『病める舞姫』 土方巽 (白水社)
またまた続きです。意図せずそうなっていきますね。というか、視点がそういうふうになっているんで、何に接しても同じように見えるのでしょう。
文明に対する文化の抵抗。まさに土方巽はその象徴的存在でした。いや、いまだにそういう存在でしょう。
彼の文章がまた、見事に「もののけ」してるんですよね。憎いくらいです。これはなかなか真似できない。「コトノハ」をして「モノノケ」ならしめるんですから。一見文明の利器を使っているようで、そこから生まれるものは実は文化そのもの。まあ、不謹慎かもしれませんが、旅客機を使って摩天楼を灰燼に帰すようなものですね。
しかし、この言語以前の言語はなんなんだろう。御存知ない方のために、本当にパッとめくったところを引用してみましょうか。
『夏の畳の上や縁側で寝て起きた人は、使いものにならないように背たけの伸びた人になっていたのか、くるりくるりと裏返る小さな黄ばんだ手や、涎を啜らせる夏風が、人の顔に触ったりしていた。ふと目を転ずると、汗をかいていた花がただの色になりかかったりしていた。女におおっぴらに畳の上に引っくり返って寝られてしまうと、ああもう御仕舞いだという真から恐ろしい昼間が忘れられない。黒い足形をつけた、あの下駄が懐かしい。私はよく万力に指を挟まれて血豆を作っていた。そうした夏座敷を大人が妙におとなしい踵をつけて歩いていることもあった。目も鼻も眉もずれてしまった人や、眼鏡の蔓が溶けかかっている人が私の夏休みの記憶の中に鮮やかに浮かんでくる。鏡を足で押しながら私には、土間の片隅で言うこともなくなった人のように卵の値段を聞き出している声も聞こえてくるのだ。何の話をしていたのか、妙な湿り気を残して大人が消えていくのをよく見かけた。声を売りに歩いている人が近づいて来る。まるで絵のようにしか話せないが、風鈴も彼岸でひとつ現世でひとつと、音を使い分けてちりんちりんと鳴っていた。そんな音の透間に挟まれたように薄く寝ている人の表情は、僅かばかりある空気の隙間にも挟まっているようだった。炎天下を犬も隙間のように歩いている』
どうでしょうか。これでも結構イメージしやすい部分ですね、ここは。いったいどのような創造のプロセスを経てこのような詩的表現が生まれるのでしょうか。これはもう、近代的、文明的な意味など一切拒絶する、真に原始的な表象世界ですね。
文法的には実に正しいし、文明的なルールから外れることはないんです。だからこそ恐ろしいテロ行為になりうる。
あの、機械翻訳による奇っ怪な日本語とは本質を異にしていますね。ふつう、こういうナンセンスな…あえてナンセンスと言いますが…文章を意図的に(文明的に)書こうとするとですね、もっと単純な「○○が○○した」という文章になりやすいものです。
しかし、土方のこの文章の特徴は、豊かな形容や比喩にあるわけでして、つまり、主語や述語の○○が出てくるまで、淀みなくイメージの連鎖が書きつづられるんですよね。これはもう、ある種の意図や創作を超えています。明らかにアプリオリな心象というものが存在するとしか思えません。
私は、その、本来私たちは言葉にできない、つまり文明的な道具では表現しきれない「モノ」こそが、「文化」だと思うわけです。
そういう意味で興味深いのは、この土方の文章(心象風景のスケッチ)を読んで(見て、聞いて、感じて)、より彼の中に存する「モノ」に近づくことができるのは、ウチのカミさんなんですよね。そう、同じ郷土に生まれ、ある意味あの土地の(まるで飯詰のような)呪縛から逃れられない者どうしの共感というか共鳴というか。
一方、ある程度土方と同時代を生きたとはいえ、ずいぶんと違う環境(高度成長期の東京)で「ものごころ」を付けてしまった私は、彼との間に確かな紐帯を持ち得ないんです。残念ながら、私と土方をつなげるモノ、いやコトは、文明的な日本語、いやさらに進んで標準語(共通語)という利器しかない。
異文化理解などときれいごとを言ったところで、どうにもならない。理解しきれないから異文化なのだと、いつも私は言っています。それはこういうことなんです。異文化理解という、ある意味無意味で(笑)、かなり暴力的な発想こそが、文明的な偽善のようにも思えてきますね。
昨日の本の中で、小林さんは、文化の相対化ということについても語っていました。それはわかります。お互いの違いを理解し尊重するということですね。でも、実際、私はこうして同じ日本で、同じ時代の空気を吸ったはずの一人の男の文化すら理解できない。違いがあることは理解できますが、違いは理解できない。そして、尊重なんていう高慢な接し方もできません。
ただ、ただ、私はこの「モノ」に畏怖を感じます。単純な憧れや、ものすごい遠くの記憶に対する郷愁も感じないとは言いませんが、しかし、それ以前に正直怖い。自分が信用し、駆使しているはずの日本語が、どうしてここまでおどろおどろしく、なまめかしく、そうエロチックにもだえるのか。自分が操っていた、すなわちコト化して馴致していたはずのコトノハが、私の知らないところで成長して、私のコントロールし得ない生き物になっている。これは本当に恐ろしいことです。
私がアメリカなら、いろいろな文明的武器を使って、この生き物を攻撃するでしょうね。抹殺するでしょう。あるいは完全無視をきめこむでしょう。しかし、私はどうしてもこの生き物と対峙していたいと、強く思ってしまうのです。あわよくば白旗を揚げてもいいとも思っています。
この感覚は、土方の舞踏そのものにも言えることです。我々が歴史上、あるいは生物進化上一生懸命に飼い馴らしてきたはずの「身体」が、勝手に蠢き出す。文明的な形式や美学や科学的トレーニングなどを、いとも簡単にぶっ壊して、体は体でありながら、しかし自分の体ではない状態。意識という「コト」を上回る身体という「モノ」の意志が、そこに生き生きと息づいているのです。
私と土方巽との出会い(再会と言っていいのでしょうか)は、ちょうど1年ほど前のことになります。それはそれはあまりに突然の彼の出来でした。それからと言うもの、土方の魂は、それこそ意識や身体の存在すら超えて、私を翻弄し続けています。
これはもしかすると、私の文明的な胡散臭さに対する、土方からの攻撃なのかもしれません。土方こそ胡散臭い存在だと思っているふしもあった私は、今その胡散臭さと思われていたモノからのすさまじい攻撃を受けて、自らの胡散臭さを露呈され、そして降参寸前の状態にまで追いつめられているのでした。
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