『観世寿夫 世阿弥を読む』 観世寿夫・荻原達子編 (平凡社ライブラリー)
最初にお断りしておきますが、最後は「プロレス論」に発展しますので、あしからず。
昨日のバレエの天才から、今日は能の天才のお言葉。
少し前に初めてテレビで拝見し、こちらの記事で紹介した、昭和の世阿弥観世寿夫さん。彼の膨大な著述のダイジェスト版です。非常に深く面白く、そこらじゅうに付箋をし、線を引きまくりました。
まずなんと言っても印象に残ったのは、何度も繰りかえされる「無心の位」についての記述。
『あらゆるものを通して覚え込んだ上で、表現意識から離れて、自然に流れるごとく演じていける状態に身を置くこと、それは単なる「無」ではなく、すべての「有」を包含したところの「無」でなくてはならないのです』
『簡単に言ってしまえば、自意識を離れるということだ』
『何もない無からはじまり、あらゆる修業を重ねて自分の芸を確立した後に、ふたたび自己を放擲する』
これらは、先日書いた道元の「仏道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」に通じますね。あるいは「色即是空・空即是色」、いや、「空即是色・色即是空」でしょうか。世阿弥は曹洞宗の僧侶について禅を学んでいましたから、当然と言えば当然です。
昨日の岩田守弘さんも「考えたら踊りではなくなる」というようなことを言っていましたね。バレエと能とでは、時間と空間、そして重力の扱い方が全く異なりますが、しかし、究極のところではかなり共通していると感じました。
ワタクシ流に申しますと、それこそが「ものにする」ということになりましょうか。そうそう、世阿弥の「物学(ものまね)論」は、私の「モノ・コト論」に非常に有用なのですが、まだまだ勉強しなくてはならないし、それこそ「ものになっていない」ので、またいつか書きたいと思います。とりあえず、風姿花伝の原典をちゃんと読み直してからですね。
音楽の話も面白かった。特に、西洋の音楽と比べてのところは、よく考えてみたい内容でした。
『能のリズム−。これは精しく書きはじめたらきりがない。日本語というものを考えるうえにもこんなに面白いものはない。だがまあ、リズム論議はまたの機会にして、ただ、声は出したときが終わるとき、という話だけにとどめておこう。声は出したときが終わるとき。そうなのだ。声は出すまでが問題なのである。出してしまったらもう決着は着いてしまったのだ。声の意味も声の調子も、声となって出るまでこそが大切なのである。楽器の音も同じだ。鼓なら鼓は、ポ、と音が出てしまったときはその音の終わったときだ。音として外に出るまでが、その音の生命だ。間も、音の大小も、すべて音になるまでが問題。だからカケ声や打つべき体内の準備こそがリズムをつくる。ここがヨーロッパ風感覚とまったく正反対のところである。音を出してからその音がはじまるのではないのだ。音が出たときは終わっている、これは日本のリズム感覚の最大特徴であろう。能は如実に、しかもたいへん論理的に、このリズム感覚を音楽として構成しているのである』
これは実に興味深いですね。西洋楽器を(&いちおう邦楽器も)やる人間としては、実に重い文章。なんとなくですが、よく解る(笑)。ちょっと私は寿夫さんのようにうまく言葉にはできないけれど、よ〜く解ります。いやあ、もっともっとリズムについて、日本語について、語ってほしかったなあ。いちばんいいところが「またの機会」になってしまっている…残念。
しかし、この対比は、音楽や言語だけでなく、もちろん舞や踊りにも言えるし、あるいは絵画や造形作品、現代の歌などにも言えることでしょう。どうも私たちは、私たちオリジナルな日本固有の感覚、表面に出ない部分、出す前の何か、をとらえる感覚を忘れてしまっているようです。うむ、私もちょっと西洋かぶれしすぎたかもしれない…。
それから、すみません、私はどうしても能とプロレスを結びつけたくなってしまうんです。「面(おもて)」に関する記述は、ほとんど覆面レスラーのマスクに通じるものがありましたし、「からだが見えすぎるというダメを出される」という部分では、肉体表現における「邪魔な肉体」という、これはいかにも禅的な感じですが、これってプロレスでもよくあることだと思いました。彼らプロレスラーは、ある意味肉体の見世物であるべきなのですが、それが最前面に出てしまっては一流にはなれません。肉体自身や、肉体が見せる動きだけでは、私たちはプロレス的満足を得られないんですね。そこが難しいところですし、最近のレスラーたちの問題点でもあります。
最後に全てのプロレスラーの皆さんに、観世寿夫の次の言葉を贈ります。ちなみに( )内が原文です。これは決してパロディーでも戯れ言でもありません。私は大まじめです。
『リング(能舞台)は観客の中へ押し出した立方体の空間ですが、その中に立つレスラー(演者)は、目に見えない力によって無限に前後左右から引っ張られた中に立っていて、その無限大に通した力を内面の息のつめひらきやからだの動きによって、集約したり開放したりする、それが表現されている(謡われている)ストーリー(詞章)なり旋律なりリズムなりと一体化して何らかの訴えを感じさせるわけです。ですから私にとってからだの表現する"美"とは、ほんの僅かのかすかな動作でも、大きく飛び上がるような力動感に溢れた動作でも、それがその人間のからだの動きというものの範囲にとどまるのではなく、無限に広がる空間を支配して何ものかを訴えるところにあります。一足出る動きにも、指一本動かすにも、頭の先から手の先まで、また呼吸及び神経の働きまで、内的な要素を含めすべての器官が作用して、ある集中にいたったとき、観る人になにがしかの感動を与える、そこに肉体を通しての美があると思うのです』
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