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2008.06.30

『朝鮮通信使』 山本起也監督作品

駿府発・二十一世紀の使行録
Uhfwq 品中、このように地図が南北さかさまになっていましたね。さりげなく回転してました。
 昨年は、徳川家康の駿府城入城400年、そして(江戸時代の)朝鮮通信使が始まって400年という年でした。この映像作品は、それを記念して製作されたものです。
 静岡市在住の私の父が、図書館から借りてきたものを観ました。父は先日、市民文化会館で観たとのこと。静岡市が中心になって製作されましたので、基本的に徳川家康の目指した平和外交の成果としての朝鮮通信使を表現したものになっている印象を受けました。もろちん、21世紀における日本と朝鮮半島との関係を模索する目的の作品ですから、そういう内容になってしかるべきであります。
 作品としては、なかなかきれいな作りであり、取材や構成もしっかりできていて楽しめました。さすが、ドキュメンタリー映画を得意とする山本監督です。静かな中にも強いメッセージを感じさせる好演出であったと思います。
 ナレーションと案内役をつとめる林隆三さんがいい味を出していますね。作品全体の印象に、彼の芸がいかに大きな影響を与えていることか。「語り」の力ですね。
 ご存知のように、朝鮮通信使には、日朝双方にいろいろな思惑があったり、あるいは双方の意識のすれ違いも多々あったりしましたね。この作品では、豊かな文化交流が強調されていましたが、その逆の面、すなわち文化摩擦があったのも事実です。
 静岡の街道筋の人たちも、けっこう大変だったのではないでしょうか。作中にもあったように、そのもてなしにはずいぶんと大きな負担を強いられたことでしょう。彼らが来ることは、一つのお祭りのようなものであったとは思いますし、一つの娯楽、見世物として楽しみにしていたのも事実ですが、家の改修や過度な饗応も大変だったろうし、さらに狼藉をはたらく朝鮮人などもいたようですからね。せっかくきれいにした家を汚されたりして、けっこう大変だったらしい。
 作品にも出てきましたが、僧侶や文人らはそれなりの文化交流をしていたようですね。それも漢文(漢詩)で交流したというのは面白いですね。今でもそうです。私も韓国の姉妹校を訪問したりすると、漢字で筆談したり、あるいは今なら英語ですかね、そういう第三の言語で、それもある意味双方にとって支配的である言語によって交流するんですよ。
 なんとなくそういうことを考えながらこの作品を観ていまして、まあ、通信が「まことをかよわす」という意味だとしても、結局はその場しのぎのもてなしや、あるいは偽造した国書や印や、あるいはそういった第三の言語だったり、つまりワタクシ的に言うと「コト」的(フィクショナル)なつながりであったのだなあと、そんなことも思いました。
 つまりこの世に「真コト」というのはなく、それを標榜すると、どうしても嘘つきになってしまったり、芝居がかったりしてしまうということです。もちろん、全ての異文化交流はそうして始まるわけですし、いや、いつまでたってもそこにとどまるわけですから、当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
 もうすぐ、洞爺湖サミットが始まるじゃないですか。これもまた、朝鮮通信使と似たようなもので、それなりの出迎えをして、そしてそれなりの警備をして、それなりの作られた笑顔で会話して、でもそれなりの思惑が交錯していて、で結局それなりの声明を発表したりして、なんとなくお祭りが終わったというか、それなりのアクトをしましたよで終わるというか…。つまり、「マツリゴト」というのはいつの世もフィクションであると。
 それを後世どのように解釈するかというのもまた、非常に政治的、マツリゴト的なものであるわけですね。芸術作品におけるメッセージ性というのは、例外なくそういう性質のものなのでした。ですから、この作品がいろいろな教育現場などで上映されることには、プラス方向にもマイナス方向にも大きな意味があると思います。ま、教育こそ「マツリゴト」の末端であり根幹であるわけですが…。
 山本監督は私の高校の後輩です。私が3年生の時の1年生だと思います。次は監督の話題作「ツヒノスミカ」を観てみましょう。たぶん、監督としては「ツヒノスミカ」の方が自然体だと思いますので。

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2008.06.29

スティックポスターin羽後町

タクシー会社の窓に貼られたスティックポスター群(click!)
Sp01 10時間かけて富士山に帰ってきました。
 昨日は我々のコンサートも大きな楽しみでありましたが、実は私にはもう一つささやかな楽しみがありました。
 そうです。昨日、羽後町では「かがり火天国」というお祭が催され、そして、その中で「かがり美少女イラストコンテスト」や、イラストレーターの西又葵さんのスペシャル・セミナーなどが行われるのです。私はそっちの方のことはあんまり詳しくないのですが、オタク文化には興味を持っていますので、はたしてこの秋田の小さな町にどのくらいのオタクの皆さんが集まるのか、そしてイベントがどのような雰囲気になるのか、非常に楽しみでした。
Sp02 ただ、お祭と我々のコンサートの時間が完璧に一致しているので、残念ながら直接お祭に参加することはできません。まあ、しょうがないな。でも、正直、演奏中もそっちのことがちょっと気になっていたりしました(笑)。
 あと、このお祭に合わせて作られた超豪華なスティックポスターをゲットすること。これは実現しました。地元の書店ミケーネさんに行って、とりあえず5箱(10枚)ゲット。店内外にはいかにもそういう方々が、両手にポスターの箱の入った袋を提げています。なんとなく感動の風景。
Sp03 私は一種類だけダブっていたので、16枚中9枚手に入れたということです。ちなみにこれらはマニアな生徒たちに売りつけます(笑)…と思っていたんですが、実際買って、実際観てみますと、さすが日本を代表するイラストレーターの方々の作品、正直素晴らしい!めんこい!そうか、「めんこい」は「萌え=をかし」なのかもしれない…。いやあ、予想以上に素晴らしい。これはもう芸術の域に入ってますね。私がゲットしたものはのちほど紹介します。
 オウザンのメイド・カフェ(?)の方にも、これらポスターをゲットしたオタクの方々が多数来店されていました。しかし、昨日書いたように、私たちのコンサート&ディナーが開催されることになったので、夕方からは貸し切り状態。お祭が始まる前の夕方にこちらのカフェで優雅にお茶を、と思っていたであろうオタク諸君の夢を砕いてしまってごめんなさい!
 なにしろ、憧れのカフェに来店したとたん、メイドさんに追い返されちゃうんだもんな。これこそまさに「おかえなさいませ(命令形)」ですぞ(笑)。私は店内でいろいろと準備していたんですが、なんか哀愁の背中を見せて帰っていく皆さんが可哀想で可哀想で(?)、ある一群に声をかけてみました。
「ポスター全部集まりました?」
「ええ!コンプリートしましたよ!」
「すごい!」
「1万円かかりました」
「お〜、20箱買ったんだ…」
「40枚ですね。で、16種類コンプリート。まあ、仲間と交換したりして…」
「お〜、すごいですねえ。ところでどこからどうやって来たんですか?」
「東京です!飛行機で来ました!」
 お〜、その熱さを待っていた!さすがですね。こういう行動力というか熱意というか団結力というか、オタクの真骨頂です。私もいちおうオタク研究家のはしくれとして、彼らのその心意気には共感するとともに感動すらしましたよ。
 その後、祭が始まる前の会場付近を探索しました。熱心にイラストコンテストのエントリー作品を吟味する方々や、メイド服とチャイナ服の秋田美人が給仕するビア・ガーデンの開店を待つ人々の、あの静かだが、非常に濃厚な空気は、やはり独特のものがありました。いやあ、熱いなあ。しかし、あの「メイドと語らNIGHT!」というのはなんとも…(笑)。自分のコンサートをそっちのけで、こっちで飲みたいなあ!なんて不謹慎なことを考えてしまった私って…ま、冗談です(笑)。
 ということで、私がゲットしたスティックポスターを紹介します。持っているのは、ウチのクラスの萌え系(?)まきたんです。clickして観てみてください。

BonnodoriIshiumaKenponasiAguriko_2KurosawakeMiwaSatohTaisennsohPop

 どれも美しい作品でありますが、私の趣味といたしましては、やはりウチのバンドにも間接的に縁のあるPOPさんの絵かなあ。純粋にめんこいと思います。カミさんもPOPさんデザインの茅葺き屋根キャラ(?)かやたんに萌えておりました。ちなみにPOPさん製作の羽後町の地図(うごいすマップ)はゲットできませんでした。地元の機動力を活かしてなんとか手に入れたいと思います。
Nobuhirousi_2 ワタクシ的に笑えたのはですね、やはりゲットした中では、佐藤信淵でしょうか。今日、羽後町の歴史民俗資料館に行って(土方巽の鎌鼬の写真展示があったので)、佐藤信淵の肖像画を見てきたんですが、あまりに違うんで大笑いしちゃいました。ポスターでは超イケメンですが、資料館にあったのは…。ちなみに左の画像は秋田市にある彌高神社に残る肖像であり、資料館のものよりも多少イケメン風であります…。
 あとは、そうですねえ。今回はゲットできませんでしたが、「としとらんど」でしょうかね。としとらんどの実態についてはこちらに私のレポートがあります。あのポスターを観て、としとらんどに行ってしまった人たち、ご愁傷様でした(笑)。
Ohzan67 そして、旧対川荘、すなわち昨日コンサートをしたオウザンのメイドさんの絵でしょうか。実際、とっても可愛らしいお嬢さんお二人が、イマンの高級なメイド服に身を包み、それはそれは魅力的でいらっしゃったわけですが、さすがにこういう画風になりますと、ちょっと違った風情になりますね。右の写真は、昨日職権を濫用して(?)撮影させていただいたものです。まあ役得ですな。ごめんなさい、オタクの皆さん!
 でも、冗談抜きで、本物のメイドさんは素晴らしい。正しい文化は正しく継承しなくてはなりませんね。
 それにしても、メイドさんお二人、昨日はお疲れさまでした。お二人だけで、あれだけのお客様をもてなすのは、さぞ大変だったでしょう。昼間はあちら系、夜はディナーとコンサート、そしてその後も我々におつきあいいただき、どっとお疲れになったことでしょう。ありがとうございました。
 それにしても、あらためてこのスティックポスターやイラストコンテストを企画運営し、そして実現に持っていったスタッフの努力には頭が下がりますね。特にオタクの皆さんも「神」と称していた、山内氏は本当にすごい方ですね。今回はお会いする機会がありませんでしたが、いつかお会いして、羽後町の振興についていろいろとお話しさせていただきたいと思います。私もこの町が大好きですので。

お祭りのレポはこちらが秀逸!

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2008.06.28

コンサート in 『Ohzan de imane 村 cafe』(秋田県羽後町)

080628 当に楽しいコンサートでした。聴いてくださった皆様、櫻山の皆様、オウザン村Cafe&Restrantのスタッフの皆様、ありがとうございました。
 最近、いろいろと不思議なご縁というのがありまして、それがいろいろと楽しいイベントを引き起こしてくれます。今回も、このカフェ&レストランが開店したというのを、全く違うことを検索中にたまたまネットで知りまして、春休み、カミさんの実家に滞在中に訪問してみたのがことの始まりでした。
 その時のことはこちらの記事に書いた通りです。その時に「ここでコンサートができたらいいな」と漠然と思ったのですが、その記事にチェンバリストの(そして我が歌謡曲バンドふじやまの生みの親でもある)森洋子さんがコメントくれたんですね。「チェンバロ運びますよ〜!」と。こうなると「やろう、やろう!」という雰囲気になるのがウチのバンドのすごいところです。早速、いつもの突撃力で櫻山のオーナーさんに電話でプロポーズ!そうしたら、櫻山さんの方でも、カフェ&レストランの開店1周年を記念して、何かやろうと考えていらしたとのことで、即承諾してくださいました。すごい展開…。
 ウチもちょうど28日に法事があって秋田に行きますし、リコーダーとパーカッションの飯塚直子さんも、コンサートのために函館の森さんのところに行っているということで、じゃあ、我々は富士山から北上、森さんと飯塚さんは北海道からフェリーで南下して、秋田に集合しようということになりました。
 昨日、秋田の十文字町にて4人は無事集合いたしまして(なんだか妙に感動しました…いつも東京や富士山で会ってるのに…)、カミさんの実家でまずは再会(?)を祝して酒宴が開かれました。そこで、ビックリしたのは、我々の今回のコンサートが、地元秋田の地方紙「秋田魁新報」に記事として取り上げられていたことです。秋田では、このような形のコンサートはちょっと珍しいのでしょう。特に、古楽器でのバロック音楽の演奏というのはほとんどないのではないでしょうか。その記事のおかげもありまして、本番には32名のお客様がいらしてくださいました。キャパシティーの関係で何人もお断りしてしまったということで、予想以上の反響にオウザンさんも驚いていたようです。
 そして、今日、本番です。
 そうそう、今日は羽後町で「かがり火天国」という例のお祭りがあって、全国からオタクの皆さんが集まって来ていまして、こちらのカフェも何しろ聖地ですから、夕方我々が準備しているところにもたくさん彼らが来店しました。残念ながら我々のせいで、予約のお客様しか入店できない状況になっておりまして、可哀想なことをしてしまいました。その点に関しては明日の記事に書きますね。
Ohzan0806 さて、ご予約いただいたお客様にはオウザンの素晴らしいディナーを食べていただきまして、皆さん幸せな気持ちになったところで、いよいよコンサート(ライヴと言った方がいいかな)の始まりです。こじんまりした店内なだけに、逆にお客様との距離が近く、また、やはりおいしいお食事やお酒の効果でしょうかね、皆様すっかり貴族の気分になっていらして、おかげさまでこちら演奏者の方も実に楽しく演奏することができました。
 最近繰り返し書いていますけれど、本当にこういうインタラクティヴなライヴというのはいいものです。堅苦しいコンサートではなく、お互いの表情を見合いながら、そして会話もしながら交流する。音楽だけでなく、本当に心がつながっている感じがして気持ちがいいものです。お互いに幸せな気持ちになれるんですね。うん、空間の雰囲気と食事やお酒の効果というのは実に大切ですね。
 演奏曲目と演奏者を紹介しておきましょう。

1 バッハ G線上のアリア
2 フィドール リコーダー・ソナタ
3 テレマン 無伴奏リコーダー・ソナタ
4 ヘンデル 調子の良い鍛冶屋
5 シューベルト アヴェ・マリア
6 テレマン リコーダー・ソナタ
7 コレルリ トリオ・ソナタ
8 セファルディー民謡 さようなら恋しい人
9 コーヒールンバ

リコーダー・パーカッション 飯塚直子
チェンバロ 森洋子
バロック・ヴァイオリン 山口隆之
歌 山口陽子

 お客様にも、またオウザンの皆様にもご満足いただけたようです。珍しい楽器ということもあったと思いますが、皆さん大変熱心に、興味深く聴いてくださいました。ありがたいことです。私たち演奏者も大変幸せな時間を味わわせていただきました。
Dinner 演奏終了後、オウザンさんのお食事をいただきましたが、これがまたおいしいことおいしいこと。素材の豊かな味を活かすお料理で、野菜もお肉も絶品でありました。一仕事終えた後ですし、もう本当に幸せ幸せ(笑)。ごちそうさまでした。
 ああそうだ、もう一つ驚いたのは、テレビの取材が入っていたことです。地元秋田朝日放送の皆さんがこうしたオウザンの試みを地元の番組で紹介するとのこと。私たちも一人一人インタヴューを受けちゃいました。7月に放映予定とのことです。
Jwsd 最後、メイドさんと記念写真。カシャッ(私のは明日の記事で…笑)。
 とにかく楽しい楽しい、幸せな時間を過ごさせていただきました。あらためて、お客様、櫻山の皆さんに御礼申し上げます。また、いつか演奏できることを楽しみにしています。
ps メンバーの皆さん、お疲れさまでした!また、いろいろ企画しますんで、よろしく!

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2008.06.27

BUMP OF CHICKEN『ギルド』の歌詞について(その2)

