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2008.09.30

『親愛なるマリー・キュリー 女性科学者10人の研究する人生』 猿橋勝子(監修) (東京図書)

Gh7878 性は科学に向いているか…どうも向いているようですね。
 前に理科の先生から『偉大な、アマチュア科学者たち』をお借りして読みました。アマチュアもプロ並み、いやそれ以上に活躍できるフィールドなんだなあ、科学の世界って…と思いました。同じ理科の先生(女性)に今度はこういう本をお借りして読みました。女性も男性並み、いやそれ以上に活躍できるフィールドなんだなあ、科学の世界って…と思いました。
 考えてみれば、アニメやマンガや特撮モノなんかには、アマチュア科学者や女性科学者たちがけっこう出てましたね。あれってリアルなことだったのか。
 昨年、世界的な日本人女性科学者第一号であり、「猿橋賞」の創設者でもある地球化学学者猿橋勝子さんが亡くなりました。その時、NHKのクローズアップ現代で「女性科学者の闘い~猿橋勝子さんが遺したもの~」というのが放映されましてね、私はそれを観たんです。それでちょっと感動してしまった。猿橋さんについてはお名前は知っていましたが、そんな波乱の人生があったとはつゆぞ知りませんでした。アメリカという親玉国家を相手に道場破りですからね。そして勝ってしまった…。
 当然、そこには女性としてのハンディとの闘いもありました。男尊女卑のムード、そして家事や子育てと研究の両立。これは朝の連ドラ化した方がいいですよ。そのくらい壮絶です。
Photo24991 この本は、その猿橋勝子さんの監修による猿橋賞受賞者たちのエッセイ集です。では、この本はとんでもなく壮絶かと言いますと、そういうイメージはなくて、最初に書いたように、私は女性は科学というフィールドに向いていると思ってしまいました。
 それはどういうことかと言いますと、こういうことなんです。なにしろ、どの方の文章も柔らかくて伸び伸びしていて、全然壮絶な感じがしないんですよ。これが男性だったら、ぜったい必要以上、現実以上に厳しく重く書いちゃいますよ。
 本当は大変な苦労だったのに、さらっとそれを書いてのけちゃう。これは逆にすごいなと思いました。だって、10人の皆さん、みんなそういう感じなんだもん。こりゃあ男にはできないぞ、と思いました。
 それぞれの研究内容についてもとっても優しく易しく書いてくれているので分かりよかった。うん、科学は女性が噛み砕いて教えた方がいいのかもしれないなあ。教育者としても女性の方がいいということか。
 あとはやはり、女性の持つ女性性が科学にも必要だということ。恋愛をして結婚をして妊娠して出産して子育てしてダンナの世話を焼いてご飯を作って掃除をして…そういう日常性というか生活感というものが、科学の勝手な暴走や自己満足を制御するんですよね。ものすごく簡単に言ってしまうと、男性の科学はどうしても科学のための科学になってしまうのに対し、女性の科学はあくまでも人間のための科学という気がするんです。男性の科学は戦争を起こしますが、女性の科学はそういうことがないような気がします。
 女性は社会的にも生物的にも男性より多くのことをこなさなければなりません。それはある意味、それができるからそうなっているのであって、おそらく男性は基本それらをこなせないから仕事に専念するんでしょう。で、人にいろいろなことを押しつけておいて、いざとなると、そんないろいろなことをやっていると一つのことに専念できないから大成しないよ、なんて言うんでしょうね。
 あと、最近いろいろな文化論を語る中でよく思うんですけど、女性より男性の方がジメジメしてますよね。引きずる。女は案外あっさりしますよ。上書きして生きてくじゃないですか、女性は。男は全部後生大事に保存していきますからね、記憶を。今までは、そういう違いをもってして、男性は女性を蔑視してきたわけですが、はっきり申して、実は「今」を大切にする女性性の方が強いんですよ。男性だったら、あの出産の苦痛を一度知ったら(私は知りませんが…笑)、もう二度と子どもを産もうなんて思いません。
 やっぱり女は強いよな。実際持続力もあるし、爆発力もあるし、根性もあるし。今、私のクラスは女子ばかりなんですが、はっきり言って私は小さくなってます。彼女らものすごいパワーです。最近、男女クラスでも女子の方が強いし、勉強もできる。地道にやる。男は気が散るし、持続力が案外ない。
 男女平等とか男女共同参画とか言わなくても、もうとっくに昔から女中心に世の中は回っているんです。男がいろいろな障壁を作れば作るほど、実は女はパワーアップしていくのでありました。
 そんなことをしみじみ感じさせてくれる良書でありました。女性が読んで勇気を得るのもいいけれど、男性が読んで苦笑するのもいいのではないでしょうか。

Amazon 親愛なるマリー・キュリー

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2008.09.29

サラリーマンNEO season3 最終回(NHK)

 夜の最終回。今日帰宅後に録画を観ました。昨年も最終回について書いてますね。『サラリーマンNEO season2 最終回』→福田総理大臣NEO初回(?)です。あれ?福田さんのNEOはいつのまにか終わってしまいましたね、season1の途中で(笑)。
 昨年の記事にも書きましたが、NEOが終わると秋だなあと思います。今日はとにかく寒くてストーヴをつけてしまいました。最近仲が悪かった3匹の黒猫たちも、肩を寄せ合って寝ています。寒いと人間も含めて動物は仲よくなるんでしょうかね。
08saijyo さて、season3の最終回、まずは「就活一直線」でした。思えば昨年の最終回に登場した「昭和の生き残り型(西條浩一)」がこうして主役を取ったんですよね。私たち夫婦の目の付け所がよかったわけでしょうか。
 しかし、たしかにこういう昭和の体育会系文化というのは消えつつありますね。なんとなく淋しいかぎりです。スポーツの世界でさえも「根性」は排される傾向にあります。単なる勝ちを目指すのだったら、たしかに「根性」や「しごき」や「かわいがり」は必要ないでしょうが、失うものも多いような気がしますよ。特に西條さんの所属している柔道部の変貌ぶりには目を覆いたくなります。ま、日本柔道界自体がJUDOを目指しているようですから、末端の部活動が変るのも仕方ありませんが。
08ol 続いて「スケバン欧愛留」です。このコーナーはやられる男性陣に見どころがあります。今日はとうとう生瀬さんがやられました。もともとこういうやられ役、困った表情が得意な生瀬さんですからね、それはそれは見事なやられっぷりでした。
 そして、昭和の駄洒落の連発。これには苦笑した御仁も多くいるのでは。必ず職場にいますよね、そういう人。私は基本、駄洒落は言わないと心に誓っているんですが、どうも最近おやじキャラになってきたらしいので、あえて文化伝承のために駄洒落を使おうかなと思ってるところです。
08sexy 次は…出、出た!セクスィー常務!!こういう展開とは…。いやはや、セクスィー部長に上司がいたとは。いや、まずセクスィー部長のピンチにバッハのマタイ受難曲の終曲がかかった時点でイヤな予感がしたんですよ。キリストのピンチに父なる神が降臨か!?うむ、リアル草刈正雄を使うとは…NHKおそるべし。作られた沢村一樹セクスィー部長とは違い、素(ス)だぞ草刈!新キャラとして来年はレギュラーになるんでしょうか。それとも、ウルトラの父みたいな役柄なんでしょうか。
 それにしても、「セクスィーは生き方なり」とはよくぞ言ってくれました。今の世の中にかけているのは、こうしたセクスィー=ダンディズムだと思いますから。私もおやじキャラになってきたのを機にセクスィーを目指しましょう(笑)。
08nyao 清楚で品のある女性4人、原史奈さん、奥田恵梨華さん、中越典子さん、堀内敬子さんがビールで乾杯しているNYAO。最近私の中で奥田恵梨華さんの株が急騰しています。彼女は地味と言えば地味ですが、このNEOを通じて、いろいろな役柄をこなせるようになりましたね。番組が女優を育てるいい例だと思います。いつかも書いたように、ものすごい実力派の俳優さんたちに囲まれてますからね、収録一回一回がおそろしく勉強になるでしょう。これからの活躍にも期待します。がんばって下さい。
08ikeda さて、いよいよseason3最後のコント。「雨降る夜に」です。なんと言っても池田鉄洋さんの濃さが印象に残るコーナーでしたなあ。他のコントも含めて、比較的不幸せな役柄が多かったけれど、なんとなく共感できるキャラを演じるんですよね。ただ叫んでるだけに見えるかもしれませんが、彼の演技や存在感にはなんとなく淋しさが漂っていていい。
 ところで、最近気づいたんですが、私の大好きなレミオロメンの「3月9日」のPVに、池田さん出てるんですよね。それもとってもハッピーな新郎役として(笑)。なんか改めて観ると笑えますね。あの雰囲気の中で池田さんの新郎ですからねえ。ナイス・キャスティングなのか…微妙だな(笑)。妙子さんと結婚したのかな。無事サラリーマンになれたのか、それともミュージシャンになったのか(笑)。どこに出てるか、探してみて下さい。ちらっちらっとしか映ってませんけど、なんか存在感あります。

 ああ、秋だな。長い冬が来るな。受験のシーズンだなあ。そして卒業の春が来る…頑張ろ。

サラリーマンNEO公式

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2008.09.28

『ウェブ時代の5つの定理 この言葉が未来を切り開く! 』 梅田望夫 (文藝春秋)

16370000 の言葉が未来を切り開く!?なんだか未来がアジの開きみたいになってるイメージが浮かんでしまった(笑)。
 先日の「ウェブ時代をゆく」の記事にも書いた通り、情報化時代に疑念を抱きながらも、日々その恩恵にどっぷり漬かって、そしてそれをたっぷり使っているワタクシ。こういう状態って、たぶん産業革命の時とか、日本の明治維新の時とか、戦後民主化の時とかといっしょなんでしょうね。
 基本、ウェブ世界というのは、自由、平等、そして正義がそこにあると信じられている世界です。ですから、アメリカ的なものと当然マッチしていますね。一見お金もかからないように見えますが、実はそこに大きな消費の可能性もありますし。
 で、実際にウェブ時代のリーダーとなっているアメリカのシリコンバレーの金言を集めたのがこの本です。彼らが何を信じてこの革命を主導しているのか知りたかったので読んでみたわけです。
 結論。彼らは自分たちがよりよい世の中を作れると信じている。世界を良い方向に変えようとしている。それが実現すれば経済的にも成功すると思っている。私も大好きなアップル社を引っぱるスティーブ・ジョブスもそう言っています。
 グーグルの「Don't be evil(邪悪であってはいけない)」にも象徴されるように、そこには単純な宗教的ムードがありますね。性善説に則り、世界の改革を目指し、そして個人的幸福も得る。これは古今東西の宗教のシステムと全く同じだと感じました。
 もちろんそれが悪いということではありません。どちらかというと健全な人間の精神活動だと思います。しかし、多くの宗教がそうであるように、どうしてもその最終目標や基本的な前提条件に対する自己検証がおろそかになっているような気もしますね。産業革命の時と同じですよ。豊かになること…すなわち、当時はモノを多く所有すること、今回はコトを多く所有すること…が幸せであるという、その絶対命題というか公理に対する検証はほとんど誰もしません。少なくともそれを主導する人、それを歓迎する人たちは。当たり前ですが。
 私はまずそこのところに疑義を感じていたいんです。ま、ちょっと違った言い方をすれば、アメリカ教の信者にはなりたくないってことでしょうかね。世の中や人生を「成功」と「失敗」に分けたり、「正義」と「悪」に分けたり、自己の「夢を追いかける」ことを推奨したり、「自分に素直に生きる」ことがスマートだと捉えたりする、そんなステキなアメリカには私はついていけません。
 まあ、これは現代社会に対応しきれない自分、努力や継続が面倒くさいという致命的な欠陥を持った自分、全てをハッタリで乗り切ればいいと思っている自分、そんな程度の自分の恨み節にすぎませんから、そんなに真剣に対抗しよう思ってるわけではないので、あしからず。
 しかし、なんていうかなあ、なんかうまく表現できないんだけれど、根本のところで違和感があるのはたしかです。たぶん、それって現在の経済のあり方というか、カネに対する不信感が根底にあるんだと思いますよ。この数年というもの、まあ世の世間知らずの先生たち(失礼!)をだまそうとする、あのマンション経営やら先物取引やら、いろんな資産運用のつまらん勧誘電話にですね、「私はカネはいらない!カネこそが諸悪の根源であり、それを増殖させるなどという危険で卑劣なことをしたくない!」と大声で対応しているうちに、本当にそんな考えになってきちゃいましてね。
 そういう「悪」の権化を対価として、さまざまな商品やサービスが存在するわけでしょ。だから、顧客のニーズなんていうのは、私にはとっても利己的で刹那的なものにしか見えないんですよ。もちろん、自分のニーズを省みてもそれは間違いないみたい。
 ついでに言ってしまうと、個人の「夢」や人類の「夢」なんていうのも、そんなもんでしょう。この前の「人類の消えた地球」を観てあらためて感じちゃいました。
 だから、この本の金言はですね、まさに金を得る言葉としては正しいと思いました。その正しさは、幸福を得る、あるいは安寧を得るための聖書をはじめとする教典や聖典の正しさと同じ次元なんです。それでいいじゃないか、という思考ももちろん可能ですし、あるいはそこまでも行ってないので、まずはそこまで努力すべきなのかもしれませんが、しかし、なにか違和感がある。なんだろう、最近のこのモヤモヤは…。
 ですから、以前心から感動した、この伝説のスティーブ・ジョブスの演説も、なんだか素直に聞けないんです…なんて、こんな卑小な人間のたわごとを皆さんは気にせずに、この現代の神の言葉に耳を傾けてみてください。あなたの心はどちらの方向に動くでしょうか。最近の私の方には来ないことを祈ります。お金が逃げていきますよ、こっち側は。

スティーブ・ジョブスの演説
その1
その2

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2008.09.27

萌える『あきたこまち』 (JAうご)

Ugokomachi までさんざん書いてきたように(こちらからどうぞ)とっくに「始まってる」羽後町(秋田県)でありますが、今日さらなる強力兵器が投入されました。
 イラストレーター(…というかエロゲーの原画家さんと言った方がわかりよいか)の西又葵さんデザインによるパッケージを採用した「あきたこまち」であります。
 まず単純に、どうですか?いいですよねえ。「萌え」とかそういうのを抜きにして、現代的「小野小町」というか、秋田美人のイメージとしてありだと思いますが。
 これ、今日発売なんですが、なにしろ注文や問い合わせが殺到してしまったようで、いきなり販売停止という状況だとか。
 何度も書いているとおり、羽後町はウチのカミさんの生まれ育ったところです。そしてワタクシ的には、最近の萌える羽後町以上に、あの土方巽の心のふるさととして興味のあるところです。もちろん、そんな「萌え」や土方巽のことなんか全然知らないでウチのカミさんと結婚したわけでして、もうこれは運命というかなんというか、私としてはちょっと恐ろしささえ感じるのであります。
 で、この萌える「あきたこまち」を作っている「JAうご」さんはですね、羽後町の中でも中央部の、明治・新成・元西の旧農協が合併した組織です。新成と言えば、まさに土方巽の心のふるさと米山家のあるところです。新成と言えばスイカ。スイカと言えば土方巽。
 カミさんに言わせると、この地域は羽後町の中でも特別な雰囲気を持っているとか。たしかに、佐藤信淵や土方巽を生んだというだけで、単なる東北の片田舎として片づけられませんね。なんというか、進取の精神があるというか、妙な伝統にとらわれないというか、なんとなくそういう雰囲気を持っていますね。
 JAうごも考えてみれば、ちょっと異質かも。羽後町の他の地域の農協は、お隣湯沢市を中心としたJAこまちに合併されました。そんな中、あくまでも地元に根ざそうと独立したJAうごは、他から見るとちょっと特別だったようです。
 ちょっと聞いた所によりますと、JAこまちはかなり苦戦しているとか。そんな中で、JAうごは持ち前の先進性と商売のうまさで、かなり奮闘しているようです。まあ、今回のこの萌える「あきたこまち」の企画一つとっても、かなりユニークかつ柔軟でないと実現しないでしょうね。農業関係はどうしても保守的になりがちですが、信淵や土方を生んだこの地域のような土地柄が、現代における新しい農業のあり方を提示してくれるのかもしれません。
 今のところ、こういう新しい文化にはまだまだ抵抗や偏見があり、全国のスーパーや百貨店ではお目見えしないとのことですが、まあ時間の問題でしょう。これだけ評判になれば。
Ugono ついでに、西又さん、羽後町特産の高級イチゴのキャラもデザインしました。これです。イチゴの名は「べにほっぺ」…。なんでもウチのカミさんのおばあちゃんもこの品種を作っているとか(笑)。
 ちなみにこのキャラの名前は「うご野(うごの)いちごちゃん」だそうで、まあ、まんまと言えばまんまですな。こちらもマニアの間ではすでに人気のようです。かわいくていいんじゃないですか。
 きっと、これからいろいろなところで追随が始まるんじゃないでかね。作家さんとしても、いい仕事ですし、世界的な戦略としても非常に期待できますから。
 ウチでも「あきたこまち」を注文してみようと思います。ちょっと高いと思われるかもしれませんけど、なにしろ秋田県一の高品質米ですから。ほんとおいしいですよ。一度お試しあれ。
 あっそうそう、石破茂農水相も喜ぶでしょう…てか、石破さんの農政だったりして(笑)。

