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2008.10.31

うつる…

0181 朝の最近気温、初めて1度を切りました。氷点下まであと一歩です。これで一気に木々が色づいたかと期待したのですが、どうも今一つのようです。
 今日の富士山は風が強く、枯れ葉が乱舞しておりました。本当なら紅葉を散らす木枯らしを恨んだりして、古人にならい歌など詠みたいところですけれど、どうも最近葉の色づきが悪く、そういう気持ちになれません。「風のクロマ」がいまいちっていうことかな(笑)。
 そうそう、昨年の今頃「モミジとカエデ」という記事を書きましたね。そこにも載せた「ウチの裏」ではなく「裏のウチ」のカエデの写真をご覧ください。まだ色づきは半分くらいですけれど、もうすでに根元にたくさんの落ち葉がありますね。10年くらい前は全身真っ黄に色づいてから一斉に落葉したんですけど、どうも最近こんな感じで、いつが黄葉(もみぢ)のピークだったか分からないんです。残念です。
 ところで、昨年の記事に引用した万葉集の和歌を見直していて一つ気づいたことがあったので、今日はそれをメモしておきます。

 秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ

 この歌にも出てくる「うつる」という言葉です。皆さんよく御存知の小野小町の歌にもありますね。

 花の色も うつりにけりな つたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 前者では適当に「散ってしまったら」と訳されます(私もそう訳してます)し、後者では「変ってしまったなあ」とか「色あせてしまったなあ」のように訳されますね。で、その本質は何かということを考えたんですけど、これって「移動する」という動作よりも、その結果として、「そこにあった何かがなくなる」という意味ですよね。
 「うつる」の「うつ」は「空」であって、「うつる」は「からっぽになる」という説は、古来唱えられていたようです。復元されたアクセントからそれに反論する人もいるようですけど、いつかも書いたようにアクセントというのは言語現象の中で最も流動的で「うつろいやすい」ものですから、私はその説はとりません。
 そうそう、「うつろう(うつろふ)」という発展形になると、さらによくわかりますね。何かがどこかに行ってしまって、前の状態がなくなっている空しさ。気持ちも季節も栄華もうつろうものですね。
 もちろん、そういうところに私たち日本人は「もののあはれ」を感じてきました。その伝統は今でも続いていて、たとえば昨日のレミオロメンの「風のクロマ」の歌詞もそういう情緒を表現したものと言えます。
 しかし、「うつる」=「無になる」ではないんですね。あくまで今までの位置に存在しなくなるわけで、私たちは置いていかれているかもしれないけれど、それ自身はどこかに行ってどこかに存在しているわけです。その証拠に花の色も紅葉も翌年にはちゃんと帰ってきます。「うつる」には「人が死ぬ」という意味もあります。その場合にもその人はあの世に行ったということで、存在が完全に無に帰すわけではありません。あるいはその人の残した何かが違う形でこの世にも残るじゃないですか。遺伝子だったり、あるいは作品であったり、もちろん記憶であったり。
 そういう循環のようなものに対する感慨がすなわち「もののあはれ」です。それは決してマイナスの感情ではありません。驚きであり、畏敬であり、諦念であり、感動なのです。お釈迦様の唱えた「空」というのもそういうものなのかもしれませんね。
 ところで、「うつる」の他動詞「うつす」ですが、これも同じようなニュアンスにとらえられます。そうするとこの季節にもよく言われる「カゼをうつすと治る」というのも一理ありかもしれませんね。
 あっ、もう一つ。「映る」や「写る」も「移る」と同源です。ですから、写真を写されると魂が抜かれるとか吸い取られるというのは、本体が空っぽになるという語感が残っているということでしょうか。まあ、今やコピーの氾濫する時代ですから、そんなことを言う人もほとんどいませんがね。

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2008.10.30

『Japan Knowledge & 日国オンライン』

2 っぱJKはいいな。いや…女子高生じゃないっすよ。ジャパンナレッジ…日本の知識です。
 私、実は新聞取ってないんです。もう何年でしょうね。理由は簡単でして、全然読まないからです。毎日大量の読まれない活字が捨てられていくのに耐えられなくなりましてね。というか、ウチは山奥なんで新聞が届かないんです。それも理由の一つですね。いちいち毎朝ある所まで取りに行くっていうのが面倒になった。それから、昔は某新聞を取ってたんですが、ちょっと鼻につくところが多すぎまして(笑)。
 もちろんインターネットの発達というのもありますね。ニュースはネットでチェック、時々テレビっていう感じです。それで充分。
 文化欄とかその他有用な読み物は、父親がデリバリーしてくれるので、休みにまとめて読みます。まとめて読むと楽しいですよ。時間を忘れていろいろな世界に遊ぶことができます。
 さて、それで私は新聞の代わりに何にお金をかけているかと言いますと、毎月2678円払ってJKとつきあってるわけです(笑)。ホントにお世話になってます。
 2678円で何を提供してくれるかと言いますと、まずJKはこんな感じです。それから日国オンラインはこんな感じ、もう完全に日本国語大辞典です。
 そうですねえ、JKに関しては、まず毎日更新される Today's ジャパンナレッジ がいいですね。特に「今日の新語(亀井肇の新語探検)」は最新の知識欲を満たしてくれます。そこからいろいろと検索して一気に世界を拡げることができる。なんか「今」も知らない世界が隣にあるんだなと感じますね。私は朝ご飯の代わりに新語を食べるわけです。
 あと案外ちゃんと読んでるのが、「週刊エコノミスト」です。pdfで全部ちゃんと読めます。経済を中心とする現代社会を非難してばかりの私ですが、実はとっても興味があります。ある意味バカみたいと思いながら(失礼)読んでるんですけどね。いったい世界中の人たち、特に最先端を生きる頭のいい人たちは何に振り回されて生きてるのかって。
 雑学系の読み物もマニアックで面白い。ふだんなかなか自分からは興味を抱かない分野についても、知見を広められます。
 もちろん辞書、事典系はとっても有用です。さっと検索できるのは、次の辞書・事典群。

日本大百科全書(ニッポニカ)
デジタル大辞泉
数え方の辞典
情報・知識 imidas
現代用語の基礎知識
亀井肇の新語探検
JK Who's Who
日本人名大辞典
会社四季報
科学技術略語大辞典
プログレッシブ和英中辞典
ランダムハウス英和大辞典
プログレッシブ英和中辞典
最新英語情報辞典
Encyclopedia of Japan
COBUILD英英辞典
CAMBRIDGE英英辞典

 もう充分すぎますね。安いもんです。
Itd_img02 そしてそして、自分にとってのメインは実はJKではなくて、日国オンラインですよ。いちおう日本語を相手に仕事をしている人間にとって、日本国語大辞典は聖書です。私は初版を神の辞書…いや紙の辞書として所有しています。比較的最近第二版が出て、ものすごくほしかったんですけど、なにしろ全14巻22万円もするんで、さすがに諦めていたんです。でも、本当は常にポケットに携帯していたいくらい(笑)。もう普通の国語辞典なんか子どものおもちゃみたいに感じちゃうほどです。ま、考えてみれば国語辞典なのに百科事典より量が多いわけですから。
 それがですね、まあ便利な世の中になりましたよ。実質月々1103円で使いたい放題なんです。すごい。そして、電子辞書ならではの使い方、例えば逆引きなんかもちょちょいのちょい。非常に便利です。
 単純計算して220ヶ月で22万円ですから、まあ利便性を考えても書籍として買うよりお得ではないでしょうかね。もちろん、ペラペラめくって眺めるということができないのは残念ですけど。
 案外いいのはオマケの「字通」ですね。最近漢字忘れてるんで。

知識探索ジャパンナレッジ

日国オンライン

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2008.10.29

レミオロメン 『風のクロマ』

61putxqq0pl_sl500_aa240_ うやく出ました。でも、なんとなくあっという間だったような気もします。この2年半を振り返ってみますと、あまりに濃いというか…。私自身も大きな人生の転機を体験しました。いろいろなご縁に恵まれ、たとえばこのレミオロメン一つとっても、ありがたいことにずいぶんと身近に感じられるようになりました。あり得ないことです。各方面において予想外の展開がたくさんあって、ある意味で自分へのこだわりが消えたというか、やっぱり自分は誰かたくさんの人たちに生かされているんだなと、今さらながら痛感した次第です。
 レミオロメンの3人も、もちろん私のような小人とはスケールが違うと思いますけれど、自分たちでは処理しきれないほどの縁を背負って、喜び、苦しみ、人を動かし、人に振り回され、大きな大きな変化を経験したことと思います。彼らは若いので、きっとそれを「成長」と呼んでいいのでしょう。
 「風のクロマ」…そんな彼らの「成長」のエネルギーが感じられるアルバムでした。昨日の押井守さんではありませんが、「大人」になるということには、非常に難しい意味があります。そこに至るまでには、当然苦しみもあります。第二…いや第三の誕生にかかわる「生みの苦しみ」ですね。
 2年半前の「HORIZON」の記事を自分で改めて読んでみますと、なるほどあのあたりが彼らの成長痛のピークというような気もしますね。なんとなく空元気というか、今となってみると、あの突き抜けた明るさや地平の先へ渡る視線というものは、足下が見えない現実の裏返しであったような気もします。
 その後、私も涙してしまった「アイランド」では、彼らは溺れかかりながらも、ある発見をします。それこそ藁にもすがるようにたどりついた島が、実は自分たち自身であったと。溺れかけ、流されかけていたけれど、そんな状況こそが実は自己の存在の本質であって、ただ自分たちが今どこにいるのか知ればいいのだと。考えてみれば、大海において自分の立ち位置なんていうものは、なんの意味もないものです。もしかすると、自分という島を海流が巡っているのかもしれない。そんな相対的で、また相互依存的な世の中の関係を、もちろんそんな言葉や理屈ではないけれども、彼らは実感したんじゃないでしょうか。
 私はそれを知るのに40年以上かかってしまいましたが、彼らは20代でそれを体験した。これはすごいことですね。私は彼らに感謝しますよ。考えてみれば、そんな彼らの姿から学んで、私も今の境地に至ることができたような気がするからです。おこがましい言い方ですが、彼らとともに歩んだ2年半だったのかもしれません…。
 そういう実感をもってこのアルバムを聴きますと、いろいろな部分で妙な懐かしささえ感じるのでした。アルバムの3分の2が既発表曲であるということはもちろん、もともと日本のこうしたシングル先行式の音楽産業のあり方に疑問と不快感を持ち続けてきた私ですが、なんとなく今回のレミオのアルバムはこれでいいような気がしました。こういう時間の共有の記憶としての音楽のあり方もありかなと。記憶をとどめておく「アルバム」として。彼らもそういう意識でこのアルバムを作ったのかもしれません。
 いつもなら、音楽的なことをいろいろと書きますが、今回はやめておきます。そういう表面的なことはどうでもいいような気がするからです。ただ一言書くなら、シンプルなバンドサウンドが案外よく聞こえてきたということでしょうか。
 この2年半の間、彼らがアルバムの制作よりもライヴを大切にしてきたのは、やはり彼らなりに原点に帰るという意味があったのだと思います。もちろんそれは音楽の原点でもあります。今年私は、山梨県民文化ホール静岡市民文化会館山中湖と、3回ライヴを聴きにいきました。それぞれ私にとっても思い入れ深い場所です。そういう中で、彼らがライヴ・バンドとして成長してきたのも、私なりに感じてきました。レコーディングは、結局そうしたライヴな音楽体験のコピーにすぎないわけですから、それこそリアルタイムでの本当の体験を追体験する記録としても、私にとってはこのアルバムは大きな意味のあるものです。シングルもまた、こういう全体の中にあって今までと違ったメッセージを送ってくる。新曲(?)も、まるで彼らが目の前で演奏しているようなアレンジが施されていて好感を持ちました。ある意味意外だったかも。コバタケさんもいろいろ学習したようです(笑)。
 なんとなくふっと肩の力が抜けて安心する自分がいます。聴き込むのはこれから。歌詞の世界もしっかり味わって、またこれからも彼らとともに地道に毎日を歩んでいこうと思っています。

Amazon 風のクロマ

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2008.10.28

『映画監督 押井守 妄想を形にする ~新作密着ドキュメント~』 (NHKハイビジョン特集)

2 群に面白かった。「スカイ・クロラ」自体を観ていないのにも関わらず、ここまで楽しめるとは。そして、「スカイ・クロラ」心から観たいと思った。
 このように語られて、それで観たいと思うのは、これってやっぱり押井作品がオタク的なメディアである証拠ですね。というか、語られないとわからない。いや、語られてさらに作品に価値が増すのでしょうか。
 押井さんの仕事ぶりというのを初めて見ましたが、これはもう日本の伝統職人ですね。江戸の絵師というか。「日本的」な仕事ぶりですよ。そう、日本のオタク文化って、日本男児の自閉症的傾向から生まれたものですよね。ある一点への異様なこだわり。そのこだわりを満たさずにはいられない。たとえばバセットハウンドや兵器のリアリズムに対するこだわりとか(笑)。異様ですよ。
 たしかに世界中の天才と言われる人たちは皆そういう傾向にあります。芸術家も科学者もスポーツ選手も、みんなそうですね。そんな中でも特に日本男児は脳内の妄想に固執する傾向があります。社会性のあるリアリズムなんてクソくらえで、自分の脳内こそがリアルであるというような。
 押井さんはそういう「妄想」を形にすることができる稀有な絵師なのです。これは、私の考える「物語」そのものですね。「モノ」とは自分の外部、未知なもの、不随意なものを表します。「カタル」とは「コト」化を表す動詞。「コト」とは自分の内部、既知なこと、随意なことを表します。つまり、我々は押井さんは自らの妄想という「モノ」をアニメーション映画というメディアで「カタリ」、形にするんです。もちろん「カタ(チ)」という語と「コト」という語は同源です。
 私たちは彼の作品を通して、彼の脳内妄想を私たちの脳内に「ウツス」ことができます。「ウツス」というのは「移す」であり、「写す」であり、「映す」であります。一連のこのような営みを「モノガタリ」というのだと私は考えています。外部の内部化。ある意味生命の本質に関わる連環です。
 もちろん、押井さん自身にとっては、内部(脳内妄想)の外部化(作品化)、すなわち「コト」の「モノ」化と言えるわけですから、「物語」という名詞や、その元になった「物語る」という動詞は、相手の(受け手)の立場に立った言葉であることがわかりますね。
 ところで、「スカイ・クロラ」における押井さんの妄想は、今までの彼のそれとはかなり違っているようでした。押井さんも55歳を超えて(今57歳でしょうか)、ずいぶんと社会性を持ったようです。ようやく彼も大人になったってことでしょうか(笑)。若者に対するメッセージだなんて、なんか彼らしくないような気もしますね。でも、その気持ちはよく分かります。私も40過ぎてちょっとそういう境地が分かるようになりましたよ。彼が語った、「人生はツラい。大人になってもツラい。それは当たり前。でも、案外悪いものじゃない。ゴールに入るといいものが見える」みたいな言葉、これはまさに私が教室で語りたいことそのものです。
 「大人とは何なのか?」という問い、「人生とは何なのか?」という問い、すなわち子どもや若者がぶち当たる「辛さ」の源ととも言える問いに対して、押井さんは一つの答を提示したのではないでしょうか。静かに人生の、世の中の真実を伝えたのではないでしょうか。
 殺されるか、自殺するかしなければ、永遠に子どものままで生き続ける「キルドレ」。そのキルドレに、現代の若者たちを投影したという押井監督。ここ数日の記事の続きになってしまいますが、人間はたしかに「死」を意識しないと「生」を意識できません。しかし、子どもも大人も「死」を恐怖し隠蔽しがちです。それと真剣に対峙して初めて、私たちは人生の意味を知り、大人になるのでしょう。
1 面白いなと思ったのは、押井さんを大人にしたきっかけの一つが「空手」だったということですね。身体性だった。エンボディメント。脳内妄想(コト)ではなく、最も身近な外部である体(モノ)だったということです。これは重要なポイントだと思いました。
 あと興味深かったのは、宮崎駿とコントラストでしょうか。両者に関わっている鈴木敏夫さんの語りが刺激的でしたね。私は知らなかったのですが、やっぱり押井さん、宮崎さんに出会ったことで、こういう作家になったんですね。宮崎さんがいなかったら押井さんはなかったと。ある意味でのライバルというか、まさに自分の思い通りにならない「モノノケ」の存在。
 そして、彼は言います。妄想も実体験に基づいたものでなければならないと。実際にある場所に行かねば本物は生まれないと。ある意味それは「モノ」からしか「コト」はやってこないということです。
 こうした「自己」と「外部」との関係。そして、そこから生まれる「物語」。そして「モノ」と「コト」の連環。これらは現在の私のテーマとも完全に重なっています。それはお釈迦様が語った「無我」や「空」や「不二」に通じると思っています。

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2008.10.27

『死因不明社会』 海堂尊 (講談社ブルーバックス)

