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2009.03.31

『釣りキチ三平』 滝田洋二郎監督作品

Turikichi_sanpei_campaign 「くりびと」の舞台となった山形の酒田や鶴岡、由良などを経由して、秋田から富士山に帰ってきました。雪を頂いた出羽三山や鳥海山、そしてそれらを背景に優雅に飛ぶ白鳥の群れを見た時、やはりあの名作はこの風景によって名作たりえたのだなと実感。東北の自然と人間の織りなす独特の厳しさと温かさが全世界に発信され、あのような栄誉を得たのは、また違った意味で喜ばしいことです。
 さて、その「おくりびと」の滝田洋二郎監督の最新作「釣りキチ三平」を昨日観ましたので、感想など書きたいと思います。この映画は「おくりびと」以上に、秋田の、東北の、日本の自然と人間の関係を示す佳作でした。
 ウチのカミさんの実家は、もともとの羽後町の山村から横手盆地の十文字町(現横手市)に引っ越してきました。近くに高速道路のインターチェンジもあり、大型店舗の並ぶ、都会と言えば都会です。雄物川の流れと豊かな田畑に囲まれ、また遠く奥羽山脈や鳥海山などを臨む、自然に恵まれた所と言えばそうとも言えますが、しかし、幹線国道沿いは、全国どこにでもある無個性な風景に変りつつあります。
 根っからの東京育ちだった私としては、以前住んでいた羽後町の山間部からこちらに引っ越すと聞いた時、身勝手にもちょっと反対してしまいました。なぜなら、あの素晴らしい里山の風景は、私にとってまさに楽園、ちょうど映画「釣りキチ三平」に出てくる風景そのもののような魅力があったからです。
 しかし、実際には積雪は3メートルに迫り、農業経営も困難、医療や生活物資の調達さえ不便となれば、そこに生活する者の苦労は計り知れません。私がどうのこうの言うべき立場ではありませんね。
 実はこの「釣りキチ三平」にはそうしたテーマが仕組まれていました。そうですねえ、私は「一期一会 キミにききたい!…都会と田舎の話@秋田」を思い出しながら観ましたよ。ああいうテーマなんです。で、結末的にも同じになっていました。
 そう、全体にストーリーや演出がベタでして、ある意味、いや本当の意味においてコテコテの映画です。しかし、もともとが娯楽作ですし、なにしろマンガが原作ですからね、これでいいと思います。なぜなら、そうした田舎や自然が勝つという予定調和こそが、我々都会人(今や日本人のほとんどが都会人でしょう)が望むものであるからです。あるいは世界中の都会人(映画を観る人はほとんど都会人でしょう)が望んでいることかもしれない。
 もちろん、都会化とは西洋化であり、もっと限定的に言えばアメリカ化です。ものすごくテーマを拡大すれば、この映画はそうした西洋化、アメリカ化への本能的な反発心が生んだものかもしれませんね。
 特に言語と文明の関係が面白かった。ネタばれになるのであまり詳しくは書きませんが、標準語と秋田弁…とは言っても全くネイティヴのそれとは違うなんちゃって東北弁でしたが(いや、リアルにすると私も含めて都会人には字幕が必要になっちゃう)…との関係ですね。言語こそが文明化の入り口であり、統制的な暴力の源であることを実感しました。
 ところで、「釣りキチ三平」の原作者矢口高雄は十文字町のお隣増田町の出身です。リンゴの唄の故郷ですね。矢口高雄にちなんでまんが美術館なんかもあります。ちなみに、いっしょに観た3歳の甥っ子が住んでいるのも増田町です。映画での三平の家は増田町にあるという設定になっていましたね。しかしロケは増田町では行われなかったとのこと。周辺の横手市、雄物川町、東成瀬村や由利本荘市、湯沢市、ちょっと離れて五城目町などで撮影されました。
 その秋田の自然がですね、非常にリアルで(まあ、そのままってことです)、それに親しんでいる私としては、こうしてあの風景たちが映画に固定されているというのは、また特別な感慨があるものです。私たちは大曲のシネコンで観たんですけど、まわりのお客さんたちも「あああそこだ」みたいな感じで盛り上がっていました。さぞうれしいことでしょう。ま、逆にネイティヴ秋田人からすれば、秋田弁のみならず、「そりゃないだろ」っていうこともあるでしょうけど。
 昔、ある成人映画を映画館に観に行った時、それが山梨でロケされたもので、客席のおじいさんたちが本来の目的(?)を忘れて、「これはあそこだ」とか、「これは変だ」とか熱論していたのを思い出してしまいました(笑)。
 そうそう、十文字町では「あきた十文字映画祭」というイベントが行われています。なかなか渋い映画祭なんですけど、ピンク映画部門があるんですよね。これは素晴らしいことだと思います。世界に誇る日本映画を支えてきたのは、言うまでもなくピンク映画、成人映画でありました。今でも作品としてちゃんと作っている人たちがいるんですね。アカデミー賞監督となった滝田洋二郎監督も、もちろんピンク映画の巨匠でした。というか、私にはその印象が非常に強いのですが。
Ho05 話がいろいろ飛んで申し訳ありません。最後に「釣りキチ三平」に関わる義父のエピソードを二つほど。
 義父はリアル三平というか一平というか、そういう人なんですけど、あのクライマックスのシーン、夜泣谷という設定になっている法体の滝ですね、あの滝の上流に、手代沢という本当にイワナなどの魚の宝庫があるんだそうで、以前家族で法体の滝に行った時、急にそこに行くと言いだしたらしい。本来その沢に行くには、車で山へ登ってそこから歩くらしいのですが、義父は何を思ったか滝を遡上すると。野生の本能でしょうか。映画にも滝の脇を登るシーンがありましたね。まあとっても危険なわけですよ。で、父は滝の脇の崖を、サンダル履きに釣りざおを右手に持ってスッタカタッタと登っていったそうです。いや、あのでっかい滝ではないですよ。その上にさらに2段小さな滝があるんだそうですが、そこです。とは言え、あまりにも無謀なので、家族みんなで「やめれ!」と止めたそうですが、言い出したら聞かないリアル三平は制止を無視して行っちゃって、しばらく帰ってこなかったとか…笑。おそるべし、自然児。
 それから、これは数年前の話ですが、父とカミサンが増田町の山奥の温泉に行ったついでに、そういえばこの辺に矢口高雄の実家があるはずだと思い、どうせなら探してみようということになって、道端で日向ぼっこしていたおばあさんに「矢口さんの家はどこですか?」と聞いたんだそうです。考えてみれば、矢口高雄というのはペンネームですから、こういう聞き方もちょっと変なんですけど、そのおばあさんが何と答えたかとというと…「あ、ここです。私が矢口の母です」。
 ううむ、神がかっている。ウチの突撃力&実現力の源泉はどうも義父にあるようです(笑)。

映画「釣りキチ三平」公式

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2009.03.30

『赤田の大仏』&『折渡延命地蔵・千体地蔵尊』

大仏さんと記念撮影
Akata 3歳にして仏像マニアである甥っ子を連れて、由利本荘市に行ってきました。
 まずは、4年前一人で行って大変不思議な体験をさせていただいた長谷寺「赤田の大仏さん」に再び参拝。今度は大勢で賑やかにお参りしましたので、あの感じはとても味わえませんでした。まあ、おかげで冷静にいろいろと観察できましたが。
 甥っ子によりますと、これは「大仏」ではないとのこと。あくまで「十一面観音像」であると主張しておりました。奈良の大仏を実際に見ている彼からすると、これはまだまだ「大」とは言えないのでしょう。しかし、いったいどんな3歳児なんだ(笑)。
 4年前の記事にも書きましたけれども、本当にこの東北の片田舎にこんなに立派な十一面観音立像があるというのは不思議でなりません。江戸時代、是山禅師が観音像を安置したとのことですが、是山禅師についても正直よく分かっていないようです。いちおう曹洞宗のお寺ということですが、もう山門にいきなり出羽三山の神様が鎮座していますし、大仏の両脇も不動明王と蔵王権現であり、いかにも陸奥らしい、あまりに見事な神仏習合ぶりを見せています。
 毎年8月22日には、なんでも珍しい神仏習合のお祭りが行われるそうで、その説明を読むだけでも、正直ナンダコリャな素晴らしい世界が展開されることがわかります。詳しくはこちらをどうぞ。いやあ、一度実際に見てみたいですね。
 私は感覚からしますと、東北地方に仏教が伝来したのは、けっこう最近のこと(まあ江戸時代中期以降)のようですね。それも古くからの神道や修験道の勢力があまりに強かったので、ある意味歩み寄って習合していかないと布教も難しかったのでしょう。もちろん、単純な本地垂迹などではなく、神道の方が優勢だったように思えます。
 もしかするとキリスト教の伝来の方が、仏教のそれより古いかもしれない。これは冗談ではありませんよ。いずれその辺についても書こうと思っています。カミさんの実家でもちょっと不思議なことがあったりするんで。
Sentai さて、「赤田の大仏」をあとにした私たちは10分ほど車を走らせ、次の目的地「折渡延命地蔵・千体地蔵尊」のある所へ向かいました。峠を上り切って少し下ったところにそれは立ち並んでいました。
 この延命地蔵尊も是山禅師が造ったものだと伝えられています。旅人の安全を祈願して峠に安置したのだとか。それにちなんで、後の人々がお地蔵さんをたくさん並べたようです。今その数は1000以上。なかなか壮観です。いやあ、何にも知らないでこの峠道を夜通ったらびっくりしますね、きっと。急な崖に並ぶ無数のお地蔵さん。旅人の安全どころか、あまりの衝撃に運転を誤りそうです(笑)。
 甥っ子は、特にお地蔵さんが好きだということで、アメを一体に一つずつ奉納しておりました。当然アメは足りるはずもなく、以下同文という感じで省略していました。そりゃ仕方ないですね。一体10円ずつでも10000円になっちゃう。
Uni_2236 そうそう、旅人の安全(?)ということでは、なんだか、道端に超でっかい石が転がってるんですよ。よく見ると説明書きがありまして、「平成の霊石」と名付けられています。なんでも、平成5年に山の頂上からこの巨石(33トン!)が落下してきたとか。危険きわまりないではありませんか。まあ、けが人がいなかったということは、お地蔵さんの御利益があったとも言えますけど。位置的にどう見ても、お地蔵さんには被害が及んだと思われます。いや、お地蔵さんが身代わりになってくれたのか。それにしても危ないなあ。山全体が現在でも危険な状態らしく、頂上付近はしっかりコンクリートで固められています。
 六地蔵の隣に鐘撞き堂があったので、一発ゴーンとやって帰ろうと思ったら、なんと全自動ということで、撞けませんでした(笑)。なんとも複雑な心境。なぜかドリフのコントを思い出してしまった私。すみません不謹慎で。
3 さて、ちょっと興ざめした私たちに感動を与えてくれたのは、峠の帰り道で出会ったカモシカの澄んだ瞳でした。道端でこちらをずっと見ていました。それこそ神々しいお姿でした。
 このあと、私たちは105号線を大曲へ向かい、映画「釣りキチ三平」を鑑賞したのですが、それについては明日にでも書きます。

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2009.03.29

『鎌鼬の里』から小安峡温泉『多郎兵衛旅館』へ

0277 田二日目。まずは昨年の今日も訪問した「鎌鼬の里」へ。義母の実家のある所です。
 「鎌鼬」で土方巽と堂々とわたりあい見事な存在感を示している高橋市之助さんにも1年ぶりにお会いしてきました。残念ながら、奥様は昨年の6月にお亡くなりなってしまいました。3月にお会いした時は、本当にお元気で、あの写真集で見せたふくよかな笑顔で、私たちの不意の訪問を温かく迎えてくださったのですが…。きっと市之助さんもお気を落としていらっしゃるだろうと心配しておりましたが、お元気そうでいらっしゃり、私たちを思い出すと、椅子から立ち上がって私たちを玄関に迎えてくださりました。ありがとうございました。
 「鎌鼬の里」も今年は雪が少なかったと言います。しかし、さすがは日本随一の豪雪地。まだまだ雪がたくさん残っておりました。この雪が春の日差しで豊かな水となり、人々の生活を支え、そして秋にはたわわに実るあきたこまちになるんですね。
 「鎌鼬」からもう45年近くになりますが、この里の基本的な営みは変っていないのでした。
 さて、鎌鼬の里から帰ってきた私たちは、湯沢市皆瀬の小安峡温泉へ。途中、稲庭うどんで有名な稲川町を通過し、右手に毎年夏のプロレス祭り「みちのくメルヘン」の舞台となっている旧皆瀬村役場を見ながら、さらに山を登りますと、まずは大きな皆瀬ダムが見えてきます。たくさんの白鳥が羽を休めていました。
1 そのダムに水を注ぐのが皆瀬川です。そこにかかる橋から眼下を望むと、その深さに本当にめまいがします。旅館のバスの運転手の方が、道端の雪を固めて橋の上から谷底に投げ込んでくれました。その様子を動画に撮ってみましたので、右の画像をクリックしてみて下さい。あの迫力と恐怖が伝わるかどうか。
 そして、その川床から大量の湯気が上がっているのが確認できますね。これが有名な大噴湯です。1時間に98℃のお湯が10トンも噴き出しているとか。でも、あんまり深い谷底での出来事なので、橋の上からではちょっと迫力不足ですね。ずっと階段を下って間近に見ることもできるそうです。あの谷底に降りていくのもけっこう勇気がいりますね。
Photo_01 さて、しばし足をすくませた我々は、近くの「多郎兵衛旅館」に向かいました。今日はここで義父の還暦祝いを催しました。
 お昼過ぎに旅館について、まずはみんなでゆっくり温泉につかりました。なにしろ、この小安峡温泉は、かなり古くからの湯治場であり、「多郎兵衛旅館」の初代の名前も、あの菅江真澄の書物に現れるとのことで、その歴史と価値の重みを実感できます。
 旅館自体は2年ほど前にリニューアルしたとのことで、清潔感あふれる大変立派な造りでしたが、お風呂も含めて、大正ロマンの感じをうまいこと演出しており、レトロな雰囲気も適度に味わえましたね。
 お湯はアルカリ性の単純泉。刺激も少なく、やわらかいお湯で、ちょっと触れるだけですぐに肌がスベスベになりました。湯温も私好みで熱すぎず、ゆっくり休むことができました。あの罰ゲームをやってから、腰をすっかり痛めてしまい、靴下を履くのも難儀な状態だったのですが、おかげでだいぶよくなりました。助かった…。
Uni_2213_6 さあ、お風呂も良かったけれど、なんと言ってもお食事のおいしさについて語らねば…だけど、細かい食材なんかは忘れてしまった。なにしろ秋田独特の食材ばっかりだから、名前からして初めて聞くものばかり。カミさんに聞けば分かるだろうけど、全部書き出すのはちょっと面倒なので、省略します。すみません。下の旅館のホームページで少し分かるかな。まあ、とにかく春の味覚満載で、最高においしかったということです。写真左上の空のお皿には、のちにイワナの蒸し焼きがやってきました。はらわたを抜いて、代わりにバッケ(ふきのとう)とクルミの味噌が詰まっていて絶品でした。
 お酒は、「十二代多郎兵衛」という純米吟醸生貯蔵酒をいただきました。これがまた辛口でうまかった。生にしてはずいぶんと淡麗で、食事の味覚を損なわない銘酒でしたね。つい飲みすぎてしまいました。
 サービスも含めて大変いい印象を持ちました。ぜひ今度は宿泊したいですね。

多郎兵衛旅館 公式

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2009.03.28

秋田に到着

↓秋田のおばさまたちに熱烈に歓迎されるワタクシ
20090328k12 言うのは冗談で、イ・ビョンホンが秋田を去るのと入れ替えに、ワタクシがやってきましたよ(笑)。
 毎年恒例となっている春の秋田訪問。今年は久々に東北道を使いました。いつもはなるべく高速代をかけないため、そして都心の渋滞を避けるために日本海沿いコースで北上しますが、麻生総理のおかげで(?)東北道を使うことができました。計画通り、通行料は2400円。十文字のインターを出る時の、あの「1000円」の表示にはさすがに感動しましたね。通常ですと、加須から十文字まで9900円ですから、ほとんど10分の1です。人間というのは単純でして、麻生さんがいい人のように思えてきます(笑)。定額給付金だってもらえばうれしくないわけないし。ま、政治なんて愚民をどうだますかってことですからね。
 さて、昨夜の11時20分に富士山を出て、今日の9時20分に到着ということで、途中小刻みにPAで仮眠を取りましたので実質8時間のドライヴでした。日本海沿いコースですと、どんなに頑張っても10時間はかかります。ただ、やっぱり東北道は単調で面白くない。特に今回は夜でしたから、なんの刺激もない中8時間眠気を我慢して運転し続けるというのは、なかなか酷です。実質時間は短かったとはいえ、なんだかとっても長いドライヴに感じましたねえ。
 日本海コースは山あり海あり、いろいろな町あり、いろいろな霊場ありで、全然飽きないんですけどね。ちなみに帰りは平日ですので、日本海をまわる予定です。
 というわけで、ちょっと退屈気味に岩手まで来まして、そして北上ジャンクションで直角に曲がり、奥羽山脈を越える段になしたら、突然の地吹雪状態になりました。雪が横から、あるいは下から降ってくる。ああいう状態を「降る」というのかよくわかりませんが、とにかく雪は上から下に移動するものだと思い込んでいる太平洋側の人間からしますと、なかなか刺激的な風景です。
 なんでも今年の秋田は雪が少なく、カミさんの実家のある横手市(以前は羽後町の山奥でしたが)でも、つい先日まで全く雪がないという、ある意味非常事態になっていたそうです。この冬は一度も雪下ろしをしなかったとか。楽と言えば楽ですが、冬に雪の少ない年は冷夏になるとの言い伝えもあり、農業立国秋田としては、能天気に喜んでもいられないとのことでした。
0275 で、朝早く到着したわりに、結局私はず〜〜っと昼寝をしていました。今日の私は、ただ寝て、おいしい芋の子汁をいただいて、おいしい酒を飲んで、フィギュアとK-1を観ただけでした(笑)。この緩い感じが秋田の魅力ですねえ。
 カミさんも言ってましたが、どうしてこうも秋田の昼下がりは眠くなるのか。たしかに、みんな昼寝するんですよね。お昼ご飯のあと小一時間。そういう習慣なんだそうです。たぶん、農業従事者の生活サイクルなんですよね。朝早く起きて、朝飯前に一仕事して、朝ご飯(今で言えば昼ご飯になるんでしょうね)の後、昼寝をして、また夕方まで農作業。そして、夕飯を食べて、お酒をいただいたら寝る。夜は7時半頃には寝てたとか。なるほど、なんとも人間的な、自然的な生活ですね。都会的な生活とはずいぶん違います。
 こうして、年に数回体験する「秋田タイム」は、かなり非日常的であり、最高の気分転換になります。まあ、普段も富士山の大自然に抱かれて生活しておりますが、なんていうかなあ、生活の根本部分というか、人間の根本部分での「自然」を感じられるのは、やっぱりこっちなんだよなあ。実に魅力的な所です。