JAうご 公式

西又葵 公式

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2008.09.26

Fuoco e Cenere 『FANTASY IN BLUE - Purcell and Gershwin』

パーセル/ガーシュウィン:ファンタジー・イン・ブルー
Acd22253 めでとう!ガーシュウィン。今日はガーシュウィンの110回目の誕生日です。
 こちらに書いたとおり、ここのところちょっとガーシュウィンを勉強してます。ガーシュウィンを勉強するこということは、クラシックとジャズと民族音楽をいっぺんに勉強するということでして、とっても楽しいのでした。
 さて、今日はお誕生日にちなんで面白いCDを紹介します。この前の記事で、ガーシュウィン自身のガーシュウィン作品の演奏が古楽的だと書きましたが、このCDは古楽そのものです。
 フランスの古楽団体Fuoco e Cenereによるパーセルとガーシュウィンの演奏です。パーセルとガーシュウィンという組み合わせがすごいですねえ。その二人の楽曲が交互に演奏されるんですが、意外にというか、かなり自然です。楽器はヴィオール群とリコーダーです。
 ガンバとブルースが案外合うというのは、例の古楽版ビートルズでも感じていました。つまり、古楽器というのは半分民族楽器なんですよ。近代化してしまう直前なんですね。だから、ガーシュウィンと合うわけです。ちゃんと理由がある。
 あとパーセルの現代性でしょう。ガーシュウィンに負けず劣らずの不協和音ぶりでして、当時はそうとう斬新に聞こえたでしょうねえ。最近ベートーヴェンを弾いて、彼がかなりアナーキーだということに遅ればせながら気づきつつあるんですけど、パーセルはそれ以上に過激ですよねえ。
 このCDで歌を歌っているリナ・シャハムはイスラエル出身のメゾ・ソプラノです。古楽から現代音楽までなんでもこなす人のようです。けっこう重要なオペラ演奏にも参加しているとのこと。ま、この録音ではパーセルもガーシュウィンもみんな一緒にオペラチックに歌ってますね。逆にそれがいいのかもしれません。もともと時代やジャンルを超えている企画ですから。
 パーセルにせよ、ベートーヴェンにせよ、ガーシュウィンにせよ、ビートルズにせよ、とにかく新発見をしたんですよね。最近強く感じることです。発見する能力に長けている人を天才という。ま、当たり前ですが。
 で、ちょっと思うんですよね。彼らは意識して発見を目指したんでしょうか。新しいことをやらねばと思っていろいろ試行錯誤したんでしょうか。それとも我々凡人がいつもとらわれる常識や習慣にとらわれない才能を持っていて、新しい何かを「自然」に感じて、それを我々に紹介してくれるたんでしょうか。
 一番最近の天才であり、詳細な記録の残っている、あるいは本人(の一部)が生きているビートルズを見るかぎり、そのどちらも正しいような気がします。その両方の才能が必要なのかもしれませんね。そういうのって、音楽に限らず、他の芸術分野、あるいは科学の分野、ビジネスの分野でも言えることだと思います。
 あとそれぞれに言えるのは、いろいろなものを組み合わせたということですかね。生物の進化のように、時代という変化する環境に対応するべく、異質なものどうしが混血していく。その媒介をしたのが彼ら天才たちなのかもしれません。
 このCDのような一見とんでもない組み合わせによって、私たち凡人もこういう面白い発見をすることができますよね。たまには、私たち自身で私たち自身を縛っている様々な枠組みをはずしてみることも大切なようです。

Fuoco e Cenere公式

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2008.09.25

『科学シミュレーション 人類の消えた地球』 (NHKハイビジョン特集)

Ui1 放送を録画しました。17日に放映されたのを見逃してしまい(最後の1分だけ観た)、しまった!と思っていたんですが、助かりました。そして面白かった。これは教材として使えるぞ。
 ある日一瞬にして人類がいなくなったら(なぜどのようにいなくなるのか、というのは問題ではありません)、その後の地球はどう変化するのかを科学的にシミュレーションした番組です。制作はカナダ。
 人類が消えて数時間後、数日後、数ヶ月後、1年後、10年後、100年後…最新の科学者の研究をもとに、実写とCGを上手にまじえた映像でわかりやすく解説してくれます。
 ま、実際突然人類だけ消えることはありませんし、消えた後のことは私たちには関係ないと言えば関係ないわけですから、この番組はSFそのものですね。でも、それを観ることによって、ナレーションにもありましたが、我々人類が地球にどれだけの負荷を与えているかということがわかります。それをきっかけに、人類のあり方、私たちの生き方を問いなおそうということですね。
 そういう教育的な意味、啓蒙的な意味で、この番組、とても優れていたと思います。あくまで仮説ですから、異論反論もあるでしょう。それは当然です。でも、今はそれは置いておきましょう。そんなことより、今私たちがいかに危うく脆い現代文明の上に生きているかを考える方が賢明です。
 やはり驚くのは、その現代文明の脆さですね。北米大陸では、たった200年で人類が生きていた痕跡はほとんど消え去ります。ニューヨークやパリはもとの森林や湿地に戻ってしまいますし、広大な農地はもとの砂漠に戻ります。
Ui2 コンクリートや鉄でできた構造物はたった数十年で崩壊しますし、我々が出しまくっている二酸化炭素もあっという間に植物に使われ、波にさらわれて海底に閉じこめられます。原子力発電所の爆発によってまき散らされた放射性物質さえも、たった25年で地中に封じ込められます。地球の復元力はものすごい。自然は人間が1万年かけて奪い去ったものをほんの30年ほどで取り返します。
 野生化した犬や狼、そして象も強いな。案外弱いのはゴキブリ。面白いですね。最強の生物はやはり植物でしょう。とにかく都市はすぐに植物に覆われてしまう。植物があれば動物が棲める。
 これを観ていると、私たちがそうした脆く危うい構造物を一生懸命メインテナンスしていることに気づきますね。そのためにいったいどれだけのエネルギーを使っていることか。
 ちょっと前の記事にもいくつか書きましたが、ここにはやっぱりエントロピー増大則に対抗する人間という図式が見えてきますね。ま、全ての生命の本質はそこにあるわけですけど、人間は特にその欲求が強いんですね。困ったものです。バラバラに散らばっていくいろいろなモノを、一生懸命に何かに閉じこめようとしている。そういういろんな容器のようなものを作り続けていますね。言葉とか音楽とかもそうです。私の言う「コト化」ですね。なんかむなしいよなあ。
Ui3 人間がいなくなれば、こうしてみんな自然に散らばっていく。こんなに短期間でこんなにたくさん散らばっていくモノを、今も私たちは一生懸命閉じこめようとしている。私もこうして書くことによって、消え去るべきモノをコトバにして残そうとしている。あほらしいなあ。
 このむなしさをどう乗り越えていくか。お釈迦様はそれを説いたんでしょうね。究極は私たちがいなくなればいいわけですが、それでもこうして存在し続けるわけですから、しかたない。もういっそのこと開き直って、刹那的に利己的に生きてやれ!というのも一つの方法でしょうし、私も含めてほとんどの人がそうしていることでしょう。中にはたとえばエコを叫んで小さな自己満足でそこんとこを乗り越える人もいるでしょう。本気で悩んで自らの存在を消してしまうとんでもなく賢い人もいるでしょう。
 どうしましょうかね。自分でもよくわからないものを、生徒たちになんと教えればいいのでしょう。みんなで消えようというわけにはいかないし、みんなで修行して悟りを得ようというのも面倒だし、もう好き勝手やっちゃおうよとも立場上言いにくいし。難しいですね。
 とにかくこういう迷いや悩みを生じさせてくれるという意味で、とってもいい番組ですし、いい教材です。なんか久々にSFの本来の意味を思い出しましたよ。少年時代読んだり観たりした数々のSF作品たち、そう言えば、その時々の自分や世界に、なんとも言えない違和感を抱かせてくれたっけ。あの感じを思い出しました。
 「地球は人類なしでも存在し続けます。しかし、人類は地球なしでは存在できないのです」
 最後に。なんだかんだ言って長く残るのは、ピラミッドや万里の長城なんかの歴史的建造物と、あと高分子のプラスチックなんですね。両者は人間の欲望の象徴なんでしょう。

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2008.09.24

石破茂は萌えか?

 破茂農水大臣とにらめっこしましょう!上の動画は約3分。石破さんは一度もまばたきをしません。半分しそうになってる瞬間もありますが、実際にはしていません。すごいよなあ。絶対勝てませんよ。てか、この人ロボットでしょう、実は(笑)。
 この調子で眼光鋭く食の安全に取り組んでもらいましょう。いろいろ面倒な問題の山積してますからね。まあ大変な時に大臣になっちゃいましたね。本当は防衛大臣を永遠にやっていたかったでしょう。それはほとんど彼の趣味ですから(笑)。
 そうそう、麻生新内閣発足しました。麻生さんについては、以前はうっかり「うっかり八兵衛」なんて書いてしまいましたが、実はノーブルな方なんですよね。こちら書いた通り、オタク界、スポーツ界、皇室とのつながりが深い、すなわち正統的貴族世界(?)に通じている人です。
 石破さんも、軍事オタクとして有名ですが、実は鉄道オタク、プラモデルオタク、アイドルオタクという一面も持っており、そういう意味では、麻生さん同様オタクの支持を得られるかもしれませんね。そういえば、麻生さんも石破さんもクリスチャンだな。ま、関係ないか。
 石破さんは、親米保守、右派リベラルなどと括られることが多いのだけれど、実際はなかなか絶妙な立場をとっていて、各種発言や著書を含めてうまいなと思います。あの淡々とした口調で冷静に語られると、たしかにいつのまにかペースを握られちゃいますね。太田光もそうとう激しく食いついてるけど、結果として石破さんを引き立ててしまっているような気がします。
 基本的に、自分の趣味を実現するための現実的な方法を取っているように見えます。理想は理想としてあるのでしょうが、それを正直に言ってしまうと、実際には国防を担えなくなってしまいますからね。なにしろ、本人は総理大臣より防衛大臣になりたいと思ってるくらいですから。
 ところで、彼が小泉政権下で防衛庁長官を2期務めた頃からでしょうか、なんとなく自衛隊のイメージが変わってきました。この前も『MAMOR』を紹介しましたけれど、どうも違う意味でも危険な方向進んでいるような気がします(笑)。つまり「萌え」方向に行っていると。
 最近自衛官の教え子が学校に遊びに来まして、いろいろ内情を語っていってくれたんですが…。まあ昔からある種のオタクはたしかに多かったし、基本男の世界ですからね、そりゃあある種の芳香がするのはしかたありませんよね。
 そうそう私、昔バイトの関係で演習場に出入りしてたんですよ。それはそれはすごい香りがしてましたよ。で、私は売店にアイスクリームを納入していたんですけど、ある日ものすごい男臭い(壁とかにヌード写真がたくさん貼ってあった)中に、一人の女性自衛官の方が私のところにいらして、礼儀正しく「アイスいただけますか?」っておっしゃったんですよ。それがなんともカッコよくてですね、今思えば、たしかに私は萌えましたね。ギャップ萌えでしょうか。たしかにそういうのはあります。認めます。
0908241 でも、でもですね、これはいかんでしょう。そう、その教え子が持ってきたお土産を見て下さい!クッキーとフィギュアですよ!これ、自衛隊の売店で買ってきたんですよ。どうなってるんですか?!石破さん!(笑)。
 このクッキーはいわゆる「それゆけ!女性自衛官」シリーズですね。航空自衛隊バージョンのハニー味です。中嶋レイ3等空曹と八雲千歳3等空曹、そして椿川かすみ2等空尉かあ。ネーミングも絶妙だ…。
 「わたしたちがニッポンの平和を守ります!」って書いてあるけど、ホント大丈夫ですかあ?石破さん。
0809242 フィギュアは中嶋レイですかな。まあたしかに可愛くないとは言えないが…。現場にはこのような天然ボケキャラはいるのでしょうか。てか、自衛官の皆さんはこういうのを買って自分の部屋とかに並べておくんでしょうか。
 ちなみにある生徒のお父さんは自衛官にしてかなりのフィギュアマニアだそうですが、なぜかこの女性自衛官シリーズだけは集めてないようです。あまりにリアルすぎるのか。それともリアルさがないのか。単に売店で買うのが恥ずかしいのか…謎です。
 それにしても、ホントにこれでいいんでしょうかね。国防は彼女たち(?)にまかせていいんでしょうか、石破さん。フィギュアの台座には「MADE IN CHINA」って書いてありますけど、中国の工場でこれに色付けしている人たち、「日本の軍隊、何やってるんだろ。こりゃあちょろいな」とか思ってるでしょうね(笑)。世界的に見て、こういう軍事文化ってあるんでしょうか。日本だけだろうなあ…やっぱり。

Amazon 萌えわかり!自衛隊ビジュアルガイド

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2008.09.23

DREAM=夢とは…

20080924003 の結末…いや、現実はミルコの泣き顔…。どこかで観たような光景だなと思ったら、DREAM.1のカルバンか。でも、あの時はいじめっ子の方が泣きそうだったんだよなあ。今日のDREAM.6ではいじめられっ子の方です。
 今までも総合格闘技の興行DREAMに関してはずいぶんと辛口なこと書いてきましたが(たとえば観戦したDREAM.4)、今日もまたいろいろと言いたいことが…。しかし、なにしろ長すぎる。12試合もあって、5時間以上もダラダラやってましたからね。私はネット観戦してたんですけど、おかげで仕事も遊びも全然はかどりませんでした。ちなみに全試合時間の合計は1時間くらいです。あとの4時間は…。
 ですから、今日はもっと根本的な話(?)をします。「DREAM=夢」についてです。昨日の話の続きですね。
 皆さん、なんとなく夢と現実と言ったら、夢の方が不確かな感じがしますよね。実際「夢」を辞書でひくと、「はかないこと・不確かなこと」と書かれていたりします。でも、実際のところは逆です。夢は脳内で生み出された情報(コト)ですので、それ自体は不変です。はっきりしている。なにしろ変化しないんですから。
 夢という言葉には二つの意味がありますよね。夜寝ている時見る夢と、将来の夢みたいな妄想としての夢(偶然なのか、DREAMという英語にも、夢という中国語にもそういう意味の二重性があります)。いずれにしても、夢はある程度現実とは距離を置いて起きる脳内のイメージです。
 日本では、古来「ゆめ」と「うつつ」が対照されてきました。まさに夢と現実ですね。脳内と脳外。だから夢は「コト」で、現実は「モノ」なんです。ゆめとうつつ、それぞれの本質は、実は随意と不随意なんですね。
 たとえば、今回のミルコとアリスターとの試合。試合前には皆さんいろいろと妄想しましたよね。夢を見ます。ミルコの完全復活とか、完璧な世代交替とか。いろいろな妄想の可能性があるということが、まるで不確かな印象を与えますが、実はそれは現実の方の不確実性であって、それぞれの夢自体は確実なんです。で、結果はミルコの睾丸が腫れるという、まあ、妄想外の意外な現実であったと。ほらね、現実の方がずっと不確かです。
 スポーツはそういう不確実性に面白みがあるんですが、その割合というか確率の按配が重要になってくるんです。総合格闘技はそういう意味でもまだまだ発展段階(つまりルール整備が未完)なので、どうもいかんのですな。あるいは、今までとんでもなく長い格闘技の歴史がありながら、このような「総合」という発想がなかったのは、やはり競技として無理があったからかもしれませんね。
 夢というのは、エントロピー増大則に従う現実世界に対抗して、人間がエントロピーを減少させようとする営みです。無意識にそれをすれば夜の夢、意識的にすれば将来の夢ということになりますね。
 夢の実現のためには、つまりそれに従ったフィクションを貫く必要があるんです。プロレスではそれをしっかりやります。そういう意味ではプロレスは「コト」的なものなんです。選手達はしっかり「仕事」します(コトを為す)。
 今週末には一方の総合格闘技イベント「戦極」があります。戦極は「リアルな強さ」を標榜しています。私の「リアル」の解釈はこちらに書いたとおりです。メインに登場するプロレスラー杉浦に期待しましょう。
 PS 全然関係ないけど、今日来場して挨拶した世界最強と言われるヒョードルさん、富士急ハイランドのジェットコースター「FUJIYAMA」が大好きだとか。ハイランド内でバイトしてるウチのカミさんは、それを聞いて大興奮してました。

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2008.09.22

『ウェブ時代をゆく-いかに働き、いかに学ぶか』 梅田望夫 (ちくま新書)

