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2008.10.31

うつる…

0181 朝の最近気温、初めて1度を切りました。氷点下まであと一歩です。これで一気に木々が色づいたかと期待したのですが、どうも今一つのようです。
 今日の富士山は風が強く、枯れ葉が乱舞しておりました。本当なら紅葉を散らす木枯らしを恨んだりして、古人にならい歌など詠みたいところですけれど、どうも最近葉の色づきが悪く、そういう気持ちになれません。「風のクロマ」がいまいちっていうことかな(笑)。
 そうそう、昨年の今頃「モミジとカエデ」という記事を書きましたね。そこにも載せた「ウチの裏」ではなく「裏のウチ」のカエデの写真をご覧ください。まだ色づきは半分くらいですけれど、もうすでに根元にたくさんの落ち葉がありますね。10年くらい前は全身真っ黄に色づいてから一斉に落葉したんですけど、どうも最近こんな感じで、いつが黄葉(もみぢ)のピークだったか分からないんです。残念です。
 ところで、昨年の記事に引用した万葉集の和歌を見直していて一つ気づいたことがあったので、今日はそれをメモしておきます。

 秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ

 この歌にも出てくる「うつる」という言葉です。皆さんよく御存知の小野小町の歌にもありますね。

 花の色も うつりにけりな つたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 前者では適当に「散ってしまったら」と訳されます(私もそう訳してます)し、後者では「変ってしまったなあ」とか「色あせてしまったなあ」のように訳されますね。で、その本質は何かということを考えたんですけど、これって「移動する」という動作よりも、その結果として、「そこにあった何かがなくなる」という意味ですよね。
 「うつる」の「うつ」は「空」であって、「うつる」は「からっぽになる」という説は、古来唱えられていたようです。復元されたアクセントからそれに反論する人もいるようですけど、いつかも書いたようにアクセントというのは言語現象の中で最も流動的で「うつろいやすい」ものですから、私はその説はとりません。
 そうそう、「うつろう(うつろふ)」という発展形になると、さらによくわかりますね。何かがどこかに行ってしまって、前の状態がなくなっている空しさ。気持ちも季節も栄華もうつろうものですね。
 もちろん、そういうところに私たち日本人は「もののあはれ」を感じてきました。その伝統は今でも続いていて、たとえば昨日のレミオロメンの「風のクロマ」の歌詞もそういう情緒を表現したものと言えます。
 しかし、「うつる」=「無になる」ではないんですね。あくまで今までの位置に存在しなくなるわけで、私たちは置いていかれているかもしれないけれど、それ自身はどこかに行ってどこかに存在しているわけです。その証拠に花の色も紅葉も翌年にはちゃんと帰ってきます。「うつる」には「人が死ぬ」という意味もあります。その場合にもその人はあの世に行ったということで、存在が完全に無に帰すわけではありません。あるいはその人の残した何かが違う形でこの世にも残るじゃないですか。遺伝子だったり、あるいは作品であったり、もちろん記憶であったり。
 そういう循環のようなものに対する感慨がすなわち「もののあはれ」です。それは決してマイナスの感情ではありません。驚きであり、畏敬であり、諦念であり、感動なのです。お釈迦様の唱えた「空」というのもそういうものなのかもしれませんね。
 ところで、「うつる」の他動詞「うつす」ですが、これも同じようなニュアンスにとらえられます。そうするとこの季節にもよく言われる「カゼをうつすと治る」というのも一理ありかもしれませんね。
 あっ、もう一つ。「映る」や「写る」も「移る」と同源です。ですから、写真を写されると魂が抜かれるとか吸い取られるというのは、本体が空っぽになるという語感が残っているということでしょうか。まあ、今やコピーの氾濫する時代ですから、そんなことを言う人もほとんどいませんがね。

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2008.10.30

『Japan Knowledge & 日国オンライン』

2 っぱJKはいいな。いや…女子高生じゃないっすよ。ジャパンナレッジ…日本の知識です。
 私、実は新聞取ってないんです。もう何年でしょうね。理由は簡単でして、全然読まないからです。毎日大量の読まれない活字が捨てられていくのに耐えられなくなりましてね。というか、ウチは山奥なんで新聞が届かないんです。それも理由の一つですね。いちいち毎朝ある所まで取りに行くっていうのが面倒になった。それから、昔は某新聞を取ってたんですが、ちょっと鼻につくところが多すぎまして(笑)。
 もちろんインターネットの発達というのもありますね。ニュースはネットでチェック、時々テレビっていう感じです。それで充分。
 文化欄とかその他有用な読み物は、父親がデリバリーしてくれるので、休みにまとめて読みます。まとめて読むと楽しいですよ。時間を忘れていろいろな世界に遊ぶことができます。
 さて、それで私は新聞の代わりに何にお金をかけているかと言いますと、毎月2678円払ってJKとつきあってるわけです(笑)。ホントにお世話になってます。
 2678円で何を提供してくれるかと言いますと、まずJKはこんな感じです。それから日国オンラインはこんな感じ、もう完全に日本国語大辞典です。
 そうですねえ、JKに関しては、まず毎日更新される Today's ジャパンナレッジ がいいですね。特に「今日の新語(亀井肇の新語探検)」は最新の知識欲を満たしてくれます。そこからいろいろと検索して一気に世界を拡げることができる。なんか「今」も知らない世界が隣にあるんだなと感じますね。私は朝ご飯の代わりに新語を食べるわけです。
 あと案外ちゃんと読んでるのが、「週刊エコノミスト」です。pdfで全部ちゃんと読めます。経済を中心とする現代社会を非難してばかりの私ですが、実はとっても興味があります。ある意味バカみたいと思いながら(失礼)読んでるんですけどね。いったい世界中の人たち、特に最先端を生きる頭のいい人たちは何に振り回されて生きてるのかって。
 雑学系の読み物もマニアックで面白い。ふだんなかなか自分からは興味を抱かない分野についても、知見を広められます。
 もちろん辞書、事典系はとっても有用です。さっと検索できるのは、次の辞書・事典群。

日本大百科全書(ニッポニカ)
デジタル大辞泉
数え方の辞典
情報・知識 imidas
現代用語の基礎知識
亀井肇の新語探検
JK Who's Who
日本人名大辞典
会社四季報
科学技術略語大辞典
プログレッシブ和英中辞典
ランダムハウス英和大辞典
プログレッシブ英和中辞典
最新英語情報辞典
Encyclopedia of Japan
COBUILD英英辞典
CAMBRIDGE英英辞典

 もう充分すぎますね。安いもんです。
Itd_img02 そしてそして、自分にとってのメインは実はJKではなくて、日国オンラインですよ。いちおう日本語を相手に仕事をしている人間にとって、日本国語大辞典は聖書です。私は初版を神の辞書…いや紙の辞書として所有しています。比較的最近第二版が出て、ものすごくほしかったんですけど、なにしろ全14巻22万円もするんで、さすがに諦めていたんです。でも、本当は常にポケットに携帯していたいくらい(笑)。もう普通の国語辞典なんか子どものおもちゃみたいに感じちゃうほどです。ま、考えてみれば国語辞典なのに百科事典より量が多いわけですから。
 それがですね、まあ便利な世の中になりましたよ。実質月々1103円で使いたい放題なんです。すごい。そして、電子辞書ならではの使い方、例えば逆引きなんかもちょちょいのちょい。非常に便利です。
 単純計算して220ヶ月で22万円ですから、まあ利便性を考えても書籍として買うよりお得ではないでしょうかね。もちろん、ペラペラめくって眺めるということができないのは残念ですけど。
 案外いいのはオマケの「字通」ですね。最近漢字忘れてるんで。

