« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008.07.31

詩人と線香花火…

3eg 日は、私たち夫婦の憧れの人と花火などしました。まったくご縁というのは面白いものです。これもこのブログが呼んだ出会い(いちおう再会)でありました。
 そう、実は今、あの「詩のボクシング」全国チャンピオン木村恵美さんのご家族が、香川から富士山麓に遊びにいらしてましてね、ウチの近所にお泊まりだったので、散歩がてらウチにお誘いし、みんなで花火をしたり、お話したり楽しい時間を過ごさせて頂いたんです。
 たいがいそうですけれど、いかなカリスマも、実際お会いしてみると、案外私たち凡人と同じように日常を生きておられるんですね。そして、その日常の上にああいう詩があるわけですから、だからこそすごいなと純粋に思うわけです。
 ちょっと前に「言葉(コト)」のもたらす余白の話を書きました。言葉(コト)の不完全性を逆手にとって、その表現しきれない、その背後に無限に広がる何か(モノ)を表現するのが文学作品である、というようなことでした。
 その中でも「詩」は、その形式からも、その内容からも容易に想像されるとおり、そうしたコトの補集合を積極的に利用する表現行為ですね。つまり、詩の力とは言葉の力であるとともに、実は言葉の非力さであり、非言葉の力であったりするわけです。
 今日も花火をする木村さんやご主人やお子さんたち、そしてウチの家族を眺めながら、みんなはこの花火をどういう言葉で表現するのかなあ、なんてボンヤリ考えていました。
 私は文学的な文章やら詩やらを全く書けない(書けなくなった)人間ですので、詩作はせずに、こうして「言葉」の範囲内で思索して遊ぶことくらいしかできません。しかし、きっと木村さんや、あるいは子どもたちは、あの花火という実景の背後に無限に広がる暗黒や、無限に広がり続けて、そしていつのまにか見えなくなる煙の向こうに、何か(モノ)を感じていたんでしょうね。あるいは放射線科の医師であられるご主人も、何らかの見立てをしていたかも(笑)。まあ、そういうお仕事も、ある風景の背後に広がる物語の読み取り作業なわけですから、あながち冗談とも言えませんぞ。
 で、私ですが、私はすでにある言葉でしか何かを考えられないので、花火を見ながら「色即是空」「空即是色」という古くさい言葉を引っ張り出してきていました。いや、線香花火に世の無常を感じていたわけではありませんよ(少し感じていましたが…)。
 つまり、こういうことなんです。私たちが何かを見たり感じたりするということは、実はその対象自体を認識しているのではなくて、その背後にあるその他無数、あるいは無限を感じることなのではないか。全く文学的でない言い方をしてしまえば、もしこの世に全体像(U)があるとすればですね、その部分集合Aを認めるということは、その補集合Ā(Aバー)をも認めるということになるんではないか。つまり、「色」があれば必ずその背後の「空」があると。「色即是空」とは、そういう意味なのではないかと、ふと思ったのです。
 そうしますと、その逆の可能性も考えられます。補集合を感知して、そして部分集合が立ち上がる(まあ、部分集合と補集合は常に入れ替え可能なわけですが、いちおう小さい方を部分集合としておきます)。つまり、花火という体験の背後に何かを感じ、それが言葉として立ち上がるということです。もしかして、詩人の行為というのは、こういう「空即是色」なのではないか。
 もちろん、それを読んだり聞いたりする私たちは、逆のプロセス「色即是空」を体験するわけです。そうして、「空即是色」と「色即是空」が一致して、いや一致することはないでしょう、一致ではなく重なり合って、あらたなる全体集合が現れるのではないか。それこそが、芸術の本質なのではないか。
 ここのところ、「コト」は「モノ」の部分であり全体である、みたいなことを繰りかえして述べてきましたが、「コト」というのは意識内のことですから、まさに「色」ですね。そして、「モノ」は「コト」化できない何ものかですから、それを「空」と言ってもいいでしょう。そう、「空」とは空っぽとか何もないとか、そういう意味ではないんです。私たちが認識していない「モノ」全てのことなんです。ですから、それはほとんど無限大に近い。仏教でいう、「一即多」「多即一」の究極の拡大版ですね。
 と、闇の中の花火にこんなことを思う人もいないと思いますが、いや、これはやはり詩人がそばにいたから、こういう思索も起きたのでしょう。ほとんど出会うことのないその「ほとんど無限大」の一部が、こうして縁によってやってきたわけですね。面白いですし、実にありがたいことです。
 改めて、チャンピオンとそのご家族に感謝したいと思います。ありがとう。詩人はやはりすごい。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.30

『日本文化における時間と空間』 加藤周一 (岩波書店)

00024248 つものように、内容の要約やら、論それぞれについての検討は他の人にまかせます。Amazonのレビューなどご覧下さい。私の「読書」は、いつも自分の考え方、すなわち「モノ・コト論」に結びつけられてしまうので、決してそこに一般的な感想や書評を望むべきではありません。ごめんなさい。
 さて、加藤周一さんのこの力作、結論としては実に単純でして、「日本文化」=「今=ここ」ということです。時間的にも空間的にも、全体よりも部分を重視すると。なるほど。
 加藤さんはそれを証明する、いや印象づけるために多種多様な文化的事象を挙げておられます。それが実に広汎にわたり、しかしどこか偏りがあるようにも感じられるため、正直なところ、まじないにかかったような不思議な快感と不快感が残りました。
 で、読んでいて、つい笑ってしまったのですが、加藤さんの言う「今=ここ」論って、私の言う「萌え=をかし」論となんか似てますよね。ただ、語り方、というか、筆者の品格によってこうも違った雰囲気になるのかと、びっくりして、それで笑っちゃったわけです。
 復習してみますと、私の論は、以前こちらの記事に書いたように…ああ、そうそうこの記事がWikipediaの「萌え」の項に引用されてるんでビックリしました!そのうち消えるかもしれませんが…時間を微分して疑似的な永遠性を得ようとする感情を「萌え=をかし」としました。行為としてはモデル化(フィギュア化)やコレクションや記録やコピーなどにつながっていきます。
 この基底にあるのは、変化しない情報としての「コト」でした。そして、その逆に常に変化する不随意な存在が「モノ」でした。違う言い方をすると、自己内部が「コト」、外部が「モノ」です。最近繰り返し書いてましたね。
 で、加藤さんの「今=ここ」文化論も、私の頭の中では、「なんだ結局萌え論じゃん」という、実に不敬極まる感想に収束させられちゃうんですね。ごめんなさい。だって、枕草子を例に挙げたりしてるんですから、しかたないですよ。私の言いたいことを、ただ高尚に言っておられるだけです(いや、向こうが普通でこっちが低俗なだけか…笑)。
 不敬ついでにもうちょっと言っちゃいますね。加藤さんの言う「今=ここ」指向は、それは当り前だし、改めて学ぶべき点は別にないんですけど、逆にですね、なんでもかんでもそれで片付けてしまっていいのか、あるいは、なぜそうなったのかという説明がないじゃないか、と、こんな疑問や物足りなさを感じてしまうんですね。
 じゃあ、私はどうかって?私はちゃんと書き散らしてますよ、このブログにたくさん。そう、「もののあはれ」論です。その裏返し、コントラストとして「萌え=をかし」論があるんです。もちろん、そのベースには「モノ」と「コト」の読み直しという作業があるわけですね。
 つまり、日本人が「今=ここ」(すなわちコト)にこだわるようになったのは、それは「もののあはれ」の直視を避けるためだと、私は考えてきたんです。
 もう少し正確に語りましょうか。
 まず人は「もののあはれ」つまり「全ての存在は無常であるということに対する歎声」「全ては不随意であることに対する諦め」の出発点であるところの「モノ」の性質を知らないで育つ。幼い頃、全てのモノが変化して死滅するなんて思いませんよね。神童ゴータマ・シッダールタでさえ少し時間がかかってますよ。
 で、それでもそのうちにいわゆる「物心がつく」歳になりますよね。そうすると途端にコレクションとか始めちゃうじゃないですか。カードとか人形とか。オタクっぽいことが始まる。それが私にしてみると、「今=ここ」指向なんです。それって、この世や自分や愛するモノが永遠でないことを知って、そしてそれに必死に抗っている状態だと思うんです。ほとんど無意識にね。
 で、少し脱線しますが、それを大人になってもやっているのが、例えば私のような大人のオタクたちです。情報(コト)や、多少経年変化に強い、疑似的に不変な物(実はモノ)を収集し、並び替えたり、眺めたりしている。最近ではデジタル化のおかげさまで、どんどん完全なコピーが出来たりしますから、その疑似永遠性はほとんど人間にとっては疑似でなくなっています(まあ、最後は自分というモノが壊れて死んでしまうんで、結局意味ないんですが)。
 昔の人たちはもう少し往生際が悪くなかったんですよ。ある程度大人になって、いろいろなモノやヒトが壊れていったりすることを体験し、それでため息をつくことを覚えたんです。やっぱり直視しようと。逃げないで、この世のたった一つの「真理(マコト)」を受け入れようって。そうすると、もう諦めちゃうしかないんですよ。「あはれ(Ah!・Aha!)」と叫ぶしかない。
 そちら側の日本文化も思いっきりたくさんあると思うんです。それは決して「今=ここ」ではありません。それこそ源氏物語はどうなんですか?と加藤さんにお聞きしたいですね。
 ですから、「今=ここ」が日本文化にとって非常に重要な一側面であることはたしかですよ。でも、それを生んだ、あるいはそれを強く育てた、その裏側にある「非今ここ」文化を切り捨てちゃあいけませんよ。そっちの方が本当の文化的オスティナートだと思うんですが。
 と、加藤周一さんというとんでもない巨星に対して虚勢を張るワタクシもまた、とんでもない矮星でありますな。まだまだ赤ん坊であります。早くオタクを卒業して悟りを得ねば(笑)。

Amazon 日本文化における時間と空間

楽天ブックス 日本文化における時間と空間

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.29

『世界を肯定する哲学』 保坂和志 (ちくま新書)

Yrj998 学者にも小説家にもなれない人が哲学者になるのだと思っていました(もちろん馬鹿にしているのではなく、その逆)。しかし、筆者は御存知芥川賞作家でありながら、この本は極力小説的な技術を排して、哲学書に徹している。
 もともと小説を読むのが苦手な私ですから、同じテーマを扱うならこうして哲学書にしていただいた方が助かります。
 この本の中にも似たようなことが書かれてあったと思いますが、小説とは言語の不備(すなわち言語で世界を表現し切れない事実)を逆手にとって、その言語の外側の無限に広がる世界を表現しようとするものだと思います(もちろん、詩はそれをもっと徹底したもの、さらに俳句は…となります)。
 またワタクシの「モノ・コト論」ですけど、結局「コト」の権化、最先端、斬込み隊長である「言葉(コトノハ)」は、世界の抽象の結果でしかなく、ある程度の公共性はあっても、そこに完全なる理解と同意は求めようがありません。それはなんとなくイメージできますよね。四捨五入の結果なんですから。
 で、その「コト」の外側に無限に広がるのが私の考える「モノ」なんです。ですから、「コト」を集積すると、つまり、全人類(あるいは他の存在全てかも)の意識=「コト」を集めてつなぎあわせると、もしかすると全体である「モノ」と同価になるかもしれない(なりそうにない気もしますし、ならないと保坂さんは言っていますが)。一方で、「コト」があるおかげで、その周辺というか、補集合としての「モノ」が立ち上がるのであるから、ある意味では、「コト」が「モノ」を象徴しているのかもしれません。ある集合と補集合が足されて全体になるというわけです。
 保坂さんはこう述べています。
「世界は言語というシステムによって私の処理能力から逸脱したときだけ立ち上がる。それをもたらすものを『リアリティー』と呼ぶ」
 なるほど、これは分かりやすい説明ですよね。私の考えていることとかなり似ています。私の「もののあはれ」の定義を上手にまとめてくれていますね。
 で、彼はそういうリアリティーある瞬間を言葉によって表現して、そうして読者に「世界」を感じ取らせているわけですね。小説家の仕事…というか、芸術家の仕事の意味がちょっと解った気がしました。
 ほか、視覚と思考の関係、生と死と世界の関係、その他いろいろ面白い記述(哲学と言えるのでしょうか)がありましたが、まだ私の中の「哲学」が熟していないので、そのへんについては、またいつか書きたいと思います。特に「死」について。

Amazon 世界を肯定する哲学

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.28

「内なるものは外にあり」

Noh 日はいろいろな「言葉」との出会いがあり、ここ数日考えていたことへのヒントを多く得た日でした。
 まず朝のセンター演習にて読んだ文章は「チープデザイン」に関するものでした。「チープデザイン」とは、たとえば二足歩行のロボットを作る際、ASIMOのようにハイテクなAIを搭載して「体」を制御するのではなく、非常にローテクでありながら素材などを工夫することによって、ハイテク同様、あるいはそれ以上の運動性能を得ることを言います。つまり、「体」を「脳」でコントロールするのではなく、「体」自体を「脳」を介さず「外界」に対応させることによって自由を得るシステムということですね。
 これは私の言う「コトよりモノ」という考え方に近いものです。「コト」とはまさに脳内の概念、すなわち自己内部を表す言葉であり、「モノ」とはそれ以外の「外部」を表す言葉です(私の考えではね)。
 昨日書いたジャズの演奏に関して言えば、大学生はASIMOになってしまっているということです。そして、高校生はチープデザインであると。楽器を操る、あるいは音楽を作るのではなく、極論すれば、楽器という「モノ」に操られ、音楽という「モノ」に支配されているわけですね。その方が実は私たちにとっても、世界にとっても幸福な状態なのです。
 音楽に限らず、人はそういうASIMO状態を体験するものです。ある意味そこを突き抜けなければ、再びチープデザインに戻ることはできない。禅や日本の伝統芸能の中で、いろいろな「型」…すなわち「コト」を極めて、そして最終的に解脱を目指すというのは、おそらくそういうことだと思います。
 昨日講師の先生にもべた褒めされた生徒、バークリーへの奨学金をゲットしているトランペットの天才がいるんですが、彼女に小論文の指導をしながら、ちょっとそんな話をしました。彼女はあまりに純粋無垢であり、そのASIMO状態があることを予感すらしていないので、「?」という感じでキョトンとしてましたが、彼女、この後、上級学校へ行っていろいろ理論やら何やらを学び、あるいはさらにテクニックを身につけて、「壁」にぶつかるんだろうなあ。その「壁」についてはこちらの矢野沙織の言葉を参照されたし。なんでも出来る、わかるようになることが停滞につながる…。
 放課後、芸大で能楽を勉強し、この春卒業、野村四郎さんの内弟子になることが決まった教え子が遊びに来ました。彼女の卒業公演のビデオを観ながらいろいろ教わりました。まさに形式の中での苦悩と、そしてその先にある個性と自由の話。ものすごく勉強になりました。能は本当に意図的な制約が多い。さらにテキストやメソッドはありませんから、盗んで、怒られて、そうして壁を突き抜けなければならない。これは正直きついとのことですが、そうした鍛練を経て、彼女はとんでもない境地に至るのでしょう。心から応援したいと思います。
 そんなことを考えていると、ある大学の過去問に霜山徳爾さんの仮象の世界からの引用があり、その中でゲーテのこんな言葉に出会いました。
「内なるものは外にあり」
 これはたぶん、
「われわれの外にあるもので、同時にわれわれの中にないようなものはないのだ(エッカーマン『ゲーテとの対話』)」
 の意訳だと思われます。これはワタクシ流に言えば、最近何回か書いている
「コトはモノの一部であり全体である」
 ということでしょうか。三木清も繰り返し言っています。
「真に内なるものは真に外なるものでなければならぬ」
「内なるものは単に主観的なもの、単に個人的なものであることができぬ。却って我々は己れを殺すことによって真に表現的になり得るのである」
「人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである」
 『ゲーテとの対話』を引っ張り出してきますと、ちょうど私が考えていたようなことが、たくさん出てきました。さすがゲーテ、もうとっくに気づいて語っている(当たり前か)。それをいくつか抜粋しておきます。生徒たちが何かを感じてくれることを祈りながら…。そして、「モノになる」「モノにする」とはどういうことか、私も考えたいと思います。

「主観的な性質の人は、わずかばかりの内面をすぐに吐き出してしまって、結局マンネリズムにおちいって自滅してしまう」

「後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している」

「有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう」

「そういう時代は、現実に努力と前進を続けて、すべて客観的な性格をそなえていたのだよ」

 

