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2009.01.31

「二重スリット実験」に思う

 しい時に限って、どうでもいいことを考えてしまうものです。でも、その「どうでもいいこと」が、案外「重要」なことであったりして、そんなところにも、その時点での「どうでもよさ」と、その時点に縛られない「重要さ」が両立するというか、両者が共存するのが分かります。
 量子論では、そういう相矛盾する二つの何かが共存するのが普通でして、だからこそ我々の経験的知性は混乱をきたし、また、それが新鮮な刺激として受け取られるんですけどね。
 で、そういう非日常的な刺激(それはとっても危険で不道徳で、だからこそ漫画的、文学的なんですが)の最も分かりやすい例が、この「二重スリット実験」の結果ではないでしょうか。比較的シンプルで、俗人にも日常的に理解できる実験方法でありながら、奇術的な結果が出るので、それで人気があるのでしょう。何かで「世界一美しい実験」に選ばれたとか。
 まずは、上のYouTubeの動画を再生してみてください。なかなか分かりやすい映像ですよ。
 …どうでしたか?なんとも不思議なことが起きてますね。まず、この実験が本当にこのように行われて、このような結果が出たのか、これは自分でやったわけではないので信じるしかない。電子なんていうものもこの目で見たことないし、それを1発ずつ発射するなんて、それこそマンガかゲームの世界のような気がしますが、そこにつっこみを入れると、もう話が進まなくなるので、ここではそういう欲求は我慢しましょう。
 で、この実験で分かることは、電子は、同時に粒子であり波であるということと、観測すると観測者を意識したようなふるまいをするということですね。もうこの二つだけでも、経験知は混乱します。
 私はこの実験の話を知った時、ああこれはお釈迦さまの教えそのものだな、と思いました。その後実際いろいろな立派な方々がそういう解釈のしかたで、ある種の安心を私たちに与えてくれましたが、考えてみれば、それは根本的解決には全くなっていない。方便としては価値はありますが、それが「科学」や「科学を信じる私たち」を本当に救ってくれているかというと、そうでもないですよね。
 最近の私、というか、今日の忙しい私は、これをどう解釈したかというとですね、やっぱり忙しいからか、ある種の投げやり的態度とでも言いましょうか、とにかくこれは私たちの「言葉」が悪いのだと思ったんですね。
 「粒子」とか「波」とか「観測」とか「観測者」とか、それらは確かに経験知的なイメージを持った言葉です。私たちはその、「言葉」が喚起するイメージで、ある事象を解釈しようとしているわけですよね。なんかその時点で、もうすでに間違っているのではないか…と思ってしまったんですよ。
 つまり、私の言語観からしますと、「電子」や「観測者(正確にいうと観測した誰それ)」は言語以前に存在しているけれど、「粒子」や「波」や「観測」は、言語によって生まれた概念であって、それらを全て同列で文章化する…すなわち因果関係をリニアに並べるのは、これは根本的に無理があるのではないかと。
 だから、あえて言うなら、「電子は粒子でも波でもない。電子は電子である。これでいいのだ!」ということになりましょうか。
 そんなこと言ったら、私たちの文脈化されている全ての営為は否定されてしまうし、この駄文にも何の意味もないことになってしまう。いや、実際そうなのかもしれなくて、かの科学的実験とやらも、実はそういうレベルの問題なのではないかという、なんともやるせない究極的に虚無的な結論に至ってしまったわけです(笑)。
 ま、つまり、正直に言ってしまうと、電子があろうとなかろうと、電子が粒だろうが波だろうが、きれいな干渉縞で出ようが出まいが、あんまり自分の人生や日常の生活には関係ないということでしょうか。というか、ほとんどの人々にとって、実はそうなのではないでしょうか。
 量子論を語る際、必ず登場するもう一つの実験がありますね。そう「シュレーディンガーの猫」です。あの実験については、何の罪とがもない猫ちゃんを箱に閉じこめて、そこに青酸カリ入りの瓶を忍ばせるという、その実験のやり方自体、人道(愛猫道)に反しているので、私は問題にしたくありません(笑)。いや、案外そういう不自然で不道徳な実験だからこそ、「半死半生の猫」というワケのわからん化け猫が生じるのかもしれませんね。
 いやはや、結局、「コト」によっては「モノ」を説明できないということですよ。しかし、ある意味「コト」を窮めると再び「モノ」に帰るということで、私がいつもの「モノ・コト論」になっちゃうわけですね。
 さ、現実に帰って仕事(シゴト)しよう。「コト」を為して「モノ」に帰る。これが人生の修行であります。

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2009.01.30

「レスリングはダンスだ!」by 人類最強の男

顔が怖い…
B 類最強の男アレクサンダー・カレリン氏が来日し、昨日ナショナルトレーニングセンターにてレスリング教室を開催したとのこと。
 カレリンと言えば、男子グレコローマン130kg級で1988年ソウル五輪から五輪3連覇し、世界選手権を合わせると世界一に12度輝いた男。そして、前田日明に引導を渡した男。
 ちょうど10年前の、あの前田の引退試合、当時テレビで観ましたが、カレリン、本当に強かった。前田は何もできなかった。面白いように投げ飛ばされ、バックを取られ、どんどんスタミナを奪われていく…。
 YouTubeで観てみますか。

前田vsカレリン

 アナウンサーは「ものすごいパワー」と言っていますが、これは単にパワーだけではありませんね。逆に無駄な力を使わず相手をコントロールしています。
 今回のレスリング教室で、その点を実にわかりやすく表現してくれています。次の言葉です。

「レスリングは、美しくハーモニーのとれたダンスだ。ただ、2人でやるダンスではない。1人でやる(動きを決める)ダンスでなければならない」

 これは実に深い言葉ですね。前田が面白いように投げられ、ひっくり返されているのをよく見直してみますと、たしかに華麗なダンスをしているようにも見えますね。力と力のぶつかり合いではなく、アンサンブルになっています。相手を思い通りに動かす。相手の動きを自分の動きに添わせる。これぞ、本来の格闘技、武道の奥義ですよね。だから、動き全体が美しく見えます。能や歌舞伎のようでもあります。
 私は格闘技はやりませんが、音楽のアンサンブルで、まったく同じことをよく経験します。優れた演奏家の方と一緒にやらせていただくと、まさに前田になっちゃうんですよね。気持ちいいですよ(笑)。
 最近の打撃優勢の総合格闘技なんて、まったく汚いばかり。もっともっと美しい試合を見せていただきたいものです。一方のプロレスの世界でも、なかなか美しい技が見られなくなってしまいました。
 そうそう、ジャンボ鶴田がジャイアント馬場をリフトして投げた、あのシーンも美しいですね。カレリン・リフトもすごいけれど、このツルタ・リフトもすごいなあ。

ジャンボ鶴田vsジャイアント馬場

Hatta2 ところで、今回のカレリン来日の模様を伝えた日本レスリング協会の公式ホームページ、これが実にいい味を出している。そう、このレスリング協会のページは、もともとマニアック。そして、なんとなく「行ってる」感があって、時々チェックしてるんです。アマレスの情報だけでなく、アマレス出身のプロレスラーや総合格闘家の試合結果なども載ってたりする。こうして、アマとプロが連携している世界というのもなかなかないですからね。これは「八田イズム」ですね。八田一朗さんはマスコミを味方にして、レスリング人気を盛り上げ、底辺を拡げる戦略をとりました。また、仕事としての、プロスポーツとしての、まあ就職先とも言えますが、そういう道を作った方です。
 この写真は、公式にある写真ですけど、もうお分かりの通り、八田さんの両脇にいるのは、ジャンボ鶴田とザ・デストロイヤーですね。

ps 美しいダンスの体現者の一人、柔術の始祖エリオ・グレイシー翁が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。

日本レスリング協会公式ホームページ

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2009.01.29

『レッツゴーヤング〜今夜もフレッシュ〜 (85.1.13)』(NHK BS2 蔵出し劇場)

1 週も懐かしい「レッツゴーヤング」について。1日おくれですが、報告します。
 昨日の放送は1985年1月13日分。番組表によると次のような内容となっています。

【出演】太川陽介、石川ひとみ、サンデーズ、吉川晃司、柏原芳恵、石川秀美、THE GOOD-BYE、工藤夕貴、松本友里 ほか 【曲目】「モニカ」「悪戯ナイトドール」「HEY ミスター・ポリスマン」「野生時代」「ボーイ・キラー」「恋はじめまして」「Don’t Make  Me Blue」「ピンクの花粉」ほか【収録】東京・NHKホール

 やはり、注目すべきは吉川晃司さんと岡田有希子さんでしょうね。
 吉川晃司さんは「モニカ」と「ダンスで夏を抱きしめて」、岡田有希子さんは「恋はじめまして」を披露しました。
 このお二人、今考えますと、なかなか微妙な関係であります。前年の年末、二人は多くの新人賞を獲得しました。日本歌謡大賞優秀放送音楽新人賞はお二人で分け合っていますが、日本レコード大賞最優秀新人賞とFNS歌謡祭の最優秀新人賞は岡田さんの受賞となり、吉川さんは選から漏れました。
 比較的地味で、楽曲の売り上げもそれほどではなかった岡田有希子さんが受賞し、女性から圧倒的な人気のあったナベプロ期待の吉川晃司さんが落選したことで、いろいろと物議を醸しました。プロダクションの裏工作も噂されましたし、なんといっても吉川晃司ファンの女性たちの、岡田さんに対する敵意はすさまじいものがあったとか。
2 この番組にも、当然吉川ファンの多くの女性が悲鳴を上げていましたが、岡田さんが登場した時には微妙な空気になっていたと感じたのは私だけでしょうか。私だけか(笑)。まあ、吉川さんは2曲披露しましたから、腐女子たちの魂は鎮められたかな。
 ご存知のように、86年4月、岡田有希子さんは自殺しました。ショッキングな事件でしたね。私もよく覚えています。で、彼女の葬儀の時、舘ひろしさんと吉川晃司さんがサングラスをしたまま参列したということで、これもまたいろいろと物議を醸しましたね。
 岡田さんの死については、本当に謎が多く、今でもある意味伝説化してしまっています。金庫に保管されているという遺書は、永遠に公表されないのでしょうか。
 そうそう、もう一つ。吉川晃司さんと言えば、この85年の年末、紅白歌合戦に初出場し、酒を飲みながら登場、ステージを酒びたしにし、他の出演者にも多大な迷惑をかけました。そのため、その後しばらくNHKには出入り禁止になったんですよね。
 それがねえ、まったく時間というのはすごい力を持っていますね。今年の大河ドラマ「天地人」において織田信長を演じているわけですからねえ。面白いですね。

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2009.01.28

『エスペラント −異端の言語』 田中克彦 (岩波新書)

00431077 が人工国際語エスペラントに興味を持ったのは、やはり出口王仁三郎を知ってからです。彼は世界の平和的統合の手段として、みろくの世実現の方法の一つとして、この世界共通語に目をつけたのでしょう。
 面白いことに王仁三郎を「onisavulo」と表記しますと、oni=世の人々、sav=救う、ulo=人ということで、「救世主」と読める。まあ、半分こじつけですが、ちょっと面白い符合ですね。で、オニさんは自らエスペラントの普及に努めまして、実に彼らしい「記憶便法 英西米蘭統作歌集」などというものを作っています。
 たとえば、エスペラントでは「花」のことを「floro(フローロ)」と言います。それを暗記するために次のような語呂合わせの和歌を作っています。

 何時までも花の姿を保つ人を不老々とてオーニー羨む

 オーニーとは先ほど出た「oni」つまり世人です。もしかすると自分のことをかけているのかもしれませんね。こんな感じの駄洒落的和歌を大量に作っているんですね。本当に彼らしい。
 この本にも、そんな王仁三郎の、あるいは大本のエスペラントとの関わりについての記述があります。田中さんも強い関心を抱いて、最近の大本のエスペラント活動の一つ、モンゴルにエスペラントで教育する小学校を作ったという、その新聞記事を日本エスペラント学会に送ったとあります。しかし、結局無視されたと。学会が特定の宗教と結びつきたくないのだろうと考察しています。まあ、エスペラントの日本史的な事実からすると、その通りでしょうね。
 そういう部分がエスペラントの難しいところでしょかね。田中さんもこの本の中で繰り返していますが、「言語」「ことば」は、人と人をつなぐものであると同時に、人と人を隔絶するものでもあるわけです。私たちも経験上その両方をよく知っているはずですね。もちろん世界史を見てもよくわかります。
 そう、この本では、あえて「異端の言語」「人工語」であるエスペラントを通じて、そういう「言語」「ことば」一般の性質を暴露しようとしているわけですね。私もそういう意味でこの本からいろいろなことを学びました。
 もちろん、エスペラント自体の魅力も体感できます。英語やドイツ語の勉強に苦しんだ私としては、やはり、ああやって機械的に過去形が作れたり、疑問形が作れたり、反対語が作れたり、あるいは母音が基本日本語の「アイウエオ」でよかったり、LとRの区別がなくLに統一されていたりするというだけで、どれほど親しみやすく思えることか。
 ある意味そういう機械的であり、デジタル的であり、土着的でないところが、まあ人間的でないということで、異端視されたり、いろいろと非難されるんでしょうね。しかし、考えてみれば、こういうグローバルな時代、そしてユニバーサルな時代として考えれば、地球語というのも一つの宇宙全体の言語のローカルな形とも言えましょうか。もしかすると宇宙語の一方言かもしれないし、いや、それ以前に宇宙人語のクレオールかもしれない(笑)。あるいは宇宙人の地球での商業活動におけるピジンとか(笑)。
 ま、それは冗談としまして、先ほど書いたように、言語の二面性について、ちょっと面白いなと思ったことがありました。これも半分冗談ですけど。
 先日紹介した田中先生と鈴木孝夫大明神の対論「言語学が輝いていた時代」では、お二人、お互いの得意技、エスペラントとイングリックについて、実に和気あいあいと楽しそうに語り合っておりました。ここでは言葉が両者を結びつけていましたが、しかし…この本では、田中先生、ある意味本来のご自分を取り戻し、イングリックを辛辣に口撃しています。
 「言語差別をつくり出す簡略言語」という項で、ずいぶんとイングリック論者を批判してるんです。イングリック論者って鈴木孝夫大明神しかいないじゃん!?(いや、私もか…笑)。まあ、簡単に言えば、そういう簡略言語は「露払い言語」「社会的に二流」としかなりえなく、結果として「イングリックのあわれな話し手たち」は「あわれみとさげすみの入りまじったまなざしをむけられるであろう」というわけです。ハハハ。ずいぶん態度違いますね(笑)。ちなみに、対談は2006年夏。この本の後書きの日付は2007年4月です。
 まさに言語の二面性、人間の二面性を垣間見ることができますね。とても勉強になりました。
 あと、やはり宮沢賢治をはじめとした、文学者、文化人たちとエスペラントの関係が面白かったかな。なかなかいい本ですね。私もヒマを見つけてエスペラントを勉強してみようかな。かなり本気でそう思わせてくれた本でした。おススメします。

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2009.01.27

『原色小倉百人一首 朗詠CDつき』 (文英堂シグマベスト)

57810082 ず最初に、私は百人一首があまり好きではありません。だから、ほとんど覚えていません。
 高校時代など、ずいぶんと自分では和歌を作り、女の子に送ったりしていましたから(…って、かなりキモい!笑)、それなりにいろいろな歌を鑑賞してきたました。でも、どうも百人一首に採用されている歌は好きになれない。
 ま、簡単に言ってしまえば、駄作が多いということです。同じ作り手であれば、もっといい作品があるのに…と、そう思う人もけっこういらっしゃるようで、そういう人はどちらに進むかというと、以前も書きました「百人一首の謎」とか「百人一首の暗号」とかなんですね。たしかにそっちの方がずっと楽しめる。
 あとは当然カルタです。カルテ。カード。つまりゲームです。歌留多取りであります。そうそう、一昨年前のクリスマス、娘たちにプレゼントした江戸のカードゲームこと百人一首カルタですが、今一つ人気が出ませんでしたねえ。
 これは日本最古のポケモンカードだぞ!ほら、「セミマル、坊主ポケモン…」「ウコン、姫ポケモン…」とかやりましたが、結局興味を示しません(笑)。しまいには泣き出す始末。ま、父親が覚えてないくらいですから、しかたないでしょう。
 あっ、一つ百人一首ネタを思い出した。いやな思い出。いや、一種の武勇伝だな。ある県の教員採用試験を受けた時のことです。国語の試験で、なんと百人一首が出たんです。20くらい上の句であって、下の句を書けと!
 はぁ?こんなんで教員を選びやがるのかよ!と思い、まあさすがにほとんど分かったんですけど、あえてですね、本来の答を書かないで、下の句を全部作ってやりました。オリジナル作品です。上の句の意味から瞬時にアドリブで作ってやりました(笑)。はっきり言って、百人一首を暗記してるのと、こうして歌を作れるのと、どっちが優秀だと思うんだ!?という気持ちでした。いろいろな修辞法も駆使して堂々と自信作を書いてやったのです。
 結果は…不合格でした(笑)。
 だいたい、前日に大学の先輩と徹夜で飲み明かして試験に向かったくらいですから、もともと受かる気なんてなかったんですけどね。しかし、採点官はどう思ったんだろう。読まずに╳つけたんだろうな、どうせ。チキショー!こうして20の名作が闇に葬られたのであった…。
 ま、それは笑い話として、今回買ったのはその百人一首の解説本です。皆さんも高校時代とか買わされませんでしたか?こういうの。で、これはですね、生徒に買わせたのではなくて、国語科として買ったのです。なにしろ、これにはオマケで朗詠CDが付いてくるんで。
 私ではありませんが、どこかのクラスで百人一首大会をやるとかで、まあ先生が朗々と詠みあげてもいいんですが、はっきり言って面倒だし、ちょっと気恥ずかしいということでしょうかね。主任、ぜひCDを買ってください、というのです。それで購入しました。
 こういうCDは何種類か出てるんですが、普通CD単独で売っていて、それで数千円したりする。それに比べてこれは安すぎます。かなりしっかりしたオールカラーの解説本と、「日本かるた院本院理事長」鈴山葵さんの朗詠CDが付いて、なんと893円!価格破壊ですね。
 皆さん、ご存知のように、CDには99のトラックを作ることができます。ということは、100首は入らないということですね。そうなんです。最後の歌、えっと順徳院の「ももひき」…じゃなくて「ももしきや…」は99番目の、えっと後鳥羽院の「人も惜し…」と一緒のトラックに入っています。残念ですが、それは仕方ありませんね。
 で、ご想像のとおり、これをCDプレイヤーのランダムモードで再生するわけです。そうすると立派な詠み手になってくれるというわけです。便利な世の中になりましたね。
 それにしても、この、えっとえっと「日本かるた院本院」理事長さんの朗詠は渋い。渋すぎる。ものすごいプロなんでしょうけど、あまりに渋い。お歳はおいくつくらいでしょうか。生徒たちにはちょっと…。まあ、これが典雅な世界だということで。
 たしか、「萌え(ツンデレ)系」の百人一首朗詠CDもあったような。今度はそっちを入手してみるかな(笑)。

