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2008.12.31

明暗分けた大晦日…プロレス vs 格闘技

↓ワタクシも写ってますな。嬉しそうに逃げてます。
20090101179 年の大晦日。ウチの夫婦は子どもをおじいちゃんおばあちゃんに預けて、プロレス&格闘技観戦。
 うむ、なにか象徴的ですね。昭和の談合的世界と平成のガチ世界。そして終わってみれば、私は明るく楽しい年越しをしたのに対して、カミさんは涙の年越し…。
 そう、カミさんは当然「桜庭vs田村」がメインの「Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜」へ。なにしろある方から直接「私たちの代わりに和志を応援してきて!」と言われてますから、そりゃあさいたまスーパーアリーナに行かないわけにはいかないでしょう。
 私はですね、あえてそちらには行かず、プロレスの聖地、後楽園ホールで行われるプロレスサミットの「カウントダウンプロレス」へ。
 それぞれの詳細はスポナビの記事をご覧ください。どちらも濃いなあ。

 Dynamite!!〜勇気のチカラ2008〜

 プロレスサミット2008〜カウントダウンプロレス〜

20090101005 たまアリのメインは、ある意味プロレスを捨てた男、プロレスをぶっこわした男どうしの闘い。桜庭はもう体がガタガタでしたね。コンディション悪過ぎという感じでした。カミさんは泣いてました。彼はあえて平成のガチ世界を選んだわけですから、勝ち組になる時もあれば負け組になる時もあるのは当然です。そういう世界ですから。白黒はっきりする。
 翻ってこちら昭和的プロレス世界は、負けた人にこそ温かい拍手が送られる。単純な勝ち負けでないところに人間味があるんですよね。
 そして、お客さんとの一体感、これはもう絶対プロレスの勝ちです。今回私は当日券で前から3列目の特別リングサイド席を買ったんですが、すぐ近くの最前列にキャンプ場プロレスで知り合った方がいらして、彼が2列目の席を譲ってくれたものですから(本当にありがとう!)、そこで観戦したんですよ。紙テープを投げる役目も頂戴したり、サインボールをもらったり、選手が飛んできたり、蛍光灯の破片が降ってきたり、すぐ近くのオバさんが選手とやりあったり…(昨年新宿FACEでもこのオバちゃんすごかった)。たまアリでは絶対にあり得ない交流ですね。
 平成(いちおう)ガチ格闘技の方はですね、田村の試合後のコメント「お客さん向けの試合をしていない」が全てを物語っているでしょう。おいおい、わかってるならお前がまずちゃんとしなさい(笑)。私は今年横アリに行って、それを肌で感じてしまった。だからもう総合格闘技の生観戦はしないと決めたのです。テレビで充分です。
 まあこれは思想や趣味の問題であって、単純にどちらがいいとは言えないのかもしれませんが、私はプロレス的世界で締めくくれて良かったと思います。とっても幸せな気分と元気をいただいて新年を迎えることができました。
 本当は私が観戦した各試合、それから楽しい演出についていろいろ語りたいところですが、キリがなさそうなのでやめときます。だいいち眠すぎる。
 それにしても、それぞれの会場の客層の違いは面白かったな。特に後楽園ホールは独特の雰囲気でありました。なにしろ、お隣の東京ドームではジャニーズのカウントダウン・コンサートが行われていましたからね。まあ数万人のジャニオタ腐女子の方々が集結してましたから、ますますそのコントラストというかなんというか、世の中いろいろ、人生いろいろだなと思いましたよ。
 そうそう、私っていかにも怪しいダフ屋に見えるらしく、水道橋の駅でずいぶんと若い女の子に声かけられました(笑)。まいった。警察につかまるところだった。
 プロレスラー、格闘家の皆さん、今年もお疲れさまでした。来年もよろしくお願いいたします。では、よいお年を。

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2008.12.30

『永久保存版 昭和の歌姫 美空ひばり』(NHK BS2)

1107903 やあ…やっぱりいいわ。すごいわ。これは超えられないわ。
 昨日「完本 美空ひばり」を読んで臨んだこの番組。本当に素晴らしかった。純粋に音楽としても最高級ですけれど、もちろんそれだけでなくて、美空ひばりの人生をなぞり、そして「昭和」という時代を思い返すのに最高の番組であったと思います。
 この番組、6月に放映されたものですが、その日は…えっと、ああそうだ、昼間はレ・フレールのコンサートを聴き、夜はちょっとしたパーティーに参加していたんだった。で、見忘れてしまったんですね。
 でも、こうして年末に昨日のあの本を読んでから観られたことはラッキーだったとも言えましょう。年の瀬、今年一年を振り返り、そして今は遠くなってしまった昭和をノスタルジックに思い出すには最高のシチュエーションだったかもしれません。
 ちなみにウチの8歳の娘は実にマニアックで、この番組を微動だにせず食い入るように見入っていました。なんか白黒の昭和の映像とか大好きなんだよなあ。大丈夫か?…なんて、そういうふうに両親が育ててるんですけど(笑)。昨日も「8時だよ全員集合」に感動してましたっけ。
 まあ、単なるノスタルジーではなく、あの時代の芸はすごかったんですよ。大衆芸能のパワーが異常に強力だった。たしかに美空ひばりにしてもドリフにしても、いわゆる「文化人」やら「教育関係者」からずいぶんとバッシングを受けました。でも、ある意味そういう逆風もあったから、あのパワーが生まれたとも言えますね。お行儀の良いところには時代を変えてしまうような力は生じません。
 そうそう、そういう意味では、こうしてNHKがさかんに美空ひばりをとりあげるのも、ちょっと皮肉めいているとも言えましょうかね。御存知のように、あの「素人のど自慢鐘鳴らず事件」、そして山口組とひばりさんの関係から生まれたNHKとの微妙な確執がありましたから。
 昨日の本にも書いてありましたけれど、やはりひばりさんにとってはNHKは権力の象徴、「文化人」の象徴、「教育関係者」の象徴だったのでしょうか。しかし、こうして今はそのNHKがひばりさんにひれ伏している。時代は変わりましたな。
 そんな微妙な両者の関係のおかげで、NHKにはある時期のひばりの映像がないはずです。その頃の映像は民放にたくさんあるでしょう。いつか、両者の協力によって、「完全版」を作ってもらいたいですね。
 さてさて、今日の番組でも本当に強く強く感じました。ひばりさんは、歌の世界はもちろん、映画や舞台など、本当に幅広くジャンルを超えて活躍したんですね。それはまさに枠にはまりきらない大衆のあり方そのものでした。好き嫌いを通り越して、そうした大衆の生きる力を結集させ、昭和という明るく希望に満ちた時代を作り上げた彼女の功績は、本当に大きかったなあと思います。
 もう一つ彼女の功績として挙げられるべきは、日本の伝統的な歌を継承したということでしょうね。戦後の西洋化激しい音楽界にあって、彼女は日本の唄を歌い続け、日本の言葉を語り続けました。もちろん、ジャズやシャンソンなども歌いこなしましたけれど、それもある意味では、彼女の中の「日本」を際立たせることになったとも言えますね。実際原語で歌うよりも、日本語に訳した詞で歌う方が多かったようですし。
 昭和のあの時代にこういう歌姫といいますか、歌神様が現れたのは、これはもう偶然ではないような気がします。必然的に時代が彼女を生んだとともに、彼女が時代をも作っていった。もうそういう運命だったとしか言いようがありませんね。
 古き良き時代というふうに片付けたくない自分もいますが、やはり単純に実際古き良き時代なんでしょう。今年もたくさんの昭和の偉人が亡くなってしまいました。どんどん昭和は遠くなりますが、しかしまた、遠くなれば遠くなるほどに、あの時代のたくさんの大衆の姿はだんだん一つの点に近づいてゆき、まるで一つの星のように輝きを増すのでした。

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2008.12.29

『完本 美空ひばり』 竹中労 (ちくま文庫)

4480420886 近すっかり私の音楽の師匠になっている美空ひばり。まったく今頃になってなんなんだ、と思う方もいらっしゃると思います。不思議なものですね。昔は何がいいのか全くわからなかった。それが40過ぎてからでしょうかね、突然わかったんです。これはとんでもない天才だと。
 私は御存知のとおり、ロックをやり、クラシックやバロックをやり、純邦楽やジャズもかじって、そしてちょっと前から昭和の歌謡曲をやりはじめて、そうして一つのゴールに到達したんですね。それが美空ひばりだった。全てのジャンルを超えて、いやそれぞれのジャンルの中でもことごとく最高だと言っていいでしょう。そして、彼女だけが持つ天賦の才能とは「リズム感」であると、確信するに至りました。
 もちろん、彼女の音程の正確さや、装飾技術の完璧さ、声質の調整の巧みさ、節回しの華麗さ、日本語の美しさも並大抵ではなく、まさに世界有数のレベルです。しかし、それらだけではない、ひばりの歌だけにあるあの独特の「ノリ」は、これはもうほとんど誰も真似できません。多くの歌手が彼女を目標に日々努力しています。しかし、どうしても何かが違う。上手なのにあのノリが出ない。もしかすると楽譜にすれば完璧にコピーしているのかもしれないけれど、どうしても近づかない何かがある。あるいは、コンピュータで分析して機械的に再現してもだめでしょう。これはどうしようもありません。
 このことは歌に限ったことではありません。あらゆる楽器奏者においても、彼女の生むストリームを再現できる人はいないと思います。もちろん私なんか話になりません。せいぜいヴァイオリンの演奏の時に、彼女の節回しをイメージするくらいです。
 と、こんな具合で、すっかり私の中の神になってしまった美空ひばり。ちょうど明日NHKのBS2で美空ひばりの特集番組をやるので、それに合わせてこの本を読んでみました。いやあ、熱いなあ。感動的だったなあ。すごい。
 もちろんひばりさんの人生のすさまじさ、歌への情熱、大衆芸術への誇りもすごかった。いわゆる文化人やゴシップ好きのマスコミとの対立、そしてあの小林旭との悪夢の結婚生活も痛々しいものがありました。それを語る彼女自身の言葉のなんと純粋なこと…涙なしには読めません。母親、父親、兄弟への愛…。
 しかし、ある意味それ以上に胸を打つのは、今や伝説のルポ・ライターとなった竹中労さんの異常なまでの「熱さ」でしょう。これは恋愛以上だとご自分でも書いています。神への信仰や畏怖にも近い。いや、もっとシンプルにこれは「思い入れ」でしょうね。最近ここまで思い入れた文章読んだことありませんよ。彼女へのはもちろん、彼女を支える人たちへの賛美、そして先ほども出てきた、彼女を脅かす存在への厳しい指弾。もう異様なほどの迫力です。
 竹中さんと言えば、私は「ビートルズレポート」でのまっすぐな熱さや、「たまの本」でのちょっと暴走気味な熱さの記憶があるんですけど、このひばり本は本当に病気と言っていいほどですね。いや、もちろんその気持ちよく解ります。当時私も竹中さんのような立場にあったら、そりゃあこうなりますよ。「お嬢と呼んで」なんて言われたらねえ…。
 さて、この本、非常に心に残る文章が多かったのですが、そうですねえ、今日はその冒頭と終わりの一節だけ紹介しましょうか。
 まずは冒頭のひばり自身の言葉から。これこそ世阿弥の言う「離見の見」でしょう。やはりこういう境地なんだ、芸とは。
 「歌います。すると、お客さまの心がピーンと伝わってくるんです。目をつぶっていても、隅のほう、大むこう、上手、下手、劇場(こや)のあらゆる場所から楽しい気分や悲しい気分が、はねかえってきます。それと一つになること、溶けこんでいくこと…。
 どういうふうにって、具体的に説明しろっていっても無理よ。そうねえ、網を打つでしょ。それをギューッと自分のほうにひっぱってくる。あの気分と似てるんじゃない?でも、そのとき、自分ってものは消えちゃうの。網のなかのお魚にね、自分もなっちゃわないとダメなのよ。むずかしいな。ともかくそんなふうなの」
 そして、最後の最後、世界の天才二人の邂逅のエピソードが…。あのハリー・ベラフォンテとひばりは会っていた!そして、ひばりはベラフォンテにせがまれ日本の唄を謡います。その時の様子は、竹中さん自身が作詞した「美空ひばり物語」という歌謡浪曲としても発表されています。YouTubeに天童よしみの歌うそれがありましたので、そちらでお聴きください。そして、もう一つ、その時歌った「唄入り観音経」もありましたので(これはレア映像ですね)、ぜひどうぞ。天才の面目躍如です。そりゃあハリーも…。

 「美空ひばり物語」

 「唄入り観音経」

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2008.12.28

『詩のボクシング14−燃えろ!声と言葉のファイターたち-』(NHK)

Tokushimakawahara 年も楽しみにしていた「詩のボクシング全国大会」のテレビ放送。今年は1時間番組ということで、かなり内容が端折られ、多くの詩が割愛されていただけでなく、ゲストや審査員の言葉もほとんどなく、また、出場者の日常を紹介するコーナーなどもあまりに簡素になってしまって、正直残念な内容になってしまっていました。
 これでは「詩のボクシング」のらしさが伝わらないなあ…まあ、考えてみれば実況も含めて、昨年までのはあくまで演出であって、生で聞いて見て感じる「詩のボクシング」とはまた別のものだったとも言えますが。
 そういうわけでやや消化不良なワタクシであります。しかし、今年は山梨大会を初観戦したこともあり、また、夏には一昨年の全国チャンピオンである木村さんとも交流したりしたものですから、今までとちょっと違った視点で「詩のボクシング」自体をとらえることもできたように思います。
 この競技の難しいところは、やはり「詩」の定義と「ボクシング」の形式でしょう。「詩」の定義については、昨年の記事に少し書きました。なんでもありの雰囲気の中にも、どうしても伝統的な詩的世界が要求されるわけで、そのへんのさじ加減が実に難しそうに見えます。
 本来「詩」は音声言語として発せられて初めて生命を持つものであり、そういう点では音楽に近いものがあります。いちおう音楽をやっているものとして、この「詩のボクシング」を見て聞いていますと、これがいわゆるシンガーソングライターたちの発表会のような印象も受けますし、昔から大作曲家たちが通ってきた即興合戦のような様相にも感じられます。
 いずれにせよ、本人の創作力とプレゼン力が同時に試されることになり、さらに基本お客さんに多く認められる一般性や社会性も必要ですし、なにしろ一回勝負ですから、作品の傾向や深さという面においても、その一回性に耐えられるだけの(あるいは複数回性をあえて避けた、反復による理解の進行という考えを捨てた)作品を提示しなければならない、そういう困難さもありますね。
 形式ということで言えば、今度は格闘技の専門家(?)として言わせていただければですね、たとえば「ボクシング」と銘打っておきながら、同時的な打ち合いや、攻防におけるかけひきがほとんど見られません。ああいう形式であれば、あえてリングの上で闘わなくてもいいという考えも成立してしまいますね。格闘技は音楽で言えばセッションでもあり、二人の魂が響き合ってより大きな世界がそこに現出するという性質のものであるべきです。また、格闘技の中でも、ボクシングはより「精神力」が重視され、いわゆる名勝負が生まれるのも、そこのレベルの高さにかかっているとも言えます。その点、「詩のボクシング」はちょっと微妙な感じがしないでもない。
 でも、私はなんとなく「詩のボクシング」が好きですし、共感できるんですよ。それは、やはり「詩」の世界に身体性を取り戻させたというか、独り歩きしていた「言葉」を「体」の方に再び引き戻したというか、そこにとっても大きな意味があると思うからなんですね。そのためにあえて格闘技にしたわけでしょう。単なるコンペティションではなくて。先ほど書いたように、実際的にはいろいろな矛盾をはらんでいますが、そうしてある意味暴力的(?)に連れて来ないと、どうも妙な「詩的世界」が出来上がってしまっていましたから、日本文学界にはね。
 と、そういう観点で今回の皆さんの作品とパフォーマンスを拝見しますと、そうですねえ、どうも皆さん行儀がよくなりすぎているというか、そうした格闘技的な緊迫感というか、やるかやられるか的な意識というか、それをファイティング・スピリットと言うんでしょうが、そういうもののレベルが低かったような気がしました。そういう意味では、決してひいき目ではなくて、一昨年の全国大会のレベルの高さを再認識させられたような気がしましたね。
 いや、私は偉そうなことを言いつつ、自分ではどうやって言葉と自分自身と、そして対戦者とお客さんと審査員と闘えばいいのかよくわかりませんよ。だいいち詩も作れませんし、きっと大したパフォーマンスも出来ないでしょう。得意な音楽でさえ、即興合戦になれば、中身のなさを露呈して終わるに違いありません。だから本当にお客さん的な身勝手な意見をこうして肉体を離れて語ることくらいしかできません。でも、いつの時代も、受け手というのはこんなふうに身勝手なものであり、それをして理屈やテクニックを超えて動かししめるのが表現者、芸術家の仕事だと思います。
 消化不良の中で唯一、全てを見、聞くことができた決勝戦。ちょっとそういう相互格闘の感に乏しく、互いの単なる発表の場になってしまっていたように感じました。すなわちそこに選手の体がなかったということです。難しいですね。あらためて「詩」の、「言葉」の原点を考えさせてはもらえましたが。

