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2008.11.30

『新しい文化「フィギュア」の出現 ~プラモデルから美少女へ~』 (NHK ETV特集)

1_2 NHKで放映されていた「フィギュア」観ましたか?いや、スケートの方じゃありません。その裏番組でやっていた「ETV特集」です。萌え系お人形のお話です(笑)。
 ま、フィギュア・スケートも、まさに「フィギュア」が評価されるわけであって、両者は無関係ではありません。ずっと前に書きましたけど、浅田真央ちゃんにはしっかりと萌え属性があると思いますし。ですから、あのフィギュア・スケートって純粋なスポーツではありませんよね。芸術点とかあるし。プロレスみたいなものですよ。
 接地面の抵抗を限りなく小さくして、それで非現実的な時間と空間を作り出すという意味では、アニメやゲームなどの世界に近いものがあるかもしれません。見目麗しい女性(男性)が、ああいうファッションで空中を3回転半も回らないですよ、現実世界では。
 それはいいとして、こっちのフィギュアの番組です。最近フィギュアがかなり変化した(笑)岡田斗司夫センセイが案内役となって、カリスマフィギュア造型師ボーメさんの仕事ぶりの紹介を中心に、フィギュアの魅力に迫ります。これが非常に面白く勉強になりました。なにしろ、私フィギュアを一つも持ってないし、あんまり詳しくないので、こういう番組で耳学問というか目学問するしかない。
 で、結論から言いますと、予想外で驚いたことと、予想通りだったことがありました。予想外だったのは、なんといってもボーメさんの仕事ぶり。無知な私は、フィギュア作りがこんなにも手仕事で、まさにクラフトマンシップに溢れた作業だとは知りませんでした。今までも、海洋堂の仕事は何度かテレビで紹介されていて、なんとなくは見ていましたけれど、ボーメさんの仕事はちょっと次元が違うなという感じ。これはまさに彫刻家ですね。もう、単純に外見的には芸術家でしょう。
 2次元を3次元化するというのは、一見、昨日の記事、モツレクを弦楽四重奏に編曲するというのと、逆の作業のように感じられますね。ほとんど省略はなく、付け加えていくわけですから。しかし、すでに完成されたと思われるものを、違った意味で再構成し、違った価値と魅力を創造するという意味では、同じとも言えるかもしれません。
 また、そのモデルがリアルな人間というよりは、想像上のキャラクターであるという点でも、宗教芸術に近いものがあるかもしれませんね。
 いずれにしても、ボーメさんの到達している境地は、これはもう間違いなく芸術家と称されてよいものです。あの思い入れと卓越した技術(両者はたぶん同じものなのでしょうが)は、単なる職人を超えています。それもまた、ある種の宗教心のなせるワザではないでしょうか。まさに現代のミケランジェロ。感動しました。
 で、リアル職人でもなく、リアル芸術家でもない(村上隆さんと布施英利さんは微妙かな)ゲストの皆さんのお言葉は、だいたい予想通りの内容でした。私が想像していた通りの展開。ま、私も典型的なそちら側人間ですから、当然と言えば当然か。
 いちおうゲストの皆さんの解釈を紹介します。まずは芸大の美術解剖学の先生であられる布施英利さん。「網膜に映るのは2次元なので、それを3次元と認識するのは普通に人間の営みである」と。なるほど。ある意味我々がリアルと感じている立体感や遠近感というものはフィクションであるということですな。そうすると、私の提唱する独眼流立体視の術独眼流美術鑑賞もあながち間違ってないということですか。
 荒俣宏さん。「小さいものを作るのが日本の文化の原点。たとえば幕府の禁制のおかげでそういう文化が育った。制約が芸術の契機」。これはよくわかりますね。枕草子の「何も何も小さきものはみなうつくし」って、まさに「をかし=萌え」の原点ですよね。日本は禁制の前からどうもそういうミクロ指向が強かったように思えます。さらに、荒俣さんに対する岡田さんの言葉「こだわりの競争」っていうのもあったなあ。これはオタクの原点でしょう。いい言葉です。合理主義とは一線を画す、ある種の平和主義ですね。
 村上隆さん。「ボーメさんは伝説のサーファー。私はそれを撮る写真家。サーファーは尊敬されるけど、写真家は伝えるだけ」。それにしては、村上さんもずいぶんと持ち上げられ、そして稼いでますな。写真家というより、丘サーファー(死語)じゃないかな。それでモテモテとか。アーティストって本質的にそういう胡散臭さがあってよろしい(笑)。
 山田五郎さん。「本来アート(芸術・美術)とクラフト(工芸)は別れていなかった。近代博物館がそれを分けた。美術は時代を超えた普遍性を持たねばならなくなった。ポップ・アートの出現がその境界を再び曖昧にした。アートに行くかクラフトに行くかは個人の性格」。これは実に納得。岡田さん曰く、「何が素晴らしいか言葉で説明しなくちゃならない」。それもあるよなあ。それが面倒な人、苦手な人もいるよなあ。
 詩人佐々木幹郎さん。彼の語る「ひとかた」「よりしろ」については、私もこちらに少し書きました。岡田さんの「恋愛対象になるのではなく、恋愛感情と美的センスをこめる」という解釈もまあよくわかります。「萌え」の本質問題ですね。「時間の川に流す」「記憶の層に埋没する」…これもまた、私の「萌え」論と重なる部分があります。
 そういう意味では文化人類学者の上田紀行さんの話も、なんだか私の話とずいぶんと重なってました。「永遠の一瞬を切り取る」「一瞬の中に永遠を見る」…これこそ「萌え=をかし」ですね。ワタクシ的に言うと「時間を微分して疑似的な永遠性を得る」というやつです。
 というわけで、とっても勉強になりましたが…私が最も萌えたのは海洋堂の猫ちゃんでしたね。
 あっ、あと気になったのは、なんでもフィギュアになるかというと、そうでもないということです。たとえばBLの世界とかフィギュア化されないでしょう。そういう非フィギュアジャンルを考えると、フィギュアの本質が解ってくるかもしれませんね。
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2008.11.29