48006387 ェブ時代。それはよくわかります。私もこうしてその時代の、先端ではないけれども、そこそこ本流を行っています。一方、仕事柄、旧時代的なものも捨てられない私です。いや、仕事柄ではないかな。性格的なものか、哲学的(?)なものでしょう。たぶん。
 いきなり言ってしまうと、私は「コトよりモノの時代」だと思うんです。ウェブ時代というのは「モノよりコトの時代」ということでしょう。だから、時代の本流を案外軽やかに疾走しつつ、そんな自分に危機感も抱いているんです。自分というか世の中というか。
 だから、梅田さんのおっしゃる「いかに働き、いかに学ぶか」は、とってもよく理解できるし、間違っていないと思うんですが、自分でそれを実行したいかというと、やはりしたくない…というか、そればかりになってしまうのは、ちょっと…。
 時代に取り残されるというのは、お金もうけができないということです。それでは生きていけないので、とりあえず流れに乗っかって行きますが、そんな自分に無反省でいたくありません。
 世の中は「コト」と「モノ」で全てです。それは言い換えれば、自分の認識という集合と、その補集合で全体集合ということです。
 情報は「コト」です。コトは人間の脳内の現象(あるいは存在)です。そして、絶対的に不変です。一度生まれた情報は経年変化を起こしません。個人の認識や考え方、印象は時とともに変わるような気がしますが、ある時点でのそれらは変化しません。それが情報(コト)の特徴だと考えています。
 一方の「モノ」は脳内のコト以外のものです。自分の肉体も含めて、「モノ」は時とともに変化します。その時々の状態(たとえば何年何月何日のある瞬間の自分)はたしかにあって、それは不変なような気がしますが、それは情報(コト)であって、モノの本体ではありません。
 ちょっと科学的な言い方をしますと、エントロピーが増大するのが「モノ」の特徴、その流れに逆らって減少させようとするのが人間の「ワザ」であって、その結果が「コト」だと言っているのです。ですから、人間のあらゆるシワザはネゲントロピーだと言えるわけです。人間は自然則に逆らう存在なんですね。
 だからでしょうか、どうも自然の立場に立ちますと、人間のシワザ、そしてその結果としての「コト」が跋扈してると、なんか不安になるんですよね。刹那的には楽しいし、幸せなのかもしれません。でも、なんか急に違和感や不安に襲われるんですよ。なんか、ちょっぴりお釈迦様っぽいな(笑)。
 で、世の中ではどうかと言うと、たとえばウェブ時代とか言われて、今「コト」が大量に流通するようになっていて、それがいいことだ、物流より事流の方が地球に優しい、とか言われてるんですね。それもなんとなくわかりますが、こんなに「コト」が大量に生み出され、コピーされ、消費される(情報の消費とはつまり再生産になるわけですが)時代は、これは人類史上初めてのことなんですね。
 だから、モノを使いすぎたりすると、どうなるかというのは、科学がそれを扱ってきましたから、だいたい分かるんですよ。で、世の中は騒いでいる。じゃあ、コトの方はどうかということは、全然分かっていないし、ほとんど誰も気にしていない、いや、それこそ梅田さんのように、非常にオプティミスティックに捉えられてるんです。
 でも、本当のところ、ネット社会の闇…とかそういうレベルでなく、コトの濫造、濫費が何を引き起こすのか、おそらく誰も分かりません。
 昨日の記事で、私がふざけて「情報が温暖化の原因だ!」なんて冗談を言ったは、そういう意味でのアイロニーです。
 この本を読んで、とっても納得する自分がいる。でも、その自分はなんか表面的な自分であって、もっと奥底の自分は、やっぱり本質的に間違っているとも思うんですね。梅田さんなんか、本当のところどう思ってるんでしょうか。ただ、今を上手に生きていけばいいのでしょうか。
 ということで、この本はコト的社会での処世術を知るには、ほとんど最高の本と言えます。なにしろ、そういう社会で実際に第一線を走っている人のお話ですから。でも、その先にあるのは、本当に幸せな世界なのでしょうか。情報の高速道路の先にはどんな世界が待ってるのでしょうか。

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2008.09.21

様々な闘い(ときどき猫)

0156 日は朝から晩までいろいろな闘い模様が…。疲れましたが楽しい一日でした。
 まずは古武道に精通する友人と車で東京に向かいます。車中でも濃〜い会話が…。日本古来の武道やプロレス、そして音楽における相対性について。相手あっての自分。重力とは。「踏む」とは…。
 日本独特の口伝文化の話から、私は「温暖化の原因は実は情報の浪費」などというトンデモ説を語り出します。世間では「モノ」の消費のことばかり言われますが、実は現代は「コト」が爆発的に生産・消費・複製されるようになった時代なんですよね。情報ってエネルギーじゃないんでしょうか。地球の滅亡は、実は目に見えない「コト」の蓄積によって起こったりして。原油なんかの資源の心配する以前に、情報濫費の心配した方がいいんじゃないのかなあ。これについては、またいつか書きます。
 さて、東京に着くと国立に車を置いて、電車を乗り継いで葛飾は立石に向かいます。古楽器オーケストラwith合唱団の練習です。ここでは言葉と格闘。声と合わせることによって明らかになる、言葉と音楽の関係。この二者は融合しそうで融合しない微妙な関係にありますね。もっと幸せな結婚になるのかと思っていましたが、案外せめぎ合っている。
0158 物の音(もののね)と歌(ことのは)は、日本でも対立関係にあったんですよね。今日練習した曲はキリスト教音楽なわけですが、その両者の融合を目指したのは、ヨーロッパのキリスト教音楽くらいかもしれません。たしかにキリスト教的発想ですね。でも、やっぱり現実はせめぎ合いますよ。そこが面白い。神の思し召し通りにはなりませんね。
 さて、練習の合間に私はある場所へ。立石と言えばここでしょう!そう、練習場所のすぐに近くにですね、あの内藤大助選手の所属する宮田ジムがありまして、私はまあ内藤選手にも会えたらいいなとは思いましたが、それよりあの猫たちに会いたいじゃないですか(笑)。で、行ったらいましたよ。いや、内藤選手はお休み。猫ちゃんがいました。
 私がずうずうしく「猫ちゃんの写真撮らせて下さい」なんて、戦いの場に乗り込んでいったら、ジムの皆さんは本当に明るく元気に親切に「どうぞどうぞ」と言って下さいましてね。いやあ、ホント下町風情でいい雰囲気でしたよ。世界チャンピオンが練習してるとは思えない(失礼)なんとも庶民的なムードのジムのそのリングの上に鎮座ましましているお猫様「チャトラン」。可愛いよりも、なんというか神さびてましたな。実際福を招いたわけですし。
 もちろんボクシングは厳しい格闘技であります。しかし、それを囲むこのほのぼのとした雰囲気は本当に素晴らしいですねえ。それがあるからこそ厳しさも引き立つし、その厳しさに耐えられるんでしょうね。そういうバランス、相対性、闘いの裏側の愛みたいなものを強く感じました。
080921 さて、ジムから帰って再び練習。左の写真は帰り道に出会った猫。バイクの上でまったりしているお猫様です。
 夕方、練習が終わりまして再び電車で国立へ。ものすごい雨。雨との戦い。駅前でタクシーを拾います。タクシーの運転手さんも「今日は危ないから仕事は休む」というくらいひどい雨。逃げるに如かず。自然とは戦わないのが日本流です。やりすごす。
 次なる戦いの場は、モダン楽器のオーケストラの練習です。私は古楽器だし、相手はベートーベンだし、これはほとんど異種格闘技戦ですな。フリーのプロレスラーが総合格闘技に参戦するようなものです。実際、かなり苦戦しましたね。でも不思議なもので、やっぱりその場の空気を読んで、相手に合わせる脳ミソモードにすると、だんだん分かってくる。その感覚ってやっぱり面白い。自分がいかに他者になれるかっていうことでしょう。
 練習が終わってからは猫好きが集まって猫談義。猫のあの自然体な生き方こそ理想ですなあ。人間みたいにですね、変に不自然に協調を目指すわけでもなく、無駄な闘いをするわけでもなく、環境に、自然に、他者に合わせて生きている。合わせている意識すらない。かっこいいなあ…いや、やっぱりカワイイなあ。そういう自然体なところがツンデレでまた萌えなわけですね。
 で、夜11時に帰宅しまして、テレビをつけてらサラリーマンNEOが始まりました。出ました!プロレスネタ。サラリーマン体操に「土下座ブレーンバスター」が。あいかわらず笑えますな…しかし疲れすぎて最後まで観る根性がない…。つづきと深夜のプロレスは録画にて。やはり、眠気との闘いには勝てませんね。おやすみなさい。

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2008.09.20

富士学苑高校ジャズバンド部 第6回リサイタル〜INNOCENT ROAD〜

Uni_1493 晴らしい音楽をありがとう!音楽とは喜びに満ちた時間と空間だという、そんな本当に基本的なことをいつも思い出させてくれる彼ら。また手前MISOになってしまいますが、本当に素晴らしい生徒たちです。手放しでほめたたえ、そして感謝し、尊敬します。
 数々の賞を総なめにし、音楽界からも絶賛され、プロ以上にハードなスケジュールをこなす…今や日本一の学生ビッグバンドになったと言っても過言ではない、我が富士学苑高校ジャズバンド部「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ(Moon Inlet Sounds Orchestra)」第6回リサイタルに行って参りました。いつ聴いても感動する彼らの演奏ですが、今日はまた格別でした。
 まずシンプルな感想。またうまくなってる!おそるべし高校生。たしかにあれだけの練習と本番を重ねれば当然なのかもしれないけれど、やはり高校生という特別な時期だからこそ可能な、あの驚異的な伸びには、あらためて「ああ、青春というものの土台はこの神懸かり的な成長にあるのだな」と実感。
 そういう意味では、このステージを最後に引退する3年生はもちろんですが、あえて私は2年生の成長に賛辞を贈りたいと思います。うまくなった!
 しかし、本当にいいですね。そういう純粋な成長の中から生まれる音楽。これはどんな老練なプロでも不可能な一つの境地です。ある種の美しさというのは、そういう純粋さの中にしか宿りません。このバンドの不二なる魅力は、その無垢なひた向きさにあるのです。そして、それが音の塊に表現される不思議…。
 この前のキース&チックでキースが語っていたいくつかのことが、今日のリサイタルで実感されましたね。
 「知りすぎていると新しいものは生まれてこないよ…決めすぎてはいけない。意味がない…そう、常に変化してるしね」ということ。彼らは毎日練習し、そして各曲を完璧に自分たちのものにしているようですが、しかしですね、ちょっとこれは微妙な表現になってしまいますが、彼らはいい意味で知らないんですよ。
 7月のフェスティバルの記事にも書きましたが、たとえばこれが大学生になってしまうと、急に彼らは知りすぎてしまうんです。もちろん、私なんかも変な知識や、それからこうして書いている妙な蘊蓄ばっかりで、ある意味余計なことまで知りすぎてしまっている。それが音楽を阻害してしまうことが往々にしてあるんです。キースがキースなりに、あのあまりにも有名で、そして完璧に弾きこなしているはずのモーツァルトを、今生まれたかのように演奏した(あの楽譜に書かれたカデンツァをも!)のは、あれはやはり特別な事件なのです。
Uni_1502 だから、彼らの佳き無知(無垢)は限りなく音楽の福音になりうるんですよね。まさに無垢。今回のリサイタルのタイトル、そして今回彼らに内堀勝さんから贈られた曲の曲名でもある「Innocent Road」。これが全てを物語っています。
 もしかすると、大昔の音楽家は、皆こういう無垢な存在だったのかもしれません。大人になってもそういう状態で音楽に奉仕できる人こそが、神や自然と私たちを結びつけていたのかもしれません。おおげさでなく、そんなことを感じさせる生徒たちの演奏でした。
 そして、やっぱりそういう彼らの「Innocent Road」を用意し、彼らにそこをしっかり歩ませる、顧問であり偉大なるプロデューサーでありディレクターであるO先生はすごい人です。もし私が指導したら、「ininnocent」(?)もしくは「nocent」(?)になっちゃういますね、きっと(笑)。
 3年生諸君、お疲れさま。そして、ありがとう。よく頑張った。きつい時もあったけれど、きっとほとんどが楽しい時間だったでしょう。これからはそのinnocentな心をいつまでも忘れず(なかなか難しいけどね)、それぞれの世界ではばたいていってください。絶対に音楽をやめないこと。演奏し続けること。そして、音楽を通じていろいろな人たちと出会い、いろいろな縁と恩に恵まれた人生を送ること。
 最後に。今日のコンサートを楽しみ、心から感動したのは、会場にいた私たちだけではないでしょう。天国のInnocent君、君が一番喜んでくれてるかもしれないね。いや、今日の感動は君からの贈り物かもしれない。きっとそうだ。ありがとう。

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2008.09.19

追悼 市川準監督

2008091900000048maisocithum000 すぎる…市川準監督が亡くなりました。新作の発表を間近に控えていたのに、あまりに急なことで驚いています。それにしても59歳は若すぎる…。
 今年2月、本当に久々に監督の「トキワ荘の青春」を観たばかりでした。だからこそ辛いですね。ああ、こういう静かな日本映画いいな、新作もこういう感じかな、と思っていた矢先の訃報です。
 映画監督としては、まだまだこれからだと思っていましたから。残念でなりません。
 市川監督の作品に出会ったのは1984年か1985年頃ではないでしょうか。たしかカンヌの国際広告映画賞の金賞かなにかを受賞したのでした。タンスにゴンとか、三井のリハウスとか、禁煙パイポとか、サントリーオールドとか、タフマンとか、デューダとか…とにかく当時目に付くCMはほとんど彼の手によると言っていいほどの売れっ子CMディレクターでした。ああ、これも市川という人の作品なんだ、これもこれも、という感じで、彼の名前を知ることになったわけです。
Busu そういうイメージの強かった市川さんが手がけた初劇場映画が1987年の『BU・SU』です。当時熱烈な富田靖子ファンであった私は非常に楽しみにしていました。喜び勇んで劇場へ。なんであんなカワイイのに「ブス」なんだよ、とか思いながら。そうしたら、見事に裏切られました。いろいろな意味で。
 市川さんのCMのイメージもあり、また富田靖子自身も当時たくさんのCMであの笑顔を振りまいていましたからね、きっとポップな明るい作品だろうと思ったら(実際ポスターは明るい富田さんの笑顔がいっぱいだった)、とんでもない、どちらかというと暗い静かな重い作品でした。
 しかし、私はそうして裏切られたおかげで、すっかり市川準監督のファンになってしまったのでした。そして影のある富田靖子にも惚れたなあ。
 その後、国際的な賞もとった「東京兄妹」や「東京夜曲」など、それこそ小津安二郎へのオマージュとも言える静かで深みのある作品を続けざまに見せられ、私の中では、あのポップでどこかとぼけた感のあったCM群は、全く違う市川準が作ったものだという感を強くしたのでした。
 そういう両面のある方でした…いや、待てよ。違うかもなあ。今考えてみますと、商業的なものでも、妙に印象に残っているのは、単なるドタバタや瞬間芸ではなく、ああいう中に人生や社会の本質を描いていたからではないでしょうかね。手法は違えど、やはり表現しているものは同じなのかもしれない。
 いや、そんな単純化してもいけないな。でも、どちらもちょっとした悲哀感というか、やっぱり「もののあはれ」のようなものがありますね。人間の愚かさや切なさ、ユーモアやペーソス。
 最近いくつか紹介している謎のβ群の中にも、いくつか市川さんのCM作品が録画されています。それも本当に20数年ぶりに観て、あっ市川さんだ!って思っていた矢先なんですよ。なんでこういうタイミングなんだろうなあ…。なんとも辛い。
 つくづく残念です。ウチにあるいくつかの市川映画を静かに観ながら、ご冥福を祈りたいと思います。そして、来月の東京国際映画祭では遺作となってしまった「buy a suit」を観ましょう。

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2008.09.18

『思考の補助線』 茂木健一郎 (ちくま新書)