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2009.03.27

高速.jp

2 よいよ高速道路1000円が始まりますね。ウチも今日の深夜に出発しまして秋田に向かいます。
 昨日書いたように、当初は日本海側を回って新潟の中条まで1000円で行き、あとは「おくりびと」のロケ地などを回りながら下道で行こうと思っていたんですが、雪がけっこう激しいようなので、今回は久々に太平洋側を行こうかと思います。つまり東北道ですね。
 ここ富士山から東北道を行くには、どうしても都心を通らねばなりません。そうすると現状では1000円というわけには行かず、3500円ほどかかる計算になります。
 もともと首都高があんまり好きではないので、いろいろと料金などを検討した結果、圏央道の現時点での終点、川島まで行って、そこから下道で加須まで行こうかと思います。そうすると2400円で秋田の十文字まで行けます。普通だと13000円くらいかかりますから、ずいぶんと安くなりますね。4月28日以降は都心を通ってももっと安上がりになるようです。
 今回、そういう複雑な料金体系の計算に使ったのが「高速.jp」です。
 各NEXCOのサイトの料金検索が、どこも28日にならないと新料金体系に対応しないとアナウンスされていた中(実際には今日使えてましたが)、いち早く19日から使えたのが、この「高速.jp」でした。
 今、夜の10時半くらい。もうすぐ出発するんですけど、NEXCOのサイトは混んでるんでしょうかね、重くて重くて使いものになりません。それに比べて「高速.jp」は軽くていいですね。たぶんシステム自体も軽く出来ているんでしょう。
 この「高速.jp」は、ゴーガという会社の開発したページです。このゴーガという会社、なかなかユニークなサービスを展開していますね。ネットという新しいメディアは、アイデア次第で今までと全く違う世界を展開することができます。
 今日は忙しいので短めに。たまにはこういうのもいいでしょう。
 では、そろそろ出発します。行ってきます。

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2009.03.26

『おくりびと』 滝田洋二郎監督作品

51zibcdjjl_sl500_aa240_ ればせながら観ました。学校で生徒たちと一緒に鑑賞。たしかにいい映画でした。
 内容的には、先月書いた「フィクションから生まれるリアルのお話をちょっと」という記事で予想したとおりでした。あえてその時書いた文を引用します。

 …まず、日本の2作品がアカデミー賞を受賞したことです。「おくりびと」、実はまだ観ていないのですが、観ていなくともじゅうぶんに想像できます。作品としての物語というのももちろんありますが、それ以上に、それ以前に、「納棺師」というお仕事の持つ美しいフィクション性が感動を呼んだのであろうと。
 人間の死はあくまで現実です。それは単純に悲しいもの、あるいは悲惨なもの、汚いものとしてとして片づけられるものではありません。そこに、実に形式的で、様式的で、ある意味フィクショナルな儀式が加わることによって、ある次元に高められるわけですね。そこには、単純な現実を超えたリアルが生まれます。それぞれの人の持つ、それぞれの感情が昇華され、オーガナイズされ、一つの形に収斂していく。
 そのような「カタリ(語り・騙り・形り・固り)」がなければ、私たちはたいがい残酷な現実にさらされて途方にくれるものです…

 このように予想し、まったくその通りだったということ自体、日本映画の一つの「型」を示しているとも言えましょう。私はそれが好きです。小津安二郎作品がそうであるように、「もののあはれ」を「型」を通して静謐に語り続ける。それが欧米でも評価されたというのは、喜ばしいことですね。
 内容については、本当に多くの方々が語ってくれているとおりですので、今日は少し違った視点から感想を書こうと思います。
 まず、全体を通じて、同じ本木雅弘さん主演の「ファンシイ・ダンス」との共通点を多く感じました。まあ、それこそ、日本映画の脚本の「型」であり、王道なんですけどね。
 厭われる仕事。それにいやいやながら従事しなければならない主人公。離れていくパートナー。次第に「形式美」に目覚め、それにはまりつつ、成長していく主人公。予想外の事態がターニング・ポイントとなって、一気にクライマックスへ。
 もちろん、「ファンシイ・ダンス」は笑いの映画、「おくりびと」は泣きの映画という違いはありますが、基本は一緒ですね。そして、本木さんの「仕事」を通じての成長の物語としても、両者は見事につながっているなと思いました。「おくりびと」を観た方は、ぜひとも「ファンシイ・ダンス」もご覧になってください。
 本木さん、その「ファンシイ・ダンス」でも、本職の曹洞宗の僧侶をもうならせる演技をしていましたが、この「おくりびと」でもしっかり役者としてのプロ根性を発揮していますね。納棺師の作法についてはよく分かりませんけれど、とりあえず私の専門(でもないですけれど)チェロの演奏(の型)については、充分に努力の跡がうかがえました。なんの映画やドラマでもそうですが、その道のプロから見ると、ずいぶんと不自然に見えることが多い。特に、ヴァイオリンやチェロは難しいと思います。私も四半世紀弾いてますけど、まだまだかなり不自然です(笑)。本木さん、よく頑張っていたと思います。
 「ファンシイ・ダンス」でも感じましたが、本木さん、とっても器用な上に、身体の線が美しく、何をやっても様になるんですよね。ある意味本職よりも美しい。セリフや表情ではなく、挙止動作で魅せる役者さんは、実は珍しい。それこそ、日本の伝統的な芸能の線上にいるような感じがします。貴重な役者さんです。
 山崎努さんをはじめ、その他の役者さんもお見事。案外広末涼子さんもいい味を出していました。役者さんにとっては、案外死体役が一番難しいんじゃないかな、なんて思いながら見ていました。動きと言葉を奪われたら、これは役者さんにとってはきついですよね。
 映像的には、全体にスローなズームインが多用されていて、観る者の集中力を高める工夫がされていました。また、庄内地方の美しい田園風景や霊山鳥海山が巧みに挿入され、素晴らしい効果をあげていました。
 そうそう、ちょうど明日からあのあたりに行くんですよ。カミさんの実家秋田に行く途中、鶴岡や酒田、由良を通りますからね。出羽三山や鳥海山を望みながら。ちょうどいいタイミングでした。ロケ地巡りしていこうかな。せっかくだから。
 最後に。主人公をチェリストに設定したのは大成功だと思いましたね。楽譜に書かれた音楽を演奏するという行為は、情報という「死体」を、お支度し、お化粧し、旅立たせるようなものですから。私ももうちょっと心を込めて「旅立ちのお手伝い」をしなくちゃって思いましたよ(笑)。

Amazon おくりびと

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2009.03.25

フジファブリック 『Sugar!!』

 WBC2連覇にちなんで、ちょっとフライング気味ではありますが、4月8日お釈迦様の誕生日に(?)発売されるフジファブリックの新曲を紹介します。好きだあ、この曲。元気が出る。
 WBCにちなんだというのは、この曲が J SPORTS の2009WBC中継のテーマソングだったからです。たまたまウチではプロレスのPPVのためスカパーに入会したばかりだったので、何度かこの曲を聴きながら侍ジャパンを応援しました。
 私にとっても特別な思い入れのあるアルバムとなった『TEENAGER』から1年ちょい。満を持して発売となる新曲『Sugar!!』は、なにかが吹っ切れたんでしょうかね、スカッとひらけて飛び出した感じの名曲となっています。
 私はもちろん、彼らにとっても忘れることのできないターニングポイントとなったであろう、あの富士五湖文化センターでのライヴ。あれで何かが終わり、何かが始まったんでしょうかね。
 そうそう、このニューシングルには、ななななんと!その富士五湖文化センターでのライヴDVDがついてくるんです!カメラが入っていたので、なんらかの形でリリースされるかな、と期待していたんですが、実際こうなってみますと、非常に嬉しくワクワクしますね。なにしろ、そのDVDの内容が、こんな感じだからですよ。

 2008年5月31日
 「TEENAGER FANCLUB TOUR」追加公演 at 富士五湖文化センター
 1.大地讃頌 (Opening)※山梨県富士吉田市立下吉田中学校 平成七年度卒業記念(志村在籍)より
 2.ペダル
 3.TEENAGER
 4.茜色の夕日

 ハハハ…下中かよ(笑)。昨日の記事に出てくるヤツらの学校じゃん(笑)。おまえらこんな偉大な先輩がいるの知ってるのか?って感じです。ちなみに平成七年度の大地讃頌には、私の教え子で、今は同僚の先生として働いている子の歌声も入っています。彼女によると、志村君、あんまり目立たなかったけど、目が大きくて可愛かったとか(笑)。なんか地元って感じだなあ…。
 そして、私にとっても志村君にとっても、涙涙の『茜色の夕日』…。これが映像として残るなんてね、もう絶対家宝にしますよ。もうすでに泣けちゃいます。
 さてさて、『Sugar!!』の方に戻りましょう。上のYouTubeでお聴きになってわかるとおり、実に心地よい疾走感にあふれた楽曲ですね。最近、屈折した変態的な短調の曲よりも、こうしたさわやか(?)な長調の曲が目立つ彼らですが、そんな中にもちょっぴり変態が混じっていて、その感じがたまりませんね。
 たとえば、この曲で言えば、1番の「君と」の「と」のCisの音ですね。このたった一音のために、どれほど「君」への思いが変態的になっていることか(笑)。さすがですね。
 そして、サビでの転調。長2度下がる転調というのは珍しいですね。上げたくなるところですが、下げちゃうか。金澤くんのシンセのリフやソロも絶品。特にちょろっと入る非和声音が効果的。フジらしさ満開です。
 それから、なんといっても、今回はプロデュースが亀田誠治さん、ドラムスが刃田綴色くんというのが、すごすぎる!私には夢のようなことです。なにしろ「東京事変」ですからね。私、こちらで、亀田さんと刃田くんについて、ちょいと書いてますね。まさか、彼らがフジファブリックと絡むとはなあ。なんか世の中ワタクシのために回っているような気さえするぞ(笑)。
 刃田くんのつんのめりドラムがいい具合に疾走感を出してますね。ライヴでも彼が叩くようですから、これは楽しみです。どちらかというとすっとぼけた感じの曲が多いフジですが、そこに彼のようなアグレッシヴなドラムスが参加すると、全く違った音楽になっていくでしょうね。今からライヴが楽しみです。
 ああ、また市民会館(富士五湖文化センター)来てくれないかなあ…そんなにしょっちゅうやるべきじゃないのかなあ。じゃあ、都留のうぐいすホールでぜひ!この前ホールの方と話した時、フジファブリックの話が出ましたよ。国中(くになか…甲府盆地方面)のレミオロメンに負けないように、郡内(ぐんない…富士五湖周辺)の雄フジファブリックを盛り上げようって。話通しときますので!

PS 手に入れました!DVD、これは宝物ですね。私の坊主頭もたくさん映ってました…ピカピカ(笑)。かえすがえすも神ライヴでしたねえ…。再び涙、涙でした。

Amazon 『Sugar!!』

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2009.03.24

宿敵と雌雄を決した(?) 祝!WBC2連覇

 090324は持っていますねえ。最後に神が舞い降りてきましたね。あの打席では、日本がすごいことになっているだろうと思って、自分で実況しながらやっていました。普通結果が出ないんですけど、壁を越えた感じです」…イチロー。
 私はWBCが始まる前、神は、神審は、どこに行った?という記事の中でこう書きました。
 「たとえば、もうすぐWBCが始まりますが、やっぱりあそこに『神』はいないような気がする。いや、イチローはそれに近いかもしれないけれど、しかし、何かが違う。彼は神から技を託されている存在かもしれないけれど、神を招来する働きはしていないような気がする。天覧試合でサヨナラホームランを打って、日本の経済を動かしてしまうような力はないような気がします」
 まるで私の言葉をあざ笑うかのように、最後に「神」を招来してしまったイチロー。やっぱり彼は「神審」だった。いや、自身が言うように、今回初めてそういう境地に至ったのかもしれませんね。
 それこそ、長嶋茂雄という生き神様が降臨したのかもしれないなあ。あそこでああいう仕事をするのは、実に長嶋的です。さすがに感動しました。鳥肌が立ちましたね。
 9回にダルビッシュが打たれて同点になり、延長戦になった時点で、すでに奇跡が始まっていました。そして、10回、ランナーが出て、そして川崎があまりに簡単に凡退して、イチローにおいしいところが回ってくる。そして、そして、韓国がイチローと真っ向勝負してきたこと、それがまさに神の成せる業でしたね。あり得ません。もう物語として最高のお膳立てが揃っていました。
 9回にダルビッシュがしっかり抑えて優勝していたら、私は「やっぱり神は降臨しなかった」と書いたでしょう。しかし結果はこれですからねえ。さすがに参りました。
 さてさて、もうこの素晴らしい神事自体についてはこのくらいにします。世の中それ一色ですから。
 私はその周辺の気になったことをいくつか。
 まず言葉について二つ。韓国に対して「宿敵」という表現が何度も使われていました。また、韓国戦のことを「雌雄を決する戦い」とも言っていましたね。この二つの慣用表現について少し書きます。
 「宿敵」というのはどういう意味でしょう。「敵」はいいとして、なんで「宿」なんでしょうか。「宿」の原義は、私たちのイメージの通り「そこにずっといる」ということです。ずっといるということは、昔から何かが継続しているということでして、ですから「宿敵」とは「古くからずっと敵対関係にある間柄」ということになります。「宿便」みたいなもんか(笑)。でも、考えてみれば、韓国とはそんなに古くからこういう関係だったわけじゃありませんよね。どちらかというと新しい敵対関係でしょう。そのへんについては何度か書いた記憶があるので繰り返しません。
 それから「雌雄を決す」という言葉ですが、これって放送コードにひっかからないんでしょうか。フェミニストの方々は怒らないんでしょうか(笑)。今回で言えば、日本が「雄」、韓国が「雌」と決したわけでしょう。「雄偉」「雌劣」という言葉があるように、「雄」が強い、優れている、「雌」が弱い、劣っているというのが、本来のイメージです。これはまずいですよね。女性は怒っちゃいますよねえ。
 男尊女卑だ!ということではなく、現代においては雌、いやいや女性の方が強いのは明確ですから(笑)。ああそうか、では今回日本が雌で韓国が雄ということでいいのか。そういう意味で雌雄を決したということで。
 あと、全然関係ない話ですけど、今回ワンセグが大活躍したという話に関して。ええ、ワタクシもご多分にもれず仕事中の合間に(あくまで合間ですよ!?)テレビを観ていました。私は車の中のアナログテレビを観てたんですが、近くでどっかの中学の不良軍団がケータイのワンセグをみんなで観て盛り上がってたんですよ。
 で、私はアナログじゃないですか。衛星中継のタイムラグはあるとしても、まあ1秒以下でしょうか。いちおう生中継ということでオッケーとしましょう。それがですね、御存知のようにワンセグ(や地デジ)はエンコードとデコードに大変時間がかかるので、およそ3秒遅れているんですよね。ですから、中学生が盛り上がるのが、私が盛り上がった3秒後になるわけですよ。
 これはどんなもんでしょうか。生中継と言えるんでしょうかね。私はなんとなく優越感に浸ってましたけど。KeyHoleTVのところにも書きましたが、有事や災害時にはどうするんでしょうね。すぐに音声や映像固まるし。アナログ万歳!ですよ、まったく。
 あっ、最後にもう一つどうでもいいこと。「イチロー」というネオ仮名遣い。これはなぜかみんな認めちゃってますね(笑)。