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2008.12.27

『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い 禁じられた数字 〈下〉』 山田真哉 (光文社新書)

33403437 日のつづき。こちらも1時間ほどで読了しました。〈上〉では単位時間当たりの単価が高いと感じたのですが、こちらでは損をした気がしませんでした。それだけ内容が良かったということです。
 これぞすなわち、「会計は科学、ビジネスは非科学」ということなのかもしれませんね。数字的には同価値になるはずが、心理的な面では全く違う価値を持つわけです。
 昨日も書きましたけれど、数字というのはあくまで抽象的なもの、すなわち無限に多様なモノから、指を折って数えられるデジットなコトを抽出したものです。だからこそ便利であり、危険であり、有用であり、役立たずなわけです。
 この本では、そうした特殊言語としての数字への関わり方が詳しく分かりやすく解説されていまして、たしかに上巻と相互に補い合い、結果として世の中の多様性、多面性を表現していると感じました。ですから、いわゆるビジネス書や宗教書のようには完結しません。ある意味一つの結論が出ず、納得はするけれどすっきりはしないかもしれませんね。でも、それがこのシリーズの特徴でしょうし、「文学」たる所以だと思いますよ。
 私はいちおう教師ですが、よく「教師はダメだ」というようなことを言いますし、「学校教育」の無力さや危険性についても語ります。それと同様に、会計士である山田さんは、最終的に会計を否定しているように感じられます。しかし、そのような姿勢は決して自己否定ではなく、それこそ世の多様性と自己の他律性を証明するものであり、原理主義に陥らない一つの方策でありましょう。
 で、私も強く共感したのですが、原理主義に陥らないための最初の方法が、1の次の2でして、つまり二分法ですね。そして、それをさらに2→3→…としていく。そういう発想法と判断と行動をとっていくことが、まあ、大人になるということでしょうし、社会性を身につけるということでしょうし、私たち教師が学校で教えるべきことだと思いますね。
 昨日も書きましたとおり、私たちは「コト(フィクション・抽象)」によって安心を得たいと思っています。恣意的、即答的、固定的、画一的なコトに寄りかかっていたいと願望します。それがカネであったり、カミであったりするわけですね。あるいは数字。しかし、実際には、確率が不確定性を証明してしまったり、仏教の教えが不確実性を証明してしまったり、あるいは世界の金融市場が突然崩壊してしまったりして、我々は「モノ」の本質に対峙させられます。
 そんな時にどれだけ柔軟に発想し判断できるか。それこそが我々に(ビジネスに)必要なことなのでしょう。この本では結論的にそういうことを語っているのだと思いました。私の言い方とはずいぶん違いますけどね。
 しかし、多様性の中にある真理ということで、きっと、いろいろな読者がいろいろな次元で共感したのではないでしょうか。どんな仕事をしている人でも、あるいは仕事をしていない人もですね、数字とは関わっていかねばなりません。お金がないと生きられませんし。そういうまさに普遍的に抽象的な「数字」を扱って、その対岸にある普遍的な多様性という真理を証明した名著であると思います。
 こういう、本当は難しいこと、「モノの本質が無常である」という真理(マコト)を、分かりやすく説明するのは難しいと思いますが、筆者はさすが文学部の出身ですね、実に上手に、より具体的に、そして無理せず自分のフィールドで表現してくれました。高校生にもぜひ読んでもらいたい良き教材とも言えるでしょう。

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2008.12.26

『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉』 山田真哉 (光文社新書)

33403400 書きにあるように1時間で読めてしまう本なので、単位時間あたりの単価はずいぶん高い本だと思いました(笑)。
 あと、筆者の出世作『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』の記事では、タイトルの勝利みたいなこと書きましたが、こちらはどうでしょうね。一瞬、いやかなりの時間タイトルの意味がつかみきれないのは、これはやはり戦略的なものなのでしょうか。そう、主語がわかりにくいんですよね。結論的には「客」なわけですけど、ちょっと文脈がないと無理ですよね、真意をつかむの。まあ普通に読んでしまうと「バイト」が主語だと思ってしまう。
 これがまさに日本語の特徴ですけれど、「?」と思わせて手に取らせて読ませるという手法は、ちょっと詐欺的にも感じられます。
 …と、そのへんもそれこそ計算済みなのかもしれませんね。つまり、この本では、そういう文学的、詐欺的、うそっぽい話がたくさん出てくるからです。つまり、数字のマジックというやつです。いかに我々が数字という言語にだまされ、振り回されているか。
 ですから、内容的には以前読んだ『データの罠 世論はこうしてつくられる』や、『行動経済学 経済は「感情」で動いている』に近いものがありました。
 つまり、これは数字リテラシーの本だということです。ま、極論してしまえば、経営も会計も経済も、みんな気分で動いている、あるいは気分を動かしてなんぼであるということで、そういう意味としては、これはまさに文学であるということでしょう。
 数字はたしかに言語の一部としてとらえることもできます。しかし、筆者も語るように数字にはいわゆる言葉とは違った側面もありますね。そこに人は魅かれ、そして服するわけです。そう、私の「モノ・コト論」で言えば、不確実な「モノ」をですね、ある程度確実な「コト」もどきとして提示してくれのが数字なんです。本来捉えがたい「モノ」をあたかもそれらしく象って見せる。
 ですから、私は数字のことをいつも神様だと思っています。実在しないけれども、概念としてはある。それもかなり普遍的な概念としてそこにあって、我々人間の些末な感情や事情にかかわらず、そこに厳然としてあるかのように振る舞う数字。これは神に似ていますね。
 それが、人間の欲望と結託して悪神化したのが「カネ(マネー)」です…と私は考えています。実際の宗教でもそうですけれど、我々が「モノ(もののけ)」の恐怖から逃れるために作ったフィクション(コト)が、いつのまにか主人である人間よりも強くなってしまって、我々を振り回すようになってしまったんたですね。今の世界不況を見れば、その悪神の主人、いやその悪神のしもべたちの愚かさかよくわかります。
 いつかも書いたとおり、資本主義経済や自由市場経済というのには、根本的な欠陥があると思います。それは人の心を堕落させるという点です。いかに人をだましてもうけるか。いかに人をだまして損させるか。いかに法律にひっかからないようにギリギリのワルをするか。あるいはそういうことをしている自分たちを客観的に観察しないようにするか。自分たちのやっていることがいかに善であると自己洗脳するか。特に、グローバル化が進んで相手の顔が見えないようになると、その傾向はどんどん進みます。
 だから、私はいわゆる会計や、筆者の語る「数字がうまくなる」というものにも積極的に興味を持てないんですね。いや、今こういうシステムの中に生きているわけですから、そういうテクニックも身につけないと人さまにも迷惑をかける事態になるというのもわかります。でも、なんていうかなあ、自分が得するということは、誰かが損するということ、そういう単純な事実に目をつぶりたくはないんです。そりゃあ、わかりますよ、みんなが得をして幸せになるのが最終目標だという理想も。でも、人間だけでなく自然界全体のことを考えれば、やっぱりプラスマイナスゼロっていうのが、本当の会計学なんじゃないでしょうか。
 タウリン1000mgとか、9割が泣いたとか、1980円とか、そういうことを恥ずかしげもなく言って、いやそれがギャグやお笑いだったらいいんですけど、大まじめな顔してまじめな人をだまそうするのは、あるいはそういう精神が称揚されるような世の中は、やっぱり変だと思うんですよね。
 なんて偉そうなこと言ってますけど、実は私も仕事上そういうことばかりをしています(笑)。いわゆる演出による煽動や先導ですよ。損をさせるのではなく、得をさせるためと称してね。ですから、たとえばこの本なんかも、そういう演出の一つとして生徒にぜひ読ませたいとも思うのでした。ただ、難しいですねえ。だまされない方法を学ぶということは、だます方法を学ぶということにもなりますので…。
 ま、プロレスみたいにお互いが上手にだましだまされて楽しければ、それは文化になるのかもしれませんけど、ガチのだまし合いはケンカや戦争の種にしかなりませんね。

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2008.12.25

今日は何の日?…大正天皇の漢詩一首

Taisho て、今日は何の日でしょう?クリスマスも結構ですが、日本史的にはそれより重要なことが起きた日です。そう、昭和という時代が始まった日なんですね。キリストの誕生日でもありますが、昭和の誕生日でもあるんです。
 違う言い方をすれば、大正天皇が崩御されたのが1926年の12月25日なのです。御存知でしたか?
 大正天皇は、明治、昭和両天皇に挟まれて、正直目立たない存在です。そして、いろいろとウワサもあったりして、いわば謎の多い方ですね。私もあまりよく存じ上げません。
 ただ、一つ私の印象に残っているのは、大正天皇が立派な漢詩の作り手であったということです。なんでも1300以上の漢詩を残しているとか。これは歴代天皇の中でダントツの数です。次点の嵯峨天皇や醍醐天皇が100弱ですから桁違いです。
 御存知のように、一般的に天皇は歌作の方に向かいますよね。そういう伝統です。お父様である明治天皇も優れた歌人でありました。なのに大正天皇は、どうして漢詩に熱中したのでしょう。
 大正天皇は性格も行動も明治天皇とは対照的だったと言われます。文学の面でも、こうして和歌ではなく、漢詩を盛んに作ったわけです。偉大な父親に対する複雑な息子の心境がうかがえて面白いですね。
 さて、今日はそうした大正天皇の漢詩の中から、この季節にぴったりな七言絶句を一つ紹介しましょう。題は「歳晩」。「年の暮れ」ということです。

 歳晩

北風凛洌透人肌
正是今年欲暮時
愛日己臨南殿外
寒梅早有著花枝

 ワタクシ流に訓み下してみましょうか。

 歳晩

北風凛洌人肌を透す
正に是れ今年暮れんと欲するの時
愛日已に臨む南殿の外
寒梅早や有り花を著くるの枝

 ついでに意訳してみましょう。

北風が凛として人の肌を刺す
まさに今年も暮れようとする時
冬の陽はすでに紫宸殿の外にまで届き
寒梅には早くも花をつけた枝が見える

 うん、シンプルですが、新春へ向けての明るさ、暖かさが感じられる佳作ですね。歳の暮れと題しながら、新年への希望を歌い込んでいます。ちなみに「愛日」とは冬の日光のことです。夏の日光はおそるべきものですが、冬の日光は愛すべきものだということです。
 一部では大正天皇が暗愚であったという風評があります。しかし、このような優れた漢詩に接しますと、とてもそのような感じは受けません。それも短期間に膨大な量を残しているわけですから。ちなみに天皇は漢詩を、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者三島中洲に学んでいたようです。

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文学・言語, 歴史・宗教 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.12.24

スウィングル・シンガーズ 『アンラップト(クリスマス・ソング集)』

The Swingle Singers ...Unwrapped
51suw0mz4dl_sl500_aa240_ リスマス・イヴ。なんとなく今年は自粛ムードでしょうか。さらに愛ちゃんの訃報が…。なんとも哀しい聖夜になってしまいましたね。
 ウチでは、カミさんと子どもは教会で歌の奉仕。私は一人寂しく日本酒をいただきました。
 いつも思うんですけど、まあこの年末年始の宗教のはしごはいいとして、やっぱりイスラム教のイベントも一つ年中行事に加えた方がいいんじゃないのかなあ。そうすればよりバランスが取れるし、いらぬ誤解も受けなくて済むような気がします。ラマダンとかね。いや、日本の年中行事は食品(菓子)業界が主導してるから、ラマダンじゃダメですね(笑)。
 さて、私は一人日本酒を呑みながらこのアルバムを聴きました。いいですよ〜。究極のクリスマスソング集でしょう。
 まず!第1曲が、昨日私が演奏したコレルリのクリスマス協奏曲です。なんと、アカペラ・ヴァージョンですよ!演奏は、かのスウィングル・シンガーズです。まずは、ちょっと聴いてみてください。試聴の方は冒頭の30秒だけですが。

NMLで聴く

 ちゃんと即興も入っているぞ。残念ながら途中までの抜粋ですが、かっこいいですね。さすが、バッハで鍛えられています。バロックはお手の物です。
 スウィングル・シンガーズは1962年に結成ですから、今年で結成46年ですか!我らがカメムジより古い。もちろんメンバーも当時とは完全に入れ替わりましたし、活動拠点もフランスからイギリスに移りました。でも、クラシック、特にバッハを中心としたバロック音楽をジャズ風アレンジで軽妙に聴かせるという基本姿勢は変わっていませんし、その卓越したテクニックは常に世界のトップを走ってきたと言っていいでしょう。
 私も高校時代からずいぶんと聴いてきました。平均律とかフーガの技法とかは、彼らの演奏から入りました。そういうクラシック音楽、特にバッハやバロックに親しむきっかけをたくさん作ったという意味で、歴史に残る功績を残した団体だと思います。考えてみれば、私の場合、ジャズへの興味も彼らが入り口になっていたかもしれません。彼らからMJQに行きましたからねえ。
 さて、彼らの長い歴史で言えば、ごく最近録音されたこのアルバム、コレルリのあと、いろんなジャンルのクリスマスソングの名曲が並びます。曲目を紹介しましょうか。

1. Concerto Gross, Op. 6/8 "Christmas Concerto"/ [Excerpt]
2. In the Bleak Midwinter
3. Christmas Song
4. River
5. Snowman/Walking in the Air
6. Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!
7. O Tannenbaum
8. Rockin' Around the Christmas Tree
9. Santa Baby
10. Away in a Manger
11. Carol of the Drum
12. Amazing Grace
13. Rudolph the Red-Nosed Reindeer
14. Last Christmas
15. Happy Christmas (War Is Over)
16. Hotaru No Hikari

 古今東西・硬軟聖俗、まさに不二草紙好みの選曲ですね。素晴らしい。それにしても、なぜ最終曲が「蛍の光」なんでしょう。それもAmazonやNMLでは「Kikari」になってるし(笑)。これもちょっと聴いてみてください。

蛍の光

 なんか、あのジェンツの舟唄を彷彿させますね(笑)。せっかく日本語で歌ってるのに、このアルバムは日本未発売なのはなぜ?
 まあ、いいでしょう。こうして聴けるのですから。いやあ、なぜか日本酒(にごり酒)と合うなあ。いろいろあってなんとなく切ない聖夜にこうして一人しみじみと、しかしちょっと無理やりスウィングさせて酔うにはうってつけのアルバムではないでしょうか。
 あっ、最後に蛇足。ジョージ・マイケル(Wham!)のラスト・クリスマス、最後のクリスマスじゃないっすよね。去年のクリスマスですよね。今気づきました(冷汗)。
スウィングル・シンガーズ公式