48006415 々に痛い本を読みました。痛いの意味はあとで説明します。
 まずタイトルが素晴らしい。「思考の補助線」…とってもいいタイトルです。タイトルを見た瞬間、たしかに補助線が引かれたような気がしました。あっ、なるほど!思考の補助線か!って。
 だから期待して読んだんですよ。これからいったい何本補助線が引かれるんだろうって。でも、結果は惨憺たるもの。とっても心が痛くなりました。高校時代の数学の授業を思い出してしまった…遠い記憶、しかし鮮明なる記憶…とっくに置いていかれ、いつ当てられるかビクビクしていたことを思い出してしまった。
 結局その日は先生に当てられて、黒板にかかれた無機質(無意味)な図形に補助線を引けと命じられ、正直まったく分からず、背後から襲いかかる無数の侮蔑の視線と先生の容赦ない叱責の言葉を体にしっかり吸収してしまい、ものすごく膨張してしまった羞恥心と自己嫌悪の処理に困った挙げ句、宙を震えながら彷徨う右手のチョークを黒板に打ち砕き「こんなのわかるわけねえだろ!」と啖呵を切る…勇気などあるわけなく、いやらしく切ない笑みを口辺に漂わせて、最後はなぜだかある一点にそのチョークを静かに置き、問題の図形の外側に孤独な線を引き、その力なくうなだれた姿に最後の望みを託した。誰か笑ってくれないか。誰か笑って私を救ってくれないか。先生でもいい。この渾身のギャグを理解してくれ。こっちは命がけなんだ。笑え!親愛なる他人たちよ、どうか笑ってくれ!助けてくれ!
 しかし、教室には無慈悲な沈黙が流れるだけであった…。
 という痛さを思い出しちゃったんですよ。ふぅ。ついでにですね、結局怒られ、いや呆れられた挙げ句、こうだろ!と力強く引かれた正解とおぼしき補助線の、そのいったい何を補助しているのかすら分からなかった痛さ。いや、さらに分かりもしないのに、「ああ、なるほど…」と聞こえないくらいの声でつぶやいてしまった、その痛さ。
 補助線って残酷ですよね。わかる人には、それはとっても優しい、それはとっても意味のある、人生を変えるものなのかもしれません。でも、わからない人にとっては、それは上記のような残酷な、こちら側とあちら側を分ける軌跡にすぎません。
 おそらく世界には無数の補助線が引かれているのでしょう。最初から引かれているものもあるでしょうし、人があとから引いたものもあるでしょう。でも、その意味に気づかなければ、やはりその補助線たちは何も補助しないわけです。場合によっては補助ではなく、妨害、あるいは阻害する線になるかもしれない。いや、疎外線かもしれない。
 しかし、分かるは分けるということです。分からないからいいこともあるのかもしれません。分別された「コト」より未分別な「モノ」。分別(ふんべつ)より無分別(むふんべつ)。
 ここのところ、哲学者を揶揄する文章をいくつか書きましたね。それはおそらく羨望と劣等感と失望の交錯した、私の屈折した心の産物だと思いますけど、この本では茂木健一郎さんが、その哲学者になっているんです。
 いや、本来彼は哲学者を目指しているのであって、決して農家学者…と変換されてしまった…いや、脳科学者という肩書きに安住したくないんでしょう。なんか、どこかポップでコマーシャルで、芸能人じみた茂木さんがいきなり本性を表したっていう感じです。ずるいですよ。
 でも、とってもよく分かる部分もあります。それは、この本の内容とか、そういうことではなくて、こういう自分も見せたい、という心の奥底のいやらしい自分、しかし崇高なる自分のことです。それって必ず人の心にあります。私にもあります。
 仕事でも家でもネット世界でも、さんざんおちゃらけている私ですが、実は…うわっ、これ書いちゃうとホント痛いことになるんでやめます。
 でも、面白いもので、何ごとでもそうですが、これは本来の姿ではない、演技である、と意識して毎日を過ごしているうちに、いつのまにかそのフィクションがリアルに転じてしまい、本来実体と意識されていたはずの「何か」は結局何かのまま具現化せず、それこそが妄想になってしまうということ、これはよくありますよね。人生はその繰り返し、社会もそれで成り立っているとも言えますか。
 まあ、とにかく「痛い」本でしたよ。読んでて苦しくて仕方なかった。「アハ体験」なんて一つもない。どちらかというと「もののあはれ」…不随意への詠嘆で終わってしまいました。
 芸術の世界でもよくありますよね。他の作品群とはおよそ色彩の違う異端作が。茂木さんの好きなモーツァルトにもあるじゃないですか。で、そういうものがあとで名作と称される。だから、この本も数十年後名作として名が残るかもしれませんよ。
 いやあ、それにしても、痛い本だった。看板に偽りありという意味では、内田樹さんの「女は何を欲望するか?」並みでしたね。だまされた…いや、両者とも偽りとは言い切れないんですが…。両方とも私はおススメしますよ。ぜひ皆さんも読んでみて下さい。

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2008.09.17

『爆笑問題のニッポンの教養「“学校の怪談”のヒ・ミ・ツ 常光徹」』

20080916_1 っとまたNHKネタだぞ。ここのところ新旧NHKネタばっかりですね。NHKさんがなかったらこのブログは成立しませんね。お世話になります。
 「爆問学問」を取り上げるのは久しぶりにですね。ほぼ毎週観てますが、ここのところちょっと太田くんの語りが強すぎてやや引きぎみだったので。
 で、これは昨日の放送分。録画しておいたのを今日観ました。
 まあ、怪談とか妖怪とか都市伝説とか、たしかに面白いですよね。私も自称霊能者(?)だし、モノノケ研究家だから、そりゃあ興味がありますよ。だから、中学校の先生から、そっち方面の研究家になられた常光さんには、ちょっと嫉妬してしまいます。
 しっかし小学校で語られる怪談っていうのは、ホント面白いですよね。見事に語り継がれていく。トイレ系とか音楽室系とか、驚くほど完璧に継承されています。だって私が35年くらい前に東京で聞いていた話を、今この小さな村の小学校に通う娘が、ほとんどそのまんま語って聞かせてくれるんですから。
 いったいどういう伝播をしてきたのか。ホント知りたいですね。
 なぜ、こうした「物語」が継承されていくのか。これは「モノ・コト論」「物語論」をやっている者としては、大変に興味のあるところです。
 まず、絶対的に信じるという瞬間が人々にないと、こういう話は生き続けません。つまり、多少大人になって「そりゃないよな」と客観的に思ってもですね、昔信じていた自分、あるいはすっかり騙されていた自分というのがありますと、その経験に基づいて、次世代の聞き手を騙すという行為を必ずするんですよ。それも怖い話だとなおさら。自分もションベンちびるほどビビったくせにね。今度は人の怖がるところ見たいんですよ。
 実は、子どもの怪談に限らず、大人の世界での伝説や神話なんかは、みんなそうやって継承されてきたんですね。ある意味では、物語を通じての「共感」が目的なんです。それによって、共同体としての仲間意識が強まることもありますし、自分自身が安心を得ることもあります。
 つまり、そこで語られる「情報(コト)」が重要なのではなくて、それによって喚び起される「何か(感情・モノ)」が大切なんですね。その自分の中の「何か(モノ)」を言葉(コト)によってカタチづくることを「モノガタル」というとも言えるのです。
 私もひょんなところで娘とつながることができて、大いに安心しましたよ。
 あと「モノ・コト論」的に興味深かったのは、学校というシステムやルール(まさにコトそのもの)の中で見えざるモノが暴れるということですね。怪談で怖がること自体がカタルシスになっている。息抜きになっている。発散になっている。これはありますね。子どもたちにとっては、小学校がほぼ初めての「社会」です。息苦しい社会体験です。そんな中、「物語」という装置が発動するというのは、たしかに面白いですね。大人の社会での発散方法より、ずっと健全ですが。
 さて、今日の番組の中で、やっぱり不思議に思ったのは「トイレ」という空間のことです。彼らもトイレは非日常的な空間だ、学校であって学校でない、というようなことを言っていましたけれど、私も昔からトイレという空間の持つ、一種独特な空気というものにひかれてきました。怖いんだけど、反面安心もするんだよなあ…。そう言えば、ディズニーランドのトイレについてもこちらに書きましたな。あれなんか、まさに異空間でした。ただ、あれは非日常の中の日常として語りましたね。ああそうか、非日常の二重構造になってるんだな。負×負=正…いや、トイレという第一種非日常によって、第二種非日常からほんの少し日常に近づけるってことかな…いや…。
 これはいずれじっくり考えてみましょう。トイレ学というのもきっとあると思いますが、私も自分のスタンスでやってみようかな…なんて考えてたら、急にトイレに行きたくなってきたぞ。では、研究に行ってきます!

爆笑問題のニッポンの教養 公式

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2008.09.16

『ビートルズのすべて』 パトリック・モンゴメリー監督作品 (1985年 NHK)

The Compleat Beatles
200pxcompleat_beatles の前、キース&チックのモーツァルトのところに書きました謎のβコレクション。その後もいろいろととんでもない物を確認していますが、これも嬉しいなあ。これまたこんなふうに手に入るとは…。
 これは1985年のお正月に放映されたものですね。私、観たおぼえがあります。1984年にアメリカで作られたドキュメンタリー映画を、NHKが日本語吹き替え&字幕をつけて放送しました。ちなみにナレーションは江守徹、ジョージ・マーティンの吹き替えは柳生博です。それだけでもすごい…かも。
 今ではオリジナルの「The Compleat Beatles」も手に入らないみたいですね。かわりにこの日本のテレビ・ヴァージョンが海賊盤DVDとして出回っているみたいです。いろいろと権利関係があるんでしょうか。一時期YouTubeにも上がってましたが、今では観られません。
 それにしても、こうして23年ぶりに観てみますと、まあ非常によくできたドキュメンタリー映画ですね。だいたい「○○のすべて」というヤツは全然全てじゃなくてトンデモなのが多いんですけど、これは実にバランスよく、そして流れよく彼らの濃密な時間を上手に凝縮しています。
Bb65 もちろんたった2時間弱では語り切れないものがたくさんあるわけですが、そういうことを感じさせない自然な作りになっていますね。彼らの生い立ちと出会いから別れまで、本当に一つの物語を観るような感覚に陥ります。
 まあ断片的には知っていたこと、分かっていることがほとんどです。でも、それをこうして一つの線でつなぐと、こうも美しく、そして哀しい人間の物語になるんだなあ。涙があふれました。
 ビートルズの映像作品についてあんまり詳しくないので、よくわかりませんけど、収められたライヴ映像やインタビュー映像、映画の一部やその他のクリップは、それなりに貴重なものなのでしょうか。いろいろなものの切り貼りであるのは事実ですが、それが一つの絢爛な絵巻物のように感じられるから不思議ですね。
 最近では「ザ・ビートルズ・アンソロジー」という5枚組のDVDがありますから、こうした記録的なものはずいぶんと手軽に観ることができますよね。でも、こうして映画作品として観ると全然違った感じがするものです。単なる資料集なのか、物語なのか、ってことでしょう。
Jm なんと言っても、関係者によるインタビューがいいですね。それぞれの語りそれ自身が美しい物語です。ほとんど神話を語るかのように、皆生き生きと語ります。ブライアン・エプスタイン、ジョージ・マーティン、アラン・ウィリアムス、ホルスト・フィッシャー、トニー・シェリダン、ビリー・プレストン…。
 あらためて言うまでもありませんが、やはりとんでもないバンドでしたね。神としか言いようがありません。
 この番組が終わった後、同じくNHKのクラシック・ステージという番組が録画されていました。ラヴェルとガーシュインの特集でした。それもついでに観ていたら、はっと気づきました。ああ、ビートルズってガーシュインみたいなことをしたんだなって。つまりこちらに書いたような高次元での融合ってことです。今日初めて、ガーシュインからプレスリー、そしてビートルズへの流れが読めました。なるほどなあ…。
 あっそうそう、この映画には来日公演、武道館の映像も何度か使われています(エンディングにも)。あと、反ビートルズ運動として赤尾敏センセイが映ってたな。懐かしく観ました。

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2008.09.15

『日本ナンダコリャこれくしょん 今度は俳句だ!』&『TOKYO REAL FASHION 2008秋冬』(NHK BShi)

080915_2 京でのオーケストラの練習から帰ってきまして、この二つの番組をゆっくり鑑賞。面白かったなあ。
 春放送された『日本美ナンダコリャこれくしょん』が非常に面白かったので、今回も期待していましたが、はっきり言って期待以上でした。
 この「持ち寄り句会」っていいですねえ。他人の作品を持ち寄って、それぞれプレゼンテーションする。そして投票。点数をつけて優劣を競う。
 私なんかこういう句会があったらすぐに参加しますよ。このブログをご覧になればわかるとおり、私は自分で作品を作るのはもう数十年前にやめまして、今では他人様のいろんな作品を鑑賞して、解釈して、こじつけて、勝手に意味を与えて、ついでにいじって、こうしておススメばかりしています。毎日勝手にプレゼンしてるようなもんですからね(笑)。
 いやあ、それにしても、それぞれの句もたしかに「ナンダコリャ」でしたけれど、またプレゼンも面白かった。プレゼンターもかなり「ナンダコリャ」でしたねえ。
 20の句、全部良かったけどなあ、優勝は「露人ワシコフ叫びて柘榴打ち落す」と「戦争が廊下に立ってゐた」か…。個人的には…いや、やめとこ。長くなるので。
0809152_3 俳句って本当に面白いですね。庶民の芸術、すなわち民芸であり、シンプルかつ縛りの多い中で、いかに新鮮で、しかし共感を得る作品を作るか。枠の中でいかに暴れるか。あるいは枠をいかに壊して、しかし誉められるか。プロレスみたいなもんだな。虚構の中の日常というか。日常の中の虚構というか。
 昨日までの例の「機械語」も、とんでもない言葉の組み合わせで私を驚かせ興奮させましたけど、なんか違うよなあ…。やっぱり昨日も書いた「自己愛」「自意識」が、機械にはないんだよなあ。すなわち、俳人は皆哲学者なんですね。俳句自体もいいけど、それを作る自分であったり、それを理解する自分に酔っている部分がある。いいですね。本当の哲学者の難解さより、ずっと良心的ですから。
 ううむ、今日の俳句たちもまた、あのExicite翻訳サイトに放り込みたい欲求(煩悩)が…いや、やめとこ…いや、あとでナイショでやろう(笑)。
 それにしても、金子兜太宗匠、この方こそ「ナンダコリャ」ですね。89歳とは思えないお元気さと、面白さ。面白さを競っていた感のあるプレゼンターを寄せつけない面白さでありました。最高。
15pic_r さて、この番組が終わってしばらくしましたら、今度は『TOKYO REAL FASHION 2008秋冬』が始まりました。東京ガールズコレクションをたっぷり紹介する番組。これも録画予約している私って…。
 そう、おととし『東京カワイイ★ウォーズ』を観てから結構興味がありましてね。いや、これはですね、自分の世界からはかけ離れていますし、リアルクローズ自体にはそれほど興味はありませんよ。でも、「カワイイ」という言葉と心性は私の研究対象ですので、まあ勉強のために録画したというわけです。あと、生徒で観たいっていうのが必ずいるので、彼女たちに提供するためもある。どうせなら最先端を勉強しろ!と。
 さて、私、この番組を観ていてですね、さっきの番組の影響もあってか、頭の中でリアルクローズと俳句がなぜかぴったり重なって感じられたんです(ほら、またこじつけしてる…笑)。
 いや、まじで。なんというかなあ、決して高尚な、あるいは脱俗的なものではない。日常の中の身近な言葉や服などをいかに組み合わせるか。そういう感じが似てるんですよ。これって、日本の得意なやり方じゃないですか。ああ、日本文化してるなあって。
 その組み合わせには、やはりルールがちゃんとある。で、そのルールの中でいかに遊べるか。または、ルールを破るか。いずれにしても、「痛い」ことになったらおしまいなんです。そのギリギリ感が似ている。意外な組み合わせの中に見つける「萌え」や「カワイイ」。
 実は、こういう日常のリアレンジ、リコンストラクションが一番難しいんですよ。それを日本人は、老いも若きもみんなやっちゃう。特別な勉強や訓練や経験を積まずとも、その瞬間のひらめきでやっちゃう。プロとアマの、玄人と素人の境界がないんですよね。これってやっぱり世界的に見てもすごいことですよ。だって、俳句にせよ、リアルクローズにせよ、もう世界では圧倒的に芸術視されてますよ。
 そして、この番組では、それぞれのファッションについて、わかりやすい解説(実は全然わからないんですけど…)がついていて、それがまるで持ち寄り句会のようだった。投票とかはしませんが、観る人それぞれがそれぞれ採点してるわけでしょう。そっくりですよ。
 そして、俳句にしても、リアルクローズにしても、こういうプレゼンテーションを見てですね、私たち庶民は、それに憧れるんじゃなくて、「あっ、オレも(ワタシも)やってみよう!」って思うんですよね。それがまた日本文化の活性化につながるんです。
 うむ。日本の庶民力、アマチュア力、シロウト根性ってすごいですね。やっぱり日本には本来「芸術」なんて存在しないんだよな…という当たり前のことを確認した夜でありました。ワタシも究極のアマチュアとして、いろいろ頑張ろ。まずは目先のオケの練習と、やばい原稿の締切りが…。

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2008.09.14

『もの・こと・ことば』 廣松渉 (勁草書房)

Uni_1489 本を代表する哲学者の一人、廣松渉さん。亡くなってもう14年ですか。
 「モノ・コト論」をやっている私としては、彼の「事的世界観」はしっかり理解しておかなければならないはずですが、正直、頭が悪いのか、どうも彼の文章は理解できません。
 負け犬の遠吠えみたいですけど、私は、哲学者について「科学者にも小説家にもなれない人」とか「簡単なことを難しく言うのが仕事」とか「頭が良すぎて社会に適応できない」とか、さんざん言ってきました(さすがに言いすぎだよな…笑)。
 でも、私の夢は哲学者になることです。ちょっと、笑わないで下さいよ。夢は夢ですから。実現しそうなことは夢とは言いませんよ。もういい歳ですしね。子どもじゃないんで。
 つまり、ひきこもって一人でいろいろ勝手なこと考えて、それで生きていければいいなって思うんです。世界や社会や人間のことを考えてるんだけど、世界や社会や人間とはあんまりかかわらない。まあ、結局のところ、自己愛や自意識が強くて、世界や社会や人間を考えていると見せかけて自分のことを考えている、そういうワガママな人になりたいんですね(笑)。
 それにしても、廣松さん、なんでこんなに難しい文を書くんでしょうか。どう考えてもわざととしか思えません。たしかに個性的な文体ではありますが、もし本当に世のため人のために仕事してるんだったら、もっとわかりやすく書かないと意味ないじゃないですか。
 はっきり言いますと、昨日の機械語と同レベルなんですよ、ワケわかんなさが(笑…失礼)。だって、たとえばこんな感じなんだもん!本当に適当に開いて指でさしたところを写します。

「斯くして、われわれの謂う「其れ」の所知的契機、つまり、心理学者のいうGestalt als solcheは、函数的性格(ゲシュタルト的「移調性」)、不易性、普遍性、経験的認知に対する論理的アプリオリテート、この種の存在性格をもつ或るものと唱されねばならない。しかるに、飜って慮れば、函数的性格、不易性、普遍性といった性格は、通称は「概念」(つまり単なる表象や実在から区別される学知的な次元での「概念」)に帰せられているものにほかならず、哲学者たちが言葉に窮して、「超時空的」とか「妥当的」とか指称してきたところの、所謂「イデアール」な存在性格にほかなるものではない」

 うむ、これは比較的わかりやすい部分かもしれない…全然わかんないけど。今、これを読んで理解できた方、どうぞ自慢して下さい。それはそれで立派なことですから。
 そうだ!こういう時はExcite翻訳に頼もう!またやっちゃうよ〜!

