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2008.08.31

SWEET LOVE SHOWER 2008 in 山中湖

0808311 中湖のきららで行われたスイートラヴシャワー2008の二日目に行って参りました。昨日の、半分あの世の音楽に比べますと、かな〜りこっち側の音楽。本当に音楽というのは幅が広いですね。そして今日もまたライヴの良さを実感。特にこうした野外フェスの素晴らしさはなにものにも代えがたいですね。
 今回はたくさん(10枚以上)チケットが取れてしまいまして、いろんな関係者に買っていただいたので、まあ賑やかかつ不思議なメンバーで参戦いたしました。会場では、いくつかのバンドの親族の方々とも合流し、再会を喜んだり、お初のご挨拶をしたり、いろいろとお礼を述べあったり…実に和やかな雰囲気。
 本日の出演アーティストは次のとおりです。

lego big morl
THE BACK HORN
the telephones
NICO Touches the Walls
SAKEROCK
奥田民生
上原ひろみ-HIROMI'S SONICBLOOM
BRAHMAN
EGO-WRAPPIN'
エレファントカシマシ
くるり
レミオロメン

 朝11時前からたっぷり10時間、どっぷり生の音楽に漬からせていただきました。
 私は基本、Mt.FUJIステージの芝生でまったりしながらの音楽鑑賞。20年ほど前の、あの一連のMt.FUJI JAZZ FESTIVALの雰囲気を思い出しながら、音楽と自然と人々を満喫いたしました。
 それぞれのバンドについていろいろと書きたいところでありますが、長くなりそうなので、特に印象に残ったバンドについて一言ずつ。
 まず何と言ってもツボにはまったのがSAKEROCKですねえ。一瞬にして会場の空気を変えてしまうあのゆるさはたまりません。楽曲のセンスは、実はなかなかのものがありますが、そこに加味されるあのハマケンの謎の言葉たちが、不思議な世界を醸し出します。途中EGO-WRAPPIN'の中納良恵が参加して披露された「スーダラ節」には正直やられました。アレンジの妙。
 案外普通だった奥田民生センセイの次、上原ひろみのバンドが良かった!すごすぎ。もともと今回のフェスのワタクシ的目玉でありましたが、期待にたがわぬ…いや全く期待以上というか、私の想定以上の音楽がそこに展開し大興奮。体が自然に動く、声が出る。完全に上原ひろみたちの音楽に操られる自分。しっかし、すごい演奏力だなあ。周囲がロック・バンドということもありますけど、あまりに突出した個人芸とアンサンブル力、アドリブ力には、もう目が点というか、心が点でした。ホントあの時間と空間だけはMt.FUJI JAZZ FESTIVALのクオリティーになってましたよ。涙が出ました。上原ひろみ、天才!すごい!
 EGO-WRAPPIN'もライヴ・パフォーマンスとしてはなかなか魅力的。中納良恵のある意味シャーマン的な声と動きに会場が揺れます。音楽的にも、ジャズ、ロック、歌謡曲のミックスされた面白さを満喫できました。多少椎名林檎、もしくはウチのバンド(?)とかぶる部分があるかな。
 エレカシはやっぱり独特の世界があるなあ。今まで特にファンというわけではなかったのですが、ついつい盛り上がってしまう自分。宮本浩次という男、やっぱり何か特別なものを持っている。同世代としてはうれしいですね。やっぱり基本が昭和です。フォークの生き残り。「エブリバデー!」っていったい何回叫んだだろう。バンド・メンバー、サポート・メンバーも渋くて巧い。
0808312 さて、今年のグランド・フィナーレは地元の雄レミオロメン。今回私は、地元御坂の皆さんと一緒に応援させていただきました。皆さんの口から思わず飛び出す「亮太!」「啓介!」「治!」の声にじーん…。この夏はオリンピック関係で何度も耳にした彼らの音楽。つまりとうとう国際的にまでなった彼らですが、基本は地元の人々と風土が彼らを支えているんですね。音楽をはじめとする芸術は、決してお金のために存在するのではありません。人と人をつなぎ、人の心を動かし、生きる力を与えるためにあるのです。そして表現する側もまた、多くの人とのつながりの中で心を動かされ、何かを生み出すのです。つまり全てが「縁」によって生じている。そして、また新しい「縁」が生まれる。
 演奏された曲はフェスらしいセレクトでしたね。ただ、アンコールは意外でした。あの滑走路ライヴの時もそうでしたが、奇跡的に雨が上がったあとの「雨上がり」。感激です。そして、最後は夏ですが「粉雪」。そう、この名曲は山中湖のスタジオ「サウンドビレッジ」で生まれた曲なのでした。「粉雪」という曲自身の凱旋、里帰りですね。まさに自然風土が生んだ名曲であることを再確認。
 アンコール前の最大の盛り上がり(であろう)「もっと遠くへ」でのチューニング・ミス、そしてやり直しは、これはまあ彼ららしい等身大の「やっちゃった」でしたね。ほほえましいシーンでした。ああいうのはなかなか体験できませんよ(笑)。私もよく本番でやらかすので、よくわかります。しかし、ローディーさんどうしたのかな…。あと、こういう場では珍しい不審者(酔客)の乱入もあったりで、まあいろいろとアクシデントはありましたが、とっても楽しいレミオロメンのライヴでありました。
 そうだそうだ、レミオロメン、10月にニューアルバム発売との告知がありました。大いに期待しましょう!
 全体にまったりと過ごすことができ、またいろいろな人たちとの会話も弾み、ついでにちょっとお昼寝もし、実に充実した1日でした。来年もまた来たいと思いましたね。近場でこういうイベントがあるというのは、ホント幸せなことであります。参戦した皆さん、そしてなんといってもミュージシャンの皆さん、お疲れさまでした。最高の夏の終わりをありがとう。

SLS公式

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2008.08.30

『第40回 思い出のメロディー』 (NHK)

080830
 年もやってまいりました、年末のテレビ東京「年忘れにっぽんの歌」と並ぶ真の歌番組。今年は40回記念大会ということで、もう言葉では表現できないほど、とんでもないことになっていました。
 まずはですね、明日(31日)15時よりBS2で再放送がありますから、ぜったいに観て聴いてください。かなりやばいっす。
 いや、ですね、今日たまたま父親が置いていったあるカセットテープを聴いたんですよ。それには3年くらい前のですね、NHKラジオ深夜便が録音されていました。なにしろ、ずっとカセットテープを聴く機器環境がなくて(昔のラジカセはことごとく壊れてるし、車にも今やカセットデッキが装備されてない…)聴けなかったんですが、さすがにそれはまずいだろということであるモノを買ったんです(そのうちおススメします)。で、それで久々にあの質感を味わった。ヒスノイズの向こう側にあるあのAMラジオの音ですよ。
 ま、そんな感慨はいいとして、そのラジオ深夜便の内容はですね、宗教学者の山折哲雄さんが紅白歌合戦や、美空ひばりについて、宗教学的に解説しているものだったんです。私もよくこのブログでそのようなこと(紅白が神事であること、ひばりが神であることなど)を語ってきましたよね。私が語るとどうも半分ギャグになっちゃうんですけど、山折先生がああやってまじめに深夜に(?)あの音質で(?)語ると、ホントもうホントらしくなるので、逆に笑えてしまいました。
 いや、もう山折さんのひばり熱は異常なほどで、淡々と語ってましたが、「悲しい酒」の涙について語る段になりますと、これはある意味オタク的でありますね。そこまで研究するか!っていう感じ(笑)。
 さてさて、話を本題に戻しますと、とにかく今年の「思い出のメロディー」は神事を超えて、もうほとんど法事寸前になってましたよ。霊界歌合戦というか、黄泉の国のど自慢というか、そうだ、この世とあの世の歌合戦だな。弔い合戦。まじでこの世とあの世をつなぐのが歌なのだなあと、つくづく思われるようなとんでもない内容でした。
 あんまり具体的に語りますと、この世でカクシャクと(?)お歌いになっていた大大ベテランの方々に申し訳ないというか失礼になってしまうので、あえて細かくは書きません。ただ、本当に私は感動したのです。いや、感動ではないかもしれない。戦慄したのかもしれない。歌好きで、いつもはこういう歌番組が始まるとついつい全曲一緒に歌ってしまい、私に「うるさい、歌手の歌を聴きたいのに!」と怒られてしまうウチのカミさんも、今日ばかりはずっと鳥肌を立て、「ねえ、なんか変じゃない?なんか画面に映ってはいけないモノが映ってない?亡霊とか…」とか言ってました。娘たちも「こわい、こわい」と言い出すし。ちなみにカミさんが一番怖かったのは、「津軽海峡・冬景色」のあるワンシーンだそうです…た、たしかに…(笑or泣)。
0808302 今回のテーマは「~歌こそ永遠の愛~」でありました。なるほどね。愛は生死を超えるんですね。愛はこの世とあの世を結ぶ。永遠の愛ということは、結局生死を超えるということですよね。無常を、「もののあはれ」を超えてしまうのが「歌」なんですね。古来、和歌などもそういう機能を持っていたわけでしょう。なるほど。
 いやあ、今年の「思い出のメロディー」についても、山折先生に語ってもらいたかったなあ。本当に久々にゾクゾクっとしましたよ。今年はお盆に放送されませんでしたが、それはある意味正解だったかも。お盆だったら、ちょっとリアルすぎますよ。
 なんとなくですが、唯一の救いは、いつのまにか実に豊満になれらた司会の松坂慶子さんの、あのアマテラスらしさでしょうか。氷川きよしという少年の神とともに、がんばって「陽」の気を発して、なんとか番組を成立させていました。GJ!
 とにかく、未見の方は明日の再放送をぜひ。

思い出のメロディー公式

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2008.08.29

「ものにする」とは…

150 日のニュースに、例の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の話題がありましたね。そのテストに関する賛否は置いておくとして、皆さんもご存知と思いますが、この面積の問題、面白い結果が出ましたね。

「約150平方センチメートル」の面積のものはどれか。
1,切手 2,年賀はがき 3,教科書の表紙 4,教室の床

 3を選んだ子どもが一番多かったとか。なんと4を選んだ子どもも全体の3分の1だったそうです。これは困ったことです…とは言いきれないよなあ。私も一瞬迷いましたから。一瞬じゃないな、5秒以内に答えろと言われたら間違えたかもしれない(笑)。
 もちろん(…と書いちゃいます)答えは2です。横約10センチ、縦約15センチですから。
 この問題、クイズとしては実に面白い問題だと思うんですが、全国テストとしては何を問う問題だったのでしょうか。
 ニュースでは、知識が実生活と結びついていないと言っていましたけど、はたして実生活で、はがきが面積150平方センチメートルであることを知ることに意味があるんでしょうか。ちょっと短絡的な解説だと思いました。
 実際はもうちょっと複雑ですよね。まず、150…と聞いて、10×15を想起しなければなりません。そして、10センチと15センチを物差しなしに想起するというのも重要な能力でしょう。そして、その長さと実生活における身近な具体的物品と結びつける…大人にとってもけっこう厄介な知的作業ですよね。
 で、これがはたして実生活とどのように結びついているのかということです。私が一瞬(?)迷ったのは、まさにこれまでの40数年の人生において、このような作業をあんまりしてこなかったからですよね。だから、あんまり安易に学習と実生活ということを言ってほしくないんです。よく言われるんですよ、現場では。あるいは現場以外では。これが何に役立つのかと。
 学問は実生活から乖離して、初めて学問と言える部分もあります。私はそう思っています。音楽とかスポーツとかと一緒です。実生活のことは家庭でやりましょうね。
 ですから、今回のこの問題は、あくまでも学問の領域において「できてほしい問題」であって、実生活においては別に出来なくてもいい問題だと思います。もし本当に心配なら、子どもの前に、大人にこういう問題を解かせてみればいいんです。それも5秒以内に解答せよと。大人なんだから。結果は目に見えてますよ。
 さて、今日の本題です。日本語に「ものにする」という表現がありますね。この表現は、さかのぼってもせいぜい江戸時代まででして、そういう意味では新しい表現とも言えます。つまり、私の「モノ・コト論」では本来説明できません。私のは中世以前の「もの」と「こと」を対象にしていますんで。
 でも、ちょっと無理矢理結びつけて考えてみますと、こんなことも言えます。
 一般的には、この問題を解けなかった子どもたちはですね、これはこの面積という概念や、面積を出す公式を「ものにしていなかった」と言われると思うんですが、私からしますと、これは「ことにしていなかった」ということになります(もちろんそんな表現はありませんが)。コトは意識下での出来事や存在、モノは無意識下での出来事や存在ですので。公式を思い出したり、計算したりするのは「コト」的作業です。
 では、この場合、「ものにしている」人はどういうことになるかと言いますと、そうなんです、計算しないで、一瞬のうちに年賀はがきと答えられるんですよ。おそらく世の中にはそういうことができる人がいると思います。何らかの事情(おそらく仕事上の必要性)から、面積の数値と実際の「広さ」を対応することを繰りかえしていて、それでもう考えなくてもできるようになっちゃっている。弁当に米飯をつめる作業を繰りかえしているうちに、一発で誤差2グラム以内におさめることができるようになったおばちゃんとかと一緒です。
 これは実は誰しもやっていることですね。歩くことも、階段を昇ることも、また車を運転することも、楽器を演奏することも。とにかく、ロボットにやらせたら(つまり全てコトで処理していったら)とんでもなく膨大な作業を要することも、人間はいつのまにか無意識のうちに出来るようになってしまう。これはすごい能力です。まさにそれは意識外の「モノ」のしわざになっていますね。
 「ものにする」の語源は、おそらく単純に「自分のものにする」であろうと思われますが、今のような考え方をすれば、また違った解釈もできると思います。
 人は何かを習得していく時、まずそれを意識的にできるように努力、訓練します。つまり「ことにする」が第一段階ですね。そして、いつのまにか無意識にできるようになる。「ものにする」わけですね。
 ああ、そうそう、般若心経を覚えるのもそんな感じでした。最初は書かれたものを見なければ言えなかった。そのうち、何々の次は何々みたいな覚え方で、いちおう見ないで言えるようなっていった。そして、今ではほかのことを考えていても口をついて出ます。
 で、たまにふと我に返ると(つまり「コト」世界に戻ってくると)急にわからなくなってしまうこともある。楽器を弾いていてもそうだな。本番で突然変な意識(コト)がやってきて、何気なく弾いていたところが突然弾けなくなったりする(笑)。スポーツもそうでしょう。面白いですね。
 とすると、結局、本当に「ものにする」には、やっぱり繰り返しの訓練、そして本番での無心が必要なんですね。ああ、私の苦手なものばかりだ(笑)。いろいろなことがなかなか「ものにならない」はずだ…。

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2008.08.28

『性犯罪の心理』 作田明 (河出書房新社)