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2008.12.23

満員御礼!クリスマスコンサート in 横浜

081223 日もほぼ満員のお客様に来ていただき、無事(?)演奏会を終了することができました。お客様はもちろん、私を使ってくださるメンバーの皆様にも感謝です。本当にありがとうございました。
 会場である横浜開港記念会館は、ここ何年か連続して演奏させていただいている歴史的建造物です。いわゆる講堂であるため、やや音響的には難がありますが、雰囲気はなかなか良く、お客様もいつも熱心に耳を傾けてくださるので、気持ちよく演奏させていただいています。どういうわけか、あそこだとあんまり緊張せず演奏できるんだよなあ。なんでだろう。
 最近、演奏の醍醐味が少しわかったような気がするんですね。自分の「音」というのもわかってきたように思います。それは、そうですねえ、やっぱり他のジャンルでいろいろ勉強させていただいている結果に違いありませんね。
 ここのところで言えば、観世寿夫さんの言葉、浅草ジャズでの原信夫さんの言葉。オスカー・ピーターソンの特集番組での小曽根真さんの言葉。そして、石川さゆりさんの言葉。本当に勉強になりますよ。
 さらに!今回は長調の速い楽章では、松田聖子さんをイメージして弾き、短調の緩徐楽章などでは、美空ひばりさんをイメージして歌い、語るようにイメージして弾きました…なんて書くと、笑う人たくさんいそうですけど、本人はいたって真面目にそのようにしているのであります。そうしたら、なんとなく緊張も解けるんですよ。今まで、イメージのないまま、ただ楽譜をなぞるような演奏をしていたんでしょうね。そうすると、楽譜に表されている情報と自分の出している音とのギャップばかりが気になってしまって、それで緊張していたのかもしれません。
Img2905517azikazj あとは、全体の響き、アンサンブルに身を任せるという気の持ち方でしょうか。特にヴィオラを演奏してる時は、そういう感じです。このバンドは皆さんベテランでいらっしゃるので、自然と心地よいストリームが生まれます。そこに乗っかって演奏すると、それこそ離見の見というか、自己から解放されるんですね。それが気持ちいい。ある種の悟りの境地だな、こりゃ(笑)。
 でも、先ほど挙げた大家の皆さんのように、やはり演奏家自身が音楽を愛し、音楽に愛され、気持ちよく演奏するのが一番ですよね。それは絶対です。音楽自体を伝えるというよりも、そういう自分の幸せのおすそ分けをするのが、演奏家の役目なのかもしれません。
 そういう意味では、これも復習になりますけれど、道元の説く「習う=忘れる」境地に至らねばならないのかもしれません。ということは、やっぱり「技術」を忘れるくらい練習しなくちゃならないということですね。そこんとこは、ちょっと、いや大いに反省であります。それにしても、メンバーの皆さん、私なんかよりずっとお忙しいのに、いったいいつどうやって練習されているのでしょう。不思議でなりません。
 この団体も来年結成35周年だそうです。一つのことを続けること、それも複数の仲間で続けること、これはこれだけで充分に立派で崇高なことです。その約半分の時を共有させてもらえるだけでも幸せですし、いろいろと勉強になるのでした。感謝、感謝。
 今日の演奏で一番盛り上がったアンコールの録音を聴いていただきましょうか。ちなみに私はこの演奏には参加していません。舞台裏で聴いていて、私も心踊らせ、体も踊らせておりました。

テレマン リコーダーとフルートのための協奏曲 ホ短調より第4楽章

 もう一つ、歴史に関われるお話。来年は横浜開港150周年だそうです。その関連イベントとして、この開港記念会館において記念コンサートが行われます。今回ご縁がありまして、そちらに参加させていただくことになりました。バッハのコンチェルトやカンタータを中心とした華やかなものになりそうです。また、詳細が決まりましたらブログ上でも告知したいと思います。

カメラータ・ムジカーレ公式

横浜開港記念会館

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2008.12.22

激落ちパパ (消しゴム)

022 イ・リトル・ラバー。Lover じゃなくて、Rubber です。生徒がくれました。安くてよく消えるとのこと。某100円ショップの定盤人気商品です。パパだけじゃなくて、ママとか、ほかの家族もいるのだとか。うん、たしかに良く消える。小ささも適度な感じだし、これはいいですね。えっと三つで100円ですか。安い。
 この前、OHTO の AUTO SHARP を紹介しましたね。あれとこの消しゴムのタッグは受験に最適だと思ったんですけど、考えてみますと、名前が悪いなあ。「激落ち」かあ(笑)。激しく落ちるというのはさすがに受験会場に持っていけないような気もする。ま、カバーをはずしていけばいいか。それでもなんとなくね。
 日本人はずいぶんとそういう縁起を担ぎます。ウカール(受かる)とかキットカット(きっと勝つと)とか、そういうオヤジギャグにもならないような駄洒落をですね、なぜか若者が真剣に(?)買い求める。それが商売になっちゃうんですから、実に面白い文化です。
 その点「激落ちシリーズ」はすごいですね。本家の汚れを取るスポンジの方のネーミングとしては悪くないと思いますが、勉強のお伴である消しゴムにこういう名前をつけちゃうとはね。だいたい字は落とすものではなく、消すものでしょう(笑)。せいぜい「激消え」とかにしとけば、この時期もっと売れたのになあ。戦略ミスでしょうか。
 でも、たしかによく消えますよ。消しカスも適度にまとまりますし、減りも極端に速いわけではない。消し心地もスムーズですし、高い製品と比べても遜色ありません。これはあえて逆説的に受験生に流行らせるという手もありですな。テレビか何かでテキトーに演出して放送すれば、すぐにブームになりますよ。自分の変わりに激しく字が落ちてくれるとかなんとか言って(笑)。
 ところで、冒頭にマイ・リトル・ラバーって書きましたけど、今ではゴム全般のことをラバーって言うじゃないですか。これって「こするもの」っていう意味から来てるんですよね。つまり、天然ゴムが発見されて、ヨーロッパに輸入された時、誰かが「こするもの」として使ったということです。こするというのはすなわち、鉛筆の筆跡を消すということですね。それは1770年の4月15日だそうで、イギリスではその日を「消しゴムの日」というのだとか。
 たしかに、鉛筆と消しゴムの組み合わせというのは、人類の歴史にとって非常に大きな意味のある発明でしたね。もし、書いた字が消せなかったら、私たちの生活はずいぶんと違っていたことでしょう。
 鉛筆の歴史は古いのですが、その筆跡を消すという発想はのちに生まれたものだったわけです。最初は何で消していたかというと、パンです。そう、私も絵を習っていた時にやりましたけど、木炭デッサンの時、今でもパンを使うじゃないですか。こすったりたたいたり押しつけたりしますよね。そうすると、パンが木炭の粒子を取り込んでくれる。あれですよ。鉛筆は木炭の代わりに使われはじめたので、当然最初はパンで消していたと。
 そう言えば最近パンで字を消してないな。久しぶりにやってみようかな。ところで、センターとかで消しゴム忘れたらお昼のパンをちぎって机の上に置いといていいんでしょうか。誰かに試させてみるか(笑)。

ダイソー 消ゴム

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2008.12.21

満員御礼!クリスマスコンサート in 東京

081221 来場下さった皆様、ありがとうございました。
 今日は私の所属するカメラータ・ムジカーレの演奏会がありました。会場は昨年の11月と同様、東京は乃木坂の聖パウロ女子修道会の聖堂です。あいかわらずの素晴らしい響きと雰囲気で、気持ちよく演奏させていただきました。感謝いたします。
 曲目は以下のとおりでした。

クープラン/コンセール第8番 「劇場風」
コレッリ/合奏協奏曲 作品6 第8番 ト短調 「クリスマス」
バッハ/オーボエとヴァイオリンとための協奏曲 ハ短調 BWV1060R
バッハ/チェンバロ協奏曲 ホ長調 BWV1053
テレマン/リコーダーとフルートのための協奏曲 ホ短調

 今年はクリスマスのシーズンということで、コレルリの「クリスマス・コンチェルト」も演奏いたしました。この曲にはいろいろと思い入れがありますね。懐かしい思い出とも言えます。ヴァイオリンを弾きはじめて、初めてソロというのを弾いたのはこの曲だったと思います。高校2年の時には、私が部長をしていた弦楽合奏部がこの曲を引っさげて、県の何かの行事の発表会で演奏した覚えもあります。なんかその時、高校の体育の授業で砲丸投げをやっていて、本番の寸前に右肩を負傷したんだよなあ。ゴキッとかいって。そのおかげで、肩の力の抜けた古楽的なボウイングができた覚えがあります。あれが、最初の古楽体験だったりして(笑)。
 あの時の演奏を録音したカセットテープがどっかに眠ってるはずです。今聴いたらたぶん笑えると思いますよ。いちおう、私が1stのソロでコンサート・マスターでしたので、私が中心に音楽作りをしたはずです。ちょっと聴いてみたいぞ。自分の若気の至りを。ヴァイオリン始めて2年くらいですから。
 ま、その後、実際の古楽器に出会い、そしていろいろな先生や仲間に出会い、よりコレルリの実像に迫ることができるようになったと思います。古楽器の弦楽アンサンブルで演奏するのは、おそらく今回が3回目だと思いますが、今回は古楽界としてはスーパー古参の団体なので、ある意味懐かしい、古き良き時代の響きが体験できたような気がしました。最新の演奏、たとえばこちらとはずいぶん違います。最近年取って最新の疾走系の演奏についていけない私としては、この団体の音楽作りはけっこう和みます。
 ちょっと音をお聞かせしましょうか。リハーサルを録音したものです。
 アレグロ
 音程はずしてるのはことごとく私(2ndリピエーノ)です。すみません。本番ではさらにやらかしてしまいました。すみません。
 昨日の石川さゆりさんじゃないけれど、音楽には究極的にその人柄が現れます。いろいろな人に出会い、変化してきた私ですが、石川さん同様(?)かなりその芯の部分は濃いと見えて、どうもいい加減さが隠し切れませんね(笑)。
 というわけで、あさって23日には横浜の開港記念会館で同じ内容のコンサートがありますので、興味を持たれた方はぜひいらしてください。

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2008.12.20

『私のうたの道〜石川さゆり〜』(NHK BSエンターテインメント)

1 日は仕事のあと東京で明日の演奏会の最終練習。家に帰ってきまして、この番組の録画を観ました。
 いい番組でしたねえ。石川さんの歌だけでなく、その人となりがじんわり伝わってきました。歌は人なり、心なり。人の心は縁が作る。
 熊本の「美空すずめ」が14歳でデビュー。しばらくは鳴かず飛ばずだった石川さん。そして、あの名曲、私たちも歌謡曲バンドや古楽器グループでよく演奏させていただいている「津軽海峡・冬景色」と出会います。阿久悠さんらしい時代と風景を映す素晴らしい詩ですね。「能登半島」も含めて、三木たかしさんの曲は、三連符系の推進力のある演歌です。フォークや歌謡曲のエッセンスをうまく盛り込んで、ファン層を拡げたのだと思います。
 その後、石川さんは、民謡・浪曲・義太夫・常磐津・長唄・小唄・端唄などを積極的に学びます。そして、最近は瞽女唄を勉強しているとか。石川さん、歌以外にも絵や陶芸や染めなど、日本の伝統芸能や伝統工芸などに興味を持って、その旺盛な好奇心で挑戦を続けています。
 その集大成の一つ、歌芝居「飢餓海峡」の映像は圧巻でしたね。ちょっと観てみたい聴いてみたいと思いました。「飢餓海峡」も壮絶な女の生き様、恋の行方を描いた作品ですが、なんといいますか、石川さんが歌いますと、不思議と透明な色彩になるんですよね。これは面白い。
 たとえば吉岡治さんの「天城越え」ですね。これなんか、石川さんの純粋な良妻賢母のイメージをあえて崩そうとした過激な歌詞です。「あなたを殺していいですか」なんていう歌詞は、ほかの歌手には歌わせられませんね。おそらく○○さんとかが歌ったらシャレになりません(笑)。
 それが、石川さんだと不思議と美しくなる。これは彼女の人間性による浄化作用だと思いますよ。奥底から湧き上がるエネルギッシュな無垢さが、あらゆる情念や罪悪をも浄化してしまうんですよ。ですから、吉岡さんや弦哲也さんたちが、こういう歌を歌わせて画策した「石川さゆりを壊す」という目的は残念ながら失敗だったと、私は思います。結局、歌詞や曲が、歌手に負けた稀有な例だと思うのです。
 石川さんも最初「これは無理です」と言ったようです。しかし、思いっきり演じてみようと考えたら、ふつふつとやる気が湧いてきたとか。そう、つまり演技、フィクションなんですね。フィクションの一つの機能は、その裏側にある真実を照射して見せることです。「天城越え」は見事に石川さんの無垢な人柄を見せてくれたわけです。
 あと、この番組を観て聴いていて感じたことですが、石川さん、ものすごく歌のテクニックがあるわけではありません。いや、上手、下手という意味ではなく、テクニックに走らない、表面をつくろうことをしないということです。声も非常に純粋に美しく、ある意味演歌歌手に必要な渋味はないとも言えます。しかし、変に作らないところが、石川さんの強みだと思ったんですよね。日本の伝統歌曲を勉強して、それを身につけても、それにどっぷりになりません。いや、もしかすると、石川さん、ものまねが得意ではないのかもしれません。どんなものを表現しようとしても、結局無垢な石川さゆりが一番前に出てくるんですね。それが強み、個性、ぶれないスタイルというような気がします。
 そこんとこに、あのイチローも惚れたんでしょう。なんとなくわかります。理屈に走らず、自分の感性を大切にする。人から大いに学ぶが、単なるものまねではなく、自分のフィルターをちゃんと通して表現していく。自分としては、きっといろいろと変化し、成長していると実感していることでしょう。しかし、我々には逆に動じない石川さゆりやイチローを見せつけられることになるんですね。面白いですね。
 ですから、杉真理さんの「ウイスキーが、お好きでしょ」を歌っても全然自然なんですよ。いわゆる演歌の節回しに染まり切ってないから。こぶしも、聴きようによっては、あんまりうまくないとも言える(失礼)。最後に歌った沖縄調の「朝花」もそうです。コテコテに沖縄になりがちな曲ですが、やはりうまいこと透明化していてよろしい。
 人柄。もともとの人柄が、縁によって育つ。筑紫哲也さんが語った「栄養」、水上勉さんの語った「抽象的に太る」というのは、まさに言い得て妙。ただの真似やパクりでは、それは単なる贅肉。メタボです。
 おばあさまが言っていたという「天知る、地知る、我も知る」という言葉、いい言葉でしたね。人が見ていようがいまいが、悪いことはしない、良いことはする。それこそ石川さんの歌ににじみ出る無垢さ、純粋さの源なのでしょう。

石川さゆり 公式

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2008.12.19

地域発!どうする日本「変わる義務教育 学ぶ力をどう伸ばす」 (NHK)

