッとドロッとはじけた吉井和哉はいいぞ!
久しぶりに音楽自体と戯れられたのではないでしょうか。音楽があって、その先に自分がいて、世界があるという感じ。これまでは、自分というフィルターというか、壁を通して音楽や世界を見ていたようです。
面白いもので、人は自分という壁にぶつかるとなかなかそれを越えられないものです。そして、その自分という壁を出現させるのは、社会というシステムであることが多いんです。社会とは、もちろん仕事=経済=カネでもあり、家族でもありました。ミルもこう言っています。
「人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である」
衝撃的な内容が綴られた『失われた愛を求めて―吉井和哉自伝』で、彼は自分にすがりつくそうした「社会」を強制的に振り切りました。そこで私も書きましたが、彼と太宰治はそっくりです。大宰も家庭という幻想から逃げ出して、そして復活しました。小説で再び自分を乗り越えて、そうして皮肉にも表現者としての自分を取り戻しました。
そういう意味では、いやらしいほど突き抜けて、自然体の吉井和哉がここにいます。おいおい、お前、それはずるいだろ!そう言いたいほどに伸び伸びしているではないですか。
彼にとっての本来の自分とは、今その時の「自分」ではなく、彼を育てた過去の全てなのかもしれません。それは、昭和歌謡曲であり、英国のロックであり、憧れた都会であり、遊んだ女たちであり、無心に掻き鳴らしたギターでした。
今回、ジャケットに、自らが少年時代に描いた富士山を、ある意味白々しく配置したのも、彼らしい逆説的な表現ですね。大宰もそうでした。富士山に畏怖の念を抱きながら、その呪縛から逃れるために、わざと富士山を否定的に描きました。もう吉井さんにとって、富士山は家族のいる場所ではなく、少年時代に静岡から眺めた単なる日本一の山になってしまったのでしょう。
私も含めて(?)富士山に残された人々は、ではどうすればいいのでしょうか。再び吉井和哉を遠いアイドルとして眺めればいいのでしょうか。私はそれでも全然構わないのですが…。
それにしてもあまりに自然体な日本語ロックですね。最初は、やったぁ!吉井和哉が帰ってきた!と思いましたが、だんだんむかついてきたぞ(笑)。男として、それはずるいとも思えてしまう。しかし、やっぱり憧れてもしまう。男の中に眠る、反社会的な「ロック」の魂が、そういう感情を芽生えさせるのでしょうね。
まあ、我々一般人にはできないこと、普通四十過ぎた男にはできないこと、そんなことをやる勇気を持った人間を天才というのでしょう。いつまでも子供で、いつまでも安定的な社会に取り込まれない、フラフラし続ける放浪のパワーを持つ人間、そしてそれを許してもらえる人間こそ、我々とは遠いところにいる芸術家たりえるのです。
富士山に残された側もたくましく生きてますよ。生きていきますよ。だってくやしいじゃないですか。くやしいからとことんこのアルバムを聴きこんでやろうと思います。
なんかアナログ盤もほしくなるなあ。アナログ盤でガンガン富士山に響かせてやりたいですよ。
祝復活!呪復活!吉井和哉。
Amazon VOLT 【初回限定生産アナログ盤】
楽天ブックス VOLT(初回限定CD+DVD)
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 田植えという神事(2012.05.24)
- 「目には青葉山ほととぎす初かつお」の句碑(北杜市上教来石)(2012.05.20)
- 大宮八幡宮薪能〜藤戸(2012.05.12)
- 杖突峠を越える(2012.05.06)
- 春の富士山麓、夕刻の風景(2012.05.05)
「音楽」カテゴリの記事
- 追悼 吉田秀和(2012.05.27)
- 追悼 ロビン・ギブ(2012.05.22)
- 追悼 フィッシャー・ディースカウ(2012.05.18)
- 追悼 ドナ・サマー(2012.05.17)
- 東方ヴォーカルArrange~TU・RALALA~(2012.05.13)

コメント