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2008.11.30

『新しい文化「フィギュア」の出現 ~プラモデルから美少女へ~』 (NHK ETV特集)

1_2 NHKで放映されていた「フィギュア」観ましたか?いや、スケートの方じゃありません。その裏番組でやっていた「ETV特集」です。萌え系お人形のお話です(笑)。
 ま、フィギュア・スケートも、まさに「フィギュア」が評価されるわけであって、両者は無関係ではありません。ずっと前に書きましたけど、浅田真央ちゃんにはしっかりと萌え属性があると思いますし。ですから、あのフィギュア・スケートって純粋なスポーツではありませんよね。芸術点とかあるし。プロレスみたいなものですよ。
 接地面の抵抗を限りなく小さくして、それで非現実的な時間と空間を作り出すという意味では、アニメやゲームなどの世界に近いものがあるかもしれません。見目麗しい女性(男性)が、ああいうファッションで空中を3回転半も回らないですよ、現実世界では。
 それはいいとして、こっちのフィギュアの番組です。最近フィギュアがかなり変化した(笑)岡田斗司夫センセイが案内役となって、カリスマフィギュア造型師ボーメさんの仕事ぶりの紹介を中心に、フィギュアの魅力に迫ります。これが非常に面白く勉強になりました。なにしろ、私フィギュアを一つも持ってないし、あんまり詳しくないので、こういう番組で耳学問というか目学問するしかない。
 で、結論から言いますと、予想外で驚いたことと、予想通りだったことがありました。予想外だったのは、なんといってもボーメさんの仕事ぶり。無知な私は、フィギュア作りがこんなにも手仕事で、まさにクラフトマンシップに溢れた作業だとは知りませんでした。今までも、海洋堂の仕事は何度かテレビで紹介されていて、なんとなくは見ていましたけれど、ボーメさんの仕事はちょっと次元が違うなという感じ。これはまさに彫刻家ですね。もう、単純に外見的には芸術家でしょう。
 2次元を3次元化するというのは、一見、昨日の記事、モツレクを弦楽四重奏に編曲するというのと、逆の作業のように感じられますね。ほとんど省略はなく、付け加えていくわけですから。しかし、すでに完成されたと思われるものを、違った意味で再構成し、違った価値と魅力を創造するという意味では、同じとも言えるかもしれません。
 また、そのモデルがリアルな人間というよりは、想像上のキャラクターであるという点でも、宗教芸術に近いものがあるかもしれませんね。
 いずれにしても、ボーメさんの到達している境地は、これはもう間違いなく芸術家と称されてよいものです。あの思い入れと卓越した技術(両者はたぶん同じものなのでしょうが)は、単なる職人を超えています。それもまた、ある種の宗教心のなせるワザではないでしょうか。まさに現代のミケランジェロ。感動しました。
 で、リアル職人でもなく、リアル芸術家でもない(村上隆さんと布施英利さんは微妙かな)ゲストの皆さんのお言葉は、だいたい予想通りの内容でした。私が想像していた通りの展開。ま、私も典型的なそちら側人間ですから、当然と言えば当然か。
 いちおうゲストの皆さんの解釈を紹介します。まずは芸大の美術解剖学の先生であられる布施英利さん。「網膜に映るのは2次元なので、それを3次元と認識するのは普通に人間の営みである」と。なるほど。ある意味我々がリアルと感じている立体感や遠近感というものはフィクションであるということですな。そうすると、私の提唱する独眼流立体視の術独眼流美術鑑賞もあながち間違ってないということですか。
 荒俣宏さん。「小さいものを作るのが日本の文化の原点。たとえば幕府の禁制のおかげでそういう文化が育った。制約が芸術の契機」。これはよくわかりますね。枕草子の「何も何も小さきものはみなうつくし」って、まさに「をかし=萌え」の原点ですよね。日本は禁制の前からどうもそういうミクロ指向が強かったように思えます。さらに、荒俣さんに対する岡田さんの言葉「こだわりの競争」っていうのもあったなあ。これはオタクの原点でしょう。いい言葉です。合理主義とは一線を画す、ある種の平和主義ですね。
 村上隆さん。「ボーメさんは伝説のサーファー。私はそれを撮る写真家。サーファーは尊敬されるけど、写真家は伝えるだけ」。それにしては、村上さんもずいぶんと持ち上げられ、そして稼いでますな。写真家というより、丘サーファー(死語)じゃないかな。それでモテモテとか。アーティストって本質的にそういう胡散臭さがあってよろしい(笑)。
 山田五郎さん。「本来アート(芸術・美術)とクラフト(工芸)は別れていなかった。近代博物館がそれを分けた。美術は時代を超えた普遍性を持たねばならなくなった。ポップ・アートの出現がその境界を再び曖昧にした。アートに行くかクラフトに行くかは個人の性格」。これは実に納得。岡田さん曰く、「何が素晴らしいか言葉で説明しなくちゃならない」。それもあるよなあ。それが面倒な人、苦手な人もいるよなあ。
 詩人佐々木幹郎さん。彼の語る「ひとかた」「よりしろ」については、私もこちらに少し書きました。岡田さんの「恋愛対象になるのではなく、恋愛感情と美的センスをこめる」という解釈もまあよくわかります。「萌え」の本質問題ですね。「時間の川に流す」「記憶の層に埋没する」…これもまた、私の「萌え」論と重なる部分があります。
 そういう意味では文化人類学者の上田紀行さんの話も、なんだか私の話とずいぶんと重なってました。「永遠の一瞬を切り取る」「一瞬の中に永遠を見る」…これこそ「萌え=をかし」ですね。ワタクシ的に言うと「時間を微分して疑似的な永遠性を得る」というやつです。
 というわけで、とっても勉強になりましたが…私が最も萌えたのは海洋堂の猫ちゃんでしたね。
 あっ、あと気になったのは、なんでもフィギュアになるかというと、そうでもないということです。たとえばBLの世界とかフィギュア化されないでしょう。そういう非フィギュアジャンルを考えると、フィギュアの本質が解ってくるかもしれませんね。
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2008.11.29

モーツァルト 『レクイエム ニ短調(弦楽四重奏編)』 クイケン弦楽四重奏団

MOZART, W.A.: Requiem in D minor
(arr. for string quartet by Peter Lichtenthal)
the Kuijken String Quartet
Sacc72121 れは美しい。もしかして原曲よりもいい?
 まずは、当時このような形でモツレクが演奏されていたというのが驚きでした。編曲したのは、モーツァルトの息子カールの友人だったというアマチュア音楽家にして医学博士、そして役人だったペーター・リヒテンタール(1780-1853)。この人、なかなか優れたセンスの持ち主ですね。
 あのあらゆる意味で大規模かつ重厚なレクイエムを弦楽四重奏で演奏しようというのも、考えてみればかなり思い切ったアイデアですよね。そして、無駄な音や足りない音が一つもないと言われる、いや本人もたしかそんなことを言っていたと思いますが、そういうモーツァルト作品から、どんどん引き算していくということは、少なくとも私のような凡人にはとてもこわくてできません。
 それをこういう次元で成し遂げたリヒテンタールという人、純粋に素晴らしいと思います。引き算的編曲の難しさというのは、言わば受験国語における要約作業みたいなもので(ちょっと違うか)、まずはその本質を捉えていなければなりませんし、最終的に一つの文章として完成されていなければなりませんから、かなりの技術を要すると思います。
 ただ、我々はモツレクを何度も聴いていますから、その記憶と重ねて空白を埋めるということをしているとも言えます。ですから、純粋にモーツァルトのカルテット曲として、初めて聴いたとしたら、どのように心に響くかは、ちょっとわかりません。うん、永遠にわからないかもしれませんね。
 ただ、この素晴らしい演奏の基本には、やはり原曲の「歌」があることはたしかです。クイケン・カルテットの皆さんは、当然この原曲を演奏、あるいは指揮したことがあるわけで、その音楽的構造や歌詞の世界を知り尽くしているわけですよね。その上でのこの編曲版の演奏ということですから、当然原曲的理解がその根底にあるはずです。
 そういう意味では、私もこの曲をこういう形で演奏してみたいと思いますね。歌と楽器の関係、あるいは楽器によって歌うことと語ることの意味を最近よく考えているので、とっても勉強になりそうに思うからです。
 あとはやはり言葉の問題ですね。言葉と音楽の関係は当然深いものがあるわけですが、逆にこうした純粋な器楽曲における言葉の問題は、演奏家にとってとっても厄介な問題なのです。たとえば、こういう本来言葉が中心の音楽から、その主役を取り去って演奏することによって、逆に純粋さ、ある意味では崇高な宗教的意味が表現されてしまうというジレンマというか、パラドックスが成立してしまうわけでして、それは素晴らしいことなのかどうか、実は微妙なわけですね。
 そう、それは演奏家にとっての厄介な問題というより、言葉による表現者にとっての厄介な問題と言うべきかもしれない。言葉があまりに饒舌で、語りすぎてしまうことは往々にしてあります。あるいは言葉が意味を限定しすぎてしまうこともある。そこに、たとえば日本古来の和歌や俳句のような引き算の表現の可能性も生まれてくるわけですが、そういう言葉という縁取りの外側の余白が持つ可能性というのは、洋の東西を問わず全ての芸術家を刺激し、悩ませてきたことなのでした。
 いずれにせよ、言葉で表現されるべきことを、言葉を離れて見直してみるというのは、ある意味人間がその衣服を脱ぎ捨てて自然の状態に帰ることですから、それは面白く、また恐ろしいことなのです。
 私はそういう勇気ある挑戦をした、リヒテンタールとクイケン弦楽四重奏団の皆さんに敬意を表したいと思います。
 誰か一緒に挑戦しませんか?私はヴィオラを弾きますので、ヴァイオリンとチェロで参加してくれる方、募集します。ま、実際は難しいこと考えずに響きを楽しみたいと思いますので。てか、技術的に弾けるかどうか微妙だな…。

 クイケン弦楽四重奏団
 ・第1ヴァイオリン:シギスワルト・クイケン
 ・第2ヴァイオリン:フランソワ・フェルナンデス
 ・ヴィオラ:マルレーン・ティエルス
 ・チェロ:ヴィーラント・クイケン

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2008.11.28

『トンデモ日本史の真相』 原田実 (文芸社)

と学会的偽史学講義
Ehiuy れは面白い本。いい本です。
 皆さん御存知のように、私はけっこうトンデモ世界側の人間ですよね。このブログでもそういうネタをたくさん披露してきました。だいいち、ライフワークにしているものが、なんだかんだ言って、この本で俎に上がっている「富士宮下文書」や「出口王仁三郎」に関係することだったりしますからね。私の存在自体、というか、ここに住んでいる理由自体が揺らいでしまう可能性すらありそうです。
 では、私にとってこの本こそがトンデモかというと、そんなことはなく、私は案外著者原田実さんと同じような立場であるとも言えるんです。私はこの本で取り上げられている様々なトンデモ説を、正直愛しています。それがたとえフィクションであっても、いくらトンデモであっても、噴飯ものであっても、心から愛して止まないのであります。
 そう、つまり、そういう物語を作り出し、そこに命をかけ(生活をかけ)、いつのまにか、自分のついたウソが自分の中では真実になり、トンデモ世界の住人になってしまった人間たちが愛おしいんですね。自分にもそういう要素がありながら、しかし、どこかで原田さんのように冷静な自分がいて、ブレーキをかけているからでしょうかね。多少の憧れのようなものすらあるんです。木村鷹太郎とかね(笑)。
 世の天才と言われる人たちって、みんなそういう意味であっちの世界に行っちゃってる人が多いじゃないですか。結局、自分はそこまでバカになりきれないんでしょうかね。
 原田さんは面白い経歴の持ち主です。なにしろ、最初はかの八幡書店の社員であり、そして古田武彦に師事していたわけですから。まあ、トンデモの最前線を行っていたわけですよ。それが、今やと学会の重鎮になって、こんな本まで出している。素晴らしい振幅の人生です。
 この本は、そんな経歴による原田さんの力が遺憾なく発揮されている名著だと思いますよ。まず、とりあげられているトンデモ説の質と量がともに素晴らしい。たとえば、こんな感じです。

信長暗殺の黒幕はカトリック教会?/与那国島沖に海底遺跡がある?/豊臣秀吉は美濃墨俣に一夜城を築いた?/南太平洋のバヌアツ島から縄文土器が出た?/ペトログラフには古代シュメール文字が刻まれている?/源義経はチンギスハンになった?/アインシュタインは日本が世界の盟主になると予言した?/明治天皇すり替えの陰謀を明かす写真がある?/日本の原爆開発を止めたのは昭和天皇?/日本に世界最古・最大のピラミッドがある?/松尾芭蕉は隠密だった?/明智光秀は天海僧正になった?/武田信玄は騎馬民族だった?/聖徳太子はいなかった?/聖徳太子が使っていた地球儀がある?/秦の徐福が日本に弥生文化を伝えた?/北緯34度32分は祭祀遺跡がならぶ「太陽の道」だった?/安倍晴明は美貌の貴公子だった?/ホツマツタエ(秀真伝)は記紀の原本だった?/かぐや姫は中国からやってきた?/出口王仁三郎は日本の敗戦を予言した?/失われたアークは四国剣山にある?他

 これらをですね、まず「巷説」として、トンデモ本風にそれらしく紹介します。そこだけ読んだ人は、それこそそのトンデモワールドにはまりかねません。そして後半、「真相」として、「巷説」を冷静に批判、否定していきます。
 やはり、あっちとこっち、トンデモ的世界とと学会的世界の両方を知り尽くした原田さんならではの演出ですよね。ある意味、あっちの世界に対して(特に武田崇元氏と古田武彦氏に対して?)かなりの嫌悪感と復讐心(?)を持っているんでしょう。この本全体から、ちょっとそういう臭いもしてきますよ。かと言って、原理主義的な感じはしないんだよなあ。そのあたりの絶妙な立ち位置がいいなあって思います。
 そう。私のトンデモに対する愛情って、プロレスに対するそれとおんなじなんですよ。フィクションだからといって、もちろん排除したくないし、野暮な理屈で否定したくない。そこに実は人間の「真実」や「真理」が読み取れるからです。すべて「事実」しか認めないというのは、なんとも味気ない生き方だと思うんですよね。いつも言うように「コトよりモノ」っていうことです。でも、フィクション自身は人間の脳内の「コト」です。その重層的、複層的な世の中の構造が面白いと、いつも思っているんです。
 この本は、そういう意味でも、いい教科書になりそうです。いや、まずはメディア・リテラシーの教科書として教室で使えそうですね。こういう愛すべきトンデモ以上に、憎むべきウソが世の中には蔓延してますんで。こういう、ツッコミどころ満載なウソは可愛く美しいとさえ思えますよ。

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2008.11.27

『芸能花舞台 伝説の至芸 観世寿夫』 (NHK教育)

1 見の見。むむむ…なんだ、これは。自分が観世寿夫になり、観世寿夫を見ている感覚。吸い込まれているのに、こちら側にいる違和感。それもビデオをブラウン管を通じて観ている自分。ううむ、いったい観世寿夫はどこにいるのだ。そして、自分は…。
 世阿弥の再来とまで言われた天才能楽師、観世寿夫の動く姿を初めて見ました。すごい映像でした。これはもう単純に「能」とは言えないような気さえしてしまいました。土方巽の舞踏に近い。屹立し、踏み、根差し、舞う。録画であっても、テレビであっても、今ここの時間と空間が表現者に支配されている。これはおおげさでなく、本当にそう感じました。おそるべき至芸。
 この番組にも出演し、解説をなさっていた野村四郎さんのもとで勉強している教え子が、ぜひ見なさいと言うので、忘れず録画して観てみたのです。ありがとう、こんなすごいものを紹介してくれて。
 私は能にはそれほど詳しくないし、それほどたくさんの舞台を観ているわけではありませんが、この観世寿夫が稀有の天才だということはわかりました。それは、おそらく、能に限らず、他の舞台芸術にいろいろと触れてきたからだと思います。本当に時々、こういう恐ろしささえ感じる舞台というのがあるんですよね。ただ、美しいとか楽しいとか興奮するとか、そういう次元でなく。
 特に昭和の40年代の表現にはそういうものが多い。たしかに時代性というのもあると思います。当時の舞台と言えば、やはり土方巽や寺山修司らによる、実験的で、前衛的で、そして世界的に高く評価されるものが多い。それは、前衛と言っても、どこか土着的であり、つまり、それは反近代、反西洋というモードで語られるべきものでした。観世寿夫もまた、世阿弥にかえり、現代に世阿弥を連れてきた。研究しつくしてなおそこを突き抜けた。
 今の「アーティスト」たちにそんなエネルギーを持った人がいるでしょうか。残念ながら見当たりません。ただ昔が良かったというノスタルジーではありません。彼らがすごいというのは分かります。たぶん皆分かるでしょう。なら、まずは彼らを「今」に連れて来るというのはどうでしょう。
Tyi しかし、それはある意味で勇気のいることです。彼らは最近までこの世に存在しましたから、特に難しいのかもしれません。生前の彼らを知っている人たちがいますからね。それが一つの壁になりうる。
 じゃあ、観世寿夫がそうしたように、神格化され、伝説化されてしまった古人の所へ向かったらどうでしょうか。ある意味、神や仏にたてつく方が簡単かもしれません。勇気さえあれば。
 いくら古人でも、我々とどこかでつながっているのは確かなのですから、本当は自信を持って連れてきていいのかもしれません。そして、我々は彼らの知らないことをあまりにたくさん知っているのですから(その逆も言えますが)、それを彼らに教え、彼らが「今」ならどうしたか、それを純粋に学べばいいのではないでしょうか。それが、もしかすると、「離見の見」、「物学(ものまね)」、「物狂い」なのかもしれない…そんなことを思いながら、観世寿夫の「俊寛」を見ていました。
 今日紹介されていた映像は次の通りです。