モーツァルト 『レクイエム ニ短調(弦楽四重奏編)』 クイケン弦楽四重奏団

MOZART, W.A.: Requiem in D minor
(arr. for string quartet by Peter Lichtenthal)
the Kuijken String Quartet
Sacc72121 れは美しい。もしかして原曲よりもいい?
 まずは、当時このような形でモツレクが演奏されていたというのが驚きでした。編曲したのは、モーツァルトの息子カールの友人だったというアマチュア音楽家にして医学博士、そして役人だったペーター・リヒテンタール(1780-1853)。この人、なかなか優れたセンスの持ち主ですね。
 あのあらゆる意味で大規模かつ重厚なレクイエムを弦楽四重奏で演奏しようというのも、考えてみればかなり思い切ったアイデアですよね。そして、無駄な音や足りない音が一つもないと言われる、いや本人もたしかそんなことを言っていたと思いますが、そういうモーツァルト作品から、どんどん引き算していくということは、少なくとも私のような凡人にはとてもこわくてできません。
 それをこういう次元で成し遂げたリヒテンタールという人、純粋に素晴らしいと思います。引き算的編曲の難しさというのは、言わば受験国語における要約作業みたいなもので(ちょっと違うか)、まずはその本質を捉えていなければなりませんし、最終的に一つの文章として完成されていなければなりませんから、かなりの技術を要すると思います。
 ただ、我々はモツレクを何度も聴いていますから、その記憶と重ねて空白を埋めるということをしているとも言えます。ですから、純粋にモーツァルトのカルテット曲として、初めて聴いたとしたら、どのように心に響くかは、ちょっとわかりません。うん、永遠にわからないかもしれませんね。
 ただ、この素晴らしい演奏の基本には、やはり原曲の「歌」があることはたしかです。クイケン・カルテットの皆さんは、当然この原曲を演奏、あるいは指揮したことがあるわけで、その音楽的構造や歌詞の世界を知り尽くしているわけですよね。その上でのこの編曲版の演奏ということですから、当然原曲的理解がその根底にあるはずです。
 そういう意味では、私もこの曲をこういう形で演奏してみたいと思いますね。歌と楽器の関係、あるいは楽器によって歌うことと語ることの意味を最近よく考えているので、とっても勉強になりそうに思うからです。
 あとはやはり言葉の問題ですね。言葉と音楽の関係は当然深いものがあるわけですが、逆にこうした純粋な器楽曲における言葉の問題は、演奏家にとってとっても厄介な問題なのです。たとえば、こういう本来言葉が中心の音楽から、その主役を取り去って演奏することによって、逆に純粋さ、ある意味では崇高な宗教的意味が表現されてしまうというジレンマというか、パラドックスが成立してしまうわけでして、それは素晴らしいことなのかどうか、実は微妙なわけですね。
 そう、それは演奏家にとっての厄介な問題というより、言葉による表現者にとっての厄介な問題と言うべきかもしれない。言葉があまりに饒舌で、語りすぎてしまうことは往々にしてあります。あるいは言葉が意味を限定しすぎてしまうこともある。そこに、たとえば日本古来の和歌や俳句のような引き算の表現の可能性も生まれてくるわけですが、そういう言葉という縁取りの外側の余白が持つ可能性というのは、洋の東西を問わず全ての芸術家を刺激し、悩ませてきたことなのでした。
 いずれにせよ、言葉で表現されるべきことを、言葉を離れて見直してみるというのは、ある意味人間がその衣服を脱ぎ捨てて自然の状態に帰ることですから、それは面白く、また恐ろしいことなのです。
 私はそういう勇気ある挑戦をした、リヒテンタールとクイケン弦楽四重奏団の皆さんに敬意を表したいと思います。
 誰か一緒に挑戦しませんか?私はヴィオラを弾きますので、ヴァイオリンとチェロで参加してくれる方、募集します。ま、実際は難しいこと考えずに響きを楽しみたいと思いますので。てか、技術的に弾けるかどうか微妙だな…。

 クイケン弦楽四重奏団
 ・第1ヴァイオリン:シギスワルト・クイケン
 ・第2ヴァイオリン:フランソワ・フェルナンデス
 ・ヴィオラ:マルレーン・ティエルス
 ・チェロ:ヴィーラント・クイケン

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2008.11.28

『トンデモ日本史の真相』 原田実 (文芸社)

と学会的偽史学講義
Ehiuy れは面白い本。いい本です。
 皆さん御存知のように、私はけっこうトンデモ世界側の人間ですよね。このブログでもそういうネタをたくさん披露してきました。だいいち、ライフワークにしているものが、なんだかんだ言って、この本で俎に上がっている「富士宮下文書」や「出口王仁三郎」に関係することだったりしますからね。私の存在自体、というか、ここに住んでいる理由自体が揺らいでしまう可能性すらありそうです。
 では、私にとってこの本こそがトンデモかというと、そんなことはなく、私は案外著者原田実さんと同じような立場であるとも言えるんです。私はこの本で取り上げられている様々なトンデモ説を、正直愛しています。それがたとえフィクションであっても、いくらトンデモであっても、噴飯ものであっても、心から愛して止まないのであります。
 そう、つまり、そういう物語を作り出し、そこに命をかけ(生活をかけ)、いつのまにか、自分のついたウソが自分の中では真実になり、トンデモ世界の住人になってしまった人間たちが愛おしいんですね。自分にもそういう要素がありながら、しかし、どこかで原田さんのように冷静な自分がいて、ブレーキをかけているからでしょうかね。多少の憧れのようなものすらあるんです。木村鷹太郎とかね(笑)。
 世の天才と言われる人たちって、みんなそういう意味であっちの世界に行っちゃってる人が多いじゃないですか。結局、自分はそこまでバカになりきれないんでしょうかね。
 原田さんは面白い経歴の持ち主です。なにしろ、最初はかの八幡書店の社員であり、そして古田武彦に師事していたわけですから。まあ、トンデモの最前線を行っていたわけですよ。それが、今やと学会の重鎮になって、こんな本まで出している。素晴らしい振幅の人生です。
 この本は、そんな経歴による原田さんの力が遺憾なく発揮されている名著だと思いますよ。まず、とりあげられているトンデモ説の質と量がともに素晴らしい。たとえば、こんな感じです。

信長暗殺の黒幕はカトリック教会?/与那国島沖に海底遺跡がある?/豊臣秀吉は美濃墨俣に一夜城を築いた?/南太平洋のバヌアツ島から縄文土器が出た?/ペトログラフには古代シュメール文字が刻まれている?/源義経はチンギスハンになった?/アインシュタインは日本が世界の盟主になると予言した?/明治天皇すり替えの陰謀を明かす写真がある?/日本の原爆開発を止めたのは昭和天皇?/日本に世界最古・最大のピラミッドがある?/松尾芭蕉は隠密だった?/明智光秀は天海僧正になった?/武田信玄は騎馬民族だった?/聖徳太子はいなかった?/聖徳太子が使っていた地球儀がある?/秦の徐福が日本に弥生文化を伝えた?/北緯34度32分は祭祀遺跡がならぶ「太陽の道」だった?/安倍晴明は美貌の貴公子だった?/ホツマツタエ(秀真伝)は記紀の原本だった?/かぐや姫は中国からやってきた?/出口王仁三郎は日本の敗戦を予言した?/失われたアークは四国剣山にある?他

 これらをですね、まず「巷説」として、トンデモ本風にそれらしく紹介します。そこだけ読んだ人は、それこそそのトンデモワールドにはまりかねません。そして後半、「真相」として、「巷説」を冷静に批判、否定していきます。
 やはり、あっちとこっち、トンデモ的世界とと学会的世界の両方を知り尽くした原田さんならではの演出ですよね。ある意味、あっちの世界に対して(特に武田崇元氏と古田武彦氏に対して?)かなりの嫌悪感と復讐心(?)を持っているんでしょう。この本全体から、ちょっとそういう臭いもしてきますよ。かと言って、原理主義的な感じはしないんだよなあ。そのあたりの絶妙な立ち位置がいいなあって思います。
 そう。私のトンデモに対する愛情って、プロレスに対するそれとおんなじなんですよ。フィクションだからといって、もちろん排除したくないし、野暮な理屈で否定したくない。そこに実は人間の「真実」や「真理」が読み取れるからです。すべて「事実」しか認めないというのは、なんとも味気ない生き方だと思うんですよね。いつも言うように「コトよりモノ」っていうことです。でも、フィクション自身は人間の脳内の「コト」です。その重層的、複層的な世の中の構造が面白いと、いつも思っているんです。
 この本は、そういう意味でも、いい教科書になりそうです。いや、まずはメディア・リテラシーの教科書として教室で使えそうですね。こういう愛すべきトンデモ以上に、憎むべきウソが世の中には蔓延してますんで。こういう、ツッコミどころ満載なウソは可愛く美しいとさえ思えますよ。

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2008.11.27

『芸能花舞台 伝説の至芸 観世寿夫』 (NHK教育)

