『日本語はどこから生まれたか』 工藤進 (ベスト新書)
「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説
昨日、秋田弁はフランス語に似ているなどと半分冗談で書きましたが、この本の著者である工藤さんは、秋田県の出身、そしてフランス語・フランス文学の専門家でいらっしゃいます。そして、東京弁が外国語に感じられるとどこかでおっしゃっておりました。
そう言えば、秋田人(いやむしろロシア人か?)であるウチのカミさんも、標準語でしゃべっていると疲れる、あるいは本当に疲れ切ると標準語が話せなくなると言っています。私なんか見事に方言(母語)を持っていない超標準日本語話者なので、その感じがどうしてもわかりません。
さてさて、そんな日本在住秋田人(?)である工藤先生の本、日本語と印欧語の起源を同一とするなどと言いますと、どうしてもその筋の(名前とnameみたいな)トンデモ系を想起してしまいますが、それこそトンデモありません、ほとんど学術論文と言って良い内容の本でした。そして、なかなか刺激的、案外難解、また言語の本質を鋭く突いた記述も多く、楽しく読ませていただきました。
帯にはポスト「タミル語起源説」とあります。これはある意味正しい。○○語起源というものは提示されていませんから、なんだ看板に偽り有りじゃないか、ということにもなりそうですが、あくまで工藤先生が言いたいのは、日本語と印欧語に共通の祖語があるということなんだと思います。ですから、一つの言語に日本語のルーツを求めようとするタミル語起源説とは、その基本的な姿勢というか考え方が違うわけです。
つまり、誰かさん(大野晋さん)の「日本語はどこから来たか」という発想ではなく、また安易に「どこで生まれたか」でもなく、「どこから生まれたか」であるわけでして、そのスタンス自体が売りなのです。
いや、私もですねえ、誰かさんから直接お話をうかがう機会もありましてね、なるほどよく出来た学説だと感心した記憶もあるんですが、どうも基本的(おそらく生理的)なところで拒否反応が出るんですよ。単純にですね、タミル語と日本語は似ている、それは日本語がタミル語起源だからだ、ではなくて、タミル語と日本語が同源なんではないか、と思っちゃうんですよね。
Aさんと私が似ているからといって、Aさんを私の生き別れたお母さんだと決める必要はありませんよね。もしかすると兄弟かもしれない。そういうシンプルな可能性というものを捨ててしまっていいのか…と。
というわけで(?)、工藤先生は日本語と印欧語が似ている点を列挙していきます。それはもちろんナメーとナーメのような次元、あるいは誰かさんの(語呂合わせやこじつけにも見えないとも言えない)語彙や文法、文化面での類似の列挙とは違いますよ。数(数え方)や人称、あるいは否定の概念的な部分での類似を説明してくれているんです。これは非常に興味深くエキサイティングな内容です。まさに日本語と印欧語と、そして秋田語(!)に精通した方ならではの知見です。そう、時々秋田弁も登場しますよ。
さて、こんな興味深い内容の中で、特にワタクシ的にムムムッと反応したのは、双(総)数「モロ」とその対義語「カタ」についての記述の部分です。そう、ワタクシの「モノ・コト論」と大きく共鳴するものがあるんですよね。「モロ」と「モノ」対「カタ」と「コト」という構図です。ここではまだ詳しく書けませんが、私は大きなヒントを得ましたよ。
(たとえば、貨幣と文字といった)「コト」を拒否し続けた、「モノ」の国みちのくが生んだ学者さんが見た言語宇宙には、妙な思い込みや、あるいは変に常識的な「枠」や「境界線」などがなかったようです。それだけでも素晴らしい。ま、この本自体、なんだかうまくまとまっていないカオスの香りがプンプンしてますけど(笑)。
最終的には、工藤さんってやっぱり縄文人だなっていう感じがしましたね。では、誰かさんは弥生人なのか!?そして私は…。
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コメント
この評は私(工藤)の意図をほとんど完璧にとらえています。大野晋に関する評もまったく正しい。一カ所だけ、 日本語と印欧語が似ていると私が述べたとされている点に、数(数え方)や人称、とありますが、これは、文法的数(単数、複数、双数など)や人称、と言ってもらいたかった。末尾に「この本自体、なんだかうまくまとまっていないカオスの香りがプンプンしていますけど(笑)」とあるが、じつに愉快。アイヌが日本の先住民と認定されましたね。めでたい。
投稿: 工藤 | 2008.06.07 23:00
工藤先生、初めまして!