仕舞「海士」1973年放送
能「俊寛」1976年放送
能「井筒」1977年放送

 ちょっと恥じらった、面をつけていない安宅の写真や、ギッシリ書き込まれた勉強ノートなども興味深かったし、白石加代子さんとの「バッコスの信女」でのディオニュソス役の迫力と存在感、すごかったなあ。とても最晩年とは思えなかった。
 四郎さんの解説にあった、寿夫さんの謡における「歌と語りのバランス」「息を引く」というのは、どういうことなのか、今度教え子に聞いてみましょう。
 観世寿夫没後30年。誰か彼のところへ行って連れてきてくれないものでしょうか。彼の死で能は終わったなんて言わないで。
 再放送がありますので、ぜひ皆様もご覧下さい。画像がなぜか乱れていたので、私ももう一度録画をしたいと思います。
 そして、ここのところ棚上げしていた、世阿弥における「モノ」論に、再び手をつけてみようかなと考えています。
 

再放送  土曜日 29日 朝 5時15分~5時59分
再再放送 日曜日 30日 夜 23時30分~24時14分

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2008.11.26

『聴き方革命』 出口光 (徳間書店)

スーパーリスニングならすべてはうまくいく
19862580 れは教師としてもたいへんに実用的な本であり、それ以上に日常をガラッと変える可能性を持った本です。勉強になりました。
 以前、著者の天命の暗号を紹介しました。あの本も私に心の革命を起こしましたね。
 何回か書いていますが、私は出口光さんの曽祖父である出口王仁三郎が大好きでして、本当にいろいろと影響を受けたり、実際にお世話になったりしています。そして、こうして光さんの著書に感動したり、また同じく王仁三郎のひ孫にあたる受験国語界のカリスマ出口汪さんは、私の仕事上の師と言える存在だったりして、全く不思議なご縁があるんですよね。
 さて、この本における「スーパーリスニング」ですが、これはまさに昨日の記事における「個性」と「社会性」につながるものです。つまり、人はそれぞれ4種類の聴き方を持っており、それぞれのバランスがその人のパーソナリティーに大きく影響し、ひいてはその人の人生を決定している、自分や相手がいったいどういう聴き方をしているかを把握することによって、自分の行動や思考、そして他者との関係をより良いものにできるということです。
 四つの聴き方というのをまとめますと、こんな感じです。

 達成的傾聴「勇」
 親和的傾聴「親」
 献身的傾聴「愛」
 評価的傾聴「智」

 ちなみに「勇・親・愛・智」というのは、ある意味王仁三郎が近代に復活させた「一霊四魂」という考え方に則っていますね。四つの魂を「直霊(なおひ)」が統括しているという考え方です。
 心理学を修めた哲学博士である光さんらしいのは、これを西洋の「パーソナリティの五因子論」と重ねている点です。すなわち、「一霊四魂」を次のように対応させているんです。

「勇」荒霊(あらみたま)→外向性
「親」和霊(にぎみたま)→親和性
「愛」幸霊(さちみたま)→感情的安定性
「智」奇霊(くしみたま)→知性
「直霊」→良心

 なるほど、ぴったり当てはまりますね。まあ、人間の本質をきわめていけば、東洋も西洋もないということでしょう。同様に、後半に述べられている「三つの内なる声」では、フロイトの「エス」「自我」「超自我」を、王仁三郎の「正守護神」「副守護神」「本守護神」と対応させ、興味深い考察を展開しています。面白いですね。
 さて、四つの聴き方ですが、まずは自分がどの聴き方が強いかを知ると、自分の今までの人生のいろいろな成功や失敗がそこに大きく依存していたことがわかります。そして、自分の身近な人、仲がいい人でも、苦手な人でもいいので、こちらもちょっと分析してみますと、なるほどと思えることがどんどん出てきます。そうして、自分と他者の聴き方を知ることによって、相手の話もまた違って聞こえてきますし、また、相手によってこちらの話し方もずいぶんと変ってくるわけです。
 結果として、お互いの「個性」を認めて活かし合うという、本来の「社会性」がそこに生まれてくるわけですね。たしかに、こういう融和というか、多様にして安定した様相、光さんは「大和」という表現をしていますが、そういう理想的世界像というのは、出口王仁三郎が唱えた「みろくの世」ということになるかもしれません。
 この本のいいところは、理論に偏らず、実際のシーン(特にビジネスシーン)に即した実例や、実際の鍛練方法が詳細に書かれている点です。この本による意識変革をもって世の中を見れば、全く違った日常の風景が見えてくると思います。
 私が毎日接している生徒たちも、まさに多種多様な聴き方をしていますね。それを意識して、こちらが言葉を選び、表現を選んで話すだけでも、ずいぶんと彼らの人生は変わっていくのかもしれません。教師こそこの本を読むべきなのかもしれませんね。

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2008.11.25

『爆笑問題のニッポンの教養スペシャル 爆笑問題×早稲田大学』 (NHK)

平成の突破力~ニッポンを変えますか?~
20081125_kansou の時と同様、最強は日芸ってことですか(笑)。まあ、ある意味そうだよなあ。
 最近も日芸に行ってる教え子と話す機会があったんですけど、やっぱり異様な突破力を持ってるなと。何しろ人の力を使うのがうまい。人と関わって自分の未知の世界へ飛び込み、未知の自分をどんどん開発してしまう。ある意味「個」に対する執着がないんですよ。
 いや、今回の番組、「突破力」がテーマであったのにもかかわらず、話は「個性」の方に行ってしまってましたね。で、間接的に語られましたけど、やっぱり本当の突破力って、残念ながら「社会性」なんですよね。個を活かすためには、社会への懐柔も必要なのは当然です。というか、「個」の活動の場が「社会」しかないのですから、そのリングのルールに従わねばならないのは当り前です。
 私たちが「個」とか「自己」とか認識している存在は、実は他者と不二なものであり、お釈迦さまが言うとおり、「個」として取り上げてしまうと全て「空」になってしまうことだけは自明ですから、やっぱり昨日までの話じゃないけれど、いかに「個」を捨てて、他律的で社会的な自分を育てていくかといことじゃないでしょうかね。
 そういう意味で、太田が最後に語った、社会に対する「表現」や「伝達」や「芸」こそが、結局「突破力」であり、「個性」だったというオチなのでしょうか。
 また、早稲田のセンセイ方の話は、みんな知ってる通り一遍な話で、あんまり刺激的でなかったのに対し(それぞれもっとしゃべりたかっただろうなあ…)、太田の北野武論は面白かった。これが今回の一番の収穫かなあ。あれだけとっても、「個性」が相対的なものであることがわかります。あっ、田原総一朗はぶっとんでて面白かったか。あれはやっぱり「芸」ですね。そして、実は絶妙なバランス感覚に基づいた「社会性」だと思いました。
 早稲田の学生たちは、東大よりもある意味純粋かなと。それは「痛い」という意味でもありますが、なんというか高校の延長という気もしないでもないし、案外自意識が強く子供っぽいかなとも思いました。もちろん、それがいいところですし、あの大学の魅力だと思いますが。私にとっても、生徒たちにとっても憧れの大学ナンバーワンですからね。
20081125_waseda もう一度「突破力」の話に戻りましょうか。「個性」は実は「社会性」だったというオチは置いておいて、一般的に言われる「個性」は一般的に言われる「社会性」とぶつかることが多く、結果として「突破力」になりえないのが普通です。しかし、学生の誰かも言っていたように、たとえば太田なんかは、「個性」で成功しているとも言えますね。田原総一朗さんもそうです。でも、彼らには「才能」もありました。
 「個性」と「才能」は別のものです。「才能」にもいろいろありますが、特に「突破力」として有用なのは「忍耐力」でしょう。社会との衝突に堪えるのも大変でしょうし、社会に懐柔して「個」を活かすのも辛いでしょうから我慢が必要ですよね。そういう時の「忍耐力」が足りないのがフツーの人たちです(私も)。
 違う言い方をすれば、「個性」を「社会性」にし、「社会性」を「個性」にするだけの基礎体力みたいなものが必要なのです。また、なんだか禅問答みたいになってきましたね。「色即是空・空即是色」だな、こりゃまた(笑)。
 まあ、とにかくこの番組で再び確認したのは、大学というのは面白いところだということです。なんだか洒落っ気のない感想ですけど…。道元さんから学んだことを応用してみますと、大学というのは「モノ→コト(空不異色or空即是色)」の修行の場であり、その後の「大人」としての人生における「仕事(コトを為す)」基礎部分であり、また人生の頂点たる「モノ'」を目指す入り口であり、また、人生後半の愛すべき下り坂のダイナミズムを生む助走みたいなものだなと、そんなふうに思ったのでありました。
 そうしますと、私の出た地方の暗く地味な公立大学は、ちょっと物足りなかった…のかなあ…。

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2008.11.24

習う=忘れる(その3)

1 (昨日の続き)

 元は再び言います。

「習熟するとは忘れることだ」

 そうです、本当に「慣れる」「習う」ということは、忘れること、特に「自己を忘るる」ことなのです。
 自己への執着を捨てること、これは仏教の根幹ですね。しかし、ここで考えたい「自己への執着を捨てる」ということは、単に煩悩を断つための手段ではありません。世間では、方法論としての忘我が語られることが多いのですが、私はもう少し進んで考えたいと思っています。
 一昨日書いたように、「仏道=宇宙=自己」という大前提がありますから、自己を忘れるとは、仏道を、そして宇宙を忘れることです。忘れるということは、最初から知らないのとは違います。一度意識に取り込まれた「コト」を忘れるのです。まさに一昨日書いた「ものにする」ということですね。
 でも、これはとっても難しいことのようです。私たちは大人になり、いろいろなモノを手に入れます。いや、ワタクシ的には「コト」を手に入れると言った方がよろしい。そして、ますます執着が強くなる。手に入れたコトが消えるのも避けたいし、もっと別のコトを欲するようにもなる。そうしてどんどん自己の内部が肥大化していく。はっきり言って収拾がつかなくなるのだと思います。
 ですから、私は、人間はある時期になったら、自分の中のコトを忘れる方向に行くべきだと思うんです。そして、私は今そういう時に立っているような気がするんですね。実際、自分という「モノ」も適度に劣化してきますし、うまく出来てるんですよ。だって、いずれはせっかくものにした「歩くこと」も「しゃべること」もどんどん失っていくわけじゃないですか。まあ、よく言われるように、また生まれた時に戻っていくんです。忘れて成熟していく、成熟して忘れていくんですね。めでたいことです。
 ずいぶん溜め込んだ「コト」もどんどん放出して、また、せっかく「ものにした」モノも再び「コト」になって、そしていずれは手放すことになる。自分の内部だと思っていたコトが、いつのまにか外部のモノになっている。随意が不随意になっていく。
 何かを習得していく過程を「モノ→コト→モノ'」と表現するなら、今度は「モノ'→コト→モノ」という変移が生じるわけですね。
 この「ものにした」ものを手放すというのは決して悪いことではありません。実はこれこそが本当の「ものにする」ということだと、最近思うんです。つまり、道元の言う「忘る」とはここまで来ないと実現できないのだと。
 つまり、「モノ・コト」でもう一度表せば、「モノ→コト→モノ→コト→モノ」ということです。私たちはこうして、外部を内部に取り込んで、そして再び外部に返すのです。それこそが実は「生命」の本質なのではないかと思うのです。
 そうすると、たとえば般若心経の「色不異空・空不異色」「色即是空・空即是色」というのも、理解しやすくなりますね。ワタクシ的解釈では、「空」は「モノ」です。「色」が「コト」にあたります。ですから、うまい具合に並べ替えますと、

「空不異色→色不異空→空即是色→色即是空」

ということになるでしょうか。
 人生80年としますと、私は今まさに空即是色の段階に入ったということでしょう。たしかに、何気なく見ていた近くのものが見えにくくなって、久しぶりに自分の「目」の存在を意識したり、何気なく思い出せていたものがなかなか出てこなく、意識的に脳ミソの引き出しをひっくり返さなくてはならなくなったり…。今までは放っておいた鼻毛も、ちゃんと手入れしないとバカボンのパパみたいになってしまうし、眉毛やパイ毛(笑)もやたらに長く伸びて、その存在を主張するようになってきました。「空」だったものに「色」が再びついてきたんですね。
 そして、あと二十年もしたら、今度はそんな意識すらなくなってしまうのでしょう。鼻毛も眉毛も伸びっぱなし。遠くのものさえ見えなくなるかもしれません。言葉も失うかもしれない。再び本当の「空」に戻るのです。
 しかし、それがまさに宇宙の摂理であり、唯一の真理なのですから、別に心配することはありません。宇宙を忘れて宇宙に帰る。仏道を忘れて仏道に帰る。自己を忘れて自己に帰る。
 今までは私も、ひたすら「空(モノ)」を「色(コト)」に変えるのが人生だと思っていました。そして、「色」が「空」になるのは忌むべきことだと思っていました。でも、考えてみれば、「色」を自分の内部に充満させている「大人」の時期、働き盛りの「大人」こそが、一番仏道(宇宙・自己)に反することをしてるじゃありませんか。今日も盛んに報道されていた元厚生事務次官殺傷事件一つとってもわかります。利己的で、短絡的に人の命を奪い、因果応報の教えを悪用し…(彼の語る「言葉」には一理ありますけれど…あくまで「言葉」には)。
 私がこの歳になって、こうして自分の脳ミソの中の言葉を無闇矢鱈に放出しているのも、実は後半の「空即是色→色即是空」の実践なのかもしれませんね。そう考えると、なんとなく安心もします。ようやく人生の本質の段階に入ったのだなと。
 そして、上の「正法眼蔵」の表紙にある「色は是れ色にして、空は是れ空なり」の意味もまた、少しは自分のものになりつつあると感じる、今日この頃なのでした。
 今回は長々と失礼いたしました。

 (終わり)

Amazon 現代文訳 正法眼蔵 1

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2008.11.23

習う=忘れる(その2)

2 (昨日の続き)

