ダンスに学ぶ「愛」の世界
ダンサーたち?
教え子たちが遊びに来まして、いろいろと語り合いながら飲みました。その中に一人、本物のダンサーがいまして(あとはニセモノです…笑)、彼のダンスの映像などを観ながらいろいろと勉強させていただきました。
パフォーマンスとしてのダンスは、私の知っている音楽の世界やプロレスの世界、最近興味を持っている舞踏、あるいは能の世界と、多くの共通点、そして相違点がありましたね。まあ、当然と言えば当然ですけれど。
おおまかに言って、やはり単なる肉体表現の技術論では、優れたダンスか否かは測れないということです。精神性も非常に大事であると。
やはり、ダンスの原点は、興奮と陶酔を招く律動の共鳴です。それはたぶんに性的なものであると感じました。本人もそのあたりは意識しているようで、そういう意味でのセクシーな表現は、目指さずしても自ずと現れるものであるとのこと。まあ、求愛のダンスがその始原でしょうからね。
そうすると、やはり重要なのは、まずは「愛」や「思い入れ」なのではないでしょうか。プロレスも音楽も、全てそうですが、やはりいろいろな「愛」が集結して共鳴して、素晴らしい時間と空間が紡ぎ出されるのですね。全ての芸術はそうなのでしょう。
まずは演者の「愛」ですが、たとえばダンスならダンスという行為自体への愛は絶対条件ですね。その行為自体への愛こそが、歓びの光となり、切ない影となり、発散されるわけです。
そして、その愛の表現を誰と共有するか、それも重要です。まずは共演者。それは共通のリズム(場合によってはルール、約束事)の中での共振、増幅作用として表現されます。
また、もちろん観客、聴衆に対しても、その愛は発せられます。光や影を共有しようぜ!というメッセージの有る無しは、これは案外あからさまに表れますね。ライヴの善し悪しはそこにかかっているとも言えます。最近はいろいろなジャンルにおいて、自己満足で終わってしまっている人たちが多くとても残念です。メディアの発達が我々自身を疎外しているのでしょうか。
もちろん、観客、聴衆の側にもたくさんの「愛」が要求されます。本来、表現芸術においては、演ずる者と受け取る者が対等であるべきです。つまり、会場という空間全体が、ある一つの極点に向けて一体になって動いていくべきだと思います。演者はあくまで、それをリードする役割を担うのであって、やはり受け取る側の責任と言いますか、役割も実に大きいものです。最近は、そこにも少し問題が出てきていますね。つまり、金を払ってるのだからそれなりのものをよこせ的なお客が増えたということです。これは、芸術が市場経済に呑み込まれた弊害ですね。本来、芸術は市場の外にあるべきなのです。
あと、プロレスでは、この前書きましたが、実況のアナウンサーにも「愛」が要求されたりしますね。そうしたたくさんの人々の「愛」や、まあ「思い入れ」でしょうかね、そういう「心」というか「精神」というか、科学や経済では測れないモノの協同作業によって、私たちはまた心動かされるのです。
今日観たダンスのステージでは、そういう幸せな雰囲気がバッチリ伝わってきましたよ。ダンサーの皆さんはもちろん、お客さんも楽しんでいました。
意外だったのは、60歳、70歳の方々もたくさん踊っておられたことです。タップ主体だったこともあろうかと思いますが、年齢によるハンディは微塵も感じられず、逆になんとも言えない味わいがあり、感動してしまいました。ダンスはやはり、単なるスポーツではありませんね。競技ではなく芸術です。
あと、面白かったのは、同じ振り付けで同じ動作をしていても、パフォーマーによって、その印象がかなり違うということでした。これもまたあらゆる分野に共通しているんですが、なんというか、空間を自分の一部にして演ずることができるかということでしょうかね。私も以前、こちらで観世寿夫さんの言葉をプロレスにあてはめて書きました。あれです。それができている人は実にダイナミックに見え、そして大きな波が画面からも伝わってくるから面白い。
自分の肉体のコントロールに終始している人もいまして、それはそれで見事なテクニックだったりするんですけど、しかし、何か伝わってくるものが足りない。結局、それって自分の外部にまで「愛」や「思い入れ」が及んでいるかの違いなのかもしれませんね。
そういうものが、その人のオーラ(アウラ)なのではないかとも思います。自分は音楽をやっている時、はたしてそういうオーラが出ているのか。あるいはそれ以前に教育という現場で、そういうオーラを発しているか、ちょっと心配になってしまいました。
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コメント
よくぞ言いたいことを言ってくれました!このエントリには感激です。
さて、芸術、教育も確かにそうですが、医療も庵主様がおっしゃるような要素が非常に重要なのではとずっと考えてきました。古来から呪術の要素は大きいですし、元来市場経済になじむものでもないし。
恥ずかしながら、現在あまり仕事せずにサボっている理由のほとんどは、肉体的疲れよりも精神的なもの、あえて言えば、実は我ながらオーラがないなあと感じているからなのです。
ありがたいことに、今はゆっくり修行させていただいています。
投稿: 貧乏伯爵 | 2009.02.15 16:08
伯爵さま、どうもです。
私も言いたくても言えなかったことです。
医は仁術ですよね。
たしかに医の世界も市場に呑まれて妙な感じになってます。
やっぱり世の中「愛」が足りないんでしょうか。
「愛」を蓄えるためには、それこそ市場の外にいて修行するのが一番てすよ。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.02.16 06:48
蘊恥庵庵主さん、おはようございます。
先日コールドプレイ(アップルのCMに起用されていたバンド)のライブに行って参りました。
先生のおっしゃっている通り、そのライブではまさしく愛が表現されていたんだと思います。演奏者と観客が同じベクトルに向かっていることを感じる至福の時間に浸ることができました。
ジャンル、表現方法に違いはあれど最終的に目指すべきものは愛なんでしょうね。そしてそれは人と人とが互いに努力して目指して行くものであるのだと気づかせてくれました。
私も将来そのような表現者になれるように他者に向けられた努力を行いたいです。
投稿: ニキータ | 2009.02.16 10:10
ニキータさん、どうもです。
コールドプレイ、いいですね!
それもライヴとは、うらやましい限りです。
きっとプロのパフォーマンスを堪能されたことでしょう。
やっぱり生はいいですよね。
まさに幸せいっぱいになります。
私もライヴによく出かけますし、自分でもやるんですけれど、
あの独特の一体感は何ものにも代え難いですね。
自分が人をリードしていくことも大切ですが、
人に上手にリードしてもらう、すなわち人の力を上手に利用させてもらうことも大切だと感じます。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.02.16 17:38