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2009.01.26

同姓同名オフ会

 度やってみたいもの。同姓同名オフ会。自分と同姓同名の人に、全国から集まってもらって飲み会とかやりたくありませんか?
 まず、気になるというか興味があるのは、お互いをどうやって呼び合えばいいかということです。苗字で呼んでも、下の名前で呼んでも、自分も含めて全員が振り向いてしまう(笑)。名刺交換しても、何が何だかわからない。そういう状況に遭遇したいじゃないですか。
 それから、名前の画数がみんな一緒なんだから、運命も似ているはず。本当にそうなのか、互いに照合してみたいじゃないですか。名は体を表すとも言いますし。「言霊」的観点からもちょっと興味があります。そう言えば、この前書きましたね。私、山口組二代目と同姓同名になるところだったって。そうなってたら、またずいぶんと違った人生になっていたのかもしれません。
 もちろん、単純に「名前」という記号、フィクションを介して、全く知り合う可能性のなかった人と出会ってみたいというのもありますね。
 皆さんも、よく自分の名前をググったりしませんか?私もよくやります。私の場合理由は簡単で、自分の名前で検索して1位に自分のサイトが表示されているのを見たいからです。実は、ここ数年ずっとそれが叶っていたんですが、最近抜かれました。なんだかくやしいような…笑。
 私の氏名で検索しますと2000件ほどのページが出てきます。私は音楽関係(と「萌え」研究関係?)で比較的世に名前が出ている方なので、2000件のうち数十件は自分自身のようです(全部数えていませんが)。
 最近私を抜かして1位になったのは、関西学院大学の先生ですね。商学がご専門のようです。その他、鳥取県大山町の町長さんとか、けっこう有名な声優さん、お医者さんやら患者さん、タクシー会社の社長さんやらアマチュア・ランナー、小学生から大学生、まあいろいろな同姓同名さんが頑張っておられるようです。
 とりあえず、そういうネット上にいらっしゃる方に声をかけて、集まってもらうというのはどうでしょうか。
 まあ、同じようなことを考えている人はいるようでして、同姓同名を集めるサイトを運営している人もいる。で、実際オフ会やった人たちもいるみたいです。なんだか微妙な雰囲気でイマイチ盛り上がらなかったとの報告が…笑。ま、なんとなく気まずい感じだし、全然知らない人たちがいきなり集まってもね。
 でも、回を重ねるうちにきっと同姓同名だからこそわかる何かがあるかもしれません。うん、こうなったら自分が幹事をやって実現してみようかな。いや、まず、得意の突撃力で、一人ずつ訪問してみようかな。いきなり「○○╳╳さんですか?ワタクシ○○╳╳と申します」ですかね。たしかにちょっと気まずいというか、こちらはいいにしても、相手には迷惑かも。
 ちなみにウチのカミさんの名前で検索すると倍くらいの数が出てくるんですが、シャンソン歌手やバレエの先生、ピアニストなど、どうもそっち系が目立ちます。ウチのも含めて芸能系の名前なんでしょうかね。
Uni_1932 あっそうそう、どうでもいいことですが、今日、カミさんの同姓同名を妙なところで見つけました。ゴミ箱の中から、上の娘が目ざとく見つけました。それがこれです。ベネッセの「チャレンジ」の広告です。
 な、な、なんと年齢まで合っている。そして、子供が春から小学1年生という設定もあっている。むむむ、これは偶然とは思えない。そして、なんとなく顔も似ている(かな?)。おっちょこちょいで短絡的な性格も似ている。
 カミさん、最初これを見た時、これはこのパンフレットを送付した先のお母さんの名前と年齢を、それぞれ印刷してあるのだと思ったそうです。そんなことあるわけないけど、まあたしかにここまで露骨に自分のデータを書かれると、一瞬そう思っちゃうよな。で、近所の、来年1年生の子供を持つ友達に電話して確認したそうです。そしたら、みんな「ウチも山口陽子34歳だよ!」だと。そりゃあそうだろ。大笑い。
 というわけで、今全国のお母さんのところに、ウチのカミさんの同姓同名がおじゃましているということですね。お騒がせしてすみません(笑)。しっかし、ベネッセのチャレンジ、相変わらずつまらんモノでお客を釣ろうとしてるなあ。だめですよ、山口陽子さん34歳。そういうのに釣られちゃ。みんながやってるからっていいものだとは限りません。
 ちなみにウチの山口陽子さんは、私の影響もあって、ベネッセのチャレンジではなく、Z会を選んでおります。そして、上の娘は、見事半年分くらいためこんでます(笑)。たしかに難しいんだよなあ…ちょっとレベル高すぎる。下の子にはあえてチャレンジやらせてみようかな。キャラ的にもそんな感じだし。

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2009.01.25

『日本ナンダコリャこれくしょん「対決!オドロキの日本絵画」』 (NHK BSハイビジョン)

2 っぱり横綱は強くなくっちゃ(by 麻生総理)…本家大相撲は朝青龍の優勝。けっこう盛り上がってましたね、千秋楽。本割りで並んで優勝決定戦。まあ、どちらが優勝してもモンゴルか…。ちょっと複雑な気持ちです。
 で、こちらはモンゴルに負けませんよ。これこそニッポンの底力。世界に誇るナンダコリャです。昨年冬の第1回秋の俳句に続きまして、第3弾の「ナンダコリャ」です。今回はテーマごとに東西1作品ずつが対峙し、審査員(ゲストら)がナンダコリャポイントをつけて競うという形式でした。
 まあ、ほとんどその採点たるや、御自身の趣味という感じで、その不真面目で真面目な八百長感が良かった。ちなみに採点していたのは、初回のゲストのお三人、ナンダコリャ研究家(?)の山下裕二さん、サックスプレイヤーにしてミジンコ研究家の坂田明さん、にっかつロマンポルノ…いや静岡市出身の大女優美保純さん、そして今回はなぜかオセロの白い方(?)松嶋尚美さんが加わっていました。あと、絶妙の司会進行をつとめるいとうせいこうさんも採点してましたね。
 さて、実際に行われた取組七番とその勝敗をご覧下さい。それぞれに推薦者、すなわち部屋の親方みたいな人がいます。写真は左が東、右が西です(それぞれclickすると少し大きくなります)。

奇想天外むかし話対決
東 ○「浦島図」山本芳翠 (佐野史郎推薦)
西 ●「素盞嗚尊八岐大蛇退治画稿」 原田直次郎 (なぎら健壱推薦)
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 ウラシマはこれは「過剰」の典型ですね。こうなるとエロもエロではない。グロに近い。スサノオは、これは反則でしょう。犬が顔出すのはねえ。それも洋犬だ。遊びでしょうね。スサノオと洋犬の習作を同じキャンバスでやっちゃったと。

これでいいのかヘタウマ対決
東 ○「築嶋物語絵巻」 作者不詳 (南伸坊推薦)
西 ●「洛中洛外図屏風」 長谷川巴龍 (しりあがり寿推薦)
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 このヘタウマ対決はすごかった。なんでもわざと素人に描かせるのが流行ったのだとか。変態趣味の一種ですね。フィクションこそ萌えの対象であることがよく分かります。

そこまで凝るか対決
東 ○「五百羅漢図」 加藤信清 (山下裕二推薦)
西 ●「大花瓶色絵漆絵」 柴田是真 (安村敏信推薦)
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 むむむ、羅漢図は全部字で描かれている。法華経です。この文字絵は…つまりアスキーアートの元祖ってことでしょう。それにしてもなあ…どうしちゃったんだろう。これが50幅あるっていうんだから。花瓶の方は何が凝ってるかというと、この地の紫檀の板や額縁が全部絵だということです。つまりだまし絵。たしかにここまでやるかですね。

これが人間だ対決
東 ●「六道絵人道不浄相」 作者不詳 (松井冬子推薦)
西 ○「放屁合戦絵巻」 作者不詳 (松嶋尚美推薦)
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 六道絵は怖い。死が隣り合わせだったんですね。これを見ると煩悩がなくなると。現世が空しく感じられるらしい。おならは、これは去年実物見ましたね。たしかに面白かった。鳥獣戯画より人気あったもんなあ。

元祖マンガ対決
東 ○「道真天拝山祈祷の図」 小林永濯 (美保純推薦)
西 ●「仁王捉鬼図」 狩野芳崖 (いとうせいこう推薦)
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 この道真と仁王はたしかにちょっとマンガ的です。マンガの原点はもっともっと遡りますが、より現代漫画的な表現ですね。つまり大げさでダイナミックでユーモラスなわけです。

いったい何が言いたいんだ対決
東 ○「一つ目達磨」 白隠 (玄侑宗久推薦)
西 ●「○△□」 仙厓 (坂田明推薦)
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 これらについては何も語りません。「禅」ですから。意味なんてありません。ナンセンス。

世紀のスーパーモデル対決
東 ●「魚籃観音」 下村観山 (草薙奈津子推薦)
西 ○「赤穂義士報讐図」 安田雷洲 (岡泰正推薦)
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 これらはパロディーですね。観音はモナリザ、赤穂浪士はハウブラーケンの羊飼いの礼拝。問題はシャレなのか、まじめなのか、パクリなのかってことでしょう。こればっかりは本人に聞いてみないとわかりませんね。

9_4 ううむ、なかなかすごい取組が続きました。ちなみに全勝優勝(満点獲得)は山下部屋の「五百羅漢図」でありました。たしかにすごすぎる。
 その五百羅漢に象徴されていますが、なにしろ、日本の「過剰」…「過剰な不足」を含む…の美の迫力はすごかった。これはまさにオタク魂です。虚構をきわめて真実を語るというか、いやそんな意識はないのです。いつも言うその一点に集中して固執してしまう「萌え=をかし」的思考と行動ですね。ある意味自閉的であります。ある意味子供的であります。
 意味がどうこうではない。ただ技術に走ったり、瞬間のひらめきを固定したり、今知ったことを経験と融合させたり、ミーハー的なファン心理にまかせたり、とにかく世間の評価とかそういうことではなく、自分の世界の中にどんどん没入していってしまうんですね。
 つまり社会的ではないから、たとえば西洋的写実なんていうのはクソ喰らえです。最初から、ありえないものを描く。どうせ作品は本来的にフィクションなんですから。現実にはない輪郭線を描き、遠近法を無視し、異時同図で時同や空間を飛び越える。すなわち、我々日本人にとっての「写実」とは、まさに「印象」を写し取ることであり、脳内のイメージこそが実存在だったわけです。
 そういうフィクションどうしの対決ですから、こういう胡散臭い、トンデモな、しかし実に楽しい取組になるんですよね。素晴らしい。相撲も本来はそういう性質のものでした。
 NHKさん、ぜひともこのシリーズ続けてください。美術に限らず、ナンダコリャなものは無数にありますし、そういうものたちに注目するのは、我々日本人の柱の部分を見直すことになりますので。そして、自らを世界に誇る日本人を育てることになりますので。ぜひぜひ。楽しみにしています。

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2009.01.24

『対論 言語学が輝いていた時代』 鈴木孝夫・田中克彦 (岩波書店)

00022770 『論 プロレスが輝いていた時代』 ジャイアント馬場・アントニオ猪木 (名古屋タイムズ社)…不謹慎にもマジでこんな本が思い浮かんでしまった。鈴木先生ごめんなさい。そしてお会いしたことありませんが田中先生ごめんなさい。
 お分かりになる方はお分かりになると思います、この私の比喩。実に大真面目なんです(ただし一般的ではないかもしれない…パロール世界であります…笑)。いやあ、時代は変わりましたね。というか、あの頃はここでも遠くなってしまいましたね。ここのところそういう記事ばかりで辟易気味の方も多いのでは。蘊恥庵庵主も老けたなと。
 でも、しかたありません。事実は事実なんですから。決して過去を美化しているわけでは…いや、してるかな。それにしても、「今」があまりにダメなために、こうして不倶戴天の二人が呉越同舟するというのは、ちょっと嬉しい反面、ちょっと哀しいかも。複雑な心境です。
 そうそう、この前書いた、「両虎二龍の闘い」なんかもそうです。初代タイガーと二代目タイガーが仲良く相まみえるなんて、誰も想像しませんでしたからね。あまりに違う道を歩んできたわけですから。
 そう、鈴木先生と田中先生、まさにそういう関係だったんですよね。まさにジャイアント馬場とアントニオ猪木ですよ。ある意味同じジャンルの二大巨頭だったわけですが、あまりにスタイルが違い、また、互いに激しく罵倒…とまではいかなけれど、非難し合った仲ですから。
 その二人がこうして同じリングに上がって、そして仲良く、本当にある意味まったりと語り合っている。お互いの技も不思議と噛み合っている。相手の技を上手に受けて、そして自己主張もしっかりしている。プロレスの試合としては、本当に古典的な名勝負になっています。どういうことでしょう。
 両虎の時も思ったんですけど、やっぱり道筋は違っていても、長い年月を経てきますと、結局同じ到達点に逢着するんでしょうかね。目指す頂上は一緒でも、コースが違っていたのでしょうか。
 面白いのは、この対談のテーマです。「言語学が輝いていた時代」…そう、馬場と猪木が今対談したとして、力道山先生を改めて称揚し、往年の国内外の名レスラーの人柄、エピソードを懐かしむ。そういう感じなんです。井筒俊彦さん、亀井孝さん、服部四郎さん、村山七郎さん、そしてソシュール、チョムスキー…。たしかに懐かしいお名前が並びます。私も青春時代を思い出してしまいましたよ。
 まあ、なんとなく気に入らなかった人が、実際会ってみたら案外いい人、面白い人で、大いに盛り上がったということは、誰しも経験することでしょう。意外な一面があったりしてね。また、意外な共通点があったり。今回の両雄もそういうことなのかもしれませんね。
 たしかにお二人には共通点があると思いますよ。鈴木孝夫大明神については、それこそ実際にお会いしてお酒を呑んで、そうしてあの方のぶっ飛びぶりを目の当たりにしましたし、田中克彦センセーについては、こちらの番組でその動く姿に初めて接して、そうしてやはりぶっ飛びぶりを知りました。そう、まさに昭和の偉人に特徴的な、あの「ぶっ飛び感」ですね。スケールの大きさとユーモア。こだわりと好奇心。
 そうですね、だいたいが、お二人には、生きてきた時代の空気という共通項がありますし、「言語」「言葉」に対する興味と愛情は言うまでもない根源的共通点ですよね。つまり、同じ女を愛するライバル同士だったんですよ。それがお互いアラウンド・エイティーになってですね、もうその女も自分のものではなくなって、いつのまにか同志になった。きっとふられたんですよ、言語に。それほど言語という女は不可解で不随意な「モノ」だったんです。「コトのは」なんていう名前、外見を持っていながら、その実態は「もののけ」だったと。
 まあ、そういう感じで、とっても癒された読書でした。中には、この二人の対論と聞いて、バチバチのガチンコ勝負を期待した方もいらっしゃったことでしょう。でも、考えてみれば、両翁の殴り合いなんて見たくないですよね。私は結局これでいいと思いました。
 人間と時間の関係、言語という魔物の魅力、それらを存分感じさせてくれる、素晴らしい「文学」でした。ああ、もののあはれ…。

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2009.01.23

「儲」…漢検協会やるな!