 物は変化します。そして必ず雲散霧消します。それを私たちは、劣化や老化と呼んで忌み嫌います。ですから、人間の文明はそうした摂理に対抗するように進んできました。すなわち、エントロピーの増大をいかに遅らせるかに終始してきました。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、これは「コト化」そのものです。自分たちの思いどおりにしようとすること、それはまさに固定化することです。工業技術と情報技術とで、私たちは様々なエントロピー増大則に対抗しようとしてきました。本来朽ちるべきもの、死ぬべきもの、忘れ去られるべきものを、なんとかこの世に長くとどめようとしてきたわけです。特に西洋文明はそんな感じですね。
 私は、今の世の様々な問題は、単純にそうした世の摂理に背く、いわばマイナスのエネルギーの蓄積によるものだと思っています。いや、歴史を顧みて、ある時期より現在の方がよっぽど平和ではないかとおっしゃる方がいてもおかしくはないと思います。しかし、それはあくまで塗装の上塗りのようなもので、表面的には新しく美しいものに見えても、その奥は、実際のところかなり腐食や錆びが進んでいるような気がするのです。
 こうした人類の所業は、一人の人間の一生にあてはめて考えてみますと解りやすいと思います。
 私たちはこの世にオギャーと生まれて、そうして何年か経って「ものごころ」がつきます。この「もの」とはおそらく「もののあはれ」の「もの」のことでしょう。つまり「ものごころつく」とは、世の中が自分の思い通りにならないということに気づくということだと思います。
 そして、その「あはれ」の克服に努めるようになっていくんですね。学校で勉強したりするのも、その一つの手段でしょうから、実はそういう「コト化」の努力をせよという、常識というか(エセ)倫理観のようなものは、社会が、大人が用意しているものなんです。科学技術もそう、政治もそう、経済のシステムもそう。
 それですっかり私たちは洗脳されて立派な「大人」になっていきます。一生懸命働いて、一生懸命カネを稼いで、一生懸命自己を確立して、一生懸命ムダ使いして、一生懸命他者の命を犠牲にして、一生懸命アンチエイジングして、あくせく生きて、そして結局死んでいきます。
 私たちは個人レベルでも、とにかく自分の思い通りになるように物事を進めていこうとします。もちろん、いろいろな妥協はありますが、基本的にベクトルは自己実現の方向に向かって伸びています。しかし、そうしているうちになんだか疲れていることに気づきませんか?
 私たち人間も、お金の力で、技術の力で、とにかくどんどん上塗りしていますが、中身は自然に衰えていきます。人間にとっての中身は、すなわち心でありましょう。
 今日もなんとも不可解なニュースが飛び込んできましたね。元厚生事務次官殺傷の事件で男が出頭したと。やはり私の世代の男でした。日本が「もののあはれ」という諦念を捨てて経済成長一直線に走り続けた時代に成長した世代の産物です。とりあえずの理由は「昔ペットを処分されたから」。まさに「もののあはれ」に対処する力や智恵を失っている人間らしい言葉です。「モノ」の本質である、無常性や不随意性や他律性を諦観していない感じがします。
 非常にむなしいですね。
 そういう観点からしますと、私たちは「生きる」ということ、「生かされている」ということ、それから「死ぬ」ということに全然慣れていないとも言えますね。本当の意味でそれらを習っていないのです。
 今日は勤労感謝の日です。私は学校で仕事です。世の中では、勤労は美徳だということになっていますね。一生懸命働いて、何かを生産し、そしてお金を得て何かを消費し、個人にとっても、自治体にとっても、国にとっても、世界にとっても、とにかく経済が成長することが善しとされる。みんながそう思い込んでいます。
 私は、そろそろ世界も成長期を終え、成熟期になるべきだと思うんですが。

 (その3に続きます)

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2008.11.22

習う=忘れる(その1)

1 道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり(正法眼蔵「現成公按」)。
 道元禅師のあまりに有名であまりに深い言葉です。私たちはいろいろなシーンでいろいろな意味でこの言葉を味わわなければなりません。
 今日はちょっとこの言葉について考えることがあったので、記録しておきたいと思います。以下はあくまで私の解釈ですので、その点ご了解ください。私は専門家ではありませんから…。
 仏道とは世の摂理を知ることに相違ありません。すなわち仏道という言葉には、世の学習や習い事のみならず、私たちが日々習得していく全ての知識や技術、仕事や知恵など、本当に生きていくこと全てが含まれると言っていいのです。
 仏教の教えでは、宇宙と自己は全くの等価です。自己は全ての他者によって成り立っているし、宇宙の存在もまた私という存在に依存しているからです。どちらが全体で、どちらが一部ということはありません。ですから、「仏道を習ふ=自己を習ふ」というのは、実は単純な公式なんですね。
 では、次の等式「自己を習ふ=自己を忘る」とは、どういうことでしょう。
 仏教の教えはスケールを変えて考えるとわかりやすいものです。ここでは、一気にスケールを縮小して卑近な例で考えましょうか。
 たとえば私がヴァイオリンを弾けるようになった過程を思い出してみます。もちろん最初はまったく思い通りにならないものでした。一生懸命腕や手首や指をコントロールしようとするのですが、なかなかうまくいきません。しかし、3年くらいしますとそれなりになってきます。教本を使ったり、先生や先輩に教わったりしながら、次第に慣れていったのでしょう。もちろん今でも思い通りにならないことだらけですが、それでも、ずいぶんとできることも増えました。そのできることというのは、すなわち無意識にできることなのです。つまり、コントロールすることを「忘れ」ていることなんですね。
 こういうことは、言語や、あるいは車の運転、いや歩くことなどの習得にも共通のことであると、誰しもがすぐに想像できます。
 つまり、私たちの「習う」という行為は、「慣れる」という現象であり、それは意識から無意識への変容のプロセスのことだとも言えるのです。
 そうしますと、「自己を習ふ=自己を忘る」という等式も案外明快なものであることがわかりますね。そして、最初の仏教的公理「仏道=宇宙(世の全て)」=自己」を代入するなら、そこにまた様々な等式が成り立つことに気づきます。
 これをまた卑近な方向に持っていきまして、私の「モノ・コト論」で説明しますと、「習ふ=忘る」とは「モノ→コト→モノ」という流れになります。つまり、「自己の外部(無意識)→自己の内部(意識)→自己の外部(無意識)」ということです。
 まさに「ものにする」とはこういうことで、ある行為を無意識のうちに成し遂げることができるようになることです。
 逆に言えば、何ごとも考えているうちはダメだということでしょうか。禅ではそのことを強く戒めますよね。不立文字、教外別伝。
 宇宙の摂理を知るにも、私たちは最終的には理屈から抜け出さねばならないのです。本来我々は宇宙と等価であり、その摂理に自然に則って生きているべきでした。しかし、人間は進化してしまったのか、退化してしまったのか、本来ものにしていたはずのことを忘れてしまい、それで一生懸命に勉強したり修行したりして、それを取り戻そうとしているのです。
 いや、ほとんどの人間は、そんなことを考えもせずに、宇宙の摂理に反して暴走してますかね。いちおうこれも仏教的視点と「モノ・コト論」ですが、ちょっと視点を変えて我々人間の愚かさを考察してみましょうか。
 (その2に続きます)

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2008.11.21

モンスターのお話

Pm 変わらずウチの娘たちのポケモン熱は冷めません。ポケモンの、作品としてのモンスターぶりについてはこちらに書いたとおりです。子どもに世の本質を見せないところが、あの作品の人気の秘密であり、長続きする秘訣であると書いたような気がします。そうですね、モノ心つかない子どもたちにとっては、ポケットモンスターこそが信頼すべき友人であり、現実の人間はまだまだモンスターにしか見えないのではないでしょうか。
 monsterの語源を遡ると、ラテン語のmonēreに行き当たります。monēreは警告するという意味だそうです。やはりかの国でもmon-という音は、日本語の「モノ」と同様、不随意、想定外を表したのでしょうか。調べてみる価値はありますね。
 ところで、ポケモンならぬチリモン御存知でしょうか。今ひそかに子どもたちに人気だとか。チリモンとは「チリメンモンスター」の略で、「ちりめんじゃこの中に紛れ込んでいる小さなエビやカニ、タコ、ヒトデなど」のこと。和歌山県のカネ上さんという水産加工業社が紹介して評判になったんだそうです。なるほど、ちりめんじゃこやシラスの釜揚げなんかに、時々小さなタコとか入ってて、ラッキーと思うことがありますね。ふつうはあれは除去するんだそうです。それをあえてそのまま出荷して、モンスター探しを楽しんでもらうというコンセプトなんですね。面白い。
 やはり、このモンスターたちも、本体のちりめんじゃこからすると、外部、異物ですよね。それが興味をひくというのは、やはり私たちが本体(標準・日常)だけでは飽き足らないものであるということを証明していますね。平坦で均質的な日常に、ちょっとした変化と刺激を求めるのは、子どもも大人も一緒です。
 でも、やっぱり非日常が日常を侵食するようでは困りますね。私のような仕事をしていると、様々なモンスターに出会います。まあ世間的に一番有名なのは、モンスター・ペアレントでしょうか。こんなひどい例もありましたっけ。でも、残念ながら(?)私の周囲にはほとんどいないんですよ。いや、個性的で楽しいある意味でのモンスターはたくさんいますけど、皆さん愛すべき方々です。まあ、ポケモンみたいな感じ?なんて言ったら失礼ですね(笑)。とすると、実は私はポケモンマスターとか、あるいはブリーダーとか。馴化させる技術を持っているのかも…なんてね。
 あ、そうそう、このモンスター・ペアレントという言葉、かの向山洋一が命名したんですよねえ。私からしますと、彼こそが忌むべきモンスターでした。体でっかいし。そして、隣の教室では、彼に洗脳された多くのモンスター・スチューデントが製造されていましたっけ(笑)。今や教育界の神扱いされてますけど、まあ、日本では怪物と神の境界線はかなり曖昧ですからね。それはそれでいいか。
 ところで、モンスター・ペアレントは日本独特の種かといいますと、そうでもないらしい。アメリカなんかでも、子ども離れできない過保護な親が増えていて、特に大学などでその対応に頭を悩ませているらしい。で、そういう親を、英語ではヘリコプター・ペアレントっていうんだそうです。何かあればすぐに飛んでくる。常に子どもの上空を旋回していて、何かあると急降下してくる。そんなイメージなんでしょうか。
 ところで、最近、ウチもモンスター・ペアレントだと思われているフシがあるんです。いや、ウチの下の娘が通っている村の保育所なんですけどね、とっても平和で素朴で素晴らしいんですけど、最近けっこうクレーマーな親が多くて大変らしいんです。
 世のご多分にもれず、学芸会とか運動会の演目の内容や子どものポジションに文句を言ったりする親が増えてきたと。運動会ではやりの「羞恥心」ネタをやったり、あるいは発表会で「うる星やつら」をやったり、あるいはビデオ鑑賞の時間に「天才バカボン」を観たりすると、必ず文句を言う親が出てくる。もっと高尚なことをやれ!と(笑)。
 ウチなんか、子どもの教育は「うる星」と「バカボン」と「ドリフ」だけにまかせているので、全然OKなんですけどね。もっと低俗にして本質的、ゲージツ的なものをやってもらいたいくらいです。で、こういうことをヘーキでほかの親たちに言うと、みんな呆れるというか、苦笑するというか、引くというか。ちなみに、保育所にバカボンのDVDを持って行ったのはウチです(笑)。ま、たしかに子どもたちの口調が全員「バカボンのパパ」になっちゃったらしいから、問題と言えば問題ですが。で、ウチこそモンスターということになっている(たしにか)。
 ま、そんなわけで、世の中、モンスター・ベアレントだけでなく、モンスター・ペイシェントとか、モンスター・コンシューマー(クレーマー)とか、モンスター・ドクターとか、モンスター・ティーチャーとか、モンスター・ポリティシャンとか、モンスター・プレジデントとか…つまり、あらゆる分野にモンスターが出現していまして、いったいどっちが普通なのか、どっちが日常でどっちが非日常なのか、まったく分からない状況になっていますね。いや、ある意味この世にはモンスターしか生息していなくて、その覇権争いが起きているだけかもしれませんね。冷静に考えれば、私もかなりなモンスター・ティーチャーですわ。もしかして、あなたもモンスターじゃないですか?というか、自分がモンスターでないと言い切れますでしょうか。

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2008.11.20

エリック・マーティン 『MR.VOCALIST』

51jr9njzg5l_sl500_aa240_ わぁぁ!こりゃあすごい。発売前ですが、おススメしておきましょう。時代はついにここまで来たか…。
 こんなアルバムが出るなんて、それこそ10年前に誰か想像したでしょうか。あのMR. BIGのヴォーカリスト、エリック・マーティンが、なんと邦楽のカバーを出します。それも全曲女性バラード。たとえレコード会社の企画モノだとしても、このクオリティーでここまでやれば脱帽です。そして新たなる発見あり。
 先日J-POPに苦言を呈するような記事を書きました。演歌の逆襲~ヒット連発の秘密~というやつです。たしかに、Jポップが日本の音楽界与えた負の影響もありますよね。都倉さんが指摘したとおりです。しかし、一方で、いかにも日本(J)らしい方法で洋楽と邦楽を混血させ、独自の世界を開いていったことも事実です。
 それを、たとえば、このエリックのアルバムでもギターを弾いているマーティー・フリードマン(元メガデス)がえらく高く評価して、ある意味逆輸入してくれたりしましたっけ。おかげで、ああ、日本の大衆音楽もようやく世界に認められたのかとも思いました。でも、まあそれはマーティーという異常な日本オタク(失礼)だからこそとも言えるわけですね。実際、彼が出したアルバム『ROCK FUJIYAMA』はJ-POPのカバーではなく、洋楽の名曲のカバーでした。やっぱりちょっと難しいのかな、とその時は思いましたが…。
 いやあ、まさかエリック・マーティンがこういうことやるとはなあ。マーティーも一枚かんでますね、これはぜったい。あと、エリックと言えばB'zの松本さんとTMGというプロジェクトをやってましたから、そんな頃に日本の音楽に素で惚れたのかもしれませんね。これが世界で売れたら、ちょっとホントに時代が変わるかもしれませんよ。いや、単純にMR. BIGやエリックのファンは世界に数千万人いるでしょうから、そんな人たちにJポップのバラードが聴かれると思うだけでもちょっとワクワクしますよ。
 曲目を紹介しましょう。

1.PRIDE (リード・トラック)
作詞・作曲:布袋寅泰 English Lyric: Benny Driggs from translation Lica Cecato
(オリジナル=1996年)
2. ハナミズキ 
作詞:一青 窈 作曲:マシコタツロウ English Lyric: Suzi Kim & Hayley Westenra
(オリジナル=2004年)
3.あなたのキスを数えましょう
作詞:Ren Takayanagi 作曲:Hideya Nakazaki English Lyric: Gary Perlman
(オリジナル=2000年)
4. Everything
作詞:MISIA 作曲:松本俊明 English Lyric: Melinda Torrance
(オリジナル=2000年)
5. Precious
作詞:Kei Noguchi 作曲:Hayato Tanaka English Lyric: Seiji Motoyama
(オリジナル=2006年)ギターで、マーティー・フリードマン参加。
6.Time Goes By
作詞・作曲:五十嵐充 English Lyric: Amy Sky
(オリジナル=1998年)
7. M
作詞:富田京子 作曲:奥居香 English Lyric: Suzi Kim
(オリジナル=1989年=MR.BIG結成の年)
8.I Believe
作詞:絢香 作曲:西尾芳彦・絢香 English Lyric:Tim Jensen
(オリジナル=2006年)
9.雪の華
作詞:Satomi 作曲:松本良喜 English Lyric: Suzi Kim & Hayley Westenra
(オリジナル=2003年)
10. The Voice 〜“Jupiter” English Version〜
作詞:Andreas Carlsson 作曲:G.Holst
(オリジナル=2006年(日本語versionは2003年))
11. LOVE LOVE LOVE -ENGLISH VERSION-
作詞:MIWA YOSHIDA(Lyrical Assistance: RON SEXSMITH) 作曲: MASATO NAKAMURA
(オリジナル=2004年(日本語versionは1995年))

 うむ。たしかにちょっと懐かしいぞ。私は当時積極的にこれらを聴いていたわけではありませんが、たしかに名曲ぞろいだ。
 と、ここまできますと、皆さん当然ながら最近ヒットした徳永秀明さんの女性バラードカバー集を思い起こすことでしょう。私、あれはちょっとダメだったんですよ。あまりにフェミニンでね。でも、こちらは男のロックしてますよ。次のサイトで全曲試聴できますから、ぜひ聴いてみてください。

MR.VOCALIST 特設サイト

 どうですか。けっこういいでしょう。アレンジがロックでよろしい。ロック・バラードになることで、曲に新しい命が吹き込まれていますね。90年代洋楽のようでもあり、しかしJ-POPでもあり。懐かく、そして新しい。感動すると同時に、ちょっと笑えるし。不思議なクロスオーバーになっています。単純にエリックもうまいですしね。
 これは日本ではウケるでしょうね。さて、世界ではどうでしょう。非常に楽しみであります。

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2008.11.19

『新 入試評論文読解のキーワード300』 大前誠司 (明治書院)