あなたは性犯罪の実態をどこまで知っているのか?
30924393 日につづき、「女子にはわからん」お話…かな。
 大学院でこのようなことを勉強しようと企てている女子が貸してくれました。まあ、女子の立場からこういうことを研究するというのは、非常に意味のあることですが、どうしても立場上加害者を糾弾する、すなわち特定の男子の変態性、異常性欲、性的倒錯を指摘することで終わってしまうことが多いので、その点は少し注意しておきました。
 つまり、昨日のプンプンが象徴していたような、「ムラムラ」や「モヤモヤ」や「ドキドキ」といったモノノケは全ての男が共有しているものであり、決して特定の犯罪者(およびその予備軍と言われる人たち)だけが持つ特性ではないということです。
 これは、作田さんがこの本で強調していることでもあります。世の中は興味本位、あるいは被害者たる女性擁護の立場から、どうしても偏った見方をしてしまいがちです。特に報道による偏見の増長は、目に余るものがありますね。
 誤解しないでもらいたいのですが、もちろん私は犯人たちを擁護せよと言っているのではありませんよ。そうじゃなくて、正常な男には程度の差はあれ、同様な性質が必ず備わっているということを言いたいのです。そして、それが、ブンブンのように思春期だけに限ったことではなく、おそらく男は一生そのモノノケと付き合っていかねばならないということなんです。
 私はぶっちゃけ人間なので、クラスのギャルどもにも自分の恥部をさらけ出し…いやいや勘違いしないでくださいよ、自分の内面という意味です…笑、あえて本当の男の恐ろしさやお馬鹿さ、あるいは偽善性などを折々教えています。世の男性はあんまりそういうことしないでしょうね。なるべく隠すでしょう。でも、私は自信があるんですよ。ぜったいに世の男はみんな紙一重のところで生きてると。実に危なっかしい世の中だと。
 おそらく、全ての男は、この本を読むと、全ての記述にドキッとするでしょう。そしてホッとするかもしれません。危ないなあ。自分もこうなりかねないなあ。紙一重だなあ。境界はすぐ近くにあるなあ。少なくとも私はそうでした。
 もちろん、それは妄想や合法的代償行為の中に収まるのが普通であり、その最終ラインを越えてしまうのは確かに異常と言えます。作田さんも、そこのところをしっかり知って、そして対策を立てなければならないと力説しています。単なる厳罰化は対症療法に過ぎず、場合によっては逆効果の可能性もあるということです。私もそう思います。一部の特殊な「キモい男」が悪いのだとして片づけることによって、我々一般人のプチ変態性は隠蔽されてしまいます。それはとっても危険だと思います。
 ここで取り上げられている犯罪や異常の名称を挙げてみましょうか。
 痴漢・のぞき・露出症・フェティシズム・部分性愛・服装倒錯的フェティシズム・サディズム・マゾヒズム・小児性愛・強姦・強制わいせつ・ストーカー
 犯罪になった結果、つまり被害者が発生した結果、こういう言葉を与えられたわけで、そうでない、つまり犯罪化していない潜在的な部分においては、こういう心理や行動は、男子にとって案外日常的なものでしょう。
 では、犯罪者と私たちを分ける境界はどこにあり、そしてその境界を越えてしまう要因はなんなのか。私たちが短絡的な思考に陥らないように、作田さんは多くの実例を挙げてくれています。その実例はどれも複雑な背景を持っており、本当に単純に「あいつは特別だ」とは言いきれません。読めば読むほど、一般人、あるいは自分との境界がはっきりしなくなってしまうとも言えます。
 そこなんですよね。難しいし直視しなければならないのは。この日常も、あるいは男も女も、実に不安定なところに存在している。社会や私たちは、それ自体とっても危うい存在である。日常と非日常は紙一重である。そのことを私たちは忘れがちです。
 その危うい世界をなんとか保っている力がなんなのか、はっきりとは言えませんが、何かが働いてることはたしかです。そして、その何かのことも私たちは忘れがちなような気がします。そうした、私たちに潜む正と負の見えない力を意識することこそ、この世の中をギリギリのところで存続させる方法のような気もします。
 それにしても難しい問題だよなあ、男としては。このモノノケたちをいかに馴致して、合法的にエネルギーを開放するか。あるいは女の合意や同意をとりつけるか。実は世の男性は、毎日そんなことばかりやっているのかもしれません。いずれにしても虚しい存在ですな。ふぅ。

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2008.08.27

『おやすみプンプン 1〜3』 浅野いにお (小学館ヤングサンデーコミックス) 

Oyasumi 本マンガを読まない人間です。生徒から強制的に読めと言われなければ、おそらく全く読まないでしょう。意外に思われる方も多いようですが、けっこう苦手な分野です。
 かといって、小説を読むかといえばそんなことも全くなく、ま、簡単に言えば活字が大嫌いというわけです。国語のセンセイなのに困ったものですね。また連続ドラマなんかもほとんど見ませんので、つまりはストーリーを追いかけていくのが苦手なんでしょう。
 映画や音楽は好きですので、つまり言葉による表現が主体なものは苦手で、その他の媒体への依存度が高まるとなんとか受け入れられるようになるということのようです。かえすがえす困ったものです。
 昨日でしたか、生徒とある大学の過去問を解いてましたら、安部公房の面白い文章に出会いました。「言葉によって言葉に逆らう」という、いかにも安部公房らしいアヴァンギャルドなタイトル。しかし、書かれていることは非常にまっとうで、意味と不即不離な言葉という道具を使って、「意味以前のイメージ」を表現せねばならない小説家としての苦悩を、案外素直に表現している内容でした。
 その中で、安部公房は「それ自体では意味を持たない音や形は、言葉とくらべればはるかに忠実で御しやすい表現素材なのである」と言い、小説が音楽や美術などより厄介な分野であることを、自分への慰めや世間への言い訳も多少含めて(…と私には感じられました)強調しています。
 これにはいろいろな立場から反論もありそうですが、しかし、たしかにそういう一面はありますね。安部公房も「化学薬品のような攻撃性」と比喩していますが、言葉の持つ前進性(不可後進性)は誰しも認めざるを得ないでしょう。つまり、私の言い方でいうところの「コト化」というやつです。なんだか得体の知れない「モノ」に出会った時、すぐに言葉(コトの葉)が発動して、命名、言語化、概念化、内部化が進行します。言葉の前進願望は、経済における前進願望と似て、案外私たちにとって厄介なもので、あるいは私たちを不幸にしている、その基本的煩悩の一つなのかもしれません。
 さてさて、そういう言葉やストーリーに、ある意味前衛的な挑戦をしている現代の作家が、この浅野いにおでしょう。彼の作品を読むのは二回目です。以前もマニアックな生徒にすすめられて素晴らしい世界を読ませていただきました。そこでも書いているとおり、私はこのマンガ嫌いじゃありませんね。世間では賛否両論のようですけど。
 ただ、ちょっとずるいとは思います。だって、「素晴らしい世界」では、大学生のアンニュイという、言語以前のイメージを描いてますし、こちらではもっと言語以前の普遍イメージである小学校高学年から高校生にかけての「男子」のモヤモヤを描いているんですから。ずるいですよ。
 で、これを貸してくれたのは女子なわけで、私は「お前にはわからんよ」「女子にはわからん」「男子には痛いほどわかる」と、お礼もそこそこに怒鳴ってしまいました(笑)。
 そう、それこそ男子に普遍な(まあ女子にも女子の普遍があるんでしょうが)言語以前のイメージというか、モヤモヤというかムラムラというか、あのちょっと罪悪感をもはらんだドキドキ感ですね、あれは確かに小説では書きにくいでしょう。言葉にしてしまうと、もうウソ臭くなってしまう。モノノケですから、あれは。自分のようで自分でない。
 考えてみれば、そんなところに挑戦して玉砕したのが安部公房なのかもしれませんね。彼の作品は映像化したほうがわかりやすかったりしますから。この「おやすみプンプン」、安部公房が読んだら(見たら)きっと怒りますよ。ずるい!って。純粋に言葉で勝負してみろよ!って。
 いにお作品はシュールレアリスムで語られることが多いみたいですが、なんとなく胡散臭いんですよね。そう、彼はつげ義春の「ねじ式」に突き動かされてマンガ家になったと語っているようです。よくありがちなパターンとして、あの真剣に馬鹿なこと、わけわからんことをやっていたあの時代、そう、まさに赤塚不二夫やつげ義春や寺山修司や土方巽や安部公房のような時代ですね、それを現代の若者がまねてもなかなかうまくいかない。痛いことになる可能性が高い。
 かろうじて、その言語以前のイメージが時代を超えて両者を結びつけているわけですが、しかし、安部公房が言うように、それを結ぶ手段は「コトの葉」すなわちその時代のメディアしかないわけですから、けっこうつらいですよね。マンガでやるなら、マンガをもってマンガ以前のイメージを表現しなければならないわけですから。
 おそらくあの時代はそんな意識もなく、新しいメディア自体が私たちの「コトの葉」になっていなくて、メディア自体が私たちを使って表現していたんでしょうね。自分の下に置いてコントロールしようとすると、大概反撃されて痛いことになるんです。
 しかし、この浅野いにお作品には、その痛さをも武器にしてしまう強さがあるような気もします。だから私は嫌いになれないのでしょう。あるいはマンガが新しい自分になるための「痛み」なのかもしれないな。彼はずいぶんと新しい技法を使っていると思います。実験的であることはたしかでしょう。そこに何かを期待している私もいるわけです。

Amazon おやすみプンプン1

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2008.08.26

『私は、こう考えるのだが。―言語社会学者の意見と実践』 鈴木孝夫 (人文書館)

78ejoo 々に鈴木孝夫大明神の御本をまとめ読みしています。この本は、ある意味先生の専門外の話ばかりですが、まあ、御自身も書いておられるように、とにかくあらゆる分野に興味を持ち研究してきた多才で多彩なる神でいらっしゃいますし、今や言語社会学者じゃなくて孤高の「(自称)哲学者」になられているような気もしますから、これはこれでいいと思います。
 初出を見ても分かる通り、それこそいろいろなところで発表された短文をまとめたものでして、話があちこちに飛びますけれど、それがまたいかにも大明神的であり、八百万の神々の言霊という感じがして、私は好きです。
 ちょうど3年前になりますか、私は幸運なことに、大明神とさしでお話させていただく機会を得ました。お酒を囲んでの実に楽しい時間でした。淀みなく流れ出る鈴木孝夫節に、私の脳はドーパミンを大量放出。面白かったなあ。その時のお話もたくさんこの本には収録されています。
 大明神のお考えの中心にあるのは、現在の日本が繁栄の頂点を過ぎており、あとは下るだけ、あるい下るべきだということです。私も全くそれに賛成です。この前の「幸せって、なんだっけ」でも書いたように、お金をめぐる世の中のシステムというか、人間の根本的な考え方を変えなければ、なんにも解決しないと思っています。
 大明神はただ言葉だけでなく、ちゃんと実践してるから偉いんですよね。その偉大さは「人にはどれだけの物が必要か−ミニマム生活のすすめ」を読めばわかります。私なんかとてもあそこまで徹底できませんよ。世間に流されずああいうスタイルを貫くというのは、これは勇気のいることです。御本人は当然のごとく実践されていますが、私たち凡人にはそんな強さはありませんね。ちょっと笑っちゃうくらいです。
 さて、この本にもそういった、ウンウンとうなづかれ、なおかつ、ちょっとクスッとしてしまう、いかにも日本の神様的な言霊が並んでいるんですけど、私の印象に残ったのは、まず、原稿料や取材への謝礼の話。あるいは入試問題の出題報告の話ですね。これらは他人事ではありませんので、面白かったし勉強になりました。
 次に、大学生活と知的放浪に関するお話。知的とは言えない私ですが、かなりの放浪癖がありますんで、このお話には自信と勇気をいただきました。私も先生のように放浪の末の哲学者になりたいんですよ。
 あと、最近大明神が設立し、自ら教祖となったと語る「日本語教」の信者になりたいなあと。教えはこうです。引用します。
「世界中に日本語を広めて、この美しい言語と、それに固く結びついている本来は外国との対立抗争と無縁であった文化の持つ良さを、残念にも知らずに死んでゆく可哀想な人間を、この世から一人でも少なくしたいという慈悲の気持ちに目覚めよ」
 ハハハ、痛快ですね。ここまで言える人、そしてそれが許される人は、人間界にはいませんよね。さすがです。
 同様に痛快だったのが、「江藤淳と私」ですね。江藤淳というより、江頭淳夫(本名)の人物像に関する実に手厳しいお話です。なんとなくですが、私の中でも神格化されていた「江藤淳」。彼がこんなにやなヤツ(笑)だったとは…。大明神もかなり怒ってます。でも、ちょっと面白かった。ここまで困った人がいるんだなと。
 あと、小ネタですが、「新幹線にシートベルトを」は、私も思っていたことなので、我が意を得たり!という感じでした。
 総括しますと、まさに「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」ですね。そして、ユーモア。ユーモアこそが知性であると感じました。本当に愛すべき神様です。また、何かのご縁があれば、ぜひ。

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2008.08.25

『スカシカシパンマン・ザ・ムービー』 中川翔子原案作品

Srbl1349 徒の妹さんがわざわざ貸してくれました。なぜ私に貸してくれたのでしょう。ぜひ私に観てほしいとのこと。
 一つには私が「しょこたん」こと中川翔子を高く評価しているということがあるでしょう。また、アキバ的ヲタク文化を理解しているということがあるでしょう。そして、こういうくっだらないモノが根っから好きということがあるでしょう…てか、なんでほとんど面識のない妹がそんなこと知ってるんだ?(笑)
 私がしょこたんに興味を持ったのは、娘たちが毎週観ているポケモンサンデーのおかげ、かというとそうでもなく、やはりこちらにも書いたしょこたん語のおかげでしょう。日本語学的に興味深い。
 そういうしょこたん語にも感じられますが、彼女のセンスはまさに「タレント」というにふさわしいものがあります。一般人の気づかないところに気づき、それをデフォルメしたりエンファシスしたりして記号を作り出し、そしてそれを一般に流通させる。非常にクリエイティブな方です。
 この「スカシカシパンマン」も実に彼女らしいセンスの産物ですね。実在する海洋生物、ウニの仲間(棘皮動物ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科)である「スカシカシパン(Sand dollar)」のその名前と姿にギガント萌えたしょこたんが、その独自のセンスによって擬人化…いや、人ではないな、スーパーヒーロー化してしまったのが、この「スカシカシパンマン」です。
 公式ブログによると、彼はこのような人、いやキャラです。

■名前:スカシカシパンマン
■年齢:不明
■特徴:
女性をスカシ穴から透かし見る
※下着まで透かせる
スカシカシパン車輪を使いマッハ3で走ることができる
スカシカシパンを投げてくる
鼻がない
ただの変態

 このDVDには、ケータイ用の簡易アニメ(フラッシュ風)10話が収められていました。秋葉原を舞台に、いちおう敵…なのかな、ハスノハカシパンマンとタコノマクラと壮絶な(?)闘いに挑むスカシカシパンマン。カワイイが体臭のきついエイ子ちゃんのためならどんな危険も侵す(?)スカシカシパンマン。
 はっきり言ってどうでもいい内容であり、その脱力感が、スカシカシパン本来のあの脱力した軟弱感と見事に共鳴しあって、全く感動的でない世界を築き上げています。
 どう見ても手抜きとしか思えない作画は、ほとんど紙芝居風であり、そのチープさとダイナミックな静止感は、なにかノスタルジーのようなものさえ感じさせます。まさにディズニーアニメの対蹠にあるジャパニメーションの極致でしょう。
 随所に秋葉原的ヲタクネタをちりばめているのは、ファン層を意識しているとともに、アキバ文化を揶揄しているとも言えそうです。私は、オタク文化の一つの特徴は、自己卑下性にあると思っています。オタク文化には、外見的には非社会的というか、脱力的アウトローというか、そういう部分があって、それを自らが恥ずかしく思い、また卑下し、そして仲間内では傷をなめあうという、どうしようもないキモさがあります(もちろん私にも)。それを、太古の昔からどうどうと自然界で生き続けているスカシカシパンが笑っているんですね。人間はバカだなと。そんな気もしました。
Skpm ま、いずれにせよ、本来無表情なスカシカシパンに注目し、そこに「下着を透かして見る」という人間男性の根源的な欲望と、そういう自分を表面に出さず「スカしている」人間男性の社会性とを与え、一つのキャラクターを作り上げてしまったしょこたんに脱帽です。やはりこれも本体とキャラのギャップ萌えでしょうか。あるいは本体とネーミングのギャップ萌えでしょうか。
 ただ一つ怖かったことがあります。オープニング近くで、スカシカシパンマンがマッハ3でアキバを暴走し、通行人が巻き込まれてバタバタと倒れていくシーンには、妙なリアルさがあって、ぞっとしてしまいました。これはちょっとシャレに昇華できませんでした。
 特典映像では、スカシカシパンマンの声優さんである若本規夫さんの魅力をたっぷり味わえます。それに絡むしょこたんも見事。
 あっ、ちなみに実際の菓子パンとして発売された「スカシカシパン」と「スカシカシパン〜しょこらメロンパン〜」はとっくに食べてみました。おいしかった。当然、それを顔の前にかざして「すかして」見てみましたが、残念ながら下着は見えませんでした(笑)。

Amazon スカシカシパンマン・ザ・ムービー

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2008.08.24

『第5の男~どこにでもいる僕~』 高木ブー (朝日新聞出版)