↓信者?
1_2 日のニュースで、「漢検協会、儲けすぎ」というのがありました。なんでも資産73億円もあるのだとか。いよいよ文部科学省が立ち入り調査するらしい。そして、今日はまた、理事長の企業に8億円の事業を委託していたとして指弾されておりました。トホホ。
 どこかにさりげなく書いたんですよね、私も。漢検、妙にセールスに熱心だって。気持ち悪いくらい電話がかかってくるんですよ。仕事柄お世話になってるんで、あんまり悪口言えないなあと思っていたんですが、おおっぴらになったので言っちゃいます。漢検協会さん、逆恨みしてウチの学校の答案辛くつけたりしないでくださいよ…と先にクサビを打っておく(笑)。
 まあ、サービスと言えばサービスなんですけど、京都弁の(協会の本部は京都にある)カワイイ声の女性からいつも電話がかかってきて、なんか気持ち悪いほど丁寧にいろいろなことを確認してくれるんです。最初は、ずいぶんしっかりしてるな、くらいにしか思わなかったし、たまにこういう舞妓さん(違う違う!)と話するのも悪くないなって思っちゃってたんです。でも、回が重なると、ちょっと不審に思うようになってきた。
 どうも、公益事業の協会らしくないなと。妙にこなれている。マニュアル通りな気もするし、だいいちこんなカワイイ声の人たちばかりいるはずがない(いつも同じ舞妓さんなのかもしれないが)。そうとう受検者集めに力を入れてるなと。これでは、あのマンション経営や某出版社の勧誘と一緒ではないかと。
 漢字検定の料金は最近値下げされたとか言ってますが、正直高い。私は生涯2回だけ漢検を受けてます。そう、一昨年の初受検にして1級玉砕と、昨年の準1級満点合格計画失敗です。この2回だけで、私は漢検協会に1万円以上上納しております。たしかに高い。あんな紙キレのためにね。
 そうそう、今週末ウチの学校が英検の会場になるんですけど、英検は実施にもいろいろと手間がかかるし、人手もいるんですよね。見ているとよく分かります。そして、2級以上は面接試験もありますから、これはある程度受検料が高くなってもいい。
 しかし、漢検はですね、1級でも筆記だけですし、いろいろな手間や資材は、どの級でもそれほど変わりません。なのに、2級から突然倍以上の受検料になったりする。これはおかしいと思っていました。
1 私はこの前書いたように、近代ヤクザを否定しない人間なので、あえてこういう言い方をさせていただきますが、はっきり申して漢検協会のやり方はヤクザなやり方です。公益、教育、公認、正式、公的などの「漢字」を振り回し、クリーンでノーブルな「感じ」を売りにして、じゃんじゃん稼ぐ、どんどん儲ける。
 ただですね、困ったことに、そういうヤクザな商売の下っ端として、我々国語科の教員が雇われ、そして養われているという事実があるんですよ。まあ、どこにでもそういう構造というのはあるとは思いますけど、あえて具体的に書いちゃいますと、つまり私たち教員は、生徒に漢検を受けさせるとですね、報酬をいただけるんです。つまり一人当たりなにがしかの手当てをいただける。もちろん、それは監督料とかなんとか言う名目になるわけですが、まあ実態はリベートですね。我々みんながそういう意識で、つまり、漢検協会の鉄砲玉みたいになってるわけじゃありませんが、お金が回ってくるのは事実です。
 片棒担いでいるのはたしか。教育という名のもとでこういうことが行われているのは、これはいかんですな。困ったものです。というか、やりすぎ、調子に乗り過ぎはいかんということです。
 で、こういう構造というのは、利益の追求を目的にしている企業には普通に見られますね。それはいいんです。現行の経済システムでは、それが許されるので。法に引っかからない限りにおいて、人を(ある程度)だまして、人を使って、人を集めて、お金を回収するのが一番手っ取り早い。
 そうするとですね、これはまさに宗教の勧誘にも近くなってくるわけです。作られたイメージと勧誘。つまり、漢検に関して言えば、「漢字」が神格化され、そこに信者がたくさん集められていたわけですね。そして、神=お上(実際は紙)からの証明書をいただくためにたくさんお布施をしているということです。
 ここで、あえて「漢字」で勝負しますよ。もうけると読む「儲」という漢字、これは「イ(にんべん)」に「諸」がついた漢字なんですけど、ちょっと切り口を変えてみますと、「信者」と読めますね。このいかにもイカサマな説明は、よく経営セミナーなんかで使われる、それこそ胡散臭いフィクションなんですけど(いや、真理をついてるのかも)、まさに漢検教会…いやいや協会は「信者」を集めて「儲」けすぎたのかもしれませんね。
 本来の「儲」という漢字は、利益を得るというよりも、「たくわえる」という意味です。ということで、漢検協会が発表する「今年の漢字」、2009年は「儲」で決定ですね(笑)。

協会より刺客来る!ww

財団法人 日本漢字能力検定協会

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2009.01.22

『うつぶせ寝健康法―日野原先生も毎日実践! 』日野原重明 (監修), 川島みどり・丸川征四郎 (著)  (KKベストセラーズ)

58418909 のブログもあと少しで丸5年になります。そして、ほぼ同時期に始めた一日一食と夜明け前起床も5年ということです。何ごとにも三日坊主なエセ坊主であった私が、よくぞここまで続きました。人生初の快挙であります。自分で自分をほめてあげたい(笑)。
 そして今年の元旦から新たなことに挑戦しておりまして、いちおう続いております。それが「うつぶせ寝」です。
 なんだ、そんなの簡単じゃん、と思った方、甘い甘い。これは実行するのが案外難しいんですよ。実は昨日も起きた時「あおむけ寝」になっていました。まだまだ修行が足りん!
 なんでこんなことを思い立ったか。答は簡単です。私の尊敬する先生の真似をしたのです。
 実は、私と同様の一日一食スタイルを貫いているドクターが二人いまして、そのお二人を私は心から尊敬しているのです。一人は聖路加国際病院名誉院長であるドクター日野原。そして、もう一人はイグ・ノーベル賞受賞、最近ではハッスルにてプロレスにも参戦しているドクター中松であります。
 で、ドクター中松さんはちょっと置いといて、一方の日野原先生がうつぶせ寝を実践しておられるのです。御自身でももちろんですが、患者さんに対する腹臥位による治療を推進しておられるのです。
 いや、実はですね、ここのところ…ここ半年くらいでしょうか、一気に年齢を感じることが増えたんです。まあ、老眼気味になってきたのはまあいいとして、どうも腰が痛かったり、異様に肩が凝ったり、胸が苦しいような気がしたり。
 それも、寝起きの時に感じることが多かったのです。早朝目覚めて気持ちよく一日を始めよう、ブログでも書こうかと思うわけですが、実際はなんとなく体が言うことをきかない感じがしまして、なかなかふとんから出られないというようなことが続きました。特に腰痛と肩凝り、そして肩凝りから来る偏頭痛は、起床の難敵です。
 これはどうもいかん、なんとかせにゃ、このまま後半生の毎日が今一つスカッとしないのはいただけない、と思いまして、いろいろ調べたり考えたりしたんですね。そうしているうちに、我が師と仰ぐ日野原先生の「うつぶせ寝」を思い出したんです。そう言えば日野原さんうつぶせ寝だったな、どういう効用があるのだろう…ということで、この本を読んでみたわけです。
 まず、結論から言いましょう。
 「うつぶせ寝」を始めてから、まず腰痛がウソのようになくなりました。年末はちょっとひどい状態だったのですが、今はなんの違和感もありません。それから肩凝り、これも顕著に改善しました。とにかく朝起きた時、カチカチに凝って、首までミシミシ言う始末だったんですが、これもウソのようになくなりました。
 で、そんな感じですから、熟睡できます。おかげで朝目覚めが良い…かと思うと、あんまり熟睡してしまって起きるのが遅くなってしまいました(笑)。でも、ホント気持ちいいですよ。おかげで昼間の調子もすこぶる良い。
Uni_1920_2 この本にも書かれていますが、とにかく動物は「うつぶせ寝」が自然であって、「あおむけ寝」をするのは人間だけであると。おっと今ちょうどウチの黒猫が「あおむけ寝」状態になっているぞ。たしかに手足の不自然だし、このまま寝ている猫なんて見たことない…いや、赤塚不二夫さんの愛猫、菊千代はこうして寝るんだっけ?
 つまり、骨格や内臓の位置や血管の配置は「うつぶせ寝」用に設計されているということです。例えば、肩凝りの原因である血行障害は、「あおむけ寝」をすることによって、内臓が背骨側に沈んで、そして背骨に沿って配置されている太い血管を圧迫して起きるわけです。それが、「うつぶせ寝」をすることによって解放されたと。実際私はそれで肩凝りからも解放されたのでしょう。
 あと、私はそれほど心配していなかったのですが、やはり、あおむけに寝ることによって生じる、舌の沈下が怖いですね。いびきの原因になるだけでなく、睡眠時無呼吸症候群を引き起こすということです。
 また、この本を読んでいてなるほどと思ったのは、あおむけに寝ることによって、誤嚥が起きやすいと。誤嚥と言っても、ゲホゲホむせる、あのイメージだけでなく、いろいろな菌を含んだ唾液や胃液などが、気管から肺の方に行ってしまう可能性が高まるとういことですね。なるほど。お年寄りの肺炎の原因はそのへんにもありそうです。
 うつぶせ寝、最初はなんとなく息苦しいように感じますが、すぐに慣れますよ。あと涎(よだれ)も心配というか、必ず垂らしてしまいますが、まあ洗濯すればいいじゃないですか。誤嚥するよりは排出した方がいい。
 考えみれば、高校生までは私もうつぶせ寝してましたね。娘たちを見ても、ほとんどうつぶせで寝ています。
 では、なんで人間は「あおむけ寝」するようになるのか…。これは本当に不思議です。単にそういうイメージがあるのだと、この本は語ります。まあ、そうだよなあ。別に根拠はないような気がする。ただ、大人になってうつぶせに寝ているのを人に見られると、ちょっと恥ずかしいかも。せいぜいそんなところじゃないでしょうか。
 というわけで、しばらく続けてみます。というか、死ぬまで続けるつもりです。そして、棺桶に入れてもらう時も、ぜひ「うつぶせ寝」で、とお願いしておこうっと。ああそうか!「あおむけ寝」は死体のためのものだったんだ!(笑)。
 
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2009.01.21

『レッツゴーヤング〜アイドルヒット40分!〜 (84.1.22)』(NHK BS2 蔵出し劇場)蔵出し劇場

 ンター明けということで、いろいろ忙しいので、ちょっと手抜き記事です。
 先々週先週の放送に続きまして、本日はちょうど25年前、1984年の今日のレッツヤンです。私は大学生。はっきり申しまして全然記憶がありません。この頃は、洋楽もあまり聴かなくなり、バロックやジャズに興味を持ちはじめた頃でして、さすがにアイドルには興味がなかったようです。
 というわけで、知らない人もいるんですが、順番に紹介します。
1_4 まず、オープニング。「ムーンライトカーニバル」はずいぶんとアップテンポですね。このヴァージョンも悪くないですね。演奏は東京ユニオン。番組全体を通じて、相変わらずのクォリティーです。すごいビッグバンドですなあ。トランペットのハイノートちょっとはずしてますが(笑)。
4_3 司会は太川陽介くんと石川ひとみさん。現在形の石川ひとみさんも久々に見ましたが、ご病気はいかがなんでしょうか。いちおうお元気に見えましたけど。陽介くんの口上がいいですねえ!
「さあ相撲も終わって今度はレッツゴーヤングです!」
 いやいや、いつも感心するのは太川陽介くんの司会ぶりですね。とっても頭の回転がいい。流れるようなトークです。アドリブもお見事。よっちゃんのオープニングの掛け声に答える当時のジャニヲタ腐女子(なんていう言葉はなかったな)が映し出され、ああ、いつの時代にもいるよな、今この人たちはどうなってるかな、もう40くらいだよな、なんて考えちゃいました。
5_3 さて、トップパッターは渡辺徹くん…くんでいいのかな。いちおうこの頃、まだアイドルだったんですよね。もう、少し太りはじめてますし、キャラは今と変わりません。でもキャーキャー言われてる。歌ったのはデビュー曲「彼・ライバル」。知らないぞ。
6_3 続いて柏原芳恵ちゃんの名曲「春なのに」。これはいい曲ですね。さすがに知っています。中島みゆきらしいなあ。ウチのカミさんはこれを中島みゆきのものまねでよく歌ってます。
7_3 次は出ましたよっちゃん!THE GOOD-BYE!ジャニーズ初の本格ロックバンドですよね。この流れはTOKIOなどにつながっていくわけですか。たしかにギターうまいな、と思ってましたけど、まさか20年後浜崎あゆみの専属ギタリストになるとはねえ…夢にも思いませんでした(当たり前か)。
10 「ダジャレをたくさん送ってくだじゃれ!」という、恐怖の駄洒落コーナー(渡辺徹だから許されるな)をはさんで、岩井小百合ちゃんのステージ。うむ、正統アイドルの最終形態かな、このへんが。歌もけっこううまいし、かわいいし、そしてファッションもすごい。NHKのカメラ、下からなめていきます。こういうカメラワークも今ないなあ。
1_3 嶋大輔登場!なんじゃこの髪形は。曲は「只今失恋真最中」。作詞は横浜銀蝿の翔さん。この十数年後何回も逮捕されちゃいますね、翔さん。作曲はなんと森田公一さん!バックバンドは大平太三バンド。横浜銀蝿の弟分っすね。
2_2 続いてサンデーズのコーナー。この時のサンデーズのメンバーはですね、植草克秀、今井信、山口健次、佐久間レイ、小出広美、橋本清美、山本誉子、横田早苗。植草くんは言わずもがな、佐久間レイさんはマイメロの声ですよね。
4_2 次は渡辺徹くんと岩井小百合さんのデュエットで「雨に唄えば」ですね。どういうコンセプトかよく分かりませんなあ。アレンジはとても凝っていますが、練習不足でしょうかね。時間がなかったのでしょう。それにしても、渡辺徹さんのジャケットの襟が立っているのはファッションなのでしょうか。どうしてもそうは見えないのですが…。裏地が見えてるし。
3 続きまして、おお懐かしい!三田寛子ちゃんです。曲は「春の冒険」。竜真知子さん作詞、林哲司さん作曲かあ。なるほど、いい曲だ。それにしても、面白いのは、アイドルって完全に長調派と短調派に別れますよね。聖子と明菜に象徴されるように。で、長調派はニコニコ、短調派は笑わない。面白いですね。陰陽そろって初めて偶像全体になるというわけか。
6_2 高橋美枝さん、正直全然知りません。記憶にありません。歌まあまあうまいですね。調べたところによると、アイドル終業後、作詞家「風堂美起」として活躍されたようです。うむ、全然知らんかった。
7_2 みじめ自慢のようなコーナーをはさんで、川崎麻世くんの「彼女」。ホント麻世さんはスタイルいいですね。華がありますね。歌もそこそこうまいし、踊りも素晴らしい。この曲はしっとりとした静かな曲ですね。こういう大人な曲も歌えるようになったんですね。そして、ミュージカルで活躍、さらにカイヤの旦那に…笑。
5_2 再びTHE GOOD-BYEのステージ。よっちゃん、フェンダーのダブルネックを弾いてますね。この「TAKE OFF」という曲はオリジナルだそうです。他のメンバーもジャニーズなんですね。今何してるんでしょうか。
8 ここで渡辺徹くんの代表曲「AGAIN」です。作詞は康珍化さん、作曲は鈴木キサブローさん。コテコテですがいい曲ですね。カミさんが韓国っぽい!って言ってます。なるほど。徹くん、やっぱりちょっと太りぎみですね。なんだか股間のモッコリ感が気になりますな。
9 最後のステージは、柏原芳恵さん。こちらは胸のユッタリ感が気になりますな(笑)。曲は「カム・フラージュ」。おお、なるほど中島みゆきっぽいぞ。中島みゆきの声が聞こえてきそう。それにしても、さっき書いた陰陽もそうですが、こうして、ニューミュージックの大御所がアイドルの裏で暗躍するっていうのも面白いですね。松田聖子さんの裏の松任谷由実とか。本来相容れないはずの世界なんですけどね。これもまあある意味陰陽ですよね。
 というわけで、今日も面白かったし、いろいろと発見がありました。来週も見ようっと。

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2009.01.20

『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』 宮崎学 (筑摩書房)

48081828 謡曲やプロレスを好む者として、そしてそれらを含めて昭和の輝きを忘れない者として、この本は非常に勉強になりました。
 まず最初に断っておきますが、私は立場上の理由も含めて、「私も近代ヤクザを肯定します!」とは言えません。書けません。しかし、平成の世と昭和の世を、非常に大ざっぱに比較して、どちらを肯定してどちらを否定するかと言えば、間違いなく「昭和」を肯定します。それが、いわゆる「近代ヤクザ」の時代と重なっているというのは事実であります。
 なお、私は姓はこの本で取り上げられている某組の名前と同じですが、直接的な関係はなにもありませんのであしからず。ついでに言っておくと、名の方も本来はその某組の二代目と同じになるはずだったそうです。結局その案は、ひっくりかえすと「登山口」になるという理由で(?)却下されたのですが、現在の名も基本的には同じ意味なんだとか。言われてみればそうですな。
 世の中には「法律」というものがあって、いちおう法治国家である日本では、それにしたがっていろいろな利害が調整されていきます。しかし、当然そこには様々な無理が生じます。しょせん法は言葉ですから。そうした「コト」的、デジタル的、白黒的世界から排除された、「モノ」的な存在や事象を、ある意味アナログ的、灰色的に解決してきたのがヤクザさんたちでした。
 とんでもない成長を遂げたからこそ随所に歪みが生じていた昭和という時代に、彼らは輝きを放ちました。その時代は、まだお金は「カネ」と呼ばれ、我々人間の欲望の象徴にしかすぎませんでした。
 しかし、その後バブルが起こり、それが崩壊し、経済はグローバル化し、市場は自由化され、お金はいつのまにか「マネー」と呼ばれるようになり、私たちの心や体を支配するようになってしまったのでした。
 そして、今、日本史上初めて、ヤクザは滅亡の危機に瀕しています。彼らはこのまま消えてしまうのでしょうか。それとも単なるマフィアになってしまうのでしょうか。そして、外国から流れ込んでくる本家マフィアに吸収されてしまうのでしょうか。もし、そうなったら、日本の「悪」もグローバル・スタンダード化し、犯罪もまた世界標準に近づくのでしょう。そして、日本の安全神話は、本当に過去の神話になってしまう。
 事実、もうすでにそうなりつつありますね。気がつけば、東京も今までと違う危険を感じる街になってしまいました。田舎でも、たとえば私の職場のあるあたり、昔はヤクザさんがいろいろなことを調整して、そうして街の秩序を保っていたものですが、今となってはすっかり廃虚の街になってしまいました。
 プロレスの興行は地方では行われなくなり、祭の雰囲気も変わりました。歌謡ショーなども以前に比べればずいぶんと減りましたね。そして、反対に、都会の大会場に何万人も収容して集金する総合格闘技のイベントやJ-POPのコンサートばかりが目立つ世の中になりました。
 つまり、談合もなく、冷戦もなく、手打ちもなく、芝居もない、ただのガチ世界になると、マネーの集まる都会がまるでブラックホールのようになり、田舎の生気を吸い取ってしまうんです。昔のヤクザさんたちは、そうした力学に抗する砦でもありました。
 この本は、そうしたヤクザの本質と変質を、山口組という巨大近代ヤクザの歴史をなぞることによって明らかにした素晴らしい本です。彼らをこうして明るみに出すことによって、私たちの、そして昭和という時代の、古き良き「暗部」が見えてくる。まさに「モノ」的世界ですね。ですから、この本は見事な「物語」なのです。
 マージナルとアジール…これがこの本のテーマだなと感じました。いずれも日本史を語る上で避けて通れない言葉ですね。それは政治史にしても文化史にしてもそうです。もちろん皇室の歴史を語る上でも、宗教史を語る上でも。
 そのマージナルもアジールも、今や消えつつあるわけです。そして、こういう格差社会などと呼ばれる、実に味気ない、温かみのない世の中になってしまいました。時代の要請によって、こうして世界標準化、いやアメリカ化でしょうか、そうなっていくのはしかたないことですが、しかしやはり何か寂しいものを感じるのは私だけではないでしょう。
 ここのところ、昭和ノスタルジー的記事を書くことが多かった。美空ひばりとか、ジャイアント馬場とか、かんけりもそうかな。あの時代をもう一度というのは無理な相談です。せいぜい、その頃発達した様々なメディアの恩恵によってそれらを追体験し、その古き良き時代の実感を忘れないことですね。ある意味、そういう記録媒体の発達が、我々の文化継承力を低下させた、そして時代が空っぽになってしまったとも言えますが…。
 まあとにかく非常に興味深い本でした。近い時代だからこそ、あるいは自分が育った時代だからこそ、よく分かることがありましたね。つまり、「良き」時代を実現するためには、それを支える「悪しき」存在が絶対に必要だということです。それがユニバーサルな力学なのです。「必要悪」と「不必要善」。その「必要と不必要」、「善と悪」は、法という言葉の上では、そうしてはっきり分けられますが、実は不二一体の存在であり、その総体こそが、我々人間そのものであるのでした。
 私たちは今、言葉やマネーといった、自らが作り出した「コト」に翻弄され、その心と体を真っ二つに割られてしまっているのかもしれません。はたして幽閉されつつある「モノ」は復権するのでしょうか。