1 試評論文を教えていて難しいのは、その本文が高校では習わない分野に及ぶことです。哲学、芸術学、美学、宗教学、言語学、量子力学…。これは大きな問題です。どの教科でも習わないし、かといってテレビでしょっちゅう取り上げられるわけでもない。となると、これはもう生徒は自分で勉強するしかありません。
 私はこれらの分野をなぜか共通して好きなので、本当は授業で細かく教えたいんですけどね、だいたい高校生には抽象的すぎてワケわからん世界でしょうし、あんまり盛り上がらないんですよ。
 でも、生徒たちも3年生になってこの時期になると、さすがに避けているわけにはいかない。それにちょっとして大学に入ったら、こういう抽象的なこととつきあわなくちゃいけないわけですからね。
 で、こういう類の本が役に立ちます。今までも何冊か紹介しましたね。この大前さんの本もなかなかよろしい。勉強しやすい。旧版にもお世話になりましたが、こちら新版も生徒にすすめたい内容になっています。
 取り上げられている言葉はほとんど外来語。つまり漢語とカタカナ語になります。ほとんど一般人の日常では使われない用語ばかりですね。それもある意味20世紀の遺物的な言葉がたくさんあります。ま、入試問題自体、まるで昭和ノスタルジー映画のような風情がありますからね。いまだにソシュールとかしょっちゅう登場しますから(笑)。とても最新とは言えません。
 ただ、私たち大人も、そのあたりの20世紀的「知」にけっこう疎いじゃないですか。もちろん私も。仕事柄、こういう機会があるので、意識して勉強するけれど、ま、普通のお仕事してたら、こんな身にも金にもならないような言語ゲームには参加しないでしょうね。
 ところで、この本に「〈もの〉が先か? 〈こと〉が先か?」というコラムがあります。これは私の「モノ・コト論」とは異なる、どちらかというと一般的な論です。簡単にまとめるとこんな感じです。

『〈こと〉とは、〈もの〉と〈もの〉がかかわることをいう。〈こと〉よりも〈もの〉が先にあるように思えるが、実は逆。この世界は〈こと〉の世界である。〈もの〉はそれを分節することで生まれたもので、〈もの〉世界は実像ではなく仮象である』

 うむむ、これもまた、20世紀的哲学ですな。フランスの構造主義的言語学やら記号論やら、廣松渉、和辻哲郎あたりの遺物ですね。
 いつも書いているとおり、私はどっちかというと逆の発想です。世の本質や存在の本質は「モノ」であって、「コト」こそが人間の脳内の営為であり、ある意味では分節の結果だということです。自己の外部は全て「もの」であり、内部が「こと」だと。
 あっそうそう、こういう私の「モノ・コト論」が21世紀的な、とっても先鋭的なものなのかというと、実はそんなことはないんですよ。なんと19世紀に先達がいるんです。すっごい大人物です。南方熊楠です!
 彼と私の「モノ・コト論」はけっこう近い。ちょっと違うけれども、基本はいっしょです。正直、私にとっての同志は南方熊楠しかいません。いや、なんとなくですけど、南方熊楠っていうところが嬉しかった。ほんのちょっとでも、彼と同じ発想をしていたといのが、なんとも嬉しいじゃないですか。
 その熊楠の「モノ・コト論」を紹介したのが、中沢新一の「森のバロック」でした。今春の早稲田大学文化構想学部の入試にその部分が出ていて、ちょっとびっくりしたのを思い出します。ここでは、わかりやすくするため、熊楠が土宜法竜に書いた書簡ではなく、中沢新一の言葉で、いや、早稲田大学の入試の選択肢で紹介しましょう。

問八 次の文は、いずれもAの文章(注…中沢新一の文)中で熊楠の主張として述べられている内容である。このうち、Bの文章(注…熊楠の法竜宛書簡)中では述べられていないものを一つ選び、その記号の記入欄にマークせよ。

 イ 事は心と物があいまじわる境界面のようなところにあらわれる。
 ロ いまの学問にいちばん欠けているのは、事についての洞察だ。
 ハ 人の心に悪い考えがおこったとしても、その考えが物界と出会わなければ、将来に報いをつくりだすとはかぎらない。
 ニ 心界におこる動きが、それとは異質な物界に出会ったとき、そこに事がつくりだされる。
 ホ 心界から独立した純粋な物界などというものは存在できない。

 ちなみに答えは…えっと、えっと、たぶんホです(笑)。実はここのところ、すなわち、純粋な物界はないというのが、私にとっても不適切な表現です。こういう発想って、いかにも記号論的、あるいは量子論的じゃないですか。もっと言えば、いかにも西欧的というか、キリスト教的というか。あと、ロについてもちょっと異論を唱えたいかな。
 ま、そのへんについては、死ぬまでには自説をまとめるつもりですから、気長にお待ちください(って誰も待ってないか)。
 なんか話がそれてしまいましたが、いずれにしても、こういう参考書は、受験生のためだけでなく、大人の現実逃避のためにも有用だということです。

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2008.11.18

『私の源氏物語 ~千年語り継がれたロマン~』 (NHK ETV特集)

1 曜日に録画してあったものを観ました。
 結論から言いますと、この前、『源氏物語 一千年の旅~2500枚の源氏絵の謎~』の記事の最後に書いた通り、「天皇家でもこんなんだし、いいか、我々小市民も」と「人間の心は千年やそこらじゃ変わらない」ってことじゃないでしょうかね。
 いろいろな方のいろいろな語りがあって、田辺聖子さんが言うように大いに盛り上がる物語であると。なにしろ、皇室スキャンダルですから。だから、最近は悪く言われる、あの時代の源氏不敬論も、実はごもっともな語りなんですよね。あんまり美化、神聖化しない方がいい。
 その点、林真理子さんの語りにはちょっとうなずかれるところがありました。まず、「王子様願望」ですね。私がよく言っている、女性の得意な「ゆかし→をかし」的感性を刺激するんですよね。で、最後は「もののあはれ」に行き着く。林さんも紹介してましたが、「更級日記」はその流れの典型です。
 あと、面白かったのは、六条御息所から見た夕顔。なるほど、夕顔はいい女だがイヤな女です。男には好かれるけど、女には思いっきり嫌われると。男からするといい女だけど、女からすると最悪な女だと。林さん曰く、「本命がいるのに、すぐ他の男になびく。なんだか思わせぶりで男を惹きつけるし」。なかなかの「悪女」であると。だから、案外まっすぐな六条御息所は夕顔を許せなかった。よ〜くわかります。
 あと、そうですねえ、面白い語り手だったのは、清水義範さんでしょうか。彼が言う、「地の文が敬語で書かれているのが珍しくすごい」というのは、なるほど面白い解釈です。
 そう言えば、私の無手勝流源氏物語も敬語を正確に訳すことを心がけていました。そして、全体に谷崎のように「です・ます体」で書いています。やっぱりあの本文の雰囲気、宮中の女房たちの「物語…うわさ話」の雰囲気を出すには、当時の「話し言葉」の雰囲気を出さねばなりません。これは絶対です。
2 ところで、今回はこの物語の一つのクライマックスである「源氏と藤壷の密通」にこだわった内容でした。いろいろな訳、あるいはマンガなどが紹介されてました。まあ、そうですね。あそこは一番興味あるところでしょう、誰しもが。
 面白かったのは、それらを朗読している高橋美鈴アナです。いや、面白がっちゃいけないんでしょうけど、なにしろ内容が内容のシーンですから、なんとなくね。特にケータイ小説版や、2ちゃんねる版の朗読はいけてました(ドキドキ)。
 ところで、この問題の逢瀬のシーン、私は次のように訳しています。

 王命婦はどのような一計を案じたのでしょうか、非常な無理をして藤壷の宮とお逢い申している間さえ、現実とは思われないのは、なんとも辛いことではありませんか。宮も、思いもしなかったあの夜の出来事をお思い出しになること、それだけでも一生の悩みであるのに、せめてそれだけで終わりにしなければと深く決心されていたにもかかわらず、再びこのような逢瀬を遂げるにいたってしまう、そんな自分自身がとても情けなく感じられるのでした。源氏は、宮が普通でないご様子でありながら、離れたくないほどにかわいらしく、しかし一方では他人行儀なところもあり、奥ゆかしく気品のあるご態度などが、やはり普通の人とは似ていらっしゃらないのを、
「どうして、この方には欠点というものが少しもお混じりにならなかったのだろう」
と、ふと辛いほどまでにお思いになるのでした。いったいこんな束の間の逢瀬で、どのようなことを申し上げきれるというのでしょうか。二人は鞍馬の山にでも泊まりたいというような様子でしたが、あいにくの短夜で、とても思い通りにはなりません。それは、逢わないでいるよりもかえって辛い逢瀬でありました。

 うむ、まあまあですな。悪くないと思います(笑)。でも、この前も書きましたけれど、ホントは全部訳し直したいんです。私の「モノ・コト論」に従ってね。実はここの部分にも、重要な「もの」が出てくるんです。

 宮も、あさましかりしを思し出づるだに、世とともの御もの思ひなるを、さてだにやみなむと深う思したるに、いと憂くて、いみじき御気色なるものから…

 この部分の「もの思ひ」を私も、その他の偉い人たちもせいぜい「悩み」程度に訳してるんですよね。いつも言うように「もの」は「外部・不随意」を表す言葉ですから、「もの思ひ」は単純に「悩み」じゃだめなんですよ。思い通りにならないことを思うんです。特にここでの「世」は男女の仲を直接指すものと考えられますので、一生の悩みなんていう軽いものではなく、男女の間のすれ違いや矛盾、嫉妬心や妄想、その他いろいろな「思ひ」がこめられているわけです。さて、なんと訳そうか。
 それから、引用文の最後、「ものから」という表現もまた、そういう「もの」が持つニュアンスをちゃんと訳さないといけない。それも今勉強中です。いずれ、改訂版を出します(いつのことになるやら)。
 とにかく、この前書いたように、死ぬまでに全文訳をしたいですね。そうすればさすがに何か得るものがあるでしょう。

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2008.11.17

プロレス・格闘技系雑誌4冊

1 薦入試の指導が一段落したのと、大晦日の桜庭vs田村がいちおう決まったのと、元WWEのチャンピオン、ブロック・レスナーがUFCのチャンピオンになったということを祝し、たまっていたプロレス&格闘技の雑誌をまとめ読みしました。
 推薦入試の小論文とか面接の指導をしていますと、こういう勉強もぜったい必要だなと思うのです。ただ目前の問題をテクニックによってサブミットしていくだけでなく、他者から学び、自己を変革させ、最終的に調和していく勉強も大切だなと。あるいは、国語の勉強における、受験対策と文学的な授業との関係にも言えるかな。両方必要です。受験テクニックは実は基礎中の基礎です。そこをベースにして文学的創造や鑑賞をすべきです。そしてこれは、総合格闘技とプロレスの関係にも言えるんですよ。
 え〜と、読んだのは「Gスピリッツ vol.9」と「紙のプロレス(kamipro)128」と「格闘技通信12月号」と「昭和プロレス!名勝負列伝」です。うむ、濃いな。
 アメリカの総合格闘技(MMA)の世界では、プロレスのカリスマ・チャンピオンが最強となりました。非常にうらやましいことです。御存知のようにアメリカ最大のプロレス団体WWEは、八百長を超えたエンターテインメントの様式を完成させ、見事に総合格闘技との差別化を図ることに成功しました。そして、そのエンターテインメントの世界での王者が、スポーツ(とあえて言いましょう)の世界でも頂点に立ちました。つまり、両者が非常にうまい具合に格闘界の両輪になっているんですね。
2 これはうらやましいことです。私の理想の格闘家観は、ビル・ロビンソンに代表されるような、ガチ(シュート)も最強だが、ショー(ワーク)的にも最強というものです。つまり、ものすごく簡単に乱暴にまとめちゃいますと、めっちゃ強いしいつでも誰でも殺せるんだけど、無闇に人をあやめたりしない、という武士なんです。
 武士という意味では、彼もまたアメリカ人ですけど、世界最強のオタク、青い目のサムライジョシュ・バーネットくらいかな。今、日本の格闘技界で輝いているのは。皮肉なことです。
 ま、動物的な強さだけでなく、人間としての道義心というか、賢さというか、敵をも愛する心というか、そういう精神性をも持ち備えていなければならないということですね。
 だから本当は、このブログでよく私が使う論法のように、プロレスと総合を対極のようにとらえ、やれどっちがいいとか、どっちは許せないとか、そんなのは間違いなんですよ。本当は同じ直線上にあっていい、いや、そうあるべきものですから。
 しかし、私が常にその間違いを犯してまで苦言を呈するのは、やはり日本の両世界が互いに尊敬の念を持っていないと思われるからです。いや、尊敬できるような状況にないと言った方が正確でしょう。
 今回、これら4冊の本を読んでわかったのは、昔はちゃんと一本の線上に両者が共存していたということです。今回のGスピリッツは全日本プロレスの特集でした。かつてジャイアント馬場さんは、総合格闘技ブームの走りの頃、「ああいうものも全部含んだのがプロレスだ」と言って泰然自若としていました。これは、どうも本当だったようです。あの頃は私はまだ未熟だったし、プロレス界自体に物語性が色濃く残っていて、実態があまりリアルに伝わってこなかったので、よくわかっていませんでしたが、こうして当時の所属レスラーの回想を読みますと、なるほどそうだったのか、と大いに納得できるのでした。
 まあ、これもかなり乱暴なまとめ方で、異論も出るかもしれませんが、あえてわかりやすく書きましょう。つまり、現在の総合の元になった真剣な極め合いは、プロレスの道場の練習や、実際の興行の第1試合から第3試合くらいまでに行われていたんだということです。そこを通って、そこを卒業していわゆるプロレスを身につけていったと。
3 ロビンソンも語っていますが、プロレスの試合の序盤で、相手の力量を計るために互いにシュートを仕掛けるんですね。で、極める寸前までやって、相手の技術力を見切ってですね、そこからそれに見合ったプロレス的世界を展開していく。これは当然自分の身を守るためでもありますし、相手にケガをさせないためでもあるし、相手を立てたり、成長させたりするためでもあります。特に初めての相手とやる時は、そうした探り合いをしなければいけません。つまり相手が道場でどれだけ練習しているかを知るのが大切というわけです。
 そうすると、いわゆるUWF系に走ったプロレスラーたちはですね、これもちょっと失礼かもしれませんが、やっぱりちょっと間違った方向に行ってしまったと思うんですね。いや、本当に強いのは俺なんだとか、あんな茶番はやってられないとか、そういう気持ちは当然わかりますが、やはりプロとして、お客さんありきの仕事として、あるいは自分が長い間身を置く職場として考えてた時に、彼らの判断はちょっと無粋だったかなと思うんです。
 もちろん、結果としてはプロレス界に新風を吹き込み、そして現在の総合格闘技ブームを作り、そして他の格闘技ジャンルの選手たちの活躍の場も作ったわけですから、まあ歴史の必然だったと言えばそれまでなんですがね。
 ただ、日本の場合は基本それらが両極化してしまって、健全な交流や活かし合いができなくなってしまった。今や、総合はできるけどプロレスはできない人たち(つまり、プロレス的受け身やプロレス的試合の組立て、プロレス的パフォーマンスができない人たち)と、プロレスはできるけど基礎的なグラップリングすらできない人たちが増えてしまった。
4 だから、総合格闘技の試合は、まるで昔のプロレスの前座試合みたいな地味な動きに終始し、お客さん不在の自己中心的なものになってしまっているし、プロレスの試合は、前座からピョンピョン飛んで跳ねてという試合ばかりになってしまう。両方とも実に味気ないものです。
 まあ、今やってる実につまらない相撲にも言えることですよね。とても観る気になりません。ついでに言えば、音楽の世界もそんな感じです。クラシック界もそうですし、この前の記事じゃないけど、J-POPの世界なんかひどいもんです。もっと皆さん、基礎をしっかりやった上で、自己中心的でないより高度な次元を目指しましょう!…って、お前に言われたくないよ!という声があちこちから聞こえますな(笑)。
 というわけで、なんか雑誌の内容そっちのけになってしまいしたが、結局全体としてそういう流れがよくわかったということですよ。
 最後にそれぞれの雑誌で心に残った記事を二つずつ書いておきましょうか。
「Gスピリッツ」…ザ・グレート・カブキの各選手評(特にジャンボ鶴田への批判的評)&後半のプロレスリングの歴史に関する論文
「kamipro」…桜庭和志と青木真也の対談&「PRIDEはプロレスを殺したのか?」
「格闘技通信」…桜庭和志と高山善廣の対談&月刊秘伝の広告(!)
「昭和プロレス!」…「アントニオ猪木×ビル・ロビンソン」「ブルーザー・ブロディー×ジャンボ鶴田」
 最後に、やっぱりプロ格闘技には「夢」が必要だ。永遠なる夢…それは私にとってはジャンボ鶴田です。生前もついに一度も本気を出さなかった鶴田。カブキが苦言するように、彼は練習も今一つ、試合も今一つ。もし、そんな鶴田が本気(マジ)で格闘技をやったら、どんだけ強かったのか。ちょっとひねくれた夢だけれど、そんな叶わぬ夢もまたオツなものです。
 夢と言えば、桜庭和志vs田村潔司。ある意味プロレスを知りながらプロレスを捨てたプロレスラー二人がどういう結論を出すのか。こちらの夢は今年の大晦日に現実になります。