Amazon ゲーテとの対話・上

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.27

第4回富士山の森ジャズフェスタ2008

080727 楽ネタが続きます。若者たちの素晴らしい音楽に触れて感動できることに感謝ですね。結論としては、昨日のレミオロメン一昨日のBUMP OF CHICKENの話と同じ。青春時代の無垢なる妄想の共有が最強だということ。
 河口湖ステラシアターで行われた、本校主催運営の「富士山の森ジャズフェスティバル」に行ってまいりました。どの団体の演奏もなかなか個性的で良かった。
 今回の出演校およびゲスト、講師は以下の通りです。
富士吉田市立明見小学校・静岡ジュニアジャズオーケストラ・さいたま市立与野東中学校・山中湖村立山中湖中学校・横浜市立大学・東京大学・慶応義塾大学・日本大学・法政大学・富士学苑高校・早稲田大学
ゲスト ハイブリッジジャズオーケストラ
講師 内堀勝氏(作編曲家)・守屋順子(ジャズピアニスト・編曲家)
 コンテストではありませんが、当然お互いを意識していますからね、特に大学生バンドはいい意味で挑戦的な演奏を繰り広げていました。それは悪い意味で言えば、身の程知らず(笑)ということでして、破綻寸前の瞬間(ミスとかそういう次元ではなく、音楽として伝わってこないということ)もあったりするわけですけど、まあそれこそがこのような学生音楽の楽しさであるとも言えましょう。時に若気の至りは音楽にスリルと面白みを加味します。
 全体的には、昨年の記事に書いたような傾向を聴いてとることができました。やはりこのイベントの中心となる大学生は、アンサンブルが小さくなりすぎです。講師の先生もおっしゃってましたね。テクニック的にはプロ顔負けなんですけど、どうしてでしょうね。やはりある程度大人になって、理屈を身につけたり、聴く耳を持つようになったり、そして楽器をある程度操れるようになって、そこで変な色気が出るんでしょうか。いや、私も身に覚えがあるんです。それはたいがい崇高な勘違い(?)なわけですが、自分で音楽をコントロールしようとしすぎるんですね。だから意識が細部に向かいすぎる。あるいは自分に向かいすぎる。瞬間の自己実現、自己顕示にエネルギーを使ってしまうんです。
 で、ここでまた身内をほめなければならなくなるわけで恐縮なんですが、やはりウチの学校、すなわち富士学苑高校の「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」は本当にいい音楽をこちらに運んでくれていました。ダントツで楽しかった。講師のお二人ももうお手上げといった論調でした。「信じられない」「何も言うことがない」「他にない」…。
 聴く側も純粋に音楽にコントロールされるんです。それはすなわち、奏者たちが音楽をコントロールしようとしているのではなく、音楽によって一つにまとめられているんですね。だから細部が聴こえてくるのではなく、一つの塊となって「音楽」がやってくるんです。これは非常に重要なことですよ。
 彼ら彼女らと非常に身近に接しているからよ〜く分かるんですが、彼ら彼女ら、ホント純粋に音楽を愛していますよ。変な知識や理屈はほとんど皆無で、おいおいという感じがすることもありますけど(笑)、逆にそれが功を奏しているんですね。
 自分たちの演奏に関しては当然ミクロな意識、つまり細部のコントロールをしようとするのは当然です。しかし、それを大量の練習と本番のうちにいつのまにか消化してしまって、本番ではとってもマクロな意識で演奏している。もっと簡単に言えば、ちゃんと人の音を聴いているということですね。
 自分の役割をきちんとこなそうとしすぎる大学生は、ある意味仕事人という感じがしますが、ウチの生徒たちは単純な表現者なんです。それも先ほど書いたように、もう音楽に乗り移られていて、自らが楽器(メディア)になって音楽に表現させられている。だから、みんな楽しい。楽しそうな表情の中から、本当に楽しい音楽が生まれ、そして聴いている私たちも楽しくなる。
 象徴的だったのは、曲が終わった瞬間の奏者たちの姿です。ウチの学校の生徒たちは、音を放ち終わった後、とってもいい表情をしていた。終わった〜!やった〜!どうだ〜!っていう感じ。大学生はなんだか無表情で下を向いて、楽譜をいじったりする人が多い。まあ照れのようなものがあるのも分かりますけど、そのへん気をつけた方がいいと思いましたよ。
 あと、これは守屋さんもおっしゃってましたし、私も全体として感じたんですが、ピアノがちゃんと仕事してない。ビッグバンドのピアノの役割について、私はよく分かっていないのに、こんなこと言うのは失礼かもしれませんけれど、まあ古楽のアンサンブルの経験から想像するに、ピアノは全体のコーディネイト役を果たさなければならないと思うんですね。そう、通奏低音のチェンバロの役割ですよ。ある意味コンダクターとしての意識を持たないと。リズムをキープしたり、スウィング感を演出したり、適切なコードを鳴らしてソロを支えたり、あるいは鼓舞したりするべきでしょう。それが、みんなそれこそミクロに楽譜を再現するばかりで、おいおい、いてもいなくてもいいじゃないか、という感じでした。
 最後社会人バンドと守屋順子さんが共演しましたが、その時はまるで違う機能を持った楽器に感じられました。アンサンブルもガラッと色合いが変わったし、管楽器のソロもやる気を起こされて魅力的になっていましたよ。自らのピアノ・ソロももちろん雄弁でしたしアイデアに溢れるものでしたが、それ以上にアンサンブルの要として素晴らしい存在感でした。
 いずれにせよ、音楽の、合奏の本質をいろいろ教えてくれる素晴らしいイベントです。演奏した皆さん、長時間にわたり講評をしてくださった講師のお二人、お疲れさまでした。そして、このイベント全体を作り上げ、そんな忙しい中、最も生き生きとした音楽を届けてくれた富士学苑の諸君、本当にありがとう!お疲れさま!今からもう来年が楽しみです。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.26

レミオロメン 『もっと遠くへ』

Fu76 日に続き、NHKの音楽番組から。そして、こちらも同級生バンドですね。久々のレミオロメンです。
 NHKの「夏うた」に出演して、フジテレビの北京オリンピックの中継テーマソングとなった「もっと遠くへ」を披露しました。場所は国立競技場です。私が生まれた年に開催された東京オリンピックの開会式が行われたそのトラックの上で、彼らが新曲を演奏する姿は…なんだか正直微妙でありました(笑)。だって、妙に広いんだもん。お客さんが入っているわけではないし、セットもなく異常なほどシンプルでしたから、なんとも不思議な映像になっていましたね。本人たちもちょっとやりにくかったのでは…。
 なんと、ヘリコプターからの上空映像もあり、また後半に演奏された「太陽の下」では、花火も使われたりして、それなりにNHKさんも工夫していたようですけど、なにしろ何もない空間が広すぎて、かえってこそばゆい状況になってました(苦笑)。
 まあ、それはいいとしまして、新曲ですが、私は今回生演奏としては初めて聴きました。PVで聴いた(観た)時は、ああありがちな展開だし、いかにもオリンピックのテーマという感じだなあ、テレビ的にはありだけど、タイアップ抜きで純粋な楽曲としてはどうだろう…などと思ったものですが、今日しっかり聴いてみますと、その微妙な状況のおかげもあってか(?)、とってもいい曲に感じられました。
 番組で紹介された他の夏うたがどれも今一つだったせいもあるのかなあ、少なくともワタクシとしては、今日流れた曲の中ではこれが一番いい曲だと思いましたよ。
 例によって、小林武史的ゴージャスアレンジが施されております。非常にスケールの大きな感じがします。たしかに感動の演出には最適な出来なのかもしれませんね。最初はそれが鼻についたわけですが、慣れてくると案外その過度なデコレーションも気にならなくなってくる。
 この気にならなくなってくるというのは、とても大切なことだと、今日思いました。気にならなくなってくる、慣れてくるというのは、これはそれ自体がそれほど重要なものではないということではないか。本質の部分がちゃんとしていれば、外見上の装飾なんか、どうでもいいのではないか。そこにケチをつけているのは、ある意味そういう部分しか聴いていないのであって、つまり、人間で言えば、まあ服装やら髪形やら、もっと極端に言えば、その人の顔しか見ていないということなのではないでしょうか。
080726 今まで、散々コバタケアレンジを邪魔者扱いしてきましたが、考えてみれば、私は自分自身がストリングス奏者ですし、ビートルズの後期から入って、ELOに進んだ人間です。本当はそういうゴージャスなオーケストラ・アレンジが好きなはずですよね。そんな自分に関する基本的な部分を、単純に思い出してみるだけで、なんだか急に耳につかなくなってしまいました。人間の「思想」なんてものは、いかに根っこのないものか。恥ずかしいかぎりです。
 この曲は、コード進行も正直常套的であり、メロディーや歌詞もややありがちな感じを与えます。しかし、今日彼らの一生懸命演奏している姿(なんだかみんな苦しそうな顔で弾いてたっけ…人は恍惚の極致にあるとなぜか苦悶するのであります)を観ていたら、そんな「思想」的なことを超えた、純粋な全体像の中に、とんでもなく「彼ららしさ」、すなわち「レミオロメンらしさ」を感じましたね。
 そう、昨日のBUMP OF CHICKENもそうなんですが、案外その「同級生」というのが、重要なファクターなのではないかなあ、と思いました。バンプもメンバーも、自分たちの中学に行って、あの日々を共有しなおしていました。それって、バンドの演奏にとっても大切なのではないか。特にそういう中学とか高校とか、妄想力で結びついていた友だちどうしならではの音楽、演奏というのがあるのではないか。そんなことを感じました。
 それは単に絶対的な信頼とか友情とか、そういう高尚なものじゃないんですよ。もっと、遊び心あふれる「何か」なんですよ。昨日のバンプのメンバーも、今日のレミオロメンのメンバーも、ほぼ同年代、すなわちもうすぐ20代も終わろうかという年齢にさしかかっているんですけど、プライベートでは、とんでもなく茶目っ気があるんです。そう、きっと彼らって、一緒にいると、いつまでも少年でいられるんじゃないでしょうか。で、それがバンドとしての魅力の根幹にあると。
 実は、レミオロメンの3人、最近もとんでもなく茶目なことやらかしたんですよ。これはちょっとナイショですが、とっても素晴らしい、しかし笑える、そして呆れるウワサを聞きました。私はそれを聞いて本当に安心しました。彼ら、どんどん突き抜けてどんどん遠い存在になっていくのか、と思っていましたから。きっとそんな意味も含めて、今日の「もっと遠くへ」を安心して聴けたのかもしれません。ああ、どうぞもっと遠くへ行っちゃっていいよと。いくら遠くへ行っても、すぐに昔の場所に帰ってこれるんですから。それこそが彼らの才能であり、魅力であるのでした。

YouTubeで聴く

Amazon もっと遠くへ

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008.07.25

『スーパーライブ BUMP OF CHICKEN 2008』〜World Premium Live(NHK BShi)

〜present from you〜
0807251 回、見逃せないビッグ・アーティストが紹介されるBSハイビジョンの「World Premium Live」。今週はBUMP OF CHICKENでした。私も初参戦で大いに感動した5月18日さいたまスーパーアリーナ公演での演奏を中心に構成された90分。なかなか良い出来の番組でした。
 制作統括は「SONGS」のプロデューサー三溝敬志さんと、「ポップジャム」などの手がけた福田雅之。ご両人とも音楽番組の作り方を知り尽くした方です。まずライヴ映像の美しさに驚愕。会場のシンプルな光を実に上手に活かしつつ、1台1台のカメラにしっかり個性を持たせた画面作りをしています。そして編集の妙ですね。ライヴ会場全体の躍動感を損なわずに、一人一人のメンバーの表情に迫る、そして音楽もしっかり聴かせるという、本当に難しいことなんですけどね、お見事なお仕事ぶりです。NHKすごいなあ。最近いろんなジャンル、いろんなアーティストのライヴDVDを観ていますが、なんか違うぞというものも多かったりするんです。テレビ番組でここまで作り込んでくるNHK、さすがです。
 ただ、ほとんど1曲終わるごとにドキュメンタリーをはさんだことについては賛否両論あるかもしれませんね。当日現地にいてあの雰囲気と流れを体験した私は、もともと思い出の再現を期待していなかったので、あれはあれで全然OKだったんですが、皆さんはどう感じたでしょうか。
 あくまでもテレビ番組ですから、バンプを知らない人も観るかもしれない。ですから、こうして彼らを知ってもらう演出をするのは当然ですし、第一、彼らはあんまり映像メディアに露出しないじゃないですか。それはおそらくライヴはライヴだと思っているからでしょう。ただ単調に演奏を見せるのではなく、こうして現実のライヴとの差別化を狙うのは、彼らの意思であるとも言えるのではないでしょうか。曲順が当日とは全く違っていたのも、その一つの表れでは。当然彼らの意見も番組に反映されているでしょうから。選曲もけっこう渋いと思ったんですけど、どこまで彼ら自身の関与があるのかなあ…。
 ただどうでしょうね、長澤まさみさんのナレーションは少し違和感があったかも。これはほとんど趣味の問題でしょうから、なんとも言えませんけど、熱い女性ファンにとっては、ああやって藤原くんの詩を読まれるということだけでも、いらぬ感情が起こる原因になりやしませんか(笑)。男の、冷静なファンであるワタクシでさえもちょっと「ん?」と思いましたから。
0807252 さて、作りの話はこのくらいにして、内容で心に残ったことを記しておきましょうか。
 演奏に関しては、会場でもなかなかうまいな、安心して聴いていられるな、と思いましたが、こうしてテレビでじっくり観てみましても、やはりいいなと思いました。本当に心が一つになっているな、いいアンサンブルだな、よく練習してるな、と感じました。まあプロの皆さんにそんなこと言うのは失礼かもしれませんけどね。
 インタビューでも、とにかくあの4人の心が、本当に自然に結びついているという感じが伝わってきた。その中心にあるのは、やはり藤原くんの音楽と詩だと思いますね。彼に対する他のメンバーの尊敬や、友情を超えたちょっとした愛情のようなもの(?)をしみじみ感じましたよ。他のメンバーたち、演奏中もみんなちゃんと歌ってるし。案外そういうのってないんですよ。楽器隊がちゃんと歌詞を共有している。
 いやあ、考えてみれば、幼稚園の同級生がこうして日本を代表するバンドとなって活躍しているというのは、やはり奇跡的なことですよね。そういう根っこの部分での男と男の関係が、このバンドの音楽を支えているだなあ。うらやましさすら感じますね。私にはそういう友だちいませんので(笑)。
 それから韓国ライヴの映像も紹介されてましたっけ。日本とはまた違った熱さで、ちょっとびっくりしました。彼らの詩も音楽もある意味ワールドワイドな素質を持ったものだと思いますから、こうして海外の方に認められていくというのも当然とも言えます。商業的なところからほんの少し離れて活動している彼らです。そんな純粋な「音楽を届けたい」という気持ちが、今後世界に広がっていけばいいかな、なんて思いました。それは音楽自身にとっても幸せなことですから。
 あと、軽いネタとしては、あの赤いハーモニカって、河口湖畔のおみやげ屋さんで買ったんですね。知りませんでした。さっそくファンの生徒に聞いてみたら、そんなの常識、みたいに言われちゃいました(笑)。まあ、地元ですし、熱いファンなら同じ300円モデルを持っているのは当たり前なのかな。失礼致しました。でも、ボロボロになってもそんなおもちゃのハーモニカを吹き続ける藤くんに、ちょっとカワイイけど微妙なフェティシズムを感じてしまいました。男ってそういうのあるからなあ。
 今日の番組は8月9日にBS2で再放送されます。見逃した方はぜひ。また、8月3日には総合テレビで別のドキュメンタリー番組「BUMP OF CHICKEN〜僕らは君のそばにいる〜」があるようです。どうもNHKの中枢部にコアなBUMPファンがいるようですね。誰とは言いませんが(笑)。

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.24

ヴィヴァルディ『四季』 アーヨ/ネグリ/テイト

Le Quattro Stagioni (Four Seasons)
Violin: Felix Ayo. Conductor: Vittorio Negri. Orchestra: Kammerorchester Berlin
Ayonegri て、昨日は生まれて初めて自分のお金で買ったレコードを紹介しました。ビートルズでしたね。今日は初めて買ったバロックのレコードを紹介しましょう。中学3年の時かなあ。静岡のすみやで買った記憶があります。
 まあこれもご多分にもれずと申しましょうか、ヴィヴァルディの「四季」です。この写真はどっかの国のオークションから拝借してきたものでして、ウチのものとは色が違います。ウチのは上品なピンクです。
 フェリックス・アーヨと言えばイ・ムジチの「四季」ですよね。モノラル盤もステレオ盤も、いわゆる定盤というか、まあ歴史的名演奏、名盤ということになりますよね。みなさん一度は耳にされていることでしょう。たしかに今聴いてもいい演奏ですよね。最近は古楽器による過激な(?)四季を聴くことが多いので、久々にこういう歴史的な(ある意味これもオーセンティックか)演奏を聴くと、けっこう新鮮に聞こえちゃいます(笑)。まあ、私も含めて、古楽器奏者たちは、このイ・ムジチの「四季」と違うことをやろうとしたのが、活動の原点かもしれません。
 ところで、そのアーヨが3回目の「四季」を録音していたことをご存知ですか…というか、これこそがそれなんです。そしてそれこそが私の買った初めてのバロックのレコードということになります。
 オーケストラはイ・ムジチではなく、当時の東ドイツの室内オケ「ベルリン室内管弦楽団」です。往年の名指揮者ヘルムート・コッホによって結成された楽団で、ベルリン放送交響楽団のメンバーによって構成されています。まず、このオケのクオリティーが非常に高いんですね。イ・ムジチのような豊潤な響きではありませんが、シャープで透明感あふれる音色です。
6132qmomkl_sl500_aa240_ 指揮はヴィットリオ・ネグリです。彼はこの時代、けっこう多くのヴィヴァルディを録音しているようです。のちにこの録音がCD化された時には、他のヴィヴァルディ作品も加えられていました。ネグリは指揮者としてもなかなかの腕前ですけれど、なんといっても、当時のフィリップスのレコーディング・プロデューサー、サウンド・エンジニアとして有名です。彼は長いことイ・ムジチの録音に携わっていて、同時に指揮法やら音楽学を勉強していたようです。バロック時代の楽譜の校訂なんかでも名を残しています。あの頃のフィリップスには名録音が多いのですが、そのほとんどが彼の耳と技術によると言っていいと思います。最近、そういう個性的な音造りをするレーベルがあんまりないよなあ。やっぱりアナログの方が個性を出しやすいんでしょうか。昔の録音は、ある種のフィクション(物語)があって面白かったなあ。
 ここでのネグリの指揮は、けっこう正統的というか、普通な解釈です。ほとんどイ・ムジチ的と言っていいでしょう。全体的に非常にオーソドックスです。それは独奏者のアーヨにも言えます。やはり基本イ・ムジチ時代と同じイメージの演奏をしています。少し細いけれども、とても艶やかで色気のある音で弾ききっています。彼の四季を、高校時代に生で聴きましたが(オケはN響のメンバー)、やはりとても美しい音で感動した覚えがあります(オケはひどかった…笑)。ああ、あれ、密録したカセットがどこかにあるはずだな。探してみよっと。
 で、このレコードの魅力というか特長は、先ほど書いたネグリによる録音としての音造りと、そしてなんといっても、ジェフリー・テイトによるチェンバロ演奏でしょう。テイトも今ではハンブルク交響楽団の首席指揮者ですからね。ずいぶんと出世したものです。その彼がなぜか通奏低音のチェンバロを担当してるんですよね。で、これがすごい。いわゆる今風の(というのも変ですが)古楽的通奏低音法から逸脱しまくりです。ほとんど独奏楽器のようにメロディー弾きまくり、対旋律作りまくりでして、それが今聴くと実に新鮮。冬の2楽章なんか…まあ、ありでしょう…笑。
 いや、当時はなにしろ初めてしっかり聴いたバロックの演奏ですからね、びっくりしましたよ。なぜって、実はこのレコードには「四季」全曲のスコアが付いてきていたんです。それを見ながらレコードを聴いたわけですが、なにしろそのチェンバロのメロディーが楽譜に出てこない。当時は通奏低音という概念やシステムを知りませんでしたから、いったいこれはなんなんだ、勝手にこういうことしていいのか!?と思った記憶があります。のちにそういうことをしてもいい(?)ということを知り、とても心躍ったことも思い出されます。今思えば、このテイトの演奏が、私にバロック音楽演奏の面白さを教えてくれたのかもしれませんね。そして、いつのまにやら、ロックからバロックへと私の音楽人生が展開していく…。
 いずれにしても、何ごとも「初めて」というのは、強い記憶として残り、ある意味常に最高のものとなり、その後の全てを支配していくものですよね。このレコードも完全にそういう存在です。ヴァイオリンを始めた私は、長いことアーヨの音を理想として真似をし続けました。最近も彼の演奏を再評価して、バロック・ヴァイオリンでもああいういかにもイタリアのヴァイオリンらしい艶やかで色っぽい音色を目指しているところです。
 いろいろな意味でのこの名盤、せひともCD再発してほしいですね。

