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2009.02.28

『刑事コロンボ 「狂ったシナリオ」』 (NHK BShi)

↓幻想のコロンボ
1 曜日恒例のコロンボ鑑賞。娘たちはインフルエンザで40度の熱があるにもかかわらず、これだけは起きて観ています(結局途中で睡魔に負けていましたが)。
 今日は新シリーズの中でも印象的な「狂ったシナリオ」でした。SFX映画監督とコロンボのだまし合いが面白い。フィクション対フィクション。犯人のフィクションはどんどん新たな現実を作り出していく。コロンボのフィクションはたった一つの真実に向かっていく。このせめぎ合いが実にスリリング。このドラマのシナリオもまた素晴らしいですね。
 ところで、私はコロンボ世代ですから、まあ半分懐かしみながら観ているわけですが、初見であるカミさんや娘たちはどうしてこんなにもハマっているのでしょう。
 娘たちはですね、最近で言えば、コナンとかQEDとかを観て、なんとなく知的推理ドラマに興味を持っていたんですね。そしてたまたま観たコロンボが、そういう意味で最強であることがわかり、それ以来、どの程度内容を理解しているかわからないけれど、すっかりハマってしまったのでした。コロンボが登場したり、得意のポーズをとったり、得意のセリフを吐くと大笑いしていますから、結局、あのコロンボのキャラに魅力を感じているのかもしれませんが。
 で、カミさんですが、娘たちにすすめられてあの「祝砲の挽歌」を観てですね、一気にハマってしまいました。なんでも推理物は面倒くさいのであんまり観ないで来たとかで、コロンボについても勝手な先入観を持っていたようです。ご存知の通り、コロンボは犯人が最初からわかっているパターンですから、そういう面倒くささはないんですよね。
 それで、カミさんは今日もですね、かっこいい、かっこいいと言いながら観ているわけですよ。それで、ふと気づいた。ああ、これは「プロレスリング」だ。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」だ。「桜庭和志」だって。
 先日参加して大いに勉強、感動させていただいたスネークピット・キャラバン・サイエンス桜庭和志編ですが、あそこで見たサクの動き、攻め、守り、流れは、たしかにコロンボのそれそのものです。私の中で、イメージが完全に重なりました。
 つまり、コロンボはマタギなんですね(笑)。熊を追い、対話し、わざと逃がし、動かし、そして敬意を表しつつ最後にはとらえる。「捕まえられるものなら、捕まえてみろ」と言う相手を、あらゆる手段を使って追い込んでいく。
 コロンボは見事な格闘家ですよ。まず、野性の勘が鋭い。相手の表情や挙止動作から、気配を読み取ります。観察眼の鋭さ。あらゆる情報を見落とさない。あとは攻めの緩急ですね。プロレスリングで言えば、ひじを使って相手のいやがる所を攻める。とにかく痛いから、犯人は逃げようとする。相手の動きを誘発するんですね。そして、ある時は、わざと空間や時間を作り、相手を遊ばせる、泳がせる。サクの得意技です。しかし、それも所詮コロンボの掌の上のことで、結局、犯人はコロンボの思う通りの方向に動いてしまう。
 あと、フェイントもうまいですね。一度帰ったと思わせて、また戻ってくるじゃないですか。実に効果的なフェイントです。あと、サクもよくやる、わざと相手に攻撃させるというヤツです。コロンボもわざとピンチに陥るような行動をとりますよね。しかし犯人にとって、攻撃は最大の防御となるばかりではありません。実は最大の隙をさらけ出してしまう危険もあるんです。パンチを繰り出せば脇が空く。キックを繰り出せばタックルのチャンスを与える。コロンボもそんな感じで、相手を自滅させますね。
 なるほど、こう考えてみますと、カミさんがコロンボにハマるわけもわかりますね。なんとなくモサッとしているのに、実は猛者であるという、いわゆるギャップ萌えもあるようです。サクもそういうタイプですよね(笑)。
 というわけで、これからは、コロンボをプロレスリングだと思って観ることにします。犯人もなかなかの実力者、そして、いろいろなタイプがいますからね。それにコロンボがどう対応していくか、とっても楽しみじゃないですか。
 ビル・ロビンソンはプロレスリングを「フィジカルなチェス」だと言いました。知的なかけひきだと言うことです。そして、アレクサンダー・カレリンは「レスリングは(相手の動きを決める)ダンスだ」と言いました。これはまさに刑事コロンボの捜査方法を比喩しているとも言えますね。捜査は操作であると。
 面白いですね。世の中、共通点が見えてくると。

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2009.02.27

『演歌歌手・ジェロ“母ちゃん”と目指した夢舞台』 (NHKプレミアム10)

20090219_06_000 歌はソウルであり、ブルースである…あらためてそんなことを思いました。
 カミさんの影響で、最近ようやく演歌の聴き方が分かったような私が、偉そうなことは言えないと思いますけれど、なんと言いますかね、やはり、歌はまず、苦悩、苦難を乗り越えるためにある、乗り越えたところにあると。
 以前紹介した『演歌の逆襲~ヒット連発の秘密~』で都倉俊一さんが高く評価していたジェロ。彼の「歌」の原点、つまり苦悩や苦難を紹介したドキュメンタリー。NHKらしい丁寧なつくりで引き込まれました。
 その苦悩や苦難というのは、もちろんジェロ自身にもあります。それはすぐに想像できますね。しかし、その部分はあえて「夢」の実現という形で表現されていたと感じました。そして、その「夢」の源は三人の「母ちゃん」、つまり、ジェロにとっての母ちゃん晴美さんと、晴美さんにとっての母ちゃん(ジェロのおばあちゃん)多喜子さん、そして多喜子さんのお母ちゃんです。番組紹介では親子三代というように紹介されていましたが、正確には、これは親子四代の苦難の物語だと思いました。
 特に、ジェロの母晴美さんが初めて明かした日本での苦労、悲しみは、涙なしでは聞けない物語でした。それを愛する息子が、時を超えて「晴れ舞台」という曲で美しく昇華しているのでした。やはり、歌には物語が必要なのです。そして、その物語とは、苦難を乗り越えたのちの夢の実現であり、家族をはじめとする愛しい人々との紐帯であるのでした。
 安易に「感動した」などとは言いたくないのですが、晴美さんがその苦悩をずっと語らなかったということに、心動かされました。そうして辛抱して、我慢して、何かを信じて前向きに生きる。ある意味たくましい古き良き日本人の姿を見たような気がしました。その無言の心を、愛する息子がしっかり感じ取り、日本で演歌歌手としてデビューし、紅白歌合戦に出場するという夢を実現する…素晴らしい物語です。
 今、日本は辛い時期にあります。単純な勝ち負け、残酷な市場経済の世界で、人はカネ以外にもっと大切な何かがあるのではないか、と再び感じ始めています。そういう中で、再び演歌が注目されているのでしょう。
 最近勉強しなおしているプロレスという昭和の文化もそうなんです。倒されても倒されても何度でも立ち上がる姿、折れない心。プロレスもまた、復活の兆しを見せています。
 文化や芸術というものは、その根底に、こうした人間の力が必要なのです。人間の心の力は、苦しい時に最も強く発揮されます。だからといって、苦悩や不幸を招来するのは憚られますけれど、ある意味満たされすぎていた現代、少なくとも現状に満足し、自己中心的でなく、刹那的でなく、未来に希望を持って生きていきたいですね。
 世は無常です。しかし、無常というのは、決してマイナスの言葉ではありません。良い方に変化していくことをも含めた言葉です。無常を観ずるのが「もののあはれ」。いつも言うように、「もの」という言葉自身が「無常・不随意・自己の外部」を表します。「あはれ」は「ああ!」です。「哀れ」でもあり「天晴れ」でもあります。そして、歌の心は、今も昔も「もののあはれ」。良い意味にも悪い意味にも、自分の思いどおりにならないことこそ、世の常であり、真理です。
 ジェロは、こんな時代だからこそ、こんな日本だからこそ、ある意味本当の日本人として「もののあはれ」を唄っています。彼の精神性やライフスタイルは正直アメリカ的であるでしょう。それは当然です。しかし、ステージに上がって演歌を唄う彼の心には、たしかに私たち日本人の遺伝子が息づいています。
 
ジェロのブログ

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2009.02.26

東京大学入試問題(国語)より「白」

2 年も東大の国語の問題を解いてみました。昨年書いたとおり、相変わらず各予備校さんの解答例のまちまちさが面白い。私なりにそれらを採点をしてみますと、某予備校さんは不合格…とは言わないまでも、かなりの減点です。出題者との対話ができていない。
 まあ、それはいいとして、今日は第一問の内容について少し書きます。第一問は原研哉さんの「白」という文章。短くて分かりやすい文章ですから、皆さんもこちらでお読みください。
 白い紙に黒い文字で記す際の不可逆性、そしてそれに付随する美意識や緊張感についての文章です。評論文と言うよりは随筆的な文章なので、我々にとっては読みやすくとも、受験生にとっては解きにくいものだったかもしれません。レトリックや、無責任な(失礼)イメージ表現が多いので。
 そのせいか、問いもちょっと東大にしては真意を読み取りにくいところがあったかもしれません。つまり、こちらがかなり頭と気を使わないと対話が成立しないということです。
 そうそう、記述問題や小論文の指導の時、いつも生徒に言っています。面接だと思って答えなさいと。目の前に大学の先生がいて、会話してるんだと。で、質問にちゃんと答えましょうと。相手が何を要求してるのか。とんちんかんな答えをしないように。おもいっきり頭と気を使って空気を読むとですね、相手が何にこだわっているか、何を答えてもらいたいか解ってくるのです。文章に向かっているのではなく、あくまで人に向かっていると思うこと。これは、国語に限らず、問題を解く時の重要な心構えです。その対話がうまく噛みあうと、問題を解いていてもとっても楽しい。私なんか、そういう気分になると、すぐにでもその先生と飲みに行きたくなっちゃいますから。
 さてさて、問いを解きながら、すなわちこの文章を深く理解しながら、ちょっと自分の世界に引きつけて考えたことを記しておきます。こういう妄想が沸いてきてしまうと、実際の試験の時は困ってしまうんですけどね。
 原さんの語る「思索を言葉として定着させる行為」とは、私の言う「コト化」そのものです。つまり、この文章は「コト化」の不可逆性や緊張感について述べているわけですね。
 「コト」とは情報です。一度情報として形成された「(元)モノ」は、永遠に不変です。情報は変化しません。変化しているように見えるのは、ただ新しい情報が上書きされていくだけで、以前固定された情報自身は元のまま残ります。残るから緊張するし、そこに「コト化」を「仕事(為コト)」とする人間の美学が生まれます。芸術がその最たるものですね。
 まあ、これは皆さんも実感している当たり前のことです。で、文章の後半に述べられているインターネットの無限更新性ですが、これって無常ということですから、ある意味「モノ」であるなと。そうか、インターネットという技術というか文化は、実は自然回帰なのかもしれない。常に更新し、そして、全体的に長期的に見ると、ある一つの形に収斂していく(Wikipediaがそうですね)。まるで、自然の進化の過程のように。
 それが「コト」の集積によって実現しているというのが面白いし、実に本質的だと感じますね。私も時々、「コト」を極めて「モノ」に至るというのを、別の文脈で述べていますが、つまりそういうこと(不変の真理…マコト)なんですね。
 ネットの世界は、まるで最先端の技術のように思われがちですが、実は、実にカオスな、原初的な自然なのかもしれません。近代化以降、あまりに人間中心になってしまったこの社会を、自らの手で解体し、自らを自然へ回帰させる動きが、このインターネット的世界なのでしょうか。
 コトを積分すればモノになる。モノを微分するとコトになる。白い紙に黒い文字で書いていた時代というのは、微分の時代でした。つまり、自然科学や人文科学、さらに社会科学などという「科学」の時代は、微分して微分して、疑似的な永遠、不変を得ようとした時代でした。オタク的な時代と言ってもいいでしょう。
 そろそろ、モノの復権が始まるんでしょうか。いろいろと細分化しすぎたこの世の中、あるいは偽りの真理や公式が蔓延する現代、我々はまたコトを積分し、総合していくのでしょうか。その一つの場がインターネットなのかもしれません。
 たしかに、私たちは白紙に何かを書く時、緊張を強いられます。そして、それこそが「推敲」という行為として現れます。ワープロ上では、私たちはいつでも更新可能ですから、ある意味緊張感はありませんね。しかし、ネットでは、全体の責任において、緻密な推敲が行われているとも言えます。つまり、我々の「個人」「私」は、どんどん希薄になって、再び自然の大きな流れに呑み込まれていくのかもしれません。
 真っ白いタブラ・ラサに、黒い文字でいろいろと書き続けた結果、そこに現れたのは真っ黒なタブラ・ラサだったという結末になりそうですね。

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2009.02.25

mizu-Q(ストロー浄水器)

51puagjzrwl_aa280_ 本は地震大国です。そして火山大国です。その総元締め、いや総本山とでも言うべき、富士山に住んでいる私です。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言うがごとく、そうした危険を冒さねば、この美しい自然や霊的環境を得ることはできません。
 とは言っても、実際地震や噴火が起きたら、これは大変です。「備えあれば憂いなし」、やはりしっかり準備をしなくてはなりません。しかし、実は私はほとんどそれらしい準備をしていないんです。知識だけはたっぷりあるつもりですが、実際の防災グッズとか、全然用意していません。困ったものです。
 で、そろそろそういう備えをしようかなと思っていまして、いろいろ研究をしています。今日はその過程で見つけた一つを紹介します。
 富士山は川がない山です。私の住んでいる村にも川が1本もありません。ですから、昔からこの辺の人たちは水の確保にとんでもない苦労をしてきました。それについてはこちらに書きましたね。
 で、災害時、水道の汲み上げポンプがいかれたような場合、水の確保は困難を極めることは明らか。人間は飲み水がなければ生きていけません。
 もしこの家で被災して、水道が止まったとしまして、その飲み水をどうするかと言えば、もう、風呂の残り湯か、水たまりの水を飲むしかありません。あるいは今の季節なら雪を溶かして飲むとか。
 そんな時、役立ちそうなのがこのストローです。テレビでも時々紹介されてますね。ご覧になったことがあるんじゃないでしょうか。オレンジジュースをこのストローで飲むと水になっちゃう。
 つまり、汚い水を浄化してくれるんですね…と書いて、超面白いこと思い出しました!書いちゃおう。
 今日、あるところから送られてきた書類を見てましたら、とんでもないミスタイプを見つけて、もう笑いが止まらなくなってしまいました。
 「修学旅行美化係」と打つべきところが…じゃじゃ〜ん!
 「醜悪旅行美化係」となっておりました!!
 むむ、やるな。なかなかセンスのいい間違い方だ。醜悪な旅行を美化する…これは文脈的には間違っていない。汚染された水を浄化するように…。
 つまり、間違いではないのかもしれない。最近の中学の修学旅行はたしかに醜悪だ。それを美化するのは実に崇高な仕事である。
 な〜んて、私もけっこうミスタイプしますけど、ここまで計算されたミスタイプはないなあ。負けた…orz。
 さて、話を戻します。えっと、醜悪な水を美化する話だった。
 まだ、このストロー買ってないんですけど、買ったら絶対試してみたくなりますよね。ジュースはどうだろう。牛乳はどうだろう。お酒はどうだろう。おしっこはどうだろう…それは行きすぎかな。
 しかし、実際の災害時には、それに近い、あるいはそれ以上に我々に有害な何かを含んだ水を飲まねばならないかもしれません。ていうか、上に挙げたものは全然有害じゃないな(笑)。
 もちろん、1回きりしか使えないわけじゃないから、試してみてもいいわけですけど、不純物は内部に蓄積してしまいますからね、オレンジと乳脂肪分とアルコールとアンモニアのミックスジュースはいやだな。
 というわけで、とりあえず2本セットで買って、一つは遊びで使ってみよう。でも、その遊びがどんどんエスカレートして、災害以前に命を失わないように気をつけなくちゃね。
 あれ?今気がついたけど、下のAmazonのページ、「除菌」が「徐菌」になってるな。これも珍しい間違いですね。

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2009.02.24

なぜ大学入試に「英語」があるのか

↓これは指導に使った本
76641294 よいよ明日、国立の二次試験です。ウチのギャルどもは、私大入試で快進撃(8名で63校合格、1名はこれから)、上智以外の有名私大はほとんどゲットしちゃったので、なんとなくモチベーションが下がり気味。たしかに古くさい国立の教育より、私立の方が魅力的に見えるよなあ。ま、なんだかんだ言ってしっかりやってくれると思います。
 今年のあいつらを見てて思うのは、受験は団体戦だなあということ。実際、自分の志望校に受かるよりも、クラスでどれだけ受かるかが主眼になってますからねえ(笑)。実際手分けして「○○は○○大学担当」みたいになってて、そっちが合格するかに気をもんでる。ホント楽しそうです。3年間で今が一番笑いが絶えません。いいよなあ、オレの受験なんて…うるうる。そうそう、その悲惨な話、こちらに書きましたね。ま、こっちも笑えるか。
 さて、今日はウチの高校の入試の日でもあったのですが、今日の日程がひと通り終わったのち、早稲田に通う教え子が論文の書き方を指導してほしいということで、私をたずねてきました。彼は将来英語の先生になりたいということでして、そういう勉強の準備を始めたところです。
 さて、大学入試と言えば「英語」ですね。どこの大学にもたいてい英語はあります。文系も理系も関係ありません。もうそれが常識で当たり前で誰も疑問すら抱きませんね。私もそうでした。
 で、なんで?とセンセイに聞きますと、だいたい、「大学では英語が必要だから」とか「国際化の現代、英語ができないと生きていけない」みたいな答えが帰ってきます。
 これって絶対ウソですよね。高校生の時はそれを信じてましたけど、今になってみると、ひどいウソだったことが分かります。すっかりだまされてた。
 まず、大学に行っても、ほとんど英語は使いません。英語の論文を読むとか英語で論文を書くとか、そういうウワサがありますが、ほとんどの大学のほとんどの学部学科で、そういうことはありません。一部の英語系のところじゃないと、まず論文を英語で書くことはない。
 いや、本当は大学生は英語の論文を読んで、英語で論文を書いてほしいですよ。それが世界標準なんですから(それが世界標準だということの是非は別として)。でも、実態はそうではない。アブストラクトさえ書きません。ま、私なんか国文科ですから、大学4年間、英語なんていうものには全く触れませんでした。一般教養の英語なんて、あんなの遊びでしたよ。勉強じゃない。
 では、社会に出ると英語が必要かというと、これまたほとんどいらない。日本人の99.999%は日常的に英語を使わず、日本語だけで生活しています。仕事上必要な人はいますが、彼らも必要に迫られてから勉強するケースが多い。
 まあ、たしかに受験英語がそういう実用英語の基礎になるというのは事実です。変な会話よりも、形式的な英語の方が、ずっと実戦でも有用なんですよね。それはそうです。ほとんどの外国人は、友だちではなく他人なのですから。
 こんな状況なのに、なんで猫も杓子も英語なのか。大学入試=英語なのか。誰も疑問に思わないのでしょうか。とりありず周囲の生徒や先生たちはあんまり深く考えていないようです。そして、「なんだか知らないけど、大学入試は英語で決まるらしいから、やる」という感じが蔓延しているように感じます。
 というわけで、私は生徒たちにどのように説明しているかなんですが、これは案外真実をついてるかもしれないですよ。これは私のオリジナルな考えではなく、複数の大学の先生と話し合った結論です。彼らと私は、ある意味無理やりこういう結論に至りました。
 英語という教科は、基本的に中学校で初めて体系的に学びます。中学生と言えば、もう母語である日本語の体系は完成しています。そこに初めて全く違う体系や文化的背景を持った言語を習い始めるわけですね。
 で、言語の能力というのは、我々の脳にプログラミングされているものの中では、かなり基本的なものです。たとえば、音楽の能力とか、運動の能力とか、あるいは数学の能力などに比べると、あまり大きな個体差はないように感じます。すなわち、得意、不得意、好き、嫌いが発生しにくいんですね。
 そういうものを中学から一斉によ〜いドンで勉強しはじめるわけです。それも、本当に将来役に立つかどうかもわからないもの。とりあえず、日常生活では99.999%無用なことを実感しながら勉強します。
 そして、英語という言語は、御存知のとおり印欧語の中でもかなり特殊、西北の果ての田舎言語ですから、ものすごく単純化していますね。かなり面倒なことをはしょった一方言です(ま、そのせいで発音だけは難しい。スペルと発音の関係が複雑すぎる。つまり、なまりすぎてるんですが)。
 で、そういう、比較的全ての日本人にとって、それほど不公平がなく、やればできる可能性が高いものをですね、どれだけやったかを測るのが、大学入試の英語ではないかと思うんです。そう、生徒の受験勉強を見ていますとね、英語という教科が、一番やった分だけ点が取れるようになる教科なんです。もちろん、社会などの暗記物もそうなんですけど、社会なんか本人の興味や趣味もかなり影響しますよね。でも、英語はあんまりそういう部分がない。洋楽が好きとか、外国人と話すのが好きとか、その程度は当然ありますけどね。
 ですから、極論してしまうと、受験英語ができるということは、なんだか意味があるんだかないんだか分からんけど、とにかくノルマが決まっていて(単語1900とか、構文150とかね)、それをちゃんとこなせるということなんですよ。将来、なんだか意味があるんだかないんだか分からん研究や仕事をしていくにあたって、あるいは、なんだか意味があるんだかないんだ分からん人生というものを営んでいくにあたって、そういう能力ってとっても大切です。好きなことだけやってては生きていけませんからね。
 そうすると、大学入試用の英語力って、まんま「生きる力」・「人間力」ということになる。最近、まじでそう思ってます。だから、大学が英語の試験を課すのもよく理解できるんです。もちろん、そんなこと考えないで出題する大学がほとんどなんですけどね。
 でも、こういう説明をすると、案外生徒たちは納得するんですよ。ああ、そうかって。たしかに、やっただけできるようになる教科だな。そうか、生きる力を試されるんだったら、ちょっと頑張ってみるかなって。
 実際のところは、漱石や稲造の時代から続く、単なる欧米崇拝の教養主義の伝統に過ぎないんですけど、まあ、こうやって新しい意味付けをすることに意味がないとは言い切れないでしょう。
 ちなみに私は大学入試での英語学習がとっても役に立っています。今、こういう時代になって、英語のホームページを読むことが多いので。
 というわけでして、本当ならもっと公平にエスペラントを入試に課すべきだと思います(マジ)。

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2009.02.23

フィクションから生まれるリアルのお話をちょっと

Ad4353a9 しいフィクションとは…。フィクションから生まれるリアルとは…。いつも考えているテーマです。
 私たちが感じる「リアル」とは、あくまでも人間としてのリアルです。本当の現実に、なんらかの手を加え、私たちは私たちのためのリアルを作り出します。その「なんらかの手」こそ、ルールであり、演出であり、ワタクシの言うところの「モノガタリ」ということになります。本来無常で不随意な「モノ」を固定するんですね。
 今日、そういう美しい「モノガタリ」を感じる二つの出来事がありました。
 まず、日本の2作品がアカデミー賞を受賞したことです。「おくりびと」、実はまだ観ていないのですが、観ていなくともじゅうぶんに想像できます。作品としての物語というのももちろんありますが、それ以上に、それ以前に、「納棺師」というお仕事の持つ美しいフィクション性が感動を呼んだのであろうと。
 人間の死はあくまで現実です。それは単純に悲しいもの、あるいは悲惨なもの、汚いものとしてとして片づけられるものではありません。そこに、実に形式的で、様式的で、ある意味フィクショナルな儀式が加わることによって、ある次元に高められるわけですね。そこには、単純な現実を超えたリアルが生まれます。それぞれの人の持つ、それぞれの感情が昇華され、オーガナイズされ、一つの形に収斂していく。
 そのような「カタリ(語り・騙り・形り・固り)」がなければ、私たちはたいがい残酷な現実にさらされて途方にくれるものです。
2009022400000001spnavifightview00_2 もう一つ、夜、「K-1 WORLD MAX2009〜日本代表決定トーナメント〜」を観ました。格闘技もいろいろ観ますけれど、やはり、ルールや形式は重要だなと思いました。総合格闘技隆盛の現代でありますが、やはり、より「カタ」が決まっていた方が…すなわち、制限が多い方が…観ていて面白いし、その選手の人間性、精神力、人生というものが見えてきますね。
 人間の生死と同様に、勝敗というのは、実に残酷なものです。単なる弱肉強食や、偶然性の高い勝負には、瞬間的な興奮は得られるかもしれませんけれど、感動はしませんよね。「バーリ・トゥード」「ノー・ホールズ・バード」は、より「自然」であり「現実的」であるかもしれません。しかし、それが人間的に、あるいは文化的により高度であり,リアルであるとはかぎりません。
 そういう意味で、今日のトーナメントでは、ケガによる途中棄権が何件かありました。そこはK-1のワンデー・トーナメントの問題点ですね。それを一つの物語として享受することもできないことはないのですが、やはり肩透かしを喰らったような気がするのも事実です。ま、私は格闘技の必須事項は、「ケガをしないためのルールとテクニックと肉体」だと思っていますので。
 あと、今日面白かったのは、「長島☆自演乙☆雄一郎」くんでしょうかね。コスプレ格闘家、戦うアニヲタとして派手に登場しましたが、柔道、空手、日本拳法をベースにする、なかなかの実力派ですよね。特にそういった日本古来の武術とオタク文化の関係に、私はずっと注目してきましたので、彼の存在は非常に興味深い。
 単純にプロの選手としてキャラを立てるという意味でも立派だと思います。その点、我が地元の雄、忍野の不良ボクサー渡辺一久くんは、長島くんの影響を受けすぎたのか、まさに自演乙(自らのパンチでダウン)をやらかしてしまいましたね。ちょっとフィクションが過ぎたのかもしれません(笑)。自爆乙!?でも、彼もいいものを持っているので、ぜひ今後もK-1のリングに立ってほしいものです。うまく使えば視聴率稼げますよ。まあ、当然、オタク対不良みたいなストーリーは考えていると思いますが。

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2009.02.22

『NHK短歌〜ゲスト彌勒忠史さん』

Img_1036 、なにげなくテレビをつけたら、ちょうど「NHK短歌」が始まりました。ふだんは子どもが「ポケモンサンデー」を観る時間ですが、今日は私の実家の方に行っておりまして、おかげで静かに短歌を鑑賞し、いろいろと考えることができました。
 ま、ああやって短歌で競い合うのも、ある意味ポケモンバトルみたいなものか(笑)。撰者が勝手に手を加えて進化させちゃったりしてね。
 百人一首に至っては、最古のポケモンカードだし(笑)。
 と、いつもの通り、不真面目な私であります。で、不真面目ついでにちょっと思ったこと、というか学んだことを。
 今日のゲストは、声楽家の彌勒忠史さんでした。我が古楽界ではそこそこなじみのカウンターテナー歌手です。イタリアものを得意とする方ですね。
 その彌勒さんが登場したからびっくりしたわけです。そしていきなりヘンデルとか歌い出すし。あれ?これは何の番組だっけ、と少し混乱。
 しかし、結果として彼のおかげで今まで見えてこなかった本質的なところが明確になりました。
 というのは、番組中でもそのような解説がされていましたけれど、和歌こそファルセットで歌われるべきものではないかということです。わかりやすくするためにあえて不真面目に言いますと、やっぱり和歌はオカマ的趣味だということ。
 和歌を国文学の中心に持ってきた張本人が、世界最古のネカマだった紀貫之さんです。そのへんの事情については、こちらに不真面目に、しかし真面目に(?)書いてあります。こういうことばっかり書いてるから、文学界から非難されるんだよなあ(苦笑)。
 彌勒さんがお好きだと挙げた和歌がありました。例の平兼盛の和歌です。

 忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 私もつい最近こちらでとりあげましたね。たしかにこれなんかも、かなり女性っぽい感性による作品です。
 もちろん、平安のスタンダードから言えば、男性は漢詩、女性は和歌のはずです。しかし、考えてみれば、恋情の伝達メディアとしては、漢詩は機能しませんよね。だって女性はほとんど漢字読めなかったわけですから。
 それで、男子は女子に歩み寄る必要があった。いや、貴族でなければ、そんな面倒なメディアを使わず、直接「好きだ!」とか言えばいいわけじゃないですか。でも、貴族はヒマですから、そこに一種の遊びを絡ませるわけですね。で、貴族男子は女子への優しさのポーズという意味も含めて、女子の得意とするメディアを使ったわけです。ま、逆チョコみたいなもんでしょうか(笑)。
 で、和歌はもともと「歌」なわけですから、メロディーをつけて朗詠したんでしょ。そんな時も、野太い男らしい声で歌うんじゃなくて、やっぱりヤサオトコ風というか、かなり女性的な発声をしたんじゃないでしょうかね。裏声まではいかなかったかもしれないけれど、高目の音程で美しくね。
 現代に目を移してみましても、そういうのってありますね。日本のロック歌手、特に女子に人気のヴィジュアル系の男子たちによく見られる、あの女性的な発声と節回しもそういう伝統ですし、演歌における男性による「女歌」なんかもそういう流れじゃないでしょうか。
 というわけで、和歌の伝統を継ぐ短歌の世界とカウンターテナーの彌勒忠史さん、結果として意外にマッチしていたんですよ。案外違和感がなかった。
 彌勒忠史さん、ぜひ和歌の朗詠というジャンルにも進出していただきたいですね。日本の古い即興詩人とイタリアのカンティンパンカ、日本の貴族趣味とイタリアのセレブレティは通じるところがあるに違いありませんから。

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2009.02.21

トーク&テクニックセミナー「桜庭和志氏を迎えて」(スネークピット・キャラパン特別編)

Uni_2108_2 のようなイベントに参戦してきました。うむ、これは夢だ、と言った方が絶対に自然だ。私たち夫婦にとって、これほど幸福で興奮する体験というのは冗談抜きで初めてでしょう。
 まあ今までも、ありがたいことに、いろいろと普通でない経験をたくさんしてきている私たちでありますが、さすがにこれは…。
 場所は東京高円寺。元U.W.F戦士&頭脳にして、現スネークピット・ジャパンの代表であられる宮戸優光氏が、あのビル・ロビンソンさんと一緒に、本当のプロレスリングを伝導すべく日々活動されている聖地です。
 プロレスリングジム「スネークピット・ジャパン」では、数年前からスネークピット・キャラパンという非常に魅力的な講座を開いてきました。超一流レスラーの方々を講師に招き、プロレスの歴史や本質を学ぶというものです。どんなレスラーやプロレス関係者が講師になっているかは、ぜひこちらをご覧になって驚いてください。
 私もいつか参加して勉強したいと、もうずっとずっと思ってきましたが、なかなかその聖地に足を踏み入れる勇気がなかったのです。いくらプロレス好きとは言っても、あまりに高度な内容にちょっとひるんでいた。カミさんの表現によれば、「大縄跳びの輪に入れない…」という感じ。しかし、とうとう今回、勇気を振り絞って、エイヤっ!と夫婦そろって入会し、初めて参加させていただきました。
 その初体験の「先生」は、なななんと、あの桜庭和志選手!私はもちろん、サクマニアであるカミさんにとっては、それこそやばすぎるセミナーであります。まずは落ち着け落ち着け…というところから始めなければなりません(笑)。
 いや、実際ジムに入り、宮戸さんに挨拶し、その他の生徒さんたちと会話をかわし、そして、リングの前(ずうずうしく最前列)に座って先生の登場を待つ時点になりますと、カミさんのみならず、ワタクシもかなり緊張。目の前にある椅子にサクが座るのか!?生徒は20人ほど。なんと、ぜいたくなセミナーでしょう。
 そして、ついに桜庭先生の登場です。うわぁ、本物だ(当たり前…笑)。生桜庭、私はDREAM.4以来、カミさんは大晦日以来ですね。でも、こんなに近くでサクを見て感じることができるのは初めて…いやいや、カミさんは握手会で会っていますか。
 セミナーの前半はトーク、と言いますか、私たち生徒の質問に桜庭先生が答えるという形。司会進行はあのGスピリッツの名論文を執筆していた那嵯涼介さん。私たち生徒があらかじめ用意した質問に、恥ずかしがり屋さんで面倒くさがり屋さんの桜庭先生は、言葉少なくポツポツと答えるだけ(笑)。むむ、微妙な雰囲気だぞよ。それでも、あの試合のことも、あの試合のことも、あの試合のことも、ちょっぴりずつ語ってくれました。むむ、貴重なお言葉です。カミさんは一生懸命メモを取っている。
Uni_2116 さあ、いよいよ後半です。ここからがすごかった。やはり、サクは言葉よりも体で表現だ!(→あえてこの技の写真です)
 スネークピット・ジャパン所属で、昨年12月にパンクラス初代バンダム級王者の座についた井上学選手や、11月にIGFでデビューした鈴木秀樹選手を相手に、どんどん技をかけ、技を解き、流れるように各種のテクニックを披露していきます。目の前1メートルで展開される芸術的な光景に、私たち夫婦のみならず生徒たちは、完全に釘付け状態。結局1時間以上たっぷり汗をかきながらの、素晴らしい実技セミナーになりました。本当に夢のようなことです。
 細かい内容は残念ながら書けません。しかし、シロウトのワタクシが感じたのは、やっぱりあのことでした。そう、マタギの世界です。いろいろな方法、飴とムチを駆使して、相手の動きをコントロールしていく。ある時は、相手のいやがることをする。ある時は、相手にわざと逃げ場を作ってやる。そうして、結局、自分の有利な体勢に持ち込む。全く同じでした。特に、わざと相手を遊ばせるところ。完全にマタギ的職人技ですよ。感動!
 宮戸代表も自ら桜庭選手と組みながら、いろいろと質問をしたり、解説をしたりしていました。お二人の歴史的な関係を考えると、もうこのシーンだけでも、とってもレアですし、感動的ですらありますね。
 夢のような時間はあっという間に、しかし濃厚に過ぎてゆきました。セミナーのあと、気軽にサインや写真撮影に応じるサク。カミさんもとうとう夢かなってツーショットでパシャ!その他、いろいろと我ら夫婦にとっては感動的なことがありましたが、ちょっと痛い話なのでナイショ。
 さてさて、実はここからがまた濃〜い時間だったのです。講習会のあとは、恒例となっているらしい二次会です。いつもは講師の方も一緒らしいのですが、今回は残念ながらサクは欠席。でも、でも、宮戸さんと一緒に飲めるだけでも…ウルウル。ま、私は車でしたのでお茶で乾杯でした。一方カミさんはビール何杯も飲んで大騒ぎ。皆さん、すみませんでした。ブレーキの壊れたダンプカーを操りきれなかったワタクシの責任です、ハイ。
 それにしても同席した皆さんの濃いことと言ったら…。あの国際プロレスのDVDの監修、解説をなさっている伝説のプロレス伝道師、ルー・テーズの私設マネージャーであった流智美さんや、那嵯さんはもちろんですけど、一般のマニアのファンの方々の、あのマニア度、熱さには正直面食らいました。すごすぎる!昭和何年の何月何日には、どこの体育館でどういう試合が行われ、その結果はこう、そして、そのシリーズがその選手にとってどういう意味のあるものだったか、など、どんどん情報が出てくる。私は全然ついていせません(笑)。ううむ、分かっていたとは言え、上には上がいるものだ…。本当に全てが勉強でした。ありがとうございました。そして、これからもいろいろ吸収させていただきます。
 しかし、一方では、日本の武道や古神道の話をお聞きしたり、あるいはバッハはカール・ゴッチだ!みたいな話も出たり、ある意味意外な部分での勉強もさせていただき、うん、人との出会いは本当に素晴らしいし、人から学ぶということは本当に素晴らしいと、つくづく感じ入ったのであります。ふだん、人に教える仕事をしているものとして、今日はいろいろな意味で考えさせられるところがありました。本当にありがとうございました!
 今日は残念ながらビル・ロビンソンさんはいらっしゃりませんでした。いずれお会いできる日を楽しみにしております。神の言霊を全身に浴びたいですね。こちらもしっかり修行しておきます。心のプロレスラーとして。
 まだまだ、私たち夫婦にとって今日がスタートです。これからももっともっと勉強させていただきます。まずは暴走機関車の操縦の技術を磨かねば(笑)。

PS 次はぜひジョシュ・バーネット選手のセミナーを体験してみたいなあ。
 サクの公式サイトに私たちしっかり載ってました(カミさんは二度目!)。

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2009.02.20

プリントできるデジカメ(ほしい…かな)

41m30ojczl_sl500_aa280_ 日は「あったらいいな」というお話でしたが、こっちはもうあるので「ほしい…かな」です。
 とは言ってもどうしてもほしいなあというほどではありません。現在の私は、今はなき名機「ユニデンUDC-5M」で、実に快適&快感なデジカメライフを送らせていただいていますし、プリントはこれもまた今はなき迷機「DVP-PS1」を使っています。用紙とインクリボン…リボンじゃないなシートかな…がなくなってしまうおそれはありますが、今のところ買いだめがあるのでなんとかなってます(インクジェットよりずっといいですよ!)。
 でも、なんとなくその場でプリントしてみんなで見るっていうの、いいじゃないですか。ポラロイドがポラロイドカメラから撤退すると聞いた時、なんか一つの文化が終わったような気がしましたよね。
 デジカメってどんどん画像ファイルは増えますが、なかなか「写真」としては増えないじゃないですか。情報すなわち「コト」は増えるけど、写真という「モノ」は増えない。本当にあの一瞬は固定されているのだろうか。この世に存在しているのだろうか。
 まあ、ある一瞬を固定しようとするのは、ワタクシの学術的な研究(?)によりますと、いわゆる「をかし(招きたい)」という感情に基づくものであって、これは人間の根本的な煩悩です。
 それをモノとして残すのが銀塩写真でした。それがデジタル技術によって、基本的に情報によって蓄積されるようになりました。まあ、考えようによっては、これは人間の記憶と同じ保存方法ですから、本来の形に戻ったとも言えますが。
 それでも、なんというか、ある過去の一瞬を現在に現出させる、インスタントカメラ的な技術、というか奇術というものの魅力は何物にも変えがたいですよね。それが一瞬ですけど、デジタル技術という新興勢力に追いやられてしまった…しかし、そういうインスタントな即物的な楽しさ、あるいは手に取る実感というようなものは捨てがたいですよね。だいいち、ポラロイドカメラの市場、そういう需要というのは、けっこうあったと思うんですよ。高校生なんか見ててもけっこうそういうの好きですよね。プリクラ文化もちっとも衰退しないし。
 あと、いわゆるトイカメラ的な需要ですね。あのポラロイドの色彩感とか解像度の微妙さなんかも、ある種アーティスティック、インスタントで楽ちんな芸術性というお遊びも、これまた密かに人気があります。ギガレベルの画素数でやたら精細にリアルに日常を固定するのは、実は無粋なことだし、我々はそこにある種の恥ずかしさを感じているのでした。
 で、そうしますと、デジカメでありながら、その場でプリントできて、テキトーに低画質なものがあれば、とりあえず我々の願望は満たされるわけじゃないですか。
 それが、まずおもちゃメーカーから発売されました。Xiaoです。これはこれで、なかなかいい製品です。デザインも面白いし、スペックもテキトーに充分。センスいいですよね。基本縦位置で使うというのも斬新です。大きさや質感も絶妙です。ただ、ちょっと高い。Zink技術を使った専用ペーパーも1枚40円以上の計算になり、まあ我慢できないほどではないにしても、なんとなく高いような気がする。
090114_9 そんなことを思っていた矢先に、本家ポラロイドが満を持して作ってくれましたよ。プリンタ内蔵デジカメを。これぞ新しいポラロイドでしょう。まだ日本では発売されてないんですが、アメリカでは1.99ドルですから、トミーより安くなるでしょうね。基本性能はほとんどXiaoと一緒です。500万画素、固定焦点、Zink技術です。こちらは普通のデジカメと同じ横構え。
 まあ、個性的とは言えませんけど、前面に大きくプリントされた「Polaroid」の文字が、我々の煩悩の歴史を物語っていますね。ちなみに、こちらのZINKペーパーは1枚30円を切りますので、そういう意味でも身近になりました。ついでに言っておきますと、こちらのペーパーはXiaoでも使えるそうですよ。
090114_10 元祖ポラロイドカメラより優れているのは、撮りためた画像の中から何枚もプリントできることでしょうか。もちろん同じ画像を何枚もプリントできますから、パーティーなんかで配るには最適でしょう。
 きっと自分では買わないと思いますけど、誰かが使ってるのを一度見てみたいですね。やっぱり、あの、本体からヌ〜っと出てくる感じ、あれを体験したいのかな、ただ単に。これも煩悩かもしれませんね。あとはじわ〜っと絵が浮き出てくれば完璧なんですが、それはさすがに無理か。

Amazon Xiao

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2009.02.19

フロントガラスの解凍装置(あったらいいな)

259r3s2 年は富士山も暖かくてほとんど雪が降りません(今夜から明日にかけて多少降るようですが)。いわゆる根雪がほとんどないので、いつもならカチカチツルツルの凍結路をトロトロ走らなければならないところ、今年は全くそのようなことがなく、夏と同じ通勤時間ですんでおります。
 第一暖かくて極寒の当地方もすっかり住みやすくなりました。温暖化のおかげです。海抜1200メートルじゃあ、海面が上昇しても関係ないし、ま、私たちは勝ち組ってことでしょうか(笑)。
 冗談は抜きとして本当にいろいろ楽です。いつもなら毎日氷点下15度以下まで下がるところなんですが、今年は−10度を切ったのが一度だけ。せいぜい−8度どまりという感じで、さすがに10度違うと全然違います。床暖房の目盛りも最低ですんでますし、とにかく灯油の消費量が少ない。温暖化のおかげで、温暖化防止に貢献しています(笑)。
 特に朝の出勤時が楽ちんですね。いつもなら、まあ雪かきから暖気運転まで、それだけで20分くらいかかってしまう。ドアが開かなかったり、エンジンがかからなかったり、毎朝一仕事でした。今年はガラスに霜が降りることもほとんどありません。
 いつもなら、フロントガラスが思いっきりガチガチに凍結するんですよね。霜とかいう騒ぎじゃない。デフロスターだけでは全く効果がありません。熱湯を入れたヤカンを持ち出して、ジャーってやっても、解けるのは一瞬。そのお湯がまた凍りつきます。
 リアガラスには熱線が入っていて強制的に解かしますよね。サイドミラーなんかもそう。でも、フロントガラスは熱線を張り巡らせるわけにはいきません。一番重要な部分の解凍装置がないんですね。
 これについてはもう数十年間ずっと不便に思ってきました。おそらく寒冷地に住むほとんどの人がそう思っていることでしょう。
 もちろん解凍スプレーなんていうものもあります。でも、あれって極寒地で使うといろいろ不便が生じるんです。再結氷なんてのはあたりまえですし、アルコールと水が変に混ざり合って視界がメラメラになったり。
 結局、ガリガリ削るしかない。なんだかガラスにキズがつきそうだなあ…。
51dfheklnl_ss400_ そうそう、昔のことを思い出しました。大学時代、友人が2サイクル360ccのスズキフロンテSに乗ってました。あの車、空冷だったので、いわゆるデフロスターなんてものはないんですね。それ以前に暖房がない。ですから、極寒の季節はですね、車内でも真っ白い息が出ます。で、それがフロントガラスの内側について霜になるんですね。それを削りながら運転しなくちゃならない。外側はめっちゃ濃いウィンドウ・ウォッシャー液で解かします。もちろん、それも電動ではなくて、スポイト式。人力です。パワーがないので、なんだか頼りない。指は疲れるし。
 私は助手席に乗っていて、そういう雑用というか、非常に重要な仕事を仰せつかっていたんですが、いよいよ間にあわなくなってしまった。しかし、運転手はのっぴきならない用事があって、なんとしても運転しなければならない。もうしょうがないですね、二人、サイドの窓を全開にして、顔を超寒風にさらして走ることにしたんですよ。背に腹はかえられぬ。
 ところが、顔を外に出しても、いっこうに視界が晴れない。ん?どういうことだ?と思ったら、なんと二人のメガネも完全に凍結してしまっていたのでした(笑)。まいった。メガネはずと二人とも強度の近眼なので見えないし…。
 で、ずっと思ってきたんですよね。フロントガラスにうまい細工ができないかなあって。
 見えない熱線というのは難しいそうですね。ですから、たとえば電磁波で発熱する粒子をガラスにまぶすとか。まあ、素人考えですけどね。なんとかならないでしょうか。
 車のガラスというのは、いろいろな事情から合わせガラスになっています。ですから、その中間体としてそういうフィルムとかできないでしょうかね。
 ガラスの中間膜と言えばセキスイさんでしょうか。もうすでに、遮音性の高いフィルムや遮熱性の高いフィルムが実用化されています。そうそう、最近、フロントガラスにスピード・メーターが投影される、そういうスクリーンの機能を持った中間体フィルムを開発したんですよね。これは、車のメーター以外にもいろいろと用途がありそうです。
 というわけで、ぜひ、セキスイさん、発熱するフィルムを作ってください。解凍だけでなく、曇り取りとしても有効だと思います。そうすると、これまた車以外にもいろいろと使えそうですよ。これはもうかりそうだな。私も密かに研究して特許でも取っとこうかな(笑)。
 さあ、そんな妄想はおいといて、本業の仕事、仕事…。

セキスイ自動車用高機能膜

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2009.02.18

『爆笑問題のニッポンの教養 「芸術は“カラダ”だ」~美術解剖学 布施英利」』(NHK)

20090217_fuse 日放送分の録画を今日鑑賞。なかなか面白かったけれど、少し消化不良かな。もう少し太田、布施の議論を聞きたかったような…。
 東京藝術大学の美術解剖学布施英利さん。養老孟司さんのお弟子さんです。美術に解剖学的な視点を持ち込み、ある意味芸術をもう一度肉体に帰した、いや帰している人ですね。
 どんなジャンルもそうですが、人間の脳化(私の言うコト化)が進むと、肉体(モノ)はおいてけぼりになる。考えてみれば、私もモノへの回帰をさかんに叫んでますので、基本布施さんと同じような立場なのかもしれせまん。
 太田さんは相変わらず頭でっかちで、まあそれが実に面白く愛らしいわけですし、いわゆる「知」や「教養」とかみあうのは彼の脳ミソ(それはたぶん自己愛だと思いますが)が肥大化しているからでしょう。布施さんも肉体の復権を目指しながら、結局学問して表現するしかないので、二人の対談は「コト」と「コト」の対戦、ま、表面的、あるいはテレビ的には「言葉」の戦いになっていて、面白かったわけです。
 すなわち、いつも思うのは、この番組では肉体は意味がないということです。いろいろな絵を紹介したり、ロボットを見せたり、そういう資料提供の面ではテレビというシステムは機能していますが、二人の(田中さんごめんなさい)討論に関しては、たとえばラジオでもいいし、書籍でも構わないと思うんです。
 いや、この番組だけじゃないな、テレビの持つ矛盾というか、テレビの苦しさでしょうね。おそらく今後の人類の歴史を想定しても、テレビは最もリアルな、つまり写実的なメディアでしょう。ダ・ヴィンチが解剖したり、輪郭線を消したりして求めたリアリズムの、ある種究極的な形がこのテレビというメディアであるとも言えます(布施さんは否定するかもしれませんが)。
20090217_3 そんなことも含めて、今回の議論の中の「エンターテインメントと芸術は違う」というテーマは面白かったかもしれません。
 今わからなくてもいつか深く伝わるかもしれないことを信じて表現する芸術家と、今リアルタイムでたくさんの人に伝わることを信じて表現するタレント。どっちが正しいかみたいな議論になっていたように見えましたけれど(まあ、太田さんがわざとふっかけたんでしょう)、実際は相互補完的に存在しているわけですし、その中間形もあるわけですし、私からすればどちらも中途半端な一部にすぎないと思いながら楽しく拝見していました。
 それこそ人間の体やその一部である脳には、そういう即効性と遅効性とが存在しますからね。もちろんその中間も。布施さんも太田さんも、そんなことはもちろんよくお解りの上で両極端を演じていたと思います。結局、どっちも正しいし、どっちも物足りないのが、我々受け手である人間なのでした。
 それにしても、この前初めて芸大に遊びに行ったんですけど、あれがロダンだったとは…笑。ああいかにもな彫刻があるなあ…程度にしか思わなかった。ううむ、そこが芸術の痛いところだな(笑)。あの歴史的な作品、私の脳ミソでは神格化されていたコトだったのに、その本体(モノ)はなんにもこっちに語りかけてくれなかった。ああ矛盾だ…てか、私が鈍いだけかも(苦笑)。
 モナリザの多面性の話は面白かった。ある意味リアル、写実を追求した結果、ああいうずるい方法に至ったと。つまり、3次元を2次元で…いやいや、時間も含むから4次元を2次元で(実は3次元なんですが)表現しなければならないから、ある種の奇術を使わなければならないわけですね。で、ああいうふうにして立体を表現した。左目は左を見ているのに、右目を正面を見ているとか。つまり、ダ・ヴィンチは彫刻を作ったんです(と私は思う)。
 そういう奇術のまやかしこそが芸術だとも言えます。布施さんの言う「なんだかわからない真空状態」というのを、単純に「深い意味」とか「普遍性」と言い換えるのには、私は抵抗を感じますが、でも否定はしません。そういう可能性は認めますし、実際私もたくさん経験していますから。
 結局、時間がかかったり、学問が必要だったりするということは、他者の協力を求めているとも言えますよね。ですから、いわゆる芸術というのは、ある強い個人の表現ではなく、ものすごく孤独なさびしんぼうによる「助けて!」「手伝って!」「相手にして!」という叫びなのかもしれません。
 「圧縮と解凍」…布施さんは、人間の体に人類の、地球の歴史や情報が圧縮されていると語りました。それを解凍するのが芸術である、というのには大いに納得しました。逆に、時間をかけて解釈されるものや、時空を超えて普遍性を持ち得る芸術作品にこそ、人間の、生命の情報が圧縮されているとも思いましたが。ま、両面があるんでしょう。「芸術は忘れていた自分自身だ」。
 それにしても、解剖学というのは面白そうですね。私が興味のある分野、たとえば音楽やプロレスや舞踏などは、究極的には解剖学で解明されそうなモノですよね。また、反対にこれまた興味のある「言葉」の世界は、これは最も肉体性を排除したコトとも言えます。たまには、こうして自分自身の肉体のしくみに興味を持つのもいいかもしれないと思いました。人間というのはなかなか自分自身を見つめようとしない生き物ですから。

爆笑問題のニッポンの教養 公式

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2009.02.17

秋吉敏子・SWR Big Band 『Let Freedom Swing』

1 なり忙しいので、たまった仕事をス〜イスイこなすため、スウィングの力を借りましょう。
 うむ、これは実に仕事がはかどる…かと思えば、さにあらず。ついつい絶妙なアレンジとアンサンブルを聴いてしまう。いかんいかん。
 それにしてもこのアルバム、2枚組ということもあって、実に濃厚ですね。聞き応え充分でして、とてもBGMにするにはもったいない。
 秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキンは2度ほど生で聴いたことがありますが、基本、秋吉さんのビッグ・バンド・アレンジは軽妙と言うよりは、濃厚ですよね。私は正直それが大好きでした。私はいろんなジャンルの音楽を聴く変わり者なので、ジャズにいろいろな要素が加わっても全然平気なタチなんですけどね、まあ、純粋なジャズ・ファンの中には、多少鼻につくというか耳につくという方も多かったようです。
 このアルバムでも、例によって、「能」が登場します。これを「痛い」と言う「日本人」はたくさんいますね。私はけっこう好きなんですが。奇を衒っているわけじゃないんですよ。ものすごく純粋に掛け合わせてるんですよね。おそらく、その根底には、ジャズが西洋音楽ではないという感覚があるのでしょう。
 その秋吉さんのビッグ・バンドは5年ほど前に解散してしまいました。その後、秋吉さんは基本に帰るという意味でソロの活動を盛んにされていたようですね。だから、このアルバムは久々のビッグ・バンドものなのでしょうか。あんまり詳しくないので、間違っていたらごめんなさい。
 共演している、というか、指揮し操っているのは、SWR Big Band。全然知らないバンドだったので、ちょっと調べてみましたら、ドイツのバンドなんですね。南西ドイツ放送協会・ビッグ・バンドということでしょうか。ドイツの放送局ってたくさんあって、それぞれオーケストラとかビッグ・バンドを持っていますよね。その一つのようです。
 日本人である秋吉さんの編曲と指揮、ソロ、そしてヨーロッパ音楽の本場ドイツのビッグ・バンド。ある意味、ジャズ的であるとも、ジャズ的でないとも言える、不思議な組み合わせですよね。そんな彼らが、スタンダードからオリジナルまで、本当に一度にこれだけ演奏して録音したというのは、なんか不思議な気がします。おそらくライヴ・ツアーと並行した企画だと思います。ライヴでこれら全部やったんじゃないでしょうか。
 なんか聴けば聴くほど不思議な感じがしてきます。不思議というのは不自然とか、そういうことではなくて、不思議に自分になじむというか、やっぱり結構好きなタイプの音楽だなと思うのです。おそらく、それは私が日本人であって、本当のスウィングが解らないからじゃないでしょうか。もちろん、それは、黒人のノリが本当のスウィングだと仮定した場合の話ですけどね。
 ウチの高校のジャズ・バンド部は、この前の浅草JAZZでの顛末を見てもわかるとおり、今やとっても有名なビッグ・バンドに成長しているのですが、彼らにとってもこのアルバムはいろいろな意味で勉強になるかもしれませんね。非常に高度なアレンジとアンサンブルという意味でも、きっと驚くことでしょう。
 さらに、私たち日本人がいかなるジャズ的アプローチが可能なのか、あるいは、そういう人種やルーツの違いがはたしてジャズというグローバルな音楽にとって意味があることなのか。いろいろと考えさせてくれるのではないでしょうか。
 特に、リズム感というものには、本当にいろいろな種類があって、これはたしかに遺伝子にプログラミングされた何かに支配されているわけですが、それをどう活かすか、殺さないで生かすかということに対するヒントを与えられるかもしれません。
 つまり、私たちは、ジャズというフィールドにおいては、本場(それが何かはよくわかりませんが…)の真似をするだけではなく、もっと自分を出していいのかもしれないということです。秋吉さんはそれをもう何十年もやってきて、そしてジャズ・マスターズ入りしたわけでしょう。これは重要なことです。
 最近、私もそういうことがやっと解ってきました。つまり、自分も古い西洋音楽をやったりしてて、昔は絶対超えられない壁を感じたり、ある種の虚無主義に陥ったこともあったんです。現代日本人のオレが何やってんだ、みたいな。でも、最近は開き直って、17世紀のヨーロッパ人が、こんな演奏できないだろ!みたいな境地になってきたんですよ。イチローが本場で「野球」を貫いて一流になったように、逆に新しい命を吹き込むことができるんじゃないかって。
 そういう意味では、高校生は、そんな難しいことなんか考えてませんから、だから魅力的なんだと思います。逆に大学のバンドが萎縮してしまうのは、きっと私が若い頃に陥ったような無意味…とは言い切れませんけど、余計な心配をしちゃうせいなんじゃないですかね。面白いですね。知識や常識が表現の邪魔をする。一流になる人はそこをしっかり乗り越えるというか、止揚することができるんでしょうね。
 こだわって、こだわりつくして、そして、そのこだわりを超える。まさに仏教の修行そのものです。
 最後にその境地に近い高僧たちの名前を記しておきます。

(musical director & piano) Toshiko Akiyoshi
(sax & woodwinds) Klaus Graf, Axel Kuhn,Jorg Kaufmann,Andreas Maile,Pierre Paquette
(trumpet & flugelhorns) Felice Civitareale,Frank Wellert, Claus Reichstaller, Karl Farrent, Rudolf Reindl
(trombones) Marc Godfroid,Ernst Hutter,Ian Cumming, Georg Maus
(bass)Decebal Badila
(drums) Holger Nell
(percussion) Farouk Gomati

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2009.02.16

むすぶ

1 UインターすなわちUWFインターナショナルについて、ちょっと復習というか勉強しなくてはならなくなりました。プロレスを語る時、彼らの存在は避けて通れませんからね。ちょうどいい機会です。
 で、たとえばこの「インターナショナル」という言葉ですが、まあ「国際」などと訳されることが多いじゃないですか。ま、「国際」という言葉に抵抗があって、「世界」と訳す場合もありますが。
 そうそう、今年は「世界天文年=International Year of Astronomy」なんですよね。ガリレオ・ガリレイが、望遠鏡を発明して、初めてレンズを通して宇宙を観測したのが1609年だそうで、それから400年のメモリアル・イヤーなんだそうです。で、「国際天文年」ではなく「世界天文年」と訳したと。
 もともと、「international」とは「複数の国家間の」という意味です。「inter」は、辞書によれば「…の間」とか「相互に」という意味があるようですね。「nation」は国ですから、「international」はそういう意味になります。
 ただ、私の語感としては、「inter」は「結ぶ」というイメージが強い。インターチェンジとか、インターネットとか、インターハイとか、インターフェイスとか。
 音楽で「インタープレイ」という表現も使いますね。親密なアンサンブルです。これも単に相互とか、複数でというより、強い紐帯の存在を予感させます。
 で、日本語の「むすぶ」という言葉を考えてみますと、ちょっと面白いことに気づきます。
 御存知のように、日本語の「むすぶ」にはいろいろな意味があります。大きく分けると四つの意味でしょうか。
 まず単純に「紐を結ぶ」や「縁を結ぶ」のように、離れた複数の存在をつなげる意味がありますね。二つ目は「実を結ぶ」や「草庵を結ぶ」のように、形を成すというような意味。三つ目は「文を結ぶ」や「結びの一番」のように何かを完成、終結させるという意味です。
 そして、一番面白いのが、上の三つを総合したような「生む」という意味です。日常生活ではあまりそういう意味は意識されませんが、実は日本人の最も根源の部分にかかわる意味なのです。
 古事記をひもときますと、最初に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れます。そして、次が高皇産霊神(たかみむすびのかみ)そして神皇産霊神(かみむすびのかみ)が現れます。この三神は「造化の神」と言われ、いずれも創造・生成を司る神とされています。
 ここに現れる「むすひ」という言葉は「生む」「むす」+「霊」だと説明されることが多いのですが、私はなんとなく「むすぶ」という動詞の連用形「むすび」だと思っています(あまり根拠はありません)。
 たしかに、我々は互いに結ばれて新しい生命を生み出します。また、実際の生命に限らず、いろいろな力が結びついて新しい価値が創造されたりしますよね。
 そう、昨日のコバケンの記事ダンスの記事、そしてプロレスの記事でもわかるように、幸せな結合が生む「愛」「芸術」「感動」こそ、生きる「歓び」であり、「面白さ」ですね。
 そうそう、また話がどんどんそれますけど、「ライスボール」のこと、皆さんはなんと呼びますか?「おむすび」ですか?「おにぎり」ですか?
 この両者の違いについてはいろいろと説があります。西日本は「おにぎり」、東日本は「おむすび」というシンプルな説。「おにぎり」の方が古くて、「おむすび」は女房言葉だという説。そして、「おむすび」は三角形、「おにぎり」は丸という説。あるいはその反対で、「おにぎり」は三角形で、「おむすび」は俵形という説。もう何がなんだかわかりません。
 でも、最近はですね、コンビニで「おにぎり」が売られるようになったからでしょうか、「おにぎり」が優勢なようです。
 私はなんとなく、自分の持つ「むすぶ」という言葉のイメージからか、お母さんの握った「愛」のこもった「おむすび」、命の源である「おむすび」が好きなんですけどね。時代は「愛」より「手軽さ」を重視するのでしょうか。
 実は「おむすび」が三角形というのには、実は深い意味があるとも言われています。先ほど書いた「造化の三神」を象徴しているというのです。「握り飯」ごときに世界創造の神を見る日本人、とっても素敵ですね。あっ、そうだ。「ライスボール」じゃ、球形ですね。英語じゃ神は宿らないということですか(笑)。
 今日は話がメチャクチャでしたね。ごめんなさい。

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2009.02.15

『笑劇開演 小林賢太郎テレビ』(NHK BS-hi)

1 いに興味はあります。嫌いではありません。仕事柄けっこう使います。しかし、難しい。笑いとはなんなのか。答が一つではないような気もします。たとえば、今日「麻生総理の支持率が9.7%」というニュースがありましたが、ほとんどの人が笑ってしまったことでしょう。どこが笑いのツボなのか。ちなみに、それを伝えるアナウンサーは笑っていませんでした。
 ラーメンズについては、以前2回書いています。
第11回定期公演「CHERRY BLOSSOM FRONT 345」
第16回公演 『TEXT』
 今の私の脳ミソで語れることは、そこに全て書いてありますね。この番組でも同じ印象を持ちました。
 ただ、芸ではないドキュメンタリーの部分には、新しい発見がありました。
 まず、彼が言語化せずに絵で構想を練ること。言語、言葉にすると、もうその時点で制約が生まれると。なるほど。そのとおりです。言語とはルールであり、フィクションですからね。意味が固定してしまう。それも社会的な意味が固定されてしまうわけで、おそらく「笑い」の要素たる、パラダイムの崩壊と再構築は難しくなりますね。もちろん彼は、それを逆手にとって「TEXT」のようなメタな作品を作り上げているわけですが。
 絵というか、右脳のイメージというのは、これは実に個人的なものです。そう、言語は「コト」ですが、イメージはまだ半分「モノ」なんですね。「モノ」は不随意ではありますが、生々流転し、無常なる存在ですから、だからこそ、我々の常識やルールを崩してくれる。そこが笑いという快感に結びついていく。
 前にも触れましたが、「笑い」には経験をベースにした、「予想どおり」と「予想外」の両方が必要なんですね。まあ、ワタクシ流に言えば、「コト」と「モノ」のアンサンブルですよ。反復と変奏。お約束とまさか。つまり、左脳と右脳が絶妙なバランスでアンサンブルするのが、小林さんの語った「面白さ」だと思うんですね。そう、昨日まで続けざまにいくつか語りましたけど、いわゆる芸術や芸能、スポーツが生み出す「快感=面白さ」とは、そういう部分に依拠しているような気がするんです。
2 それを小林さんは見事にイメージして、そして具現化してくれる。右脳で思いついて、左脳で表現してくれる。その過程を我々は追体験しているんじゃないでしょうかね。
 あと、面白いなと思ったのは、小林さんが「人を笑わせることに対する憧れ」を持ち続けているということです。天才と呼ばれる彼がそう言うのが新鮮でした。この「憧れ」って、この前のダンスの記事に書いた、その行為自体への「愛」っていうやつでしょう。基本的な「愛」が、小林さんには充実しているんですよ。
 ちょっと、というか、だいぶ話がそれます。今日、生徒と、たまたま、アンサイクロペディアの「風が吹けば桶屋が儲かる」の項を見ました。とても全部読み切れないので、ざっと見ただけです。そこにも笑いの本質が感じられましたね。最初は笑えたんですけど、だんだん飽きてきた。パターン化してきたり、あるいは、狙いが感じられるようになってきたり、どんどん鮮度が落ちてくる。とても2500も読めません。そこで、ぐっと下の方まで飛んでみて、そうしたら、再び大笑いしてしまった。そう、「簡易版・・・というより真理」という項目です。

風が吹く
寒くなる
風呂が普及する
桶屋が儲かる

 これも、いきなりこれだけが提示されても笑わなかったかもしれない。グダグダ2500も無意味な羅列があって、そして一気にここに収束するおかしさでしょうかね。こんなところにも、「笑い」の本質が見えたような気がしました。

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2009.02.14

『アルビノーニ 協奏曲集 作品10』(イ・ソリスティ・ヴェネティ)

Tomaso Albinoni Concertos Op.10
Claudio Scimone , I Solisti Veneti , Giuliano Carmignola , Piero Toso
514hb5sygsl_sl500_aa240_ 年もやってまいりました聖バレンタイン・デー。なんだか「逆チョコ」とか言うまた新しい風習を作って儲けようという、菓子メーカーの魂胆が見え見えの今年の聖日。まあいいんですけどね、昨日の話じゃありませんが、「愛」と「芸術」は市場の外にあるべきですよ。市場の失敗でいいと思います。
 とか言いながら、しっかり家族や生徒たちから手作りチョコをいただいているワタクシです。でも、ウチのクラスのギャルどもは一人もくれません。なぜなら、今、大学入試の真最中で、いくらいつも余裕で楽しそうな彼女らも、さすがに今年はチョコを作っているヒマはないようです。てか、去年はオレがあいつらにロイズのチョコを買ってやったんだ。そうだ、ちくしょう!漢検のせいだ(笑)。
 さて、そんなこんなで、今日は自分史における聖バレンタイン・デーの変遷について復習をしてみたりしたんですが、一つ思い出したことがあったので紹介しておきます。
 私が高校3年生の時だと思います。ウチのクラスのギャルたちとは正反対で、実に暗く淋しい受験勉強をしていた、そのど真ん中に鎮座していた聖日。当然、その日私の手もとにチョコレートなる甘美なものが届くわけもなく、なんともビターな気持ちになっていたのでありました。
 しかし、そんな私をスウィートに慰めてくれた音楽があったのです。そうです。それがこのアルビノーニの作品10だったのです。クラウディオ・シモーネ指揮、イ・ソリスティ・ヴェネティのアナログ・レコード。あの頃の私の恋人は、冗談抜きでこのアルバムだったのです。
 アルビノーニはもともと好きだったんですよね。作品9を聴くのはもちろん大好きでしたし、ヴァイオリン・ソナタ集やトリオ・ソナタ集なども、楽譜を手に入れて演奏したりしてました。そんな時、81年でしたか、幻の曲集が発見された(実際は60年代に発見されていた)という触れ込みでこのレコードが発売されたんです。お気に入りのミュージシャンの新曲が出るのと同じで、そりゃあ興奮しましたよ。もちろん早速購入しました。
 で、聴いてみましたら、これがまた驚きの内容でした。作品9から10数年経っての出版とはいえ、これほど変っているとは思わなかった。そして、当時の私の心のツボに恐ろしいほどはまってしまったんです。
 ロマンチックでメランコリック、これでもかこれでもかというベタな展開。ほとんどムード音楽か映画音楽のよう。バロックでも前古典でもなく、実に不思議な現代性を帯びた作品集でした。
 アルビノーニが晩年に到達した境地はこれだったのでしょうか。同世代のバッハがどんどん対位法を極める方向に行ったのに比べると、アルビノーニはそれとは全く反対の方向に行きました。まあ、単に時代の流れに従ったのがアルビノーニだということでしょうけど。バッハはどうかしてたと(笑)。
 それにしても、アルビノーニってすごい作曲家だと思いますよ。軽いとか浅いとか言う人もいるようですが、このメロディー創作能力は音楽史の中でも稀有なレベルです。そして、そこに絡む対旋律というか、いや、もっと微妙なものだな、セカンド・ヴァイオリンが時々絡ませる合いの手というか、スパイスが絶妙なんですよね。ちょうど大村雅朗さんの編曲みたい。
 そういうおいしい所をうまく強調したのが、このイ・ソリスティ・ヴェネティの演奏です。この作品10はおそらく他の録音がないんじゃないでしょうか、今でも。この演奏、いや録音、アルビノーニの現代性を実にうまく引き出していると思いますよ。そう、録音テクによる部分も大きい。微妙な距離感や深いリヴァーブなんか、こりゃちょっとやりすぎなくらいです。でも、それがアルビノーニにぴったり。メチャ甘なイタリアのチョコ。
 これは正直、古楽器で演奏してほしくない。ぜったい痛い演奏になりますよ。薄っぺらになること間違いなし。私、第1番のスコアを持っています。もう冒頭からして、バロック・ヴァイオリンではパンチに欠けます。弾いてて気持ち悪いですから。モダンで弾くと俄然輝きます。こういうこともあるんだよなあ…。
 というわけで、私から皆さんへの「逆チョコ」をプレゼントします。YouTubeにあったチョコをお譲りしますね。ぜひご賞味くださいませ。

第1番
第2番(高音質版)
第3番

Amazon Albinoni Concertos, Op.10

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2009.02.13

ダンスに学ぶ「愛」の世界

ダンサーたち?
Uni_2022 え子たちが遊びに来まして、いろいろと語り合いながら飲みました。その中に一人、本物のダンサーがいまして(あとはニセモノです…笑)、彼のダンスの映像などを観ながらいろいろと勉強させていただきました。
 パフォーマンスとしてのダンスは、私の知っている音楽の世界やプロレスの世界、最近興味を持っている舞踏、あるいは能の世界と、多くの共通点、そして相違点がありましたね。まあ、当然と言えば当然ですけれど。
 おおまかに言って、やはり単なる肉体表現の技術論では、優れたダンスか否かは測れないということです。精神性も非常に大事であると。
 やはり、ダンスの原点は、興奮と陶酔を招く律動の共鳴です。それはたぶんに性的なものであると感じました。本人もそのあたりは意識しているようで、そういう意味でのセクシーな表現は、目指さずしても自ずと現れるものであるとのこと。まあ、求愛のダンスがその始原でしょうからね。
 そうすると、やはり重要なのは、まずは「愛」や「思い入れ」なのではないでしょうか。プロレスも音楽も、全てそうですが、やはりいろいろな「愛」が集結して共鳴して、素晴らしい時間と空間が紡ぎ出されるのですね。全ての芸術はそうなのでしょう。
 まずは演者の「愛」ですが、たとえばダンスならダンスという行為自体への愛は絶対条件ですね。その行為自体への愛こそが、歓びの光となり、切ない影となり、発散されるわけです。
 そして、その愛の表現を誰と共有するか、それも重要です。まずは共演者。それは共通のリズム(場合によってはルール、約束事)の中での共振、増幅作用として表現されます。
 また、もちろん観客、聴衆に対しても、その愛は発せられます。光や影を共有しようぜ!というメッセージの有る無しは、これは案外あからさまに表れますね。ライヴの善し悪しはそこにかかっているとも言えます。最近はいろいろなジャンルにおいて、自己満足で終わってしまっている人たちが多くとても残念です。メディアの発達が我々自身を疎外しているのでしょうか。
 もちろん、観客、聴衆の側にもたくさんの「愛」が要求されます。本来、表現芸術においては、演ずる者と受け取る者が対等であるべきです。つまり、会場という空間全体が、ある一つの極点に向けて一体になって動いていくべきだと思います。演者はあくまで、それをリードする役割を担うのであって、やはり受け取る側の責任と言いますか、役割も実に大きいものです。最近は、そこにも少し問題が出てきていますね。つまり、金を払ってるのだからそれなりのものをよこせ的なお客が増えたということです。これは、芸術が市場経済に呑み込まれた弊害ですね。本来、芸術は市場の外にあるべきなのです。
 あと、プロレスでは、この前書きましたが、実況のアナウンサーにも「愛」が要求されたりしますね。そうしたたくさんの人々の「愛」や、まあ「思い入れ」でしょうかね、そういう「心」というか「精神」というか、科学や経済では測れないモノの協同作業によって、私たちはまた心動かされるのです。
 今日観たダンスのステージでは、そういう幸せな雰囲気がバッチリ伝わってきましたよ。ダンサーの皆さんはもちろん、お客さんも楽しんでいました。
 意外だったのは、60歳、70歳の方々もたくさん踊っておられたことです。タップ主体だったこともあろうかと思いますが、年齢によるハンディは微塵も感じられず、逆になんとも言えない味わいがあり、感動してしまいました。ダンスはやはり、単なるスポーツではありませんね。競技ではなく芸術です。
 あと、面白かったのは、同じ振り付けで同じ動作をしていても、パフォーマーによって、その印象がかなり違うということでした。これもまたあらゆる分野に共通しているんですが、なんというか、空間を自分の一部にして演ずることができるかということでしょうかね。私も以前、こちらで観世寿夫さんの言葉をプロレスにあてはめて書きました。あれです。それができている人は実にダイナミックに見え、そして大きな波が画面からも伝わってくるから面白い。
 自分の肉体のコントロールに終始している人もいまして、それはそれで見事なテクニックだったりするんですけど、しかし、何か伝わってくるものが足りない。結局、それって自分の外部にまで「愛」や「思い入れ」が及んでいるかの違いなのかもしれませんね。
 そういうものが、その人のオーラ(アウラ)なのではないかとも思います。自分は音楽をやっている時、はたしてそういうオーラが出ているのか。あるいはそれ以前に教育という現場で、そういうオーラを発しているか、ちょっと心配になってしまいました。

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2009.02.12

「勝つ」と「負ける」

05 日は本当に素晴らしい、勝負を超えた勝負の世界を見ることができました。あらためてレスラーの皆さんに感謝申し上げたい。
 最近は、何ごとも勝ち組と負け組のようにデジタル的に処理することが多いですねえ。皆がそういう気分になっているのでしょうか。本来は「すもうに勝って勝負に負ける」という言葉があったり、「負けて勝つ」とか「負けるが勝ち」と言ったり、勝ちと負けの境界はもっと曖昧なものでした。
 「勝つ」と「負ける(負く)」は古くから対義語として使われてきたようです。記紀万葉にまで、その用例を遡ることができます。そうした用例を見ていて面白いのは、戦いに明け暮れた時代には、当然敵との勝負においての勝ち負けという意味で使われていますが、平時にはどうかというと、たいがい「己に克つ」とか「己に負ける」とか、そういう使われ方が多くされているんですね。これはちょっと面白い。
 自分の中に戦うべき何かがある。それは、煩悩であったり、欲望であったり、あるいは場合によっては病気(恋の病も含む)であったりします。考えてみれば、他者と戦うのも、自らの煩悩によるものであるとも言えますね。もっと広い土地に住みたいとか、隣のおいしそうなものを食べたいとか、あそこの女を自分のものにしたいとか。まあ、そんな程度の欲求から、たいがいの戦いは始まります。いわゆる近代戦争もそんなものでしょう。
 現代日本は平和なのかというと、そうでもないようですね。勝ち組、負け組という発想自体がすでに戦争状態です。つまり、我々日本人は今、己の煩悩や欲望に負けて、他人に勝とうとしているということですよ。
 我々は本来は自己の中に戦うべき、勝つべき相手がいるのに、それを忘れて、あるいはそれとの戦いを最初から避けて、その手下になって、他者を侵害しているんです。もちろん、全てがそうだとは言いませんが、そういう気分が蔓延しているのはたしかですね。
 ここで、またワタクシの「モノ・コト論」を登場させます。「モノ」とは不随意、「コト」とは随意だと、何度も繰り返していますが、もう少し根本的な音義論で説明しますと、「m」音は外部・他者、「k」音は内部・自己を表すと考えているんです。推量(未来)・意志の助動詞「む」と過去・発見の助動詞「き」の対照などその典型例です。
 で、そういう観点を持ち込みますと、また「勝ち」・「負け」は面白い正体を垣間見せますね。そう、「勝つ」は「k」音、「負ける(負く)」は「m」音を基音としているんです。
 つまり、「勝つ」は自己の思い通りになることを表し、「負く」は自己の思い通りにならないことを表す語だということです。
 古今集に次のような和歌があります。

 思ふには忍ぶることぞまけにける色にはいでじと思ひしものを

 冒頭の「思ふ」はいわゆる「物思ひ」ですね。どうにもならないこと、かなわないこと、あるいは自分の意志とは関係なく沸いてきてしまう思いを、古語では「ものおもひ」と言います。それを「忍ぶる」、すなわち「我慢」したり、それに勝とうとしたりするのは「こと」です。自分の意志ですね。しかし、その自己の意志が「まけ」てしまう。結局は不随意になってしまうのです。ですから、最後「ものを」という不随意の終助詞で結んでいます。表情に出すまいとしていたのに、つい出ちゃったと。
 この歌から派生したと思われる百人一首の平兼盛の和歌も有名ですね。

 忍ぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 これもまた、「忍ぶ」という「こと」が「もの」に負けていますね。やはり、自分の思い通りになることが「勝つ」で、思い通りにならないことが「負く」なのでしょう。
 まあ、人間ですから、自分の欲望や煩悩に一瞬負けてしまうこともありますが、そこで気を取り直してもう一度「忍ぶ」というのが正しい道ですね。でも、いわゆる現代の「勝ち組」はそういう我慢はしません。自らの中の他者に負け、そして自らの外の他者に勝とうとします。際限がありません。
 そういう意味では、次の和歌はまずい。平安にしてすでに平成的な生き方をしているぞ(笑)。

 思ふには忍ぶることぞまけにける逢ふにしかへばさもあらばあれ
(我慢が煩悩に負けちゃったよ…もう我慢できない。まあいいや、なるようになれ…会ったらやっちゃえ!)

 まあ、作者は平安の「勝ち組」、イケメンで頭もよくて、家柄もよし、口先も達者で、あっちも絶倫とウワサされる在原業平ですからね。そう考えると、彼は本当に現代的ですね。

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2009.02.11

『Take The Dream Vol.7 〜健国への夢、始動〜』@ 後楽園ホール(健介オフィス)

Uni_1955 元節、我が家は東京水道橋の後楽園ホールへ。「建国」ならぬ「健国」で感動の涙、涙。
 本当に素晴らしい興行でした。満足度200%。いやあ、プロレス復権の時も間近ですね。
 まさに「日本」の礎たる「文化」の継承です。冗談抜きで間違いなく建国の神事そのものでした。選手と会場の一体感。夢と希望。逆境に立ち向かい、何度も立ち上がる姿。素晴らしい「健国の儀」。
 その場所も聖地後楽園ホール。幾多の名勝負(神事)の記憶が堆積し、今や本当に神界に行かれた多くの名レスラーの英霊の集う場所です。私は大晦日のプロレスサミット以来。カミさんと娘たちは初めて足を踏み入れました。観客の中には、横綱朝青龍や志村けんさんの姿も。
 前売り券はとうに売り切れておりまして、私たちは当日券で入場です。なんと子どもは無料でした。さすがファミリーを大切にする健介オフィスです。
 後楽園ホールの当日券バルコニー立ち見というのは、実は最もオツな観戦スタイルですね。数々の名試合を数々の名ファンたちが見届けた、ある意味聖域であります。私もバルコニーは初めて。
Uni_1959 ドキドキしながらあの狭い階段を上り、西側バルコニーに到着すると、そこにはなんとあのキャンプ場プロレスを主催した教え子の双子の兄弟がいるではありませんか!教え子と後楽園ホールのバルコニーで会うというのもなかなかないよな(笑)。さっそく彼らの陣地に乱入させていただきました。ありがたや。ちなみにバルコニーで鼻メガネかけてた坊主頭はワタクシです。ちょっとした企画で撮影してもらってました。目立ってただろうな。
 細かい試合内容はカクトウログさんスポナビをご覧下さい。やはりあの感動と興奮は実際に観た者でないと分からないと思いますが、言葉と写真からもその雰囲気は伝わってくるものと思います。
 試合前の調印式、ジョー樋口さんの姿にまず涙。この後楽園ホールで幾多の名勝負を裁き、そして何度も失神したジョーさん。どんな思いで今日の試合を見るのでしょうか。
Uni_1976 第1試合は「笑い」と「福」を機軸にしたまさに初っ切り。天鈿女命以来の伝統的儀式です。こうして天の岩戸は開かれ、暗闇に光がさし、「再建国」が達成されるのです。もうそれだけで、私たち夫婦はバルコニーで涙するのでした。娘たちは応援していた「なまずマン」が負けてしまい泣いています。泣くな、娘たちよ!負けてももう一度立ち上がればいいのだ。それがプロレス的人生だ!
Uni_1979 第2試合では感心しきり。ベテランのTAKAみちのく選手の素晴らしさを改めて知りました。テレビ中継では分からないことですが、彼、コーナーで控えている時にも、常に仕事をしているんです。リング上の一つ一つの動きに反応し、表情を作り、動き、声をかける。無駄な動きも、無駄な時間もありません。ほかの若手はみんなコーナーでは休んでいるだけ。あまりの違いに私の目はコーナーのTAKAさんに釘付けになりました。さすがWWEの初代ライトヘビー級チャンピオンです。世界を獲るだけのことはある。ああやって試合で若手を育てているんでしょうね。大晦日の時も、会場の隅でそれぞれの試合を真剣に見ていましたっけ。若手にとっては最高の先生なのでしょう。
Uni_1985_2 第3試合はカミさんが大好きなDDTの高木三四郎社長が登場。のらりくらりと若手のパワーをかわし、自分の世界で試合を組み立てていました。そうした、柔よく剛を制すというか、柳に風というか、暖簾に腕押しというか、豆腐に鎹というか、相手の力をかわし、吸収し、利用するのは、日本古来の武道の伝統ですね。武道に限らず、忍び、かわし、待ち、やりすごすのは、日本的生き方の一つです。
Uni_2000_2 第4試合。これがメインでもおかしくないカードですね。そうそう、この試合から私たち家族は椅子席に移動しました。なんと、初めて会うものすごく熱いファンの方が、きっとどうしてもパルコニーで応援したかったんでしょうね、私たちの所へ来て、いきなり席を代わってくれたんです。さすがに長時間経ち続けていて、子どもたちも限界に近づいていたので、渡りに船、代わらせていただきました。で、行ってみると素晴らしいど真ん中のいい場所。ありがたや。ありがたや。大晦日も席を譲っていただきましたっけ。プロレスファンの互助意識、仲間意識は実にいいですねえ。あたたかい。
 佐々木健介と秋山準の、ヘビー級ならではの迫力あるぶつかりあいも良かった。チョップ合戦はあの小橋vs健介を彷彿とさせる、まさに太鼓の乱れ打ちでした。神事そのもの。今回は私も二人のソリストを盛り上げるリピエーノとしてしっかり参加させていただきました。声が涸れてしまった。
 ジュニアの二人はもうノアでの対戦でうまく噛みあうことは証明されています。相変わらず二人ともすごい動き。特に飯伏選手、肩を負傷しているにもかかわらず、なんだあのその場飛びシューティングスタープレスは!まさに神技。神業。朝青龍も手をたたいて大喜び。あなたも土俵の上で神事を司っているんですからね、しっかり勉強してください(笑)。
 小さなジュニアの選手が大きなヘビーの選手に向かって行く(そして玉砕するが、時に一矢報いる)姿に、いろいろな歴史を重ねて見てしまい、また涙、涙。美しいなあ、大和魂。
Uni_2005_7 そして、第5試合、メインイベント。結果からしますと、40分近い熱戦の末、健介オフィスの中嶋勝彦くんがノアのKENTAを破り、第17代GHCジュニアヘビー級王者になりました。もうこれは筆舌に尽くしがたい名勝負だったので、何も語りません。魂と魂の戦いを見せていただきました。プロレスの醍醐味です。折れない気持ちと折れない気持ちのぶつかりあい。これぞプロレス。これぞ格闘技。私たち夫婦も、周囲のファンたちも試合中からもう泣いています。そして、娘たちは大声で応援していたKENTA選手が負けてしまい号泣。
Uni_2008 いいんだよ、プロレスは。負けてもいいんだ。また立ち上がればいいんだよ。いい試合をすれば、どっちも勝ちなんだよ。単純な勝ち組負け組とは違う勝負の世界があるんだ。娘たちよ!心の折れない、何度でも立ち上がれる人間になれよ!
 やっぱりプロレスは人生だ!人生はプロレスだ!素晴らしい建国記念日でした。
 右の写真は会場でカミさんが買った鬼嫁エプロンです。もちろんその場で北斗さんにサインをしてもらいました。

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2009.02.10

車載可能7インチ液晶DVDプレーヤー DS-PP108 (ゾックス)

Img55626681 用していたリージョンフリーDVDプレーヤーの調子が悪くなりまして、とうとう買い替えです。いちおうHDレコーダーでもDVDを再生できますが、ちょっと違う目的もありまして、これを新たに購入しました。
 今回の選定の条件は、まず1万円以下であること、それから、ポータブルタイプで車に載せられること、そしてリージョンフリー化が可能なことでした。その全ての条件を満たしたのがこのZOXの製品です。
 もちろん中国製です。まあ考えてみれば7インチの液晶付きでこのお値段ですからねえ、時代は変わりましたねえ。かなり昔の話ですけど、3インチ液晶付きの8ミリビデオウォークマンが10万円以上してましたよね。
 さて、この製品、ポータブルタイプではありますが、バッテリーでの使用は不可能です。私はもともとバッテリーというものが嫌いですし、そういう使い方をするシーンはありませんので、別に問題なしです。そのかわり、車載用の12VDCアダプターと、ご丁寧にヘッドレストに取り付ける際に便利なカバーというかバッグが付属しています。もちろんリモコンやACアダプターもついてます。
1 ウチは年に何回か、10時間以上に及ぶドライヴをしますので、そういう時に、子どもやカミさんのヒマつぶしに使えそうですね。いや、基本ウチの家族は、何時間でも何日間でもあの狭い車内で、飽きずに過ごすことができる、ある意味非常に優秀な連中なんですが、まあこれでより一層車内引き籠もり力がつくことでしょう(笑)。
 ただし、鑑賞するDVDソフトは、ドリフとバカボンとポケモンと、あとプロレス、格闘技などに限られそうですが…。
 そうそう、ドライヴに便利ということで言えば、マルチメディア・カード・スロットやUSB入力端子がついていることでしょうかね。旅先で撮った写真なんかを車内で観ることができるというわけです。もしかしてデジタル・フォト・スタンドとしても使えるのかな。
 肝心の画質ですが、まあ普通に鑑賞する分にはなんの問題もないでしょう。静止画ですとちょっと甘さを感じますが、動画なら気になりません。明るさも充分です。
 音は本体の小型スピーカーから出ますが、さすがにちょっと音量不足ですね。いや音量というか迫力が不足しています。でも、それも頭の中でエンファシスかければいいだけの話ですから、まあいいや。ポータブルタイプに迫力を求めてもしかたない。
 よくFMトランスミッターが内蔵された製品も見かけますが、これは運転手にとっては辛いんですよね。だって、音だけ迫力満点に聞こえてきて、映像は見られないんですから。だから、これでいいとも言えますね。
 もちろんAV出力端子や音声出力端子もついていますから、テレビにつないだりすることも可能です。家ではそういうふうに使えます。
 実はまだ車に取り付けてみただけで、あんまり使ってないんですけど、まあお値段からすればなかなか有用なモノだと思いますよ。これから、いろいろ試してみようと思います。ホントにリージョンフリーなのかどうかも未確認です。いちおうカタログにはリージョン2って書いてありますが…。
 また、しばらく使ってみて、このページで報告したいと思います。

製品カタログ

株式会社ゾックス公式

当店売れ筋AV・家電第9位車載兼用 7インチTFT液晶搭載 DVDプレーヤー ZOX DS-PP108 送料無料

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2009.02.09

『職業“詐欺”~増殖する若者犯罪グループ~』(NHKスペシャル)

090209_b 「分さえ良ければ、人はどうなってもいい」、「カネこそ全て」…そう言う上層部。「生きていくため」…そう言う下層部。暗澹たる気持ちにさせられた番組でした。
 オレオレ詐欺と呼ばれ、こうした形の詐欺が表面化したのは、今から7、8年前でしょうか。これだけ被害を防ごうと方策が練られ、啓蒙活動が盛んになっても、一向に減少する気配はありません。
 その背景に、景気の悪化による就職難、そして若者たちの意識の変化があるということを、この番組では強調していたように思われます。
 少し話がそれますが、大学入試の時期になりますと、いつも思うことがあるんですね。それは、こちらの記事にも書きましたが、若者や子どもが巻き込まれる社会問題の全ては、我々大人が用意しているということです。そして、その当人である大人たちは、それを若者自身のせいにしたり、あるいは、それこそ小論文の課題を無思慮に出す大学のセンセイのように、その解決を若者に押しつけたりします。
 またまた話がそれますけど、先日私も戦った(?)漢字能力検定協会の問題なんか、あれだって立派な大人の「詐欺」だと言えば「詐欺」です。公的な詐欺です。あんまり悪口言うと、この前みたいに露骨に仕返しされるので(笑)、これ以上言いませんが、まあ、しかし私の言ってることに間違いはないと思いますよ。
 ただ、そういう構造というのは昔からいくらでもあったわけで、今に始まったことではありません。では、なんで最近、振り込め詐欺のような問題が表面化しているか。もちろん、NHKさんが取り上げたような現状もあると思います。しかし、私はもっと違う視点も必要だと思うんですよね。
 そう、以前はそういう「詐欺」や「恐喝」などによる「富の再分配」は、ヤクザの仕事だったんですよ。「富の再分配」なんて、問題発言かもしれませんけど、しかし実際そういう機能も果たしていたんです。
 しかし、ヤクザが国家権力と市民によって、つまり、我々自身によって駆逐されてしまった今、こういう「貴い」仕事を「公的」にする組織がなくなってしまった。それをするのは、一般人になってしまったんです。
 以前なら、一般人がそういう「仕事」に手をつけようとすれば、すぐにヤクザの方々に思いっきり怒られたでしょう。命さえも危ない。だから、そういう貴い仕事は我々には回ってこなかったんです。
 今日の番組では、上層部の皆さん、だいたい高学歴の方々でしたね。有名進学校を出たとか、有名大学に通っているとか。まあ、それはそうでしょう。知能犯ですから。知能の使い道を誤れば、そういう仕事に手を染めますよ。誰しもそういう危険性があります。
 昔もそういう発想をする頭のいい人はたくさんいました。それは変わりません。根底にある若者の意識も何も変わっていません。でも、その業界には進出できなかったんです。それはヤクザの皆さんが目を光らせていたからです。そういうプロの皆さんのおかげで、我々はそういうことに手を染めないですんでいたんです。
 振り込め詐欺に限りません。ヒルズ族なんか、昔ならすぐに鉄砲玉が飛んできて、まじで命ありませんよ。
 最近、そういうヤクザに関する本を何冊か読んでいます。この前も『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』を紹介しましたね。そういうのを読んでいると、こういうことに気づくんですね。まさに「悪をもって悪を制す」。
 やっぱり世の中には必要悪というのがあるのだなと。そんなに単純化してはいけないことも分かりますが、しかし、一方で、自然界に無駄な生き物がいないのと同様、人間界にもいろいろな生き物が必要だということを痛感するのです。社会の病原菌だとか、ダニだとか、いろいろ言って駆除してみたら、さあこういうことになってしまった。寄生虫を駆除したらアレルギー(花粉症など)が激増したりとかね。
 つまり、ここ10年くらいで、日本は根底から変わってしまったんです。必要悪的な方法による「富の再分配」も含めた互助的な生活基盤はどこに行ってしまったのでしょう。
 若者の心の荒廃や深刻な雇用問題より以前に、そういう部分に対して、暗澹たる気持ちになってしまいました。

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2009.02.08

『おもしろ古典教室』 上野誠 (ちくまプリマー新書)

48068734 の古典の授業は、完全に受験に特化していますので、私の授業で古典に開眼する生徒は皆無です。いつかも書いたように、古典なんかに興味を持って文学部志望とかになられたら大変ですから。就職できません。これ、まじです。
 私、いちおう源氏物語を訳したり、それからこのブログにも書き散らしてますが、枕草子などに新解釈を加えたり、「國文學」なんていう雑誌に原稿書いたりしてますから(まあ、ふざけた原稿ですが)、いかにも古典大好き人間であると勘違いされることも多々あるんですね。
 しかし実態はかなりの古典嫌いなんです。こういう仕事してなければ全く読まないでしょう。いや、こういう仕事をしていても、いわゆる名作とか名文とか言われるものをほとんど読んでいない。教科書すら読んでいない。暗誦なんてもってのほか。
 では、何を読んでいるかというと、まあ入試問題や模擬試験に出てくるどうでもいい文章のどうでもいい部分を読むだけです。あとは、私は文学ではなく語学の出なので、古い言葉には興味があるんですね。だから、そういうきっかけで調べものをすることはけっこうあります。でも、それはいわゆる読書とは違いますね。
 だから読んでいる文字数はけっこう多いかもしれないけれど、いわゆる古典文学にはほとんど親しんでないんです。困ったものです。本当に正直に言ってしまうと、「面白くない」「面倒くさい」…です。すみません。
 しかし、古典の良さというものがあるのも分かります。昔学校でそういう授業をしてくれた先生がいらっしゃったからです。とってもつまらない授業をされた方もいらっしゃいましたが、中には古典文学を通じて人生を教えてくれた方もいたんです。でも、そのせいで私は文系に転向し、困ったことに文学部に行ってしまった。で、国語の先生にしかなれなかった。
 自分は今、それなりに楽しめていますからいいんですが、もし今の就職先がなかったらどうなっていたかと、ちょっと恐ろしくなるんですね。ですから、そういう国語の先生が背負っているカルマから脱するために、あえて予備校的な授業をやっているわけです(ホントか?)。
 その点、この上野先生の本は実に良心的ですね。上野先生は素晴らしい先生ですよ。それぞれの章のタイトルを並べてみましょう。

 第一章 古典を読むと立派な人になれるというのは間違いだと思います
 第二章 こんな生き方したいと思ったとき
 第三章 読むとこんなことがわかる、なんの役にもたたないけど
 第四章 人は遊びのなかに学び、時に自らの愚かさを知る

 と、こんな感じなんですね。拠って立つ原点は私と同じかもしれませんが、そこから一歩踏み出して、逃げないで古典の魅力を伝えています。それも本文には古典作品の文章はほとんど出てきません。ご本人による上手な現代語訳があるのみです。原典は巻末にまとめて載せられていますから、興味を持った方だけ読めばよい。ちなみに私は読みませんでした(笑)。
 そうですねえ、上野先生の一番言いたいこと、あるいは私自身が実は言いたいこと(かな?)は、第一章の中の次の小見出しを見ていただければ分かるのではないでしょうか。

 古典なんか死んだ人のカスみたいなもんだ−『荘子』
 学んでも自分で考えないと、勉強する意味がない
 「今」と「自分」が大切なのであって、古典や過去が大切なのではない

 う〜む、たしかに。私もいわゆる「教養主義」は大嫌いですし、いや、受験のための答が一つの古典というのも大嫌いです。まさに「今」と「自分」の古典を楽しみたいとは思っています。まあ、だから「萌え=をかし」なんていうとんでもないこと言い出したりしてるんでしょうけど、しかし、そういうのは授業ではほとんどしゃべりません。だって、そんなこと答案に書いちゃったら大学落ちちゃいますからね。
 そのへんのジレンマに、私は耐えられないので、さっきも書いたとおり、とにかく点数を取るための勉強しかしません。受験の道具としてしか使っていないのです。特に漢文。
 本当は上野先生や、私をこういう世界に導いた諸先生方のように、豊かな古典の授業というのをやりたいんですけどね。考えてみると、受験勉強に縁のない就職クラスを教えてた頃は、けっこう自分の解釈で楽しい授業できてたなあ…。ちょっと寂しいかも、最近。
 ま、いずれにせよ、「今はダメ、古いものこそ素晴らしい」という単純な、そして頑迷な古典原理主義者にはなりたくないですね。
 というか、本当のこと言っちゃいますと、昔の私がそうでしたが、高校生で古典に目覚めるヤツってかなり痛いヤツですよ。普通にマンガとかアニメとかゲームとかやってる方が健全でしょう(笑)。
 

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2009.02.07

『刑事コロンボ 「祝砲の挽歌」』 (NHK BShi)

A0037338_2181061 客来る!
 今日は実に面白いことがありました。先日こちらの記事で散々非難、揶揄させていただいた某教会…じゃなくて某協会の抜き打ち検査(監査)を受けました。
 検査した側には守秘義務がありますが、こちらにはそんなものありませんので書かせていただきます。
 あの記事、協会名で検索しますと、1ページ目、その協会の公式ページのすぐ下にニュースサイトに紛れて表示されてますので、きっと協会のお偉いさんが見て、刺客を送り込んできたのでしょう(笑)。
 つまり、今日は検定の実施日なんですけど、いきなり担当者が、「今、駅にいます。うかがわせていただきます」と電話をよこし、そして、検定が規定通り行なわれているか調べると言うのです。皆さんも御存知と思いますが、毎年これで刺されて、どこかの高校の受検者全員が失格になっています。ニュースになっていますね。
 えぇ!ウチかよ!?…本当にビックリしました。別に検定実施上のやましいことは何もないので、動揺する必要などないのですが、あまりのタイミングの良さに、名指しで呼ばれた私はさすがにアタフタしてしまいました。普通に授業中でしたし。なんか、あの三菱リコール隠しのドラマを思い出してしまいましたよ。「来たぞー!」って。
 あの記事では、「逆恨みしてウチの学校の答案辛くつけたりしないでくださいよ…と先にクサビを打っておく」と書きましたが、こういう形で報復を受けるとは…笑。やるな○○協会!
 なんて、もちろん半分冗談ですが、半分マジです。だって、タイミングが良すぎますから。向こうは向こうで文部科学省の立ち入り検査を9日から受けるはずです。だからって腹いせにお客のところに立ち入り検査するなよ!なんて思っちゃいますよね。まったくぅ。
 で、もちろん何の問題もなく立ち入り検査は終了しましたけど、私もちょっと冷静になって、「身内には甘いのに、顧客にはずいぶんと厳しいんですね」とかイヤミを言っておきました(笑)。
 まあ私もいろんな宗教団体に乗り込んで行ったり、あるいは悪徳商法を粉砕したり、そういう場数は踏んでいますので、ある意味そういう雰囲気には慣れているんですが、今回は自分の書いた記事とあまりに直結していたので、さすがに恐怖を感じましたね。ま、自業自得と言えば自業自得か。でもなあ、別にウソは一つも書いてないし、文句があるなら直接言ってほしいっす。
1 で、ようやく本題です。そんなわけですっかり疲れて帰ってきた私ですが、夜は家族とのんびりしました。近くのレストランで地ビールを飲んで帰ってきて、8時からみんなで「刑事コロンボ」を観ました。最近娘たちもはまってるんですよ。私も小学生の時はまってましたっけ。コロンボごっこやってたもんな。なんでも事件にしちゃってね。
 やっぱり面白いなあ。脚本が素晴らしい。人間ドラマですねえ。
 今日の私じゃないけれど、容疑者の表情や行動ですね、コロンボが注目するのは。変に動揺したり、変に冷静だったり、変に協力的だったり、変に批判的だったり。今日の私なんか、コロンボに取り調べられたら、すぐに自白しちゃいますよ。あの記事書いたの私ですって(笑)。
 で、今日の犯人役、つまり、その微妙な心理を表す名演をしたのは、この共演を機にピーター・フォークと親友になったパトリック・マクグーハンでした。非情で冷徹、しかしどこか孤独な大佐を見事に演じていました。
 と思ったら、マクグーハンさん、先月亡くなっていたんですね。驚きました。この名演技ののち、コロンボシリーズの監督もなさるなど、いろいろな才能を発揮された方でした。ご冥福をお祈りいたします。

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2009.02.06

『理性の限界―不可能性・不確定性・不完全性』 高橋昌一郎 (講談社現代新書)

06287948 晴らしい本。自分に知識と才能と根性があったら、こういう本を書いていたことでしょう。
 しかし、私には理性の限界…いや、それ以前に根性の限界があったのでしょう。こういう本は書けず、こういう駄文を書き散らしています(苦笑)。
 今日帰宅後何気なくテレビをつけたら、BSジャパンで「養老孟司の環境スペシャル」をやっていました。養老さんの語る「脳化」「都市化」は、ワタクシの言う「コト化」であり、それはまさに「理性」で全てをコントロールしようとすることです。
 で、養老さんが力説していた「自然」の不随意さ、不可解さが、ワタクシ的には「モノ」の本質的な属性であり、それこそ「理性の限界」の外側の世界であると思います。
 我々は、「脳」で「理性」で「コト」で「モノ」的世界を分節、分析し、抽象して、それを制御する手段を考えることに終始してきました。まあ、そのようにプログラミングされているのでしょう。何かを(疑似的であっても)サブミットすることによって安心を得たり、快感を得たりするようにできている。それはこれまでの人間の進化や歴史のベクトルを見るだけでわかります。
 逆に、我々は自分たちの「限界」について語ることを嫌います。それはモノが怖いからです。いつの時代も物の怪は厭われます。限界の先はいかにしても未知なのです。
 そして、そういう人間の弱さを誤魔化すために(だと思いますが)、人間界では、理性的であること、あるいは知性、知識に優れていることを良しとし、その逆を蔑む空気を作っています。
 しかし、実際はですね、もう誰もがお気付きだと思いますが、本当に理性的になると自らの「理性の限界」を無視できなくなるはずなんですね。本当に理性的なら、自分が理性的でないことがわかる…そうすると、自分は実は理性的でないわけだから、全ての人間は全然理性的でないことになる。理性的を標榜してるヤツは全部ニセモノってことになりますね。さっそくパラドックスですな。
 仏教の世界なんかでは、そんなことは自明のことでして、だから、さっさと「自我」なんてものは捨てるわけです。でも、そういう正しい道に進むのはとっても勇気のいることで、たとえば私なんかも全然そういう勇気がなく、頭だけは丸めてますが、とても出家なんかできません。
 そして、理性の牙城たる学校なんていう、まるで処世術を教えるようなつまらぬ場所で働いて、なんだかよくわからん理性的なるものを振り回して禄を食んでいる。まあ、こういう自責を口先だけでも語れるというのは、多少は理性的である証拠かもしれせまんが…と、つまり、理性について語ると、こうして堂々巡りになるんです。
 で、この本では、私のようにいい加減ではなく、ちゃんと理性的に(!)「理性の限界」について語って…いや語り合ってくれています。そう、この本の面白いところは、シンポジウムの形をとっているということですね。ディベートというか、朝まで生テレビというか、そういう雰囲気で激論を闘わせているので、とっても難しいお話が、自然と多面的に見えてきまして、あんまり…いやいや全然理性的でない私でも、ある程度理解できました。
 とは言っても、やっぱり難しい話です。私なんか、不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理、どれがどれだか、どれが誰が発見したかすら、ごっちゃになっちゃいますもん、今でも。えっと、アロウが「そんなことアロウはずがない」だから、えっとえっと「不可能」で、ハイゼンベルクが「はい、全部ヤマ(berg)勘」だから不確定、ゲーデルが「消化が不完全でゲー出る」で不完全…なんて覚えてるくらいですから(笑)。
 それはいいとして、この仮想シンポジウムの面白いところは、その参加者たちですね。数理経済学者、哲学史家、生理学者、科学社会学者、実験物理学者、カント主義者、論理実証主義者、論理学者、国際政治学者、フランス社会主義者、フランス国粋主義者、心理学者、情報科学者、急進的フェミニスト、映像評論家、ロマン主義者、相補主義者、ロシア資本主義者、方法論的虚無主義者、そして、会社員、運動選手、大学生。
 その最後の一般人(?)数名を除いて、「〜学者」とか「〜主義者」という方々、みんなキャラが立っていて面白い。みんな痛いヤツです。筆者のユーモアを感じますね。いきなり登場して、司会者にしょっちゅう「その話はまた別の機会に…」とか言われてスルーされる方々もいて、読んでいて楽しい。
 つまり、そういう「〜学」「〜主義者」っていう、「理性」を売りにしている人々こそ、「痛い」人たちで、なんか他者を受け付けず、自分の「理性」の世界に閉じこもり、すぐにケンカをしかけちゃう(笑)。逆に、会社員、運動選手、大学生たちは、素直に人の意見を聞き、人に教えを乞い、また正直に分からないものは分からないと言う…。
 実はそのあたりが、筆者の表現したかったことなのではないか、そんな気もしました。それこそ「理性の限界」を示しているのではないか。
 そういう意味でも、読後感はなぜか爽やか、というか痛快であります。自分はまあ会社員みたいなもんですから、ここに登場する会社員の方が、一番謙虚で素直で、ある意味とっても賢く感じるんで、嬉しいんでしょうね。
 結論。「理性」的な人間が集まるとケンカになる。ま、そういうことですな。私も「理性」というお荷物を早く下ろして、のんびり生きたいですね。
 とにかくこれは名著です。久々のヒット。理性的でありたい人も、理性なんて信じない人も、ぜひ御一読を。

PS 左のAmazonの自動広告、すごいことになってますね。特に上から二番目。「友人の妻 巨大爆○輪に負けたオレの理性」って…たしかに「理性の限界」だわ(笑)。そして、なぜかギターを挟んでカントの「純粋理性批判」。そしてまた「理性喪失」(笑)。たしかに機械には理性はないようですが、しかし、ユーモアはある!?

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2009.02.05

『プロレスのために日本テレビを辞めた男』 若林健治 (文苑堂)

90429309 ラスのお変人娘が日芸の放送の一次が通ったということで、二次の指導をしています。寸前までメールにて指導。実は私の一番得意とする受験指導分野です。勝ちに行きます。自分の果たせなかった夢を教え子にリベンジさせてるって感じですな。
 それと並行して、ここ数日寝る前に読んでいたこの本を読了しました。けっこう使えるフレーズがありまして、そのタイミングの良さに感謝。
 それと同時に、なんか80〜90年代初期プロレスの懐かしさと愛おしさに涙が出てきてしまいましたねえ。若林さん、熱いわ。私もそうとうのプロレス好きですけれど、とてもかないませんね。
 まあ内容はですね、タイトルの通り、若林アナの人生を賭してのプロレス愛と、彼ならではの、往年の名レスラーたちのエピソード集といった感じ。活字はデカいし、正直構成も何もあったようなものではないし、誤植も多々あり、本としてはなんだかイマイチなレベルです。それは、なんというか、あの若林さんの計算され尽くした、しかし激情のこもった実況とはずいぶんとかけ離れた感じを与えるものでしたが、まあ、それが逆に素の若林さんの、もうプロレスが好きで好きでたまらなくて、あの話もあの話も、とにかく話したくてしかたない、そういう感じを伝えているとも言えますかね。とにかく、あっちっちです。
 実際、そんな雑駁なトークの中に、貴重なエピソードや裏話、そして、現在のプロレス界や放送界(特にアナウンサー)への核心を突いた苦言がちりばめられ、けっこうお腹いっぱいになりましたよ。ホント、決して高級レストランではないけれど、なんというかアジアン食堂でたらふく喰った感じです。
 奇しくも日本テレビのノア中継が終わるというようなウワサがささやかれる昨今であります。テレビはプロレスへの恩を忘れてしまったのでしょうか。経営的にも、単純な市場経済の原理に呑まれてしまうのでしょうか。そういう世界には、義理や人情、物語は必要ないのでしょうね。さびしい世の中です。
 特に強く心に残ったのは、まあ馬場さんは別格として、天龍の渋さ、深さかなあ。ホント鶴田と対照的ですなあ。いつも書いてるように。私はそんな二人のコントラストが好きなんですけどね。
 あと、やっぱり巻末の名実況集。これはホント涙なしでは読めませんよ。素晴らしい、生きた言葉たちです。言葉は人生を背負う。プロレスは人生を背負う。
 煽りVなんていりませんよ。あんな作り物。生きた言葉がほしい。もちろん、実況もそうです。以前はプロレス中継こそが、若手アナを育てる絶好の場でした。つまり言葉でドラマを作ることを学べる場だったんです。今、名アナウンサーとなった方々の多くは、プロレス中継出身です。最も人間臭く、胡散臭く、物語性があるのが、プロレスという空間です。そんなところで、最も心に残る言葉を残したのが、若林さんでしょうね。徳光さんや倉持さん福澤さんも、そして古舘さんも、それぞれ味があり、私は好きでしたが、やはり、若林さんの思い入れたっぷりの浪花節、これは私の脳裏にしっかり染みついています。演歌だよなあ。プロレス節だよ人生は…っていう感じ。
 で、今回改めて思ったのは、たとえば五七調、大和言葉と漢語の絶妙な配分など、結局伝統的な言葉遣い、文学の系譜そのものだなということです。やはり、放送の世界も文学に帰らなければダメでしょう。金勘定だけではだめです。そう、勘定ではなく感情、市場ではなく私情、金銭ではなく琴線…って誰かのパクリですけど(笑)。
 あとがきにあった、「プロレスは『何度でも立ち上がれる格闘技』」という言葉、本当に至言です。玉言です。私も「人を倒すところ」ではなく、「人が立ち上がる」ところを観たいのです。だから、何度も言うように総合格闘技よりもプロレスなのです。
 来週11日、家族で後楽園ホールの健介オフィス興行を観戦に行きます。若林さん、今年は実況しないのかな。ノアが絡むから難しいかな。いつかぜひお会いして、プロレス愛の言霊を浴びたいですねえ…。
 
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2009.02.04

泣ける歌…『櫻の園』(大村雅朗・松本隆・松田聖子)

315wqgqz3wl_sl500_aa240_ 日の『「泣ける歌」の「泣ける」は可能か自発か』の内容に関して方々で議論が始まっております。いろいろなご指摘もいただきました。ありがとうございます。
 それで私ももう一度考えてみようと思ったのですが、いや、これは考えるより実際体験してみた方が手っ取り早いし、正確だろうと思い、この曲をあらためて聴いてみました。
 そしたら、やっぱり泣けました。そして、それはやっぱり「自発」でしたね。自然に涙が出るのでした。
 ただ、面白いのは、単純に対象がこちらを泣かせるだけでなく、その対象の持つ「物語」に自分も参加していて、それで「泣かされる」ということですね。完全なる受身ではなく、つまり主体が完全に相手にあるんじゃなくて、どこかある意味積極的に自分も参加し、「泣きに行っている」ところがある。そう感じました。
 そして、その場所、その場面が発する「何か」、語られる「モノ」が私たちを突き動かします。実はそこが「自発」の本質ですし、もともとの「る・らる」の本質、そして日本人の心性の一つの本質だと思います。
 「櫻の園」。そう、この曲は、もう涙なしには聴けない物語を持っているのでした。
 この曲は、12年前に46歳の若さで亡くなった、天才編曲家大村雅朗さんの遺作です。聖子さんに歌ってほしいという言葉を残して、彼は旅立った。そして、それを知った友人の天才作詞家松本隆さんが詞をつけて聖子さんがレコーディングしました。
 まずは、こちらでお聴きください。

 ああ…泣ける。やっぱり泣ける。ウルウル…。
 聖子さんと大村さんの関係は本当に特別なものでした。もしかすると芸能界、音楽界の中で、唯一聖子さんが心を開ける人だったかもしれない。何かの番組で、聖子さんは大村さんとの関係を自ら語り、そして彼が作曲した永遠の名曲「SWEET MEMORIES」の楽譜を見て号泣しておりましたね。あれには本当にもらい泣きしましたっけ。
 大村雅朗さんは、聖子さんと同じ福岡の出身。同郷ということもあって、身近に感じたというのもあるでしょうし、なんといっても彼の優しい人柄が聖子さんの心を開かせたのだと思いますね。聖子さんの曲の大部分を編曲し、そういう意味でも「松田聖子」を影で支えていた大村さん。
 いや、80年代アイドル全盛時代、本当にいろいろな作曲家、作詞家、歌手と組んで、音楽界を支えました。すなわち、我々日本人を影で支えていたと言っても、本当に過言ではないくらい、あの曲もあの曲もあの曲も…本当に多くの曲を手がけています。
 私たちは歌謡曲バンドをやっています。基本コピーバンドですので、彼のアレンジに直接触れる機会がとってもたくさんあります。そして、彼の天才的な才能にいつも感動します。なかなか普通の聴き方をされている一般の方には、あるいは名前さえ御存知ない方も多いかもしれませんね。作曲、作詞までは目が行っても、なかなか編曲までは…。でも、そんなところがまた大村雅朗さんらしさなのかもしれません。
 こうした私もある意味そこへ行って参加した「物語」が、私を「泣かせる」んですね。それを「泣ける」と言うべきなのでしょう。だから、やっぱり、ただ待ってるだけじゃダメなんですよ。
 最後に、「泣ける」曲ではありませんが、彼が編曲した隠れた名曲、私は好きすぎてレコードまで買ってしまったのですが、この曲も聴いてみてください。いや、私、当時の思い出がよみがえって「泣ける」かも…。

