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2009.03.11

『無宗教こそ日本人の宗教である』 島田裕巳 (角川oneテーマ21)

04710175 日でしょうか、米国で無宗教派が15%と倍増 「宗教大国」に変化の兆しもというニュース記事を読みました。
 9.11以来、宗教こそが争いの原因であるという意識が強まったのでしょうか。
 この本でも当然触れられていましたが、一神教は原理的、排他的、排外的になりやすく、その結果、深刻な衝突を生む可能性を持っています。本来平和や平安を説くはずの宗教が、戦争の火種になるという矛盾は、豊かさを求める経済が貧富の差を生む矛盾とともに、世界史上頭の痛い問題でした。
 そういう意味で、そろそろその二大フィクションから抜け出すべき時が来ているような気がしますね。
 「一」は「他」を生み出します。何かを「唯一」と認識し、それを正しい、あるいは善と認識すると、当然その他は間違い、悪になります。
 実は、昨日の仮名遣いに関する記事、そして一昨日のレミオロメンのベストに関する記事にも、関係しているんですよ。自分がベストを選定するということは、まさに「唯一」という架空の真理を作り出して、それに依存することを意味します。これが絶対正しいなんていうのは、実は虚しいフィクションでしかないのに、我々はそこに自分の居場所を求めてしまいます。その結果、他を攻撃することになってしまう。特に、他者が違う「ベスト=唯一」を主張すると、これはもうケンカになるのは当り前。全く意味のない衝突が生まれます。
 その点、「無」は違いますね。この本でも「無」と「空」の違いが説明されていますが、あえてそれらの共通点を抽象して言うならば、やはりこの名句を挙げざるを得ませんね。「色即是空・空即是色」。
 全体を捉えれば、そこにはあらゆる区別は存在しません。そして、何もないことは何でもありです。「色」は存在全体、「空」は存在すらしない。我々は、全体の中の一部を認識することで初めて、何かを存在せしめます。何かが立ち上がると、「その他」も立ち上がるんですね。
 ワタクシ流に言いますと、その立ち上げた「一部」が「コト」、すなわちフィクションになります。そして、分節されていない「全体」が「モノ」ということになります。人間の全ての営為はそうした「コト」を為すことそのものですし、ニーチェが言うとおり、我々はフィクションに頼らずには生きていけません。しかし、その「コト」を為しつつ、いかに「コト」に執着しないでいられるか。
 それを実践してきたのが、日本の「無宗教」だと感じました。一見、無節操で、敬虔でなく、不真面目な我々の宗教的姿勢(思想ではありません)は、まさに「コト」「唯一」というフィクションに依存しきらない人間のあり方です。私も島田先生同様、そこに大きな価値を見出しますし、世界に対して誇りに思うべきことだと思っています。
 ただ、あまりにそこに主張しすぎると、結局「原理主義を否定するのも原理主義」という迷宮にはまりこんでしまいます。この本も、ややそういう危険性がありますかね。あまりに素晴らしい素晴らしいと言い過ぎのような気もします。
 まあ、それでも読んでいて気持ちよかったから良し。自分の姿勢を肯定されているわけですから当然ですけどね。
 面白かったというか、勉強になったのは、まずは、日本の農村における神仏習合の形を紹介した部分ですね。私もカミさんのふるさと、秋田の山村でその実体というか、生活というもの(たとえばこちら)を見聞しましたからね。非常によくわかりました。
 それから後半の、「仏教とカトリックは似ている」、「神道とイスラム教は似ている」という部分、これには目から鱗が落ちました。キリスト教と仏教の同質性は、私も前から認めていましたし、イエスが仏教に触れていた可能性も否定しない立場の人間なのですが、そういう教えの部分だけではなく、システムとしても仏教とカトリックが似ているというのは興味深かった。
 また、神道とイスラム教の類似性については、全く考えたこともありませんでした。島田さんも言うとおり、一般には真逆だと思われるんじゃないでしょうか。でも、実は生活に溶け込んでいるという面では似ていると。ここでも、キリスト教などの「他者」の存在によって、自己が立ち上がっているだけなんですね。
 ところで、「無宗教」ということで思い出したのが、いつもの出口王仁三郎のことです。彼は「万教同根」を唱えました。そして、「この世から宗教がなくなるのが理想」と主張しました。さまざまな「コト」が再び「モノ」に帰る時、理想の世、みろくの世が現出すると考えたのでしょう。彼は、「コト化」の進んだ近代の、その強大なベクトルに立ち向かったのでした。
 21世紀、王仁三郎に学ぶべき点が大きいかなと、この本を読み終わって再確認しましたね。