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2009.01.19

ヒコザルの顔色が悪い件について

1 ンター試験の話から突然ポケモンというのもなんですが、その振れ幅こそがこのブログの醍醐味であります…いやいや、昭和の遊びに「かんけりの政治学」があるのなら、平成の遊びに「ポケモンの政治学」があってもおかしくない。
 そういえば以前こちらに「ポケモンの歴史学」(?)を書きましたね。『ポケモンセンター…ここは、かつてはまつろわぬモノ(蛮族の神の子)であったポケモンたちが、大和民族によって飼いならされ、集められている場所であります』ですと!今読むと、これこそ、ニューアカ的、ポストモダン的、構造主義的、中沢新一的「遊び」じゃないですか(笑)。
 と、本気の冗談はここらへんにしておきまして、私、センター試験より何より、昨日とっても気になることを発見してしまったんで報告しておきます。ヒコザルの顔色が悪い件についてです。
 昨日、センター終了後、生徒たちが学校に帰ってきまして自己採点しましてね、まああいつらのことですから、なんだかそんなシチュエーションでもノリノリでして、なぜか採点よりも車座になってトランプを始める始末。出前で夕飯を頼んで、なかばパーティーのような状態で採点しました。
 まあ結果としてはまあ実力どおりだったんですけど、女の子たちですから、悲喜こもごもの涙がありまして、そんなやつらを励ましたり慰めたりして、かなり疲れて帰宅しました。
 で、家に帰ってきたら、食卓の上にですね、第一パンの「ポケモンみんな元気でチョコクロワッサン」の袋があったんです。ああ、子供たちの大好きなポケモンパンか…みんな元気で…ん?ん?えっ?…みんな元気じゃないじゃん!?
2 そうなんですよ。右の写真を見てください。分かりますかね。ピカチュウの後にいるヒコザルの顔色が異様に悪い。なんか緑がかっている。これは間違いなく病気です。本来のヒコザルは上の写真のようにとっても健康的な肌の色をしているはずなんです。
 ちなみに上のは、ポケモンパンにおまけとして封入されているデコキャラシールのデザインです。比較してお分かりの通り、パンのパッケージと同一のもの(のはず)ですよね。他のポケモンたち、ピカチュウ、シェイミ、ポッチャマ、パチリス、ディアルガは色合いもオリジナル通りなんですが、なぜかヒコザルだけ発色がおかしいんですよ。
 これは単なる製造工程でのミスなんでしょうか。原板の段階でのミスなのか、印刷の段階のミスなのか。もしかして、なんらかの原因によるレアなコレクターアイテムなのかと思って、第一パンのホームページで商品の写真を見てみたら、やっぱりヒコザルの顔色が悪く見えます。
 これは意図的なものなのでしょうか。誰か気づいているんでしょうか。ネット上でも誰も言及されていないようなんですが…。子供たちもカミさんも気づいていなかったようでして、私が指摘したら、あっホントだ!って大笑いしてました。でも、そのあと、子供たちは「なんか具合悪そう…」と心配してました。
 このように版権のあるキャラクターを商品に使う際には、当然オリジナルのデザインに手を加えてはいけないはずなんですが、これは問題にならないのでしょうか。単に「具合の悪いヒコザル」「伝染病に冒されたヒコザル」「死相の表れたヒコザル」ということで許されるんでしょうか。いや、それ以前に、たとえばヒコザルは怒ると青ざめるとか、そういう設定があるんでしょうか。私、そんなにポケモンには詳しくないので、正直よくわかりません。いちおう第一パンに問い合わせてみるかな。
 そういえば、アニメ天才バカボンで、偽者のバカボンが登場する回がありましたね。あのにせバカボンが異様に気持ち悪かったのは、なんか顔色がとっても悪かったんです。土色っていうか。それに近い偽物感がありますね。
Uno1 ついでにどうでもいい話をもう一つ。ウチではヒコザルのことを「宇野君」と言っています。格闘家の宇野薫くんがヒコザルに似ているからです。いや、ヒコザルが宇野君に似てるのかな。どっちがオリジナルだろう。まあ、両者とも格闘家ですからね。いつか、ヒコザル対宇野薫という同門(同族)対決も見てみたいものです(笑)。

ポケモンパン公式

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2009.01.18

2009年度センター試験国語

0249 日のセンター試験の国語、解いてみました。この情報量の多さはなんじゃ!この活字の小ささで新聞見開き4分の3。これを80分でやれとな?まあ、ひでえ問題だなあ…と思わずヤクザな言葉になってしまうほど、いやな問題でした。出題ミスのようなことはないのですが、なんというか、いったいこれでなんの力を見ようとしているのか、さっぱり分からない、というような問題がいくつかありました。
 だいたいですね、第1問の評論、栗原彬さんの「かんけりの政治学」、なんで今ごろこれを出すか!?って感じです。これってずいぶん昔の話じゃないですか。私も品川区の旗の台の近くに住んでまして、「かんけり」とかやってましたからね。ま、私の場合もう10年くらい遡りますが。いずれにせよ、四半世紀前の社会学を持ち出されてもねえ。
 いかにもニューアカデミズム的というか、ポストモダン的というか、構造主義的な「意味付け」を感じさせる文章でした。私はそういうのが好き、というか、自分もその学問的手法(いや、今となってはそれこそが「遊び」の手法だな)が好きですので、とっても楽しく読めましたが、生徒たちはきっと「かんけりはかんけりだよ!社会の縮図でも演習でもなんでもなく単なる遊びじゃん!なんだよ、コスモロジーって!ww」と思ったことでしょう(それでよろしい!)。
 そうした「意味付け」、あるいは「こじつけ」というものの面白さと空しさ、これは私の世代の人間にはよ〜くわかるところです。てか、このブログ自体そういう臭いがしますよね。ああ、ダサっ(笑)。
 「人生ゲーム」が出てきた段となっては、もう笑わずにはいられませんよね。でも、今の高校生の親が、まさにそういう世代でしたから、我が家もそうですけど、案外子どもたちとそのあたりは共有してるんですよね。そういうこともあって、まあ生徒たちは、この文章を理解することはしたんじゃないでしょうかね。なるほど〜、そうとも言えないことはない(なんとでも言える)わな、と。
 しかし、そこまではいいとして、問いがいけません。文章の理解という次元とはだいぶかけ離れた作業を要求する問いです。間違い探しって国語力なんでしょうか。
 まあ、しかたないか、出ちゃったものは。いずれにしてもその作業に時間がかかるいやな問題でした。途中でホントいやになった。とにかく、「遊び」を「社会への演習」だと捉えてまじめに論じているアカデミズム自体が「遊び」であるということに気づけばいいのだ!と(バカボンのパパ風に)叫びたい気持ちでいっぱいです(笑)。すみません、国語のセンセイがこんなんで。
 あっそうそう、注の1は「かんけり」についての説明でした。今どきの高校生は「缶蹴り」知らないのか…。
 第2問、小説は加賀乙彦さんの「雨の庭」。これも私の世代、70年代の話でしょうかね。ここでも注の1に愕然…いや、ウケてしまった。

1 塵芥の山に火を付けた−当時、家庭の廃棄物を個人で焼却することは禁止されていなかった。

 たしかに(笑)。時代は変わりましたね。ジェネレーション・ギャップ。昭和は遠くなりにけり。そういう意味では全問古文みたいなものですかね、高校生にとっては。
 問1の言葉の意味を選ぶ問題、これはまた完全に古文でしたね。

 ア 無聊に耐えられなかった
 イ 沽券にかかわる
 ウ 後片づけのはかは行かず

 ちなみに当地方では、今でも「はかが行く」という表現をしますのでちょっと有利だったかな。方言とは古い言葉づかい(古い標準語)が残ったものです(とは言い切れませんが、だいたい)。
 小説の選択肢にもちょっと微妙なものがありました。結局消去法で一番キズの少ないものを選ぶしかない。センター国語では、いつものことですけれど、なんか虚しいなあ。
 その点、第3問と第4問、すなわち古文と漢文(中国の古文)は、比較的読みやすく、また問いや選択肢も素直で解きやすかった。ただ、和歌の修辞法の問題、あれは微妙ですねえ。「表現技法とその効果」って言っておきながら、効果について述べていないものがある。それを選んじゃいけないんでしょうか。単に「表現技法」としておけばよかったのに。惑うではないか。
 漢文は新しいタイプの問いもありましたが、全体として易しめでしたね。これまた注が多く、それも含めて時間との闘いだったのではないでしょうか。
 という感じで、とにかく文字数が異様に多かった今年のセンターでした。結局、情報処理の早さを測ってるんでしょうかね。まあそれもたしかに世の中では必要な能力ですけれど…。

昨年のセンター国語の記事はこちらこちら

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2009.01.17

キース・ジャレット・トリオ『ザ・キュア』+受験の思い出(涙)

The Cure
Keith Jarrett Trio with Gary Peacock and Jack De Johnett
31avkttns8l_sl500_aa240_ ンター試験1日目ということで、微妙に緊張気味な私。ウチのクラスの娘っ子たち、いくつかの(考えられない)アクシデントはあったようですが、なんとか乗り切ったようです。
 こんな時は少し気持ちを落ち着けましょう。私も若かりし日々、共通一次試験の日を思い出して、このアルバムのこの曲を聴きましょうか。大好きな「Blame It on My Youth」です。「私の若さを責めてくれ」…若気の至りですな(笑)。この演奏は神懸かり的ですよ〜。
 ちなみに私の受験は大失敗でした。二次試験で遅刻した上に鼻血を噴出して会場中に迷惑をかけた以前に(ってこれもかなりひどいっすね)、共通一次でも妙なことがあったんですよ。
 てか、その前からだな。生徒にはよく話して笑ってもらってるんですけど、その年のお正月に初詣に行った時のことです。まずは近所の山の上にある「マイ神社」…誰も行かないような山の中の小さな祠…に元旦に行きましてね、それで気合い入れてあの鈴を思いっきり振ったら、根元から取れちゃいまして、結果背中に鈴を背負う状況になっちゃったんですよ(笑)。で、直そうと思ったけど届かない。まあ誰もいないからということで、下に置いて帰ってきちゃいました。その日の日記には「合格をもぎ取ったのです!」とか書いてありますが、今考えればフツーに落ちてるよな(笑)。若気の至り。「Blame It on My Youth」。
 で、翌日だったでしょうか、メジャーな大きな神社にも参ったんです。ものすごい人ごみで、なかなか賽銭箱までたどりつけません。なので、みんな遠くから投げてます。投げ銭。神社側もそれを承知で、でっかい網を賽銭箱から四方に張り巡していて、多少変な所に飛んでってもちゃんと回収できるようになってるんです。いちおう私、野球部でピッチャーやってましたから、そこんとこは自信あったんですよね。で、ピューッとストライク狙って投げたんですよ。20メートルくらい手前から。そしたら、見事に賽銭箱に吸い込まれていった…と思ったら、その賽銭箱と網のつなぎ目くらいに当たったんでしょうかね、ちょうど絶妙な弾力がある部分だったのか、とにかくトンでもないことが起きたんです。
 なななんと、投げた百円玉がそのまま帰ってきたんですよ!あり得ない…。というか、それを見事キャッチしたので、周りの人が大喝采してくれました。これは新年から縁起がいいぞ!とそのまま帰ってきました…おいおい、それって賽銭拒否されてるし、だいいちそのまま帰ってきたんだから、料金未納で大願成就するわけないじゃん!ううむ…若気の至り。「Blame It on My Youth」。
 もうその時に、自らの受験の失敗を予想すべきでした。しかし、私はその時若すぎた…。
 で、共通一次本番ですよ。ここでもホント不思議な、あり得ないことが起きました。さすがにビビった。たしか1時間目の英語の時間だと思います。それほど緊張もせず、調子よく問題を解いていて、さあ何分くらい経ったかなと、机上に置いた腕時計を見た瞬間です。
 ピシッ!
 私はたしかにその音を聞きました。な、なんと目の前の時計(当時としては高価なデジアナ時計で、私の宝物でした)のガラスが、ど真ん中縦一直線に割れたんです!
 いや、例えば、見たら割れてた…というならまだ分かりますよ。それが見た瞬間にピシッ!です。あり得ません。さすがにショックというか、動揺しましたよ。だって、大事な時計でしたし、その後ずっと時間を確認するたびに見るわけでしょ、その哀しい姿を…。ううむ、これは何だったのでしょう。これは、若気の至りでは解決できませんね。
 ちなみに共通一次の結果は悲惨なものでした。特に得意だったはずの国語が、予定より50点以上マイナス…それでも国語の先生になっちゃうんだから、人生は分かりませんね。
 そして、二次試験での悪夢の大渋滞→5キロ全力疾走+重度の花粉症=25分遅刻+鼻血大噴出…。まあ、これほど悲惨な大学受験もないでしょう(笑)。さらに発表の日にオチがあるんですが、もう辛くて語れません…笑。
 ま、そのおかげで、今こうしてここで楽しく教員させていただいてるので、人生どうなるか分かりませんね。失敗も不幸も含めて、人生には無駄なことは一つもない!全てなるべくしてなった運命です。たぶん、神様は若くて空気が読めない私に、いろいろなサインを送って、道を外れないようにしたのでしょう。なかなか気づかないので、どんどんエスカレートしてったということでしょうか。まったく、若気の至りというのは恐ろしい、というかタチが悪いっすね。「Blame It on My Youth」。
 おっと、なんだか全然関係ない話になってしまった。とにかく、このアルバムにキュアしてもらいましょう。なぜか、このアルバム、邦題は「ボディ・アンド・ソウル」になってしまっています。余計なお世話ですね。キュアでいいじゃないですか。「The Cure」という曲はキースのオリジナル。プリミティヴなビートとメロディーの名曲です。
 それにしても、このライヴでの「Blame It on My Youth」、とても若気の至りとは思えない成熟度です。これ以上の名演はないだろう、と思っていたら、キースはこちら『The Melody At Night, With You』で、さらにとんでもない名演奏を聴かせてくれました。長い闘病生活の末に至った境地です。
 そう考えると、この1990年の演奏は、まだ若気の至りだったのでしょうね。人はいつまでも成長していくものなのでした。そして、失敗や不幸や病気が、その人を大人にするのでした。人生には本当に無駄なんかありませんね。

Amazon The Cure

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2009.01.16

『クリップ携帯ストラップ』 (南青山ABITAX)

