「泣ける歌」の「泣ける」は可能か自発か
「誰も知らない泣ける歌(泣け歌)」という、なんとも痛い番組を観ました。正直泣けないし、かと言って笑えもしない。なんでああいうことになっちゃうんでしょうか。
それは「泣ける歌」という表現自体が不自然だからです。そう、最近「泣ける歌」「泣ける映画」「泣ける小説」など、「泣ける〜」が求められていますね。実はこのように自動詞「泣く」の可能動詞形「泣ける」が名詞を(単独で)修飾する形で用いられはじめたのは、ごく最近のことなんです。
ま、そんなに詳しく研究したわけではありませんが、ここ10年くらいでしょうかね、耳につくようになってきたのは。
たとえば、「歌える歌」とか「買える商品」とか、そういう他動詞の可能動詞形は、その目的語を修飾することができたんです。しかし、「泣く」のように、基本自動詞であるものは、そういう用法は不可能でした。
ですから、本来の「泣ける」の用法は、「(私は)泣けてならない」とか「(彼は)泣けて仕方がなかった」というような形だったわけです。
で、ここでお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、実は「歌える〜」とか「買える〜」の文法的意味は明らかに「可能」ですが、「泣ける〜」や「笑える〜」は「可能」とは言い切れないんですね。皆さんはどういう感覚で使ったり、聞いたりしていますか?「思わず〜する」という意味の「自発」の感じもありますよね。どちらかというとそっちのニュアンスの方が強いでしょうか。
「泣けない〜」とか「笑えねぇ」とか、これは不可能でしょうか、それとも自発の打消しでしょうか。けっこう微妙ですよね。
そう、この微妙さこそ、この言葉たちの本質なんです。
実は、五段(四段)動詞が下一段化した可能動詞ができたのは、日本語史的に言いますと、けっこう最近のことです。実際の例は中世末から見られるんですけど、一般化し、そして標準語的に認められるようになったのは江戸くらいじゃないでしょうかね。ちゃんと調べたわけではありませんが。
どのようにして、このような動詞が生まれたのかには諸説ありますが、私はこれらは「連用形+得る」だと考えています。つまり「泣き得る」が縮まって「泣ける」になったということですね。こう判断したのは、私の生まれ故郷、静岡の中部で、「歌ええる」とか「読めえる」とか「食べえる」いう可能表現を耳にしていたからです。これらを過渡的な形と考えたわけですね。
で、なぜこういう可能動詞ができたのか、これは最近の「ら抜き言葉」問題にも関わります。
本来、日本語では可能も自発も(+受身と尊敬)も一つの助動詞「る・らる」で表現していました。現代語では「れる・られる」ですね。例えば「食べられる」と言えば、食べることができるという可能の意味もあるし、ライオンに食べられるという受身も、先生が食べられるという尊敬もありますね。そして、故郷が偲ばれるなんて言えば自発です。
なんで全然違うように見える四つの意味を持っているかというと、実はこれが全然違わないからです。この「る・らる(れる・られる)」には共通した性質があるんですね。それは、「自分の意志ではない」「自分にとっては起きていない」ということです。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、古語で説明しますね。
本来「可能」は「れず・られず」という不可能の形で用いられていました。それも何かに妨げられてできないというニュアンスが強かった。そして、受身は90%「迷惑」でした。「殺さる」とか「切らる」とか「追はる」とかですね。これも自分の意志に反した状況です。そして、自発は何か感動的なものに接して「泣かる」とか「思はる」とか、明らかに自分の意志ではない。尊敬は自分からとんでもなく離れた遠い世界の人の行為ですから、自分の意志と無関係。
こんな感じで、全て「自分の意志ではない」「自分にとっては起きていない」という共通点があるんです。で、ついでに言っておくと、「起きていない」から動詞の未然形にくっつきます。
ただ、こういうふうに一つの助動詞で四つの意味を表すのは、やはり不便な時もありますよね。どれとも取れる時もあるし、勘違いされる時もある。だから、だんだん新しい表現が加わっていったんです。
その一つが可能動詞。特に、可能の「る・らる」は、本来「れず・られず」という不可能の形でしか使えなかったものですから、単独で可能を表す表現というのが案外難しかったんです。そこに登場したのが「得」という動詞でした。「得」から派生したと思われる「え〜ず」という不可能表現もありましたから(現代でも「えもいわれぬ」とか言いますね)、そのニュアンスを助動詞的に使って「読み得る」のような表現を発明したんじゃないでしょうか。
で、結果として「読める」などの下一段化した可能動詞が完成したと。それが定着したのち、四段(五段)以外の動詞でも、「〜eru」という語尾で可能動詞を作りたくなって、それで「見れる」とか「食べれる」のようないわゆる「ら抜き言葉」が生まれたと私は考えています。だから、あんまり「ら抜き言葉」を責めたくないんですよね。だったら可能動詞も責めろよって。
さて、長くなりますが、やっと話の本題に入ります。「泣ける歌」の「泣ける」は可能か自発か?