1 見の見。むむむ…なんだ、これは。自分が観世寿夫になり、観世寿夫を見ている感覚。吸い込まれているのに、こちら側にいる違和感。それもビデオをブラウン管を通じて観ている自分。ううむ、いったい観世寿夫はどこにいるのだ。そして、自分は…。
 世阿弥の再来とまで言われた天才能楽師、観世寿夫の動く姿を初めて見ました。すごい映像でした。これはもう単純に「能」とは言えないような気さえしてしまいました。土方巽の舞踏に近い。屹立し、踏み、根差し、舞う。録画であっても、テレビであっても、今ここの時間と空間が表現者に支配されている。これはおおげさでなく、本当にそう感じました。おそるべき至芸。
 この番組にも出演し、解説をなさっていた野村四郎さんのもとで勉強している教え子が、ぜひ見なさいと言うので、忘れず録画して観てみたのです。ありがとう、こんなすごいものを紹介してくれて。
 私は能にはそれほど詳しくないし、それほどたくさんの舞台を観ているわけではありませんが、この観世寿夫が稀有の天才だということはわかりました。それは、おそらく、能に限らず、他の舞台芸術にいろいろと触れてきたからだと思います。本当に時々、こういう恐ろしささえ感じる舞台というのがあるんですよね。ただ、美しいとか楽しいとか興奮するとか、そういう次元でなく。
 特に昭和の40年代の表現にはそういうものが多い。たしかに時代性というのもあると思います。当時の舞台と言えば、やはり土方巽や寺山修司らによる、実験的で、前衛的で、そして世界的に高く評価されるものが多い。それは、前衛と言っても、どこか土着的であり、つまり、それは反近代、反西洋というモードで語られるべきものでした。観世寿夫もまた、世阿弥にかえり、現代に世阿弥を連れてきた。研究しつくしてなおそこを突き抜けた。
 今の「アーティスト」たちにそんなエネルギーを持った人がいるでしょうか。残念ながら見当たりません。ただ昔が良かったというノスタルジーではありません。彼らがすごいというのは分かります。たぶん皆分かるでしょう。なら、まずは彼らを「今」に連れて来るというのはどうでしょう。
Tyi しかし、それはある意味で勇気のいることです。彼らは最近までこの世に存在しましたから、特に難しいのかもしれません。生前の彼らを知っている人たちがいますからね。それが一つの壁になりうる。
 じゃあ、観世寿夫がそうしたように、神格化され、伝説化されてしまった古人の所へ向かったらどうでしょうか。ある意味、神や仏にたてつく方が簡単かもしれません。勇気さえあれば。
 いくら古人でも、我々とどこかでつながっているのは確かなのですから、本当は自信を持って連れてきていいのかもしれません。そして、我々は彼らの知らないことをあまりにたくさん知っているのですから(その逆も言えますが)、それを彼らに教え、彼らが「今」ならどうしたか、それを純粋に学べばいいのではないでしょうか。それが、もしかすると、「離見の見」、「物学(ものまね)」、「物狂い」なのかもしれない…そんなことを思いながら、観世寿夫の「俊寛」を見ていました。
 今日紹介されていた映像は次の通りです。

仕舞「海士」1973年放送
能「俊寛」1976年放送
能「井筒」1977年放送

 ちょっと恥じらった、面をつけていない安宅の写真や、ギッシリ書き込まれた勉強ノートなども興味深かったし、白石加代子さんとの「バッコスの信女」でのディオニュソス役の迫力と存在感、すごかったなあ。とても最晩年とは思えなかった。
 四郎さんの解説にあった、寿夫さんの謡における「歌と語りのバランス」「息を引く」というのは、どういうことなのか、今度教え子に聞いてみましょう。
 観世寿夫没後30年。誰か彼のところへ行って連れてきてくれないものでしょうか。彼の死で能は終わったなんて言わないで。
 再放送がありますので、ぜひ皆様もご覧下さい。画像がなぜか乱れていたので、私ももう一度録画をしたいと思います。
 そして、ここのところ棚上げしていた、世阿弥における「モノ」論に、再び手をつけてみようかなと考えています。
 

再放送  土曜日 29日 朝 5時15分~5時59分
再再放送 日曜日 30日 夜 23時30分~24時14分

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2008.11.26

『聴き方革命』 出口光 (徳間書店)

スーパーリスニングならすべてはうまくいく
19862580 れは教師としてもたいへんに実用的な本であり、それ以上に日常をガラッと変える可能性を持った本です。勉強になりました。
 以前、著者の天命の暗号を紹介しました。あの本も私に心の革命を起こしましたね。
 何回か書いていますが、私は出口光さんの曽祖父である出口王仁三郎が大好きでして、本当にいろいろと影響を受けたり、実際にお世話になったりしています。そして、こうして光さんの著書に感動したり、また同じく王仁三郎のひ孫にあたる受験国語界のカリスマ出口汪さんは、私の仕事上の師と言える存在だったりして、全く不思議なご縁があるんですよね。
 さて、この本における「スーパーリスニング」ですが、これはまさに昨日の記事における「個性」と「社会性」につながるものです。つまり、人はそれぞれ4種類の聴き方を持っており、それぞれのバランスがその人のパーソナリティーに大きく影響し、ひいてはその人の人生を決定している、自分や相手がいったいどういう聴き方をしているかを把握することによって、自分の行動や思考、そして他者との関係をより良いものにできるということです。
 四つの聴き方というのをまとめますと、こんな感じです。

 達成的傾聴「勇」
 親和的傾聴「親」
 献身的傾聴「愛」
 評価的傾聴「智」

 ちなみに「勇・親・愛・智」というのは、ある意味王仁三郎が近代に復活させた「一霊四魂」という考え方に則っていますね。四つの魂を「直霊(なおひ)」が統括しているという考え方です。
 心理学を修めた哲学博士である光さんらしいのは、これを西洋の「パーソナリティの五因子論」と重ねている点です。すなわち、「一霊四魂」を次のように対応させているんです。

「勇」荒霊(あらみたま)→外向性
「親」和霊(にぎみたま)→親和性
「愛」幸霊(さちみたま)→感情的安定性
「智」奇霊(くしみたま)→知性
「直霊」→良心

 なるほど、ぴったり当てはまりますね。まあ、人間の本質をきわめていけば、東洋も西洋もないということでしょう。同様に、後半に述べられている「三つの内なる声」では、フロイトの「エス」「自我」「超自我」を、王仁三郎の「正守護神」「副守護神」「本守護神」と対応させ、興味深い考察を展開しています。面白いですね。
 さて、四つの聴き方ですが、まずは自分がどの聴き方が強いかを知ると、自分の今までの人生のいろいろな成功や失敗がそこに大きく依存していたことがわかります。そして、自分の身近な人、仲がいい人でも、苦手な人でもいいので、こちらもちょっと分析してみますと、なるほどと思えることがどんどん出てきます。そうして、自分と他者の聴き方を知ることによって、相手の話もまた違って聞こえてきますし、また、相手によってこちらの話し方もずいぶんと変ってくるわけです。
 結果として、お互いの「個性」を認めて活かし合うという、本来の「社会性」がそこに生まれてくるわけですね。たしかに、こういう融和というか、多様にして安定した様相、光さんは「大和」という表現をしていますが、そういう理想的世界像というのは、出口王仁三郎が唱えた「みろくの世」ということになるかもしれません。
 この本のいいところは、理論に偏らず、実際のシーン(特にビジネスシーン)に即した実例や、実際の鍛練方法が詳細に書かれている点です。この本による意識変革をもって世の中を見れば、全く違った日常の風景が見えてくると思います。
 私が毎日接している生徒たちも、まさに多種多様な聴き方をしていますね。それを意識して、こちらが言葉を選び、表現を選んで話すだけでも、ずいぶんと彼らの人生は変わっていくのかもしれません。教師こそこの本を読むべきなのかもしれませんね。