Img10062255146 来の、手首に通して落下を防ぐ通し輪(ランヤード)としての機能をほとんど失った「現代の根付」、ケータイストラップ。
 今回私が買ったこのストラップも全然ストラップじゃありませんね。だいいち、閉じた輪ではありません。完全にクリップ型をしています。でも、落下防止という機能性という意味では、多少本来の面影を残しているとも言えましょう。
 ほんと面白い文化ですね、ケータイストラップ。私なんか、これぞ日本の伝統文化だと思いますよ。
 根付は、江戸時代、帯に小物(印籠や煙草入れなど)を吊るすために使われた道具です。先っちょに様々にデザインされた「もの」が付いており、それが帯の上部に出て落下を防いでいたわけですね。その「もの」の装飾性が、市民の小さな、しかし大きな楽しみになってゆき、しまいには世界中で高く評価される「芸術品」になりました。
 ケータイストラップも似た進化を遂げていますね。最近では、日本得意のミニチュア工芸技術の粋を尽くして、まあいろんなものがあるわあるわ。今回私はこういう、ある意味変ったものを買いましたが、これを買った携帯グッズ専門店ストラップヤ.comでは、ホントいろんな「工芸品」を見ることができまして、しばし楽しく鑑賞させていただきましたよ。
 こういうケータイ文化は日本だけなんでしょうかね。ま、外国にも多少はあるでしょうけど、ここまで発展してないんじゃないでしょうか。
 で、私はですね、とにかく「落下を防ぐ」という機能を重視する変わり者(なんか納得いきませんが…笑)でして、今までは、あのパチンと止めるクリップが先っちょにあって、ビヨ〜ンと伸びる螺旋状のヒモ(?)が付いているヤツを使ってたんですけど、なにしろあまりに洒落っ気がないというか、オヤジ臭くてですね、まあ生徒からも非常に評判が悪かったんですよ。
 それで、今まで使っていたそのパチンビヨ〜ンが壊れたのを機に、ちょっとシャレたのを探しましてね、見つけたのがコレというわけです。
Uni_1865 なになに?南青山ABITAX?なんかカッコいいぞ。えっと、ABITAXやデザイナー山口和馬さんについてはこちらの記事を読むとよ〜くわかります。なるほど本格的である。これなら生徒も文句言えないでしょう(笑)。
 で、実際使ってみますと、なかなかよろしい。本当に構造はシンプルでして、単に素材の弾性によって挟むだけのシロモノです。でもその質感や操作感(操作というほどのものではありませんが)が確かに素晴らしい。プロダクト・デザインの奥深さを感じる…大げさでなくちょっと感心しました。
 そのパッチン感、挟む力は、バネ的な機構が付いていないのでそれほど強力ではありません。ですから、ワイシャツの胸ポケットなどのように薄い素材ですと、ほとんど挟んでいない状態ですので落下の危険性がありますね。しかし、上着やズボンのポケット、ベルトやカバンなどに装着すると、なかなかしっかりした固定感(ひっかかり感)があります。
 豊富で魅力的なカラーがあるんですけど、私は地味にオリーブ色を選びました。いちおう仕事中も装着していますし、いろんな色の服に合うかなと思いまして。
Uni_1869 上の写真はワイシャツの胸ポケットにとめた図。こちらは茶色のフリースに装着した図です。まあなかなかさりげないけれども、しかし微妙に自己主張していていいですね。
 女性なんかで、カバンにケータイを放り込んでおく人には、うってつけかもしれません。ウチのカミさんなんかも、しょっちゅうゴソゴソ探してますからねえ。ファッション的にもワンポイントになりますでしょ。
 皆さんは今、どういうストラップを使っていますか?いくつ付けてますか?いずれにせよ、ちょっとした小物にあなたの個性が現れるという、その文化的側面に注目してみるのもまた面白いですし、その小さな、しかし大きなこだわりから、自分自身を客観的に見直すのもまたオツなものですよ。

ps iPhoneに替えましたが相変わらず重宝してます。こちらの記事参照。

南青山ABITAX アビタックス 4617 クリップ携帯ストラップ OLIVE

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2009.01.15

『言葉の誕生~私たちはいかにして人間になったのか~』 (NHKハイビジョン特集 フロンティア)

5 ょっと忙しいので気がついたことだけ書いておきます。
 言語の起源に関していくつかの説が紹介されていましたが、まず面白い対照をなしていたのが、プロヴァンス大学ジャック・ウォークレアさんの「身振り起源説」と理化学研究所脳科学総合研究センター岡ノ谷一夫さんの「歌起源説」。
 「身振り起源説」では特定の猿が右手を使って意志を伝達している様子が紹介されました。右手で地面を叩いていました。右手を使うということは左脳を使うということ。一般的には左脳は言語を司っていると言われていますから、これは面白い事実ですね。
 一方「歌起源説」では、鳥の鳴き声やアフリカの原住民に伝わる歌の分析から、言語は歌から生まれたと主張されていました。一見(一聴)無意味なメロディーが何度も聴いているうちに、ある種の単語に分節されていく様子は実に興味深かった。音楽をやっているものにとって、これは常日頃言語との関係において意識されていることですから。ちなみに音楽的領域を司るのは右脳だと言われていますね。
 で、思ったのは、この二つは両方ともある意味正しいなということです。
 英語などの印欧語は基本、強弱(ストレス)アクセントですよね。一方、日本語や中国語などアジアの言語には高低(ピッチ)アクセントの言語が目立ちます。また、日本語はやや特殊で、言語でありながら右脳の関与が大きいとも言われています。
 そうです。私は猿と鳥の映像を見ていて、あああっちは猿、こっちは鳥だなと思ったのです。右手でリズムを刻んでいたのが、声でリズムをとるようになり、そして強弱アクセントの言語に進化したと。そして、鳥のように歌っていたのが進化して高低アクセントの言語になったと。これで左脳、右脳の問題も解決しそうです。
 こうしたことは、東西両方の音楽をやっている者としても、気になっていたことです。特に歌詞のついた音楽をやる時、両者の差異を意識することは避けて通れません。
 ところで、番組中、北陸先端化学大学院大学橋本敬さんの興味深い研究が紹介されていました。言語が爆発的に進化するために、「リプレイス」が重要な鍵を握っているとのこと。すなわち、「青い空」「青い川」「青いくだもの」など実在するものだけでなく、「青い心」などという創造的・想像的な観念を表現できるようになることが、人間的な言語の発達に大きく関わっているのだそうです。なるほど、そういうフィクションを作り出す能力こそ人間と他の動物を画すものであることはたしたですね。ワタクシ的に言うと「モノガタリ」、「コト化」です。
 ただ、一つ苦言を呈しておきます。橋本さんもナレーターも「シミュレーション」を「シュミレーション」と言い続けていたように思えるんですが…(笑)。私の耳がおかしいのでしょうか。ま、「あらたし(新たし)」が「あたらし」になっちゃったように、こういうふうに音韻の転倒(リプレイス?)によって言語は進化していくんですけどね(笑)。いや、冗談抜きで誤謬や失敗も進化のエネルギーであることは、言語だけではなく、科学や工業など他の分野でもフツーに見られることですからね。
 ほかにも私の「モノ・コト論」的にも面白い発見がありましたし、相変わらずのチョムスキー節も聞けたし、けっこう面白い番組でした。

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2009.01.14

『レッツゴーヤング〜思いっきりサンバ〜 (81.3.22)』(NHK BS2 蔵出し劇場)

1 に続き81年のレッツゴーヤングが放映されました。今回は80年度最後の放送ということで、サンデーズのメンバーや司会の平尾昌晃さん、石野真子さんの卒業が大きなテーマとなっていました。
 サンデーズの皆さん、倉田まり子の「グラジュエイション(都倉俊一作曲)」の合唱でみんな抱き合って泣いてます。ご覧のように、松田聖子ちゃんも大口開けて号泣してますが、考えてみると、このあと聖子ちゃんは田原俊彦くんとともに、司会に昇格し、その後1年半にわたって番組進行を務めるんですよね。あの泣きっぷりからして、すっかり卒業だと思っちゃいました。さすが聖子ちゃん!
 次期サンデーズのメンバーが紹介されましたね。坂上俊恵、沢村美奈子、川島恵、日高のり子、田口トモ子、堤大二郎、ひかる一平、山田晃士…ううむ、ちょっとパワーダウンかなあ。田口トモ子って全然記憶にないんですけど、田口トモロヲさんの妹じゃないっすねよね(笑)。
4 あとちょっとレアだなと思ったのは、中学生テクノバンド「コスミック・インベンション」が出てたこと。デビュー曲「YAKIMOKI」を演奏しておりました。今聴くと、なかなか新しいぞよ。当時はものすごくバカにした記憶がありますが(笑)。YMOジュニアという位置づけだったと記憶しています。なかなか渋いシンセサイザー群を使っているな、ファーストマンかよ!…と思ったら、さっきWikiで調べて知ったんですけど、ドラムス&ボーカルの森岡みまさんのお父さん、あのモズライトを日本で扱ったファーストマンの森岡一夫さんなんですね!ウワォ!知らんかった。あとどの子かわかりませんが、男の子の一人はAKB48の「制服が邪魔をする」の作曲家になってたんだ。
3 さて、今回の放送では、そうした本編も懐かしく面白かったのですが、なんと言っても、本編終了後の現在形太川陽介さん&石野真子さんの会話が良かったっすね。石野真子さん、この時レッツヤンを卒業したわけですが、太川さんのつっこみに対して「よんどころない事情でお休みさせていただくちょっと前で、それにむかって希望キラキラの頃…」と言っておりました。そうですね、この5ヶ月後、真子ちゃんは長渕剛さんと結婚するのでした。仲人は吉田拓郎・浅田美代子夫妻でしたっけ。御存知のように少女真子ちゃん憧れの結婚生活は2年足らずで終止符が打たれます。その後もいろいろありましたが、こうして相変わらずのボケっぷりで笑い飛ばし、「私は一度も結婚したことがありません」と語る現在形石野真子さん、いい味出してますね。太川さんもタジタジでした。
 で、今回の番組を観ていて、そのように若い頃にいろいろ経験した石野真子さんのですね、とっても素晴らしい演技を思い出したんですが、皆さん御存知でしょうか。
 それは1994年3月にNHKで放映された山田太一脚本のドラマ「なんだか人か恋しくて」です。当時、真子さんは二度目の結婚生活を送っておられたわけですが、実はこのドラマでもそういう役回りだったんです。
 このドラマ、山田太一さんらしくなかなか味わい深い内容でした。平田満さん演ずる高校教師が、昔恋に落ちた教え子(石野真子さん)に会いにいくんです。自らも結婚して妻子がいるんですけど、その教え子の旦那さんが亡くなった(長渕剛が死んだってこと?…笑)と聞いて、どうしても会いたくなって会いに行っちゃうんです。まあプチ不倫ですね。そこに現在の教え子高校生カップルの稚拙な恋愛が重なって、実にスリリングな旅が始まるんですけど、まあ結末を言ってしまうと、先生、昔の教え子(石野真子さん)に会っちゃうんですね。でも、その教え子は再婚していた…と。その時の石野さんの複雑な心うちを表現した演技、あの笑顔と涙が実に良かった。当時犯人役ばっかりやってた石野さんですが、私はこの演技を観て、あらためて石野真子さんのタレント(才能)に感銘を受けた記憶があります。
 このドラマ、しっかりビデオに保存していたんですが、今そのビデオ自体が行方不明になってしまっています。もう一度ぜひ観たいドラマなんですが…。

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2009.01.13

リカルデント 「スマートタイム」

Recaldent Smart time
1 日一食(夕食のみ)を相変わらず続けていまして、そうですねえ、もうすぐ丸5年になりましょうか。人間はこれでも充分健康に生きられる…どころか非常に充実した毎日を送ることができるということを、身をもって証明しております。とにかく「若いね」と言われることが多いことはたしかですよ。
 世界中の皆さんがこのような食生活になれば、食糧問題も解決するし、温暖化もストップするかもしれませんね。何しろ何億人もが、無駄なエネルギーを摂取して、それを一生懸命燃焼させようとしてるわけですから。
 ま、そんなこと言っても、いつポコッと死んでしまうかもしれませんし、突然難病に冒されるかもしれませんし、あるいは突然ボケるかもしれないし、なにしろこれは実験なので、今後どうなるかはわかりません。あんまり真似しないように(笑)。
 しかし、断食道をここまで極めていてもですね、腹が減るのはおそらく他の人とそんなに変りません。ただ、それに耐えられるかどうかということでしょう。すなわち本能に打ち勝つかどうか。これは修行…道であります。とか言って、けっこう誘惑には負けてます。アメをなめたり、せんべい食ったり、そこにあれば手が伸びます。もちろんそれはほんの少量でして、食事をするのに比べれば圧倒的にカロリーは少ないんですが。
 で、最近気に入っている「おつまみ」は、この「スマートタイム」です。つまり誘惑や本能を疑似的に満たしてくれる修行の友です。
 そうそう、以前リカルデントのボトルガムを紹介しましたね。リカルデント(旧トライデント)のいいところは、味が長持ちすること。これは今でも他を圧倒しています。これはポイントですよ。なんとなく、他の会社より地味、すなわちあんまりきらびやかでなく、ヴァラエティーに富んでいないように見えますが、実は飽きのこない味という面でも優れています。たまに魔が差して他のメーカーのボトルガムを買ってしまうと、いつも後悔します。味はすぐなくなるくせに、なかなかボトルの中身はなくならないような気がして。
 さて、この「スマートタイム」ですけど、CMでもやってるとおり、やっぱり修行のお伴のようですね。つまり一般の人にとっては、ダイエットの補助食品という位置づけなんですね。なんとなく小腹が空いた時に、クッキーとかポテチとかに手を出さず、これをカミカミしなさいと。
2 普通はガムでは空腹は満たされませんが、これは単なるガムではないんです。中に「ジューシーリキッド」という液体というかペーストが充填されてまして、一噛み目でそれがジュワーッと出てくる。これが案外多めですし、たしかに絶妙な甘さがあって、我々の甘味願望はそれでけっこう満たされてしまいます。そして、噛めば噛むほどに、そのペーストの味がガムに染み込んでいく感じがしまして不思議な味わいになります。そして、それからがリカルデントの面目躍如でありまして、そうですねえ数十分は味が消えませんね。気がつくと1時間クチャクチャやってることもあります。
 私はこれを朝ご飯がわりに出勤の車の中で噛みます。今、ウチのあたりは雪が降ってとんでもない凍結路になってますので、夏場より数分出勤時間が長くなってまして、そうですねえ、ちょうど20分くらいでしょうかね、その間、もちろん一粒で充分です。一般のボトルガムは二粒いっぺんにという仕様で作られているようですけど、これは一粒でいい。1ボトルにいくつ入ってるかわかりませんが、基本私は一日一粒ですからずいぶん持ちますね。
 これだけ満足が得られて、口の中もさわやかになって、そしてカロリーは一粒3kcalだそうです。ウチは学校なので、仕事中のクチャクチャはちょっとやりにくいのですが、それが許される職場では、仕事の能率を上げるにもいいのではないでしょうか。もちろん受験勉強という修行のお伴にも最適だと思います。
 皆さんも一度試してみてください。コンビニで手に入ります。最初はボトルではなく、スティックタイプで試してみるのもいいかもしれませんね。

リカルデント公式
スマートタイム

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2009.01.12

『小津安二郎日記 無常とたわむれた巨匠』 都築政昭 (講談社)

06206239 夫婦のところから荷物が送られてきまして、なぜか猪木の闘魂タオルなどに混じって、小津本が何冊か入っておりました。そのうちの1冊。さっそく読んでみました。
 他人の日記を読むというのは、ちょっと罪悪感があると同時に、その覗き見感がたまらなく面白いものです。特に表現者として有名な方々のそれは、その作品として表現されたものとのギャップが必ずあり、そこが面白かったり、ショックだったり、あるいは意外だったりして、興味を引かれたり、ああ見なきゃよかったと思わせられたりする。
 今までも何人かの表現者の日記本を紹介してきたと思います。そんな中で、この小津安二郎日記はまた、心にしみるものとなりました。
 小津の日記は、小さな手帳に小さな字でぎっしり書かれています。それはもちろん人に見せる、あるいはのちに人に見られるといった意識のもとに書かれたものではなく、本当に淡々と日々の出来事、雑感をメモしたもので、そこに実用上(仕事上)の必要性や便宜性も感じられませんし、自らの思索を深めるための一種の訓練であるとも思われません。単に習慣としてのメモでしょう。
 こういうメモすること自体を目的化している、いわゆるメモ魔は、身近にもけっこういます。私の父親もそうですね。ちなみに私はその対極にある人間で、いかにメモしないで生きるかを目的化しています(笑)。このブログは毎日日記のように書いていますが、これは全くメモ的な性格はありません。
 メモというのは、思いついたこと、目に入ったことなど、いわゆる「コト」の散逸を避けるために記録する性質のものだと思いますが、私のこの記述(記録ではない)は、記述することによって、「コト」を生む作業であります。つまり、自分でも認知していなかった「モノ」を、書くという行為で「コト」化する、すなわち「物語」行為です。つまり、書きはじめる瞬間は何も考えていないし、何の構想もないんですよ。今日もそうです。
 まあ、そんな自分の話はどうでもいいや。小津の日記です。小津の日記は本当にメモといった感じですね。ある意味他愛もないことが淡々と書かれている。風呂に入っただの、昼寝しただの、酒を呑んだだの、誰と会っただの。それは都築さんが書いているとおり、基本的に自分の最も幸福だと思われる瞬間を抽出しているようにも思われます。
 しかし、時々、突然暗い調子で、世の無常を嘆いたり、自らのそうした日常をつまらながったり、自己嫌悪に陥ったりするんですね。それが本当に暗い閃光のようにこちらの胸に突き刺さるんですよね。孤独に耐えられなくなっている感じがする。それは誰しもにある恐怖の瞬間ですから、私たちはおそらく皆、そんな小津の弱々しい姿に、驚くとともについつい共感してしまうのではないでしょうか。
 そんな素の小津と、私が感じてきた小津作品の創造者としての小津とのギャップは、なかなか埋まりません。おそらく小津は、そうしたプライベートな自分と、パブリックな作品とをしっかり分ける才能を持っていたんだと思います。いや、映画という芸術自身が、共同作業を旨とするものなので、比較的個人性を避け得るのかもしれません。いやいや、小津がこだわった自らの映画文法こそ、抽象化された小津自身の孤独な姿だったのかもしれませんね。
 この本は、日記を年代順に並べて抽出しながら、別の記録からわかるその時々の小津の活動、生活ぶりを併記し、解説を加えたものですから、小津の人生や作品、そして時代背景などを復習するにはなかなか便利な本だと思います。もちろん、私の知らない情報もたくさんありました。
 中でも注目して読んだのは、今の自分と同じ年齢の時期の日記です。その頃、小津は映画を「男一生の仕事」と決しながら、しかしいろいろと迷っています。そして、作品としては「あまりいい失敗作ではなかった」『風の中の牝鶏』を作ってしまいます。たしかにあの作品はあまりに異質な感じがしますね(私は嫌いではありませんが)。
 なんとなく私は、こんな小津を知って少し安心してしまいました。私も今の仕事を一生の仕事として考えていますし、いやもう逃げられないという覚悟とでもいうのでしょうか、そういう諦めとも言える境地になっていると同時に、相変わらずフラフラと迷って失敗を繰り返しています。ですから、尊敬する小津安二郎先生も、自分と同じ年齢の頃、こんな感じだったと知って安堵したわけです。
 しかし、一方で、その後の小津の芸術的完成と商業的成功を見るに、自分はこれからこういうふうに高まっていけるのか、ちょっと不安にもなりましたね(というか、小津と自分を一緒にするな!と自分で突っ込んでるんですが…笑)。
 小津の日記に底流する「無常観」「ものの哀れ(もののあはれ)」は、やはり孤独が生んだものだったのでしょうか。作品では、何度も夫になり、父親になり、何度も娘を嫁に出した小津ですが、実生活では生涯独身でした。私には、小津は「無常とたわむれた」とは思えません。「無常」と「もののあはれ」と「孤独」に常にさいなまれ、それと格闘して、いや、そこから逃避して、自らの理想を自らの文法で固定する作品という「コト」を為した(すなわちシゴトをした)のが、小津安二郎だったのかもしれません。