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コメント

蘊恥庵庵主様、こんにちは。

無とは空と色をひっくるめてしまったものが無なのでしょうか?
とすれば、多様性の中に原理主義の存在も認めることによって原理主義を否定する原理主義に陥らない。また、原理主義も極点に向かっていけばいくほど自分以外の他を立ち上がらせるのかと。そんなことを思いました。

投稿: ニキータ | 2009.03.12 12:57

ニキータさん、こんにちは!
とっても難しい質問ですね(笑)。
空と無…もちろん私もよくわかっていません。
でも、なんとなく私の中にイメージがあるので、それを紹介します。
「無」は「有」の反対の概念で、つまり概念であるから、ワタクシ流ですと両方とも「コト」に属します。
私たちが認識できるということです。
有るか無いかを判断できるわけですね。
ですから、「無○○」と言った場合の「無」は、基本「○○が無い」ということを私たちが判断して語っているということです。
「空」は、私の中では「無」よりももっと先にあるもののような気がします。
つまり、私たちが認識できない、意識化できない、もちろん言語化できない「モノ」なわけです。
では、なぜ「空」という言葉があるか。
それは、龍樹も言っていたと思いますが、あくまで方便というか、言語化できないことはわかっていても、仕方なく「空」として騙っているということです。
「空」という言葉で、実際の(?)空は語れるわけはないのですが、便宜上そうしないとならないのです。
ただ、皆に予感はあるのは確かで、そういう意味では「時間」もそういうものかもしれません。
いずれにせよ、仏教、特に禅宗で言う「無」は、本来「有る」ものを、意図的に無くす感じがします。
一方、「空」の方は、たとえば私たちという自己が、他者との関係性の中に縁起していて、何一つ思いどおりにならない、自己を規定できない、その真実そのものを示しているような気がします。
そうすると、本来「有る」と思っていた自己が無くなった気がする…それは「無我」ですね。
そして、無我に気づいて放り出されたところ、いや、実は無我に気づく前からそうだったんですが、そういう全く不随意で不可識な状態といか、真理こそが「空」であるという気がします。
で、龍樹が語ったように、一見虚しい言語化(コト化)…原理主義もその権化のようなものですが…を極めて窮めて究めて、そして結局無言になったところに「空」がある…「ある」ではないかな…とにかくそこは「空」だと思うんです。
ということは、あえて言えば、「色」の中に「有」と「無」が含まれているんじゃないでしょうか。
ああ、実に難しいですね。
ま、これが解ったら、私は仏陀になれますよ(笑)。
以上、本当に私の勝手なイメージですので、「無」や「空」に関しては、もっと立派な方の説を参考にされるとよいでしょう。
でも、こういうコトを考えるのも楽しいものですね。
そういう機会を与えてくださり、本当にありがとうございました!

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.03.12 16:52

ああ、確かにそうですね。
言語化できないものを形式的に空としていることに納得させていただきました。不滅の真理になぜ?を問いかかけてもそのものずばりは答えられない(真理自体を言語化して説明できない)。
また、有も無も概念としてあるということも分かりました。それを色として、言語化できないところはもう空だと。うん、なんか少しすっきりしました。
私も大変勉強になりました。庵主様のブログは本当に為になります。こちらこそありがとうございました!