「それが必要です。心理学者は一言で言えば言います。ゲシュタルトals solche、それ. . 論理的なAprioritatとこの種類のaへの存在キャラクタと共に、キャラクタ(ゲシュタルト「転置」)と不変式が機能して、場所での普遍性の、そして、経験豊富な承認が知的な機会であることを確信していた状態でaをするために。浮動。 「それ、私たち、このようにして、」 考えてください。機能。キャラクタ。不変式。普遍性。キャラクタ。通称。概念。一言で言えば。単なる。シンボル。実在。区別してください。知識。知的。寸法。概念。戻ってください。1。異なってください。哲学者。言い表します。困惑します。時間。狙います。適切。弄ります。電話をしてください。いわゆる。存在。ケースに入れます。異なってください。1。」

 なるほど〜、そういうことだったんだ!原文よりずっと日本語らしい。だんだん詩みたいになっていく…いいなあ。最後の「哲学者。言い表します。困惑します。時間。狙います。適切。弄ります。電話をしてください。いわゆる。存在。ケースに入れます。異なってください。1。」っていうところ、最高ですね。
 というわけで、今日も手抜きの記事でごめんなさい。「モノ・コト論」の基本文献の一つなんですけど、どうも頑張って理解しても、私の考えとはだいぶ違うみたいなので、あんまり参考になりません。大野晋センセイに対して、ちょっとつっかかってるのは私と同じですけど、そのツッコミの方法や意味も全然違いますし。私はもう少しわかりやすく行きます。

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2008.09.13

翻訳サイトで遊ぼう!!

じぶんが翻訳するより、Excite翻訳の方が面白い…クヤシイ。
Eiken 事やら原稿やらの締切りに追われ、時間がないので今日の記事は機械任せにします。エキサイトの翻訳サイトで昨日の記事を英訳し、さらにその英文を日本語訳してみました。
 はっきり言って、私が書くよりずっと面白い。すごすぎる。もう毎日これにしようかな。これをまた英訳して日本語訳して…どんどん原文から離れていって、別の物語世界が生まれていく。素晴らしいことです。毎日続けているとホントどうなるのかな。ある一つの形に収斂していくのか、あるいは宇宙のごとく無限に拡散を続けるのか。
 では、どうぞ。ヒマな方は全部声に出してお読み下さい。最後の言葉がいいなあ…。


瞬間の(?)記事に、深遠なaが今日…いいえ、あなたのために件を続けていたので、それは些細な話ですか?
それ、どちらも真実、それがそうでなく、中のクレーンクレーンが簡単さであると言うためにはこれでなく、もっとも、毎日、私によるクレーンクレーンヘッドで完全に剃髪されたおよそ3年前に持って、生活してください。 髪の残りのこれではなく、考えの外における軽少のまさしくそのBetabetaedの頭皮の樹脂。 新鮮になりますが、すぐに再び樹脂のようになる、それ、その時、考えられるなら、それはそうです…、不快である、どうにか、そして、振り洗い。それはそうです。シャンプーして、毎日(正しい?)の周りの石鹸で…をするのは可能です。 それは悪循環感です。 さらに洗えば洗うほど、そのBetasと大使館員をする自然さえより多いです。
したがって、髪が全くないのでリフレッシュしながら思うとき、それはそうではありません。 直接触れるのが可能であるので、それはどうにか心配しています。
そうであったかどうかと必ず思い始めて、樹脂のような部分は特に部分的でした。しばしばそれを観測するとき、髪が薄くなって(明らかに髪の部分の根が見られたとき、異なります)、これが誤っていたのが「皮脂は、輪郭を描かれた毛穴とはげでした」が世界で厳しく言及されるのが好きです。
そして、そして、別の問題が(?)加齢臭問題まで達している、それが役に立たないのであるので役に立たなく、既に聖職者であるので、それは、最近毎日女子による外に指されて、ちょっと本当のことを言うためにはげの心配でいじめられます。
発展(?)はきちんとしたToshisououで達成されます、そして、老眼は最近始まります、そして、脳のボケは表面における全面的な進歩をします。およそ10。 Waca、もっとも、ひっくり返るMiであるかもしれないWatacshi。 そして、加齢臭の素晴らしい芳香はよく自分で分かりませんが、由来するように思えます。
それらのポイントには、たぶん女子が煩わし過ぎるので、本当に、通常、心配してください。「これはフェロモンと呼ばれます。 反応するあなただけが過度に危険ではありませんか?」現実をまさしくそのである荒くならせてください。思い始める、何とかこれをする、それら、擾乱された受験勉強は真剣に…事業部をだます教師のように任務です。 ) ..それはありません。 ..(.. ..笑ってください。
それがチャットする後である3人の人の母は家の注意において同様のaをしたがっています、そして、それは言われるでしょう、そして、数日で「これを教師に与え」て、それと奴はそれが良いのですが、もう学生に与えたステップになるとき本当に、このa状況をそれと呼ぶのを残すことができない助けが「加齢臭のために石鹸を具体化することができない」とさまざまに言います。 それが歓迎されているか、または予期していなく、不名誉出来事が予期していないか否かに関係なく、井戸などを理解していなかった状況
もっとも、(しかしながら、この芳香が置くとしての仮定に従った道と、冗談のまさしくその研究である、事実)、頭皮をたいへん溯源します。 すみません。 ことについて話してください。中、匂ってください。
専門家に頼るとき、いわゆる"Touhicsa"があるので、それは起こるように思えます、そして、頭皮が分泌する油脂は酸化します。 いつをフィルタに通過しないかので、大規模な外部不経済は問題の人の意志に対して引き起こされます、そして、(*S)は聖職者です、そして、それは空気直接中で発せられます。 そして、ヘッドが洗われたなどであるなら洗うのに従って、これは「逆-生産性」です。
確かに、私は、毎日さらに洗えば洗うほど、より多くのBetabetaが増加したと思いました。 それがよろめいて、簡単に言うなら皮脂を取り除き過ぎる、リバウンドは発生します。 悪循環。
したがって、はいが結論になって、ある程度どんな碁にもさまざまな研究をしなかったところでビーム汚染は企業責任の観点から改良の努力をしなければなりませんでした。 そして、これはひどいです。 ..戦略を取ります。
「Betabetaとにおい」は「Betabetaとにおい」によって制御されます、そして、それは言うことができるでしょう。 まさしくそのであるヘッドに納豆菌を塗りたくる戦略が行われました。
これはギャグではありません。 それは、ないか、またはテレビ・ショッピングをしながら、時々SBバクテリアを混ぜます。 それは言います。 SBバクテリアは、Nattouバクテリアの種類である土のバクテリアで速くどんな余分な油と脂肪も分解して、あります。 それは本当ですか?Itは一度試みる行くのと、それですが、一部疑われて、Yasが買われたネットの製品でした。
実際にそれを使用すると、本当に、それは適度に取り消されます、そして、Betabetaは、どうにか感じながら、新鮮です。 たとえようもないのですが、自分で…を理解していないので、においを意味できません。実際にスプレーから噴射された液体は、私語していてさっきコントロールとして「Betabetaとにおい」で言いましたが、無臭です。 ストリングは引かれません。そして、安全。
眠る前と出勤する前に、状態がどうにか良いので、私はしばらく、それを使用するつもりです。 そして、私は、ヘッドだけを洗うのを基本的な水にして、人工的に皮脂を移し過ぎるというわけではないためにするつもりです。 それはバクテリアに任せるでしょう。
しかしながら、私は、バクテリアが一日中頭皮の地球の中でどうにかバクテリアと戦うと思うとき、たとえようもないそれが神秘的であると思います。 それが私の皮脂の全滅操作であってその結果、テロとの戦いがテロの販売促進に続けていた圧倒的で、徹底的な世界の縮図のような戦いは私の頭皮でたとえようもなくなってはいけません。 そしてそれが砂漠に森林とその前に森林を切り払って、作るために作られている。(.. ..laughter)..愚かな男性…

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2008.09.12

『リブレッシュ(頭皮洗浄スプレー)』

Rebre0322photo ょっと重厚な(?)記事が続いたので、今日は皆さんにとってはどうでもいい話…いや、どうでもよくないかも。
 私、もう3年くらい前に完全に剃髪して、毎日ツルツル頭で生活してるんですけど、実はこれ、単純にツルツルというわけではないんです。毛が残ってるとかそういうことではなくて、どうも頭皮というのは案外にベタベタしてるというか、微妙に脂っぽいんですよね。少なくとも顔の皮膚よりは。
 で、なんだかイヤだなと思って、毎日石けんやらシャンプーやら(どっちが正しいのか)できれいに洗うと、その時はさわやかになるんだけど、すぐにまた脂っぽくなる。そのいたちごっこという感じなんです。というか、洗えば洗うほどベタつくような気さえする。
 髪の毛がないからスッキリかと思うと、そうでもないということですね。なんとなく、直接触れることができるので気になるし。
 で、よく観察しますと、特に脂っぽい部分というのが、毛が薄くなっている部分なようで(毛根部分を見ると明らかに違う)、ああなるほど世の中でさんざん言っている「毛穴に皮脂がつまってハゲる」みたいなのは、これはあながちウソではないのかも、と思い始めた次第です。
 で、もう坊主なのでハゲの心配はご無用なわけですけど、実はちょっと別の問題がありましてですね、それは最近ギャルどもに毎日指摘され、いじめられている(?)加齢臭問題であります。
 外見的には10近く若く見られることもあるワタクシではありますが、ちゃんと年相応に進化(?)も遂げておりまして、最近では老眼も始まっておりますし、脳ミソのボケもそうとう進行しております。そして、自分ではよくわからないけれども、加齢臭とかいうステキな芳香も発しているらしい。
 それらの点に関して、あんまりギャルどもがうるさいので、さすがに気になるというか、まあ普段は「これはフェロモンと言うんだ。過剰に反応するお前らの方こそ危険じゃないのか?」などとごまかしているものの、実態はどうあれ彼女たちの受験勉強を妨げているのであれば、これはなんとかするのが教師としての使命なのではないかと、まじめに考えはじめている…わけはありません(笑)。
 でもですね、ヤツらがいろいろ言うのはいいのですが、三者懇談後にあるお母さんが家で同様な発言をした上に、数日後「これを先生にあげて…」と言って、「加齢臭対応ボディーソープ」を生徒に持たせたという段になると、これはもうさすがに放置できない事態と言わざるをえません。ありがたいのか、それともとんでもなく屈辱的な出来事なのか、よくわからん状況だよな…。
 てな冗談(しかし事実)は置いておくとして、どうも研究したところによると、この芳香はなんと頭皮が発してるもののようなんです。ごめんなさい。なんか臭い話で。
 専門家によりますと、いわゆる「頭皮臭」というのがあって、それは頭皮が分泌する油脂が酸化することによって起こるらしいんです。で、坊主だとそれがフィルターを通らず直接空気中に発散されるため、本人の意思に反して甚大な外部不経済を引き起こすみたいなんです。そして、これは頭を洗えば洗うほど逆効果なのだとか…。
 たしかに、毎日洗えば洗うほどベタベタが増しているような気がしてたんですよ。ま、簡単に言えば、皮脂を取り去りすぎて、そのリバウンドが発生するということですね。で、悪循環。
 というわけで、いろいろと研究しまして、うんやはり公害はいかん、企業責任の観点からも、ある程度改善の努力をすべきだという結論に至りました。そして、とった方策がですね、これがすごい。
 「ベタベタ&臭い」を「ベタベタ&臭い」で制す…とも言えましょうか。なんと、納豆菌を頭に塗りたくるという作戦を決行したのであります!
 これはギャグではありません。時々テレビショッピングでもやってるじゃないですか、SB菌配合!とか言って。SB菌ってナットウ菌の一種の土壌菌で、なんでも余分な油脂分をどんどん分解してくれるらしい。ホントかよ?と半ば疑いつつも、一度試してみようと思いまして、ネット最安な製品を買ってみたんです。
 実際使ってみましたら、なるほどベタベタは適度に解消されてるし、なんとなくさわやかな感じです。臭いについては自分ではわからないのでなんとも言えませんが…。さっきは「ベタベタ&臭い」で制す、とか言いましたが、実際スプレーから噴射される液体は、サラサラ&無臭であります。糸を引いたりしませんのでご安心を。
 なんとなく調子がいいので、しばらく、寝る前と出勤前に使ってみようと思います。そして、頭を洗うのも基本水だけにして、皮脂を人為的に取りすぎないようしようと思います。菌にまかせることにしよう。
 それにしてもなんだか一日中頭皮という大地で菌と菌が戦っていると思うと、なんとも不思議な気がしますよね。こうしてテロとの戦いは続くのでありますが、そのテロを助長していたのは、私の強圧的かつ徹底的な皮脂殲滅作戦であったわけで、なんとも私の頭皮上で世界の縮図のような戦いが起きていたわけですな。てか、それ以前に森林を伐採して砂漠化させてるし(笑)。人間は愚かですなあ。

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2008.09.11

『キース・ジャレット&チック・コリア プレイ モーツァルト』 (1986年 NHK)

Keith Jarrett & Chick Corea play Mozart
Kctitle このところ思わぬものが飛び込んでくることが多く、もう何が来てもそれほど驚かなくなっているんですが、これはさすがに驚きました。驚いたというより大興奮してしまった。飛び込んできた、その飛び込み方もすごかったもので…。
 全く信じられません。こんなものがこんな形でいとも簡単に手に入ってしまうなんて。
 職場の同僚が、むか〜し撮りためたビデオをDVDに焼くためにオークションでソニーのβのデッキを落札したんです。それで、それが送られてきたから、使えるか試してみてくれということで、私のところに持ってきた。私は学校ではAV担当者なもので。
 で、そのデッキ自体も実に懐かしいものだったわけですけど、その先生が言うには、なんかオマケでたくさんのベータのビデオテープが入っていたとのこと。へえ、ずいぶんサービス精神旺盛な方だなあ、などと感心しつつ、そのテープたちが入っている袋をのぞいたら…。
 これが大変なことになっていたんです!もうここでその内容を書くと、ある意味暴動が起きる可能性があるので、やめときます。いや、ホントやばいんですよ。ざっと見たところ、85年、86年あたりにテレビで放映された音楽番組が録画されているようです。
Keith で、そのうちの一つが、こ、これだったんです!!これって幻も幻、いまや伝説化していてYouTubeにアップされた(あとでURLを貼ります)時も騒ぎになりました。最近キースのドキュメンタリーDVDにK.365の一部が収録されて、これも評判になりました。それが、完全な番組の形で手に入るとは…。それも何の苦労もなく…というか、勝手に来ちゃった(笑)。
 この公演が行われたのは1985年2月1日のことです。五反田のゆうぽうと簡易保険ホールで、田中良和指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団をバックに、キースがK.488を、チックがK.466を、そして二人でK.365を演奏しました。この二人のこうした共演は世界初です。おそらく鯉沼さんのアイデアとご尽力によってこの奇跡は実現したんでしょうなあ。
 考えてみれば、この二人マイルス・デイヴィスのバンドではいちおう一緒にやってた時期もあるんですよね。交替交替でやってたみたいですけど。それ以来全く別の道を歩んでいた二人が、日本で、そしてモーツァルトで再会する…。
 で、震えながらテープをデッキに挿入して観てみましたよ。うわぁ!けっこうきれいに残ってる。さすがベータ!?22年前の録画とは思えません。多少のノイズはしかたないとして、音もはっきり聞こえて充分過ぎるほどに美しい。
 演奏部分についてはですね、YouTubeに全部(正確にいうと一部なんですが…それはなぜでしょう…ナイショです)ありますので、そちらでどうぞお聴きください。