Dyyt 日も一昨日、昨日の続きでしょうか。タイミングよく、NHKクローズアップ現代でも今日この話題がとりあげられていました。
 知り合いに、東京都の監察医をしている方や、地方都市で検視をしているお医者さんの方がいらしたり、教え子に葬儀屋に勤めるのがいたり、それこそ「おくりびと」をやってるのもいたりして、死にまつわる隠れた実態を聞く機会が多い私です。その実態というのは、本当にここには書けないような内容ばかりです。
 もちろんその原因は彼らにあるのではなく、日本のシステムと、それに起因する絶対的な人手不足にあるのは明らかです。最近のニュースにあった、緊急を要する妊産婦の受け入れ拒否の問題と同様、誰かを責めればすむという問題ではありません。構造的欠陥です。
 この本でも、とにかくそういう実情が糾弾されています。そして医師でもあり、ベストセラー「チーム・バチスタの栄光」の作者でもあるこの本の筆者は、オートプシー・イメージング(Ai…死亡時画像診断)の導入を強く主張します。
 なぜ、日本ではこれほど「死」がいいかげんに扱われているのでしょう。これは実に難しい問題です。単純なようで複雑、複雑なようで単純な問題です。
 日本では古来「死」を忌むべきものだとしてきました。古文など読んでいると、「死ぬ」という忌み言葉に対する様々な言い換えに出会います。それだけでも異様なほどの忌み具合ですね。我々の日常でも、子どもの頃、お葬式をやっている家の前を通る時親指を隠したりしましたよね。
 結局、我々日本人は、「死」を直視せずに来た部分があると思うんです。そして、死に関する言葉が形式化、フィクション化していくのと同様、葬儀の形もずいぶんと形式化、フィクション化しています。以前、NHKの「cool JAPAN」で「葬儀」がとりあげられていました。外国人からすると日本のお葬式やその周辺の一連の流れは、かなり不思議なものに見えるようでした。
 ある意味そうして、現実的な悲しみや辛さから逃れようとしているわけですね。公的な形式を忙しくこなしていく中で、私的な感情から隔離される。そうして究極の社会的フィクションに守られて、「死」が感情ではなく概念化されていく。悲しみを感じている暇がない、とはよく言われることですね。まあ、今までもよく指摘されてきたとおりだと思います。
 これはこれで日本の知恵です。しかし、これでは「死」を直視しない、あるいはそれと鏡像関係にある「生」をも直視しないということにもなりかねません。というか、実際そうなっています。簡単に言えば、日本人は「死」も「生」も諦めてしまうという、かなり思い切った技を身につけてしまったんですね。
 死んで「仏」や「神」になるという発想こそ、ある意味究極のフィクションです。その結果、その仏様や神様の体を切り刻む「解剖」が拒否されることにもなります。
 こうした文化的なこと、我が国独特の知恵が、現代の「死」をも我々の生活や実感から遠ざけしめ、その結果、死因が究明されず犯罪が隠蔽されたり、感染症の発見の遅れにつながったりしているわけです。
 ですが、単純に欧米のような考え方や文化にしようとか、北欧のように全ての遺体を解剖せよとか、なかなか言えません。いや、言うのは簡単ですが、それによって失うものもあるということを忘れてはいけません。
 こういう根深い文化的なものを変えていくには、やっぱり教育しかないでしょうね。いきなり制度を変えてもダメですよ。裁判員制度とかもそう。まず数十年の準備期間が必要なんです。消費税とか年金とかもそう。だいたい教育自体がいつも「いきなり」ですからね。日本の政治家はそういう長期的な政策というのが苦手ですし、国民も目先のことにとらわれがちです。
 とにかく、こういう「生」や「死」に関することについて、我々はもっと真剣に取り組まねばなりませんね。もちろん私もです。
 ところで、この本、最終的にはとってもいい本だったと思うんですが、ブルーバックスとしては破格の形で書かれていて、最初ちょっと面食らいました。普通のブルーバックスを期待していたからでしょうか、慣れるまで私はあまりいい気持ちがしませんでしたね。

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2008.10.26

『ビジュアル版 対訳武士道』 新渡戸稲造  奈良本辰也 (三笠書房)

新渡戸稲造博士と武士道に学ぶ会
Dtg 日の続き…とも言えましょうか。ある意味殺人も一つの倫理観になりうるということです。
 この本は、ある大学を受験する生徒のために買いました。その大学を受けるにはこの本は必読書です。試験で英語の小論文を書かねばならないのですが、この本はいろいろと使えます。もちろん、新渡戸博士のこなれた英語を引用させていただくという意味もあります。
 いろいろある「新渡戸武士道」本の中で、生徒のためにあえてこれを選んだのにはもちろん理由があります。
 まず、ビジュアル的でとっつきやすい。私もこういうのじゃないと、途中でリタイアしてしまいます。あと「抄訳」であること。分量が半分以下になっていて、リタイアを防ぐ効果が絶大です。私は全部読んだことがないので、どういう基準で抜き出しているか知りませんが、たぶん大事なところはちゃんと押さえてあるだろうから、初心者にはこれでいいんじゃないかと思います。あと、英語学習的には、本文と対訳が見開きになっているというのがいい。解説もわかりやすく、高校生の教科書としては最高でしょう。 
 さて、新渡戸の武士道については、以前こちらに少し書きました。その後この本でその一部を読みまして、まあそれなりに面白かったわけですが、やはり基本的な感想はあの頃と変りませんね。これが本当の武士道なのか?というのもありますし、キリスト教との関係の不自然さも拭えません。
 それでも、あえて「武士道」という言葉を抜きにして考えれば、やはり名著だとも言えますね。Bushido という別の言葉だと思えばいい。外国人向けの日本解説書としては、たしかによく出来ています。
 私たち現代日本人が失ってしまった古き良きニッポン。ま、それは美化されたニッポンでもあるわけですし、そこからあの戦争へ短絡していったのも事実ですから、それなりに注意して付き合わなければならない。
 あっそうだ、前に「葉隠」についても書いたな。こちらです。「武士道というは死ぬ事と見付たり」ではなくて、「忍ぶ恋」そして「衆道」がテーマだというお話し。「葉隠」も本文を全部読んでないや。
Barakei_banner もう一つついでに。その葉隠を素直に読みすぎてしまった(?)三島由紀夫のヌード写真集「薔薇刑」が来月復刻されます。もちろん撮影は土方巽・生誕80年記念イベントでお会いした細江英公さん。その細江さんを私は撮影したわけですね。我ながらすごいぞ(笑)。
 さて、話を戻しましょう。殺人も倫理になりうるかということ。これは実に難しい問題なんですけど、以前古武術に詳しい友人から教えてもらったことによると、どうもなりうるような気がします。最も究極の状態、自らの存在を賭しての他者との関わり合いの中に、ある種の精神性が生まれるのは当然と言えば当然です。
 本来の職業人としての武士道は、やはり命あっての物種であって、ある意味どんな手段であっても(卑怯であっても)とにかく生き残らなければならない、そのための方法論であったとも言えます。それは主君のため家族のためお国のためである以前に、自分のためでありました。少しひねくれた言い方をすれば、人の命を奪うという本能的罪悪感(および卑怯な手段を使うという倫理的罪悪感)に対するフィクショナルなロジックが必要だったんですよね。それがないとやってられない。イスラム教原理主義テロリストといっしょです。日本では宗教は原理主義になりにくい(日蓮宗とかは別として…)ので、別の形での論理が必要だったんでしょう。いろんな人がいろんな「武士道」を試みているようです。
 で、我々が知っている、あるいは新渡戸が少し(だいぶ?)美化&国際化してしまった「武士道」は、江戸時代に形骸化したものをベースにしたものです。その江戸時代に発達した「武士道」の形骸化は仕方ありませんね。なにしろ、本来の基盤が失われてしまっているから。そうして、肉体性よりも精神性の方だけ残ってしまって、それが純粋なウソとして培養されてしまったという感じです。ですから、ヨーロッパやイスラムの形骸化、システム化した宗教の形に似て見えるんですね。
 そのフィクションが、日本でも、また世界のいろいろなところでも、再び極端な実戦に結びついていくのは、実に面白いことです(…不謹慎ですが)。頭の中の「コト」が肥大すると、それに「モノ」たる肉体が反応して、自ら破壊行動に出るということでしょうか。考えてみたいと思っています。

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2008.10.25

『現代殺人論』 作田明 (PHP新書)

56964531 くじに当たる確率と人に殺される確率(あるいは人を殺してしまう確率)と、どっちが高いんでしょうか。まあ、宝くじに当たって殺されちゃった不幸な人もいましたが。
 なぜ人を殺してはいけないか、という実に純真な、しかしはなはだ純真ならざる問いに、うぶな大人が振り回されてもう何年たったのでしょうか。なんとなく懐かしささえおぼえます。それについては、前田英樹さんの「倫理という力」という名著で一つの決着がついたと思っています。決着も何もありませんけどね。
 私は、その妙な問いを聞いた時、じゃあ「なぜ人は生きなきゃならないのか」という問いにも答えなくちゃいけないじゃん!って思いました。あと、「なぜ人は人を殺すのか」が先じゃないの?とも思いましたっけ。前者の問いにはやはり決着も何もないと思いますが、後者の問いには答えがありそうですね。
 今日読んだこの本は、そのへんについてヒントを与えてくれます。多くの実例が挙げられているので、その中に「なぜ」の答えをある程度見つけることができるでしょう。
 その答えはさておいて、この本を読んで思うのは、同じ作田さんの書「性犯罪の心理」を読んだ時と同じように、その世界が案外身近だということです。それはある意味戦慄の事実ですよね。自分は「殺人」なんていうものからはほど遠いと、ほとんどの人は思っているでしょうから。
 しかし、作田さんは言います。殺人とは他者の存在の排除の究極の形であると。また、ある人を疎んで「いなくなってほしい」とか「消えろ」とか思った時点で心の中で殺人をしたとも言えるのでは、と(少なくともイエスはそう言うだろう)。そう考えると私たちは案外たくさん殺人を犯しているかもしれません。
 まあ、そういうキリスト教的解釈が正しいかどうか(…私は否定的です)というのは別として、たしかにそういう感情の先に人殺しという事態が発生するのは事実でしょう。しかし、我々は殺人というある意味でのゴールがとんでもなく遠いと思っているのが普通ですね。私もそう思っていました。でも、この本を読むと実はそんなに遠くないどころか、すぐ隣り合わせにそこにあるということに気づきます。
 ああ、そう言えば、時々夢見るよなあ。なんだか人を殺しちゃったらしく、自分がひどく動揺したり、いかに隠蔽しようか狼狽している夢。皆さんはそういう夢見ませんか?私は1年に一回はあるんですよ。誰を殺したとか、どうやって殺したとかは全然分からないんですけど、もうすでに殺人犯なんですよ。そこから始まる。
 で、目覚めてホッとするんですけど、なんかすごくイヤな気持ちになります。もしかして前世で人を殺してるんじゃないのかな、とか。まあ、ある意味そのくらい自分の潜在意識の中には可能性があるわけですよ。たぶん、それが殺人と自分の本当の距離なのではないでしょうか。
 「性犯罪の心理」でもそうでしたが、そういう際どい自分の存在にドキッとしました。もちろん、加害者としてだけでなく、被害者としても同様の距離というのがあるはずですけど、それもまた普段ほとんど忘れ去られていますね。いつそういうことになるか分からない。宝くじが当たるかもしれませんし。
 そんな普段の意識の上での殺人に対する遠距離感というのは、日常の言葉の上にも表れています。今日も模擬試験を受ける生徒に言いました。「ケアレスミスをしたら殺されると思って、そのくらいの緊張感でやれ!」と。もちろんみんな笑ってます。また、生徒たちの日常では、仲がいい者どうしよく「死ね」とか「殺すぞ」とか言い合います。もちろんお互い笑いながらですよ。よく世間で言われるように、そういう言葉を言わなければいいという単純なものではありません。その場の空気の中で、それらは非現実的な、とても柔らかい表現ともなりうるのです。私は前にも書いたように、管理教育的で盲目的な言葉狩りは大嫌いです。それこそ言葉に対する無差別…いや差別的殺人行為ですよ。
 まあ、それはいいとして、とにかくそういう遠距離感というのが、実はとても大切であり、常にそれを意識的に持っていれば、突然隣に殺人という実行為が現れることはないとも言えますね。そのためには、実は近くにあるということをも常に意識していなければならないのです。
 やっぱり人間は特別だよなあ。実は他の動物でも同種どうしの殺し合いがあるらしいのですが、いずれにしても人間はずいぶんと日常的に同種殺しをしますよね(戦争も含めて)。利欲にせよ、隠蔽にせよ、葛藤にせよ、またある種の精神疾患や人格障害にしても、人間が余計な知恵を身につけてしまったから起こることです。また、二足歩行で手が自由になったというのもありますね。首を絞めての殺人とか、ほかの動物じゃできません。あともちろん道具の発明と使用ですね。刃物と拳銃がなければ、ずいぶんと殺人事件も減るでしょう。
 つまり、人間が人間らしくあるかぎりは殺人の条件は揃ってしまうわけでして、どうにも解決のしようがない問題だということにもなってしまいます。困ったものです。まあ、宝くじにも当たらないように、また殺人事件にも関わらないように願うだけです。

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2008.10.24

「おみおつけ」の語源

Eb42ae9ddd4e7b94bf7591038bb108db 日あるクラスの授業に行ったら、ホワイトボードに「御御御御付け(おんおみおつけ)」と書いてありました。最初の「おん」はおまけにしても、単なる汁物に「御」を三つもつけるなんて、日本人は面白いね、という話になりました。
 御存知のとおり、「おみこし」や「おみくじ」、「おみき」といった神社系の用語や、「おみあし」などという語の「おみ」は「御御」であることが知られています。これらには、それ以前に「みこし」「みくじ」「みき」「みあし」といった語があり、また、それ以前には当然「こし」「くじ」「あし」などがったということが容易に想像できます。
 では、「おみおつけ」がどうかと言いますと、ちょっとそれらとは違うというのが本当のところです。「つけ」→「おつけ」→「みおつけ」→「おみおつけ」と変化したわけではないんですね。つまり、「みおつけ」という形で使われた形跡がないのです(ちなみに「つけ」の存在も微妙)。
 そうしますと、どうも語源的には違うと考えるのが自然で、一般に言われている「御御御付け」説は間違いということになります。では、本当のところはどうだったのでしょう。
 まず、中核になる「おつけ」ですが、これは米のご飯に添えられる「付け汁」の女房言葉のようです。17世紀初頭に発行されたキリシタンの日葡辞書にも「Votçuqe 飯と共に食べる汁。女性語」と出ています。そして、接頭の「おみ」ですが、実はこれも女房言葉で、つまり「おみそ」のことなんです。今でも西日本を中心に、味噌汁のことを「おみ」とか「おみい」とか「おみさん」とか「おみいさん」とか言う地方があります。
 ということで、「おみおつけ」とは「御味御付け」である可能性が高いのでした。味噌仕立てのお汁ということでね。たしかに「おつけ」という言葉は現代でも使われますが、味噌の入っていない透明な汁物、すなわち「おすまし」「すましじる」であることもありますよね。ですから、やはり「おみおつけ」は「おみそ」ヴァージョンの「おつけ」であると考えるのが自然でしょう。
 ちなみに、「おつけ」にはちょっとエロチックな意味もあります。ここには書けませんが…笑。
 さて、私は一日一食なので朝食は食べません。朝出勤前に、家族が朝の「御味御付け」を食べている(飲んでいる?)のを見ると、さすがに唾液が分泌してきまして、どうにも我慢できなくなる時があります。たまに禁を破って一杯ご馳走になっちゃう時もあります。それがまた格別うまく感じるんですね。特に、最近ですね、あの「無添くら寿司」の影響を受けまして、おつけに化学調味料を使わないことにしましたら、ほんとそれが地味だけど滋味でして、おいしいのなんのって。
 なんだかんだ言って、日本人で良かったって思う瞬間ですよね、おみおつけを口に含む時。具材も季節感豊かですし、ほとんど無限のヴァリエーションが楽しめますし、時にお行儀悪く家族みんなでやってしまう「猫まんま」のまた美味いことと言ったら…これはたまりませんね。そうそう、「猫まんま」もまた、地方によっていろいろな形態がありまして、単に鰹節をまぜたご飯であったり、味噌汁をかけたものだったり、すまし汁をかけたものだったり、煮干しを混ぜたものだったり。ちなみに私は味噌汁のお椀にご飯をぶっこみますが、皆さんはいかがなさってますか?いや、そんなお下品なことはなさらないでしょうか(笑)。

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2008.10.23

『プロフェッショナル 仕事の流儀 100回記念 プロに学べ!脳活用法スペシャル』(NHK)

Photo01 徒たちと観ました。いちおうウチのクラスのギャルどもも受験生でして、かなり緊張感が高まってきました。とは言え、いつもの通り明るく元気よくやってますが。もう放っておいても大丈夫です。
 ただ、この時期になると、それなりに不安も出てきますよね。それはそうです。人生初めての真剣勝負ということですから。いきなりの全国大会決勝って感じです。
 で、この番組が役立つかなと思って、みんなで観たんです。プロの仕事師たちは、常に真剣勝負、常に本番ですから。そして、成功の確率をとにかく上げなくてはならないわけですから。きっと受験生にも役立つだろうと。もちろん、彼女たちが将来仕事師になった時のことも考えました。みんなバリバリに働こうと思ってますからね。
 結果、それなりに学ぶ点もあったようです。そして、刺激も受けたみたいで、めでたしめでたし。番組の内容をまとめると、こんな感じでした。100人のプロの仕事ぶりを茂木さんが脳科学的(?)に分析した結果は…。