投稿: ニキータ | 2009.03.13 13:06

ニキータさん、どうもです。
今回、私も言語化してみてすっきりしました。
対話の面白さですね。
これこそ、縁起しつづける自己なのでしょう。
たしかに「空」だなあ…。
無ではありません。
「空」というのは実に豊かですね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.03.14 08:58

前略 薀恥庵御亭主 様
有ること無いこと・・・
出鱈目コメントですが・・・。笑
在ることは「ある」し・・・
無いといえば「ない」ような。
たとえばぁぁぁ・・・
「青空」はたしかにあるけど・・・
無いといえば なんとなく
「ない」ような。笑
その「青空」のおかげさまで
いきている「愚僧」。
「青空」の実体に近づけば近づくほど・・・
「自分の存在」は薄くなっていく。
「自分の存在」が完全になくなると・・・
「青空」の認識も消えてしまう。
いまある「自分」に「感謝」する。
生きてる「自分」に「感謝」する。
こんな「コメント」を打っている
自分の「ゆび」に感謝する。
この「不二草子」さまとの
「御縁」に感謝する。
うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん。
愚僧の腹も「空」になりました。笑
合唱おじさん      頓首百拝


投稿: 合唱おじさん | 2009.03.14 15:24

合唱おじさん様、おはようございます。
おなかは満たされましたか?笑
「青空」のお話、そのとおりですね。
まさに「色即是空・空即是色」。
だいたい「そら」と「くう」は同じ字ですものね。
それにしても、自分や世界が本当に存在するのか、
そこに自信がなくなりますと、
不安になるどころか、妙に安心するのはなんででしょうね。
気が楽になるのでしょうか。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.03.16 06:25

前略 薀恥庵御亭主 様
「ラーメン」食ってきました。笑
時聞痔針×自分自身◎・・・基本
「御気楽人生」ですね。
愚僧の「存在」などは・・・
結局薬局合奏曲 まことに空(むな)しい
経×屁(へ)◎の様なもんです。
兎にも角にも・・・
銘枠旋盤×「迷惑千万」◎です。
まぁぁぁ・・・それでも・・・
すこし時がたてば・・・臭(にお)いも
消えてなくなりましょう。笑
何卒 誤安心×御安心◎下さいませ。
えぇぇぇぇ・・・・
しかし ながら・・・
自分自身の「存在意義」を・・・・
医大×胃大× 「偉大」◎と目(もく)する
御仁(おかた)には「人生」は・・・
きっと「肩の凝(こ)るもの」になりましょう。
愚僧の生きる指針は・・・・
「適当」「敵逃」「笛道」です。笑
うぅぅぅぅぅん・・・
なんだかんだ炒っても×言っても・・・・
やっぱり・・・
愚僧のコメントは総(すべ)て「絵空事」ですね。苦笑
どうぞ お許し下さいませ。ぺろり×ぺこり◎
合唱おじさん      頓首百拝

投稿: 合唱おじさん | 2009.03.16 18:37

合唱おじさん様、おはようございます。
人生の指針が「適当」…これは素晴らしいことです。
私も実は一緒ですよ。
私はさらにテキトーかもしれません。
生徒に言わせると、
「はったり」「ちゃっかり」「ぼったくり」
でそうです。
褒め言葉だと思ってますが。
最後のだけはなかなか実現しないんですけどね(笑)。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.03.17 08:57

前略 薀恥庵御亭主 様
「ぼったくり」・・・・ですね。笑
コメントの流れを瞑想します。(一休さんのマネ)
ポクポクポク チーーン。←木魚と鉦(かね)の音(ね)
「ぼられる」「ぼる」「ぼったくる」
「ぼりたくる」・・・・英語でRIP OFF ?笑
用例としては・・・・
「あの糞坊主の糞読経じゃ・・・布施のボッタクリだ」笑
私は・・・「実践」してますね。笑
愚僧も彼岸の入りにあたり・・・・
少進× 違う 商進× 違う・・・
消尽× 違う 焼尽小人×××
「精進」致します。
時々・・・御布施を開くと「空」の場合が
御座います。→これぞ誠の「因果応報」「自業自得」ですね。笑
空見僧・・・絵空事僧「合唱おじさん」廃×灰×拝◎


投稿: 合唱おじさん | 2009.03.17 10:51

合唱おじさん様、どうもです。
なるほど!坊主丸なんちゃらという言葉もありますね(失礼)。
いえいえ、実にあたがたいポクポクポクチーンですよ。
そんなこと言ったら、私たち教師なんて、
もうまったくの地獄逝きであります。
それこそハッタリばっかりですし、嘘ばっかり(笑)。
私もお彼岸に少しだけ精進してみます。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.03.18 08:42

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