Keith Jarrett plays Mozart
 K.488: 1. Allegro
 K.488: 2. Adagio
 K.488: 3. Allegro assai
Chick Corea plays Mozart
 K.466:1 Allegro
 K.466:2 Romance
 K.466:3 Allegro assai
Keith Jarrett & Chick Corea play Mozart
 K.365:1.Allegro
 K.365:2.Andante
 K.365:3.Allegro

Chick あえてはっきり言ってしまうと、完全にキースの方がうまい。ミスタッチもほとんどなし。チックはけっこうコケてます。緊張してるよなあ…。まあ、そんなことはどうでもいいですね。それより、ジャズの天才ピアニストにして、世界最高のインプロヴァイザーである二人が生むモーツァルトの素敵なこと。今ここに生まれた音楽のようです。
 もちろん、クラシックを専門に聴いている方からは、予想通りいろいろと難癖がつきましたし、今もつくでしょう。なぜそういうことになるのか、いちおう両方聴いてるし多少はやってもいる私はよくわかるつもりですけど、でももう私はそういうのにはウンザリですので、ここではやめてください。
 そうそう、ジャズの方からも、まあわがままがずいぶんと出ましたよ。なんでカデンツァが普通なのか!って(笑)。アンコールでも同じカデンツァだったじゃないか!とか。カデンツァって完全な即興だったわけじゃないですよ、皆さん。当然仕込んでおくものです。それも複数のソリストによるカデンツァなんか、当然それでなきゃできません。それこそ純粋なジャズになっちゃいますよ、完全即興でやったら。当時はそういう時代ではありません。
K388 それにしても、二人のリズム感というか、リズムの取り方がいいですね。アンサンブルの仕方がクラシックの方々とは全然違う。あとメロディーの歌わせ方。タッチやフィンガリングもクラシック系と違うし、なにしろ二人のそれらが対照的で面白い。
 ちょっと意外だったのは、リハでも本番でも主導権を握っているのは年下のキースだったこと。チックに比べて、キースはクラシックの演奏や録音を数々こなしていましたから、まあ当然と言えば当然なんですけどね。リハではほとんど先生みたいにチックに教えてます。
 で、ですねえ、実はこの番組のすごいところは、二人のインタビューやリハーサル風景が収録されていることなんです。ちょっとその一部をここに再現します。しゃべるのもほとんどキースです。

キース
「即興演奏家がモーツァルトを弾くと即興者としてのモーツァルトに焦点があてられるよね。彼が即興をした記録はあるけど録音はないわけだ。録音があれば楽譜との違いに興味があるね。すごい即興だったかもしれない。ベートーベンもそうだけど。もうひとつ大切なことは、僕は作曲家が生きていると思って即興することにしているんだ。世界各国にはモーツァルト研究家が大勢いて、モーツァルトはこう弾くべきだと言うけれど、モーツァルトは型にはめられるのをいやがると思うんだ。そのためにはできたてのつもりで演奏しなくてはね」
チック
「きょうの協奏曲の2楽章の最初のところは、骨組だけなんだけれどまるで歌のようなんだ。フィーリングいっぱいに弾くことができる。骨組だけでも十分美しい。即興してくれって誘惑してるみたいなんだ」
キース
「そう、フレーズというシンプルなものを忘れさせないね。それは花びんいっぱいではなくたった3本の花という感じだ。その3本は見るたびに違う。いっぱいにあるとひとつの物体となってしまう。モーツァルトはわずかな花びらだ。シンプルでいてむずかしい」
チック
「うん」
キース
「知りすぎていると新しいものは生まれてこないよ…決めすぎてはいけない。意味がない…そう、常に変化してるしね」
?(どっちかわからない。たぶんキース)
「演奏するには外面からと内面から迫る2通りがあると思う。即興演奏家ができることは内面性をもたせることだ。多くのピアニストは外面的な訓練しか受けていない。この人の曲はこう弾くべきだといったようなことね。そうなるともう興味がないね」

 う〜ん、素晴らしい。私の言いたいこと、全部言ってくれてます。そう、昨日の枕草子もそうなんですよ。いろいろ取っぱらって無垢な再創造をしたい。生まれたばかりのような輝きを目指したいんですよね、全てにおいて。単なる情報処理はオタクの皆さんにおまかせしてね(笑)。
 そして、究極的に感じたこと。「今生まれたようなモノは案外シンプルである…」
 このようなお宝に出会えたご縁にひたすら感謝いたします(拝)。

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2008.09.10

本当の「春はあけぼの」とは…

Makura る堅い雑誌から、あんまり堅くない内容の原稿依頼が来ていて、締め切りが近づいてるのだけど、なかなかはかどりません。いや、さぼってるとか、そういうことではなく、まあよくあることですが、まじめに頭を働かせていると、どんどんいろんな考えが浮かんじゃって、あるいは思わぬ発見があって収拾がつかなくなるんですよね。
 一番よく参照する資料はこのブログです。日々の断想や思いつきを書き散らしているので、こういう時のとってもいいネタ帳になっています。で、毎日書き散らしているので、当然のように何を書いたなんて忘れてるわけで、ついつい自分の文になるほど〜と感心してしまったり、あるいは、そりゃないだろう〜とツッコミを入れたくなったりする。そんなことをしてるとどんどん時間が過ぎてしまうんですね。
 で、今日はこちらの(真説)春はあけぼのという、ちょっといやらしい記事にツッコミを入れたくなりました。いやいや、これは自分に対するツッコミではなく、世間に対するツッコミかもしれない。いや、あの記事では清少納言さんに聞いたとかほざいてるから、彼女に対するツッコミかもしれない。あんたウソ教えたでしょ、って(笑)。
 さあ、というのはどういうことか、と言いますとですね、上の写真を見て下さい。例の枕草子の冒頭です。これは京都大学所蔵の江戸の版本です。江戸のものでさえ、こんなふうに句読点なしで、そしてほとんど平仮名で書かれています。どこで切るかというのは、完全に読者やエディターにまかされているわけですね。
 ということは、皆さんが教科書で習うような「有名な」冒頭部分、皆さんが先生から無理矢理暗記させられほとんど慣用句化した冒頭部分も、実はこのようにだけ書かれているんです。
 
はるはあけほのやうやうしろくなりゆくやまきはすこしあかりてむらさきたちたる雲のほそくたなひきたる

 ですから、あの教科書の句読点や漢字には、誰かの解釈が介入しているということですね。そして、その解釈が正しいとは限らないということ。ほかの解釈の可能性も当然あるということです。
 で、私は、いちおう音楽の世界でオリジナル主義的なことをやってきましたから、そういう過去の常識やら習慣やら権威やらから自由になって、まっさらな自分でまっさらな作品に向かい合うのが(たぶん)得意でして、このあまりに有名な古典作品についても、そういう見直しをしてみたんですよ。別にそんなに難しいことではありません。心を無にすればいいだけですから。
 さあそうして無垢な(?)自分という装置に、無垢な言葉を挿入してみましたら、こんな結果がガチャンと出てきました。それを見て、無垢ならざる自分も、ああ、なるほど!と思ってしまったわけです。

春はあけぼの。
やうやう白くなり行く山際。
少し赤りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。

 ちょっと現代語訳してみましょうか。

春と言えばあけぼの。
だんだん白くなって行く山際。
少し赤くなって紫色っぽくなっている雲が細くたなびいている…。

 なるほど、「すこしあかりて」と「むらさきだちたる」が「雲」にかかっているというのがミソですな。あと「あかりて」を「明りて」ではなく「赤りて」としたところ。
 まず季節と時間帯をドンと言い(それがどうだとは言っていない。もちろん「をかし」とも言っていない)、次に場所あるいは方角を指定する。ちょっとズームインする。そして、繊細な色合いを見せる雲というディテールに視線を持って行く。うん、いい流れですなあ。
 だいいち、一般に言われるように、「だんだん白くなっていく山際が少し明るくなって」とすると、なんか変な日本語ですよねえ。センスない。「しろく」というのは当時は「著く(はっきりと)」というイメージもあったので、「明かりて」と表現がダブる感じがします。
 よくある異説、「やうやう白くなり行く」で一度句点を打つというのも、考えてみると変です。「山際(が)少しあかりて」という文脈というか文型にするなら、私の知る限り、清少納言さんは「山際の…」とするはずです。
 それから、夏以降のリズム感などと考え合わせても、「やうやう…たなびきたる」まで一文とするのは、ちょっと冗長で歯切れが悪く感じられます。春は韻文的、夏、秋、冬と次第に散文的になっていく、その変化がまたいいと思うのですが。
 というような話を、もうちょっと詳しくですが、授業で話したら、ある生徒が次のような説も考えてくれました。無垢なる(?)高校生という装置による解釈です。

春はあけぼの。
やうやう白くなり行く山際。
少し赤りて紫だちたる。
雲の細くたなびきたる。

 うん、これもいいですねえ!ありうる。ちょっと現代語訳してみましょうか。

春と言えばあけぼの。
だんだん白くなって行く山際。
少し赤くなって紫色っぽくなっている…。
雲が細くたなびいている…。

 おお、これは美しい詩ですねえ。感覚としては、「春は明け方がいいわね。だんだん白くなって行く(だんだん明瞭になって行く)山際なんかね。少し赤くなって高貴な紫色っぽくなってる…。あと、雲が細くたなびいてるのも…」ってな風でしょうか。「すこしあかりてむらさきだちたる」の主語がわかりにくいのが難点と言えば難点ですが、別にいいんじゃないでしょうかね、なんでも。
 暗くて判然としなかった山際がだんだん見えてきて、赤味を帯びて紫色になるというのは、かなりリアルな表現とも言えますし。
 雲が紫色というのもありえますが、逆に空が紫色(今で言う赤紫)で、それをバックに雲もだんだん見えてくるというのは、ホントよくありそうな光景です。
 また、夏以降「〜たる名詞」という文はありませんので、文体的に言っても「たる」で切るこの解釈は案外自然です。
 そうしますとですね、たとえば、こんな別の解釈も可能なわけてす。

春はあけぼの。
やうやう白くなり行く。
山際少しあかりて紫だちたる。
雲の細くたなびきたる。

 まあ、こんなふうに原典(原点)に帰って遊んでみるも面白いものです。そういう遊びこそが学問につながっていくのです。常識を疑うこと、心をまっさらにしてみることって大切ですね。そういうことを妨げる情報過多な時代に生きている私たちには案外困難なことですが。
 最後に、ちょっと理屈っぽくなってしまいますけれど。私が私の新説を支持するのには、自然科学的な根拠もあるんです。乾燥していて空の透明度が高い冬が終わり、空気中の水蒸気の量が増えた春は、朝焼けが起きにくくなります。つまり、空自体は赤くならないで白んで明けていきます。早起き経験上もそれはたしかです。しかし、地上より先に日光の当たり始める上空の雲は、多少色づくこともありますので、「すこしあかりてむらさきだちたる」のは「雲」であると考えるのが妥当だと思うのです。
 と、まあいろいろと言いたいことを言ってきましたが、で、ホントのところどうなんでしょう、清少納言さん。えっ?この中にも正解がないって?え〜!
 というわけで、皆さんも考えてみてください。

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2008.09.09

『御祝(ごいわい)』…遠野の秘謡

Goiwai1 、すごい。古いビデオの1本をなんとなく再生してみたら、なんともすごいモノがたくさん録画されていました。1991年、今から17年前のいろいろなテレビ番組が乱雑に詰め込まれています。まあプロレス関係とかMt.FUJI JAZZ FESTIVALとか、全部すごかったんですけど、今日はそのうちの一つ、遠野の不思議な民謡を紹介したNHKの番組をとりあげます。
 NHKのアーカイブスで調べてみますと「にっぽんメロディー探検 遠野民謡 御祝(ごいわい)の秘密」という番組ですね。ちゃんと番組の最初から録ってあるので、事前に番組を知り、録画しようと思ったようですけれど、なぜこの番組を録ったのか、その時「御祝」のことを知っていたのかは、はっきり言って忘れてました。ただ、これは録画しておいてよかった。今観ても実に不思議ですし、心動かされます。
 御祝は、岩手県遠野市小友(おとも)町の氷口(すがぐち)地区に伝わるもので、最近無形民俗文化財にも指定された、大変貴重な音楽遺産です。簡単に言えば、男性が謡を、女性が民謡を同時に唄うという、まあ西洋風に言えばクオドリベットの一種と言っていいと思うのですが、その不思議なハーモニーというか、不協和音の響きが実に興味深いんです。まずは、番組から録った音を聴いていただきますか。
 御祝
 どうですか。すごいでしょう。17年前の私も、今の私もかなり戦慄しましたよ。美しいとは言えないかもしれませんが、なんというか、ものすごく強い音楽ですね。
Goiwai2 この番組で御祝の謎に迫るシンセサイザー奏者星吉昭さん…「姫神」の星さんです。04年にお亡くなりになりました…の功績によって、全国的にも有名になり、国立劇場で演奏会が行われたり、DVDが発売されたり、保存会が発足したりしたようです。
 クオドリベットの例を引かずとも、世界中にこのようなタイプの多声音楽は多くありますし、酔っ払いの芸としてはある意味自然発生的に聞かれますよね。そして、音楽に(騒音に)まみれた現代においては、もしかすると恒常的に御祝状態が続いているとも言えるかもしれません。いや、そこには人間の神への意思なんてかけらもないか…。
 この御祝のような人工的なカオスというのは一種のハレ状態であり、非日常的な祭祀空間であるということです。特に日本の神道的儀式や祭にはそういう要素が色濃く感じられますね。人間の自らの手によって、日常が目指す「コト」性を崩して「モノ」を招来する。そう、日本人はコスモスよりもカオスに神、すなわち自然を見ていたんですね。西洋的な発想とはかなり違うのではないでしょうか。
 そして、そうしたモノ招来の行為自体に「祝性」があり、またそれが「遊び」に通じていました。「遊び」にはルールもあります。この御祝も、一見めちゃくちゃに合わせているように感じられるかもしれませんが、実は互いのキーや重ねるタイミング、リズムの合わせ方など、いろいろなルールがあるようです。そうした、モノ性の中に形成されていくコト性、すなわち混沌な中から修理固成していく「世界」という面白み、あるいはめでたさというのもあるんでしょうね。単なるカオスではダメなんです。
 そういう中間世界的な可変性のようなものこそが、神と人間をつないでいる証拠なのかもしれません。この御祝は、ある意味とても素朴な音楽なのでしょう。でも私はちょっとおおげさにそんなことを感じたんです。日本人として理屈抜きに共鳴する何かがあります。
 一度、生で聴いてみたいですね。できれば国立劇場とかではなく、本当の祝いの空間で。

Amazon 岩手の秘謡 御祝(ごいわい)