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2008.11.25

『爆笑問題のニッポンの教養スペシャル 爆笑問題×早稲田大学』 (NHK)

平成の突破力~ニッポンを変えますか?~
20081125_kansou の時と同様、最強は日芸ってことですか(笑)。まあ、ある意味そうだよなあ。
 最近も日芸に行ってる教え子と話す機会があったんですけど、やっぱり異様な突破力を持ってるなと。何しろ人の力を使うのがうまい。人と関わって自分の未知の世界へ飛び込み、未知の自分をどんどん開発してしまう。ある意味「個」に対する執着がないんですよ。
 いや、今回の番組、「突破力」がテーマであったのにもかかわらず、話は「個性」の方に行ってしまってましたね。で、間接的に語られましたけど、やっぱり本当の突破力って、残念ながら「社会性」なんですよね。個を活かすためには、社会への懐柔も必要なのは当然です。というか、「個」の活動の場が「社会」しかないのですから、そのリングのルールに従わねばならないのは当り前です。
 私たちが「個」とか「自己」とか認識している存在は、実は他者と不二なものであり、お釈迦さまが言うとおり、「個」として取り上げてしまうと全て「空」になってしまうことだけは自明ですから、やっぱり昨日までの話じゃないけれど、いかに「個」を捨てて、他律的で社会的な自分を育てていくかといことじゃないでしょうかね。
 そういう意味で、太田が最後に語った、社会に対する「表現」や「伝達」や「芸」こそが、結局「突破力」であり、「個性」だったというオチなのでしょうか。
 また、早稲田のセンセイ方の話は、みんな知ってる通り一遍な話で、あんまり刺激的でなかったのに対し(それぞれもっとしゃべりたかっただろうなあ…)、太田の北野武論は面白かった。これが今回の一番の収穫かなあ。あれだけとっても、「個性」が相対的なものであることがわかります。あっ、田原総一朗はぶっとんでて面白かったか。あれはやっぱり「芸」ですね。そして、実は絶妙なバランス感覚に基づいた「社会性」だと思いました。
 早稲田の学生たちは、東大よりもある意味純粋かなと。それは「痛い」という意味でもありますが、なんというか高校の延長という気もしないでもないし、案外自意識が強く子供っぽいかなとも思いました。もちろん、それがいいところですし、あの大学の魅力だと思いますが。私にとっても、生徒たちにとっても憧れの大学ナンバーワンですからね。
20081125_waseda もう一度「突破力」の話に戻りましょうか。「個性」は実は「社会性」だったというオチは置いておいて、一般的に言われる「個性」は一般的に言われる「社会性」とぶつかることが多く、結果として「突破力」になりえないのが普通です。しかし、学生の誰かも言っていたように、たとえば太田なんかは、「個性」で成功しているとも言えますね。田原総一朗さんもそうです。でも、彼らには「才能」もありました。
 「個性」と「才能」は別のものです。「才能」にもいろいろありますが、特に「突破力」として有用なのは「忍耐力」でしょう。社会との衝突に堪えるのも大変でしょうし、社会に懐柔して「個」を活かすのも辛いでしょうから我慢が必要ですよね。そういう時の「忍耐力」が足りないのがフツーの人たちです(私も)。
 違う言い方をすれば、「個性」を「社会性」にし、「社会性」を「個性」にするだけの基礎体力みたいなものが必要なのです。また、なんだか禅問答みたいになってきましたね。「色即是空・空即是色」だな、こりゃまた(笑)。
 まあ、とにかくこの番組で再び確認したのは、大学というのは面白いところだということです。なんだか洒落っ気のない感想ですけど…。道元さんから学んだことを応用してみますと、大学というのは「モノ→コト(空不異色or空即是色)」の修行の場であり、その後の「大人」としての人生における「仕事(コトを為す)」基礎部分であり、また人生の頂点たる「モノ'」を目指す入り口であり、また、人生後半の愛すべき下り坂のダイナミズムを生む助走みたいなものだなと、そんなふうに思ったのでありました。
 そうしますと、私の出た地方の暗く地味な公立大学は、ちょっと物足りなかった…のかなあ…。

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2008.11.24

習う=忘れる(その3)

1 (昨日の続き)

 元は再び言います。

「習熟するとは忘れることだ」

 そうです、本当に「慣れる」「習う」ということは、忘れること、特に「自己を忘るる」ことなのです。
 自己への執着を捨てること、これは仏教の根幹ですね。しかし、ここで考えたい「自己への執着を捨てる」ということは、単に煩悩を断つための手段ではありません。世間では、方法論としての忘我が語られることが多いのですが、私はもう少し進んで考えたいと思っています。
 一昨日書いたように、「仏道=宇宙=自己」という大前提がありますから、自己を忘れるとは、仏道を、そして宇宙を忘れることです。忘れるということは、最初から知らないのとは違います。一度意識に取り込まれた「コト」を忘れるのです。まさに一昨日書いた「ものにする」ということですね。
 でも、これはとっても難しいことのようです。私たちは大人になり、いろいろなモノを手に入れます。いや、ワタクシ的には「コト」を手に入れると言った方がよろしい。そして、ますます執着が強くなる。手に入れたコトが消えるのも避けたいし、もっと別のコトを欲するようにもなる。そうしてどんどん自己の内部が肥大化していく。はっきり言って収拾がつかなくなるのだと思います。
 ですから、私は、人間はある時期になったら、自分の中のコトを忘れる方向に行くべきだと思うんです。そして、私は今そういう時に立っているような気がするんですね。実際、自分という「モノ」も適度に劣化してきますし、うまく出来てるんですよ。だって、いずれはせっかくものにした「歩くこと」も「しゃべること」もどんどん失っていくわけじゃないですか。まあ、よく言われるように、また生まれた時に戻っていくんです。忘れて成熟していく、成熟して忘れていくんですね。めでたいことです。
 ずいぶん溜め込んだ「コト」もどんどん放出して、また、せっかく「ものにした」モノも再び「コト」になって、そしていずれは手放すことになる。自分の内部だと思っていたコトが、いつのまにか外部のモノになっている。随意が不随意になっていく。
 何かを習得していく過程を「モノ→コト→モノ'」と表現するなら、今度は「モノ'→コト→モノ」という変移が生じるわけですね。
 この「ものにした」ものを手放すというのは決して悪いことではありません。実はこれこそが本当の「ものにする」ということだと、最近思うんです。つまり、道元の言う「忘る」とはここまで来ないと実現できないのだと。
 つまり、「モノ・コト」でもう一度表せば、「モノ→コト→モノ→コト→モノ」ということです。私たちはこうして、外部を内部に取り込んで、そして再び外部に返すのです。それこそが実は「生命」の本質なのではないかと思うのです。
 そうすると、たとえば般若心経の「色不異空・空不異色」「色即是空・空即是色」というのも、理解しやすくなりますね。ワタクシ的解釈では、「空」は「モノ」です。「色」が「コト」にあたります。ですから、うまい具合に並べ替えますと、