知識探索ジャパンナレッジ

日国オンライン

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2008.10.29

レミオロメン 『風のクロマ』

61putxqq0pl_sl500_aa240_ うやく出ました。でも、なんとなくあっという間だったような気もします。この2年半を振り返ってみますと、あまりに濃いというか…。私自身も大きな人生の転機を体験しました。いろいろなご縁に恵まれ、たとえばこのレミオロメン一つとっても、ありがたいことにずいぶんと身近に感じられるようになりました。あり得ないことです。各方面において予想外の展開がたくさんあって、ある意味で自分へのこだわりが消えたというか、やっぱり自分は誰かたくさんの人たちに生かされているんだなと、今さらながら痛感した次第です。
 レミオロメンの3人も、もちろん私のような小人とはスケールが違うと思いますけれど、自分たちでは処理しきれないほどの縁を背負って、喜び、苦しみ、人を動かし、人に振り回され、大きな大きな変化を経験したことと思います。彼らは若いので、きっとそれを「成長」と呼んでいいのでしょう。
 「風のクロマ」…そんな彼らの「成長」のエネルギーが感じられるアルバムでした。昨日の押井守さんではありませんが、「大人」になるということには、非常に難しい意味があります。そこに至るまでには、当然苦しみもあります。第二…いや第三の誕生にかかわる「生みの苦しみ」ですね。
 2年半前の「HORIZON」の記事を自分で改めて読んでみますと、なるほどあのあたりが彼らの成長痛のピークというような気もしますね。なんとなく空元気というか、今となってみると、あの突き抜けた明るさや地平の先へ渡る視線というものは、足下が見えない現実の裏返しであったような気もします。
 その後、私も涙してしまった「アイランド」では、彼らは溺れかかりながらも、ある発見をします。それこそ藁にもすがるようにたどりついた島が、実は自分たち自身であったと。溺れかけ、流されかけていたけれど、そんな状況こそが実は自己の存在の本質であって、ただ自分たちが今どこにいるのか知ればいいのだと。考えてみれば、大海において自分の立ち位置なんていうものは、なんの意味もないものです。もしかすると、自分という島を海流が巡っているのかもしれない。そんな相対的で、また相互依存的な世の中の関係を、もちろんそんな言葉や理屈ではないけれども、彼らは実感したんじゃないでしょうか。
 私はそれを知るのに40年以上かかってしまいましたが、彼らは20代でそれを体験した。これはすごいことですね。私は彼らに感謝しますよ。考えてみれば、そんな彼らの姿から学んで、私も今の境地に至ることができたような気がするからです。おこがましい言い方ですが、彼らとともに歩んだ2年半だったのかもしれません…。
 そういう実感をもってこのアルバムを聴きますと、いろいろな部分で妙な懐かしささえ感じるのでした。アルバムの3分の2が既発表曲であるということはもちろん、もともと日本のこうしたシングル先行式の音楽産業のあり方に疑問と不快感を持ち続けてきた私ですが、なんとなく今回のレミオのアルバムはこれでいいような気がしました。こういう時間の共有の記憶としての音楽のあり方もありかなと。記憶をとどめておく「アルバム」として。彼らもそういう意識でこのアルバムを作ったのかもしれません。
 いつもなら、音楽的なことをいろいろと書きますが、今回はやめておきます。そういう表面的なことはどうでもいいような気がするからです。ただ一言書くなら、シンプルなバンドサウンドが案外よく聞こえてきたということでしょうか。
 この2年半の間、彼らがアルバムの制作よりもライヴを大切にしてきたのは、やはり彼らなりに原点に帰るという意味があったのだと思います。もちろんそれは音楽の原点でもあります。今年私は、山梨県民文化ホール静岡市民文化会館山中湖と、3回ライヴを聴きにいきました。それぞれ私にとっても思い入れ深い場所です。そういう中で、彼らがライヴ・バンドとして成長してきたのも、私なりに感じてきました。レコーディングは、結局そうしたライヴな音楽体験のコピーにすぎないわけですから、それこそリアルタイムでの本当の体験を追体験する記録としても、私にとってはこのアルバムは大きな意味のあるものです。シングルもまた、こういう全体の中にあって今までと違ったメッセージを送ってくる。新曲(?)も、まるで彼らが目の前で演奏しているようなアレンジが施されていて好感を持ちました。ある意味意外だったかも。コバタケさんもいろいろ学習したようです(笑)。
 なんとなくふっと肩の力が抜けて安心する自分がいます。聴き込むのはこれから。歌詞の世界もしっかり味わって、またこれからも彼らとともに地道に毎日を歩んでいこうと思っています。

Amazon 風のクロマ

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2008.10.28

『映画監督 押井守 妄想を形にする ~新作密着ドキュメント~』 (NHKハイビジョン特集)