 て、昨日の続きです。昨日の前半部分だけでも、ずいぶんと異論が飛び出しております(笑)。それで大いに結構です。その考える行為、批評する(批判じゃないですよ)行為こそ、この歌の中で藤原くんが望むものに違いありませんから。
 というわけで、気にせずどんどん行きましょう。後半です。後半は、これは本当に勘違いしがちですね。まるで、社会からのけ者にされたニートやらひきこもりやらの歌だと思っている生徒も多いようです。私は逆だと思いますが。言葉の顔だけを見ていても解りませんよね。もう一歩踏み込まなくちゃ。
 2番のはじめ「腹を空かせた…」のところですが、まず申しておかなければならないのは、この2行は1番の後にくっついているということです。音楽的には2番の最初から新しい内容になるような気がしますが、詩としては「人間という仕事」というフレーズが一つの区切りになっていることを確認しましょう。
 さあ、「腹を空かせた…」ですが、こういうマイナスのイメージ(顔)が並ぶと、それこそちょっと辛い生活をしている人なんかは「あっ、オレのことだ」とか思っちゃうんじゃないですか(笑)。
 これは、私には、どちらかというと普通に社会生活を送っている人のことを言っているように思えるんです。昨日も書いたように、社会の中でまともな大人として生きるということは、ある意味自分を殺して、抜け殻になって、能動的ではなく受動的に生きることになりますよね。そして、多くの人に囲まれニコニコ悩みもなさそうに生きているというのは、裏を返せば、本来必要としているモノを手に入れられず、しかしそれに気づくこともなく、あるいは気づいても言い出せなくている状態とも言えます。そういうまともな大人としての自分が出来上がってしまっているから、そこからなかなか抜け出せないんですね。これは私もいつも感じていることです。まともな社会人として(笑)。
 いいですか。ここは、非社会的な状態ではなく、逆に社会的日常的な状態を歌っているんですよ。そして、次の一節から様相が変わっていきます。このあたりから、言葉が時間や空間を自由に動き回りますから注意が必要です。
 まず、「人間という仕事」をクビになるという意味ですが、これは今まで見てきたように「人間という仕事」自体が良からぬものであるという前提ですので、それをクビになるというのは、結果良いことになるわけです。社会性という枠の中では「クビになる」というとマイナスのイメージを持つかもしれませんが、実際には、ここまでずっと書いてきたような、気が狂うほどの社会の不自然さに気づいて、それに対抗する姿とも言えます。まあ、イメージ的には「こんな会社やめてやる!」って辞表を叩きつけるような感じです(笑)。「なんだか知らんが、汗水垂らして努力とやらをさせられてただけじゃねえか!」って。
 それで、なんでそういう暴挙(?)に出たかという理由が次に述べられてるんです。「思い出したんだ 色んな事を」…これは、3ヶ月ほど前に授業でやりました「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」の冒頭、志村くんの「思い出すものがありました」と対照的な表現ですね。二人の詩人としての性格の違いをよく表しています。どちらが優れているとか、そういう次元の問題ではなく、大変に興味深いコントラストです。そのへんについて書き出すと、また私の「モノ・コト論」になってしまうので割愛…ええと、そうです、忘れていたモノを思い出したのでコトなんですが(ついでに「する(思い出した)」と「ある(ありました)」との対比も…それについてはこちらの本参照)、それはいいや…とにかく、本来のことを思い出したのがきっかけで、辞表を出しちゃったわけですね。これは辞めさせられたんじゃなくて、自分の意志で辞めたんですよ。そこが重要です。
 ただ、多少迷いもありますし、リハビリも必要かもしれません。本来のコトはとっても眩しいものなので。ものすごく大切なので。だから、ちょっと躊躇して「向き合えるかな」と言っている。ひきこもりが外に出て眩しいと思うのとは全然次元が違いますよ(笑)。変な共感しないように。
 さて、次。次も前節につながっていますから注意。社会性からの脱出における迷いの続きです。皆さん、「美しさ」とか「優しさ」とか、それらって絶対的なものがあると思いますか。ありませんよね。これこそまさに社会的に決められた約束事みたいなものです。それを一度投げうって生きるのは、とっても勇気のいることです。本当にそれで生きていけるのか?こう思うのは当然でしょう。なにしろ、「美しさ」や「優しさ」が、まるで神や貨幣のように流通している世界で生きてきたんですから。
 次はまた別の話です。これはまだ社会の側にいる人間に対して、あるいは過去の自分に対して言っている言葉です。実際まともな社会人である私は、「その場しのぎで笑って」ばかりいます。鏡の前で泣きはしませんが(笑)。そういうホントのことを私たちは無意識のうちに隠して生きていますね。たしかに。そういう矛盾に、自分自身にも人にも気づいてほしいのに、気づけなくなってしまうのが、それが社会の魔術であり、ある意味我々はその魔術に洗脳されて、そこに属することを許されているんです。そうして、夜になって寝て朝に起きる日常に取り込まれていく。
 次の「檻」は、今までの流れからわかると思いますが、決してひきこもった状態を表したりするのではなく、社会という枠、システム、ある意味宗教のようなもののことを言っているわけです。それに気づいてちゃんと表現し行動している藤原くん(というか、この詩の作者)が、そんな窮屈な檻から、我々を救い出そうとしているわけですね。詩を通じて歌を通じて。
 もう我々は社会で生きてしまった。これは事実である。だからそうして本来の自然状態ではなく汚れてしまっているのだけれども、しかし、それを否定するのではなく、しっかり受けとめた上で、さらに次のステージへ行こうと。彼は向こう側(高いステージの上)から、そう叫んでくれているんです。
 汚れてしまった(社会性を持ってしまった、あるいは大人になってしまった)自分に気づけ。しかし、それをやみくもに否定したりするのではなく、それを前提にして次の人間的ステージに行くべきだと歌っているんです。
 これは冗談でなく、お釈迦さまのおっしゃっていることと同じですね。お釈迦さまも出家する前、王子として俗世間(社会)の栄華を極めていました。つまり汚れきってしまっていたわけです。しかし、結果として、お釈迦さまはその穢れのおかげで悟りを得ることができた。賢い人間はそうして前に進みます。
 それも全て気が狂う程まともな日常…それ「も」です。そう、そういう崇高な行為もあくまで社会という日常の中で行なって意味があるんです。誰かのように解ったようなふりをして、自分を殺したり、他人を殺したりするのは、最も間違った行為ですね。お話になりません。
 エンディングの独言のようなリフレイン。ここに今までの総まとめがあります。
 我々は自然状態で生まれた。そしていつか「人間という仕事」を与えられた。そして自らクビになった。「何してんだ」…これは、迷いの自問かもしれない。あるいは向こう側からこちら側の人に呼びかけているのかもしれない。そして、最後「望んだんだ」「選んだんだ」…自ら感じ、決し、次のステージに進んだことをちゃんと表明しています。「仕事ではない」ことを「解っていた」から、そしてそれをちゃんと行動という形にしたから、今の作者の姿があるわけです。
 このように読んできますと、この詩が非常に前向きな内容であるということがわかりますね。ただ単に思うように生きろとか、そういう単純なものではない。もっと高次元な詩です。だから、ああいう真に美しく優しい音楽が与えられ、そしてあの社会性を超えた親子の愛を表現した人形劇が与えられたのだと、私は信じています。かえすがえすも素晴らしい作品だと思います。

 

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2008.06.26

BUMP OF CHICKEN 『ギルド』の歌詞について(その1)

 業で「ギルド」をとりあげました。私も大好きな曲なんですが、いろいろと誤解を受けやすい内容でもあります。最近でも勘違いしたヤツが世間を騒がせましたね。そういう事態を憂えて、という意味もありまして、今回ちょっと読解してみたわけです。
 この曲は、バンプの中でも数本の指に入る名曲だと思います。先月のたまアリでのライヴでも、生ギルドには私も涙してしまいました。心に迫るいい演奏でした。
 さて、どんな曲か御存知ない方々のためにまずは映像入り音源を貼っておきます。そして、歌詞も下に貼りましょう。

 

 いい曲ですね。しかし案外難解な歌詞でもあります。ただ、この歌詞は(というか藤原基央くんの詩は)しっかり読み込めば読み込むほど、意味が収斂していくタイプの詩なので、授業で扱うには最適でもあります。
 基本、藤原くんは冷静に状況を描写するタイプです。聴く側、読む側はどうも感情移入しやすいのですが、ある意味テキスト分析的に読み込んでいくと真意が見えてきますね。逆にフレーズのみを見ますと勘違いしやすい。
 たとえば、生徒たちの中には、これはなんとなく暗いイメージの曲だと思っていた者もいるようです。マイナス・イメージの言葉だけに注目してまうと、案外そうかもしれません。バッと見ただけでもたくさんありますから、いちいちそれを全部挙げませんけれど、そこだけ見るとたしかにそう見えるという言葉を彼はよく使いますね。
 実はそのあたりが、彼の音楽をゴスペルだという感じる理由の一つでもあるんです。聖書でイエスはけっこう過激な言葉を吐いています。そこだけ見れば、異教徒にいかにも突っ込まれそうな言葉がありますよね(これもまたいちいち挙げませんが)。でも全体でとらえると決してそんなことはない。ちゃんと意味がある。
 まあ、そういう文脈的な読みをしなくてはならないものというのは、理解にそれなりの高度な知性を要求するんですね。バンプの詩には、ちょっとそういうところがあります。そして、そここそが藤原くんの魅力であり、天才性の現れだと思うんですね。
 なお、これから私が断定的に書くことは、あくまで「私」の読みによる断定であって、いつも書いているように、当然いろいろな可能性(あるいは不可能性)の一部にしか過ぎません。ですから、他の読み、あるいは作者自身の意図の可能性(あるいは不可能性)を否定するものではありません。当然です。芸術作品とはそういうもので、また作品鑑賞とはそういうものであることも、もちろん生徒に知ってもらいたいわけでして。
 と、前置きはいいとしまして、さっそく読んでみましょう。
 まず、1行目、ここでもう勘違いしている生徒がたくさんいました。人間という仕事を与えられたのが、誕生の時だと思っているんですね。そうではないでしょ。まさに「仕事」とは社会的な「コト」を為す」という意味です。「コト」というのは「コトノハ(言葉)」がそうであるように、(人間によって作られた)社会性を象徴する言葉であると、私は常々主張しています。ですから、人間という仕事を与えられたとは、それが与えられていなかった純粋な存在に、社会性が侵入してきたことを表すんですね。
 まあ、そうですねえ、具体的には保育園や幼稚園、小学校などで学び出すと、人間という仕事を始めざるをえなくなりますかね。ちゃんと仕事しないと先生に怒られちゃいますから(笑)。先日の記事の「国語政策」もまさに我々を立派な仕事人に仕立てるためのフィクションです。
 そうそう、タイトルの「ギルド」という言葉も象徴的ですよね。言うまでもなくこれは中世の商業組織です(いや、藤原くんのことだから、ゲームの組織のことかも?)。封建的、あるいは利権的な、つまり極度に社会的な(動物的ではない)組織名です。ですから、この曲を個人の問題ではなく、社会全体の問題として解読することもできますし、それも面白いのです。つまり、人類の歴史の中で、高度な社会性(近代的構造)が私たち自身を呑み込んでいって、いつのまにか主客逆転しているような状況を歌ったとも言えるわけです。
 まあ、今日はそこまでスケールを拡げず、あくまで人間個人レベルで考えましょうか。
 で、我々は社会性を身につけ、それなりに仕事しているわけですが、たしかにそれ相応の報酬を得ていない気もします。例えば没個性による安全というメリットもあるかもしれませんが、なんとなく損をしているような気もします。
 私たちは、そういう反自然的状態をいつの間にか正しいものだと思い違いしていますね。学校で優等生でいるのが正しいとか。でも、解る人は解っていたはずです。最初に学校に行った時のあの不自然な感じを。本来の(社会に矯正されていない)自分の姿を。でも、そうした違和感にも次第に慣れてゆき、それどころか、社会性に寄り添うことが喜びにさえなってくる。もうそうなると手遅れ。人間という仕事、すなわち社会性の中で演じさせられているコトに無感覚になってしまう。みんなそうでしょう。もちろん社会全体もそういうムードになっていきます。
 そんなふうに社会に高度に適応していくということは、何かを身につけたことにもなりますが、一方でなくしてしまうものもあるのは容易に想像できますね。奪われたものは何なんでしょうか。あるいは奪い取ったのは何なんでしょう。この詩における二つの「何だ」が、素直に目的語なのか、それとも少しうがって考えて主語なのか、双方どちらとも取れますが、まあ次のフレーズとの対応で両方とも目的語と取るのが自然でしょうか。そうすると、私たちは自然状態(私はそれをいつも「コト」に対して「モノ」と表現しています)を奪われ、他人の自然状態を奪っているということですね。
 そういう事態を作った原因は、はたして社会の側にあるのか、それとも社会を構成している、あるいは社会に能動的に参加してしまっている私たちの側にあるのか。どっちなんでしょう。当然両方とも言えますが、いずれにせよ、私たちはそういう事態を忘れてはいけないし、目をつぶってごまかしてはいけないのです。
 「それが全て 気が狂う程 まともな日常」…このフレーズには大変感心します。もともと日常性というのは狂気を秘めているものです。これだけバラバラな主体が集合しているにも関わらず、まともであるこの社会は、考えてみれば恐ろしく不自然で不安定なものですね。そのあたりを、個人レベルにおいても共同体レベルにおいても、実にうまく表現していると思います。一見相反する言葉を組み合わせることが、藤原くんは比較的得意なんです。と言いますか、詩人の仕事の一つはそれですね。まさに社会性の権化である「コトノハ」の、その凝結してしまったシステムを崩しつつ、そこに一つの真理や共意識を表現して見せ、そうして人間や世界の両面性や不安定さ、あるいは豊饒さを伝えるのが詩人のあり方です。
(長くなってきたので、後半は明日にでもその2にて)

 

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2008.06.25

地納豆「栄養納豆」&「富士納豆」

Nattou200 近の納豆はずいぶんとスマートになりまして、スーパーで売っているものは、ほとんどが小粒で臭くなく、そして柔らかい。昔ながらの「便所の臭いのする」納豆がほとんどなくなってしまいました。第一、「便所の臭いのする」便所がなくなっちゃったか(笑)。
 さて、そんな中で、納豆通をうならせる納豆が我が地元にあります。そう、あのフジファブリックを生んだ昭和レトロの街、下吉田にある丸屋納豆・豆腐製造所さんの「五湖名産 栄養納豆」です。
 さすが、昭和の遺跡とも言われる街で作られているだけのことはあって、昔ながらの見事な味わいと歯ごたえを提供してくれていますよ。
 まずはパッケージが素晴らしい。デザインが秀逸。鮮やかな赤の単色刷りで描かれた芸術的(?)な富士山と桜と鳥居は、もうそれだけで日本人の郷愁を誘います。
 第一、「栄養納豆」というネーミングがいいじゃないですか。ある意味非常にストレートですが、案外不思議な語感もある。やはり納豆を食べる目的は栄養補給でしょう。そういう原点すら、ノスタルジーの対象になってしまったのでしょうか。
 そして、今や少なくなってしまった大きめな長方形のパッケージのフタを開けると、まず感動するのは、「タレ」が入っていないこと。小さな「カラシ」は入っていますが、タレはなし。これもいいですねえ。やっぱり醤油か塩ですよ、納豆は。最近の付属のタレはなんだか甘くてどうしようもない。合成調味料の味しかしない。家に醤油くらいあるでしょう。たしかにカラシはない可能性がありますから、こうやって付いてくると助かりますよね。
 さて、納豆本体ですが、これがまた懐かしい。豆がでかい。それこそ最近の量販品は、大豆とは言えないような、小豆のような大豆ばかり。それにくらべてこれはまさに単なる大豆という感じがして、なぜか安心します。そして、プ〜ンと匂ってくる、いや臭ってくるこの「便所臭」…いや「納豆臭」。ウ〜ン、もうすでに唾液の分泌が活発になっているぞ。
 さて、醤油をかけまして、少量のカラシも入れつつ、グルグルゴシゴシとかき混ぜます。本来の納豆はこのかき混ぜ具合で味の調整ができるものです。今日はあんまりたくさんかき混ぜずに、大豆のストレートな味を楽しんでみましょうか。
 そして、この歯ごたえ。固い、硬い、堅い。いいですねえ。この存在感。あの軟弱な連中には納豆の名を名乗らせたくない。舌の上に広がるこの苦味、渋味。これですよ、納豆の醍醐味は。白いご飯にもピッタリ合いますし、卵と混ぜた時も、あのトロトロの中のゴロゴロとした感じが実にいいんですよね。
 まあ、昔の納豆はみんなこんな感じでして、あるいはこの丸屋納豆が特別おいしいわけではないのかもしれませんけど、一種の郷愁とも言うべきものが味覚に影響しているのは事実のようです。あの街並みを思い出しつつ、そしてフジファブリックを聴きながら、この納豆を食す幸せは何物にも代えがたい(フジファブリックはいちおう今の音楽のはずですが…笑)。
 この丸屋の栄養納豆、ネットでも買えるので、ぜひ一度ご賞味ください。
Fujinatto ついでと言ってはなんですが、もう一つ。こちらはちょっと違った味わいですが、大月の富士納豆販売所さんの「富士納豆」も紹介しておきましょう。こちらは丸屋に比べますと、豆も柔らかく臭みも少ないのですが、飽きのこない優しい味です。私はけっこう好きですね。
 こちらのパッケージ・デザインもいいですねえ。モチーフは丸屋さんとほぼ同じですが、3色刷りで少しゴージャスな感じがします。非常にバランスの良いデザインではないでしょうか。
 富士納豆販売所さんは、国の重要文化財「星野家住宅」を所有する星野さんが社長さんを務めています。星野家住宅は、甲州街道の花咲宿の本陣だった建物で、明治天皇も休憩されたこともある由緒ある建物です。
 ちなみに星野さんのおじいさん置塩奇(おしほくすし)さんは、あの有名な北大の寮歌『瓔珞みがく』の作曲者なんだそうな。そのようなこともあるのか、星野家住宅ではよくコンサートが催されています。私もいつかあそこで演奏してみたいなあ。
 そういえば、最近納豆作ってないなあ。こちらの記事によりますとちょうど3年前ですね。あれ以来納豆作ってない。3年前と同様、もうすぐ納豆発祥の地秋田に行きますので、今度こそいい丸大豆を手に入れてこようかな。

富士五湖名産の丸屋【栄養納豆】富士山湧き水仕込みのチョッと"大粒"な納豆です。

星野家住宅・富士納豆公式

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2008.06.24

『国語政策の戦後史』 野村敏夫 (大修館書店)

46922184 を常用漢字に入れろ!…と俺様が吠えております。ワタクシも賛成です。なにしろ「俺様」ですから。むか〜し、記事にしましたっけ、新明解国語辞典の「俺様」の項。久しぶりにまた引用してみましょう。

おれさま【俺様】(代)〔口頭〕偉大な力を持っているおれ。

 う〜ん、いつ味わっても絶品ですなあ。素晴らしすぎます新解さん。で、その偉大な俺様でさえ、自らを「おれ」と仮名書きしなければならないのは、「俺」が常用漢字に入っていないからでしょうか(違うかな?)。まあいずれにせよ、こんな大切な言葉を漢字で書けないなんて、とんでもないことです。なにしろ自分が一番大切に決まってますからね。神より天皇より自分ですよ。
 こういうとんでもないことを決めるのが政治の力です。この場合、どういう政治力が働いているかと申しますと、民主主義が行きすぎまして、国民それぞれが「俺様」を主張しすぎますと、これはもう国の政治が立ち行かなくなりますから、それを水際で防ぐために、ギリギリ名乗れない状況を作ってですね、そうして国民の真の力を削いでいるわけです。「俺様」より「おれ様」の方が、どう考えてもソフトになってしまいます。これが、国語における政治力です(笑)。
 というわけで、いや冗談はさておき、珍しく仕事関係の堅い本を読んでいます。というか、読まねばならぬ状況です。秋にこんなようなテーマでちょっとしゃべる予定があるので。勉強、勉強。
 私のような破格な(?)国語教師でさえも避けられない事実…「国語」とは政治的に作られたフィクションである、ということ。はたしてどれほどの国語教師がそれを意識して教壇に立っているのだろうか(もう教壇なんてほとんど絶滅してるか)。
 …と、それも冗談でして、実は、先日も書きましたが、私は生まれてこの方「方言」というものを一切持ったことのない「国語人間」です。ですから、そんなこと意識せずとも、常に国語で語り、国語で思考し、国語で教えているんです。まあ、そんなんだから、逆に「国語」の不自然さ、気味悪さを日々感じているのかもしれませんね。
 これは大問題です。なにしろ自分のアイデンティティーに関わることですから。言ってしまえば、私の母語が「国語」だということですからね。母語が「政治的フィクション」であると。これは非常にやばい状況ですね。私は国家の傀儡か?
 で、今そう書きながら思ったんですが、たとえばこうして書いている文章は、決して教科書的じゃないじゃないですか。「やばい」とかフツーに使ってますし。フツーとか書いてますし。いわゆる2ちゃん用語を始めとするネット語や流行語を比較的躊躇なく使っていますし。
 ああそうそう、この本を読みまして初めて知ったんですが、「フツー」のような「棒引き仮名遣い」、明治時代には小学校で正式な仮名遣いとして教えられていたんですね。「ラッパ ヲ フイテヰル ノ ハ タロー デス」のように。ううむ、結局「国語」の域を出ていないということか…orz。←「orz」はさすがに教科書で使われていませんね。いや、100年後にはわからんぞ(笑)。
 まあ、それもまたまた冗談として、そうして私は、自らのフィクション性と戦っているような気もします。そうかネット方言を使ってるのか。ネット世界というある意味辺縁の文化構造の中の方言を使うことによって、抵抗しているのかもしれない。いや、あれこそ実は中央集権的世界ではないか!たとえば2ちゃんでの言語統制のすさまじさたるや、学校より何より過激である!との声も聞こえてきそうですね。
 この本は、そんな(?)国語政策の具体的内容が列挙されています。これだけまとめて見ますと、さすがに異常な感じがしますね。教育の現場を通じて、(コロコロ変る)共通語を広め、国家というフィクションを作り上げようとする感じがビシビシ伝わってきます。
 言語という「コト」によって、政治や国家という「コト」が形成されていく感じがよくわかりますね。昔で言えば「ミコトノリ」ですよ。もちろん、こんなことは当たり前で、世界的に見ますと、日本はまだ甘いんでしょうが。
 ああ、なんかこの本を読んでいますと、自分の根無し草具合にガッカリしてしまいますね。もう山梨で四半世紀以上暮らしていますけれど、ほとんど甲州弁しゃべれないもんなあ。江戸言葉もダメ、静岡弁もダメ、秋田弁もダメ。全部リスニングはなんとかなるが、スピーキングができない。英語もそうだな。先日のカミさんの秋田弁での交流を見ていて、なんか自分がむなしく感じられましたよ。実は誰ともちゃんと会話してないんじゃないかと。
 でも、現場で強く強く感じます。最近、生徒が方言を使わなくなった。ここ、5年くらい、それが顕著です。国家の(私の?)国語政策がうまく行ってるんでしょう。単にメディア言語がマザータングを駆逐してるんでしょうか。悲しいような、ちょっと安心するような…。