「空不異色→色不異空→空即是色→色即是空」

ということになるでしょうか。
 人生80年としますと、私は今まさに空即是色の段階に入ったということでしょう。たしかに、何気なく見ていた近くのものが見えにくくなって、久しぶりに自分の「目」の存在を意識したり、何気なく思い出せていたものがなかなか出てこなく、意識的に脳ミソの引き出しをひっくり返さなくてはならなくなったり…。今までは放っておいた鼻毛も、ちゃんと手入れしないとバカボンのパパみたいになってしまうし、眉毛やパイ毛(笑)もやたらに長く伸びて、その存在を主張するようになってきました。「空」だったものに「色」が再びついてきたんですね。
 そして、あと二十年もしたら、今度はそんな意識すらなくなってしまうのでしょう。鼻毛も眉毛も伸びっぱなし。遠くのものさえ見えなくなるかもしれません。言葉も失うかもしれない。再び本当の「空」に戻るのです。
 しかし、それがまさに宇宙の摂理であり、唯一の真理なのですから、別に心配することはありません。宇宙を忘れて宇宙に帰る。仏道を忘れて仏道に帰る。自己を忘れて自己に帰る。
 今までは私も、ひたすら「空(モノ)」を「色(コト)」に変えるのが人生だと思っていました。そして、「色」が「空」になるのは忌むべきことだと思っていました。でも、考えてみれば、「色」を自分の内部に充満させている「大人」の時期、働き盛りの「大人」こそが、一番仏道(宇宙・自己)に反することをしてるじゃありませんか。今日も盛んに報道されていた元厚生事務次官殺傷事件一つとってもわかります。利己的で、短絡的に人の命を奪い、因果応報の教えを悪用し…(彼の語る「言葉」には一理ありますけれど…あくまで「言葉」には)。
 私がこの歳になって、こうして自分の脳ミソの中の言葉を無闇矢鱈に放出しているのも、実は後半の「空即是色→色即是空」の実践なのかもしれませんね。そう考えると、なんとなく安心もします。ようやく人生の本質の段階に入ったのだなと。
 そして、上の「正法眼蔵」の表紙にある「色は是れ色にして、空は是れ空なり」の意味もまた、少しは自分のものになりつつあると感じる、今日この頃なのでした。
 今回は長々と失礼いたしました。

 (終わり)

Amazon 現代文訳 正法眼蔵 1

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2008.11.23

習う=忘れる(その2)

2 (昨日の続き)

 物は変化します。そして必ず雲散霧消します。それを私たちは、劣化や老化と呼んで忌み嫌います。ですから、人間の文明はそうした摂理に対抗するように進んできました。すなわち、エントロピーの増大をいかに遅らせるかに終始してきました。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、これは「コト化」そのものです。自分たちの思いどおりにしようとすること、それはまさに固定化することです。工業技術と情報技術とで、私たちは様々なエントロピー増大則に対抗しようとしてきました。本来朽ちるべきもの、死ぬべきもの、忘れ去られるべきものを、なんとかこの世に長くとどめようとしてきたわけです。特に西洋文明はそんな感じですね。
 私は、今の世の様々な問題は、単純にそうした世の摂理に背く、いわばマイナスのエネルギーの蓄積によるものだと思っています。いや、歴史を顧みて、ある時期より現在の方がよっぽど平和ではないかとおっしゃる方がいてもおかしくはないと思います。しかし、それはあくまで塗装の上塗りのようなもので、表面的には新しく美しいものに見えても、その奥は、実際のところかなり腐食や錆びが進んでいるような気がするのです。
 こうした人類の所業は、一人の人間の一生にあてはめて考えてみますと解りやすいと思います。
 私たちはこの世にオギャーと生まれて、そうして何年か経って「ものごころ」がつきます。この「もの」とはおそらく「もののあはれ」の「もの」のことでしょう。つまり「ものごころつく」とは、世の中が自分の思い通りにならないということに気づくということだと思います。
 そして、その「あはれ」の克服に努めるようになっていくんですね。学校で勉強したりするのも、その一つの手段でしょうから、実はそういう「コト化」の努力をせよという、常識というか(エセ)倫理観のようなものは、社会が、大人が用意しているものなんです。科学技術もそう、政治もそう、経済のシステムもそう。
 それですっかり私たちは洗脳されて立派な「大人」になっていきます。一生懸命働いて、一生懸命カネを稼いで、一生懸命自己を確立して、一生懸命ムダ使いして、一生懸命他者の命を犠牲にして、一生懸命アンチエイジングして、あくせく生きて、そして結局死んでいきます。
 私たちは個人レベルでも、とにかく自分の思い通りになるように物事を進めていこうとします。もちろん、いろいろな妥協はありますが、基本的にベクトルは自己実現の方向に向かって伸びています。しかし、そうしているうちになんだか疲れていることに気づきませんか?
 私たち人間も、お金の力で、技術の力で、とにかくどんどん上塗りしていますが、中身は自然に衰えていきます。人間にとっての中身は、すなわち心でありましょう。
 今日もなんとも不可解なニュースが飛び込んできましたね。元厚生事務次官殺傷の事件で男が出頭したと。やはり私の世代の男でした。日本が「もののあはれ」という諦念を捨てて経済成長一直線に走り続けた時代に成長した世代の産物です。とりあえずの理由は「昔ペットを処分されたから」。まさに「もののあはれ」に対処する力や智恵を失っている人間らしい言葉です。「モノ」の本質である、無常性や不随意性や他律性を諦観していない感じがします。
 非常にむなしいですね。
 そういう観点からしますと、私たちは「生きる」ということ、「生かされている」ということ、それから「死ぬ」ということに全然慣れていないとも言えますね。本当の意味でそれらを習っていないのです。
 今日は勤労感謝の日です。私は学校で仕事です。世の中では、勤労は美徳だということになっていますね。一生懸命働いて、何かを生産し、そしてお金を得て何かを消費し、個人にとっても、自治体にとっても、国にとっても、世界にとっても、とにかく経済が成長することが善しとされる。みんながそう思い込んでいます。
 私は、そろそろ世界も成長期を終え、成熟期になるべきだと思うんですが。

 (その3に続きます)

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2008.11.22

習う=忘れる(その1)

1 道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり(正法眼蔵「現成公按」)。
 道元禅師のあまりに有名であまりに深い言葉です。私たちはいろいろなシーンでいろいろな意味でこの言葉を味わわなければなりません。
 今日はちょっとこの言葉について考えることがあったので、記録しておきたいと思います。以下はあくまで私の解釈ですので、その点ご了解ください。私は専門家ではありませんから…。
 仏道とは世の摂理を知ることに相違ありません。すなわち仏道という言葉には、世の学習や習い事のみならず、私たちが日々習得していく全ての知識や技術、仕事や知恵など、本当に生きていくこと全てが含まれると言っていいのです。
 仏教の教えでは、宇宙と自己は全くの等価です。自己は全ての他者によって成り立っているし、宇宙の存在もまた私という存在に依存しているからです。どちらが全体で、どちらが一部ということはありません。ですから、「仏道を習ふ=自己を習ふ」というのは、実は単純な公式なんですね。
 では、次の等式「自己を習ふ=自己を忘る」とは、どういうことでしょう。
 仏教の教えはスケールを変えて考えるとわかりやすいものです。ここでは、一気にスケールを縮小して卑近な例で考えましょうか。
 たとえば私がヴァイオリンを弾けるようになった過程を思い出してみます。もちろん最初はまったく思い通りにならないものでした。一生懸命腕や手首や指をコントロールしようとするのですが、なかなかうまくいきません。しかし、3年くらいしますとそれなりになってきます。教本を使ったり、先生や先輩に教わったりしながら、次第に慣れていったのでしょう。もちろん今でも思い通りにならないことだらけですが、それでも、ずいぶんとできることも増えました。そのできることというのは、すなわち無意識にできることなのです。つまり、コントロールすることを「忘れ」ていることなんですね。
 こういうことは、言語や、あるいは車の運転、いや歩くことなどの習得にも共通のことであると、誰しもがすぐに想像できます。
 つまり、私たちの「習う」という行為は、「慣れる」という現象であり、それは意識から無意識への変容のプロセスのことだとも言えるのです。
 そうしますと、「自己を習ふ=自己を忘る」という等式も案外明快なものであることがわかりますね。そして、最初の仏教的公理「仏道=宇宙(世の全て)」=自己」を代入するなら、そこにまた様々な等式が成り立つことに気づきます。
 これをまた卑近な方向に持っていきまして、私の「モノ・コト論」で説明しますと、「習ふ=忘る」とは「モノ→コト→モノ」という流れになります。つまり、「自己の外部(無意識)→自己の内部(意識)→自己の外部(無意識)」ということです。
 まさに「ものにする」とはこういうことで、ある行為を無意識のうちに成し遂げることができるようになることです。
 逆に言えば、何ごとも考えているうちはダメだということでしょうか。禅ではそのことを強く戒めますよね。不立文字、教外別伝。
 宇宙の摂理を知るにも、私たちは最終的には理屈から抜け出さねばならないのです。本来我々は宇宙と等価であり、その摂理に自然に則って生きているべきでした。しかし、人間は進化してしまったのか、退化してしまったのか、本来ものにしていたはずのことを忘れてしまい、それで一生懸命に勉強したり修行したりして、それを取り戻そうとしているのです。
 いや、ほとんどの人間は、そんなことを考えもせずに、宇宙の摂理に反して暴走してますかね。いちおうこれも仏教的視点と「モノ・コト論」ですが、ちょっと視点を変えて我々人間の愚かさを考察してみましょうか。
 (その2に続きます)