Amazon Le Quattro Stagioni

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.23

ザ・ビートルズ 『ラヴ・ソングス』

The Beatles 「Love Songs」
7417588 なさん、生まれて初めて自分のお金で買ったレコード(CD)ってなんでしょうか。
 私はビートルズです。それも実に渋く「Love Songs」という2枚組のコンピレーション・アルバムでした。中学1年生の時でしょうか。1977年11月に発売。11月中に蒲田の駅ビルまで行って買ったような記憶があります。ちなみに翌月、次に買ったのがELOの「アウト・オブ・ザ・ブルー」でした(こちらの記事ではこのOTOBを、初めて買ったレコード、と書いていますが、間違いでした)。この二組の二枚組アルバムが、私の音楽人生に大変な影響を与えましたね、今考えますと。
 小学校5年生くらいからビートルズを聴いていましたが、自分でレコードを買ったのはこれが初めてです。それまでは姉が持っていた「レット・イット・ビー」や「アビー・ロード」「サージェント・ペパーズ…」、それからなぜかオープンリールに録音されていた「マジカル・ミステリー・ツアー」なんかをよく聴いていました。そう、ちょっと後期に偏っていたんですね。
 当時は小学生でもずいぶんとませていたもので、友だちからはよく「ビートルズは初期に限る!」とか言われていた記憶があります。でも、持っていないものは聴けないので仕方がない。AMラジオで特集されたものを録音して聴いたりもしてましたが、やっぱり自分で買ったレコードがないというのは、それらませた友人たちに対して、大きなビハインドとなっていました。
 結局そのまま小学校を卒業し中学に進学。いよいよ周囲も音楽について語ることが増えまして、面白い状況になってきました。まずは邦楽派と洋楽派にわかれる。洋楽派でも全米ヒットチャート派と日本ヒットチャート派に分かれる。ま、御想像のとおり、全米派は日本派を小馬鹿にし、邦楽派を大馬鹿にしてましたね(笑)。私もいちおうビルボードのヒットチャートをノートに記録したり、いちおう全米派に属してました。でも、中にはキャッシュボード派がいたり、あるいは全英チャート派がいたり、妙なところでは全伊チャート派がいたりと、今思うと実におませさんでしたね、みんな。
 さて、そんな中、多少遅ればせながら買ったのが、この「ラヴ・ソングス」であります。他のビートルズのアルバムは、みんな友だちが持っていたんですね。オリジナル・アルバムはもちろん、その前年に版権が切れて、いろんなコンピレーションを販売できるようになって、そうみんな「ロックンロール・ミュージック」とか買ってたんですね。で、その「ロックンロール・ミュージック」とのペアリングとして発売されたこのラヴ・バラード集はまだみんな買ってなかった。みんな若いからイケイケな音楽を好みますからね。そこで、よっしゃオレが買ってやる、ということになったと。
 今、見てみますと、けっこう渋い選曲ですよね。比較的初期が多めでしょうか。ですから、このアルバムで初めて聴いた曲もけっこうありました。そういう感激はありましたが、後期ものに慣れていた自分としてはちょっとした物足りなさを感じたのも事実です。ま、今思えばまさに若気の至りなわけですけど。
 そんなわけで、久々にアナログ・レコードを引っ張り出してきて、聴いてみようと思います。あれから30年(!)経って、どのような印象を持ちますことやら。
 いちおう、曲目リストをコピペしておきます。
 A面
イエスタデイ - Yesterday
アイル・フォロー・ザ・サン - I'll Follow The Sun
アイ・ニード・ユー - I Need You
ガール - Girl
イン・マイ・ライフ - In My Life
ワーズ・オブ・ラヴ - Words Of love
ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア - Here, There And Everywhere
 B面
サムシング - Something
アンド・アイ・ラヴ・ハー - And I Love Her
恋におちたら - If I Fell
アイル・ビー・バック - I'll Be Back
テル・ミー・ホワット・ユー・シー - Tell Me What You See
イエス・イット・イズ - Yes It Is
 C面
ミッシェル - Michelle
イッツ・オンリー・ラヴ - It's Only Love
恋のアドヴァイス - You're Going To Lose That Girl
エヴリー・リトル・シング - Every Little Thing
フォー・ノー・ワン - For No One
シーズ・リーヴィング・ホーム - She's Leaving Home
 D面
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード - The Long And Winding Road
ジス・ボーイ - This Boy
ノルウェーの森 - Norwegian Wood
悲しみはぶっとばせ - You've Got To Hide Your Love Away
アイ・ウィル - I Will
P.S.アイ・ラヴ・ユー - P.S. I Love You

Amazon Love Songs

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008.07.22

『私のこだわり人物伝 大木金太郎』 森達也 (NHK教育)

知るを楽しむ…愛しの悪役レスラーたち 昭和裏街道ブルース 最終回
120 鮮半島出身の力道山に憧れ、故郷と家族を捨てて日本への密航を遂げた金一(キム・イル)「大木金太郎」の知られざる姿に迫る番組。
 グレート東郷フレッド・ブラッシーアンドレ・ザ・ジャイアントと続いた、森達也さんが語る悪役シリーズの最終回です。先週のアンドレに続いて、大木金太郎をヒールとして扱うのはどうかという根本的な問題もありますが、しかし、冒頭に書いたように実生活ではたしかに悪役だったのかもしれませんね。特に家族にとっては。4人の子どもを抱えながら、突如夫に失踪された奥さんの苦労は並大抵のものではなかったでしょう。
 2年前ですかね、大木金太郎が亡くなった時、韓国では国民的英雄の死として大きなニュースになっていました。時の大統領も何かコメントしていたように記憶しています。故郷を捨てた男が、なぜ国民勲章を得るほどの英雄になったのか、正直分からない部分もありましたし、今日の番組を観ても、そのあたりのことははっきりしませんでした。
 もろちん、対日(反日)感情との絡みから考えなければならないのでしょう。しかし、どうもなあ、そこのところがつかみきれないんだよなあ…いつも。単純に、一人敵地へ乗り込んで憎き奴らを懲らしめた英雄、ということなんでしょうか。
 そこで思い起こされるのは、昨日も少し触れた秋山成勲のことです。彼は今、格闘界のヒールとして、日本中から大きなブーイングを受けています。それは当然であり、いや私などは、なぜ彼がリングに上がれるのか全く理解できないわけですが、しかし韓国ではそれこそ国民的英雄になっているようです。彼は在日として日本に生まれましたが、オリンピック韓国代表を目指して韓国に就職しました。しかし、予想以上に本国での反応は冷たく、結局帰国して日本国籍を取ります。まさに祖国を捨てた男ですね。その時の韓国からのバッシングはものすごいものがありました。しかし、日本でヒールとなった瞬間、手のひらを返したように英雄視されるようなった…。
 繰りかえしますが、そのへんの事情については、わかるようなわからないような、妙な感じなんです。韓国の対日感情も、大木金太郎時代からするとずいぶんと変わりましたから、秋山の件を大木と同じような意味合いで解釈するのもちょっとどうかと思いますし。それ以前にマスコミの伝え方が日本と韓国ではずいぶんと違うのでしょうね。そこは歴史教科書問題、あるいは最近の竹島(独島)問題なんかと一緒でしょう。伝え方、語り方が違えば、その溝は永遠に埋まらない。
 さて、話を番組に戻しましょうか。今日の収穫はタイガー戸口さんの姿を久々に見られたことでしょうか。かつてジャンボ鶴田のライバルとして活躍したタイガー戸口さんも、なんとも人の良さそうな普通のおじさんになってましたね。彼も偉大な在日レスラーです。
 戸口さんの記憶によって、森さんは韓国で大木金太郎の親戚に会うことができます。どれほど家族や親戚は金一を憎んでいただろうと想像していたところ、決してそんなことはなかった、偉大な人物として尊敬の対象となっていた、いや偉大すぎて近づきがたかったのだ…というのが番組のオチでした。そういう意味で、彼の人生自体がギミックであったと。それにまんまとだまされていたというわけです。そうして、再び「虚」が「実」になり、「実」が「虚」になるという、そういう複雑なプロレスや人生を素晴らしいものであるとして、このシリーズは終わりました。
 番組的には、あるいはNHK的にはあまり突っ込めなかったのかもしれませんが、やはり、そのギミックというのは「人」以前に「国家」に存在するのだと思いました。我々はいつも「国家」に洗脳され、煽動され、自らの人生を意味付けされていく。あるいは他者の人生を評価していく。それはたしかに「虚」であり「実」であるのかもしれません。歴史問題もそうです。歴史とは「自己」と「他者」への意味付け、評価の集積にほかならないからです。
 そんなことを考えながら番組を見終えました。国家とはメディアとは教育とは何なのか。また、日本の大衆文化を支える在日の存在とは。なせ彼らは日本にこれほど大きなうねりを作り出せるのか。人間の本領は、異分子としてある時、真に発揮されるのでしょうか。いや、真に評価されのでしょうか。難しいですね。

Amazon 自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008.07.21

『俺たち文化系プロレス DDT』 高木三四郎 (太田出版)

Ddt 日の「DREAM.5」、ネットでリアルタイム観戦しました。1ヶ月前、初めて総合格闘技を生観戦し、そして酷評したわけですが、その「DREAM.4」以上にグダグダな内容でしたねえ、今回は。まさにお客さん不在のトンチンカンな闘いばかり。もう何も言えません。ただ、これはあくまでも私の趣味と哲学の問題ですので、もちろん命をかけて戦う選手達には敬意を表したいと思います。
 それにしても、プロレスラー柴田のやられっぷりには正直ガッカリ。もう結果は見えていたわけですが、それでもなんだかなあ。またまたプロレスラー最強幻想は崩れ去った。なんとも夢のない世の中です。これでは物語は生まれません。ただ「強い者勝ち」「我良し」の世界なんて、何も面白くありません。市場経済的な勝敗論になれば、ギリギリの悪さをしたヤツが勝つに決まっているわけですから(まあヌルヌルは完全にギリギリを超えてましたが)、人間も世の中も醜くなる一方です。それを避けるための、人類発祥以来の智恵が「物語」であったのに…。
 しかし、そんな殺伐として渇ききった現代に、豊かな物語を紡ぎ続けている素晴らしい人たちがいます。そんな彼らは、今いろいろな方面から大きな注目を浴びようとしています。
 そう、それが高木三四郎社長率いるプロレス団体「DDT(ドラマティック・ドリーム・チーム)」です。「DREAM」には夢がありませんが(あるいは悪夢はあるかも)、こちらの「D」には本当に美しい夢があります。
 少し前に告知!キャンプ場プロレスという記事を書きましたね。そうなんです、本屋さんやキャンプ場でプロレスをする…もうそれだけでなんだか分からん夢の世界ですよね…団体がDDTです。その高木社長さんが書いた本がこれです。
 この本の冒頭、総合格闘技の試合でプロレスラーが負け続けた現実が語られます。ジャンルが違うわけですから当然の結果であると。そうした現実の中で、プロレスは「最強」ではなく「最高」を目指すべきであると。「強さ」だけが「最高」ではない。お客さんが興奮し、楽しみ、盛り上がるのであれば、プロとしてなんでもするというのが、彼らの基本姿勢です。
 ですから、彼らの試合(興行)にはしっかりとしたシナリオやストーリーが仕組まれています。しかし、そこにまたプロレスならではのアドリブやアクシデントが微妙に加味され、生き生きとしたライヴな物語が作られていくんですね。「勧善懲悪」「起承転結」「喜怒哀楽」全てが揃った時、プロレスは最高になると、高木さんは言います。また「ファジィさ」すなわち「胡散臭さ」を大切にしたいとも。そう、フィクションとリアルの狭間、いわゆる「虚実皮膜の間」こそが「物語」であり、「幻想=ファンタジー」であるということですね。私も全く同感です。まさ我が意を得たり、です。
 高木さんはアメリカのエンターテインメント・プロレスであるWWEの影響を強く受けています。日本同様、というか、日本に先駆けて「リアル」な弱肉強食を求めてMMAを発展させたアメリカで、WWEはいちはやく自分たちのプロレスが「物語」であることをカミングアウトしました。そして、ある意味開き直って徹底的な作り込みをした結果、MMAとの差別化にも見事成功し、大変な人気ジャンルとなったわけです。日本のプロレス界の惨状とはえらい違いですね。高木社長はそんなWWEにヒントを得つつ、しかしそこにいかにも手作り的な、よりファンと近い物語り方を導入し、大きな注目を浴びることになったのです。
 その10年間には、高木社長はじめレスラー(兼スタッフ)たちの才覚と努力のあとが見え隠れします。高木社長はいろいろな分野のイベントを企画したり、テレビ関係に進出したりと、時代の最先端をゆくエンターテインメント界での実績があります。また、「マッスル」を企画運営して高い評価を得ているマッスル坂井さんの映像分野での腕前は、そちらの世界でも有名です。アントーニオ本多さんも、美大で演劇活動をしていた方ですし、とにかくそういう「文化会系」のセンスとテクニックを、伝統的に「体育会系」であったプロレス界に導入したんですね。それが功を奏していると。
 もちろん、プロレスは本来「文化」と「体育」の競演(饗宴)であるべきです。それが「体育」に偏りすぎたんですね。もともと「スポーツ」という言葉にも、単なる「強さ」や「早さ」などを競うという意味以上の意味があったのに、どうも最近の「スポーツライク」は単なる「ガチンコ」を求めているばかりで、結果としてなんだか痩せ細ったものになってしまったんですね。相撲なんかにそういう「スポーツ」を求めたのは、いったい誰なんですか。まったくぅ。
 では、彼らのプロレスはそういうある意味茶番的なものばかりかと言いますと、これがまた違うんですね。たとえば飯伏幸太選手なんか、まじでありえない運動能力で我々を驚嘆させてくれます。そうそう、今度彼はノアのジュニアタッグリーグに出るんですよね。中嶋勝彦選手と組んで。これは楽しみですよ。そして、その最終戦(決勝戦)日本武道館大会の翌日、道志村のキャンプ場でプロレス&バーベキューですから!まさにファンタジーだよなあ…総合格闘技の選手の皆さん、こんなことできますか?
 また、多くの大物選手がDDTに参戦しています。メジャー団体との絡みもけっこう多いですし、そういう点からも、DDTのレスラーの皆さんが、ちゃんとレスリングもできるということがわかりますね。ビシバシと体育会系のこともしっかり出来た上で、あえて文化会系の要素も取り入れる。あるいは文化によって体育を統率制御する。うん、シビリアンコントロールだな、こりゃ(笑)。素晴らしい。
 というわけで、私、この本読んで本当に感動しましたよ。私が求めているプロレス、いやもっとスケールの大きいエンターテインメント、物語、文化、そういう全てが入っている気がします。私はさすがにレスラーにはなれませんが(たぶん)、企画運営だったら、かなり得意なような気もします。いろいろアイデアも浮かびますし。今度、バーベキューの折に、高木社長はじめ、坂井さん、本多さん、飯伏くんと、マジでいろいろ話してみようと思います。楽しみすぎます。
 本当に心から応援しますよ。頑張れ高木社長!頑張れDDT!そして頑張れプロレス!!

Amazon  俺たち文化系プロレス DDT

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.20

『トップランナー 椎名林檎』(NHK)

Trringo1 週月曜日に見逃したのですが、再放送がありましたので、忘れないように録画しておきました。録画したものは、SONGSの松田聖子と合わせて1枚のDVDに。それにしても、福岡というのはどうしてこうも有能な歌手や芸能人をたくさん輩出するのでしょうね。番組の中で林檎が、高校の軽音楽部がすごい大所帯だったと言っていました。もうそのへんの土壌からしてちょっとほかの地方とは違うような気がしますね。
 椎名林檎さんについては、今までもけっこうたくさん書いてきました。唯一無二の存在感、しかしご自分でも言うように、一つのイメージではくくれない人です。毎回顔が違って見える。なのにものすごく林檎らしさがある。不思議な人です。
 MCのクリエイティヴ・ディレクター箭内道彦さんが最初と最後に「天才」という言葉を使っていました。箭内さん自身、かなりの天才だと思うのですが、天才に天才と言わしめて、そして腹を鳴らす、いや鳴らし続ける(!笑!)林檎。そういうところが、まさに天才だなと思わせますね。ある意味クリエイティヴとは言えない「天才」という常套句で結んでしまった箭内さんを、あの「グ〜…」が救ったとも言える瞬間でした。あの空気は良かったな。
 また、箭内さんの顔を「駐車場とかにいて、車を停めようとしてるのに動かない猫ちゃん」と評した、というか比喩した時は笑いました。ああ、たしかにその通りだ。うまい。こういう比喩感覚、そして言語感覚、イメージ力はさすが。お見事ですね。
Trringo2 その他の林檎さんの話はいたってまっとう。いい話がたくさん聞けました。商業音楽の魅力と恐ろしさ。ハッタリと尾ひれも捨てたものではないということ。母親業は最高の仕事だということ。人がいかに生かされているかということ。9.11をきっかけに音楽を通じて再び社会と関わりを持つようになったいきさつ。毎日が我慢大会だということ。いつも苦しいということ。一生懸命やったのに、とは言えないということ。仕事は私一人のことではないということ。最初の瞬間が最高の瞬間だということ。
 今一番大切にしたい言葉は「実直」。特に思い入れの強い曲は東京事変の「落日」。
落日 with 長谷川きよし
 番組内では、SOIL&"PIMP"SESSIONSの丈青(ピアノ)、秋田ゴールドマン(ベース)みどりん(ドラムス)と一緒に、ジャズテイストの「本能」「意識」「夢のあと」を演奏しました。これがまた良かった。林檎さんの曲は不思議とどんなジャンルにもなりうるんですね。それこそ林檎さん自身の七変化のように、音楽もある意味玉虫色。唯一無二にして、無限の広がりを持つ。すごいですね。
 でもやっぱり、何がすごいって、「あっおなかなっちゃった」「なりつづけいる、しかも」だなあ。あのシーン、林檎さんがものすごくいい女に見えました。なのに再び動かない猫の表情に戻ってしまった箭内さんのたたずまいも、ちょっと可愛くて良かった…かな。