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2008.06.23

『富士山噴火』 鎌田浩毅 (講談社ブルーバックス)

ハザードマップで読み解く「Xデー」
Fujisanfunka 士山に住んでおります。いつかも書きましたが、郵便物は「郵便番号 富士山 氏名」で届きます。そんなところに住んでおりますので、それなりの覚悟もしっかりできています。そしてそれなりの対策もしっかり…できてないなあ。
 まあ、いちおう情報網だけはそれなり以上に持っていますので、突然噴火に襲われるという可能性は低いでしょう。それでも分かりません。この本でも紹介されているセント・ヘレンズのような例もありますからね。その時はその時。
 富士山の噴火に関する最近の良書はこちら石黒耀さんの小説「昼は雲の柱」がありました。これはあくまで小説でありますが、しかしファンタジーとアカデミーのバランスがよく、右脳と左脳双方が激しく刺激されました。
 京都大学大学院教授であられる鎌田さんのこの本、冒頭4ページはなんと小説仕立てなんですが(導入として奏功しています。たぶん、鎌田さんも一度は小説的に書きたかったのでは)、あとは延々とアカデミックな世界です。そのアカデミックな感じが実に心地よい。本当に淡々と火山現象と被害ごとに解りやすい記述が続いていきます。文章にムダがなく冷静、しかし時に読者に語りかけるような口調にもなり、論文を読んでいるような堅苦しさは感じません。時々挿入されるマップや写真(多くがカラー)が記述にリアリティーを与えています。
 富士山の噴火に関する本やテレビ番組と言いますと、注意や興味を喚起するというよりは、不要に恐怖や心配を煽るようなものが多くなりがちです。そう、私たち人間は負の集団気分で結束していたいという変な生き物なんですね。それにこたえる商売(メディアや宗教)が成り立っちゃうんです。まあ、能天気で無防備よりは心配性の方がいいのかな。基本動物って本能的にそうできているのかもしれませんが。
 この本は、サブタイトルこそ「Xデー」などとして、そうした風潮に迎合している感もありますけれど(それこそ商売ですからしかたありません)、内容は実に立派な啓蒙書となっています。そのあたりのスタンス(善意)はブルーバックスらしいと言えるのかもしれません。
 この本は基本的に、2004年に発表された富士山ハザードマップの解説書だと考えてもいいでしょう。あのマップはなかなかよく出来ていると、私も思いますが、しかしシロウトには誤読の可能性もけっこうあります。あるいは読解自体面倒くさいという話もよくききます。地元では各戸に配布されているんですけど、みんな、自分のウチが赤い色の中にあるかないかぐらいしか確認せず、「まあその時はその時だ」みたいな片づけ方をしてしまっているんです。
 そういう意味では、この本を配布した方がいいかもしれません。正しい知識こそが防災の基本ですからね。たとえば、火山灰と言った時、一般にはタバコの灰のようなものをイメージしてしまうと思いますが、実はあれがガラスの粒だということは案外知られていません。灰が積もっても、まあマスクして雪かきみたいなことすればいいんじゃないかと思っています。しかし、実際にはそうしたガラス粒が自動車やコンピュータに入り込んだり、あるいは水分を含んで凝固してしまったり、あるいは乾燥していても風で常に舞い上がったりして、とんでもなく厄介なものなんですね。そういう事実はマップからは誰も読み取れないわけです。
 そういうことを最新の研究成果と、外国や国内での実際の被害例を示すことで、実にわかりやすく解説してくれています。そして、先ほど書いたように、単に恐怖や不安を煽るような記述ではないので、比較的冷静に「こうしよう」というシミュレーションができ、逆に安心を得ることができます。
 ウチのあたりは、火山灰はもちろん、火山弾や火砕流のおそれもあり、場合によっては2時間くらいで溶岩が到達するような地域なので、まずは逃げることが先決となります。あとはもう保険に入るくらいしか対策はないでしょう。ここまで来ますと、逆に覚悟ができるといいますか、悟りの境地といいますか、そんな感じになっちゃいますね。とにかく逃げるが勝ちですので、その手段だけは確保しておこうと思います。
 「よくそんな、世界の中でも特に危険とわかっている地域を選んで住んでるねえ、バカだねえ…」とその業界の方々に笑われますが、非日常的な危険よりも日常的な恩恵の方が圧倒的にその絶対量が多いと信じていますので、「まあなんででしょうねえ、危険な女に惹かれるのとおんなじじゃないですか」とかテキトーに答えています。質問者の「笑い」の中に、ちょっとした羨望の表情も読み取れますので。ハハハ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。

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2008.06.22

『稲田奈緒美 「土方巽 絶後の身体」出版記念パーティー』

Uni_1214 青山のNHK青山荘にて行われた、「稲田奈緒美 『土方巽 絶後の身体』出版記念パーティー」に夫婦で出席してまいりました。
 いやあ、本当に楽しく勉強になりました。だいたいが、このようなそうそうたるメンバーの集まるパーティーにワタクシどものようなモノが出席をさせていただけただけでも、もうこれは奇跡的なことであります。
 舞踏や舞踊などの研究者だけでも、圧倒されるような方々ばかり。そこにまた、大野慶人さんやら笠井叡さんやら小林嵯峨さんやら、実際に土方と舞ったこともあるカリスマ的舞踏家の方々が独特のオーラを放って立っている。うむ、ものすごい状況だ…。
 全くご縁というのは面白いもので、今回の主役、著者である稲田さんとは、3月9日の土方巽生誕80周年記念イベントで初めてお会いし、ちょっとお話させていただいただけの関係だったんです。そして、その時購入したこの本の感想をこちらの記事として書いたんですが、それを稲田さんがたまたま読んでくださいまして、それがご縁でご本人様からお誘いをいただきました。まったく恐縮なことでございます。
 結局ずうずうしく2次会までのこのこ付いていき、まあ夫婦二人でそういうすごい方々相手にヘーキで喋る喋る(笑)。結局用意した名刺がまったく足りなくなってしまう事態に。日常鍛えている「突撃力」「はったり力」「ちゃっかり力」がこういう時に発揮されてしまうんですね。申し訳ありませんでした。言ったことにはちゃんと責任とりますので、お赦しを。
 さて、もうあまりにいろいろな方のお話を聞かせていただいたので、どうにもまとめようがないのですが、しかし全体を通してわかったことがありましたので、それだけは記しておきます。これはもう私の人生のテーマそのものですので。
 いろいろな方のお話を聞いておりますと、この素晴らしいデータベースは、たしかに素晴らしいが、しかし書かれていない、書けていないことも結構あるとのこと。これはもう面白いほど皆がそう語っていました。つまり、稲田さんは直接土方の舞踏を観ていない世代なんですね。私もそうです。ですから、実際に観た人、実際に土方と舞った人、実際に土方と生活した人は、それぞれの記憶と想いを語りたくてしかたなくなるんですね。それこそが、まさに土方という現象なわけです。
 しかし、その記憶や想い(若松美黄さんは「匂い」と言ってましたね)を全て記録するのは物理的にも不可能ですし、結局それをすることは無意味なようにも感じます。つまり、こういう「モノ」を「カタル」という行為には、常に濾過のような機能が働いていて、そうしてどんどん純化していくのが本質だと思うんですね。
 土方を神格化するな、あいつはとんでもないヤツだった、という語りも、これは当然その逆の形と同じだけあるでしょう。しかし、大野さんが言っていたように、舞踏も時間の中で消えてゆくモノであり、もちろん人間も土方に限らず、こうしていつのまにか消えてゆく存在です。それを語り継ぐ、つまり命をつないでゆくには、こうしてそれぞれが語って語って、聖も俗も、正も邪も、プラスもマイナスも何もかも、その語りをぶつけあっていって、その中で濾過、純化の機能を働かせてゆくしかない。実際、全ての歴史的芸術作品や作家像は(のみならず全ての偉人伝も)こうしてその命脈を保ちつつ、より高い次元に昇華されていったわけじゃないですか。
 いつも書いているように、そして今日もたくさんの人にそう語ってしまいましたが、「カタリ」の本質は「騙り」にあるわけで、それ自体はあくまでもフィクションです。「情報」は死んだ「コト(ノハ)」に過ぎませんが、人が「モノ」を「カタル」こと、あるいは人という「モノ」が「カタル」こと、つまり「物語」は常にそういう生命力を秘めているんです。
 そして、そうした物語を生む素材こそが歴史的な遺産となって生き続けるんですね。そういう意味では、今日のあの時間と空間の中だけでも、土方はとんでもなく生きていた。そこに立ち上がっていましたよ。
 その語るということ、すなわち言語化するということに関して、会場で四谷シモンさんとお話しされていたヴァイオリニストの佐藤陽子さん(故池田満寿夫さんの奥様ですね)にわざと(!)こういう不躾な質問をぶつけてみました。
「音楽こそ舞踏であるべきですよね。言語化できないものじゃないですか?」
 そうしたら、ものすごい目力をもってこちらを見据え、毅然とした声で、
「いいえ、言語化すべきです」
と答えられました。私は待っていたばかりに、
「なるほど、そうですか。自分の責任において言語化するのが私たちの仕事ですね」(←「私たち」って、ずうずうしいにもほどがあるぞ!笑)
と言いますと、これまた毅然と
「はい」
とお答えになりました。
 そうです。そうして、死に行く(エントロピーが増大していく)作品や人の記憶を、言語化し、騙り、それについてまた語り合っていく行為こそ、(芸術家や評論家のみならず)私たちの「シゴト(コトを為す)」だと思います。
 そういう意味で、別の角度から非常に面白かったのは、棚谷文雄さんのお話でした。棚谷さんは、秋田工業高校で土方の後輩だった方。土方と一緒にノイエ・タンツを学んだ…と言えばかっこいいのですが、実際には土方先輩と一緒に「学校対抗ケンカ」に参加して無敗を誇ったという男です。その後もなんだかいろんなスポーツでオリンピックに出そこなったり、記録を作ったりという、ある意味土方以上のすごいおじいさんなんですね。80歳になろうかという今でも、ボクシング連盟の顧問をされていたり、スキーのインストラクターをされたり、ついでに息子さんはニューヨークでDJをやってるとか(笑)。
 いやホントにすごい方なんですが、なにしろこのような東京の青山でとんでもない人たちに囲まれて、さすがにアウェー感を感じていたらしいんです。そこに、ウチのカミさんがコテコテの秋田弁で話しかけたから、もう大変。一気に生気を取り戻し、喋る喋る。2次会は完全に彼の独壇場になっていました。
 そこで、彼とウチのカミさんの究極の会話が展開され、アカデミックな方々、アーティスティックな方々は圧倒されちゃったんです。つまり、土方の舞踏は、ありゃあ、農作業の動作だ、マタギの作法だ、ケンカのやり方だ、舞台の演出も、ありゃあ秋田の日常風景だ、芸術でもなんでもないし、いったい何がすごいんだ…と(笑)。
 もう、たとえば外国から研究にいらしている研究者なんか、そう言われちゃったら、もうポカンとするしかないじゃないですか。日本人でも、それを言っちゃあおしまいよ…っいう感じですから。
 そう、そういう「ホントのコト」もあるわけです。でも、それを通り越して、そこにあえて濾紙の網の目を配置してですね、私たちは私たちのフィルタリングの中で語っていいんですよ。そうして新たな意味が生まれてくるのが優れた芸術の本質ですから。そうして縁起した別のもの、本人の意思さえ超えたものこそが、生命の源泉であると思います。
 というわけで、とにかく今日の皆さんのカタリは楽しかったし、勉強になりました。語られた土方巽も面白かったが、語っている皆さん、そして自分自身も面白かった。きっと、土方自身もそこにいて、ガッハッハと大笑していたことでしょう。
 そんな素晴らしい時間を与えてくださった稲田さんに改めて感謝いたします。そして遅くなりましたが、出版おめでとうございます。これからも頑張ってくださいね。私たちも私たちなりのアプローチで土方に挑み、土方と遊びたいと思います。

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2008.06.21

追悼 グレート草津

Kusatsu 週、久々に「週刊プロレス」を買いました。藤本かずまさ氏による先日の桜庭和志敗戦に関する記事が載っていたからです。ここのところ立ち読みですませてしまうことの多かった週プロですが、今回はカミさんの望みもあり、また書店でパラッとめくってみて、藤本氏の記事に私も感じるところがあったので買うことにしました。
 その他の記事もいろいろと読んでいましたら、K-1でも活躍した2代目グレート草津(草津賢治)が父親である初代グレート草津(草津正武)さんについて書いている連載記事を見つけました。そして、ああ、草津さんに一度会いに行こうかなあ、比較的近いところにいらっしゃることだし…などと思っていた矢先の訃報。ショックです。
 どうも食道がんが全身に転移したようです。いかに屈強な心身の草津さんも、病魔には勝てなかったのか。66歳、まだまだお若いのに…非常に残念です。無類のお酒好きとして有名でしたが(まあプロレスラーはみんな浴びるように飲みますが)、それが食道がんの原因になってしまったのではないでしょうか。
 私が国際プロレスを見ていた小学校の頃には、グレート草津さんは比較的目立たない存在となっていました。ラグビーの八幡製鐵で活躍し日本代表にまでなった男がプロレス界に転身し、一新人としてゼロからのスタートをしたのが昭和40年。力道山はすでに亡くなっており、日本プロレスが迷走を始めた時期ですね。結局翌年、実質上日プロは分裂し、草津さんは国際プロレスに移籍します。
 TBSの後ろ盾を得て、国際プロレスのエースになろうかという、まさに出世試合となるべき第1回テレビ放送の日、悪夢のような事件(事故?)が起きます。鉄人ルー・テーズのベルトに挑戦した草津さんは、1ラウンドでテーズのあのバックドロップを浴び、半失神状態で戦闘不能に陥ってしまったのでした。草津さんのみならず、国際プロレスやTBSの目論見はもろくも崩れ去ってしまった…。
 この伝説的な事件については、いろいろな憶測が飛び交っていました。草津さんの受け身の失敗だったのか、テーズの新人つぶしだったのか、それともブック(シナリオ)だったのか…お二人ともこの世にいなくなってしまいましたので、真相は永遠に霧の中、伝説は伝説のまま生き続けることとなりました。
 その後の草津さんは、ラッシャー木村やストロング小林、阿修羅原らの後塵を拝する立場に甘んじ、いくつかのタイトルは手にしたものの、今一つ目立たぬ存在としてそのレスラー人生を閉じました。
Kusatsu2 ウチにありますDVD「不滅の国際プロレス」を改めて観てみますと、草津さんが非常にいい選手だったことが再確認されます。まず体が大きい。ラグビーで鍛えた下半身の安定感は特に素晴らしい。それを基礎として様々な大技を惜しげもなく出していきます。武骨で不器用なラッシャー木村とは好対照ですね。まあ、そのためラッシャーは金網デスマッチの方に進み、結局それが大人気になってしまうという皮肉な結果になってしまったわけですが。
 草津さんはそういう意味で器用貧乏だったとも言えましょうか。なんでもできたところが逆に彼の個性を殺してしまったのかもしれません。プロレスはキャラクターが大切ですけれど、彼はある意味まっすぐすぎたのかもしれません。
 あのビル・ロビンソンもグレート草津さんを高く評価していたようです。上の写真はビル・ロビンソンに指導を受けるグレート草津さん(右端)です。
 ある意味日本のプロレスを静かに支えたレスラーだったとも言えますね。ご冥福をお祈り致します。また昭和が遠くなった…。