Amazon Gスピリッツ Vol.9 kamipro No.128 格闘技通信 2008年 12月号 昭和プロレス!名勝負列伝

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2008.11.16

『フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち』 (東京都美術館)

1 日は日欧バロック三昧とでも言えましょうか。実に面白い一日でした。
 まず、朝早く富士山を出発しまして、武蔵境に車を置いて電車で上野へ向かいました。上野には、私に運命を変えられた(?)教え子二人が待っていました。二人とも才能あふれる芸術家(芸能人)の卵です。
 3人でまずはフェルメール展を観覧。持つべきものは教え子ですなあ。開場前からものすごい入場者の列ができていたんですが、私はある正当な理由によって(決して裏口からとかではありませんよ)、無料ですんなり入ることができました。ありがたや。
 この展覧会の事情に詳しい一人の教え子によりますと、とにかくあのTBSの番組以来、とんでもなく人が増えたとのこと。さらに、あの番組を観て、「青いターバンの少女」や「牛乳を注ぐ女」や「絵画芸術」なんかがあると思って来場する人がずいぶんらしい。それである意味がっかりして帰って行くとか(笑)。いけませんねえ。
 まず、感想の最初にこのことを言っておきましょう。東京都美術館は渋すぎる。せっかくのフェルメールの魅力が半減です。もともとあの建物の構造はいただけませんし、もう少しディスプレイや装飾に工夫があった方がいいのではないですか。でっかい企業がスポンサーになっているんですから、そういう努力もしないと。それこそ昭和40年代の美術展の雰囲気でしたよ。ま、たまにはそれもいいか。でもなあ、あの階段にペタペタ貼られた色ビニールテープによる矢印はないでしょう。あれじゃあ、大学の学園祭ですよ(笑)。あっそうそう、一部屋だけ床がデルフトスタイル(白黒の格子模様)に改装されてましたっけ。そのいちおうやってみました感もちょっと…。
 さて、そんな愚痴はいいとして、フェルメールです。私は本物を見るのは初めてです。こちらもまず一言。おそらく日本人はフェルメールを買いかぶりすぎではないかということ。他のデルフトの画家たち(巨匠なのか?)と比べると、たしかに彼の技術とアイデアは優れていますが、いわゆる歴史的な巨匠たちからすると、その作品から発せられるアウラはちょっと弱いように感じられました。とりあえず、ルーベンスやレンブラントほどではない。
 いや、私は大好きなんです、彼の作品。でも、それが超一流かと言われるとそうとも言い切れない。そうですね、ちょうどフェルメールと同時代作曲家兼演奏家であるスヴェーリンクと同じような感じです。私は彼の鍵盤作品も大好きですが、では芸術的価値がたとえばバッハやクープランなどと並び称されるかというと、ちょっと疑問です。もちろん、その芸術価値とか言うものの実態が何かよくわからない上に、それが作品の同時代的意義を決定するものではないことは解っていますがね。
 と、また前置きが長くなってしまいましたが、そうですね、今回フェルメールとその周辺の画家たちの作品をじっくり観て感じましたのは、やっばり彼らがバロックであるということです。つまり、ルネサンスやマニエリスムと、新古典主義に囲まれたとっても特殊な時期の作家であり作品であるということです。フェルメールの作品もそうですが、宗教的な画題に挑戦するよりも、日常的な時間と空間の切り取りに精根が注がれます。そして、そこに潜むフィクション。ある意味露骨なウソや思わせぶり。
3 よく言われる光と影の極端なコントラスト。前にも書きましたが、これはある意味写真的なラチチュードです。またいかにもカメラ・オブスキュラ的な遠近感。これは自然主義、あるいは写実とは明らかに違う指向です。しかし、一方でフェルメールはそのフィクショナルな遠近法にさらにフィクションを重ねている。「小路」がそれですね。これは片目で見ると、北斎並みに脳が混乱して面白いですよ。
 あとはなんと言っても、女性のいかにも思わせぶりな態度ですね。窓の外の「何か」に気を取られたり、手紙の中の「何か」に没頭したり、いきなり「はい、写真撮るよ」的ないかにもなカメラ目線になったりとか、とにかく画面の外にわざと主人公の意識を放り出すんですよ。これはずるいし巧い技法ですね。その意識の先に何があるんだろうというような、まあ、そういう謎チックなところが日本人好みなんでしょうけど。
 でも、こうした作られた演劇性というか、胡散臭い生命感というのが、いかにもバロックなわけです。これは重要なことです。ある意味それがとっても人間的な結果になるわけですから。人間の存在の本質がそこに現れていると思いますよ。
 というわけで、実はとっても楽しめた展覧会でした。そういうちょっとひねくれた観点からしますとね、会場の最後にあった、フェルメール全作品の実寸大パネルと、商魂たくましいショップの商品たちこそ、一番面白かったかもしれない。実際、そこが一番賑わってましたし。
 そうそう、古楽器奏者としては、フェルメールに限らず多くの作品に描かれていた当時の楽器を見るだけでも面白いですね。あの10個のペグがついていた擦弦楽器は何なんだろう。共鳴弦があるようにも見えたけど、ヴィオラ・ダモーレにしてはでかかったな。ちょっとカッコよかった。
 さて、都美術館をあとにした私たちは、まずは教え子の母校である芸大を散策。私、実は初めて入りました。憧れの芸大に。いかにもなムードに、ちょっとしたジェラシーすら感じてしまいました。これに比べて私の出た大学は…笑。
 さて、そのあとは、上野から谷中付近を散歩。うむ、これは面白い。縄文と江戸と昭和が水平的に地層になっているぞ。いや、もちろん垂直的にもあるんですけどね。あっそうか、つまり波のグラデーションか。遠くから眺めると、それぞれが干渉し合って独特の「TOKYO」の妖しい色彩になるんだな。
 散歩の終着点は根津のおいしいあんみつ屋さん「芋甚」。私は「アベックまめかん」といういかにも昭和バロックな(?)メニューを注文しました。いやはや、ふだんあまり甘いものを食べつけない私ですが、この微妙な塩加減には感動しましたぞ。う、うまい…。そして昭和焼きをお土産にいただきまして、恐縮です。持つべきものは教え子ですな。
 さて、そこから今度はもう一人の教え子を連れて千駄ケ谷に移動しまして、バロック・アンサンブルの練習です。いろんな意味でバロックを味わってきたので、調子よく弾けるかと思いきや、なんだか、どうもイマイチ。変な迷いが生じている。理屈をこねすぎて、バロックの逆襲を喰らったか(笑)。ま、単に自宅練習が不足しているのでしょうが。
 ところで、演奏に難渋しながら思ったんですけど、もともと、バロックの絵画も音楽も、金持ちの生活のバック・グラウンドみたいなもんじゃないですか。それをああやって展覧しちゃったり、こうやって演奏会形式で披露したりして、その作品たち、なんとなく居心地悪いんじゃないかな。じゃあ、どうすればいいかなんて、わかりませんし、だいいち、ここは平成の日本ですからね。もうすでに充分フィクションですよ(笑)。ま、とにかく純粋に作品や作家に敬意と愛情をもって、真摯に取り組めばいいということですかね。
 と、非常に濃厚なスケジュールをこなし、そして、東京で模試を受けたクラスの子を拾って富士山に帰ってきたのでした。ああ、面白かったなあ。

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2008.11.15

『地球の水が危ない』 高橋裕 (岩波新書)

4004308275_2 れはいい本ですね。私たちが当たり前のように思っていること、あるいはそれ以前に当たり前すぎて意識にすらならないこと。それらが実は当たり前でないということを教えてくれます。
 こと水に限らず、そういう「当たり前」「常識」というものが、実はいかに「有難い」のか。それを知ること、そういう視点を持つというのは実に大切です。自分にとっての常識が誰かにとっての非常識である可能性を意識することは、このグローバル化が叫ばれる現代において、ある意味身につけなければならない技術であるとも言えます。
 先日『「水」戦争の世紀』について書きましたが、それよりもさらに基本的な水問題について書かれているのがこの本です。
 そうですね、私の意識しなかった自分の常識、世界の非常識、あるいはその逆、自分の非常識、世界の常識を書いておきましょうか。

 ・水不足と水汚染で世界では年間400万人、8秒に一人が亡くなっている。
 ・世界の半分の人は屋内にトイレを持たない。
 ・地下水に自然のヒ素が含まれる地域がある。
 ・国際河川、国際湖がない日本は非常に特殊な国。
 ・キリスト教とイスラム教、ユダヤ教の争いの種は実は水?
 ・日本は大量の水を輸入している(食糧輸入および輸入木材による間接水の輸入)。
 ・ミネラル・ウォーターの激増は、海外旅行者増が原因?
 ・信玄堤は理想の治水哲学。
 ・水をいかに無駄遣いしないかが文明のバロメーター。

 そう言えば、少し前のNHKクローズアップ現代で、バングラデシュの井戸のヒ素被害の話が取り上げられていました。日本の若者たちがボランティアでバングラデシュその他の地域で井戸を掘ってあげた。現地の人々は冷たくおいしい水が間断なく出る様子に感激し、日本人に感謝する。その井戸にはそれを掘った若者たちの名前が刻まれている…と、そこまではなかなかの美談であります。しかし、なんとその地域の地中深くには天然のヒ素が多量に埋蔵されていたのでした。まさに寝た子を起してしまった状況です。深刻な健康被害が多数発生してしまいました。善意が救いがたい悲劇を生んでしまったのです。
 残念ですが、それはやはり軽率な行動だったと言えましょう。生物の命にとってあまりに大切な水なだけに、念には念を入れて、慎重にことを進めるべきでした。
 また、水という必需品の飢餓状況を、ビジネスに結びつけてしまうのもどうかと思いますね。たしかに、安全でおいしい水を手に入れられない人が世界中に12億人もいるのも事実です。しかし、それを商売にしてしまうのは、それはもう命の売買にほかなりません。食糧とは訳が違います。
 それにしても、日本がこんなに大量の水を輸入していると知りませんでした。たしかに、輸入している野菜などは、栽培するのに現地の水を大量に使っていますね。木材もそうです。私たちは外国の水で自分たちの食糧を作らせているわけです。私にはそういう発想は全くありませんでした。
 あと、国際河川がないということ。これも案外意識されない。これはもしかすると日本が平和な歴史を持つ理由かもしれませんね。たしかに、こんな国はそうそうありません。もちろんスケールを小さくしてですね、日本の中の国と国、今で言えば県と県、あるいは市と村などの水争いはたくさんありましたよ。ウチの近所の市でも、昭和の初めまでは、本当に争いが絶えませんでした。明治、大正あたりの新聞を見ると、しょっちゅう水を巡って大げんかをしています。
 いずれにしても、今日も私たちは一人数百リットルの水を使っています。「湯水のように使う」という慣用句がああいう意味で使われるのは、それこそ日本だけではないでしょうか。世界の常識なら逆の意味になるのかもしれませんね。
 前も書いたように、我が村は数十年前まで一人1日9リットルしか水を使えなかったそうです。いちおう今、世界標準では50リットルで最低限の生活だということですから、本当に苦しい生活を強いられていたんですね。しかし、これも昔話としては片づけられないのです。今、こうして使っている水、あるいは素敵なネーミングを施されて全国にガソリン以上の価格で売られているあの水たちも、電気の力で汲み上げられているのです。もし、何がの事情で電気が使えなくなったら…ま、単純に富士山が噴火して停電になったら、もう水は出ないのです。
 実は富士山には猿がいません。水場がないので住めないということです。もし、水道が止まったら、私たちも猿のようにここから出て行かなければないないのでしょうね。

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2008.11.14

『元素周期 萌えて覚える化学の基本』 (PHP研究所)

56970278 、これは…(苦笑)。
 なんだか最近私が「萌え」の研究家だみたいに思われていて、ちょっと厳しい状況であります。私は実はそっちのことは全然知らないし、決してそういう趣味ではないのですが…。
 ま、んなこと言って、学術誌の萌え特集に寄稿してたりしますからね。世間的にそう思われてもしかたありません。ただ、そういうわけで、萌え物件に客観的に触れる機会が増えたのはたしかで、そうしていると、最初はナンダコリャって思っていたものが、抵抗なく観ることができるようになっている。慣れっていうヤツですね。良かったのやら…。
 でも、さすがにこれはビックリしました。いやはや…。ついにここまで来たか。元素少女118人。118 Element Girls。
 いや、元素の擬人化というアイデアは、これはありだと思ってました。というか実際すでにありましたし。
Ox この前、NHKスペシャル「デジタル・ネイティブ」を観てましたらね、アメリカの少年が13歳で起業して、「Elementeo」というカード・ゲームを開発、販売してもうけているという例が紹介されていました。このカード・ゲーム、それぞれの元素がキャラクター化され、カードになっていて、それでより多くの化合物を作った人が勝ちという、なかなか面白そうなものだったんです。
 ただ、こちらはいかにも西洋ファンタジー風な絵柄でした。少年がネットで大人のプロ・デザイナーにどんどんダメ出ししていく様子は、ちょっと異様でさえありました。で、出来上がったものはなかなかアダルトな感じですね。
 それに比べて我がニッポンは…笑。いい大人が33人で描いて、これですか(笑)。いやあ、すごいなあ、ニッポン。
 しかし、しかし、よく見てみると、それなりによく出来ていることがわかります。細かいところのこだわりや、キャラクタライズは、これはいかにも職人的な(オタク的な)お仕事とも言えますね。なにしろ、それぞれの元素の性質をあらゆる萌え属性にあてはめているという、とんでもないことをしでかしているわけですから。顔つきや体つき、服装からポーズ、セリフにいたるまで、たしかによく練られている。元素を暗記するにはこのキャラクタライズはいい手です。というか、暗記の基本ですよね。日本人は昔からこういうこと得意です。
070227 そう、日本の絵画文化においては、擬人化、物語化というのは、とっても普通なことでありました。動物の擬人化なんて、言うまでもなく鳥獣戯画ですでに極致に達してますし、子ども用のおとぎ話で動物や日用品が擬人化されているのはもちろん、大人用の草双紙なんかでも擬人化はよく見られます。山東京伝の作と伝わる『心学早染草』では、人の心という抽象的なものさえ擬人化されている。あの「悪玉」「善玉」っていうやつですよ。すごいですねえ。
 で、元素もまた、実在しているとは思いますが、目には見えないわけで(見たことありません)、それをこうして全部女の子にしちゃうという荒技を、ニッポン人はやってしまう。それもなぜかPHP研究所が出しちゃう。Peace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)!!たしかに反映と平和と幸福を感じないわけではない…か。松下幸之助さん!これでいいんですか!?(笑)
 そのうち、これはカードも出るな。Elementeoがどの程度特許を持っているかわかりませんが、どう考えてもこっちの方が世界的に流行るでしょう(笑)。女の子と女の子が結合して新しいキャラが生まれるんですから。やばいっすよ。
 私の教え子も製作に関わった「もえたん」以来、こうした妖しい萌え教材がどんどん生まれています。まあこれで勉強好きになってくれればいいんですけど…。なんか違う能力も伸長するような気がしないでもない。けっこう売れてるらしいし…。あっそうだ、私も萌え系古文の参考書でも作るかな。この前の記事じゃないけど、古典文法を萌えでやるとか(笑)。助動詞をキャラクター化するのか?いや、悪くないな。すでに現在推量の「ラム」ちゃんとかいるし(笑)。どうですか?PHPさん。あるいは學燈社さん。

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2008.11.13

『演歌の逆襲~ヒット連発の秘密~』(NHKクローズアップ現代)