2 群に面白かった。「スカイ・クロラ」自体を観ていないのにも関わらず、ここまで楽しめるとは。そして、「スカイ・クロラ」心から観たいと思った。
 このように語られて、それで観たいと思うのは、これってやっぱり押井作品がオタク的なメディアである証拠ですね。というか、語られないとわからない。いや、語られてさらに作品に価値が増すのでしょうか。
 押井さんの仕事ぶりというのを初めて見ましたが、これはもう日本の伝統職人ですね。江戸の絵師というか。「日本的」な仕事ぶりですよ。そう、日本のオタク文化って、日本男児の自閉症的傾向から生まれたものですよね。ある一点への異様なこだわり。そのこだわりを満たさずにはいられない。たとえばバセットハウンドや兵器のリアリズムに対するこだわりとか(笑)。異様ですよ。
 たしかに世界中の天才と言われる人たちは皆そういう傾向にあります。芸術家も科学者もスポーツ選手も、みんなそうですね。そんな中でも特に日本男児は脳内の妄想に固執する傾向があります。社会性のあるリアリズムなんてクソくらえで、自分の脳内こそがリアルであるというような。
 押井さんはそういう「妄想」を形にすることができる稀有な絵師なのです。これは、私の考える「物語」そのものですね。「モノ」とは自分の外部、未知なもの、不随意なものを表します。「カタル」とは「コト」化を表す動詞。「コト」とは自分の内部、既知なこと、随意なことを表します。つまり、我々は押井さんは自らの妄想という「モノ」をアニメーション映画というメディアで「カタリ」、形にするんです。もちろん「カタ(チ)」という語と「コト」という語は同源です。
 私たちは彼の作品を通して、彼の脳内妄想を私たちの脳内に「ウツス」ことができます。「ウツス」というのは「移す」であり、「写す」であり、「映す」であります。一連のこのような営みを「モノガタリ」というのだと私は考えています。外部の内部化。ある意味生命の本質に関わる連環です。
 もちろん、押井さん自身にとっては、内部(脳内妄想)の外部化(作品化)、すなわち「コト」の「モノ」化と言えるわけですから、「物語」という名詞や、その元になった「物語る」という動詞は、相手の(受け手)の立場に立った言葉であることがわかりますね。
 ところで、「スカイ・クロラ」における押井さんの妄想は、今までの彼のそれとはかなり違っているようでした。押井さんも55歳を超えて(今57歳でしょうか)、ずいぶんと社会性を持ったようです。ようやく彼も大人になったってことでしょうか(笑)。若者に対するメッセージだなんて、なんか彼らしくないような気もしますね。でも、その気持ちはよく分かります。私も40過ぎてちょっとそういう境地が分かるようになりましたよ。彼が語った、「人生はツラい。大人になってもツラい。それは当たり前。でも、案外悪いものじゃない。ゴールに入るといいものが見える」みたいな言葉、これはまさに私が教室で語りたいことそのものです。
 「大人とは何なのか?」という問い、「人生とは何なのか?」という問い、すなわち子どもや若者がぶち当たる「辛さ」の源ととも言える問いに対して、押井さんは一つの答を提示したのではないでしょうか。静かに人生の、世の中の真実を伝えたのではないでしょうか。
 殺されるか、自殺するかしなければ、永遠に子どものままで生き続ける「キルドレ」。そのキルドレに、現代の若者たちを投影したという押井監督。ここ数日の記事の続きになってしまいますが、人間はたしかに「死」を意識しないと「生」を意識できません。しかし、子どもも大人も「死」を恐怖し隠蔽しがちです。それと真剣に対峙して初めて、私たちは人生の意味を知り、大人になるのでしょう。
1 面白いなと思ったのは、押井さんを大人にしたきっかけの一つが「空手」だったということですね。身体性だった。エンボディメント。脳内妄想(コト)ではなく、最も身近な外部である体(モノ)だったということです。これは重要なポイントだと思いました。
 あと興味深かったのは、宮崎駿とコントラストでしょうか。両者に関わっている鈴木敏夫さんの語りが刺激的でしたね。私は知らなかったのですが、やっぱり押井さん、宮崎さんに出会ったことで、こういう作家になったんですね。宮崎さんがいなかったら押井さんはなかったと。ある意味でのライバルというか、まさに自分の思い通りにならない「モノノケ」の存在。
 そして、彼は言います。妄想も実体験に基づいたものでなければならないと。実際にある場所に行かねば本物は生まれないと。ある意味それは「モノ」からしか「コト」はやってこないということです。
 こうした「自己」と「外部」との関係。そして、そこから生まれる「物語」。そして「モノ」と「コト」の連環。これらは現在の私のテーマとも完全に重なっています。それはお釈迦様が語った「無我」や「空」や「不二」に通じると思っています。

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2008.10.27

『死因不明社会』 海堂尊 (講談社ブルーバックス)

Dyyt 日も一昨日、昨日の続きでしょうか。タイミングよく、NHKクローズアップ現代でも今日この話題がとりあげられていました。
 知り合いに、東京都の監察医をしている方や、地方都市で検視をしているお医者さんの方がいらしたり、教え子に葬儀屋に勤めるのがいたり、それこそ「おくりびと」をやってるのもいたりして、死にまつわる隠れた実態を聞く機会が多い私です。その実態というのは、本当にここには書けないような内容ばかりです。
 もちろんその原因は彼らにあるのではなく、日本のシステムと、それに起因する絶対的な人手不足にあるのは明らかです。最近のニュースにあった、緊急を要する妊産婦の受け入れ拒否の問題と同様、誰かを責めればすむという問題ではありません。構造的欠陥です。
 この本でも、とにかくそういう実情が糾弾されています。そして医師でもあり、ベストセラー「チーム・バチスタの栄光」の作者でもあるこの本の筆者は、オートプシー・イメージング(Ai…死亡時画像診断)の導入を強く主張します。
 なぜ、日本ではこれほど「死」がいいかげんに扱われているのでしょう。これは実に難しい問題です。単純なようで複雑、複雑なようで単純な問題です。
 日本では古来「死」を忌むべきものだとしてきました。古文など読んでいると、「死ぬ」という忌み言葉に対する様々な言い換えに出会います。それだけでも異様なほどの忌み具合ですね。我々の日常でも、子どもの頃、お葬式をやっている家の前を通る時親指を隠したりしましたよね。
 結局、我々日本人は、「死」を直視せずに来た部分があると思うんです。そして、死に関する言葉が形式化、フィクション化していくのと同様、葬儀の形もずいぶんと形式化、フィクション化しています。以前、NHKの「cool JAPAN」で「葬儀」がとりあげられていました。外国人からすると日本のお葬式やその周辺の一連の流れは、かなり不思議なものに見えるようでした。
 ある意味そうして、現実的な悲しみや辛さから逃れようとしているわけですね。公的な形式を忙しくこなしていく中で、私的な感情から隔離される。そうして究極の社会的フィクションに守られて、「死」が感情ではなく概念化されていく。悲しみを感じている暇がない、とはよく言われることですね。まあ、今までもよく指摘されてきたとおりだと思います。
 これはこれで日本の知恵です。しかし、これでは「死」を直視しない、あるいはそれと鏡像関係にある「生」をも直視しないということにもなりかねません。というか、実際そうなっています。簡単に言えば、日本人は「死」も「生」も諦めてしまうという、かなり思い切った技を身につけてしまったんですね。
 死んで「仏」や「神」になるという発想こそ、ある意味究極のフィクションです。その結果、その仏様や神様の体を切り刻む「解剖」が拒否されることにもなります。
 こうした文化的なこと、我が国独特の知恵が、現代の「死」をも我々の生活や実感から遠ざけしめ、その結果、死因が究明されず犯罪が隠蔽されたり、感染症の発見の遅れにつながったりしているわけです。
 ですが、単純に欧米のような考え方や文化にしようとか、北欧のように全ての遺体を解剖せよとか、なかなか言えません。いや、言うのは簡単ですが、それによって失うものもあるということを忘れてはいけません。
 こういう根深い文化的なものを変えていくには、やっぱり教育しかないでしょうね。いきなり制度を変えてもダメですよ。裁判員制度とかもそう。まず数十年の準備期間が必要なんです。消費税とか年金とかもそう。だいたい教育自体がいつも「いきなり」ですからね。日本の政治家はそういう長期的な政策というのが苦手ですし、国民も目先のことにとらわれがちです。
 とにかく、こういう「生」や「死」に関することについて、我々はもっと真剣に取り組まねばなりませんね。もちろん私もです。
 ところで、この本、最終的にはとってもいい本だったと思うんですが、ブルーバックスとしては破格の形で書かれていて、最初ちょっと面食らいました。普通のブルーバックスを期待していたからでしょうか、慣れるまで私はあまりいい気持ちがしませんでしたね。

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2008.10.26

『ビジュアル版 対訳武士道』 新渡戸稲造  奈良本辰也 (三笠書房)