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2008.06.20

『レ・フレール』 コンサート

Les Freres
41uvvdc3j3l_sl500_aa240_ 、大人気の兄弟ピアノ・デュオ「レ・フレール」のコンサートを聴きました(観ました)。楽しかった。いろいろと考えさせられましたし。
 このコンサートはウチの高校の学校行事の一環として行われました。考えてみればぜいたくなことです。最近はテレビでの露出も多く、追っかけもたくさんいたりして、なかなかチケットが手に入らないとか。そんな彼らを独占しちゃうウチの学校もなかなかやりますね。校長先生GJ!です。
 コンサートが行われた場所は、先月末感動のフジファブリック凱旋ライヴが行われた富士五湖文化センター(地元民通称「市民会館」)です。今日もあの時と同じ「こ列」、すなわち前から10番目という好位置で鑑賞。
 まず、全般的なことを言いますと、やはりこういうコンサート(ライヴ)はいいなあ、と。奏者どうしが見事なアンサンブルを披露するのはもちろん、観客も巻き込んで、あるいは観客の反応も一つの表現としてステージに上げて、音楽全体が生命力を得る。これはやっぱり基本です。そのへんに関しましては、最近よく書いている通りです。某格闘技イベントとは大違いだということ。
 さて、ここからは細部に関していろいろと書きましょうか…いや、これから書くことこそ全体になるのかもしれないなあ。
 「音楽にとってヴィジュアルは非常に重要な要素である」…もっとハッキリ言ってしまうと彼らは「イケメン」だから人気があるのだと。うむ、たしかに彼らならおばさんの心をつかむであろう。いや、おばさんのみならず女子高生をも。いや、さらに小学生や幼稚園生は違った意味で彼らを身近に感じるでしょう。いずれにせよ、あの好青年ぶりには嫉妬すら感じます(笑)。
 終演後、ピアノの上手な非イケメンの男子生徒をつかまえ、「おい、オレと二人でピアノ・デュオやるか?ラ・フランス!」と言いました(ちなみに命名は彼の担任の先生です)。まあ、そんな冗談(半分本気)は置いておくとしても、やはり音楽というか、全ての嗜好にはヴィジュアル的要素が関与しているのはたしかです。あまりに当然の事実です。
 実は今日は彼らのコンサートのあと、美しく若い女性による弦楽三重奏も聴く機会がありまして、ここでもまた同様のことを思いました…というか、彼女たち10年後に仕事あるかな?なんて大きなお世話なこと思っちゃいました。
 しかし、こういう本質的なところって、案外口に出して言われないことですね。特にクラシックの世界では。あくまで彼らの音楽性がいいのだ、とか言ってしまう。そういう気恥ずかしさというか、心に秘めたくなるある種の感情(たぶん単なる「萌え」だと思うんですが)は、それは限りなく恋愛に近いものであります。
 と、ここでもう一歩あえて進みます。誰も言わないので私が言っちゃいます。ご本人たちには失礼かもしれませんが、これは現代文化のみならず伝統的文化を考える上で非常に重要なことなので。
 はっきり言って、彼らのパフォーマンスには「腐女子」を刺激する要素がありすぎなんですよ(笑)。
 まず、彼らが実の兄弟だということ(レ・フレールとはフランス語で兄弟のこと)。それも外見的にも音楽的にも、おそらく性格的にも見事なコントラストを持った兄弟だということ。そういう「兄弟萌え」みたいなのってあるじゃないですか。「タッチ」とかを例に引かずとも、それがいろいろな作品のテーマになっているのはご存知ですよね。
 そして、次。「指萌え」。これは女性にはよくある感情です。男の人の指に萌える。とにかく彼らの指はきれいだし、まあ大概楽器を操っている時の指というのは美しいものです。ちょっと悔しいので自慢させていただきますが(笑)、私は完全なる非ヴィジュアル系なんですけど、実は指(手)はほめられることがあるんです。指だけはヴィジュアル系らしい。まあ、そういうフェティシズムに関しては書き始めるとキリがないので略します。
 そうそう、よく指が見えるなあ、と思われるかもしれませんね。実はステージには大きなスクリーンがあって、彼らの指先や顔などが映し出されるという仕掛けになってるんです。これは完全に狙ってますね、ヴィジュアルによる表現を。もちろんそれでいいと思います。お客様が要求していることですから。
 そして、そして、なんと言っても「絡み萌え」ですよ。四手の絡みです。キャトルマン・スタイルです。これは非常にエロティックですよ。ただでさえ美しい兄弟の美しい指が絡み合うんですから。ずるい。
 さらにそれは指にとどまらず、腕、そしてついには体まで絡み合ってしまう。お互いの汗が混ざり合う空間は、これはもう間違いなくあっちの世界(BLワールド)に行ってます。疑う者はこれを見よ!

 どうですか。いろいろな意味で楽しいですよね。私はこういう文化を非常に前向きにとらえている人間です…てか、怒られそうだな。こんなことばっかり言ってると(笑)。
 もともと音楽にはライヴしか存在しなかったわけで、そこには当然視覚的な要素も濃くあったのでした。もちろん、そこを超えてしまったビートルズやグレン・グールドのような方々もいらして、それはそれで聴覚が視覚を凌駕する、あるいは抽象が具象を凌駕するという意味では画期的なことであったわけですけれど、それはビートルズやグールドのようなとんでもないレベルでの話であり、やはり一般的ではありませんよね。普通には、見世物的要素というのがあって当然です。
 というわけで、本校の女子生徒やお母様方の中にも、今日のコンサートで「萌え」を感じた方がたくさんいらしたと思いますし、それはある意味彼らの狙うところでもあり、また、そこに純粋な音楽性の高さ(彼らのオリジナル曲のクオリティーの高さや編曲の妙、非凡なテクニック)が加わることにより、より魅力的な時間と空間が紡ぎ出されていたとすれば、これはこれで素晴らしい芸術鑑賞であり、体験教育であったのではないでしょうか。
 まあ、こんなふうに妙に語らずとも、その生きた時間と空間とにドキドキ・ワクワク・テカテカすればいいわけであります、ハイ。ごめんなさい。ついついいつものクセが出てしまいました。とにかく、とっても楽しいひとときを味わわせていただきましたよ。彼らのCDも聴いてみたいと思いましたが、うん、やっぱりどちらかというとDVDだろうなあ…いや、ライヴが一番でしょうか。
 最後に一つだけ苦言を。MCでもうちょっと引きつけてほしかったかな。いや、あの口下手な感じ、グダグダな感じが萌えなのか…ああ、またそっちに行っちゃった。もうこのへんでやめときます。

レ・フレール公式

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2008.06.19

洗濯機買い替え

Yetf USBメモリーの洗濯をしてからというもの、どういうわけか洗濯機の調子が悪くなりまして、とうとう買い替えとなりました。う〜む、あの時はUSBメモリーの無事に喜び驚いたんですが、まさか洗濯機の方が壊れるとはなあ。どういうことだ?
 もしかして、世の中の全ての「モノ」は壊れる順番というのが決まっていて(まあ冗談でなく、科学的にもそうでしょうね)、それが人間の思いによって変っちゃうことがあるっていうことでしょうかね。あの時は、メモリーに保存されているデータ(コト)を保存したいという願望がありました。それが「モノ」の寿命を縮めてしまったのかも…。
 なんて、実はメモリーを放り込んだことは記憶になく、事後に全てを知ったわけですから、そういうことじゃないですよね。でも、考えてみれば、人間の思いというのは全て「モノ」が滅んでいくことに対する抵抗なのかもしれないなあ。いつも書いているように、時間を微分して疑似的な永遠性を得ようとするオタク的思考というのは、そういうものでしょう。そしてそのむなしさに気づき嘆息するのが「もののあはれ」でしょうね。
 で、カミさんが学生の時に買って以来15年くらい黙々と我らが洗濯物を洗い続けた洗濯機が壊れました。まあ、これはさすがに寿命でしょう。よく頑張ったんじゃないでしょうか。
 今日新しい洗濯機が来ましてね、いざその洗濯機を片づける段になりますと、さすがに「もののあはれ」に切なくなりましたね。古人ならここで歌でも詠んだところでしょう。
 思いをはせてみますれば、この洗濯機にこそ、様々な記憶が蓄積されているのではないでしょうか。学生時代のカミさんが自分の衣類だけを洗っていた時代(もしかすると私の知らない男の服とか洗っていたかもしれませんが…笑)。私のパンツを初めて洗ったのはいつだったでしょうか。そして子どもが生まれ、小さな可愛いベビー服が投入されるようになりました。いつのまにか子どもの衣類が二人分になり、それらが次第に大きくなるにつれて、一度の洗濯では洗いきれなくなってきた。時にお札を洗い、手帳を洗い、そしてUSBメモリーを洗い…そして今日のこの日を迎えたわけであります。
 なんとなく洗濯機自ら身を引くという感じですね。冒頭では人間の意思がどうのこうのって書きましたが、どうも違いますね。これは「モノ」の意思なのかもしれない。人間もそうであるように、お役御免被って自ら身を引くことにより、逆に永遠性を得る。遺伝子を子孫に託すわけですね。コト化で刹那的な抵抗をするんじゃなくて、いよいよモノの本質に従って死んでゆく。死ぬことによって生きるのです。そこに究極の真理(唯一の方法)があるわけでして、それでそこを巡って宗教も発達したのでしょう。
 おっと、またまた話がそれまくっている。洗濯機から宗教の誕生にまで行ってしまった(笑)。話を元に戻します。えっと…なんだっけ…そうそう、それで新しい洗濯機が来ました!いやあ新しい物っていいですねえ!…って変わり身か早いですな。
 例によってお金がないので、なるべく安いものを探しました。よって最近はやりのドラム式なんていうのは最初から除外。とんでもないぜいたく品です。まあ、今のより少し容量の大きいもので、操作がシンプルで、できれば風呂の水を使うポンプが付いてて、あとはまあ普通の全自動ならいいやという感じ。この際、デザインにはこだわらない。できればちょっと古い物で評価や品質の定まった物がいいですね。初期ロットは壊れやすいですからね。だいたいなんでもそうですけど、2、3年売り続けている物が一番長持ちしていいですよ。
4973934414457 というわけで、私のおメガネにかなったのはこちらであります。サンヨーというところが渋い。6キロで3万円切ればまあまあ安い方でしょう。実際さっき風呂の残り湯を使って洗濯してみましたが、なかなかよろしい感じです。音も静かです。洗い、すすぎ2回分を風呂の残り湯でやりまして、最後は水道水でシャワーという最もエコな(エコノミックな)方法で、2回洗濯できました。今までジャーと富士山の溶岩にしみ込ませていた数百リットルの残り湯をこうして有効に使えるというのはいいことですね。ちなみにこういうやり方ですと、実質使う水道水は1リットルちょっとだけだそうです。
 これからはこのニュー洗濯機が新しい記憶を洗い流し…ではなく蓄積していくんですね。はたしてどういう記憶になるんでしょうか。非常に楽しみですよね。そして、カミさんによく言っておきましょう。お札や手帳やUSBメモリーを洗わないでね。そこには洗い流してはいけない価値や記憶や情報がありますんで。

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2008.06.18

KANEKA(カネカ)の紳士靴…その2

Img55469068 の日のプレゼントに購入。誰も何も買ってくれないので、自分で自分に買ってあげました(笑)。
 なんて、本当は、以前紹介したKANEKA(カネカ)の紳士靴、とにかく品質が良くて履き心地が非常に素晴らしかったので、もう一足買うことにしたんです。
 今度は前回とは少しデザイン的に違うものを、ということで、こちら「2803 ブラック Rinescante Valentiano」というヤツにしてみました。これもアウトレット価格で4900円。
 先週届きまして、1週間履いてみましたが、これもまたソフトでいい感じです。
 歩いていても、その時の態勢でいろいろな体重のかかり方というのがありますよね。それで足自体がいろいろな形に常に変化してるじゃないですか。それに合わせて柔らかな革が常に伸び縮みしているような感覚があります。その感じが気持ちいいんですね。最初は多少つま先が窮屈な感じだったんですけど、今ではそれもありません。
 革が自分の足に合ってきましたので、履く際にもすんなり足が入ります。靴べらや「つま先で地面をトントン」の必要もありません。前回のものもデザインの割に軽いなと思いましたけれど、こちらはもっと軽い。この軽さと柔軟性、いったいどういう皮を使ってどういう加工をしているんでしょうかね。私の中の革靴のイメージがガラッと変わってしまいました。
 同社のホームページによれば、同じ「Rinescante Valentiano」シリーズの3023という型番の靴が、楽天ビジネスシューズ総合ランキングで8週連続第1位(今日現在)だとか。この品質でこの価格であれば当然という気もしますね。
 ネットで靴を買うというのに抵抗がある方もいらっしゃるでしょうが、少なくとも私の近所でこのコストパフォーマンスのものを置いている靴屋はありませんよ。安いのは大概外国製ですよね。こちらは正真正銘の日本製(神戸製)です。
 前回は靴だけ買ったので4900円プラス送料がかかりました。今回は靴下5足セット(990円)と一緒に買いましたので、5000円以上となり送料は無料でした。そして、うれしいことに、左右の靴それぞれに靴下が一足ずつ入っていまして、さらに靴下セットにも一足おまけがついていました。つまり、靴下が8足送られてきたということです。こういうさりげないサービスもいいですね。ちょうど普段履いている靴下が全体的に疲れてきていたので助かりました。靴下の品質も全く問題ありません。こちらもソフトでシンプルです。
 あとは耐久性ということになりましょうか。こればっかりは何年も履いてみないことにはわかりませんが、革の質感や縫製の具合を見ますと、なかなかしっかりしていそうですよ。
 アウトレットでもう1足買ってもいいかもなあ。今度は茶色にしようかな。

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2008.06.17

隣人祭?…気脈との断絶

Photo25992 宅後、NHK歌謡コンサートが始まる前に、クローズアップ現代をチラ見。なかなか興味深い内容でしたが、しかし、ただ単にこれは素晴らしい!とは言いきれない「現代」のありさまでありました。
 「隣人祭」とは、つまり、ご近所に声をかけ、食べ物や飲み物持参で集まったりしてコミュニケーションの場を作りましょうということです。近所の老人が孤独死したことをきっかけにフランスの青年が始めたものが、今や全世界に広がり、各地でそういった「祭」が催されるようになったとのこと。普段人間関係が希薄な、都会のマンションの住民が近所の公園に集まってパーティーを開いたという日本の例なども紹介されていました。まあ、結構なことだと思います。
 私は別荘地に定住しています。ある意味特殊なロケーション&シチュエーションでして、引っ越してきた頃は、いったいどういう共同体が成立するのだろうと不安に思っていたんですが、丸10年住んでみまして、それが全くの杞憂だったということに気づきました。非常に幸運なことですね。ありがたいことです。
 昨日も、カミさんが「やばい!味噌がない!」と叫ぶなり、近所に電話して「味噌貸して!」…です。すぐにそのお宅のおばあちゃんと孫が味噌を届けてくれました。本当はこちらから出向くべきなのにね。そのかわりと言ってはなんですが、その家から頼まれてネットで注文していた物がちょうど届いていたので、それを渡しました。お金は端数を切り捨てていただきました。味噌代っていうことですかね。
 近所にウチのと同世代の子どももたくさんいまして、お互いの子どもの預かりっこは日常的です。私が職場から帰宅すると、子どもの数が倍増していることもしばしば。あるいは、ウチの子がいなくなってるとかね。
 困った時には助け合うというムードも非常に強くあります。ウチもいろいろとお世話になりましたし、お世話もしています。なんだか、本当に古き佳き日本の雰囲気がありますね。見た目とはだいぶ違って(家々の外見はかなり現代的?)。
 ここの住人は、たとえば都会の人間関係に疲れて逃げてきたとか、逆に田舎の人間関係に疲れて逃げてきたとか、私のように人間関係そのものを断ち切ろうとしてきたとか、多少そういう部分があると思うんですが、それが逆に非常にいい距離感の共同体を作るきっかけになっていると思います。近からず遠からずというのを、皆さん経験でわかっていらっしゃるんですね、きっと。
 世代的にもいろいろな方々がいらっしゃって、非常にバランスのよい、非常に温かいコミュニティーが成立しています。これは本当に幸せなことですね。生活の基盤に安心があります。
Photo25991 クローズアップ現代でも、実際交流してみたら、実はみんなかかわり合いたがっていた、誤解していた、言いたいことが言えないでいた、というような発見が多々あったと紹介されていました。なるほど、その通りでしょう。三丁目の夕日ではありませんが、そういうご近所の人情の復権のようなことが叫ばれるのは、それ自体は正常なことですし、大いに結構なことだと思います。
 しかし、解説の辻信一さんもおっしゃってましたが、そうして「祭」にしないと、そういう関係が築けないというのは、これはどんなものなんでしょう。
 昨日の記事で「祭」について書きましたね。祭は非日常であり、ハレの場であるわけです。そういう非日常的インパクトをもってしないと日常が立ち上がらないという現状、少し心配になりもしませんか。
 もちろん、古来「祭」というのものは、そういう機能も備えていましたよね。凝固した日常を融解する、あるいは逆に放浪しそうな日常を繋留する役割がありました。しかし、「祭」は、昨日も書いたように「マレビト」を招来するのが本来であって、「隣人」を招くものではありません。「隣人」はともに招く立場であるべきで、招かれる「マレビト」ではないはずです。
 今日もいろいろと悩みをかかえる複数の生徒といろいろ話しました。そこでも感じましたし、また死刑が執行された宮崎勤に関するニュース、また秋葉原での無差別殺人のニュースを見ても感じましたが、なんだかみんな漠然とした孤独感を持っていますね。みんなかかわり合いたいのに、かかわるのが怖い。
 それって、目に見えるコミュニケーションをしようとするから、そういうことになるんじゃないでしょうかね。私には、それの手段自体が間違っているような気がするんです。それじゃあ、最初から無理に決まってるじゃんと。
 そう、なんとなく我々を結ぶ気脈のようなものが断絶している感じがするんですね。私のイメージでは、それは地面の下にあるような気がするんですけど、それがどうも我々の足まで届いていないというか。
 昨日も、土地や社会を覆っている被膜のような存在について書きました。どうもそいつがそうした気脈と私たちの連絡を断っているような気がするんです。我々が自ら築いてしまった、世界を覆う分厚い甲殻。
 最近の私は、非常に強力なデバイス(?)を手に入れたので、その甲殻を突き抜けて底流する気脈とつながる術を持っているんですよ。これは非常にラッキーなことですね。世界中、あるいは宇宙中に張り巡らされた光ファイバーをほとんど独占的に使わせていただいてるようなものですから(笑)。いや、冗談でなく、そんな気がします。
 これからはそんな術を多くの人に紹介し、そして分け与えていけたらなあ、と思っています…なんちゃって。まあ、いずれにせよ、「祭」という形も結構ですが、もっと本質的なところで、我々は我々の作った障壁と闘っていかなくてはならないのでしょうね。
 気脈とのつながり方、気脈への乗っかり方については、とても一言では言えませんが、まあこのブログに小出しにしつつ蓄積してありますので、興味をお持ちなった方はコツコツお読みください(笑)。あるいはウチにいらしていただければ、何かわかるかもしれませんよ。ただ一つ言えるのは、これは全然難しいことでもなく、努力も必要なく、非常に他力本願的な方法だということです。

