請務其本
研修旅行団は美濃の伊深へ。私は3年ぶりの妙法山正眼寺参拝です。臨済宗最大派となった妙心寺派の開祖である関山慧玄さんが修行したお寺です。妙心寺奥の院とも言われ、多くの雲水が修行する道場としても有名です。また、あの川上哲治さんが座禅に励んだ寺としても知られていますね。
その他、お寺についての詳しいことは3年前の記事や、正眼寺の公式ページをご覧下さいませ。
さて、今回も眼にもまぶしい新緑の中、凛とした禅風に包まれた素晴らしい時間を過ごさせていただきました。特に今日は接心(摂心)のさ中ということもありまして、格別に緊張した雰囲気を感じました。
私たちが本堂に入った時、ちょうど老師による提唱が行われていました。老師が本尊のおられる正面に向かい祖録を講じています(たぶん)。途中からの拝聴であり、またテキストもなく、生徒たちを座らせながらでしたので、全体としてどのようなお話なのか分からなかったのが残念です。しかし、ところどころ私の心に深く入ってくる言葉がありました。
「師を殺す」…修行も教育も、ただなあなあの仲良しではダメ。場合によっては「師を殺す」気概すら持つ必要がある。師を越えて、踏みつけて、あるいは師に踏みつけられて「なにくそ」と思うくらいの姿勢がなければ、修行も教育も成り立たない。いかにもお友だち先生然としている(あるいはそれ以下か)のワタクシとしては耳の痛いお言葉。
「殺活自在」…生かすことも殺すことも、両方とも重要である。同様に生きることも死ぬことも同じ価値がある。それを自在に操って…いや自在とは「自ずから在る」ということでしょうか、自分の中に両者が自然に、対等に存在しているべきなのでしょう。
「一年の計は穀を樹うるに如くは莫し、十年の計は木を樹うるに如くは莫し、終身(百年)の計は人を樹うるに如くは莫し」…私はまさに人を樹うる仕事をしています。そうあるべきです。しかし、ついつい日々の労務に追われて、結果として単に日々の禄を得るための毎日を送りがちです。本当に百年先のこと、すなわち老師のおっしゃられた言葉によれば「人類のこと」を考えて、人を育てていかねばならないはずですね。全くその通りです。
そして「請ふ、其の本を務めよ」…関山慧玄さんは語録や頂相など、私が言うところの「コト」を残しませんでした。ただ四つのシンプルな言葉が、伝説として残っているだけです(数年前に妙心寺の蔵の中から慧玄さんのものとおぼしき頂相が見つかったらしいのですが、まだそれがホンモノかどうか検証がされていないようです)。その中でも最も有名な言葉が「請ふ、其の本を務めよ」です。「モト」という語は私の言う「モノ」と語源的に近しい関係にあるのですが、まさに「カタられたコト」という枝葉末節ではなく、その本質である「モノ」を見極めろというお言葉であると解釈しました。
それは老師のおっしゃるように、自分自身の中にあるのかもしれません。なぜなら、自分自身は他者との縁によって成り立っているものなので、自分自身を極めるということは、結果として全宇宙を極めることになるからですね。そういう意味で、自分と全宇宙は天秤にかけるとしっかりつり合うはずなんです。それこそお釈迦様の言いたかったことでしょうし、禅のそれこそ根本的究極的なテーマであると思います。
ですから、逆に、全宇宙を極めると自分自身を極めることできる、とも言えるわけですよね。ちょっとカッコつけて言いますと、私がこのブログで「古今東西 硬軟聖俗 なんでもござれ!」と、めちゃくちゃに書き散らしているのも、ある意味修行であり、一つ一つのテーマは私にとって禅の公案みたいなものなんです。
そう、あのフジファブリックの「茜色の夕日」に見る「もの」と「こと」に書いたように、「コト」は「モノ」の一部であり、全体であるわけでして、また、ある意味、私たちは宇宙(モノ)の一部であり全体である「コト」なんですね。
そういう意味では、あの僧堂での接心に臨んでいた多くの若い雲水たちとは、逆の行き方をしているのかもしれませんが、最終目標は同じなんだと、そういうふうに思いましたし、そう思って俗世間でやっていくのも一つの方法かなと思いました。
「請務其本」…私はもしかすると、葉を摘み枝を尋ねて、その本に到達しようとしているのかもしれませんね。もしかして無相大師さんにケンカ売ってるとか(笑)。それは大変なことですな。とんでもない道を選んでしまったものです、トホホ、野狐禅も楽じゃないですね。
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コメント
前略 蘊恥庵御亭主 様
膳× 禅でも 念仏でも
自分が「柱」とならなくてはいけませんね。
愚僧は・・・マッチ棒ぐらいの「柱」です。笑
大病後も・・・一応 念仏礼拝は続けています。
といっても・・・やっと「6000」礼拝
ぐらいです。苦笑
やれば一週間でできるものを・・・
数ヶ月かかっているのですから。
まったく 修行がなっておりません。笑
そんな愚僧では・・・
ありますが・・・擦り続ければ?
いつかは・・・発火?・・・光輝くことも
あるでしょう。一瞬ですが。苦笑
まぁぁぁ・・・人生 そんなものでしょうね。
それはそれで 尊いことですね。
合唱おじさん
投稿: 合唱おじさん | 2008.06.07 06:43
合唱おじさん様、おはようございます。
お体いかがですか?心配です。
マッチ棒とはご謙遜と思われますが、
私など本文に書きましたように、
根幹のない枝葉末節ばかり追い求めている
とんでもない煩悩まみれの人間でして、
本当にお恥ずかしい限りです。
まさに何事も「擦り続ける」ことこそ大切なんでしょうね。
どんな立派な柱も磨かねば輝きませんから。
まずはなんといってもご自愛のほどを。
私も最近自分の体の世話の大切さを感じております。
実は自分の体こそが柱なのかな…とも思いはじめました。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.06.07 07:58