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2009.03.23

栗コーダーカルテット 『ウクレレ栗コーダー』

5135nefc5nl_sl500_aa240_ 日、第24回都留音楽祭の実行委員会がありました。今年は8月16日から20日までの日程で行われます。特別講師は3年ぶりになりましょうか、世界を代表するテノール歌手ルーファス・ミューラーさんになる予定です。楽しみですねえ。そう言えば、3年前、ウチのカミさんルーファスさんにほめられてたな、「帰ってこいよ」で(笑)。
 さて、実行委員会の中で、吉沢実先生と話したんですけど、この前書籍版をあらぬ形で紹介した、アカデミー賞受賞作「つみきのいえ」の音楽って、栗コーダーカルテットのイケメン近藤研二さんが担当してたんですよね。ついに都留音楽祭からアカデミー賞が出たか!って話したんです。近藤さん、十数年前に都留音楽祭で勉強してる、ある意味卒業生なわけです。
 彼の所属する栗コーダーカルテット本体の活躍もすさまじいですね。吉沢先生、つい先々週も彼らとコンサートやってきたそうです。今や全国どこへ行っても大人気ですからねえ。
 たとえばウチのカミさんにその話をしたら、キャーッ!って言うんですよ。主婦にとって彼らはアイドルであると。子育て中のママさんたちにとって、彼らの音楽は昼間の家事育児のBGMですからね。ピタゴラスイッチをはじめとしてNHKのいたるところに彼らの音楽があふれていますから。忙しくストレスフルな主婦にとって、彼らの音楽はまさに福音であるらしい。あの微妙な脱力感が家庭の、世界の平和に貢献しているということですね。
 そうそう、この前、教え子がロックバンド「相対性理論」のライヴに行ったんですけど、なんと前座が栗コーダーカルテットだったというではありませんか。ああ、それ知ってる人だよ、とか言ったらビックリしてました。ロックと栗コーダーのコントラスト、なかなかいいセンスしてますね。とにかく、彼らの活躍はジャンルを越えているわけです。
 彼らの魅力を最もよく伝えるアルバムがこの「ウクレレ栗コーダー」ではないでしょうか。まず選曲が素晴らしい。くやしいけれど、私が宴会芸でやりたいと思った曲ばっかりです。そして、編曲が素晴らしい。くやしいけれど、私にも才能があったらこういうふうにやっただろうなあというアレンジぶりです。
 そしてそして、演奏が素晴らしい。リコーダーやウクレレといった、伝統的で正統的でありながら、どこかオモチャっぽさ(すなわち子供の純粋さ、単純な美しさ)を持った楽器の特性を見事に生かしています。
 これは正直センスの問題ですね。ここで思い出されるのはプロレスですね。最近勉強している本当のプロレスリングですよ。完璧な技術を持っていながら、それをあえて崩し隠し、エンターテインメントとして、ショーとして示すことができるのが、私は最強だと思っています。
 まあ、とにかく試聴だけでもしてみてください。はまりますよ。有名な「やる気のないダースベイダーのテーマ」だけでなく、「ハイウェイ・スター」なんかも最高ですねえ。そして、なんと言っても、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」ですね。私もこちらで宣言してますけど、この曲って完全コピーしたくなる曲なんですよ。それを見事にやってくれています。うむ、やられた!くやしいなあ…笑。
 ちなみに最後の「もののけ姫」のオリジナルを歌っている米良美一さんも、都留音楽祭の卒業生です。
 これからもどんどんユニークな人材が育ってほしいですね。そういう音楽祭なんです、都留は。もちろんまじめな(?)古楽演奏家もたくさん輩出していますけれど、それだけじゃないんです。あの温かさから、本当の音楽の喜びが生まれるのです。私もスタッフとして、そして宴会要員として頑張っていきます。案外、あの宴会が優れた人材を育ててたりして(笑)。責任重大だな。

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2009.03.22

吉井和哉 『VOLT』

4988006219007 本のロック再び!ザ・イエロー・モンキー時代の超名盤「SICKS」に迫る充実度。いや、より高度な、すなわちストレートでシンプルな日本語ロックになっているかもしれない。
 ソロになってからの吉井さんは、いろいろな意味で自分自身と向かい合うことが多く、そのためそうした内省的なミュージシャンが陥りがちな、短調でコードの循環するパターンにはまっていました。それがある意味では魅力であったのですが、しかし一方で、イエモン時代の妖しい輝きに欠けると思っていたのは、私だけではないでしょう。
 内側に爆縮するのもまたロックの正しいあり方の一つではあります。しかし、吉井和哉のロックはやはり外に爆発してほしかった。もう一度そういう吉井和哉に会いたかった。そんな夢がこのVOLTで実現しました。いやあ、やっぱりスカッとドロッとはじけた吉井和哉はいいぞ!
 久しぶりに音楽自体と戯れられたのではないでしょうか。音楽があって、その先に自分がいて、世界があるという感じ。これまでは、自分というフィルターというか、壁を通して音楽や世界を見ていたようです。
 面白いもので、人は自分という壁にぶつかるとなかなかそれを越えられないものです。そして、その自分という壁を出現させるのは、社会というシステムであることが多いんです。社会とは、もちろん仕事=経済=カネでもあり、家族でもありました。ミルもこう言っています。
「人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である」
 衝撃的な内容が綴られた『失われた愛を求めて―吉井和哉自伝』で、彼は自分にすがりつくそうした「社会」を強制的に振り切りました。そこで私も書きましたが、彼と太宰治はそっくりです。大宰も家庭という幻想から逃げ出して、そして復活しました。小説で再び自分を乗り越えて、そうして皮肉にも表現者としての自分を取り戻しました。
 そういう意味では、いやらしいほど突き抜けて、自然体の吉井和哉がここにいます。おいおい、お前、それはずるいだろ!そう言いたいほどに伸び伸びしているではないですか。
 彼にとっての本来の自分とは、今その時の「自分」ではなく、彼を育てた過去の全てなのかもしれません。それは、昭和歌謡曲であり、英国のロックであり、憧れた都会であり、遊んだ女たちであり、無心に掻き鳴らしたギターでした。
 今回、ジャケットに、自らが少年時代に描いた富士山を、ある意味白々しく配置したのも、彼らしい逆説的な表現ですね。大宰もそうでした。富士山に畏怖の念を抱きながら、その呪縛から逃れるために、わざと富士山を否定的に描きました。もう吉井さんにとって、富士山は家族のいる場所ではなく、少年時代に静岡から眺めた単なる日本一の山になってしまったのでしょう。
 私も含めて(?)富士山に残された人々は、ではどうすればいいのでしょうか。再び吉井和哉を遠いアイドルとして眺めればいいのでしょうか。私はそれでも全然構わないのですが…。
 それにしてもあまりに自然体な日本語ロックですね。最初は、やったぁ!吉井和哉が帰ってきた!と思いましたが、だんだんむかついてきたぞ(笑)。男として、それはずるいとも思えてしまう。しかし、やっぱり憧れてもしまう。男の中に眠る、反社会的な「ロック」の魂が、そういう感情を芽生えさせるのでしょうね。
 まあ、我々一般人にはできないこと、普通四十過ぎた男にはできないこと、そんなことをやる勇気を持った人間を天才というのでしょう。いつまでも子供で、いつまでも安定的な社会に取り込まれない、フラフラし続ける放浪のパワーを持つ人間、そしてそれを許してもらえる人間こそ、我々とは遠いところにいる芸術家たりえるのです。
 富士山に残された側もたくましく生きてますよ。生きていきますよ。だってくやしいじゃないですか。くやしいからとことんこのアルバムを聴きこんでやろうと思います。
 なんかアナログ盤もほしくなるなあ。アナログ盤でガンガン富士山に響かせてやりたいですよ。
 祝復活!呪復活!吉井和哉。

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2009.03.21

借り物卓球

Kt1 岡から帰ってきてすぐに合宿に合流いたしました。春の進学合宿には楽しいイベントがあります。今月卒業した3年生(ウチのクラスのギャルたち)が、後輩たちに勉強の仕方や受験のアドバイスをするまじめな会を(いちおう)やった後、恒例となっている「借り物卓球」で盛り上がるのです。
 この「借り物卓球」、今年で6回目となります。実はこれ、私が考案したものでして、単純だけれどもなかなか面白く、また奥が深いんですよ。今日はそれを紹介しましょう。
 ま、考案も何も、くっだらないものなんですけどね、やってみると異様に盛り上がるんです。
 まず、選手全員(生徒と先生)がくじ引きで自分の使うラケット(ラケット代わりのもの)を決めます。ここが第一のミソですね。
 くじの紙に書かれているのは、「キャベツ」だったり、「ドライヤーの風」だったり、「風呂場のカゴ三つ」だったり、「1000ウォン札」だったり、「ホワイトボード」だったり、とにかくとてもラケットとしては使えそうにないものばかり。たまに「卓球のラケット」と書いてあることもあるんですが、それは実は条件つきで、たとえば、口にくわえるとか、目隠しするとか、とにかくメチャクチャなんです。
 で、それぞれ一喜一憂(ほとんど全憂)しながら自分のラケットを探します。で、この借り物卓球はペアでやるんですね。それをまたくじ引きで決める。まあ、誰と組んでも互いに足を引っ張り合うだけですけど。
 試合形式は、ペアで5点先取で勝ち抜けです。トーナメントなんですけど、もちろんみんなメチャクチャ弱いので、負け上がりにします。つまり、負けた者が次の試合に進出できる(進出しなくてはならない)わけです。
 で、優勝すると、そのチームは一発芸をやらなくてはならない。ですから、みんな真剣に勝ち抜けしようとします。でも、なにしろ卓球になんかなりやしないのですから、珍プレーの続出。大盛り上がりになるんですよ。
 今日は私は選手としても参加しながら、マイクを用意して実況も担当しました。実況も盛り上げに大切な要素です。先輩の先生が解説席でナイスな解説をしてくれまして助かりました。
 それでですねえ、結果から申しますと、私のチームが優勝してしまいました…orz。全然喜べません。まさか自分が優勝するとは思いませんでした。ちなみに私のラケットは、これまたある意味最悪、ある意味最高のネタだったんです。準備係の生徒たちと「これ誰に当たるかなあ」とほくそ笑んでいたら、なんと自分に当たってしまった。それは、「恋人、もしくは好きな異性」という、とんでもないラケットだったのです。
 で、私は選手の中から好きな異性(さすがに恋人ではない)を選ばねばならない事態になりまして、まあ、もうそれだけでみんなは大盛り上がりなんですけど、ここはやはり先生たるもの、そして創始者たるもの、ウケを狙わねばならないわけで、ウチのクラスのある女子を指名しました(ゴメン!)。当然、本人も周囲も「キャーッ!」であります。
 で、その女子をラケットにするわけですが、その彼女ももうすでに自分のラケット代わりのものをくじで決められているワケじゃないですか。それが「卓球のタマ」だったわけですよ。これってメッチャクチャ難しいんです。ボールでボールを打つわけでしょ。スイートスポットが本当の点ですからね。まっすぐ打ち返すなんて絶対無理です。そのタマを持った彼女を私がラケットとするわけですから、これはもう最初から無理です。単なるセクハラになりかねません。それでも、彼女気丈に頑張ってくれました(かえすがえすゴメン)。
 ちなみにペアの選手のラケットは「パリンコ」でした。塩サラダ味のせんべいです。彼女は卓球部なんですが、何しろ打つたびにパリンコがパリンコと割れてしまう。どうにも試合になりません。
 さらに、今回から国際ルール(?)に則って、「コールミー」というルールも適用されました。これは、ボールを打つ時に、そのラケット名をコールしなくてはならないということです。私だったら、その生徒の名前を叫ばないといけないのです。
 一番可哀想だった(面白かった)のは、「かんちょう」が当たった女の子ですね。「かんちょう」というのは、両手のひらを合わせて作るあの形と動作です。「かんちょう!」と叫びながら、「かんちょう」でボールを打たなければなりません。大人しい上品めな子に当たったので、可哀想(面白過ぎ)でした。ひどいな(笑)。
Kt2 それで、優勝した罰ゲームとしてやった一発芸はエセ催眠術でした。この写真は、催眠術によって棒ののように堅くなったワタクシであります。何やってんだか(笑)。ちなみこのあと、催眠術が暴走し、大変なことになったんですが、それはとてもここには載せられません(笑)。
 しっかし、楽しかったなあ。毎年いい思い出になります。こうして、3年生を追い出し、2年生は本当の受験生になり、1年生ももうすぐ後輩を受け入れる心の準備をするんです。春だなあ…しみじみそう感じますねえ。

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2009.03.20

レミオロメン 『TOUR 2009 “風のクロマ”』@静岡エコパアリーナ

1 しぶりにレミオロメンのライヴに行ってきました。私は夏の山中湖以来です。風のクロマツアーの山梨凱旋にも行きたかったのですが、なにしろクラスの生徒が受験真っ只中ということもあって、さすがに自重しました。いちおうみんな満足する進路が決定したので、私もお墓参りのついでに(!)まったりと楽しんできました。
 いやあ、本当にまったりしてたなあ。彼らに言わせると「ほっこり(もっこり)」らしいのですが、それにしても、静岡の皆さん、ものすごく静かでしたね。盛り上がらないとか、そういうことではなく、皆じっくりしみじみ聴いている感じで、無用な手拍子などもなく、私も、同行したカミさんも、今までになく落ち着いて彼らのパフォーマンスを味わうことができました。
 アルバム「風のクロマ」もすっかり染みつき、そして、「レミオベスト」で彼らの歩みを味わったタイミングでのこのライヴ。私(とカミさん)にとっては、そういう意味でも、今までになくしみじみとしたものになりました。
 エコパアリーナに来るのは初めてです。箱としての大きさもちょうどいい感じですし、アリーナ(体育館)にありがちな無駄な反響も比較的少なく、いい音で聴くことができ満足でした。
 ツアーも中盤を過ぎ、武道館での2daysを終えた後ということもあるんでしょうか、演奏自体はかなり安定感があって、安心して聴いていることができました。サポート・キーボードの皆川さんはもちろん(ちなみに野太い声で「皆川〜!」とコールしたのはワタクシです…笑)、今回初サポートとなった名ギタリスト河口修二さんも、すっかり3人の音に溶け込んで、いいアンサンブルを聴かせてくれましたね。さりげない、しかし確実なサポートあっての名演であると思います。
 藤巻くんの声にも、本来の艶っぽさがある上に、高音域の伸びもいつになく(失礼)美しく、以前のライヴに比べると圧倒的にコンディションの良さを感じましたね。今まではこっちがドキドキすることも多かったので(笑)。いい意味で力が抜けていたのは、武道館を終えた安堵感と、静岡のまったりムードのおかげでしょうか。
 神宮司くんのドラムスも、彼らしくていいんじゃないですか。彼はあのキャラが健在であればよし。ま、彼もいよいよ大人にならなきゃいけないんですけどね(笑)。
 さてさて、今回は西スタンドの比較的ステージに近い場所でしたので、特に前田啓介くんのベースに注目して鑑賞してきました。今までも何回も書いてきましたけど、私は彼のベースをとっても高く評価してるんですよ。
 今日のライヴでは、6曲か7曲、ピックを使って演奏していましたね。そのピッキングが非常に正確で感心いたしました。プロの方に対して失礼だと思いますが、本当にうまい。いや、実はプロでもですねえ、ライヴになると、急に雑になる人が多いんですよ。特に、前田くんのパッセージはオクターヴの跳躍とか、けっこうピッキング的には難しい場合が多いんです。今日も何曲か意外な曲でピックを使ってましたね。これはフィンガーだろうと思っていた曲でピックを使っていた。難しそうに見えましたが、完璧に弾いていましたね。
 タイトなリズムを刻む時にはピックを使い、独特のグルーヴ感を出したい時にはフィンガー・ピッキングという感じでしょうか。バンドはベースだなあ、と改めて実感。曲のイメージは実はベースが作っているんですね。
 レミオは、比較的ギターが動かないバンドなので、その分、前田君が高音域を効果的に使って、いろいろとオカズを入れています。ですから、左手的にもかなり難しいことをやっているのですが、こちらも安定していますね。コード的な押さえをしなくていけないシーンがたくさんあるんです。それを実に的確にこなしていました。すごい。
 そうしたテクニックや、ライヴ用のオリジナルなパッセージ(おそらくアドリブを含む)を聴いているだけでも、全然飽きませんでした。ま、そんな聴き方してる人いないと思いますけど。せっかくですから、私は勉強させていただきました。ありがとうございます。
 あと、バンド全体としては、本当にコーラスがうまくなりましたね。皆川さんや河口さんも含めて、とってもキレイな響きを作っていました。藤巻君もだいぶ楽になるでしょう。
 楽曲で印象に残ったのは、そうだなあ…まずは比較的新しい曲、「夢の蕾」と「Sakura」でしょうかね。これって改めて聴いてみますと、なかなかの名曲ですねえ。長調の曲の中で、やや不安定な短調への連続的な転調を織り交ぜ、なんとも言えない浮揚感や切なさを表現してますね。自然な歌詞とあいまって、心に深く残る楽曲になっていると思います。
 そうそう、この2曲、ウチの娘の小学校の卒業式で、両方とも使われたそうです。去年までは「3月9日」だったそうですが。新たな旅立ちソングの誕生ということでしょうか。
 そういう意味では、あのオリンピックソング「もっと遠くへ」も、皆川さんのピアノヴァージョンで聴くと、純粋にいい曲だなあと思いましたね。CDなどで聴くと、どうも大仰な印象になってしまうんですけど、こうしてシンプルなサウンドで聴くといいですよ。
 そういう意味では、私の大好きな「アイランド」をああいう形で聴けたのも良かった。名曲中の名曲ですねえ。いろいろな葛藤を乗り越えて、制作当初とは全く違った意味合いをもって演奏しきっていたと感じました。1ヶ所、コード進行を単純化してあったように聞こえたのですが、あれは脱コバタケという意味なのでしょうか。いかにもコバタケ節というところだったので。
 と、いろいろと講釈を述べてしまいましたが、いやそんなことより何より、いつもながらの温かい時間と空間を味わわせてくれた彼らに感謝したいと思います。まさに春はレミオの季節。これから、山梨は梅と桜と桃と菜の花の饗宴のシーズンを迎えます。車の中で彼らの曲を聴く機会も増えそうですね。 また、近い内に彼らの故郷を訪ねてみたいと思います。いろいろな意味で「春」だなあ…しみじみ、そう感じたライヴでした。

