うつる…
今朝の最近気温、初めて1度を切りました。氷点下まであと一歩です。これで一気に木々が色づいたかと期待したのですが、どうも今一つのようです。
今日の富士山は風が強く、枯れ葉が乱舞しておりました。本当なら紅葉を散らす木枯らしを恨んだりして、古人にならい歌など詠みたいところですけれど、どうも最近葉の色づきが悪く、そういう気持ちになれません。「風のクロマ」がいまいちっていうことかな(笑)。
そうそう、昨年の今頃「モミジとカエデ」という記事を書きましたね。そこにも載せた「ウチの裏」ではなく「裏のウチ」のカエデの写真をご覧ください。まだ色づきは半分くらいですけれど、もうすでに根元にたくさんの落ち葉がありますね。10年くらい前は全身真っ黄に色づいてから一斉に落葉したんですけど、どうも最近こんな感じで、いつが黄葉(もみぢ)のピークだったか分からないんです。残念です。
ところで、昨年の記事に引用した万葉集の和歌を見直していて一つ気づいたことがあったので、今日はそれをメモしておきます。
秋山に もみつ木の葉の うつりなば さらにや秋を 見まく欲りせむ
この歌にも出てくる「うつる」という言葉です。皆さんよく御存知の小野小町の歌にもありますね。
花の色も うつりにけりな つたづらに 我が身世にふる ながめせしまに
前者では適当に「散ってしまったら」と訳されます(私もそう訳してます)し、後者では「変ってしまったなあ」とか「色あせてしまったなあ」のように訳されますね。で、その本質は何かということを考えたんですけど、これって「移動する」という動作よりも、その結果として、「そこにあった何かがなくなる」という意味ですよね。
「うつる」の「うつ」は「空」であって、「うつる」は「からっぽになる」という説は、古来唱えられていたようです。復元されたアクセントからそれに反論する人もいるようですけど、いつかも書いたようにアクセントというのは言語現象の中で最も流動的で「うつろいやすい」ものですから、私はその説はとりません。
そうそう、「うつろう(うつろふ)」という発展形になると、さらによくわかりますね。何かがどこかに行ってしまって、前の状態がなくなっている空しさ。気持ちも季節も栄華もうつろうものですね。
もちろん、そういうところに私たち日本人は「もののあはれ」を感じてきました。その伝統は今でも続いていて、たとえば昨日のレミオロメンの「風のクロマ」の歌詞もそういう情緒を表現したものと言えます。
しかし、「うつる」=「無になる」ではないんですね。あくまで今までの位置に存在しなくなるわけで、私たちは置いていかれているかもしれないけれど、それ自身はどこかに行ってどこかに存在しているわけです。その証拠に花の色も紅葉も翌年にはちゃんと帰ってきます。「うつる」には「人が死ぬ」という意味もあります。その場合にもその人はあの世に行ったということで、存在が完全に無に帰すわけではありません。あるいはその人の残した何かが違う形でこの世にも残るじゃないですか。遺伝子だったり、あるいは作品であったり、もちろん記憶であったり。
そういう循環のようなものに対する感慨がすなわち「もののあはれ」です。それは決してマイナスの感情ではありません。驚きであり、畏敬であり、諦念であり、感動なのです。お釈迦様の唱えた「空」というのもそういうものなのかもしれませんね。
ところで、「うつる」の他動詞「うつす」ですが、これも同じようなニュアンスにとらえられます。そうするとこの季節にもよく言われる「カゼをうつすと治る」というのも一理ありかもしれませんね。
あっ、もう一つ。「映る」や「写る」も「移る」と同源です。ですから、写真を写されると魂が抜かれるとか吸い取られるというのは、本体が空っぽになるという語感が残っているということでしょうか。まあ、今やコピーの氾濫する時代ですから、そんなことを言う人もほとんどいませんがね。
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やっぱJKはいいな。いや…女子高生じゃないっすよ。ジャパンナレッジ…日本の知識です。