「ひらめきの極意 プロのアイデア発想法」

1 とことん考えてから、寝る
2 考え事は「場所」を選べ

「脳を活用 プレッシャー克服法」

1 苦しいときにも、あえて笑う
2 本番前の「決まり事」を持つ

「プロに学べ やる気が出る秘けつ」

1 「あこがれの人」を見つける
2 小さな「成功体験」を大切にする

 うむ。なるほど。私はとてもプロフェッショナルとは言えない「ハッタリ教師」でありますが、それでもそれぞれに納得するところがあります。身に覚えがあるんですね。
 とことん考えてから寝るというのは、これはありですね。実は私、このブログは早起きして書いています。前日経験したことや読んだ本、観たテレビなどの感想は、それこそ少し寝かせた方がよくまとまります。これは絶対です。すぐに感想文とか、私は書けません。誰かプロフェッショナルが言ってましたが、朝起きた時が一番脳が活発に働くというのは実感としてあります。自分の意識以上のことができるのは目覚めてすぐの時です。それを逃さないようにしています。まさに朝(早)起きは三文の徳です。ちなみに私は1年を通して日の出の時間に起きるようにしています。よって、今は5時ちょっとすぎくらい。日の出パワーっていうのもあるんですよ。
 さて、場所っていうのも面白いですね。トイレとかお風呂とか。私は朝の通勤の17分が勝負です。すなわち車の中です。これは本当に毎日のことですが、ある種のスイッチが入るんですね。何か大切な考え事がある時は、必ずこの限られた時間と空間の中で考えることにしています。なぜか帰りの車の中はだめなんだよなあ。帰って24時間ぶりのメシ(一日一食なんで)を喰って酒を呑むことしか考えません(笑)。
 プレッシャーがかかる時に笑うというのもよくやります。コンサートやライヴやプレゼンテーションの本番、ステージに上がったら必ずお客さんを見回してニコっと笑うことにしています。これはかなり効果的ですね。ま、教室でもそうか。私は笑うのが得意なので、特に意識しなくとも口角が上がっています。昔は、ステージに上がると緊張のあまり、その普段の笑顔が出なくなってしまっていたんですが、最近は自然にリラックスできるようになりました。まあ、25年くらいかかりましたが…。
 本番前の決まり事は、これは実はあんまりないんですよ。唱える呪文みたいなのはありますけどね。体を使った決まり事はないなあ。今から何か作ろうっと。
 あこがれの人、これはたくさんいますね。これはとっても幸せなことです。自分自身はとても人から憧れられる存在ではないんですけどね、いまだに自分にとっての師匠がたくさんいる、それも例えば生徒であったりして、年齢とか全く関係なくたくさんいるというのは有難いことです。ミラーニューロン、けっこう活発に働いてる方だと思いますよ。てか、ほとんど人まねで生きてるようなもんですから、ハハハ。
 小さな成功体験というのも自分は多い方かな。自分に対する評価が甘い人間なので、ちょっとしたことでも喜びになってしまいます。おめでたいでしょ。でも、その方が幸せですよね。なにしろ、私にとっては失敗すら喜びになってしまうんですから(笑)。
 と、こんな具合でして、この番組でまとめてくれたプロフェッショナルの流儀は、いちいち納得いくものでした。とにかく脳はポジティブでないと活性化しないというのは確かでしょうね。生徒たちにもそれを強く言いました。どうも最近ネガティブがファッションみたいになってる風もあるし。ま、みんな寂しがり屋さんなんで、ネガティブぶって人に構ってもらいたいんでしょうね。それでもいいけど、なんかカッコ悪いような気がします。
 さて、最後スタジオの人たちの質問に対する茂木さんの答えの中に「創造的先送り」という言葉がありました。これぞ私のためにあるようなものですよ(笑)。私の先送り力は尋常ではない。しかし、困ったことにその方が最終的にいいものが生まれるというのを体験してまっているんですね。切羽詰まった方が絶対にいいものができます…なんちゃって。まあ、時には間にあわないこともありますが、それでもなんとか乗り切る「ハッタリ・チャッカリ」力だけは、ずいぶんと身につけて来ちゃいました(あとはボッタクリ力だな…笑)。きっと周りの人にしわよせが行ってるんだろうなあ…。いかん、いかん。「しわよせ」じゃなくて「しあわせ」を人に分けてあげなきゃね。
 おっと、自分のことはどうでもいいや。生徒たちです。彼女たち、この番組を観て、それなりの刺激を受けたようですが、よく考えてみると…「笑って、寝て、先送りにする」…これじゃあ入試に受からないじゃねえか!っていうオチになりました。面白かった。

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2008.10.22

『SONGS〜美輪明宏 第二夜』 (NHK)

2 降臨。昨日の記事でも触れた「昭和の偉人」の一人。たとえばこの人一人をとっても、いかに昭和がすごかったかが分かります。今、こんな人いません。いや、人じゃないかも。少なくとも私たちと同じ種ではない。美輪さん、もちろん平成である現在もご健在ご活躍でありますが、やはり彼は昭和を色濃く反映した歌手であると思います。彼の周辺にいた人物名を挙げただけで、いかに昭和が濃かったか分かりますね。
 彼もまた、戦争を、それも原爆という人類史上特別な体験をして、人間以上の人間になりました。ここ数日書いてきた、人間を昇華させるのは「とんでもない体験」であり、ある種の宗教的ステージに至るたには、我々の望まないものを経なければならないといことです。「命」や「愛」や「霊」に目覚めるためには、それをおびやかす体験をしなければならないということです。かえすがえすも苦しく辛いことですね。
 さて、「命」をテーマにした第一夜に続き、今日のSONGSは「愛」をテーマにしていました。曲目は次の3曲。

 ミロール
 ボン・ヴォワヤージュ
 愛の讃歌
 
 本職であるシャンソンの世界を堪能させていただきました。シャンソン、カンツォーネ、チャント、カント、カンタータ…みな語源は一つです。日本で言えばまさに「歌」でしょう。本来の和歌の世界です。日本の和歌も、当初は即興による歌唱でした。言葉自体が歌い出すとでも言いましょうか。私たちが歌詞に節をつけて歌うのではなく、日本語自体が歌い出すんですね。
 もともと、日本語はピッチ・アクセントですので、いわゆる節を持っています。リズム(ビート)よりもメロディーだったんです。ですから、私は日本語こそ「歌」にふさわしい言葉だと、最近再認識しまして、そういう日本語が歌い出すというような芸、たとえば美空ひばりや、平井澄子なんかに興味を持っているんです。
1 その点、美輪さんはまさに言葉の神です…いや、言葉自体が主体で、彼はメディアにすぎないのかもしれない。彼は優れた媒介者、ミーディアムなのかもしれない。その先にある「モノ」、言葉という「コト」もまたメディアであるとすれば、やはりその先にある「何か」を伝えるために、彼は歌っているのかもしれません。
 その何かこそが「命」であり「愛」であり「霊」であるのでしょう。番組のインタビューにもありましたが、「無償の愛」、これは実に難しい。たしかに恋愛とひと括りにしてしまいすが、「恋」と「愛」はあまりに違います。「恋」は「乞ひ・請ひ」であって(…ちなみに私は上代特殊仮名遣否定論者です)、相手に願うことです。「恋」というのは、「好きな人が自分のことを好きになってほしい」という感情のことです。ジョン・レノンが的確に歌っているとおりです(LOVEを「恋」と訳すか「愛」と訳すか、その両方なのか、微妙ですが)。
 「無償の愛」は乞いません。だから無償です。それは口で言うのは簡単ですし、それを標榜して行動する普通の人たちもたくさんいます(特に宗教関係者)。しかし、実態はそうなっていないことが多い。自己満足であったり、「情けは人の為ならず」を期待していたり。だから私はそんな大それたこと最初から言いません(笑)。
 でも、たぶん美輪さんは本当の「無償の愛」を実践しているのでしょう。少なくとも彼の魂はそうに違いありません。なぜなら、彼の魂が人間世界の向こう側にあるそれに共鳴しているからです。彼は媒介者として、それを表現します。そうした崇高な何かから選ばれた特別な「人間」として。
 その崇高な何かを神と呼ぶなら、彼こそが神の子と言えるでしょう。おそらくイエスもまた、そういうミーディアムであったのです。
 彼の歌は、いわゆる音楽以前のものですから、音程とかそういう瑣末なロゴスを軽く飛び越えています。彼の歌をコンピュータで楽譜化することはほとんど不可能でしょう。コンピュータには魂はありませんから、彼の歌に、言葉に、その先の何かに共鳴することはできません。共鳴できる私たち普通の人間もまた、ある意味選ばれた存在なのですね。その幸せに気づくことこそが、この歌を聴く感動そのものであるのでしょう。
 セルジュ染井さんのピアノ伴奏、お見事です。ご自身もまたシャンソン歌手であられるからでしょうか、歌とその伴奏の本質をよくご存知です。通奏低音奏者にとって佳きお手本となるでしょう。
 私は数年前美輪さんの歌を生で聴きました。こちらの記事に書いてあります。やはり生はテレビの数万倍すごい。ぜひ、皆さんも一度生で「命」と「愛」と「霊」…すなわち「神」を感じてみてください。

ps YouTubeに別の番組での「愛の讃歌」がありました。よろしかったらどうぞ。
 
愛の讃歌

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2008.10.21

『高度成長』 武田晴人 (岩波新書 シリーズ日本近現代史 8)

00431049 も人生の折り返し地点を過ぎました(たぶん)。歳をとるということは、いろいろな意味で子どもに返っていくということでもあります。ですから、今度は今来た道を反対方向から客観的に眺めようと思っています。
 今まで蓄積してきた知識を、これから得るであろう智恵でしっかり消費していきたいんですね。もう知識はそれほど増えないと思いますし、増やそうとも思っていません。今までただただ溜め込んできたので、そいつをちゃんと整理しなおして全部使ってから死んでやろうと考えるようになりました。
 で、その前半生のまた前半部分は、まだ私もほんとうに子どもでしたから、それこそ何もわからず毎日を過ごしていました。野球したり楽器をやったり、あるいは女のこととか(笑)、まあ遊びのことしか考えていなかったんですね。少なくとも世の中のことなんか考えていなかった。
 その前半部分というのは昭和です。私の生まれたのが東京オリンピックの年ですから。まさに高度成長からオイルショック、安定成長という時代です。そのあたりの非常に濃い空気というものをたしかに吸って生きていたとは思うのですが、それがどう自分の血や肉になっているかという反省を、今までちゃんとしてこなかった。
 それで、まずはこれを読んでみることにしました。この日本近代現代史シリーズ、実は何冊か買っていて、古い方から読んでいこうと思ったんですけど、どうもやっぱり体験していない歴史の勉強ははかどらない。実感がないから、結局知識の蓄積になっちゃうんですよね。だから、ここから始めることにしたわけです。
 さあ、ひと通り読んでみました。なんとなく記憶にあることが、だいぶはっきりしましたし、バラバラだった知識がかなり整理されました。面白かった。
 ただ、読後感はあんまりよくありませんでした。それはもちろん著者のせいじゃありませんよ。本当に単純に「高度成長」のせいです。なるほど、今の私や、今の日本の根底に、この高度成長という神話というか、妄想というか、幻というか、物語というか、ドラマというか、そういうものが色濃く残存してるんだなと。
 高度成長の時代というのは、まさに「経済の時代」です。カネの時代なんですね。ある意味カネが神になった時代とも言えましょう。敗戦の痛手から立ち直るための儀式、祭としてのイケイケであったのかもしれませんね。それはそれで意味があることでしょうが、今、私たちはその祭の後のアンニュイをずっと感じているわけです。
 私は高度成長の東京大田区に育ちましたので、本当にそういう異様な祭の空気を思いっきり吸っていました。いや、実際、京浜工業地帯の際でしたから、光化学スモッグを思いっきり吸って、よく倒れてましたっけ。ひどい話ですねえ。毒ガスの中で野球してましたからね。1時間野球すると、みんな目が真っ赤になったり、胸が痛くなったり、大変でした(笑)。
 でも、あの時代の、たとえば芸術界や芸能界って、やっぱりすごいじゃないですか。このブログでもそういう昭和の偉人たちをたくさん扱っていますけど、とにかく今の人間とは明らかに違ってましたね。みんな天才バカボンでした。それは時代が祭だったからでしょう。ある意味狂気を帯びた空気があったんだと思いますよ。環境も破壊しまくり、犯罪も今よりずいぶんとひどかったし、格差だって今よりあった。考えてみるととんでもない社会でした。
 で、昨日の記事につながるんです。人間というのは、結局非日常の中にいないと、その力が発揮できないのかと。プラス方向にもマイナス方向にも。非常に残念です。みんなが平均的にいい人になって、社会が安定して平和になってしまうと、個人の本来の姿は閉じこめられます。
 今、結局は平和で安定してるんですよ。そういう中でみんなくすぶっている感じがします。安っぽい言い方をすると、夢がない、ということになりますか。夢って、現実の社会性を超えた究極の自己愛ですよね。欲望のことです。高度成長の時代は、そういう個人の欲望をカネの力でどんどん実現していった時代のような気がするんです。
 それは社会的にはひどいことだったかもしれないけれど、個人の自己実現という次元でいうと、とっても楽しくワクワクする、それこそ祭の状態であったような気がします。
 そこんとこの矛盾といいますかね、社会の安定や平和や平等というものと、自己の満足というものとの両立がなかなか実現しないという事実。台風が来ないかなあとかいう、ああいう不幸招来願望みたいなものって、やっぱり私たちの本能だと思いますよ。ある意味不幸じゃないと自分らしくいられない…なんだかイヤですね。平和と平安って、結局平均化のことなんでしょうかね、いろんな意味で。
 オルテガは言います。「われわれが通常生きているのは根本的実在の中ではなく、人びとの世界と共存することによって、すなわち『社会』の中に生きることによって、疑似的に生きることである」と。高度成長の時代の人たちは、共同幻想と言われたあの時代のフィクションの中で、生身の人間(個人)として戦っていたんでしょうね。ワタクシ流に言えば、コト化の波の中でもがくモノノケたちってことでしょうか。
 そんなことを考えてしまう妙な読書でした。この本自体はよくまとまっていて読みやすかったし、昭和本にありがちな、一つのストーリーに無理やりまとめあげちゃうようなこともなく、常に冷静なトーンが貫かれていて好感を持ちました。

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2008.10.20

『妻に語りかけた14年 松本サリン事件が終わった日』 (NNNドキュメント'08)

20081019 像を超えた何人もの人間の姿がそこにありました。人間はとんでもない状況の中で何らかの「思い」を抱き、その「思い」が命の意味を変貌させる。それがご本人にとって幸せであるとはとても言えないけれども、しかしある種の崇高な境地であり、ある種の宗教的存在であるかのように我々が感じるのは事実です。
 あの松本サリン事件から14年。今年8月5日、その事件でサリンを吸い込み、意識不明の状態が続いていた女性が亡くなりました。あの河野義行さんの奥様、澄子さんです。この事件8人目の死亡者…。奥様が亡くなられたことをもって、事件の一つの終わりを迎えたと河野さんは語ります。
 ある意味、あの事件での最大の被害者である河野義行さん。自らもサリン中毒になり、最愛の妻が重体になり、そして、国家から、社会から犯人扱いされました。正直に言いますと、私もまた当時のマスコミの報道に躍らされ、世間の「集団気分」に乗って、彼を真犯人だと思っていました。つまり、あの事件は、世界を震撼させたサリンによるテロという意味だけでなく、冤罪事件としても記憶に残すべきとんでもない事件だったわけです。
 そろそろ私の高校にも、あの事件を知らない生徒が入学しつつあります。私もこの14年間に結婚をし、親になり、仕事の内容も大きく変わり、それなりにいろいろな変化を体験しました。そんな時の流れの中で、河野さんも言うように、たしかに事件は社会的にも、また私をはじめ全ての個人の中でも風化していきます。それは避けられません。しかし、こうして河野さんや澄子さん、ご家族の皆さんが、強い「思い」をもって私たちに語りかけることによって、あのとんでもない事は意味を持ち続けます。
 私たちのような日常的な日常を生きる者にとっては、実に奇跡的に感じる境地、存在…。
 まずは澄子さんの命です。「医学的にはこの状態で生きていることが信じられない」と医師に言われながら14年。何かの強い意志がなければ、この奇跡はありえなかったことでしょう。それはおそらく「愛」だと思います。普段「愛」なんていう言葉を軽々しく使いたくないと思っている私ですが、今日は迷いなく使います。澄子さんの家族への愛。献身的に介護を続けるご主人、そして息子、娘たちへの愛、感謝。これも軽々しくは言えないことですが、その思いは決して「憎しみ」ではないと思います。この14年間の、いや澄子さんの60年の命の語る意味は、とてつもなく大きいものでした。
 そして、義行さん自身の命、思い。森達也さんの作品にも出てきましたが、彼は、サリン噴霧車の製造に関わり有罪判決を受けた元オウム真理教信者と交流を続けています。自宅の鍵まで渡し、自宅の庭木を剪定してもらい、澄子さんを共に見舞う。そこには「憎しみ」はありません。もちろん元々そのような境地だったとは思えませんけれども、今はたしかにそういう関係であり、そういう心理状態です。これは、それこそ当事者ではない私にはなかなか理解できないことです。想像はできますが、いざ自分の日常的感情や倫理観に照らしてみますと、やはり正直違和感すら抱きます。あまりに崇高すぎて何か近づき難いものすら感じる。
 さらには、その元信者の姿…。この番組でも彼は素顔をさらしていましたが、本当に純粋に悪い人には見えませんし、逆に私なんかよりもずっと立派に感じてしまいます。あの事件は彼自身の問題というより、やはりオウム真理教というエセ宗教(とあえて言います)によるものであったのか。そういう意味では、河野さんが彼に言ったように、彼もある意味で被害者なのか。本当はそんなふうに片付けたくない自分もいます。しかし、どうしてもそう思えてしまう彼の生き方、命のあり方なのです。
 この三者の崇高な思い、私たちには本当の理解が困難な思いが病室で出会います。澄子さんの動かない手を優しく一生懸命もみほぐす河野さんと元信者。本当に不思議な光景でした。これに「感動」なんていう言葉は使いたくありませんけれど、しかし先ほどの「愛」と同様に、そうとしか言えないのです。これこそ真に宗教的な光景なのではないか。
 非常に辛く残念なのは、こういう高いステージに至るには、理解や共感や感動ではなく、彼らのようにとんでもない体験を経なければならないということです。これも軽率には言えませんが、彼らもあの体験がなければ、それぞれ我々側に近い日常的な存在であり、彼らの命もごく普通の意味しか持たなかったかもしれません。それが不幸にも、そう不幸にも、そういう体験をしてしまった。こういう世の中の仕組みが辛くてなりません。
 死刑制度に関するディベートなんかも含めて、いずれ授業でこの問題を扱いたいと思っています。私もしっかり考えておかなくちゃ。