新渡戸稲造博士と武士道に学ぶ会
Dtg 日の続き…とも言えましょうか。ある意味殺人も一つの倫理観になりうるということです。
 この本は、ある大学を受験する生徒のために買いました。その大学を受けるにはこの本は必読書です。試験で英語の小論文を書かねばならないのですが、この本はいろいろと使えます。もちろん、新渡戸博士のこなれた英語を引用させていただくという意味もあります。
 いろいろある「新渡戸武士道」本の中で、生徒のためにあえてこれを選んだのにはもちろん理由があります。
 まず、ビジュアル的でとっつきやすい。私もこういうのじゃないと、途中でリタイアしてしまいます。あと「抄訳」であること。分量が半分以下になっていて、リタイアを防ぐ効果が絶大です。私は全部読んだことがないので、どういう基準で抜き出しているか知りませんが、たぶん大事なところはちゃんと押さえてあるだろうから、初心者にはこれでいいんじゃないかと思います。あと、英語学習的には、本文と対訳が見開きになっているというのがいい。解説もわかりやすく、高校生の教科書としては最高でしょう。 
 さて、新渡戸の武士道については、以前こちらに少し書きました。その後この本でその一部を読みまして、まあそれなりに面白かったわけですが、やはり基本的な感想はあの頃と変りませんね。これが本当の武士道なのか?というのもありますし、キリスト教との関係の不自然さも拭えません。
 それでも、あえて「武士道」という言葉を抜きにして考えれば、やはり名著だとも言えますね。Bushido という別の言葉だと思えばいい。外国人向けの日本解説書としては、たしかによく出来ています。
 私たち現代日本人が失ってしまった古き良きニッポン。ま、それは美化されたニッポンでもあるわけですし、そこからあの戦争へ短絡していったのも事実ですから、それなりに注意して付き合わなければならない。
 あっそうだ、前に「葉隠」についても書いたな。こちらです。「武士道というは死ぬ事と見付たり」ではなくて、「忍ぶ恋」そして「衆道」がテーマだというお話し。「葉隠」も本文を全部読んでないや。
Barakei_banner もう一つついでに。その葉隠を素直に読みすぎてしまった(?)三島由紀夫のヌード写真集「薔薇刑」が来月復刻されます。もちろん撮影は土方巽・生誕80年記念イベントでお会いした細江英公さん。その細江さんを私は撮影したわけですね。我ながらすごいぞ(笑)。
 さて、話を戻しましょう。殺人も倫理になりうるかということ。これは実に難しい問題なんですけど、以前古武術に詳しい友人から教えてもらったことによると、どうもなりうるような気がします。最も究極の状態、自らの存在を賭しての他者との関わり合いの中に、ある種の精神性が生まれるのは当然と言えば当然です。
 本来の職業人としての武士道は、やはり命あっての物種であって、ある意味どんな手段であっても(卑怯であっても)とにかく生き残らなければならない、そのための方法論であったとも言えます。それは主君のため家族のためお国のためである以前に、自分のためでありました。少しひねくれた言い方をすれば、人の命を奪うという本能的罪悪感(および卑怯な手段を使うという倫理的罪悪感)に対するフィクショナルなロジックが必要だったんですよね。それがないとやってられない。イスラム教原理主義テロリストといっしょです。日本では宗教は原理主義になりにくい(日蓮宗とかは別として…)ので、別の形での論理が必要だったんでしょう。いろんな人がいろんな「武士道」を試みているようです。
 で、我々が知っている、あるいは新渡戸が少し(だいぶ?)美化&国際化してしまった「武士道」は、江戸時代に形骸化したものをベースにしたものです。その江戸時代に発達した「武士道」の形骸化は仕方ありませんね。なにしろ、本来の基盤が失われてしまっているから。そうして、肉体性よりも精神性の方だけ残ってしまって、それが純粋なウソとして培養されてしまったという感じです。ですから、ヨーロッパやイスラムの形骸化、システム化した宗教の形に似て見えるんですね。
 そのフィクションが、日本でも、また世界のいろいろなところでも、再び極端な実戦に結びついていくのは、実に面白いことです(…不謹慎ですが)。頭の中の「コト」が肥大すると、それに「モノ」たる肉体が反応して、自ら破壊行動に出るということでしょうか。考えてみたいと思っています。

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2008.10.25

『現代殺人論』 作田明 (PHP新書)

56964531 くじに当たる確率と人に殺される確率(あるいは人を殺してしまう確率)と、どっちが高いんでしょうか。まあ、宝くじに当たって殺されちゃった不幸な人もいましたが。
 なぜ人を殺してはいけないか、という実に純真な、しかしはなはだ純真ならざる問いに、うぶな大人が振り回されてもう何年たったのでしょうか。なんとなく懐かしささえおぼえます。それについては、前田英樹さんの「倫理という力」という名著で一つの決着がついたと思っています。決着も何もありませんけどね。
 私は、その妙な問いを聞いた時、じゃあ「なぜ人は生きなきゃならないのか」という問いにも答えなくちゃいけないじゃん!って思いました。あと、「なぜ人は人を殺すのか」が先じゃないの?とも思いましたっけ。前者の問いにはやはり決着も何もないと思いますが、後者の問いには答えがありそうですね。
 今日読んだこの本は、そのへんについてヒントを与えてくれます。多くの実例が挙げられているので、その中に「なぜ」の答えをある程度見つけることができるでしょう。
 その答えはさておいて、この本を読んで思うのは、同じ作田さんの書「性犯罪の心理」を読んだ時と同じように、その世界が案外身近だということです。それはある意味戦慄の事実ですよね。自分は「殺人」なんていうものからはほど遠いと、ほとんどの人は思っているでしょうから。
 しかし、作田さんは言います。殺人とは他者の存在の排除の究極の形であると。また、ある人を疎んで「いなくなってほしい」とか「消えろ」とか思った時点で心の中で殺人をしたとも言えるのでは、と(少なくともイエスはそう言うだろう)。そう考えると私たちは案外たくさん殺人を犯しているかもしれません。
 まあ、そういうキリスト教的解釈が正しいかどうか(…私は否定的です)というのは別として、たしかにそういう感情の先に人殺しという事態が発生するのは事実でしょう。しかし、我々は殺人というある意味でのゴールがとんでもなく遠いと思っているのが普通ですね。私もそう思っていました。でも、この本を読むと実はそんなに遠くないどころか、すぐ隣り合わせにそこにあるということに気づきます。
 ああ、そう言えば、時々夢見るよなあ。なんだか人を殺しちゃったらしく、自分がひどく動揺したり、いかに隠蔽しようか狼狽している夢。皆さんはそういう夢見ませんか?私は1年に一回はあるんですよ。誰を殺したとか、どうやって殺したとかは全然分からないんですけど、もうすでに殺人犯なんですよ。そこから始まる。
 で、目覚めてホッとするんですけど、なんかすごくイヤな気持ちになります。もしかして前世で人を殺してるんじゃないのかな、とか。まあ、ある意味そのくらい自分の潜在意識の中には可能性があるわけですよ。たぶん、それが殺人と自分の本当の距離なのではないでしょうか。
 「性犯罪の心理」でもそうでしたが、そういう際どい自分の存在にドキッとしました。もちろん、加害者としてだけでなく、被害者としても同様の距離というのがあるはずですけど、それもまた普段ほとんど忘れ去られていますね。いつそういうことになるか分からない。宝くじが当たるかもしれませんし。
 そんな普段の意識の上での殺人に対する遠距離感というのは、日常の言葉の上にも表れています。今日も模擬試験を受ける生徒に言いました。「ケアレスミスをしたら殺されると思って、そのくらいの緊張感でやれ!」と。もちろんみんな笑ってます。また、生徒たちの日常では、仲がいい者どうしよく「死ね」とか「殺すぞ」とか言い合います。もちろんお互い笑いながらですよ。よく世間で言われるように、そういう言葉を言わなければいいという単純なものではありません。その場の空気の中で、それらは非現実的な、とても柔らかい表現ともなりうるのです。私は前にも書いたように、管理教育的で盲目的な言葉狩りは大嫌いです。それこそ言葉に対する無差別…いや差別的殺人行為ですよ。
 まあ、それはいいとして、とにかくそういう遠距離感というのが、実はとても大切であり、常にそれを意識的に持っていれば、突然隣に殺人という実行為が現れることはないとも言えますね。そのためには、実は近くにあるということをも常に意識していなければならないのです。
 やっぱり人間は特別だよなあ。実は他の動物でも同種どうしの殺し合いがあるらしいのですが、いずれにしても人間はずいぶんと日常的に同種殺しをしますよね(戦争も含めて)。利欲にせよ、隠蔽にせよ、葛藤にせよ、またある種の精神疾患や人格障害にしても、人間が余計な知恵を身につけてしまったから起こることです。また、二足歩行で手が自由になったというのもありますね。首を絞めての殺人とか、ほかの動物じゃできません。あともちろん道具の発明と使用ですね。刃物と拳銃がなければ、ずいぶんと殺人事件も減るでしょう。
 つまり、人間が人間らしくあるかぎりは殺人の条件は揃ってしまうわけでして、どうにも解決のしようがない問題だということにもなってしまいます。困ったものです。まあ、宝くじにも当たらないように、また殺人事件にも関わらないように願うだけです。