1 放送されていた生番組。公立小中学校での取り組みが紹介されていました。私立に勤めるものとして、それなりに興味深い内容。
 ま、私たちから言わせると、公立で行われる新しい取り組みや改革は、私立の二番煎じがほとんどなんですけどね。だいたい10年くらい遅れている。
 ただ、それはそれで脅威ですよ。だって、同じサービスを格安で提供されたら、こっちはさらなるサービスをしなければならなくなるわけですから。
 おかげで私学もどんどん良くなっていくので、結果として子どもたちや親御さんにとっては悪いことではないのかもしれませんが。まあ忙しくなっていくのはたしかですね。そして、家庭の役割までサービスしなければならないというのは、本末転倒というか、なんというか…。
 さて、今回の番組の冒頭は、やはりあの対立構図でした。秋田vs大阪。まるで桜庭和志vs秋山成勲みたいですよね(笑)。秋田がベビーフェイスで、大阪がヒールみたい。
 そう、あの全国学力テストの成績で軒並みトップクラスだった秋田県と、ボトムだった大阪府の学校や家庭の様子が紹介されてましてね、なんだか正直大阪が可哀想なほど秋田が美化されていて、ちょっと笑ってしまいましたよ。
 秋田側は東成瀬中学校が紹介されました。少人数制によるきめ細かい指導と家族が一丸となった家庭学習。うん、たしかに理想的に映りました。
 ただどうでしょうね。桜庭がIQレスラーとか言われて、本人がこそばゆい思いをしているのと同じで、決して秋田が特別なわけではないはずです。番組で映っていた先生を見て、「あっ同級生の○○くんだ!」と叫んでいたウチのカミさんや、東成瀬のすぐ近くで中学校教師をしているカミさんの妹夫婦によれば、実際かなり気恥ずかしいらしい。最近はやれ視察だなんだと全国からいろんな人が来るのだと。大変ですよね。そういう時は慣れない標準語を使わなければならないでしょうし(笑)。
 私もですね、秋田を愛する者として、あえて言いますが、秋田の成績が高い理由にはいろいろなからくりがあります。もちろん、純粋に勉強量が多いとも言えますよ。なにしろ娯楽がありませんから。大阪や東京のような誘惑はありません。特に冬場は雪に閉ざされますから、正直ひきこもり率が高くなります。自然机に向かう時間は増えるでしょう。実際朴訥でまじめ、そして忍耐強い人たちが多いし、勉強して成り上がろうという、豊かな都会への反骨心も強いかもしれない。
 ただ、やっぱりそれだけではありません。ちょっと意地悪に言いますとですね、少人数制というのは「制度」ではなく、実際は過疎化の結果だったりします。ウチのカミさんは6年間1学年4人だったそうです。超少人数制ですな。たしかにきめ細かい指導が可能…と言うかそれしかできない(笑)。
 あと、あの学力テストは私立の参加率が低いじゃないですか。で、都会でははっきり言って上位層はみんな私立に行くわけですよ。だから、どうしても平均点は低くなる。その点私立の極端に少ない秋田県は上位層がみんな公立に行きます。だいいち、私立が公立より上位とは言えない実情ですし。
 そんなこんなで、全体としては田舎が有利、都会が不利となるのは、本当の「考える力」を持っている人なら簡単にわかることだと思うのですが。だいたいが、学力1位の成れの果てが自殺率1位ではたまりませんよね。しゃれにならない。ま、かたや犯罪数1位ですけど(笑)。
 中山さんが言っちゃって物議を醸した、「日教組が強いところは学力が低い」というのも、もちろん一理あります。ああいう集団の逆説的存在意義は認めますが、原理主義こそ「考える力」を殺すものであるというのも事実ですから。
 …と、なんかずいぶんと毒舌になってしまいました。反省してもう少し毒舌を吐かせていただきます(笑)。
 今日はゲストとして、茂木健一郎さん、金子郁容さん、本田由紀さん、牧野剛さんが参加されていました。一番まっとうな意見を言っていたのは牧野さんでしたね。さすがでした。本田さんは、母親としての素直な気持ちが、学者としての気持ちよりも優先していてよろしかった。金子さんもまあ理想的なことをおっしゃっていましたね。ちょっとエリート臭がしましたけど。そして、一番はしゃいでいたのは、やっぱり茂木さんでした。ぜひ、イチローと中継を結んで、ガツンと言ってやってもらいたかったっす(笑)。
 皆さん一様に「大学入試が目標になるのはよくない」みたいな話をしていましたが、皆さん東大や慶應をお出になっているので、あんたたちに言われたくないよ、と思いました。その点、そういうことを仕事にしつつ(河合塾の講師ですね)、大いに矛盾に苦しんでいる、つまり、受験勉強はダメだ!こうするべきだ!とは言い切れないで悩んでいる牧野さんが一番立派に見えました。同じような仕事をしていて、同じような悩みに常にさいなまれている私は、強く共感したのでした。学者はダメだなあ。特に教育学者は…。

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2008.12.18

『エド・ウッド』 ティム・バートン監督作品

Ed やB級(いや、C級?)映画監督の頂点に君臨している(させられている)エド・ウッドの伝記映画。監督はエドを敬愛するティム・バートン。エドを演じるのは若きジョニー・デップです。
 私、エド自身の作品は「死霊の盆踊り」しか観ていません。ま、これは原作・脚本作品ですから、正確にはエドの作品とは言いがたい。私にとっては、この「死霊の盆踊り」以下の作品は想像できません。ですから、私にとって史上最低の映画監督と言えば、A・C・スティーブンですね。たぶんエドの作品を観たら、やっぱり「頂点」だと感じるのではないでしょうか。つまり、「底」じゃないっていうことです。
 実際、こうして多くの監督から敬愛され、伝記映画が感動を生むのですから、それだけの才能や魅力があったということでしょう。とりあえず、このティム・バートン作品からはそういう「何か」が伝わってきます。
 前も「ガギグゲゴ」とか「博士」の話でそんなこと書きましたが、どのへんなんでしょうね、許せないものと敬愛すべきものとの境目って。品格でしょうか。魂でしょうか。思い入れでしょうか。どれだけ真剣なのか…いや、それはないな。
 やっぱり、フィクションをフィクションとして提供するかどうかでしょうかね。いや、それも微妙に違うな。本人は真実だと思っている、これこそ正しいと信じているというケースもよくありますから。「だましてやろう」というあくどい魂胆がないっていうのが、基本かもしれない。いや、それもなんか微妙に違うような気もしますね。難しい。
 とにかく、エド・ウッドは神格化、美化されてよい「何か」を持っている監督なんですね、きっと。その「何か」を受けとってティム・バートンがこういう映画を作ったのでしょう。その「何か」とは、やはり純粋な映画への愛情なんでしょうか。あるいは商業主義に走りっぱなしのハリウッドに対する反骨精神なんでしょうか。
 この映画自体はなかなかよくまとまっていますし、ていねいに作られているので、エド・ウッドのことを知らない人でも充分に楽しめる作品だと思います。ジョニー・デップも好演してますし、なんといっても彼のステキな女装が観られるところがいい。エド自身も女装癖があったようですね。ジョニー・デップもこの映画で女装に目覚めたとか目覚めないとか(笑)。
Ed2 圧巻は助演男優賞を獲ったマーティン・ランドーのドラキュラ俳優ベラ・ルゴシ役でしょう。本当に素晴らしい演技です。映画への執念や、エドへの愛情、人生の悲哀など、いろいろなものを見事に表現しています。ちょっとうるっと来ちゃいますね。モノクロ映像の陰影と彼の演技が実にマッチしていて美しい。
 ティム・バートンはエドの映画のシーンを、見分けがつかないほど完璧に再現しているとのこと。実際に比較していないにもかかわらず、そういうこだわりというか愛情というか、あるいはオタク魂みたいなものは、存分に画面から受けとることができます。
 そう、プロレス・オタク的に非常に感激したのは、エドが怪物俳優トー・ジョンソンを勧誘するプロレス興行のシーンですかね。古き良きアメリカン・プロレスの雰囲気がよく出ていました。ちなみにトー役はWWFで大活躍したホンモノのプロレスラー、ジョージ・“ジ・アニマル”・スティールです。懐かしく観ました。今どうしてるかな。
 まあとにかくお馬鹿で純粋な男たちの悲哀と愛らしさに思わずジーンとするいい映画です。この2年後ですかね、ティム・バートンは「C級以下」「本物の史上最低」とも評価された「マーズ・アタック!」を製作し、ある意味師匠エド・ウッドを超える映画監督になりました。素晴らしいことですね。
 次はいよいよエド・ウッド自身の作品を観ようと思います。まあ基本的なところで「プラン9・フロム・アウター・スペース」かな。そして、日本で撮影されたという「エド・ウッドのX博士の復讐」でしょうか。また観たら報告します。

Amazon エド・ウッド

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2008.12.17

『AUTO SHARP(ノック不要の自動シャープペンシル)』 (オート)

Ohto_autosharp_01 あいよいよ本格的受験シーズンが始まります。昨日も、防衛大学校の入試(+α)のことを書きました。センター試験まで1ヶ月。ウチのクラスの連中も最後の追い込みに入っております。
 そのセンター試験では基本的にシャープペンシルの使用ができないので、生徒はそろそろ古典的な鉛筆に慣れなければなりません。現代の若者は鉛筆にあまり馴染みがありません。小学校まではシャーペン不可で鉛筆を使わせるところが多いようですが、中学になると一気に鉛筆派は減っていきますね。大人でも今や鉛筆派は少数です。私も基本シャーペン派です。
 ところで、なんで小学生は鉛筆なんでしょう。ウチの娘も2Bの鉛筆と格闘しています。筆圧の調整があんまりうまくいかない(大概強すぎる)ので、すぐ減って字が太くなります。消しゴムで消すと例のごとく黒くなります。手のひらの横も真っ黒になりますね。それでもみんな鉛筆。これって、理由があるんでしょうか。
 よく言われる理由はいくつかあります。まず、筆記用具の持ち方を学ぶにはシンプルな形状かつ軽い鉛筆がいいというもの。続いて、あのような常時変化し続けるある意味アナログ的な繊細さに対応する能力を身につけるため。脳に良い刺激があるとかないとか。あと、ガキがシャーペンなんていうハイテクでチャラチャラしたものを使うのは10年早い!というやつ。なるほど。
 でも、なんだかんだ言って、これって大人のノスタルジーじゃないでしょうかね。あの古典的なランドセル(背嚢)を背負わせるのと一緒で。機能とか安全性とかじゃなくて、単なる「伝統」というか、「記憶」というか。全ての文化の継承過程とはそんな気分的なものであります。
 おっと、今日は鉛筆がテーマではなかった。そのハイテクでチャラチャラしたシャーペンのお話です。
 シャープペンシルっていうのは御存知の通り和製英語でありまして、英語では mechanical pencil あるいは propelling pencil と言うそうです。聞いたことないけど。で、つまり、日本人の感覚としてペンシルはシャープじゃなかったということですよね。あえてシャープペンシルって命名したということは。まあその通りだと思います。すぐ丸く太くなる。たしかにその点シャーペンは画期的でした。
 あと、削らなくていいということですね。削るためには鉛筆削りが必要です。あるいは何本も用意しなくてはなりません。そう、センター試験での問題点はそこにあるんですよね。折れたりすることを考えて5本くらい机の上に出しておかねばならない。ただでさえそうした使用環境に慣れていない高校生は、ついつい鉛筆をガチャガチャガチャと落としてしまったりする。問題用紙をひっかけたりしてね。シャーペンだったらそういうことは基本ありません。ただ、試験中に芯がなくなったり、芯が詰まっちゃったりすることもありますが。
 なかなか本題に入りませんねえ。えっと、そのシャーペンですが、削らなくてもいいかわりにノックしなくちゃならないじゃないですか。案外それが面倒。振るタイプのものもありますが、あれもアクションが大きく不便。じゃあ、ノックしなくても自動で芯が出てくる真にオートマティックなペンシルはないかと言いますと、実はあるんですよね。これをクラスの受験生にプレゼントしようかと思っているんです。その名も「オート」社の「AUTO SHARP」です(今でも売ってるのか、ちょっと不安ですが)。
 オートはなかなかユニークな筆記具やら事務用品を作っている会社ですね。あのガチャックが一番有名でしょうか。案外濃い歴史を持った会社です。ホームページからちょっとそのパイオニアぶりを抜粋してみましょう。

1949年、オートが世界に先駆けて鉛筆型木軸ボールペンを開発。
ここに日本のボールペンの歴史が始まった。
1958・1960年「0.6mm極細ボール」と「証券用インク」を初めて開発。
1962年「鉛筆型ノック式」ボールペンを考案し、発売。
1963年 錆びず、保存安定性に優れている画期的な「超硬ボール」を初めて実用化に成功。
1964年「水性ボールペン」を世界で初めて開発。インク残量が見えるように中芯を最初に改良。
1968年 鉛筆型ボールペンの「ローレット手法(指先部分のギザギザ)」を初めて採用し、発売。
1978年 鉛筆型ボールペンに初めて「グリッパー」をつけて発売。
1999年 油性ソフトインクと極細ペン先を組み合わせた「ニードルポイント」を開発。
 筆記具をはじめ、綴じ具の「ガチャック」の市場をつくるなどオートの技術力と企画力はとどまることを知りません。

 …とのことです。あんまり知られていないし見かけないような気もしますけど、実はなかなか渋い業績を持つ会社なんですね。なんとなく好きです。
 自動で芯が出てくるシャーペンはゼブラも作ってましたが、あれは振るタイプなので私としては却下です。あと外国製やネタ的な粗悪品も出回っていましたけれど、ちゃんと使えて丈夫で長持ちするのはこのオート社のものだけですね。
1 芯が出てくる仕組みはゼブラのフリーシャなどと一緒、芯を包むスリーブのようなものがあって、筆圧でそれが引っ込み、バネで戻る時に芯を送り出すようです。そのようなカバー状のものがついているので、書き味がどうか心配ですね。しかし、実際にはほとんど違和感はありません。私はゼブラも使ったことがありますが、こちらは時々ひっかかり感があったのを記憶しています。その点はオートの方がいいような気がします。
 あと、個人的にはデザインが好き。三角形の断面を持つ本体(軸)は、私の手には実に心地よく、持ちやすいだけでなく、なんとなく気合いが入り、集中力が増すような気がする(私だけかも)。廉価版のパステルカラーのものより、「ちょい大人の」200円のものの方が適度な重量感があってグッド。これはおススメです。
 受験生たちの反応はどうでしょうかね。おそらく初めて手にするので、いろいろな意味で慣れるのに時間が必要かもしれません。しかし、慣れれば絶対試験に最適だと信じています。生徒諸君、これで厳しい冬を乗り切り、明るい春を迎えましょう!

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OHTO オート 公式
AUTO SHARP 紹介ページ

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2008.12.16

三井アウトレットパーク 入間

0191 日はクラスのギャル4人を連れて、朝霞駐屯地へ。朝5時過ぎの出発です。防衛大学校の二次試験を受けに行きました。ちょっと前までは自衛隊の方が連れていってくれたんですけどね。最近はいろんな意味で粛正(?)が進んでいて、そういうサービスはなくなってしまいました。
 まあそれにしても、あいかわらずウチのギャルどもはパワフルです。一次試験に受かるだけでも大したものですが、二次を積極的に受けに行くというのもすごい。なんでもイベント化して楽しむ力には、ほんと頭が下がります。
 で、私は彼女たちが試験中、ある私立中学校の設立説明会に参加してきました。いわゆる密偵です(笑)。時間を無駄にせずしっかり仕事してきましたよ。いや、なかなか他校の様子を見る機会が少ないので、こういうチャンスは逃さないようにしなくちゃね。
 いろいろ私も勉強して、朝霞に帰ってきまして、駐屯地の入り口にある「陸上自衛隊広報センター」で、憧れの(?)自衛隊体育学校のレスリング班情報やら、あとこちらこちらでも紹介した、最近の自衛隊萌え系おみやげ情報などを収集し時間をつぶしておりましたら、彼女たち、さすがに疲れた表情で帰ってきました。知力だけでなくけっこう体力もある連中ですが、全くの未知の体験の連続にかなり消耗したようでした。お疲れさん。
 で、帰りに高速のパーキングでメシでもおごってやるか、と思いながら、入間インターに向かっていると、そこに突然ドーンと巨大な駐車場ビルディングが現れたではありませんか!えっ?何?ドワーッ!これがウワサの「入間のアウトレット(の駐車場)」か!
 さあ、そうなったら、もうギャルたちの疲れは吹っ飛びまして、半ば強引に私の運転する車は、夕闇に不気味に浮かぶその巨大なシルエットの中に吸い込まれていったのでありました。そして、そこで「トイレ休憩1時間」ということになりました。めでたし、めでたし。
 なにしろ、入間のアウトレットと言えば、入間インターでの渋滞、というか、入間インターで出る車で圏央道が渋滞するというくらい混むという印象がありましたから、まさか、こんなにすんなり吸い込まれちゃうとは思いもよりませんでした。はっきり言って、行くなら平日の夜ですな。正直ガラガラです。駐車場もたぶん5%くらいしか埋まってない。店内もものすごくぜいたくなほど空いています。ちょっとさみしいくらい。閑古鳥とまでは言いませんが、ねぐらに帰るリアルからすの鳴き声が聞こえるくらいの静けさでしたよ。
 さて、ギャルどもはものすごい勢いで走ってどっか(トイレだろうか…)に走っていってしまいまして、私はその静けさの中にポツンと取り残されまして、なんとも言えない寂寥感に一瞬襲われました。なにしろファッションとかブランドとかには全く疎い人間です。今までも、まあ近所である御殿場のアウトレットとか、小淵沢のアウトレットとか連れていかれたことありますけど、どうにもあの人ごみとアウェー感は堪え難いものがありましたっけ。
 で、今回はと言いますと、まずは人ごみがないということ、それから案外私でも楽しめるお店が多かったため、寂寥感は一瞬だけでして、それなりに楽しい1時間のトイレ休憩を楽しむことができましたよ。男性ものの服だけでなく、帽子のお店、ちょっとした雑貨のお店や、時計のお店、さらにはリスニング・ルームのあるBOSEのお店など、ある種のオタクにも満足できる内容になっていました。
 たしかに、値段も安いみたいですね。うまい買い物をすれば、ネットよりも安上がりかもしれません。うん、混んでない時にもう少しゆっくり見てみたいですね。
 それにしてもですね、こういうアメリカ的なショッピング・モール、ずいぶんと増えましたね。この三井アウトレットパーク入間のすぐ隣にも、例の会員制巨大倉庫(?)Costcoがありましたし、ちょっと行けば、国内最大級のイオン入間ショッピングセンターなんかもあります。なんだか田舎者としては、あの異様な風景には違和感を覚えますねえ。いや、ある意味都会でなはく田舎の象徴的風景か。田んぼや畑の中の巨大モールね。
 そういえば、入間はアウトレットの発祥の地でもありますよね。今日も密偵の仕事中通過しましたが、日本で初めてのアウトレットモールは、現ふじみ野市うれし野(すごい地名だ…)の「RISM(リズム)」です。あそこは旧入間郡ですから。入間は現代的田舎の先駆的存在なのでありました。
 入間郡はですね、古代はそれこそ朝霞駐屯地あたりをも含む広大な郡でありました。そして、現在の入間市はお隣高麗郡でありました。そう、続日本紀にある「元正天皇霊亀二年(716年)五月、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野・七か国の高麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡を置く」というやつですね。つまり朝鮮半島系の渡来人の移住地だったわけです。
 そう考えると、入間がアメリカ的アウトレットモール発祥の地というのも分かるような気がしますね。もともと外来の文化の地だったわけですから。
 ま、そんなとんでもない妄想はさておきまして、とにかく不思議な一日でしたよ。自衛隊の駐屯地から巨大アウトレットモールへ。素晴らしい非日常であり、しかしまた現実的にはアメリカの呪縛とも言えるわけでして…(笑)。私はいろいろ考えちゃいましたが、ギャルたちはただただ楽しかったようです。平和な世の中で良かったな。