 02257840 ある鷹は爪を隠す…ドリフ第5の男高木ブーの自伝本。ドリフにおけるブーさんの存在を、それなりに語ることもできますが、どうもどこにでもありがちな論になりそうなので、今日はそういう視点からの記述はさしひかえましょう。
 私にとっての興味はこの本の前半部分、つまり第5でもなんでもなくて、どちらかというと第1だったころの話。すなわち、ミュージシャンとしての高木智之さんです(本名は友之助)。
 今でこそ、ウクレレの伝道師として有名なブーさんですが、ドリフ時代には雷様でちょろっと披露するだけで、ほとんどその芸を隠してきました。ウクレレだけじゃなくて、あの歌声は素晴らしいですよ。特にファルセットの美しさには驚愕です。私はこちら『LET IT BOO』を聴いて、本当にびっくりしました。うますぎる…。
Boo08 そうそう、今日ちょうどNHKのある番組に高木ブーさんが出演してました。見て下さいよ。トリプルネックウクレレですよ〜!かっこいい。オリジナル曲「ブルー・メモリー」を披露しました。これがまたいい曲でして、ブーさんの優しさがにじみ出ている名曲でした。
 今日は特別その音をアップしましょう。こちらからどうぞ。
 75歳ですよねえ。75歳であの透明感のある声はないでしょう。トリプルネックウクレレの演奏がまた渋い。冒頭から刻みが微妙に遅れ気味なのは、これはもう「味わい」というほかありません。楽譜化できないリズム感。再現できない「わび・さび」。萌えます。ソロのツボで微妙に音が出ていないところなんかも、これもまた悟りの境地ですね。で、映像で観ると最高なんですが、ソロが終わって真ん中のコード用のネックに戻る時、一瞬わからなくなってしまうんです。一番下のネックに行きかける。3本でも迷ってしまう。かわいすぎます。
 能ある鷹は爪を隠す…これって究極のかっこよさですよね。ブーさんは楽器や歌だけでなく、イラストもお上手ですし、クレー射撃の腕前はプロ並みです。
 いや、彼はこの本を読んでもわかるとおり、もしかすると究極の面倒くさがり屋だったのかもしれません。単なる無精者。いろいろできるのにやらない。何にもしないで稼げればそれはそれで最高ですよね。
 自分の「能」=「タレント」にこだわらない…これは非常に難しいことです。ありもしない「能」にしがみついて、いつのまにか身動きできなくなってしまうのが普通の人間ですね。
 つまり、ブーさんは、より高度な戦略的意味において「能を隠した」わけで、これは本当に悟りの境地に近いですね。その「隠れた能」をまわりがほっとかなっかたと。究極の他力ですな。
 やっぱり、神ですわ。雷様って神様だもんな。能ある高木は爪を隠していたけれど、結局爪を出してきてウクレレをつまびいているということですか。こんなふうに生きたいものです。
 この本のサブタイトルは重層的に意味深ですけど、やっぱりウソだよなあ。こんな人どこにもいませんよ。

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2008.08.23

『スーパーライブ Dragon Ash〜10th Anniversary〜』〜World Premium Live(NHK BS2)

Dragonash 年11月に放映されたものの再放送。彼らのライヴ・パフォーマンスは初めて観ました。なかなかいいですねえ。ただものじゃないな。
 Dragon Ashはあまりメディアに露出しませんので、これは貴重な映像&音源であります。昨年結成10年を迎えたということで、それを記念してかNHKの101スタジオで行われたライヴの模様です。スタジオ・ライヴということもあってか、非常に濃厚な時間と空間が演出されていましたね。これは盛り上がるわ。
 名優古谷一行の息子にして最近めでたくMEGUMIのダンナとなった降谷建志くん率いるDragon Ashは、日本の音楽シーンの流れで言えば、ラップをフィーチャーしたヒップホップのブームを作った立役者という感じでしょう。私は、その後の日本のヒップホップシーンに対しては正直眉をひそめてきた立場です。それはつまり、あまりに音楽的に稚拙な、いわゆる売れ線ヒップホップがヒットチャートにひしめいていたからでして、本場のヒップホップや、商業的ではない本物指向のヒップホップを否定するものではありません。
 昨今のヒップホップ風な音楽の隆盛はすなわち、日本の音楽家たちが優れたメロディーを書けなくなった事実の裏返しですね。最近ようやく改善の兆しが見え始めましたが。
 さて、そんな中でDragon Ashの活動はかなり異質なものでしたね。彼らが目指したのはあらゆるジャンルを超えた、あるいはあらゆるジャンルを取り込んだ音楽でした。私はそれなりに彼らのアルバムを聴いてきましたが、どのアルバムも常に実験的であり、それこそ毎回違った感じ、あるいは毎曲違った感じがしました。
 ただ一つ全体に共通した印象というのがあって、彼らには不思議な優しさを感じるんですよね。音楽としてはけっこう激しく聞こえますが、その後ろに漂う優しい空気のようなものが常に私を魅了してきたんです。今回の番組でもそれはたしかにありました。
 それってやっぱりシンプルさだと思うんですね。いろいろな挑戦として、けっこう複雑な音楽的作業を彼らはやってますけど、基本は私たち聴衆に対するサービス精神があるような気もするんです。いかにライヴでストレートに伝えるか。それはある意味わかりやすさとも言えます。ライヴな音楽には絶対にある種のシンプルさ、わかりやすさというのが必要です。
 コアなファンの皆さんはどう思うかわかりませんが、私はかの「セクスィー部長」のテーマ「El Alma」が全てを象徴しているような気がしますよ。名曲ですよ。今回の番組でもものすごいパフォーマンスでした。武田真治のセンスというのもあるのかもしれませんね。考えてみれば、今回NHKで彼らのライヴが収録され放映されたのも、セクスィー部長つながりかもしれませんね。ああいうラテンでジャパニーズなロックをいきなりドカンとやってしまう彼らは、やっぱり天才だと思いますね。おそらく10年後も進化し続けてるんじゃないでしょうか。
 まあとにかくとてもいいライヴ番組でした。思わず聴き入ってしまうパフォーマンス。演奏もなかなか上手でした。一度ライヴを体験したいような気もしますが、さすがにあのノリにはついていけないな(笑)。
 オマケ。彼らを知らない人も、とりあえず「El Alma」を聴いてみましょう。中国のサイトで見つけましたので。

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2008.08.22

『幸せって、なんだっけ 「豊かさ」という幻想を超えて』 辻信一 (ソフトバンク新書)

79734344 らっと読むにはいい本ですね。最近私が思っていることを書いてくれています。
 私がこのブログでとりあげてきた、ブータンの国民総幸福ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」シューマッハの仏教経済学などがどんどん登場します。
 カネにまみれた成長一本やりの経済が、人を幸せにするどころか不幸せにしているということですね。
 人間、貧すれば鈍する、というのもたしかにあります。生命の維持に支障があるほど貧困であると、人間はあくどくなります。しかし、必要以上に物質的に豊かになりますと、これまた人間はあくどくなるんですね。
 実は理想的な生活というのは簡単でして、つまり分相応に中庸に安住していればいいんですよ。でも、その感じが難しい。本能として、現状に満足せずもっともっと(more)を求めてしまう。人間の脳はそのようにプログラミングされていますから、それに対抗すべく意識しなければならないんですよ。それはある意味苦行です。本能に抗するわけですからね。
 私がシューマッハの考えに同調するのは、その、本能に抗する手段として、究極の智恵を用いようとしているからです。と言いますか、それしか方法がないと考えているからです。
 お釈迦様は最高の経済学者でもあるわけですね。人間を堕落させない「経済」…すなわち「経世」しつつ「済民」する方法は、煩悩を滅却することしかないんです。集団としての人間と、個人としての人間を同時に救う方法は、つまり「悟り」しかないと思うんです。
 社会主義経済も、資本主義経済も、科学も宗教も戦争も、結局「利己」を助長させるだけでした。もう正直、凡人の智恵ではどうしようもありません。
 だからこそ、最近悩むんですよね。たとえば辻さんも、お釈迦様に比べたら、そりゃあ凡人でしょう。私ももちろんそうですし、シューマッハだってそうです。理屈としてはわかるし、言葉の上では、あるいは個人的な行動としては、まあいくらでも「利他」や「知足」や「感謝」や「報恩」や「慈悲」を叫ぶことはできる。でも、それがやはり人間全体に広まらないとダメなんですね。
 社会主義も資本主義も、結局は人間のある種の「欲望」「煩悩」を糧に世界に広まりました。しかし、第三の経済である仏教経済にはその「欲望」と「煩悩」がありません。ですから、急速に世界に広まる可能性がないんですね。
 そうしますと、結局は人間それぞれが新たなステージに進化するしかないんです。でも、それって、みんなが解脱して悟りを得て仏陀になるということであって、これはやっぱり無理ですよね。とりあえず当面無理そうです。
 理想はわかっていてもどうしようもない自分がそこにいるのが苦しいのです。もういっそのこと、欲望や煩悩や快楽にまみれて生きてやれ!とか思いたくもなってしまう。でも、きっとそれはものすごく虚しいことにもなりそうで、そんな予感がするものですから、そこに耽溺する勇気も出てこない…。
 私の「モノ・コト論」で言いますと、今まで人間は自分の思い通りになる「コト」を追求しすぎた、これからは思い通りにならない「モノ」にこそ豊かさを感じるようにならなければ、ということです。もちろん、ここでの「モノ」は、たとえばこの本での「モノ」、つまり物質とか商品とか、そういうモノとは違います。自分の外部や不随意や無常を表す「モノ」です。いつも言う「もののあはれ」ですね。日本人は「もののあはれ(不随意、無常、不足へのため息)」に美学を見出すことのできる稀有な民族です。ですから、今のこの狂った状況から本来の姿に帰ればいいのかもしれませんね。しかし、グローバリズム(アメリカニズム)の進行した現代では、それも難しい…。
 いや、かといって人間に可能性が全くないとは言いきれません。シューマッハは『スモール・イズ・ ビューティフル』の中で「仏教抜きの経済学は愛のないセックスです」と言っています。これは面白いですね。ナイスなコメントであり、シャレであり、比喩であります。そして重い言葉です。
 愛と快楽とが高い次元で統合されることがあるのか…これは人類の永遠のテーマです。しかし、この万人に共通する営みが、ある種の可能性を持っていることは、それこそ万人がその営みの中で実感していることでしょう。おそらくはそうやって我々人類は脈々と続いてきたのでしょうから。
 それと同様な可能性が、経世済民とカネの間にあり得るのか。私たちは壮大な、そして崇高な、しかし実に危うい実験を、日々行っているのかもしれません。

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2008.08.21

芥川龍之介と富士山

Yb 日は山梨県立文学館にて研修。芥川龍之介と山梨についてお勉強いたしました。
 私はおよそ国語教師とは思えないほど、いわゆる文学の世界に縁遠い人間でして、文学館に行くんだったら、隣の美術館、あるいは少し離れた県立博物館や考古博物館、科学館の方へ行きたいなと思ってしまうような困り者です。ですから、たまにこういう研修がありますと、自らの本業を思い出しまして、そして多少は勉強などして生徒に還元できればいいな、などとそれらしいことを考えるのでありました。
 実際のところ、この文学館を訪れたのも4年ぶりくらいになりましょうか。久々にいろいろな資料を眺めまして、それなりに興味をそそられました。講演を聴いてから展示を見るというのは、やっぱりいいですね。俄然興味深くなります。
 芥川龍之介はそれほど山梨とゆかりがあるわけではありません。ちょっと通りがかったとか、飯田蛇笏と交流があった(実際には会っていないが)とか、そのくらいでしょうか。富士北麓地域に関する資料としては、明治45年に友人の山本喜誉司にあてた書簡が紹介されました。富士宮の大宮浅間神社へ行く途中、吉田に一泊しています。

 旅人よいづくにゆくやはてしなく道はつづけり大空の下

今日朝八時東京発大月下車七里の道を下吉田に参り候 空晴れて不二の雪さはやかに白く其処此処の山畑には桑の枯枝の下に菜の花の黄なるを見うけ候 宿の名は小菊 寒気つよく炭火をあかく起したるをかこみて之をかき候

 四月一日

 中央線で東京から大月まで来て、そこから吉田まで歩いたっていうことでしょうかね。当時は馬車鉄道が走っていたはずですが。標高差500メートルくらいありますから結構きつい徒歩の旅ですね。7時間はかかるでしょう。昔はそんなの当たり前だったのかな。
 吉田の町の描写はシンプルですけれど味わい深い。たしかにそれだけだったのでしょう。よくわかります。このころ菜の花がきれいですし、夜なんかはかなり寒い。ここに暮らしている者としては、本当に実感として分かります。
 泊まった宿は「小菊」。今はもうありませんが、たしか下吉田駅のすぐ前だったような気もします。十数年後、太宰治も泊まったんではなかったかな。ちょっと調べてみます。当時は吉田、というか富士山の玄関は下吉田でした。
Akutagawa 翌朝吉田を出発した芥川は再び徒歩で富士山の西麓をまわり、富士宮へ向かったらしい。これまた10時間はかかる長旅ですね。今なら1時間もかかりませんが。昔の人は偉いなあ。でも、そういう歩く速度で世の中を見ていたからこそ、あるいはそういう「ムダ」な思索の時間があったからこそ、すぐれた小説も生まれたんでしょうね。うむ、どっちが豊かなのかな。
 ところで、富士宮の浅間神社に行くのに、どうして東海道線を使わず吉田を経由したのでしょうか。富士山周辺をゆっくり逍遥したかったのかもしれませんね。これは憶測ですが、やはり下吉田を出発した芥川は吉田の浅間神社、すなわち下吉田の下浅間と上吉田の上浅間を参拝してから、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖を巡って静岡に抜けたのでしょう。そういうテーマを持った旅だったのかもしれません。
 いや、実は私はこの芥川の富士行には特別な意味があったと考えているんです。これは私の勝手な想像ですので、あまり気にしないください。私はけっこう自信あるんですけど、まあ、実証するものがありませんから。
 芥川と言うと、まじめな文学者という感じがするかもしれませんが、実はかなりのオカルトマニアだったんです。彼が、当時流行していた千里眼や透視なんかに興味を持っていたことは知られていますね。今日の文学館の展示の中にも、福来友吉の著書を期待する芥川の言葉が紹介されていました。そんな趣味を少し希釈して表現したのが、彼の怪異的小説の数々でしょう。
 で、この明治45年と言いますとですね、宮下文書(富士古文献)の研究で名高い三輪義熈が、富士王朝伝説を紹介しはじめた頃なんですね。たとえば「富士史」なんていう本を43年に発刊しています。芥川はそのあたりを知っていたんじゃないでしょうかね。
 のち日本の神霊研究の父となった浅野和三郎と芥川龍之介にも不思議な因縁がありますね。そんな関係から、芥川は出口王仁三郎の大本にも興味を持っていたとも言われています。
 出口王仁三郎・大本・富士山・浅間神社・宮下文書という一連のラインと芥川の富士行とは、なんらかの関係があると、私には思えてなりません。それこそ霊的な何かなのかもしれませんが。
 ま、こんなこと言うのは私だけでしょうが、当たらずとも遠からずだと思いますよ。

山梨県立文学館

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2008.08.20

切ない「赤」二つ(三つ)…

080820 楽祭最終日。夏が終わります。切ない…。
 午前中リハーサルをして、小中学生リコーダーアンサンブルの発表、続いてダンスクラスの発表、そしてその他のクラス全員による全体アンサンブルの発表(ヴィヴァルディの「マニフィカート」)です。
 小中学生リコーダーアンサンブルには、本当にいつも感動させられます。ほんの数日間で子供たちが大きく成長して、その結果として素晴らしい音楽が奏でられます。2年前にも書きましたけれど、あの「赤いやねの家」には毎年ホロリとしてしまいます。「もののあはれ」的歌詞をですね、あのリコーダーの音と子供たちの歌で聴きますと、おじさんとしてはもう耐えられないくらい切なくなるんですよね。
 ネットで初音ミク(!)が歌ってるのを見つけましたので、拝借してここに置いておきます。初音ミクの純粋さ(?…機械ですからね)が案外マッチしています。ちょっと一ヶ所コードが違うような気もしますが、まあいいや。貴重な音源です。

作曲者, 上柴はじめ. 編曲者, 鎌田典三郎. 作詞者, 織田ゆり子

電車のまどから 見える赤いやねは
小さいころ ぼくが 住んでた あの家
庭にうめた柿の種 大きくなったかな
クレヨンの落書きは まだ かべにあるかな
今は どんな人が 住んでる あの家

背のびして見ても ある日 赤いやねは
かくれてしまったよ ビルの裏側に
いつかいつか ぼくだって 大人になるけど
ひみつだった近道 原っぱは あるかな
ずっと 心の中 赤いやねの家

 さて、もう一つ「赤」つながりで切なくて涙したことが…。リュートの講師であられる、つのだたかし先生との会話。つのだ家と言えば赤塚不二夫さんとものすごく濃い関係がありますよね。つのださん、当然お葬式にも行かれたそうで、その時のことも含めていろいろと切ないお話をしてくださいました。でも、切なかったけれど、やっぱり「これでいいのだ!」とも思いましたね。神が神になった。奥様たちと一緒に…。
08tp_2 そんな話の中で、びっくりしたことがありました。つのださん、昔スタジオ・ゼロでアニメーターやってたんですね!!いやあ、お兄さまのつのだじろうさんがスタジオ・ゼロというのは当然でありますが、たかしさんもそこで働いていたとは…なんでも、ドイツに留学する前にアルバイトしてたとか。パーマンやおそまつくんを描いていたそうな。いやはや、つのだ☆ひろさんも含めて、とんでもない御兄弟であります。まさに「タレント」ですね。なんでもできちゃう。たしかにスタジオ・ゼロは角田家のすぐ向かいにあったんですよね、たしか。
 で、そんな話にびっくりしていたら、つのださん、ウチの娘のためにさっさっさっとパーマンを描いて下さいました。これは家宝ですぞ。
 というわけで、「赤」に関する切ない涙を流した一日でした。ついでに言っておきますと、音楽祭の最後の最後、オマケのフリーコンサートで我々の演奏を披露しました。これも「赤」に関係してるな。いろいろとアクシデントがあって、まじめにやったつもりがすっかり宴会芸になってしまいました。まあ、それが我々らしく、またこのアットホームな都留音楽祭らしかったかもしれません。演奏したのは椎名林檎の「りんごのうた」です。
 唄 山口陽子
 トラヴェルソ 中村忠
 チェンバロ 渡辺敏晴
 ヴァイオリン 山口隆之