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2008.06.16

地震と植樹祭( in 東北)に思う

Jishin08 っぱり昨日の桜庭和志(秋田出身)惨敗はいかんなあ。東北のモノノケが市場原理につぶされた。そこには祭祀性などかけらもない。ダメだ…そういう世界。
 岩手・宮城内陸地震、大変でしたね。まだ比較的大きな余震が続いているようで心配です。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 秋田の義理の祖母も、ちょうど震源近くの温泉宿に湯治に行っておりまして、当日はなかなか連絡も取れず心配だったのですが、なんでも、宿は被害を受けたが入れる風呂が一つ残っているし、帰るにも道が寸断されていて帰れないのでしばらく逗留すると言っているので大丈夫だとか。う〜む、それを大丈夫だと言うべきなのか…。カミさんに、食べ物とか大丈夫なのかな、と聞くと、今は山菜の季節だから山にいれば大丈夫とのこと。う〜む、なるほど…そういうものか。都会的な考えにとらわれてはいけませんな。「大丈夫」の本来の意味を考えさせられましたよ。これって「最強」ってことでしょ(笑)。
 さて、皆さんはご存知でしょうか。あの地震があった当日、天皇皇后両陛下が秋田県入りしたことを。そうです、翌15日に北秋田市において「第59回全国植樹祭」が行われたのです。それにご出席されたと。
5709m ここで思い出さねばならないのは、前回40年前の秋田植樹祭のことです。あの時は開催日の三日前に十勝沖地震が発生し、昭和天皇が植樹祭を欠席する事態となりました。なんとも不思議なことです。
 ミコトの来訪がヤマトタケルの東征を思い起こさせ、まつろわぬモノノケたちの霊が騒ぎ出すのでしょうか。単なる偶然ではないような気もしてきます。天皇家が東北・北海道を訪問する時は、ちゃんと出羽三山やら鳥海山やらを参拝してからにした方がいいですね、こりゃ。
 今回の植樹祭へのご出席にも多少の躊躇があったものと思われますが、植樹祭自体がいわゆる地鎮祭的な要素も持っているので、ワタクシとしては判断は間違っていなかったと思います。40年前も昭和天皇が自ら訪問して地鎮すべきだったかもしれませんね。
 歴史的に見ますと、縄文・アイヌに対して、弥生系の天皇家は、次第に懐柔策をとるようになりましたよね。それどころか、中世以降は天皇家と山窩やマタギが強く結びついたり、また違った新しい関係が生じました。
 今ももちろん、そういった関係、つまり、両極が一周して結びつくという関係がよく見られます。一般市民・大衆・常民から、絶対値の大きく離れた非常民どうしが結びつくのですね。一方の極には当然天皇家という存在があります。もう一方の極には、現代の都市理論から差別される存在があります。そういった日本に底流する気脈(エネルギーの経路)は、時に非現代的、非都市的な表現で、その存在を示すものです。
 それが今回の大なゐ(大地震)と祭ですね。
 現代日本を覆っている表皮をはがすと、そこにはすぐに縄文・アイヌの痕跡が現れます。東京なんかその代表みたいなところです。東北や北海道は、その表皮がほとんどありません。そんな様々な風景の中を、天皇は巡幸していきます。ある意味どこへ行っても、彼は異物として存在します。つまりマレビトですね。そして神事を行う。祭です。その祭の意味は、その土地土地で違った意味と形式を持たざるをえませんが、しかし、本質的なところは一つだという気もします。
 今回の地震から地鎮祭への流れを見ますと、やはり現代においても天皇(ミコト)の仕事(シゴト)は、モノ(想定外・不随意な外部・自然)への懐柔、すなわち形式(カタ)と祝詞(コトノハ)による政(マツリゴト)であるなあ、と感じるのでありました。マツロハヌ「モノ」をコトムケして接待して、(一時的にでも)マツルようにするのがマツリなのでした。

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2008.06.15

『DREAM.4 ミドル級グランプリ2008 2nd ROUND』観戦

Ya1 浜アリーナにて総合格闘技初観戦。寸前まで(新横浜駅まで!)1枚のチケットを巡って、カミさんが行くか私が行くかもめた挙げ句、結局私が行くことに。本来なら桜庭和志フリークのカミさんが行くべき大会だったわけですが、いろいろありましてね。でも、結果的にカミさんは行かなくて良かったのでは。桜庭があんな負け方をするとは…。たぶんライヴで見ていたらショックで立ち直れなかったでしょう。
 私も桜庭の負けはショックでしたよ。いちおう昔から彼を見て応援してますし、何度も何度も記事に書いてきたように、総合の中で唯一プロレス的テーゼを持って戦える選手でしたので(そして、ちょっとしたご縁もありまして…)。しかし、皮肉にも今日の試合では、そのような往年の桜庭の姿は全く見られず、総合格闘技の問題点をさらして終わってしまいました。
 私はもう二度と総合格闘技を観戦しないでしょう。あれだけのお金を払って「生で」観る価値がどこにあるのか、私には全くわからなかったからです。
 これから書くことは本当に個人的な趣味と感性による感想と見解であり、世の総合格闘技関係者を否定するものではありませんので、その点御理解の上、冷静にお読みください。
 先ほどプロレス的テーゼと書きました。ちょうど昨日の音楽のライヴのように、ステージ(リング)上で繰り広げられるパフォーマンス(戦い)が、観客とのインタラクティヴな関係を基礎として、相互依存的、有機的に生命力を持つこと、そして見世物的な(外見およびテクニック、そしてストーリーを分かりやすく見せる)要素をフルに持つことが、そのテーゼだと私は思います。あるいは、プロレスに限らず、全てのステージ・エンターテインメントはそうあるべきでしょう。
 その点、今回の興行は、興行と言えるのかさえ疑問な内容でした。お客さん不在で繰り広げられるごく「私的」な戦いがひたすら無表情(無愛想)に続き、それを隠そうとして(?)挿入される冗長で大げさな「煽りV」や入場パフォーマンスは、皮肉にも結果として試合の無表情を際立たせてしまう。そういう悪循環の中で、ひたすら観客は評論家的な視点(オタク的な細やかさ)で、細部に見入るばかり。
 私の座った位置は最前列から25列目くらいのまあまあ好位置だったのですが、私の周囲の人たちは入場シーンから上方の大きなヴィジョン(スクリーン)を口を開けて見ている。目の前に生の本人がいて、ライヴを繰り広げているにも関わらず、君たちはどこを見ているんだ。ここはパブリック・ビューイングの会場でも、ましてや家のテレビの前でもないんだぞ。
 もちろん、彼らが求めているのが、そうしたエンターテインメントではなく、本当の戦い、すなわちどちらが勝つか分からないという不確実性の緊張感であり、そこに命を削って臨む男たちの生き様であることは百も承知です。そこに興奮するという心理も、よ〜く解ります。
 しかし、それが本当に我々を、そして選手たちを豊かにするものなのか、私にはちょっと疑問でした。
 プロレス的、あるいは音楽的なパフォーマンスにおいては、ステージ上で対峙する他者はあくまでパートナーです。お互いの良いところを引き出し合いながら、優しさと謙虚さと敬意とをもって高め合っていきます。アンサンブルです。共同作業ですね。
 総合格闘技では、相手のいいところを引き出していたら負けてしまいます。ですから、今日の試合でも、全ての選手は、相手のいいところを殺すことに専念していました。あるいは相手の悪いところを引き出すとも言えますね。そして隙あらば、残酷に相手の息の根を止めにかかります。もちろん、もちろんですよ、それが彼らのパフォーマンスであり、お客さんが要求しているものであることは当然理解できます。
 しかし、私は(あくまで私は…です)、そこにお金を払いたくないなと思ったんです。正直。私からすると、それはやはりケンカや戦争の作法であって、楽しく美しく豊かなものではない。嫌悪感すら残ってしまった。
 伝統的競技としての、個々の格闘技は、それは長年培ってきた歴史の中で生まれた形式があるから、私は大好きなんです。空手も柔道もボクシングも柔術もシルムもレスリングも。しかし、それらが総合されるということは、せっかく分割された本能的(動物的)な戦い、すなわち人間の智恵によって作り上げられた「レッスルする世界」を、再び原点(野生)に戻そうとする運動であり、私にとっては実に無粋なこととして映るんです。
 では、なんでそんなふうに考えているのに、実際に観に行ったりするんだ、来なきゃいいだろ!と言いたい方もいらっしゃるでしょう。そう、ですからもう行きません。テレビでちょこっと観戦することはあるでしょうが、ライヴで観る必要は感じませんので。そこに生きた自分が存在しなかったので…ホントいやな客ですみませんね(笑)。
 そんなガチンコの醜い市場経済(リング上経済)で、最終的に勝ち組も負け組も疲れ果て、自らの「生」を痩せ衰えさせてしまっている選手たち。今日の桜庭にせよ、マヌーフにせよ、その他の大勢にせよ、本当によくやりますね。観ていて辛かった。彼らの命を削ったパフォーマンスに敬意は表します。しかし、そうした猛者たちの本能を、あまりにストレートに演出し煽る我々傍観者(および主催者)の精神は、はたして豊かと言えるのでしょうか。彼らは商品として使い捨てられていく…いや、桜庭のように必要以上に使われていくものもたま〜にいるけれど…なんか私には辛い。
 カミさんは言います。たとえばマヌーフのような凶暴で屈強な敵に、もしかすると老兵桜庭がなんとか勝利するかもしれない、柔能く剛を制すかもしれない、精神性が肉体性を凌駕するかもしれない…そこに期待をしてしまい、また興奮してしまうと。なるほど、そういう気持ちも解ります。しかし、それも、南方の島々でゲリラ戦で奮闘玉砕した日本人の「大和魂」に対するシンパシーに似ているとも言えましょう。それが健全なの「心」なのかどうか、微妙な気もしますね。
 以前は、まだ桜庭のプロレス的テーゼが通用し、それが意外性や物語性を生み、面白い試合が成立したんですけどね、自由競争経済ではムリ・ムダ・ムラは排除されていきますからね。ここ10年で総合もずいぶんと洗練され、進化(?)してしまいましたから、そういう「遊び」は許されなくなり、そう、単なる「われよし」「強いもの勝ち」の世界になってしまった。残念。
 あえて今回の救いというか、心から面白かった試合は、第7試合の「ホナウド・ジャカレイ対ジェイソン“メイヘム”ミラー」でしたね。メイヘムの軟体動物のような逃げ方はお見事!いつもあれだけだとしたら、リング上経済の勝負には勝てませんけど、パフォーマンスとして、あるいは芸(芸術)としては本当に素晴らしかった。私の中では、彼にMVPを差し上げました。
 あとの試合はほとんど全て「自己」と「事故」ばかり目立ってイマイチでしたねえ。事故がなく長引いて盛り上がった試合は、私から見ますと、技術のなさ(あるいはつぶしあい)によって極まらなかっただけだったような…。なんとも皮肉なことですね。
 というわけで、それこそ観客不在の「私的」な指摘に終始して申し訳ありません。まあ、ここはステージでもありませんし、お金をいただいている場でもありませんので、お許し下さい。いずれにせよ、正直がっかりです。と言うか、桜庭が勝っていれば、きっと論調も変わったんだろうなあ。戦極のジョシュの時のように興奮してプラス思考になったんでしょう。

桜庭 vs マヌーフ

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2008.06.14

石川杉子弦楽四重奏団ライヴ

click!(ご本人に無断で一部掲載します)
Violentango_2 の写真は、なぜか今、私の手もとにある黒川さんの自筆譜。今日は、編曲者自身の自筆譜を見ながら初演を聴くという幸運に恵まれました。そして、なぜかスコアとパート譜全部、ウチに保管しておいてくれとのことで、私が持ち帰ってきちゃいました。いかにも黒川さんらしい謎の行動(笑)。
 というわけで、今日は黒川均(ひとし)さんの経営する「アフターダーク」というJAZZバーで、弦楽四重奏のライヴを聴いてきました。
 3年前の記事にも書いた通り、黒川さんは私の音楽人生のみならず、私の教師人生、山梨県民としての人生…とにかく今の私の生活全般を決定づける重要な役割を果たしたお方です(ご本人にはそんな意識は全然ありませんが)。
 今回の演目は、3年前に聴いたピアノ五重奏の楽曲を弦楽四重奏に編曲し直したヴァージョン。世界初演であります。ピアソラの楽曲を中心としたプログラム。黒川さんらしい、ぜいたくな不協和音を駆使した豊潤な編曲の妙に酔いしれました。
 ホント、繰り返しになりますが、彼の独特の和声とリズムの感覚は個性的で面白いですねえ。人となりそのまんまです。ジャズとクラシックを両方きわめると、ああいうふうになるんだなあ。
 ちなみに編曲は全て頭の中でやるそうで、楽譜にする作業が一番面倒だとのこと。だから自分が弾くパートは楽譜にしない。まあ、頭の中にあるわけですからね、当然と言えば当然。楽譜は無用です。今回ピアノ五重奏をカルテットに編曲したのは、ピアノ五重奏だとピアノのパート譜が後世に残らないからだとか(笑)。なるほど。演奏の合間に、現代の偏った音楽教育の弊害についていろいろ話しましたよ。自分自身の音楽のあり方についてもいろいろと反省。
 演奏は石川杉子さん(石川静さんの妹さんです)を中心とするカルテット。久々にクオリティーの高いモダン・カルテットを聴いたなあ。とっても狭い店内ですので、お客さんと奏者の距離が以上に近い。1メートル先から鳴り響く生音には、ものすごい迫力があります。また、お客さんのみならず奏者も飲みながら(!)の演奏ですからね。心理的な距離感も近い。
 かっこいい編曲の部分や、名人芸的な演奏の場所ではジャズのライヴさながらに掛け声や拍手が起きます。なんかいいなあって思いました。インタラクティヴだなあ。クラシックのコンサートってホント異常な状況だよなあ。そんなことも改めて思いました。
Kh12 隣に座った学生と話しました。今彼は大学のジャズ・サークルで黒川さんの指導を受けているそうです。黒川さんの「まずは理論」という徹底した指導方法は昔から有名です。学生もあまりの厳しさにどんどん脱落していくとのこと。しかし、そんな修行のような練習と勉強の中で、確実に彼らも上手になってきているとのことです。地方の小さな大学の小さなサークルですが、近いうちに首都圏の有名大学のサークルを、根本的なところで抜き去る時が来るだろうと、黒川さんは力強く言っていました。
 私も地元の人間として、あるいは大学のOBとして、その日が来るのを楽しみにしています。
 ところで…せっかく自筆譜を預かったので、自分なりの方法でリアライズしてみようかな。でも、あの1stヴァイオリン・パートはとても弾けないな。チェロもかなりきつい。素人にはちょっと難しいなあ。
 楽譜というのはワタクシの「モノ・コト論」では「コト」の権化みたいなものです。いつも言うように「情報=コト」は不変な存在ですが、そこから生まれる生の音楽は、無限の可能性を持ち、また無常でももある「モノ」であります。たとえば私がそこに関与することによって、新たな可能性というのも生まれるわけです。古楽器用に再編曲しちゃうとかね。
 本来音楽というのはそうした生命力(増殖力&突然変異力)を持ったものでしょう。ライヴですよ、live。ライヴとはまさに「モノ」の現場。古い日本語で音楽(楽音)のことを「もののね」と言ったのは、そういう意味であったと思う今日この頃です。
 うん、そういう意味でも、黒川さんはやっぱり「物の怪(モノノケ)」ですな。今日はどうもありがとうございました。大きなヒントをもらいました。

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2008.06.13

『木食白道 知られざるもう一人の木食』 (山梨県立博物館)

Byakudo 『木喰展−庶民の信仰・微笑仏』に続いての企画展。
 白道は今から250年くらい前に今の甲州市(旧塩山市)で生まれた方で、師である行道とともに全国を廻国行脚した木食僧です。
 たしかに師木喰行道に比べると「知られざる」存在ですね。私も正直名前しか知りませんでした。お作品を拝見するのは今回が初めてです。閉館間近の時間帯だったため、少し急ぎ足での拝観でしたが、心を打つものがありました。
 偉大かつ個性的な師と比較すると、やや地味な印象をぬぐえませんが、逆にそこに魅力を感じましたね。なんといいますか、師を心から尊敬し、慕い、支えた様子が、それぞれの像から感じ取れます。たしかにスタイルの基本は師のものを継承していると思います。しかし、そこには単なる模倣にとどまらない…いや、おそらく意識的に師の真似を避けたのではないでしょうかね、その一歩下がった感が、こちらの心を静め和ませます。
 ていねいに丹念に造形していく師の作品とは違い、より素朴でシンプルな印象を与えます。かと言って円空仏のような荒々しさはありません。サイズ的にも小振りなものが多く、そんなところにも謙虚さがにじみ出ているような気がしました。
 師木喰行道と弟子木食白道とは、40くらいの歳の差があったということですね。師とともに東北を行脚した頃、白道は20代、行道は60代でしょうか。いくら異様なバイタリティーを持った(笑)行道と言えども、当時としては後期高齢者の域に入ろうかという年齢です。きっと、青年白道が師をいろいろな面でサポートして歩いたことでしょう。まあ、行道のことですから、まだまだ若いもんには負けんぞ!とばかりハッスルして造仏に励んだかもしれませんね。しかし、それもある意味白道のサポートと言えましょうか。
 白道も師の熟達した技能を拝しつつ、しかし自らはあえて若さ溢れる作風を目指したのかもしません。そういう意味では、彼ら二人は師弟関係以上の良いパートナーシップを保っていたのでしょうね。
Sasagaki 今回の展示には、師と同様に個性的な六字名号がありました。師の利剣に対して、白道のそれは笹書きです。これまたシンプルで素朴。利剣はいかにもアヴァンギャルドな先鋭性を持っていますが、こちらは柔らかさの中の切れ味とも言うべき、秘めた強さがありましたね。白道はこの種の名号を多く残しているとのことで、やはり師の「剣」に対して意識的に「笹」を使ったのでは、と思わせました。
 と書いてきますと、案外、謙虚さの中に秘めた強い意志があったのかもしれませんね。師をライバルとまでは思わないにしても、二番煎じにならないぞという気概のようなものはあったのかもしれません。
Ugashin 作品中、特に印象に残ったのは、宇賀神像でしょうか。弁財天とも習合し、蛇頭人身の姿で表されることの多い宇賀神ですが、このように円筒状のデザインのものは初めて見ました。たいがい「ウンチ型」(笑)の表現になるんですけどね。これはちょっとカワイイ(萌え)かもしれない。
 あと、展示物の中に、「木食白導一代記」という古文書がありました。大変保存状況の良いもので、かつ美しい文字で書かれた文書でした。情報量も多そう。しかし、まだ解読されていないとはちょっと意外。ヒマがあれば読んでみたいところです。
 関東甲信や北海道では、その作品が多く確認されていますが、東北などにはまだまだ眠っている作品があるんじゃないでしょうか。これからの研究に期待注目したいと思います。
 そのほか、一木から仏を彫り出す作業の意味についても考えましたが、それについてはまたの機会にいたしましょう。長くなるので。