Top Runner公式

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.19

惜敗! 高校野球

080719 日は高校野球準決勝でした。結果は惜敗。今年は流れ的に大きなチャンスだったのですが。まあしかたありせまんね。一昨年も準決勝で優勝校に、昨年も優勝校に破れました。う〜ん、やはりあと一歩力が足りないのでしょうか…。
 昨日、監督さんと一緒に対戦校のビデオを観ながら、いろいろと話しました。相手チームの投手はプロも注目する選手です。今日もスカウトが来ていたのではないでしょうか。その投手をどう打ち崩すか、あるいはどう混乱させるか。それが、ある程度は出来た試合だったと思います。しかし、今一歩勝利には届かなかった。残念ですし、正直悔しい…。
 さて、ここからはスポーツとしての勝敗論を超えた、別の次元の話になります。
 これは考え方次第であり、どちらが正しいとか、そういうことは言えませんし、ある意味ウチの限界はそこに起因しているとも言えるのですが、相手方チームのベンチ入り選手20名のうち地元の選手はたった1名、あとは他県から来た選手、ウチは100%地元民で構成されたチーム、それもほとんどが自宅から通える距離に住む生徒たちです。
 私学が勝負するなら、そんな理想ばかり掲げていてもしかたない、あるいは、私学は企業、勝つための企業努力をせよ、というご意見もあるでしょう。しかし、私たちはあくまで地元で育った、育てられた子どもたちを中心に甲子園に行きたいのです。ある意味山梨県の郡内地方というのは、とても狭い共同体と言える地域でして、甲府を中心とする国中地方とはずいぶんと文化も違います。歴史的にもかなり特別な扱いを受けてきた地域です。だからこそ、ある種のコンプレックスもありますし、逆にいつか見返してやろうという反骨精神のようなものもあります。
 私たちの学校自身もそんな地域に育てられたわけですから、いつか地元の選手を中心としたチームで甲子園に行って、地域に恩返ししたいという気持ちもあるんですね。とにかくいろいろな意味で狭い地域ですので、たとえば全国から選手を集めて甲子園に行っても、やっぱりダメなんですよね。心から地元の人たちに応援していただけないと思うんです。
 私は高校野球は純粋なスポーツではないととらえています。そのへんについては、昨年こちらにも書きました。もういろいろな人たちがいろいろなところで指摘しているとおりです。私はその弊害も当然認めますが、しかし一方でそこに物語的価値や教育的価値をも認めています。なぜ、野球だけがそういう扱いを受けるのかという疑問もよく提示されますけれど、その答えは非常に簡単ですね。野球自体が純粋なスポーツではないからです。それもいろいろな方が指摘している通りですから、ここでは詳細は述べません。
 今日、球場との行き帰りのバスの中で、1冊のプロレス本を読みました(近いうちに記事にします)。それを読みながら、ああ野球ってプロレス的な部分もあるなと思いました。昭和にプロ野球とプロレスが国民的「スポーツ」になり、子どもたちの憧れになった、そして、平成の世になって、その両者の人気が凋落したというのが全てを象徴してますよ。もちろんその反対側で起きた現象が、より公平である意味単純な、すなわちスポーツライクな、サッカーと総合格闘技の隆盛です。
 ちょっと不謹慎かもしれませんが、今日も超炎天下の下でこんなことを感じましたよ。こういう環境で一回勝負で雌雄を決するなんて、こりゃあ電流爆破マッチやってるようなもんだよな、って。そういうある意味フィクショナルな部分に、私たちは酔いしれるわけです。もちろんその究極の舞台があの陽炎揺れる甲子園なわけです。甲子園が人工芝になりドームになったら、もうそこにはなんのドラマもありません。
 私は単なるガチンコではなく、シチュエーションや周辺ドラマも含めて、一つの演劇的空間が構成されている高校野球というのが好きです。そういう中で、ウチの学校は「ベビーフェイス」を演じていたいんですね。いわゆる「外人部隊」で構成されている他の強豪私立高校を「ヒール」と呼ぶと怒られそうですが、まあいいじゃないですか、そういう構図があっても。そこにいろいろな歓喜や悲哀が生まれるわけでして、それこそがスポーツを超えた物語であると信じますよ、私は。それは生徒たちにとっても、地元の人たちにとっても、決して悪いことではないと思います。
 3年生の選手諸君、本当にお疲れさまでした。素晴らしい戦いだったよ。よく頑張った。まさにベビーフェイスな君らだったし、だからこそ表現できたことがあったと思います。ありがとう。
 新チームも非常に楽しみなチームです。秋、すなわち春の選抜甲子園にも期待が持てます。先輩たちのように我々らしくいつまでもベビーフェイスで行こうぜ!

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.18

『スーパーハイ・ミー』 ダグ・ベンソン主演作品

Shm 語の教師であるにもかかわらず、映像作品を教材に使うことが多い私。レア作品や問題作、過激作などを通じて、世の中の見方を養います…なんてね。
 今日も2年生に「ゆきゆきて、神軍」後半を見せました。彼らなんだか呆れて笑ってましたが、まあそれが正しい反応でしょう。さすがに続く(とは言っても12年以上間があいてますが)「神様の愛い奴」は見せられませんな(笑)。
 同様に「スーパーサイズ・ミー」は見せましたけど、これはちょっと見せられない…かな。
 そう、スーパーサイズ・ミーはいろいろと勉強になりますよね。まあ、こちらもかなり勉強になりますが、学校でもつい先日「薬物乱用防止講演会…ダメ。ゼッタイ。」をやったばっかりですからね。さすがに過激な先生であるワタクシでもちょっと躊躇されるのであります。ま、日本版のDVDは出ていませんし、出ない可能性もあるんで、英語が苦手な彼らはあきらめてくれるでしょう。
 なんて、実際は英語力なんか全然いりません。見てれば、主演のダグ・ベンソンが30日間マリファナを吸い続けてどうなったか、あるいはどうならないかは、単純にわかりますし、彼の本業であるコメディクラブでのパフォーマンスのシーンは、完全に英語を超えています。翻訳不可能、いや翻訳不要な素敵な世界です。
 これは単なる冗談映画ともとれますけど、考えようによってはいろいろな問題を指摘しているとも言えます。もちろん、大麻が本当に危険なのかどうかという点の検証が主眼です。しかし、そのお馬鹿な(神聖な)検証実験の周辺には、医療の問題、政治の問題、警察当局の問題、宗教の問題などが漂い続けています。もちろん本家スーパーサイズの方と同様に、アメリカ社会の根本的な問題もえぐり出していると言えましょう…となると、やっぱりこれは生徒も見た方がいいのかな…いや、やっぱりまずいか。
 面白かったのは、30日経ったあと、ESP(超能力)テストの点数が7倍も上がったことですね。これは笑うべきことなのか、感動すべきことなのか、あるいは驚くべきことなのか、自分でもよくわかりませんけど、とにかくそういう事実(たぶん)はあったのでしょう。
 繰りかえしますが、この作品は日本では公開されない可能性が高いし、DVD化もされないかもしれません。それでも、輸入盤は普通に手に入りますし、上映用に無料で送ってくれるとのことですから、学校などで取り寄せて、それこそ上映会とかやったらどうでしょう…いや、冗談ですよ。
 ただ、やっぱりこれを見て自分もやってみようとは思いませんね。うわ、やめとこ、って思いますよ。そういう意味ではやっぱり見せるべきか…いったい、どっちなんだよ!(笑)

Amazon Super High Me(リージョン1)

公式

| | コメント (4) | トラックバック (3)

2008.07.17

スティーヴィー・ワンダー 『トーキング・ブック』

Stevie Wonder 『Talking Book』
411stjdjil_sl500_aa240_ 才…くやしいけれどそういう人がいます。もちろん、そういう人たちも「恍惚と不安」をかかえていて、それなりに楽ではないのでしょうが、やはり我々凡才からしますと、彼らには嫉妬してしまいます。
 今日、なんとなくつけたテレビでスティーヴィー・ワンダーの「サー・デューク」が取り上げられていました。BS-iの「SONG TO SOUL~永遠の一曲~」です。この番組なかなかよろしい。いわゆる名曲がいかに生まれたか、その誕生に携わった人々による語りを中心とした番組。
 「サー・デューク」は、言わずと知れた名アルバム『キー・オブ・ライフ(Songs In The Key Of Life)』の中の1曲。誰もが聴いたことのある人類の名曲中の名曲です。「愛しのデューク」の「デューク」とは、これも言うまでもなく、スティーヴィーの敬愛するデューク・エリントンです。しっかし、この曲もハチャメチャなファンタジーに溢れた曲ですよね。スティーヴィーの曲は、たいがいトンでもないコード進行をするんですが、まあこの曲もすごいことになってますね。分析するのも面倒なほどです。
 天才というのは大概こうしてトンでもないことをやりつつ、それが魅力になって、結果として万人に受け入れられるわけですよね。スティーヴィーはその和声感覚は特殊と言えるのですが、メロディーに対する感覚はものすごく古典的でして、普通に甘美で流麗なんです。だから、結果としてバランスが取れるんですね。初めて聴いても、何度聴いても、とにかく新鮮であり、しかし耳に馴染む。これは音楽としては最強です。世の名曲の中には、誰かさんの作品みたいに理解されるのに何百年もかかったものもあるし、逆にすぐに飽きられてしまったものもあります。その点、スティーヴィーは…やはりジャンルが違うとはいえ、ビートルズと並び称されてしかるべきものがありますね。
 今日の番組では、そんな天才に、天から名曲が降ってくる様子が何度も紹介されていました。それも大量に降ってくるんですよね。彼は1枚のアルバムのために数百から千の楽曲を作ります。その中のベストがアルバムに収録される。その他大勢はどうなってしまうのでしょうね。そういう名曲たちが夜中に突然降ってきたりするんで、レコーディング・パートナーは大変。午前2時半にいきなり電話で起こされるなんてことは日常茶飯事。でも、そんな苦労を語る人々の幸せそうな顔と言ったら。わかるなあ。そこは少しわかるなあ。天才のそばにいられる幸せ。天才に何かを頼まれる幸せ。
 さてさて、私はこの番組で初めて知ったのですが、あの名曲「サンシャイン(You Are the Sunshine of My Life)」のイントロって、デューク・エリントンの「A列車で行こう(Take the 'A' Train)」の影響を受けてるんですね。A列車のあのイントロの下降するホール・トーン・スケールを裏返して上昇させたのがサンシャインのイントロっていうことですか。正確にはあの曲はデュークの作曲ではありませんが、まあデュークによって育てられ、デュークを象徴する曲になりましたよね。スティーヴィーは天才でありながら、非常に謙虚で、他者に対する敬意を忘れない人物です。それこそが、彼の豊かな感受性、すなわち天から降ってくる音楽をキャッチできる能力の源になっていると感じました。
 というわけで、今日は、その「サンシャイン」の収録されている名盤「トーキング・ブック」を引っ張り出してきて久々に聴きました。う~む、やはりあり得ない名盤ですねえ。いやあ、本当に久々ですよ。ちゃんとこうして聴いたのはもしかして15年ぶりくらい?私もそれなりにオジサンになって、いろんな音楽経験もしてきて、そうしてこうして聴きますと、またあらためてスティーヴィーの天才ぶりにKOされちゃいますね。もう理屈はどうでもいい。完璧。音楽で自分が満たされているのが実感できます。
 面白いし魅力的なのは、スティーヴィーの奏でるムーグ(Moog)やアープ(Arp)といった初期のシンセサイザーの音ですね。実に味があるし、音楽と溶け込んでいる。スティーヴィーにはいろいろな面での境界線やカテゴリーというのが存在しないんですけれど、こういう楽器の面でもそういうところがうかがえますよね。彼がどんどん電子楽器を取り入れた、いやそれどころかそういう最新の機器にインスパイアされて、またどんどん曲を作った、そこがとても面白いと思います。番組でも例のYAMAHAのモンスターマシン「GX-1」とスティーヴィーの関係が紹介されていました。「GX-1」ってエレクトーンというよりポリフォニック・シンセサイザーですからね。そりゃあ画期的すぎましたよ。アメリカでは音楽家協会か何かから使用禁止にされたんですってね。仕事がなくなると思ったのでしょう。でも、スティーヴィーはあえてそれを使います。そういうモノの方が実は主体になっていて、人間の方がマニュピュレイトされていたりする…。
 もちろんこのアルバム、若かりしジェフ・ベックやデイヴィッド・サンボーンの音を聴けるという楽しさもありますが、彼らより電子楽器の音の方が正直魅力的なのはなぜ?(笑)
 どうも最近70年代を懐古する記事が多いような気もしますが、「モノ」にせよ「コト」にせよ「ヒト」にせよ、どうしようもなく「すごい」ので、これは致し方ありませんね。ふぅ…。

Amazon トーキング・ブック

不二草紙に戻る
 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008.07.16

ポータブル・外付けハードディスク 250GB (ロジテック)…オマケで「もののあはれ」論

Img55495940 場と自宅のMacのハードディスクの中身を統合する必要が生じ、大容量の持ち運び可能なハードディスクにして安価なものを探していましたら、いいものを見つけました。早速購入して使っています。なかなかいいですよ、これ。
 国産というところがいいじゃないですか。それもLogitecさんの自社工場、長野県伊那工場にて生産と、なんだか野菜みたいに産地まで書いてあります(笑)。中身のHDD本体も日本製(富士通製)だそうです。
 それでいて、250GBで12000円を切っている。送料も無料。これはかなり安いと言えるでしょう。ネット通販限定商品ということで、一般の店舗では手に入らないらしい。いちおうアウトレットとなっていますが、ただ白い箱に入っていただけで、メーカー保証もちゃんと1年ついてくるし、説明書や付属品も普通に入っていました。
 本体は、ちょっと重いような気もしますが、逆に堅牢な感じとも言えますね。デザイン的にもシンプルかつ高級感があって好きです。びっくりしたのはとにかく静かだということ。昔のあのカリカリ言ってたハードディスクのイメージは全くありませんね。
 当初の目的である統合をしても100GB以上余りましたので、自宅のMacのTime Machine用に使っています。このLeopardのTime Machineという自動バックアップ機能もすごいですね。まさにタイムマシンという感じで過去の状態を復元することができます。捨ててしまったファイルや、仕事上のファイルで上書き保存して消えてしまった古いデータなんかを引っ張り出してこれるので、とても重宝しています。便利な時代になりましたね。
 ところで、こうしていろいろなデータが消えず残されていくわけじゃないですか。そうすると何が起こるんでしょうね。情報って何なんでしょうね。いわゆる物が増えるというのはイメージできるんですよ。というか、物は増えないですよね。総量は変らない。物はエネルギーですから、その全体像は保存されている感じがします。何かが増えたら何かが減る。いろんな物が増えたら原油が減ったりしますよね。
 しかし、情報(データ)は違います。もちろん消えていく、消されていくデータというのもありますが、古典的な方法、つまり書かれたものや、現代的な方法、つまりデジタルコピーによって複製されたものなど、それら全てを加えれば、明らかに総量が増えている気がするんですね。どうなんでしょう。
 また「モノ・コト論」になって申し訳ないのですが、もしかすると「モノ」は総量が決まっていて、その結果、時間とともに変化し流動していくのかもしれない。そして、「コト」は無限に増えていくものであって、時間という枠に縛られないのかもしれません。ハードディスクが壊れて情報がなくなったように見えるのも、これは「モノ」が変化して物理的に保存されていた情報が感知できなくなっただけで、情報の本体(?)は不変なのではないか。
 いや、「コト」という情報は、「モノ」の時間軸上の変化の記録にすぎないのかもしれないな。だから時間が永遠であるとしたら、情報も無限に増え続けるわけです。ここのところ、「コト」を極めると「モノ」になる、というようなことを言ってきましたが、こういう意味においても、「コト」を積分していくと「モノ」になると言えるかもしれませんね。逆に「モノ」を微分していくと「コト」になる。
 ハードディスクという「モノ」に様々な「コト」を記録していく。その「コト」とは「モノ」を微分したものである。やはり、世の中の本質は「モノ」ですな。もちろん自分という存在も。それに気づいて詠嘆するのが「もののあはれ」ですね、きっと。

【Logitec】【送料無料】【LHD-P250U2】【新製品】【250GB】Web限定 ポータブルタイプ USB 2.0 ...

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.15

『私のこだわり人物伝 アンドレ・ザ・ジャイアント』 森達也 (NHK教育)

知るを楽しむ…愛しの悪役レスラーたち 昭和裏街道ブルース 第3回
Ac729447 形、結界、孤独…なるほど、そういう物語り方かあ…。なんとなく、今回の森達也さんのカタリには違和感を持ったなあ…。
 こう思ったのは私だけではないと思いますよ。彼はそんなに不幸な人間だったのでしょうか。私は逆にアンドレはけっこう幸せだったと思っています。早く亡くなってしまったのは残念でしたが、おそらく自らの異形性を利用して最も多くの金を稼いだレスラーでしょうし、なんといっても人柄が素晴らしく、誰からも愛された人物であったと思います。
 だいいち、彼をヒール(悪役レスラー)としてしまうのはどうでしょう。彼のレスラー生活の中では、ヒールであった期間の方が短い。私のイメージの中でも、彼はベビーフェイスですね。彼が異形であったことは、もちろん認めます。しかし、それが孤独を呼んだとは言えません。孤高ではありましたが。
 以前紹介したビル・ロビンソンの自伝にもこうあります。
「…アンドレは誰もが言うように本当にナイスガイで、人間的にも最高だった。他人への悪口ばかり飛び交うアメリカのプロレス界の中で、おそらく誰からも悪く言われなかったのが…いや、みんなから愛されていたのがアンドレだった」
 これが本当のところではないでしょうか。
 日本人は排他意識が強いとか、異形を見て、自らが異形でないことを確認して安心する…たしかにそういう見方もあるかもしれません。しかし、異形はそのように好奇や嫌悪の対象になるばかりでない。羨望や尊敬や信仰の対象になることもあるんです。これは逆に日本人の美点でもあるはずです。
 誰でも指を差されて好奇の目で見られることには嫌悪を抱きます。彼がそういう人たちに対して冷たい態度をとったのは別に特殊なことではなく、人間として普通のことでしょう。そして、晩年肉体的限界からプロレスをリタイアし、牧場で動物とたわむれていた、というのも、別に人間から逃げたのではなく、多くのヒーロー、人気者のご多分にもれず、単に静かな生活をしたかったからでしょう。お金がありましたし、その夢を実現したというだけのことです。私もこうして山の中に逃げてきたではないですか。あまりに人気があるんで(笑)。
 彼はラッキーマンであり、いやもっと言えば、我々にとってたしかに近づきがたい「神」であったのかもしれません。最晩年の全日本プロレスでの馬場さんとのタッグは、これはもう「神」と「仏」の連携ですよ。神仏習合。本当に癒されましたし、眩しいほどの優しさに満ちていました。
 元名レフェリー、アンドレの盟友であったフレンチー・バーナードの言葉が良かったなあ。
「優しいやつだった。リングで戦っている時はいつも相手の体を心配していたよ。彼は誰も傷つけなかった。世界中の誰一人としてね」
 そういう人だったのです。ビル・ロビンソンも言っています。彼は本当のグッド・ワーカーだったのです。プロレスの基本、相手(仕事のパートナー)を傷つけない。相手を活かす。これに徹して、つまり他者を愛し続けて、そして愛されたのが、アンドレだったと、私は思います。
 そう考えると、そんな「神」を傷つけた前田日明という男は、つくづくお馬鹿な若者でしたね。まあ、そういう人もたまには必要かもしれませんが。
 番組中、あのミスター高橋がいろいろと語ってましたっけ。プロレスを壊した男、タブーを破ってしまった男が今さら何を、という感じでしたね。結局自慢話か?アンドレのラリアットを喰らったのも、あれって高橋本人のアイデアじゃなかったかなあ。
 ま、そのへんはいいとして、とにかく今回の森さんのカタリには違和感、いや不快感すら持ってしまいました。あれじゃあ、逆差別だよぉ。それって、森さんの嫌いなことじゃなかったのかなあ…。アンドレが浮かばれないではないか…そういう意味でちょっと切なくなっちゃいました。
 ただ、昨日の実相寺さんもそうですし、ここのところたくさん取り上げている多くの偉人たちがそうであるように、やはりこういういろいろな「カタリ」を生み、死後どんどん成長していくのが、本当の「神」なのではないでしょうか。死ぬまで成長し続けたという伝説も持つ男アンドレ。死後もどんどん大きくなって、今頃身長5メートルくらいになっているのかもしれませんね(笑)。

