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2008.10.21

『高度成長』 武田晴人 (岩波新書 シリーズ日本近現代史 8)

00431049 も人生の折り返し地点を過ぎました(たぶん)。歳をとるということは、いろいろな意味で子どもに返っていくということでもあります。ですから、今度は今来た道を反対方向から客観的に眺めようと思っています。
 今まで蓄積してきた知識を、これから得るであろう智恵でしっかり消費していきたいんですね。もう知識はそれほど増えないと思いますし、増やそうとも思っていません。今までただただ溜め込んできたので、そいつをちゃんと整理しなおして全部使ってから死んでやろうと考えるようになりました。
 で、その前半生のまた前半部分は、まだ私もほんとうに子どもでしたから、それこそ何もわからず毎日を過ごしていました。野球したり楽器をやったり、あるいは女のこととか(笑)、まあ遊びのことしか考えていなかったんですね。少なくとも世の中のことなんか考えていなかった。
 その前半部分というのは昭和です。私の生まれたのが東京オリンピックの年ですから。まさに高度成長からオイルショック、安定成長という時代です。そのあたりの非常に濃い空気というものをたしかに吸って生きていたとは思うのですが、それがどう自分の血や肉になっているかという反省を、今までちゃんとしてこなかった。
 それで、まずはこれを読んでみることにしました。この日本近代現代史シリーズ、実は何冊か買っていて、古い方から読んでいこうと思ったんですけど、どうもやっぱり体験していない歴史の勉強ははかどらない。実感がないから、結局知識の蓄積になっちゃうんですよね。だから、ここから始めることにしたわけです。
 さあ、ひと通り読んでみました。なんとなく記憶にあることが、だいぶはっきりしましたし、バラバラだった知識がかなり整理されました。面白かった。
 ただ、読後感はあんまりよくありませんでした。それはもちろん著者のせいじゃありませんよ。本当に単純に「高度成長」のせいです。なるほど、今の私や、今の日本の根底に、この高度成長という神話というか、妄想というか、幻というか、物語というか、ドラマというか、そういうものが色濃く残存してるんだなと。
 高度成長の時代というのは、まさに「経済の時代」です。カネの時代なんですね。ある意味カネが神になった時代とも言えましょう。敗戦の痛手から立ち直るための儀式、祭としてのイケイケであったのかもしれませんね。それはそれで意味があることでしょうが、今、私たちはその祭の後のアンニュイをずっと感じているわけです。
 私は高度成長の東京大田区に育ちましたので、本当にそういう異様な祭の空気を思いっきり吸っていました。いや、実際、京浜工業地帯の際でしたから、光化学スモッグを思いっきり吸って、よく倒れてましたっけ。ひどい話ですねえ。毒ガスの中で野球してましたからね。1時間野球すると、みんな目が真っ赤になったり、胸が痛くなったり、大変でした(笑)。
 でも、あの時代の、たとえば芸術界や芸能界って、やっぱりすごいじゃないですか。このブログでもそういう昭和の偉人たちをたくさん扱っていますけど、とにかく今の人間とは明らかに違ってましたね。みんな天才バカボンでした。それは時代が祭だったからでしょう。ある意味狂気を帯びた空気があったんだと思いますよ。環境も破壊しまくり、犯罪も今よりずいぶんとひどかったし、格差だって今よりあった。考えてみるととんでもない社会でした。
 で、昨日の記事につながるんです。人間というのは、結局非日常の中にいないと、その力が発揮できないのかと。プラス方向にもマイナス方向にも。非常に残念です。みんなが平均的にいい人になって、社会が安定して平和になってしまうと、個人の本来の姿は閉じこめられます。
 今、結局は平和で安定してるんですよ。そういう中でみんなくすぶっている感じがします。安っぽい言い方をすると、夢がない、ということになりますか。夢って、現実の社会性を超えた究極の自己愛ですよね。欲望のことです。高度成長の時代は、そういう個人の欲望をカネの力でどんどん実現していった時代のような気がするんです。
 それは社会的にはひどいことだったかもしれないけれど、個人の自己実現という次元でいうと、とっても楽しくワクワクする、それこそ祭の状態であったような気がします。
 そこんとこの矛盾といいますかね、社会の安定や平和や平等というものと、自己の満足というものとの両立がなかなか実現しないという事実。台風が来ないかなあとかいう、ああいう不幸招来願望みたいなものって、やっぱり私たちの本能だと思いますよ。ある意味不幸じゃないと自分らしくいられない…なんだかイヤですね。平和と平安って、結局平均化のことなんでしょうかね、いろんな意味で。
 オルテガは言います。「われわれが通常生きているのは根本的実在の中ではなく、人びとの世界と共存することによって、すなわち『社会』の中に生きることによって、疑似的に生きることである」と。高度成長の時代の人たちは、共同幻想と言われたあの時代のフィクションの中で、生身の人間(個人)として戦っていたんでしょうね。ワタクシ流に言えば、コト化の波の中でもがくモノノケたちってことでしょうか。
 そんなことを考えてしまう妙な読書でした。この本自体はよくまとまっていて読みやすかったし、昭和本にありがちな、一つのストーリーに無理やりまとめあげちゃうようなこともなく、常に冷静なトーンが貫かれていて好感を持ちました。

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コメント

経済と言う言葉が本来の意味“経国済民”を取り戻さなければねぇ。
そもそも経済評論家がカネの話しかしないんだから困ったものです。

投稿: LUKE | 2008.10.26 22:52

LUKEさん、こんにちは。
そう、経済とカネは全く別物のはずですが…。
だいたい大学の経済学部もそんな感じですからねえ。
最近そのカネがマネーに化けて、ますます猛威を振るってます。
まあ、現代のモノノケと考えれば、このくらいの方が面白いかも(笑)。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.10.27 13:53

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