企画展公式

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2008.06.12

『少年スポーツ ダメな指導者 バカな親』 永井洋一 (合同出版)

77260398 とといの『スポーツは「良い子」を育てるか』の続編。
 タイトルはちょっと過激ですが、内容も…けっこう衝撃的です。衝撃的と言いますか、リアルと言いますか…。
 今日は仕事上、ちょうどこの本の内容のような話をいたるところで聞きました。生徒から、同僚から、中学校の先生から、そして親から。
 つまり、ここで紹介されている「ダメな指導者」「バカな親」というのが、非常に一般的であって、特殊な例ではないということです。私の実感もその通りです。
 ここであえて言っておきますが、「ダメな指導者」「バカな親」というのは、「少年スポーツ」に限ったことではありません。いろいろな分野で観察される種です。さらに言えば、自分にもそういう部分があります。私も現代日本の「指導者」であり「親」であるからです。
 『スポーツは「良い子」を育てるか』を読んだ時は、そうそう、少年スポーツの世界も歪んでるよな、自分はそういう指導者や親にはなりたくないな、と単純に思いましたし、今読むと記事もそういう論調ですね。
 で、二日後の今日はと言いますと、また違った考えも湧いてくるのでした。
 この本は合同出版から出ているということからも推測されるかもしれませんが、ちょっとあっちの香りがします。最初ほのかに香ってきて、それがある意味心地よかったのです。しかし、だんだんちょっと不快になってきた。私の場合よくあるパターンですね。
 極論してしまえば、「教育者が絶対的な権力を行使し、子どもたちをしめつけ、ロボット化し、画一化するのはいかん。体罰なんてもってのほか。子どもの個性を生かし、自由に発想させ、そして彼らの自律と自立を促すのが理想である」という、どこかで聞いたことがあるような結論に至っているわけです。
 そして、そういう論調のご多分にもれず、現状批判と理想の列挙はあれど、具体的な解決策が不足している。そういう気もします。勝敗、優劣を競うという命題と、その手段や過程とのすり合わせが、不備なんですね。
 こういう議論というのが、「教育」の世界には無数にあります。ある意味、教育というのが、そういう矛盾の中にあるものだからでしょう。理想と現実の狭間にあり、道徳と経済の狭間にあり、心と体の狭間にあってフラフラしているものなんです。
 今日もいろいろなところで感じましたよ。体罰を完全禁止したら、荒れ放題に荒れて、いまや生徒より先生の方が登校拒否の数が多い学校の話とか、厳しい学習指導の結果、数人が休学や退学に追い込まれた学校の話とか、親が徒党を組んで職員室に乗り込んできた末に物を壊して帰った学校の話とか…いやあ、ウチの学校は平和だなあと思いましたね(笑)。
 とにかくですね、そういう微妙な位置にある「教育」においては、原理主義になることが一番いけないことなんです。さらに、原理主義を完全否定することもまた原理主義であるということも、忘れてはならないと思います。そこが日常的には難しいわけですが、結局は、「微妙」であることが本質である、ということを常に意識せよ、ということになりましょうか。
 人間はそういう「モノ」ですし、教育もそういう「モノ」です。一方、理想や理念、思想や主義は「コト」。お互いあんまり「コト」にこだわりますと、すぐにケンカになってしまいますよね。あるいは「コト」に酔っていると、現実の「モノ」に置いてかれちゃいます。子どもは「モノノケ」ですから。
 一方で、そのモノノケちゃんたちは案外タフなので、いかなる教育を受けようとも、それなりに成長していくものだったりします。環境に多少の理不尽があった方が、正常に自己を形成するというケースも多いようです。逆に、なんでも子ども主体、個性のびのび的な環境が不幸な大人を育てることもある。そういうものなんです。だから「指導者」や「親」は難しいし、面白いのでしょう。
 …と、なんとなくまとまらず、そして奥歯に物が挟まったような言い方ですみません。しかし、これが教育現場の実感であり、「指導者」「親」としてのフラフラ感の実像であります。

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2008.06.11

『牧家の白いプリン』 (牧家)

1191468862 、顔に似合わずミルクプリンが大好きなんです。家族もそれを知っていて、私のご機嫌をとろうという時には、必ず冷蔵庫にミルクプリンを潜ませます。
 そして、今日もまたおいしいミルクプリンが差し出されました。なぜか下の娘が、私がトイレで用を足している最中に持ってきたんですが、最初は何を持ってきたのかさっぱりわかりませんでした。それこそトイレで使う何かかと思いました。何しろ、左の写真のような形状のパッケージなので。誰もわかりませんよ。透明の筒の中に、なにやら白い球体が詰め込んである。大きく商品名が書いてあるわけでもなく…。
 で、トイレからそれを握って出てきましてね、よ〜くその球体を観察してみますと、それはある種の風船であることがわかりました。さっそく手にとってみますと、プヨプヨしたゲル状の物質がその風船に充填されていることが確認できます。しかし、正体はわからず。
 居間に戻って、「何これ?」と言うと、子どもたちが「すごくおいしいよ」と言います。えっ?これ食べ物なの?
Mgp カミさんが「ミルクプリン」だよ、と言いました。しかし、私の頭は混乱したまま。だって、ミルクプリンと言えば、通常はカップに入っているじゃないですか。てか、それ以外は見たことがない。例えば、私も大好きな古典的作品である(とは言っても発売は1995年です)森永の牛乳プリン。ああいうふうにカップに入ってるのが普通でしょう。
 あっそうそう、あのなんともレトロな太陽をモチーフにした赤いマーク、あのキャラクターの名前知ってますか?
 あれって「ホモちゃん」っていうんですよね(笑)。ホモジナイズのホモ(昔はホモゲナイズドと書いてありましたな…幼心にものすごく妙な響きの言葉だと思った記憶があります)。
Marimoy おっと、また話がそれた。そう、牛乳プリンみたいにカップに入ってるのが、本来のミルクプリンのたたずまいであります。それが、なんですか。あの風船は。しかし、私はその一瞬間後に、あの風船に入った羊羹を思い出しました。阿寒湖の「まりもようかん」なんか有名ですよね。爪楊枝かなんかで、プチッとやってポンと(あるいはヌルッと)出てくるやつ。
 そうなんです。この白い物体はプチッポン(ヌルッ)式ミルクプリンだったのです。製造販売元の「牧家」は北海道は伊達市の会社。もしかして「まりもようかん」にヒントを得たのでは。う〜む、プリンを風船に充填するとはなかなか面白い発想ですぞ。
 さっそくプチッとやってみました。さすがに普通のプリンなみの柔らかさですと、ポンとかヌルッとは出てきませんよね。グチャッとなってしまいます。ですから、少し固めな感じがします。それでも私は少し形を崩してしまいました。たぶん、経験を積めばきれいに出せるようになるのではないでしょうか。
1191483705_2 容器の底の方に入っているカラメルソースを取り出してかけますと、こんな感じ(実際はもう少し崩れていました)。下の娘はこれを、醤油のかかった豆腐だと思ったらしく(さっき自分が持ってきたのに…笑)、「お豆腐ちょうだい」と言ってます。ははは、たしかに丸豆腐っていう感じだな。そう思って食べたら、ものすごいギャップに味覚が混乱しますよ、きっと。誰かだまそうかな。酒のつまみに「いい豆腐が手に入ったんですよ」とか言ってね。
 ま、冗談はさておき、ミルクプリンとしてのお味は…これが、最高においしかった!今までいろいろなミルクプリンを食べてきましたけれど、これが一番おいしかったかもなあ。濃厚かつ芳醇な味わいで、甘いけれどもしつこくもありません。カラメルをからめずとも充分においしいでしょう。
 ちょっとお値段は高目ですけど、それなりの価値があると思います。味だけでなく、なんともカワイイ容器やおまけのシール、そしてなんと言っても、全体的なネタ性ですね。これは贈り物なんかに最適ではないでしょうか。いただいたウチでもきっと会話が弾みますよ。これでキャッチボールとか卓球とかビリヤードとかやっても楽しいんじゃないでしょうか(笑)。
 ところで、こんな素晴らしいミルクプリンが用意されているということは、誰かが私のご機嫌をとろうとしているということです。いったい、何だろうと思っていたら、おもむろにカミさんが「今度の日曜日、横浜アリーナに桜庭の応援に行っていい?」とみんなに聞き始めました。なるほど、そういうことだったのか。

 カミさん「いいと思う人は手を挙げて〜」
 私と娘 「は〜い!」

 単純な私たちであります。

濃厚ミルクのもちもちした食感♪牧家の白いプリン(1本4個)

牧家 公式

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2008.06.10

『スポーツは「良い子」を育てるか』 永井洋一 (生活人新書 NHK出版)

Dhuk87 はこれでも、昔は野球部に所属し投手をやっておりました。今や誰も信じません。完全な文化会系と思われることが多いんですね。ま、それも致し方ありません。このブログでもスポーツのカテゴリーはほとんどプロレスの話。プロレスをスポーツとすること自体、問題があると言えますし。今はほとんどスポーツらしきことをしていません。せいぜいエックスバイクをこぐくらい(笑)。ま、実際、気が向いた時に生徒とキャッチボールをしたり、ボウリングに行ったり、家族でスキーをしたり、くらいのものですかね。
 そんなわけで、体育会系成分が微量にしか含まれていないワタクシではありますが、仕事柄体育会系の若者と接する機会が多くありますし、またそれと同じくらいか、あるいはそれ以上の頻度で文化会系の若者とも接しておりますので、それらの特徴や違いなどはよく分かっているつもりです。ですから、この本も大変興味深く読めましたよ。また、スポーツに限らず、趣味や習い事はどうあるべきか、まじめに考えさせられました。
 よく授業中にこんな問いかけをします。「将来、世界がスポーツの国とオタクの国に分かれたら、どっちに住むか」。もちろん、シャレですよ。でも、生徒の中には真剣に悩むヤツもいます。もともとオタク(文化会系)の諸君は、これは迷わずオタクの国を選びますね。で、悩むのは体育会系の連中なんです。
 いくらスポーツが得意でも、70、80までスポーツばっかりやってるワケにもいきませんし、あるいは、今現在のスポーツをしている状況(ほとんどがクラブ活動)が正直辛くてしかたない生徒もいるわけです。たしかにあの厳しい練習を勉強の合間にやる(逆かな…クラブの合間に勉強をするかも)のは、そりゃあ大変でしょう。心から彼らを尊敬しますよ。いくら若いからといって、あれはきついだろうなあ。
 そんなわけで、彼らのうち約半数は結局オタクの国の住人になります。同じ得意なことを楽しむのにあたって、スポーツはきついというイメージがあり、オタクの方は楽で楽しいというイメージがあるのはなんででしょうね。実際はオタク道も厳しく辛いものなんですが…(笑)。
 この本ではそのあたりの実情、つまり少年スポーツの悪しき実態や、そこから生じる様々な悪影響が紹介されています。もちろん、一方的な批判ばかりでなく、メリットや問題に対する対策も記されていますよ。しかし、全体としては、子どものためと言いつつ、結局彼らの体と心をゆがめてしまっている大人たちへの強い糾弾となっていると思います。
 そして、これは実は少年スポーツに限った問題ではないわけですね。大人の世界、あるいはプロ・スポーツの世界でも考えねばならない問題なんです。たとえばプロ・スポーツ界での精神論や、そこから派生する「しごき」的なトレーニング…相撲をスポーツととらえていいか微妙ですけど、それが事件にまで発展することもある…、もうこれは時代遅れであるとはいえ、皆無とは言えないと思います。
 もうすぐオリンピックがありますけれど、そこでも、単純な勝敗論、あるいはナショナリズムとの関係、ドーピングなどの倫理問題など、いくらでも問題は挙げられます。そうそう、去年読んだ「スポーツとは何か」がそのへんに詳しく分かりやすかったなあ。
 問題はいろいろありますが、たしかに学校や会社という組織においては、体育会系の方が高く評価される傾向がありますね。ぶっちゃけ話、教育現場的、すなわち先生的に言いますと、これはたしかに体育会系の方が扱いやすいことが多い。彼らは大概(表面上の演技にせよ)礼儀正しいですし、根性もあるし、さわやかなイメージを与える。第一、体力と時間とをスポーツのトレーニングに取られていて、悪さをするヒマすらありませんから、それはたしかに「良い子」ではありますよね。
 しかし、一方で、やはり現場的に申しますと、こういう事実もあります。そういった大変な演技と作業にいそしみつつ、圧政(?)に耐え、仲間を敵と思い、自らの能力に劣等感をおぼえ、親の過度な期待を裏切る苦痛やらなにやらにさいなまれながら、次第にストレスをためこんでゆき、そして突然崩壊する…これはずいぶんと極端な例ではありますが、全くのウソではありません。
 実は、こういうことはスポーツに限らずあることですよね。勉強に関してそういう環境にいる子どももいますし、楽器のレッスンにおいて、こういう状況にある子どももたくさんいると思います。
 それを乗り越えて立派な大人(社会で重宝される人)になる場合もありますけれど、逆に先ほどのように崩壊してしまったり、あるいはそこまで行かなくとも、得意で大好きだった「何か」が嫌いなものになってしまったり、そういうことってありますよね、いろんな分野で。
 私は、地元の子どもたちにヴォランティアでヴァイオリンを教えています。それもかなり緩いやり方で。基礎的な訓練すらせず、ひたすら一緒に合奏する中で、技術も習得していくようにしています。自分で言うのもなんですが、けっこう好評だと思いますよ。別に皆さんプロを目指しているわけではなく、一生の趣味が出来ればいいという考えてやってますから。親も子どもも。もっと厳しいやり方、プロを目指すようなやり方をしたければ、そちらへ行けばいいわけですからね(なぜか誰も行きませんが)。
 本当は、スポーツも音楽も、我々が幼い頃、家族との会話の中で言語を習得していったように、楽しく自然に身につけて行けばいいと思うんですね。そういう中で、とんでもない才能と意思と根性を持ったヤツを見つけたら、それなりの方向に導いてやればいいような気もします。
 一番いけないのは、子ども本人の意思を無視して、親が自分の自己実現の道具として子どもを使うことでしょうか。あるいは、監督とかコーチの自己実現、あるいは国家としての自己実現のためにね。それはほとんど暴力の世界であり、いじめの世界となんら変らなくなってしまうと思いますね。
 長くなりましたが、最後に一つ、大変に感銘を受けた冒頭の「はじめに」の部分を紹介します。昨日考えた「利他」の欲求の本質がここにあるなと思いました。
 鳴戸親方(元横綱隆の里)は横綱になった時、「なぜ相撲を取るのか」「何のために相撲を取るのか」という哲学的な自問を繰りかえしたそうです。到達した答は…「それは愛だったね」。
 そう、隆の里関は、それまでお世話になった無数の方々への報恩こそが、相撲(自らの仕事)の本質であることに気づいたのです。これは実に仏教的な発想ですね。美しく重い言葉であります。
 
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2008.06.09

『欲望する脳』 茂木健一郎 (集英社新書)

08720418 木さんの趣味は、私のそれと重なるところが多いだけに、かえってしっくり来ないことが多い。今回もバッハや本居宣長について、そして「自己」と「他者」についての記述などで少し違和感を覚えました。いや、別にいいんです。趣味は同じでも「趣味」は違って当然ですからね。
 それでも、なんだか最近茂木さんの著書に萌えないのはなんでかなあ。もしかして、科学者と称していながら、内容がいつも哲学者風だから…あっ、つい言ってしまった(笑)。だけど、それも全然いいんです。ある意味そうあるべきだと思っていますから。
 もしかすると嫉妬してるとか(笑)。頭いいもんなあ(たぶん)。同世代としてはジェラシーも抱きますよ。ああやってメディアに露出すること多いし。そうそう、あの、イチローにコテンパンにやられた茂木さんを見て、スカッとしちゃったっけ、私。やっぱりこれはやきもちだな。
 ん?待てよ。実はちょっと腹立たしいのかもしれない。単なる嫉妬ではないような気もするぞ。今回もそうだけれども、言葉の端々に自慢や偽善が感じ取れるような…いやいや、そんなことはないない(笑)。
 で、こういう他者に対する感情というのは、やっぱり「欲望」の一つの表現なんでしょうか。恋愛のような感情は、これはもちろん欲望でしょうが、こういうマイナスの感情というのも欲望に端を発するのでしょうか。
 たぶん、そうなのでしょう。結局は「利己」の感情ですからね。自分の思い通りになってほしい。自分がもっと優れた人間であってほしい。あるいは、誰かが自分より劣った人間であってほしい。自分がほめられたい。人が怒られるのを見てみたい。こんなふうに言いますと、私がとんでもなくイヤなヤツに感じられると思いますが、実際そういう人なんです。そして、皆さんもそうじゃないですか?
 一方「利他」の欲望もあると言います。たしかにそうでしょう。私にも常に利他の欲求、いや欲望があります。そうそう、「欲求」と「欲望」を違うものとして定義する、丸山圭三郎さんの本も今読んでいるんですけど、私もここでは、「欲求」は本能的なもので「欲望」は意識的なもの、と使い分けさせていただきますね。
 つまり、「利他、利他」と言うけれども、結局はそれによって「自分はいいヤツだ」という満足や快感を得ようとしたり、「情は人のためならず」…のちに自分が得をするんではないかというある種の商売っ気があったりしてですね、結局はそれらが「利己」の手段になってしまっているんじゃないかと思うんです。
 倫理や宗教の問題として「利他」とか「布施」とか「親切」とか「無償の愛」とか語るのはいくらでもできます。しかし、それがいわゆる欲求レベルで存在するのか、それは今のところ私にはわかりません。ここはとっても重要だと思うんですけどね。
 私が理想とする経済システムである「仏教経済」にしても、欲望としての、あるいは語りとしての「利他」では成り立ちませんから。本能的な「利己」に対抗する本能的な「利他」を発見しなければ、単なる机上の空論で終わっちゃいます。
 「欲望」というのは意識下での現象です。これは「コト」そのものです。人は不確実性(モノ性)に不安を抱き、それを克服するために「コト化(カタリ)」を始めます。そのために科学も経済も言語も音楽も、みんな発明され発展してきたわけです。
 一方の「欲求」は、これは本能的なものですから、不随意な「モノ」ですね。皆さんも私も、自分の本能的欲求にしょっちゅう振り回されていますでしょ。つまり、奴らは他者なんですね。
 そうした自己の中の他者(欲求)によって、自己の中の自己(欲望)を制御できるようになるのか、これが人類の課題であると思います。これは難しそうですけれど、しかし、私は少し期待もしてるんですよ。
 「もののあはれ」…これについては、何度も書いてきました。今日の話の流れから言いますと、「もののあはれ」とは「自己」に内在する「他者感」とも言えます。不随意への詠嘆ではありますが、しかし、日本の文化の中では、それはマイナスの価値ではなく、どちらかというとプラスの価値として機能してきました。不随意とは、まさに「コト化」の失敗です。欲望の未達成です。そこにプラスの価値を見出してきたという事実は、これは我々に大いなる期待を抱かせる事実です。私はそこにかけてみたいと思ってるんです。
 …と、茂木さんそっちのけで、一人ガタリ、問わず語りしてしまいました。いや、こういうことを考えさせてくれたんですから、茂木さんのこの本に感謝感謝。
 