Amazon 命あるかぎり―松本サリン事件を超えて

NNNドキュメント 公式

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2008.10.19

格安二段ベッド

Img10303457839 たちがそろそろ自分の部屋で子どもたちだけで寝ると言い出したので、二段ベッドを買ってやりました。ちょっと前に届いていたんですが、なんとなく忙しく廊下に放置してあったのを、ようやく先ほど組み立てました。
 組立てに要した時間45分ほど。その間、子どもたちは異常なほどのはしゃぎぶりです。なんとなく分かりますね、その気持ち。新しい物が来た時のワクワク感は大人にもありますから。特に自分たちの城みたいなものですからね。
 私は生まれてこの方ベッドというものに寝たことがありません。いや、もちろんホテルとかに泊まれば寝ざるを得ないので寝ますが、家では完全にふとん派です。子どもの頃、ベッドに憧れた記憶というのもほとんどありません。
 友だちの家に遊びに行けば、たいがいみんなベッドでしたけどね。特に二段ベッドというのには興味は持ちましたよ。てか、今でも興味がありますねえ。あれで安眠できるのかって。
 だって、あれって上で寝る人は下の人の上に寝るわけだし、下で寝る人は上の人の下で寝るわけじゃないですか。変ですよ。なんとなく人の背中を見たり、自分の背中を見られているような気がして、落ち着かないんじゃないでしょうか。
 だいいち、私はですね、普通のベッドでも空中に浮いているような気がして落ち着かないんですよ。落ちそうとか、そういう理由じゃないようなんですけど、なんかふとんが床に接触してないと変な感じがするんです。それが二段ベッドの上なんて言ったら…。
 そう、ふとんを床や畳に敷いて寝ていると、大地に寝ているような気がしますが、ベッドだと雲の上に寝ているような感じがするんです。二段ベッドの上の方だと、かなり高層の雲ですよ。だいたいが、天井に近すぎて息苦しくないでしょうか。今日組立て後一番乗りでねっ転がってみましたが、やっぱりすごい違和感持ちました。下は下で暗くて息苦しいし。
 て、単に私が慣れていないからであって、子どもたちにとっては、そういう非日常性すら面白いそうです。ちなみに今日は上に長女、下に母親と次女が寝るということで、私だけ別の部屋でふとんで寝ます。
 それにしても今回買ったこのベッド、安いわ。二段ベッドで1万3千円台。ありえない。もちろん中国製(!)です。工作や塗装はそれなりの製品でしたが、まあ本体はたしかにパイン材だし、付属のすのこは杉材で、それなりの厚さもあって、基本的な強度は問題ないようです。
Img10303454820 写真を見て分かるとおり、二段でなく、一段×2という使い方もできます。ということは、まさにベッドを二段重ねているわけですが、その一階部分と二階部分の接合がさすがに貧弱な感じがします。いちおう金属製の棒4本でつながってるんですけど、それは単に刺さっているだけで、ボルトなどで固定しているわけではありません。通常の使用で外れたりはしないでしょうけど、大きな地震の時にはぜったいバウンドして外れますよ。そのくらい金属の棒が短い。近いうちに外側から固定しようと思います。
 ま、10年も使えればいいでしょう。いつまで、彼女ら二人で使うんでしょうね。いずれどちらかが先に家を出て行くでしょうから。ま、その時まで仲良く二人で楽しい夢を紡いでもらいたいですね。いよいよ、二人ともいなくなったら、薪にでもしますよ。私はふとんでいいです。


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2008.10.18

『詩のボクシング 山梨大会 in つる 2008』

優勝した くりこ さん↓
Kuriko このところ何かと縁のある「詩のボクシング」。今日は初めて生観戦いたしました。
 今回の山梨大会は、今2年生の現役生徒が出場していることもあって、生徒10人ほどを連れて都留市のうぐいすホールに応援に行きました。
 と、会場に着いてビックリ。彼以外にも卒業生が2名決勝に残っていました。16名中3名が教え子ということですから、かなりの割合ですね。なんなとく嬉しいことです。また、運営の方や応援団にも教え子が何人もいて、なんとも楽しい雰囲気になりました。
 さて、結果から申しますと、現役生は1回戦敗退。組織票で敗者復活戦に回りましたが、ネタをちゃんと仕込んでなかった上に、くじでOBと当たるというある意味最悪の事態。結果としてOBくんの用意したネタを一つムダに消費させてしまい、そのためそのOBくんは決勝まで進出したのにもかかわらず、準決勝までに持ちネタが尽きてしまい、決勝は2Rとも即興に近い厳しい闘いになってしまいました。ごめん!
 まあ、正直言いますと、全国レベルで考えて、優勝はくりこさんしかないと思っていました。彼女だけは、本当に正統的な「詩」を作って、それを正統的に朗読してくれました。そして、その言葉の響くレベルが非常に高かった。私も久々に心に響く詩を聴かせてもらいましたよ。全国でもかなり行けるのではないでしょうか。
 現役の教え子については、私ともども夏休みにあのカリスマチャンピオン木村恵美さんから直接御指導を受けたにも関わらず、本人の怠慢のため不甲斐ない結果に終わってしまいました。「ないものは出ない」…雰囲気だけではダメですね。日常からもっと言葉と格闘し、自分と格闘しなければ。言葉を弄んでいるだけではいけない。ま、彼もとてもいいものを持っているので、来年のリベンジに期待しましょう。
 準優勝だった卒業生は、とても「詩」なんていうキャラとは言えない生徒でしたが、もともと彼の一家はユーモアや言葉のセンスを持っていたので、なるほどこういう機会にそれを開花させられたのは非常に良かったのではないでしょうか。よく頑張りました。
 難しいのは、やっぱり「詩」かどうかということでしょうね。昨年の全国チャンピオンについて、こちらに少し苦言を呈しましたが、単なるつぶやきや日記の音読やアジテーションや説教になってしまうと辛い。朗読とは、私にとっては音楽の演奏に相当するものなので、メチャクチャな日常的な音の連なりでは存在の意味をなしません。そういう意味で、もう一人の教え子くんも頑張ったけど、日常の言語社会のルールの方に引っ張られちゃって負けてしまいました。でも、彼もまた、高校在学中には現れていなかった、私の知らなかった一面を見せてくれました。強い意志や繊細な感性。大人になると失ってしまうそういうものを、まだしっかり持っていて、感動してしまった。
 いずれにせよ、言葉と向き合うということは、すなわち自分と向き合うことであり、ある意味とってもしんどいことですよね。これは私自身のポリシーの問題なので、皆さんとは共有できない感覚かもしれませんけど、私は、日々のしんどさを言葉にするのは詩ではないと思っています。言葉と向き合うしんどさは詩だけれども。そういう意味で、「痛い」発表になってしまう「詩もどき」が、どうしても多くなってしまう。特に若者はね。それはそれで意味があるし、それを消費してくれる聴き手もいます。でも、そこにある意味救いを求めて安住してしまうと、それは「詩」には成長しないと思いました。
Yamazakivanilla1 さて、そんな難しい論議はさておきまして、もっと軽いミーハーな自分を露呈いたしますとですね、今日の私の中での優勝者は…ジャーン!審査員の山崎バニラさんでした!
 いや、まじで感激しましたよ。テレビで観る彼女もとってもステキで、実は密かにファンだったんですが、生バニラはホント素晴らしかった!対戦が始まる前に、アトラクションということで、彼女の活弁を初めて聴いたんですけど、すごい芸でした。今回はバスター・キートンのスラップスティック・コメディ『キートンの隣同士』を、ピアノを弾きながら(小さな太鼓も使ってました)の活弁。本当に素晴らしかった。最初はバニラさんのすごさに心奪われていましたが、最後にはキートンの世界に引き込まれている自分が…。これって活弁の理想像でしょう。私も時々楽器を使っての朗読に参加していますが、非常に勉強になりました。
 大会終了後、生徒たちのために快く時間を割いてくれまして、私もちゃっかりサインなどいただいてまいりました。ありがとうございました!この人は賢い。そして、努力家。そして、人柄がよろしい。真摯で前向き。とっても魅力的な女性でした。
 あと、友部正人さんのライヴも良かったなあ。私たちの世代からするとまさにカリスマ・フォーク詩人ですよね。和製ボブ・ディランです。お笑い芸人あきげんさんたちのパフォーマンスも楽しかったし、楠かつのりさんともお話できましたので、私にとりましては本当に夢のような時間でありました。これもひとえに教え子諸君、そして木村さん、その他の皆さんのおかげです。ご縁というのは面白いものですね。
 いよいよ、来年は私も出陣かな。ウズウズしております。日程が合いますように。

「詩のボクシング」公式

山崎バニラ公式

バニラ日記

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2008.10.17

EXILE…Exile?

 たシングルが1位になりましたね。ウチの女生徒たちにも絶大な人気を誇っています。ま、全く興味ない、どこがいいの?と思っている(言わないが)アンチな女子もたくさんいますし、また、彼らを特殊な目で見る腐女子もいます。いずれにしても今最も存在感のある日本のアーティストでしょう。
 たしかに歌もダンスも一級ですし、キャラもいろいろでいわゆる担当決めみたいな楽しみもありますしね、曲は全部同じですが(失礼)たしかに現代の若い女性をとらえるに充分なムードを持っていると思います。大衆音楽としては私も彼らの存在を認めます。実際何枚もCDを聴いていますから。
 最近何度も言及していますけれども、音楽におけるヴィジュアル、あるいは音楽とダンスとの関係、そういった身体性はとても重要だと思っていますから、ただCDを聴くというだけでなく、ライヴ会場での彼らが一番魅力があるというのは、実は正常なことだと感じます。ああいう日本人が酔える新しいビートを作り出したのは、これはavexの見事な功績だと思いますよ。
 ウチの親戚にも母娘で大ファンというのがいまして、なんだか彼らがオフでハワイに行ってる時に、偶然会っちゃったんだとか。会ったというか、バスに乗っていたら道を彼らが歩いていた。それを見つけて、さあ大変。無理矢理バスを止めて、走る走る!で、いろいろありましたが見事に握手しただか、話しただか…。すごいですね。
 で、今日は私にとっての「エグザイル」を紹介しましょう。ふと思い出したんで。
 こっちのエグザイルは全米1位になってます。明らかに実績が上ですね(笑)。てか、これ1曲だけ大ヒットの、まあ一発屋と言ってもいいかもしれませんね。私と同年代の方々で当時の洋楽を聴いていらっしゃった方々は、もしかすると「エグザイル」と言えばこっちかもしれませんね。こっちは「Exile」ですので、微妙に表記も違うのかな。まずは、懐かしいこの曲を聴いてください(私も「観る」のは初めてです)。「Kiss You All Over」です。

 う〜ん、懐かしい。懐かしすぎる。いやあ、実に不思議な曲ですね。これが6週連続(だったかな?)1位になったというのはすごいですね。たしか日本ではあまりヒットしなかったと思いますが、それも当然ですね。なんとなくつかみどころがない。しかし、印象には残りますね。
 全く違う雰囲気のいくつかのメロディーが無造作につながれています。普通こういうことをやると駄曲になるんですが、なんともうまく全体像ができあがってますね。印象的なギターのフレーズや、侘び寂びを思わせる微妙な間などが挿入されて、さらに不思議な印象が強まっています。
 「Exile」とは流民とか亡命者という意味ですね。本家のエグザイルはWikiによりますと、「多くのキューバ難民と出会った…その言葉がニュースで流されていて、僕たちは、自分たちもまた地元の社会から多少排斥されていると思った…」と語ったそうで、そういう意味合いでのネーミングだったわけですね。それがたとえ1曲とはいえ、全米1位になってしまった…。
 何しろ、1978年の年間シングルチャートはこんな具合ですからね。いかに大変なことだったかがよくわかります。やっぱり当時もアンチ・ディスコ派がいたんだよな。ま、そういう意味ではエグザイルか。違和感あるもんなあ。そういえばプレイヤーも一発屋だったなあ…。

1.Shadow Dancing(アンディー・ギブ)
2.Night Fever(ビージーズ)
3.You Light Up My Life(デビー・ブーン)
4.Stayin' Alive(ビージーズ)
5.Kiss You All Over(エグザイル)
6.How Deep Is Your Love(ビージーズ)
7.Baby Come Back(プレイヤー)
8.Love Is Thicker Than Water(アンディー・ギブ)
9.Boogie Oogie Oogie(テイスト・オブ・ハニー)
10.Three Times A Lady(コモドアーズ)

 その後は再びカントリーの方で地味に活躍したようです。彼らにとってこのスマッシュ・ヒットはちょっと複雑な意味を持っていたとも言えますね。
 ひるがえって日本の「流民」「亡命者」たちはどうでしょうかね。これは一つの社会現象にもなってますね。いったい彼らはどういう意識で「EXILE」を名乗っているのでしょう。

Amazon The Birthday~Ti Amo~

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2008.10.16

ヨックモック 『秋のクッキー』

Index_03_img01 日は軽いネタでいきましょう。ここのところ字数も多く、内容も比較的重かったので、ちょっと一服です。
 ということで、一服のお伴はおいしいお菓子ですね。今日おススメするのは、YOKU MOKUの季節限定商品「秋のクッキー」です。教え子がお土産に持ってきてくれました。これが可愛くておいしかった。
 あっそうそう、先に言っときます。この「秋のクッキー」、季節限定で今月いっぱいの販売ですから、急いで購入した方がいいですよ。
 すっかり秋も深まってまいりまして、こちら富士山の方もそろそろ葉っぱさんたちが色づき始めております。道には栗もたくさん転がっていて、車がパンクしそうです。
 こういう季節はですね、落ち葉を掃き集めて焼き芋ですよね…と思ったら、誰かがダイオキシンとか騒ぎ始めたもんだから、そんなささやかなぜいたくも味わえなくなってしまいました。また近いうちに書きますが、ダイオキシンはほとんど無害です。いったいどこの利権のためのたき火禁止令なんでしょうね。
 ま、あと10年くらいしたら、またあちこちでたき火が復活するでしょう。あの秋の香りがしないのは、日本文化の損失ですよ。まったくぅ。
 そんなわけで、リアル焼き栗や、リアル焼き芋が食べられなくなっちゃった現代、しかたないからヴァーチャルでそれを懐かしもうというのが、このクッキー…なのかな?
Seasonal_product_11_img 見てください。まずその姿が可愛いじゃありませんか。適度にリアルに、しかし適度に漫画チックにデザインされた栗とさつまいも。私は特に芋のデザインがお気に入りです。ちょっと写真じゃわかりにくいんですが、輪切りのサイド部分が絶妙にさつまいもの皮の色を再現していて、なんとも微笑ましいんです。
Seasonal_product_12_img 味もですね、ともにお菓子的デフォルメされつつも、本来の栗とさつまいもの風味を上手に活かしています。リアルというより、記憶の中の味覚という感じでしょうか。なんともノスタルジックな味わいです。
 そして、やはりさすがyoku mokuですね。上品です。これがどこかの会社がやったら、もっと下卑た仕上がりになったことでしょう。あそこもよく季節限定商品を売ってますけどね、なんか素性が違うって感じです。
1 素性と言えば、ヨックモックという不思議な名前、由来はスウェーデンの北部の街JOKKMOKKなんですね。先ほどGoogleマップからいろいろと散策してきましたが、いかにも北欧といった感じののどかな街でした。うん、たしかにシガールとかの味わいや、ヨックモックのパッケージ・デザインに共通するものを感じます。
 「藤縄商店」だと東京の下町って感じですけど、ヨックモックというと、なんとも言えない異国情緒が漂いますよね。今までいったい何語だろうとか思ってたんですが、スウェーデン語だったのか。でも、つづりはYOKUMOKUですから、なんか日本語的でもあります。実際、何かの日本語を組み合わせたんだと思ってました。あえて、日本風なつづりにしたんでしょうか。たしかにJOKKMOKKではジョックモックって読まれちゃいますし。でも、YOKUMOKUでもヨクモクだよな。そのへんの無国籍風な感じがウケたのかもしれませんね。
 とにかく、この「秋のクッキー」、いろんな意味で私の中のヒット商品になりました。コーヒーや紅茶をいただきながら、この栗と芋をつまむというのが、また毎秋の楽しみになるかもしれません。ま、それより早くリアル焼き栗、リアル焼き芋が復活してほしいところですが…。

YOKU MOKU 公式

[ヨックモック]シガール(715107*/286)