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2008.09.08

富士山の鹿に思う

この写真はもらいものです。かわいいですね。
Shika こ数年ウチのあたりでよく鹿を見かけます。出勤や帰宅の際に突然群れで飛び出してきて、轢きそうになることもしばしば。今のところ私は事故を起していませんが、1年に1回くらいは事故現場に出くわします。鹿も大変ですが、車もそうとうのダメージを受けていますね。
 また、飛び出すのではなく、道の真ん中に数頭の鹿が佇んでいて困ることもよくあります。車が近づいても全然逃げないんですよね。まあ、急いでいるのでなければ、野生の鹿を間近に見られるのでラッキーとも言えますが。しかし、実際近づいてみると、とにかくデカイ。あんなのに襲われたらたまらんな。まさにシシ神といった風情。でもやっぱりデザイン的に美しい。子鹿はカワイイし。
 ウチのカミさんなんて、道に鹿を発見すると車を停め、ウィンドウを開け、そして何をするかというと…「はりつめた〜ゆみの〜♪」と米良さんのものまねを始めます(笑)。全曲鹿に向かって歌います。鹿は金縛りにあったように微動だにしません(笑)。
 とにかく最近人の住んでいるあたりに鹿がたくさん出没しているわけですね。それでいわゆる食害を起している。農作物を食い荒らしたり、樹皮を食べまくって木を枯らしてしまったり。
 そうした鹿による食害を防ぐために、最近ウチの周辺でもたくさんのフェンスが張られているんです。今日もたまたまニュースで南アルプスのある山のことがとり上げられていましたっけ。貴重な高山植物や樹木を守るために延々とフェンスを敷設するとのこと。自然保護の観点からそうします、と担当者は言ってましたが、これはどうなんでしょうね。
Uni_1478 まず、ウチの周りでさえもかなり景観が損なわれています。登山者に聞くと、やはり山中に突然あの人工的なフェンスが現れるとガッカリすると言います。景観も大事な自然の一部だと考えると、ちょっと問題があるような気もします。写真はウチの近所のフェンスです。見ての通り、ちょっと回り込めば鹿ちゃんも中に入れます。ほとんど意味がないどころか、延々と道沿いに張り巡らされているので、鹿が道を歩くことになって、よけいに危険なんです。食害に対してはホントに気休め程度のしろものですよ。
 もちろん、我々にとって大切な農作物や貴重な高山植物、自然林を守ることは大切だと思いますが、では、鹿という自然に対してはどう考えればいいのでしょうか。
 よく言われているとおり、人間が保護したがる「自然」というのは、あくまで人間にとって有益な、あるいは愛情の対象になる「自然」であって、たとえば害虫などは保護どころか駆除の対象になってしまいます。何をもって「自然」とするか、これは難しい問題ですね。
 世界自然遺産の知床で、自然保護のために野生の鹿や熊を駆除することを環境省が決めたりしてますね。これもまた妙ちくりんな矛盾に満ちています。まったく人間は身勝手なものです。
 またどこかの村は村ごとフェンスで囲ってしまったそうですね。檻の中の人間(笑)。
 で、最近こうして鹿や熊が里に下りてくる(ウチのあたりを里とは言えないかもしれないけれど)のは、たしかに気候変動による植生の変化というのもあると思います。しかし、多少長い目で見ても、それほど劇的に変化しているわけではありません。では、どうしてこういうことが起こるのでしょうか。
 いろいろな要因が複合的に働いているのは分かりますけれど、私はやはり原因の根底に人間の生活があると思いますね。温暖化が人間のしわざかどうかは置いておいても、こうして森を切り開き、道路を舗装し、家を建てていること、つまり本来鹿の棲む領域に人間が進出している罪は大きいでしょう。鹿は普通に生きるために食物を探しているだけです。そして、だんだん人間に対する警戒心も薄れてくる。
 あと、やはりですね、里で犬の放し飼いが減ったことも大きいでしょう。鹿や猪や熊にとって、野犬ほど怖いものはないですからね。昔のように村の中に犬が闊歩していれば、なかなか彼らは畑に入れません。ところが、最近は、「犬はつないで飼いましょう」的な、まさに文明的人間のわがまま(?)からか、ほとんどの犬は自由を奪われて、結果彼らを見つけても遠くでむなしく吠えているのが関の山という状況になってしまいました。犬もさぞ悔しいでしょう。そのうち、獣たちは犬に襲われないことを知り、我が物顔で畑や里山を荒らすようになります。犬の方もやる気を失っちゃう。そりゃあそうでしょう。
 というわけで、ずいぶんと人間は身勝手なことをし、身勝手なことを言い、愛憎をすぐに逆転させ、あるいはそんなことは棚上げして自己満足的アクションに走る…。
 まあ、人間も所詮は動物であり、自然の一部なわけですから、きっとどこかで誰かに恨まれて駆除されるのかもしれませんね。というか、増殖しすぎてお互いで駆除しあうという素晴らしい種なのかもしれませんね。
 
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2008.09.07

DDT『キャンプ場プロレス〜リングは二万坪の大地〜』@ネイチャーランドオム(山梨県道志村)

釣り人姿のマッスル坂井が飯伏幸太にパワーボムをしかける…
Uni_1455 あ、昨夜の熱いキャンプ場フェスに続きまして、今日もまたとんでもないキャンプ場イベントが…。今までいろいろな神イベントに参加してきましたが、ある意味今日のが圧倒的第1位だったかもしれない。みんな「狂ってる(笑)」。そう、(笑)のつく狂気。お馬鹿は素晴らしい。
 DDTによる世界初「キャンプ場プロレス」に参戦してまいりました!!
 う〜む、このあまりに画期的かつ露骨なエンターテインメント、プリミティヴでクリエイティヴな亜空間をどう言葉で表現すればいいのか。そんな世界初なこと私の文才ではできません!
 試合結果を書いても何も伝わらないでしょう。
第一試合 高木・○飯伏(37:48池の中でのムーンサルト)坂井●・A本多
第二試合 ○山賊(酋長)・山賊A・山賊B・山賊C(11:39池の中での山賊ドライバー)高木・飯伏・坂井・本多●
 結末としては、山賊がプロレスラーに勝ち、山の自然は守られた…??もっとよく分からんだろうなあ。
 詳細な試合内容についてはぐりふぉんさんのブログがそれこそ神業的なレポを書いてくれてますので、そちらに譲ります。あとextreme partyさんの観戦記もいつもながら秀逸(私もずいぶんと写り込んでますね)。ま、この近未来原始的芸術興行は、今月25日にSAMURAIの「DDTドラマチックファンタジア」の中で放送されますので、それをご覧になるのが一番良いかと。実況と解説も最高に面白かったので。
 まあ、とにかくこういうことを企画するやつがいて、それをしっかり受けて神的な興行に仕上げるプロの選手たちがいて、それをこんなところまで観に来るファンたちがいる。これってとんでもなく幸せなことですね(フツーの市民生活を送ってる人には理解できないかもしれませんが)。
 そこに家族で参戦する(そう結構いろいろな攻撃に巻き込まれましたので、まさに参戦でした)家族もそんなにいなかったと思いますし、子どもそっちのけで選手を追いかけてしまい、子どもを山中で迷子にさせる親もそんなに…というかウチ以外いなかったでしょう(すみません、優しいお兄さんお姉さんがた。子どもを保護してくれてありがとうございました)。
 いやあ、バカって素晴らしいですね。つくづくそう思いました。バカじゃないと新しいことはできません。破格なことをするヤツが集まらないと、新しいものは生まれません。今回そういう場にいられたことを幸せに思いますよ、まじで。
 で、こういうことを企画した馬鹿者たちは、私の自慢の教え子です。今日はお笑いトリオ時代のもう一人の教え子も手伝いに来てまして、懐かしい再会もできました。そうなんだよなあ、今回選手とバーベキューした所って、十数年前高校生だった奴らとキャンプしてどんちゃん騒ぎした、まさにその場所だった…あの頃はオレも独身でもっとお馬鹿だったよなあ…。
 彼らそれなりに忙しそうにしてましたので、あんまりゆっくり話ができませんでしたが、まあいつまでもお馬鹿でいてくれ。そして、このイベントを毎年開催できるよう、今回の反省に基づいてより一層の努力を願いたい(たぶん反省も努力も苦手だと思うけど…笑)。応援するよ。
Uni_1457 そして、このとんでもない企画を受けてくれまして、実際とんでもない神興行に仕上げてくれたDDTの皆さんには、心から敬意を表したいと思います。おそるべきプロ根性を見せてくれました。環境とルールを活かしきり、すさまじいばかりの即興的構築力で作品を作り上げる能力は、これは冗談抜きでアーティストとしてとんでもない領域に入っています。これは高度な演劇であり、舞踏であり、音楽であり、スポーツであり、まさに総合芸術、いや本当の総合格闘技であります。
 こうやって自然や人と戯れること、レッスルすること、これは本来なら世の少年たちが皆経験するべきことですね。山や野原を駆け回り、泥にまみれ、橋の上から川に飛び込んだり、わざと崖を転げ落ちたり、花火で戦争したり…基本的に自分も人も自然も(それほど)傷つけずに「遊ぶ」のです。そういう人間として非常に根源的な部分での記憶を呼び覚まされる試合内容でしたね。
 あと驚くべきはですね、選手のスケジュールです。高木三四郎社長は試合後すぐに愛知に飛びました。今日の夜、愛知で行われる「愛プロレス博2008 絆〜KIZUNA〜」で試合をするためです。あれだけハイテンションかつハードなプロレスをしたのち、移動して「普通の」プロレスするんですからね。渋滞に巻き込まれつつなんとか試合には間に合ったようで、まあとにかくお疲れさまです。
 飯伏幸太選手はですねえ、わかる人はわかると思うんですが、なにしろ昨日武道館のノアの興行で素晴らしい神試合をしてるんですよね。結果は負けましたが、最も武道館をわかせた男と言っていいでしょう。そして技能賞を獲得。そんなメジャー・イベントで何万人もの人を感動させて、翌日道志村のキャンプ場ですからね。素晴らしすぎます。ちなみに明日はDDT主催のSEMで再びメジャーな闘いをします。偉いなあ。さすがプロレス界の宝。プロレスの申し子です。
 アントーニオ本多選手も明日SEMのメインをつとめますね。今日自然の洗礼を受けて頭部からかなり流血してましたけど、大丈夫でしょうか。
 私なんて、たった二日間キャンプ場を巡っただけでもうクタクタなのに、レスラーの方々はホントにすごいっす。どんな状況でも、そこにいるお客さんのために最大限のパフォーマンスを提供する…まさにプロの仕事ぶりですよ。私も自分の仕事に関してはプロのはずですが、とてもここまでできてませんよ。う〜む反省、反省。
 さて、試合後、選手の皆さんとバーベキューを楽しみまして、いろいろな選手やファンの方々、そしてリングアナウンサーを務めたRマニアのしゅく造めさんらとお話をしました。皆さんいい意味で狂ってて実に楽しかった。
 アントーニオ本多選手とマッスル坂井選手は二人とも、ウチの娘をつかまえて「本当のお父さんのところへおいで」と言いいながら写真を撮らせてくれました。私…すなわちニセのお父さんがシャッターを押すという妙な状況に、娘たちはなんか混乱してましたね。苦笑しておりました。
 飯伏幸太選手はもちろん大人気です。ほとんど肉や野菜を食べるヒマがないほど、いろいろな人に写真撮影をせがまれてましたが、本当にイヤな顔一つせず、実にさわやかに、そして謙虚にリクエストに応じていました。あの「心」が素晴らしいですね。本当にプロレスを、そしてファンを愛しているのだなあ。なんか小橋建太選手と重なるものがあります。まさにプロレス界の宝です。
 最後にそんな思い出のスナップをちょっと載せておきますね。カミさんも憧れの選手たちとの記念撮影に大興奮。
 ああ、楽し過ぎた。ホント生きてて良かった、いろんな趣味を持ってて良かったと思う二日間のキャンプ場イベントでした。やっぱり「縁」は素晴らしいし、そして「生」はいいなあ。皆さんと同じ空間、時間を過ごし、ともに生きる。一緒に大きな波を作る。これこそが人が生きている喜びですね。みんなありがとう!

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Uni_1465

Ibushi

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2008.09.06

キャンプ場パフォーマンス・フェス

Uni_1441 て、我が家にとってとんでもないスケジュール&内容のキャンプ場イベント2daysの始まりです!
 まずは1日目…とは言っても、今日のキャンプ場イベントは夜10時からでして、それまでも家族全員大忙し。私はオープンスクールで一仕事。上の娘は運動会。カミさんと下の娘はその応援です。カミさんは役員なのでまた忙しそう。
 で、それらが無事終了したのち、御坂を経由して旧芦川村(現笛吹市芦川町)のキャンプ場へ向かいます。先日のSLS 2008 in 山中湖で一緒に盛り上がった方々と合流いたしまして、向かいましたのは6月にお世話になりましたすずらん荘のキャンプ場です。今日はここで夜通し音楽(その他)イベントが行われるのです。私もどういうご縁からか、こちらのイベントに招待されまして、ヴァイオリンを持って参戦することとなりました。
 このイベントはある意味ほとんどシークレットという感じですね。いちおう、山梨を中心に活躍している様々なジャンルの若手ミュージシャンたちが集まって、それぞれ演奏したり、ジョイント・セッションをしたりという趣向のようです(実はよくわからない状態で参加していたのでした)。中心になっているのは、ファイヤーパフォーマンスの和火の方のようです。
 深山の中ですので、たしかに音は一晩中出し放題でしょうね。懐中電灯がないと移動すらおぼつかないような暗闇の中、会場には手作りのステージや照明がしつらえられており、案外多くの人たちが集っておりました。みなそれぞれのスタイルでまったりした雰囲気。
Uni_1425_2 オープニングから1時間以上、熱く魅力的な演奏を繰り広げたのは、あの前田タクヤくん(レミオロメンの前田啓介くんのお兄さんですね)が率いるユニット「風カヲル時」。純和風ジャズを標榜するだけあって、まずは尺八、ピアノ、和太鼓(&ドラムス)という組み合わせに新鮮な驚きを覚えます。
 和風などこか懐かしいメロディーと音色でありながら、ハーモニーやリズムはなかなか複雑な作りになっており、たしかにこれはジャズと言えるなという音楽性。なんといっても、キャッチーかつダンサブルで、すぐにオーディエンスがその世界に入っていける、そして一緒に音楽の波を作っていけるのがいい。好きなタイプの音楽ですね。
 今月の24日に甲府桜座で行われるライヴのプレ・演奏会といった感じで、内容もたっぷり、演奏のクオリティーも大変高く、タダで聴かせてもらってなんか申し訳ないくらいでした。身内のライヴということもあってか、タクヤくんのMCも絶好調で、実に和やかな楽しい雰囲気でイベントは幕を開けました。
 その後、ブラジルやアフリカ、そしてオーストラリアなどの民族楽器が登場したり、カポエラや各種ダンスなどの身体表現、そして和火の皆さんのファイヤー・ダンスが披露されたり、とにかく楽しい楽しい。お客さんたちも飲みながら踊る踊る。ふだん10時には寝る私にとっては、かなりきついイベンでありましたが、だからこそハイテンションになってしまったのか、しまいにはたまたまあった一斗缶を頭にかぶって木の枝で自らの頭を叩くという荒技でステージに乱入してしまいました。ああ、何やってんだ…オレ(とカミさん)…いい歳して(笑)。
Uni_1443 もう0時過ぎると私にとっては起きる時間の方か近い時間帯になります。そして買って行った日本酒4合瓶がもうすぐ空になるという時に、ようやく私の本来の出番がやってまいりました。危険だ。みんなで自由にセッションということになりまして、ディジュリドゥーやパーカッションの方々の演奏にヴァイオリンで参戦。正直酔っ払いつつ寝つつですので、何をやったか全く覚えていませんが、ただ楽しかったことはたしか。
 ううむ。なんか朦朧とした頭と体で感じたことなんですけど、久々に音楽の本来のあり方を見直したような気がしました。そうです、いつかも書きましたけれど、本来音楽というのは、演奏者と聴衆の双方によって作られていくものなんですよね。行儀良く座って静かに聴いている(あるいは眠っている?)演奏会というのは異常事態です。演奏者を囲む人々の行うべきことは、「囃し」なんですよね。演奏にインスパイアされ、踊り歌い叫び手を打つ。それが演奏者に対する「囃し」になる。そしてさらに演奏の熱が上がり、それをまた人々を興奮させ…そういう双方向性、インタラクティヴなエネルギーの流れこそ音楽の本質だなあと思いました。
 あと、やっぱり即興演奏の面白さですね。何もないところから、お互いの目を見ながら、空気を読みながら、そしてあの自然の息吹を感じながら音を互いに積み重ねて行く。これは実に面白いし、エキサイティングですよね。なんか楽譜を見てみんなでガツンと合わせるよりも、ずっとリズム的にシンクロ度が高いですね。当然といえば当然ですけど。
 私が弾いた最後の方では、和火のファイヤーパフォーマンスも加わりました。やっぱり火は人を興奮させますね。まさに「ファイアー!!」っていう感じを、久々に味わいましたよ。楽しかったあ。
 一緒に参加した仲間の皆さん、誘って下さった方々、すずらん荘の皆さん、本当にありがとうございました。そしてお疲れさまでした。また来年も是非!次も呼んでもらえるかなあ…。

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2008.09.05

圧力IHジャー炊飯器 「おどり炊き」 (SANYO)

51ple97ktgl_sl500_aa280_ の前の洗濯機に続きまして、炊飯器を買い替えました。以前使っていた謎の製品「チャル釜」はまだ使えるんですけど、どうも最近挙動不審でして、毎日使うものですから修理にも出せず、結局こういう形になりました。
 で、今回は謎の外国製ではなく、圧力炊飯器の老舗メーカーSANYOさんの「おどり炊き」です。また三洋かと思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。いや、ホント単純に一番安いのを買っているだけです。いつものとおり、ある程度発売から時間が経ってロットを重ね、製品が安定し、まあまあ評判の良いものを選んでいるだけです。ちなみに今回は送料など全て込みで15981円でありました。チャルが25000円くらいしたことを考えれば、ずいぶんと安い買い物でした。
 チャル釜は6合炊きでしたが、こちら5.5合。実際6合も炊く機会はありませんので問題はありません。サイズ的にだいぶ小さくなったのでスペースに余裕ができました。
 とにかくここは富士山の標高1200メートル地点ですから、圧力は必須。96度ではホントまずいご飯になってしまいます。チャルガマは結構過激で、たしか117度まで温度が上がる作りになっていました。こちら「おどり炊き」は105度ですから、かなり落ち着いた感じですね。なにしろチャル釜はすごかった。あの炊き上がりの水蒸気爆発のような「シューーーー!!」という雄叫びは、たしかにずいぶんとプレッシャーをかけていたな、という感じでした。いや、実はそれが時々鳴らなくなってたんですよ。ちゃんとメインテナンスしてないから、どこか詰まったんでしょうかね。なんか、あれがシュー!と言わないと、山体爆発しそうな気がするんですよね。怖い怖い。
 なんでも、「おどり炊き」は炊飯中に圧力を変化させるそうで、それでお米が釜の中で踊るように循環するんだそうです。それでこういう名前になったらしい。
 さてさて、肝心の炊き上がり具合ですが、うん、非常によろしいと思います。チャルはちょっとモチモチしすぎた感じがしましたけど(それはそれでおいしかったが)、こちらはツルッとした食感で、とても丁寧に炊いたなという感じ。なんとなくお国柄が出ているような気もします。
 味わいもなんとなく繊細な感じでして、同じお米でもこうも違うかと思うほど。ほかの国内メーカーの圧力炊飯器は試したことがありませんから、比較はできませんが、さすが圧力の老舗という感じはしますよ。
 取扱いも簡単ですし、デザインもまあまあ、フタの開閉が少し重い感じですが、許せる範囲内かな。チャル釜のように、普通の圧力釜の代わりに煮物をしたりはできませんけど、ご飯関係の応用モードはそこそこ充実しています。今回はしっかりメインテナンスして、長く愛用したいと思います。