そしてそして、自分にとってのメインは実はJKではなくて、日国オンラインですよ。いちおう日本語を相手に仕事をしている人間にとって、
ようやく出ました。でも、なんとなくあっという間だったような気もします。この2年半を振り返ってみますと、あまりに濃いというか…。私自身も大きな人生の転機を体験しました。いろいろなご縁に恵まれ、たとえばこのレミオロメン一つとっても、ありがたいことにずいぶんと身近に感じられるようになりました。あり得ないことです。各方面において予想外の展開がたくさんあって、ある意味で自分へのこだわりが消えたというか、やっぱり自分は誰かたくさんの人たちに生かされているんだなと、今さらながら痛感した次第です。
抜群に面白かった。「スカイ・クロラ」自体を観ていないのにも関わらず、ここまで楽しめるとは。そして、「スカイ・クロラ」心から観たいと思った。
面白いなと思ったのは、押井さんを大人にしたきっかけの一つが「空手」だったということですね。身体性だった。エンボディメント。脳内妄想(コト)ではなく、最も身近な外部である体(モノ)だったということです。これは重要なポイントだと思いました。
今日も一昨日、昨日の続きでしょうか。タイミングよく、NHKクローズアップ現代でも今日この話題がとりあげられていました。
昨日の続き…とも言えましょうか。ある意味殺人も一つの倫理観になりうるということです。
もう一つついでに。その葉隠を素直に読みすぎてしまった(?)三島由紀夫のヌード写真集「薔薇刑」が来月復刻されます。もちろん撮影は
宝くじに当たる確率と人に殺される確率(あるいは人を殺してしまう確率)と、どっちが高いんでしょうか。まあ、宝くじに当たって殺されちゃった不幸な人もいましたが。
今日あるクラスの授業に行ったら、ホワイトボードに「御御御御付け(おんおみおつけ)」と書いてありました。最初の「おん」はおまけにしても、単なる汁物に「御」を三つもつけるなんて、日本人は面白いね、という話になりました。
生徒たちと観ました。いちおうウチのクラスのギャルどもも受験生でして、かなり緊張感が高まってきました。とは言え、いつもの通り明るく元気よくやってますが。もう放っておいても大丈夫です。
神降臨。
その点、美輪さんはまさに言葉の神です…いや、言葉自体が主体で、彼はメディアにすぎないのかもしれない。彼は優れた媒介者、ミーディアムなのかもしれない。その先にある「モノ」、言葉という「コト」もまたメディアであるとすれば、やはりその先にある「何か」を伝えるために、彼は歌っているのかもしれません。
私も人生の折り返し地点を過ぎました(たぶん)。歳をとるということは、いろいろな意味で子どもに返っていくということでもあります。ですから、今度は今来た道を反対方向から客観的に眺めようと思っています。
想像を超えた何人もの人間の姿がそこにありました。人間はとんでもない状況の中で何らかの「思い」を抱き、その「思い」が命の意味を変貌させる。それがご本人にとって幸せであるとはとても言えないけれども、しかしある種の崇高な境地であり、ある種の宗教的存在であるかのように我々が感じるのは事実です。
娘たちがそろそろ自分の部屋で子どもたちだけで寝ると言い出したので、二段ベッドを買ってやりました。ちょっと前に届いていたんですが、なんとなく忙しく廊下に放置してあったのを、ようやく先ほど組み立てました。
写真を見て分かるとおり、二段でなく、一段×2という使い方もできます。ということは、まさにベッドを二段重ねているわけですが、その一階部分と二階部分の接合がさすがに貧弱な感じがします。いちおう金属製の棒4本でつながってるんですけど、それは単に刺さっているだけで、ボルトなどで固定しているわけではありません。通常の使用で外れたりはしないでしょうけど、大きな地震の時にはぜったいバウンドして外れますよ。そのくらい金属の棒が短い。近いうちに外側から固定しようと思います。
ここのところ何かと縁のある「詩のボクシング」。今日は初めて生観戦いたしました。