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2008.10.15

「クラウド・コンピューティング」という物語

5mincloud_01 んざんネット社会や貨幣経済というサイバー空間を敵視していながら、結局それに依存し、そしてそれに人一倍興味を持っているワタクシであります。
 はっきり申して、自分の仕事はITからかけ離れたものですので、たとえば新しい流行語である「クラウド・コンピューティング」なんて、まあほとんど関係ない話です。あくまで生身の、現前の生き物との闘いが仕事ですので。
 ただ、世界の動向としては大変興味があるわけです。ある意味、未来を占いつつ若者を正しい方向に導かねばならない仕事ですからね。
 そんなこともあって、ほぼ毎日NHKの「クローズアップ現代」は観ているのであります。逆に言えば、あの学校というある種のサイバー空間(?)につかっていると、時代に取り残されるというか、有形文化財化するというか、とにかくとっても危険で戯画的なことになってしまうので注意しています。
 で、今日の「クローズアップ現代」は「クラウド・コンピューティング」がテーマでした。これは面白かった。いや、その技術的なことはどうでもいいんです。そんなの昔から言われていたことですし、web-APIとかASPとかが普通になっている現代においては、当然次なる方向として、データの収納もOSも「あちら側」に依存するようになる、すなわち自宅にいわゆるコンピュータは必要なくなるというのは、誰しもが想像することだからです。
 私はMac使いなんですけど、アップル社の戦略というか、最近の動き方を見ていると、明らかにその方向に動いているというのが感じられますね。早めに手を打っているという感じです。ですから、いわゆるMac使いは、その思い入れが強ければ強いほど、あるいは昔のMacを知っていれば知っているほど、なんとなく淋しいし、欲求不満が拭えないんだと思います。昔の恋人がなんとなくつれなくなってるっていうか。なにしろ、スティーブ・ジョブスは、自宅のコンピュータをなくそうと考えているんですからね。つまり、Macから撤退しようとしているんです。
 いや、もしかすると、クラウド(雲)の上に巨大なMacを構築して、我々クラウド(地上の民)にそのおこぼれを給わすつもりかもしれません。実際Googleと組んで、そういうことをしようと考えているようにも感じますね。
 このような、まるで時代に逆行するような中央集権的、あるいは封建的な権力体制が、ある意味ではすでに我々を支配しているかもしれません。そう、ケータイがそうです。そのシステムは我々にとっては雲の上です。ま、ウチみたいにソフトバンクの権力が及ばない辺境の地では、わざわざ王様の家来が出張してきてリアルな機械を置いていきましたけど(これです…笑)。
 さて、私がこの「雲」に興味があるのは、自分の物語論に結びつけているからです。つまり、雲の上の出来事がそのまま物語だということです。私たちにとってつかみどころがなく、そして目に見えない「モノ」に、私たちがコントロールされている。私たちは自分たちの欲望を満たすべく「コト化」を推進すればするほど、実は「モノ」世界に回帰してしまうというパラドックスです。
 これは非常に面白いし、世界の本質を表していると思います。一番分かりやすい比喩は、科学の進歩ですね。突き詰めれば突き詰めるほど謎も増えてくるし、人間としての限界点も見えてくる。いや、もっと身近な感覚で言えば、ほんとに素粒子ってあるの?という疑問とかね。なんだか、私にとっては量子論の世界なんて、全て絵本の中の物語にしか思えません。
 私の「物語」の定義はまだ一つに集約されていないんですけど、まあ概要を言えば、「モノ」という未知で不随意な自己の外部を「カタル」…すなわち固める、形にするということです。内部に取り込むわけです。そういうことを他者に促すのが語る立場からの「物語」ですし、そうして自己の知りたい欲求を満たすメディアが、受け手にとっての「物語」です。
 そうすると、たとえば超現代的、すなわち未来的な「クラウド・コンピューティング」なんていうのは、まさに両義的に「物語」なわけですね。というか、そのシステム自体が古代的な神話に類似していると思うんです。まあ、神と人間の関係ってことですよ。
 で、ちょっとリアルな話をしてしまうと、今、世界ではいくつかの神による覇権争奪戦が行われているわけです。信者獲得洗脳戦とでも言いましょうか。あなたはどこの信者になりますか?Apple・Google教か、Amazon教か、それとも…まあいずれにしても、唯一神にはならないだろうな。世界史に照らし合わせてみても。
 どうせなら日本みたいに八百万の神が混在してる方がいいかもしれません。つまり、あれってどこにでも神様がいるわけじゃないですか。もちろん自宅にも。ある意味ユビキタスだし、中央集権的じゃない。中央集権的だと、やっぱり怖いですよね。それがご乱心になったり、あるいはテロの対象になったりして、一気にシステムが崩壊する可能性がある。八百万式だと一部に多少不具合があっても、隣のデバイス(神社とか)を使えばよかったり、だいいち敵からすると中枢がよく分からんから攻撃もしにくいし。
 ああ、なるほど。やっぱりそういう日本的システムっていいですね。ある意味最もクラウドかもしれない。群衆という雲の粒子にあらゆる価値が分散している。これって、案外安定的な物語なのかもしれませんね。
 そんな理屈抜きにしても、自宅に愛するMacがなくなるというのは哀しいですね。いじってカスタマイズして使い倒して、という愛情表現ができなくなるのは淋しすぎますよ。雲のクラウド・コンピューティング反対!群衆のクラウド・コンピューティング賛成!ってことかな(笑)。

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2008.10.14

『歌手生活35周年記念リサイタル 美空ひばり武道館ライヴ〈総集編〉』(DVD)

Coba4031 ての音楽家たちよ、このDVDを買いたまえ。そして演奏とは何か、音楽とは何か、皆で考えましょう。
 先日ベートーヴェンの交響曲を久々に弾いてみて感じました。やはり西洋近代音楽は次第に身体性を失っていったんだなと。佐々木健一さんが「美学への招待」で言っているとおり、19世紀以降「芸術」が生まれたと。実用性を離れた精神性を求める時代になったと。つまり頭で考える作品とその鑑賞です。商業的な演奏会という形式が演奏家と聴衆とを隔て、近代工業技術によって楽器は高度にメカ化し、我々はマニュピュレーターになっていった…。
 私の頭は美学を志していたにもかかわらず、どうも体は原始的なようです。単純なんです。
 何度もこのブログに書いているとおり、音楽に関してはその「芸術」の部分だけが抜け落ちているんですね。もちろん、鑑賞はしますが、心から、いや体から楽しんで演奏することはありません。すなわち、バロックまでとガーシュウィン以降にしか興味がない(笑)。演奏に関してはね。困ったものです。
 で、そういう本来の身体性や、パフォーマーとオーディエンス(いや、お囃子)との正常な関係を思い出させてくれる音楽として、最近はいわゆる歌謡曲をよく演奏してたり、聴いたりしているわけですよ。あと、日本人として日本語から生まれる音楽を欲しているというのもあるかな。
 その究極が、やはり美空ひばりでしょう。そして、彼女の残した様々な遺産の中でも、この映像と音は本当に日本の宝です。この時のひばりさんは、今の私とほぼ同年齢だと思います。この歳にして、完全に道を極めていますね。まさに極道だ(笑)。このパフォーマンスの前には「芸術」もひれ伏すでしょう。
 このDVDのすごいところは、その曲数の多さです。とりあえず並べちゃいます。

1. オーバーチュア
2. ひとすじの道
3. 悲しき口笛
4. 越後獅子の唄
5. 角兵衛獅子の唄
6. 私は街の子
7. ひばりの花売娘
8. 東京キッド
9. 花笠道中
10. ひばりの渡り鳥だよ
11. ひばりの佐渡情話
12. 哀愁波止場
13. 哀愁出船
14. 悲しい酒
15. ひとりぼっち
16. ある女の詩(うた)
17. 風が泣いてる
18. 津軽のふるさと
19. 思い出の鞄
20. 春のサンバ
21. ひばりのドドンパ
22. 素敵なランデブー
23. 真赤な太陽
24. お祭りマンボ
25. 柔
26. 人生一路
27. おまえに惚れた
28. あなたに逢って
29. 別れの宿
30. 恋女房
31. 剣ひとすじ
32. 昭和ひとり旅
33. リンゴ追分
34. 愛の讃歌
35. 昴(すばる)
36. ひばりのマドロスさん
37. 浜っ子マドロス
38. 港は別れてゆくところ
39. 鼻唄マドロス
40. 三味線マドロス
41. 波止場だよお父つぁん
42. 初恋マドロス
43. 港町十三番地
44. 芸道一代
45. 悲しいお話
46. 風の流れに
47. さようなら
48. 女の人生
49. 浪曲渡り鳥
50. この道を行く
51. 歌は我が命
52. エンディング

 この全ての曲において、ひばりの唄は完璧です。彼女の作る音色の豊富さ、音程の絶妙さ、表現と言葉のマッチング…世界中のあらゆるジャンルの音楽家、誰もが驚くことでしょう。そして、なんといっても彼女の体の中から湧き上がってくるリズム感。これはもう天才としか言いようがありません。それが映像によってより鮮明にわかります。やはり、音楽にとって視覚は重要です。彼女が体をコントロールしているのではありません。音楽が体という媒体を通じて振動しているだけです。それに私たちが共鳴するだけです。
 おそるべし、美空ひばり。私の演奏の師匠は、究極には彼女しかいないかもしれません。
 ああそうだ、このライヴにおける楽器隊の演奏も素晴らしい、ということをいちおう付け加えておきましょう。

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2008.10.13

葬場殿趾&聖徳記念絵画館

2 日は三鷹で大変なことに見舞われました。太宰の霊と遊ぼうなどと不謹慎なことを考えたので、軽くバチが当たったのでしょう(笑)。
 で、結局昨夜は千駄ケ谷の知り合いのお宅に泊めていただきました。いやあ、今思えばあそこに車中泊しなくてよかったな。夜、玉川上水の入水地なんかを巡ろうと思ってましたからね。危ない危ない。
 というわけで、かわりに千駄ケ谷でおいしいお酒を呑みながらいろいろと語りまして、安全で楽しい夜を送らせていただきました。そして、今日の午前中は知り合いに案内してもらいながら、千駄ケ谷、青山、信濃町、四谷付近を散策いたしました。
 まあ、その知り合いの方は大変に東京の歴史にお詳しく、また妖しいワタクシ好みの霊的スポットもよくご存知でして、結局そういうところ巡りになってしまいましたが。いやあ、とっても楽しく興奮いたしましたよ。
 その一つ一つについては様々な事情からここには書けませんが、総論としては近いうちに少しまとめるつもりです。かえすがえすも東京というところは、ものすごい所です。
 で、今日は神宮外苑にある聖徳記念絵画館のことを少し書きましょう。いつも気になっていましたが入る勇気がなく(?)遠くから眺めるだけだった絵画館。ようやく入館です。
0165 その前に絵画館の裏の話をしなければなりません。私たちは先にそちらに行きました。不敬にも私は知らなかったのですが、あの絵画館の裏に「葬場殿趾」があって、そこに素晴らしい霊的御神木が屹立していたのですね。解説によりますと、こういうことのようです。

『絵画館の真裏にある葬場殿趾の石碑は、大正元年9月13日明治天皇の御大喪が旧青山練兵場で行われましたとき、この場所に御轜車(ひつぎを乗せる車)が安置されたことから、外苑造営にあたり葬場殿を記念として建立されました。石壇の中央にある楠は、建立と同時に植樹された記念樹で、今では堂々とした見事な大木に成長し、石碑に優しい影をなげかけています』

 今日は体育の日ということで、いまや一大スポーツ公園となっている神宮外苑には、いつにもまして多くの人が集まり、健康的で平和な汗を流していました。いいことです。しかし、いったいこの内の何人が、この外苑の沿革を知り、そしてこの御神木の存在に気づいていることでしょう…な〜んて、私も今日の今日まで知りませんでしたが。
0163 いやはや、この霊木はかなり来てますね。写真も少しおかしなことになっています。ケータイのカメラで撮ったんですが、なんだかとんでもない光に覆われてしまっています。いつもこんなことにはならないんだけど。このケータイ韓国製だから思わず動揺しちゃったのかな(笑)。幹の部分にも素晴らしい霊魂が宿っていますね。
 写真ではわからないかなあ…とにかくこの地に立ってこの楠を見上げますと、空間がとんでもないことになっているのが分かると思います。御神木によくあることですが、空中の(東京の)気が頂点に収斂して幹を通り、そして根から地下へ抜けていく、そして一部は葉の広がりの中を循環している、あの感じがものすごく強く感じられます。ものすごい磁場が発生している感じですね。まあそれにしても立派な楠だなあ。これは間違いなく東京の一つの中心、根幹です。
0164 その葬場殿趾から見た絵画館の裏側です。これもまた、変な写真になっていますね。この延長線上に有名な銀杏並木があるわけですが、この重要な直線がなぜか正確に南北を貫いていないとか。西に17度くらい傾いているんだそうです。知り合いの方の研究によると、その理由は…とてもここには書けません(笑)。
 さて、絵画館の表側に廻りましていざ入館であります。体育の日の賑わいとは隔絶された不思議な静寂。ほとんど人はいません。なぜか明治天皇とはゆかりのなさそうな若者が数人ソファに寝転がったりしています。
300pxseitokukinen_kaigakan01s1024 この建物も実に立派ですけど、なんという不思議な力学が働いている感じですね。岡山県万成花崗石が先ほどの御神木から放射されるエネルギーを吸収し、一つの大きなバリアのようなものを形成しています。写真の光はそのバリアでしょうか(だんだんトンデモ方向に行ってますが…笑)。まあ、都内にお住まいの方は一度入ってみてください。その力学は誰でも感じることができると思いますよ。
 絵画館に展示されているのは、御存知80枚の明治天皇に関する絵画です。前半は日本画、後半は洋画。いずれも美術作品としてかなりのレベルですから、そういう意味でも勉強になるでしょう。それはそうです。当時の最高の画家が集められていますからね。そして、モチーフは当時神格化されていた明治天皇や昭憲皇太后なわけですからね、ヨーロッパの宗教画のようなものですよ。実は日本を代表する美術作品なのです。美大生とかちゃんと見学に来てるのかな。
Index_img01 番号に従って観ていきますと、ちゃんと明治という時代がわかるようになっています。もちろんそれはある意味偽史でもあるわけですね。ある種のフィクション性というのは、先ほどの西洋宗教画にも当然存在するわけで、いや、それこそが芸術の根幹ですから、この館内では野暮なツッコミは厳禁です。ただただ楽しみましょう。それぞれの絵のスポンサーの名前を見るだけでも面白いですよ。
 昔教科書で見た絵も何点かありました。そう、昔は小学生とかが訪れて明治天皇の威光と偉功を拝したわけですよね。今では本当に静かなものです。昔とは違った意味で、こういう異空間を子どもたちも味わうべきだと思いましたね。私も遅ればせながら「何か」を感じ取りました。

聖徳記念絵画館

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2008.10.12

「参った」…太宰治のいたずら(!?)