3 倉俊一降臨!今日のクローズアップ現代は良かった。ここ数年私が思っていたこと、感じていたことを都倉俊一さんが全部言ってくれました。
 最近、演歌や歌謡曲が売れていると言います。若い人たちも買っているとのこと。ただ若者たちに消費されるだけのJ-POPに対して、「大人に長く愛される歌」を目指す制作者や作家、そして歌手たちの逆襲が始まりました。非常に素晴らしいことです。
 番組では、黒人演歌歌手ジェロや還暦デビューの秋元順子さん、盲目の現役高校生歌手清水博正くん、そしてストリートで人気のあさみちゆきさんが紹介されました。たしかに新しい演歌、歌謡曲の時代の到来を感じさせる、しかし一方で「原点」を思い出させてくれる歌手の皆さんでした。そうそう、あと、ジェロの曲を試行錯誤しながら書く宇崎竜童さんの姿には感動したなあ。
 さてさて、最近ネット上でJ-POPの王道進行が物議を醸していますね。全く同じことを私はこちらに書いていました。そこで、私はあえて「これは演歌」だと言っていますね。そう、そういう聴き方をしないといわゆる単なる「消費される音楽」になってしまうんです。ですから、あの記事は私にとってはかなり苦しまぎれで書いたものでした。ある意味強烈な批判になっていたわけです。ま、そういう空気を読み取ってくれた方も多かったと思います。
 で、今日の番組での都倉俊一さんの穏やかだが熱いお話は、それこそ強烈な現代J-POP批判になっていたと思います。今日は彼の言葉をここに残しておきましょう。要約して載せます。
「日本の音楽界はジャンル分けを画一的にしてきた。その代表がニューミュージック。歌手がアーティストになり、作詞・作曲・歌を全て自分たちでやらなければならなくなった。そんな中我々は本物の歌い手の復権を待っていたのかもしれない。演歌の人たちは歌唱力もある言葉の説得力もある。ニューミュージックとかJ-POPとかいうのは売り手の論理で貼ったレッテル。ジェロはそれを越えた」
「70年代80年代は演歌と歌謡曲とニューミュージックがチャートを競い合い、作品の提供もし合っていた。クロスオーバーし画一的に硬直化していなかった。その頃の音楽業界はすごいエネルギーがあった」
「長く愛される歌を作るには歌詞が大事。美しい日本語をどう使うか。今日取り上げた人たちはの歌に共通するのは、きれいな日本語が私たちにすっと入ってくること。これは本来当り前だった。日本語の歌詞は深みがあった。それがいつしかソングがミュージックになってしまって声が楽器になってしまった。大人の言葉を聞かせる歌い手、それを作る作家が復権してきているのでは」
「シンガーソングライターは自分の考えやメッセージを伝える。聴く人もその人を聴きたい。作詞家・作曲家はいい詞、いい曲を作って、それを歌ってくれる素晴らしい声を探している。そういう人に歌ってもらえる歌を一生懸命作る。歌手もそれを歌いこなそうとしてすごい努力をする。歌も作詞も作曲もすごく深くて、切磋琢磨して楽曲の価値を芸術性を高めるというのが本来の姿」
「シンガーソングライターももちろんいなくてはならない。しかし、エンターテインメントとしての歌、完成度の高い歌がこれから出てくるのではないかと期待する。子どもの歌ばかりでは音楽業界成り立たない。成熟したいろんなジャンルの歌が出てくることは間違いない」
 うむ、これ以上言うことはないでしょう。私も付け加えることは全くありませんが、あと、番組中挿入された阿久悠さんの言葉を引用して今日は終わりにしたいと思います。神々の言葉は重いなあ…。私も歌謡曲・演歌バンドをやっている者として、彼らの言葉をしっかりと受け止めたいと思います。
1「現代の歌で、いちばん欠けているのは、『場面』だと思います。『気持ち』を訴えるものはありますが、さて、それが、どのような『場面』で成立しているのかわかりません。その『場面』の多くは、聴く人と共有できる愛しい体験だと思います。歌は、そうした小さな結び目を作りながら、時代を証明するのです」

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2008.11.12

『迫る棋士シカマル』…過去の助動詞「き」の活用表

Shikamaru の古典文法の授業はかなり個性的です。「活用表は覚えるな!」がモットーですからね(笑)。かなり変わっているんではないでしょうか。あの活用表を覚えるという馬鹿げた作業で、だいたい古文嫌いになる。私もそうでしたので、そこんとこを工夫して繰り返される悲劇を避けているわけです。で、実際覚えなくてもなんの問題もなく問題が解けます。
 その具体的方法は企業秘密なのでここには書きません。いずれ参考書でも書きますかね。生徒たちはウチだけにしてくれって言いますけど(笑)。だいいち、その方法にはウチの学校でしか通用しないローカルなネタが使われていたりするので、あんまり一般的じゃないんですよ。
 で、「覚えるな!」と言いつつ、実は唯一「覚えろ!」という活用表があります。それが古典文法界の問題児「き」のそれです。こればっかりはどうしてもうまく説明できないし、もう丸暗記するしかない。
 皆さんも記憶にあるんじゃないでしょうか。こいつ、「せ・○・き・し・しか・○」って活用するんですよ。ひどい変わり者ですよね。なんで、「き」が「せ」になったり、「し」になったり、しまいには「しか」になったりするんでしょう。
 これは国語学会…いや日本語学会でも昔から大問題でした。結局今のところ誰もその結論に至っていません。ワタクシ的結論は…やっぱり出ていません。ただ、カ変動詞「来」、サ変動詞「す」、そして代名詞的副詞「しか」と関係があるかな、という程度の考察しかできていません。
 こういうワタクシ的に素性が分からないものは、もう丸暗記するしかないわけです。逆に言えば、ワタクシ的に素性が分かっているものは、それを生徒に教えて、そこからそれぞれの活用形を想像するという勉強法をやっているわけですね。
 というわけで、この過去(「過去」とするのもやや問題がありますが)の助動詞「き」の暗記法ですけど、今まではフツーに「せーまるきーしーしかまる」と呪文のように繰り返して覚えさせていたんですね。まあ、なにしろこれたった一つですから、それで問題ないわけです。
 それがこの前、あるオタク率の非常に高い(具体的には88.888…%)のクラスでこれを教えていたら、いかにもな覚え方が発見されたんですよ。
「迫る棋士シカマル」
 これは分かる人には分かるんだそうです。ちなみに私は分かりませんでした。
 今世で人気のマンガ&アニメ「NARUTO−ナルト」に、なんでも奈良シカマルというまんまなキャラがいるらしい。そして彼は将棋が強いらしい。ということで、「迫る棋士シカマル」というのは文脈としてもしっかり成り立つわけで、たしかにこれはうまく出来たぞと。
 実は「迫る岸〜」というローカルな覚え方は今までもあったんです。でもこれはあまりにローカルだし、その岸というキャラの濃い生徒はもう卒業してしまったので、そろそろ使えないな、ということになっていたんです。そこによりグローバルな(なにしろNARUTOは世界的な人気ですから)暗記法が登場したということで、これはとりあえず日本中に広めておこうと。
Chara_01 あと、ヲタクラス的には、こんな会話も成立します。未然形の「せ」は「せば」という形でしか現れません。「花のなかりせば」とか「夢と知りせば」ってやつですね。やつらは「せば」という音の響きを聞くと、もうすぐに「セバス」→「セバスチャン」になっちゃう。「黒執事」というやつです。じゃあ、思い切って「セバスチャンきーしーしかスチャン」ってのはどうでしょう。全く意味分かりませんが(笑)。
 高校生諸君、もし良かったらこの覚え方で期末テストを乗り切ってください。

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2008.11.11

『爆笑問題のニッポンの教養 「日本語って“ヤバい”」~日本語学 山口仲美」』(NHK)

20081111_1 日は帰宅後一仕事して、NHKの興味深い番組を続けて観ました。
 まずは「クローズアップ現代」で「ニッポンを主張せよ~アーティスト 村上隆~」。芸術と商売の関係が面白かった。ポップアートが日本古来の伝統を受け継いでいるという彼の主張には完全に賛成します。いつも書いている通りですね。あと、バブルの怖さ。彼の作品が数億円で取り引きされるのは、これは昨日の「水」の話ではありませんが、たしかにバブルですよ。ゲージツなんて、まあ水物ですからね。
 そして「プロフェッショナル仕事の流儀 トークスペシャル」。自分のアイデアにこだわる「コト」派の宮崎駿さんと、日常の風景を自然に吸収する「モノ」派の柳家小三治さんのコントラストが面白かった。
 続けてこの爆問学問。前の二つの番組で味わったアートや言葉、つまりそれらは「仕事」…「コトを為す」ということそのものですね。その流れでこの番組を観ましたので、より興味深く観ることができたような気がします。
 今日の教養人は「日本語の歴史」の山口仲美さん。爆笑問題の二人も「言葉」を仕事道具にしているわけだから、話がうまくかみ合っていたと思います。太田はいつも言葉と戦っていますね。今日も言葉の重みに耐えられないというようなことを言っていました。また、山口さんに「ラムネ」と言われてました。言葉が喉で一度つかえて、そして選ばれて出てくると。なるほど。喉のところで戦ってるんでしょうね。
 一方で言葉に救われている面もあると。田中が「(言葉は)病気にも薬にもなる」と言っていました。たしかに太田はこの前のこの番組では「言葉で表現し合うことの快感」を語ってましたっけ。感情が言葉によって馴致されるんでしょうね。言葉は箱ですので、そこに片づけて整理されるんでしょう。
 まあ、それこそが「コトノハ」の「コト」化作用そのものとも言えます。「モノ(外部・不随意)」であるモヤモヤした感情を「コト(内部・随意)」にするわけです。ああ、そうだ。山口さん、こんなことも言ってましたね。日本語、日本人は抽象的・論理的なことを表現するのは苦手だが、具体的・感覚的なことを表現するのは得意だと。まあ、よく言われていることです。最近私も書いた萌え=をかし」なんてまさにそれですよね。清少納言なんて、まあ枕草子では理由なんか全然述べずに、とにかく「をかし」「をかし」言ってる。いや、ホント見事に理由は割愛してますよ(笑)。徹底していて痛快です。
 で、あと山口さんも指摘していたし、昔からよく言われていることですけど、日本語の形容詞はネガティヴなものが多いんですよね。感情的にネガティヴ。そうそう、私は生徒によく言うんです。なんだか知らない形容詞が出てきたら、とりあえず「不快」って訳しとけって。それでだいたい当たるからって(笑)。
 これは、つまりですね、ちょっと話が複雑になっちゃいますが、こういうことです。
 この世の本質は、お釈迦さまが説いたように、どう考えても、どうあがいても「無常」であり「不随意」な「モノ」です。それは、我々人間にとっては、やはり「不快」なことですよ。で、その不快感をなんとかしたいというのが我々の欲求なわけでして、西洋では「言葉=ロゴス」によって、自分の外界の方を箱に入れて整理しようとした。哲学や科学やキリスト教なんかそうですね。
 一方、日本では自分の側を箱に入れて整理しちゃったんですね。向こうはどうも整理しきれないぞと。それ以前に、整理するのは恐れ多いと思ったかもしれません。とにかく早い段階で諦めちゃったんですよ。それが実は「もののあはれ」です。で、仕方ないから、日常では逃避的に世の真理(マコト)から目をそらして、自分の都合で時間や空間を微分して、箱にどんどん入れていった。「をかし=萌え」ですよ。オタク的行動です。
 ですが、あくまで、それは暫定的措置であって、自分たちが実は「もののあはれ」から逃げているんだという罪の意識のようなものもあったんですね。それにちゃんと向かい合ったのが、たとえば源氏物語だったりするわけですよ。
 だから、西洋のロゴスとかランゲージとかと、日本の「言の葉」とは、機能も性質も全く異なるんです。そう、今日山口さんも言ってましたね。抽象的・論理的な「コト」の必要に迫られると、それを処理する箱がないから、仕方ないので漢語やカタカナ語をどんどん導入してしまう。なにしろ自分から遠いところから逃げてましたからね。世の中全体を考えたりするのを避けてきましたから、言の葉では処理し切れない。
 現代、そうして我々は「言の葉」と「ロゴス」という二種類の箱というか、もう全然ベクトルの方向が違う道具の狭間でフラフラしてるんですよね。今日も取り上げられていた絵文字なんかも面白い存在です。あれは、まさに「言の葉」ですよ。あれで世界は表現できませんし、そこから科学も哲学も生まれません。でも、とっても機能的だし、我々の役に立ってますよね。ロゴスへの現代的なアンチテーゼであります。
 と、なんとも長くなってしまいました。こうして私が書いているのはいったいどっちなんでしょう。私はどっちも好きなんですけどね。で、なぜかこのブログでは絵文字は使いたくない…。

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2008.11.10

『「水」戦争の世紀』 モード・バーロウ, トニー・クラーク (集英社新書)

1 ソリンがだいぶ安くなりました。今日スタンドへ行ったら125円でした。いったい何だったのでしょう。
 しかし考えようによっては、ガソリンは安い液体だとも言えます。原油を掘り出して、タンカーではるばる運び、そして精製して、各地に運搬して…ということ、それからあれだけのエネルギーを生み出すということを考えると安い商品だとも言えないでしょうか。
 というのは、私の住む鳴沢村の水が1ℓ350円以上で売られているからです。350円ですよ。はっきり言ってひどい商売です。でも、とんでもなく売れてるらしい。いったい何なのでしょう。
 たしかにおいしいですよ。圧倒的に。ウチの水道も基本同じ水ですから、そのおいしさはたしかに世界に誇るべきものだというのはよくわかります。山梨県の環境科学研究所の調査でも、この村、それもウチのあたりの地下水が最も高濃度のバナジウムを含んでいることはわかっています。でも、それをそんなメチャクチャな値段で売っていいんでしょうか。
 先ほど書きましたように、原油は相当の手間がかかっています。しかし、水は基本機械で汲み上げるだけ。最近では加熱処理さえしない業者が増えています。いや、それを売りにしている。殺菌消毒なんてほとんどしません。する必要ありませんから。検査する程度です。つまり原材料費はほとんどタダ。水としての付加価値を上げるのは富士山が勝手にやってくれる。溶岩フィルターによってミネラルが豊富に供給される。それをただペットボトルに入れて、それで1リットル350円で売るんですから、それは法外です。ちなみにエネルギーは0キロカロリーです(笑)。
 今、ここ富士北麓地方には水工場が乱立していまして、まったくひどい状況になっております。そこら中で地下水を汲み上げています。毎日大型トラックがそれらを積んで日本中に富士山の水を運んでいます。いや、いいんですよ。おいしい富士山の水を皆さんに飲んでいただくのは。でも、さすがにもうちょっと安くしたらどうでしょう。まさに水商売、ヤクザ商売ですよ。
 …ということが、実は世界中で起きているんです。ここまでひどいとは知りませんでした。大学で水に関する勉強をしたいという生徒と一緒に、今いろいろと調べております。何冊かの「水戦争」に関する本を買って読んでいるところです。そのうちの一冊がこれです。まあびっくりしました。
 20世紀は石油の取り合いの世紀でした。21世紀は水の取り合いです。ウォーター・ビジネス。まさに「水戦争」。石油は枯渇したら代替エネルギーを考えればいいでしょうけど、水は、これは生命の基本ですからね、何も代替になるものがありません。それを一部のヤクザな業者が牛耳ってしまい、独占して破格な値段で売り始めたら、いったい世界はどうなってしまうのでしょう。というか、もうその利権争いは始まっています。この本にもかなり具体的にそのヤクザたちの名前が挙げられています。
 つまり、水が投資の対象になっているということですね。発展途上国での水道の民営化によって、先進国の投資家たちが、全ての生命の根本である水をカネづるにしようと考えているんです。つまり、それは私たちの命をカネで売買するということです。なんとも恐ろしいことです。
 今や「水」で有名になった我が村ではありますが、数十年前まではとんでもない水事情の村でした。なにしろ、(おそらく全国で唯一だと思いますが)河川も湖沼も一つもない溶岩台地の村なんですから。井戸を掘っても全く水が出ない。溶岩下の伏流水は100メートル以上も深いところを流れているからです。とにかく水の確保は大変だった。天水を集めたり、裏山に横井戸を掘って少量の湧水を確保したり。一人一日あたり数リットルしか使えなかったと言います。今やアフリカでも1日10リットルくらいは使えるんですけどね。
 で、井戸の掘削技術が進み、水道が敷設されて、今私たちは富士山の恵みをたっぷりいただけるようになりました。感謝すべきことです。1日平均一人200リットル以上の水をじゃんじゃん使っています。えっと、1リットル350円だから、1日7万円使っている計算か。家族と猫で30万円くらいですかね(笑)。まあ、それは冗談としても、いや冗談ではないな、実際そういう価格で村の外では売られているんですから。
 あとそれぞれのミネラルウォーターの会社のホームページですね、ひどいのは。まあブランド名も笑っちゃうものばかりですが、とにかくひどく安っぽいイメージ戦略です。ある会社なんか、ウチの水は富士山の山頂に降った雪が400年かかって浸透してきたものです、なんて言ってる(笑)。噴飯ものです。だいいち、バナジウムというミネラルの効用は確認されていません。摂取しすぎは危険である可能性すら指摘されています。健康にいいとか、秘めたパワーとか書いてありますが、いったい何なんでしょうか。
 繰りかえしますが、実際に世界一おいしい水ですから、皆さんに飲んでいただくのは実に結構なことです。しかし、それをむやみやたらにカネ稼ぎに使ってほしくない。水バブルになってほしくない。実際売れているわけで、見た目の上では均衡価格になっている、それだけの価値があると言えるのかもしれません。でも、やっぱり異常です。それが普通になってしまうと、世界で起きつつある「水戦争」はさらに激化して、そして弱き者が被害者になるんです。
 道の駅「富士吉田」でも「なるさわ」でも、無料で水が汲めます。あるいはウチに来ていただければ、いくらでもおいしい水が飲めますよ(笑)。日本は基本どこでもおいしく安全な水が飲めます。皆さんの地元にもきっと、おいしい源泉があるはずです。まずは、身近なところの「おいしい水」に注目してみてはいかがでしょう。そして、たまには「水」について思いを深め、今世界で起きつつあるとんでもない戦争が対岸の火事ではないことを考えてもいいのではないでしょうか。もちろん日本人とし生まれた幸せを味わいながら。水を大切に…命を大切に…なんか珍しくベタな標語になっちゃったな。

富士山なるさわ深層水…富士山が育んだ国内最高峰のミネラルウォーター! バナジウム国内最高水準!バナジウム天然水!

