『思考の補助線』 茂木健一郎 (ちくま新書)
久々に痛い本を読みました。痛いの意味はあとで説明します。
まずタイトルが素晴らしい。「思考の補助線」…とってもいいタイトルです。タイトルを見た瞬間、たしかに補助線が引かれたような気がしました。あっ、なるほど!思考の補助線か!って。
だから期待して読んだんですよ。これからいったい何本補助線が引かれるんだろうって。でも、結果は惨憺たるもの。とっても心が痛くなりました。高校時代の数学の授業を思い出してしまった…遠い記憶、しかし鮮明なる記憶…とっくに置いていかれ、いつ当てられるかビクビクしていたことを思い出してしまった。
結局その日は先生に当てられて、黒板にかかれた無機質(無意味)な図形に補助線を引けと命じられ、正直まったく分からず、背後から襲いかかる無数の侮蔑の視線と先生の容赦ない叱責の言葉を体にしっかり吸収してしまい、ものすごく膨張してしまった羞恥心と自己嫌悪の処理に困った挙げ句、宙を震えながら彷徨う右手のチョークを黒板に打ち砕き「こんなのわかるわけねえだろ!」と啖呵を切る…勇気などあるわけなく、いやらしく切ない笑みを口辺に漂わせて、最後はなぜだかある一点にそのチョークを静かに置き、問題の図形の外側に孤独な線を引き、その力なくうなだれた姿に最後の望みを託した。誰か笑ってくれないか。誰か笑って私を救ってくれないか。先生でもいい。この渾身のギャグを理解してくれ。こっちは命がけなんだ。笑え!親愛なる他人たちよ、どうか笑ってくれ!助けてくれ!
しかし、教室には無慈悲な沈黙が流れるだけであった…。
という痛さを思い出しちゃったんですよ。ふぅ。ついでにですね、結局怒られ、いや呆れられた挙げ句、こうだろ!と力強く引かれた正解とおぼしき補助線の、そのいったい何を補助しているのかすら分からなかった痛さ。いや、さらに分かりもしないのに、「ああ、なるほど…」と聞こえないくらいの声でつぶやいてしまった、その痛さ。
補助線って残酷ですよね。わかる人には、それはとっても優しい、それはとっても意味のある、人生を変えるものなのかもしれません。でも、わからない人にとっては、それは上記のような残酷な、こちら側とあちら側を分ける軌跡にすぎません。
おそらく世界には無数の補助線が引かれているのでしょう。最初から引かれているものもあるでしょうし、人があとから引いたものもあるでしょう。でも、その意味に気づかなければ、やはりその補助線たちは何も補助しないわけです。場合によっては補助ではなく、妨害、あるいは阻害する線になるかもしれない。いや、疎外線かもしれない。
しかし、分かるは分けるということです。分からないからいいこともあるのかもしれません。分別された「コト」より未分別な「モノ」。分別(ふんべつ)より無分別(むふんべつ)。
ここのところ、哲学者を揶揄する文章をいくつか書きましたね。それはおそらく羨望と劣等感と失望の交錯した、私の屈折した心の産物だと思いますけど、この本では茂木健一郎さんが、その哲学者になっているんです。
いや、本来彼は哲学者を目指しているのであって、決して農家学者…と変換されてしまった…いや、脳科学者という肩書きに安住したくないんでしょう。なんか、どこかポップでコマーシャルで、芸能人じみた茂木さんがいきなり本性を表したっていう感じです。ずるいですよ。
でも、とってもよく分かる部分もあります。それは、この本の内容とか、そういうことではなくて、こういう自分も見せたい、という心の奥底のいやらしい自分、しかし崇高なる自分のことです。それって必ず人の心にあります。私にもあります。
仕事でも家でもネット世界でも、さんざんおちゃらけている私ですが、実は…うわっ、これ書いちゃうとホント痛いことになるんでやめます。
でも、面白いもので、何ごとでもそうですが、これは本来の姿ではない、演技である、と意識して毎日を過ごしているうちに、いつのまにかそのフィクションがリアルに転じてしまい、本来実体と意識されていたはずの「何か」は結局何かのまま具現化せず、それこそが妄想になってしまうということ、これはよくありますよね。人生はその繰り返し、社会もそれで成り立っているとも言えますか。
