« 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) | トップページ | 詩人と線香花火… »

2008.07.30

『日本文化における時間と空間』 加藤周一 (岩波書店)

00024248 つものように、内容の要約やら、論それぞれについての検討は他の人にまかせます。Amazonのレビューなどご覧下さい。私の「読書」は、いつも自分の考え方、すなわち「モノ・コト論」に結びつけられてしまうので、決してそこに一般的な感想や書評を望むべきではありません。ごめんなさい。
 さて、加藤周一さんのこの力作、結論としては実に単純でして、「日本文化」=「今=ここ」ということです。時間的にも空間的にも、全体よりも部分を重視すると。なるほど。
 加藤さんはそれを証明する、いや印象づけるために多種多様な文化的事象を挙げておられます。それが実に広汎にわたり、しかしどこか偏りがあるようにも感じられるため、正直なところ、まじないにかかったような不思議な快感と不快感が残りました。
 で、読んでいて、つい笑ってしまったのですが、加藤さんの言う「今=ここ」論って、私の言う「萌え=をかし」論となんか似てますよね。ただ、語り方、というか、筆者の品格によってこうも違った雰囲気になるのかと、びっくりして、それで笑っちゃったわけです。
 復習してみますと、私の論は、以前こちらの記事に書いたように…ああ、そうそうこの記事がWikipediaの「萌え」の項に引用されてるんでビックリしました!そのうち消えるかもしれませんが…時間を微分して疑似的な永遠性を得ようとする感情を「萌え=をかし」としました。行為としてはモデル化(フィギュア化)やコレクションや記録やコピーなどにつながっていきます。
 この基底にあるのは、変化しない情報としての「コト」でした。そして、その逆に常に変化する不随意な存在が「モノ」でした。違う言い方をすると、自己内部が「コト」、外部が「モノ」です。最近繰り返し書いてましたね。
 で、加藤さんの「今=ここ」文化論も、私の頭の中では、「なんだ結局萌え論じゃん」という、実に不敬極まる感想に収束させられちゃうんですね。ごめんなさい。だって、枕草子を例に挙げたりしてるんですから、しかたないですよ。私の言いたいことを、ただ高尚に言っておられるだけです(いや、向こうが普通でこっちが低俗なだけか…笑)。
 不敬ついでにもうちょっと言っちゃいますね。加藤さんの言う「今=ここ」指向は、それは当り前だし、改めて学ぶべき点は別にないんですけど、逆にですね、なんでもかんでもそれで片付けてしまっていいのか、あるいは、なぜそうなったのかという説明がないじゃないか、と、こんな疑問や物足りなさを感じてしまうんですね。
 じゃあ、私はどうかって?私はちゃんと書き散らしてますよ、このブログにたくさん。そう、「もののあはれ」論です。その裏返し、コントラストとして「萌え=をかし」論があるんです。もちろん、そのベースには「モノ」と「コト」の読み直しという作業があるわけですね。
 つまり、日本人が「今=ここ」(すなわちコト)にこだわるようになったのは、それは「もののあはれ」の直視を避けるためだと、私は考えてきたんです。
 もう少し正確に語りましょうか。
 まず人は「もののあはれ」つまり「全ての存在は無常であるということに対する歎声」「全ては不随意であることに対する諦め」の出発点であるところの「モノ」の性質を知らないで育つ。幼い頃、全てのモノが変化して死滅するなんて思いませんよね。神童ゴータマ・シッダールタでさえ少し時間がかかってますよ。
 で、それでもそのうちにいわゆる「物心がつく」歳になりますよね。そうすると途端にコレクションとか始めちゃうじゃないですか。カードとか人形とか。オタクっぽいことが始まる。それが私にしてみると、「今=ここ」指向なんです。それって、この世や自分や愛するモノが永遠でないことを知って、そしてそれに必死に抗っている状態だと思うんです。ほとんど無意識にね。
 で、少し脱線しますが、それを大人になってもやっているのが、例えば私のような大人のオタクたちです。情報(コト)や、多少経年変化に強い、疑似的に不変な物(実はモノ)を収集し、並び替えたり、眺めたりしている。最近ではデジタル化のおかげさまで、どんどん完全なコピーが出来たりしますから、その疑似永遠性はほとんど人間にとっては疑似でなくなっています(まあ、最後は自分というモノが壊れて死んでしまうんで、結局意味ないんですが)。
 昔の人たちはもう少し往生際が悪くなかったんですよ。ある程度大人になって、いろいろなモノやヒトが壊れていったりすることを体験し、それでため息をつくことを覚えたんです。やっぱり直視しようと。逃げないで、この世のたった一つの「真理(マコト)」を受け入れようって。そうすると、もう諦めちゃうしかないんですよ。「あはれ(Ah!・Aha!)」と叫ぶしかない。
 そちら側の日本文化も思いっきりたくさんあると思うんです。それは決して「今=ここ」ではありません。それこそ源氏物語はどうなんですか?と加藤さんにお聞きしたいですね。
 ですから、「今=ここ」が日本文化にとって非常に重要な一側面であることはたしかですよ。でも、それを生んだ、あるいはそれを強く育てた、その裏側にある「非今ここ」文化を切り捨てちゃあいけませんよ。そっちの方が本当の文化的オスティナートだと思うんですが。
 と、加藤周一さんというとんでもない巨星に対して虚勢を張るワタクシもまた、とんでもない矮星でありますな。まだまだ赤ん坊であります。早くオタクを卒業して悟りを得ねば(笑)。

Amazon 日本文化における時間と空間

楽天ブックス 日本文化における時間と空間

|

« 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) | トップページ | 詩人と線香花火… »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

文学・言語」カテゴリの記事

モノ・コト論」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『日本文化における時間と空間』 加藤周一 (岩波書店):

« 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) | トップページ | 詩人と線香花火… »