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2008.11.21

モンスターのお話

Pm 変わらずウチの娘たちのポケモン熱は冷めません。ポケモンの、作品としてのモンスターぶりについてはこちらに書いたとおりです。子どもに世の本質を見せないところが、あの作品の人気の秘密であり、長続きする秘訣であると書いたような気がします。そうですね、モノ心つかない子どもたちにとっては、ポケットモンスターこそが信頼すべき友人であり、現実の人間はまだまだモンスターにしか見えないのではないでしょうか。
 monsterの語源を遡ると、ラテン語のmonēreに行き当たります。monēreは警告するという意味だそうです。やはりかの国でもmon-という音は、日本語の「モノ」と同様、不随意、想定外を表したのでしょうか。調べてみる価値はありますね。
 ところで、ポケモンならぬチリモン御存知でしょうか。今ひそかに子どもたちに人気だとか。チリモンとは「チリメンモンスター」の略で、「ちりめんじゃこの中に紛れ込んでいる小さなエビやカニ、タコ、ヒトデなど」のこと。和歌山県のカネ上さんという水産加工業社が紹介して評判になったんだそうです。なるほど、ちりめんじゃこやシラスの釜揚げなんかに、時々小さなタコとか入ってて、ラッキーと思うことがありますね。ふつうはあれは除去するんだそうです。それをあえてそのまま出荷して、モンスター探しを楽しんでもらうというコンセプトなんですね。面白い。
 やはり、このモンスターたちも、本体のちりめんじゃこからすると、外部、異物ですよね。それが興味をひくというのは、やはり私たちが本体(標準・日常)だけでは飽き足らないものであるということを証明していますね。平坦で均質的な日常に、ちょっとした変化と刺激を求めるのは、子どもも大人も一緒です。
 でも、やっぱり非日常が日常を侵食するようでは困りますね。私のような仕事をしていると、様々なモンスターに出会います。まあ世間的に一番有名なのは、モンスター・ペアレントでしょうか。こんなひどい例もありましたっけ。でも、残念ながら(?)私の周囲にはほとんどいないんですよ。いや、個性的で楽しいある意味でのモンスターはたくさんいますけど、皆さん愛すべき方々です。まあ、ポケモンみたいな感じ?なんて言ったら失礼ですね(笑)。とすると、実は私はポケモンマスターとか、あるいはブリーダーとか。馴化させる技術を持っているのかも…なんてね。
 あ、そうそう、このモンスター・ペアレントという言葉、かの向山洋一が命名したんですよねえ。私からしますと、彼こそが忌むべきモンスターでした。体でっかいし。そして、隣の教室では、彼に洗脳された多くのモンスター・スチューデントが製造されていましたっけ(笑)。今や教育界の神扱いされてますけど、まあ、日本では怪物と神の境界線はかなり曖昧ですからね。それはそれでいいか。
 ところで、モンスター・ペアレントは日本独特の種かといいますと、そうでもないらしい。アメリカなんかでも、子ども離れできない過保護な親が増えていて、特に大学などでその対応に頭を悩ませているらしい。で、そういう親を、英語ではヘリコプター・ペアレントっていうんだそうです。何かあればすぐに飛んでくる。常に子どもの上空を旋回していて、何かあると急降下してくる。そんなイメージなんでしょうか。
 ところで、最近、ウチもモンスター・ペアレントだと思われているフシがあるんです。いや、ウチの下の娘が通っている村の保育所なんですけどね、とっても平和で素朴で素晴らしいんですけど、最近けっこうクレーマーな親が多くて大変らしいんです。
 世のご多分にもれず、学芸会とか運動会の演目の内容や子どものポジションに文句を言ったりする親が増えてきたと。運動会ではやりの「羞恥心」ネタをやったり、あるいは発表会で「うる星やつら」をやったり、あるいはビデオ鑑賞の時間に「天才バカボン」を観たりすると、必ず文句を言う親が出てくる。もっと高尚なことをやれ!と(笑)。
 ウチなんか、子どもの教育は「うる星」と「バカボン」と「ドリフ」だけにまかせているので、全然OKなんですけどね。もっと低俗にして本質的、ゲージツ的なものをやってもらいたいくらいです。で、こういうことをヘーキでほかの親たちに言うと、みんな呆れるというか、苦笑するというか、引くというか。ちなみに、保育所にバカボンのDVDを持って行ったのはウチです(笑)。ま、たしかに子どもたちの口調が全員「バカボンのパパ」になっちゃったらしいから、問題と言えば問題ですが。で、ウチこそモンスターということになっている(たしにか)。
 ま、そんなわけで、世の中、モンスター・ベアレントだけでなく、モンスター・ペイシェントとか、モンスター・コンシューマー(クレーマー)とか、モンスター・ドクターとか、モンスター・ティーチャーとか、モンスター・ポリティシャンとか、モンスター・プレジデントとか…つまり、あらゆる分野にモンスターが出現していまして、いったいどっちが普通なのか、どっちが日常でどっちが非日常なのか、まったく分からない状況になっていますね。いや、ある意味この世にはモンスターしか生息していなくて、その覇権争いが起きているだけかもしれませんね。冷静に考えれば、私もかなりなモンスター・ティーチャーですわ。もしかして、あなたもモンスターじゃないですか?というか、自分がモンスターでないと言い切れますでしょうか。