Amazon 私のこだわり人物伝 2008年6-7月 (2008)

不二草紙に戻る

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2008.07.14

『肉眼夢記 ~実相寺昭雄・異界への招待』 NHK BSハイビジョン特集

Prog_080714_jissouji 語学者の大野晋さんが亡くなりました。彼が、その実行力と妄想力とカリスマ性をもって表現者になっていれば、実相寺昭雄にも匹敵する存在になれたかもしれませんね。フィールドを間違ったのかも(…なんて書く国語学関係者もいないでしょうな)。そんなことも含めて、お悔やみ申し上げます。あちらの世界でのご活躍をお祈り申し上げます。
 さて『肉眼夢記 ~実相寺昭雄・異界への招待』、昨年末に放映されたものの再放送です。前回不覚にも見逃してしまい、待つこと半年以上。待った甲斐がありました。素晴らしい出来でした。
 実相寺昭雄さんが亡くなったのは一昨年前の初冬でしたか。その日は大いに呑みながらこんな記事を書いていますね、私。そうとうショックだったのでしょう。あそこでは書き忘れてますが、お亡くなりになったのは、私もお世話になった(少し関わった)北とぴあ国際音楽祭で、彼演出のハイドン「月の世界」が上演される前日だったのですよね。今考えれば、彼らしい出来すぎた究極の演出だったような気がします。
 さあ、この番組です。いやあ、NHKさん、本当によくやってくれたと思います。実相寺組(池谷仙克、中堀正夫ら)を使ったとはいえ、あれだけ忠実に実相寺ワールドを再現するとは。NHKさん的にも、いわゆる実相寺世代といいますか、少年時代、実相寺に異界へ連れていかれた世代が現場の中心的存在になっているでしょうから、こういう思い入れとこだわりに満ちた番組を作ることができたのでしょう。お見事でした。
 私も大好きな(!?)、実相寺AV作品「ラ・ヴァルス」や「アリエッタ」のタイトルも紹介されていたし、NHK的SM表現も、そのギリギリ感(公共世界と私的世界の相克)が実に面白く刺激的(笑)。「実相寺のアダルトビデオを借りた若者は悲劇」なんていうスーパーが出るなんて…借りたどころか買った私はどうなるの?たしかに正座して観ましたけど(笑…そう言えば誰かに貸して返ってこなくなってるぞ)。
 京極夏彦さんとメトロン星人(声 寺田農)が実相寺昭雄の脳内を探索し(もちろん、ちゃぶ台を挟みつつね)、ホンモノの寺田農が現実世界での司会を務めるという二重構造、すなわち実相寺的テーマの一つである、「こちら側とあちら側」を隣接させるという全体的な演出も奏功していましたし、たくさん切り取られながら挿入されていく実際の実相寺作品が、それ自体虚構的なパッチワークになっていて、とっても心地よかった(私にはですが…)。
 寺田さんが司会をする現実側のトークコーナーには、清水崇さん、山崎バニラさん、唐沢俊一さんがいらっしゃり、それぞれが現実的に語っていくんですけれど、それがいつの間にか、とっても嘘臭くなっていくんですね。特に唐沢俊一さんのオタク的なカタリですね。寺田さんはもともとどこまでが演技か分からないし。これこそ、制作側の意図だったのではないでしょうか。テレビ、あるいはテレビ番組自体がフィクションであるということを、見事に語り尽くしていましたよ、テレビ自体が。
 実相寺さんが、自分の思い通りに語っていく(コト化していく)と、それが結局「モノ」になっていく。それについては追悼記事に書いた通りです。脳内のイメージを固定していくと、逆に固定されない物の怪になっていく。それは、実相寺さんの脳内が原初的に自然状態だからです。私たちが脳で考える(処理する)常識的なイメージこそが社会的フィクションであって、それはいろいろなメディアによって疑似的に固定されて、我々はそれらを共有して安心していますが、実は、我々の「実相」はもっと混沌としている「モノ」です。実相寺さんはその我々の「実相」を「実相」のまま固定してくれたんですね。
 固定されえない「モノ」を「コト」として固定する矛盾については、最後に京極さんが「不立文字」の言葉で解説してくれましたね。さすがです。文字で、言葉で表せないことを、結局文字や言葉で表さなければならない根源的な我々の存在矛盾。生きることによって死を表現する、いや、死によって生を表現しなければならない我々の命自体が、実はそういうものなのです。
 面白いのは、実相寺さんが恐るべき記録魔であったということ。いわゆるコレクションだけではなく、切った爪まで取っておく。電車の窓から見える建物を、許せるものと許せないものに分けてカウントした膨大な記録。毎日の便の様子を詳細に記したノート。リアルな夢日記。ぬいぐるみ「ちな坊」との様々な記録。
 彼はこうして記録(固定・コト化)することによって、結局その余白部分、記録しきれない「モノ」を確認しようとしたのではないでしょうか。そういう不随意な「モノ」、不可知・不可視な「モノ」を無視し排除しようとする現代社会に挑戦しようとした…というよりも、そういう現実世界がつまらなかったのでしょうね。時間にも空間にも縛られ、社会性や法律なんていうフィクションにも縛られて生きるよりも、もっと自由な「夢」世界に生きたかったのでしょう。そして、それができる才能と勇気を持っていたのでしょうね。
 そういう意味で、彼がモーツァルトの大ファンだったというのは、実に面白い事実です。番組でも述べられていましたが、やはりモーツァルトは完璧・完全の象徴なんでしょう。もちろん、私のような雑魚からすると、モーツァルトのあのフィクショナルな純粋さが気持ち悪いわけですが(笑)。実相寺さんからすると、あの異常な透明性・永遠性すなわち非エロス的世界こそ、憧れの対象だったのでしょうね。ブルーノ・ワルターの言葉を冬木透さんが紹介していました。モーツァルトの音楽は、たとえば「愛欲を表現していても道徳的」だと。
 寺田メトロンがこう言っていました。
「自分のコントロールのきかないもの、従順にならざるをえないもの…それが実相寺にとっての音楽だった」
 なるほど、完璧・完全な「マコト」である(と思われる)音楽こそが、自分の埒外の「モノ」であったと。そうか、そうすると、私が最近続けざまに叫んでいる、「コト」を極めると「モノ」になるということにもつながるじゃないですか。自分の随意にしようと囲い込もうとすればするほど逃げていく何か。それこそが日本語の「モノ」なのかもしれませんね。その「モノ」を鋭く感知し、それと遊んだ実相寺さんは、それこそこの世の「実相」を知り、そこに人間としてのある意味他愛のない挑戦状を叩きつけ続けたのでしょうか。「もののあはれ」に生きた人だったのですね。
 そうしますと、あの作品「無常」で、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータが用いられたのは象徴的です。あの作品で実相寺さんは、ある意味完璧に構築されているバッハに伴奏をつけているんですよね。これはまさに背徳、悪徳であります。すごいなあ。勇気あるなあ。
「人生は一条の夢」
「歌詠みを羨ましきと野を駆ける歌詠めぬ身の冬の汗かな」
「頭での認識は何の役にも立たない」
 こうした実相寺さんの言葉が重く胸に響きます。また、京極先生の「(実相寺作品は)生み出されたものではなく、生まれたもの」「百日かけて一発の屁をひる男」というまとめも、なかなか彼らしくお上手。
 しかし、番組の掉尾に紹介されたこの一言こそが、彼の、我々の、そしてこの世の中の実相(マコト)を雄弁に物語っていると言えるのではないでしょうか。
「所詮、人生ヒマつぶし」
 おそるべし、物語る物の怪、実相寺昭雄。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008.07.13

告知! 『キャンプ場プロレス』

Ddt やあ、持つべきものは変な教え子だなあ。卒業して社会で活躍する教え子を尊敬することもしばしばではありますが、今回ほど「神」だと思ったことはありません。
 今回の「神」は二人です。二人というか双子です。以前、ウチの学校でも凱旋公演をしてもらった芸人兄弟です。
 来たる9月7日(日)、彼ら、なんとプロレスを主催するというのです。それもおそらく世界初、リングは2万坪の大地「キャンプ場プロレス」です。なんでも、先日会見まで行なったとのこと。
 いやはや、ちょっと常識では計り知れない兄弟ではありましたが、ここまでやるようになるとはね。在学中何回か彼らと一緒にプロレス観戦に行きましたが、今ではそのプロレスの興行主ってことですか。う〜む、正直くやしい。プロレス・ファンとして完全に負けてるぞ。
 ちなみにそのキャンプ場とは、彼らの実家であります(山梨県道志村)。私も生徒たちを連れてキャンプしに行きましたっけ。かなり乱れた記憶があります(笑)。
 あのバカっ広い敷地で、いったいどのようなプロレスが展開されるのでしょう。いわゆるリングは設置しないとのこと。つまり、本当にあのキャンプ場のあらゆる自然と施設がリングだということです。ありえねえ〜。
 そのような、画期的かつ、プロレスラーとしての力量を計られるような状況に立ち向かうのは、あのDDTの4人です。当日は限定1試合。
「高木三四郎・マッスル坂井組 VS 飯伏幸太・アントーニオ本多組」
 ウォ〜!黄金カード。ありえねえ〜。私の大好きな四人じゃあないですかあ。特にプロレス界の宝とも言われる飯伏幸太選手がキャンプ場でどのような戦いを見せてくれるか。これは楽しみです。
 そうそう、高木社長と飯伏選手は、本屋プロレス(!)でも戦ってたっけ(YouTubeで観る)。これはこれですごい。約2坪、超狭い(笑)。ほとんどの戦いは店外(路上)でしたけど、あのアスファルトの上でああいう技をやっちゃうんだからなあ…。キャンプ場ではきっととんでもないことやらかしてくれるでしょう。そこにマッスルとアントーニオも加わるんだからなあ…。きっと伝説的な試合になるでしょう。
 なお、試合観戦後、選手達とバーベキューを楽しむという、アンビリーバボーなコースもあります。もちろん私たち家族はそちらにも参戦予定です。リングアナウンサーは元Rまにあの「しゅく造め」さん。おそろしくゴージャスかつデンジャラスな一日になりそうですね。
 ぜひ皆様もご参加(ご参戦)くださいませ。世界初、自然と闘いつつ共存する(?)究極のプロレスの目撃者になりましょう。道志村の広大な自然を味わうだけでも、充分に感動的ですよ。
 なお、当初企画されたバスツアーは定員に達したため募集を締め切ったとのこと。また、限定60名のバーベキューコースは残りわずかだそうです。お急ぎあれ。
 以下、主催者の発表をコピペしておきます。いやあ…ホント神だわ。


         キャンプ場プロレス 
       
        〜リングは二万坪の大地〜 


□日時 : 2008年9月7日(日) 12:30試合開始
 (雨天決行/但し・台風などにより国道通行止めの場合は中止になります)
□会場: 山梨県南都留郡道志村5964 ネイチャーランドオム敷地内
※全席立ち見 自由席です。

□対戦カード:高木三四郎、マッスル坂井組VS飯伏幸太、アントーニオ本多組
□特別リングアナウンサー 浅井企画所属お笑い芸人 元Rまにあ しゅく造め
□料金:チケット代金(駐車代込み)=1000円(当日1500円)※当日券は限りがありますので先着順です。
バーベキューコース(チケット代・駐車代込み)=6000円(限定60名さま)   
※試合終了後には、選手を交えてのバーベキュー大会!
こちらは、限定60名さまとなっておりますので、お早めにお申し込みください。

□チケット販売先 : ローソンチケット Lコード37168  DDT事務局 03−5360−6653
□アクセス[車に限る]: 中央自動車道相模湖インターから約45分[国道20号で上野原方面へ日蓮入り口交差点で県道76号を左折して青根方面へ進み国道413号を山中湖方面へ]
JR橋本駅より約70分、山中湖インターから約25分。都留インターから約30分
※電車、バス等の交通機関がない為、会場には車でお越し下さい。  
※会場から近い場所の駐車場と遠い場所の駐車場がありますのでご了承下さい。駐車場は先着順です。混雑が予想されますのでお早めにお越し下さい。
□:キャンプ場のホームページです。 http://www.natureland-om.co.jp/
□:プロレス団体DDTのホームページです。http://www.ddtpro.com/

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.12

無添くら寿司

Kula 転寿司については、4年前に文化論的(?)に書いてます。こちらです(あの頃は文が短くてよかったなあ)。その後も、すしマニアのカミさんを満足させるべく、また、子どもたちのレジャーも兼ねて、時々回転寿司には行っていました。しかし、私はどうも楽しくなかった。
 実は、私はちょっとした添加物過敏症でして、特に化学調味料や保存料を大量に摂取すると、体調が非常に悪くなるんですね。一人暮らししてた頃に、あまりにたくさん摂取していたからでしょうか。コンビニ弁当ばっかり食べてましたから。15年くらい。
 で、どうも近所の某回転寿司店に行きますと、一皿100円という経済性はいいんですが、あんまりおいしくない上に体調が悪くなるんですね。某ハンバーガーを食べた時と同じような不快感、倦怠感に襲われる。それで、どうも足が遠のいていたんですね、回転寿司から。
 しかし、最近、自らすすんで行きたいと思うお店ができました。それが「無添くら寿司」です。
 この回転寿司店、その名の通り「無添加」を売りにしています。それが本当に徹底していて、ネタはもちろん、酢や醤油やマヨネーズにいたるまで全て、化学調味料・人工甘味料・合成着色料・人工保存料を使っていません。たしかに全く私の体が変調を来さないので、これは本当みたいです。
 シャリもおいしいし、ネタ自体も新鮮(55分で廃棄…ちょっともったいないのですが)、単純に寿司としてかなりおいしい部類に入ると思います。少なくとも私が行った回転寿司店の中ではダントツにおいしい。
 今日は昼間ちょっと用事があって山梨大学へ家族で行きました。そのあと、甲府市のプールで水泳。私も久々に100メートルメドレー(最後は横泳ぎ!)やったりして、家族みんなクタクタかつ腹ペコペコになりました。カミさんなんか、頭までクタクタなのか、「あ〜、おなかいっぱい」とか言い出すし(本人曰く、「おなかいっぱいすいた」という意味らしい)。じゃあ、くら寿司行こう!ということで、プールの近くにある店舗に行きました。
 予約のシステムもシンプルでよろしい。回転寿司としてはお客の回転もスムーズで、混んでいてもそれほど待ちません。ちなみにケータイ予約もできます。店員の教育もかなり行き届いているようで、いつもニコニコ気持ちよく接客してくれます。
 今日はラッキーなことに店舗最奥部、つまり最上流に案内されました。以前最下流に座り、けっこう大変だったことがあります。食べたいものはみんな食べられちゃってるし、最後河口部分でトラブルが発生し、なんだか皿が洪水のように氾濫するし、まあ大変でした。とにかく遠方(上流方向)に流れる獲物に目をつけていても、みんなどこかで捕られちゃうんですね。おいしそうなネタはみんなやられる。最後にはそれが捕られないでここまで来るかどうかを楽しむという変な事態になってました(笑)。お〜、奇跡的にすぐそこまで来たぞ!と思ったら隣の人が捕っちゃったりして…(泣)。
 まあ、そういうわけで、今日は最上流ですからね。これはもう楽しかった。たしかにコーナー曲がってすぐに出てくるので、ゆっくり判断できないというのはあるんですが、とにかく新鮮なものがゾロゾロ出てくる。フルメニューです。シャリもにぎったばかりであったかい。ちょっとしたブルジョア気分です。
Kula2 特においしかったのは、油の乗った「焼きはらす」と「メガビントロ」、「いわし」あたりでしょうか。「あなご」も旨かったなあ。
 私はお酒も呑みました。ここの日本酒はやはり無添加の純米酒。これがなかなかいいお酒なんです。寿司自体無添加ということもあって、シンプルで薄味なんですが、それに良く合うさっぱりした日本酒です。日本酒マニアからも合格点差し上げます。
 あとですねえ、私はこのくら寿司に来ると、一つ楽しみがあるんですよ。それは「わさび」。時々川を流れてくるんですね。容器に入って。これがメチャクチャ美味いんですよ。本生わさびですね。もちろん超辛いわけですが、これをですねえ、ちょっとつまみないがらお酒を呑むと、これが絶品なんです。ちょっとおなかを休めようか、なんて時には最高のメニューです。もちろんタダですし。
 子どもたちも大喜びです。そう、ここの面白いシステムに「ビッくらポン!」というのがあります。食べ終わった空いた皿の挿入口がテーブルに付いてるんでね。そこにガラッと皿を放り込みます。で、自動的にカウントするとともに、5枚ごとにルーレットが回ってですね、それで当たりが出ますと、ガチャガチャみたいなカプセルが出てくるんです。その中には、くら寿司のキャラ(これがなかなか面白い。善玉、悪玉、それぞれ妖しくて面白い)の人形が入っている。子どもは大喜びですよ。ゲーム性もあるし、たしかに5枚単位で食べようとするので、ついつい多めに食べちゃいますから、うまい商売だと思いますよ。回転寿司は家族で来ることが多いので、こうやって子どもを楽しませるのもうまい方法ですし、コレクション性もあるので、ついついコンプしたくなる…。
 で、今日はすごかったんですよ。水泳後で腹がへっていたというのもあって、いつもより多く、家族で30皿食べたんですが(つまり3000円分)、なんと6回ルーレットを回して、3回当たりが出ました!勝率5割です。そして、それぞれのカプセルに500円の商品券が入っていたので、なななんと、実質半額になっちゃったではありませんか!一皿50円で、あんな旨いもの喰ったってことですか…感激です。
 なんだか、今キャンペーン中なのか、土日の当選確率が上がっているらしい。そして、500円券が必ず入っているとのこと。超大盤振る舞いですよねえ!?まじでビッくらポンです(笑)。
 というわけで、今日はいい日だったなあ。上の娘も初めてちゃんと泳げるようになったし。うまい寿司を安く食べられたし。庶民の小さな幸せを演出してくれた「くら寿司」さんに感謝します。皆さんもぜひ行ってみてください。
 PS サイドメニューのデザートや味噌汁もぜひ。添加物が入っていないと、こんなに素朴な味なんだ!と、なんだか今さらながら感激しますよ。ポテトサラダとか家庭の味そのまんまだし。なにしろ、会社のポリシーが「食の戦前回帰」ですから(笑)。徹底してます。