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2008.10.24

「おみおつけ」の語源

Eb42ae9ddd4e7b94bf7591038bb108db 日あるクラスの授業に行ったら、ホワイトボードに「御御御御付け(おんおみおつけ)」と書いてありました。最初の「おん」はおまけにしても、単なる汁物に「御」を三つもつけるなんて、日本人は面白いね、という話になりました。
 御存知のとおり、「おみこし」や「おみくじ」、「おみき」といった神社系の用語や、「おみあし」などという語の「おみ」は「御御」であることが知られています。これらには、それ以前に「みこし」「みくじ」「みき」「みあし」といった語があり、また、それ以前には当然「こし」「くじ」「あし」などがったということが容易に想像できます。
 では、「おみおつけ」がどうかと言いますと、ちょっとそれらとは違うというのが本当のところです。「つけ」→「おつけ」→「みおつけ」→「おみおつけ」と変化したわけではないんですね。つまり、「みおつけ」という形で使われた形跡がないのです(ちなみに「つけ」の存在も微妙)。
 そうしますと、どうも語源的には違うと考えるのが自然で、一般に言われている「御御御付け」説は間違いということになります。では、本当のところはどうだったのでしょう。
 まず、中核になる「おつけ」ですが、これは米のご飯に添えられる「付け汁」の女房言葉のようです。17世紀初頭に発行されたキリシタンの日葡辞書にも「Votçuqe 飯と共に食べる汁。女性語」と出ています。そして、接頭の「おみ」ですが、実はこれも女房言葉で、つまり「おみそ」のことなんです。今でも西日本を中心に、味噌汁のことを「おみ」とか「おみい」とか「おみさん」とか「おみいさん」とか言う地方があります。
 ということで、「おみおつけ」とは「御味御付け」である可能性が高いのでした。味噌仕立てのお汁ということでね。たしかに「おつけ」という言葉は現代でも使われますが、味噌の入っていない透明な汁物、すなわち「おすまし」「すましじる」であることもありますよね。ですから、やはり「おみおつけ」は「おみそ」ヴァージョンの「おつけ」であると考えるのが自然でしょう。
 ちなみに、「おつけ」にはちょっとエロチックな意味もあります。ここには書けませんが…笑。
 さて、私は一日一食なので朝食は食べません。朝出勤前に、家族が朝の「御味御付け」を食べている(飲んでいる?)のを見ると、さすがに唾液が分泌してきまして、どうにも我慢できなくなる時があります。たまに禁を破って一杯ご馳走になっちゃう時もあります。それがまた格別うまく感じるんですね。特に、最近ですね、あの「無添くら寿司」の影響を受けまして、おつけに化学調味料を使わないことにしましたら、ほんとそれが地味だけど滋味でして、おいしいのなんのって。
 なんだかんだ言って、日本人で良かったって思う瞬間ですよね、おみおつけを口に含む時。具材も季節感豊かですし、ほとんど無限のヴァリエーションが楽しめますし、時にお行儀悪く家族みんなでやってしまう「猫まんま」のまた美味いことと言ったら…これはたまりませんね。そうそう、「猫まんま」もまた、地方によっていろいろな形態がありまして、単に鰹節をまぜたご飯であったり、味噌汁をかけたものだったり、すまし汁をかけたものだったり、煮干しを混ぜたものだったり。ちなみに私は味噌汁のお椀にご飯をぶっこみますが、皆さんはいかがなさってますか?いや、そんなお下品なことはなさらないでしょうか(笑)。

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2008.10.23

『プロフェッショナル 仕事の流儀 100回記念 プロに学べ!脳活用法スペシャル』(NHK)

Photo01 徒たちと観ました。いちおうウチのクラスのギャルどもも受験生でして、かなり緊張感が高まってきました。とは言え、いつもの通り明るく元気よくやってますが。もう放っておいても大丈夫です。
 ただ、この時期になると、それなりに不安も出てきますよね。それはそうです。人生初めての真剣勝負ということですから。いきなりの全国大会決勝って感じです。
 で、この番組が役立つかなと思って、みんなで観たんです。プロの仕事師たちは、常に真剣勝負、常に本番ですから。そして、成功の確率をとにかく上げなくてはならないわけですから。きっと受験生にも役立つだろうと。もちろん、彼女たちが将来仕事師になった時のことも考えました。みんなバリバリに働こうと思ってますからね。
 結果、それなりに学ぶ点もあったようです。そして、刺激も受けたみたいで、めでたしめでたし。番組の内容をまとめると、こんな感じでした。100人のプロの仕事ぶりを茂木さんが脳科学的(?)に分析した結果は…。