Amazon 小津安二郎日記

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2009.01.11

『こねこ〜旅するチグラーシャ〜』 イワン・ポポフ監督作品

Котёнок
Koneko 句なしの名作猫映画!だいたい猫の映像作品は痛いものが多いのですが、これは別格。素晴らしすぎです。
 昨日、今日とBS11で放映されていました。私は7年くらい前でしょうか、秋田のディスカウントショップで500円で売っていたVHSビデオを買ったんです。それで初めて観まして、その時も本当に感動しました。猫の可愛さ、素晴らしさも当然だったんですけど、なにしろロシア映画のあの雰囲気ですね、あれが良くてものすごく切なくなったのを覚えています。その時、ちょうど秋田は冬でして、なんとなくあの雪景色というか、あの重たい曇り空というか、そういう雰囲気も手伝ったのかもしれませんが。
 その500円の格安ビデオを買った時は、どうせ子猫がたくさん出てくるイメージビデオだと思ったんです。現代(ソ連崩壊後の)ロシア映画なんて観たことなかったし、なにしろディスカウントショップで500円ですから。そしたら、まあなんとも素晴らしい映画ではないですか。思わず見入ってしまったんです。
 でも、今日久々に観ましてね、ちょっと意外だったのは、案外明るいイメージだったということです。実はそのVHSの映像は妙に暗くて、ああ、ロシア映画ってこんな感じなのかな、なんかあまりに映像が暗くて何が起きてるか分からないシーンがたくさんあって、これは独特の表現だな、なんて思ってたんですけど、あれは単に商品化の際の映像調整に失敗してたんですね、きっと。
 あと、そのビデオは吹き替えではなくて、字幕でした。ロシアの役者さんたちの淡々としたセリフ回しもきっとそういう雰囲気を醸すのを手伝っていたのかもしれません。吹き替えは普通に日本人風に明るい感じですので。
 それにしても、この映画に出てくる猫たちの個性的なキャラクターとその演技、本当にいいですね。単にカワイイだけではありません。自然に、しかし雄弁に猫の魅力を語り尽くしています。猫好きにはもちろん、そうでない人の心にも、さすがに響くと思いますよ。
Koneko1 主役(?)の子猫チグラーシャ(タイガー…トラちゃんってことですかね)、ワーシャ、ジンジン、シャフ、イザウラ、プショーク、ペルシーク…本当に素晴らしい演技です。なぜ猫がここまで演技できるか。それは、この猫たちが、人間の主役フェージンを演じるアンドレイ・クズネツォフと絶対的な信頼関係で結ばれ、そして見事にトレーニングされているからです。
 というのは、このクズネツォフは実世界において、世界的に有名な猫のサーカス劇場を主催する人。世界一のネコ使いとして有名な方です。このサーカス団、何度か日本にも来てますよね、たしか。ぜひ一度生で観たいものです。
 で、このクズネツォフさんが役者としてまた最高です。淡々と、しかし実に味わい深く、ちょっと切ない役を見事に演じています。おそらくご本人そのままのキャラクターだと思います。猫たちに対する温かい愛情はもちろん、売店のお姉さんへのほのかな恋情など(実は、私はそこに感動というか、切なくやるせなくなったんですが)、本当に心に残る演技をしています。
 1996年に製作されたこの映画では、ソ連崩壊後のロシアが次第に変化していく、そんな様子も街の風景から少し読み取れます。少しずつですが西欧諸国、あるいはアメリカの文化が流入し、それまでの伝統が崩れていったのでしょうか。
 低予算で作られたからでしょうか、決して派手さはありませんが、それがまた我々西側の映画に親しんだ者には新鮮に映りますね。ちなみに子猫の帰りを待つ姉弟役はポポフ監督の実の子どもさんだそうです。
 全編を通じて流れるマルク・ミンコフの音楽が郷愁を誘い、これまた実によろしい。短調の中に温かさを表現しています。温かさ、愛情の裏側にある切なさ、それは「もののあはれ」だと思いますが、それが音楽にも表れていますね。ショパンに通ずるものを感じたのは私だけではないでしょう。そして、ちょっとひょうきんなお父さんが演奏するヴィヴァルディのフルート協奏曲「夜」がまたそれらとよきコントラストをなしています。お見事な選曲。
 ところで、この映画、外国作品としては珍しく、文部科学省選定映画となっています(ついでに財団法人日本動物愛護協会推薦にも)。でも、よく観ていると、猫たちによる詐欺、家宅侵入、暴力、窃盗、器物損壊など犯罪行為満載ですね(笑)。

Amazon こねこ 「こねこ」とロシア映画のいま

楽天ブックス こねこ 旅するチグラーシャ

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2009.01.10

『越の寒中梅 純米吟醸』(新潟銘醸)

Kanntyuu_j350 日は、東京は品川区へ出張。妙に緊張して肩凝りました。疲れがたまっている感じ。
 夕方その用事がすみまして、さて、雪の富士山に帰ろうかなと思いましたが、せっかく品川区に来たので、昔住んでいた大森や雪谷のあたりを通って帰ることにしました。それで、国道15号を南下している時に、あることを思いついちゃったんですよね。
 あっそうだ、大森にあれがあったな、とりあえず通過だけしてこう、と。「あれ」とは、大晦日さいたまスーパーアリーナで行われたDynamite!でメインに出場したあの選手の道場のことです。1年くらい前に一度訪れていましたし、昔住んでいた町ですから場所はすぐにわかりました。
 で、いちおう今ここいるよと、富士山のカミさんのところにメールしましたら、今日は道場の新年会だから(よく知っているな)、ぜひ酒を届けてくれ!って言うじゃないですか。そんな、いきなり私が乗り込んで行ったら変ですよ〜。さすがにそれは無理と断ったんですけど、たしかにここのところ、そういう妙な突撃力は身についてきているし、これも何かのご縁、お導きだと思って、近くのスーパーでお酒を買って突撃しちゃいました。
 まだ昼間だったので、マネージャーさんお一人しかいませんでしたが、ちゃんとお酒と名刺を受けとってくださいました。今ごろ、呑んでるかな?格闘家はみんなよく呑みますからね。
 考えてみれば彼にお酒を送るのは二度目なんですよ。というのは、去年の春、カミさんと娘たちが酒とポケモンカード持って突撃してましたので(笑)。まったく困った夫婦(家族)です。すみません。
 で、買っていったのがこのお酒。小千谷にある新潟銘醸さんの「越の寒中梅」です。スーパーでも比較的手に入りやすく、またなんとなく「越乃寒梅」に似てますのでB級ものと思われがちですが、とんでもない。純米吟醸マニアの私の中でも、かなり評価の高いお酒の一つです。
 淡麗な喉ごしだけでなく、嫌みのない吟醸香と後味がいい。ついつい呑みすぎてしまうタイプのお酒ですね。あまり個性的でない、その謙虚なところがいい。それでいてお値段もお手ごろですので、こういう宴会にはうってつけのお酒でしょう。あんまり高いお酒だと宴会ではもったいないっす(笑)。
4965647607059b あと、このお酒の魅力の一つがですね、なんとカップ酒としても売っているということです。それもスーパーやコンビニで手に入ります。
 このカップ酒、酒文化研究所日本酒チャンピオンズカップ2008でグランプリ獲ったんですよね。それはそうでしょう。カップ酒でこのクオリティーは、正直ぜいたくです。
 はっきり申しますと、私、「越乃寒梅」よりずっとこちらの方が好きです。もちろん、「越乃寒梅」も大吟醸クラスになりますと、それはそれなりに美味しいと思いますが、なにしろそれはお値段から来るイメージ的なものもあるので…。目隠ししてテイスティングしたら、私はこういうさっぱりした謙虚なお酒を選びそうです。まあ、こうなるともう趣味の問題ですけど。
 というわけで、今日は公私ともどもいろんな所に突撃しまして、妙に疲れてしまいました。しかし、突撃せずして出会いなし、であります。今年もまたご迷惑にならない程度に突撃し続けたいと思っています。

新潟銘醸株式会社 公式

【新潟銘醸】純米吟醸 越の寒中梅 1800ml

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2009.01.09

ステファン・グラッペリ 『ライヴ・アット・ザ・ブルーノート』

Live at the Blue Note ~ Stephane Grappelli
41z0h59trtl_sl500_aa240_ 日、村の成人式。昨年同様演奏を頼まれたんですが、残念ながら私は出張でして、今年は、昨年一緒にやっていただいたチェンバリスト(&胡弓・ガンバ奏者)の渡辺敏晴さんに全ておまかせすることにしました。よろしくお願いします。
 ということで、今日は大雪の中、はるばる群馬から渡辺さんがいらっしゃいまして、夜は恒例?の飲み会。渡辺さんとは、音楽だけでなくいろいろとディープな話で盛り上がるんですが、とてもここでは公開できませんので(?)、まじめに音楽のお話を紹介します。
 渡辺さんのいろいろな話の中で興味深かったのは、リズムの話です。最近、私も1・2・3・4…と数えるのとは違うリズムをテーマにいろいろ考えたり、書いたりすることが多かったので、渡辺さんの話は妙に腑に落ちるものがありました。
 たしかに音楽のみならず、人間が感じるリズムというのは、リニアなものではなく、サイクルですよね。一周をいくつに分けるか。つまり時計のように円を描いて回っていると考えられがちです。
 では、それが中心の定まった真円であればより良いのかというと、どうも違うらしい。実は中心もある種の円運動をしていたりして、つまり、微妙な揺らぎというかぶれというか、そういうものがないと、生命力のあるリズムにならないのではないかと。
 これはもちろん、我々音楽を演奏するものにとっては、日常的に感じていることでもあります。メトロノームのような、あるいはシーケンサーのような正確なリズムからは、私たちは人間的な音楽を感じません(最近はそれを逆手にとったクールな商業音楽もありますが…)。
 ですから、その中心の運動というのが実は重要なのではないか、と思ったのです。適当に中心をずらして、でも一周回って帰ってくるところで辻褄を合わせる、というのは、たぶん私でもできます。でも、それが本当に心地よいかというと、おそらくそうではない。単に不正確なリズムに聞こえるかもしれません。
 その点、今日も話に出ました、美空ひばりやステファン・グラッペリなんか、その中心の運動がそれこそ見事なのではないか。さらに彼らのすごいところは、それが1周単位ではなく、何周も何周も、あるいは1曲通しての正確な設計図のようなものがあって、それに従って細部に分割して「リズム」を刻んでいるように感じるところです。これは私なんぞにはとてもできません。
 まあ、その揺らぎこそが、ノリでありスウィングであるわけですが、それを万人が感じて、そして共振して心地よくなるというのは、本当に不思議な気がします。この前のオスカー・ピーターソンで言えば、「ストリーム」というやつですよ。これを科学的に、数値的に表すのはほとんど無理でしょうね。
 で、渡辺さんの話で面白かったのは、それを陶芸家の方に話したら、みんな納得したというか、なるほどそれでいいのか!と言ったというんですね。たしかにろくろを回している時、最初はどうしても真円を目指す、つまり中心を定めることに執心しちゃうじゃないですか。でも、実際の名品は微妙に中心のぶれているものが多い。それは確かです。
 考えてみれば、天体の運動も、ほとんどが真円ではなく、揺らぎを伴った楕円軌道を描きます。宇宙全体で考えても、相対的には不動の点を設定できますが、絶対的には不動の点など存在しません。そして、そうしたある種の不均衡の状態は対称性の破れとして、実は宇宙に根源的に存在しているのでした。
 と、ちょっと話が大げさになってしまいました。お酒のせいで、脳内に不均衡が生じ、無用な生命力が生まれたようです(笑)。
 で、今日突然紹介するのは、グラッペリ翁の名演です。95年ですから亡くなる2年前、87歳の時のライヴでしょうか。生き生きとしたリズム、正確な音程、しゃれた表現…私からしますと、この次元でそれらを実現しているのは、グラッペリとひばりしかいないような気さえします。
 そして、このライヴの素晴らしいところは、ブルーノートならではのお客さんとの距離感、そして、両ピザレリのすごすぎるギターです。こんなのを生で聴いたら、卒倒しちゃいますよ、きっと。これは宇宙だ!

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2009.01.08

『「授業」で選ぶ中高一貫校―中学受験』 鈴木隆祐 (学習研究社)

05302676 にウチの娘たちに中学受験させようというわけではありませんし、ウチの学校が今すぐに中高一貫化するというわけでもないのですが、いちおう仕事上、刺激を受ける目的で読んでみました。いやはや、本当に刺激を受けましたね。
 学校の先生というのは、どうしても閉鎖的になりがちです。よく言われているとおりです。教室でお山の大将になるのはもちろん、なかなか他の人の授業を体験することができませんし、まあ極論すれば、何度も書いてますが、私みたいに幼稚園以来ずっと学校にいて、社会に出たことがない人がほとんどでしょうからね。世間知らずになるのは当然ですよ。
 で、同業者のことすらあんまり知らないでどんどん自分の世界に閉じこもっていってしまう。先生の記憶やイメージなんていうのは、結局自分の児童・生徒・学生時代のそれしかなかったりして。危ない仕事ですね。特に私みたいに私学の先生だと、よりその危険度は増します。なにしろ転勤もないんで。
 私は私なりにそういう危険を回避するためいろいろと工夫をしているつもりです。ま、そんな立派なことをしてるわけではありませんが、簡単に言えばルーティン・ワークにならないように、毎年新しい何かを立ち上げて、その準備やら運営やらでヒーヒー言ってるってとこでしょうか。言い出しっぺになるっていうことです。
 あと、こういう本を読んだり、他校をずうずうしく訪ねたりしたり、同業の仲間やライバルの動向を探るということもできるかぎりしています。それ以上にやっているのは、趣味を通じて異業種のプロフェッショナルの方々と交流することでしょうかね。それ自体がほとんど趣味ですから。
 で、最近の教育界の大きな流れとなっている中高一貫教育に関する本も何冊が読んでみたわけです。都会では…というか、田舎以外では本流になってますね、この中高一貫は。私の学校のある地域はいわゆる田舎ですし、教育観自体ずいぶん古くさいものが残っているような所ですから、都会の、特に東京の私学事情はほとんど参考にならないんですけれど、ただ、そういう流れが、あと10年とか20年とかすれば、田舎にもやってくる可能性はかなりありますので。
 その何冊かの本の中で、圧倒的に面白く、有用で、刺激を受けたのがこの本でした。なにしろ、その切り口がいい。他の本はほとんどが偏差値やら進学実績やら「お買い得感」やらをランキングしたようなものばかり。たしかにそういうカタログ的なものも必要だとは思います。でも、やはり学校関係者としては、学校の持つ伝統や雰囲気、カラーや味わいというものは、そうした数値的なものではなかなか表されないということを、常日頃実感していますからね。
 では、それを表現するのは何かといいますと、これはもう学校本来の商品、コンテンツである「授業」と、その消費者である生徒の反応(表情)しかないでしょう。それを実際にその現場である教室に出向き、しっかりその伝統や雰囲気、カラーや味わいというものを肌で感じ、そして、見事な文章で(実はここもとても重要です)まとめあげたのがこの本です。
 もちろん、実地に取材といっても、それは多少お客さん向けの部分もあるでしょうし、だいいちが、その壮大かつ膨大な商品のほんの一部でしかないことはたしかです。しかし、だからこそ、その取材力と表現力が問われるわけですね。いかに効率良くその根底にあるその学校の個性を読み取り伝えるか。
 これはジャーナリストの基本でしょう。どんな分野においても。それがちゃんとできている人の、ちゃんとした文章に出会うことは、実はそうそうありません。どんな仕事においてもそうですが、その仕事に対する誇りと愛情がなければ、生まれる「作品」に生命力がないのは当然ですね。もちろん、学校教育という仕事においても全く同じことが言えます。
 そういう意味で、取材者であり筆者である鈴木さんがしっかりした仕事ぶりなだけに、いわゆる「有名」中高一貫校の、有名である所以であるところのしっかりした仕事ぶりがくっきりと伝わってくる本であるとも言えます。自らを省みて、本当に恥ずかしくなるような時が何度もありましたし、それだからこそやる気が喚起されたという部分もありました。
 やはり、どんな仕事でも、誠意のあるちゃんとした内容を提供していれば、それなりの評価を受けると。でも、それだけではダメな部分もある。宣伝やイメージ戦略も大切だったりして。そこんとこが難しいんですよね。ただ、そういう宣伝やイメージ戦略が単なる虚飾にならないように、商品本体の方をしっかり磨いておかねばならないということが基本だなと、今さらながら思いました。
 さて、この本を読んでいて、ちょっとびっくりしたのは、私の出た静岡高校の話が出てきたことです。もちろんあそこは中高一貫校ではありませんよね。では、なぜ?実は、筆者が教育の世界に興味を持つきっかけとなった恩師が静岡高校の出身で、その方は高校時代、漢文の小倉先生の薫陶を受けたというのです。私は小倉先生には直接教わりませんでしたが、まあ、そのほかにもたくさんの個性的な先生がいらっしゃいましたね。たしかに私も静高のいろいろな先生に影響を受けてますよ。そういう意味では、間接的にですが、著者である鈴木さんとも、どこかで「伝統や雰囲気、カラーや味わい」というDNAみたいなものを共有しているのかな、と思いました。
 いずれはウチの学校も鈴木さんに取材してもらえるような学校にしたいと思っています。ま、田舎の小さな学校ですので、違う企画になると思いますけど。
 最後に、蛇足かもしれませんが、この本この著者はこちらの本こちらの著者と対照的でした(笑)。
 