くら寿司 公式

不二草紙に戻る

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008.07.11

iPhone 発売日に…

Iphone 日はiPhone祭でしたね。ついに日本でも発売です。これほど騒ぎになるとは。
 Mac使いとしては、ああいうapple的製品が評判になることは正直うれしいですね。これに伴ってMacが売れてくれることを祈ります。
 結局は日本でのiPhone発売はソフトバンクモバイルを通じてということになりました。私もケータイはソフトバンクです。これを機に私もiPhoneに乗り換えようか…というのは冗談でして、それ以前の問題なんですよ、ウチは。
 こちらに書きましたように、なななんと、ウチは自宅が圏外なんですよねえ(笑)。ありえません。いくら山の中とは言ってもなあ…エリアマップではしっかり圏内のはずなんですがね。
 家の外でも時々アンテナが立つくらいでして、これだともうあきらめるしかない…というか、私は基本メールはパソコンですし、ケータイで誰かと通話することはほとんどないので、特に問題はないんです。ただ、カミさんはケータイのメールができたりできなかったりする状況に、相当イライラするらしい。まあ確かにそうだよなあ。 
 で、あんまりブーブーうるさいので、「はいはい、わかったよ。基地局立てちゃおう!」ということで、ソフトバンクに電話して、ミニ基地局(ホームアンテナ)を設置してもらいました。いちおうこのホームアンテナも「基地局」扱いになるのだとか(笑)。ソフトバンク、基地局がいくつ増えました!とか言ってるけど、もしかしてこのホームアンテナの数も入ってるんじゃないでしょうねえ(笑)。
Donor 申し込んだのが、月曜日。けっこう毎日工事が入っているということで、数日待ってウチは今日、iPhoneの発売日に設置となりました。以前は、設置工事をしても総務省への免許申請の関係で1ヶ月くらい電源を入れられなかったらしいのですが、今年になって法改正(規制緩和)があり、即日稼働が可能になったとのこと。
 夕方業者の方がいらっしゃいまして、まずはウチ周辺の電波状況を測定します。トランシーバー様の測定器とケータイにある隠し機能(?)を使って測定しているようでした。で、ウチはやっぱりかなり状況が悪いらしい。家の周りをグルグル回ったけれども、どこもイマイチ。基準値よりかなり低いとのことで、これは設置しても意味がないかも…とのこと。
 私も趣味でいろいろな電波と戦ってきましたので(最近では東京の地デジ受信とか)、これであきらめるわけにはいきません。業者の方を説得しつつ、自分でもドナーアンテナをいろいろ動かしてみまして、なんとか電波をゲットすることができました。もちろん最低レベルではありますが…。
 で、それを室内のホームアンテナで増幅するわけですね。ドナーから送られてくる信号がゼロでなければ、理論的には効果がゼロということはありません。実際、室内でも調子がいい時は3本アンテナが立ちます。いつもは滞ってしまうパソコンからの転送メールがどんどん届きます。もうそれだけでもうれしい。通話には多少支障があるようですけど、まあメールができればカミさんの機嫌もよくなるだろう。
 と、こんなわけで、なんとかウチでもソフトバンクのケータイが使えるようになりました。とは言っても、電波のことですから、季節や時刻や気象によって状況が変わることは、もう経験でよ〜く分かってます。思い通りにならないこともこれからあるでしょう。まあ、そのくらいの方がいいですよ、人生は。そういうのにイライラする人もたくさんいるようですが、私はそういう不随意な状況に面白みを感じますね。それに対応するのもまた楽しい。電波だって、機械だって、結局自然の一部ですからね。
 ただ、このホームアンテナはやたらに動かしたり、改造したりできません。電波法で禁止されています。たしかに基地局を移動したり、持ち歩いたり、改造してパワーアップしたりしちゃあいけませんね。でもなあ、うずうずするんだよなあ(笑)。
 あっちなみに、料金は無料です。2年縛りさえクリアーすれば無料です。機種変してもいいということですから、iPhoneに乗り換えてもいいわけですね。ま、そんなお金ありませんし、必要性もないので、買いませんけど。

不二草紙に戻る

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008.07.10

「神」「愛」「音楽」…武満徹の言葉から

Takemitsu12 日録画したものを観ました。NHKBS2で放送された「NHKアーカイブス 蔵出し劇場 あの人からのメッセージ」です。今回は「耳をすませば ~森の中で音をつかまえて~」と題して、作曲家の武満徹さんと詩人の草野心平さんのインタビューが紹介されました。
 草野さんの蛙語も面白かったのですが、やはり音楽と世界を語る武満さんの言葉にいろいろと心を動かされました。
 「私は、作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりはむしろ、すでに世界に偏在する歌や、声にならないつぶやきを、聴きだす行為なのではないかとかんがえている。だが、そのためには、私の耳はいまよりもっとしなやかで柔軟でなければならない」
 番組の最後に紹介された武満さんの言葉です。
 彼はこうも言います。
 「我々の命は様々なものと密接に結びついている。そこに大きなものを感じる。それが神なのかもしれない。結局…愛」
 特定の宗教がどうのではなく、我々がここに存在している、その前提を無条件に与えてくれているこの世界、宇宙。それ自体が武満さんの感じる「神」であり、「愛」であり、その、武満さんを通じて立ち現れた「神」と「愛」に対し、今度は武満さんが「感謝」や「希望」として音楽を作る。そういう関係がたしかに浮かび上がるインタビューでした。
 昨日の大庭みな子さんの作品もそうでしたし、一昨日のフレッド・ブラッシーさんも、またその前の武田百合子さんもそうでしたね。結局、芸術家が表現するのは、「他者」=「世界」の「愛」なのでしょうか。
 そして、出口王仁三郎が「芸術は宗教の母」と言うように、「宗教」はそれを言葉によってシステム化したものなのかもしれませんね。
 なるほど、少し分かってきたような気がします。私たちは、生活に追われ、すなわち自分の腹のうちのことばかりにとらわれ、そうした「大きなもの」への感性を失ってしまいます。しかし、本能的にはそれを感知することができるはずですし、それと通じることが「安心」や「快感」を生むのだということは、なんとなく覚えているものです。それに気づかせてくれるのが、音楽家であり、小説家であり、詩人であり、画家であり、役者であり、舞踏家であるわけですね。そして、その先にいろいろな宗教家がいると。
 ですから、以前カート・ヴォネガットの『愛は負けても親切は勝つ』を紹介しましたが、それはあくまで「人間」の立場での発言ですね。私たち個人は「愛」という言葉を振り回せるような存在ではありません。あくまで、「愛」の主体は「大きいもの」でなければなりません。そう、「愛」は自分の中にはないのです。あくまで外にある。
 しかし、「愛」への「感謝」は当然ありますし、あるべきですね。その表現が生活レベルでは「親切」なんでしょう。そして、芸術レベルではそれぞれの作品や表現になるのでしょうね。そうすると、「芸術」の表現とは「親切」の表現とも言えますね。そして、その「親切」の行為や表現や作品によって、我々は忘れていた「愛」の存在を知るのではないでしょうか。
 間接的にではありますが、私たちは無償の「愛」に恵まれていることに気づき、いやそれを思い出し、安心し、快感を得るのでしょうね。そう考えますと、本当の芸術家や宗教家は、やはり「愛」の表現者、仲介者ということになります。
 私は、自分の「愛」にはとことん自信を持てなかったので、「愛」とか「愛の表現者」とか、そういう言葉に異様なまでの気恥ずかしさを持っていたんですが、なんか基本的な考え方が間違っていたようです。私も自分の中に「愛」があると勘違いしていたんですね。ははは、とんでもない勘違いでした。
 私は残念ながら芸術レベルでの行動や表現はそれほどできませんので、生活レベルで「親切」に徹していこうと思います。そして、自分の中の「親切」を涸らさないように、たくさんの芸術や宗教に触れていきたいと思いました。武満さん、ありがとう。こうして芸術や宗教は時を超えて生き続けるのですね。なんと尊いことでしょう。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.09

『女の男性論』より 大庭みな子

Ooba ょっと忙しいので、今日は面白い文章を引用して終わりにします。今日、授業で千葉大学の過去問をやっていたら、こういう文に出会いました。生徒たちにはちょっと難しかったかな。
 大庭みな子さんの『女の男性論』からの抜粋です。フェミニストとしても有名だった大庭さんですから、ちょっとそういう強さを感じる言葉が並んでいますけれど、それでも、なるほどと思わせるものです。男女関係、夫婦関係に限らない話だと思えば、実に面白いし、真実をするどくついていることに気づきますね。
 昨日のフレッド・ブラッシーではありませんが、プロレスなどまさにこうして、悪妻(ヒール)が善夫(ベビーフェイス)を輝かせるのでしょう(ウチはどうかな?)。
 私たち(男)は太陽ではなく、夜の月を目指さねばならないのですね。私はまだまだ消え入るような昼の月です。大庭さん自身はどうだったのでしょうか。輝く悪妻だったのでしょうか。
 大庭さんは昨年亡くなりました。晩年の彼女を介護した夫利雄さんの「終わりの蜜月―大庭みな子の介護日誌」を読むと、なんだか利雄さんが良妻賢母のように思えるんですね。みな子さんが、ずっとずっと女性を描き続け、女性の権利を守ろうとしてきたその根底には、なんとなく彼女の中の「男」性があるような気もします。この文もどちらかというと男性的な硬質さを持っていますね。
 大庭さんご夫婦をプロレスになぞらえるのは申し訳ありませんが、いろいろな意味で演劇的な、役割や価値の逆転といいますか、美しい物語を生むプロレス的な「変化(へんげ)」のあったペアであったとのだなあと感じます。
 では、お読みください。

===================================

 ソクラテス、トルストイ、モーツァルト、夏目漱石などの妻はもっぱら悪妻の評が高いが、人びとは果して、この悪妻に苦しめられた夫たちに同情しているのであろうか。もしかしたらやっかんでいるのかもしれない。
 彼らはそれぞれに立派な仕事をしたといわれている人びとであり、それも、ほかのことよりは人間に深いかかわりを持った分野で功を遂げた。
 だとすれば、彼らがかりに悪妻を持っていたとしても、そのことはプラスにはなっても、マイナスにはならなかったのだろう。
 もし、そういう困った妻を持っていなかったら、彼らが今世に誇っているような作品の数々は、生み出されなかったと考えたほうがよい。
 彼女たちはある意味ではっきりとした性格を持っていたからこそ、夫たちの人格をよりいっそう映えさせる役割を務め得たのであって、またそれらの性格は多かれ少なかれ、その夫たちによって培われたものでもあったのだ。
 芸術家を気取る人たちの中には、自分の性的な役割を常に上位に誇示することで、というより、ひどく身勝手な放埓さが相手の異性の自我を殺してしまうのをとくとくとして述べることで、自分が正真正銘の芸術家であると証明できるように思いこんでいる人がいるが、それは幾分滑稽である。
 なぜなら、彼の自我にやすやすと殺されてしまうような弱い自我の持主しか性的な対象に得られなかった場合は、その作品は精彩に乏しい、説得性に欠ける一方的なものであるのが普通だからだ。
 どのようにあがいても殺すことができないほど、強力な他者としての伴侶としのぎを削る中で、彼の作品は錬磨され、真実に近づいていく。
 対象が微弱である場合は、どんなに弁舌をふるったところで、その光は昼の月のようにはかない。もっとも、彼自身は結構太陽のようにさんさんと照り輝いている、と信じこんでいるむきもあるが、他者とはすなわち世界とも言うべきものであって、どんな巨人でも自己を太陽に見立てるのはやめたほうがよい。仏陀だのキリストだのという人は、他者を認識することで、夜の月となり得たのだ。
 悪妻の話に戻ろう。
 悪妻というのはどうやら夫の真実の姿を暴き出す才能を持った女のことらしい。次から次へと、彼が内心かくしたがっている欠点を暴き立ててみせるので、夫は立腹し、「お前はおれのほんとうの偉大さがわからないわからず屋だ、だから、寂しくてたまらない」と世間に向って同情を求めたりする。
 しかし、彼は悪妻を持っているというだけで、ひとかどの男であることだけは間違いない。たとえば、かりにその妻が、彼と比較して、自己中心的な愚鈍な女だったとしても、少なくとも彼はその愚鈍な女さえをも、威風堂々と自己を主張させるほどにしむけることのできた、胆の坐った男だったのだ。
これは、彼が人間に対して秀れた理解力を持っていたということであり、生命というものを軽視しなかった証拠である。
 トルストイや漱石の文学に関しては、いろいろな批評があるだろうが、彼らの描く女たちは、女の読者をも納得させる存在感がある。彼女たちには何かしら実体がある。
 大作家といわれる男性作家でも、こと女のこととなると、ただ遠巻にえんえんと語り、あげくの果、その芯にあるものが雲か霞のようにたなびいてしまうことが多いのは、きっと彼らがついぞ女を他者として対等に扱う術を学び得なかったか、あるいは対等に扱えるほどの女にめぐりあう機会に恵まれなかったためだろうと思われる。
 でなければ、彼らは臆病の故に、女という他者に自我を侵蝕されるのを拒否したため、作家として大損をしたのだ。彼は女の自我を手っとりばやく軽視するか無視することで自己を確保しようとし、その結果、女の影を薄くしてしまい、その影の薄い女と道連れである自分の影をも薄くしてしまっていることに気づかない。
 また、面倒なので、現実にめぐりあう女はさておいて、勝手に心の中で描いた女を、一方的に空高くまつりあげ、あり得ぬ幻にしてしまい、せいぜい遠くから眺めるだけで充分だと結論をつけた作家もいる。この種の作家は、女を形而上的に自己が内包したと思いこんでいる様子である。
 ところで、「悪妻」に対して「良妻」とか「賢妻」とかいう言葉があり、人びとはこうした女たちをなんとなくけむったいばかりで面白くないものに思っていることも確かである。
 そうしてみると、やはり、「悪妻」という響きの中には、多少の羨みと、怖れとが入り混っていて、悪妻を持った男たちに同情するよりは、悪妻を得たことでかなりよい仕事をした幸運な男たちを、内心いまいましく思っているのではないだろうか。
 だからこそ、そういう人びとは、悪妻を持った男たちが悪妻によって苦しめられた点だけを強調することで自分を慰め、悪妻によって彼らが得たに違いないものには気づかぬふりをする。
彼らは悪妻の俗物性が怖いのだ。では、俗物を遠ざければ、俗物ではない純粋芸術の世界が得られると思っているのだろうか。
 いったい、純粋芸術の世界などというものは、単独で意味を持っているのだろうか。俗物だの、非俗物だの、純枠だのという抽象的な言葉は常に相対的にしか意味を持たない。
 以前大そう身勝手な芸術家と親しくしていたことがある。彼は俗世間的な意味で非常に有能な妻を持っていたが、有能であるだけに自己主張も強い彼女は、一方的に重い負担を押しつけられることに腹を立てて、とうとう彼を放り出した。
 わたしは彼がつねづね豪語していたように、独り身になったことでもっと奔放な芸術世界を築くかどうかをみまもっていたが、彼のいう「非芸術的俗物の妻」という対立物を私生活から放逐することによって、それまで多分、その対立物のせいでいきいきとしていた彼の作品世界は、まるで渚に打ちあげられた水母のようにみるまにしぼんでしまったのである。
 おそらく、生命のある芸術作品とは、俗物性と紙一重のところに同居することによって生み出されるものらしい。

参考記事(?) 快楽なくして何が人生

Amazon 女の男性論

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.08

『私のこだわり人物伝 フレッド・ブラッシー』 森達也 (NHK教育)

知るを楽しむ…愛しの悪役レスラーたち 昭和裏街道ブルース 第2回
Fb01 週のグレート東郷に続く第2回。今回は「銀髪鬼」「銀髪の吸血鬼」フレッド・ブラッシー。
 グレート東郷との試合がテレビ中継され、あまりの流血の多さにお茶の間の老人が数人ショック死したという伝説を残す男。そのニュース自体が既に虚実皮膜の間を行ったり来たりしていますね。ま、私は、老人を死なせたのはブラッシーではなく、カラーテレビだと思っていますが。ついにテレビが人を殺す時代になったと。
 さて、今日の番組では、彼のヒールぶりと、実生活における紳士ぶりとの両方が紹介されていました。森さんも言っていたとおり、たいがいヒール・レスラーは「いい人」が多い。実生活の自己と遠く離れているからこそ、プロフェッショナルとして演じられるのでは、という森さんの見解には完全に同意します。また、だからといって、あのヒールは実は「いい人」だった、で終わらせたくないという言葉にも大賛成です。
 さて、そういう意味で心に残ったのは、最後に紹介されたブラッシーの言葉です。試合を観戦した母親が、普段の息子とリング上の息子があまりに違うことに狼狽し、「どっちが本当のおまえなの?」と聞きます。すると、ブラッシーはこう答えました。「どちらも本当の私ではない」。
 この言葉はなかなか重いですね。「どちらも本当の私だよ」という答えを期待した人も多かったのではないでしょうか。でも、それではあまりに予定調和的ですよね。
 「どちらも本当の私ではない」…この言葉にはいろいろな意味を読み取れます。単純に、別のところに本当の私がいる、という意味にも取れますし、本当の自分はあまりに多様であり「どちら」という二者択一では表現しきれない、ということを表現したとも取れます。あるいは、自分自身にも「本当の自分」なんてものは分からないという意味だとも考えられますよね。
 いずれにせよ、「虚」の無数の集合体が「実」であると言えそうです。ワタクシ的な言い方ですと、「コト」は「モノ」の一部であり、全体である、ということになりますね。あるいは最近よく使う「コトを極めたところにモノ」があるというのもに通じますし、お釈迦様をはじめとする、歴史上のたくさんのオタク(!)もしくは哲学者の「悟り」とは、そのことに気づく、というか、諦観するということなのではないでしょうか。
Fb02 ですから、ブラッシーのようにフィクション(フェイク)を演じきると、あのような柔和な笑顔を持った好々爺になるのでしょう。奥様である三耶子さんが語るブラッシーは、まさに仏さまのようであります。
 ブラッシーさん、あまりのヒールぶりにずいぶんとひどい目にあっていたようです。殺されそうになったことも何回もあるとのこと。それこそ命がけで悪役を演じた。命がけで修行して、悟りを得たのですね。尊敬します。彼にとっては、それは単にビジネスだったのかもしれませんし、会場を沸かせることが快感であったのでしょうが、いずれにしても、冷静な思慮深さを持っていなければ、この偉業は為し得なかったでしょうね。
 リング上で憎まれ役を演じることと、日常でいい人を演じること、それはどちらも演じることであり、そうやって、両端を演じて、その中心点に「本当の自分」を仮設するのが、もしかすると人生なのかもしれませんね。自分自身に照らしてみても、どうもそういうことが言えそうです。皆、「本当の自分」を定位させるために、いろいろな演技をしてみるんじゃないでしょうか。職場で家庭で飲み会で、あるいは一人になってみたりして。両端とか「どちら」とかではなく、無数の演技の中の中心点というか、重心というか、そういう「座」みたいなものを浮かび上がらせる…それがうまく行っている人は、自信をもってこの世を生きていけるのではないのかなあ。
 ただ、ブラッシーもそうでしたが、その時必要なのはやはり他者の存在です。他者との関係性の中において、自分の「座」を決めることができるのが、すなわち今日のテーマ「プロフェッショナル」なんじゃないでしょうか。そんなことを思いながら、この番組を見終えました。
 最後にオマケ。裏番組、すなわちNHK総合では、この時間「プロフェッショナル 仕事の流儀」が放送されていました。こちらは「プロフェッショナル 人生の流儀」でしょうかね。面白いコントラストでした。