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2009.03.19

実家のヘンなモノ

 墓参りのために実家に帰ってきました。ウチの親父は私とは違った意味でかなりの変わり者です。ある意味対照的かもしれません。私はいい加減の権化のような人間ですが、父はある意味マジメすぎるんですね。堅い、頑固とも言えるし。自分のポリシーに妙にこだわるというか。
 それが、母にとってはかなりストレスになるようです。まあ何十年も毎日これに付き合わされてたら、そりゃ大変でしょうね。私やカミさんは、ちょっと距離を置いてみてるんで、その一挙手一投足が単なるギャグに見えるんですけどね。
 皆さんにとってはどうでもいいことかもしれませんが、今日はその片鱗を少しだけ紹介します(笑)。
P1000370 まず、軽いところから。おじいちゃん(私の父)が孫のために買っておいてくれたもの。アカデミー賞の短編アニメ賞を受賞した「つみきのいえ」の書籍版です。で、それがこういうことになっちゃうわけですね。父は買った本には必ずカバーをします。それがどんな本であれ。
 私は、もともと本についているカバーや帯なんか、必ずはずして読むタイプですので、このように何重にもカバーされている状態というのは信じられません。だいいち、絵本は表紙にもこだわりがありますから、それを眺めたりしたいじゃないですか。
 父にかかると、全ての本は、このように「丸善の意匠+親父オリジナルフォント」という装丁になってしまいます。娘たちも苦笑していました(笑)。
 父によると、このような作業をするのは、本が傷まないためだそうです。装丁がいつまでも新品の状態を保つようにとのこと。しかし、こうして最初から封印されていたら、いつまで経ってもその新品ぶりを味わえないじゃないですかね(笑)。なんか本末転倒というか…。
 そう指摘しましたら、父は、古本屋に売る時にこうしておいた方が高く売れるんだと言いました。孫にプレゼントした絵本をも、いずれは古本屋に売ろうと考えているのでしょうか(笑)。
P1000369 次もやはり「物を大切にする」あまり、変なことになってしまっている例です。
 今日、あるアーティストのニューアルバムをネット購入したんですね。それでパソコンでそれを聴こうと思って、父に「ヘッドフォン貸してくれ」と頼んだんです。そしたら、2階の自室からこんなものを持ってきてくれました。
 これはすごいですね。シュールなオブジェです。超芸術でしょう。本人にはもちろん、芸術なんていう意識はありません。ギャグという意識もありません。いたってマジメです。
 これはですねえ、説明した方がいいでしょうね。もともとは、ソニーの普通のヘッドフォンですよ。その耳パッドの部分のスポンジというかカバーが劣化して、ボロボロになっちゃったそうです。でも、音はちゃんと出るしもったいないので、自分で修繕というか改造しちゃったらしい。
 その結果がこれです。なんだか黄色い布が黄色いビニールテープによって固定されています。そのテープのバッテンの中央部分には、ちゃんとオリジナルフォントにて「L」「R」と書かれています。素晴らしいデザイン。
 この黄色い布はなんだ?と聞きましたら、「仏壇拭きだ!」と大まじめに答えます。たしかにこの質感は仏壇拭きっぽいぞ。おそるおそるこのシュールヘッドフォンを装着してみますと、おお、なんとも心地よい装着感。さすが仏壇拭き。最も大切なものをフキフキするにふさわしい柔らかさ。生きた人間の肌にもとことん優しい(笑)。そうほめたら、父はどうだ!と言わんばかりの笑顔になりました。
P1000349_2 もう一つ。これこそ私にしてみれば大ギャグなんですけど、今まで何十年もこれを見て笑ったことがないというのだから、オヤジはすごい。
 今年の元旦、遊びに来ていたウチの娘が発見して、私も初めて知ったんですけど、親父の部屋にある古い時計、このカレンダー機能が変なことになってたんですね。31日の次が「32日」になっちゃうんですよ。
 つまり、今年の元旦、娘は「2008年12月32日」を示す時計を発見したわけですね。おじいちゃんの部屋だけ年を越してなかったと。時間と空間が親父の屈折したエネルギーにより歪んでいるのですね(笑)。
 なお、時計の振り子の所にちらっと見える紙のようなものは、なんだかこの時計の修理方法とかがメモしてある大事な紙だそうです。
 あと親父は、買ったもの全てに買った日や価格などを書き込みます。電化製品は当然として、ティッシュや洗剤に至るまで、全てに記録をしています。箱なんかも全部とっておきますね。私と正反対です。私なんか保証書さえ捨てちゃいますからね。
 こんな感じで、ウチの親父はかなりのお変人…いやいや、立派な(?)お人なんですよ。まあ、今回の例に限らず、全ては物を大切にする気持ち、もったいないの精神から生まれた行動なので、決して悪いことではないですし、私ももしかしたら見習わなければならないのかもしれません。ある意味尊敬に値するのは確かです。でもなあ、私にはできないなあ…。

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2009.03.18

『パチンコの経済学』 佐藤仁 (東洋経済新報社)

49276163 チンコはやりません。むか〜し、学生時代に少しハマりましたが、今は全くやりません。
 しかし、この日本独特の遊技であり賭博であるパチンコの文化的な部分や、経済、政治的な部分には、非常に興味があります。このご時世、以前にも増して巨大化しているように感じるパチンコ業界。今、プロレスや総合格闘技のスポンサーは、みんなパチンコ業界です。芸能界もそうですね。つまり、以前ヤクザの仕事だった部分を、彼らが担っているという感じもします。そういう裏側の構造に、特に興味を持ってしまいますね。
 この本にも書かれていましたとおり、パチンコの世界も大きく様変わりしてしまいました。ちょうどプロレスが総合格闘技の影に脅かされていったように、ある意味、八百長を許さず、人間臭さよりも機械による公平の方へ行ってしまいました。それはそれで世界標準に近づいたということで、まあ悪いことではないのかもしれませんが、しかし、そこで失われた日本的なものがあるのも事実です。
 あまり単純化するのはよくありませんが、やはり、日本人もすぐに結果を求めるようになってしまったような気がします。経験をして、技を身につけて、思い込みや思い入れを深めて、勝敗を超えた「人生」を観じるというような、対象へのそういう関わり方というのは、今では古くさくダサく非経済的だと考えられてしまうようです。
 私がパチンコをやらなくなった時期は、ちょうどフィーバー機が現れた頃でして、パチンコの大きな革命が起きた時代です。私はその変化についていけない古い人間だったということでしょうか。射幸性が高く、ハイリスク・ハイリターンになり、釘を読むというような経験や技というより、その場での単なる情報処理(結局はほとんどが運なわけですが)が重要になっていった、そういう変化に魅力を感じなかったのでしょう。
 パチンコのような賭事に我々がのめり込むのは、ワタクシの「モノ・コト論」で申しますと、モノとコトのバランス、不随意性と随意性のバランス、変化と法則のバランスが絶妙だからです。もちろん、そういうふうにシステムが工夫されているわけで、私たちはそこに乗せられているわけですね。しかし、そういうモノとコトのバランスというのは、たとえば音楽やスポーツなどにも共通しているものですし、いや、それ以前に、人類の歴史や、個人の人生にも共通しているものです。
 この本にも引用されていました「人間の楽天性」というのも重要ですね。失敗しても懲りないというのは、人間の美徳であります。それがなかったら、パチンコなんてとうの昔になくなっていたでしょうし、いやいや、それ以前に人類は絶滅していたでしょう(笑)。
 さてさて、本題の経済学でありますが、まあこの本で解説されていた範囲でのシステムというのはよく解りました。よくできていると思います。しかし、かなり硬直化しているのも事実ですね。
 で、その硬直化の主因であろう利権問題があまり取り上げられていないのは、ちょっと残念でした。まあ、以前ならヤクザの世界との関係でしょうし、今なら単純に政治家との関係でしょうし、なかなか書き切れない部分なんでしょうね。
 もちろん、あと、在日社会との関係、某宗教団体との関係、警察との関係とか、これは完全にタブーなんでしょうか。ま、そういうところは、チラ見えする部分から勝手に想像したり、物語として自分でストーリーを作り上げる方が面白いんでしょうね。なんでもそうですが、露骨に見えちゃうと萎えますからね(笑)。
 それにしても、パチンコの盛んな(この本的に言うと下流社会なのか?)この土地でも、ここ10年でパチンコの勢力地図が大きく変ってしまいました。他の地域と同様、地元に根ざした中小のパチンコ屋は一気につぶれ、全国チェーンの大型ホールがどんどん進出してきています。これはまさに、地元に根ざしたヤクザの衰退の図と重なっていますね。私には残念でなりません。

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2009.03.17

『いと、バロスw』 むらかみ汁 (鉄人社)

99007309 うぅぅむ、なんということだ。
 先ほど驚愕の事実が発見されました。周りはみんな大笑いしてるけど、ワタクシはなんとなくショック…。
 いやぁ、巷で(アキバで?)評判になっているというこの本、同僚に借りて読み始めたら、あまりに痛すぎて、それで、ある2ちゃんねらー率88.88…%のクラスに持っていってですね、それこそフルボッコにしてやったんですよ。さすがにみんな萎えてました。これはひどすぎだろって。ああ、やっちゃったって。逆にすごいかもしれないぞ…と、いちおう言ってみたりして。
 何がひどいって、2ch用語で古典や近現代の名作を訳すという発想は、まあいいとしましょう。しかし、そのセンスの問題なのです。ちょっと見てください。一部紹介します。

【源氏物語 桐壺】
ある時代の話なんだけど、まぁ聞いてくれ。とある政治家がよく行くクラブに、たいして学もなくて、話もつまらないのに、いっつも先生の指名を受けるコがいたんだ。「私の方がレベル上じゃね?」なんて言っちゃう上昇志向なスイーツwは当然「Uzeeeee!」「半年ROMってろ」なんて大ブーイング。ちょwww露骨過ぎw 
【徒然草】
!おらニート!暇だから書いてたら、なんか盛り上がってきた。
まあ聞いてくれ
【太平記】
元弘元年8月27日、後醍醐天皇は笠置寺に入って、そこの本堂を皇居にしたんだ。最初のうちは、みんな幕府コワス((((゜Д゜)))で誰も来なかったんだけど、比叡山坂本の合戦で幕府側がフルボッコにされたってニュースがうpされると、笠置寺の儲や近所の香具師がワラワラ集まってきたワケよ。

 どうですか。2chに疎い人にとっては、ナンダコリャ?でしょうし、2chに精通している人にとっては、ものすごい痛いことになっているのでは。
 昨日も時代における仮名遣いの多様性について語りました。私は、2chの言語世界は、その日本語の多様性を象徴するものであり、それほど嫌悪すべきものではないと考えています。逆に江戸時代以降の庶民の言語センスを示す素晴らしい場であるとさえ考えています。
 そう、あの世界って、センスが必要なんですよ。そのセンスとは何か…それこそ言語化するのが難しいのですが、まあ、「粋」っていうヤツでしょうかね。「粋」じゃないと、とっても「野暮」になっちゃうんですよ。その匙加減には、知性と経験と、そして生来の空気を読む能力が必要だったりするんです。
 で、この本は、正直かなり野暮なんです。センスがないんです。簡単に言ってしまえば、やりすぎてしまっている。実際の2ch世界では、そのやりすぎというのはすぐに叩かれます。
 センスがなくて、粋でなくて、野暮だと、周りはどういう気持ちになるかというと、つまり「かたはらいたし」なんですね。そう、「かたはらいたし」と言えば、私は以前(3年ほど前)、『枕草子』に見る「空気嫁」&「痛杉」という記事を書いています。ここで私も、2ch用語をちょっとだけ使って、枕草子を訳していますね。ちょっと読んでみていください。
 たしかに、もう「空気嫁」とか「痛杉」とかも古くなってるでしょう。KYとかあるし(KYもそろそろ旬を過ぎてますが)。私はですね、そういう時代的な推移を想定して、それでわざとコテコテの2ch世界を希釈して書いたんです。だって、自分が書いたものが「かたはらいたき」ものになっちゃったらイヤじゃないですか。
 でも、「いと、バロスw」の筆者は、そういう危険を全く想定せず、ガンガンやっちゃってます。実際、コアな2ちゃんねらー生徒たちによると、もう2年前くらいの言葉ばっかりじゃん!ということになってしまう。だから、失笑どころか噴飯してしまうんです。逆の意味で大受けしてしまう。でも、そのうち疲れてみんな放り出してしまいました。いや、すごい勇気だ、ある意味ネ申だ!ということにもなったんですが…。
 で、いろいろみんなで眺めてたらですね、「枕草子」の冒頭が出てきました。

「春は明け方に萌え(;´Д`) だんだん白くなて逝く山際の空が、ちょっと明るくなって、紫っぽく雲がユラユラするのがポイント高し!!(・∀・) 中学生のオニャノコが、だんだん足首が細くなっていくようで(・∀・)イイ!! まさに女の夜明けですね、わかります」

 「これって、先生のパクリじゃん!」生徒たちが一斉に言います。「をかし=萌え」ですね。ははは、たしかに。ちょっと違うけど。でも、いいよ、別に。こうして私の説が一般化していけば、それはそれで。このブログの読者の皆さんにはお分かりと思いますし、生徒たちもよ〜く分かっていると思いますけど、自分にとってはこの説はそれほど大きな価値はありません。全体のほんの一部ですから。
 それにしても、ひどいなあ。全然直訳じゃないし。筆者の勝手に足した部分のセンスもいまいち…てか、意図がわからん。
 古文単語の勉強もかねて、いとかたはらいたし、いとねたし、いとすさまじ…などと、生徒たちとケチョンケチョンに言っていたらですねえ、いよいよ驚愕の事実が!?
 最後までページを繰って、そして最後の参考文献を見て、どっか〜ん!ですよ。
 参考文献のwebのところに、こうあるじゃないですか。
「レコーディングダイエットのススメ」
 えぇっ!これって岡田斗司夫センセイのブログじゃないですか。ってことは、つまり、これのことですよね。だって、ほかはダイエットの話とか、この本に関係があるとは思えない記事ですからね。
 ということは、間接的にではありますが、筆者は、この「不二草紙 本日のおススメ」を参考にしたということですな。
 えぇぇぇっ、じゃあ、この、みんなにケチョンケチョンに叩かれた本には、私の遺伝子が濃厚に受け継がれているということですか!?私が片棒かついでるってことですか!?ガーン…orz(笑)。

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2009.03.16

仮名遣いイロイロ

 の前、ネオ仮名遣いを提唱する「日本語ヴィジュアル系」を紹介しましたね。で、やッばりあーゆぅ仮名遣ひにわテーコーがあるッてゆー人がたくさんヰました(と、わざとメチャクチャな仮名遣いで書いてみる)。
 今日ですね、ある生徒が、家にあった古い本をたくさん持ってきてくれました。1年ほど前にリードルなどの教科書を持ってきてくれた生徒です。
 今度は江戸時代から昭和の初期の本たちでした。それらの表記、仮名遣いがあんまりいろいろなので、実に面白かった。漢文から始まって、まるでギャル仮名遣いのようなものまで様々。いかに現在我々が標準としている(されている)現代仮名遣いが一面的であるか、あるいは無理があるか、そして、それにこだわることがつまらないことか、考えさせられちゃいました。そういうのを教える仕事をしてる我々が、もうちょっと勉強しないと。単なる押しつけはいかんなと思ったのです。
 ということで、今日はその中からいくつか紹介します。面白いですよ。
Uni_2155 まず、最初はおなじみ(?)「尋常小学読本」です。小学校の国語の教科書です。いきなり京都市の説明か。ルビが面白いですね。「キョートシ」「カンムテンノー」「キンジョーテンノーヘイカ」「トーキョーシ」…今これをやったら、なんか怒られそうですね。「テンノー」とかね。でも「陛下」は「ヘイカ」なんだ。つまり「ヘーカ」とは読まないということですね。ルビがちゃんと発音記号の機能を持っています。今なら「きょうと」と振って「きょーと」と読まなければなりません。子どもや外国人には実に厄介なことになっています。第一、仮名がカタカナですね。当時はカタカナの方が堅いイメージがありました。正式な文書はみんなカタカナです。もちろん、漢文訓読が正式なものという習慣からです。平仮名はけっこう女文字として認識されてたんですよね、最近まで。
Uni_2156 違うページを見てみましょう。こっちは平仮名です。軽い文だからでしょう。「次のよーに、話した」…これも今やったらそれこそ顰蹙ですよね。でも「お父さん」は「おとうさん」です。どうも音読みの語(漢語)には長音記号を使い、訓読みの語(和語)には本来の仮名を使うようです。そのへんに関しましては専門家の分析と解説にまかせましょう。今日はとにかくいろいろなパターンを紹介します。ちなみに、段落が変わった時、一段下げていません。これも最近のネット世界ではけっこう見かける形ですね。
Uni_2157 次は雑誌「婦人世界」です。まずは広告。そうそう、大正時代って琴とヴァイオリンが流行ってたんですよね。まさに私の演奏する楽器じゃないですか。私ってかなり古くさい趣味を持ってるんですね(笑)。それはまあいいとして、一つの広告の中でも「ヴァヰオリン」と「バイオリン」が混在してます。ある意味いい加減。それにしてもヴァイオリンの通信教育なんて、絶対ムリですよ。その他の広告もかなり怪しげで面白い。こういう胡散臭い広告って最近減りましたね。ま、ウラジミール・ゴンチャロフ博士みたいなのもありますけど、昭和ほどではありません。
Uni_2158 違うページを見てみましょう。「米軍の志気を鼓舞する婦人の力」というとんでもないタイトルの記事です。アメリカと仲よかったんですよね。「ニューヨーク」は「ニウヨオク」、「コーヒー」は「コオヒイ」となっています。なんか仮名遣いが違うとイメージもずいぶんと変わりますね。「サンドウィッチ」は「サンドウイツチ」です。それにしても、この20年後には、米軍の志気をいかにそぐかに腐心するようになるんですから、まあ、歴史もいい加減なものです。
Uni_2159 最後に紹介しますは、最強の資料です。「裁縫のおけいこ」というHOW TO本です。いきなり「本書わ」かよ!wwそれもルビは「このほん」となっています。「全然異ッて」の表現や表記もシャレてますが、それを「まるきりちがって」と読ませるあたり、かなりJKしてると言えます。全体を読んでいただくと分かりますが、とにかくルビが訳になっていることや、カタカナの使い方、そして、まるでタグクラウドのように、フォントの大きさが突然変るというのも、実に現代的、いや未来的であります。これが「裁縫のおけいこ」っていうのがミソですね。まあ、ある意味明治時代の女子高生が読んでたわけですから(笑)。正直かっこいいですよ。ファンキーですよ。
 というわけで、ランダムに紹介しましたけれど、こういうのを見ますと、いかに戦後制定され施行された現代仮名遣いなるものが、一面的であり、日本語の生命力を奪ったかがわかります。そうした強制力、煽動力、洗脳力に対抗すべく、最近のネット仮名遣い、ギャル仮名遣いなどが出てきたんだと思いますよ。マジで。
 もう少しちゃんと勉強したいところですが、時間がないので、今日は資料提供だけにしておきます。
 とにかくある習慣をして社会的なルールを決定してしまいますと、便利なことがある反面、このように多様性、すなわち生命力が奪われるのであります。ちょうど今日、こちらの記事にコメントを下さった方がいましたが、ピアノの鍵盤のサイズなんか、ホントめちゃくちゃですよ。日本人にとってなんのメリットもありません。昔はもっと多様でした。自分の手のサイズに合わせて注文できた時代も当然あります。まったく、社会の画一化と、それに盲従する市民というのは困ったものです。