三井アウトレットパーク入間 公式

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2008.12.15

TASCAM 『GT-R1』 (ポータブル・デジタル・レコーダー)

Portable Digital Recorder
Portable Guitar/Bass Recorder GT-R1
091gtr1g05_a001 うやく買いました。ハンディー・レコーダー(リニアPCMレコーダ)。今まで、このブログでいくつか紹介しながら、自分では買わなかったんですよね。ええっと、まずは3年ほど前にM-AUDIOのMicro Track 24/96、続いてZOOMのH4、そしてZOOMのH2。で、結局これを買ってごまかしていました。
 で、やっとワタクシ(俺様)のお眼鏡にかなうものが出現しまして、購入に踏み切りました。いやあ、私はバロック・バンドやらオーケストラやら歌謡曲バンドやら、いろいろとアヤシイ活動をしているんで、なかなかその全てにピッタリな機種が出なかったんですよね。ただ録音できるというだけだったら、なんでも良かったんですが、まあ何か付加価値のある製品が出ないかなと思っていたんです。そしたら、出た。
 そう、この機種の前に出たDR-1もいいなって思ったんですけど、最後の一押しが足りなかった。それが、このGT-R1、ドンと背中を押してくれたんです。
 ほかの機種との違い、その「ドン」は何かといいますと、やはり単純に「ギター・ベース・トレーナー」だということでしょう。いちおうバンドでは、エレキ・ヴァイオリンとかベースとか弾きますんで。そいつらを直接接続できて録音できるというのは大きい。エフェクターも充実してますし。
 あと、バンド的に素晴らしいのは、曲のテンポ・チェンジとキー・チェンジがデジタル的にできるということでしょう。ウチのバンドは基本原曲どおりやるんですけど(弾けないところだけ勝手に編曲する)、その時まずはいわゆる耳コピっていうのをやらなきゃならないじゃないですか。で、歌手の都合で転調することも多いので、これらの機能はホント助かりますよ。メンバーにファイルを配る時も、本番用と同じテンポ、キーにして送れます。それだけでも素晴らしい。ついでに言うと、音程の微調整もできます。
 もちろん、一人で練習する時もいいですよね。なかなか使えるリズムマシンも内蔵してますし、メトロノームやチューナー機能なんてあたりまえ。そうそう一人練習ということで言えば、この機種の優れ所は、オーバーダビングできる点です。すなわち重ね録音できるんですね。自分の演奏や編曲のチェックには最高ですね。あと自己満足ね(笑)。曲作ったりする時にも簡易MTRとして使えるじゃないですか。
 それから案外便利だなというのは、ジョグダイアルで曲の好きなところへ飛べることですね。長いファイルを早送りする時とか、あと何と言っても耳コピの時にほんの少し戻したりするのも、単なる早送り巻き戻しボタンよりも操作しやすかったりする。もちろん、任意の位置でのリピートなんかも可能です。
 なんか昔カセットテープを伸ばしながらやった耳コピや、巻き戻しが案外難しいCDプレーヤーやMDプレーヤーでの耳コピで苦労したことを思い出しました。まあ、便利な時代になりましたね。
 現在はいろいろと録音して試している段階ですが、生録機としての性能は申し分ありません。搭載しているマイクの性能もなかなかいいと思います。ノイズも少ない。操作もそれほど難しくなく、また、バッテリーの持ちも仕様書どおり。5時間練習を録音して、2時間近く再生したり止めたりしましたが、まだしばらく使えそうでした。
 これから少しずつ、いくつか録音したファイルをサンプルとして置いていこうと思います。ちょっと待っててください。

Amazon GT-R1

ポータブルデジタルレコーダーTASCAM GT-R1+ACアダプターセット

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2008.12.14

『小曽根真のミュージック・ラボ オスカー・ピーターソン 至福のジャズを大解剖!』 (NHKハイビジョン特集)

2 さに昨日の続き。小曽根真さんが語る「ジャズ」は、昨日の原信夫さんの語る「ジャズ」と全く同じでした。
 いやあ、本当に素晴らしい番組でしたね。昨年残念ながら亡くなってしまった偉大なるジャズ・ピアニスト、オスカー・ピーターソン。彼を敬愛し、彼の真似を自身の音楽のベースとする小曽根真さんが、多くの実演(再現)を含めながら、オスカーの魅力と秘密に迫る番組でした。
 昨日のこともありましたし、まあそれ以前に本当に興味深い内容でしたので、食い入るように観て聴いてしまいました。90分があっという間に過ぎてしまった。
 私もオスカーの、あの独特のスウィング感、スピード感、明るさに魅了されてきた一人だったと思いますが、このように非常に分かりやすく、なおかつ適切に彼の音楽を解説していただきますと、まさに目からウロコと言いますか、そう、いろいろな意味で視覚と聴覚が結びついて、脳や体全体で納得できたという感じですね。テレビというメディアの素晴らしさ、そして小曽根さんの音楽家として、あるいは教育者としての技量をまざまざと見せつけられましたよ。NHKさんもGJだったと思います。
 オスカーの神技的テクニック。まずは左手の秘密。訓練によって培われた驚異の高速ストライド奏法。私もさっそくなんちゃってでやってみましたが、1小節で上腕がつりました(笑)。まあ、あれを目隠しして再現しちゃう小曽根さんもすごい!
 そして、右手。早弾きで「物語」を伝えるための、あの粒立ちの揃った音。速ければ速いほど、実は間が空いているという驚き。そして、独特のタッチから生まれる倍音の美しさ。深い!
1 オスカーの旧友であるオリバー・ジョーンズのインタビューも良かったなあ。「才能+強い決意」。それが天才なんですね。
 小曽根さんと井上陽介さん、大坂昌彦さんによるトリオの実演も実に良かった。特に面白かったのは、「後ノリ・前ノリ」の実演。ああやってレイド・バックとオン・トップを並べて聴かせてもらう機会はそうそうありませんからね。まさに、昨日の原さんの話につながるところでもありました。それこそ楽譜に表現されない「ジャズ」の一端を感じるコーナーでした。クラシック的というかコンピューター的なジャストなタイミングがいかに味気ないものか、色合いのないものか。人間ってジャストな存在じゃないんですね。
 ベーシストのウィット・ブラウンの話も興味深かったし、よくわかる話でした。特に彼が言った「ジェットストリーム」という言葉。これはありますよ。私もそういう経験あります。一番強く感じたのはヴィーラント・クイケンに通奏低音を弾いてもらった時でしょうかね。ものすごい気の流れが伝わって来て、こちらは緊張するどころか安心して弾ける。普段弾けないところまで弾けてしまう。
 聴いている立場でもそうです。昨日も書いた美空ひばりの与える全体的な流れと安定感は、実はその「ジェットストリーム」から生まれるものです。正直これは努力以前のものかもしれません。天性の何かでしょうね。最近、そのジェットストリームの存在こそ、一流の音楽とそれ以外の違いであると痛感することが多いんです。
3 そして、番組後半で分析、解説されたオスカーの即興演奏、すなわち作曲の秘密。これも興味深い内容でしたね。もちろん番組の性質上、表面をなぞっただけでしたが、それでもオスカーがコンポーザーとしても非常に優れていたということが分かりました。私も再びなんちゃって「Misty」の冒頭部をやってみましたよ。リハーモナイズというのには、本当にその人のセンスが現れますからね。オスカーっぽくやってみても(最高音のメロディーに隣の音をぶつけるだけですが…笑)、私のは単なる騒音になってしまいます。
 それにしても、2004年モントリオールでの復活コンサートの映像、たまりませんでしたね。本当に「胸に響く」音楽でした。技術的なことはどうでも良かった。オリバー・ジョーンズとの音による心の交流、それが映像からもしっかり伝わってきた。
 小曽根さんも最終的に語っていましたね。「テクニック、技術だけではだめ。テクニックの奥にあるJoy。自分の音に惚れる、自分の感動してければいけない。オスカー・ピーターソンを弾いている時、幸せでしょうがない」。本当に昨日の原信夫さんの言葉といっしょですね。それが「ジャズ」であり、いや、音楽であり、感動を与える人間の営みなのです。
 「無条件で人を幸せにする音楽」…小曽根さんはオスカーの音楽をそう評しました。人種や言語や国や宗教をも超えることができる、そして人々を幸せにできる「音楽」は本当に素晴らしい。こうして、それを共有することができ、また、ほんの少しではありますが、自分でも表現できることは幸せなことです。もうすぐ、自分のコンサートもありますので、この幸せな気持ちを素直に表現したいと思いました。
 
Amazon ディア・オスカー

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2008.12.13

浅草ジャズコンテスト (祝 金賞&浅草ジャズ賞受賞!)

Uni_1713 が校のジャズバンド部「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ(MISO)」が、第28回浅草ジャズコンテストバンド部門で金賞と浅草ジャズ賞を受賞しました。おめでとう!一昨年、初出場の時と同じ成績です。長く重い伝統があり、プロへの登竜門とも言われるこのコンテストで、高校生がこのような成績を収めるというのは、これは本当にすごいことです。よく頑張った。本当に誇りに思います。
 我が校のバンドは4時間に及ぼうかというコンテスト全体の大トリとしてステージに登場。演奏したのはカーンの名曲「Smoke Gets In Your Eyes(煙が目にしみる)」。現代的に複雑に編曲された難曲。
 それにしても久々に緊張したなあ。もう最近は自分のコンサートでもそんなに緊張することがなくなったんですけど、生徒諸君の演奏が始まろうかという時は、もう心臓バクバク、手がブルブル。やはりコンテストならではの緊張感ですね。勝敗のある音楽の是非は別として、こういう緊張感もたまにはいいなと思いました。
 コンテストは前半がボーカル部門。10名の一次審査通過者が自慢の歌を披露しました。全体的にレベルが高く、皆さんお上手だと感じましたが、結果的に私も投票した方がグランプリを獲りました。
 審査員の方々のお話に共通していたのは、フェイクや装飾、ディナーミクなどに必然性が感じられるかという指摘だったように思います。これは、私も気になった点です。つまり、いかにもジャズ的な「雰囲気」を出すための発声法やリズムの崩しや節回しが、やたら耳についたのです。ある意味皆同じ。
 これって、私たち古楽器奏者でも全く同じことが言えるんですね。それらしさはある程度誰でも出せる。しかし、それがテクニックに終わってしまっていることが多いんです。すなわち、こういうことです。例えばサッカーやバスケのフェイントなんかで考えてみてください。試合の中でなんの脈略もなくそういう技を出したとしましょう。それは、単なる個人技の披露でしかなく、無意味どころか、試合の流れを壊す可能性すらありますよね。演奏においても、そういうことがたくさんあるんです。
 帰りの車の中で、今回のコンテストの審査委員長であられた原信夫さんも関わっている美空ひばりのジャズを聴きました。ひばりさんはもともとのメロディーをほとんど変えず歌っています。微妙なフェイクや、その他の装飾などは、それぞれの部分で美しく完璧であると同時に、全体としてもちゃんとバランスが取れていて、そして意味のあるものになっている。リズムも全体としての大きなリズム感を持っているので、聴き手はそれに乗って安心していられる。本当にうまいと、つくづく感じ入りました。
 そのような狭視野的な解釈や演奏というのは、アマチュア(もちろん私も含めて)が陥る大きな落とし穴ですね。そういう意味では、後半のバンド部門にもある傾向があり、そして審査員の先生方がそこに厳しい評を加えていました。
 そう、やはりこちらでもついついミクロなテクニックに走ってしまうバンドが多かったということです。ある意味それこそがアマチュアリズムであるとも言えるのかもしれませんけど、どうしても難しいことに挑戦して、それがちゃんとできるということを誇示したくなってしまうんですね。結果として、アンサンブルが甘くなり、すなわちメンバーそれぞれの自己満足になったり、楽曲の本来のメロディーがぞんざいに扱われたりするんです。
 そういう意味で、究極の審査員評は、MISOに対する原信夫さんの言葉だったのではないでしょうか。生徒たちは本当に完璧に近い演奏をしました。だからこそ原さんはこのメッセージを熱く語ったのでしょう。会場の皆さんはお解りになったと思いますが、この言葉は決してMISOたけに送られたメッセージではありません。全てのコンテスト参加者、そして現代のジャズ・プレイヤー全てに送られた重い言葉でした。

『…今のアメリカっていうのはジャズがないんですよ。どういうことかというと、つまり頭でっかちになって…よく鳴ってます、バンドは。編曲もものすごく素晴らしいです。もう、びっくりするぐらいのいい演奏をします。何が欠けてるかというと、ジャズの精神がないんですね…ジャズ界とクラシック界と違うことは、アンサンブルがいいだけではないんです。精神が違うんですよね。ですから、このままいくと、クラシック界もジャズ界もおんなじになっちゃいます。クラシック界の人たちがジャズが好きだからやろうって言ったら、これはアンサンブルは最高ですよね。それとおんなじになっちゃいます。ジャズバンドは何が違うか。精神が違うんです。ですから、演奏の仕方にしても、譜面にないことがたくさんあるんです…譜面に書いてないところのジャズをやっていただきたいんです。それはどういうことかというと、今日はたくさんのお客様が来ています。まず胸に響く音楽なんです。ジャズはそういうものなんです。わあ、すごいなあ、テクがすごいなあ、いい音してるなあ、ではジャズではないんです…』

 このあまりに重い言葉を引き出したウチの生徒たちの演奏は、やはり素晴らしかったのだと思います。今まで手放しで褒められることの多かった生徒たちは、ちょっとショックを受けていたように見えましたが、私は「ああ原信夫にここまで言わせたか」と思いましたよ。
 原さんは世界中のジャズ・ミュージシャンたちに、このことを言いたかったのです。いや、この言葉はジャズに限らず、様々の音楽ジャンル、いやいや、音楽に限らないかもしれませんね。全ての芸術や芸能やスポーツに言えることなのかもしれません。あるいは教育や政治にも。本当に重い重いお言葉でした。
 繰りかえしますが、そんな言葉を導き出した生徒たちは、そして顧問の先生は、本当に素晴らしい。私にとっても誇りです。ありがとう。おめでとう。お疲れさま。これからも頑張って、「胸に響く音楽」を皆さんに届けてください。