Amazon フレッド・ブラッシー自伝
 吸血鬼が愛した大和撫子―フレッド・ブラッシーの妻として35年
 私のこだわり人物伝 2008年6-7月 (2008)

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008.07.07

『武田百合子 天衣無縫の文章家』 (KAWADE夢ムック)

Yuriko のライバルは武田百合子です。なあんて書いたら、皆さん笑うか怒るかするでしょうね。じゃあライバルでなく恩師というのはどうでしょう。文章の師匠。いや、文章家(?)蘊恥庵庵主の生みの親。う〜ん、それでも皆さん笑うか怒るかでしょうね。なにをたわけたこと言ってるんだ、文章の質が違いすぎて話にならない、と。
 武田百合子さん、もちろん、あの武田泰淳の奥さんであると同時に、自身も優れた作家さんでありました。いや、作家さんとか詩人さんとかいう、そういうジャンルを超えたところにいらっしゃるので、だから皆「文章家」と呼ぶのでしょう。
 百合子さんの代表作はもちろん「富士日記」です。富士北麓、富士桜高原での日々をつづった日記。泰淳と、花ちゃんと、多くの文人と、また地元の人々と、ポコやたまと、そして富士山との13年間の記録。
 私が「富士日記」を初めて手にしたのは、富士桜高原に越してくる時のことでした。学校の図書室で何気なく開いたそのページには、まさに今自分がいる(学校がある)月江寺界隈のことが書かれていました。あまりにリアルで、しかし不思議と夢の中のようでもあり、正直胸のあたりから寒気のようなものがこみ上げて来て、思わず本を閉じてしまったことを思い出します。
 それからしばらく、私は百合子さんとは全く関係なく、私なりの富士桜高原での生活を続けていました。そして、再び「富士日記」をひもといたのが、今から4年前、このブログを始める時だったのです。ブログのタイトルを何にしようか、そんなことを漠然と考えていたら、「富士日記でしょう、やっぱり」と誰かに言われたような気がしたんです。その時は普通に「ああ、そうか」と思いまして、翌日図書室に行って久しぶりに引っ張り出してきたんです。そう、その時は本当に軽い気持ちだった。数年前のあの寒気もすっかり忘れていました。
 そして、あの時と同じように、やはり何気なくその数ヶ所を開いた私は、再びとんでもない恐怖に襲われました。うわぁ、これはダメだ。「富士日記」なんか書けやしない。書けるわけない。そんなたいそうな題名のもとで文章なんか書けない。ほんの数分で「富士日記」というタイトルは却下されてしまいました。
 そしてまた、ああ自分はとんでもない所に引っ越してしまったな、と思ったのです。このとんでもない文章群の生まれた、まさにその場所で、同じように富士を眺め、食事をし、猫とたわむれている自分。山を下っても、目に映る風景は、もう全て「富士日記」に描写されています。あの店、あの鳥居、あの駅、あの郵便局、あのガソリンスタンド…私は、果たして百合子さんのような目でそれら見ることができるだろうか。いや絶対にできていない。そういう恐怖にも似た緊張感が私を襲いました。
Fujinikki それとともに、私はある種の勇気を持つにも至りました。人間は往々にしてこんな時、妙な意志を抱くものです。よし、こうなったら、「富士日記」と全く逆のことをやってやろう、違う土俵で勝負だ(土俵が違ったら勝負になりませんが…笑)。そして、この「不二草紙」が始まったのです。
 まず文体を、私の得意な平成軽薄体(?)にしました。今書いているこの文体です。百合子さんの日記とは対照的な文体です。そして、内容も富士山での個人的な日々の記録ではなく、あえて富士山にこだわらず、この土地に縛られず、そして常に誰かに対して発信する「モノ・コト・ヒトをおススメする」という形にしました。
 つまり、百合子さんの「富士日記」のおかげで、このブログが生まれたのです。違う言い方をすれば、百合子さんの存在から逃げるために、無理矢理ひねり出しているのが、このブログの文章たちなのです。もし、百合子さんの「富士日記」がなかったら、私はほとんど誰にも相手にされない「富士日記」をつけ続けていたことでしょう。あるいは、得意の三日坊主で終わり、毎朝文章を書くなんてことはなかったかもしれません。
 いや、百合子さんの「富士日記」、本当にそれほど「美しい」文章なんです。百合子さんは「美しい」という言葉は安易に使いたくないなんておっしゃりますが、この文章たちを「美しい」と言わず、なんと言えばいいのでしょう。この日記を見てしまったら、もう誰も日記なんて書けません。
 あえて違う表現をするなら、私は「色っぽい」という言葉を使いたい。ここではっきり言ってしまいますが、武田百合子は本当にいい女です。惚れます。振り回されます。あの日記がいいという男性(特に文人)は、正直惚れています。そしてちょっと武田泰淳に嫉妬します。あるいは、泰淳亡きあとの未亡人百合子にドキドキします。そういう「女」性が、この日記にはあまりにストレートに書き留められているような気がするんです。だから、「美しい」と同時に「恐ろしい」。近づいたらやられます。
 こんな書き方をすると不謹慎だと言われそうですが、私が彼女の文章に寒気をおぼえたのは、やはりそういう意味においてだったのです。ものすごい「色」を感じたからです。だから、このムックで彼女について語る男どもは、なんだか堅い言い回しをしていますが、結局みんな百合子さんに惚れていたんだと感じます。「好きです」と言えない男たちのカワイイことと言ったら(笑)。吉行淳之介、村松友視、阿佐田哲也、山口瞳、粟津則雄、坪内祐三、堀切直人、種村季弘、堀江敏幸、安田謙一、巌谷國士、安原顕、川西政明、埴谷雄高…みんな、結局「色」にやられている。ああ、だから村松さんは「百合子さんは何色」を書いたのか。
 ここ富士桜高原に、武田山荘が出来たのが昭和38年暮れ、日記が書かれ始めたのが私が生まれた昭和39年でした。私の生まれた日の日記もちゃんとあります。せっかく近所にいるのですから、その聖地をいつか訪ねようと思っていましたが、残念ながら昨年取り壊しになったそうです。たしかに残念ですが、しかし、なぜか少し安心もしたのでした。

Amazon 武田百合子

楽天ブックス 武田百合子

不二草紙に戻る

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008.07.06

エステ講座(気になるお肌の対処法)

Skin2 ょんなことからエステ講座(!)に出てきました。それも、聴く方ではなく、なななんと、喋る方です。エステという世界から最も遠い人間がなぜ…。
 実は、エステティシャンやアロマテラピストをやっている教え子が講座をやるというので、乱入したのであります。単に面白そうだから。場所は富士河口湖町の公共施設。
 まあ、彼女もこういうことは初めてということで、一人で淡々と喋るよりは、掛け合いなどしながらやった方が本人も気が楽だろうし、聴いている方も飽きないだろうということで。
 で、ほとんど打ち合わせなしで、いきなり私が司会進行&ボケ&ツッコミ、彼女がまじめな講師という感じでやっちゃいました。まあ、私は笑わせ役ということです。
 仕事上、あるいは趣味上、舞台上でのアドリブは慣れているとはいえ、さすがに全くの門外漢であり、会場には当然男は私しかいないという、とんでもないアウェー状況。ちょっと緊張しましたが、何ごともツカミが大切、最初に空気を和ませてしまったので、あとはけっこううまくできました(…と思う)。
 まあ、結果としてはなかなか好評であったようで、近所の高校なんかで女子高生相手に同じようなことをやったらどうだという話も上がっていました。たしかに、高校生に正しいお肌のケア方法やら、化粧方法やら、ダイエットの方法やらを教える機会って、案外ありませんよね。
 ちなみに、私たち二人が最後に強調したのは、「心の健康がお肌の健康」ということ。具体的は、「くよくよ悩まない」「ねたみ・ひがみは厳禁」「人の悪口は言わない」「ポジティブ思考で!」。美しい女性になるためには、内面を磨かねば!ということですね。ハハハ…偉そうに何言ってんだ、俺(笑)。
 でも、究極はそこだと思うんですよね。いくら外見を美しく飾っても、内側がドロドロしてたらねえ。男は案外そういうところを敏感に感じるものですよ。女性の皆さん、気をつけましょう。
 さて、今日の講座は、私としても初めてその内容を聴いて知ったわけですが、なるほどと思ったことがいくつかありました。
 一つはシャンプーの話。シャンプーを洗い流す時、顔や背中なんかにかかって、それが肌荒れやニキビの原因になるということ。なるほど、シャンプーはけっこう強いですからね。そういう意識を持ったこと、ありませんでした。特に背中は目が届かないので危ないとか。
 ちなみに、私、質問したんですけど、私ってスキンヘッドじゃないですか、それで、この頭は、シャンプーで洗うべきか、石けんで洗うべきか。先生、さすがに困ってましたね。女性にはそういう人いないでしょうから。
 私も剃髪してみてわかったんですが、頭皮ってたしかに、他の皮膚と大違いなんですよね。質感も違うし、なんだか機能的にも違う感じがする。大きな毛穴が多いし、なんとなく油脂の分泌が多いような感じ。だから、手を洗うような感じで石けんで洗うのも、なんとなく違う感じがする。でも、シャンプーだと、あれって基本は毛髪を洗うものでしょう、その毛髪がないんですから、なんとなく不自然な感じがする。前にも書いたような気がしますが、ぜひ坊主用、ハゲ用のシャンプーを開発・発売してほしいっす。これからの高齢化社会では結構需要があると思いますよ(笑)。
 あと、これは結論的なことになるのでしょうが、結局何ごとも「やりっぱなしはダメ」ということでしょうかね。汚しっぱなしはもちろんダメ。だけれど、洗いっぱなしもダメ。ちゃんとアフターケアで、例えば保湿とかちゃんとしなくちゃダメ。日焼けのしっぱなしもダメだけれど、日焼け止めの塗りっぱなしもダメ。化粧のしっぱなしもダメだけど、化粧の落としっぱなしもダメ。う〜ん、これって何ごとにも通じますな。あとは、若い時、元気な時にしっかりケアをしておく、鍛えておくと、歳をとってから楽だということ。これも全てに通じますな。
 まあ、私はもう手遅れですし、あんまりそういうことをやる機会がありませんから、まあいいんですが。しっかし、女性は面倒ですねえ。今日はつくづくそういうことを思いました。えっ?男性もエステする時代だって?そう言えば、最近ウチのクラスのギャルどもに「加齢臭、くさい!」とよく言われるんだよな。自分としてはようやく大人になったよう気がして喜んでたんですが、周りに迷惑をかけてるんじゃあねえ、少し対策を考えますかね。今度、先生に聞いてみましょう。

不二草紙に戻る

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2008.07.05

『MAMOR』 (扶桑社)

Mamor_ph18 民とともに防衛を考える情報誌・日本唯一の防衛省オフィシャルマガジン…こんな軟派な(笑)雑誌があるなんて知りませんでした。勉強不足です。
 今日、航空自衛隊に勤める卒業生が来まして、何冊かバックナンバーを持ってきてくれました。たま〜に、女子生徒で「自衛隊萌え」なヤツがいまして、総合火力演習とか、地元ですからね、行っちゃうんですよ。学校休んでまで。で、別に本人は自衛官になろうとしているわけではない。まあ、宝塚に萌えるのと一緒の感覚でしょう(…って何が一緒なんだ?)。で、女性の先生にもそういう人がいたりしまして、彼女たちのために現役自衛官が持ってきてくれたわけです。
 しかし、この雑誌、ビックリしました。いや、本当に勉強不足で、私初めて読んだ(見た)んですよ。こんな自衛隊マガジン、それこそ誰が読むんだろう…。いったい何部発行されてるんだろう。ちなみに自衛官は買わないが、隊内に届けられるので目は通すとのこと。
 出版社は「扶桑社」。これはなるほどであります。フジサンケイグループです。扶桑社は「皇室」なんていう硬質な(実はけっこう軟らかめ)雑誌も出してますし、ご存知のように「新しい歴史教科書」なんかも出していますから、まあ防衛省公認自衛隊マガジンを出しても、なんの不思議もありません。
 自衛隊の雑誌としては、古くは「防衛アンテナ」が知られていました(知られてないか)。私は小学生のころ、「丸」とか買ってましたから、そっちの方にも興味がありまして(というか時代がまだそういう雰囲気だったんです)、お父さんが幹部自衛官だった友だちが持ってきた「防衛アンテナ」を教室で読んだ記憶があります。
 その後、多少世間寄りになった「セキュリタリアン」が発行されていたらしいのですが、そこんとこは私は抜けています。全然知りません。で、その後継雑誌がこの「MAMOR(マモル)」だということ。
 まず、驚いたのは、表紙と巻頭グラビアが美しい女性であるということ。いやあ、びっくりしましたよ。今どきの女性自衛官はこんなにカワイイのか!って。だってグラビアには「防人たちの女神」って書いてある…あっそうか、「防人の女神」ではなく「防人たちの女神」か。女神な防人ではなくて、あくまで防人たちにとっての女神に過ぎないのか(笑)。今気づいた。そう、これは単にモデルさんたちが、自衛隊の施設内で、自衛官のコスプレして、いろんな装備品の前でポーズをとってるんです。
 これはたしかに、自衛官にとっても萌えでありましょう。厳しい現実の中に混入する夢の世界(笑)。武骨で無味な空間に咲く一輪の花。これも一つのギャップ萌えですね。また、外部の自衛隊萌えの男子にも好評なのではないでしょうか。まあ女性自衛官の萌え系フィギュアが販売されるような時代ですからねえ。平和なものです。いや、一部の硬派には不評かも(笑)。三島由紀夫が生きてたらなんて言うかなあ。切腹する気も起きないかも。
 結局、この雑誌は、一般国民から距離のある自衛隊を身近に感じてもらいたい、という意図のもと編集されているわけですね。それは意味のあることでしょうけど、ここまで俗世間に迎合し、崩してしまっていいのでしょうか。だって、そのあとも基地周辺のおいしい飲食店紹介や、隊員食堂の紹介…やっぱり防衛の基礎は食ですよね…、しまいには「ミリキャラ占い」というポップで謎な占いまで。私は「戦車キャラ」でした(笑…ちょっと意外)。
 でも、結果として、ワタクシ一般人も自衛隊のことに興味を持ちましたし、たしかに身近に感じましたよ。そういう意味ではちゃんと意図どおりなのかなあ。実際、この雑誌をめぐって、職員室や教室で小さな騒ぎが起きてましたからねえ。
 私が熟読したのは今年の5月号でしたが、そこにはあの「自衛隊体育学校」の特集記事がありまして、これは面白かった。プロレス、アマレス好きの私としては、あそこは謎の空間、未踏の地、真性「虎の穴」ですからね。萌えました(笑)。あと、「戦史の教訓」のコーナーですかね。インパール作戦について、防衛研究所戦史部所員の方が解説されてます。マニアックだ…と思ったら、図の「大本営」が「大本英」になってるぞ!やばくないっすか?日本(笑)。
 実はそれ以上に笑えたのが、どの号も裏表紙の宣伝が「ブライダルジュエリー専門店」だということ。「ダイヤモンドの煌きは二人の永遠の愛の証」、そう、今日の卒業生も言ってましたけど、まあとにかく自衛官の皆さん、お金はあるけど出会いがない。上官からも出会ってこいと命令されて、「活動」…と彼は言ってました…をするけれど、どうもインパール並みの玉砕続きだとのこと。いやあ、本当に大変ですね。お国のために戦って、自分のために戦って…。ガンバレ自衛官!
 そのジュエリー専門店の広告の最後には、こうありました。
「自衛官及び防衛省の方は身分証明書の提示で特別割引致します」

MOMOR公式

Amazon MAMOR8月号

不二草紙に戻る
 

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2008.07.04

日本酒3種(まんさくの花・輝ら星の如く・瀧自慢)