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2008.08.19

第23回宴会芸@都留音楽祭

080819 楽祭四日目。午前中の個人レッスン、お昼のフリーコンサート、午後のワークショップに全体アンサンブルの練習と、比較的スムーズに進行。合間に交わされるスタッフどうしの会話も楽しく、忙しいながらも楽しい時間を過ごさせていただいています。
 夜は東洋古楽コンサートと古楽コンクール入賞者によるコンサートを鑑賞。仕事の関係上それぞれ一部しか聴くことができなかったのがちょっと残念。今年の東洋古楽は「タイの音楽」でした。もう少しじっくり聴きたかったかも。西洋古楽にどっぷり漬かっているので、脳の回路が瞬時には切り替わりませんでした。いつも書いていますし、今回スタッフとも話したんですが、いわゆる西洋音楽は、世界的に見ると非常に特殊で狭いジャンルです。それを享受する脳の回路というのも、ちょっと特別な位置にあるのではないか、またそれはとっても厄介なものではないのか、と思う今日この頃であります。
 さてさて、そんな私の実感と言いますか、私の信念と言いますか、いや、そんな高尚なものじゃないな、単なる思いつき、いやいや奇を衒った「ウケ狙い」のレベルですかな、まあとにかく西洋音楽モードになっている皆さんの頭の中に、笑いの嵐を起こそうとして毎年やらせていただいているのが、クロージング・パーティーにおける恒例の宴会芸であります。
 今年で宴会芸も23回目かあ…こんなに継続してることはほかにないぞ。仕事より長い(笑)。当初はご存知「お琴ブラザーズ」という名でやってましたっけ。西洋古楽を邦楽器で演奏すると、こっちは大真面目にやってるのに、いや大真面目にやればやるほどウケるんですね。邦楽界で同じことをするとそれこそ真面目に感心されるんですが(笑)。これってその回路の問題だと思うんです。
 で、最近は「お琴ブラザーズ」が活動停止中なので、洋楽器を伴奏に演歌などやっていましたが(つまり、反対のアプローチ)、今年は久々に本来の形、洋楽器以外の楽器で西洋古楽を演奏するというのをやりました。
 ん?待てよ。あの私が演奏した楽器は、は果たして洋なのか邦なのか、微妙ですな。まあいいや、とにかく回路を混乱させるには充分な取り合わせでしょう。演奏したのは、オープニング・コンサートでも披露されていた定盤中の定盤、バッハの「G線上のアリア」です。というか、私の中ではですね、あれは「アリア」ではなくて「エアー」でありまして、すなわち「空(くう)」なのでありました。まあ誰もそんなことに気づいていなかったと思いますけど(笑)。
 編成と演奏者は次の通りです。

 マトリョミン 山口隆之
 胡弓 渡辺敏晴
 バロック・チェロ 武澤秀平
 チェンバロ 前田恵子

 まあ、この組み合わせはさすがに世界初だよなあ。世界初にして世界最後でしょう。私は1stヴァイオリンのパートを、胡弓はヴィオラのパートを演奏し、2ndヴァイオリンのパートはチェンバロの右手にお願いしました。本来の位置と本来の役割はチェロだけですね。一つだけまともなものを入れるのもミソであります。
 私は剃りたての坊主頭と作務衣で登場。風呂敷にマトリョミンを隠して床に置き、合掌礼拝してからおもむろにチューニング。その時点ではいったい何が起きているのか、ほとんど誰もわからなかったのではないでしょうか。一部の勘のいいマニアの方は「テルミンだ!」と気づいたようですが…その人たちもある意味すごいよな。
 後半の2回目には私の究極の裏技もやっちゃいました。すなわち、マトリョミンを手ではなく坊主頭で演奏するという荒技であります!これはさすがにウケてましたね。なぜか手より巧いし(笑)。まあ、最後まで私が何をしているのか理解でなかった人も多かったようでして、終演後マトリョミンを持って客席の方に行きましたら、皆さん集まってこられて不思議そうにマトリョミンに手をかざしていました。そこで初めて事態を理解した方も多かったようです。
 西洋音楽は基本、1オクターブを12分割してそれぞれの音程を固定するじゃないですか。そこからはずれると怒られます(笑)。でも、たとえば邦楽の世界、邦楽器の世界ではそれぞれの間の音なんて無数にあって、ある意味固定された音程にこだわると怒られます。今回の胡弓とテルミンはまさに中間的な音、経過的な音を避けて通れない楽器です。構造上、あるいは演奏技術上、「音と音の間の音」が圧倒的に多くなってしまいます。それが西洋音楽モードの脳には面白いんですね。そう、宴会ではそれは許される。先生たちも笑って許してくれる。いや、先生たちの方が大笑いしてくれる。いやあ、つくづく私、いいポジション(ずるいポジション)にいますね。怒られないどころかほめられちゃうんですから(笑)。
 と、こんなわけで、今年もまたくっだらない芸をやらせていただきました。毎年くっだらなさすぎてごめんなさい。まあ、私ととしては、皆さんに笑っていただくのが一番。こうして皆さんの硬直化しがちな脳の回路をもみほぐすことが出来れば本望であります。
 音を載せてもいいんですが、一般の方にとってはかなりきつい音世界だと思うのでやめときます。通常の脳では破壊される可能性があります(笑)。
 ふう、面白かった。来年もこのシリーズでやろうかなあ…。他の宴会芸、つのだ組、吉沢組、すみれちゃん、浜中組も、相変わらずのクオリティーの高さでありました。そちらについては、チェンバロ・スタッフにしてスーパー・コーディネーター梅岡さんのブログでどうぞ。皆さん、どうしてそこまでやるの!?

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2008.08.18

ロベルタ・マメーリ ソプラノリサイタル

Mameli 楽祭三日目。私は午後から参加です。午前中は学校で夏季補習と、なぜかお坊さん風な仕事。墓石を動かしたり、お墓の中に上半身を突っ込んだりしたため腰をいためました。けっこうピンチ。
 そんな私の腰の痛みを和らげてくれたのが、マメーリさんの歌声でありました。夜のコンサート、音楽祭の講師としてイタリアよりお招きしているソプラノのロベルタ・マメーリさんらによるリサイタルは、それはそれはもう素晴らしい夢のような時間と空間でありました。
 昨年は都合で本番が聴けず、舞台袖からリハーサルを垣間見するだけでしたが、今年はしっかり客席から聴きましたよ。マメーリさんの天上の歌声とうぐいすホールの素晴らしい響きによって、この世にいることを忘れてしまうほどの感激を味わいました。音楽の、歌の、人の声の、言葉の力。
 プログラムは次の通りです。

1 カッチーニ 「甘きため息よ」
2 カッチーニ 「死なねばならないのか」
3 ステッファーニ 「あたりにそよ風が吹き」
4 フェッラーリ 「恋する男たちよ、教えてあげよう」
5 モンテヴェルディ 「アリアンナの嘆き」
6 ハイドン 「ナクソス島のアリアンナ」
7 ヴィヴァルディ 「この世に真の平和なく」
8 モンテヴェルディ 「ああ、ぼくの恋人はどこだ」
9 アンコール

 カッチーニから一気にあの世へ連れていかれました。パワフルなのに押しつけがましくない美声。限りない表現力。ステッファーニやフェッラーリは初めて聴きましたが、実に美しかった。まさに生き生きとしたバロックの精華。言葉と音楽の幸福なる合体。
 二つの「アリアンナ」を続けて聴けたのも良かった。モンテヴェルディは今まで何度も聴いてきたはずですが、これほどまでに劇的な演奏に触れるのは初めて。いやあ、モンテヴェルディは天才だ。ハイドンのカンタータは初めて聴きました。伴奏はイタリアから帰国した松岡友子さん。昨年のブルージュで「銅メダル」をとったお嬢さんです。彼女は高校生の時にこの音楽祭に来てチェンバロに目覚め、その後10年ほどの間に世界に飛び立った逸材です。音楽祭関係者として実に嬉しいですね。彼女がフォルテピアノを弾くというのも珍しいのかもしれません。やはり、イタリアで勉強しているからでしょうか、マメーリさんとの息もぴったりでしたね。
 弦楽合奏を従えたヴィヴァルディも名演でした。今年の全体アンサンブルはヴィヴァルディのマニフィカートなんですけれど、まあ、ヴィヴァルディというのは改めて鬼才だなあと感じます。モンテヴェルディ以来のドラマティックさなのではないでしょうか。二人ともいきなり新世界を切り開いた感があります。バッハがヴィヴァルディを研究しつくしたというのも納得です。
 さて、このリサイタルの圧巻、白眉は、何と言ってもメゾ・ソプラノの波多野睦美さんとのデュエットでありましょう。昨年もしびれまくりましたが、今年もまたすごかった。二人の声質や表現は違うわけですが、それが絶妙にブレンドしあった時の、あの奇跡の響きと躍動感は筆舌に尽くしがたい。まさにムジカ・ムンダーナ(天上の音楽)であります。アンコールはなんという曲だったかなあ。循環バスの上を自由に踊りまくる二人の天女。鳥肌が立ちっぱなしでした。
 こんな素晴らしい演奏会を、少人数のお客さんで独占できるなんて、本当に幸せなことです。まあ、ある意味もったいないというか、もっと多くの人に聴いていただきたいような気もしますね。しかし、本当に美しかった。マメーリさんに感謝。音楽に感謝。
 今日はお墓の中から天国まで、まあ浮世離れした一日でしたなあ。

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2008.08.17

サザエさんのオープニングの謎

Sazaesanop 楽祭二日目。朝からフリーコンサートの調整と全体合奏のパート譜作り。今年の全体合奏はヴィヴァルディのマニフィカート。この曲は弾いたことも聴いたこともないので楽しみです。
 さて、作業の合間にいろいろなレッスン会場をのぞいたり、ロビーに展示してあるチェンバロやクラヴィコードをちょろっと弾いてみたりしまして、ふと思い出したことがありましたので、書いておきます。また話がとんでもない方向に行きますが、気にしないで下さい(笑)。
 古楽をやっていますと、いわゆるピッチとかチューニングとかがほとんど無限に多様であることを再認識します。つまり、今どき、普通の楽器(たとえばピアノ)の調律と言えば、A=440Hzで平均率というのが一般的でしょう。ある意味それ以外を許さないとも言えます。これってとっても暴力的だと思うんですよね。ピアノの鍵盤のサイズなんかもそうです。なんであれが標準なんだ?と、古楽器を触ったことがある人は当然感じることでしょう。そういうのを私たちは疑問にも思わず、あまりに無批判、無反省に受け入れてしまっています。そういう意味で暴力的だというんです。
 バロック時代では、国により地方により、ピッチはあまりにも多様です。半音や全音違うなんてのは当り前、そこに設置されているパイプオルガンに合わせたりする必要もありましたし、固定ラみたいな発想ってあんまりないんです。だから、ある意味私のように絶対音感がない方が助かる。相対音感だけあった方が便利です。混乱しなくてすみます。
 もっと当たり前に多様でいいではないか。あるいは、楽器の都合にこっちが合わせる、でも全然問題ないじゃないか、とか、そういうふうなことを考えていて、ふと思い出したのが、サザエさんのオープニングです(笑)。
 皆さんも当然、あの曲を耳にしたことがおありでしょう。さすがに知らないという人はいない。ものすごいスタンダード・ナンバーです。あっそうそう、私なんかこちらでロック・ヴァージョンにして歌ってますよ。バカみたいでしょ(笑)。でも、そんなことをしてみたいと思うくらいスタンダードなわけです、あの曲は。
 私はあの編曲ではですね、イ短調で歌っております。もちろんA=440の平均率です。で、原曲はと言いますと、えっと…えっと…えええぇぇぇ…ん?これは…?そう、こちらに懐かしい古いヴァージョン(東芝一社提供時代)のオープニングの映像がありますので、確認してみましょう。
 う〜む、これは微妙ですね。嬰ハ長調っぽいけど、A=440のキーボードで音をとってみると、微妙に合わない。嬰ハよりちょっと高いんですね。
 それで思ったんです。これって、もしかしてバロック・チューニングなんじゃないかと。A=421くらいのニ長調なんじゃないでしょうか。バッハさんはこれを聴けば、D-durって答えますよ。
 バロック風の半音下げチューニングは、現代でもたとえばbump of chickenなんかもやってますね。弦楽器(ギターやベース)の響きが独特になります。ヴァン・ヘイレンもたしか半音下げですね。
 で、で、それはまあいいとして、皆さん、気になっていませんでしたか?そう、このサザエさんのオープニング曲、エンディングに入った途端にピッチが下がりますよね。先ほどのYouTubeでの古いヴァージョンはもちろん、今も全く変わらず、エンディングの「ジャカジャン、ジャカジャン…」のところから、微妙にピッチが下がります。ニ長調だとしますと、ここでA=415くらいになってますよね。つまり、6Hzくらい(測定したわけでなく感覚的にですが)下がっているんですよ。
 これは気になる。気になり始めたのはたぶん中学生の時くらいからだと思います。つまり、以来四半世紀くらい気になってるんです。
 あれって、おそらくテープをつないだ時に、回転数が微妙に違っていて、ああいうことになったと思うんですが(昔なら充分あり得る…テンポも下がっているようですから)、現代のデジタル技術をもってすれば、あれを調整するのは私でもできます。しかし、それをあえてしないということは、あの不自然さがあまりに堂々と何十年もまかり通ってきたので、もうそれはそれで伝統というか、自然?になってしまっており、サザエさんが歳を取らないのと同じく、そこにツッコミを入れることがとっても野暮なことになってしまっているんじゃないでしょうか。つまり、私は野暮であると(笑)。
 だいいち、みんな気になってるんでしょうか。どうなんでしょう。私はこの曲をカバーする時には、あのピッチ・ダウンの感じもちゃんと完璧にコピーしようと思っています。
 たしかに、ある日突然あれが修正されたら、それはそれで寂しいし、それこそ不自然に感じるのかもしれませんね。

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2008.08.16

第23回都留音楽祭開幕

Tmf08 6時半に秋田を出発。Uターンラッシュを避けて行きと同じ日本海ルートで富士山へ。今日は予期せぬ渋滞もなく予定通り11時間で到着。到着20分後に再び車に乗って都留へ。さすがに腰が痛い。
 なんとか都留音楽祭のオープニングコンサートに間に合いました。コンサートを聴きたいというのももちろんありますが、私は実行委員としてオリエンテーションの司会やら何やらをしなければなりませんので、とりあえず間に合って安堵いたしました。
 疲れ切った肉体を癒してくれたのが講師陣総出演のオープニングコンサートでした。毎年こんな素晴らしい音楽を身近に聴けるのは本当に幸せなことです。この豪華なプログラムをご覧ください。

1 バッハ ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ短調より〈ラルゴ〉
 〈ジグ〉― ボレ(北風の神)/ゼフィール(西風の神)
 音楽:バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番より
 構想/振付:浜中康子(ペクール他の舞踏譜に基づく)
 〈ガボット〉パストラル
 音楽:バッハ 無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調より
 構想/振付:浜中
 〈エア〉― 眠り/沈黙/夢
 音楽:管弦楽組曲第3番ニ長調(BWV1068)より
 振付:トーマス・ベアード
 以上 浜中康子・北條耕男(Dance)、渡邊慶子・伊藤誠 (Violin)
    福澤宏(Viola da gamba)、岡田龍之介(Cembalo)
2 コレッリ 2つのリコーダーのためのソナタ ヘ長調
 吉澤実・大竹尚之(Recorder)、福澤宏(Viola da gamba)
 土居瑞穂(Cembalo)
3 テレマン 新しい四重奏曲(パリ四重奏曲)第2番イ短調
 中村忠(Flute)、渡邊(Violin)、福澤(Viola da gamba)
 岡田(Cembalo)
4 ベートーヴェン ピアノソナタ 嬰ハ短調 作品27の2「月光」
 小倉貴久子(Fortepiano)
5 ダウランド 〈彼の金髪も〉〈流れよ わが涙〉
 〈うせろ 自分しか愛さない者たち〉〈時よ しばらく立ち止まれ〉
 波多野睦美(Mezzosoprano)、つのだたかし(Lute)