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2009.03.15

IGFプロレスリング「GENOME8」@広島サンプラザ

高山選手と小川選手を制止する鈴木選手
20090315145 木ゲノムをPPVにて初観戦。なかなか面白く、家族みんなで大興奮。
 結果などはスポナビでどうぞ。
 まずはワタクシ事ですが、先日私たち夫婦を温かく迎えてくださった方々が、テレビの画面の中にいることが大感激でありました。そう、先月、スネークピットキャラバンでお世話になった方々ですね。宮戸優光さんはIGFの現場監督、流智美さんはテレビ解説、鈴木秀樹選手は第1試合に登場…なんだか不思議な感じです。私たちに普通に接してくれた人たちが、こんな大舞台を支えている…つくづく感動であります。
 さてさて、どの試合もプロレスの楽しさ、面白さ、奥の深さ、そして歴史を感じるいい試合でしたねえ。ここのところ、比較的いろいろな団体の興行を観戦する機会が多かったのですが、この猪木ゲノムは、ある意味古き良きプロレスが感じられ、最近のハイスピードな曲芸プロレス、あるいは素人参加の演劇プロレスとは、まちがいなく一線を画していましたね(その双方とも、私は好きなんですが)。これは、もしかして求めていたプロレス像に近いのかもしれない。カミさんとそう話しました。
 各試合、各選手についても、いろいろと語りたいところですが、このブログの性質上、それは我慢することとします。全体に感じたこと、そして学んだことを書いておきましょう。私にとっては、とても大切な発見が多かったので。
 まず、強く感じたのは、「プロレスこそ総合である」ということです。ここでいう「総合」とは、いわゆる「総合格闘技」という意味ではありません。あらゆるジャンルを包括し、あらゆる可能性があるということです。懐が広く深いのがプロレスであり、それはスポーツというよりも、より芸術に近い。
 スポーツはそれぞれのジャンルが融合することはほとんどありません。完成されたサッカーと野球を合わせた競技を作ることは不可能ですし、プロサッカー選手がプロ野球で活躍することもまたほとんど不可能です。
 しかし、芸術は違います。あらゆるジャンル、たとえば音楽と演劇、美術と舞踏など、あらゆるコラボレーションが可能であり、そこからまた新しい芸術の可能性が生まれてきます。それら各要素の融合や競合こそが、その生命力であるとも言えます。
 プロレスについて、私はかねてから、KIng of Sports ではなく、King of Arts だと言っていますね。アートというのは、単に芸術という意味ではありません。技術という意味でもあります。
 実は、その「術」の部分が最近のプロレスには抜けているのではないか、最近のプロレスの凋落の主因はそこにあるのではないかと、今日のIGF興行を観て感じたのです。
 というのは、今回のIGFの興行では、一部のレスラーを除いて、そうした「術」の部分をしっかりとベースに持った人たちの活躍が目立ちました。それが「芸」の方に向かうにしても、「技」の方に向かうにしても、そこに基礎たる「術」があれば、しっかりと「アート」として成り立つなと思ったのです。
 お客様相手のプロの仕事は、いろいろな意味で「アート」でなくてはなりません。いきなり話がそれるようですけれど、あの闘い続ける98歳現役医師であられる日野原重明さんは、医療や看護は「科学に基づいたアート(技)である」とおっしゃっています。単なる経験や人柄ではなく、科学という「歴史の蓄積と継承」を基礎としたアートがまず第一であると。私は、プロレスにもそれが非常に大切だと思うんです。
 ある意味、プロレスは総合的であるために、悪い意味での「なんでもあり」に陥りやすい。そうすると、選手が表面的につくろうこと、いや、それ以前に刹那的なエセプロレスラーが存在することをも許してしまう可能性があるんです。
 基礎のないところに、立派な建物が建とうはずがありませんね。まさに、強度偽装ではありませんが、現実に表面ばかりきらびやかなレスラーがあまりに多くなってしまいました。
 基礎のしっかりしている所には、正しい「なんでもあり」が存在しえます。単なるスポーツ的勝敗論のはるか上空をゆくプロレス的世界…資本主義市場経済での勝ち組負け組、あるいは武力による勝敗を超えたそれぞれの人生があるように、それは必ずありますし必要です…がそこにあるのです。そうして、それこそがプロレスの総合性であり、芸術性であり、魅力だと思うんですね。それを今回再認識させられました。
 その基礎たる「アート」の一つがビル・ロビンソンさんの語り継ごうとしている「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」であるのでしょう。そして、猪木さんの遺伝子というのも、まさにその基礎たるアートであるような気がしてくるのです。
20090315146thumb200 なんで、猪木さんはプロレス(特に新日本プロレス)いじめのようなことをしたのか、プロレスを陥れるようなことをしたのか、総合格闘技ブームの片棒を担ぐようなことをしたのか、実は今日初めて解ったような気がします。
 自らが一線を退いてからというもの、プロレスの基礎たるアートがどんどん消えていった、それを憂えて、ああいう猪木流の愛のムチを行使したのではないか。総合格闘技の技は、ある意味プロレスの基礎と言えます。ああいうシュートの部分というのは、往年のプロレスラーなら当然身につけているものでした。そうしないと一流になれない、ある意味なめられて仕事にならなかったとも言えます。
 そういう事実を、語弊があるかもしれませんが、私は「総合格闘技なんてプロレスの前座じゃん」とあえて表現してきました。しかし、ある時期の(今もかもしれません)プロレスは、前座を飛び越えていきなりメインなみの派手な大技ばかりやるようになってしまった。
 猪木さんは、時のメインイベンターを総合に出して負けさせたわけですよね。メインをはるべき人が前座に負けるわけですから、それはショックですよ。でも、そのくらいしないといけないくらい、プロレス界には間違った空気が流れていたんではないでしょうかね。もちろん、UWFもそういう流れの中で、温故知新というか、ある意味極端な形でプロレス界に刺激を与えたわけでしょう。
 今日も、猪木さんの口から永遠のライバルであり、永遠のパートナーであったジャイアント馬場さんの名前が出ました。馬場さんの語った「全てのものを超えたものがプロレス」という言葉が、今日のIGF中継を観る私の頭の中に、何度も何度もこだましました。
 最後に、ちょっとだけ、具体的な話を。
 まず、プロレスって子供の教育に絶対必要だなと。特にメインのタッグは良かった。ああいう物の怪たちがリングで対峙するだけで、子供たちは固唾を呑んで見守ります。リアルなまはげですよ。なんだかわからないけれど、めちゃくちゃ怖い存在って絶対必要です。そのためには、彼らのような非日常的な体躯というのは効果的ですよね。ぜひ生で見せたいところです。
 その中で、特に感激したのは、やっぱり高山選手の存在感でしょうかね。昨日グレート・ムタ選手と死闘を繰り広げ、三冠チャンピオンになり、メジャーのベルト全制覇という偉業を成し遂げたその翌日、あれだけの熱いファイトをするんですから。プロ意識の高さを感じました。それに比べて某小川選手はなあ…口はそこそこ達者ですが…。
 あと、私の中でMVPを与えたいのは関本大介選手ですね。最近彼の試合を何回か生で観ましたけれど、肉体的にも、技術的にも、精神的にも、いいアートしてますよ、彼は。その良さが存分に発揮された名勝負でした。
 それから、最後に、スネークピットジャパンの鈴木秀樹選手。彼も将来いい選手になりますよ。下半身に安定感のある体もいいですし、今日の試合なんか、大先輩に臆せず向かっていくあの姿勢、とってもいいものを見せてもらいました。マウントでの相手の足の畳み方なんか、この前の桜庭選手の教えが生きていたように感じましたね。落ち着いたたたずまいの中に熱くたぎるファイティング・スピリット。ぜひ、確固たるアート(技術)の上に、自分らしいアート(芸術)を作り上げていってほしいと思います。カミさんの目はハートになってましたが(笑)。

イノキゲノムフェデレーション

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2009.03.14

コーヒールンバの謎

 日は村の芸能発表会という渋いイベントに参加してきました。いちおう、歌謡曲バンドふじやまのミニライヴということで、一昨年以来の参加です。お客様はお年寄りの方々がほとんどですので、そんな皆さんに楽しんでいただけるよう、美空ひばりを中心に、昭和の歌謡曲を数曲演奏しました。
 前回は上の娘が、そして今回は下の娘が初舞台を迎えました。彼女は、オープニングでリンゴの唄の1番を歌ったんですけど、マイクの調子が悪く、会場に声が聞こえなかったようでした。おかげで、心配した(可哀想に思った)客席のおじいちゃん、おばあちゃんたちが歌ってくれまして、のっけから盛り上がってしまいました。怪我の功名。
 さて、そんな中、大人だけで演奏した曲の一つが、この「コーヒールンバ」です。ウチのバンドは基本コピーから入るんですが、どうもこの曲はコピーがしにくいんですよね。というのはですね、上のYouTubeを聴いていただければ分かると思いますけど、なんとも不思議なんですよね。
 これは、関口宏さんの奥様であられる西田佐知子さんによる歌唱であります。これが日本では定番となっています。日本での、のちの多くのカヴァーも、この演奏を出発点としているようです。
 日本ではコーヒールンバという名前ですが、純粋なルンバのリズムではありませんね。このリズムは原曲でも用いられています。原曲「Moliendo Café(珈琲を挽きながら)」はベネズエラのペローニ作曲。ペローニの甥っ子のウーゴ・ブランコによる演奏でヒットしました。下のものがその演奏です。

 西田バージョンより、ちょっと早くなっていますけど、基本的なリズムは共通しています。このリズムはブランコのオリジナルだそうで、オルキデアというものだそうです(よく分かりませんが)。
 両者を聴いてすぐに気づくのは、特徴的な打楽器のリズムですね。コンコン(キンキン)という、日本の拍子木のような「クラヴェス」の音が聞こえるでしょう。ラテンのみならず、いろいろな音楽でおなじみのシンコペーション五つ打ちです。しかし…。
Cravesrhythm001 この楽譜は、西田バージョンでの、メロディー(ギターによるイントロ)に入ってからのリズムです。もうお気付きの方もいるかもしれませんが、その前のベースが「ミレドシ」とやっている所(ちなみにこのミレドシの音程がめっちゃ悪い!)と、ウーゴ・ブランコのオリジナル全体は、1小節目と2小節目のリズムが逆になってますね。2+3になっています。なんか不思議ですね。
 さらに、このクラヴェスのリズムがですね、西田バージョンではちょっと不思議なことになってるんです。もう一度、西田バージョンを聴いてみてください。なんか微妙にリズムがすれていませんか?なんか、少しずつ段々ずれてくる。
 これって、ダビングの際、テープスピードが一定でなく、結果として微妙にすれちゃったんですかね。それをそのままレコードにして売り出して、そして定番と言われるほどヒットしたわけですから、不思議ですね。デジタル時代では考えられないことです。似たようなケースとして、以前紹介したサザエさんのオープニングがあります。どちらも完璧に直してしまうと、独特の味わいが消えてしまうのでしょう。
 というわけで、この曲は完璧にコピーすることは不可能です。あの微妙なずれに関しては、ウチのバンドの優秀なパーカッショニストでも無理とのこと。単に下手でずれるのとはなんか違うんだよなあ…。

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2009.03.13

KeyHoleTV (超低負荷P2P通信)

3 ナログ放送終了まであと2年。今までもいろいろと書いてきましたが(たとえばこちら)、ここ富士山では地デジ化によって、今まで直接受信していた東京の放送が見られなくなる可能性があります。ま、結局アナログ停波は先送りされるとの観測もありますが、どうなんでしょうか。総務省はなかば暴力的にこの革命を推し進めるのでしょうか。
 そんな強権発動に微力ながら対抗していこうと思っています。それは子どものためでもあります。ポケモンがリアルタイムで見られなくなるわけですから。な〜んて、ただ私がロケット団の活躍を見たいだけなんですけど。
 そういうふうに、今まで見ていたテレビ番組が見られなくなるというのもありますけど、それ以上に、地デジの弱点に関する危惧の方が大きいかもしれません。
 以前書いたように、ウチのような森に囲まれたところでは、UHF波は風で揺れる木々の影響を大きく受けます。アナログなら画像が乱れるだけですみますが、デジタルですとブロックノイズが出たとたん、音声まで聞こえなくなります。これでは、台風や地震、噴火などの際、全く役に立ちません。今日も風が強く、何度も画像や音声が止まっています。送信所はすぐそこにあるのに…。
 そういう地デジの危険性や、難視聴地域への配慮を考え、開発されたのがこのKeyHoleTV(キーホールテレビ)です…たぶん。開発の中心というか、きっかけを作ったのは、あの苫米地英人さんです。
 いろいろな方面で活躍されている、でもちょっとアヤシイ苫米地さん。私は、彼が背後に存在する「サイゾー」の読者ですし(このブログもサイゾーに載ったことがあります)、前田日明さんと仲良しということもあって、格闘技界関係でもちょっと気になる存在です。そうそう、明日両国国技館で開催される不良たちのガチンコイベント「THE OUTSIDER SPECIAL」にも、苫米地さん関わっています。
 で、このP2P技術を使ったテレビ番組視聴システムですけど、今までご覧になったことのない方は、是非一度お試しください。下のリンクから無料でダウンロードできます。特に地方在住の方。基本的に在京放送局のアナログ放送が全部パソコン上で見られます。その他、AMやFMラジオも聞けますし、なぜかテレビ宮崎なんかも見られます。また、KeyHoleVideoを使えば、自分が放送局になって、世界中に情報を発信できます。
 そしてうれしいことに、最近ようやくMac版が開発されまして、こうして私も恩恵にあずかれるようになったんです。これは便利ですよ。地方に旅行に行った時とかにも、ブロードバンド環境さえあれば、東京の番組を視聴できますからね。
 日曜日に静岡や秋田の実家に帰るじゃないですか。そうすると、子どもたち、今まではポケモンサンデーなんか見られなかったんですよ。それをパソコンがあれば見られるわけですから。
 画質や音質は正直よくありませんが、ワンセグのそれとそれほど変らないので、そういうものだと思えば全然不満はありません。
 地デジはアナログに比べて2秒近く遅れてます。圧縮された信号のエンコードに時間がかかるからです。2秒遅れるということは、ある場合には致命的ですよね。生放送が生放送じゃないわけですから。緊急時にはもちろん、スポーツ観戦なんか、2秒遅れてると思うと急に気分が冷めますよ。2秒はでかい。
 その点、このキーホールテレビは、実質1秒以下のタイムラグです。これだったら許せますね。詳しいことはわかりませんが、独自のコーデックを採用しているとのこと。そこがミソなようです。
 ま、こういうシステムに違法性がないのか、あるいは2011年になってアナログ停波になった場合、どうなるのか(今はアナログの再送信をしている)、よくわからない点もありますけど、我々庶民の様々な権利を守ってくれるという意味では、まさに神システム、神ソフトだと思いますよ。
 UIやアイコンがイマイチとか、フジテレビが「フジレテビ」になってるとか(笑)、そういうところはご愛嬌ということで。とにかく私にとってはとっても有難い存在であります。

KeyHoleTV公式

ドクター苫米地のブログ

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2009.03.12

無礼猫(なめねこ)

1 半世紀ぶりにリバイバルし、暴走族撲滅キャンペーンのポスターにまで使われるようになった「なめ猫」。
 考えてみれば、今どき、こんな格好してる人間はいませんね。でも、25年前は実際にツッパリ、スケバンはたくさんいたわけでして、そう、私が高校の教師になりたての頃は、剃り込みやアイロンパーマ、丈の長すぎるスカートの指導なんかに追われてましたっけ。
 そういうある意味で硬派な人間たちを、とってもカワイイ子猫ちゃんたちが模倣したことにより、本体の方の威厳というか、とんがったエネルギーのようなものが、すっかり削がれてしまったような気がしますね。
 ということは、実際にあの頃のなめ猫たちは、暴走族撲滅に役立ったのかもしれません。なめ猫以降、たしかにトーンダウンしましたからね。そして、今や暴走族は高齢化が進み、絶滅危惧種、保存対象にまでなっています。
 そういう中で、2006年のこのポスターというのは、実に効果的だったと思います。たぶん。25年前にこの猫たちにパワーを削がれた今40代の元暴走族のおじさんたち、このタイミングで再び自らの過去を戯画化され、子どもたちに武勇伝を語っても、「お父さん、なめ猫みたいなことやってたの?」と言われてしまう。今や、どっちが本体かわからなくなってしまっているのではないでしょうか。
 ところで、この前、生徒と古文の勉強をしてて話題になったんですけど、この「なめんなよ」の「なめる」、皆さんはどういう語源があると思いますか。
 一般には、「なめる」は「舐める・嘗める」で、いわば舌で何かをペロッとすることだと思いますよね。たしかに、「なめんなよ」と言われ、「おめえみたいなクソ舐めるわけねえだろ!このボケ!」と答えるなんてこともありました。
 「なめんなよ」を英訳すると「Don't Pelorian!」だそうで、ま、これはもちろん造語でありますが、基本「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」であるという意識が働いていることがわかります。
 で、実際のところはですね、「なめんなよ」の「なめる」は「舐める・嘗める」ではないようなのです。
 古語で「なめし」というのがあるのを御存知ですか。古文単語としてはけっこう重要な方ですので、なんとなく記憶に残っているという方も多いのではないでしょうか。日国で調べてみましょう。