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2008.11.09

『USBハブ・カードリーダー搭載ハードディスク設置台』 (上海問屋)

Donyaダイレクト DN-HDSTD02
628530 いパソコンのハードディスクとか、換装した時の古いヤツとか、なんだか知らないけどもらったものとか、なんだかんだ今、裸のHDDがいくつか転がっています。なんとなくもったいないので何かに使いたいし、古いデータを取り出したいということもあって、これを買いました。
 自宅用のカードリーダーもなかったし、USBハブもほしかったので、このタイプはちょうど良かった。それぞれ別々に買って、さらにいくつかのハードディスク・ケースを買うよりかなりお買い得でしたし、正直これで充分。4000円ちょっと。
 これはいわばカードリーダーの拡大版って感じですね。裸のSATAハードディスクをブスッと刺すだけです。2.5インチと3.5インチに対応します。最初そのブスッと刺すコツがよくわからず、うまくはまらなかったのですが、何回か試行錯誤すればすぐに慣れます。
Uni_1684 写真は2.5インチのHDDとコンパクトフラッシュを刺したところです。2.5インチですと、さし込んだあともちょっとグラグラした感じで少し頼りありませんが、いちおうバネのついたフタのようなものがあるので、軽く固定された感じにはなります。
 メモリーカードもSD、CF、MS、XD、MS-Proが使えるとのこと。ウチにはCFとSDしかないので、これで充分です。
 接続は基本USB2.0ですが、e-SATA接続もできます。ああ、そうそう、いよいよUSB3.0の仕様が発表されるみたいですね。転送速度10倍ですか。そうするとe-SATAの意味もなくなってしまいますね。そして、MacのFireWireも過去のものとなっていく…。
 アジアのどっかの国で作っているようですけど、今や日本メーカーのものも中身は同じようなものですから、ま、当分使えればいいです。少し大きめですけど、安定感があるとも言えます。また、本体内の青色LEDがチカチカ光って、かっこいいと言えばかっこいい。デザイン的には悪くないと思います。
 こうしたクレードル・タイプのものは他のメーカーからも出ているようですね。でも、お値段的にはこのDonyaが一番安いのではないでしょうか。カードリーダーやUSBハブの付いていないモデルもあります。
 ハードディスク・ケースをいちいち買って外付けHDDがどんどん増えるのもなんだかな、と思っていたのでこの製品は私のニーズに見事に応えてくれました。同じような境遇の方は使ってみてはいかがでしょうか。

[送料\399~]ハードディスク設置台(USBハブ・カードリーダー搭載モデル):Donyaダイレクト DN...

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2008.11.07

やまやの辛子明太子

1 徒がお土産にもらったとのこと。少しおすそ分けしていただきました。いやあ、これはうまい。さすが本場の辛子明太子ですな。
 まず、学校で二切れほどつまませていただきましたが、適度な塩気と辛味、甘味、そして絶妙な柚子の芳香。新鮮で元気のよい歯ごたえ。もう、スーパーの明太子は食べられませんなあ。
 で、もっと食べたかったんですけど、これはぜったいに白いご飯か日本酒が必要ということで我慢我慢。ウチに帰ってからさっそくそれらを用意してたっぷりじっくり堪能いたしました。
 うむ、幸せの極致ですね。日本人で良かった、と思う瞬間です。美味。
 そうそう、ウチの学校の2年生が月曜日から韓国へ行きます。今、円高ウォン安だからいいですね。むこうにも明太子みたいものはあるようですから、買ってきてもらうかな。
 というか、「めんたい」って韓国語でスケトウダラのことを指す「ミョンテ(明太)」から来てるんですよね。だから「めんたいこ」というのはそのまま「たらこ」のことになります。つまり、唐辛子などで辛くしたものは「辛子明太子」と言うのが正確なんですね。実際、本場では「たらこ」のことを「明太子」と呼び、辛いのはちゃんと辛子明太子と呼ぶようです。全国的は単に「めんたい」とか言っちゃいますが、それだと単なる「タラ」になっちゃうってことですね。ってことは、「チーズ鱈」と「明太チーズ」は同じものってことになっちゃうのか(笑)。
 ところで、その「辛子」ですけど、今ではあの赤い唐辛子って韓国の専売特許みたいに思いますよね。キムチなんかのイメージがありますので。でも実際は、御存知と思いますけど、いわゆる唐辛子は日本から朝鮮半島に伝わったものなんですよね。本来のキムチは無色の発酵食品でした。
 つまり、辛子明太子に使われる唐辛子は、まずポルトガルあたりから日本に伝来し、それが江戸時代くらいに朝鮮半島に渡った。そして、当地で明太の味付け及び保存手段として使われ、それがまた、九州や中国地方に伝わったということですね。ちょっと複雑な経路になっています。
2 さて、話を戻しまして、やまやさんの辛子明太子です。公式サイトを見ますと、そのこだわりぶりがよくかります。168時間熟成ですか…7日、つまり1週間ということですな…タウリン1000ミリグラムっていうのと同じだな…1グラムって言うより1000ミリグラムの方が「多い!」っていう気がするというやつです(笑)。
 で、全然関係ないんですけど、ちょっと気になったこと。やまやさんのホームページのトップに、その味へのこだわりを紹介したページに飛ぶバナーがあるじゃないですか、真ん中へんに。そこに「味への追及」って書いてある。これって間違いですよね。「追及」って「責任を追及する」とか「犯人を追及する」とか、そういう使い方する語でしょう。味なら「追究」だと思うんですけど。
 で、バナーを押してみるとそこのページには「味への追求」とある。あれ?「追求」かなあ…。「理想の味の追求」だったら解るんですけど。だいいち「味へのツイキュウ」って変な気もする。助詞は「への」でいいのかなあ。「の」じゃないのかなあ。「味への探求心」とかだったらいいと思うんですけどね。どんなもんでしょう、やまやさん。ま、おいしいから細かいことはいいか(笑)。
 というわけで、今日もこのくらいにしときます。

辛子明太子のやまや@食卓通販

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2008.11.06

『すっきりおいしい梅酒』 (サントリー)

Pl_suntory_plum_liqueur_2liter_cart 事の帰りに買ってきました。安いので。2リットル880円だもんなあ。こっちの日本酒より安いや。庶民の味方。ウチでは時々チョーヤの梅酒を買ってましたけど、半額に近いお値段です。で、さっそく飲んでみたら、まあ充分おいしいぞと。たしかにチョーヤの無添加に比べると、多少作られた感のある味ですが、比較しなきゃ問題なし。
 私はお酒にこだわる時はとことんこだわりますが、普段はそのこだわりスイッチをオフにしてますので、毎日飲むお酒はこういう大衆酒がほとんどです。気づいてみれば今、日本酒と焼酎と梅酒の紙パックが並んでる。
 むか〜しは、庶民は自分の家でお酒を造ってました。密造酒です。まあ今でも造ってるところもあるでしょうけどね。ここ山梨では自家製ワインとか、どぶろくとか、けっこうありそうですな。
 ああ、そうそう、密造と言えば、昨年NHKの「きょうの料理」で、みりんで造る梅酒を紹介して、ちょっとした騒ぎになりましたっけ。法律違反になるって。 
 なんだかよく解りませんが、酒税法にひっかかるんだとか。家庭で梅酒を造る場合、加えるアルコールは度数20%以上じゃなきゃいけないそうです。アルコール度数が低いと違法になっちゃう。どういうことだ?
 なんでも、アルコール度数が低いとアルコールが生成されてしまうのだそうで、そうすると立派な「酒造」ということになってしまうらしい。そうすると免許がいるし、納税もしなきゃならないと。なるほど。
 そういうわけで、アルコール度数が10~14%のみりんなどで漬けると違法になっちゃうわけですね。まあ言われてみればそんなような気もする。それをNHKさんが紹介しちゃったのは、たしかにまずいか。拳銃や偽札の密造の仕方を放映したのと同じ…でもないか(笑)。
 昔はウチでも梅酒作ってましたね。子どもの頃、よく飲んでました…って、しっかり違法じゃん!いやいや、梅を食べてました。あの梅を子どもが食べるのは違法じゃないのかな?まあいいや、もう時効でしょう。
 忙しいので今日はこれで終わり。

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2008.11.05

『源氏物語 一千年の旅~2500枚の源氏絵の謎~』 (NHKハイビジョン特集)

3 年は源氏物語千年紀。番組では世界に散逸した源氏絵の再発見を中心に、なぜこの物語が千年もの間読み継がれてきたのかを考えます。
 千年の、そのそれぞれの時に、いったい源氏はどのように受け入れられていたのか。時代とともにどのようにその受容の形が変わったのか。たしかに「絵」にその当時の人々の心が反映していますね。
 貴族から武士へ、そして町民へ。近代化と国際化の中での受難と再発見。まさに源氏物語の姿が歴史を映しています。
 そうですね。やはりそれが「物語」の本質であり魅力であるのでしょう。何度も繰りかえしているとおり、「物語」とはあらゆる意味で「モノ」の「カタリ」です。「モノ」とは自己の外部、自己のコントロールの及ばないものを表す語です。
 我々にとって、物語は常に外からやってきます。我々はそうした未知の情報に対して、それを知りたいという気持ちを抱きます。「ゆかし(行かし)」です。その外部に気持ちを持って行く。その世界に行きたいと思う。
 そして、その断片を知ると今度は「をかし(招かし)」と思います。こちらに招いて固定して散逸しないようにしたいと思うのです。その結果、コピーが生まれたり、絵巻が生まれたり、パロディーが生まれたりします。
 その繰り返しの中で、外部は内部化されていきます。「コト化」です。そのように固定されていくことを「カタル」と言います。ですから、単に「物語」とは、一つの作品という存在を示すのではなく、そうした一連の心理や動作や現象全てを指す語なのです(と私は考えています)。
 つまり、おそらく人間だけに与えられた「想像力」と「創造力」による営みが「物語」なんですね。自己という内部を外部とつなげる行為。それはまさに生命の本質と言えるでしょう。
 と、そんなことを考えながらこの番組を観ました。
 それにしても、すごいなあ。外国人の研究者の皆さん、マニアックすぎますよ。日本人よりよく分かっている。変体仮名ふつうに読んでるし。一方で石山寺の絵巻をぶった切ってオークションで売り飛ばしちゃう外国人もいる。というか、それ以前に源氏なんて読んだことない日本人がたくさんいて、また、とんでもない文化財を平気で外国に流出させた日本人もたくさんいる。そうした、人間の振れ幅の大きさというか、いいかげんさというか、面白さというのもつくづく感じましたね。もちろん自分のそういう部分も。
 そう、不二草紙本体の「無手勝流源氏物語」が最近全然進行しません。それにはいろいろ理由があります。まず源氏の勉強会が消滅してしまったこと。やはり私は自分に強制力が働かないと勉強しません。ま、そこまで源氏に魅力を感じていないということかもしれませんが(笑)。あと、「モノ・コト論」を進めていくうちに、やっぱりそこんとこをちゃんとして訳さないといけないかな、と思い始めたというのもあります。つまり、最初から全部訳し直したくなっちゃったんですね。でも、それも面倒くさいし、ヒマがないと。そうすると、全体にやる気が失せてしまう。いかんなあ。
 今年は千年紀ですので、それを機にもう一度と思ってたんですが、どちらかというとライバル作品である「枕草子」の方に興味が行ってしまった。「をかし」の方に行っちゃったんですね。
 源氏物語は、やはりもう少し自分が成熟してからでないと解らないんじゃないかなあ。「もののあはれ」は「をかし」を積み重ねて、そして空しさ、虚しさを感じないと理解できない。「コト」を極めて「モノ」に達するということですよ。紫式部もそうだったのでしょう。道長との愛人関係とかね。いや、私はもっといろいろあったと予想しています。そして、番組でも紹介されたたくさんの共感者たちも、だいたい自分の欲望を極めて一つの境地に至った人々でした。自分はとてもそこまで行ってませんからね。
 そう考えると、やはり時代は基本豊かになる方向に進んできたということがわかりますね。豊かになることによって、私たちは自らの欲望を満たすことを実現していくんですからね。天皇家や貴族だけがそれをできる時代だったのが、もののふたち、そして小市民まで、こうやって自らの煩悩を謳歌できるまでになった。「をかし=萌え」を実現することで、そういうノーブルな「もののあはれ」に達することができるようになった。それはまさに日本仏教の歴史とも重なります。仏教の民衆化、大衆化、形式化ですね。
 ということで、「ワタクシ源氏」は老後の楽しみにとっておくかな。たぶん10年くらいあれば訳せるでしょう。定年退職したら、出家して源氏の訳でもして、そしてあの世に行きますよ。
 しかし、源氏物語は罪な物語ですね。なんだか、倫理的に一番いけないところを芸術や宗教にまで持ち上げてしまった。それも天皇家が舞台ですから、我々庶民としては、ある種の免罪符を頂戴したような気になります。「天皇家でもこんなんだし、いいか、我々小市民も」って(笑)。
 ところで、番組のテーマでもあった「なんで千年もの間…」という問いの結論ですが、まあ一般的には「源氏物語には(それぞれの時代の)現代人に通じる心理が描かれている」ということでしょうね。でも、私はあえてこう言います。「人間の心は千年やそこらじゃ変わらない」。

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2008.11.04

ヴィヴァルディ 『チェロ・ソナタ集』 コクセ(チェロ)

Alpha004 なり忙しいのでかなり手抜きな記事になります。
 えっと、小室哲哉が逮捕されましたので、それにちなんで今日はヴィヴァルディを聴きましょう(笑)。何度か書いていますが、私の頭の中では小室哲哉とヴィヴァルディがおんなじ引き出しに入っています。以前、こちらの記事にこんなことを書きました。そのまま引用します。

 …これもある時期(あの頃)のことなんですが、友人と「ヴィヴァルディって小室哲哉だな」と言いあっていたことがありました。やはりある種のワンパターンというか、強烈な独特の色や匂いがある。でも、世間では売れ続けた。若い女の子のプロデュースして生計立ててたし。後世への影響力を考えても彼と彼は似ている。
 で、ちょっとバカにしながらも、冷静に考えてみると、彼らに似ている人はいなかったりする。二番煎じはたくさん出るけれども、やはりオリジナルにはかなわない。もちろん、その前に「彼」らしい音楽はない。突然現れて一つの流れを作り、それがまたその後の流れを決定したりする。
 古楽人の代表(?)あの大バッハも、かなりのヴィヴァルディおたくだった。私たちが一瞬バカにしてしまったその人を尊敬しまくっていた形跡がある…