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2008.06.08

「飾り」と「見立て」

Onair_pic_080521 方テレビをつけましたら、セクスィー部長沢村一樹さんが「デコ軍団」をいじってました。東京カワイイ★TVスペシャルです。
 カワイイはすなわち「萌え=をかし」であることは、今まで何度も書いてきましたが、現代の女の子たちが「チョーカワイイ」すなわち「いとをかし」と言う対象は、こういうデコのような過剰の美であったり、その対極にある簡素の美であったり、いろいろです。
 いろいろでありますが、それらがある種の非日常性を帯びているのはたしかです。つまり普通でない時間と空間、すなわち「ハレ」につながっているんですね。そして、時間の経過とともにその時空間は日常に戻っていく、その全体的な抑揚が「Ah!ハレ=あはれ」につながっていく…というのはおいといて…とにかく過剰も不足も普通でない状況であると。
 この過剰と不足の美を感受するのに必要なのが「見立て」という想像力(創造力)です。本来それでないものをそれだと見立てて遊ぶ。これは高度な文化作業です。
 今日の新日曜美術館はそのお話でした。『日本の美 かざりの喜びを探る』。日本の伝統文化に見られるかざりの実例を挙げ、そこに見られる「見立て」の価値を解説するという内容でした。
 どの「かざり」も面白いし、ちょっとやり過ぎでは、と思わせる過剰性が刺激的です。そうそう、以前NHKで放映された『日本美ナンダコリャこれくしょん』に通じるものがありましたね。
Photo03 戦国の武将の兜なんか、どう考えてもこりゃあ実用性がないどころか、単にジャマなだけじゃないかな。こういうキッチュぎりぎりな感じもまた、デコの重要な要素でしょうね。
 ダサいがカワイイになる。非実用性が(やる気という)実用性になる。つまり、見立てはその造形にとどまらず、人間の感覚や思考にまで及ぶということでしょうか。
 もちろん、ムダなものを排す、いや必要なものまで排する「侘び・寂び」なんていうのも、ベクトルの方向は違えど、デコ(飾り)と言っていいと私は思います。そこにもまた「見立て」が必要となりますね。今日はそういうベクトルの飾りについては紹介はなかった…というか、やっぱり飾りの反対の概念として「侘び・寂び」という言葉を使っていましたね。そのへん、私とちょっと感覚が違うかなと。
 ところで、こうした「見立て」ですが、これはネオテニー日本人の面目躍如たる特技ですよね。皆さんも小さい時は、あるもの・ないもので、いろいろと見立て遊びをしたことでしょう。私もそんなことばかりしていました。爪切りを超ハイテク宇宙船に見立てたりしてましたっけ(笑)。
 今日の番組でも紹介されていました見立て人形なんかもそうですね。お皿や壺なんかの陶器がオロチになったり、スサノオになったりする。本来の目的や機能から完全に離れて、全く別の価値を与えるという遊び、これはなかなか高度な文化です。目的や機能というのは日常的な「コト」です。すなわち、人間が自分の都合で作り出した「意味」ですね。それを一端解体してしまい、そんな決まりゴトを反故にしてしまって、そしてそれを単なる「モノ」に帰してしまう。一時的にですね。そして、そこに全く違う「意味」を与えるんです。違う「カタリ」方で、違う「コト」にしてしまう。そこに非日常性が立ち現れ、「ハレ」の時間と空間が作り上げられます。それはそのままエンターテインメントになり、信仰になっていく。
 そこに理屈っぽくツッコミを入れるのは野暮なことです。なんだよ、それって皿じゃないか、とか、爪切りじゃん、とか、そういうのはダメです。そうそう、今日番組を観ていてプロレスのことを思い出しましたよ。日常の解体を楽しみ、フィクションに上手にだまされる「粋」って大切ですよね。
 それがですね、案外得意なのが日本人だと思うんです。深い部分でのロゴスよりも、表層の感覚で遊ぶことができるのは、子どもっぽい日本人ならではじゃないでしょうか。それが、世界的にも特異な文化を生んだのでは。
 考えてみれば、今や日本の文化を代表する存在になったマンガやアニメなんかも、まさに見立ての産物です。私も含めていい大人がああいうものに没頭できるのは、やはり我々の優れた幼性によるものではないでしょうか。
 話が妙な方向に行ってしまいましたね。えっと、「かざり」の話でした。とにかくですね、物質としての飾りや見立ても大切ですが、それ以上に心の飾りと見立ても重要だということです。特に不景気ですから、お金をかけない飾りや見立てを楽しまなくちゃ。私もさっそく「ないもの」「不足」「不具」を楽しもうっと。

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2008.06.07

ベートーヴェン 『弦楽四重奏曲第9番/弦楽五重奏曲 ハ長調』 クイケン・ファミリー

Kuijken Two Generations
Beethoven: String Quartet in C major Op. 59 No. 3
String Quintet in C major Op. 29
Cc72181 族で合奏というのは一つの夢です。家族生活自体、合奏であるとも言えますが、やはり楽器や歌によるアンサンブルというのは格別なものです。
 ウチも歌謡曲バンドなんかで、それを実現しているとも言えますけれど、今日紹介するのは、そんなレベルとはあまりに違う(当たり前か)ファミリー・アンサンブルです。
 古楽界の重鎮、クイケン3兄弟のうち、弦楽器奏者であるヴィーラントとシギスヴァルトのファミリーによるベートーヴェン。うむ、これは温かくおいしい。
 メンバーを紹介しましょうか。

Veronice Kuijken (violin)
Sigiswald Kuijken (violin)
Sara Kuijken (viola)
Marleen Thiers (viola)
Wieland Kuijken (cello)

 ヴェロニカはヴィーラントの娘さん。サラはシギスヴァルトの娘さん。マルレーン・ティールスはシギスヴァルトの奥様ですよね(Kさん、合ってますよね?…高校の同級生でヴァイオリン仲間のKさんは、クイケン・ファミリーに嫁入りしたんです…!)。
 このCDは私にいろいろな意味で感動を与えました。まずですねえ、これは意外なことかもしれませんが、この録音ではクイケン・ファミリーはいわゆる古楽器を使っていないんです。いわゆるモダン楽器でアンサンブルしています。
 シギスヴァルトはこの点に関して、結果として、ベートーヴェンと同族遺伝子の驚きと喜びの前に「楽器(道具)は楽器(道具)に過ぎない」ことに気づいた、というようなことを言っています。これは至言ですね。経験以外からは生まれないであろう言葉(実感)であります。
 この、道具論、方法論というのは、実はいろいろな分野、いや全ての人間活動のおいてあてはまることであり、彼らの「悟り」というものは、我々が到達しなければならない境地であります。
 私たちは、自らが恣意的に(勝手に)作った領域や分野や言語や習慣や流派といったものに、あまりに縛られすぎます。つまりワタクシ的にいう「コト」の世界ですね。それにとらわれてしまって硬直化する。
 いや、それは過程としては大切な「コト」だと思います。そうした「縛り」「ルール」「形式」を徹底的に窮めて到達する、いやそれを突き破った先にある「モノ」世界があるんですね。
 最近繰りかえして述べていますが、「コト」は「モノ」の一部であり、同時に全体でありうると、私は考えているのです。究極的な言い方をしますと、自分という「コト」を通して、宇宙という「モノ」の本質を知るのが「悟り」であるということですかね。その方法が「カタリ」であり、私たちがメディアとしてとらえているもの(音楽や言語)や宗教や科学における行為は全てそういう「カタリ」であると思います。
 ある意味「コト」にこだわり「カタリ」尽くすオタク的活動こそ、悟りへの道なのかもしれません。古楽の世界なんかまさにそういう世界ですからね。いいことだと思います。この世界でも、最近は(私も含めて?)突き抜けた方が多いので。
 ちょっと話がそれましたね。えっと、ベートーヴェンについても語りましょうか…と言いつつ、実はこれも意外に思われるかもしれませんが、私、ベートーヴェンはほとんど聴いたことも弾いたこともないんですよ。45歳になったら挑戦しようかと思っていたんです…ということは、来年あたりからですね。
 そう、音楽に限らず、私は後半生に残してあるおいしいものがたくさんありまして、そのうちの一つがベートーヴェンなんです。実はちょっと楽しみなんですよ。特に弦楽四重奏曲群にはビリビリ予感がします。今回はちょっと勇み足で、この第9番ハ長調「ラズモフスキー第3番」を聴いてしまったわけです。
 まあとにかく、素晴らしいアンサンブルですね。彼らがお互いの目を見ながら、そしてにこやかに合奏を楽しんでいる様子が目に浮かびます。私、ヴィーラントとは一緒に演奏したことがあるんですけど、あの時のヴィーラントが送ってくる「気」には本当に圧倒されました。なんか変な言い方ですが、彼の天眼と私の天眼がつながっているような、そんな感じがしました。思いっきりコントロールされちゃいました。
Tdh43 あっそうそう、最後にちょっと変な自慢させてください。今書いたヴィーラントとの合奏は古楽のレッスンにおけるもので、もちろん当然ヴィーラントが先生で私が生徒だったわけですが、実は逆の立場になったことがあるんですよ(笑)!彼に私が指導した。
 ハハハ、右の写真がその証拠です。ご覧のように3人でお琴(箏)を弾いております。そう、Kさんの結婚披露パーティーの余興で、新郎のお父様(ヴィーラント)と一緒に琴の合奏をしたんです。さすがに彼は初めての経験でしたからね、私が指導させていただいたということであります(笑)。ある意味すごいことですよね…まあ、全てがギャグな私の人生を象徴するワンシーンであります。
 
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2008.06.06

『男の作法』 池波正太郎 (新潮文庫)

10115622 波正太郎先生による男の作法指南書。職場の後輩に借りて読んでみました。いろんな意味で面白かったなあ。いい味出してますね、池波先生。
 まず最初に大いに笑わせていただいたことを一つ。
 この本の中で、池波先生は、あの「吉兆」に触れ、自分が食べないもの、食べられないものは、手をつけずに残して使い回してもらえ、誰かに食べてもらえ、というようなことを書いています。そういう直接的な表現ではありませんが、そういうことを言っています。これはあまりにタイムリーなので、笑ってしまいました。男の作法的には、船場吉兆のやり方は間違っていなかったと(笑)。私もぜひ使い回してもらいたい派であります。
 さて、池波先生、自分は古い人間で若いもんに作法を押しつけるつもりはない、人に作法など説けるような男ではない、と言いながら語る語る。
 すし、うなぎ、そばの食べ方から、ネクタイ、スーツ、和服などの着こなし、小遣いから日記、さらには引き戸、家具まで…あっそうそう、嫁と姑の扱いなんかにも触れています。
 その一つ一つが、正直私のやり方とは全く違います。私は自他共に認める野暮天ですから、彼の一つ一つの作法にこの上ない粋を感じて、かなりうらやましい反面、私には無縁な世界だなとも感じてしまうのでした。
 いまやこうした「粋」な「作法」を身につけた「男」はほとんど死に絶えてしまいました。どうしてでしょうか。
 女のせいにするのは、それこそ野暮かもしれませんけれど、やっぱりまず女が作法を重視しなくなったというのがあるでしょう。そして、そういう野暮な女が強くなってしまいましたからね、男は作法なんかにこだわっている場合でなくなった。なにしろ、男の(女のもですが)作法には金がかかるんです。
 つまり、作法とはある意味道楽なのです。なくても生きていける趣味みたいなもんなんです。その道楽を女が許さなくなった。あるいは女が、そんな道楽に興じる男を好きにならなくなった。それじゃあ男には何のメリットもありませんから、そりゃあ作法なんて面倒なことをしなくなりますよ。
 池波先生が語る作法は、それぞれしっかりその根拠も述べられていて、一瞬なるほどと思わせるんですが、しかし、よくよく考えてみると、そこにもどこか男の道楽が含まれていることに気づきます。それらしい「語り」…「騙り」。
 そう、作法、あるいは道楽というものは、これはフィクションであり、ルールであり、私の言うところの「コト」に当たるものなんですね。男の作法、それも歴史小説家である池波正太郎先生の語る作法ともなれば、これはなんなとく武士道に通ずるものがあるような気がしますが、だまされてはいけません、実はこれは立派な貴族文化だと思うんです。つまり、オタク文化。
 すみません。池波先生、きっと怒るだろうな。でも、私にはそう読めたんですよ。形は違うけれど、一つ一つの動作や一つ一つの物に自分独自の意味を与えて、それにこだわり、それに耽溺し、それをもって自己を際立たせ、あるいは同じ道楽を共有する者との絆を強める。これはオタクそのものでしょう。
 そう考えると、これは男らしいのではなく、女らしいのだということになってしまいます。そう、常々申しているように、私は、オタク文化とは女流の貴族文化の系列だと考えているんです。
 本当の武士道というか、武士の生き方は、そんな生活の些末な部分にこだわるんではなく、生と死という壮大なテーマに対峙する存在だったはずです。江戸時代に造形された武士道というのは、これは仕事も金もないのに権力だけはあったタチの悪いニートのためのフィクションでしたからね、まさに貴族文化の正統であり、のちのオタク文化の萌芽になるものだったんですよ。
 ですから、当然、江戸の「粋」というのは、私に言わせれば「萌え」みたいなものでして、そこに「コト」はあっても「マコト」があるわけではない。「もののあはれ」という生命に一番近い感覚をあえて隠蔽して、一番無責任な先っぽの方で大いに遊んだのか「粋」であると思います。「粋」は「息」で「生き」だなんて語るお方もおられましたが、それこそ見事な(あるいは露骨な)フィクションであります。
 ということで、「粋」な「作法」を身につけた「男」が死に絶えた、という言い方は正しくないということがわかりますね。金のかかる「作法」の方法が淘汰されただけで、世の男の粋の欲望は、たとえば「萌え」という形で、あるいはビジネス(特にベンチャー)という形で、しっかり生きているんですよ。自分の世界観にこだわりつつ、しかし女にもてたい…この欲望は死に絶えるわけありません。
 まあ、こんな事実をもってですね、池波先生を非難しようなんて、これっぽっちも考えていませんよ。だって、彼は「騙り屋」だからです。逆に、小説家はこうでなきゃいけないんです。「コト」にとことんこだわって、実生活でもフィクションに生きねばダメです。そういう意味では、彼は「小説家の作法」を実践した男だったと言えるかもしれません。そういう小説家がいなくなったのが問題なのかもしれませんね。
 というわけで、この本は「小説家の作法」あるいは「男の道楽」というタイトルにするのが良かったかもしれません。もしくは「オタクの作法」とか(笑)。

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2008.06.05

Skypeで無料テレビ電話

これは私ではありません。
Skype_mac_video ればせながら、Skype(スカイプ)を導入しまして、実家とテレビ電話をつないでみました。あまりに簡単に、そして高品質で、さらに無料なわけですから、ウチの両親はもちろん、子どもたちも大はしゃぎ。大変に好評です。
 Skypeはルクセンブルクの会社が運営するインターネット電話(IP電話の一種)です。5年くらい前からパソコンを使って無料電話ができるサービスとして有名でしたが、今年になって、Macでも高品質テレビ電話ができるようになったので、いつか導入してみようと思っていたんです。
 ちょうど、実家のiBookが壊れ、切り刻まれ、父親がMacBookを買ったものですから、それを機に挑戦してみることにしました。そう、MacBookにはカメラもマイクも標準で装備されていますから、たとえばヘッドセットなんかを買う必要もありませんからね。
 で、実際にやってみますと、本当に驚くほど簡単に導入完了しまして、パソコンやインターネット初心者(かつ後期高齢者)の父親でさえ、私の電話指導でスムーズにソフトをインストールし、アカウントを取得し、設定をし、そしてウチとつなげることができました。
 いやあ、実は私もビックリなんですよ。こんなに画質、音質がいいと思っていなかったので。フルスクリーンにしても、テレビにも見劣りしないほどの画質ですねえ。これはすごい。ほんの少しタイムラグがあるようですけど、ほとんど気にならない程度です。もちろん、動画の動きもスムーズで、昔のテレビ電話の(あるいはテレビでよく出てくる今のテレビ電話の)イメージとは大違いです。
 これで無料ですか。すごい時代になったものですね。これで実家と長電話する必要もなくなりましたし、だいたいがいきなりテレビ電話にグレードアップしたわけですからね。これはですねえ、ジジババからすれば最高に嬉しいことでしょう。孫の顔をリアルタイムでいつでもタダで見られるんですから。孫の方も大はしゃぎです。
 まあ、ウチの父親が後期高齢者のくせに妙に元気で、そしてMacBookを使うようなこじゃれた爺さん(見た目は全然シャレてませんが)なので、こういうことが可能なんでしょうかね。でも、Macなんかけっこう感覚的に操作できますし、Skype自体も普通に電話をかける感覚で(いや、それ以上にシンプルに)使えますから、これはもっと普及していいんじゃないでしょうかね。
 たとえば、恋人同士の夜の長電話なんかね、あれをケータイでやってたらたまりませんよねえ。今の時代、どのウチにもブロードバンドとパソコンくらいはありますから、Skypeでつなげちゃえば、もう料金はかからないわ、姿も見えるわ、殴り合いのケンカにはならないわ、ほらもう実際に会わなくもいいじゃないですか(笑)。
 もちろん、テレビ電話にしなくてもいいわけです。音声だけでもいい。映像だとリアル過ぎる場合もあるでしょう。実際、ウチなんかでも、部屋が散らかってるとか、食事の片づけしてないとか、嫁としては知られたくない情報が姑に伝わってしまうこともありました(笑)。
 日本ではどの程度普及してるんでしょうかね。会社なんかでも積極的に使っているところもあるようです。それはそうですよね、海外の取引先との交渉とか、電子会議とか、無料でできちゃうんですから。でも、会社によっては禁止しているところもあるとか。あるいは国によっては、一部サービスを禁止しているところもある。もちろんセキュリティーの問題もありますし、それから、既存の通信業者(特に電話会社)を守るという意味もあるのでしょう。
 まあしかし、かえすがえすもすごい時代になりましたね。これが無料で、そして広告などもなく、どうやってビジネスとして成り立ってるんでしょうかね。よく分かりません。でも、我々消費者(というか消費してないのかも)としては嬉しい限りであります。皆さんもぜひ始めてみてください。ホント簡単ですから。