 どれも本当に素晴らしい演奏でした。1ではバッハの音楽がやはりダンスミュージックであることを再発見。私、以前バッハの無伴奏では踊れないみたいなことをこちらに書いていますが、撤回いたします(笑)。すみません。
 2はコレッリの明るさ、純粋さの際立つ名演。吉澤さん、大竹さんの二人の個性の違いがまた楽しい。コレッリの音楽はある意味バランスが良すぎてバロックではない、だから難しい…と、チェンバロ・アシスタントの渡辺敏晴さんと話しました。ソロのお二人が微妙に違って初めてバロックらしくなっているとも言えますね。
 3も良かったなあ。テレマンにしてはかなり気合いの入った曲です(笑)。どのパートも楽器の特性がフルに生かされていますね。音のバランスも非常によく、一つの塊としてよく聴こえてきました。テレマンってシロウトが弾くと、けっこうバラバラに聞こえやすいんですよね。弾いてる方は楽しいんですが。
 4はちょっと衝撃的でした。これぞ「月光」ですよ。清冽で明確。そう、月光って案外ストレートなものですよね。影を見れば分かります。もともと太陽の光ですから。この前、ランカスターの録音を聴いた時も思いましたが、ベートーヴェンってフォルテピアノで弾くと俄然明確になりますね。やはり、ベートーヴェンは楽器の特性をよく理解した上で作曲しています(当たり前ですが)。フォルテピアノは現代ピアノとは違って音色が音域によって不連続に変化します。ある意味そのおかげで声部がはっきり聴きとれるんですね。まるで何種類かの楽器で合奏しているように。現代ピアノだとそのへんうまく混ざり合いすぎてはっきりしないんです…と、私はいつも思うんですが、どうでしょう。今日の演奏では、あの半音階のスケールのところなんか、こわいくらい粒立って聞こえましたよ。一つ一つの音のたびに鳥肌も立ちましたよ(笑)。
 5の波多野さんの声もまた、まるで月光のように冴え冴えとしていました。つのださんのリュートは風のようにその光の周りを揺れています。美しい…。
 というわけで、今年も音楽祭が始まりました。この音楽祭も23回目。毎年書いていますが、私の人生はこの音楽祭抜きでは語れません。そんな感謝の気持ちも込めて、今年も実行委員の仕事をし、そして演奏にも参加し、皆さんと存分楽しみたいと思っています。

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2008.08.15

プロレスリング・ノア presents SEM ex 『みちのくメルヘン物語2008』

湯沢市皆瀬総合支所前グラウンド特設リング
08081502 年もやってまいりました、昨年奇跡の復活(?)を果たした秋田県は旧皆瀬村でのお祭りプロレスです。終戦記念日に毎年奉納される神事としても非常に興味深いこのイベント。特に今年は「小橋建太の命(みこと)」降臨ということで、ある種特別な雰囲気となっていました。
 私もかなり厳しい日程の中でしたが、この神事だけはどうしてもはずせないということで、無理を押して参戦いたしました。娘やカミさんも、昨年大変に盛り上がり、かつラッキーなことが多発したこともあって非常に楽しみにしていたんですが、娘二人が夏カゼをひいてしまい発熱、泣く泣く(ホントに泣いてました)参加できませんでした。つまり今年は私一人で会場へ行ったというわけです。
 さて、このイベントが開催されるいきさつや神事としてのプロレスについては昨年の記事からいろいろと読んでいただければわかると思います。
08081501 今年は予算の関係でしょうかね、ノア全体としての開催ではなく、下部大会形式としてのセムという形で行われました。そのため、昨年までにくらべますと、参加選手数は半減しました。ただ、セムとは言っても特別な扱いなのでしょう、若手中心ではなく、三沢社長はもちろん、小橋、秋山といったベテラン主力選手も参戦する豪華な内容でした。参加選手が減ったおかげで、内容の濃い試合が多かったとも言えますね。試合結果などは公式でご確認下さい。
 第1試合は若手によるスピーディーかつエキサイティングな試合で、まずは会場の人たちをグッと引きつけました。
 続く第2試合は対照的にまったりとした試合。宮城出身で私と同い年の菊池選手が見事に土着の神を演じていました。しまいには泉田選手の後方から腰を突き上げる、牛の交尾のような技(?)も飛び出し、うむこれぞ五穀豊穰を願う日本の神事そのものだと感じました。
 第3試合と第4試合ではモハメド・ヨネ選手のうまさが光りました。彼は体もいいし、なにしろ受けがうまいので、誰が相手でも面白い試合を提供できます。また、相手選手とのコミュニケーションのみならず、お客さんとのコミュニケーションも上手でして、いいプロレスラーだなあと改めて感心した次第です。
 第5試合では、なんといっても太田一平のやられっぷりでしょう。昨年は青木選手がやられ役でしたが今年は一平ちゃん。こうしていじめられて一流になっていくんですよね。そして、こういうやられ役、いじめられ役というのも神話に欠かせない存在。何かが昇華されていくんですね、そうやって。それにしても三沢社長は全然動かないっすね。まあ社長さんですから、ああやって鎮座しているだけでいいんでしょう。
08081503 メインは、地方のお祭り大会とは思えないほどヒートアップしたノアらしい素晴らしい試合でした。大会場でのテレビマッチとなんら変らない激しいプロレス。その中にあって、やはり小橋の存在感でしょうかね。もう入場からして異常な興奮状態。試合でも大技を惜しみなく出し、また退場だけでも15分くらいかかったんじゃないでしょうかね、神の降臨に山中の寒村がある種の陶酔状態に包まれていました。まさにマレヒトの来訪といった風情。小橋選手は終始笑顔でその歓待に応え、一人一人としっかり握手をしていました。写真は退場時に観客といっしょに花火を見上げて感動する小橋選手です。美しい光景じゃあありませんか。
 私も、昨年の腎臓ガンからの復帰を境に、彼から特別なオーラが出ているのを感じています。握手会でもそれは強く感じましたが、今回の興行(祭事)で改めて彼が生き神であることを痛感しました。もちろん、それは彼の人格による部分もあると思いますが、やはり、大病の克服という一つの「物語」が彼に神性を与え、彼の存在自体が現代の神話になっているという事実があるのでしょう。そうした神不在の現代において、彼は非常に貴重な存在です。
08081504 さて、今回は涙をのんで不参加となってしまった娘たちのために、その小橋選手のグッズやサインを入手してきました。バーニングのTシャツにサインをしてもらい、さらにサイン色紙をいただきまして、さらにさらにノアの公式エナメルバッグを購入いたしました。入場の際にも多額の(?)協賛金を奉納いたしましたし、私なりに神への感謝と尊崇の気持ちを表現してきたつもりです。
 県境にある旧皆瀬村は先日の岩手・宮城内陸地震で大きな被害を受けました。今も宮城に通じるはずの道は通行止めが続いています。そのような状況の山村に「神=モノノケ」たちが多数集い、村人とともに自然の中で祭事を行なうというのは本当に素晴らしいことですし、本来の日本的な姿だと思います。天空に響き渡る数知れない小橋のチョップの音は、まさに太鼓の乱れ打ちのようでありました。

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2008.08.14

レストラン 薬膳 遊心庵 (秋田県横手市平鹿町)

Yuushinan1 田のみならず全国で有名な「おはよう納豆」を製造しているヤマダフーズさん。そのヤマダフーズさんが経営する施設「匠の味工房 遊心庵」に併設されている「レストラン 薬膳 遊心庵」に行ってきました。
 納豆マニアである私も、納豆発祥の地秋田を代表する老舗ヤマダフーズさんの納豆は、なかなかうまいと思います。また、各種納豆のみならず、いろいろと新しい大豆製品を開発する、その先取性は素晴らしい。
Yuushinan2 そういえば、自分で納豆を作った時、納豆菌のタネとして同社の「超細か〜いきざみ納豆ミニ」を使いましたね。
 この施設も工場の見学とアンテナショップ的なレストランを兼ねたなかなか大規模なもので、企業イメージの向上と社員の意識向上に一役買っているようです。
 今日はお昼時に家族で訪問しましたので、ランチメニューから、大人は「麻婆ラーメン」を子どもは「お子さまセット」を頼みました。
Yuushinan3 「麻婆ラーメン」は、いわゆる一般的な「麻婆ラーメン」を想像すると、かなりびっくりします。レストランの名前に「薬膳」が入っているとおり、いろいろな薬味というか薬効成分のある食材が使われているようでして、まずはその香りの豊潤さに驚きます。本当に麻婆豆腐からはかけ離れた香りがしてくるんですよ。で、ちょこっとスープをなめてみてまたビックリ。まず印象に残るのは「和山椒」の味ですね。これは好き嫌いがあるかもしれませんが、私は大好きですので正直ラッキーと思いました。
 スープ全体としては全くと言っていいほど唐辛子の辛さは感じられません。辛味が足りなければラー油を足して下さいと店員さんが言ってましたが、これは辛さよりもその複雑な薬味のブレンド具合を味わった方が得です。
 麺は横浜から取り寄せているというストレートな細麺。すっきりしたスープにはこういうすっきりした麺が似合うのではないでしょうか。いわゆる「麻婆ラーメン」にありがちなコッテリ感からすると、全体としてずいぶんと透明感のある味わいです。
 そして、なんと言ってもコロコロころがっている豆腐のおいしさですね。やはりこだわりの豆腐工場直営店です。絶妙な薬味が豆腐本来のおいしさ、つまり大豆のおいしさを引き立ててくれています。普通の麻婆豆腐だと、正直豆腐の味はよくわからないじゃないですか。これはそんなことありませんでした。
 ちなみに、この豆腐は隣の工場で義父が作っているものです。そう、義父は退職後こちらヤマダフーズさんにお世話なっているのでした。子供たちも「おじいちゃんが作った豆腐おいしい」と大喜びでした。
 写真で大きく写っているのは揚げ湯葉ですね。これもまたスープに絡めていただくと本当においしい。味や見た目のアクセントとしてナイスアイデアだと思いました。
Yuushinan5 一方、子どものセットは具体的にはカレーラーメンセットなんですね。で、このカレースープが本当においしかった。子ども用にしておくにはもったいないくらい。これも辛くないんですよ。おそらく豆乳ベースで作っているんでしょう、とってもミルキーで豊かな味わい。子供たちもかなり気に入ったようです。
 おかずに見える青大豆のコロッケも絶品でしたね。青大豆、すなわち枝豆を細かくきざんであります。ずんだコロッケと言ってもいいかもしれません。水々しい色合いと艶と触感が食欲を誘いますね。これはウチでもできるのではないでしょうか。いいアイデアだと思います。
 あとは地元のりんごジュースがたっぷりとついてきまして、これもまたとっても美味。なかなか贅沢なお子さまランチでしょう。
 さて、この遊心庵、ディナーは予約制ということですが、地元浅舞の酒蔵「浅舞酒造」さんの「天の戸」をはじめとして、厳選された日本酒も各種取りそろえられておりまして、これは一度はじっくり贅沢してみようかなと思わせるに充分な内容となっていました。薬膳と日本酒の組み合わせというのもなかなか面白いのではないでしょうか。

匠の味工房 遊心庵
レストラン 薬膳遊心庵
おはよう納豆 ヤマダフーズ

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2008.08.13

14時間かかった…

080813 すがにタフな私も疲れました。先ほど14時間にわたる旅の末、ようやく秋田に到着いたしました。いやはや、トイレにすら行っていないぞ。ずっと運転しっぱなしでした。
 帰省ラッシュの真っ只中ではありますが、いつもなら渋滞知らずのスイスイコース。そう、山梨から長野、新潟、山形を経る日本海コースですよ。混むわけないのになあ…。まあ、混まなくても11時間はかかるんですが。
 今日は特におススメするべきものがないので、すみません、長時間ドライブの顛末を書きます。いや、いろいろ美しい風景に出会いましたけれど、写真すら撮る余裕がありませんでした。とにかく空いている道を探して三千里…。
 ええと、まずですね、カミさんに感謝しなければなりません。最初は非常に腹立たしかったのですが、今ではカミさんは神様だと思って感謝尊崇しております。
 というのは、今日はですねえ、朝3時15分に起きまして、それで3時半に出発するはずだったんです。そうして4時前に河口湖インターを通過し、いわゆる深夜割引によって4割通行料を浮かせるつもりだったんです。ガソリンが高いので、少しでも経費を節約するのは一家の主として当然のことですよね。
 ですから、私は子供たちよりも早く寝てしまい、目覚ましが鳴る前にちゃんと起きました。さあ、あとは家族を起こして車に乗せるだけだと思っていたんです。
 そしたら、なんとカミさんは子どもと一緒に寝てしまったと。そう、ちゃんと準備をしてから寝たなら問題ないのですが、なんと子どもより先に寝てしまったと。つまり準備は全くできていなかったのです。ガーン!こちらは3時半出発で全ての計画を立ててありましたから、それはショックですよね。
 で、もうどうせ割引は無理だからゆっくり出かけようということになったんです。で、時間が遅くなりますと、もう圏央道から関越道というコースは使えませんね。大渋滞は必至です。
 それで、長野回りにしたんです。通行料は、これはもうあきらめるしかない…。
 ところが、結果として、通行料は夜間割引より安くなってしまいました!!神だ、カミさん。
 そう、早朝に北陸道で大事故(トラックの単独事故なんですが)があったんですよ。ニュースでやってました。で、結局新潟の手前がほぼ一日通行止めだったんですよ。
 だいいち、3時半に出発していたら、ちょうど事故が起きた時刻くらいにそのあたりを通過していたはずです。もしかすると、巻き込まれていたかもしれない。直接巻き込まれないにしても、高速道路上で身動きができない状態になっていたかもしれない。
 カミさん曰く、それを見越してあえて眠ってしまったのだ、と。なるほど…。
 というわけで、長野県内で高速を降りてしまいまして、それでオリンピック中継なんかを聴きながらのんびりと走ってきたわけです。結局、通行料は4000円代ですみました。今までで一番お金がかからなかった。しかし、その分、当然時間はかかったわけです。
 9時半に富士山を出発して、秋田の十文字に着いたのは11時半。14時間にわたる旅でした。14時間あったらヨーロッパまで行けるな(笑)。さすがに疲れました。
 しかし、ウチの子どもたちは根っからの引きこもりですなあ。14時間、あの軽自動車サイズの車内にいても全然平気なんだから。恐ろしい忍耐力というか、インドア力であります。
 最後に記録も兼ねて、具体的にコースを書いておきます。一般道も高速通行止めの影響でかなり混んでましたので、急がば回れでかなりジグザグしたコースになりました。
 富士山→R139→精進湖→R358→甲府南インター→中央道→上信越道→豊田飯山インター→R117→川口町→R17→長岡市→R8→三条市→R403→新津インター→磐越道→日本海東北道→中条インター→R7→鶴岡市→R345→R47→新庄市→R13→雄勝峠→十文字
 総走行距離は650キロくらいでしょうか。印象的だったのは、「川」です。ふだん川が一本もない村に住んでいますので、千曲川、信濃川、最上川沿いに走った時に見た風景は特に心に残っています。