これはですね、多分に「自発」の色が濃いと思いますよ。なぜなら、最初に書いたように「泣く」が基本的に自動詞だからです(「〜を泣く」という言い方もないことはないので、他動詞用法もあると言えるんですが、基本は「〜が泣く」です)。ですから、「泣ける人」だったら、なんとなく「泣くことができる人(その人自身が泣くことができる)」という可能の感じがしますが、「泣ける歌」ですと、歌が主語にはなりえませんから(おっと出たな「なりえる」=「なれる」)、「私が思わず泣いてしまう歌」という自発の感じが強くなりますね。
もちろん、「私自身が泣くことができる歌」という解釈も可能ですが、泣くは自動詞ですので、自分の意志で泣くというよりも、「何かに泣かせられる」「何かが私を泣かせる」の裏返しである「自発」ととらえるのが正解だと思います。
つまり、可能動詞になっても、「る・らる」の持っていた本来の性質「自分の意志ではない」というニュアンスは残っていたわけです。というか、「泣ける歌」のような自動詞の可能動詞形の連体修飾用法が、せっかく「可能」として分離した可能動詞に、根源的な「自発」の意味を復活させてしまったとも言えますね。
このへんの事情には、日本人の「他力観」など、実に面白い心性が作用しているので、もっともっといろいろ語れちゃいますが、このへんでやめときます。
と言いつつ、もっと複雑な話をして、わざと混乱させちゃいますとね、たとえば「立てる」という表現には日本語史的に三つの意味があるんですよ。「立つの已然形+存続の助動詞「り」の連体形」すなわち「立っている」という意味と、「旗を立てる」のような他動詞の「立てる」の意味と、「立つことができる」という可能動詞の意味です。
「立てる旗」という表現をしますと、古語なら「立っている旗」の意味に、現代語なら「(私が)立てる旗」のように他動詞としてとらえられます。決して「思わず立ってしまうような旗」という「泣ける歌」のような自発的ニュアンスには取れませんね。本来自動詞ではこういうことになるはずなんです。だから、昔の人(おそらく昭和初期生まれの人まで)は、「泣ける歌」と聞くと、「泣いている歌」という意味にとってしまうことでしょう。「眠れる森の美女」とか「眠れる獅子」みたいに。
面倒くさいでしょ。だから、やっぱりこのへんでやめときます。
結論。「泣ける歌」の「泣ける」は、たぶん「自発」です。つまり「泣かせる歌」「泣かせてくれる歌」の裏返し表現です(ちなみに「泣かせる」は「泣く」に使役「せる」が付いてできた他動詞です)。たぶんですけど。皆さんはどう思いますか?