まあ、とにかく「痛い」本でしたよ。読んでて苦しくて仕方なかった。「アハ体験」なんて一つもない。どちらかというと「もののあはれ」…不随意への詠嘆で終わってしまいました。
芸術の世界でもよくありますよね。他の作品群とはおよそ色彩の違う異端作が。茂木さんの好きなモーツァルトにもあるじゃないですか。で、そういうものがあとで名作と称される。だから、この本も数十年後名作として名が残るかもしれませんよ。
いやあ、それにしても、痛い本だった。看板に偽りありという意味では、内田樹さんの「女は何を欲望するか?」並みでしたね。だまされた…いや、両者とも偽りとは言い切れないんですが…。両方とも私はおススメしますよ。ぜひ皆さんも読んでみて下さい。
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コメント
私も幾何は大嫌いでした(o^-^o)。
その貴重な経験から言うと、補助線なんて、引けた時点でもう解決なんで、引けるかどうかが最重要課題のようでした。引けない私は、「俺にはそんな才能ないよ」とたいへんしらけた生徒でした。才能のない生徒の中には、解法をいくつも覚えこみ、なんとかするという努力の人もいたんですがね。
投稿: 貧乏伯爵 | 2008.09.19 09:48
伯爵さま、どうもです。
おお、同志よ!
全くその通りです。
そう、才能ですよね。それ以外の何ものでもない。
で、才能がないのを努力でカバーするのも才能でして、
私はその両方がないようで、ずいぶん苦労…もないですね(笑)。
諦めが肝心です。
ただ、とんちんかんなことやって、セレンディピティー体験があったのもたしかです。
すぐに補助線引けちゃったら、道筋どおりにしか行きませんよね。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.09.19 18:17
前略 蘊恥庵御亭主 様
この「御文」は・・・素晴らしい名文です。
えぇぇぇ・・・
愚僧の父も息子も囲碁を嗜(たしな)みます。
恥ずかしながら・・・
愚僧自身は「オセロ」だけ楽しめます。笑
囲碁の出来ない愚僧は・・・自分に
ほんの少しだけ劣等汗× 劣等感を
抱いております。苦笑 しかし・・・・
色彩等も非常に良く似ており・・・
考証的に観ても・・・両者は
総体的に・・・大差ありません。笑
「オセロ」も「囲碁」も
「ひらめき」も「農家学× 脳科学◎」
もすべて大差ありません。
「囲碁」 が高尚だとか・・・・
「オセロ」が哄笑だとか全く意味がありません。
しかし・・・自分自身を「高尚」だと
感じる「御仁方」は 時として・・・・
「普通の凡人」を例証× 冷笑◎したり・・・
ものすごい時には公傷× 哄笑◎したりします。
まぁぁぁ・・・愚僧から見れば・・・
実に憐(あわ)れな存在です。
自分には「顎×学◎」があると思っている人ほど
「学」が足らない場合が多いようです。
愚僧なども「農家」の御方々様の日常・・・
当り前の「日暮し」の中から・・・・
生きる「指針」をいつも頂いております。
しかし「農家人」は決して驕(おご)りません。
まさしく・・・・
愚僧よりずっと素晴らしい「能化」です。笑
換算拾得× 寒山拾得◎ではありませんが
素晴らしい 「閃(ひらめ)き」や
スッキリする「補助線」は・・・
日常の当たり前の「普通の生活」の積み重ね
の中にこそ潜んでいるのかも知れません。
合唱おじさん 百杯× 百拝◎
投稿: 合唱おじさん | 2008.09.23 10:53
合唱おじさんさま、おはようございます。
寒山拾得…たしかに、日常の中で自然体に生きていると、
補助線はいつのまにか引かれているのかもしれませんね。
なるほど、驕りのない普通の心こそ、その前提なのでしょう。
そういう境地にはなかなかなれませんが…。
それにしても、百杯というのもいいですね(笑)
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.09.24 08:59