詩人と線香花火…
今日は、私たち夫婦の憧れの人と花火などしました。まったくご縁というのは面白いものです。これもこのブログが呼んだ出会い(いちおう再会)でありました。
そう、実は今、あの「詩のボクシング」全国チャンピオン木村恵美さんのご家族が、香川から富士山麓に遊びにいらしてましてね、ウチの近所にお泊まりだったので、散歩がてらウチにお誘いし、みんなで花火をしたり、お話したり楽しい時間を過ごさせて頂いたんです。
たいがいそうですけれど、いかなカリスマも、実際お会いしてみると、案外私たち凡人と同じように日常を生きておられるんですね。そして、その日常の上にああいう詩があるわけですから、だからこそすごいなと純粋に思うわけです。
ちょっと前に「言葉(コト)」のもたらす余白の話を書きました。言葉(コト)の不完全性を逆手にとって、その表現しきれない、その背後に無限に広がる何か(モノ)を表現するのが文学作品である、というようなことでした。
その中でも「詩」は、その形式からも、その内容からも容易に想像されるとおり、そうしたコトの補集合を積極的に利用する表現行為ですね。つまり、詩の力とは言葉の力であるとともに、実は言葉の非力さであり、非言葉の力であったりするわけです。
今日も花火をする木村さんやご主人やお子さんたち、そしてウチの家族を眺めながら、みんなはこの花火をどういう言葉で表現するのかなあ、なんてボンヤリ考えていました。
私は文学的な文章やら詩やらを全く書けない(書けなくなった)人間ですので、詩作はせずに、こうして「言葉」の範囲内で思索して遊ぶことくらいしかできません。しかし、きっと木村さんや、あるいは子どもたちは、あの花火という実景の背後に無限に広がる暗黒や、無限に広がり続けて、そしていつのまにか見えなくなる煙の向こうに、何か(モノ)を感じていたんでしょうね。あるいは放射線科の医師であられるご主人も、何らかの見立てをしていたかも(笑)。まあ、そういうお仕事も、ある風景の背後に広がる物語の読み取り作業なわけですから、あながち冗談とも言えませんぞ。
で、私ですが、私はすでにある言葉でしか何かを考えられないので、花火を見ながら「色即是空」「空即是色」という古くさい言葉を引っ張り出してきていました。いや、線香花火に世の無常を感じていたわけではありませんよ(少し感じていましたが…)。
つまり、こういうことなんです。私たちが何かを見たり感じたりするということは、実はその対象自体を認識しているのではなくて、その背後にあるその他無数、あるいは無限を感じることなのではないか。全く文学的でない言い方をしてしまえば、もしこの世に全体像(U)があるとすればですね、その部分集合Aを認めるということは、その補集合Ā(Aバー)をも認めるということになるんではないか。つまり、「色」があれば必ずその背後の「空」があると。「色即是空」とは、そういう意味なのではないかと、ふと思ったのです。
そうしますと、その逆の可能性も考えられます。補集合を感知して、そして部分集合が立ち上がる(まあ、部分集合と補集合は常に入れ替え可能なわけですが、いちおう小さい方を部分集合としておきます)。つまり、花火という体験の背後に何かを感じ、それが言葉として立ち上がるということです。もしかして、詩人の行為というのは、こういう「空即是色」なのではないか。
もちろん、それを読んだり聞いたりする私たちは、逆のプロセス「色即是空」を体験するわけです。そうして、「空即是色」と「色即是空」が一致して、いや一致することはないでしょう、一致ではなく重なり合って、あらたなる全体集合が現れるのではないか。それこそが、芸術の本質なのではないか。
ここのところ、「コト」は「モノ」の部分であり全体である、みたいなことを繰りかえして述べてきましたが、「コト」というのは意識内のことですから、まさに「色」ですね。そして、「モノ」は「コト」化できない何ものかですから、それを「空」と言ってもいいでしょう。そう、「空」とは空っぽとか何もないとか、そういう意味ではないんです。私たちが認識していない「モノ」全てのことなんです。ですから、それはほとんど無限大に近い。仏教でいう、「一即多」「多即一」の究極の拡大版ですね。
と、闇の中の花火にこんなことを思う人もいないと思いますが、いや、これはやはり詩人がそばにいたから、こういう思索も起きたのでしょう。ほとんど出会うことのないその「ほとんど無限大」の一部が、こうして縁によってやってきたわけですね。面白いですし、実にありがたいことです。
改めて、チャンピオンとそのご家族に感謝したいと思います。ありがとう。詩人はやはりすごい。
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