« 第4回富士山の森ジャズフェスタ2008 | トップページ | 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) »

2008.07.28

「内なるものは外にあり」

Noh 日はいろいろな「言葉」との出会いがあり、ここ数日考えていたことへのヒントを多く得た日でした。
 まず朝のセンター演習にて読んだ文章は「チープデザイン」に関するものでした。「チープデザイン」とは、たとえば二足歩行のロボットを作る際、ASIMOのようにハイテクなAIを搭載して「体」を制御するのではなく、非常にローテクでありながら素材などを工夫することによって、ハイテク同様、あるいはそれ以上の運動性能を得ることを言います。つまり、「体」を「脳」でコントロールするのではなく、「体」自体を「脳」を介さず「外界」に対応させることによって自由を得るシステムということですね。
 これは私の言う「コトよりモノ」という考え方に近いものです。「コト」とはまさに脳内の概念、すなわち自己内部を表す言葉であり、「モノ」とはそれ以外の「外部」を表す言葉です(私の考えではね)。
 昨日書いたジャズの演奏に関して言えば、大学生はASIMOになってしまっているということです。そして、高校生はチープデザインであると。楽器を操る、あるいは音楽を作るのではなく、極論すれば、楽器という「モノ」に操られ、音楽という「モノ」に支配されているわけですね。その方が実は私たちにとっても、世界にとっても幸福な状態なのです。
 音楽に限らず、人はそういうASIMO状態を体験するものです。ある意味そこを突き抜けなければ、再びチープデザインに戻ることはできない。禅や日本の伝統芸能の中で、いろいろな「型」…すなわち「コト」を極めて、そして最終的に解脱を目指すというのは、おそらくそういうことだと思います。
 昨日講師の先生にもべた褒めされた生徒、バークリーへの奨学金をゲットしているトランペットの天才がいるんですが、彼女に小論文の指導をしながら、ちょっとそんな話をしました。彼女はあまりに純粋無垢であり、そのASIMO状態があることを予感すらしていないので、「?」という感じでキョトンとしてましたが、彼女、この後、上級学校へ行っていろいろ理論やら何やらを学び、あるいはさらにテクニックを身につけて、「壁」にぶつかるんだろうなあ。その「壁」についてはこちらの矢野沙織の言葉を参照されたし。なんでも出来る、わかるようになることが停滞につながる…。
 放課後、芸大で能楽を勉強し、この春卒業、野村四郎さんの内弟子になることが決まった教え子が遊びに来ました。彼女の卒業公演のビデオを観ながらいろいろ教わりました。まさに形式の中での苦悩と、そしてその先にある個性と自由の話。ものすごく勉強になりました。能は本当に意図的な制約が多い。さらにテキストやメソッドはありませんから、盗んで、怒られて、そうして壁を突き抜けなければならない。これは正直きついとのことですが、そうした鍛練を経て、彼女はとんでもない境地に至るのでしょう。心から応援したいと思います。
 そんなことを考えていると、ある大学の過去問に霜山徳爾さんの仮象の世界からの引用があり、その中でゲーテのこんな言葉に出会いました。
「内なるものは外にあり」
 これはたぶん、
「われわれの外にあるもので、同時にわれわれの中にないようなものはないのだ(エッカーマン『ゲーテとの対話』)」
 の意訳だと思われます。これはワタクシ流に言えば、最近何回か書いている
「コトはモノの一部であり全体である」
 ということでしょうか。三木清も繰り返し言っています。
「真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ」
「内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである」
「人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである」
 『ゲーテとの対話』を引っ張り出してきますと、ちょうど私が考えていたようなことが、たくさん出てきました。さすがゲーテ、もうとっくに気づいて語っている(当たり前か)。それをいくつか抜粋しておきます。生徒たちが何かを感じてくれることを祈りながら…。そして、「モノになる」「モノにする」とはどういうことか、私も考えたいと思います。

「主観的な性質の人は、わずかばかりの内面をすぐに吐き出してしまって、結局マンネリズムにおちいって自滅してしまう」

「後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している」

「有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう」

「そういう時代は、現実に努力と前進を続けて、すべて客観的な性格をそなえていたのだよ」

 

Amazon ゲーテとの対話・上

不二草紙に戻る

|

« 第4回富士山の森ジャズフェスタ2008 | トップページ | 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) »

モノ・コト論」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

音楽」カテゴリの記事

コメント

ウィーンの巨匠もたしか、古楽の演奏は外国語の
ようなもので、文法を習得しなければならないが、
最終的にはそれを忘れなければならない云々と
書いていたような気がします。

投稿: 貧乏伯爵 | 2008.07.29 10:53

伯爵さま、こんにちは。
なるほど、まったくそのとおりですね。
ナルコも音楽自身から学ぶアンサンブルでありたいですね。
てか、文法以前の問題かな(笑)。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.07.29 13:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55913/42000881

この記事へのトラックバック一覧です: 「内なるものは外にあり」:

« 第4回富士山の森ジャズフェスタ2008 | トップページ | 『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書) »