 「なめ・し」(形ク)相手を軽んじたり、あなどったりして、無礼であるさま。失礼であるさま。

*書紀〔720〕継体二三年四月(前田本訓)「何の故か二の国の王、躬ら来集ひて天皇の勅を受けずして軽(ナメク)使を遣せる」
*続日本紀‐天平宝字八年〔764〕一〇月九日・宣命「礼無くして従はず奈売久(ナメク)在らむ人をば」
*万葉〔8C後〕六・九六六「大和道は雲隠りたり然れども吾が振る袖を無礼(なめし)と思ふな〈児嶋〉」
*枕〔10C終〕二六二・文ことばなめき人こそ「文ことばなめき人こそいとにくけれ」
*源氏〔1001〜14頃〕桐壺「なめしとおぼさでらうたくし給へ」
*栄花〔1028〜92頃〕かがやく藤壺「の給はせけるしもぞ、中々げになめう覚し召しけりなど、人々思ひける」

 日本書紀の例は、「軽」という漢字を「なめく」と誰かが訓じたわけですね。ですから、「なめく」と読むとは限りません。続日本紀の方は、万葉仮名表記なので明らかに「なめく」という言葉です。前に「礼無くして従はず」とありますので、まさに無礼で言うことを聞かないというイメージの語だったのでしょう。
 で、この「なめし」の語幹「なめ」に、動詞を作る語尾の「る」がついて、「なめる」という語になったという説があります。これはどうなんでしょうね。私の記憶では、古くは形容詞の動詞化の際用いられる語尾は「む」が圧倒的に多いような気がします。「いたし」→「いたむ」、「かなし」→「かなしむ」のように。「る」が動詞化の語尾になったのは、比較的最近なのではないでしょうか。現代語においては、「る」による名詞の動詞化が盛んに行われていますね。「事故る」「サボる」「告る」「メタボる」などなど。「ダブる」とか「トラブる」なんかは、原語の語尾の「ル」をそのまま使っていて面白いですね。
 「なめし」が動詞化した「なめる」と思われる例としては、これが一番古いようです。江戸時代ですね。案外新しい。

*歌舞伎・貢曾我富士着綿〔1793〕二幕「嬲(なぶ)るのぢゃない、なめりたいわい」

 ただ、これは「なめたい」ではなく、「なめりたい」と言ってますので、下二段ではなく四段活用のようです。そうすると、「なめんなよ」の「なめる」とはちょっと違うような気もしますね。はっきり申してよくわかりません。語感としては、どっちかというと「滑(なめ)る」に近いような…。
 いずれにせよ、「なめんなよ」の「なめる」は、無礼の意味の「なめし」と、ペロッと舐める感じとが合体して出来た比較的新しい語だということですね。
 というわけで、結局何が言いたいかというと、「なめねこ」に漢字を当てると「無礼猫」になるって、ただそれだけのことでした。

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2009.03.11

『無宗教こそ日本人の宗教である』 島田裕巳 (角川oneテーマ21)

04710175 日でしょうか、米国で無宗教派が15%と倍増 「宗教大国」に変化の兆しもというニュース記事を読みました。
 9.11以来、宗教こそが争いの原因であるという意識が強まったのでしょうか。
 この本でも当然触れられていましたが、一神教は原理的、排他的、排外的になりやすく、その結果、深刻な衝突を生む可能性を持っています。本来平和や平安を説くはずの宗教が、戦争の火種になるという矛盾は、豊かさを求める経済が貧富の差を生む矛盾とともに、世界史上頭の痛い問題でした。
 そういう意味で、そろそろその二大フィクションから抜け出すべき時が来ているような気がしますね。
 「一」は「他」を生み出します。何かを「唯一」と認識し、それを正しい、あるいは善と認識すると、当然その他は間違い、悪になります。
 実は、昨日の仮名遣いに関する記事、そして一昨日のレミオロメンのベストに関する記事にも、関係しているんですよ。自分がベストを選定するということは、まさに「唯一」という架空の真理を作り出して、それに依存することを意味します。これが絶対正しいなんていうのは、実は虚しいフィクションでしかないのに、我々はそこに自分の居場所を求めてしまいます。その結果、他を攻撃することになってしまう。特に、他者が違う「ベスト=唯一」を主張すると、これはもうケンカになるのは当り前。全く意味のない衝突が生まれます。
 その点、「無」は違いますね。この本でも「無」と「空」の違いが説明されていますが、あえてそれらの共通点を抽象して言うならば、やはりこの名句を挙げざるを得ませんね。「色即是空・空即是色」。
 全体を捉えれば、そこにはあらゆる区別は存在しません。そして、何もないことは何でもありです。「色」は存在全体、「空」は存在すらしない。我々は、全体の中の一部を認識することで初めて、何かを存在せしめます。何かが立ち上がると、「その他」も立ち上がるんですね。
 ワタクシ流に言いますと、その立ち上げた「一部」が「コト」、すなわちフィクションになります。そして、分節されていない「全体」が「モノ」ということになります。人間の全ての営為はそうした「コト」を為すことそのものですし、ニーチェが言うとおり、我々はフィクションに頼らずには生きていけません。しかし、その「コト」を為しつつ、いかに「コト」に執着しないでいられるか。
 それを実践してきたのが、日本の「無宗教」だと感じました。一見、無節操で、敬虔でなく、不真面目な我々の宗教的姿勢(思想ではありません)は、まさに「コト」「唯一」というフィクションに依存しきらない人間のあり方です。私も島田先生同様、そこに大きな価値を見出しますし、世界に対して誇りに思うべきことだと思っています。
 ただ、あまりにそこに主張しすぎると、結局「原理主義を否定するのも原理主義」という迷宮にはまりこんでしまいます。この本も、ややそういう危険性がありますかね。あまりに素晴らしい素晴らしいと言い過ぎのような気もします。
 まあ、それでも読んでいて気持ちよかったから良し。自分の姿勢を肯定されているわけですから当然ですけどね。
 面白かったというか、勉強になったのは、まずは、日本の農村における神仏習合の形を紹介した部分ですね。私もカミさんのふるさと、秋田の山村でその実体というか、生活というもの(たとえばこちら)を見聞しましたからね。非常によくわかりました。
 それから後半の、「仏教とカトリックは似ている」、「神道とイスラム教は似ている」という部分、これには目から鱗が落ちました。キリスト教と仏教の同質性は、私も前から認めていましたし、イエスが仏教に触れていた可能性も否定しない立場の人間なのですが、そういう教えの部分だけではなく、システムとしても仏教とカトリックが似ているというのは興味深かった。
 また、神道とイスラム教の類似性については、全く考えたこともありませんでした。島田さんも言うとおり、一般には真逆だと思われるんじゃないでしょうか。でも、実は生活に溶け込んでいるという面では似ていると。ここでも、キリスト教などの「他者」の存在によって、自己が立ち上がっているだけなんですね。
 ところで、「無宗教」ということで思い出したのが、いつもの出口王仁三郎のことです。彼は「万教同根」を唱えました。そして、「この世から宗教がなくなるのが理想」と主張しました。さまざまな「コト」が再び「モノ」に帰る時、理想の世、みろくの世が現出すると考えたのでしょう。彼は、「コト化」の進んだ近代の、その強大なベクトルに立ち向かったのでした。
 21世紀、王仁三郎に学ぶべき点が大きいかなと、この本を読み終わって再確認しましたね。

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2009.03.10

『日本語ヴィジュアル系−あたらしいにほんごのかきかた』 秋月高太郎 (角川oneテーマ21)

04710158 日…けふ、きょう、きょお、きょー、きょぅ、きょぉ…いったい、どの表記が一番機能的でしょうか。どの仮名遣いが最も発音に忠実でしょうか。あるいは歴史的に正統でしょうか。
 皆さんは、おそらく「きょう」を選ぶでしょう。
 では、「今日は」というのはどうでしょう。「今日」を「キョー」と読む時と「コンニチ」と読む時で、事情が変わってきますね。挨拶の方は、もう一つの慣用句ですから、最後の「は」は副助詞の「は」と意識しない人も多いのではないでしょうか。
 こちらに少し書きましたが、最近メールで「こんにちわ」と書く人が増えてきました。生徒なんかは「こんにちゎ」が多いですね。そこに抵抗があるかないかは、その人のセンスによります。
 実は、仮名遣いというのは、どの時代にも大揺れに揺れていまして、どの仮名遣いが正しいというのはないんです。今我々が学校で教わる現代仮名遣いについても、いちおう規則として決めてあるだけで、別にあれが正しいわけではない。こう書くのが望ましいという程度の縛りです。
 この本は、そうした日本語学的な見地に立って、デジタル時代の仮名遣いを検証し、そして、よりヴィジュアル的で、かつ機能的な「ネオ仮名遣い」を提唱する内容になっています。いちおうそういう両分野、つまり日本語学と考現学(?)を専門にしてきた私としては、「まじめ」と「ふまじめ」、「歴史」と「今」のバランスが、実に面白い本でした。筆者である秋月先生は私と同世代。なんとなく、思考や指向や嗜好が似ているのかもしれませんね。
 ただ、私たちより上の世代の方々からすると、なんだこれは!ということになりかねない。大学の先生がこんなふざけた本を書いていいのか!なんて、目くじら立てるかもしれない。まあ、それこそが言葉の歴史を取り巻く風景でありまして、いつの時代も最近の若いもんは!と言われて、それでも変化し続けるのが、言葉のダイナミズムなのです。
 私はですね、仕事柄でしょうか、最近のギャル文字やギャル仮名遣い、顔文字やAA、故意の誤変換なんか、あんまり抵抗がない方なんです。なにしろ、生徒から来るメールはそんなんばっかりなんで。今や連絡網もメールで済ます(というか、それが一番早くて便利で確実)時代です。多い日は生徒と何十通ものやりとりをします。
 あっそうそう、ちょっと面白い仮名遣いのお話を一つ。つい最近の面白ネタです。
 ウチのクラスのギャルたちの受験もいちおう一段落しまして、それぞれだいたい行きたいところに行けることになりました。結果オーライということで。
 で、そのうち、ウチのクラスの「天才」がとんでもないことをやらかしました。
 この天才、まじ天才バカボンでして、なにしろ某国から日本にやってきたのが5年ほど前、それまで全く日本語を知りませんでした。それが2年足らずで日本語ペラペラ、ウチのクラスに入れるくらいの成績をとるようになっちゃいました。それだけでも海を渡ってきた「神」なんですけど、それから3年間、ウチのクラスで勉強に励み…ではなく、ホントよく遊び、勉強もしてるんだかしてないんだか、とにかくテレビは6時間観る、一日中マンガを読んでる、ケータイメールにはまるとそればっかり、ケータイ小説なんか読み始めたら、受験だろうが何だろうがそっちのけ、というホントある意味困り者だったんです。
 ただ、私はなんとなくその天才ぶりを信頼しているところもありまして、正直3年間、そういう姿をみても、ほとんど注意しないで来たんですね。基本放置と。ま、性格的にも言われて「はい」と素直にやるタイプじゃないし(笑)。
 で、結果から申しますと、なななんと、某旧帝国大学に受かっちゃいました!あり得ねえ〜。
 その彼女がですね、その大学を受けている最中によこしたメールを一つ紹介します。内容はどうでもいいんですが、その仮名遣いとか、顔文字とかですね。


『テンションあげたいけど
 なんか疲労感が……

 そんなの気にしてられませんね

 がんばってこ-ぢゃん
 いぇい(*^▽^*)/

 風邪わあっち向きだい』

 おいおい、「風邪」じゃなくて「風」だろ!これは故意による誤変換ではなく、素で間違ったとのことです(笑)。だいたい、「風はあっち向き」ってどういう意味かよくわからん。
 仮名遣い的に注目すべきは、「ぢゃん」の「ぢ」と「風邪わ」の「わ」ですね。まあ、こういうのが女子高生にとっては日常なわけです。国語のセンセイに対するメールでさえ、彼女らはこんな感じ。
 で、その後もホントどうでもいい会話が試験当日交わされたわけですが、この天才、試験が終わって帰ってきまして、おいどうだった?と聞くと、突然思い出したように「あっ、やべ!」って言うんですよ。
 「〜ではない」と書くべきところを「〜ぢゃない」って書いちゃったかもしれない!とか言うんです。うわ〜ぁぁぁぁ!!!さすがに大学入試の答案に「〜ぢゃない」はないだろ!「〜じゃない」でもかなりヤバイのに…笑。
 で、結果から言いますと、さっき書いたように、そこに受かっちゃったわけですよ。たぶん、「〜ぢゃない」で減点されても、ほかがちゃんと出来てたんでしょうね。受かっちゃった。
 某旧帝大にとっても、これは屈辱的なことかもしれませんね(笑)。なにしろ「〜ぢゃない」とか書いちゃうヤツを合格させなきゃならなかった、その忸怩たる思いを忖度するに、こちらも全く恐縮至極であります、ハイ。
 やっぱり、これって純粋な日本人だったら、さすがにないですよね。あいつは、マンガやテレビやメールから日本語力を身につけました。ゼロからのスタートですからね。我々の仮名遣い観とは、かなり違うそれを持っているんでしょう。いやはや、おそるべし。
 というわけで、デジタル時代のネオ仮名遣い、もうすでに国立大学の入試答案レベルにまで侵入しているということであります。それも、海の向こうから来た神によって。なんか、日本の歴史を一気に復習したような気がしました。

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2009.03.09

レミオロメン 『レミオベスト』(山梨限定盤)

51mfy39wcl_sl500_aa240_ 3月9日です。特別な日に特別なアルバムが発売されました。
 レミオロメンの「3月9日」は、あらゆるジャンルにわたり、おそらく数万曲に及ぶ音楽を聴いてきた私にとって、もしかすると最も大切な曲の一つかもしれません。いつ聴いても、これほど心に染み込み、そして温かい何かで私を包み込んでくれる音楽、そして言葉は、そんなにたくさんあるものではありません。
 そんな、私にとっても、レミオロメンにとっても特別な、大切な日に、これまたスペシャルなベスト盤が発売されたのは、本当にうれしいことですし、何と言っても、ふるさと山梨の風土と人に育てられ、またそれらを心から愛する彼らが、「山梨限定盤」を作ってくれたのは、これは山梨県民としては本当に幸せなことです。
 「ベスト盤」という一般的な概念と、その魅力や問題点については、ここでは語りません。なぜなら、もうそのことについては、世界中で何十年にもわたって繰り返し議論されてきたからです。そして、その議論…ほとんど盲目的な賛美と愚痴のどちらかに分類されますが…が、あまりそのアルバム自体、あるいはミュージシャン自体、そして意見を発する私たちにも建設的な意味を与えるものではないようですから。 
 特に、音楽のデジタル化、個人化の進んだ現代において、こうして一般に売り出されるベスト盤というのは、昔のそれとはずいぶんと意味が変わってきているように思われます。つまり、本当に自分自身のベストを望むなら、いくらでも自分のお好みをセレクトして、アレンジし、iPodに入れればいいだけのことでして、それはいろいろと愚痴を言うヒマがあれば、いくらでもできる作業です。
 たしかに「あの曲が入っていない」「なんでこの曲が入ってるんだ」というような感想は、ほとんど全ての人にあるでしょうし、私ももちろんその例外ではありません。しかし、純粋に、この日に、こうしたパッケージングで、こういう選曲と並びで、このアルバムが発売されたその意味を、それぞれのファンが味わい、考えればいいことだと思います。
 実際、心を無にして、まさに初めて聴くアルバムとして聴けば、統一と変化のバランスのとれた、なかなかの一作品になっていると思いますよ。
 そして、再び聴き直せば、今度は彼らの、そして私たちの大切な風景と時間がそこに堆積し、また新たな情景が現出していることに気づきます。それで充分ですし、それこそがこういうベスト盤の意味だと思いますね。あの曲も入れたいと思えば入れて結構。あの曲がいらないと思えば飛ばして結構。しかし、そこに現れる情景は、もしかすると新たなそれではないかもしれません。今までの自分の見てきた、愛してきた情景が、この世のベストであるとは限りませんし。
 ところで、山梨盤に特別付いてきた「ラジオ」という未発表曲ですが、これはまた、このベスト盤に新たな意味を加える名曲ですね。比較的最近の曲が多くなっているベスト盤本体と対照的に、この「ラジオ」は初期の味わいが濃厚に感じられました。
 彼らにしてはディストーションがきいたギターと、それとユニゾンのベースによる力強いリフが、イントロからずっと続いていきます。まさにロックという感じ。そういう重厚なロックのリズムと響きの中に現れる藤巻君の声。艶があって、ちょっとフェミニンで、そのある意味アンバランスというか、ミスマッチ感というか、ツンデレ感(笑)というか、ああ、これこそレミオロメンの世界だな、と思いましたね。
 どうも、最近はそういう藤巻君の魅力を忘れてた。まあこれは結局愚痴になってしまうんですけど、たとえばストリングスやシロフォンといったある種フェミニンなおかずが多すぎるとですね、せっかくの彼の魅力が減殺されてしまうというか…。ドラムスの治くんがまたフェミニンなので(笑)、結局男らしさでロックするのはベースの前田くんだけになってしまう。そこが最近、ちょっと違和感を催させる原因なのかなあ…などと、また勝手な思いを抱いてしまいました。
 ということで、「シンクレティズム」的、すなわち混淆的な表現、まさに日本のロック、それも田舎の(失礼)ロック、それが彼らの原点であり、魅力なのでした。それはもちろん繊細な「詩」の世界にも言えることです。
 それにしてもなあ、おまけ(?)で付いている滑走路ライヴのDVD、感無量で観ましたよ。私にとっては、あれが彼らとのつきあいの始まりでした。あのライヴから、本当にいろいろなご縁が生まれ、私の人生も大きく変わりましたからね。あれからもう2年半ですか。なんと、濃厚な時が流れたことでしょう。そんな時を演出し、多くの縁を生んでくれた彼らに、心から感謝したいと思います。
 今月20日、久々に彼らのライヴに参戦する予定です。私は感謝の気持ちを胸に、彼らの音をしっかり受け止めてきたいと思います。

