« 芥川龍之介と富士山 | トップページ | 『スーパーライブ Dragon Ash〜10th Anniversary〜』〜World Premium Live(NHK BS2) »

2008.08.22

『幸せって、なんだっけ 「豊かさ」という幻想を超えて』 辻信一 (ソフトバンク新書)

79734344 らっと読むにはいい本ですね。最近私が思っていることを書いてくれています。
 私がこのブログでとりあげてきた、ブータンの国民総幸福ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」シューマッハの仏教経済学などがどんどん登場します。
 カネにまみれた成長一本やりの経済が、人を幸せにするどころか不幸せにしているということですね。
 人間、貧すれば鈍する、というのもたしかにあります。生命の維持に支障があるほど貧困であると、人間はあくどくなります。しかし、必要以上に物質的に豊かになりますと、これまた人間はあくどくなるんですね。
 実は理想的な生活というのは簡単でして、つまり分相応に中庸に安住していればいいんですよ。でも、その感じが難しい。本能として、現状に満足せずもっともっと(more)を求めてしまう。人間の脳はそのようにプログラミングされていますから、それに対抗すべく意識しなければならないんですよ。それはある意味苦行です。本能に抗するわけですからね。
 私がシューマッハの考えに同調するのは、その、本能に抗する手段として、究極の智恵を用いようとしているからです。と言いますか、それしか方法がないと考えているからです。
 お釈迦様は最高の経済学者でもあるわけですね。人間を堕落させない「経済」…すなわち「経世」しつつ「済民」する方法は、煩悩を滅却することしかないんです。集団としての人間と、個人としての人間を同時に救う方法は、つまり「悟り」しかないと思うんです。
 社会主義経済も、資本主義経済も、科学も宗教も戦争も、結局「利己」を助長させるだけでした。もう正直、凡人の智恵ではどうしようもありません。
 だからこそ、最近悩むんですよね。たとえば辻さんも、お釈迦様に比べたら、そりゃあ凡人でしょう。私ももちろんそうですし、シューマッハだってそうです。理屈としてはわかるし、言葉の上では、あるいは個人的な行動としては、まあいくらでも「利他」や「知足」や「感謝」や「報恩」や「慈悲」を叫ぶことはできる。でも、それがやはり人間全体に広まらないとダメなんですね。
 社会主義も資本主義も、結局は人間のある種の「欲望」「煩悩」を糧に世界に広まりました。しかし、第三の経済である仏教経済にはその「欲望」と「煩悩」がありません。ですから、急速に世界に広まる可能性がないんですね。
 そうしますと、結局は人間それぞれが新たなステージに進化するしかないんです。でも、それって、みんなが解脱して悟りを得て仏陀になるということであって、これはやっぱり無理ですよね。とりあえず当面無理そうです。
 理想はわかっていてもどうしようもない自分がそこにいるのが苦しいのです。もういっそのこと、欲望や煩悩や快楽にまみれて生きてやれ!とか思いたくもなってしまう。でも、きっとそれはものすごく虚しいことにもなりそうで、そんな予感がするものですから、そこに耽溺する勇気も出てこない…。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、今まで人間は自分の思い通りになる「コト」を追求しすぎた、これからは思い通りにならない「モノ」にこそ豊かさを感じるようにならなければ、ということです。もちろん、ここでの「モノ」は、たとえばこの本での「モノ」、つまり物質とか商品とか、そういうモノとは違います。自分の外部や不随意や無常を表す「モノ」です。いつも言う「もののあはれ」ですね。日本人は「もののあはれ(不随意、無常、不足へのため息)」に美学を見出すことのできる稀有な民族です。ですから、今のこの狂った状況から本来の姿に帰ればいいのかもしれませんね。しかし、グローバリズム(アメリカニズム)の進行した現代では、それも難しい…。
 いや、かといって人間に可能性が全くないとは言いきれません。シューマッハは『スモール・イズ・ ビューティフル』の中で「仏教抜きの経済学は愛のないセックスです」と言っています。これは面白いですね。ナイスなコメントであり、シャレであり、比喩であります。そして重い言葉です。
 愛と快楽とが高い次元で統合されることがあるのか…これは人類の永遠のテーマです。しかし、この万人に共通する営みが、ある種の可能性を持っていることは、それこそ万人がその営みの中で実感していることでしょう。おそらくはそうやって我々人類は脈々と続いてきたのでしょうから。
 それと同様な可能性が、経世済民とカネの間にあり得るのか。私たちは壮大な、そして崇高な、しかし実に危うい実験を、日々行っているのかもしれません。