Dazai13 日のモディリアーニとエビュテルヌの愛と死に続きまして、やはり天才的芸術家にして天才的色男と、彼の死を輝かせてしまった悪魔的な女のお話です。太宰治と山崎富栄です。写真もなんとなく昨日の続きっていう感じだな。
 それにしてもなあ…あぁあ、またやられちゃった。太宰治にいたずらされること何度目か。彼は私を弄んでいるとしか思えない(笑)。ま、なんかの縁があるってことでしょう。
 今日は三鷹で国分寺チェンバーオーケストラの本番だったんです。その本番でとんでもないことが起きました(笑!!)。
 …と、そのとんでもないことは最後に書くとしまして、まずは今朝からの流れを記しておきます。くやしいのでちゃんと記録しておきますよ。
 今日は三鷹市芸術文化センターで本番。朝はですね、6時に富士山を出ました。ずいぶん早い。実は、あるオタク生徒が東京ゲームショウに行きたいということで、三鷹まで乗せてってあげたんです。本人は4時にでも出たかったらしい。なんでも私にはわからんカードか何かが先行発売になるとかで、それを買うためには開門前に並ばなければならないんだとか。
Tomie で、三鷹市芸術文化センターと言えば、太宰の墓所である禅林寺のすぐ近くです。私は、生徒を駅前で下ろしてから、禅林寺近くの安い駐車場を見つけまして、そこに車を停めました。当初は、コンサート終了後そこに車中泊し、一晩太宰の霊と遊ぼうかといろいろ計画してました。しかし、ありがたいことに泊めてくださるという奇特な方が現れて、そちらのお宅に一泊することになりました。
 そんなわけで、だいぶ早く着いたことだし、夜は時間がなくなりましたので、朝一番でお参りしようかなと。で、さっそく「参った」わけです。なんだかんだ言って、私初めてなんですよ。ほかの聖地は何ヶ所も回ったり、それこそ泊まったりしてきましたけど、いろいろと理由がありましてお墓参りは初めてだったんです。ま、霊的なお話ですよ。
 さあそれで、まずは禅林寺の近代的な(?)山門をくぐりまして、誰もいない墓地へ一人歩を進めました。私は一見お坊さん風情ですので、はたから見ればなんかそういう関係者に見えたかもしれませんね。そうそう、禅林寺と言えば私も縁が深い臨済宗の妙心寺派のお寺さんです。これも何かの縁でしょうか。
Moririn ご存知のように、太宰の墓のななめ向かいが森鷗外の墓なんですよね。ある意味自らの希望に従って太宰はそこに葬られたわけで、彼自身が臨済宗だったわけではありません。でも、いちおうお墓を建てたということで、このお寺の門徒になったんでしょう。隣には津島家の墓が立っています。
 ええ、ちょっと墓地内で迷ってしまったんですが、一周して森林太郎の墓を見つけまして、続いてその向かいにある太宰の墓を確認しました。さて、どちらから頭を下げるべきか迷います。皆さんだったらどうしますか。
 私は一刹那迷ったあげく、やはり先輩である森鷗外を先にしました。それが普通なんじゃないかなあ。たしかに目的としては太宰でありましたが、偉大なる先輩に敬意を表さねば、太宰もなんとなく気持ちが悪いんじゃないかと。皆さんどうしてるんだろう。片方だけというのはやはりムリです。なんか背中から視線を感じますよね。
Dazai08 というわけで、先輩への礼拝をすませて、さて太宰さんの方にも丁重に頭を下げました。ついでと言ってはなんですが、この太宰の墓前で自殺を図った田中英光のことも少し思い出しましたね。結局彼も死んでしまいました。
 しかしですね、考えてみると、香華もお供えも準備していません。それで写真だけパシャリとかやってるわけですから、なんとなく申し訳ないなという気持ちもあったんですよ。で、一通り済んだところで、帰ろうと数歩歩いたら、急に呼ばれたんです。おいおい、って。私はそういう生活をしているので、そういうことがあっても全然怖くもないし、びっくりもしないんですけどね(笑)。
 で、なんだろうと思ったら、別に何も言ってくれない。しばらく待ってみたんですけど、沙汰なしなので、しかたなく(?)ケータイでもう一枚パシャリ(ピロリロリン)として、その場をあとにしました。
Zenrinji 帰り際、先ほどくぐった山門になんと東司がマウントされている(笑)ということに、大きな驚きを感じつつ、尿意も感じたのでせっかくですから、その山門の脚と一体化しているなんともハイテクなお便所で用を足しました。あれは画期的だけど、ホントにいいんでしょうか(笑)。やるな禅林寺。
 さあ、それでリハーサルに参加して、そして、禅林寺の隣の八幡様にもちゃんとお参りして、今日の本番が無事に終了しますようにと願を掛けたんですけど…。
 さあ本番が始まりました。最初のモーツァルトの序曲と続くハイドンのシンフォニーはまあ無事に終了。休憩をはさんで後半、ベートーヴェンの「英雄」です。昨日と今日の流れから、1楽章を弾きながら「英雄色を好む」だよなあ、とか思ったのが悪かったんですかね。いよいよとんでもないことの幕開けです(笑)。
 三鷹市芸術文化センター風のホールの素晴らしい響きに酔いしれながら1楽章を弾き終え、さあ2楽章です。最初はいつものように普通に弾き始めたのですが…。
 何小節目あたりでしょうかね。ピアニッシモを静かに弾いていた時のことです。ピアニッシモですよ、ピアニッシモ。フォルテッシモじゃないっすよ。突然、世界を支えている何か、何か張りつめたものが切れたような気がしたんです。
 「あれ?オレ死んだのかな?」
 まじでそう思ってしまいました。コト切れる時ってこういう感じなんでしょうか。
 まあ、本番で弦が切れるというのは、弦楽器奏者なら一生に一回くらいは経験するでしょう。あるいは弓の毛を止めている部分がはずれるということもないとも言えません。
 しかし、しかし、本番中、それもピアニッシモを弾いている時に「弓が折れる」というのはどういうことでしょう!?そう、「弓が折れた」んです!先っちょのとこがきれいに…。
 一瞬何が起きたか分かりませんでした。何しろ自分が死んだのかと思ったくらいですから。ああ、よりによって太宰の墓参りをしてベートーヴェンを弾いている時に死ぬなんて!
 死んだのは私ではなく弓の方でした。良かった…。
 これはさすがに弾けません。弦が1本切れたくらいなら、なんとか弾き続けられますが、弓が弓でなくなった状態で弾くわけもいきません。かと言って、エア・ヴィオラするわけもいかず、さあ困ったぞ。正直、「参った」。
 ベートーヴェンは静かに、しかし荘重に、そして無慈悲に流れ続けます。しかたない、諦めるしかない。様々なアクシデントに臨機応変に対応することに慣れっこになってきたことに、これほど感謝したことはありません。妙に冷静な自分。どちらかというと周りの奏者たちが動揺している…ごめんなさい。
 2楽章はその後10分以上続きました。私は楽器を抱えたまま、ステージの上で皆の演奏を聴くはめになりました。なかなかない経験だぞ。この居づらさはタダモノではない。しかし、これはこれでいいネタになるぞ、などと不謹慎にも、しかし多少太宰風にも思ったりなんかして、でもな、考えてみると、この弓は自分のものじゃないんだ!借り物だ。今、隣の隣で弾いている楽器職人さんのものを借りたんだ!やばい。もしかして数百万もするような名品なのではないか…いかにも使い古されている感じだし。
 いや、まずは2楽章が終了したらどうしよう。3楽章と4楽章もこの状態で何もせず座っているわけにはいかない。かと言ってピチカートで全部弾くというのは、これはベートーヴェンの意図に反する(笑)。いきなり退場するのもなんだし…どうすればいいのだ。
 あっ、そうだ。たまたま明日バロック・バンドの練習があるので、バロック・ボウも持ってきてるんだ!あれを取りに行って再び演奏に参加するのがいいのではないか!しかし、その考えをどうやって指揮者である坂本徹さんに伝えればいいのだ?
 と、ベートーヴェンをBGMにして私の思考はフル回転。そうこうしている内にとうとう2楽章が終わってしまいました。指揮者もさすがなもので、演奏中に生じた異常事態の空気を察してくれまして、替えの弓が楽屋にあるかどうかをジェスチャーで確認ののち、私を送り出してくれました。
 しかし、本当の恥ずかしい事態はそこから起きたと言ってもいいかもしれません。そう、あのステージと舞台裏をつなぐ壁と一体になった扉ってあるじゃないですか。あの分厚いやつです。あれってステージ側から開けようがないんですよ。いろんなところを押しても引いても引っ掻いても全然開く気配がない。これは時間にすれば数秒だったかと思いますが、なんとも気恥ずかしい長い長い時の淀みでした。会場のお客さんはみんな何が起きたのか理解できていませんからね。正直誰よりも多くの注目を浴びてしまいました。エキストラなのにね(笑)。ごめんなさい。
 結局扉はノックしているうちに開きまして(案外古典的な方法だったな…学んだぞ)、楽屋からバロック・・ボウを持ってきてステージに復帰。皆さん、長い長いチューニングをしてくれまして、ありがとうございました。そして、結果として使い慣れたバロック・ボウで3楽章と4楽章を弾き終えたのであります。めでたし、めでたし…なのか?
 いやあ、いい経験しましたよ。太宰さん、なかなかやってくれますね。今までもいろいろといたずらを仕掛けられましたけど、今回は最高でしたね。あっそうそう、結局、その弓の弁償費ですが、0円でした。なんでも、誰かからタダでもらったものだったそうで、もともと何か問題があったんでしょう。逆に変な弓を貸してしまって悪かったと恐縮されてしまいました。まさにいたずらって感じの結末でしたね。
 それにしても、大切な大切な定期演奏会をぶち壊してしまい、本当に申し訳ありませんでした。オケの皆さんごめんなさい。坂本さんごめんなさい。
 打ち上げで、アンケート読みました。「ヴィオラが一人消えてからが良かった」というのがありました。ん?どういう意味だ?(笑)

国分寺チェンバーオーケストラ 公式

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2008.10.11

『生きた、描いた、愛した~モディリアーニとその恋人の物語~』 NHKハイビジョン特集

E0039879_2222553 家モディリアーニとその妻ジャンヌ・エビュテルヌの激しくも切ない愛を描いたドキュメンタリー作品です。一人娘のジャンヌが書いた両親の評伝をもとに基本再現映像でまとめあげた力作。
 私もモディリアーニは比較的好きでしたし、神秘的な妻エビュテルヌのことは藤田嗣次の関係で知っていましたし、昨年彼女の作品が日本にも来ていたことも知っていました。しかし、なかなか評伝も読む機会がなく、展覧会にも行けず、またこの番組の本放送も見逃して、なんとなく忘れかけていたんですね。それが、今日たまたまテレビをつけたらやっていた。非常にラッキーでした。
 モディリアーニは大変ないい男で、もちろん才能もありましたから女にもてたと思います。実際いろいろな女性とつきあったらいしのですが、やはりエビュテルヌとの出会いは特別すぎました。まあ、写真をご覧になってわかるとおり、彼女はほとんど悪魔ですね。男はそういう悪魔にとりつかれて、その才能を開花させ、そして死に至らしめされるものです。
Img20070514_1_p モディリアーニは結果として夭逝の天才となってしまったわけですが、当時としては不治の病である結核を患っていたのですから、いずれにしても死は避けられなかったことでしょう。エビュテルヌは彼の残された短い人生を、彼の想像を超えて輝かしいものにしました。もしかすると、彼女がいなければモディリアーニはここまで高い評価を得なかったかもしれません。
 たしかに、ずいぶんと振り回されたようです。なにしろ、エビュテルヌは若くて美しい。絵の才能も並外れていて、モディリアーニも正直一目置いていたようです。そして、どこか憂いを秘めた暗さがあり、物静かだが時に理解不能な行動もする。モディリアーニにとっては、彼女は美の女神であると同時に、どうしても思い通りにならない悪魔のような存在でもありました。
 結局、ご存知の通り、モディリアーニが亡くなった2日後に、彼女は二人目の子どもをお腹に宿したまま飛び降り自殺をして彼のあとを追いました。あまりに哀しい結末です。彼女の家族にとっては、モディリアーニこそ悪魔だと思ったことでしょう。実際当初、二人は別々の場所に埋葬されました。カトリックの信者だったエビュテルヌの実家では、ユダヤ人のモディリアーニはまさに悪魔だったのです。
9 この番組を見終わって一つの感想を抱きました。それは、あのモディリアーニの目のことです。そう、彼の作品の特徴の一つである、あの瞳を描かない平面的な目のことです。
 彼自身は瞳を描かなくとも、充分にモデルの内面を描けると考えていたようですね。つまり、「目は口ほどにものを言」いすぎると感じていたのでしょう。私もそう思います。画竜点睛の難しさたるや、これはもう一度は絵を描いたことがある人は必ず理解できるはずです。現代のアニメやマンガなどで、逆に瞳を大きく描いたり、あるいは全体が黒目になってしまっているのは、きっと逆の発想ですね。記号化することによってパーソナリティーを排除しているのだと思います。あくまでキャラであって、生身のパーソナリティーは必要ありませんから。
 数多いエビュテルヌの肖像には、瞳を描いているものもあります。それは案外普通のかわいい少女像という感じですね。実際の彼女は非常に眼光が鋭かった。それがとても優しくなってしまっている。ある意味モディリアーニの理想のキャラ化が行われてしまっていて、絵としては力を失っているような気がしました。
406pxmortejeanne 今回の番組で紹介された絵の中で最もショックだったのは、エビュテルヌが自殺の寸前に描いた4枚の絵のうちの一つである、これでしょう。これは怖い。ここでは二人の目は完全な虚空になってしまっています。モディリアーニはそこに青などの色を塗ることで、生命感を保持する方法を発明していましたが、この絵にはその色さえありません。白というより、本当に何もない透明な空間が広がっています。我々は無限に広がる虚しい空間に見つめられているような恐怖感をおぼえますね。これは間違いなく死です。死を象徴しています。もう「人見」はない。こちらは見ていても永遠に見返してくれない恐怖です。目をつぶっているのとはあまりに意味が違う。
 おそらく、エビュテルヌの心はすでに虚空になってしまっていたのでしょう。そして、自分を見つめてくれる人もいないと感じていたに違いありません。その目の表現はモディリアーニが発明し、彼を有名にした究極の方法でしたが、しかしまた、一方では最も恐れていた描き方だったのかもしれません。彼はたぶん、その虚空を輪郭したのち、その恐怖から逃れるように(たとえそれが白であっても)いち早く絵の具を、色を、実在を、生命を塗り込んだのではないでしょうか。それは、結局は自分の生命を充填する行為だったのです。

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2008.10.10

『國文學』に拙稿が掲載されました

0182_2 、なんと…本日発売の『國文學 2008年11月号』の特集は、「『萌え』の正体」!よくぞやってくれました、學燈社さん。そして、なぜか私に原稿依頼が…。
 面白いものですね。ネット社会の一つの可能性を示す事例でしょう。昔だったらいきなり「國文學」から、どこの馬の骨とも分からヤツに原稿依頼なんて来ませんよ。
 そういう意味では、たしかにネット社会は庶民の味方ですね。梅田望夫さんが言う通りだ。以前、プロとアマの間に厳然としてあった壁は取り払われつつあります。それがいいことかどうか、文化の醸成の過程として正しいのかどうかは、これはまだ分かりませんけどね。
 ま、まずはこの特集の内容をご覧いただきましょう。ちょっと面白そうですよ。

「萌え」の本質とその生成について   斎藤環
「萌え」と「萌えフォビア」   伊藤剛
「萌え」の行く先――文学は敗北したのか   本田透
「キャラ萌え」とは何か   高田明典
音楽萌え―その諸相と東方・初音ミク―   井手口彰典
第三のジェンダー「萌えるヒト」   村瀬ひろみ
「萌え=をかし」論   山口隆之
萌えの世界はどこまで広がるか   堀田純司
児童ポルノ法は「萌え」を裁けるか   原田伸一朗
創造的コミュニケーションとしての「萌え」   shiburin
二次元と三次元の狭間に住む女の子たちの話   金巻ともこ
個人的萌えと商業的萌え、萌えとかわいいとエロの関係   ヤマダトモコ
「萌え」の構造~聖と俗の幾何学~   海猫沢めろん
(投稿原稿)「萌え」における現実と非現実   藤本貴之

 むむむ、そうそうたるセンセイ方のど真ん中に位置して、なんとも居心地悪そうにしているワタクシの「萌え=をかし」論。実際お読みになるとお分かりになるでしょうが、内容的にも一人浮いています(笑)。
 しかし、ありがたいことに、「萌え」やオタクの世界から遠い人々からは、一番分かりやすかったとのお言葉を、また、今回原稿を書くにあたってたいへんお世話になった、オタク男子や腐女子の生徒諸君からも、なかなかいいんじゃない?とのコメントを多数いただきました。ありがとうございます。
 それにしても、いつのまに私は「萌え」の研究家になってしまったのでしょうか(笑)。私を知っている人からしますと、アニメも観ない、マンガも読まない、ゲームもしない、昔の秋葉原にはよく通っていたようだが、今のアキバからは足の遠のいているようなヤツが、何を知ったかぶって語ってるんだ、という感じかもしれませんね。まあ、ある意味、少し(かなり)離れた立場から客観的に考察できるというメリットもありますが…。
 私は、今表層的にとらえられている「萌え」というのには興味がありません。それは、性欲と経済にからんでいるからです。その二つは、人間の先天的第一位の欲求と、後天的第一位の欲求であり、「萌え」に限らずいろいろな文化現象や人間の心性に、常に影を落としているからです。つまり、その二つの目に見えやすい属性は、「萌え」に照射されている、あるいは反映しているものであって、その本体ではないと思っているのです。
 ですから、他の論者の方々とは、かなり違った内容になっているわけですね。そういう料理のしかたをすることによって、批判の対象になるだろうということも当然想定しております。しかし、それをあえてやってみることにも多少は意味があったと自負していますよ。
 だいいち、これは「國文學」です。ユリイカではありません(笑)。ある意味、一番「國文學」してるのが、私の文章ではないでしょうか。実際そう言ってくれた方が何人もいました。皮肉なことですね。本来の「國文學」においては許されないような、編集者泣かせの軽薄な文体が、結果として最も「國文學」らしくなってしまったというのは。
 それこそが、現代の国文学のありようを象徴しているのかもしれません。この歴史ある雑誌のみならず、多くの国文学の権威は今や地に墮ちつつあります。いわゆる小説を現代国文学の中心に据えてしまっている限り、この状況は好転しません。その辺の事情、特に「小説は死んだ」ということに関しては、このブログにもたくさん書いてきました。
 しかし、私は、ほんの少しだけれども、「萌え」ではない「文学」に期待もしています。それは、拙稿の終わりにさりげなく書いたつもりです。いや、ちょっと感動したのはですね、実は拙稿の掉尾に記した部分、そこだけ編集の手が入ったんですよ。すなわち、こういうことです。
 私は最終節、「萌え=をかし」の時代が終わって、再び「もののあはれ」の時代が来ることを期待するというようなことを書きました。そして最後は、自分なりのメッセージをこめて、

 それはきっと悪いことではないだろう。我々にとっても、社会にとっても、地球にとっても。
 加えて言えば「国文学」にとっても。なぜなら、「文学」の主たるテーマは、「時」との、「無常」との、「不随意」との闘いだからである。

 と結びました。実はこの「国文学」というのを旧字体にするか、新字体にするか迷ったんですよ。で、結局、なんか「國文學」ではあまりに露骨だなと思って、一般名詞の新字体にして原稿を送ったんです。そしたら、できあがったものは、しっかり旧字体「國文學」になっていました!うん、素晴らしい。私はそこに関係者の強い意志を感じましたね。期待ではなく意志ですよ。
 はっきり言って、「國文學」がこの特集を組むのには、そうとうの勇気が必要だったと思います。人によっては「國文學」も終わったなと言う人もいるでしょう。しかし、この勇断の裏にある強い強い意志と愛情の存在を、私はしっかりと感じました。
 まさに、重層的な意味において、「國文學はじまったな…」ですな。面白いですね。歴史上全ての文化はこうして時間と闘ってきたわけですか。
 ところで、この「萌え=をかし」論ですが、お気づきのとおり、私の専門(?)である「モノ・コト論」に一切触れていません。今回はあえてそれを省きました。それを書き出したら数倍長くなってしまったからです。それはまたいつか別の機会にまとめたいと思っています。

参考記事 『をかし』の語源…『萌え=をかし論』の本質に迫る!