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2008.11.20

エリック・マーティン 『MR.VOCALIST』

51jr9njzg5l_sl500_aa240_ わぁぁ!こりゃあすごい。発売前ですが、おススメしておきましょう。時代はついにここまで来たか…。
 こんなアルバムが出るなんて、それこそ10年前に誰か想像したでしょうか。あのMR. BIGのヴォーカリスト、エリック・マーティンが、なんと邦楽のカバーを出します。それも全曲女性バラード。たとえレコード会社の企画モノだとしても、このクオリティーでここまでやれば脱帽です。そして新たなる発見あり。
 先日J-POPに苦言を呈するような記事を書きました。演歌の逆襲~ヒット連発の秘密~というやつです。たしかに、Jポップが日本の音楽界与えた負の影響もありますよね。都倉さんが指摘したとおりです。しかし、一方で、いかにも日本(J)らしい方法で洋楽と邦楽を混血させ、独自の世界を開いていったことも事実です。
 それを、たとえば、このエリックのアルバムでもギターを弾いているマーティー・フリードマン(元メガデス)がえらく高く評価して、ある意味逆輸入してくれたりしましたっけ。おかげで、ああ、日本の大衆音楽もようやく世界に認められたのかとも思いました。でも、まあそれはマーティーという異常な日本オタク(失礼)だからこそとも言えるわけですね。実際、彼が出したアルバム『ROCK FUJIYAMA』はJ-POPのカバーではなく、洋楽の名曲のカバーでした。やっぱりちょっと難しいのかな、とその時は思いましたが…。
 いやあ、まさかエリック・マーティンがこういうことやるとはなあ。マーティーも一枚かんでますね、これはぜったい。あと、エリックと言えばB'zの松本さんとTMGというプロジェクトをやってましたから、そんな頃に日本の音楽に素で惚れたのかもしれませんね。これが世界で売れたら、ちょっとホントに時代が変わるかもしれませんよ。いや、単純にMR. BIGやエリックのファンは世界に数千万人いるでしょうから、そんな人たちにJポップのバラードが聴かれると思うだけでもちょっとワクワクしますよ。
 曲目を紹介しましょう。

1.PRIDE (リード・トラック)
作詞・作曲:布袋寅泰 English Lyric: Benny Driggs from translation Lica Cecato
(オリジナル=1996年)
2. ハナミズキ 
作詞:一青 窈 作曲:マシコタツロウ English Lyric: Suzi Kim & Hayley Westenra
(オリジナル=2004年)
3.あなたのキスを数えましょう
作詞:Ren Takayanagi 作曲:Hideya Nakazaki English Lyric: Gary Perlman
(オリジナル=2000年)
4. Everything
作詞:MISIA 作曲:松本俊明 English Lyric: Melinda Torrance
(オリジナル=2000年)
5. Precious
作詞:Kei Noguchi 作曲:Hayato Tanaka English Lyric: Seiji Motoyama
(オリジナル=2006年)ギターで、マーティー・フリードマン参加。
6.Time Goes By
作詞・作曲:五十嵐充 English Lyric: Amy Sky
(オリジナル=1998年)
7. M
作詞:富田京子 作曲:奥居香 English Lyric: Suzi Kim
(オリジナル=1989年=MR.BIG結成の年)
8.I Believe
作詞:絢香 作曲:西尾芳彦・絢香 English Lyric:Tim Jensen
(オリジナル=2006年)
9.雪の華
作詞:Satomi 作曲:松本良喜 English Lyric: Suzi Kim & Hayley Westenra
(オリジナル=2003年)
10. The Voice 〜“Jupiter” English Version〜
作詞:Andreas Carlsson 作曲:G.Holst
(オリジナル=2006年(日本語versionは2003年))
11. LOVE LOVE LOVE -ENGLISH VERSION-
作詞:MIWA YOSHIDA(Lyrical Assistance: RON SEXSMITH) 作曲: MASATO NAKAMURA
(オリジナル=2004年(日本語versionは1995年))

 うむ。たしかにちょっと懐かしいぞ。私は当時積極的にこれらを聴いていたわけではありませんが、たしかに名曲ぞろいだ。
 と、ここまできますと、皆さん当然ながら最近ヒットした徳永秀明さんの女性バラードカバー集を思い起こすことでしょう。私、あれはちょっとダメだったんですよ。あまりにフェミニンでね。でも、こちらは男のロックしてますよ。次のサイトで全曲試聴できますから、ぜひ聴いてみてください。

MR.VOCALIST 特設サイト

 どうですか。けっこういいでしょう。アレンジがロックでよろしい。ロック・バラードになることで、曲に新しい命が吹き込まれていますね。90年代洋楽のようでもあり、しかしJ-POPでもあり。懐かく、そして新しい。感動すると同時に、ちょっと笑えるし。不思議なクロスオーバーになっています。単純にエリックもうまいですしね。
 これは日本ではウケるでしょうね。さて、世界ではどうでしょう。非常に楽しみであります。

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2008.11.19

『新 入試評論文読解のキーワード300』 大前誠司 (明治書院)

1 試評論文を教えていて難しいのは、その本文が高校では習わない分野に及ぶことです。哲学、芸術学、美学、宗教学、言語学、量子力学…。これは大きな問題です。どの教科でも習わないし、かといってテレビでしょっちゅう取り上げられるわけでもない。となると、これはもう生徒は自分で勉強するしかありません。
 私はこれらの分野をなぜか共通して好きなので、本当は授業で細かく教えたいんですけどね、だいたい高校生には抽象的すぎてワケわからん世界でしょうし、あんまり盛り上がらないんですよ。
 でも、生徒たちも3年生になってこの時期になると、さすがに避けているわけにはいかない。それにちょっとして大学に入ったら、こういう抽象的なこととつきあわなくちゃいけないわけですからね。
 で、こういう類の本が役に立ちます。今までも何冊か紹介しましたね。この大前さんの本もなかなかよろしい。勉強しやすい。旧版にもお世話になりましたが、こちら新版も生徒にすすめたい内容になっています。
 取り上げられている言葉はほとんど外来語。つまり漢語とカタカナ語になります。ほとんど一般人の日常では使われない用語ばかりですね。それもある意味20世紀の遺物的な言葉がたくさんあります。ま、入試問題自体、まるで昭和ノスタルジー映画のような風情がありますからね。いまだにソシュールとかしょっちゅう登場しますから(笑)。とても最新とは言えません。
 ただ、私たち大人も、そのあたりの20世紀的「知」にけっこう疎いじゃないですか。もちろん私も。仕事柄、こういう機会があるので、意識して勉強するけれど、ま、普通のお仕事してたら、こんな身にも金にもならないような言語ゲームには参加しないでしょうね。
 ところで、この本に「〈もの〉が先か? 〈こと〉が先か?」というコラムがあります。これは私の「モノ・コト論」とは異なる、どちらかというと一般的な論です。簡単にまとめるとこんな感じです。

『〈こと〉とは、〈もの〉と〈もの〉がかかわることをいう。〈こと〉よりも〈もの〉が先にあるように思えるが、実は逆。この世界は〈こと〉の世界である。〈もの〉はそれを分節することで生まれたもので、〈もの〉世界は実像ではなく仮象である』

 うむむ、これもまた、20世紀的哲学ですな。フランスの構造主義的言語学やら記号論やら、廣松渉、和辻哲郎あたりの遺物ですね。
 いつも書いているとおり、私はどっちかというと逆の発想です。世の本質や存在の本質は「モノ」であって、「コト」こそが人間の脳内の営為であり、ある意味では分節の結果だということです。自己の外部は全て「もの」であり、内部が「こと」だと。
 あっそうそう、こういう私の「モノ・コト論」が21世紀的な、とっても先鋭的なものなのかというと、実はそんなことはないんですよ。なんと19世紀に先達がいるんです。すっごい大人物です。南方熊楠です!
 彼と私の「モノ・コト論」はけっこう近い。ちょっと違うけれども、基本はいっしょです。正直、私にとっての同志は南方熊楠しかいません。いや、なんとなくですけど、南方熊楠っていうところが嬉しかった。ほんのちょっとでも、彼と同じ発想をしていたといのが、なんとも嬉しいじゃないですか。
 その熊楠の「モノ・コト論」を紹介したのが、中沢新一の「森のバロック」でした。今春の早稲田大学文化構想学部の入試にその部分が出ていて、ちょっとびっくりしたのを思い出します。ここでは、わかりやすくするため、熊楠が土宜法竜に書いた書簡ではなく、中沢新一の言葉で、いや、早稲田大学の入試の選択肢で紹介しましょう。

