『DREAM.4 ミドル級グランプリ2008 2nd ROUND』観戦
横浜アリーナにて総合格闘技初観戦。寸前まで(新横浜駅まで!)1枚のチケットを巡って、カミさんが行くか私が行くかもめた挙げ句、結局私が行くことに。本来なら桜庭和志フリークのカミさんが行くべき大会だったわけですが、いろいろありましてね。でも、結果的にカミさんは行かなくて良かったのでは。桜庭があんな負け方をするとは…。たぶんライヴで見ていたらショックで立ち直れなかったでしょう。
私も桜庭の負けはショックでしたよ。いちおう昔から彼を見て応援してますし、何度も何度も記事に書いてきたように、総合の中で唯一プロレス的テーゼを持って戦える選手でしたので(そして、ちょっとしたご縁もありまして…)。しかし、皮肉にも今日の試合では、そのような往年の桜庭の姿は全く見られず、総合格闘技の問題点をさらして終わってしまいました。
私はもう二度と総合格闘技を観戦しないでしょう。あれだけのお金を払って「生で」観る価値がどこにあるのか、私には全くわからなかったからです。
これから書くことは本当に個人的な趣味と感性による感想と見解であり、世の総合格闘技関係者を否定するものではありませんので、その点御理解の上、冷静にお読みください。
先ほどプロレス的テーゼと書きました。ちょうど昨日の音楽のライヴのように、ステージ(リング)上で繰り広げられるパフォーマンス(戦い)が、観客とのインタラクティヴな関係を基礎として、相互依存的、有機的に生命力を持つこと、そして見世物的な(外見およびテクニック、そしてストーリーを分かりやすく見せる)要素をフルに持つことが、そのテーゼだと私は思います。あるいは、プロレスに限らず、全てのステージ・エンターテインメントはそうあるべきでしょう。
その点、今回の興行は、興行と言えるのかさえ疑問な内容でした。お客さん不在で繰り広げられるごく「私的」な戦いがひたすら無表情(無愛想)に続き、それを隠そうとして(?)挿入される冗長で大げさな「煽りV」や入場パフォーマンスは、皮肉にも結果として試合の無表情を際立たせてしまう。そういう悪循環の中で、ひたすら観客は評論家的な視点(オタク的な細やかさ)で、細部に見入るばかり。
私の座った位置は最前列から25列目くらいのまあまあ好位置だったのですが、私の周囲の人たちは入場シーンから上方の大きなヴィジョン(スクリーン)を口を開けて見ている。目の前に生の本人がいて、ライヴを繰り広げているにも関わらず、君たちはどこを見ているんだ。ここはパブリック・ビューイングの会場でも、ましてや家のテレビの前でもないんだぞ。
もちろん、彼らが求めているのが、そうしたエンターテインメントではなく、本当の戦い、すなわちどちらが勝つか分からないという不確実性の緊張感であり、そこに命を削って臨む男たちの生き様であることは百も承知です。そこに興奮するという心理も、よ〜く解ります。
しかし、それが本当に我々を、そして選手たちを豊かにするものなのか、私にはちょっと疑問でした。
プロレス的、あるいは音楽的なパフォーマンスにおいては、ステージ上で対峙する他者はあくまでパートナーです。お互いの良いところを引き出し合いながら、優しさと謙虚さと敬意とをもって高め合っていきます。アンサンブルです。共同作業ですね。
総合格闘技では、相手のいいところを引き出していたら負けてしまいます。ですから、今日の試合でも、全ての選手は、相手のいいところを殺すことに専念していました。あるいは相手の悪いところを引き出すとも言えますね。そして隙あらば、残酷に相手の息の根を止めにかかります。もちろん、もちろんですよ、それが彼らのパフォーマンスであり、お客さんが要求しているものであることは当然理解できます。
しかし、私は(あくまで私は…です)、そこにお金を払いたくないなと思ったんです。正直。私からすると、それはやはりケンカや戦争の作法であって、楽しく美しく豊かなものではない。嫌悪感すら残ってしまった。
伝統的競技としての、個々の格闘技は、それは長年培ってきた歴史の中で生まれた形式があるから、私は大好きなんです。空手も柔道もボクシングも柔術もシルムもレスリングも。しかし、それらが総合されるということは、せっかく分割された本能的(動物的)な戦い、すなわち人間の智恵によって作り上げられた「レッスルする世界」を、再び原点(野生)に戻そうとする運動であり、私にとっては実に無粋なこととして映るんです。
では、なんでそんなふうに考えているのに、実際に観に行ったりするんだ、来なきゃいいだろ!と言いたい方もいらっしゃるでしょう。そう、ですからもう行きません。テレビでちょこっと観戦することはあるでしょうが、ライヴで観る必要は感じませんので。そこに生きた自分が存在しなかったので…ホントいやな客ですみませんね(笑)。
そんなガチンコの醜い市場経済(リング上経済)で、最終的に勝ち組も負け組も疲れ果て、自らの「生」を痩せ衰えさせてしまっている選手たち。今日の桜庭にせよ、マヌーフにせよ、その他の大勢にせよ、本当によくやりますね。観ていて辛かった。彼らの命を削ったパフォーマンスに敬意は表します。しかし、そうした猛者たちの本能を、あまりにストレートに演出し煽る我々傍観者(および主催者)の精神は、はたして豊かと言えるのでしょうか。彼らは商品として使い捨てられていく…いや、桜庭のように必要以上に使われていくものもたま〜にいるけれど…なんか私には辛い。
カミさんは言います。たとえばマヌーフのような凶暴で屈強な敵に、もしかすると老兵桜庭がなんとか勝利するかもしれない、柔能く剛を制すかもしれない、精神性が肉体性を凌駕するかもしれない…そこに期待をしてしまい、また興奮してしまうと。なるほど、そういう気持ちも解ります。しかし、それも、南方の島々でゲリラ戦で奮闘玉砕した日本人の「大和魂」に対するシンパシーに似ているとも言えましょう。それが健全なの「心」なのかどうか、微妙な気もしますね。
以前は、まだ桜庭のプロレス的テーゼが通用し、それが意外性や物語性を生み、面白い試合が成立したんですけどね、自由競争経済ではムリ・ムダ・ムラは排除されていきますからね。ここ10年で総合もずいぶんと洗練され、進化(?)してしまいましたから、そういう「遊び」は許されなくなり、そう、単なる「われよし」「強いもの勝ち」の世界になってしまった。残念。
あえて今回の救いというか、心から面白かった試合は、第7試合の「ホナウド・ジャカレイ対ジェイソン“メイヘム”ミラー」でしたね。メイヘムの軟体動物のような逃げ方はお見事!いつもあれだけだとしたら、リング上経済の勝負には勝てませんけど、パフォーマンスとして、あるいは芸(芸術)としては本当に素晴らしかった。私の中では、彼にMVPを差し上げました。
あとの試合はほとんど全て「自己」と「事故」ばかり目立ってイマイチでしたねえ。事故がなく長引いて盛り上がった試合は、私から見ますと、技術のなさ(あるいはつぶしあい)によって極まらなかっただけだったような…。なんとも皮肉なことですね。
というわけで、それこそ観客不在の「私的」な指摘に終始して申し訳ありません。まあ、ここはステージでもありませんし、お金をいただいている場でもありませんので、お許し下さい。いずれにせよ、正直がっかりです。と言うか、桜庭が勝っていれば、きっと論調も変わったんだろうなあ。戦極のジョシュの時のように興奮してプラス思考になったんでしょう。
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