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2008.08.12

『ギラティナと氷空の花束 シェイミ』 湯山邦彦監督作品

Shm ケモンの映画を観てきました。劇場版ポケモンは初体験です。まず一言疲れた。
 ポケモンはおととしで10周年でしたっけ。10年以上続くということは、これはすごいことです。その理由の一つとして「恋愛」が意図的に排除されているということが挙げられると、私は考えています。タケシという一目ぼれしやすいキャラはいるとは言え、それはもうほとんど恋愛ではなくギャグになっています。今回の映画でもしっかり彼の目はハートになっていましたが、そこでは場内の笑いを買っており、これは純粋な恋愛とは言えませんし、実際なんらかの形に発展することはありえないわけですね。サザエさんやちびまる子ちゃんのような長続きするファミリーアニメのご多分にもれず、このポケモンもまた、どんな形であれ完結への力が働きやすい恋愛を巧み排除しています。
 登場人物たちが歳をとらないという意味においても、「もののあはれ」という日本的物語性が欠落しています。それが子供たちにはしっくり来るんですね。「モノ心」つかない子どもに「モノ」の本質を語ってもしかたありせまん。
 大人から見ますと、そのへんに「モノ足りなさ」を感じるわけですが、逆に面白いと感じることもあるんですね。そう、今年卒業した男子生徒に、高校生にしてポケヲタというのがいまして、彼は昨年1年間は受験生ということで「ポケ断ち」したんですよ。それで、結局慶應義塾大学の薬学部に行った。ものすごい頑張りを見せました。彼を見ていると、ポケモンに関する学習経験が見事に受験に役立ったと思わせるものがあるんです。
 すなわち、数多くのポケモンの名称を覚えなければならない、それもある程度の類型化と、イメージ化が必要なんです。さらにポケモンの命名には案外語源意識がしっかりしていまして、つまり、和語、漢語、英語、ギリシャ語、ラテン語、その他の言語が、その意味をもとに使われていることが多く、名前やそのキャラクターを覚えるということは、外国語の学習に直結しているようなんです。そう言えば私も1学期の古典文法のテストで、ポケモンの名称における「活用(進化)」を出しましたっけ(笑)。正格活用と変格活用とがあるんですよ。正格にもいろいろな種類があって面白い。
 まあ、そんなこともあって、娘たちには大人になるまでポケヲタでいろ!と命じてあります。たいがい小学生の高学年になると卒業しちゃうんですよね。実際はそこからが勝負なのに…なんちゃって。
 さて、そんなポケット・モンスターの劇場版を初めて観ました。テレビ版は、これはもうとてもアクション(格闘)系アニメとは思えないほどのセルの少なさで、いかにも日本的な「止め絵」や「紙芝居」による独特の躍動感を醸し出しております。いや、ホントすごいですよ、動かないで動きを表現するなんて。冗談抜きで日本絵画の伝統的な逆説的表現法ですよね。
 それが、まあ映画だとこんなにも動くのか、これではディズニーよりたちが悪い、というほどうるさいものでした。CGも使い過ぎです。平坦化されたアニメーション部分と、リアルさを追求したCGとのバランスの悪さ。これは正直ひどいと思いました。いかんなあ。
 ストーリーも案外難解というか、子どもにはあのくらい畳みかけるのがいいのかもしれませんが、しかし、大人からするとやや全体に動き過ぎ。また、テレビアニメの劇場版によくある、意外に感動的という展開でもなく、ドタバタで終わってしまったような気もします。また、前作を観ていないとわかりにくい部分、また次作へ引き継がれる部分も多く、ついでに前半ものすごい眠気に襲われて(笑)、脈絡がつかみきれませんでした。子ども向けの作品なのに…。
 音も大きく派手、映像も賑やかで、そう、こういう時って人間は眠くなるんですよね。静かなシチュエーションより、こういう徹底的にうるさい方がよく眠れるのです。私はテレビ版アニメで充分ですね。娘は感激して涙していましたが。
 ところで、いつかも書きましたが、「モンスター」の「mon」と「モノ」は同源である可能性もあります。つまりモンスター=物の怪というわけですね。そのモノノケを意のままに操る基本設定は、まあ闘犬や闘鶏、闘牛のようでもありますが、どちらかというと近代西洋文明的ともとれます。まあ、人間以外を自らの下位に見ているとも言える一方、互いに協力し信頼しあって成長していくとも言えますけど。いずれにしても、モノノケをまつろわぬモノとして抹殺したり、無視したり、幽閉したりするのではないあたり、考えようによっては日本的なのかも。案外、古代の人間と自然(モノ)との関係とは、こんな感じだったのかもしれませんね。シェイミもギラティナも神話や物語に出てくる神にも似てますし、レジギガスに至ってはダイダラボッチっていう感じでしたし。

映画公式

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2008.08.11

厳しさ→プライド→本物

 日はいろいろなものを観て聴いて、感じること多々あり。テレビから学ぶこともけっこうありますね。
 伝統と最新技術、経験と学問、職人の勘と科学。日本と西洋。そこに見え隠れする「プライド」。そしてそのプライドを生む「厳しさ」。結果としての「本物」。
Kitajima まずオリンピックでしょうか。北島康介選手の金メダル、お見事でした。あの涙にはいろいろな思いがこもっているのでしょう。水泳もいつのまにか人間の戦いではなく、水着の戦いのようになってしまいました。しかし、やはり最終的には人間の、それも肉体以上に精神のレベルでの戦いなんですね。北島の泳法は、かつて短距離走の世界で評判になった「ナンバ走り」のように、ある意味非西洋的なものです。そこに最新の水着の技術が加わり、さらに精神力が加わります。それに至るまでの彼の努力や周囲の献身は計り知れません。そこに本人のプライドが生まれ、そして最高の舞台で最高の結果が出る。すごいですね。
Vcds 北島の決勝が放送されている、その裏番組で「ラ・プティット・バンド」のコンサートの模様が流れていました。個人的にもお世話になったシギスヴァルト・クイケンや赤津眞言さんのお姿が。彼らの演奏はまさに経験と学究的姿勢の幸福なる結婚です。今回の来日でシギスが弾いたヴィオロンチェロ・ダ・スパラは、首から提げてヴァイオリン式に演奏する小型のチェロです。それをフィーチャーした「四季」など、本当に新しい発見と驚きに満ちた素晴らしい演奏でした。何が歴史的に正しいかというような次元を超えた「本物」をそこに見ました。それを支えるのも、経験と学究的態度に基づく「プライド」なんでしょうね。
Me 続いて午後にはアンドリュー・マンゼとリチャード・エガーの演奏が放送されていました。こちらはなんというか、非常にウソくさくて面白かった。昨日の宝塚ではありませんが、よく演出され訓練されたキッチュさ(?)を堪能できる演奏でした。ただ、それが生きた「今」の音楽なのか、つまりライヴな「本物」なのかは、ちょっと…。ただ、バロックとはそういう胡散臭さそのものであり、また、ヴァイオリンという楽器ももともと胡散臭いものですから、あそこまでやってしまうのも一つの手かとは思いました。
 ただ、純粋ならざる私としては、クイケンのヴィオロンチェロ・ダ・スパラにしても、マンゼの弾きっぷりにしても、さっそく真似してみたいという妙な欲求の対象になってしまうんですね。つまりは宴会芸のネタになりうると(笑…ごめんなさい)。
Dgg 続きまして、バドミントンの「スエマエ」&「オグシオ」に興奮しつつ、録画した「唐招提寺 天平の甍を守った男たち~時代に揺れた明治の決断~」を鑑賞。これは本当に面白かった。まさに伝統と最新技術、経験と学問、職人の勘と科学、日本と西洋の葛藤と融合。厳しさとプライドに満ちた世界でした。関野貞、木村米次郎、伊東忠太、みんな個性的だし真剣だ。それぞれに違う考えと行動をとったのは事実ですが、プライドだけはみんな一緒。だから歴史的に見ると、みんな「本物」として評価されるのでしょう。やっぱりいかに真剣に対象(モノ)に臨むかですね。明治という時代は、そういう意味で異常に難しく、しかし一方で、だからこそ創造的な時代だったのですね。
Queen そして深夜には「クイーン」のライヴが放送されていました。もう何をか言わんやです。私のような何ごとも中途半端でいい加減な人間には、当然「厳しさ」もありませんから、そこに「プライド」など存在しようがありません。そしてもちろんそんな所に「本物」が生まれるはずもありませんね。わかっていても、ちょっとショックだったりして…まあそれもまたポーズに過ぎないんですが…orz。
 先日、ちょっと有名な板前さんとお話したんですが、なんであの世界って必要以上に厳しいのかと聞きましたところ、必要以上に厳しくしないと人には「プライド」は育たないんだそうです。そして、そのプライドだけが、正しい伝統を継承する、あるいは妥協や不正を許さない、唯一の礎なんだそうです。なるほど。その場だけ見れば「必要以上」なことだけれども、長い目で、それも自分という存在を超えた歴史全体を見渡す視点にあっては、まさに「必要」なことなんですね。

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2008.08.10

宝塚を観てきました!

080810 京宝塚劇場で行われている花組公演「愛と死のアラビア」に行ってきました。私は生宝塚初体験です。
 教え子にかなり熱いヅカファンがいまして、彼女が在学当時からなかば強引にDVDの鑑賞などをさせられていました。それについてはけっこう記事にしてきました。最初は「宝塚だけは分からない」というスタンスだった私も、さすがによく訓練されたエンターテインメントに感心したり、日本にしかない特殊な文化としてとらえて、歌舞伎やBL文化との比較対照などをしているうちに、慣れてきたのか、あるいは免疫がついてきたのか、それなりに楽しみ方もわかるようになってしまい(笑)、まあいずれは生で観てみようかなあ、などと漠然とは思っていたんです。
 で、今回彼女がなんだかよくわかりませんが、スペシャルなシートをゲットできたとかで、私を誘ってくれまして、とうとう生観戦…じゃなくて生観劇が実現したわけです。
 結論から申しましょう。やっぱり生はいいですね。あと、これはプロレスに近い。いかにフィクション世界に没入できるか。そのへんは私はけっこう鍛えていますから、かなりすんなり入り込めましたよ。感動した部分と、多少不満に思った部分もありましたが、それらについてはのちほど。
08081001 今回は文化的考察も含めての観劇でした。けっこう早く現地に到着したので、多くのファンの方々の様子を観察させていただきました(笑)。劇場前にテーブルを準備する各団員さんのファンクラブの皆様や、空気を読めない初心者団体バスツアー客のおばさんたち、単独行動するいかにも腐女子然としたコアなファンの方など、昨年の夏休みの初体験ジャニーズ(関ジャニ∞)なみの面白さがありましたね。
 そんないろいろなファンの方々をしりめに、私たちはなんだかスペシャルな形でチケットを受けとりました。チケット販売窓口でもなく、テーブルでもなく、テールというんでしょうか、とにかくちょっと特別な場所で、ある団員さんの名前を名乗って取り置きのチケットを受けとりました。おいおい、初体験にしてこのマニア感はなんなんだ(笑)。ちょっと優越感…エセですが。私、関ジャニ∞の時もそうでしたが、かなり怪しい風貌なので、一見業界の人に見えるんですよね、ハハハ…エセですが。
 さあ、それで入場しまして、席に着く前にカフェや売店を観察。う〜む、なかなかの腐臭ですぞ。なんかいろんな生写真が壁に貼ってあって、それをみんなケータイで撮影しています。そうそう、マニア度が高くなればなるほど、ケータイを首から提げてる率が高まるように感じました。常に戦闘態勢ということでしょうか。ちなみに男子率は関ジャニ∞とほぼ同レベル。1バーセントくらいでしょうか。もう少し低いかな。まあとにかくかなりのアウェー感。夫婦で来ているベテラン男子もいますが、ちょっとびっくりしたのは、いかにもオタク風な男二人組が数組いたことでしょうか。
08081002 連れはカフェでサンドウィッチやデザートを食べていました。あのサンドウィッチが900円!?ありえねえ。帰りに寄ったショップでのすさまじい消費力もそうですが、やっぱり宝塚文化というのは、戦後の女性の地位向上、あるいは経済力向上が支えてますね。DVD1万円というのも高すぎる。でも、もうカネにいとめをつけない…どころか、消費力を競い合っている風さえある。微妙なファン同志のライバル意識のようなものは、どの世界も一緒ですね(笑)。
 私も子どもたちにおみやげ(ヅカ&キティちゃんコラボあられ)やらプログラムやらを買いました。そうこうしているうちに開演時間が迫ってきまして、着席しました。おお、ど真ん中の好位置。全体をバランスよく見渡せる、これは初体験には最高のロケーションですぞ。劇場自体は思ったより狭く、これなら最後尾でも役者さんの表情がよく見えますね。大劇場はもっと広いのでしょうか。東京はこじんまりしていて、いい感じでした。
 さあ開演です。肝心の内容に関しては、案外簡単な感想になります。まあシロウトですから、あんまり偉そうなこと、マニアックなことは言えません。
Hyr まず、お芝居の「愛と死のアラビア」ですが、脚本が少し弱かったかなあ。もっと宝塚らしいコテコテの純愛成就ものを期待していたんですが、本作はどちらかというと男女の関係よりも、男と男、あるいは男と国家や政治という部分が強調されていて、まあそれは逆にマニア的には特別な感じがしていいのかもしれませんが、初体験の者にとっては、ちょっとカタルシスが足りないような気がしました。たしかに戦争に対するメッセージ性、宗教や文化、言語の壁を越えた崇高なヒューマニズムを感じましたが、どうなんでしょう、宝塚にいらしている方々の求めているものはもっとコテコテなものじゃないんですか?
 実話をもとにしているために難しい部分があったんでしょうね。これはしかたない。ラストもなんとなくあっけなかった。私が脚本家だったら、ちょっと違うエンディングにしたと思います。同じ結末にしても、無理矢理でも「愛のカタルシス」を強調したと思いますが…まあそれもシロウト的な考えなんでしょうか。
 役者さん的にも、門外漢にいろいろと言われたくないでしょうけれど、やや不満も残りました。主役である真飛聖さんは、まあそつなくこなしていたと思いますが、やや早口でセリフが聞き取りにくい時がありました。もっと落ち着いた役柄だと思います。歌や踊りもそこそこですが、存在感というかオーラは今一つ。どちらかというと大空佑飛さんの方が存在感はありました。ただ彼…いや彼女は意外にセリフが少なかった。ある意味真飛さんを喰わないようにとの配慮かもしれません。でも、もう少し演じさせても良かったのでは。彼…いや彼女はいいものを持っていると思うので。
 真飛さんとコンビを組んだ桜乃彩音さん、彼女はどうなんでしょう、調子が悪かったのか、歌が今一つでしたね。特にファルセットになった時にパワーが落ちます。ですから、デュエットなんかでは、真飛さんとのバランスが悪い。せっかくの聞かせ所で、感動できませんでした。
 壮一帆さんは、上手でしたね。役柄的にも実は重要な位置。さりげなくもそつなくこなしていました。セリフ以外の部分でもキャラクターをうまく作り上げていましたね。他の人たちは、正直どれが誰かわかりませんでした(笑)。
 お芝居が終わりまして、30分の休憩時間になると、お客さんは席上で皆さんお弁当などを食べ始めたのにはビックリ。そういう文化なんですね。
Egkj さて、後半のショー『Red Hot Sea』は、これは前半のお芝居の不完全燃焼を忘れさせてくれる、豪華絢爛これぞ宝塚という素晴らしいものでした。DVDで観ていたのとは違って、その立体感、奥行き感は本当に素晴らしい。生ならではです。テンポよくあっという間に1時間が過ぎてしまいました。初めて観るラインダンスにもちょっと感激。若いこの子たちの内、誰がこの厳しい世界を勝ち抜いていくんでしょうか。
 教え子に言わせると、今回のショーはどちらかというと特殊な感じだったということでした。たしかに黒燕尾によるダンディーなダンスのシーンなんかはありませんでしたね。でも、しっかり純愛カタルシスも表現されていて満足いくものでした。
 あっ、あと感動したのは、バンドというかオーケストラのうまさですね。よく訓練されてます。編曲的にもけっこう楽しめましたけれど、演奏自体をよく聴いていても面白かった。特に感心したのは、弦楽器の方々ですね。特に途中のヴァイオリン二重奏は美しかった。ヴィブラートを抑え、正確な音程で絡んでいて実に古楽的。一瞬、バロックオペラを鑑賞しているのかと思ったほどです。GJ!!
 というわけで、ちょっと不満も残る部分もありましたが、全体としてはやはり豪華絢爛かつよく訓練されたパフォーマンスで感激しましたね。女性の心理的な部分も含めた文化的考察もかなりできましたし満足です。それにしてもなあ、以前も書きましたけれど、なんであんなにたくさんスタイリッシュな美女が集まってるのに、私は「女性」を感じないのだろう。やはり、巧みに女性性を隠蔽してるんだよなあ。それが女性の支持を得ている理由なんでしょうね。そういう意味ではやはり歌舞伎の対極とは言えないし、BL世界とも明らかに手段が違うよなあ。ジャニーズ的発想とも違うし、どちらかというと韓流の世界に近いかなあ。不思議な妄想世界です。もっともっと研究してみたいと思いました。また機会があったら観てみましょう。

花組スペシャルサイト

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2008.08.09

『常識はウソだらけ』 日垣隆 (WAC)