問八 次の文は、いずれもAの文章(注…中沢新一の文)中で熊楠の主張として述べられている内容である。このうち、Bの文章(注…熊楠の法竜宛書簡)中では述べられていないものを一つ選び、その記号の記入欄にマークせよ。

 イ 事は心と物があいまじわる境界面のようなところにあらわれる。
 ロ いまの学問にいちばん欠けているのは、事についての洞察だ。
 ハ 人の心に悪い考えがおこったとしても、その考えが物界と出会わなければ、将来に報いをつくりだすとはかぎらない。
 ニ 心界におこる動きが、それとは異質な物界に出会ったとき、そこに事がつくりだされる。
 ホ 心界から独立した純粋な物界などというものは存在できない。

 ちなみに答えは…えっと、えっと、たぶんホです(笑)。実はここのところ、すなわち、純粋な物界はないというのが、私にとっても不適切な表現です。こういう発想って、いかにも記号論的、あるいは量子論的じゃないですか。もっと言えば、いかにも西欧的というか、キリスト教的というか。あと、ロについてもちょっと異論を唱えたいかな。
 ま、そのへんについては、死ぬまでには自説をまとめるつもりですから、気長にお待ちください(って誰も待ってないか)。
 なんか話がそれてしまいましたが、いずれにしても、こういう参考書は、受験生のためだけでなく、大人の現実逃避のためにも有用だということです。

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2008.11.18

『私の源氏物語 ~千年語り継がれたロマン~』 (NHK ETV特集)

1 曜日に録画してあったものを観ました。
 結論から言いますと、この前、『源氏物語 一千年の旅~2500枚の源氏絵の謎~』の記事の最後に書いた通り、「天皇家でもこんなんだし、いいか、我々小市民も」と「人間の心は千年やそこらじゃ変わらない」ってことじゃないでしょうかね。
 いろいろな方のいろいろな語りがあって、田辺聖子さんが言うように大いに盛り上がる物語であると。なにしろ、皇室スキャンダルですから。だから、最近は悪く言われる、あの時代の源氏不敬論も、実はごもっともな語りなんですよね。あんまり美化、神聖化しない方がいい。
 その点、林真理子さんの語りにはちょっとうなずかれるところがありました。まず、「王子様願望」ですね。私がよく言っている、女性の得意な「ゆかし→をかし」的感性を刺激するんですよね。で、最後は「もののあはれ」に行き着く。林さんも紹介してましたが、「更級日記」はその流れの典型です。
 あと、面白かったのは、六条御息所から見た夕顔。なるほど、夕顔はいい女だがイヤな女です。男には好かれるけど、女には思いっきり嫌われると。男からするといい女だけど、女からすると最悪な女だと。林さん曰く、「本命がいるのに、すぐ他の男になびく。なんだか思わせぶりで男を惹きつけるし」。なかなかの「悪女」であると。だから、案外まっすぐな六条御息所は夕顔を許せなかった。よ〜くわかります。
 あと、そうですねえ、面白い語り手だったのは、清水義範さんでしょうか。彼が言う、「地の文が敬語で書かれているのが珍しくすごい」というのは、なるほど面白い解釈です。
 そう言えば、私の無手勝流源氏物語も敬語を正確に訳すことを心がけていました。そして、全体に谷崎のように「です・ます体」で書いています。やっぱりあの本文の雰囲気、宮中の女房たちの「物語…うわさ話」の雰囲気を出すには、当時の「話し言葉」の雰囲気を出さねばなりません。これは絶対です。
2 ところで、今回はこの物語の一つのクライマックスである「源氏と藤壷の密通」にこだわった内容でした。いろいろな訳、あるいはマンガなどが紹介されてました。まあ、そうですね。あそこは一番興味あるところでしょう、誰しもが。
 面白かったのは、それらを朗読している高橋美鈴アナです。いや、面白がっちゃいけないんでしょうけど、なにしろ内容が内容のシーンですから、なんとなくね。特にケータイ小説版や、2ちゃんねる版の朗読はいけてました(ドキドキ)。
 ところで、この問題の逢瀬のシーン、私は次のように訳しています。

 王命婦はどのような一計を案じたのでしょうか、非常な無理をして藤壷の宮とお逢い申している間さえ、現実とは思われないのは、なんとも辛いことではありませんか。宮も、思いもしなかったあの夜の出来事をお思い出しになること、それだけでも一生の悩みであるのに、せめてそれだけで終わりにしなければと深く決心されていたにもかかわらず、再びこのような逢瀬を遂げるにいたってしまう、そんな自分自身がとても情けなく感じられるのでした。源氏は、宮が普通でないご様子でありながら、離れたくないほどにかわいらしく、しかし一方では他人行儀なところもあり、奥ゆかしく気品のあるご態度などが、やはり普通の人とは似ていらっしゃらないのを、
「どうして、この方には欠点というものが少しもお混じりにならなかったのだろう」
と、ふと辛いほどまでにお思いになるのでした。いったいこんな束の間の逢瀬で、どのようなことを申し上げきれるというのでしょうか。二人は鞍馬の山にでも泊まりたいというような様子でしたが、あいにくの短夜で、とても思い通りにはなりません。それは、逢わないでいるよりもかえって辛い逢瀬でありました。

 うむ、まあまあですな。悪くないと思います(笑)。でも、この前も書きましたけれど、ホントは全部訳し直したいんです。私の「モノ・コト論」に従ってね。実はここの部分にも、重要な「もの」が出てくるんです。

 宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむと深う思したるに、いと憂くて、いみじき御気色なるものから…

 この部分の「もの思ひ」を私も、その他の偉い人たちもせいぜい「悩み」程度に訳してるんですよね。いつも言うように「もの」は「外部・不随意」を表す言葉ですから、「もの思ひ」は単純に「悩み」じゃだめなんですよ。思い通りにならないことを思うんです。特にここでの「世」は男女の仲を直接指すものと考えられますので、一生の悩みなんていう軽いものではなく、男女の間のすれ違いや矛盾、嫉妬心や妄想、その他いろいろな「思ひ」がこめられているわけです。さて、なんと訳そうか。
 それから、引用文の最後、「ものから」という表現もまた、そういう「もの」が持つニュアンスをちゃんと訳さないといけない。それも今勉強中です。いずれ、改訂版を出します(いつのことになるやら)。
 とにかく、この前書いたように、死ぬまでに全文訳をしたいですね。そうすればさすがに何か得るものがあるでしょう。

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2008.11.17

プロレス・格闘技系雑誌4冊

1 薦入試の指導が一段落したのと、大晦日の桜庭vs田村がいちおう決まったのと、元WWEのチャンピオン、ブロック・レスナーがUFCのチャンピオンになったということを祝し、たまっていたプロレス&格闘技の雑誌をまとめ読みしました。
 推薦入試の小論文とか面接の指導をしていますと、こういう勉強もぜったい必要だなと思うのです。ただ目前の問題をテクニックによってサブミットしていくだけでなく、他者から学び、自己を変革させ、最終的に調和していく勉強も大切だなと。あるいは、国語の勉強における、受験対策と文学的な授業との関係にも言えるかな。両方必要です。受験テクニックは実は基礎中の基礎です。そこをベースにして文学的創造や鑑賞をすべきです。そしてこれは