Amazon 國文學 2008年11月号

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2008.10.09

「対称性の破れ」と生命力

0810091 アル「理系の人々」。今日のNHKクローズアップ現代は、このたびノーベル物理学賞を受賞した3人のうち、日本在住のお二人を招いての対談。これがなんとも面白かった。
 まず、いつもの失礼をお赦し下さい。
 最近家族でアニメ版初代「天才バカボン」を観てるんですけど、なんていうかなあ、超一流の学者さんたちって、みんなバカ田大学のセンセイたちみたいですよね(笑)。なんかキャラが浮世離れしている。
 いつかも藤原正彦さんのことをそんなふうに書きましたっけ。鈴木孝夫大明神もかなりぶっとんでましたなあ、そういえば。
 まあ、だいたい大学のセンセイなんてのは皆さん浮世離れしていて当然というか、浮世離れしてるから大学のセンセイやってるっていうか。もちろんたまにまっとうな人間もいらっしゃいますが、たいがい素晴らしくキャラが立っている。爆笑問題のニッポンの教養とか観てても、それでだいたい笑っちゃう。
 で、今回もなかなか皆さんいい味を出してますね。いやあ、やっぱり天才バカボンって真理だよなあ。今朝のニュースでインタビューに応じていたノーベル化学賞の下村脩さんもそうでしたけど、この番組でのお二人、特に益川敏英さんの日本語はわけわからなくて面白かった。
 これはですね、単なる「老人力」じゃないですよ。絶対何かあります。言語って社会的なものです。で、彼らなんか社会との接点である論文は英語と数式で書きますからね。浮き世の日本語とはいつのまにか縁遠くなっちゃうんじゃないでしょうか(笑)。その点、小林誠さんは冷静に言葉を選んでいてけっこう普通でした。
 さて、そんな話はいいとして、南部陽一郎さんの提唱した「対称性の破れ」。これを結果として証明したのが、このお二人の受賞のきっかけとなった「6元クォーク模型」の「小林・益川理論」と言えます。クォークの話にまでなると詳しいことはよく分かりませんが、まあとにかく、粒子と反粒子の数が不均衡であって、それによって、我々の世界(宇宙)がある、あるいは質量があるっていうことですよね。
0810092 それを聞いていて思ったんですけど、この益川さんと小林さんって、まさに対照的なお二人でして、つまり、どっちがどっちか分かりませんが、とにかく粒子と反粒子みたいな感じですよね。そして、お二人が完全に対称であったら、おそらくその才能やキャラは完全に打ち消し合って(光になっちゃって)、何も残らなかったかもしれません。
 おそらく、お二人はとってもいいペアであったのですが、微妙に対称性が破れていたから、こうした偉業が残ったんでしょうね。ばっと見る限り、益川さんがちょっと出っ張ってるっていうか、勇み足気味ですね。すなわち粒子。
 でも、ある分野やあるキャラやある才能においては、目には見えにくいけれども小林さんの方が抜きん出ていたんでしょう。まあ、そういうふうに、数式では表されない微妙で複雑な非対称が組み合わさって、こういう重みのある結果が残ったわけです。なんか、お二人が「対称性の破れ」を体現しているようで、実に面白かった。
 こういう、対称性の破れや均衡の崩れこそが一つのダイナミズムになる、というのは、たとえば音楽など、いろいろな分野に見られることですね。全てにバランスがよく、安定し、調和しているということは、ある意味「死」を意味します。意外な不均衡や、意外な出会いによって、我々や世の中は生命力を帯びているわけです。
 また私の「モノ・コト論」になってしまいますが、安定して変化しない「コト」よりも、無常で転変する「モノ」の方が生命の本質であると、私は考えています。つまり、昨日の話の続きから言いますと、実は理系の人々は「死」の研究をしているんです。文系は「生」。こんな乱暴な区分けをすると、それぞれから非難を浴びそうですけど、実はちょっと当たってると思いますよ。
 だから、今回の「小林・益川理論」は、理論になって証明された時点で「死」にました。もちろんその「死」は負のイメージの「死」ではありません。目的とするのが「死」なのですから、それはめでたいことです。しかし、今度はその「死体」が残した遺産から新たな生命が生まれる。また別の生命体と結合したり融合したりして、新たな非対称を生んでいく。
 過去と現在と未来の関係というのは、全てそういう「モノ」と「コト」、「生」と「死」の循環によって成り立っているのでした。

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2008.10.08

『理系の人々』 よしたに (中経出版)

80613157 ーベル賞4人って…。もっと増えたりするんでしょうか。村上春樹さんとか…。
 で、とりあえず理系の4人の先生方のインタビューが実に冷静で面白かった。もし私だったら(…って、ないない…笑)宝くじ当たったみたいに喜んじゃいますよ。カッコいいなあ、おじいさんたち。
 というわけで、実に好タイミングでこのコミックを読みました。今、職員室でちょっとしたブームです。いやあ、実に面白い。面白すぎる。
 よしたにさん、ぼく、オタリーマンでは、自らのオタクぶりとサラリーマンぶり(?)を暴露し、やや自虐の印象が拭えず、よってダヒャヒャとは笑えない空気を醸していましたけど、こちらはもう断然笑える。
 そう、私は根っからの文系…ではなくて、根は理系のオタクなのに文系の花が咲いてしまった(咲いてない、との指摘も)やや特殊な立ち位置にいる人間なので、けっこう共感、理解できる上に、客観的に他人事として笑えるんですよね。
 ちなみに私が、このマンガのネタとなっている多くの理系属性の中で、自分に「あるある」と思ったのは、約15%でした。まあ、こんなもんでしょう。ちょっと残念な気さえします。向かいに座っている女性化学者はやや謙虚に50%(やっぱり女性ですからね、メカ系とかにそれほど執着しないので)、そして、斜め前の男性数学者は99%当てはまっている!と、嬉々として申しております。
 その数学の先生と話したんですけど、やっぱり彼なんか、車を運転している時、前の車のナンバーの4ケタの数字を見てですね、四則計算を駆使して答えを10にするなんていうことを、ほとんど無意識でやるそうです。いや、そんなのは小学校で卒業したとか(笑)。実際はそんな次元ではなく、4ケタの全ての数字の組み合わせの中で、答えを10に導ける組み合わせのパーセンテージを瞬時に言ってのけました。8割超えてるんだ…へえ〜。
 考えてみると、私も理系を目指していた頃は、そういう思考が大好きでしたね。やっぱり物事はっきりさせたくてしかたなかった。それができると快感でしたしね。つまり、私の「モノ・コト論」でいうところの「コト」に対する執着です。脳内での成就によってドーパミンがどっかんと出るんでしょう。
 で、理系世界において負け組になったのは高校生の時。そうそう、この前高校の数学の授業のこと書いたじゃないですか、自虐的に(笑)。あんな感じで、脳内不可成就を味わっちゃったんで、なんとなく「コト」にふられたような気になって、それで「モノ」世界に行っちゃったわけです。物質とか物品という「モノ」ではなくて、「もののあはれ」の方です。
 そんなプロセスを経ての今の私ですから、この「理系の人々」に対しては、半分羨望があり、半分揶揄してやりたい気もあり、まあ屈折したジェラシーみたいなものがあるんですね。お分かりになりますよね。だからこそ笑えるんです。
 じゃあ「文系の人々」が出たら笑えるかというと、これは笑えない。なぜなら、「文系の人々」では作品にならないからです。面白くないと思います。だいいち、こういうある意味冷静かつ客観的な自己分析というものを、文系の人間はできませんし、いや厳格な自己分析をしないというのが文系の特徴ですから、原理的にこういう作品は存在しないんですよ。たぶん長編の小説みたいになっちゃうんでしょう。で、結局なんだったのという余韻だけ残して去っていく(笑)。
 このマンガの中にもいちおう「文系の人々」が登場しますが、やっぱり描写は甘いと思います。てか、単なる理系の敵として表現されてますね。こんなにスマートじゃないっすよ。文系のヲタっていうのが、実は一番たちが悪いっていうか、使えませんからね(笑)。
 ま、一つ言えることは、世の中は案外理系のオタクが回しているということです。文系のオタクは世界のことなんか考えていませんから。理系が世界共通の、あるいは宇宙共通の(しかし、もしかすると脳内宇宙に限ったことかもしれないが…)「コト」にこだわるというのは、それなりの社会性だと思いますからね。執着する自己の世界観が、社会の公約数と一致しているんです。
 文系は辛いですよ。自己のモヤモヤにこだわればこだわるほど、それが現実社会から離れていってしまうように感じる。実際はそのモヤモヤの方に、世界の本質があると信じていますが…最大公倍数って、たぶんあるよなあ。

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2008.10.07

あんたがたどこさ

↓船場橋の狸(?)のモニュメント
0907200114 節柄忙しいので、もういっちょ音楽ネタです(ちょっと手抜き)。
 今、学校にオーストラリアの姉妹校から交歓生が来ています。で、日本の文化を紹介するということでしょうか、ある先生の授業で「あんたがたどこさ」をやりました。それで、改めて私もこの手まり唄について考えてみたんですけど、これってけっこうすごいですね。
 楽譜にしてみて気づいたんですけど、これをいわゆる西洋風の五線譜にすると、とってもプログレなことになりますなあ。文脈というか、フレーズ的に言いますと、「あんたがたどこさ」が4拍子、「ひごさ」が2拍子、「ひごどこさ」「くまもとさ」がそれぞれ3拍子、「くまもとどこさ」が4拍子、「せんばさ」が2拍子。「せんばやまには」「たぬきがおってさ」「それをりょうしが」「てっぽうでうってさ」がそれぞれ4拍子、「にてさ」「やいてさ」「くってさ」がそれぞれ2拍子、「それをこのはで」が4拍子。「ちょいとかぶせ」は4拍子あるいは3拍子+1拍子(?)。
 ま、もともとこういうカウント法にムリがあるんで、異論もあるでしょうけど、いちおうこんな感じで分節してみますと、まあかなり複雑な変拍子ということになりますね。さらに御存知のように、それぞれの「さ」のところで足を挙げて鞠をくぐらすので、そこにアクセント(気合い)が来ます。かな〜り斬新なシンコペーションですな。
 我々の意識の中では、もちろんこんなプログレなことにはなっていなくて、日本人の感覚は基本的に1拍子ですから、そうなるともうなんでもありなわけです。
 そして、旋法的にも西洋的な感覚からかけはなれています。ペンタトニックにもなってない。4音です。調性を確定することも難しい。
 ですから、これを西洋風なテクニックで編曲、演奏すると次のようなことになってしまいます。手元にあったある童謡のCDはこんな感じ。

「あんたがたどこさ mp3」

 あらら、やっちゃった。やりたくなる気持ちはよく分かりますが…。この半音下降のバスは、これは狸の受難に対する涙もしくはため息の比喩でしょうか(笑)。
 あと、YouTubeで見つけた、この矢野顕子ヴァージョンはなかなかオシャレ。さすがですね。

矢野顕子による童謡

 続いて、これもやらかしでしょうか(失礼)。なんで、合唱の曲ってこうなっちゃうんでしょうね…いや、すごい編曲テクです。これぞプログレ。

信長貴富による編曲

 というわけで、結局はシンプルな手まり唄が一番いいということで。
 ちなみにこの唄の素性や歌詞についても、いろいろと謎があるようです。次のサイトを参考にしてみてください。

あんたがったどこさの歌詞って?

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2008.10.06

NICO Touches the Walls 『Who are you?』

516emqsaul_sl500_aa240_ 楽ネタが続いてるところで、もういっちょ行ってみましょう。
 8月末の「SWEET LOVE SHOWER 2008 in 山中湖」でいくつか気になるバンドに出会いました。この NICO Touches the Walls もその一つ。すんなり耳に入ってくるロックでありながら、なんとなく心に残る存在感のあるバンドでした。
 そのNICOのデビュー・アルバムが出たので聴いてみました。
 なかなか良かった。まだ二十台前半の彼ら。たしかに洗練されていない若さを感じさせる部分もありましたが、適度な統一感と変化によりまとまりのあるアルバムになっています。
 いい部分はたくさんのファンの方々がたくさん言及してくれるでしょうから、今日はあえて気になった点をいくつか指摘しておきましょう(偉そうに…笑)。
 ライヴでは、いかにもロックという、会場との一体感を目指す演奏を目指していたようですが、アルバムでは一音一音大切に演奏している感じが伝わってきます。ミキシング(特に定位)のクセなのか、ややアンサンブル感が希薄に感じられるとい言えば言えますけど、まあそのおかげで各パートをじっくり聴き分けることができました。でも、もうちょっと工夫した方がいいかな。そのせいで全体が単調に感じるのも事実です。
 なんというか、そういう定位の感じというか、距離感だと思うんですよね。ミキシングの妙は。最近のデジタル・レコーディングは特に平面的になりやすい。なんでかよく分かりませんが、ベターっとしちゃうんですよね。最近の若者はスピーカーではちゃんと聴きませんからね。次元が違うのかもしれませんが、どうも最近の録音には立体感がない…ような気がする。結果として、どうしてもコラージュというかパッチワークというか…。ま、最初にライヴで空気感を味わってしまっているのでしかたないかな。
 で、このバンドはギター2、ベース、ドラムスという四人組です。ここのところスリーピースを聴くことが多かったので、こういうリズム&リードというある意味基本的なギターの音作りを聴くと、なんとなく懐かしく感じてしまいますね。ただ、さっきの録音的なこともありますが、ずっとそれぞれの役割がはっきりしすぎていて、単調になっているのも事実です。各パートの編曲に有機的なつながりがあるともっと説得力が増すでしょう。
 逆に言えば、彼ら自身が、自分たちの音、というものを確立したいのでしょう。それぞれの楽器の音も比較的クリーンなものを求めて、それを徹底しているように感じました。
 楽曲はシンプルでありながら、いろいろな色合いのものが並んでいて、なかなかよろしい。そういう意味では飽きさせない。作曲の能力としては、かなり高いものがあると思います。平均点以上の曲がほとんどです。どれもどこかで聴いたことあるような気がしますけど(笑)。これから、どうやって自分たちらしさを作るかが課題でしょう。なんとなく心に残る…ではなくて、攻撃的にでも心に刻まれるフレーズを作っていきたいですね。ロックなんですから。
 最初に書いた若さというのは、あまりに正直なギターのフレーズに最も表れています。それが今は、ギリギリの良さにつながっていると思います。変に作られた感じがなく、どちらかというと学生バンド風で、そこにちょっと甘酸っぱいというか、ちょっと気恥ずかしいというか、そういうギリギリな魅力を感じますけどね。これからどうやってキャリアを積んでいくか楽しみです。ロックはやっぱりギターのフレーズ・センスですからね。あと、音を削っていく勇気。頑張りましょう。
 ヴォーカルは一瞬ミスチルの桜井さんぽく聞こえます。声質や歌い方もそうですけど、言葉の譜割りですね。そう、サザンの桑田さんが創始し、ミスチルの桜井さんで一つの完成を見た、あれですよ。簡単に言えば英語風な譜割りですね。開音節構造のために、それまで基本的に一音節一音符という縛りがあった日本語の、その母音を圧縮する(場合によっては発音しない)ことによって、まるで複数の子音の並んだ英語の一シラブルのように、一音符にいくつかの「カナ」を押し込んでしまう歌い方です。私は、これがどうしてもできません。カラオケでも絶対に歌えません。歌詞を伝えるという意味でも、この歌い方には私は賛同できません。古い人間なんで(笑)。
 これからどういうプロデューサーに出会って、どう成長していくか非常に楽しみなバンドですね。また、生で聴く機会があることを期待しています。

NICO Touches the Walls 公式

Amazon Who are you?

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2008.10.05

東京クラシカルシンガーズ&オーケストラ・オン・ピリオド・トウキョウ第7回演奏会 その他もろもろ

宝石箱 ザルツブルク〜モーツァルトを導いた作曲家〜
Salzburg 来場くださった皆さま、ありがとうございました。大盛況のうちに終了いたしました。
 立派なソリストの方々と、音楽への真摯な姿勢にあふれた合唱団、そして古くからの音楽仲間の多いオーケストラ(ちなみに隣で弾いていた人は高校時代にも隣で弾いていた人)とこうして立派なホールで演奏できるのは、本当に幸せなことです。
 もちろん指揮者の坂本徹さんからは、本当にいろいろと学ぶことができます。昨年も感じましたが、器楽奏者もやっぱり歌が基本なんだなと。歌と一緒にやることによって、脳のある部分が目覚める感じです。
 坂本さんの指導にはいちいち納得です。まず、決めすぎないのがいい!こちらでキース・ジャレットが言っているとおりです。今生まれたかのように演奏しなければ。毎度言うことが違って当然です!私もあらゆる分野において、「知ることは何より重要だが、決めつける必要はない」というのをポリシーにしてますから(実は単に思いつきのハッタリ人生なんですけど…笑)、非常に共感しますよ。
 それにしても、今回はなかなか渋いプログラムでしたなあ。こういう機会でもないと一生演奏することも聴くこともないような曲目でしたからね、私としても貴重な経験ができました。さまに「知る」体験になりました。
 ザルツブルクの特徴なのか、ヴィオラのパートがない曲が多かったので、前半はちょっと余裕。舞台袖でゆっくり鑑賞させていただきました。
51adh80mg6l_sl500_aa240_ そうそう、歌から学ぶと言えばですね、最近歌謡曲バンドからもとっても学ぶことが多い。で、ですねえ、実は合唱団のバスパートに松田聖子マニアの方がいらして、前半と後半の間の休憩の時間には、ついつい神童モーツァルトそっちのけで、リアル神、松田聖子様のお話で盛り上がっちゃいましたよ。いやあ、熱い熱い。もう一生ついていきます!だそうです。なんでも若い頃ファンクラブに入っていらっしゃったそうで、結婚を機にその熱がさめていたのが、昨年突如再燃したとか。昨年の私と同様、今年さいたまスーパーアリーナでのコンサートに参戦されて感激されたとのこと。これもまた何かのご縁でしょう。
 後半のモーツァルト「孤児院ミサ」は、なんと彼が12歳の時の作品。たしかにちょっとした幼さものぞく作品ですけど、しかしなあ、メロディーの展開や斬新な和声、そして見事な対位法…たしかに天才だわ。天才というか、人間ではないな。ちょっと気持ち悪いかもしれないなあ。小学校6年生でしょ…。ウチの3年生の娘に「おい、3年後こんな曲作れるか?」と聴いたら、軽く「作れるよ」って言ってましたが(笑)。
 さて、本当は打ち上げで聖子ちゃん話の続きをしたかったのですが、実は今日は本番終了後すぐに来週の本番の練習があって移動しなくてはならなかったのです。指揮者を含めて、今回のオケとかけもちしている人が6人いまして、みんなダブルヘッダー。いやあ、なかなかハードですわ。
 で、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを練習。私はベートーヴェンなんかほとんど弾きもしないし聴きもしないので、ある意味新鮮です。ちょうど昼間のコンサートでバロックのビーバーから少年モーツァルトへの流れが出来ていましたから、さらにその先、音楽史的な展開を体感できましたね。
 そう、私はほとんど当時の人と同じ体験をしてるんですよ。つまり、いきなりベートーヴェンの「英雄」の楽譜を渡された当時の楽士の気分です。これはショックですよね。それまでの音楽とあまりに違う。もちろん流れがあり、基礎的な部分は多くの先輩たちにならっているわけですけれど、それにしても新しいアイデアが豊富すぎる。これはプログレです!
 ハハハ、いやプログレがベートーヴェンの影響を受けてるんですけどね。私はプログレはたくさん聴きましたが、ベートーヴェンはあんまり知らないんで、発想が逆です(笑)。複雑な展開、過激な転調、変拍子、異様な長さ。ああ、そうか、プログレのバンドで演奏してると思えば楽しいな。
 しかし、疲れ切った頭と体には、慣れないプログレはきつかったなあ…。さすがに練習しないと弾けませんね。それなりに頑張ります。
61dyiussqvl_sl500_aa240_ と、疲労困憊して全てが終了したのが9時過ぎ。帰りの車の中では、意外な音楽が私を癒してくれました。ものすごく気持ちが楽になりました。それは、メタリカのニューアルバム『デス・マグネティック』です。うん、これは完全にバロックだ。単純なリズム。わかりやすい展開。ドミナント指向。循環コード。オン・ザ・ビートで分散和音のギター・ソロ。
 こちらにも書きましたね。ヘヴィーメタルは案外古典的だと。このアルバムはすごいですよ。ベテランによる古楽演奏という感じです。成熟した美しさです。なんだろうなあ、この叙情性は…。
 というわけで、今日は音楽三昧というか、なんというか。この世に音楽があって、本当によかった。とっても幸せな一日でした。皆さんありがとう!

