『女の男性論』より 大庭みな子
ちょっと忙しいので、今日は面白い文章を引用して終わりにします。今日、授業で千葉大学の過去問をやっていたら、こういう文に出会いました。生徒たちにはちょっと難しかったかな。
大庭みな子さんの『女の男性論』からの抜粋です。フェミニストとしても有名だった大庭さんですから、ちょっとそういう強さを感じる言葉が並んでいますけれど、それでも、なるほどと思わせるものです。男女関係、夫婦関係に限らない話だと思えば、実に面白いし、真実をするどくついていることに気づきますね。
昨日のフレッド・ブラッシーではありませんが、プロレスなどまさにこうして、悪妻(ヒール)が善夫(ベビーフェイス)を輝かせるのでしょう(ウチはどうかな?)。
私たち(男)は太陽ではなく、夜の月を目指さねばならないのですね。私はまだまだ消え入るような昼の月です。大庭さん自身はどうだったのでしょうか。輝く悪妻だったのでしょうか。
大庭さんは昨年亡くなりました。晩年の彼女を介護した夫利雄さんの「終わりの蜜月―大庭みな子の介護日誌」を読むと、なんだか利雄さんが良妻賢母のように思えるんですね。みな子さんが、ずっとずっと女性を描き続け、女性の権利を守ろうとしてきたその根底には、なんとなく彼女の中の「男」性があるような気もします。この文もどちらかというと男性的な硬質さを持っていますね。
大庭さんご夫婦をプロレスになぞらえるのは申し訳ありませんが、いろいろな意味で演劇的な、役割や価値の逆転といいますか、美しい物語を生むプロレス的な「変化(へんげ)」のあったペアであったとのだなあと感じます。
では、お読みください。
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ソクラテス、トルストイ、モーツァルト、夏目漱石などの妻はもっぱら悪妻の評が高いが、人びとは果して、この悪妻に苦しめられた夫たちに同情しているのであろうか。もしかしたらやっかんでいるのかもしれない。
彼らはそれぞれに立派な仕事をしたといわれている人びとであり、それも、ほかのことよりは人間に深いかかわりを持った分野で功を遂げた。
だとすれば、彼らがかりに悪妻を持っていたとしても、そのことはプラスにはなっても、マイナスにはならなかったのだろう。
もし、そういう困った妻を持っていなかったら、彼らが今世に誇っているような作品の数々は、生み出されなかったと考えたほうがよい。
彼女たちはある意味ではっきりとした性格を持っていたからこそ、夫たちの人格をよりいっそう映えさせる役割を務め得たのであって、またそれらの性格は多かれ少なかれ、その夫たちによって培われたものでもあったのだ。
芸術家を気取る人たちの中には、自分の性的な役割を常に上位に誇示することで、というより、ひどく身勝手な放埓さが相手の異性の自我を殺してしまうのをとくとくとして述べることで、自分が正真正銘の芸術家であると証明できるように思いこんでいる人がいるが、それは幾分滑稽である。
なぜなら、彼の自我にやすやすと殺されてしまうような弱い自我の持主しか性的な対象に得られなかった場合は、その作品は精彩に乏しい、説得性に欠ける一方的なものであるのが普通だからだ。
どのようにあがいても殺すことができないほど、強力な他者としての伴侶としのぎを削る中で、彼の作品は錬磨され、真実に近づいていく。
対象が微弱である場合は、どんなに弁舌をふるったところで、その光は昼の月のようにはかない。もっとも、彼自身は結構太陽のようにさんさんと照り輝いている、と信じこんでいるむきもあるが、他者とはすなわち世界とも言うべきものであって、どんな巨人でも自己を太陽に見立てるのはやめたほうがよい。仏陀だのキリストだのという人は、他者を認識することで、夜の月となり得たのだ。
悪妻の話に戻ろう。
悪妻というのはどうやら夫の真実の姿を暴き出す才能を持った女のことらしい。次から次へと、彼が内心かくしたがっている欠点を暴き立ててみせるので、夫は立腹し、「お前はおれのほんとうの偉大さがわからないわからず屋だ、だから、寂しくてたまらない」と世間に向って同情を求めたりする。
しかし、彼は悪妻を持っているというだけで、ひとかどの男であることだけは間違いない。たとえば、かりにその妻が、彼と比較して、自己中心的な愚鈍な女だったとしても、少なくとも彼はその愚鈍な女さえをも、威風堂々と自己を主張させるほどにしむけることのできた、胆の坐った男だったのだ。