Amazon 圧力IHジャー炊飯器 ステンレス3層厚釜 <おどり炊き>

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2008.09.04

10cc 『I'm Not In Love』

10cc こちらで少し(かなり)ふざけて紹介した10ccの「アイム・ノット・イン・ラヴ」。このとんでもない神曲誕生の秘密に迫る、BS-iの「SONG TO SOUL~永遠の一曲~」の再放送を観ました。ものすごく面白くエキサイティングで、時も忘れて引き込まれながら、「うわぁ」とか「なるほど」とか「どぇ〜」とか、たぶん声を上げていたと思います。
 この「アイム・ノット・イン・ラブ」は1975年の発表ですから、もう33年も前の曲なんですね。とてもそんなふうに聞こえません。後にも先にもこんな曲はないでしょうね。おそらく私自身にとっても、あらゆる音楽の中で最も好きな曲の一つであり、最も多く聴いてきた曲でもあるでしょう。
 まずは皆さんも改めて聴いてみて下さい。

 う〜む、奇跡的な音楽だ。いったいどういう発想でこういう曲が生まれるのか。本当に私は30年以上不思議に思っていたんです。コード進行、メロディー、アレンジ、歌詞…。その秘密の一端が今夜明かされました。
 やはりこの曲の裏には、他者との「縁」と奇跡的な「天啓」があったのですね。作った本人たちも驚くような「とんでもない曲」ができてしまったと。「怪物(monster)」が生まれてしまったと。
 その秘密を一つ一つ書くのは無理ですが、もし興味のある方はこのサイトをご覧下さい。ほとんど番組の内容と同じことが述べられています(英語ですが)。
 番組内でエリック・スチュワートがまとめたところによりますと、ポイントは次の3点だそうです。
1 歌詞が逆説的に愛を表現している点
2 バッキングが「声」である点
3 テープループを使った点
Es この曲を聴いて多くの天才ミュージシャンから電話がかかってきたと言います。右の映像でエリック・スチュワートが挙げているだけでも、ロイ・ウッド、エルトン・ジョン・ポール・マッカートニー…彼らが口に揃えて「自分が作りたかった」と言ったとか。す、すごすぎる…。
 エリック自身も「イマジン」「イエスタデー」「ユア・ソング」などと自作を並べて、「宝石」だと言っています。「あれは一度きりのことなんだ」と。やっぱり奇跡だったのですね。
 で、私は知らなかったのですが、あの曲、もともとはサンバっぽいアレンジを施されていたんですね。今回、エリックが再現したそのラテン・ヴァージョンがなかなか良かったので、特別にmp3を置いておきます。
 I'm Not In Love ラテン・ヴァージョン
 それにしても、あのテープループ(メロトロンではない)の「声」はいいなあ。デジタルでは絶対に出せない。番組で、メンバーが長〜いテープをみんなで持って張って再生した様子が語られていました。ものすごくアナログな、人間的な作業だったようです。そして、失敗が許されない一回性。現代の機器から生まれない「心」がそこにありますね。スタジオ・ワークもまたライヴだったんだなあ、あの時代は。
 あと、あのエレクトリック・ピアノの音ね。ムーンライダーズの鈴木慶一もあれを再現しようと頑張ったことを回顧してました。Rhodesでしょうね。あれこそデジタルでは出せない音です。同番組で以前紹介されたスティーヴィー・ワンダーも愛用していました。なぜかサンプリング音源だと今一つあの味が出ないんだよなあ…1台買おうかな。
 なお、10ccというバンド名の由来、やっぱりあの説はガセでしたね。

Amazon オリジナル・サウンドトラック

SONG TO SOUL~永遠の一曲~ 公式

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2008.09.03

『死刑』 森達也 (朝日出版社)

人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
25500412 画しておいた『未来への提言「思想家 ノーム・チョムスキー ~真の民主主義を育てる~」』を観ました。いつのまにか言語学者じゃなくて思想家になってしまいましたね。ま、言語を研究しているとそうなるんでしょう。鈴木孝夫大明神も自称哲学者になってますし。私もどっちかというとそういう路線を歩んでいるような…レベルは違いますけどね。
 さて、現代最高の英知はどのようなことを言っていたのでしょう。それと今回のテーマ「死刑」とどういう関係があるのでしょう。
 言うまでもなくチョムスキーは反戦思想家として大きな影響力を持っています。真の民主主義を目指すためには、どうしても避けて通れないのが戦争という事実なわけですね。9.11に対する報復戦争と言ってよいだろうイラク侵攻について、講演やインタビューでいろいろと語っておりましたが、その中で印象に残ったのは、次の言葉です。
「人に課す基準は自分にもあてはめられなければ誠実とは言えない」
 なるほど。とてもシンプルな理屈ですね。たしかに民主主義の基本とも言えましょう。
 で、私は彼のように頭がよくないので、ちょっと、というか、かなり乱暴にものごとを見てしまいますが、お許しを。
 つまりですね、私は、死刑の問題は戦争の問題と非常に似ている、と常々思っているんです。それこそかなりおおざっぱな思考ですけれど、9.11のテロとイラク侵攻の関係が、個人による無差別殺人とその代償や報復としての死刑の関係と似ているというわけですね。
 戦争に関しては、チョムスキーの考え方に賛成ですので、結果として私は死刑廃止論者ということになりますね。そう、天才的なレベル、すなわち理論も情緒も超えたところでの思考(…私はそれはできませんが、なんとなく想像はできます)では、これはもう当り前に両者ともあってはならないことだと思います。私は非常に単純な思想家(?)ですので、捕食意外の目的での他者の生命を奪う行為、それも同種どうしでの殺し合いなんていう、動物でもしないことをするのは、やっぱり天の理に照らしておかしいと思うわけです。
 でも、どこかで戦争も死刑もあってしかたないかなとも思っている、まあ天才ではない一般人の自分もいます。おそらく、これは、それこそ天才でない一般人の「思考」の結果だと思います。
 チョムスキーも番組の中で言っていましたが、知識人というのはとかく右寄りになりやすい、つまり国際問題においては右、もっと個人的に言えば利己的になりやすいということでしょう。
 で、知識人がメディアでそういう姿勢を見せますから、我々凡人、一般人はさらにそっちに傾く。つまり、理性は他人の情緒をコントロールできるわけです。その事実が、戦争の問題、死刑の問題にも大きな影響を与えていると思うんですね。
 ですから、この本で森達也さんが「理性」や「常識」や「情緒」や「感情」や「思想」や「(当事者の)現実」といった、様々な角度から「思考」してもですね、私自身としては結局何も変わらない気さえしてしまうのです。
 森さんがおっしゃるように思考停止が一番いけないのかもしれません。しかし、知識人や一般人がそのレベルで思考しても、結局戦争と同様に人間の愚行である死刑はなくならないでしょう。では、思考しない方がいいのか。それはわかりませんが、愚者が思考することによって生じる過ちもあると思います。
 どう考えても、その愚行(どんな理由があっても人殺しをすること)は間違っています。その大前提は、私は絶対に揺るがないと思っています。そこはチョムスキーといっしょかもしれません。では、なぜ、我々がみんなで思考した結果が、それに反することになるのか。その理由を考えることの方が、個々のケースを考えるよりも、実は重要なのかもしれません。
 この本は、停止した思考を再稼働するためには、たいへんに素晴らしい本だと思います。みな迷うでしょう。迷うことは思考そのものです。しかし、一度、本当の原点に帰ってみて、なんでこんな自明なことを迷うのか、ということにも悩んでみるべきなのではないでしょうか。そんなことで迷っているのは、おそらく人間だけでしょうから。
 「人に課す基準は自分にもあてはめられなければ誠実とは言えない」…こんな簡単なことさえできず、どちらかというと、「自分にあてはまることを人に課す」ことばかり考えている人間とは、なんとも救いようのない存在です。

Amazon 死刑

楽天ブックス 死刑


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2008.09.02

『ラジオ付き ウォークマン  WM-FX202』 (SONY)

51fk0h0n02l_sl500_aa280_ 日ちょっと書きました、カセットテープの件です。
 自分でもちょっと哀しくなっちゃうんですが、昔あんなに録りためて、そして大事に大事にしていたカセットテープたちが、今や地下室でカビにまみれて眠っています。
 世の中のデジタル化の波に、最初はちょっと抗ってみたものの、結局はそれにすっかり流されて、いやそれどころか積極的に乗っかってしまい、なんとも味気ないオーディオ生活を送っている私です。
 真空管アンプやバスレフスピーカーを自作したり、ラジカセを分解してバイアスの可変抵抗を見つけ、テープの音質を変えたり、憧れのレコード針に大枚をはたいたり…いったいあの頃のあの熱意はなんだったのでしょう。本当の音楽からすれば、オーディオはにせものに過ぎないはずですし、ある意味デジタル・オーディオの方が、ずっと本物に近いはずなのに。
 で、厖大なカセットテープ資産が聴かれないまま眠っているのはもったいないし、実際そろそろ久しぶりに聴いてみたいという欲求も出てきまして、それで生まれて初めてカセットテープのウォークマンというものを買いました。ウォークマン誕生からほぼ30年目ですね(DATウォークマンは持ってました)。
 前の記事にも書きましたように、ウチにはラジカセやカセットデッキやその他カセット再生機がそれぞれ複数台あるんですけど、どれもなんらかの故障をかかえており、また、今や車にもカセットデッキが装備されていない時代になってしまって、ここ数年本当にカセットテープを聴く機会がなくなっていたんです。そんなわけで、カセットテープ資産を改めて聴く、あるいは必要なものはデジタル化して保存する(これもまたなんだか胡散臭いというか頼りない作業ですが…)ために安い再生機を買う運びになったわけですね。
 考えてみれば、当時はノーマル (TypeI/NORMAL)、クローム/ハイポジション (TypeII/CrO2)、フェリクローム (TypeIII/Fe-Cr) メタル (TypeIV/METAL) という4種類のテープを使っていましたし(私はFe-Crの大ファンで、各社のものを集めていましたっけ)、ドルビーもBやらCやらSやらいろいろ使ってましたので、本当はそれら全てに対応する機器を買わないといけないんですが、今どきそんなものはありません(たぶん)。第一予算がないので、そのあたりはまあ気持ちで(!?)対応、あるいはパソコンで対応するとして、まずはそこそこの音質で聴けるものをということで、このウォークマンを選びました。
 てか、一番安いのを買ったんですよ。有名メーカーで一番安いヤツ。なにしろ3500円ですから。昔なら一ケタ違ってたでしょうなあ。AM/FM/テレビ(1〜12チャンネル)の3バンドに対応したシンセ・チューナーも搭載してこのお値段ですからね。考えてみるとウチには災害時用のポータブル・ラジオがなかった。そういう時のための乾電池仕様のラジオを買ったと思っても、まあかなりお安いと言えるでしょう。なんだかすごい時代になりましたね。
 音質もなかなかいい。全然問題ありません。MEGA BASSという低音強調機能もなかなか強力です。邪道と言えば邪道ですけど、今風な音作りを楽しむには便利ですね。ラジオの感度もなかなかよく、ここ富士山でも東京のテレビの音が聞けました。ま、2011年には聞けなくなるんでしょうが…。
 で、さっそく30年前のカセットとかを聴き始めてるんですが、ううむ、懐かしいというか、逆に新鮮というか、こりゃあたまりませんねえ。ほとんどがFMをエアチェックしたものですから、また懐かしいじゃありませんか。ロックにバロックにクロスオーバー(!)。なんだか怪しいAM番組や短波放送、そしてテレビのスピーカーの前で録音したもの。お風呂場でレコーディングした自分の下手くそなヴァイオリン。生録した自然音。大学の学園祭の音風景…。
 いやあ、映像とは違う感慨がありますねえ。思い出というのはどんどん朧化して美化されていくものですから、実はあんまりリアルに(たとえばビデオのように)残っているのは、問題なんですよね。昔のように写真という静止画や、8ミリという音がない動画や、カセットという映像のない音で残すくらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。あるいはもっと古典的に文字で残すとかね。
 そう考えると、どんどんコピーでき、理論的には劣化しないで保存できるデジタル技術というのは、人間の本質的な性質であり、かつ強力な武器である忘却(美化)にとって、実は敵対する技術なのかもしれませんね。つまりモノ的無常に対するコト的指向の産物であり、ワタクシ的に極論してしまうと「もののあはれ」を直視しないオタク的技術なのでした。

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2008.09.01

福田首相電撃辞任(福田劇場も放映打ち切り)

20080902k0000m010167000p_size5 年前の5月、この不二草紙本日のおススメが始まって数日後、福田さんが突然官房長官を辞任しました。その時のことを私はこんなふうに書いていました(当時は文が短くていいな)。「自爆テロ」「特攻隊」「引責割腹」「小泉さんの最終兵器」などと、まあずいぶんと荒っぽい言葉を使ってますね。今回は何と表現しようかなあ。
 そうそう、昨年の安倍さんの突然の辞任についてはこちらです。「安倍劇場放映打ち切り」「ドタキャン辞任」「バックレ辞任」「登校拒否辞任」「石坂浩二」とか、こっちはもっとひどい(面白い)こと書いてます。結果としては「旧助さん」が黄門様に昇格したということですね。そしていよいよ「うっかり八兵衛」の登場ですかね。
 福田さんの総理就任のことはこちらに、これまたかなりふざけて書いてます。何しろNEOの一部として観てますからね。でも、そこで書いている「だめキャラ」「萌えキャラ」「一見まじめキャラ(でも実は…)」というのは、まあ当たってると思いますね。まさかあれから1年で福田劇場も放送打ち切りになるとはなあ…。
 今回は「逆ギレ辞任」なのでしょうか。「私自身は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです…」この捨てゼリフは実は名言でしょう。中国新聞記者という一個人に向けたこの言葉で福田劇場が終わったというのには、どういう意味があるのでしょうか。
 もちろん、これは記者が最後に福田さんの本音を引き出してしまったわけで、まあ、福田さんとしては、野党はですね、これは当然そういう立場だからいいとして、身内というか、はっきり言っちゃうと公明党というか学会が影でジワジワいじめるから、もう、いよいよ爆発しちゃったと。「お前らこそひとごとじゃねえか!」「文句あるなら、お前らやってみろ!」って。だから「あなた」とか、その裏の「お前ら」というのは、一記者とか記者たちという意味ではありませんね。
 ですから、最後ああいう形で捨てゼリフが言えたのは、福田さんにとっては良かったことだと思いますよ。安倍さんとの違いを強調して終わったのでは、なんとなく淋し過ぎます。あの啖呵というか、最後っ屁というか、捨てゼリフの真意を、我々は読み取らなければなりません。単なる「逆ギレ」ではないととらえるべきでしょう。
 番組としては、スポンサーが物申してきたということです。厖大な票を提供してくれている大企業が、「主役交替しないとカネは出せない」と言いはじめたんですね。政治も結局経済の論理で動いているわけですよ。
 それにしても、こういうことが二度続けてありますと、子どもの教育によくありませんね。いやになったらすぐに投げ出す。いろいろ理由をつけてやめちゃう。それも一国の長がそれをやっちゃう。それもけっこう突然やっちゃう。で、その裏ではジワジワネチネチ陰湿な「いじめ」が存在する。裏にヤクザの総元締めみたいなヤツがいて、表向きにはわからない強大な力でいろんなものを操っている。教室内と同じじゃん。
 そうしますとね、文学的に言えばですね、「私自身は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです…」という言葉、これは反語表現かもしれませんね。「私は今、とっても主観的になっています。あなた(たち)と同じです。私も人間なんです。無感情な傀儡じゃありません」。
 さて、次はいよいよ麻生さんでしょうかね。皇室とも近く、元オリンピック選手としてスポーツ界にも影響力が強く、さらに最近ではアキバ系(オタク系)からの支持も得ているということで、旧来とはちょっと違うある意味現代的な支持基盤があるような気もします。ゆるいカトリック信者というのも、案外日蓮系や神道系との直接的な対立を避けるにはいいのかも。学会との関係がどうなっているのかは、よくわかりませんけど。
 こうなると麻生太郎主役の秋の新ドラマを観てみたいような気もしますね。いや、いっそのこと「お銀」政権がいいかも。な〜んて、まあ、国民(私とあなたとお前ら)がこんな調子じゃあ誰が何やっても変わらないのかもなあ。

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