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2008.12.12

『東京物語』 小津安二郎監督作品

1 津の誕生日にして命日。昨年は「浮草」を紹介しました。今年はとうとう「東京物語」です。たぶん100回目くらいでしょう。今、ビデオで見終わったところです。
 しかし、いざ記事として書こうとすると、胸が締めつけられるような心持ちになって筆が進みません。10年前なら、それぞれのシーンについて、いくらでも書くことができたでしょうね。どうしたんだろう。まったく語れない。かわりに涙が湧いて出てくる。
 かえすがえす、すごい作品です。これは日本の、いや世界の遺産ですね。世界一の映画です。「もののあはれ」の物語。この映画を観ずして、そしてこの映画に共感せずして、日本人として、人間として、いかに死ねましょうか。本気でそう思いました。
 おそらく自分もこの歳になって、この物語世界を、鑑賞するのではなく追体験するようになってきたんでしょうね。私の両親もこの映画の老夫婦と同じくらいの年齢になりましたし、自分の社会的立場もちょうどあんな感じ。子ども(孫)もあんな年頃ですし。
 時が過ぎていく。その時とともに皆離れていく。心も体も離れていく。無常です。まさに「モノ」の本質を固定し語った「物語」です。これは仏典ですね。聖書ではない。永遠の命なんてウソはつきません。誰もが美しい心を持つなんていう、そんな偽善的なことを言いません。
 しかし、どこか救いもある。皆がそういう世界に生きているという安心なのでしょうか。諦観から生じる安定なのでしょうか。「あはれ」は「ああ」という単なる嘆息ではありません。「あっぱれ」でもあるのです。
 それにしても、完璧な脚本、演出、造形、映像。動かしようがない名作ですね。最後の「懐中時計」から漁船のエンジン音につながる、あの音響効果もお見事ですね。全ては時と共に淡々と過ぎていきます。
 小津本人はあんまり好きではなかったとか。湿っぽくなってしまったと反省したようですね。たしかにスラップスティックス出身の小津としては、ややメランコリックすぎたかもしれません。
 しかし、そういう特殊な作品だからこその輝き、あるいは闇というものがあるのだと信じます。
 そういう意味では、マスターがなくなって、コントラストのつぶれたコピーしか存在しないのも、結果として奏功しているかもしれませんね。あのアングル、遠近感、そして明暗。まるでフェルメールのようにフィクショナルでリアルです。
 フィクショナルでリアルと言えば、やっぱり72歳の主役を演じた笠智衆ですね。あの時48歳だそうです。その他の役者さんたちもすごすぎる。
 もう、これは観ていただくしかないでしょう。いろいろな年齢で何度も観て味わうべき作品です。
 最後にちょっと蛇足を。2年続けてやかんの話です。
 このビデオ、カミさんと鼻水垂らしながら観てたんですが、観終わってカミさんは、「私も原節子みたいなお嫁さんにならなくちゃ」と言って台所に立ちました。と、その時、ウチのやかんの把っ手が壊れたんです。ずいぶん長く使っていたやかんでした。私は「なおる、なおる。なおるよ。なおるさ」と言いましたが、結局無理ということで、やかんさんは天寿を全うしました。
 カミさんは、「このまま、捨てられないな。こんな汚いのをゴミに出せない」と言って、金たわしでゴシゴシ磨きはじめました。死んで初めて磨かれるやかん。映画では大坂志郎が「墓にふとんは着せられず」と言っていましたが、やかんは磨きをかけられました。なんだか、カミさんが杉村春子みたいに見えました(笑)。

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東京物語

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2008.12.11

『プニッとやみつき にゃウンド肉球』 (エポック社)

Img55610402 んだかとんでもなく忙しいので、今日は非常に軽めに行きます。今、とってもほしいものです。
 ウチには黒猫が3匹おりますので、都合12個(?)のリアル肉球があるわけですが、それらはそんなにしょっちゅうプニプニするわけにもいきませんし、外に持ち歩くわけにはいきませんよね。でも、携帯できるなら携帯して、そして癒されたい…
 そんな時、とっても重宝しそうなのがコレです。
 まあ、これはいわゆる「萌え」の対象というわけですね。で、私の「萌え」の定義は「國文學」に書きましたように、基本「所有欲」でありますからして、このような製品が生まれ、そして人気を博すというのはごもっともなことであります。
 なんでも、こだわりの素材&設計により、非常にリアルに肉球感を出しているとのこと。肉球部分はTPE(熱可塑性エラストマー)を使用し、周辺の短毛の生えた部分は同社がシルバニアシリーズで培ったフロッキー加工を施しているとか。
 そこまでこだわるなら、押した時の猫の鳴き声とやらもリアル猫の鳴き声をサンプリングしたものかと言いますと、なぜかそこはヴァーチャルというかフィクショナルでして、あの初音ミクの声優さん、リアル藤田咲さん(?)の声をサンプリングしたものだそうです。
 ま、そのへんが、絶妙なさじ加減ということでしょうかね。完全なリアルを目指すと、逆にリアル感に欠けるというパラドックスが生じるんです。リアル感、特に愛すべきものへのリアル感というのは、その当事者の主観によって形成されるものなので、人それぞれの萌えスポットはどんどん狭まってしまい、ちょっと的が外れただけで、非萌え(萎え)になってしまう。ですから、わざと、リアリズムから距離感を保って、万人がある程度満足する作品を提供するというのは得策です。
 日本ではそういう、西洋的なものとは違った、別のリアリズムが発達しました。皆さん御存知の通りです。それが例えば西洋で印象派を生むきっかけになったりしましたね。つまり、人それぞれのこだわりや愛情の部分を、逆説的に利用して、妄想的、想像的にフィクションのすき間を埋めるという方法です。フィクションからリアルを喚起させる。これは昨日の「能」なんかにも言えます。もちろんプロレスにも。
 おっと、また理屈っぽくなってしまった。そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、これが今ほしいのです。で、この「ほしい」、「こちらに招きたい」、「所有したい」というのが「萌え(=をかし)」であると、私は実感的にも日本語学的にも文化史的にも信じているわけであります。
2 そうだなあ、一番ほしいのは、やっぱり黒猫飼いとしてのこだわりで、黒猫の黒肉球バージョンでしょうか。
 ちなみに、ガチャガチャに入っているのはフロッキー加工をしていない廉価版ということです。

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2008.12.10

『観世寿夫 世阿弥を読む』 観世寿夫・荻原達子編 (平凡社ライブラリー)

1 初にお断りしておきますが、最後は「プロレス論」に発展しますので、あしからず。
 昨日のバレエの天才から、今日は能の天才のお言葉。
 少し前に初めてテレビで拝見し、こちらの記事で紹介した、昭和の世阿弥観世寿夫さん。彼の膨大な著述のダイジェスト版です。非常に深く面白く、そこらじゅうに付箋をし、線を引きまくりました。
 まずなんと言っても印象に残ったのは、何度も繰りかえされる「無心の位」についての記述。

『あらゆるものを通して覚え込んだ上で、表現意識から離れて、自然に流れるごとく演じていける状態に身を置くこと、それは単なる「無」ではなく、すべての「有」を包含したところの「無」でなくてはならないのです』
『簡単に言ってしまえば、自意識を離れるということだ』
『何もない無からはじまり、あらゆる修業を重ねて自分の芸を確立した後に、ふたたび自己を放擲する』

 これらは、先日書いた道元の「仏道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」に通じますね。あるいは「色即是空・空即是色」、いや、「空即是色・色即是空」でしょうか。世阿弥は曹洞宗の僧侶について禅を学んでいましたから、当然と言えば当然です。
 昨日の岩田守弘さんも「考えたら踊りではなくなる」というようなことを言っていましたね。バレエと能とでは、時間と空間、そして重力の扱い方が全く異なりますが、しかし、究極のところではかなり共通していると感じました。
 ワタクシ流に申しますと、それこそが「ものにする」ということになりましょうか。そうそう、世阿弥の「物学(ものまね)論」は、私の「モノ・コト論」に非常に有用なのですが、まだまだ勉強しなくてはならないし、それこそ「ものになっていない」ので、またいつか書きたいと思います。とりあえず、風姿花伝の原典をちゃんと読み直してからですね。
 音楽の話も面白かった。特に、西洋の音楽と比べてのところは、よく考えてみたい内容でした。

『能のリズム−。これは精しく書きはじめたらきりがない。日本語というものを考えるうえにもこんなに面白いものはない。だがまあ、リズム論議はまたの機会にして、ただ、声は出したときが終わるとき、という話だけにとどめておこう。声は出したときが終わるとき。そうなのだ。声は出すまでが問題なのである。出してしまったらもう決着は着いてしまったのだ。声の意味も声の調子も、声となって出るまでこそが大切なのである。楽器の音も同じだ。鼓なら鼓は、ポ、と音が出てしまったときはその音の終わったときだ。音として外に出るまでが、その音の生命だ。間も、音の大小も、すべて音になるまでが問題。だからカケ声や打つべき体内の準備こそがリズムをつくる。ここがヨーロッパ風感覚とまったく正反対のところである。音を出してからその音がはじまるのではないのだ。音が出たときは終わっている、これは日本のリズム感覚の最大特徴であろう。能は如実に、しかもたいへん論理的に、このリズム感覚を音楽として構成しているのである』

 これは実に興味深いですね。西洋楽器を(&いちおう邦楽器も)やる人間としては、実に重い文章。なんとなくですが、よく解る(笑)。ちょっと私は寿夫さんのようにうまく言葉にはできないけれど、よ〜く解ります。いやあ、もっともっとリズムについて、日本語について、語ってほしかったなあ。いちばんいいところが「またの機会」になってしまっている…残念。
 しかし、この対比は、音楽や言語だけでなく、もちろん舞や踊りにも言えるし、あるいは絵画や造形作品、現代の歌などにも言えることでしょう。どうも私たちは、私たちオリジナルな日本固有の感覚、表面に出ない部分、出す前の何か、をとらえる感覚を忘れてしまっているようです。うむ、私もちょっと西洋かぶれしすぎたかもしれない…。
 それから、すみません、私はどうしても能とプロレスを結びつけたくなってしまうんです。「面(おもて)」に関する記述は、ほとんど覆面レスラーのマスクに通じるものがありましたし、「からだが見えすぎるというダメを出される」という部分では、肉体表現における「邪魔な肉体」という、これはいかにも禅的な感じですが、これってプロレスでもよくあることだと思いました。彼らプロレスラーは、ある意味肉体の見世物であるべきなのですが、それが最前面に出てしまっては一流にはなれません。肉体自身や、肉体が見せる動きだけでは、私たちはプロレス的満足を得られないんですね。そこが難しいところですし、最近のレスラーたちの問題点でもあります。
 最後に全てのプロレスラーの皆さんに、観世寿夫の次の言葉を贈ります。ちなみに( )内が原文です。これは決してパロディーでも戯れ言でもありません。私は大まじめです。

『リング(能舞台)は観客の中へ押し出した立方体の空間ですが、その中に立つレスラー(演者)は、目に見えない力によって無限に前後左右から引っ張られた中に立っていて、その無限大に通した力を内面の息のつめひらきやからだの動きによって、集約したり開放したりする、それが表現されている(謡われている)ストーリー(詞章)なり旋律なりリズムなりと一体化して何らかの訴えを感じさせるわけです。ですから私にとってからだの表現する"美"とは、ほんの僅かのかすかな動作でも、大きく飛び上がるような力動感に溢れた動作でも、それがその人間のからだの動きというものの範囲にとどまるのではなく、無限に広がる空間を支配して何ものかを訴えるところにあります。一足出る動きにも、指一本動かすにも、頭の先から手の先まで、また呼吸及び神経の働きまで、内的な要素を含めすべての器官が作用して、ある集中にいたったとき、観る人になにがしかの感動を与える、そこに肉体を通しての美があると思うのです』

Amazon 観世寿夫 世阿弥を読む

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2008.12.09

『悔しさを、情熱に〜バレエダンサー・岩田守弘』(NHK プロフェッショナル 仕事の流儀)

Iwata リショイバレエ団で、初の外国人ソリストとして大活躍の岩田守弘さんが本日のプロフェッショナル。
 まずはその卓越した技と表現に驚きました。年齢による衰えなど微塵も見せない、そのキレの良さと迫力に圧倒されました。
 なるほど体が小さいからこそできること、見せられることというのがありますね。それを徹底して追求したからこそ、世界一の場で世界唯一になれたのでしょう。
 考えてみれば、岩田さん、日本人としても小さい方ですからね。普通ならとっくに諦めてしまうでしょうし、自らボリショイに乗り込んでいこうとは思わないかもしれません。
 インタビューを聞いたり、岩田さんのブログを読んだりして印象に残るのは、彼が「自信」と「謙虚さ」を両方バランスよく持ち備えていることです。これは案外凡人には難しい。自分と他者を同等に愛する、大切にするというのは、実はとっても難しいことだと思うのです。昨日の「悩む力」ではありませんが、大概の人間の悩みというものは、そこのところのバランスの悪さから生じるものなのです。
 もう一つ昨日の記事に関連して印象に残ったのは、彼が「悩み」や「苦しみ」を成長そのものだととらえている点です。もちろん、私のような怠け者の話とは次元が違いますが、こんなことを話していました。

茂木さん「芸術家の本能として、苦しさをあえて求めるみたいなところがあるんですか?」

岩田さん「ありますね。いい。うん。苦しければ苦しいほどいい(笑い)。そうすると、磨かれてくるんじゃないですか、外からも中からも。人間っていいことが重なっている時って、結果はでるけれど、成長していないと思うんですね。悪い時に絶対成長してる…悪い時というのは、ご褒美、宝物なんですね。そういうのを得てきて、ずっと続けている人が、本当に人を感動させられる踊りをする人たちだから…そういうふうに生きたい」

Photo01 やはり、「悪い時」をこのようにプラスに考えられる、とらえられる人が一流になっていくんですね。我々凡人には、そういう意味での「悩む力」がない人が多いんじゃないでしょうか。これはもちろん誰しもができることではありません。まずは、そういう実感、苦しみの末成長した自分を認める経験が必要です。それをどういう場面で、どういうタイミングで経験するかが、人生にとっては非常に重要なポイントになりますね。
 そういう意味では、今私のクラスの生徒が真っ只中にいる、いわゆる受験というものも、決して悪い経験ではないと思います。最近も同僚とよく話すのですが、受験を通じて、短期間に見違えるほど成長する生徒がたくさんいるんですね。それに関われる、携われるのが私たち教師の喜びだったりします。
 さて、最後に全然バレエとは関係ない話。この番組のテロップで、何回か「〜づつ」という表記が見られました。もちろん、これは現代仮名遣いでは「〜ずつ」と書かねばならないところです。この番組では、以前、こちらでアクセントのことについても苦言を呈しました。NHKさん、プロフェッショナルな仕事をしましょう(笑)。

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2008.12.08

『悩む力』 姜尚中 (集英社新書)