ライヴ@エコパ行ってきました

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2009.03.08

『仏教のこころ』 五木寛之 (講談社)

06278201 日の「紅白」の話も、考えてみれば「シンクレティズム(混淆主義)」ですね。いや、主義というと、意図的、積極的に混ぜているような気がするし、混ぜないのを批判しているように感じるので、ちょっと語弊がありますかね。イズムじゃなくて、もともとそういう性質なので、何も考えていないんですよ。それが日本文化の本質であり、最強である所以であります。
 まあ、ああして、赤と白を仲良く並べて新しいデザインにしてしまうようなことはいくらでもありますね。今、こうして書いている文章も、和語と漢語が仲良く交互に出てきています。平仮名と漢字の併用は、ちょっと意味は違うけれども、まあ近い感覚ではあります。でも、これは主義でもなんでもありませんね。
 生活の中の家具や道具なんかを見ても、ま、ちょっと冷静に考えれば、もう節操がないほどに、メチャクチャだと気づきますね。ゴミ箱の中でももうちょっとしっかり分別してるでしょう(笑)。
 この本は、そんな日本の寛容さというか、何も考えてなさというか、そうですね、いちおうこの本では「シンクレティズム」ということになっていますが、そういう実態と、あと「アニミズム」を称揚する内容になっています。
 私もまったくその通りだと思いながら読みました。ただそれを「仏教のこころ」と言ってしまっていいのか、これは別問題ですね。いや、それこそ何も考えないで、ふむふむと言っていればいいのですが、ちょっと無粋にツッコミを入れると、それは「仏教のこころ」というよりは、仏教の需要の仕方に代表される「日本のこころ」ではないかと。
 本文の中でも触れられていますが、日本の仏教というのは、釈迦の説いた仏教とはずいぶんと違ったものになってしまっています。それこそ「シンクレティズム」と「アニミズム」の影響です。釈迦の説いた仏教はある意味厳格で論理的であることはよく知られています。また本書でも紹介されているインド人の性格というのも、いわゆる日本仏教から想像されるイメージとはずいぶんとかけ離れていますね。
 五木さんと河合隼雄さんの対話、五木さんと玄侑宗久さんの対話で顕著だったキリスト教文明批判は、そうした日本仏教観の裏返しとして読めますので、少し違和感がありました。つまり、仏教というより日本の心性の素晴らしさを述べて、キリスト教を難じているように思えたのです。ちょっと土俵が違うかなと。
 そして、あんまり強くそのことを主張すると、結果として自らも原理主義的になってしまい、「シンクレティズム」じゃなくなっちゃうなと、少し心配になりました。
 ま、そのへん、私もしょっちゅうそういう論調になってますから、人のこと言えないんですけどね。
 一方、非常に感心したのは、「仏教の受け皿」という章です。仏教は538年(552年)に伝来して、民衆に広まったのではなく、もうそれ以前に、民衆の中にサブカルチャーとしてあって、それをかぎつけた中央政府が、それをうまく利用するために国教化したというような話です。つまり、上意下達ではなく、民衆レベルから上に向かって発達したというのです。たしかにそうですね。仏教に限らず、文化というものはそういうものでしょう。でも、学校ではほとん、ど上から下に教化された、あるいは突然輸入されて始まったように教えてますね。
 ちょっと視点を変えてみると、そういう教え方の方がずっと不自然だと気づきます。でも、生徒はそれをウソくさいなあとは思わないで暗記してるわけで、そのへんは我々教員も気をつけなければならない点だと思いました。ま、私は以前から、もっと過激に教科書否定をしてきてますが…いえいえ、どっかの組合のような低次元の話じゃないっすよ(笑)。
 ま、何も考えないで、いいものはいいでどんどん取り入れるというのは、これは悪いことではありませんね。まずその方が絶対楽しいですから。いろんなものに出会って、どんどん自分が変化していく、昨日の自分と違う自分になっていった方が、それは面白いですよ。
 もちろん、そういう意味では、好きなものだけでなく、嫌いなもの、一瞬えっ?と思うものをも、とりあえず一度は試してみるというのも重要ですね。それが究極的には、無我や縁起、他力という、仏教の本質に近づいていく唯一の方法かもしれません。
 そうすると、やっぱりこの本のタイトルは「仏教のこころ」でいいわけか。というわけで、最後はしっかり寛容の心で受容していきましょう(笑)。
 でも、これはどうでしょうか。42ページに「筆絶につくしがたい」ってあるんですけど、これは受け入れていいんでしょうか。ま、初版本ということで許しましょう。しかし、なんでこういう間違いが起きるかなあ…。とは言っても、さすがにこちら「弱肉朝食」にはかなわないか(笑)。あっ、これも仏教の本だったなあ。我々の度量が試されてるのかな。

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2009.03.07

紅白いちご

13155 節柄、紅白幕をよく見ますね。卒業式、入学式、入社式などなど。
 なんで慶事が紅白なのか。皆さんご存知でしょうか。私の知る限りでは、次のような理由がまことしやかにささやかれております。
 まず、紅(赤)は赤子、赤ちゃんで、白は死を意味し、誕生と死で人生全体を示すという説。死じゃあ慶事じゃないじゃん!とツッコミを入れたくなります。ま、死もめでたいという考え方も古来ありますけどね。
 次に、日の丸のイメージのデフォルメという説。旭日ですね。白い空に朝日が昇るというめでたさ。
 そして、源平合戦、いや、順番からすると平家(紅組)源氏(白組)ですかね、敵同士が仲良く並ぶことで、平和をイメージするという説。紅白歌合戦なんかもそういう発想でしょうか。
 実際はどうなんでしょうか。私の勝手な想像では、以下のとおりです。
 古来、日本では「白」を特別視してきました。いわゆる白無垢という発想です。汚れていない純粋なまっさらな状態というイメージですね。ですから、平安時代にはすでに、出生や元服、婚礼や出家、そして葬儀にいたるまで、白を基調としたセレモニーが行われた記録があります。
 一方、中国ではどうだったかというと、慶事は赤(紅)、弔事は白です。昔も今もけっこう明確にそういう区別があると聞きました。ですから、中国では「紅白事」というと、婚礼と葬儀を表すそうです。
 おそらく、平安時代にそういった中国のイメージが輸入されてですね、日本古来のものと合体したんじゃないでしょうか。非常にシンプルな発想ですが、日本の「ハレ」を表す「白」と、中国の慶事を表す「赤」を同等に並列したのが、日本の「紅白」の端緒じゃないでしょうか。ま、私の勝手な想像ですけど。
 ついでに言っておきますと、なぜ「赤」という文字を使わず「紅」なのか。これは、中国における「赤」という漢字の意味に関連しています。赤には、「一切を失う」という悪いイメージもあるんです。赤貧とか、赤窮とか、赤裸とか、赤立とかいいますね。ですから、悪いイメージのない、単純にカラーを表す「紅」を用いるようになったらしい。
Ichigo_hatsukoinokaori_hikaku_c というわけで、紅白饅頭なんか慶事にはつきものですが、今日紹介するのは、ちょっと新しい感覚の紅白ものです。
 写真を見ておわかりの通り、これは紅白のいちごです。
 いちごと言えば、普通は赤(紅)と決まっています。実際、右に見える見慣れた色合いのいちごは「紅ほっぺ」です。紅ほっぺと言えば「うごのいちご」ちゃんってのもいましたね(笑)。
 で、左の見慣れない色白のいちごちゃんはいったい何者かといいますと、とっても素敵な名前ですよ。「初恋の香り」。色白ほっぺにちょっと赤みがさした感じ。いいじゃないですか。
 これは、山梨県にある三好アグリテックさんが開発した商品です。なんでも、今大人気で、小粒の白8粒・赤12粒のパックが6000円、大粒の赤9粒・白6粒が8000円と、かなり高価にもかかわらず、すぐに売り切れてしまうとのことです。
 結婚式なんかにぴったりですよね。いちごと言うと、やはりその甘酸っぱさから、純粋な「初恋」をイメージさせます。新郎新婦がそういう原点を思い出しつつ、新たな門出を迎えるために、この紅白いちごは一役買いそうですね。ま、そんな初々しい気持ちも、いずれ熟れ切ってどす黒くなるんですけど…なんて、無粋なことは言わないでおこう(笑)。

三好アグリテック株式会社

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2009.03.06

『ヤクザと日本−近代の無頼』 宮崎学 (ちくま新書)

48006396 日は「ロケット団」という「義」で結ばれたヤクザの記事を書きました。今日はまじめなヤクザ研究本を紹介しましょう。
 この本は以前紹介した『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』の理論編です。たしかに、この二冊を読むとかなりはっきりとしたヤクザ像が浮かび上がってきます。ヤクザ像が浮かび上がるということは、それを浮かび上がらせるシャバ、すなわち世間が、その背景として沈殿して見えてくるということでもあります。
 アウトローを生み出す「ロー」の部分、法と秩序という、ワタクシ流に言えば「コト」をつぶさに観察することによって、「モノ」の怪たるヤクザの意味と存在価値が解ってくるということですね。
 そうすると、コトに執着する「オタク」とモノたる「ヤクザ」って、とっても対照的な存在ですね。無理矢理こじつけてしまえば、武士や被差別民を源流とする「ヤクザ」が減り始めてからというもの、貴族を源流とする「オタク」がこの世に跋扈するようになったとも言えますね。なるほど(と自分で納得する)。
 そうそう、ちょっと話がずれますが、学校というシャバの縮図のような所でも、ずいぶんとその雰囲気は変わりましたよ。昔風なアウトロー、すなわちツッパリや不良、非行少年のような輩はなりをひそめ、クラスの過半数がオタクなんていうクラスも現れ始めました。
 振り込め詐欺の話じゃありませんが、絶対的なワルがいなくなったかわりに、普通の生徒が影でコソコソ悪事を働くようになったとも言えます。
 昔のように悪が顕在化していた時の方が、たしかに日々の指導は大変でしたが、しかし、その他の生徒は「善」として、いい意味で身動きがとれなくなっていたので、安心のようなものもあったんです。最近は、なんというか、裏表があるというか、絶対的な悪と善のような構図がなくなって、誰もが危険で安定感に欠ける感じがあるんですよね。
 大学なんかでも、学生運動や、それに伴う闘争はなくなりましたけど、一方でフツーの学生が大麻に手を出したり、詐欺をやったりするじゃないですか。一見、昔より平和に見えますけど、なんとなく不安定で、皆が疑心暗鬼になっている感じがする。若者の精神疾患が多いのも、実はそういうフィクショナルな「自分像」が確立していない、させられていないからではないか…。
 話を戻します。いや、戻らないか。昨日、軽々しく、ロケット団に「武士道」を感じた、ロケット団は「義」で結ばれている、なんて書いちゃいましたが、もちろんそれは軽口にすぎません。しかし、多少の真理をそこに見てとることもできますよ。
 本来の武士道は、戦場の倫理であり、実にプラグマティックなものです。近世、近代の、儒教、朱子学と結合したネオ武士道とは違います。ヤクザの仁侠道は、そうした原武士道での武闘部分に回帰しつつ、ネオ武士道に反抗したものだと宮崎さんは述べています。私もそう思います。しかし、ネオ武士道に対しては、反抗しつつも寄り添っていますよね。ある意味メタ封建制度を目指したとも言えます。
 ですから、昨日書いたように、サトシやヒカリやタケシたちとポケモンの関係、あれは実に西洋的な支配被支配関係であって、ある意味近代的な主従関係なわけですね。そこに無頼、アウトローたるロケット団が介入しているわけですよ。原武士道とネオ武士道をもってしてね。
 サトシたちはポケモンに「愛情」をもって接しているかもしれませんが、では、ポケモンのために命を捨てられるかというと、どうでしょう。ロケット団は、実際昨日、ある目的、夢のために命を捨てようとしました。それも仲間とともに。そして満足して、そして来世にまで、その仲間との結束を約束し、夢の成就を期待して…(笑)。いや、(笑)ではない!真剣です。
 また話が違う方向に行く、いやいや、同じ話を違う方向から見ることになりますが、初代タイガーマスクの佐山聡さんが、ある雑誌で「義」について語っていました。引用します。
 「愛で人を守る。六本木で人が倒れてたら愛で助ける。これはキリスト教の考えですね。その一方で武士道というのが日本にはあって、封建制度で作った武士道の精神基底というが切腹なんです。つまり『死』なんですね。ここに愛と死の違いがあるわけですよ。六本木で人が倒れてて、それを助けることができなかったら、これは切腹なんです。友達に何かあって、でも助けることができなければ、俺はもう切腹しなくちゃいけない。どうしてかというと、恥だから。そういう『恥』の概念が我々にはあるんですね。愛の概念とはまるで逆ですけども、規範という点ではまったく一致しているんですよ」
 ここでの「義」は、封建制度上の武士道のことですから、ネオ武士道のそれかもしれません。しかし、すぐそこに「死」を置くことによって、形骸化しない一つの絶対的な規範を作り出しているとも言えます。つまり、「義」を「愛」にすり替えられたネオネオ武士道とは一線を画しているわけですね。
 今、日本は有事ではなく無事ですから、原武士道は適用しようがありません。しかし、なんというか、いかにも表面的で偽善的な、こちらから与えてやるというような「愛」がはびこっていて、もっと根源的な人間どうしの感情や倫理というものが、軽んじられている、あるいは意図的に隠蔽されているような気がしてなりません。
 無事な世に設置された「ヤクザ」という装置。原武士道とネオ武士道を高次元で統合していた「必要悪」。それが消えつつある今、私たちはなんとも言えない不安にさらされています。ある意味、悪が可視的であった時はよかったのです。今、私たちは、自分と他人と社会の中に潜む、見えない「悪」・「敵」と日々闘わなければならないのです。

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2009.03.05

『ロケット団解散!?』に見る日本文化論

1 きなりポケモンの話ですみません。でも、ちゃんと最後は文化論に持っていきます(笑)。
 今日帰宅したら、ちょうどポケモンが始まりました。ここ富士山では、テレビ東京のアナログ波を直接受信しています。2011年になったらウチではポケモンが見られなくなる予定ですので、今のうちしっかり見ておけ!と娘たちにはよく言い聞かせてあります。おそるべし、国家権力。私は、当然それに抗いますよ。いかなる手段を使っても…笑。
 さて、そういう強大な力に健気に立ち向かう、実は小市民的な存在なのが、日本のアニメやマンガの悪役たちです。もう皆さんもお気付きと思いますが、日本では、ヒーローやヒロインよりも、悪役の方が愛される傾向があります。いつのまにか善悪転倒する…とまではいきませんが、人気は悪役の方があるということが多い。
 まず、彼らは努力家なんですね。懲りない。毎回ドッカーンとやられて、星になっちゃったり、ドクロ雲になっちゃったり、大変なんですけど、また次の週にはしっかり頑張ります。根性があるというか、なんというか。
 私はアニメやマンガには詳しくないので、子どもたちが観ているものしか知りませんけど、たとえば、このポケモンのロケット団や、アンパンマンのバイキンマン&ドキンちゃん、マイメロのクロミ&バク、ヤッターマンのドロンボー一味など、みんな実に愛すべきキャラですね。
 もちろんこういう悪役人気というのは、外国にもあるとは思いますけれど、なんていうか、日本のそれは本当に一つのパターンになっていると感じます。これはおそらく日本人の歴史的な心性に基づくものですね。
 今日のポケモンでは、その愛すべき悪役の代表格である「ロケット団」が解散するという、実に衝撃的な、ポケモンという作品のみならず、日本の文化をも揺るがしかねないタイトルでした。先週、次回予告があってからというもの、きっと多くの日本人がハラハラドキドキしながら、今週の放送を待っていたことでしょう。
 よく考えてみれば、悪の団体が解散するというのは、これはめでたいことです。やっとサトシやピカチュウたちに、いや地球に平和が訪れるわけですからね。しかし、なぜか不安になる。
 つまり、彼らは必要悪なわけでして、彼らがいて初めて「正義」なるフィクションが成立するわけですね。そう、私が最近研究している、ヤクザみたいな存在なんですよね。この前、振り込め詐欺の記事で書きましたが、我々が悪に手を染めないために、相対的に「善」であるために存在してくれている「悪」なわけです。
 まあそれにしても、今回の放映でのムサシの魅力はホントにお見事でした。もともととっても美人で姐御肌で、私からすると完全に萌えの対象であり、ポケモンセンターで「ムサシのフィギュアはないんですか?」と聞いてしまうような存在なのですが、今日のムサシにはもう、「萌え=をかし」を超えて、完全に「あはれなり」すら感じてしまった。武士道だ…。愛ではなくて「義」でした。
 特に、絶体絶命に陥った際、コジロウに語った「死んでも来世があるんなら、また会いましょうね、あたしたち!」…これには泣けたなあ。なんていうか、仇討ちの物語というか、彼らの「夢」って、もしかしてとっても崇高なものなんじゃないかなって思いました。命をかけてるわけですから。ムサシとコジロウの関係って、あれって恋愛なんていう陳腐なものを完全に超えてますしね。「義」で結ばれた関係なんです。
 あと面白いのは、さっき挙げた悪役たち、みんな女中心ですね。強い女が一人いて、ちょっとなさけない男たち、でもちょっとカワイイ男たちが、へーこらしてる。これって、やっぱり日本の根源的な女系文化の象徴でしょうね。西洋の男系的視点からすると、やっぱりそれって悪になっちゃうんだなあ。
 いつかも書きましたけど、サトシたちって、ポケモンたちを馴致して人間社会に取り込み、まるで闘牛や闘鶏、闘犬のような遊びに興じているわけですから、とっても西洋的な自然支配観が表れた「正義」ですよね。それに対抗し、悪の枢軸を演じつつ、ゲリラ戦にいそしむ彼らに、いつかの日本を見るのは、私だけではないかもしれません(なんちゃって)。
 ああ、そうだ。ついでに語っちゃおう。プロレス論です。ミッキー・ロークの「レスラー」、公開が非常に楽しみなんですけど、あれってキリスト教の受難の物語、すなわち「パッション」であるという話が「kamipro」に載ってました。なるほど。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が、アメリカで「受け」中心のパッシヴなショー・プロレスに変貌していったのは、キリスト教の受難と復活の影響だと。なるほど、と思いました。
 では、日本でも独自の発展を遂げたパッシヴなプロレスのベースは何かといいますと、やはり臥薪嘗胆して捲土重来を期す武士道的世界観だと思うんですね。やられてもやられても歯を食いしばって立ち上がっていく姿。命をかけて「義」を貫く姿。負けることが分かっていても、強大な敵に立ち向かっていく姿。そして、そうした敗者、弱者に対する共感としての判官贔屓。そこにドラマを見出し、自らを投射して感動するという、いかにも日本人的な何かがあるような気がします。
 な〜んて、そう考えると、ウチもロケット団みたいなもんだな。カミさんが自己中心的で懲りないムサシ、私がヘタレなコジロウ(笑)。黒ニャースもたくさんいるし。子どもたちは…ソーナンスとかマネネとか?ははは、でも、たしかにウチは武士道に則った「必要悪」かもしれませんね。いや、それを目指そう!愛される悪役になるぞ!なんちゃんて。

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2009.03.04

鼻メガネは世界を救う!!