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2009.01.07

『レッツゴーヤング〜青い花火〜 (81.1.25)』(NHK BS2 蔵出し劇場)

15 わぁ!懐かしい!当時私は16歳。高校2年生かな。ジョン・レノンが亡くなったショックをまだ引きずってたなあ。
 当時つけていた(痛い)日記を見れば、より詳細に当時の自分がよみがえると思いますけど、怖いのでやめときます。ある意味人生のボトム期でしたから。ホント暗い高校生活でした(笑)。
 で、心の支えでもあったジョンを失って、そのあと何を心の支えにしたかというと、これはあんまり公表しなかったんですけど(する相手もいませんでしたが)、実はこの番組にもサンデーズの一員として登場している松田聖子さんだったんです!
 ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんけど、今思うと、かさかさに乾き切ってささくれ立った心に、唯一潤いを与えてくれたのは聖子ちゃん(今では聖子様)だったのでした。
 ま,そんな痛々しい回想は置いときまして、この番組です!いやあ濃かったなあ。
2 まず今ではすっかり大人になってしまった太川陽介さんと石野真子さんが「蔵出し劇場」の司会として登場して、まずはちょっと感動。相変わらずそつなく明るい空気を醸す「いい人」太川さんと、相変わらずのボケっぷりの真子さん。お二人は私よりそれぞれ私より三つと五つ年上ですので、現在の年齢は推して知るべし。いやあ、若々しいですよ。ご立派です。
3_3 そして、いよいよオープニング。懐かしい!「ムーンライトカーニバル」。森雪之丞さん作詞、平尾昌晃さん作曲の名曲です。ホント二十数年ぶりに聞いたんですけど、これ、ちゃんと歌えるじゃないですか。歌ってすごいですね。大人になって聞くと、これはいい曲ですねえ。さすが平尾さん。
1_2 トップバッターは、浜田朱里さんの「青い花火」です。馬飼野康二さんらしい佳曲。浜田さんはトップアイドル全盛期にポスト百恵を狙って登場しましたが、ちょっと歌唱力に難があり(笑)、今一つぱっとしませんでしたね。でも、なんとなく記憶には残る人でした。今どうしてるかな。
4 続きまして、岩崎宏美さんの「胸さわぎ」。おっとこれは松尾一彦さんの作曲か。秋田出身、当時はオフコースのメンバーですね。今でもAcoustic Beatles Clubで活躍するなど、ビートルズマニアとしても知られるお方。この曲、私の記憶には残ってないんですけど、高度な作曲テクを駆使した名曲ですね。カミさんも気に入ってました。それにしても、岩崎宏美さん、相変わらず(じゃないな、昔だから)巧いですね。ある意味うますぎるし、声もきれいすぎるのかなあ。難曲も完璧に歌いこなしてます。特に浜田さんのあとなので巧さが目立つ(笑)。
5_2 さあ、これも懐かしい石野真子ちゃんの腹話術コーナー。人形になっていることをいいことに言いたい放題ですね(笑)。だいたい聖子ちゃんとトシちゃんをつかまえて「B&B、ブスとブ男」とか言えないだろ!(笑)。さらに、太川さんのつっこみがいい。「人形だから嘘が言えない」(笑)。あと、「二人はもう別れるねぇ」とか、言いたいこと言ってて笑えます。
6 次は「レッツゴー!サンデーズ!」の掛け声とともに、サンデーズのコーナー。当時のABBAの最新ヒット「ON AND ON AND ON」です。あれ〜、この原曲、あんまり記憶にないぞ。洋楽聞いてたはずなんだけど。てか、日本語だからかなあ。えっと、当時のサンデーズのメンバーはですね。

 川崎麻世
 渋谷哲平
 山崎誠
 田原俊彦
 藤慎一郎
 倉田まり子
 佐藤恵利
 松田聖子
 浜田朱里

 このようになっております。うむ、サンデーズの歴史の中で、あるいは最も濃いかもしれませんね。それで毎週歌やダンスやショーをやってたんですから、すごいですね。生放送ではありませんが、ほとんど生のような公開番組でしたから。すごい時代ですし、タレントさんもちゃんとタレントを持っておられ、そしてそれを鍛えられていたのでした。そういう「その場」力みたいなものが必要だったんでしょうね。今と違って。
7 続きましては、これもなかなかレアな映像ですね。タケカワユキヒデさんのソロナンバー「カサブランカ・レディー」。なんと前半は川崎麻世さんが歌ってます。まあそれにしても、麻世はスタイルいいわ。歌もそこそこいけるし、彼も今どきいないタイプのタレントさんですね。濃い。私はどうも当時、エセ洋楽っぽいゴダイゴというか、タケカワユキヒデさんがあんまり好きじゃなかったんですけど、今こうして聞いてみますと、まあそれなりに洋邦というか東西をうまく混ぜて、それなりの世界を築いていましたね。それにしてもタケカワさん、けっこう女の子にキャーキャー言われて、アイドルしてたんですね(笑)。
8 次はゲストコーナーなのかな。狩人が「風が吹けば」という小林亜星さんの曲を歌ってました。こんな曲あったかなあ。亜聖さんらしい(?)軽いタッチの曲で、ちょっと私の狩人のイメージとは違うぞ。まあそれなりにそつなく歌ってますが、ちょっと個性が弱いかなあ。こういう曲だと、アクがない兄弟ですから。
9 そして、次はなんか重々しい雰囲気が…。そう、五輪真弓さんが会場の雰囲気を一気に変えてしまいました(笑)。曲は「恋人よ」。うまいなあ、五輪さん。というか、この存在感は…。そして、この額は…。個性的だ。名曲「恋人よ」は1980年発表作品ですから、まだまだ生まれたてですね。当時五輪さんは30歳になったかどうかの頃。ヤングと言えるかどうかは…ま、平尾さんもいるしいいか。しかし、すごい番組構成だな。
10 次はゴダイゴの「ナマステ」。これもいかにも彼ららしい胡散臭さのある曲ですね。いい曲なんでしょうけど、やっぱり狙ってやってる感じがして、どうも受け付けなかったなあ(今も?)。タケカワさんとはけっこう洋楽のルーツが重なる部分があるんですけどね。それに民俗音楽好きですし。同族嫌悪でしょうか(笑)。
12 そして、一番記憶になかったのが、この人。サンデーズのメンバーでもあった藤慎一郎くん。矢沢永吉を目指してるって?曲はえっと、えっと「ミリオン・キッス」かな。コテコテのロックンロールナンバーですね。ちなみにバックの演奏は高橋達也と東京ユニオン&東京放送管弦楽団。地味にうますぎる。当り前ですけど、こうして毎週新曲をどんどん完璧に消化していくプロの仕事ぶりです。当時は全然注目してませんでしたけどね。ちなみにこの東京ユニオンに、ウチのクラスの生徒のお父さんがいた…らしい。す、すごい。
16 続いてショー・コーナー 「Beatles Forever」。平尾さんがジョン・レノンの死についてちょっと触れまして、そして、ビートルズ&ジョンのナンバーをサンデーズやゲストの方々が歌いました。まずはサンデーズが「ROCK'N ROLL MUSIC」。おっと!ギターは今はなき天才ギタリスト山本とおるさんだ!!続いて狩人が「ALL MY LOVING」。ちゃんとハモってるぞ。当り前か。そして「ミッシェル」は岩崎宏美さんが淡々と。
14 そして、聞き所は次のジョンのナンバーでしょう。タケカワユキヒデさんと岩崎宏美さんが歌ってるんですが、なんとタケカワさんの「イマジン」に岩崎宏美さんの「ラヴ」が重なっている!クオドリベットだ!やられた。これは想定外の編曲です。こういうふうに重なるか!そして最後は「ヘイ・ジュード」の合唱でお決まりの締めです。
 うむ、実に濃い30分でしたねえ。なんだかダラダラ実況中継しちゃいましたが、それほど全てが面白かったのです。
 そうだ、最後に上記のクオドリベットを聴いてもらいましょうかね。

 イマジン&ラヴ

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2009.01.06

『第41回 年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京・BSジャパン)

2 ようなら!新宿コマ劇場。
 大晦日、年忘れのために絶対に忘れてはならないのがこの番組。しかし、今年はこちらに書きましたように、我々夫婦はそれぞれたまアリと後楽園ホールにて年越しでしたので、残念ながらリアルタイムでは観ることができませんでした。
 今思えば、二人でコマ劇場に行くっていう手もあったかなあ…。これだけ豪華なメンバーで、これだけクオリティーの高い歌を聴ける機会はそうそうありませんからね。いつも書いているとおり、少なくとも紅白よりはずっといい。そして、コマ劇場最後かあ…。実は一度も行ったことないままお別れを迎えてしまいました。
 それからですね、考えてみますと、去年はもう一方の巨大歌謡番組であるNHK夏の「思い出のメロディー」がこちらに書いたとおり大変なことになってしまったので、まともなのは(失礼)もしかしてこの「年忘れにっぽんの歌」だけだったかもしれませんね。
 とはいえ、こちら「年忘れにっぽんの歌」も多少ではありますが、法事感が漂っていました。そう、昨年は遠藤実先生が亡くなり、フランク永井さんが亡くなりまして、その特集コーナーがありましたし、コマがなくなるということで、それ自体ちょっとした法事ムードですしね、もちろんコマに縁の深い故人の映像もたくさん流れましたから。
 というわけで、今日、正月合宿が明けまして、晴れて録画を観て聴くことができたわけです。まずは歌手の皆さんと曲目を公式でご確認ください。
 第41回年忘れにっぽんの歌
 うむ。やはり素晴らしい充実ぶりですな。皆さんお上手でして、まあ、こまどり姉妹のお二人なんか、もう上手い下手を超越した存在感がありましたけど、基本的に安心して聴いていられましたね。紅白なんかヒヤヒヤものですからねえ。やっぱりこうしてまったりしたいじゃないですか、大晦日は。総合格闘技よりプロレスですよ(違うか)。
 まずは印象に残ったのは、生放送が始まる前の古い映像など。コマ劇場をめぐる昭和の偉人が多数登場。並木路子さんの「リンゴの唄」は貴重映像&音源ですぞ。案外手に入りにくいんです。
 で、やっぱりすごいなと思ったのは、美空ひばりさんでしょうか。お芝居で共演した林与一さんの言葉がすごかった。なんでも、ひばりさん、二日酔いかなんかでのどの調子が悪い時、「今日はね、右のね、上の声が出ないのよ。だから下の声は右歌ってね、上の声は左の声帯の上の方で歌おう」と言っていたとか。で、実際聴いてみたらいつもと全然変わらない。ううむ。すごい境地だ。でも分かる気もする。楽器だとそういうことって結構あるんで。ヴァイオリンでもピアノでもね。しかし、声帯の右とか左とかって…。さすがですな。
 美空ひばりさんと言えば、生放送にもひばりのコーナーがありましたっけ。みんなひばりさんの歌を歌う時って緊張気味だしきつそうだなあ、なんてカミさんと言いながら聴いてたんです。その中で、あっこの人はうまい!っていうのがありまして、でもなんか見たことない人だな(すんません)と思って名前を見ましたら、な、なんと西尾夕紀さんじゃないですか!そう、あのヤッターマンの歌を歌ってる人、あるいはものまね番組で圧倒的な歌唱力を聞かせるあの人ですよ。
 「ひばりのマドロスさん」を歌ったんですけど、私がいつも言っているひばりさん独特の天才的リズム感に一番近かったのは西尾さんでした。うまい!うむ、演歌から歌謡曲、J-POP、洋楽までなんでも歌えるところも、実はひばりさん的だったりして。
 あと、ちょっと感動したのは、ピンキーとキラーズの復活でしょうかね。「恋の季節」は日本歌謡史において、「真赤な太陽」とともに画期的な楽曲でありました。
 それから、いつかも書きましたが、男性が歌う女唄、女性が歌う男唄、そして女装した男性が歌う男唄…やっぱり面白い文化だな(笑)。日本独特だよなあ…。このリアルなフィクションってなんなんだろう。ちょっと研究してみたいですね。
 と、そんな感じで、とっても楽しくまったりと聴かせていただきました。これで明日元旦だったら最高なのになあ…(笑)。

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2009.01.05

『病める舞姫』 土方巽 (白水社)

Yamerumaihime たまた続きです。意図せずそうなっていきますね。というか、視点がそういうふうになっているんで、何に接しても同じように見えるのでしょう。
 文明に対する文化の抵抗。まさに土方巽はその象徴的存在でした。いや、いまだにそういう存在でしょう。
 彼の文章がまた、見事に「もののけ」してるんですよね。憎いくらいです。これはなかなか真似できない。「コトノハ」をして「モノノケ」ならしめるんですから。一見文明の利器を使っているようで、そこから生まれるものは実は文化そのもの。まあ、不謹慎かもしれませんが、旅客機を使って摩天楼を灰燼に帰すようなものですね。
 しかし、この言語以前の言語はなんなんだろう。御存知ない方のために、本当にパッとめくったところを引用してみましょうか。

 『夏の畳の上や縁側で寝て起きた人は、使いものにならないように背たけの伸びた人になっていたのか、くるりくるりと裏返る小さな黄ばんだ手や、涎を啜らせる夏風が、人の顔に触ったりしていた。ふと目を転ずると、汗をかいていた花がただの色になりかかったりしていた。女におおっぴらに畳の上に引っくり返って寝られてしまうと、ああもう御仕舞いだという真から恐ろしい昼間が忘れられない。黒い足形をつけた、あの下駄が懐かしい。私はよく万力に指を挟まれて血豆を作っていた。そうした夏座敷を大人が妙におとなしい踵をつけて歩いていることもあった。目も鼻も眉もずれてしまった人や、眼鏡の蔓が溶けかかっている人が私の夏休みの記憶の中に鮮やかに浮かんでくる。鏡を足で押しながら私には、土間の片隅で言うこともなくなった人のように卵の値段を聞き出している声も聞こえてくるのだ。何の話をしていたのか、妙な湿り気を残して大人が消えていくのをよく見かけた。声を売りに歩いている人が近づいて来る。まるで絵のようにしか話せないが、風鈴も彼岸でひとつ現世でひとつと、音を使い分けてちりんちりんと鳴っていた。そんな音の透間に挟まれたように薄く寝ている人の表情は、僅かばかりある空気の隙間にも挟まっているようだった。炎天下を犬も隙間のように歩いている』

 どうでしょうか。これでも結構イメージしやすい部分ですね、ここは。いったいどのような創造のプロセスを経てこのような詩的表現が生まれるのでしょうか。これはもう、近代的、文明的な意味など一切拒絶する、真に原始的な表象世界ですね。
 文法的には実に正しいし、文明的なルールから外れることはないんです。だからこそ恐ろしいテロ行為になりうる。
 あの、機械翻訳による奇っ怪な日本語とは本質を異にしていますね。ふつう、こういうナンセンスな…あえてナンセンスと言いますが…文章を意図的に(文明的に)書こうとするとですね、もっと単純な「○○が○○した」という文章になりやすいものです。
 しかし、土方のこの文章の特徴は、豊かな形容や比喩にあるわけでして、つまり、主語や述語の○○が出てくるまで、淀みなくイメージの連鎖が書きつづられるんですよね。これはもう、ある種の意図や創作を超えています。明らかにアプリオリな心象というものが存在するとしか思えません。
 私は、その、本来私たちは言葉にできない、つまり文明的な道具では表現しきれない「モノ」こそが、「文化」だと思うわけです。
976hijikata18 そういう意味で興味深いのは、この土方の文章(心象風景のスケッチ)を読んで(見て、聞いて、感じて)、より彼の中に存する「モノ」に近づくことができるのは、ウチのカミさんなんですよね。そう、同じ郷土に生まれ、ある意味あの土地の(まるで飯詰のような)呪縛から逃れられない者どうしの共感というか共鳴というか。
 一方、ある程度土方と同時代を生きたとはいえ、ずいぶんと違う環境(高度成長期の東京)で「ものごころ」を付けてしまった私は、彼との間に確かな紐帯を持ち得ないんです。残念ながら、私と土方をつなげるモノ、いやコトは、文明的な日本語、いやさらに進んで標準語(共通語)という利器しかない。
 異文化理解などときれいごとを言ったところで、どうにもならない。理解しきれないから異文化なのだと、いつも私は言っています。それはこういうことなんです。異文化理解という、ある意味無意味で(笑)、かなり暴力的な発想こそが、文明的な偽善のようにも思えてきますね。
 昨日の本の中で、小林さんは、文化の相対化ということについても語っていました。それはわかります。お互いの違いを理解し尊重するということですね。でも、実際、私はこうして同じ日本で、同じ時代の空気を吸ったはずの一人の男の文化すら理解できない。違いがあることは理解できますが、違いは理解できない。そして、尊重なんていう高慢な接し方もできません。
 ただ、ただ、私はこの「モノ」に畏怖を感じます。単純な憧れや、ものすごい遠くの記憶に対する郷愁も感じないとは言いませんが、しかし、それ以前に正直怖い。自分が信用し、駆使しているはずの日本語が、どうしてここまでおどろおどろしく、なまめかしく、そうエロチックにもだえるのか。自分が操っていた、すなわちコト化して馴致していたはずのコトノハが、私の知らないところで成長して、私のコントロールし得ない生き物になっている。これは本当に恐ろしいことです。
 私がアメリカなら、いろいろな文明的武器を使って、この生き物を攻撃するでしょうね。抹殺するでしょう。あるいは完全無視をきめこむでしょう。しかし、私はどうしてもこの生き物と対峙していたいと、強く思ってしまうのです。あわよくば白旗を揚げてもいいとも思っています。
 この感覚は、土方の舞踏そのものにも言えることです。我々が歴史上、あるいは生物進化上一生懸命に飼い馴らしてきたはずの「身体」が、勝手に蠢き出す。文明的な形式や美学や科学的トレーニングなどを、いとも簡単にぶっ壊して、体は体でありながら、しかし自分の体ではない状態。意識という「コト」を上回る身体という「モノ」の意志が、そこに生き生きと息づいているのです。
 私と土方巽との出会い(再会と言っていいのでしょうか)は、ちょうど1年ほど前のことになります。それはそれはあまりに突然の彼の出来でした。それからと言うもの、土方の魂は、それこそ意識や身体の存在すら超えて、私を翻弄し続けています。
 これはもしかすると、私の文明的な胡散臭さに対する、土方からの攻撃なのかもしれません。土方こそ胡散臭い存在だと思っているふしもあった私は、今その胡散臭さと思われていたモノからのすさまじい攻撃を受けて、自らの胡散臭さを露呈され、そして降参寸前の状態にまで追いつめられているのでした。