Hudhfa 球温暖化問題をはじめとする環境問題が、結局のところ政治問題、そして政治は経済のためのもの、すなわち環境問題がカネになるというようなことを、繰りかえし書いてきました。
 世の中でも、それに関する論議が盛んです。環境問題のウソのような本が出るかと思えば、環境問題のウソのウソのような本も出る始末。結局、カネになるんですよね。
 友人から借りたこの本は、環境問題に限らず、さまざまな世のブームや世の常識が実はウソであるということを語っています。
 採り上げられている「常識=ウソ」は次の八つ。
1 リサイクル
2 定期検診
3 血液型診断
4 犯罪報道
5 動物保護
6 クジラ肉
7 不妊治療
8 カウンセラー
 これらのいずれもが、私たちの知っている常識とはかけ離れた実情を持っているというわけです。それぞれの専門分野の方々に、日垣さんがインタビューするという形式のため、適度なツッコミも入るし、また私たちシロウトの代弁(疑問)もあるので、全体に読みやすいし理解しやすい。
 本当なら「賛成派」と「反対派」みたいに、別の立場の人たちの論議をすれば面白いかもしれないけれども、しかし、それをやってしまうと、どこかのテレビ番組のように、どうせ収拾がつかなくなるだけですから、まあこういう一方的な語りというのも、わかりやすくていいんじゃないでしょうか。
 結局は、ここで語られていることも含めて、我々が情報を鵜呑みにするのではなく、ある程度は自分の頭で考えてみる必要があるということでしょうね。そして、自分の立ち位置を自分で決めると。もちろん、その位置はいつでも変わっていいわけですし、あるいは常に自己検証していかねばならないということですよね。
 学校の先生なんかやってると、ほとんどが暗記させるばかりになりがちです。まあ私も生徒だったころはそうでしたが、教科書に書いてあることや先生の言うこと、あるいはニュースや新聞で報道されることは正しいと思っていましたっけ。
 それがいつごろからでしょうね。世の中、というか大人の世界がウソで固められているということを意識したのは。そして、そのウソが結局カネのためのものであるということを知ったのは。自分がそういう大人になってみて分かったんでしょうかね。
 最近、思うんですよね。資本主義、市場経済主義というのは、人間の悪い部分を助長するシステムだって。オリンピックを観てても思うんですよ。ルールぎりぎりまで悪いことしたヤツ、いや、見つからないように悪いことしたヤツが勝つ世界なんですよ。自由に競争させると、そういうことになる。悪いことしないと勝てない、もうからない。正直者はバカを見てしまう。偽装だって単純にそういうことです。単なるカネのためのウソですよね。
 今日、谷亮子選手が準決勝で負けました。柔道がスポーツになりさがった結果、あんな柔道でもなんでもない試合を見るハメになってしまう。勝ち負けをガチンコでやると、ああいうずるい試合になってしまう。あれは柔道でもなんでもないですよ。
 と、全然関係ない話になってしまいましたが、人間は単なる勝ち負けだけにとらわれると、いやなヤツになっちゃうんです。いかに相手をだますか、ということに終始してしまうんです。この本で挙げられている「常識=ウソ」もそういうことでしょう。
 かといって、単なる勝ち負けではない経済システムである共産主義は、別の意味で人間を堕落させます。やっぱり第三の経済システムを考える必要があるんでしょうね。仏教経済学かなあ。仏教経済学だったらこの本の八つの常識はずいぶんと違ったとらえ方になりそうですね。

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2008.08.08

サラリンピック2008

Sala08 京オリンピックの開会式を観てましたが、いかにもバブリーな中国の自慢話大会みたいな感じになっていて、だんだんこちらのテンションが下がってきてしまったので、気付けに録画してあった「サラリンピック」の方を観ました。気合いが入ったぞ。
 オリンピックと同時期に行われる大会としてはパラリンピックがありますが、「サラリンピック」なるものが、もうすでに開幕していたとは、さらにそれが東京で行われていたとは知りませんでした(笑)。
 ご存知ない方にはぜひ観ていただきたいのですが、残念ながら動画はアップできませんので、NHKさんのサイトで雰囲気を感じて下さい。
 まずは「男子 200M 通勤 障害 決勝」です。こちらで静止画をどうぞ。
 いやあ、静止画では雰囲気が伝わらず残念なんですが、なんといっても実況が廣田直敬アナウンサーというのがいいですね。ものすごい臨場感というか、リアリズムです。NHK、こだわってますね。その語り口のみならず、シナリオがお見事。
 この競技、200メートルの間に、都会のサラリーマンの通勤時にふりかかる(のか?)障害が四つセットされています。
 まず、第一障害は「ゴミ捨て」です。「今日は燃えるゴミの日です」というさりげない廣田アナ、最高っす。ここでアクシデントが発生。アメリカの選手、まさかの「分別ミス」で反則、主婦に怒られます(笑)。
 第二障害は「改札」。最近の電子化のため、ICカードが必要になるんですが、ジャマイカと中国の選手は改札機を飛び越えちゃいます。これはなぜか反則ではない…あとで電車代を請求されると解説されていますが。
 第三障害は「立ち食いそば」。ここではジャマイカの選手が、箸の使い方がわからず難渋(笑)。イタリアは意外にもフォークとスプーンで対抗。パスタ感覚でそばを食します。
 第四障害は「満員電車」。ここはやはり日本人が強いか!?そばでは健闘したイタリア人、なんと満員電車内で運命の女(ひと)に出会ってしまい、もう競技を忘れて求愛を始めてしまいます(笑)。「恐れていたことが大切な決勝で起きてしまいました」と廣田アナ。
 そしてゴール。結局、写真判定の結果、「ネクタイの差」で中国が優勝。日本敗れたり!
 次の競技は「男子 くし投げ 決勝」。こちらで静止画をどうぞ。
 この競技はシンプルです。やり投げの串版ですね。しかし、どの串を選ぶかというような、ある種の作戦や心理戦が見どころのようです。まあtorikawaの串とnegimaの串とで、どのように飛距離が変るのか、全くわかりませんが…笑。
 結果として、この競技では日本の藤田が世界新記録で優勝!ゆずの「栄光の架橋」をバックにスローモーションで再生される感動シーンには、思わずホントに涙が…。
 まあ、とにかく面白いですよ、これ。できれば他の競技も観てみたいですねえ。次は4年後、戦いの舞台は「西葛西」だそうです(笑)。もう、まったくぅ、NHKさんったら…面白過ぎですよ。
 15日深夜というか16日早朝(午前3時25分から)に再放送がありますから、ぜひご覧下さい。

サラリーマンNEO公式

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2008.08.07

『平井澄子の世界 雪 残月』

M0009582901 「中能島欣一の至芸」の記事にコメントを下さった岡山の若冲さんのご厚意により、聴かせていただくことができました。
 この録音も今では廃盤になり、たいへん希少な存在となっております。私も初めて聴きました。
 これは、中能島欣一の至芸とは全く正反対のすごさを感じる音楽ですね。こちらを聴きますと、中能島先生の表現したものが、西洋風にさえ感じられます(実際そうなのでしょうが)。
 私は多少邦楽をかじったとは言え、さきの記事にも書いたとおり、それは何もわからずやっていたに過ぎず、ここ数年でようやくその面白みや聴き方がわかってきた程度のリスナーであるわけです。ですから、偉そうなことは何も言えません。西洋音楽だけが音楽ではないとはわかっていても、弾く方も聴く方も圧倒的に西洋音楽が多いものですから、どうしても「耳」がそちら用に進化…いや退化してしまっていて、今ようやくそれをリハビリによって回復しつつあるという感じなんです。
 そんなリハビリ中の私の予感としては、最終的にはこの平井澄子さんの唄の世界に行き着きそうなんですね。この声、この歌はある意味衝撃的です。三弦もそうなんですけれど、平井さんの音は、たしかに邦楽の音です。武満徹の言う日本の音そのものです。
 西洋的な意味では、決してヴィルトゥオーソではありませんが、しかしたしかに名人です。至芸です。一音一音にかける魂。しかし,音を作るのではなく、あくまでそこに生まれるべくして生まれてくる音に忠実になっているのだと思います。
 こういうある種純粋に立ち上がる音世界に包まれますと、それこそ耳のリハビリは順調に進みます。耳から脳へ。私の中の純粋な日本人の脳がようやくよみがえるようにも思えます。
 小泉文夫さんも言っているように、西洋風(ドイツ風ですか)の音楽教育というのは全く恐ろしいですね。特にヤマハ音楽教室!ある意味言語統制よりもたちが悪いかもしれない(笑)。
 そういう意味では、私はようやく母語を取り戻しつつあるのかもしれませんし、いや小泉さんの言葉どおり、こういう平井さん的音世界は、もしかするとものすごく成熟した世界なのかもしれません。
 今、ちょうど何人かに「楽典」を教えているんですが、あまりにシステマチックで、あるいはシンプルで、それはたしかに驚きであり、また快感でもあるのですが、逆に人間はこんなに単純化できないよなあ、と思うのも事実です。西洋音楽はある意味宇宙の法則の発見に努めてきたわけですが、こうした邦楽はもう少し身近な自然の音、その瞬間瞬間の風のささやきとか、鳥のさえずりとか、川のせせらぎとか、そういうものと、そして今の自分の心…それもまた瞬間瞬間の自然の営みなのでしょうが…を表現しているように感じられますね。
 このCD、どの楽曲も素晴らしい演奏なのですが、やはり「熊野」における楽器群と歌の微妙な、すなわち微かで妙なる響き合い…それは全く和声的な響きではないわけですが…に感動します。目をつぶって聴いていますと、様々な風景が浮かんできますね。そこは行ったことのない場所でありますが、しかし間違いなく知っている風景です。
 平井澄子さんは山田流箏曲の家柄でありながら、生田流はもちろん、その他八雲琴や、地歌、新内、謡曲、また自作の作品まで、ジャンルやカテゴリーを超えて活躍された方です。おそらくそういう世間的な区分けを超越した境地に達していらしたんでしょう。ただただそこには「うた」があっただけだったのでは。
 大学時代、卒論のために「糸竹初心集」収録の作品を平井さんの演奏で何曲か聴いたのを思い出しました。当時の私は西洋音楽のオリジナル主義に入れ込んでいましたので、そういう意味で楽譜を読み解き、そういう意味で平井さんの演奏を聴いていたんですね。ですから、恥ずかしながら、感動しないどころか批判的な感想を持ちました。まあ、それは若気の至りということで。それこそ四半世紀ぶりくらいにその演奏も聴き直してみたくなりました。
 このような素晴らしい機会を与えて下さいました岡山の若冲さんに心から感謝致します。

Amazon 平井澄子の世界 雪 残月

「平井澄子の会」の部屋

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2008.08.06

『ヒロシマ ナガサキ~白い光 黒い雨 あの夏の記憶~』 スティーヴン・オカザキ監督作品

White Light, Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki
0e1314d188b5248d59fd32678c2e30fe 島原爆の日。録画してあったこのドキュメンタリー映画を観ました。カナダで催されたバンフテレビ祭でグランプリとNHK賞を受賞した作品です。
 ううう…言葉がありません。辛くて辛くてしかたありません。しかし、私の辛さが彼らを救うというわけでもなく、さらに辛くなってしまう…。
 今までも原爆にまつわる様々な作品に接してきましたが、これが一番心に突き刺さりました。
 アカデミー賞受賞作家であるS・オカザキさんが、広島・長崎の被爆者や、原爆の開発、投下に関わったアメリカ人を徹底的にインタビューして、被爆の実態を伝えようとしたのがこの作品です。彼が実際に会って話を聞いた人物は、実に500人に及ぶといいます。
 S・オカザキさんは日系3世。その微妙な立場がこの作品を公平かつ客観的にしていると感じました。もちろん、これはあくまで「作品」であり、またあくまで生き残った方の言葉でありますから、表現しきれていないものも無数にありますでしょう。しかし、それらの重い存在をしっかり感じさせてくれるには充分な作品であると思いました。
080731hironaga02 被爆直後の映像や、今も被爆者の体に残る生々しい原爆の傷跡は、正直直視できないものでした。しかし、それもやはりあくまでほんの一部であり、彼らの心の傷、そして戦後も彼らを苦しめ続けた原爆病など、私たちが知らないこと、知らされていないこと、知ろうとしないことは、きっと無数にあるのでしょう。
 作品の冒頭、渋谷の若者たちが「1945年8月6日」に何があったか全く知らない様子が紹介されます。ウチの学校の生徒たちも、はっきり言ってそういう調子です。それがとんでもなく悪いことなのか、彼らを責めるべきなのかどうかは、これは難しい問題です。歴史や記憶というものは、当然そういう運命のものであり、それを「語り継ぐ」ことの難しさ、あるいはその「語り継ぐ」ことの中に生じるいろいろな立場の感情や意図の危険も理解できます。しかし、今日は思いましたね、無数の「語り」が集まれば、いつか真理に近づけるんではないかと。事実や真実に到達はできないけれど、人間としての真理には近づけるのではないかと。断言はもちろんできませんが、そんな気がしました。
 番組では、作品終了後、アメリカの高校生たちの感想も紹介されていました。彼らもほとんど学校で広島・長崎を教わっていません。ずいぶんとショックを受けているようでした。日本人の高校生にも近いうちに見せようと思います。人間の、それも自分たちのすぐ近くの世代の、身近な人間たちが犯した過ちを知ることは、やはり知らないことよりも意味があると思います。
 核兵器による攻撃を世界で唯一受けてしまった国、それも2度も受けてしまった国、日本。核兵器を2回も使ってしまったアメリカ。それもたった63年前の話です。そして、それを忘れてしまっている両国。私たち。現在、世界には広島型原子爆弾の40万個分に相当する核兵器があります。
 とにかくこの作品をご覧になっていない方は、ぜひご覧下さい。7日の午後2時から、BSハイビジョンで再放送されます。また、DVDも発売されています。

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2008.08.05

『台風クラブ』 相米慎二監督作品

Pibd7074 日続けてのものすごい雷雨。そして停電。今夜は河口湖の湖上祭だというのにこの天気。
 落雷のため電車も動かなくなり、学校には帰るに帰れない生徒たちが残っています。
 ああ、じゃあ「台風クラブ」でも観るか、ということになりました。ちょうどこの前テレビでやっていたのを観たばかりですが、こうして学校で生徒と外の嵐の音を聴きながら観る「台風クラブ」も、なかなかいいものです。
 さすがにここは教育現場ですのでディレクターカット版ではなく、ずいぶん前に地上波でやったものの録画を引っ張り出してきました。たしかロケで使われた学校でも完成記念上映会をやるはずだったのが、あまりに刺激的(過激)な内容だったため、中止になったんですよね。このテレビ版、マニア的にはほとんど全ての肝心な部分がカットされてしまっているのですが、まあ仕方ないでしょう。それでも充分魅力的な観賞会になったと思います。こういうシチュエーションはなかなかないよなあ。
 さて、数年前に本当に若くして亡くなってしまった相米慎二監督。私も若い頃彼の作品にすっかり惚れ込んでいました。この「台風クラブ」はもちろん、そうだなあ、ワタクシ的には渋く「魚影の群れ」とか「光る女」とか、あと日活ロマンポルノの「ラブホテル」も良かったなあ。あれは感動したなあ。名作ですよ。
 相米さんと言えば長回しと言われますが、まあたしかにそれも特徴であるし、あの独特の緊張感はそこから生まれるのだと思いますけれど、私はそれ以上に光と影の使い方が上手だと感じていましたね。
 この「台風クラブ」でも、作品全体が「光と影」「明と暗」できっちりまとめあげられていますね。そこに「男と女」「日常と非日常」「大人と子ども」「都会と田舎」「家庭と学校」「純愛と性欲」「生と死」「昨日と今日」「今日と明日」などといった数々のコントラストが重ねられていきます。
Atg170 そうしたコントラストのそれぞれの境界線上におかれた中学生たち。大人になった私も、そして高校生もちょっと懐かしいそんな過去の自分にノスタルジーを感じながら、作品世界に引き込まれていきます。
 誰もが何かを期待してしまう台風の直撃。本来なら忌むべき存在である台風を待望してしまう後ろめたさ。何もかもを洗い流し、乱暴なまでに全てをはぎとってしまう雨と風。水と空気がこんなにも存在感を示すことはそうありません。そうした非日常性と祭性の関係は、日本の神道の本質とつながっているような気もします。そして、荒々しい通過儀礼を経て、私たちは一つの境界線を乗り越え、違った自分に生まれかわるのか…いや、そこにはまた変らない日常や現実や自分があったりするんですよね。
 そういう、不安定でありながら、しかしその不安定であることは普遍的であることを見事に表現した映画であると思います。私たちはそういうマージナルな不安定さに、不思議と魅力を感じ、あるいは憧れすら感じるんですね。大人になって、全てが固定化され、ある意味安定していくことに、我々はなぜか不安や不満を感じてしまいます。大人になること、きっとそれは世間というフィクションによって縛られていくことなのでしょう。
 このテレビ放映版では肝心な部分がカットされていると書きましたが、そのカットされている部分はちょっと意味不明なシュールな表現がほとんどです。相米監督は寺田農さんを仲立ちとして実相寺昭雄さんとも親交があったとのことです。時々現れるシュールなシーンは、もしかすると実相寺監督の影響かもしれませんね。現実に突如穴をあける異界への入り口。そこに意味など読み取らなくていいと思います。
 相米監督はたくさんの優れた女優を育てました。この映画での工藤夕貴は今では世界的な女優さんです。ほかに薬師丸ひろ子、牧瀬里穂などなど…。プロレスラーの武藤敬司さんやジャズシンガーのMonday満ちるさんも、相米監督に演技を鍛えられ、本業でもその経験が活かされたと語っています。
 そうそう、役者さんと言えば、この映画での、あの先生役の三浦友和さん。これは本当にうまい。こういう先生いる…というか、先生って本質的にこうですよ(笑)。二枚目路線からいきなりこれですからね。素晴らしい役者さんに成長しました。私もこの作品で彼のことを一気に好きになりました。たしかに、山口百恵が惚れるだけのことはあるな、と。
 最後に。相米監督は、「光る女」の頃から、武田泰淳さんの「富士」を映画化したいと考えていたようです。残念ながら実現しませんでしたが、「もしも」と考えて妄想するのもまた楽しいものです。私の中ではいくつかのシーンがはっきり見えるような気がするんです。
 