 近少しお酒を控えています。別に理由はないのですが、特に飲む理由もなく飲んでいるとお金がかかるんですよね。というわけで、基本週末にだけ、少量いただいております。ちょっといいお酒をちびちび味わいながらいただくというのが、実は最もぜいたくなことですね。
 で、最近飲んだおいしい日本酒を3本紹介します。
Img55483993 まず、先週秋田に行った時に飲んだお酒。「リンゴの唄」のふるさと増田(現横手市)のお酒「まんさくの花」です。1689年創業という日の丸醸造さんの「まんさくの花」、今までも何度かいただいてますが、今回は純米吟醸。
 秋田のお酒らしく、米の甘さがほんのり。第14回国際酒まつりの純米大吟醸・純米吟醸部門で第1位を獲ったというだけあって、バランスのいい上品な味わいですね。ある意味クセがなく、いくらでもいけてしまうタイプのお酒です。これなら女性や日本酒はちょっとという方にもおススメできそうです。お値段も手頃ですのでぜひ一度ご賞味ください。
 ところで、「まんさくの花」と言えば、NHK朝の連続テレビ小説「まんさくの花」を思い出します。私が高校生の頃でしょうかね。あれって横手の女の子の話だったんですね。このお酒の銘柄は、ここから取ったのでしょうか。たぶんそうでしょう。
 次の2本は、酒屋さんに勤める教え子がお中元として昨日持ってきてくれたものです。ごちそうさま。夏らしいお酒をチョイスしてきてくれたとのこと。ありがたや。
Img10362709161 まず、山形は酒田の麓井酒造さんの吟醸「輝ら星の如く」です。シャレた名前ですねえ。ある意味この名前にふさわしい広々とした爽やかさのあるお酒でした。麓井さんはいわゆる「きもと造り」にこだわっている酒蔵さんだということで、それがこの独特の味を生んでいるんでしょうか。
 酒田市は、鳥海山の南麓の町です。鳥海山をはさんで北と南では、風土や文化がかなり違います。このお酒も最初に紹介した「まんさくの花」とは対照的なお酒でした。甘味がずいぶんと控えめでして、米の味はそれほど意識されません。なんというか、本当に初夏の渓流のような瑞々しさと流動感があります。これはいろいな料理に合うだろうなあ。食が進みそうです。
Jmd1 続きまして、ガラッと変って三重県のお酒です。名張市の瀧自慢酒造さんの純米大吟醸「瀧自慢」です。東北のお酒をいただいてから、こちらを飲むと、本当に同じ日本酒とは思えないほど、何かベースの部分が違いますねえ。もちろん、どちらもおいしいのですが。いやあ、日本酒は深いなあ。
 特に「輝ら星の如く」の後だと、ものすごく個性が強く感じられます。とってもフルーティーで、舌触りも丸く滑らかな感じ。すぐに呑み込むのがもったいないくらいいろいろな味や風味がします。そういう意味では、ちょっと料理を選ぶかもしれませんね。案外洋食に合うかも、ですね。
 こうして全国のお酒を比較しながらいただくというのも、大変なぜいたくであります。比べる面白さというのは確かにありますね。お酒に限らず、食べ物や飲み物は、その土地の風土と歴史と人を反映しているものです。特に発酵製品は自然環境に左右される部分が大きく、人はあくまで見守るという雰囲気すらありますから、その違いがはっきりするのでしょう。
 今、工業製品はもちろんのこと、いろいろな食品すら外国産が増えてしまいました。飲み物もそうですね。しかし、日本酒だけは、さすがに外国で作ることはできないでしょう。そういう数少ない分野なのかもしれません。私はこれからも全国の酒蔵さんを応援していきたいですね。

純米吟醸『まんさくの花』720ml
麓井 輝ら星の如く 吟醸 1800
瀧自慢 純米大吟醸 銀ラベル 720ml 限定

不二草紙に戻る


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.03

「鳴沢」とはどこか

Fujibun 、東大名誉教授久保田淳さんの「富士山の文学」という本を読んでいます。富士山を題材にした、あるいは富士山の登場する文学というのは膨大にありますが、その一部を年代順に解題して、富士山に対する我々日本人の感情がどのように変化してきたのか…いや、変化していないということを明らかにしています。
 あくまで一部の紹介ですけれど、それでもガイドブックとして、なかなかの良書だと思います。私も、富士山と言えば自分が住んでいるところですから、それなりにそういうものをチェックしてきたつもりですが(読んでいるわけではない)、知らないものもずいぶんとありました。
 さて、そんなこの本の中に、「藤原俊成 鳴沢論議」という章があります。鴨長明「無名抄」にあるエピソード、すなわち俊成が自らの歌で「なるさぞふじのしるしなりける」と誤って詠んだため、「なるさの入道」と揶揄されたという話に関する章です。この話は知っていましたが、それについて顕昭の「袖中抄」に詳しく顛末が書いてあるとは知りませんでした。勉強不足でした。
 顕昭は例の万葉集にある「さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと」などの歌を挙げて、「なるさは」が正しいことを証明します。そこには俊成を擁護した惟宗広言の説なども書かれているのですが、結局は両者とも、平安初期に書かれた都良香の「富士山記」の記述に影響を受けているようです。つまり、「なるさ」派は斜面を砂や石が落ちていく音を、「なるさは」派は頂上の池の沸騰する音を、それぞれ「鳴沢」だとしているのです。
 ところで、鳴沢と言えば、今私が住んでいる村も「鳴沢村」です(その村の「字富士山」という、まんまなところに住んでいます)。ここ鳴沢が万葉集ほか、いくつもの和歌に歌われた「なるさは」であると、村の人たちは思っています(たぶん)。実際村内に「さ寝らくは…」の歌碑もあります。
 しかし、今、この村はとっても静かです。激しい恋情を象徴するとはとても言えない静けさです。ずいぶん冷めた恋です(笑)。本当にこのあたりが歌枕の「鳴沢」だったのでしょうか。
 古くから、「鳴沢」とは大沢崩れのことだ、という説が有力でした。久保田さんも基本その立場を取っているようです。しかし、私はどうもその説に違和感を覚えていたんですよね。
 たしかに富士北麓の現鳴沢村あたりが歌枕になる可能性は低いなあとは思っていましたが、だからと言って大沢崩れに比定するのはどうかなと。たしかに今では東海道からも見ることができますし、毎日トラック数十台分の岩や石が崩れ落ちているようですが、しかし、その音が響き渡って街道まで聞こえたとは思えません。というか、もっと根本的な問題として、本格的な大沢崩れが始まったのは平安後期であって、万葉集に歌われるわけはない、というのが私の意見なんです。
 もちろん、他にもいろいろと考えがありますよ。貞観の噴火以前に、現鳴沢村あたりを大田川という大きな川が流れていたらしいのですが(ある程度科学的にも証明されています)、そこに滝があって、その音だろうという話もあります。鳴沢村民としてはそう考えたい。たしかに私の読んでいるトンデモ文献宮下文書にも、大田川の描かれた古地図がいくつかあります。あっ、これはトンデモなんで証拠にならないか…と言いつつ、ついでに書いちゃいますと、基本あの古文書においては、「なるさは」は「鳴流澤」と表記され、今の富士吉田付近だということになっています。
 で、最近の私の考えなんですが、これって実は場所を表しているのではないのではないか、つまり地名ではないのではないか…、そう思うようになったんですね。いずれにしても特定の場所で轟音が鳴り響いていたというのは、それ自体不自然な感じがしますし、「富士の高嶺の鳴沢」が「ニューヨークの摩天楼の124階」みたいな表現だとは限らないじゃないですか。
 すなわちこういうことです。「富士の鳴沢」とは「富士の煙」とペアになる表現で、「なるさは」の「なる」は「鳴る」でいいと思いますが、「さは」は「騒ぐ(古語では騒く)」と同源の「さは」、あるいは「ザワザワ」と同源の「さは」、または「多い」「甚だしい」を表す上代語「さは」と同源の「さは」であり、「なるさは」全体で単に絶えることのない噴火の音を表していると。単に「富士の轟音」と訳すべきだと。つまり、「富士の煙」という視覚的なものともに、聴覚的に「絶えざる恋情」「激しい恋情」を表しているということです。
 考えてみれば、万葉集は当然万葉仮名(漢字)で書かれていたわけで、一般に「鳴沢」と当て字される言葉も、元は「奈流佐波」なのです。そこに「沢」という字を当てて読むようになったのは、もちろん後世のことでして、その「沢」という字に流されて、いろいろと勘違いが生じたのではないかとも思われるのです。
 この本にも紹介されていましたが、「さ寝らくは…」の歌には別ヴァージョンがいくつかあって、その一つに「伊豆の高嶺の鳴沢」という表現があるんですね。これも、伊豆箱根のどこかから噴煙が上がっている様子を聴覚的に表現したものだと思います。実際に音は聞こえてこなくとも、大きな山の頂上からモクモクと噴煙が上がっていれば、誰でも「鳴り騒ぐ」音を心の耳で聞くんじゃないでしょうか。
 ということで、新説です。「鳴沢」はどこにもないけれども、ある意味どこにもあると(笑)。もしかすると、1000年以上にわたる誤謬を正す珍説かもしれませんよ、まじで。

Amazon 富士山の文学

楽天ブックス 富士山の文学

不二草紙に戻る

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008.07.02

『ラプソディ・イン・ブルー』 末延芳晴 (平凡社)

ガーシュインとジャズ精神の行方
58283170 ャズ方面の大学に進もうとしている生徒の指導のために読みました。
 まあそこそこクラシックとジャズについての知識はある方だと思いますが、そのクロスオーヴァーとしてのジョージ・ガーシュインについては、正直かなり疎かった。勉強になりました。
 なんとなく古楽に出会った時のような感じを受けましたね。のちの時代の常識を取り払って、本当の姿に近づこうとして見えてくる世界。ガーシュインも、実像より虚像が独り歩きしていたようです。
 私にとっても、ガーシュインと言えば「ラプソディ・イン・ブルー」、それもモダン・ジャズかスウィングの味付けがされたもの、あるいはあのレナード・バーンスタインによる荘重な(!)オーケストラ演奏、もしくはピアノでクラシック作品を弾くかのように楽譜を再生したものしか知りませんでした。ですから、この本を読みながら聴いた、ガーシュインによるガーシュイン演奏には正直衝撃を受けました。
 まずはそれを聴いていただきたい。ナクソス・ミュージック・ライブラリーに入会している方はこちらで、入会されてない方は例の冒頭の部分だけでも下のリンクからAmazonやiTunesで聴いてみてください。
Amazon Gershwin Plays Gershwin
iTunes Gershwin Plays Gershwin
 他のどんな演奏も物足りなくなってしまいますね。やっぱりオリジナルに触れるということは意味のあることです。新しい解釈や表現を試みるにしても、やはり作者本人の意図を知ることは大切ですね。
 古楽的だと思ったのには、次のような理由もあります。その自身による演奏のテンポが非常に速かったこと、そして、即興で奏される部分が多々あったこと、さらにピッチがかなり低めであったこと。表現が決して上品ではないこと。
 そう考えてみますと、ジャンルを問わず手垢にまみれてくると、音楽は遅くなり、固定化され、ピッチは上がり、お上品になってくるということでしょうかね。ま、一概にそうとは言えないとも思いますが、ちょっと面白い一致ではありました。
 さて、そんな体験をもしながら読んだこの本。基本、ガーシュインの伝記ととらえてもいいでしょう。けれども、実際はそれにとどまらない、立派なアメリカ論、音楽論になっていると思いました。
 特に繰り返し強調される、二組の三位一体。すなわち、「黒」「白」「ユダヤ」という三位と、「ホワイトマン」「グローフェ」「ガーシュイン」という三位。両三位はある意味同じとも言えましょうか。ホワイトマンはその名の通り(?)白人ですが、黒人的な性質を帯びたジャズ・バンドを率いていましたし、グローフェは一般的なクラシック音楽、つまり西洋的(白人的)音楽の使い手でしたし、そしてもちろんガーシュインはロシア系ユダヤ人でしたから、それら三色(?)の音楽や人や文化が混じり合って、あのガーシュインの「ブルー」が生まれたわけです。そして、その色が、のちの様々なジャズの形態の土壌を作っていったのですね。
 また、彼らの集団的職人的音楽製作現場というのも、これもまた、クラシック的ではなく、のちのロックンロールなどの大衆音楽のあり方を決定づけたのでした。
 一方では、こうしたある意味破格な音楽作品が、クラシック世界にも大きな波を起こします。つまり、彼の音楽はより「歌」的であり、脱楽譜的であり、明解であり、そういう意味で回帰的であったため、カウンター勢力としての無調性音楽や抽象音楽が生まれるきっかけを与えてしまったようです。
120510 そのへんの流れや歴史的事実については、正直全く知りませんでした。昨日の記事的に書けば、音楽界に物の怪が登場して売れっ子になった一方、クラシック界からもジャズ界からも卑下され疎まれ、しかし確実に周囲に影響を与え、意識改革を促したということですね。そんなすごい人だったんだ。
 そんなすごい人は、少年時代は単なる不良だったようで、ピアノを始めたのはなんと14歳。ずいぶんと遅い。まあそのおかげで、彼は正確に楽譜どおりに弾くことや、完璧な音楽理論と技術による作曲や編曲が苦手だったわけでして、それでああいう独特な世界が生まれたとも言えますね。もし、彼が幼少からいわゆる英才教育を受けていたら、ただの凡庸なクラシック・ピアニストになっていたかもしれません。あるいは、音楽なんかにはすぐに飽きてプロの喧嘩屋さんになっていたかも。まったく運命というのは面白いものです。
 あらゆる文化が流入し、混ざり合い、優れたハイブリッドが次々生まれていた古き良きアメリカ。いつのまにかアメリカという強大なブランドが出来上がり、ずいぶんと硬直化してしまいましたね。メルティングポットからサラダボウルへ。そして今は…。今、世界の優れたミュージシャンにとって、アメリカは最大の市場ではありますが、優れたミュージシャンを育てる土壌とは言えないようですね。
 あっ、そうそう、そう言えばあの天才ジャズ・ヴァイオリニスト、ステファン・グラッペリがライヴでラプソディ・イン・ブルーを弾いてましたっけ。ピアノで(!)。それが非常に早くてそっけないような感じだったんですね、あれ〜?って感じ。でも、それが実は正しかったんですね。1908年生まれのグラッペリは、ヨーロッパで育ち、音楽活動を始めたわけですが、当然アメリカから逆輸入されたばかりの活きのいいガーシュインを体験していたはずですから。なるほど、納得しました。

Amazon ラプソディ・イン・ブルー

楽天ブックス ラプソディ・イン・ブルー

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008.07.01

『私のこだわり人物伝 グレート東郷』 森達也 (NHK教育)

知るを楽しむ…愛しの悪役レスラーたち 昭和裏街道ブルース 第1回
Akuyaku ろいろな意味でタイミングのよい番組。NHKいいぞ!
 グレート東郷 vs バーン・ガニアの映像が観れたのも収穫。グレート東郷の「ジャパニーズ・スマイル」&「待った!待った!」最高でした。NHKさん、案外プロレス好きですよね。まあ「テレビとプロレスは双生児」ですから、避けて通れないのでしょう。
 さて、私も好きでよく読む森達也さんの本ですが、数年前に読んだ「悪役レスラーは笑う」も大変面白かった。ただ、ネタが私の専門とする(?)プロレスなだけに、逆に語りにくくなってしまって、このブログでは取り上げずじまいでした。そうこうしている内にNHKさんに取り上げられちゃった。そして、私の言いたいことを全部言われてしまった…と言うか、森さん本人が語っちゃった。ということは、森さんと私の考えは非常に近いということですね。
 その一番言いたいことはとりあえず置いといて、本書の中での最も感動的な(味のある)部分は、先日亡くなったグレート草津さんとの酒を飲みながらの対談でしょうかね。あれがプロレスの全てを表していましたよ。ああ、グレート草津さん、命がけで酒飲んでたんだ…。それこそレスラーの生き方でしょうね。
 それから、昨日の記事で、「政治はフィクション」みたいなことを書きました。あれは今日の森さんの言葉で言えば「国家というフェイク」ということでしょうね。そういう意味でもタイミングが良かったかな。なんだ、おんなじこと言ってんじゃん…う〜ん、やっぱり森さんの著書に影響受けてるのかな、私。
 森さんがいろいろなメディアで一貫しておっしゃる、「この世は単純でなく、複雑で、多層的で、豊かである」ということは、ワタクシ的に言うと、「コト」より「モノ」ということになりましょうか。今日の番組でも少し触れられてましたが、時代はハッキリした「コト」にばかりこだわって、つかみどころのない「モノ」の豊饒を享受しなくなっています。非常に涸れた感じがしますよね。プロレスを観て、あれは八百長だろう、で終わってしまうような。
07_book グレート東郷の出自からしてよくわからない、その「モノ」性に、皆が嫌悪し、興味を引かれ、語りたくなる。昭和はそういう時代でした。昭和まで、と言った方がいいでしょうか。
 それに比べて、最近はどうでしょう。わからないことを楽しむ…フェイクに自らすすんで騙され、フィクションで遊び、虚の豊かさの中で自己を世界を拡張していく、そういうまさに「物語(モノガタリ)」がなくなってしまっていませんか。この前、総合格闘技のイベント「DREAM」について厳しい感想を書きましたが、それはこういう実感から由来するものなのでした。
 番組中、森さんが語った「フェイクがリアルに転換する瞬間」「虚の中に実がある」「全てが虚実の被膜」「人間は矛盾した存在」「底が丸見えの底なし沼」ということは、最近私が言っている「コト」を極めて「モノ」に達するということにも通じています。
 私が言いたいのは、なんでも科学的に説明したり、白黒はっきりさせたり、勝ち負けだけで論議したり、つまり「コト」化だけで終了し、安心し、納得してしまうのでなく、なんだかわからない「モノ」について、みんなが語り(コト化し)…すなわち「モノガタリ」しあい、しかし結局その総合体がまたなんだかわからない「モノ」になっていく、というのが人間の営みであるべきだということなんです。「モノ」→「コト」→「モノ」→「コト」…という無限の循環こそが、我々の生きる意味であるし、世界の実態であると思います。
Togo もちろん、それはお釈迦様の教えにもつながっていますね。つまり、この世の「マコト(真実)」は、全ての「モノ」は無常であり、だからこそ多様であるということ一つなわけです。そうして、究極には「コト」と「モノ」が一体化していく…。
 「言葉(コトノハ)」で語る(コト化する)とは、すなわち何かを切り取り抽象するということですので、それ自体が「騙り」=「虚」になります。そこで終わってしまうのでなく、それを元に捨象された部分、未知なる「モノ」に思いを馳せて更に語る(コト化する)のが、「物語(モノガタリ)」の本質です。
 ですから、語られた(あるいは騙られた)「コト」を全てとして終了してしまうのは、私は絶対に避けたいと思っています。たしかに最近の世の中には、そこで終わってしまって、せいぜいブツブツ愚痴をこぼすだけの人が多い。それは感じます。もっともっと我々は底なし沼に入っていかなければなりませんね。底が見えているからと言って、それがホンモノであるとは限りません。蜃気楼みたいな幻影かもしれませんからね。まずはそこ(底)まで行ってみましょう。
 まあ、実際、語られる物の怪がいなくなった、モノガタリの素材たるモノが欠如している、物語の推進力を秘めたモノを感知しにくくなっている、そういう時代になってしまいましたね。単なるノスタルジーやセンチメンタリズムではないと思いますよ。
 おそらく森達也さんも、同じことを、私と違う経験と思索の中から感じ取っておられるのだと思います。もちろん、私のようなモノと森さんを同列に扱うことは大変失礼でありますが、しかし、いつかお酒を飲みながら語り合いたいですね。
 さて、いろいろ書きなぐってきました(語ってきました)が、番組の中でも、あるいは著書の中でも登場した重要人物、大モノノケである力道山について近い内に語ろうかと思います。面白い映画を観たので。

Amazon 私のこだわり人物伝 2008年6-7月 (2008)

不二草紙に戻る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »