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2009.01.12

『小津安二郎日記 無常とたわむれた巨匠』 都築政昭 (講談社)

06206239 夫婦のところから荷物が送られてきまして、なぜか猪木の闘魂タオルなどに混じって、小津本が何冊か入っておりました。そのうちの1冊。さっそく読んでみました。
 他人の日記を読むというのは、ちょっと罪悪感があると同時に、その覗き見感がたまらなく面白いものです。特に表現者として有名な方々のそれは、その作品として表現されたものとのギャップが必ずあり、そこが面白かったり、ショックだったり、あるいは意外だったりして、興味を引かれたり、ああ見なきゃよかったと思わせられたりする。
 今までも何人かの表現者の日記本を紹介してきたと思います。そんな中で、この小津安二郎日記はまた、心にしみるものとなりました。
 小津の日記は、小さな手帳に小さな字でぎっしり書かれています。それはもちろん人に見せる、あるいはのちに人に見られるといった意識のもとに書かれたものではなく、本当に淡々と日々の出来事、雑感をメモしたもので、そこに実用上(仕事上)の必要性や便宜性も感じられませんし、自らの思索を深めるための一種の訓練であるとも思われません。単に習慣としてのメモでしょう。
 こういうメモすること自体を目的化している、いわゆるメモ魔は、身近にもけっこういます。私の父親もそうですね。ちなみに私はその対極にある人間で、いかにメモしないで生きるかを目的化しています(笑)。このブログは毎日日記のように書いていますが、これは全くメモ的な性格はありません。
 メモというのは、思いついたこと、目に入ったことなど、いわゆる「コト」の散逸を避けるために記録する性質のものだと思いますが、私のこの記述(記録ではない)は、記述することによって、「コト」を生む作業であります。つまり、自分でも認知していなかった「モノ」を、書くという行為で「コト」化する、すなわち「物語」行為です。つまり、書きはじめる瞬間は何も考えていないし、何の構想もないんですよ。今日もそうです。
 まあ、そんな自分の話はどうでもいいや。小津の日記です。小津の日記は本当にメモといった感じですね。ある意味他愛もないことが淡々と書かれている。風呂に入っただの、昼寝しただの、酒を呑んだだの、誰と会っただの。それは都築さんが書いているとおり、基本的に自分の最も幸福だと思われる瞬間を抽出しているようにも思われます。
 しかし、時々、突然暗い調子で、世の無常を嘆いたり、自らのそうした日常をつまらながったり、自己嫌悪に陥ったりするんですね。それが本当に暗い閃光のようにこちらの胸に突き刺さるんですよね。孤独に耐えられなくなっている感じがする。それは誰しもにある恐怖の瞬間ですから、私たちはおそらく皆、そんな小津の弱々しい姿に、驚くとともについつい共感してしまうのではないでしょうか。
 そんな素の小津と、私が感じてきた小津作品の創造者としての小津とのギャップは、なかなか埋まりません。おそらく小津は、そうしたプライベートな自分と、パブリックな作品とをしっかり分ける才能を持っていたんだと思います。いや、映画という芸術自身が、共同作業を旨とするものなので、比較的個人性を避け得るのかもしれません。いやいや、小津がこだわった自らの映画文法こそ、抽象化された小津自身の孤独な姿だったのかもしれませんね。
 この本は、日記を年代順に並べて抽出しながら、別の記録からわかるその時々の小津の活動、生活ぶりを併記し、解説を加えたものですから、小津の人生や作品、そして時代背景などを復習するにはなかなか便利な本だと思います。もちろん、私の知らない情報もたくさんありました。
 中でも注目して読んだのは、今の自分と同じ年齢の時期の日記です。その頃、小津は映画を「男一生の仕事」と決しながら、しかしいろいろと迷っています。そして、作品としては「あまりいい失敗作ではなかった」『風の中の牝鶏』を作ってしまいます。たしかにあの作品はあまりに異質な感じがしますね(私は嫌いではありませんが)。
 なんとなく私は、こんな小津を知って少し安心してしまいました。私も今の仕事を一生の仕事として考えていますし、いやもう逃げられないという覚悟とでもいうのでしょうか、そういう諦めとも言える境地になっていると同時に、相変わらずフラフラと迷って失敗を繰り返しています。ですから、尊敬する小津安二郎先生も、自分と同じ年齢の頃、こんな感じだったと知って安堵したわけです。
 しかし、一方で、その後の小津の芸術的完成と商業的成功を見るに、自分はこれからこういうふうに高まっていけるのか、ちょっと不安にもなりましたね(というか、小津と自分を一緒にするな!と自分で突っ込んでるんですが…笑)。
 小津の日記に底流する「無常観」「ものの哀れ(もののあはれ)」は、やはり孤独が生んだものだったのでしょうか。作品では、何度も夫になり、父親になり、何度も娘を嫁に出した小津ですが、実生活では生涯独身でした。私には、小津は「無常とたわむれた」とは思えません。「無常」と「もののあはれ」と「孤独」に常にさいなまれ、それと格闘して、いや、そこから逃避して、自らの理想を自らの文法で固定する作品という「コト」を為した(すなわちシゴトをした)のが、小津安二郎だったのかもしれません。

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コメント

前略 薀恥庵御亭主 様
独身で一生を・・・
御過ごしであられましたから
何事も・・・
哲学的に深く考察なされた
のだと感じております。
人格者は違います。
とても御母上様を大切に
なさっておられましたし・・・。
愚僧など・・・
親不孝者の上に・・・
家族持ちの無信心者ですから
常日頃から・・・何も
深く絞殺× 考察◎致しておりません。笑
しかし④×「死」◎は哲学の親と申します。
無常を感じることはとても大切です。
愚僧など・・・・
「死ぬのは いつも他人ばかりだなぁぁぁ」
などとほざいている馬鹿者です。
少しは自分自身の内面に・・・
眼を向けたいとモー歳×猛省◎
致しております。 合唱おじさん

投稿: 合唱おじさん | 2009.01.13 09:48

合唱おじさんさま、こんばんは。
いつもありがとうございます。
小津さんは本当にお母様を大切にされましたね。
まず自分よりも他者の「無常」に思いを馳せるのは、
これはとても大切なことかもしれません。
私も自分のことはいつも棚上げ状態です。
たまには棚卸ししないといけませんが、
しかしまた、そんなヒマもないほど外に目を向けているのもいいかもしれませんね。
そのうち自他不二の境地になるかも!?

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.01.13 17:58

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