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2008.10.04

宇多田ヒカル 『HEART STATION』

51kqqbpir0l_sl500_aa240_ 年も遅れてますけど、とりあえず聴いてみました。どうしてこれほどに売れるのでしょうか。その秘密を知ろうと思って耳を傾けてみました。
 まず第一印象。声の印象がお母さんに似てきたなと。ここであえてお母さんの名唱を二つほど。
圭子の夢は夜ひらく
新宿の女
 顔も似てきたかも。というか、宇多田ヒカルってまだ25歳なんですね。なんかもうベテランという気がしてたんでビックリ。たしかに芸歴は長いけど。
 さて、「圭子の…」は単純な短調の曲です。「新宿の…」は長調の四七抜きですね。ふむふむ。
 で、娘さんの方はどうかというとですね、これがまあ面白いほど一つの特徴を持ってます。よって、私は全部同じ曲に聞こえます(笑)。もちろん、歌詞抜きで考えてですよ。そして、そこのところに宇多田らしさというのが現れていて、そして、そこのところに日本人が感じ入るということが分かりました。非常にシンプルです。
 これは演歌ですね。新しい演歌。ほぼ全曲同じ手法によって作曲されている。つまり、音楽としては非常に単調です。しかし、ある意味新しい。古い手法だけれども、それを徹底することによって新しくなっている。そして、演歌と同様に微妙な差異や歌詞で聴かせる音楽になっている。これは面白い。
 ちょっと音楽をかじったことがある人ならすぐに分かると思いますが、ほぼ全曲、重要なメロディーの部分のコード展開が4→( )→6になっています。そして、全体に調性感があいまいというか、長調なのか短調なのか微妙なあたりをフワフワしています。
 メロディーは長調で言えば四七抜き、短調で言えば二六抜き、非常に単純でして、ブルーノートも全くありませんし(これでなんでR&Bに分類されるのか…笑)、短調における導音が半音上がることも全くありません。そしてしつこいほどのリフレイン…。
 これは明らかに反西洋近代音楽であり、反黒人音楽ですね。いわば現代の洋楽からはかなりかけ離れている、日本独特の、まさにJ-POPだということになります。うん、たしかに『J-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ』でも指摘されていたような気がする(内容を忘れてしまった)。あと、『歌謡曲の構造』ですね。小泉文夫さんが宇多田ヒカルを聴いたら、けっこう面白がると思いますよ。ああ、こういうふうに四七抜きと二六抜きが混合されていったかと。
 まあそういう意味では、戦後発明された様々な日本的大衆音楽作曲法の集大成だとも言える。歌詞もちょっと面白いですね。案外アンニュイであり、しかし演歌と違って案外漢語が多く使われていたりする。今の若者たちの心にしみるのは、そういう漢語だったりカタカナ語(英語ではない)だったりするんですね。だって、いろんな病気の名前とか、社会問題へのネーミングとかって、みんな漢語やカタカナ語じゃないですか。あるいはローマ字略語。あえて例は挙げませんけど。
 アレンジ的にはとってもデジタルな感じで、私なんかちょっと入り込めないわけですが、これもまたいかにも現代的なんでしょう。そんなところに藤圭子風の(!)肉感あふれる歌声が乗るので、とっても不思議な感じがしますね。まさに現代のテクノロジーや言葉たちに翻弄されるアナログな人間像です。面白いですね。
 というわけで、私のようなオジサンからしますと、案外単純なしかけがあって、それで売れるんだなということが分かります。それにしても、全部同じに聞こえて困る。最初の2曲なんか、キーも同じだし。あえて言えば、タイトルが日本語になる最後の3曲(オマケは省く)で、オジサンは少し安心しました。
 ま、それほど聴き込もうとは思われない作品ですが、今度は歌詞をじっくり読んでみたいと思います。

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2008.10.03

今こそ「八百長」の精神を!

118659_c450 の大相撲八百長訴訟で、横綱の朝青龍が出廷して証言しましたね。ああ、大相撲もとうとうここまで来ましたか。終わりですね。
 これはプロレスは八百長かという議論に似ていますが、プロレスではチャンピオンが出廷して「八百長ではありません!」とは証言しないでしょう。朝青龍はまたウソをついてしまいました。
 いや、朝青龍は「がちんこ」しかしていないかもしれません。ただ相手はどうかわかりませんね。
 もともと、相撲は本来の「八百長」によって成り立っていました。本来の、ということは、今世間で言われる「八百長」の意味が、間違っていると思うからです。御存知のように、八百長という言葉の語源は、次のように説明されます。せっかくですから、日本国語大辞典から引きましょう。

〔名〕
(八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように手加減したところからという)

1 相撲、あるいはその他の競技で、前もって勝敗を打ち合わせておき、表面だけ真剣に勝負を争うように見せかけること。
*万朝報‐明治三九年〔1906〕四月五日「ワザと決勝点間際で自分から落車し、暗々裏に此の勝負の八百長である事を示して」

2 転じて、一般に、前もってしめし合わせておきながら、さりげなくよそおうこと。なれあい。
*明治叛臣伝〔1909〕〈田岡嶺雲〉総敍・二「八百長(ヤホチャウ)や冗談にするのでない、真剣である、真面目である」
*明治大正見聞史〔1926〕〈生方敏郎〉明治時代の学生生活・一一「どうもこれは客と高座と馴れ合って、八百長的に題を出すらしかった」

 もう一度言います。相撲もプロレスも本来の「八百長」によって成り立っていました。ある意味それが本質であるとも言えます。相撲もプロレスもスポーツではありません。興行(見世物)であり神事です。そこから「八百長」を取ってしまったら、どうなるでしょう。そう、今の相撲界になってしまうんです。
 興行のストーリー性が失われ、一番一番の相撲が味気ないものになり、けが人が続出、絶対的な王者が不在になり、単なる混沌が残るのみ。ひどいことです。がっぷり四つに組んで土俵際から押し返すなんていう相撲はもう昔の話。
 プロレスはどうだったか。たしかにこの10年は大変でした。それについては、こちらに書きましたね。そして、あの総合格闘技が生まれ人気を博しました。しかし、一方でプロレスは本来の「八百長」精神をさらに強固にし成長させて再びその人気を得ようとしています。この前のキャンプ場プロレスなんか、ガチンコでできる世界ではありませんね。
 相撲も考えてみれば、前日に翌日の取組を決めるなんてところだけを見ても、絶対にスポーツではありません。それこそ言い方によっては八百長です。興行が盛り上がるように取組を決めていくわけですからね。
 こんな無粋な論議が起こる前には、本当に人々を楽しませる相撲が多かった。つっぱり合い、水入り、多彩な技…。今、相撲はまるで総合格闘技のようにパターン化しています。純粋に勝つための方法というのは、実はとっても少ないのです。経済の世界と一緒です。ずるいことをしてでも、相手をケガさせても勝てばいいのです。そんな相撲を誰が喜んで観るでしょうか。神様だって怒ります。
 だいいち、八百長という言葉の裏側に「がちんこ」という言葉があったこと自体、相撲やプロレスの本質が本来の「八百長」にあったことの証明です。どちらかというと「がちんこ」の方が非常事態だったんですね。ただ、たまに起きるその「がちんこ」という非日常性(!)が、全体の良きスパイスになっていたことは確かです。相撲においてもプロレスにおいても。それは一つの事件でしたから。それこそ訴訟になってもおかしくない事態ですよ。
 もう一度「八百長」の語源を確認しましょう。
(八百屋の長兵衛、通称八百長という人がある相撲の年寄とよく碁をうち、勝てる腕前を持ちながら、巧みにあしらって常に一勝一敗になるように手加減したところからという)
 長兵衛さん、相手に気を遣い、あるいは観客に気を遣い、大いに盛り上げ、その時間を演出によって濃密かつ幸福なものとしたわけです。一勝一敗に持ち込んで、盛り上げて、最後は自分が勝ったわけですよ。プロレスの三本勝負ですな。で、年寄も自分も観ている人も満足する。何が悪いんですか。
 これがどんな相手にもガチで挑んで、こてんぱんにやっつけるような長兵衛さんだったら、きっと嫌われますし、相手も不快なだけ。みんな不幸になりますよ。そんな世界、無粋すぎます。
 つまり今回の一件は、週刊現代すなわち講談社が無粋の発端です。板井も痛い。たしかに馴れ合いとカネの算段が行きすぎていたことは事実です。しかし、だからといって根底から覆さなくてもよかったのでは。
 あ〜あ、これも小泉改革の歪みでしょうか。談合の全てが素晴らしいとはいいません。しかし、昨日の話ではありませんけど、本来の不公平を互助意識によって再分配するのも一つの智恵だと思いますよ。ガチは単純な勝ち組と負け組を作るだけです。格差を生むだけです。そして、みんなが疲弊します。ムリ・ムダ・ムラを排すると、そこにはそういう寒々とした風景しか残りません。

石原都知事の発言

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2008.10.02

『爆笑問題のニッポンの教養 「愛の政治学入門」~政治学 姜尚中」』(NHK)

Dtytr いかわらず政治の舞台はドンチャンやってるようですね。なんのための政治なのか、誰のための政治なのか、よく分からん状態です。私自身不謹慎にも、政治は演劇だ、みたいなことばかり書いてきました。それには一つ諦めみたいな気持ちも含まれているわけですが、それにしても、こういう姿勢の国民が増えれば増えるほど、ますます政治は本来の機能を果たさなくなってくるんでしょうね。
 昨日放送された爆問学問の録画を観ました。東大の姜尚中教授の語る政治学は案外単純。人と人が言葉で交わりあうのがその本質であると語ります。
 そのとおりでしょう。人が集まって社会ができて、それでいろいろな価値観や感情や利害が交錯するようになる。そのコーディネイトが本来の政治の役目だと思います。
 今はどうでしょう。私の感覚からしますと、経済のための政治になってしまっている。たしかにカネがなければ人は荒みますし、言葉以前に暴力で食べ物を得ようとするものです。しかし、現代のようにある程度我々の生命の保証がなされている時には、本人の生命の危険というよりは、やはり不公平感が怒りにつながります。ですから、今国民が怒っていることや、政治家が叫んでいること、そしてニュースもほとんどカネの不公平の話じゃないですか。金持ちも貧乏人もみんな今よりカネがほしいと思っているわけですから、それはそうなります。
 資本主義市場経済を採用しているかぎり、それは不公平をベースとしたシステムですから、その怒りや悩みは絶対になくなりませんよ。じゃあ、共産主義や社会主義ならいいかというと、それもまた本質的に不公平の原理をはらんでいますから、やっぱりダメです。
 不公平感は怒りや嫉妬や憎しみを生み、それが暴力につながります。さらにそれが戦争になったりしますね。昔は食べ物という実質的なものを巡っての戦いでしたが、今は人間が作り出したカネを巡っての戦いがほとんどです。実質的なものは、自然の節理に従って変化しますから、ある意味人知を超えた部分があって、それで神に祈ったりする、いわゆる「まつりごと」を機能させる必要がありました。それが昔の政治でしたね。
 でも、今は実質のない幻想の悪魔を巡っての戦いだからどうしようもない。全部人のせいにできる、というか人のせいにしたくなる。そうすると怒りなどは収まりようがありません。相手を消すしかなくなります。それが殺人や戦争です。
 ですからね、私は、政治家は国民がカネだけに振り回されないようにするのが仕事だと思うんですよ。怒りや嫉妬や憎しみを小さくするのが、現代の政治の役割だと思うんです。神のご機嫌うかがいをする時代ではありません。本当はそれが一番いいのかもしれませんが、今は仕方ありません、人の心に巣くう悪魔を鎮めるのが先決になります。
 あと、やっぱり、情報化社会の弊害。不公平感や嫉妬というのは、知るから湧き上がるんです。隣の青い芝生や赤い花が見えるから余計な気持ちがわくんでしょ。昔は地方に行けばみんな都のことなんか知りませんでした。知ったとしても、それはほとんど物語の世界でして、あっちの世界の話でした。それは憧れや夢というプラスの作用はあったかもしれませんが、妙な嫉妬を起こすようなものではなかったと思いますよ。
 ネット社会、ウェブ時代になって、他人様の脳ミソの中や、生活の様子をのぞき見るのが、はたしていいことばかりなのか。情報開示、情報共有が本当に素晴らしいことなのか、もう一度考えてみる必要があるような気がします。全てが情報で判断されるということは、人の想像力がオミットされるということです。先ほどの物語力や、あるいは諦念、清貧といった方向での思惟力、自己解決力は消えてゆきます。
 番組では、爆笑問題の太田が、言葉で表現し合うことの快感を語ってました。それもよくわかります。基本的に善意をもって言い合うのはいいことです。しかし、言葉によって心の中の悪魔が発動する可能性もけっこうあると思いますよ。
 たとえば姜さんが在日だからといって、ワケもなく差別的な発言をする輩がいるでしょう。もし、そういう情報(名前も含めての言葉)がなければ、とってもいい人だと思って仲良くなるかもしれないのに。つまり、ここでも人間は自らが作り出したフィクション(コト)に振り回されてるんですよ。カネと同じです。コトの方がまるで本体のように振る舞い、私たちがそれに隷属するようになってしまう。
 言葉をはじめとする様々なメディア(コト)は、たしかに私たちを結びつける善の可能性も持っていますが、逆に他者を疎外したり、あるいは自己を疎外したりする負の可能性も秘めているのです。
 難しいですね。それでもぶつかり合った方がいいのか。ぶつかり合わないと理解し合えないのか。そのぶつかり合いを裁く、いや捌くのが行司さん(政治家さん)のシゴトなんでしょうか。本当に難しい。

爆笑問題のニッポンの教養 公式

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2008.10.01

小倉貴久子のノクターン

Okc カメラ呑みました。いえいえ、定期検診です。一日一食ですので、胃の負担が小さく、なかなか健康的な胃だとのこと。根っからの楽天家ですのでストレスもありませんし。
 しかし、困ったことに、検診後麻酔が切れなくて、何度も落ちかけました。一人スリーパーホールド状態。いかんいかん。
 そんなわけでちょっと早く帰宅しましたところ、九州、関西を演奏旅行してきた音楽家の渡辺敏晴さんが、北九州で手に入れたとんでもないお土産を手にいらっしゃいまして、そこからは呑むわ呑むわ、しゃべるわしゃべるわ。アルコールによって麻酔もすっかり醒めまして、実に楽しい時間を過ごしました。
 音楽やら歴史やら、まあ何を話したか忘れるほどいろいろお話しましたね。結局不思議な縁というか運命というのにたどりつくわけですが…。
 さてさて、そんな中で、プロの音楽家たるもの時間を自由に操らなくてはならない、というような熱いお話がありました。私もそう思います。時間芸術たる音楽は、時間という流れに従いつつ、しかしそこからいかに脱却するか、そしてある意味淡々とした流れを打ち切ったり乱したりするか、そういうスゴわざでなければならないと思います。
 ちょうど今日の昼間NHKで小倉貴久子らを中心とする「ショパンを19世紀サロンの響きで」が再放送されてまして、まあ全体に素晴らしい演奏会であったわけですが、特にあの有名なノクターンがですね、まさに「時間を操る」、これぞプロ!という演奏でしたので、それを紹介します。
 まずはお聴きください。

ノクターン作品9の2

 美しいですねえ。美しいですねえ。涙が出ます。いろいろな意味で日常的な時間を超えてますね。楽器は浜松市楽器博物館所蔵のプレイエルです。当日は暗譜で弾いてらっしゃいますが、使用している楽譜も当時のもの。そして、聴いてお分かりのように、即興的に楽譜にない音を足しています。それがまた今生まれたかのように美しくきらめいていますね。完全に時間も空間も超えています。テンポの絶妙な揺れ、右手と左手の時間の流れのずれ、一瞬の沈黙。
 この演奏会について小倉さん御本人のインタビューがこちらにありますので、ぜひお読みください。
 小倉さん、毎年都留音楽祭でお世話になっております。そして毎度素晴らしい演奏とレッスンを聴かせてくれます。音楽に対する真摯な姿勢と、そして御本人のお人柄が、それらに存分に表れています。これからも時間を思いっきり操って、私たちをいろいろなところに連れていっていただきたいですね。

Amazon ノクターン~ショパンの愛したプレイエル

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