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2008.08.04

ドラマ 『こころ』 (東芝日曜劇場1991年)

Kkr1 かのクラスで漱石の「こころ」を読むのが夏休みの宿題となっているのを見て、あっウチではこれにしよう、と見せたのがこのビデオです。「こころ」って前半退屈なんだよなあ。あれが宿題だと大変だろうなあ。のべ何時間かかるんだろう…ウチは43分ですませちゃおう!なんていう、まあ国語の先生とは思えない発想です。
 「こころ」は最高のサイコ・サスペンス、いや、ある意味事件未解決だからサイコ・スリラーかな(笑)、いずれにしてもまさに人間の「心」を描いた超傑作であることは認めます。全体像はともかくも、それぞれの部分、特に「先生と遺書」の部分の心中表現や、心の屈折した反映といえる各セリフは、不自然なほどに計算され尽くされていると思います。
 さあ、それをなぜ私は映像作品で見せてしまうのか。それは非常に単純な話でして、さっきも書いた通り、ちゃんと読むのが非常に面倒くさいからです。そして、それを授業でやるとなると、もちろん全部読むことはできない(1年かけて全部読む先生も全国にはいらっしゃるようですが、なんとなく自己満足で終わっているような気もします)。教科書に載っているのもやはり「先生と遺書」の一部分だけ。つまり、サイコ的に一番面白く、一番ドキドキし、一番いろいろな解釈ができ、一番妄想力を発揮できる部分を、教室で読まねばならなくなってしまうわけです。
Kkr2 これは私には耐えられないことです。それは国語の授業でなく、個人的な「読書」でやるべきだと思っています(もちろん、私は国語は読書の時間ではないと思っていますし)。もともと読書というのは、人から押しつけられてするものではないし、ましてや人の解釈を押しつけられてそれを暗記してテストで答えるという性質のものではありません。そしてそしてもちろん「感想文」なんていうモノを書くための読書なんてありえないと思っています。
 と、こんな変な教師に習っている生徒は可哀想ですけど、まあ仕方ないですね。とにかく私のクラスはほかにやることがいろいろあるんで、読書はやりたいヤツがやりたい所で読みたいものを読め、というスタンスなんです。
 さて、「こころ」の映像作品ですが、私は5種類持っていました。持っていました…と過去形で書いたのは、ちょっと事情があって、今は(たぶん)一つしか手もとに残っていないからです。紛失した四つを含めてちょっと紹介しますと、まず一番古いのが1955年日活の映画、市川崑監督作品です。これは「私(先生)」役の森雅之の演技が素晴らしかった。比較的原作に忠実であったと記憶しています。
Kkr3 次が新藤兼人監督の映画「心」。これは1973年の作品で、まあ時代的なこともあってですね、かなり現代的、実験的な描き方をしておりました。教材としては…本当は一番面白いのかもしれませんが、いちおう使用を自重しておりました。
 続いて、今回見せたイッセー尾形主演のドラマです。これは1991年に「東芝日曜劇場」で単発ドラマとして放映されたもので、私の大好きな作品です。これについてはのちほど。
 そして、やはり90年代に放送されたものを録画したのだと記憶しているのですが、加藤剛の舞台版の映像です。NHKで放送したんだろうな。これもなかなか面白い演出が施されていて良かったのですが、教材としてはちょっと地味ということで1回使用したきりです。
 一番新しいのが、1994年にテレビ東京で放映された2時間ドラマです。これも原作にかなり忠実、かつ重厚な演出の佳作でした。先生役は勝村政信→加藤剛でした。お嬢さん役は葉月里緒菜→高橋恵子で、いずれもちょっと学生時代とその後の役者的連結がうまくいっていなかったかな(当然加藤剛と高橋恵子が圧倒的にうまい)。これは何回か授業で使いましたね。
Kkr4 さて、今日見せたイッセー尾形版(とあえて申します)のドラマですが、これはすごいですよ。だいいちあの長編を実質43分くらいにまとめちゃってるんですから。ほかの作品は、比較的長い時間をかけて原作に忠実に描こうとするが、そうしようとすればするほど困難な状況に陥っているのが伝わってくるのに対して、こちらは最初から割り切っています。そこがいい。演出もあえて写実的でない手法を使っています。つまりいわゆるテレビドラマの枠の中で作っていないんですね。最初の海のシーンからして、まるで舞台の書き割り、遠見のようです。その潔さによって作品全体が救われていますね。池田徹朗さんの演出と宮内婦貴子さんの脚本の妙です。
 そして、なんと言っても、イッセー尾形さんでしょう!彼が学生時代とその後の「私(先生)」の両方を見事に演じています。いや、彼の演技もとてもドラマのそれとは思えません。生徒たちなんか、とっても不自然に感じたんじゃないでしょうか。ものすごい存在感です。それに対抗するK役の平田満がまたいい。はまり役ですよ。こちらは普通にうまい(笑)。お嬢さん役の毬谷友子もいいですね。宝塚を退団後の名演技の一つでしょう。ちょっと笑いすぎな感じもしますけど、まあ原作にもそうありますから、まあいいか。今考えると、こりゃあすごいキャスティングですよねえ。あっちなみに遺書を受け取る学生役は別所哲也です。
Kkr5 あと個人的に印象に残っているのは音楽です。全編にわたってバッハの平均率が流れています。それも基本的にこちらのジョン・ルイス盤です!!これが漱石に合ってるんだよなあ。バッハと漱石かあ…思い出すのはグールドだなあ。とにかくこれが漱石とバッハの取り合わせが本当にいい。バッハのフーガと人間の運命が見事に共鳴している。
 うむ、これは伝説的な映像作品でしょう。今、こういう作品はできないだろうなあ。あの頃の東芝日曜劇場は単発で良かった。単発1時間枠だからできる面白さというのがあったと思うんですが。連ドラになってから全く観なくなってしまいました。
 この作品を観た生徒の何人かは、きっと原作に向かってくれることでしょう。それでいいと思います。こういう時代ですから、映像作品が文学作品の予告編でいいのです。つまり、これですね。

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2008.08.03

歌謡曲バンド「みちのく」ライヴ

↓出演前のゆるい雰囲気
楽屋ではありません。ここで演奏しました(笑)。
080803 塚不二夫さんの訃報にうちひしがれながらも、私たちも皆さんに笑いを提供しなくてはなりません。赤塚さんの遺志を少しでも継いで行かねば。
 今回は告知していなかったのですが、ウチのバンドが夏フェス野外ライヴ初参加(?)を果たしました。場所は、初アリーナ公演(?)実現の地、道の駅富士吉田です。
 ま、実のところは、道の駅の夏のイベント「リフレふじよしだ夏祭り」の出し物として、富士山レーダードーム芝生広場で演奏したというわけですが。
 けっこう急な出演決定でしたし、なにしろ私も忙しくて練習のヒマがなかったものですから、ほとんどゲリラライヴみたいになりました。例によって本番2時間前くらいにウチに集まって、ささっと合わせて、まあ大丈夫そうだな、というパターンです。あとは本番の集中力でなんとかすると。練習でいきなり2曲増え、さらに本番で時間が余ったのでまた2曲増えるし(笑)。すごいライヴ(なまもの)だ。
 今回はベーシスト、ギタリスト、パーカッショニストなど、ほとんどのメンバーの都合がつかなかったものですから、特別編成、名称も「ふじやま」ではなく「みちのく」で行きました。
 なぜ、「みちのく」かと言いますと、ヴォーカルの二人が東北出身(秋田&青森)だからです。猛暑の中、「みちのく」というと少しは涼しくなるんじゃないかとも思いまして。
 あとは、私のヴァイオリン&三味線と、キーボード(ピアノ)のみという、アコースティック(アンプラグド)なバンドです。
 演奏した曲目は次のとおり。今回は「みちのく」にちなんで、あの伊藤秀志さんのZuZuナンバーを3曲カバーさせていただきました。あとは、東北を舞台にした曲を何曲か。横文字の2曲はなんとなく…です。まあ相変わらずメチャクチャなセットリストですな。

1 真赤な太陽(美空ひばり)
2 お祭りマンボ(美空ひばり)
3 夢の中へ(東北弁ヴァージョン〜井上陽水)
4 大きな古時計(東北弁ヴァージョン)
5 亜麻色の髪の乙女(東北弁ヴァージョン〜ヴィレッジシンガーズ)
6 津軽海峡・冬景色(石川さゆり)
7 リンゴの唄(並木路子)
8 For You(高橋真梨子)
9 帰ってこいよ(松村和子)
10 Sweet Memories(松田聖子)

 ものすごい炎天下だったので、お客さんは遠くの木陰で聞いているという感じでした。いやあ、夏フェスって大変ですね。あの暑さの中で「津軽海峡・冬景色」もどうかと思いますが(笑)。ま、面白きゃいいでしょ。お祭りですから。
 ビデオを持っていくのを忘れたので、今回は音はありません。個人的には、「夢の中へ」で三味線のリードソロをアドリブでやったのが楽しかったかな(苦笑)。
 この新ユニット「みちのく」もけっこう面白かったかも。こんな内容で良かったらどこででもやりますので、ぜひ声をかけてください。身軽なのでどこへでも飛んでいけますね。

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2008.08.02

追悼!赤塚不二夫…

Akatsuka98 星墜つ。現代の物の怪が亡くなりました。とうとうこの日が来てしまった。
 このブログの名前の由来の一つにもなっている赤塚不二夫さんがお亡くなりになりました。
 「あっオッパイだ!」という最後の言葉から6年。彼にとっては、表現できないこの長い日々はきっと苦痛であったでしょう。いや、脳内妄想の世界で自由に遊んでいたのでしょうか。とうとう本当に霊界物語の世界に逝かれてしまったのですね。
 今年になって、赤塚関係の本や映画やテレビ番組などを続けざまに読んだり観たりして、記事に書いてきたのは、私も何かを予感していたのでしょうか。
 また一つの時代が終わったような気がします。それは「昭和」なのでしょうか。「古き良き日本」なのでしょうか。「モノ」が息づいていた時代なのでしょうか。
 今日は、テレビで黒澤明の「生きる」、相米慎二の「台風クラブ」が放映されていましたので、そのどちらかについて書こうかと思っていました。この二人も先に霊界に旅立たれた昭和の巨星です。
 タモリさんもさぞショックを受けていることでしょう。私でさえ、これだけうちひしがれているのですから…。ただ、こうして哀しみ、憂えていても始まりません。彼らの残してくれた財産をしっかり味わい、継承すべきものはしっかり継承していかなければなりませんね。
 「人生は楽しい」ということを教えてくれた赤塚さん。「世界の全ての存在は天才でバカである」ということを教えてくれた赤塚さん。「世の現象は全てギャグである」ということを教えてくれた赤塚さん。本当にお疲れさまでした。あなた自身も、あなたの作品も生き続けます。これでいいのだ!

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2008.08.01

『「日本文学史序説」補講』 加藤周一 (かもがわ出版) 

78030054 は今日まで進学合宿でした。そしてそれが終了してすぐに宿泊座禅。ちょっときついスケジュールでして、その中でいろいろと読んだり考えたり書いたり、そして遊んだりするのは、けっこうキツいのであります。
 でもそういう時こそ能率的にいろいろなことをこなせるものでして、たとえば本を読むにも普通なら1週間かかるところを1時間半で読めてしまったりします(って、ずいぶん極端ですな)。まあ、私が1時間半で1冊読む時というのは、やはりそういう読み方をしているのであって、決して速読術などを身につけているのではありません。いつも言う通り、「即読術=即席読書術」であります。
 この本、本来ならそんな即読術で読むべき本ではないのかもしれません。いや、こういう難しいというか、いや決して難しく書いてあるわけではないな、なんというか堅いというか、まじめな本は、熟読しだすと、ホントに難渋してなかなか進まなくなり、そのうち放り出してしまうんですよね。だから、案外こういう忙しい時にさっと読んでしまうというのもいいものなんです。読まないよりはさっと読んだ方がいいに決まっています。
 忙中閑あり、というのはこういうことなんでしょうかね。暇中閑なし、とも言えますね。「では時間がある時にまたゆっくりと…」という常套句の意味は「もう○○しません」ということですよね、大概。
 さて、今回の忙中に携帯していたのは、一昨日の記事に書いた日本文化における時間と空間と、この本です。加藤周一さんのこれらの本、評判がいいようだし、いちおう国語のセンセイとして読んでおこうかなと。
 で、先に日本文化における時間と空間を即読しまして、即読のくせにあのような生意気なことを書いたワケですね。「源氏物語はどうなんだ?」みたいな態度で。で、その源氏物語についてもちゃんと書いてありました。「もののあはれ」「ものおもひ」の系譜として。なんだ、結局そういうことか。つまり加藤さんの中では、「今=ここ」と「もののあはれ」は対照されてないんですね、私と違って。
 まあ、それはいいとしまして、この本もあまりにも話が古今東西なんでもござれ!(ってどっかで見た啖呵ですな)でして、正直即読脳には混乱を来すだけ。だいいち、これは「補講」ですからね。「日本文学序説」本体をちゃんと読んでいない(部分的にはずいぶん読んだ)のに、いきなり補講に行っても、そりゃあ分からんでしょう。
 ただ一つ面白いし、自分も考えてみようと思ったのは、「万葉集」と「古今和歌集」のコントラストの部分です。そう、賀茂真淵が「万葉集」に入れ込んで、そしてそれを「ますらをぶり(益荒男振り)」と評し、弟子の本居宣長が「古今集」に入れ込んで、それを「たをやめぶり(手弱女振り)」と評したことに関する部分ですね。「万」が男っぽくて、「古」が女っぽいということ。
 私はこのことに関して前々から異議を申し立てていたんです。「万葉集」が「行動的」「直情的」なのはわかります。また、「古今集」がうじうじしているというのも。でも、それを「男性的」「女性的」としてしまうのはどうかと。いや、あのような多様で大規模な歌集たちを、そうやって二分することにも問題がありますが、そこはまあ分かりやすくするための方便として許しましょう。で、そうやって二分した時に、私は「行動的」「直情的」な方が「女性的」、うじうじとしている方が「男性的」だと思うんですよ。
 加藤さんはそこまで言っていませんが、しかし、一般的なキャラクタライズでは、「いまのフェミニストなら抗議するでしょう。そういうことは男性の考えた妄想に過ぎない、単なる男女差別の表現に過ぎないと批判されるだろうと思います」と書いています。私は色気のない美しくない(失礼)フェミニストは嫌いですが、ことこのことに関してはちょっとフェミニストさんの肩を持ちたくなります。
 いつも書いているように、私は、加藤さん流に言えば「今=ここ」的、ワタクシ流に言えば「萌え=をかし」的・「コト」的な感性や表現というのは、本来女性の専売特許であると考えているんです。そして、その反対、時間の流れに翻弄されウジウジしている「もののあはれ・ものおもひ」的・「モノ」的な感性や表現というのは、実は男性の方が得意であると(もちろん、それはそれぞれの指向・思考・嗜好の傾向であって、それ本体はその逆、すなわち女性が「物の怪」的であり、男性が「仕事」的なんですが)。
 そうしますと、私にしてみると、「万葉集」は女性的、「古今集」は男性的ということになるんです。あんまり深く考えないで、その場の感情に流されるのは、どちらかというと女性の方ではないでしょうか(なんて書くとそれこそフェミニストさんに怒られそうですね)。一方、過去を引きずって、未来を必要以上に憂えたりするのは、実は男性であったりしませんか?
 だから、これも以前書いたような気がしますけど、私にとっては「枕草子」はとっても感覚的で女性的、「源氏物語」はとっても理知的で男性的に感じるんです。教科書には逆に書いてあって、私は授業で困っちゃうんですけどね(笑)。「源氏物語」はやっぱり男の手によって書かれたんじゃないでしょうか。私は「男の勘」でそう信じています。
 と、この本ではそれほど重要ではない末節にこだわったワタクシでありました。そんなふうな即読でしたから、結局「日本」とは「文学」とは「歴史」とは「日本文学」とは「日本文学の歴史」とは、という根幹の部分がちっとも読み取れませんでした。すみません。

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