↓第一回ベストオブ鼻メガネ
Csc_0275 日、読売新聞の取材を受けました。メイド服を強要した教師としてではありませんよ(笑)。あれは私が強要されたのだ!
 ま、それは冗談として(ください)、今日のは読売新聞山梨版で連載されている「学舎の達人」というコーナーだそうです。
 うむ、私を「達人」と呼んでよいのだろうか。名物教師…いや、変人教師というならわかりますけど。記者の方もある意味面食らったのではないでしょうか。
 そんなお変人教師に習った生徒たち、もちろん私を反面教師として正常な人生を送る者もおりますが、一方であらぬ方向で活躍している者もたくさんいます。特に芸術系、お笑い系など。
 私としては当然そういうヤツらの活躍はうれしい限りであります。自分の果たせなかった夢を、代わりに実現してくれているからです。
 中でもこの双子の兄弟はかなり恥ずかしくも誇らしい存在です。かつて浮世絵師としてCMやらバラエティーなんかに何度か出てましたが、現在は…いったい何やってんだ?ww
 しかし、なんだかんだ言って彼らとは縁がありまして、そうそう、先月は後楽園ホールのパルコニー席で偶然会いましたっけ。その前はキャンプ場プロレスで会いました。彼ら主催者だったんですよね。あの神興行、2008年ベスト興行賞獲ったんですよ。おめでとう!てか、当然でしょう。
 そんなキュートで変態な彼らが、最近力をいれているのが、「鼻メガネ」です。「鼻メガネ」とは、あの「鼻メガネ」です。これがですね、なんかとってもいいんですよ。単に街行く人、あるいはお店の人なんかに、突然「この鼻メガネかけてください」って言って、そして写真を撮るという企画、いや活動なんですけど、その結果は、なんというか、言葉で説明できない独特な雰囲気がありましてね、なんともいいんですよ。
 まずは、その成果を実際にご覧下さい。最近開設されたホームページです。

鼻メガネ連盟公式

 どうですかあ?いいでしょう。なんでこんなに平和な雰囲気になるんでしょうね。ただの「鼻メガネ」が、なんでこんなに人々を幸せにするんでしょう。鼻メガネをかける人も、それを見る人も、みんな幸せそうに笑っています。
27338123_1355638314 日常に飛び込んでくる非日常的福音なのでしょうか。我々を隔てる記号としての「顔」を統一し、国家や民族や宗教や言語などという悪しきフィクションを消滅させる魔術なのでしょうか。
 いずれにせよ、鼻メガネという古典的な(いつどこで生まれたものか、誰が発明したものか、誰が世界で最初にかけたのか、など研究すべき課題は多い)道具が、この世界を変えることはたしかなようです。それも、明らかにプラスの方向に私たちを連れていってくれるらしい。
 こんな、ある意味使い古された、シンプルきわまりない道具と方法が、これほど私たちと世界を劇的に変えるとは。それに気づき、実際に一つの活動として継続しているO兄弟は大したものです。
 まさに渇き切った現代、私たちはこうした触れ合いと笑顔、そして世界の変革を欲しているのかもしれません。これは神からのメッセージなのではないか。「教典」や「戒律」や「法」といった「言葉」による世界の救済は不可能だということ、それはとうに証明されています。「言葉」を超えた「何か」…それが「鼻メガネ」だったのです!(なんちゃって)。
 ま、とにかく楽しいから良し!私もぜひこの崇高なる活動を応援したいと思います。そして、彼らとともに世界の60数億の人々全員が鼻メガネかける日を夢見て、日々精進したいと思います。
 ちなみに、公式には私の鼻メガネ写真もありますよ。後楽園ホールのパルコニーからレスラーに声援を送る鼻メガネです。
 あと、Mixiに入っている方は、日記を「鼻メガネ」で検索してみましょう。主催者の日記でいろいろ見れますよ。特に、Rマニアのしゅく造めさんによる、ベストオブ鼻メガネ授賞式の動画は必見ですね。上の写真のマリオ風八百屋のオヤジはもしかするとメシアかもしれない…。

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2009.03.03

Stich & Mickey Mouse (?)

0264 こかの誰かさんみたいに不明瞭な会計があるわけではないので、隠さず申します。例の漢字検定協会さんとの一連のやりとりの結果、この1年で、我が国語部会には多額の「監督料」「事務処理費」がプールされました。
 他校ではどのようにしているか知りませんが、本校ではそれをいわゆる「監督料」として監督した先生にお渡ししておりません。なぜなら、「監督料」としては、あまりに高額になってしまうからです。「事務処理費」もせいぜい送料の数千円くらいしかかかりません。
 では、どうしているのかと言いますと、私の懐へ…なんてわけはありませんで、頑張った生徒に還元することにしています。ウチの学校では、漢字検定本番に向けて、全校で校内漢字テストを行なっています。その成績優秀者に、この時期ご褒美をあげることにしているんです。今年度も、のべ100人近くに、なんらかのご褒美を進呈しました。それでだいたいの「監督料」「事務処理費」は消えます。というか、消えるようにご褒美を選定します。
 で、今日はそのご褒美のお話です。上の写真はそのご褒美の一つ、ディズニーのクリアファイル(クリアケース・クリアホルダー)です。今年初めて登場したご褒美です。生徒の希望だったんですね。クリアファイルは案外学校生活で重宝する、それもキャラクターものがいい、と。
 それで、文具店にディズニーのものを注文したんです。そして到着したのはスティッチやミッキーがあしらわれた数種類のクリアファイルでした。うん、値段の割にいいじゃん。
 そして、表彰式をして、生徒たちに配ったんですよね。そうしたら、何人かの目ざとい生徒たちがすぐに申し出て来た。先生、つづりが違います!
 ん?Stich…ん?なんか物足りないような気が…あらら、tが抜けてるじゃん!Stitchだよなあ?おいおい、まずくないか、これ。
 よく見てみると、ちゃんと「Disney Licensee」の文字が。おいおい、ホントに正式に許可されてるのかよ!
 そして、その横には「made in China」の文字が…。むむむ、ますます怪しいぞ。「Disney Licensee」自体怪しい。
 しっかし、さすがチャイナ・クオリティーだなあ。あまりに堂々と間違っていて素晴らしすぎる…と、笑っていたら、今度はまた違う生徒がやってきまして、これおかしくないです?と言い出しました。
0266 実はこのクリアファイル、全部で4種類ありまして、その内2枚にはミニーマウスがあしらわれておりました。その片方には、ミニーの絵のそばにちゃんと「Minnie」って書いてあったんですけど、もう一方が右の写真です。どう見ても、「Mickey Mouse」って書いてありますよね。
 これはどういうことなんでしょう。単なる間違いなのか、それとも「Mickey Mouse」という作品名を表したものなのでしょうか。
 いや、実は間違いではなく、これは正真正銘のミッキーマウスなのでしょうか。たしかに、あらためて確認してみますと、ミッキーとミニーはほとんど同じ顔をしているんですよね。ただ長いまつ毛があって、でっかいリボンがついているだけです。
 ということは、これはミッキーがつけまつ毛を付けて、リボンをつけた、すなわち女装した図なのでしょうか。たしかに、ミニーにしては珍しく青い服を着ている。これは怪しい。
 というわけで、このいかにも怪しいチャイナ・クオリティーが、ある意味レア度を増す効果を発揮してくれまして、生徒たちは喜んでくれました。なかなか手に入らない逸品であると。なかなか国語科はヲツなことをするなと。漢字を間違わずに書いたご褒美に、漢字の国が作った間違いだらけのクリアファイルをくれるとは(笑)。
 ま、こういうのは笑ってすませましょう。目くじら立てて怒るほどのこともありませんね。だいいち、気づかない人も多いかも。そして、我々日本人もけっこうやらかしてるんです。そうか、今回ご褒美もらえない人なんか、漢字という外国の文字を間違えてたわけだし(笑)。

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2009.03.02

神は、神審は、どこに行った?

G_29 年でちょうど50年になります。初の天覧試合でのサヨナラホームラン。長嶋茂雄による神事。まさに岩戸開きの一振りでした。
 ちょっと前の話になりますが、SAPIOの2月18日号は「昭和天皇と私たちの幸福な日々」ということで、まあ、そういう特集でありました。
 小学館のSAPIOは、保守嫌米嫌中嫌韓という感じで、私は嫌いではないのですが、普段はあんまり読む気の起きない雑誌です。嫌いではないけれども読む気が起きないというのは、たぶん、自分に似ている人と二人っきりになるのは気恥ずかしいというのと似た感情だと思います。
 そんなSAPIOさんでありますが、やはりこの記事には不思議な興奮を覚えてしまいました。そうそう、この記事だけは、今日ネットで読めるようになりましたので、ぜひどうぞ。こちらです。
 また、懐古的な記事になってしまって申し訳ありませんね。しかし、どうしてもここのところ、「神の不在」を感じるんですね。たとえば、もうすぐWBCが始まりますが、やっぱりあそこに「神」はいないような気がする。いや、イチローはそれに近いかもしれないけれど、しかし、何かが違う。彼は神から技を託されている存在かもしれないけれど、神を招来する働きはしていないような気がする。天覧試合でサヨナラホームランを打って、日本の経済を動かしてしまうような力はないような気がします。
 前回WBCでは、王監督が神を招来しました。王監督はそういう意味で、やはり長嶋茂雄と同レベルの人です。あの優勝の瞬間、たしかにスポーツが、野球が、クラシックな神事的意味を取り戻したと感じました。
 つまり、スポーツにせよ、芸術にせよ、政治にせよ、神を招いて人心を動かす、そういうミーディアム的な存在が必要なのであって、ただ単に小手先の技術博覧会ではいけないと思うのです。
 最近特に興味のあるプロレスや歌謡界なども、全くその通りです。もちろん、そこには、審神(さにわ)たる芸能者と、もう一つの仲介役であるヤクザの存在が欠かせません。
 そういえば、バルトが神話作用で、既に嘆いていましたね。欧州では1950年代には、すでに「神の不在」が顕在化していたのでしょうか。いやいや、それよりさらに半世紀以上前に、ニーチェが「神は死んだ」と宣言していましたね。
 そう考えますと、かの戦争での日本は、既に神が不在になりつつあった、つまり人間中心の科学万能主義に取り憑かれ、そして偽神たる「カネ」の力で経済社会に成り下がった欧米諸国に対して、非近代的な神的世界をもって対抗した国だったとも言えますね。
 そして、敗戦。しかし、神は負けていなかったのでした。武力で負け、(戦後)民主主義を注入されても、神的世界は生き続けました。神がいたから審神がいたのか。審神がいたから神が降臨したのか。
 でも、最近はどうでしょうか。どうも、違うような気がしますね。結局、カネという悪神、悪魔が世界をひっかき回し、人心をひっかき回し、本当の神と私たちを隔絶しているように思います。
 この神話的な天覧試合には、たくさんの審神たちがいました。それは、長嶋茂雄、王貞治、藤田元司、小山正明、村山実ばかりではありません。もちろん、昭和天皇自身が最強の「イタコ」でありました。今、彼らの神懸かり合戦を復習してみることは、実に意味のあることだと思います。
 古来ずっと存在し続けている神話や物語とは、そういう復習の意味を持つものです。今回のSAPIOには、そうした神話的世界を語り継ごうという意志が感じられ、私は好感を抱きました。
 私は、小学生当時、大田区に住んでいまして、毎日曜日には、早朝自転車を駆って多摩川の巨人軍グランドのあたりに行き、神審者たちの隣で草野球という神事にいそしんでいました。時々、長嶋茂雄や王貞治をはじめとする神審たち、まあ当時の私たちからすると本当の神に見えましたが、彼らが私たちのところに降臨して、サインをくれたり、場合によってはキャッチボールをしてくれたり、いっしょに土手の反対側にあったお店でコーラを飲んだり、そんな体験をさせてくれましたっけ。まさに、神が、神審がそこにいて、私たちの日常と神話的世界をじかに結んでくれたのです。素晴らしい時代でした。

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2009.03.01

そう言えば昨日卒業式でした(笑)

090228 っと、忘れてた。昨日卒業式でした。ウチのクラスの生徒たちも学舎を巣立って行ったんでした。
 なにしろ、まだ国立の発表前だし、教室も全然片付けてないし、後期の勉強に来るヤツもいるので、卒業という感じがしません。生徒もそんなにセンチメンタルになってる場合じゃない。最終進学先は国立の結果次第なんですが、みんないちおう行くところはあるので、どちらかというと受験から解放されてルンルン気分ですね。
 実際、最後のホームルームをやろうとしたら、もうあいつら帰っちゃってた(笑)。まあ、ウチの学校は日常あまりに濃い関係を築いていて、まるで家族みたいな感じなので、改めて感動的な雰囲気を作るとお互い気恥ずかしいというのがありますね。
 というわけで、今日は卒業の時に配られる学校の冊子に書いた私の文章を転載しておきます。1月のはじめに書いた文です。掉尾の一文は全くの杞憂に終わりました(笑)。では、くっだらない文章ですが、興味のある方はどうぞ。世の中の真理が書かれていますよ。

 「夢は夢のままがいい」

 正直に言うと、大学生の時は女子高の先生になりたいと思っていた。自分自身もほとんど女っ気のない高校に通っていたし、本当に単純に憧れのようなものがあったのである。
 実際、私は友人と、東京のとある新設女子高の採用試験を受けに行こうと画策していた。しかしその後、縁あって本校に奉職することになり、残念ながらその夢はついえてしまったのだった。
 そして、数年後、その東京の女子高に、今はジャン・アレジの奥さんになってしまった後藤久美子という美少女が入学したと聞いて愕然とした。さらにゴクミは天文部に入部したというではないか。私は地団駄踏んだ。当時私は天文マニアであり、その高校に勤めていたら、天文部の顧問になっていたに違いないと勝手に妄想したからである。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 それから二十年、若かりし日のそんな淡い夢を、君たちが実現してくれた。晴れて女子クラスの担任になったのである。
 そして三年が経とうとしている。
 言うまでもなく、私の若かりし日の夢の中身は、いとも簡単に打ち砕かれた。いや、もう私も若くないし、ある程度の覚悟はできていたのだけれども、あまりの夢の完敗ぶりに、さすがにショックを受けたとも言える。
 結論。女は男がいて女である。実に単純で明快な真理であった。
 君たちにとって、私は君たちのお父さんと同世代であるからして、もうすでにいわゆる男ではない…それは分かっていたが、それにしても、見事に君たちには(一般的に言われる)女らしさがなかった。潔いほどだ。この歳になって、世の真実を知らされた気分である。
 いや、そういうことを教えてもらっただけでも感謝すべきだし、いやいや、それ以前に仕事的にはとても楽をさせてもらったので、本当にありがたく思っている。
 少し変なやつもいたが、基本的には世話がやけないクラスだった。勉強も勝手にしてくれた。行事などにも積極的に参加するし、面倒な人間関係の問題なんかもほとんどなかった。
 だから、私の仕事と言えば、君たちに頼まれて本やCDを注文すること、CDをiPodに入れてやること、メイド服を揃えてやることくらいしかなかった。あとは加齢臭が臭いとか、ウ○コ以下だとか言われていじめられることくらいだろうか(これも立派な仕事である)。
 ま、そんなこんなで、君たちは、私の教師人生の中でかなり濃い記憶として残るに違いない。
 あと数週間でセンター試験、そしてそれぞれの入試があり、あっという間に春が来て卒業、進学ということになる。
 こんなことを言うと、また気持ち悪がられるに違いないが、実はここに来て、ちょっと私は切ない気分なのだ。私はもうちょっと君たちと馬鹿な話で明るく笑っていたいのである。
 私もそれなりの年齢になったのだろう。なんとなく娘を嫁に出すような気持ちなのかもしれない。卒業式で泣かないよう頑張りたい。

ps ウチの生徒たちの頑張りの結果はこちらでご覧下さい。

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