習う=忘れる(その3)
(昨日の続き)
道元は再び言います。
「習熟するとは忘れることだ」
そうです、本当に「慣れる」「習う」ということは、忘れること、特に「自己を忘るる」ことなのです。
自己への執着を捨てること、これは仏教の根幹ですね。しかし、ここで考えたい「自己への執着を捨てる」ということは、単に煩悩を断つための手段ではありません。世間では、方法論としての忘我が語られることが多いのですが、私はもう少し進んで考えたいと思っています。
一昨日書いたように、「仏道=宇宙=自己」という大前提がありますから、自己を忘れるとは、仏道を、そして宇宙を忘れることです。忘れるということは、最初から知らないのとは違います。一度意識に取り込まれた「コト」を忘れるのです。まさに一昨日書いた「ものにする」ということですね。
でも、これはとっても難しいことのようです。私たちは大人になり、いろいろなモノを手に入れます。いや、ワタクシ的には「コト」を手に入れると言った方がよろしい。そして、ますます執着が強くなる。手に入れたコトが消えるのも避けたいし、もっと別のコトを欲するようにもなる。そうしてどんどん自己の内部が肥大化していく。はっきり言って収拾がつかなくなるのだと思います。
ですから、私は、人間はある時期になったら、自分の中のコトを忘れる方向に行くべきだと思うんです。そして、私は今そういう時に立っているような気がするんですね。実際、自分という「モノ」も適度に劣化してきますし、うまく出来てるんですよ。だって、いずれはせっかくものにした「歩くこと」も「しゃべること」もどんどん失っていくわけじゃないですか。まあ、よく言われるように、また生まれた時に戻っていくんです。忘れて成熟していく、成熟して忘れていくんですね。めでたいことです。
ずいぶん溜め込んだ「コト」もどんどん放出して、また、せっかく「ものにした」モノも再び「コト」になって、そしていずれは手放すことになる。自分の内部だと思っていたコトが、いつのまにか外部のモノになっている。随意が不随意になっていく。
何かを習得していく過程を「モノ→コト→モノ'」と表現するなら、今度は「モノ'→コト→モノ」という変移が生じるわけですね。
この「ものにした」ものを手放すというのは決して悪いことではありません。実はこれこそが本当の「ものにする」ということだと、最近思うんです。つまり、道元の言う「忘る」とはここまで来ないと実現できないのだと。
つまり、「モノ・コト」でもう一度表せば、「モノ→コト→モノ→コト→モノ」ということです。私たちはこうして、外部を内部に取り込んで、そして再び外部に返すのです。それこそが実は「生命」の本質なのではないかと思うのです。
そうすると、たとえば般若心経の「色不異空・空不異色」「色即是空・空即是色」というのも、理解しやすくなりますね。ワタクシ的解釈では、「空」は「モノ」です。「色」が「コト」にあたります。ですから、うまい具合に並べ替えますと、
「空不異色→色不異空→空即是色→色即是空」
ということになるでしょうか。
人生80年としますと、私は今まさに空即是色の段階に入ったということでしょう。たしかに、何気なく見ていた近くのものが見えにくくなって、久しぶりに自分の「目」の存在を意識したり、何気なく思い出せていたものがなかなか出てこなく、意識的に脳ミソの引き出しをひっくり返さなくてはならなくなったり…。今までは放っておいた鼻毛も、ちゃんと手入れしないとバカボンのパパみたいになってしまうし、眉毛やパイ毛(笑)もやたらに長く伸びて、その存在を主張するようになってきました。「空」だったものに「色」が再びついてきたんですね。
そして、あと二十年もしたら、今度はそんな意識すらなくなってしまうのでしょう。鼻毛も眉毛も伸びっぱなし。遠くのものさえ見えなくなるかもしれません。言葉も失うかもしれない。再び本当の「空」に戻るのです。
しかし、それがまさに宇宙の摂理であり、唯一の真理なのですから、別に心配することはありません。宇宙を忘れて宇宙に帰る。仏道を忘れて仏道に帰る。自己を忘れて自己に帰る。
今までは私も、ひたすら「空(モノ)」を「色(コト)」に変えるのが人生だと思っていました。そして、「色」が「空」になるのは忌むべきことだと思っていました。でも、考えてみれば、「色」を自分の内部に充満させている「大人」の時期、働き盛りの「大人」こそが、一番仏道(宇宙・自己)に反することをしてるじゃありませんか。今日も盛んに報道されていた元厚生事務次官殺傷事件一つとってもわかります。利己的で、短絡的に人の命を奪い、因果応報の教えを悪用し…(彼の語る「言葉」には一理ありますけれど…あくまで「言葉」には)。
私がこの歳になって、こうして自分の脳ミソの中の言葉を無闇矢鱈に放出しているのも、実は後半の「空即是色→色即是空」の実践なのかもしれませんね。そう考えると、なんとなく安心もします。ようやく人生の本質の段階に入ったのだなと。
そして、上の「正法眼蔵」の表紙にある「色は是れ色にして、空は是れ空なり」の意味もまた、少しは自分のものになりつつあると感じる、今日この頃なのでした。
今回は長々と失礼いたしました。
(終わり)
Amazon 現代文訳 正法眼蔵 1
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- 追悼 吉田秀和(2012.05.27)
- 追悼 ロビン・ギブ(2012.05.22)
- 金環日食…だったのかな?w(2012.05.21)
- 追悼 フィッシャー・ディースカウ(2012.05.18)
- 追悼 ドナ・サマー(2012.05.17)
「モノ・コト論」カテゴリの記事
- 「怒り」=「生かり」(2012.05.26)
- 恐山の院代が語る「死と生」(2012.05.23)
- 大宮八幡宮薪能〜藤戸(2012.05.12)
- 杖突峠を越える(2012.05.06)
- 『東方求聞口授 ~ Symposium of Post-mysticism.』 ZUN (一迅社)(2012.05.04)
「歴史・宗教」カテゴリの記事
- 田植えという神事(2012.05.24)
- 恐山の院代が語る「死と生」(2012.05.23)
- 日食と天の岩戸伝説(2012.05.19)
- 風呂には何日に1回入ればよいか(2012.05.14)
- 大宮八幡宮薪能〜藤戸(2012.05.12)

コメント
前略 薀恥庵御亭主 様
とても 素晴らしい 御教えです。
愚僧は・・・最近
「般若心経」さえ・・・
【とちり】ます。笑
日々 耐火× 大火× 退化◎致して
おります。
まさに・・・
井上陽水様の「限りない欲望」
の世界であります。
うぅぅぅん。
愚かな癖に「人一倍欲が深い」
愚僧の存在です。笑
しかし この欲深さも・・・
将来何かの「厄」×「役」◎
に立つ日が来るかも知れません。笑
罪業深き愚僧ゆえ・・・
御阿弥陀様も・・・・
「人一倍」気にかけてくださって
おられるやもしれません。笑
まさに恐るべき・・・
「強欲」の愚僧であります。
「欲」がよくよく・・・
消えたとき 愚僧も
車馬×娑婆◎から卒業できる
のでありましょう。
合唱おじさん
投稿: 合唱おじさん | 2008.11.25 10:43
合唱おじさん様、いつもありがとうございます。
私のような野狐には阿弥陀さまの御加護もありませんよ。
「欲」を「欲」としてちゃんととらえていらっしゃる合唱おじさん様こそ、悟りに近いものと思います。
お釈迦さまもずいぶんと若い内から煩悩まみれの生活をされていたようですし(笑)。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.11.26 10:09