「ひらめきの極意 プロのアイデア発想法」

1 とことん考えてから、寝る
2 考え事は「場所」を選べ

「脳を活用 プレッシャー克服法」

1 苦しいときにも、あえて笑う
2 本番前の「決まり事」を持つ

「プロに学べ やる気が出る秘けつ」

1 「あこがれの人」を見つける
2 小さな「成功体験」を大切にする

 うむ。なるほど。私はとてもプロフェッショナルとは言えない「ハッタリ教師」でありますが、それでもそれぞれに納得するところがあります。身に覚えがあるんですね。
 とことん考えてから寝るというのは、これはありですね。実は私、このブログは早起きして書いています。前日経験したことや読んだ本、観たテレビなどの感想は、それこそ少し寝かせた方がよくまとまります。これは絶対です。すぐに感想文とか、私は書けません。誰かプロフェッショナルが言ってましたが、朝起きた時が一番脳が活発に働くというのは実感としてあります。自分の意識以上のことができるのは目覚めてすぐの時です。それを逃さないようにしています。まさに朝(早)起きは三文の徳です。ちなみに私は1年を通して日の出の時間に起きるようにしています。よって、今は5時ちょっとすぎくらい。日の出パワーっていうのもあるんですよ。
 さて、場所っていうのも面白いですね。トイレとかお風呂とか。私は朝の通勤の17分が勝負です。すなわち車の中です。これは本当に毎日のことですが、ある種のスイッチが入るんですね。何か大切な考え事がある時は、必ずこの限られた時間と空間の中で考えることにしています。なぜか帰りの車の中はだめなんだよなあ。帰って24時間ぶりのメシ(一日一食なんで)を喰って酒を呑むことしか考えません(笑)。
 プレッシャーがかかる時に笑うというのもよくやります。コンサートやライヴやプレゼンテーションの本番、ステージに上がったら必ずお客さんを見回してニコっと笑うことにしています。これはかなり効果的ですね。ま、教室でもそうか。私は笑うのが得意なので、特に意識しなくとも口角が上がっています。昔は、ステージに上がると緊張のあまり、その普段の笑顔が出なくなってしまっていたんですが、最近は自然にリラックスできるようになりました。まあ、25年くらいかかりましたが…。
 本番前の決まり事は、これは実はあんまりないんですよ。唱える呪文みたいなのはありますけどね。体を使った決まり事はないなあ。今から何か作ろうっと。
 あこがれの人、これはたくさんいますね。これはとっても幸せなことです。自分自身はとても人から憧れられる存在ではないんですけどね、いまだに自分にとっての師匠がたくさんいる、それも例えば生徒であったりして、年齢とか全く関係なくたくさんいるというのは有難いことです。ミラーニューロン、けっこう活発に働いてる方だと思いますよ。てか、ほとんど人まねで生きてるようなもんですから、ハハハ。
 小さな成功体験というのも自分は多い方かな。自分に対する評価が甘い人間なので、ちょっとしたことでも喜びになってしまいます。おめでたいでしょ。でも、その方が幸せですよね。なにしろ、私にとっては失敗すら喜びになってしまうんですから(笑)。
 と、こんな具合でして、この番組でまとめてくれたプロフェッショナルの流儀は、いちいち納得いくものでした。とにかく脳はポジティブでないと活性化しないというのは確かでしょうね。生徒たちにもそれを強く言いました。どうも最近ネガティブがファッションみたいになってる風もあるし。ま、みんな寂しがり屋さんなんで、ネガティブぶって人に構ってもらいたいんでしょうね。それでもいいけど、なんかカッコ悪いような気がします。
 さて、最後スタジオの人たちの質問に対する茂木さんの答えの中に「創造的先送り」という言葉がありました。これぞ私のためにあるようなものですよ(笑)。私の先送り力は尋常ではない。しかし、困ったことにその方が最終的にいいものが生まれるというのを体験してまっているんですね。切羽詰まった方が絶対にいいものができます…なんちゃって。まあ、時には間にあわないこともありますが、それでもなんとか乗り切る「ハッタリ・チャッカリ」力だけは、ずいぶんと身につけて来ちゃいました(あとはボッタクリ力だな…笑)。きっと周りの人にしわよせが行ってるんだろうなあ…。いかん、いかん。「しわよせ」じゃなくて「しあわせ」を人に分けてあげなきゃね。
 おっと、自分のことはどうでもいいや。生徒たちです。彼女たち、この番組を観て、それなりの刺激を受けたようですが、よく考えてみると…「笑って、寝て、先送りにする」…これじゃあ入試に受からないじゃねえか!っていうオチになりました。面白かった。

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2008.10.22

『SONGS〜美輪明宏 第二夜』 (NHK)

2 降臨。昨日の記事でも触れた「昭和の偉人」の一人。たとえばこの人一人をとっても、いかに昭和がすごかったかが分かります。今、こんな人いません。いや、人じゃないかも。少なくとも私たちと同じ種ではない。美輪さん、もちろん平成である現在もご健在ご活躍でありますが、やはり彼は昭和を色濃く反映した歌手であると思います。彼の周辺にいた人物名を挙げただけで、いかに昭和が濃かったか分かりますね。
 彼もまた、戦争を、それも原爆という人類史上特別な体験をして、人間以上の人間になりました。ここ数日書いてきた、人間を昇華させるのは「とんでもない体験」であり、ある種の宗教的ステージに至るたには、我々の望まないものを経なければならないといことです。「命」や「愛」や「霊」に目覚めるためには、それをおびやかす体験をしなければならないということです。かえすがえすも苦しく辛いことですね。
 さて、「命」をテーマにした第一夜に続き、今日のSONGSは「愛」をテーマにしていました。曲目は次の3曲。

 ミロール
 ボン・ヴォワヤージュ
 愛の讃歌
 
 本職であるシャンソンの世界を堪能させていただきました。シャンソン、カンツォーネ、チャント、カント、カンタータ…みな語源は一つです。日本で言えばまさに「歌」でしょう。本来の和歌の世界です。日本の和歌も、当初は即興による歌唱でした。言葉自体が歌い出すとでも言いましょうか。私たちが歌詞に節をつけて歌うのではなく、日本語自体が歌い出すんですね。
 もともと、日本語はピッチ・アクセントですので、いわゆる節を持っています。リズム(ビート)よりもメロディーだったんです。ですから、私は日本語こそ「歌」にふさわしい言葉だと、最近再認識しまして、そういう日本語が歌い出すというような芸、たとえば美空ひばりや、平井澄子なんかに興味を持っているんです。
1 その点、美輪さんはまさに言葉の神です…いや、言葉自体が主体で、彼はメディアにすぎないのかもしれない。彼は優れた媒介者、ミーディアムなのかもしれない。その先にある「モノ」、言葉という「コト」もまたメディアであるとすれば、やはりその先にある「何か」を伝えるために、彼は歌っているのかもしれません。
 その何かこそが「命」であり「愛」であり「霊」であるのでしょう。番組のインタビューにもありましたが、「無償の愛」、これは実に難しい。たしかに恋愛とひと括りにしてしまいすが、「恋」と「愛」はあまりに違います。「恋」は「乞ひ・請ひ」であって(…ちなみに私は上代特殊仮名遣否定論者です)、相手に願うことです。「恋」というのは、「好きな人が自分のことを好きになってほしい」という感情のことです。ジョン・レノンが的確に歌っているとおりです(LOVEを「恋」と訳すか「愛」と訳すか、その両方なのか、微妙ですが)。
 「無償の愛」は乞いません。だから無償です。それは口で言うのは簡単ですし、それを標榜して行動する普通の人たちもたくさんいます(特に宗教関係者)。しかし、実態はそうなっていないことが多い。自己満足であったり、「情けは人の為ならず」を期待していたり。だから私はそんな大それたこと最初から言いません(笑)。
 でも、たぶん美輪さんは本当の「無償の愛」を実践しているのでしょう。少なくとも彼の魂はそうに違いありません。なぜなら、彼の魂が人間世界の向こう側にあるそれに共鳴しているからです。彼は媒介者として、それを表現します。そうした崇高な何かから選ばれた特別な「人間」として。
 その崇高な何かを神と呼ぶなら、彼こそが神の子と言えるでしょう。おそらくイエスもまた、そういうミーディアムであったのです。
 彼の歌は、いわゆる音楽以前のものですから、音程とかそういう瑣末なロゴスを軽く飛び越えています。彼の歌をコンピュータで楽譜化することはほとんど不可能でしょう。コンピュータには魂はありませんから、彼の歌に、言葉に、その先の何かに共鳴することはできません。共鳴できる私たち普通の人間もまた、ある意味選ばれた存在なのですね。その幸せに気づくことこそが、この歌を聴く感動そのものであるのでしょう。
 セルジュ染井さんのピアノ伴奏、お見事です。ご自身もまたシャンソン歌手であられるからでしょうか、歌とその伴奏の本質をよくご存知です。通奏低音奏者にとって佳きお手本となるでしょう。
 私は数年前美輪さんの歌を生で聴きました。こちらの記事に書いてあります。やはり生はテレビの数万倍すごい。ぜひ、皆さんも一度生で「命」と「愛」と「霊」…すなわち「神」を感じてみてください。

ps YouTubeに別の番組での「愛の讃歌」がありました。よろしかったらどうぞ。
 
愛の讃歌

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2008.10.21

『高度成長』 武田晴人 (岩波新書 シリーズ日本近現代史 8)