松岡正剛の千夜千冊「病める舞姫」

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2009.01.04

『不安な時代、そして文明の衰退』 小林道憲 (NHKブックス)

2 、合宿中です。いちおうセンター2週間前の仕上げの合宿のはずなんですが、ウチのギャルども、なんだかよく喰うし笑うし卓球で盛り上がるし、とても受験生とは思えませんね(笑)。さすがです。こういう調子なら大丈夫でしょう。もちろん勉強するときはものすごい集中力です。こういうふうにけじめのついている時は、いい結果が出るものです。
 さて、私はと言いますと、こんな本を読んでみました。また昨日の続きのような話になってしまいます。どうも今年は正月からそういう流れがありますね。今年のテーマはこれなのかもしれません。
 しかしずいぶんと暗いタイトルですね。これが書かれたのが、2001年。あの同時多発テロがあった直後です。いったい21世紀はどんな歴史が紡がれるのか、たしかにあの頃はちょっと悲観的な空気が流れていましたっけ。
 それで私たちはその答というか、とりあえず起きてしまったことの説明を求めて、いろいろな言葉を発しましたね。一番わかりやすく、私も当座それで満足したのが、いわゆるキリスト教文明とイスラム教文明の対立という構図でした。
 今となっては、それはあまりに短絡的で単純化された答だったわけですが、しかし、たしかにあの時は「不安」の中で「安心」を得るということがまず第一に必要なことでしたので、それは十分に意味のあるものでした。
 いつも言うとおり、我々は自分の外部にある「モノ」を、内部に「コト」として取り込みたいという願望、本能を持っています。「モノ」は言わば「もののけ」、つまり未知や不随意を表す語です。「コト」は既知や随意を表します。
 私たちはあの「モノすごい」光景に意味を与え、「こういうコトがあった」というふうに納得したかったんですね。そして、今あれからずいぶんと時間が経って、ある程度固定化された歴史的な出来事になりつつあります。
 で、小林さんはあの頃、ああいう言説が呪文のように唱えられていたその時に、このように言っています。
「〈文明の衝突〉として理解してしまうと、事態を見誤ってしまうであろう」
 つまり、ハンチントンの考え方を、文明と文化、文明と政治の区別を無視した粗雑なものとして退けているのです。
 私も基本的には小林さんの意見に同意したいと思っています。ですから、細かい点についてはそれこそこの本を読んでいただければいいと思いますし、感想などはいつものように他の優れたレビューにおまかせするといたしましょう。
 せっかくですから、私は私だけが語れることを語りますね(それこそいつものことですけど)。
 私の捉える文化と文明の違いについてです。私はそこは実にシンプルに分別しているんです。
 文化はculture、文明はcivilization…そう書くと、なんだよくある話じゃないか、cultureは耕すことで、civilizationは市民化・秩序化だろ、と言われると思いますが、実は、その通りです(笑)。
 ただ、私はそれを両方とも人間の営為と捉えるのではなく、自然と人間という対立として見ているのです。そう、「モノ・コト論」的発想ですよ。えっ?文化こそ人間の活動じゃないかって?
 そうなんです。なにしろ文化活動とも言いますし、だいいちが人間は文化的な動物だと定義されますし、憲法でも文化的に生きることを保証されていますよね。
 ところが、ちょっと発想を変えてみるんですね。そうすると、実は文化というのは人間が主体じゃないということがわかるんです。あくまで人間は耕し手、あるいはメディアなんです。
 どういうことかと申しますと、そうですねえ、例えば文化の代表格である、衣食住なんかで考えるとわかりやすいかもしれない。衣も食も住も、みんな自然環境の特徴、その土地のアイデンティティーみたいなものが、人間の生活を媒体として現れたものじゃないですか。つまり、文化とは自然の一形態に過ぎないと考えているんです。
 では一方の文明はどうかといいますと、これは人間が、人間や自然を自らの思い通りに、自らの統治がしやすいように、形式化、秩序化、システム化することです。すなわち、こちらは人工であり、人為であるわけですね。
 ですから、この本でも、あるいはどこでも言われていることですが、世界中がアメリカ化するということは、それはまさに文明化だと思うんです。その土地の食材を無視してマクドナルドがあることを考えればよく分かりますよね。
 ですから、実は例の同時多発テロについては、私の意見はちょっと小林さんのそれと似て非なるものかもしれません。小林さんはアメリカの一極支配に対するイスラム原理主義側の反抗だとして、やはり画一化しようとする文明に対してローカルな文化が食いついたというような感じで論じています。ワタクシ的な観点からしますと、人間(コト)に対する自然(モノ)の反抗だとも言えるんですね。
 ある意味これは極論というか、暴論にも聞こえるかもしれません。しかし、世界中のほとんど全ての人が、そうした世界のアメリカ文明化には違和感を覚えているわけで、その違和感の出所というのは、これはその土地土地の生活(衣食住、言語、芸術ほか)感であることは間違いないと思うんです。つまり、我々はそうした土地土地の自然風土の叫びを、自らをメディアとして表現しようとしているわけですね。その表現方法…倫理的に正しいかどうかは別として…の一つがあのテロ行為だったと思います。そして、それに対抗したアメリカの報復戦争はもちろん文明(人間・コト)の表現であったと。
 お分かりになりましたでしょうか。私は私たちが自ら創造していると思っている「文化」というものは、まさしく自然に属する「モノ」であって、決して「コト」ではないと考えています。
 ただ、宗教は文化か文明かという問題。これは難しいですね。自然風土が宗教の生みの親ではありますが、あるところから人間の脳内でのフィクション部分が増えていって、文明的な普遍性、一様性を追求しがちですからね。そうすると、今回のテロや、その他の宗教戦争は「文明vs文明」「人間vs人間」とも言えなくもない…。もうちょっと考えてみます。

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2009.01.03

『偽善エコロジー』 武田邦彦 (幻冬舎新書)

「環境生活」が地球を破壊する
34498080 局、昨日の話にもつながるのかなあ。古き良き時代と今と何が違うのか。そんな単純化できる話ではないというのも分かりますが、やはり今の私たちはちょっと狂っているような気がします。
 著者の武田邦彦さんは、この本で単に「偽善リサイクル」はやめましょうということを述べているのではありません。世間で騒がれている「エコ」な生活、それが本当に偽善なのか、本当に意味のないことなのか、あるいは言われていることとは逆に環境に良くない行為なのかは、これは様々な立場から様々な意見を聞き、最終的には自己の責任において検証、判断すべきことであって、今ここでシロウトである私がすぐに是だ非だ言えることではありません。
 しかし、ただ一つはっきりここで言えることは、武田さんの言うとおり、我々日本人が、誇りや、誠実な心や、謙虚さや、もの作りの魂や、感謝の心を失ってしまっているような気がするということです。
 いや、それは昔も(たとえば昭和にも)、いくらでもそういう汚い心はありました。しかし、それが過半数を越えていたかというと、ちょっと違う気がする。昔は…ずいぶん曖昧な表現ですが…個人の心の中でも、家族の中でも、そして国家の中でも、もう少し善良な魂が力を持っていたような気がします。
 お金もうけのためなら、平気で子供たちにウソを教える大人たち。そして、国やマスコミやいわゆる先生の言うことを鵜呑みにする大人たち。もちろん自分も含めてですが、そういう大人がたくさんいるような気がします。
 偽装だの、捏造だの、あるいは金融危機だの何だの、みんな資本主義経済、あるいは市場経済が生むべくして生んだ人間の心の荒廃の現れです。特に市場が拡大して、しまいには極大化=グローバル化して、お客さんの顔が見えなくなってしまうと、どんどん人間はウソをついたり、人を陥れたりすることに無反省になっていきます。そんなことは子供でも想像できますよね。共感、すなわち思いやりが希薄になって、その結果、その裏に隠れていた醜い本性が表面化するんです。
 本当は、そんな醜い自分の姿を、自分が一番よく見ているはずなんです。もしかすると他人は誰も見ていないかもしれないが、しかし、自分は間違いなく知っている。まさに、天知る、地知る、我も知るですね。
 たしかに、真心というか、誠というものは、これは私たちの本来なのではないのかもしれない。フィクションかもしれない。偽善の努力が必要なのかもしれない。しかし、最後は人さまのためではなく、やっぱり自分のためなんじゃないでしょうかね。そうして「善」でいるというのは。
 でも、今言った「独善的偽善」と、武田さんが糾弾する「独善的偽善」とは全く違うものですよ。前者は自分が不快にならないために善を生み出すのであって、後者のような単にカネ目的で他人をだます騙りとは正反対とも言えるものです。で、この本にも書かれていますが、結局前者の意味での独善的行為が、他者のためになったりする。
 で、逆にですね、後者の偽善が厄介なのは、その騙りが、前者の偽善に働きかけるというところです。つまり、ほんのちょっと存在する、善意の萌芽を刺激して、それを利用して、大きく成長してしまうということです。人をだまして、人の善意を利用して金もうけするというのは、最も簡単に地獄に落ちる方法だと思うんですが。それを平気でやってしまっている人を、なぜか現世では「勝ち組」と言う…。
 それにしても、この本に書かれていることは、たしかに驚愕に値しますね。我々の常識と真反対のこともたくさん書かれています。レジ袋、割り箸、ペットボトル、バイオエタノール、温暖化、ダイオキシン、古紙…本当に面白いほど覆されます。
 最初に述べたとおり、私は今ここで筆者の意見に完全に賛同できる立場ではありませんが、しかし、こういう視点をも持っていたいと思うのは事実です。特に私は先生と呼ばれる仕事をしていますから、その思いは人より強いかもしれません。
 最近、ちょっと辛いんですよね。自分は進学の担当ですから、教科書に書かれていることを信用して丸暗記していい大学に合格しろ!それで世間でうまいこと「勝ち組」になれ!みたいなことを、そんなに直接的には言いませんけれど、結局はそう教えてるんじゃないかって。
 かといって、たとえば仏教的に正しいことを、若者に力説して、もし、もしですよ、それに彼らが共鳴して、今の社会システムに反旗を翻したとするじゃないですか。そうしたら、彼らは幸せなんでしょうか。彼らの親御さんは納得するんでしょうか。そんなことを考えると、自分の仕事が時々虚しく感じられるんですよね。昔はそんなことを考えなかったのになあ…。
 いつかも書いたように、新入生に対する最初の授業では、このリサイクル問題も含めて、いくつかのショッキングな話をします。中学まで教わってきたこと、自分たちも信じてきたことを、根底から覆すような話をします。でも、そこから先が難しいんです。そんなこと知らなきゃ良かったという生徒もいるでしょうし、じゃあどうすればいいの?と悩む生徒もいるかもしれません。逆にそんなこと言ったってどうしようもない、それを知った上で自分はあえて現実的に金持ちになる生き方を選ぶ!というツワモノもいるやもしれません。
 ただ、知らないで騙されるのだけは避けてもらいたいんですよね。そのあとは自分で考えて選べと。ちょっと無責任ですが、そういう気もするし、いや、実は、こんな悪意に満ちた騙し合いの世の中を根底から変えようという、そういう大人になってほしいと思っているのかもしれません。自分にはできそうにありませんので。

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2009.01.02

『俺たちは忘れない…10年目の再会 ジャイアント馬場 蘇る16文キック』(BS日テレ)

1_2 のたびの私の年越しの場は後楽園ホールでした。そして、元日、その後楽園ホールを主な舞台とするこの番組が放映されました。そして、今日その録画を観て、心から感動し心から懐かしみました。そして…。
 自分もそれなりの年齢になって、最近妙にノスタルジックに昭和を懐古することが多くなって、ちょっと自分らしくないなあ、なんて思うこともしばしば。こうして人類は、「昔は良かった」と言いながら歴史を紡いできたのでしょうか。
 考えようによっては、こういう姿勢は現状に対する不満というか、後ろ向きな発想というか、いずれにしてもネガティヴな感じがしないでもありません。でも、もしかすると、過去を肯定し、思い出を美化することによって、過去の遺産が正しく引き継がれていくのかもしれませんね。あの頃は良かった。だからもっと今も未来もしっかりしなくちゃ。
 番組でも多くの弟子たちが「また、このやろう○○って叱ってください」と語っていました。そういうおっかないオヤジっていうか、とんでもなく強く、とんでもなく優しい、とんでもなく大きなオヤジみたいなのがいないと、この世はどんどんダメになっていってしまうんでしょう。
 正直、この2時間番組を観て、自分も喝を入れてほしくなりましたよ。馬場さんたちの次の世代の大人として、本当に若い人たちを育てているんだろうかって不安になりました。特に自分は教師という立場ですからね。なんだか、若いもんに媚を売って、若いもんにまずはその場だけ好かれようとしているんじゃないかって。そんな気もします。
Img_main_2 この番組の素晴らしかったところは、単にお宝映像が最新デジタル技術できれいによみがえったということだけではありません。王貞治さん、天龍源一郎さん、高千穂明久さん、大仁田厚さん、三沢光晴さん、百田光雄さん、和田京平さん、市瀬英俊さん、アニマル浜口さん、佐々木健介さんらの貴重な証言を聞くことができたのは大きな収穫でした。
 おそらくこの方々も皆、程度の違いこそあれ、私と同じような気持ちなのかもしれない。本当に今、私たちは人々に夢や希望を与えているだろうか。大きな経済の波に呑まれてしまって、今さえ良ければ、自分さえ良ければいいというような生き方をしてしまっていないか。馬場さんという偉大な神、いや仏かもしれませんね、そういう人を思い出し、温かい気持ちになりつつ、反面厳しい自戒の念を抱いているように見えました。
 馬場さんは闘いの場でも、あるいはビジネスの場でも、基本を信用と信頼に置いていました。そんな馬場さんを、ある意味裏切ってしまった人たちも登場していましたが、きっと馬場さんは彼らのことも決して恨んだり憎んだりしていないと思います。今振り返ってみると、そういう危機から、必ず新しい局面が生まれ、新たなヒーローが生まれ、新しい時代が動いていったからです。
 そういう考え方、人生の捉え方というのは、私たちにとっても非常に重要な示唆を与えてくれますね。ピンチをチャンスに転換する智慧です。思い通りにならない時こそ、成長や変革のチャンスだということです。
 今日のこの番組は、そういう意味で、単に馬場さんを懐古するだけのものでもなく、全日本プロレスを総括する番組でもなく、昭和を懐かしむためだけのものでもありませんでした。この閉塞感に満ちた平成の世にとって、もっともっと大きな意味があったと思います。平成21年のスタートに、この番組をしっかり味わうことができたのは本当に幸運なことでした。もう一度、今度は家族で見直してみようと思います。

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2009.01.01

明けましておめでとうございます!

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2009 けましておめでとうございます。本年も不二草紙をよろしくお願い申し上げます。
 昨年に続きまして今年の年賀状を公開いたします。すみません、リアル年賀状まだ出してません。昨年末、異常に忙しく出すヒマがありませんでした。今日出します。ごめんなさい。
 あいかわらずくだらない年賀状です。まあこれで初笑いを取れればいいと思ってるだけですが、出すのが遅れちゃ意味ないっすよね。
Presidential_portraits_mount_rushmo 昨年はアメリカで歴史的な大統領選挙がありましたね。それにちなんで(?)今年はこんな年賀状にしてみたのです。みなさん御存知の通り、元ネタはサウスダコタ州にあるラシュモア山の彫像です。
 よくどうやって作るの?時間かかるでしょ?とか言われますが、これはアイデアから画像処理まで、28日の昼間にやってしまいました。ソフトはもちろんアドビのPhotoshop(Elements)ですが、どうせ一日しか使わないので体験版をダウンロードして使いました(笑)。お金かかってません。
 さて、昨夜という今朝は4時半に帰ってきました。カミさんはさいたまスーパーアリーナ周辺で哀愁に浸りながらの年越し、私は50人のプロレスラーの方々とカウントダウン。そして終電を乗り継いでたまアリまでカミさんを迎えに行きまして(というかカミさんのケータイの電源が切れて、なかなか会えないという事態に…)、せっかくだから氷川神社に初詣しようかと思ったんですけど、もう眠すぎてそのまま富士山に帰ってきたんです。帰途ものすごく眠くて新年早々居眠り運転で死ぬところでした。
0238 で、朝は普通に出勤して元旦からみんな勉強です。今年は受験生を抱えてますから特別です。お昼前に、せっかくですのでみんなで近所の浅間神社に初詣に行きました。あいかわらずの明るさと元気さで、我が生徒ながらホント偉いと思いますし、自分もこんなに明るい受験をしていたら、きっともっとまともな結果が出ていただろうになと、ちょっとうらやましく思いました。あと二週間ちょっとでセンター試験です。あさってから最終の仕上げ合宿に入ります。いよいよだな。ガンバレよ!
 今年はまずはこいつらをしっかり片づけて、そして次の仕事をしっかりやろうと思います。そう、今年は仕事を頑張る年にしますね。自分にとっても重要な仕事がいくつかありますので、学校のためにも、生徒たちのためにも、地域のためにも、自分のためにも頑張ろうと思っています。
 もちろんこの不二草紙本日のおススメも息抜きに毎日書いていきますね。今年でこのブログも丸5年になります。そして100万アクセスにも達するかもしれませんね。正直もうやめられない状況でして、息抜きというより修行になってますよ。
 とにかく皆さん、今年も健康に気をつけてテキトーに頑張りましょう。よろしくお願いします!

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