08720444 れているというのでいちおう読んでみました。あっという間に読める本です。売れる本というのは大概1時間くらいで読めるものが多い。これは当然でしょう。いくらいい内容でも読むのに難渋するようじゃ、評判はよくなりません。
 姜尚中さんと言えば、爆問学問「愛の政治学」での穏やかな語り口が印象に残っています。彼は在日ということもあって、充分「悩む」環境に恵まれていたのでしょう。そして、それを乗り越えて現在の境地になったというのは、よくわかるところです。
 それが、この本に頻繁に登場する夏目漱石と重なるところがあるのでしょう。そう、実はこの本、ほとんど漱石本なんですよ。これは驚きました。いちおうマックス・ウェーバーも出てきますけど、ほんの脇役といった感じです。
 で、漱石作品に登場する男って、ほら、みんなダメ男じゃないですか。そこに現代に通ずる「悩む力」を見ているんですね。たしかに、その明治のダメ男は当時の現実の男を象徴している部分もあると思うんですけど、いや、普通じゃないな、ちょっと異様な境遇と心理ですよ。そう、やっぱり漱石自身なんだと思います。すなわち、姜さんは単純に漱石の「悩む力」を持ち上げているんです。それはまたすなわち姜さん自身の「悩む力」だとも言えます。
 なるほど「悩む力」はちょっとかっこいい。でも、なんていうかなあ、その「悩み」をどう乗り越えるかという部分が大切だと思うんですけど、そこんとこはあんまり書かれていない。悩むことを肯定してくれているのは分かるんですけど、それをどう乗り越えていくかが知りたいという人には直接的に答えていない。まあ、書名が「悩む力」であって、「悩みを乗り越える力」ではありませんから、これでいいのかもしれません。
 悩みはみんなあるでしょう。特に「青春」と言われる(言われた)時に悩まない人がいたら、ちょっと心配ですね。そして、その悩みと付き合う中で人間として育っていくというのは、これはもう当たり前すぎる事実です。みんな悩んで大きくなった。
 しかし、最近の若者(生徒たち)を見ていますと、その「悩みとのつきあい方」が下手なやつが増えてきているような気がします。世で言われる現代的な犯罪や病が、それを象徴しているのではないでしょうか。学校という現場でも、とにかくそういうケアの仕事が圧倒的に増えています。
 なんなんでしょうねえ。昔はちょっと違う方向に「悩み」の発散がありましたね。仮想敵国というか、先生とか、大人とか、社会とか、組織とか、なんか実体はよくわからないけれど敵みたいなのがあって、それに対して反抗したり、暴れたり、闘ったりしてましたけどね。今は平和すぎるんでしょうか、敵が妄想の中にもいない。いや、妄想にすら収まらないほど、よりつかみどころがないんでしょうか。言語化されてないのかなあ。とにかく、悩みとその対処が外に向かうのではなくて、ある意味内側に向かってしまう。そしてある極点で(案外その極点が日常的に現れるんですが)爆縮して、ひきこもったり、自傷したり、ひどい場合は自殺したり、あるいは爆発して無差別殺人に走ったり。
 おそらく「悩む」という行為は孤独なんですよ。その孤独と闘う力が弱くなっているのは事実でしょうね。みんな妙にさびしがり屋さんです。そして、妄想力も必要かなあ。敵を想定することで、自己を安定させるという手法ですよ。
 よく、私は人に「悩みがなさそう」と言われます。たしかに、それほど大きな悩みやストレスはありません。このブログを読んでもわかるとおり、気分や機嫌に大きな波がありません。それは自分でも認めます。では、それは「悩む力」がないということなのか、というと、ちょっと異論があり…ませんね(笑)。
 私もそれなりに青春時代にはけっこう悩みました。それこそ文学者にでもなろうかというくらい(イタいくらい)悩みました。でも、そんなのホントに自意識の自意識による自意識のための悩みであって、さっさと自分を諦めてしまえば、さっさと消えてしまう程度の悩みだったんですね。
 違う言い方をすると、私は「悩み」を「喜び」に変える力は持っているのかもしれません。「悩み」は不随意(モノ)から生じ、そして、自分を変化させ、成長させるのは、不随意しかないと信じているのです。だから、悩みは佳きパートナーであり、ティーチャーであります。何ごとも思いのままでは、今までの自分の範囲内ということですからね。「もの思い」こそ、明日への活力であります。
 で、自分について悩むのはやめた、というか、いわゆる「悩む」必要がなくなってですね、世の中について悩むことが多くなったんです。この壮大な(?)悩みには、それほど「力」はいらないんですよ。それは自己内部の力ではなくて、世の中自体にその力があるからです。ですから、ある意味「悩む力」がない。
 漱石のように行雲流水の境地に至ったわけでもありません。それは理想ですが、いまだ世の中を捨て切れないし、見捨て切れない。で、世の中について悩むためには、いわゆる悩んでいる場合ではないのです。もっと明るく前向きに立ち向かっていかないと、どうも世の中は変えられそうにないのです。
 なんて、ずいぶんとデッカイことを言ってしまいましたね。とにかくこの本、なんか「青春」臭ぷんぷんで、ちょっと気恥ずかしく思いました。それがおそらく姜さんの純粋な優しさであると思いますが。ちなみにワタクシ的に面白かったのは、最終章の『老いて「最強」たれ』でした。

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2008.12.07

火球 (リアル・エメラルドフロウジョン)

下の写真はイメージです(作ってみました)。
Kakyu_2 れいだったなあ。久しぶりに火球を目撃しました。
 今日18時23分頃、西の空にマイナス4〜5等級の大きな流星が流れました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
 私は、家族と買い物を終えて自宅に戻る車の中で、フロントガラス越しに観ましたので、おそらく軌跡の後半部分しか見ていないと思います。なにしろ富士山のくねくね道なので、ちょっと正確な座標が割り出せないのですが、いちおうデータ的なことを書いておきましょう。

2008年12月7日 18時23分頃 
観測地 山梨県南都留郡鳴沢村字富士山(標高1100メートル)
方角 西 (夏の大三角付近から金星の北側まで視認)
   消滅高度 地平15度くらい
方向 垂直落ち(やや左落ち?)
速度 速い(最後失速)
光度 マイナス4〜5等級(金星よりは明るかった)
色  緑〜青緑
尾  長い(火花あり)
分裂 あり(たぶん最後2,3個)
痕  未確認
 
 最初は花火かと思いましたよ。失速する感じや、なんといってもそのあまりに鮮やかな緑色が、とても自然の流星とは思えなかったからです。帰宅後、さっそく火球報告の掲示板などを確認しましたら、東日本を中心に多くの方が見たようです。時間帯的にも、方角的にもかなり見易い火球だったのでは。色からして人工衛星の落下という可能性もありますね。
 火球(明るい流星)と言えば、ええと、35年くらい前でしょうかね。マイナス10等級クラスのものを観たことがあります。地下室に眠る全天恒星図を引っ張り出してくれば、正確にいろいろ記録してあるはずですが、とにかく夕刻ものすごい明るさの火球を見たのです。見たというより、照らされたっていう感じですね。その日は雲量9くらいの曇天だったのですが、雲を透かして私が照らされるくらいの明るさでした。それ以来でしょうか。これだけ大きなものを見たのは。
 まあ、例の2001年のしし座大流星雨の時にも、そうとう明るい火球がじゃんじゃん飛んでましたが、なんだかあれはもう異常事態という感じで、逆に印象が薄れてしまっている。現実じゃなかったような気さえしますね。
 ところで、今日は、車の中には家族全員いたんですけど、火球を見たのは私だけでした。子どもたちにも見せたかったなあ。流星群観測は何度かいっしょに行ってますが、今回レベルのものはまだ見てないでしょう。こればっかりは運ですからね。
Ef ちなみにカミさんは、私が「うわっ火球だ!エメラルドみたい!」と叫んですぐに、「エメラルドフロウジョンか!?」って言ってました。そう、三沢光晴選手の必殺技ですね。今日も中嶋勝彦くんをこの技で沈めました。ついでに、今朝はポケモン・サンデーに三沢選手が出たんですよね!なんと、三沢さん、ポケモン好きらしい!これは驚きです。「人に言えない」って言ってましたけど(笑)。
 来週は恒例のふたご座流星群がありますが、今年は極大日(13日から14日にかけて)が満月で条件最悪です。私もその晩は東京に泊まりの予定ですので、ちょっとムリかな。比較的明るい流星の多い流星群ですので、寒い中30分も空を見上げてれば、いくつか見られるでしょうけど。
 ついでに予告しておきますと、来年(2009年)のしし座流星群は、小規模の流星雨になる可能性があります。1466年にテンペル=タットル彗星が残していったダストトレイルの中を地球が通過するからです。ほうき星のくせにゴミをたくさん残してくんですよね(笑)。11月18日の未明がチャンスだと思います。こちらは月明もなくいい条件ですから期待しましょう。
 ああ、それにしても美しい「よばひ星」を見たなあ。あれだけ派手な尾があれば、夜這いはバレバレですけどね(笑)。なんとなく三沢さんが浮気してバレてる様子が目に浮かんでしまった…すんません、三沢さん(笑)。

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2008.12.06

追悼 遠藤実先生

Kaityou うぅ…また一つ昭和の灯が…。
 昨日は加藤周一さんがお亡くなりになりました。加藤さんも昭和の象徴的な思想家でした。私はこちらこちらで散々失礼なこと書いてますが…。
 そして、遠藤さんかあ。さすがにショックです。歌謡曲をやっている私として、なんとも言えない喪失感です。もっとちゃんと聴いておけばよかったなあ。何しろ歌謡曲に目覚めたのはここ数年のことなので…。
 演歌嫌いな両親に育てられたからしかたないか。ロックとかジャズとかバロック音楽とか箏曲とかやってる場合じゃなかった(泣)。いや、それらを通ってきたから、今、遠藤実の偉大さがわかるのかもしれない。
 今日は遠藤さんの永遠の名曲を聴いて追悼といたしましょう。簡単な音楽的解説もしましょう。いかに彼が革新的なことをやってきたか、そして、演歌の本流を守りつつ、現在のJ-POPなどを用意したか、よ〜く分かると思います。
 年代順に聴いていきましょう。

昭和33年 「からたち日記」 島倉千代子 
 四七抜き長音階ですが、この変拍子はすごい。しかし自然に日本語のリズムになっている。

昭和34年 「浅草姉妹」 こまどり姉妹
 四七抜き短音階ですが、クライマックスで都節風の転調をしています。古い手法ですが、何かとても新しく感じますね。

昭和38年 「高校三年生」 舟木一夫
 西洋的短音階を織り交ぜ、新しい時代の雰囲気を上手に出しています。西洋的短音階と言っても、和声的短音階、旋律的短音階、自然短音階がミックスされていて見事。

昭和41年 「星影のワルツ」 千昌夫
 純粋な四七抜き長音階。純粋なジャパニーズ・ワルツ。しかし、豊かな表現。

昭和41年 「こまっちゃうナ」 山本リンダ
 歴史的楽曲。Aメロは六七抜き短音階(?)。Bメロ・Cメロは基本的に二六抜き短音階。この曲のあと、原信夫が「真赤な太陽」を、いずみたくが「恋の季節」を作曲。現代のJ-POPにつながる和洋折衷音楽が創始されました。ジャケットには「ミノルフォン」の文字が…。

 

昭和47年 「せんせい」 森昌子
 アイドルにあえて純粋な四七抜き短音階を歌わせました。他の二人との差別化に成功。

昭和48年 「くちなしの花」 渡哲也
 四七抜き短音階+西洋音階。その配分が見事。日本流西洋居酒屋「スナック」の雰囲気がうまく出ています。

昭和52年〜53年 「北国の春」千昌夫 「夢追い酒」渥美二郎 「みちづれ」牧村三枝子
 新しい世代の歌謡曲が隆盛の中で、純粋な四七抜き長音階で名曲を立て続けに作りました。原点に帰って、そして自身の美しいメロディー世界を極めたと言えるでしょう。
 本当に偉大な作曲家でした。ご冥福をお祈りします。これからも私たちは歌い続けますし、演奏し続けます。ありがとうございました。お疲れさまでした。

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2008.12.05

シュトックハウゼン 『マントラ』

Karlheinz STOCKHAUSEN Mantra
Na025cd 年の今日、ドイツの現代作曲家シュトックハウゼン氏が79歳で亡くなりました。今日は氏を偲んでこの曲を聴きました。聴きましたというより、読書(観世寿夫の本)のBGMと言った方が正確でしょうか。
 普通に聴いていたら見事な子守歌になっていたんでしょうが、能の幽玄と案外にもマッチして心地よかった…かも。
 シュトックハウゼンを初めて意識的に聴いたのは、1980年のことだったと記憶しています。当時、高校生だった私は、ヴァイオリンを弾き始めた頃で、バッハの無伴奏に異様にひかれてまして、いろんなレコーディングを聴きあさっていたんですね。そんな時たまたまレコード屋さんで見つけたのがイスラエルのヴァイオリニスト、ロニー・ロゴフという人の録音でした。普段ならそんな知らない人のレコード(それも2枚組)は買わないんですけど、バッハのパルティータ1番と2番のほかに、シュトックハウゼンの「黄道十二宮(Zodiac)」から6曲が入っていましてね、当時まだかなりの天文オタクだった私は、なんとなくそのムジカ・ムンダーナな雰囲気にだまされまして(笑)、つい買ってしまったんですよ。
 バッハの方はなんかザクザクしていてそれなりに面白い演奏だった(…最近ネットでこの人のことを調べてたら、面白い情報が。なんでもこの録音はうまく行ったテイクの切り貼りで、ものすごいパッチワークというか、コラージュというか、モザイクというか、らしい…ホントかな?…全然わからなかった…デジタル魔術の走りですな)。シュトックハウゼンの方はというと、ヴァイオリンのソロで弾いているんですけど、なんとも聴いたことのない種類の音楽だったので、それなりに面白かった。というか、バッハはマネできそうになかったけれども、こっちはなんとなくそれらしく(もちろん即興で)できそうな予感がしたんですよ。さっそくお風呂でエコー効かせてガンガン弾いて、家族から苦情が来ましたっけ。
 ま、私にとっての現代音楽なんて、そんな感じだったんですよ。けっこう、つい最近までそうだったかもなあ。作曲家の自己満足、難解を高尚と勘違いさせる詐欺的行為くらいにしか思ってなかったかもしれないなあ。
 でも、私も少しは大人になったのでしょうか。ここのところ何人かの作曲家の作品を聴いたり、それからたとえば武満徹の文章を読んだりして、だんだん意識が変わってきた。少なくとも、作曲家によって好き嫌いがわかるようになってきた。これってすごい進歩ですよね。
 で、シュトックハウゼンはけっこう聴ける方です。久々に「黄道十二宮」も聴きましたが、(それもハンス・マルティン・リンデのリコーダーで!こちら)なんとなくいい曲に思えましたよ。昔ほど眠くならないし、なんというか、メッセージが伝わってくるというか、言語がわかるというか。
V2n1a3e1_2 というわけで、今日の「マントラ」です。「マントラ」というからには、真言的な要素があるのかと言えば…正直どこが?という感じ。1966年に来日した時に何かにインスパイアされて作ったという説もあります。そうすると、つまりドイツ人シュトックハウゼン的日本仏教解釈ということになるんでしょうか。私はその辺にはツッコミを入れないことにしています。だって、自分も思いっきり同じこと、いやそれ以上の「勘違い」をしでかしてますからね。
 純粋に音楽として聴きますと、これはですね、たとえばキース・ジャレットのインプロヴィゼーションのようにも思えてくる。つまり、ジャズ的だとも言えるわけです。もちろん、時代的なこと、あるいはキースの仏教への関心などを考慮に入れれば、両者はそれほど遠くないとも言えますよね。
 楽器はリングモジュールド・ピアノ2台です。この録音では、一人マニュピュレーターが付いていますね。サウンド・エンジニアが必要なわけです。実際の音を聴くと、それほど前衛的ではない。案外ナチュラルな感じです。リングモジュレーションも軽めにかかっている。
 楽譜を見るとわかりますとおり、案外古典的な感じですよね。ちゃんと、五線譜におたまじゃくしで書かれている。それまでのシュトックハウゼンは、ジョン・ケージの影響を受け、不確定性を重視する作曲法に傾倒していましたが、この作品からは比較的古典的な作曲法に回帰し、いわゆる「フォルメル技法」を確立していきました。
 全体的には古典に帰りつつ、それでも生涯新たな挑戦を怠らなかったシュトックハウゼン。常に時代の先端をとんがって走り続けた彼は、実は多くのポピュラー・ミュージシャンを育てたとも言えます。プログレッシヴ・ロックやテクノ、そしてジャズの世界で、彼の影響を受けた音楽家は数知れません。彼の名を冠したバンドも存在します。
 彼の音楽が、と言うよりも、彼の存在自体がかっこよかったのかもしれません(カールハインツ・シュトックハウゼンという名前がかっこいいのかも…笑)。
 シュトックハウゼンは2007年の12月5日に亡くなりました。その日は奇しくも、彼が敬愛するモーツァルトの命日でした。