スカイプ公式

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2008.06.04

請務其本

Syougenji08 修旅行団は美濃の伊深へ。私は3年ぶりの妙法山正眼寺参拝です。臨済宗最大派となった妙心寺派の開祖である関山慧玄さんが修行したお寺です。妙心寺奥の院とも言われ、多くの雲水が修行する道場としても有名です。また、あの川上哲治さんが座禅に励んだ寺としても知られていますね。
 その他、お寺についての詳しいことは3年前の記事や、正眼寺の公式ページをご覧下さいませ。
 さて、今回も眼にもまぶしい新緑の中、凛とした禅風に包まれた素晴らしい時間を過ごさせていただきました。特に今日は接心(摂心)のさ中ということもありまして、格別に緊張した雰囲気を感じました。
Teisyou 私たちが本堂に入った時、ちょうど老師による提唱が行われていました。老師が本尊のおられる正面に向かい祖録を講じています(たぶん)。途中からの拝聴であり、またテキストもなく、生徒たちを座らせながらでしたので、全体としてどのようなお話なのか分からなかったのが残念です。しかし、ところどころ私の心に深く入ってくる言葉がありました。
 「師を殺す」…修行も教育も、ただなあなあの仲良しではダメ。場合によっては「師を殺す」気概すら持つ必要がある。師を越えて、踏みつけて、あるいは師に踏みつけられて「なにくそ」と思うくらいの姿勢がなければ、修行も教育も成り立たない。いかにもお友だち先生然としている(あるいはそれ以下か)のワタクシとしては耳の痛いお言葉。
 「殺活自在」…生かすことも殺すことも、両方とも重要である。同様に生きることも死ぬことも同じ価値がある。それを自在に操って…いや自在とは「自ずから在る」ということでしょうか、自分の中に両者が自然に、対等に存在しているべきなのでしょう。
 「一年の計は穀を樹うるに如くは莫し、十年の計は木を樹うるに如くは莫し、終身(百年)の計は人を樹うるに如くは莫し」…私はまさに人を樹うる仕事をしています。そうあるべきです。しかし、ついつい日々の労務に追われて、結果として単に日々の禄を得るための毎日を送りがちです。本当に百年先のこと、すなわち老師のおっしゃられた言葉によれば「人類のこと」を考えて、人を育てていかねばならないはずですね。全くその通りです。
650 そして「請ふ、其の本を務めよ」…関山慧玄さんは語録や頂相など、私が言うところの「コト」を残しませんでした。ただ四つのシンプルな言葉が、伝説として残っているだけです(数年前に妙心寺の蔵の中から慧玄さんのものとおぼしき頂相が見つかったらしいのですが、まだそれがホンモノかどうか検証がされていないようです)。その中でも最も有名な言葉が「請ふ、其の本を務めよ」です。「モト」という語は私の言う「モノ」と語源的に近しい関係にあるのですが、まさに「カタられたコト」という枝葉末節ではなく、その本質である「モノ」を見極めろというお言葉であると解釈しました。
 それは老師のおっしゃるように、自分自身の中にあるのかもしれません。なぜなら、自分自身は他者との縁によって成り立っているものなので、自分自身を極めるということは、結果として全宇宙を極めることになるからですね。そういう意味で、自分と全宇宙は天秤にかけるとしっかりつり合うはずなんです。それこそお釈迦様の言いたかったことでしょうし、禅のそれこそ根本的究極的なテーマであると思います。
 ですから、逆に、全宇宙を極めると自分自身を極めることできる、とも言えるわけですよね。ちょっとカッコつけて言いますと、私がこのブログで「古今東西 硬軟聖俗 なんでもござれ!」と、めちゃくちゃに書き散らしているのも、ある意味修行であり、一つ一つのテーマは私にとって禅の公案みたいなものなんです。
 そう、あのフジファブリックの「茜色の夕日」に見る「もの」と「こと」に書いたように、「コト」は「モノ」の一部であり、全体であるわけでして、また、ある意味、私たちは宇宙(モノ)の一部であり全体である「コト」なんですね。
 そういう意味では、あの僧堂での接心に臨んでいた多くの若い雲水たちとは、逆の行き方をしているのかもしれませんが、最終目標は同じなんだと、そういうふうに思いましたし、そう思って俗世間でやっていくのも一つの方法かなと思いました。
 「請務其本」…私はもしかすると、葉を摘み枝を尋ねて、その本に到達しようとしているのかもしれませんね。もしかして無相大師さんにケンカ売ってるとか(笑)。それは大変なことですな。とんでもない道を選んでしまったものです、トホホ、野狐禅も楽じゃないですね。

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2008.06.03

エレベーターの開閉ボタン

Relayphp 3年生の研修旅行で岐阜に来ております。今日は高山で一泊。本当は高山のことを書くべきなのかもしれませんが、ちょっとそれ以上に気になったことがあるので、それを書きます。どうでもいいこと…なのかもしれないけど。
 今日泊まったホテルのものに限らず、エレベーターってどうも好きになれませんねえ。田舎に住んでるんでエレベーターに乗ること自体非常に少ないということもあるかもしれません。でもなあ、なんか緊張する。いろんな意味で。
 一人っきりで乗るのも緊張しますよね。何しろ、私、大学時代、夜一人でエレベーターに乗っていて、3時間くらい閉じこめられたことがあるんですよ。天文部の集まりに行くため、6階に向かって昇っていたら、いきなりガーンというショックとともに1メートルほど自由落下し(コワ…)、4階と5階の真ん中へんで止まっちゃったんです。その時はもう夜で、エレベーターを使う人もほとんどいず、非常ボタンを押しても、非常電話をかけても誰も気づかず、エレベーターに閉じこめられている私の存在が確認されたのが、事故後30分たってからでした。部の先輩が下に下ろうとして、エレベーターの故障に気づいてくれまして、そして「おーい、誰か乗ってるかあ?」ときいてくれましてね、「は〜い、○○が乗ってま〜す」と大声で答えたら、みんなが集まってきてくれまして、それでみんなが心配してくれ…たのではなく、みんなで大笑い。「おいおい、閉じこめられてるよあいつ!」って。ハハハ。で、結局ですね、遠くのエレベーター会社から救助隊(修理隊)が到着するまで2時間以上。参りました。救出された時は、部のみんなで拍手して笑ってくれました。その後、それをネタに飲み会(笑)。
 知らない人と二人っきりで乗るのも変に緊張しますよね。特に相手が女性だとこっちが緊張する。間が持たないんですよね。なんとなく。無言だし、密室だし、妙に時間が長く感じませんか?
 あとですねえ、ここからが今日のテーマなんですが、エレベーター・ガール役になった時の緊張感ですよ。なんか、いきなり運転手&ガイド(司会進行)を任されるって感じですよね。あれを好きでやる方もいらっしゃるようですが、私はできるかぎり避けたいですね。あれって運転免許とか研修とかいらないんでしょうか(笑)。
 特に「開」「閉」ボタンの操作は難しい。全員が乗り込むまで「開」ボタンを押し続けるのはそんなに難しくないし、適当なところで「閉」ボタンを押すのも、普通の状況ならそれほど難しくないけれども、たとえば、閉めようとした時に向こうから誰かが「乗ります!」という感じで走ってきた時とか、焦って「開」ボタンじゃなくて「閉」ボタンを押しちゃって、無情にもその人を置いて行ってしまったり、あるいは乗り込む時にその人を挟んでしまったり、そういう経験ありませんか?
 こっちは親切でやってやったつもりが、全く逆の動作になってしまうという恥ずかしさと哀しさと残酷さ…。お互いにとってとっても不幸な状況ですね。あるいは周囲の人にとっても。
 で、これって、基本的に「開」と「閉」の字が似てるのが悪いんですよね。じゃあ記号はどうかというと、これがまた分かりにくい。あの三角が並んでるヤツですよ。これもどっちがどっちか一瞬分からなくなりませんか?私だけかなあ。矢印の矢先が向かい合っている(つまり三角の頂点が向かい合っている)のが、「閉」なわけですが、なんとなくイメージ的には末広がりというか、外に向かって広がっている図形にも見えるので、「開」にも感じられちゃうんですよね、私には。
Opcl で、今日もエレベーターに一人で乗り込んだら、生徒が走ってきたんですよ。それで、閉まりかけた戸を開けてあげたんです。今日はそれがうまく行った。というのは、右の写真では分かりにくいと思いますが、実は「開」「閉」ボタンの下に「open」「close」というシールが貼ってあったんですよ。ホテルですから、外国人もたくさん泊まりますよね。ですから、こういうシールを貼ったんだと思うんですけど、結果として日本人である私にも一瞬で分かったんですね。これはいいですよ。
 でも、たとえば子どもなんかだと、「開」も「閉」も「open」も「close」も分からない場合もありますよね。ですから、これが完璧とは言えません。では、どうすればいいのでしょうか。
 そこで、私の提案です。これは平仮名がいいんじゃないかと。そして「open」「close」を併記する。これでほぼ完璧じゃないですか?ユニバーサル・デザインじゃないですか?
 ただ、よく考えてみたら、平仮名と言っても、具体的に何と書けばいいか、これは案外難しい。「あく」「しまる」なのか、「あける」「しめる」なのか、「ひらく」「とじる」なのか…むむ、「ひらく」「とじる」は、それははたして自動詞なのか他動詞なのか(「open」「close」もどっちなのかな)。まあ、どれでも分かればいいわけですが、こだわるとどれがいいんでしょうね。
 たぶんひらがな表記のエレベーターもあると思いますけど、私はまだ見たことがありませんね。皆さんどうですか?とにかく平仮名に英語併記が一番いいと思います。もし、もっといいアイデアがありましたら、あるいは実際にこういうのがあるよというのがありましたら、教えてくださいませ。
 ちなみに世界共通ではないようですが、一般的に「開」ボタンは左側にあるようです。そして緑色に着色されているケースが多いようです。
 でも、あの操作盤って戸の右側にあることが多く、そしてそれを右手で操作することが多いので、なんとなくですけど、右が「開」の方がいいような気がするんですよね。緊急で押すのは「開」ですから、たとえば「閉」を押していて急に「開」を押さねばならない時は、右に指を動かす方が自然ですしすばやくできるような気がするんです。人間工学的にね。どうなんでしょうか。
 
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2008.06.02

「梅雨」はなぜ「つゆ」なのか

H7gkk 雨入りしました。ここ富士山麓ではしばらくストーブが必要な日が続きます。今も外は9℃です。
 今年はずいぶんと早い入梅ですね。これから2ヶ月近くしとしとと雨が降り続きます。だらだらと長く続く雨のことを「淫雨」とか「陰雨」とか言いますが、こんな言い方じゃあ本当にマイナスイメージですよね。実際はものすごい恵みの雨なのに。
 日本の豊かな自然が育まれる、その一つの要因がこの梅雨にあることはたしかです。人間以外の生物は、特に植物は喜んでいるはずです。
 ところで、なぜ「梅雨」と書いて「つゆ」と読むのでしょう。
 昔から中国では、この時期の長雨のことを「霉雨」と言ったそうです。「霉」は「黴」、つまりカビが生える(当地方ではカビが咲くという表現を使います)ほどの湿気をもたらす雨ということですね。しかし、これまたちょっと悪いイメージなので、同じ音の「梅」を使うようになったらしい。6月と言えば、ちょうど梅の実のなる頃です。梅の実がなる頃に降り続く長雨ということで、きれいに落ち着きましたね。
 日本では古来「五月雨」という言い方が一般的でした。それが、江戸時代くらいから「つゆ」と呼ばれることも増えてきたようです。なぜそのような呼称が生まれ広がったのか、よくわからないのですが、やはり「つゆ」という音から想像されるとおり、「露」「汁」と同様に「水分」を表す語なのでしょう。物が腐るので「潰ゆ」だという説もありますけれど、ちょっと無理があるように思われます。
 私が想像するに、この言葉は俳句の世界で生まれたんではないでしょうかね。五月雨という言葉は言いふるされ過ぎてしまった感があったのでしょう。古今集あたりからずいぶんと使われてきましたからね。また、「さみだれ」と4拍使ってしまうと、どうしても次には助詞の「の」とか「を」とか「や」とかしか入れられないじゃないですか。かなりパターン化してしまいます。
Yuj そこで、ある意味比喩的な表現として、世界を「水分」の中に放り込んでしまった。巨大な水滴を想定したというより、我々や世を矮小化して、露の中にとじこめたんじゃないでしょうか。
 「露」という語も、もちろん歌の伝統の世界において非常に重要なものであり、充分に言いふるされた語であったわけですが、「五月雨」よりもずっと抽象的でもあったため、こういう新奇な用法を受け入れたんではないでしょうかね。言いふるされたからこそ新鮮であったのでしょうし。
 いったいどこの誰が「つゆ」という言葉を「ばいう」の意味で使い始めたのか、それはわかりません。しかし、短期間で一気に一般化したのには、やはり俳諧文化が影響しているように思われます。「つゆ」は2拍ですので、造語も作りやすい。「なたねづゆ」とか「はしりづゆ」とか「つゆざむ」とか「つゆのいり」とか。
 そして、「露」と書いたり「つゆ」と書いたりすると、意味を取り違えてしまいますので、それで中国語の「梅雨」を借りてきて、「つゆ」と読ませる習慣を確立させたんではないでしょうか。
 俳句というのは、ある意味新しいイメージの創造作業ですよね。いかに使いふるされたイメージを刷新するか、それは言葉の次元でも、ものの見方の次元でも言えることです。日本人の情緒をいろいろな意味で動かし支配してきた「五月雨」が、「梅雨(つゆ)」になって、新たな価値やイメージを与えられるようになったわけですね。
 特にこの長雨は、それこそ「淫雨」「陰雨」であり、たいがいマイナスイメージでとらえられてきましたからね。それを新しい視点からとらえなおして、どうせならプラスのイメージで付き合っていこうというのは、いかにも日本人らしい発想です。どうせ毎年避けられないわけですから、表現の題材にしてしまえ、というわけです。
 と、私の勝手な想像を書いてきましたが、おそらく当たらずとも遠からずの珍説ではないでしょうか。ついつい気が滅入りがちになるこの季節、古人の智恵にあやかって、今年は存分に楽しんでみようかと思います。

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2008.06.01

芦川のすずらん

08060101 日はフジファブリックが生む縁のお話、今日はレミオロメンが生む縁のお話です。
 音楽が縁を生むのは、音楽が縁で出来ているからです(音楽の存在自体が、周囲との関係性において成り立つゲシュタルトであるという意味でも)。そのへんのことについては、今までもこのブログに何度か書いてきましたし、講演や演奏会や成人式なんかでお話してきましたが、特に最近それを実感しますね。あまりにいろいろなことが起きますので。
 さて、今日は久々にイベントのない日曜日でしたので、家族とドライブ。笛吹市芦川町にあるスズランの群生地に行ってきました。
 旧芦川村は、フジファブリックの富士吉田とレミオロメンの旧御坂町の間にある山村です。昔は、小菅村、秋山村と並んで、日本のチベットと称された(?)ほど、何もない…いや豊かな自然の残った所でした。村に通じる道もいかにも林道然としていて、よくぞここに住んでいる人がいるな、どういう歴史的事情があるのだろうと純粋に興味のわくような村でした。こんにゃく芋の栽培と炭焼き、渓流釣りで生活していた時代が長かったようですね。
 今日久々に(十数年ぶりでしょうか)行ってみますと、道もきれいに整備され、観光客もたくさん訪れていて、ああなんとなく雰囲気が変わったなと感じました。まあ、それも悪いことではありませんが。
08060102 で、その芦川の山奥にありますスズランの群生地は、白樺林の足下に一面のスズランが咲き誇る、それはそれは幻想的なものであります。今年は開花が少し遅れているということでしたが、それでも、白樺林に満ちるあの独特の芳香を吸い込みながら、散策の小道を歩いていますと、もう本当に浮き世のことを忘れてしまいます。
 スズランだけでなく、いろんな山野草も楽しめます。山野草って本当に可愛いいですね。まさに「うつくしきもの(小さくてかわいらしいもの)」です。可憐で控え目で…でも、そうそう例えばスズランなんか、ご存知と思いますが、あれは毒草なんですよね。あの姿と香りにだまされると痛い目に遭います…なんて、昔の苦い思い出がよみがえってきたぞ…笑。ま、それは冗談。
08060103 さて、そんな素晴らしいスズラン畑を保護し整備してくれているのが、当地で民宿やキャンプ場、茶屋などを営む「すずらん荘」の皆さんです。そこの奥さんが、最近レミオロメン関係でお世話になっている方のお友達で、そういう縁もありまして、今回訪れることとしたのでした。そこの息子さんはレミオロメンの3人と同級生で、ご自身も音楽をやられているとのこと。今日はその方はいらっしゃらず、自らもレミオロメンのファンとおっしゃるお兄さんが私たちをもてなしてくださいました。
 やはり、レミオロメンについても、地元ならではの応援をしていきたいというような話を奥さんといたしまして、なんとか具体的にイベントなんかを企画していこうということになりました。全国区になってしまい、ある意味遠い存在になってしまった彼らですが、やはり彼らの音楽にはこの山梨の風土が息づいていると思いますし、これからもそうであってほしいので、なんとか彼らにも原点を感じられる活動の場を提供したいものです。
08060104 そんな話でも盛り上がりましたが、しかし、やっぱりですね、なんといってもスズランをはじめとする美しく豊かな自然と、そして、お店でいただいたおいしいおいしい味噌おでん、きのこ汁が最高でしたねえ。
 自然と人間との正しい共存こそが文化だと思います。また、違う言い方をすれば、自然のアイデンティティーというか、その土地の風土というものが、人間の活動を通じて現れるのが文化だと思いますから、そういう本来の「関係性」を取り戻す活動をしていきたいですね。
 よそから来て山梨に住まわせていただき、その自然を満喫し、そこが生んだ文化を楽しみ、そしていろいろな人に出会い、その人たちに助けられている私。最近はどうやってその恩に報いるかを真剣に考えるようになりました。それほど、ここ山梨の自然と人と文化が好きなのです。

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