 まあこういうことなんですね。で、考えてみますと、ヴィヴァルディの晩年もまた、外国(オーストリア、ウィーン)で一旗揚げようとして失敗し、無一文になっています。かなりお金をつぎこんだようですね。小室氏もまあ似たようなことして借金生活に陥ったわけじゃないですか。因果なものです。いやいや、49歳の小室氏に対して晩年は失礼か…。
 ちなみに上の引用記事にはちょっとした間違いもあります。「若い女の子のプロデュース」と書いてますが、実際はオバサンの方が多かったようです。ま、今となっては小室氏の周辺もオバサンばっかりですけど(笑)。
 さて、そんな小室氏とヴィヴァルディ。たしかにちょっとワンパターンなところがありますが、突如名曲を残すこともありまして、ヴィヴァルディで言いますと、たとえばこのチェロのための6曲のソナタなんか、とってもチャーミングな曲が集まっています。特にバラード…いや緩徐楽章はシンプルだけれど、なんというか優しさに溢れてますね。
 特に私は次のラルゴが大好きです。冒頭のコード進行は、当時ありそうでないですよ。最初聴いた時、おどろきました。昨日のフェルメールの雲じゃないけれど、あっ!こう来たか!って。ぜひ聴いてみてください。

ラルゴ

 ヴィヴァルディのチェロ・ソナタ集、ビルスマや鈴木秀美さんによるものなど、名演奏がたくさんありますが、このコクセの演奏は必要以上に朗々と歌うことなく、純粋な女の子風(?)な演奏でけっこう好きですね。チェロって案外女性的です。ヴィヴァルディはいったい誰を想定してこのソナタを作ったのでしょうか。
 ということで、小室哲哉の曲もちょっと聴き直してみようかな。意外な名曲があったりしますから。

ヴィヴァルディ チェロ・ソナタ集(NML)

Amazon THE GREATEST HITS-小室哲哉作品集 a

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2008.11.03

『フェルメールの暗号〜光の天才画家の作品と生涯の謎を解く〜』 (TBS)

「文化の日」・第一生命スペシャル 世界芸術ミステリー
Blue4 化の日です。音楽、文学、美術と自然を満喫(?)。
 昼間は自分たちのトリオのライヴがありました。風で楽譜が飛んだりして、まあ散々な内容でした。だいたい楽譜がないと弾けないっていうのがダメダメですね。練習不足です。
 家に帰ると、ウチの障害ネコが脱走して、庭で格闘すること1時間。ひっかかれて血だらけになった末、取り逃がしてしまいました。うむ、自然の厳しさだ(笑)。結局夜帰ってきたカミさんが発見捕獲してくれましたが。
 テレビではNHKが源氏物語の特集を放映しておりました。みんな語る、語る。1000年の時の中でどんどん肥大、成長してしまった「物語」。優れた芸術こそ、他者の人生を呑み込んでどんどん成長していくものです。しかし、時に大きくなりすぎてしまって、本質が見えなくなることもあります。
 フェルメールに関する「伝説」や「神話」というのにも、ちょっとそういう傾向がありますね。謎が多い画家なだけに、他者の入りこむ余地が大きいということでしょう。というわけで、夜はTBSの作ったこの番組を観ました。まあ面白かったかな。
 「暗号」というのは言いすぎだし、いろいろな男のドラマを混沌と紹介しすぎたために、なんとなく消化不良というかなんというか…。ふだんNHKばかり観ているので、どうしてもこういう民放的演出には抵抗を感じますね。引っぱっといて、オチがないというか(笑)。
 興味を引いたのは贋作画家のハン・ファン・メーヘレンですね。彼のことはあんまりよく知らなかったので、そこのところは面白かった。たしかに「エマオのキリスト」なんか、今となってはちょっと出来すぎに思えますけど、純粋に新作として観ても充分に魅力的な作品ですよね。そう考えると、たとえば音楽にも結構贋作がいろいろあるんだろうなあとか、あるいは自分も死ぬ前に一つくらいバレないくらいのレベルのニセモノを造ろうかな、なんて思っちゃいました。なんのジャンルにしようかな…なんちゃって(笑)。
 そうそう、フェルメールについては、ずいぶんと前に書いていました。この記事です。焦点距離とラチチュードの感じがカメラ(写真)的だと。今思うと、写真は写真でも銀塩じゃなくて、かなりデジカメ的ですね。
Delft_scenery 私が初めてフェルメールに出会ったのは、高校3年の時だと思います。何かの雑誌で「デルフト眺望」を観て衝撃を受けました。当時私は、まだちょっと美術的な生活をしていましたし、将来はそっち方面に行ってもいいなと思っていましたので、そのショックは実に大きなものでした。特に、画面上部に描かれた雲の陰影には、本当にひっくり返るほど驚きました。うわっ、こう来たか。印象派の模写なんかしながら、雲の描写には人一倍こだわりを持っていたものですから。
 その後、バロック音楽をやるようになってからは、やはり彼の絵に描かれている楽器や、あるいは全体や細部に観られるフィクショナルなリアリズムというか、ある種の嘘臭さや胡散臭さ、物語性のようなものに興味を持ちましたね。上に貼った「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」なんか、出来過ぎですよ。今で言えば「萌え」的な要素が多すぎる。これが誰であるかなんて関係ありません。2次元アイドルみたいなものです…なんていうと不謹慎でしょうか。でも、私には非常に記号的に感じるんです。まあ、そういう意味ではイコンというかアイドルというか…。
 というわけで、やっぱり今開かれているフェルメール展には絶対行かないとな、とは思いました。今回を逃すとなかなか観られないような作品も来てますからね…なんて、結局TBSの(第一生命の)意図に見事に引っかかっている自分でありました。いや、でも、ホント、フェルメールはいい。萌えだ。

フェルメール展、行ってきました

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2008.11.02

フジファブリック & 9mm Parabellum Bullet ライヴ (@ 桜美林大学)

プロコンサートw
081102 事関係と自分のステージを除けば、数十年ぶりに学園祭ライヴに参戦。いやあ、まさに参戦でした。疲れた。40代半ばのオジサンにはちょっときついライヴでした…と、なんとなく体の節々が痛いのですが、楽しかったのは事実。明日の自分のライヴを目前にいい刺激になりましたぞ。
 それにしても、持つべきものは殊勝な教え子だなあ。今回のチケットは桜美林大学に通う教え子から譲っていただきました。本人が行くはずだったものを無理矢理いただいちゃったという感じもしますが…ま、とにかくありがとう!
 初観戦の9mmにも興味はありましたが、私の目的はやはりフジファブリック。あの富士吉田凱旋ライヴ以来の再会となります。
 朝早く富士山を出まして、町田の桜美林大学に着いたのは10時半。うむ、なんとも華やかな雰囲気だぞ。JD(女子大生?)がたくさんいる…って当たり前か。
 天気もいいし、いろんな意味で気分ウキウキの私。し、しかし、今日一緒にライヴ参戦するDD(男子大学生)と待ち合わせをしている間に、チケットを譲ってくれるJDから不穏なメールが…「チケットが見つかりません」。なぬ〜?!まあ、さすがに捨てちゃうということもないだろうし、まあゆっくり探してくれと呑気な返信などしつつ、野外ステージで行われているダンスやらバンドやらのパフォーマンスを観ておりました。
 DDとも無事落ち合って、だらだらと時間をつぶしていたんですけど、お昼をすぎてもなかなかチケットが見つからない。さすがにちょっと不安になりました。会場である大学の旧体育館に行きますと、さすがは旧体育館、音が漏れ放題漏れておりまして、フジのリハーサルもばっちり聞こえてきます。うわあ、なんとも脱力した「TEENAGER」だなあ、とか、おっこれは新曲だぞ、とか、非常にレアな音をばっちり聞かせていただきました。で、最悪本番も外で聴くか…なんていう覚悟を決めたところ、「見つかりました!」との連絡が…。さすがに彼女焦ったようです。そりゃあそうだよなあ、逆の立場だったら生きた心地しないよなあ。なんだか変に気を遣わせてしまって、こっちが申し訳ない気持ちになってしまいました。
081102b 整理番号は200番201番ということで、けっこう早く入場できました。オールスタンディングですが、真ん中やや右、前から5列目くらいで待機…と、それがまずかった!今日の対バンは最初が9mmです。9mmは激しいライヴ・パフォーマンスで有名なバンド。いよいよ開演という時間になって、突然後からものすごい勢いで押されて前につんのめりました。そのうち波が押し返してきて…そう、よくある押し返しによる背面将棋倒しです。前の何列かの女子が私にのしかかってきまして、もう足腰の弱ったオジサンはその圧力に耐え切れず、見事に尻餅をつきました。靴が脱げてどこかに行くわ、足があらぬ方向に曲がるわ、起き上がろうにも全然起き上がれないわ、もう大変です。ま、いちおう数分後に立ち上がることができ、靴も自力で見つけることができましたが、ちょっとした恐怖と恥ずかしさを味わいましたね。
 しかし、もっとすごい事態が待っていたんです。9mmのライヴが始まると、もうステージ前はメチャクチャな状況。危険を察して私はモッシュ・ピットの外に避難。おっかねえなあ。うわあ、女子のダイブだ。
 そんな戦場を対岸から観察しながら、初めて9mmの音楽をじっくり聴きました。うむ、なかなかうまいぞ。うまいというのは、演奏技術もそうですが、曲にメリハリがあり、日本人が好むセンチメンタルな部分と激しい部分との対比がうまく構成されている。時にコテコテのメロディアスな演歌(失礼)があるかと思うと、それを切り裂く激しいリズムの応酬が現れたりして、なかなか客を乗せるのがうまいなと感じました。
 曲想にも案外変化があり飽きがきません。そして、メチャ激しいステージングでありながら、きっちり演奏し、そしてヴォーカルも安定、コーラスもきれいで、なかなかの実力者と見ました。これからもっと人気が出るでしょう。最近アルバムが出たそうですが、これはライヴ・バンドですね。CDだとどういう感じなんでしょうか。機会があったら聴いてみたいと思います。
 さて、そんな激しい9mmのあとで、いったいフジファブリックはどんなライヴを展開するのか、ある意味ちょっと心配でもあったのですが、さすが彼ら、すぐに会場を妖しい雰囲気に変えてしまいました。明らかにノリが違う(笑)。
 私も9mmが終わってすぐに移動しまして、前から3列目くらいの好位置をゲット。さすがにモッシュやダイブはないだろうとの判断です。ただ、ちょっと近すぎたんでしょうね、ステージ横のモニターの音はほとんど聞こえず、ステージ上のアンプの音しか聞こえなかったので、どうにもバランスが悪かった。場所的にヴォーカルとキーボードが聞こえにくく、ちょっと残念でした。やっぱりじっくり聴くには後の方が良かったかな。でも、たまにはああいう雰囲気を味わうのもいいですね。
 さて、今回のフジは、学園祭ライヴだし対バンということもありまして、分かりやすい曲目を並べておりました。そして、新曲を2曲やってくれました!記憶によるとセットはこんな感じだったと思います。

1 TAIFU
2 新曲1
3 Surfer King
4 地平線を越えて
5 TEENAGER
6 新曲2
7 銀河
EC 虹

 いつもながら楽しいライヴでした。ちょっとした想定外のミス(あるいはネタか…)や、志村くんのイタズラなどで、メンバーどうしも笑い合いながらの演奏。心配された志村くんの喉の具合もなかなか良さそうで、新曲1でのイェ〜もよく出てました。MCも9mmを立てつつもちょっといじったりして、いつもの志村ワールドを展開してました。面白かった。全体に彼の明るさが印象的なライヴでしたね。
 さて、新曲ですが、今日演奏された2曲は対照的でしたね。1では、ベースが主音に固執する重厚なロックを聴かせてくれました。2は逆にベースが主音に収まりそうで収まらない、そしてサブドミナント指向の強い、明るく浮揚感のある曲調で、近頃のフジにあるいわゆるさわやかな(全く変態的ではない)曲でした。シングル向きではないでしょうか。
 さて、今フジはドラムを募集中のようなんですが、今日サポートしてくれた若者(すみません、名前がわかりません)はどうでしょうかね。まだお互い慣れ切ってないように感じましたが。
 というわけで、とっても楽しかったんですけど、かなり疲れました。たぶん明日(か明後日か明明後日)体が痛いと思います。明日の自分のライヴ大丈夫かな。私は明日ベースを弾くので、今日は加藤くんをよく観察していました。彼の冷静かつ堅実なプレイに刺激を受け、家に帰ってから珍しく少し練習しちゃいましたよ(笑)。
 こうしてロックのライヴに行けるのは、あと何年くらいかなあ…。2時間以上飛びはねる体力がなくなりつつある今日この頃でありました。
1 あっ、あと学園祭自体の見どころですが、やっぱり超一流のチアリーディングの皆さんと、そして地味に繁盛していた(?)「オタク学会」でしたかね(笑)。

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2008.11.01

『Cool Japan 〜発掘!かっこいい日本〜「インスタント」』(NHK)

Pic_081029 真は風呂敷。先日録画したものを今日観ました。
 紹介された「インスタント」はドリップ式のコーヒー、火を使わずにできる米飯やカレー、インスタント・ラーメン、防災用グッズ、冷凍食品、そして風呂敷。
 うむ、なるほど、日本人はインスタントなものを作るのが得意ですね。これはなかなか面白い文化です。インスタントというのは、ただ単に簡単、即席だということではありませんね。
 日本人はそうしたフィクションにある種のリアリズムを見出したり、あるいはあえてフィクションに没入することによって芸術にまで高めてしまうことが大得意です。
 そのへんが、西洋のプログマティズムと似て非なるところでして、ただ単に実用性だけを求めたり、写実という意味でのリアリズムを求めるわけではありません。
 日本のインスタント文化は、ワタクシ的に言いますと、「コト」を「モノ」になぞらえる、「コト」を極めて「モノ」に達するという文化につながりますね。つまり自分たちの脳内のイメージや、記号、物語を、自分の外部である自然や理想に近づける、と言いますか、両者の間の避けられないギャップを埋める…いや、無視するのかな…とにかくこちら側を操作することによって、向こう側と一体化しようとするんですね。
 西洋は、基本向こう側をこちら側に合わせようとします。すなわち、こちらの脳内の理想的なイメージに自然を変形していくんですね。「コト」中心文化です。科学や宗教などにもそういう傾向が見て取れます。
 対する日本は「モノ」が主体。様々作られる「コト」、たとえば番組で紹介されていた物(製品…我々が作ったという意味では「コト」です)は、それぞれ自分がニセモノであることをちゃんと意識しています。製品自身が開き直っています。本物(モノ)には絶対になれないことを前提に、しかし自分のやり方で本物に近づこうとします。本物になろうとはしないけれども、本物を自分なりに表現しようとします。そこに文化が生まれるわけです。
 私の「文化」の定義は非常に単純です。「自然のアイデンティティーが人間の営みを通じて現れたもの」。つまり「モノ」が「コト」として語られるとそれが文化になると。それは自然という真実に対しては、常にフィクションです。そのフィクションを楽しむのが日本人の知恵なんですね。自然を変形してこちらに近づけるという発想ではありません。
 まあそれにしても、日本のインスタントへのこだわりはすごい。即席なのに職人技。つまりシンプルを目指すべきところが、なぜか細部へのこだわりに行っちゃうんですね。まさにオタク文化と言えます。というか、オタク文化は日本の伝統文化なんですよ。コトを極めちゃう。フィクションを突きつめる。たぶん、日本人はリアルつまり「モノ」を諦めてるんでよ。モノに対してはもう詠嘆するしかない。「もののあはれ」。
 先日「武士道」の周辺記事でいろいろと書きましたが、日本人は「生」と「死」をも、そうした物語(フィクション)としてとらえます。それこそ究極のオタク魂ですよね。まあ、上手に賢くだまされるわけです。本物じゃないじゃねえか!とか、死んだらおしまいじゃねえか!とか、ホントはどっちが強いんだよ!とか、そういう野暮なことは言わないんですよ。
 いや、ちょっと前まではそういうこと言わなかったんだよなあ。そう、プロレスを楽しめる国民だったんですよ。それが今では…(涙)。なんでこんなに粋じゃなくなっちゃったのかなあ。こういうことになると、フィクション(コト)はウソになります。語りは騙りになる。だから偽装とか八百長とかやらせとか、そんな言葉ばっかりになっちゃう。
 そういうことを言うと、人は苦しくなりますよ。他者のフィクションを認めないと、つまり賢く人にだまされないと、自分のフィクションも認められなくなりますから、それはツライですよ。キツイに決まってる。
 まあ、いまだにインスタントが世にたくさんあふれてるっていうことは、救いようがあるかな。四角い風呂敷をあらゆるオブジェに変形して見立てることができるのであれば、日本はまだ大丈夫かもしれません。もっとそういうものが流行ればいいですね。私もついつい違った意味でのインスタントに向かってしまいます。まずは自分自身の生活と思考を変えないとね、偉そうなことは言えないか…。

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