00431049 も人生の折り返し地点を過ぎました(たぶん)。歳をとるということは、いろいろな意味で子どもに返っていくということでもあります。ですから、今度は今来た道を反対方向から客観的に眺めようと思っています。
 今まで蓄積してきた知識を、これから得るであろう智恵でしっかり消費していきたいんですね。もう知識はそれほど増えないと思いますし、増やそうとも思っていません。今までただただ溜め込んできたので、そいつをちゃんと整理しなおして全部使ってから死んでやろうと考えるようになりました。
 で、その前半生のまた前半部分は、まだ私もほんとうに子どもでしたから、それこそ何もわからず毎日を過ごしていました。野球したり楽器をやったり、あるいは女のこととか(笑)、まあ遊びのことしか考えていなかったんですね。少なくとも世の中のことなんか考えていなかった。
 その前半部分というのは昭和です。私の生まれたのが東京オリンピックの年ですから。まさに高度成長からオイルショック、安定成長という時代です。そのあたりの非常に濃い空気というものをたしかに吸って生きていたとは思うのですが、それがどう自分の血や肉になっているかという反省を、今までちゃんとしてこなかった。
 それで、まずはこれを読んでみることにしました。この日本近代現代史シリーズ、実は何冊か買っていて、古い方から読んでいこうと思ったんですけど、どうもやっぱり体験していない歴史の勉強ははかどらない。実感がないから、結局知識の蓄積になっちゃうんですよね。だから、ここから始めることにしたわけです。
 さあ、ひと通り読んでみました。なんとなく記憶にあることが、だいぶはっきりしましたし、バラバラだった知識がかなり整理されました。面白かった。
 ただ、読後感はあんまりよくありませんでした。それはもちろん著者のせいじゃありませんよ。本当に単純に「高度成長」のせいです。なるほど、今の私や、今の日本の根底に、この高度成長という神話というか、妄想というか、幻というか、物語というか、ドラマというか、そういうものが色濃く残存してるんだなと。
 高度成長の時代というのは、まさに「経済の時代」です。カネの時代なんですね。ある意味カネが神になった時代とも言えましょう。敗戦の痛手から立ち直るための儀式、祭としてのイケイケであったのかもしれませんね。それはそれで意味があることでしょうが、今、私たちはその祭の後のアンニュイをずっと感じているわけです。
 私は高度成長の東京大田区に育ちましたので、本当にそういう異様な祭の空気を思いっきり吸っていました。いや、実際、京浜工業地帯の際でしたから、光化学スモッグを思いっきり吸って、よく倒れてましたっけ。ひどい話ですねえ。毒ガスの中で野球してましたからね。1時間野球すると、みんな目が真っ赤になったり、胸が痛くなったり、大変でした(笑)。
 でも、あの時代の、たとえば芸術界や芸能界って、やっぱりすごいじゃないですか。このブログでもそういう昭和の偉人たちをたくさん扱っていますけど、とにかく今の人間とは明らかに違ってましたね。みんな天才バカボンでした。それは時代が祭だったからでしょう。ある意味狂気を帯びた空気があったんだと思いますよ。環境も破壊しまくり、犯罪も今よりずいぶんとひどかったし、格差だって今よりあった。考えてみるととんでもない社会でした。
 で、昨日の記事につながるんです。人間というのは、結局非日常の中にいないと、その力が発揮できないのかと。プラス方向にもマイナス方向にも。非常に残念です。みんなが平均的にいい人になって、社会が安定して平和になってしまうと、個人の本来の姿は閉じこめられます。
 今、結局は平和で安定してるんですよ。そういう中でみんなくすぶっている感じがします。安っぽい言い方をすると、夢がない、ということになりますか。夢って、現実の社会性を超えた究極の自己愛ですよね。欲望のことです。高度成長の時代は、そういう個人の欲望をカネの力でどんどん実現していった時代のような気がするんです。
 それは社会的にはひどいことだったかもしれないけれど、個人の自己実現という次元でいうと、とっても楽しくワクワクする、それこそ祭の状態であったような気がします。
 そこんとこの矛盾といいますかね、社会の安定や平和や平等というものと、自己の満足というものとの両立がなかなか実現しないという事実。台風が来ないかなあとかいう、ああいう不幸招来願望みたいなものって、やっぱり私たちの本能だと思いますよ。ある意味不幸じゃないと自分らしくいられない…なんだかイヤですね。平和と平安って、結局平均化のことなんでしょうかね、いろんな意味で。
 オルテガは言います。「われわれが通常生きているのは根本的実在の中ではなく、人びとの世界と共存することによって、すなわち『社会』の中に生きることによって、疑似的に生きることである」と。高度成長の時代の人たちは、共同幻想と言われたあの時代のフィクションの中で、生身の人間(個人)として戦っていたんでしょうね。ワタクシ流に言えば、コト化の波の中でもがくモノノケたちってことでしょうか。
 そんなことを考えてしまう妙な読書でした。この本自体はよくまとまっていて読みやすかったし、昭和本にありがちな、一つのストーリーに無理やりまとめあげちゃうようなこともなく、常に冷静なトーンが貫かれていて好感を持ちました。

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2008.10.20

『妻に語りかけた14年 松本サリン事件が終わった日』 (NNNドキュメント'08)