ときめきトゥナイト

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2009.02.03

「泣ける歌」の「泣ける」は可能か自発か

1 「も知らない泣ける歌(泣け歌)」という、なんとも痛い番組を観ました。正直泣けないし、かと言って笑えもしない。なんでああいうことになっちゃうんでしょうか。
 それは「泣ける歌」という表現自体が不自然だからです。そう、最近「泣ける歌」「泣ける映画」「泣ける小説」など、「泣ける〜」が求められていますね。実はこのように自動詞「泣く」の可能動詞形「泣ける」が名詞を(単独で)修飾する形で用いられはじめたのは、ごく最近のことなんです。
 ま、そんなに詳しく研究したわけではありませんが、ここ10年くらいでしょうかね、耳につくようになってきたのは。
 たとえば、「歌える歌」とか「買える商品」とか、そういう他動詞の可能動詞形は、その目的語を修飾することができたんです。しかし、「泣く」のように、基本自動詞であるものは、そういう用法は不可能でした。
 ですから、本来の「泣ける」の用法は、「(私は)泣けてならない」とか「(彼は)泣けて仕方がなかった」というような形だったわけです。
 で、ここでお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、実は「歌える〜」とか「買える〜」の文法的意味は明らかに「可能」ですが、「泣ける〜」や「笑える〜」は「可能」とは言い切れないんですね。皆さんはどういう感覚で使ったり、聞いたりしていますか?「思わず〜する」という意味の「自発」の感じもありますよね。どちらかというとそっちのニュアンスの方が強いでしょうか。
 「泣けない〜」とか「笑えねぇ」とか、これは不可能でしょうか、それとも自発の打消しでしょうか。けっこう微妙ですよね。
 そう、この微妙さこそ、この言葉たちの本質なんです。
 実は、五段(四段)動詞が下一段化した可能動詞ができたのは、日本語史的に言いますと、けっこう最近のことです。実際の例は中世末から見られるんですけど、一般化し、そして標準語的に認められるようになったのは江戸くらいじゃないでしょうかね。ちゃんと調べたわけではありませんが。
 どのようにして、このような動詞が生まれたのかには諸説ありますが、私はこれらは「連用形+得る」だと考えています。つまり「泣き得る」が縮まって「泣ける」になったということですね。こう判断したのは、私の生まれ故郷、静岡の中部で、「歌ええる」とか「読めえる」とか「食べえる」いう可能表現を耳にしていたからです。これらを過渡的な形と考えたわけですね。
 で、なぜこういう可能動詞ができたのか、これは最近の「ら抜き言葉」問題にも関わります。
 本来、日本語では可能も自発も(+受身と尊敬)も一つの助動詞「る・らる」で表現していました。現代語では「れる・られる」ですね。例えば「食べられる」と言えば、食べることができるという可能の意味もあるし、ライオンに食べられるという受身も、先生が食べられるという尊敬もありますね。そして、故郷が偲ばれるなんて言えば自発です。
 なんで全然違うように見える四つの意味を持っているかというと、実はこれが全然違わないからです。この「る・らる(れる・られる)」には共通した性質があるんですね。それは、「自分の意志ではない」「自分にとっては起きていない」ということです。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、古語で説明しますね。
 本来「可能」は「れず・られず」という不可能の形で用いられていました。それも何かに妨げられてできないというニュアンスが強かった。そして、受身は90%「迷惑」でした。「殺さる」とか「切らる」とか「追はる」とかですね。これも自分の意志に反した状況です。そして、自発は何か感動的なものに接して「泣かる」とか「思はる」とか、明らかに自分の意志ではない。尊敬は自分からとんでもなく離れた遠い世界の人の行為ですから、自分の意志と無関係。
 こんな感じで、全て「自分の意志ではない」「自分にとっては起きていない」という共通点があるんです。で、ついでに言っておくと、「起きていない」から動詞の未然形にくっつきます。
 ただ、こういうふうに一つの助動詞で四つの意味を表すのは、やはり不便な時もありますよね。どれとも取れる時もあるし、勘違いされる時もある。だから、だんだん新しい表現が加わっていったんです。
 その一つが可能動詞。特に、可能の「る・らる」は、本来「れず・られず」という不可能の形でしか使えなかったものですから、単独で可能を表す表現というのが案外難しかったんです。そこに登場したのが「得」という動詞でした。「得」から派生したと思われる「え〜ず」という不可能表現もありましたから(現代でも「えもいわれぬ」とか言いますね)、そのニュアンスを助動詞的に使って「読み得る」のような表現を発明したんじゃないでしょうか。
 で、結果として「読める」などの下一段化した可能動詞が完成したと。それが定着したのち、四段(五段)以外の動詞でも、「〜eru」という語尾で可能動詞を作りたくなって、それで「見れる」とか「食べれる」のようないわゆる「ら抜き言葉」が生まれたと私は考えています。だから、あんまり「ら抜き言葉」を責めたくないんですよね。だったら可能動詞も責めろよって。
 さて、長くなりますが、やっと話の本題に入ります。「泣ける歌」の「泣ける」は可能か自発か?
 これはですね、多分に「自発」の色が濃いと思いますよ。なぜなら、最初に書いたように「泣く」が基本的に自動詞だからです(「〜を泣く」という言い方もないことはないので、他動詞用法もあると言えるんですが、基本は「〜が泣く」です)。ですから、「泣ける人」だったら、なんとなく「泣くことができる人(その人自身が泣くことができる)」という可能の感じがしますが、「泣ける歌」ですと、歌が主語にはなりえませんから(おっと出たな「なりえる」=「なれる」)、「私が思わず泣いてしまう歌」という自発の感じが強くなりますね。
 もちろん、「私自身が泣くことができる歌」という解釈も可能ですが、泣くは自動詞ですので、自分の意志で泣くというよりも、「何かに泣かせられる」「何かが私を泣かせる」の裏返しである「自発」ととらえるのが正解だと思います。
 つまり、可能動詞になっても、「る・らる」の持っていた本来の性質「自分の意志ではない」というニュアンスは残っていたわけです。というか、「泣ける歌」のような自動詞の可能動詞形の連体修飾用法が、せっかく「可能」として分離した可能動詞に、根源的な「自発」の意味を復活させてしまったとも言えますね。
 このへんの事情には、日本人の「他力観」など、実に面白い心性が作用しているので、もっともっといろいろ語れちゃいますが、このへんでやめときます。
 と言いつつ、もっと複雑な話をして、わざと混乱させちゃいますとね、たとえば「立てる」という表現には日本語史的に三つの意味があるんですよ。「立つの已然形+存続の助動詞「り」の連体形」すなわち「立っている」という意味と、「旗を立てる」のような他動詞の「立てる」の意味と、「立つことができる」という可能動詞の意味です。
 「立てる旗」という表現をしますと、古語なら「立っている旗」の意味に、現代語なら「(私が)立てる旗」のように他動詞としてとらえられます。決して「思わず立ってしまうような旗」という「泣ける歌」のような自発的ニュアンスには取れませんね。本来自動詞ではこういうことになるはずなんです。だから、昔の人(おそらく昭和初期生まれの人まで)は、「泣ける歌」と聞くと、「泣いている歌」という意味にとってしまうことでしょう。「眠れる森の美女」とか「眠れる獅子」みたいに。
 面倒くさいでしょ。だから、やっぱりこのへんでやめときます。
 結論。「泣ける歌」の「泣ける」は、たぶん「自発」です。つまり「泣かせる歌」「泣かせてくれる歌」の裏返し表現です(ちなみに「泣かせる」は「泣く」に使役「せる」が付いてできた他動詞です)。たぶんですけど。皆さんはどう思いますか?
 「自発」とは「自分から発する」ではなく「自ずと発する」ということで、主体は他者にあるんですよ。最近の若者は主体性がなくて、自分を動かしてくれる何かを待望しているってことでしょうか。で、それが提供されないと「泣けない」とか「笑えね〜」とか言って不満に思うんでしょ?それもちょっと困ったもんですね。

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2009.02.02

ツンデレ・テレビ 「SEGNITY(セグニティ)」 (イー・レヴォリューション)

2 近になって急に欲しくなったもの。
 いえいえ、勘違いしないでください。決してそういう趣味ではありません…かな?まあ半分ネタであり、そして半分マジです。
 まず最初に、なんで最近になって急になのかということ。このワンセグ・テレビは1年半ほど前に発売され、一部の(おそらく本当に一部の)マニアには評判になった製品なんですが、実はですね、もうすぐ手に入らなくなる可能性があるのです。
 今年に入って、青森を代表する電気機器メーカー「アンデス電気」(八戸市)が、民事再生法を申請したんです。みちのくで頑張る会社の一ファンとして、ひそかに応援していた私としては、とってもショックなことでした。
 実はこのツンデレ・テレビもアンデスさんが製造していまして、それで「やばい!」と思ったんですね。まあ、ちょっと気になっていた女の子が急に引っ越すことになって焦ってるって感じ?…(笑)。
 ま、それは冗談としまして、このテレビはですね、もともとタカラトミーの企画商品だったんです。でも、玩具と言えるかどうかという問題や、製造コスト、そして価格設定などの問題で、一時開発中止になったとか。それで、そのアイデアをイー・レヴォリューションさんとアンデス電気さんが引き継いで、なんとか日の目を見たわけですね。
 ま、そんな事情もありまして、この世界でたった一つ、おそらくは歴史上もたった一つとなるであろう、ツンデレ・テレビが急に欲しくなったのであります。
 マジメな理由というのもあります。ここ数ヶ月、ポータブルなワンセグ・テレビを探していたんです。これは実験のためです。そう、以前ずいぶん書きましたが、ウチは富士山の中腹で標高が高いおかげもあって、東京タワーからの電波を受けることができるんですね。皆さん御存知のとおり、2011年の7月にこの世に革命が起こり、アナログ波は止まってしまいますと、ウチではテレビ東京が(!)見られなくなってしまうんです。そのへんの事情はこちらなんかに書いた通りです。
 で、そろそろ本気でその対策を立てねばと思っていましてね、なんとかワザを駆使して東京波をゲットして、ポケモンをゲットしようと。ポケモンマニアの娘たちのためです…いや、単に自分のマニアックな趣味を満足させるためだというウワサも…。
1 それで、外部アンテナ端子のついた安いツンデレ…じゃなくてワンセグのテレビを探していたんです。フルセグよりもワンセグの方が遠方まで届きますから、まずはそちらでテストしようという魂胆です。
 その時、条件(乾電池仕様も含む)を満たす最安の製品として目に留まったのが「SEGNITY」だったんです。それが年末。そして年明けすぐに「アンデス電気」倒産か!?のニュースが。まあ、そういう流れもあったんですよ。
 ところで、このツンデレ・テレビ、どういうものなのか御存知ない方のために少し紹介しておきます。
 このテレビは音声ガイド(?)付きなんです。つまり操作するたびにしゃべる。ガイドじゃないな。だって操作する前に指示するんじゃないんだから。ま、いいか。それで、どういうことをしゃべるかと言うと、製品を買ってすぐの頃は、ツンツンしてるんです。厳しい言葉を返してくる。態度がデカイ。それが使いこなすうちに、だんだんデレデレしてきて、しまいには甘〜いムードにまでなっちゃうらしい。
 たとえば、チャンネルを変えようとすると、次のような言葉を発するそうです。その変化も含めて紹介します。
「あ、あなたのためにチャンネル変えるんじゃないんだから」「ちょうど飽きたところだから、チャンネル変えていいわ」「どのチャンネルにする~?」「チャンネル、かえるね……」「チャンネル、かえまーす。えいっ」
 ブッ!活字だけでもかなり笑えますな。ほかにも、「テレビでも見る気!?」→「一緒にみよっか~」、「うるさいわね~」→「音おおきくしま~す」なんていう変化もあるらしい。
 ちなみに声の主も本格的です。採用された声優さんはツンデレ界の大御所、釘宮理恵さんです。あと、ホームページからダウンロードすると、別のバージョンも楽しめるらしい。ううむ。なかなか魅力的だ。
 というわけで、今とっても欲しいと思ってるんですけど、こんな買って使ってると、カミさんに何て言われるかわからんし(いや、けっこう面白がるかも)、職場で使ってて、いきなりツン声やデレ声が出たら…いや、最近の生徒は純正ヲタが多いから大盛り上がりになるな、きっと(笑)。買っちゃおうかな。手に入らなくなってから後悔してもなあ。実験もしなくちゃならないしなあ。今なら7000円ほどで買えるし…。

WAKO(旧イー・レヴォリューション)内公式ページ

ビックカメラ

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2009.02.01

『ヘンデル:王宮の花火の音楽/ヴェッキ:シエナの夜祭』 モントリオール・パロック他

Music for the Royal Fireworks, HWV 351
Montreal Baroque/Matthias Maute
Acd22367 NMLのトップページで推薦されていたので、聴いてみました。
 今年没後250年を迎えるヘンデルの代表曲の一つ「王宮の花火の音楽」。その初演当時の編成を再現した演奏です。すなわち、次のような管楽器&打楽器編成ということです。
 オーボエ24、ファゴット12、ホルン9、トランペット9、ティンパニ3。
 古楽器でのこのような編成の録音は、ピノックやゼフィロによるものなど数枚あったと思います。
 あと、いわゆる吹奏楽版というのは腐るほどありますし、実はワタクシめも二十年ほと前にある大編成吹奏楽バンドでこの曲と水上の音楽の指揮をしました。ありゃあひどい演奏だったな(笑)。後にも先にも指揮というものでステージに上がったのはあの時だけですな。あれでトラウマになっちゃった。
 おっと、そんな話はいいとして、いやいや待てよ、やっぱりあの経験からいわゆる吹奏楽の世界が嫌いになっちゃったんだよなあ…。で、数十年経って、ようやく最近金管楽器トラウマから解放されつつあります。
 そう、ここ数年、金管楽器を含む大きなオリジナル楽器オケで弾く機会が増えまして、やっぱりあのトランペットやトロンボーン群がパーンと鳴った時の、ゾクッとするあの感動はたまりませんね。演奏していても毎度鳥肌が立つんですよね。
 特にヘンデルはそのへんをしっかり解っていて、金管楽器の扱いがうまいと感じます。おいしい所をおさえてくる。なんかとっても感覚的な表現ですけれど、とにかく演奏していて楽しいんですよ。最近で言えば、水上の音楽やメサイアをやりましたが、金管楽器の入るタイミングといい、パッセージといい、絶妙ですね。ある意味職人的な作曲だと思うわけです。
 ああいう、演奏者のゾクゾクっとする感覚って、たぶん聴衆にも伝わってると思うんですよね。その点、バッハは辛いんだよなあ…。その辛さもちゃんとお客さんに伝わってるかな(笑)。あっ、マニフィカトはけっうこ良かったな。調性がちょっといやでしたが。
Mei0508hanabi21 それでこの演奏ですが、さすがに迫力ありますね。もちろん、生で、それも野外で花火と一緒に聴いているわけではありませんから、ホンモノの迫力ではありませんが、録音からもそのエネルギーは想像されますね。
 けっこうテンポも速めでして、どうでしょう、野外だったらこうも行かなかったかもしれませんが、しかし、野外はある意味残響がありませんから、案外速めのテンポで攻めたかもしれませんね。
 このバンドはカナダの団体です。最近カナダのオリジナル楽器演奏、よく耳にしますが、なかなかいいですね。やはり、イギリスとフランス、双方の伝統が自然に融合している国ですから、ある意味有利かもしれませんね。
 考えてみると、この「王宮の花火の音楽」は、ちょうど260年前の4月、オーストリア継承戦争の終結を祝う祝賀行事の中で演奏されたんですよね。オーストリア継承戦争と言えば、イギリスとフランスが中心になってやりあったんじゃなかったかな。で、たしかカナダでもイギリス人とフランス人がケンカしたとか。うむ、それがこうして今、カナダでイギリス系とフランス系のカナダ人たちを中心に演奏されるというのは、なかなか面白いですね。それにしても、よくこんなにたくさん管楽器奏者を集めたな。バロック・オーボエ24人集めるのはけっこう大変そう。いや、ファゴット12人の方が大変かな。
 ちなみにカップリングのヴェッキはずいぶんと年代も遡りますし、どうして一緒に収録されているのかよく分かりません。いちおう「夜祭」だからでしょうかね。それにしても、全然雰囲気が違って、ちょっと続けて聴くのには抵抗があります。不思議なセンスだよなあ…。ピノック盤やゼフィロ盤のように、他のヘンデルの作品を入れるのが常套だと思うんですけど。

NMLで聴く

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