これは、彼が人間に対して秀れた理解力を持っていたということであり、生命というものを軽視しなかった証拠である。
トルストイや漱石の文学に関しては、いろいろな批評があるだろうが、彼らの描く女たちは、女の読者をも納得させる存在感がある。彼女たちには何かしら実体がある。
大作家といわれる男性作家でも、こと女のこととなると、ただ遠巻にえんえんと語り、あげくの果、その芯にあるものが雲か霞のようにたなびいてしまうことが多いのは、きっと彼らがついぞ女を他者として対等に扱う術を学び得なかったか、あるいは対等に扱えるほどの女にめぐりあう機会に恵まれなかったためだろうと思われる。
でなければ、彼らは臆病の故に、女という他者に自我を侵蝕されるのを拒否したため、作家として大損をしたのだ。彼は女の自我を手っとりばやく軽視するか無視することで自己を確保しようとし、その結果、女の影を薄くしてしまい、その影の薄い女と道連れである自分の影をも薄くしてしまっていることに気づかない。
また、面倒なので、現実にめぐりあう女はさておいて、勝手に心の中で描いた女を、一方的に空高くまつりあげ、あり得ぬ幻にしてしまい、せいぜい遠くから眺めるだけで充分だと結論をつけた作家もいる。この種の作家は、女を形而上的に自己が内包したと思いこんでいる様子である。
ところで、「悪妻」に対して「良妻」とか「賢妻」とかいう言葉があり、人びとはこうした女たちをなんとなくけむったいばかりで面白くないものに思っていることも確かである。
そうしてみると、やはり、「悪妻」という響きの中には、多少の羨みと、怖れとが入り混っていて、悪妻を持った男たちに同情するよりは、悪妻を得たことでかなりよい仕事をした幸運な男たちを、内心いまいましく思っているのではないだろうか。
だからこそ、そういう人びとは、悪妻を持った男たちが悪妻によって苦しめられた点だけを強調することで自分を慰め、悪妻によって彼らが得たに違いないものには気づかぬふりをする。
彼らは悪妻の俗物性が怖いのだ。では、俗物を遠ざければ、俗物ではない純粋芸術の世界が得られると思っているのだろうか。
いったい、純粋芸術の世界などというものは、単独で意味を持っているのだろうか。俗物だの、非俗物だの、純枠だのという抽象的な言葉は常に相対的にしか意味を持たない。
以前大そう身勝手な芸術家と親しくしていたことがある。彼は俗世間的な意味で非常に有能な妻を持っていたが、有能であるだけに自己主張も強い彼女は、一方的に重い負担を押しつけられることに腹を立てて、とうとう彼を放り出した。
わたしは彼がつねづね豪語していたように、独り身になったことでもっと奔放な芸術世界を築くかどうかをみまもっていたが、彼のいう「非芸術的俗物の妻」という対立物を私生活から放逐することによって、それまで多分、その対立物のせいでいきいきとしていた彼の作品世界は、まるで渚に打ちあげられた水母のようにみるまにしぼんでしまったのである。
おそらく、生命のある芸術作品とは、俗物性と紙一重のところに同居することによって生み出されるものらしい。
参考記事(?) 快楽なくして何が人生
Amazon 女の男性論
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コメント
この文章、私にはたいへん女性的に思える
のです。想像上の男らしさに満ちていて、
きっぱり決然と進んでいく文章です。
いいですね。うらやましい感じがします。
男性の文章で女性的なものを感じることも
あります。とくにそうなのが江藤淳。
勝手を言わせていただくなら私の好むとこ
ろはこれらの中間です。
投稿: 貧乏伯爵 | 2008.07.11 20:54
伯爵さま、こんばんは。
なるほど…想像上の男らしさですね。
いやあ、なんとなく耳が痛いような(笑)。
やっぱりこれって女性的妄想なんでしょうかね。
実際の男は…どうなんでしょう(苦笑)。
文章で性を横断できるのが、私の夢ですね。
多少ネカマ経験はありますが…。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.07.11 23:30