「自発」とは「自分から発する」ではなく「自ずと発する」ということで、主体は他者にあるんですよ。最近の若者は主体性がなくて、自分を動かしてくれる何かを待望しているってことでしょうか。で、それが提供されないと「泣けない」とか「笑えね〜」とか言って不満に思うんでしょ?それもちょっと困ったもんですね。
| 固定リンク
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 『ホットスポット』(バカリズム脚本)(2025.02.05)
- いかりや長介と立川談志の対話(2024.08.19)
- 九州人による爆笑九州談義(筑紫哲也、タモリ、武田鉄矢)(2024.08.18)
- 『もしも徳川家康が総理大臣になったら』 武内英樹 監督作品(2024.08.16)
- 『大鹿村騒動記』 阪本順治 監督作品(2024.08.11)
「音楽」カテゴリの記事
- 藤井風 『若者のすべて』(志村正彦)(2025.02.04)
- ラモー 『優雅なインドの国々より未開人の踊り』(2024.08.12)
- ロベルタ・マメーリ『ラウンドМ〜モンテヴェルディ・ミーツ・ジャズ』(2024.07.23)
- まなびの杜(富士河口湖町)(2024.07.21)
- リンダ・キャリエール 『リンダ・キャリエール』(2024.07.20)
「文学・言語」カテゴリの記事
- いかりや長介と立川談志の対話(2024.08.19)
- 九州人による爆笑九州談義(筑紫哲也、タモリ、武田鉄矢)(2024.08.18)
- 富士山と八ヶ岳のケンカ(2024.08.10)
- 上野三碑(こうずけさんぴ)(2024.08.06)
- 東北のネーミングセンス(2024.07.28)
コメント
前略 薀恥庵御亭主 様
「絶対笑える」「絶対感動」
「絶対泣ける」「絶対うまい」
この手合いは・・・
なかなか難しいですね。笑
愚僧・・・「絶対うまい店」
には絶対騙されます。笑
流石に愚かしい坊主だけの
ことはあります。
うぅぅぅぅん。
やっぱり・・・
自分を信じることですね。笑
腹ペコにまずいものなし。
焼海苔に醤油かけて・・・
白飯と食ったり・・・
冷めた味噌汁を・・・
熱々の御飯にかけて・・・
食べるキャットライス。苦笑
こんなのが愚僧は一番
美味しく感じます。笑
人それぞれですね。
一概に「喜怒哀楽」は
極められませんね。
合唱おじさん 百拝
投稿: 合唱おじさん | 2009.02.04 18:43
合唱おじさん様、こんばんは。
猫まんまが一番おいしいですよ。
いろんなものが混ざり合った方がいい味が出るんですよね。
絶対○○が、たしかに一番信じられないかもしれません。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.02.05 21:48
事後報告という形となってしまい大変恐縮なのですが、こちらの記事をmixi内の日記にて引用させていただきました。
私の考えていることと非常に通じる内容で、それでも私なんかよりもより掘り下げられているもので、感心させられるばかりです。
ありがとうございました。
「絶対」という言葉は、「絶対に」ないのかもしれませんね!
投稿: てる | 2010.01.28 12:11
てるさん、どうもです。
全然OKっすよ。
ほかにも珍説満載ですから、どんどん使ってやってください。
とにかくいろんな所に風穴を空けたいので(笑)。
富士山つながりですし、これからもよろしく。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.01.28 12:17
泣ける音楽・・・
本物の想いがあるのならば、泣けるのでしょうけど。
事実、自分の気持ちの中では泣いた記憶にございません。
言葉の過に騙されている人が多いのかと。ははは・・・。
真実ってなかなか、見つけるのって大変な作業です。
そんな私も、まだまだ、虚像のかけらを背負って生きているんですけどねw
投稿: 里沙 | 2010.01.28 13:59
里沙さん、どうもです。
そのとおりですね。
昨日、久しぶりに富士吉田凱旋ライヴのDVDを観ました。
ようやく観ることが出来たのですが、やっぱり涙が止まりませんでした。
「泣ける」というより、「泣かずにはいられない」のです。
逆にあれを観て聴いて「泣けない」ことがあるのか、想像できません。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2010.01.28 18:53