Amazon 幸せって、なんだっけ

楽天ブックス 幸せって、なんだっけ

不二草紙に戻る

|

« 芥川龍之介と富士山 | トップページ | 『スーパーライブ Dragon Ash〜10th Anniversary〜』〜World Premium Live(NHK BS2) »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

モノ・コト論」カテゴリの記事

コメント

前略 蘊蓄庵御亭主 様
さて・・・笑。
一番最初の書込みの時 一旦
蘊蓄庵御庵主様としましたが
何となく尼僧様のイメージが
あって 御亭主様といたしました。笑
人間にはイメージがありますね。
新品の便器なら・・・それに
御飯を盛って食べても平気なので
すが・・・・。笑
誰しも「貧乏」は嫌なイメージが
ありますね。
愚僧も貧乏は大嫌いです。笑
愚僧とは大違いの名僧
一遍様は・・・尊い御方様です。
捨て聖(ひじり)であられました。
物欲を捨て去る日暮。
「自ら求めた貧乏」は まさしく・・・
「清貧」ですね。
物が溢(あふ)れる現代。
愚僧も当然 物凄い「物持ち」です。笑
「ひとつ」 何か買ったら・・・・・
出来るだけ「ふたつ」不要な物を
処分するようにしています。笑
高価な品だけが残ればいいのですが・・・
なぜか「ガラクタ」が増えています。
「ガラクタ」には捨てがたい魅力が
あるのです。笑
「自分自身」を捨てさることができない愚僧。
愚僧自身が・・・・愛(いと)おしい
捨てがたい「ガラクタ」の「ひとつ」なのです。笑
煩悩まみれの自分。
「ガラクタ」な自分。
「ガラクタ」のイメージを変えてみる。
もしかすると・・・・
その「ガラクタ」の中にこそ・・・・
「しあわせ」のかけらがあるのかも
しれません。 
合唱おじさん 拝


投稿: 合唱おじさん | 2008.08.23 16:54

前略 【蘊恥庵御亭主】様
いよいよ惚(ぼ)けてまいりました。笑
蘊蓄庵御亭主様×
蘊恥庵御亭主様◎
謹んで訂正させていただきます。
甲骨× 恍惚の愚僧 合唱おじさん 拝

投稿: 合唱おじさん | 2008.08.24 06:54

おはようございます。

目に見えない、例えようもない幸せな気持ち、
身に余るような恵み、
到底お金には替えられない、心が潤う瞬間を
この数年で度々感じております。

生きていれば辛いこともありますが
すべてはプラスになるような、漠然とですが
そう思えます。

人と人とのつながりなくしては得られなかったことと
心から思います。
おかげさまです!
庵主さんに感謝してます!

投稿: くぅた | 2008.08.24 09:51

合唱おじさん様、こんにちは。
いつもありがたいコメントありがとうございます。
なるほど、自分が一番捨てがたいガラクタですね。
先ほど出先から帰ってきましたら、ウチの黒猫の誰かが大事な「物」におしっこをしていました。
大切なガラクタだったのですが、とってもくさいので泣く泣く捨てることにしました。
お猫様に感謝です。
こういうきっかけでもないと、人間はいろいろな執着を捨てられませんね。

くぅたさん、こんにちは。
私こそくぅたさんに感謝していますよ。
本当に人生の全ての出来事には前向きな意味があると思います。
そして縁ですね。
私もそんな幸せに包まれて、最近はお金にあんまり魅力を感じません。
もちろん最低限は必要ですけれど。
私にとっては皆様とのご縁こそが財産です。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.08.24 17:14

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『幸せって、なんだっけ 「豊かさ」という幻想を超えて』 辻信一 (ソフトバンク新書):

« 芥川龍之介と富士山 | トップページ | 『スーパーライブ Dragon Ash〜10th Anniversary〜』〜World Premium Live(NHK BS2) »