Mantra, Work No. 32
Yvar Emilian Mikhashoff (ピアノ)
Rosalind Bevan (ピアノ)
Ole B. Orsted (電子楽器)
 
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2008.12.04

両虎二龍の闘い

20081204006 あ、行きたかったなあ。まさに夢の対決です。和田良覚レフェリーも感無量のご様子。
 今日、リアルジャパンプロレスの興行「Conclusion〜決着〜」が後楽園ホールで行われました。メイン・イベントは、タッグマッチながら、初代タイガーマスクと二代目タイガーマスクの初対決。本当にあり得ないカードです。ああ、現地にいたら絶対泣いたな…(笑)。両虎の腹が多少出ていることなど気になりません。いや、そこにこそ両虎の年輪、プロレスの深さを見るのだ!
 何度仕事を早退して駆けつけようと思ったことか。これを逃したらもう見られないかもしれない。でも、さすがにそれはできませんでした。う〜ん、ちょっと後悔してます。
 まさに「両虎二龍の闘い」です。これで三沢のパートナーが藤波辰巳だったら完璧だったんですけどね(笑)。ま、そこまでは望みません。
 結果は次のとおり。

初代タイガーマスク
ウルティモ・ドラゴン ●
15分24秒 エメラルドフロウジョン→片エビ固め
三沢光晴 ○
鈴木鼓太郎

 プロレスは結果ではありませんから、これだけ見てもへえ〜そうなんだで終わりでしょう。まあ予想通りと言えば予想通り。予定調和かもしれません。しかし、私のようなプロレス・ファンからしますと、こうして活字になって二人の名前が並ぶだけでも、それはもう感動的なのであります。
 新日本の虎と全日本の虎が相まみえる…昭和のプロレス黄金期には夢の中でさえ叶わなかったカードが、こうして四半世紀の時を超えて実現する…実に感慨深いことです。
 しかし、一方でプロレス文化、すなわち日本の伝統的な芸能や真の武士道、あるいは本当の意味での八百長精神が失われた、その裏返しでもあります。それはいつも書いているとおりです。
 その点、初代タイガー佐山聡さんのこれまでの格闘家人生を顧みると、面白いことがわかりますね。
 彼は御存知のとおり、プロレス界で一世を風靡し、ある意味革命を起こして、その絶頂期に突然引退しました。そして、シューティングという新しい格闘競技の概念を生み出し、現在の総合格闘技の基礎を作りました。しかし、近年、再びリアルジャパンプロレスというプロレス団体を作り、プロレス回帰を果たしました。彼はそれ以前に、真の武士道復権のために、掣圏真陰流という心武一体型武道を創始しています。
20081204002thumb200 つまり、彼の考える武士道を体現する一つの具体的方法がプロレスだということです。これは、私の考えと深く通じ合うところがありますね。いや、私のような実践の伴わない野狐と、格闘界の神である佐山さんを一緒にするのは申し訳ないのですが、古武術に詳しい知人と話をする中でも、よくプロレスにこそ本来の武術が持つ精神性が生きているという文脈が出てくるんですよ。これは分からない人には全く分からないことでしょう。両者は一見かけ離れた世界に見えますから。
 しかし、身体性を凌駕する精神性という面や、互いを活かし合うという面、形式を重視する面などにおいて、実は両者は非常に近いものなのです。もちろん、プロレスは幅広い芸術(芸能)なので、そういう世界と対極にあるものもありますよ。しかし、おそらく佐山さんが目指すリアルなプロレスや、三沢さんが守ってきた王道プロレスには、そういった面が色濃く残っているのだと思います。
 ところで、この夢の対面ですが、実は20数年前に一度実現しているんですね。それも全日本プロレスのマット上で。これは実に貴重な映像です。そして、今思えば、馬場さんの「シューティングを超えたものがプロレスだ」という名言を実証しているシーンとも言えますし、今の佐山さんの活動を予言するシーンだとも言えますね。ご覧下さい。

 今日の試合会場には、あのビル・ロビンソン先生もいらしていたそうです。彼もまた「シューティングを超えたプロレス」の生き証人ですね。ああ、かえすがえす、行けば良かった…。行きたかったなあ。
 古くから「両虎相闘えば勢い倶に生きず」「両虎争う其の時は必ず一虎死す」と申しますが、昨日は一龍が死して、両虎は生き残りました。必ず再び相闘う時が来るでしょう。その時こそは私も歴史の証人になれるよう参戦いたします。その日まで、心のプロレスラーを目指して精進いたします。

佐山サトルオフィシャルサイト bushido.jp

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2008.12.03

『直筆で読む「人間失格」』 太宰治 (集英社新書ヴィジュアル版)

08720468 ンデモな古文書読むのが趣味だからか、音楽でオリジナル主義(という言葉ももう古くさくなってしまいましたかね)というものをやってきたからでしょうか、どうにもこういうものには弱い。いや、どうにもこういうものに弱いから、オリジナル主義に走ったんでしょうかね。
 特に何かと縁のある(この前もやられましたな…笑)太宰の自筆稿となれば、これはもう萌えずにいられるか。
 しかし面白いもので、太宰がけっこう好きな私でありながら、実は世間的に代表作とされる「人間失格」は高校か大学の時にさっと読んで、それこそ「つまらなそうな顔」をしてそれっきり。なんで世の中ではこれほど人気があるんだろう、こんなものよりずっと面白い作品がたくさんあるのに、だいいちちっとも笑えたもんじゃねえ…と、少し太宰風にひねくれたりして、その後全く読み返していませんでした。
 それが、こういう形で刊行されて、ようやく再読する気になりまして、実際読み始めたら、面白い面白い。なんだ、やっぱり笑って読むべきものだったのか、学生時代なんていう自意識の強い、なんともいかんともしがたくいろいろと勘違いしている時期に、ああ青春とはなんぞや、人生とは、世間とは、自己とは、なんてしかめっ面して読むものじゃあなかったのか。
 と、こんな具合。どこか文体も、つまり頭の中の思考回路も太宰風になりつつ、とっても楽しく一気に読んでしまいました。ホント、こりゃあダメな大人にならないとわからん話だし、まあ、どこを取っても普通の人間の半生記という感じでしたね。結局、この「人間失格」という逆説的なタイトルが示すとおり、人間でなくなってようやく「人」になるのかもしれないし、ある意味葉蔵のように人に(特に女に)甘えられる優れた処世術を身につけて、立派な世間の人になっていく話かもしれないし、どんなに社会と自分の間に違和感を持っていても、最後は社会に守られているという可笑しさですね。実にかわいいお話だと思いました。
 そうそう、昨日の数学ガールでも書いたことが、しっかり書いてあって、そこでも笑ってしまいました。「数学の嘘」というやつです。ここで言う「数学」とは、まさに「世間」ですからね。期せずして太宰と同じことを書いてしまった(もしかすると、数十年前の記憶がタイミングよく出てきたのかもしれませんが)。
 「世間とは個人ぢゃないか」という「思想めいたもの」。これはまさに「思想めいたもの」に過ぎず、たしかに「個人」だけれども、その「個人」が決してインディペンデントではなく、お釈迦さまが言うとおりに他者依存的な存在であったというオチですかね。
 手記の最後の「廃人」が喜劇名詞だという話や、「ただ、いっさいは過ぎて行きます」という真理、そして「たいていの人から、四十以上に見られます」という決めゼリフ、全てがそうして他律的で立派な社会性に収斂していきます。
 あとがきの掉尾、「…神様みたいないい子でした」で、完璧に、残酷なほどに救われてしまった葉蔵、そして太宰自身。実に楽しい喜劇ではないですか。
 このたび、こうして太宰の自筆の影印に触れることで、おそらくそこからしか立ち上がってこないであろう「読み」を受け取ることができました。その全てをここに開陳できませんが、とにかく毎ページ面白すぎた。これぞまさにオリジナル(とは言ってもコピーですが)の魅力であります。
 バッハの無伴奏にせよ、源氏物語にせよ、太宰にせよ、こうして遡れる限りオリジナルに近づいてみることは大きな意味があることです。原典でなくてはダメだという狭小な思想ではありません。そうした原典を原点としていろいろと眺めてみるということには、その他の位置に立って目を凝らすよりも大きな発見と歓びがあるのは確かだと思うんです。楽譜にせよ文字にせよ、手書きのものに活字以上の情報が記憶されるのは当然です。
 こうして私もワープロで文章を書いていますが、こんなデジタルな時代にこそ、アナクロでアナログなメディアに触れて一服するのもいいのではないでしょうか。そう、まさに一服の茶の体験ですよ。一期一会。当事者との一体感。この前の観世寿夫ではありませんが、天才自身の「離見の見」に乗っかっちゃって、ちゃっかりおんなじ風景を見させてもらうのです。
 このシリーズ、ぜひぜひもっともっとたくさん出してもらいたいですね。作家本人は苦笑いするでしょうけど。

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2008.12.02

『数学ガール 上』 結城浩 (著),日坂水柯 (イラスト)  (メディアファクトリー)

Img55854901 学の先生にお借りしました。この前は化学の先生にこちらの萌え系を借りましたっけ。とうとう「萌え」は数学の牙城にまで迫ってきました。こっちは mathematical girls だ。
 というか、もともと数学って思いっきり妄想世界ですし、ある種自分の理想のスタイルやデザインを追求する性質のものですから、案外私の定義する「萌え=をかし」観と近しい関係にあるんですよ。疑似的な永遠性を得ているわけですからね。
 それで、たとえばペレリマンのような天才数学者はあっちの世界へ行ってしまった。究極の萌え感情は、ほとんど宗教と化しますので。
 そう、「理系の人々」ではありませんが、実は不随意な「モノ」よりも、不変な「コト」を求める理系さんは、本来的にオタク傾向があるわけです。
 一方、文系は「もののあはれ」に走っちゃうわけですね。それもまたある種のオタク傾向でありまして(国語のセンセイである私を見ればわかる)、結局すべての人間はオタクという極点に収束する…なんちゃって。
 ま、それは半分冗談、半分本気としまして、この数学ガール。数学の先生曰く、数学の部分はなかなかしっかりしているとのこと。それも、専門の世界においては基本的なことばかりらしい。私にとっては初めて知ることが多く(もちろん解らないのがほとんどでしたが)けっこう楽しめました。
 実はですねえ、高校数学でとんでもないコンプレックスを持ってしまった私は、ある時期までは完全に数学アレルギーになっていたんですけど、面白いもので、この本あたりから、その世界に興味を持つようになったんですよ。一種の憧れのようなものもあるんじゃないでしょうか。相変わらず数式などは全く理解できないのですが、なんというか、それを取り巻く人間たちの人間模様でしょうかね、数学という究極のフィクションが照らし出すリアルな人間像とでも言うのでしょうか、そういうものにとても興味を持つようになりました。
 その後、「博士の愛した数式」あたりで、数学の美しさが文学や映画になったりしてブームになりました。なるほどそういう切り口からも数学の魅力を伝えることはできる。
 で、このコミックはどうか。数学と青春…いったいどういう展開なのだろうか。結論から言いますと、一見この三角関係はですね、別に「数学」を介さなくても成り立つというか、それがスポーツであっても、アニメであっても、とにかく恋の媒介としては、まあなんでもいいわけですよ。そこに数学を持ってきたからちょっと新しい。けれども、これは数学である必然性はないな、と思ったのです。
 しかし、なんとなくある瞬間、あっ、これは数学の不条理と残酷さでなければダメなのかも!と気づきました。
 冒頭に出てくる「なぜ素数に1が含まれないか」という疑問に対して提示される、「素因数分解の一意性」。こういう定理や、その定理より前に存在している(存在せしめられている)公理というものの、恣意性やある意味での社会性やそれに伴う暴力性。これって案外美しいものじゃないなと(テトラちゃんも「そんな勝手な定義」と言っています)。
 「一意性」は数学においてとっても重要なことらしいのですが、ま、ちょっとこじつけですけど、それって例えば「配偶者は1名に限る」というような法律につながるものですし、あるいはそれ以前に「恋愛の対象は特定の1名が望ましい」という不文律にもつながるように思います。
 「定義は有用でなければならない」とありましたが、それはまさに社会的有用性ですよね。個人で勝手な定義を作るのは自由だが、それに全ての他者に対して有用性がないとダメだというわけです。
 ですから、そんな、個人的にはかなり強引な足かせの中で、我々は明確な解答を求められ、そしてそのルールの中でその正しさを証明していかなければならない。そういう社会性が私たちに倫理を求めるのです。だから恋は難しくなり、文学の題材になっていく。
 ある意味、数学というのは、宇宙規模での社会性です。少なくとも地球レベルではありますし、どうも宇宙でも通用しそうです。そんな厳しい公理や定理の中で、彼らの淡い恋の三角形(いや帯によると「3人が描く単位円の軌跡」)はどうなっていくんでしょうか(ちなみに数学の先生によりますと、単位円の軌跡はどうなるもクソもないそうですが…たしかにそうですね…笑)。

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2008.12.01

『桜えびかりんとう』 (小倉食品株式会社)

Img10413703238 岡からのお土産です。親父が買ってきてくれました。ほかにも生桜えびなども。桜えびについては、こちらに書きましたので繰り返しません。世界でも駿河湾でしか獲れない珍味です。
 で、今回新たにヒットだったのは、この「桜えびかりんとう」。なんでも今年の春に発売されたばかりだそうで、発売後はずいぶんと人気になっているようです。テレビでも紹介されたとか。
 まず袋を開けますと、なんとも言えないあの桜えび独特の香りがしてきます。しかし、見えるのは、まあ普通のかりんとうです。黒糖ではないので色は薄めですけど、決して桜色とかではない。
 そうしますと、頭は混乱しますね。嗅覚からは桜えびの味が想像されますし、視覚からは甘いかりんとうの味が想像されますから、味覚の予覚はかなり微妙なものになってしまいます。今まで体験したことのない味を味わうというのは、一つの楽しみでありますが、そのエレメントに関してそれぞれの味の記憶がありますと、うまいこと統合されず、こうしてあまり芳しくない予想が成立してしまうことがよくあります。
 そうそう、ちょっと離れますけど、たとえば最近全国デビューしたらしい超局所的グルメである「青森ラーメン」なんかもその例でしょう。なにしろ、スープは「味噌カレー牛乳味」だそうですから。それぞれのイメージはありますけど、混ざるとどうなるのかは、正直未知なる世界。不安の方が先立ってしまいますね。まあ、こちらで食べた「豆乳カレーラーメン」から想像するに、けっこうおいしそうですけどね。
Img10293724503 でも、やっぱり桜えびとかりんとうはなあ…似た組み合わせもあんまり体験したことないし…などと、多少不安に思いながら、さっそく口にしてみました。
 うん!これはおいしい!!
 まず、思ったより甘くない。そして、微かな甘さの中から滲み出てくるあの桜えびの香ばしい味わい。また、生地を牛乳で練ってあるということで、噛めば噛むほどにまた柔らかな味わいが深まります。
 天日干しした極上の桜えびを粉末にして、練り込んだり、あるいはコーティングしているようですね。開発者の方によりますと、小麦粉のグルテンが桜えびパウダーとうまく混ざらず苦労したとか。
 意外だったのは、スイーツ系でありながら、日本酒にも合うということです。特に辛口のお酒とは不思議なハーモニーを醸し出します。意外な出会いですねえ。
 桜えびのせんべいや、フライ系スナックは今までもありました。そう、どうしても発想が「しょっぱい」系に行ってしまいますよね。私も、甘く仕上げるという発想はありませんでした。考えてみれば、もともと海産物って甘く煮込んだりされてきましたよね。海産物には海独特の塩分が含まれるわけですが、その塩や、旨味成分のアミノ酸自体が、本来甘みと相互依存的に使われてきたわけですからね。そのバランスさえしっかりしていればおいしくなるのは当然と言えば当然なのかもしれません。
 こういう新しい発想での商品開発というのは楽しいですね。世界の桜えびをもっと知ってもらうために、さらなる新製品の開発を期待しちゃいます。


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桜えびかりんとう5袋セット

小倉食品株式会社

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