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2009.01.04

『不安な時代、そして文明の衰退』 小林道憲 (NHKブックス)

2 、合宿中です。いちおうセンター2週間前の仕上げの合宿のはずなんですが、ウチのギャルども、なんだかよく喰うし笑うし卓球で盛り上がるし、とても受験生とは思えませんね(笑)。さすがです。こういう調子なら大丈夫でしょう。もちろん勉強するときはものすごい集中力です。こういうふうにけじめのついている時は、いい結果が出るものです。
 さて、私はと言いますと、こんな本を読んでみました。また昨日の続きのような話になってしまいます。どうも今年は正月からそういう流れがありますね。今年のテーマはこれなのかもしれません。
 しかしずいぶんと暗いタイトルですね。これが書かれたのが、2001年。あの同時多発テロがあった直後です。いったい21世紀はどんな歴史が紡がれるのか、たしかにあの頃はちょっと悲観的な空気が流れていましたっけ。
 それで私たちはその答というか、とりあえず起きてしまったことの説明を求めて、いろいろな言葉を発しましたね。一番わかりやすく、私も当座それで満足したのが、いわゆるキリスト教文明とイスラム教文明の対立という構図でした。
 今となっては、それはあまりに短絡的で単純化された答だったわけですが、しかし、たしかにあの時は「不安」の中で「安心」を得るということがまず第一に必要なことでしたので、それは十分に意味のあるものでした。
 いつも言うとおり、我々は自分の外部にある「モノ」を、内部に「コト」として取り込みたいという願望、本能を持っています。「モノ」は言わば「もののけ」、つまり未知や不随意を表す語です。「コト」は既知や随意を表します。
 私たちはあの「モノすごい」光景に意味を与え、「こういうコトがあった」というふうに納得したかったんですね。そして、今あれからずいぶんと時間が経って、ある程度固定化された歴史的な出来事になりつつあります。
 で、小林さんはあの頃、ああいう言説が呪文のように唱えられていたその時に、このように言っています。
「〈文明の衝突〉として理解してしまうと、事態を見誤ってしまうであろう」
 つまり、ハンチントンの考え方を、文明と文化、文明と政治の区別を無視した粗雑なものとして退けているのです。
 私も基本的には小林さんの意見に同意したいと思っています。ですから、細かい点についてはそれこそこの本を読んでいただければいいと思いますし、感想などはいつものように他の優れたレビューにおまかせするといたしましょう。
 せっかくですから、私は私だけが語れることを語りますね(それこそいつものことですけど)。
 私の捉える文化と文明の違いについてです。私はそこは実にシンプルに分別しているんです。
 文化はculture、文明はcivilization…そう書くと、なんだよくある話じゃないか、cultureは耕すことで、civilizationは市民化・秩序化だろ、と言われると思いますが、実は、その通りです(笑)。
 ただ、私はそれを両方とも人間の営為と捉えるのではなく、自然と人間という対立として見ているのです。そう、「モノ・コト論」的発想ですよ。えっ?文化こそ人間の活動じゃないかって?
 そうなんです。なにしろ文化活動とも言いますし、だいいちが人間は文化的な動物だと定義されますし、憲法でも文化的に生きることを保証されていますよね。
 ところが、ちょっと発想を変えてみるんですね。そうすると、実は文化というのは人間が主体じゃないということがわかるんです。あくまで人間は耕し手、あるいはメディアなんです。
 どういうことかと申しますと、そうですねえ、例えば文化の代表格である、衣食住なんかで考えるとわかりやすいかもしれない。衣も食も住も、みんな自然環境の特徴、その土地のアイデンティティーみたいなものが、人間の生活を媒体として現れたものじゃないですか。つまり、文化とは自然の一形態に過ぎないと考えているんです。
 では一方の文明はどうかといいますと、これは人間が、人間や自然を自らの思い通りに、自らの統治がしやすいように、形式化、秩序化、システム化することです。すなわち、こちらは人工であり、人為であるわけですね。
 ですから、この本でも、あるいはどこでも言われていることですが、世界中がアメリカ化するということは、それはまさに文明化だと思うんです。その土地の食材を無視してマクドナルドがあることを考えればよく分かりますよね。
 ですから、実は例の同時多発テロについては、私の意見はちょっと小林さんのそれと似て非なるものかもしれません。小林さんはアメリカの一極支配に対するイスラム原理主義側の反抗だとして、やはり画一化しようとする文明に対してローカルな文化が食いついたというような感じで論じています。ワタクシ的な観点からしますと、人間(コト)に対する自然(モノ)の反抗だとも言えるんですね。
 ある意味これは極論というか、暴論にも聞こえるかもしれません。しかし、世界中のほとんど全ての人が、そうした世界のアメリカ文明化には違和感を覚えているわけで、その違和感の出所というのは、これはその土地土地の生活(衣食住、言語、芸術ほか)感であることは間違いないと思うんです。つまり、我々はそうした土地土地の自然風土の叫びを、自らをメディアとして表現しようとしているわけですね。その表現方法…倫理的に正しいかどうかは別として…の一つがあのテロ行為だったと思います。そして、それに対抗したアメリカの報復戦争はもちろん文明(人間・コト)の表現であったと。
 お分かりになりましたでしょうか。私は私たちが自ら創造していると思っている「文化」というものは、まさしく自然に属する「モノ」であって、決して「コト」ではないと考えています。
 ただ、宗教は文化か文明かという問題。これは難しいですね。自然風土が宗教の生みの親ではありますが、あるところから人間の脳内でのフィクション部分が増えていって、文明的な普遍性、一様性を追求しがちですからね。そうすると、今回のテロや、その他の宗教戦争は「文明vs文明」「人間vs人間」とも言えなくもない…。もうちょっと考えてみます。

Amazon 不安な時代、そして文明の衰退

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