20081019 像を超えた何人もの人間の姿がそこにありました。人間はとんでもない状況の中で何らかの「思い」を抱き、その「思い」が命の意味を変貌させる。それがご本人にとって幸せであるとはとても言えないけれども、しかしある種の崇高な境地であり、ある種の宗教的存在であるかのように我々が感じるのは事実です。
 あの松本サリン事件から14年。今年8月5日、その事件でサリンを吸い込み、意識不明の状態が続いていた女性が亡くなりました。あの河野義行さんの奥様、澄子さんです。この事件8人目の死亡者…。奥様が亡くなられたことをもって、事件の一つの終わりを迎えたと河野さんは語ります。
 ある意味、あの事件での最大の被害者である河野義行さん。自らもサリン中毒になり、最愛の妻が重体になり、そして、国家から、社会から犯人扱いされました。正直に言いますと、私もまた当時のマスコミの報道に躍らされ、世間の「集団気分」に乗って、彼を真犯人だと思っていました。つまり、あの事件は、世界を震撼させたサリンによるテロという意味だけでなく、冤罪事件としても記憶に残すべきとんでもない事件だったわけです。
 そろそろ私の高校にも、あの事件を知らない生徒が入学しつつあります。私もこの14年間に結婚をし、親になり、仕事の内容も大きく変わり、それなりにいろいろな変化を体験しました。そんな時の流れの中で、河野さんも言うように、たしかに事件は社会的にも、また私をはじめ全ての個人の中でも風化していきます。それは避けられません。しかし、こうして河野さんや澄子さん、ご家族の皆さんが、強い「思い」をもって私たちに語りかけることによって、あのとんでもない事は意味を持ち続けます。
 私たちのような日常的な日常を生きる者にとっては、実に奇跡的に感じる境地、存在…。
 まずは澄子さんの命です。「医学的にはこの状態で生きていることが信じられない」と医師に言われながら14年。何かの強い意志がなければ、この奇跡はありえなかったことでしょう。それはおそらく「愛」だと思います。普段「愛」なんていう言葉を軽々しく使いたくないと思っている私ですが、今日は迷いなく使います。澄子さんの家族への愛。献身的に介護を続けるご主人、そして息子、娘たちへの愛、感謝。これも軽々しくは言えないことですが、その思いは決して「憎しみ」ではないと思います。この14年間の、いや澄子さんの60年の命の語る意味は、とてつもなく大きいものでした。
 そして、義行さん自身の命、思い。森達也さんの作品にも出てきましたが、彼は、サリン噴霧車の製造に関わり有罪判決を受けた元オウム真理教信者と交流を続けています。自宅の鍵まで渡し、自宅の庭木を剪定してもらい、澄子さんを共に見舞う。そこには「憎しみ」はありません。もちろん元々そのような境地だったとは思えませんけれども、今はたしかにそういう関係であり、そういう心理状態です。これは、それこそ当事者ではない私にはなかなか理解できないことです。想像はできますが、いざ自分の日常的感情や倫理観に照らしてみますと、やはり正直違和感すら抱きます。あまりに崇高すぎて何か近づき難いものすら感じる。
 さらには、その元信者の姿…。この番組でも彼は素顔をさらしていましたが、本当に純粋に悪い人には見えませんし、逆に私なんかよりもずっと立派に感じてしまいます。あの事件は彼自身の問題というより、やはりオウム真理教というエセ宗教(とあえて言います)によるものであったのか。そういう意味では、河野さんが彼に言ったように、彼もある意味で被害者なのか。本当はそんなふうに片付けたくない自分もいます。しかし、どうしてもそう思えてしまう彼の生き方、命のあり方なのです。
 この三者の崇高な思い、私たちには本当の理解が困難な思いが病室で出会います。澄子さんの動かない手を優しく一生懸命もみほぐす河野さんと元信者。本当に不思議な光景でした。これに「感動」なんていう言葉は使いたくありませんけれど、しかし先ほどの「愛」と同様に、そうとしか言えないのです。これこそ真に宗教的な光景なのではないか。
 非常に辛く残念なのは、こういう高いステージに至るには、理解や共感や感動ではなく、彼らのようにとんでもない体験を経なければならないということです。これも軽率には言えませんが、彼らもあの体験がなければ、それぞれ我々側に近い日常的な存在であり、彼らの命もごく普通の意味しか持たなかったかもしれません。それが不幸にも、そう不幸にも、そういう体験をしてしまった。こういう世の中の仕組みが辛くてなりません。
 死刑制度に関するディベートなんかも含めて、いずれ授業でこの問題を扱いたいと思っています。私もしっかり考えておかなくちゃ。

Amazon 命あるかぎり―松本サリン事件を超えて

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2008.10.19

格安二段ベッド

Img10303457839 たちがそろそろ自分の部屋で子どもたちだけで寝ると言い出したので、二段ベッドを買ってやりました。ちょっと前に届いていたんですが、なんとなく忙しく廊下に放置してあったのを、ようやく先ほど組み立てました。
 組立てに要した時間45分ほど。その間、子どもたちは異常なほどのはしゃぎぶりです。なんとなく分かりますね、その気持ち。新しい物が来た時のワクワク感は大人にもありますから。特に自分たちの城みたいなものですからね。
 私は生まれてこの方ベッドというものに寝たことがありません。いや、もちろんホテルとかに泊まれば寝ざるを得ないので寝ますが、家では完全にふとん派です。子どもの頃、ベッドに憧れた記憶というのもほとんどありません。
 友だちの家に遊びに行けば、たいがいみんなベッドでしたけどね。特に二段ベッドというのには興味は持ちましたよ。てか、今でも興味がありますねえ。あれで安眠できるのかって。
 だって、あれって上で寝る人は下の人の上に寝るわけだし、下で寝る人は上の人の下で寝るわけじゃないですか。変ですよ。なんとなく人の背中を見たり、自分の背中を見られているような気がして、落ち着かないんじゃないでしょうか。
 だいいち、私はですね、普通のベッドでも空中に浮いているような気がして落ち着かないんですよ。落ちそうとか、そういう理由じゃないようなんですけど、なんかふとんが床に接触してないと変な感じがするんです。それが二段ベッドの上なんて言ったら…。
 そう、ふとんを床や畳に敷いて寝ていると、大地に寝ているような気がしますが、ベッドだと雲の上に寝ているような感じがするんです。二段ベッドの上の方だと、かなり高層の雲ですよ。だいたいが、天井に近すぎて息苦しくないでしょうか。今日組立て後一番乗りでねっ転がってみましたが、やっぱりすごい違和感持ちました。下は下で暗くて息苦しいし。
 て、単に私が慣れていないからであって、子どもたちにとっては、そういう非日常性すら面白いそうです。ちなみに今日は上に長女、下に母親と次女が寝るということで、私だけ別の部屋でふとんで寝ます。
 それにしても今回買ったこのベッド、安いわ。二段ベッドで1万3千円台。ありえない。もちろん中国製(!)です。工作や塗装はそれなりの製品でしたが、まあ本体はたしかにパイン材だし、付属のすのこは杉材で、それなりの厚さもあって、基本的な強度は問題ないようです。
Img10303454820 写真を見て分かるとおり、二段でなく、一段×2という使い方もできます。ということは、まさにベッドを二段重ねているわけですが、その一階部分と二階部分の接合がさすがに貧弱な感じがします。いちおう金属製の棒4本でつながってるんですけど、それは単に刺さっているだけで、ボルトなどで固定しているわけではありません。通常の使用で外れたりはしないでしょうけど、大きな地震の時にはぜったいバウンドして外れますよ。そのくらい金属の棒が短い。近いうちに外側から固定しようと思います。
 ま、10年も使えればいいでしょう。いつまで、彼女ら二人で使うんでしょうね。いずれどちらかが先に家を出て行くでしょうから。ま、その時まで仲良く二人で楽しい夢を紡いでもらいたいですね。いよいよ、二人ともいなくなったら、薪にでもしますよ。私はふとんでいいです。


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2008.10.18

『詩のボクシング 山梨大会 in つる 2008』

優勝した くりこ さん↓
Kuriko このところ何かと縁のある「詩のボクシング」。今日は初めて生観戦いたしました。
 今回の山梨大会は、今2年生の現役生徒が出場していることもあって、生徒10人ほどを連れて都留市のうぐいすホールに応援に行きました。
 と、会場に着いてビックリ。彼以外にも卒業生が2名決勝に残っていました。16名中3名が教え子ということ