そして、コメントありがとうござます。
いやあ、工藤先生ご本人様からこのような御言葉をいただけるなどとは…。
文法的数(単数、複数、双数)の部分は、大変失礼いたしました。
たしかに私の記述は甘いですね。
先生のこのコメントをもって訂正に代えさせていただきます。
また、末尾の部分、これまた失礼いたしました。
でも、ちょっと本音です(笑)。
もちろん誉め言葉として書いたつもりですが。
こちらのご著書、先生から直接薫陶を受けたという友人から借りて拝読いたしました。
現在の私の様々な興味に沿う内容で(ツボにはまりまくり)、いつか先生にお会いして直接いろいろなことを教えていただきたいと思っておりました。
いつかそのような機会があれば幸せです。
今月も仕事を休んで秋田へ行ってまいります。
(フランスバロック音楽などを演奏してまいります)
私にとって秋田は、まさに縄文、アイヌの魅力に満ち溢れる国。
本当のふるさとよりも、ずっとエキサイティングかつノスタルジックな場所になっています。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.06.08 00:03
「縛り」「ルール」「形式」を徹底的に窮めて到達する、いやそれを突き破った先にある「モノ」世界があるんですね。
クイケン・ファミリーのことから始まって「コト・モノ」論、同感です。大野晋のタミル「コト」論を破るためには、モノ論でたちむかってもダメで(土俵が違うから)、おなじ「コト」論的方法で、視点を違えてやる必要がありました。私の書いたものがとても錯綜しているのはそのせいでしょう。言語学は恐ろしい学問です。
不二草紙氏の言う通り、日本語とタミル語は遠くで繋がっている可能性はありますが、直接的関係にはありません。
「モノ・コト」論のプロとしてご存知かと思いますが『日本書紀』の巻第二、「神代下」(岩波文庫一巻、111ページ)に、「鬼」を「モノ」と読む理由が述べられています。「モノの原義は、存在することが感じられるということ。手で把えられるのもあり、手に確かには把えられないのもあった。後者がつまり、鬼にあたる」この注記はおそらく大野晋によります。
モノには「触知できるもの = 物、者」と「触知できないもの = 鬼(モノノケ)」があることはだれでも知っていますが、こうした物、鬼をなぜモノというのか、ということに私は興味があります。私の本の67ページ、247ページの注の欄に、フランスの同僚 J.-P Levet 氏(印欧語学者、トカラ語の専門家)の説が載せました。モノは M-, N- という印欧祖語の代名詞語根、コトも同様に、K-, T- という代名詞語根ではないか、というのが我々の仮説です。秋田、津軽には、ガ(汝)という鼻音の代名詞(んが、と発音して下さい)がありますが、これはNA に遡り、こうした原始印欧語につながるとみています。K-, T-をもとにした、指示詞は、か(れ)、こ(れ)、た(れ)、ど(れ)、処(コ)など日本語にはたくさんあります。
それにしても不二草紙氏、多才ですね。秋田県、自殺が多いことと、小中学校生の学力が日本一というの、関係あるのかなあ?どう思いますか?先月、秋田市の無明舎という本屋から80ページばかりの冊子『文法の復権』を出しました。人に買ってもらうほどのものではないので非売品です。お送りしたいのですが?『文法の復権』という名ですが、昨年11月から始まった日本入国外国人に対する指紋・写真の強制に関するものです。というより、ある外国人に、日本人はなぜ無言なのか、あなたはなにも言わないのか、と挑発されて作った冊子です。
私に習ったという方のお名前、さしつかえなかったら。工藤
投稿: 工藤 | 2008.06.08 13:26
工藤先生、こんばんは。
熱いコメントありがとうございます。
本当に嬉しく思います。
弥生人の「カタリ」もなかなか巧妙ですからね、やはりこちらも「コト」で攻めないとなかなか崩せませんよね。
それで思い出しましたが、以前大野さんの闘いぶりをプロレスに見立てて、こんな記事書いてました(笑)。
「日本人の神」
私はプロレスの大ファンでして、それはそれがエンターテインメントだからです。
フィクションはエンターテインメントなら許されるどころか、大いにけっこうなコトです。
しかし、学問の世界でそれはいかんでしょう。
ご自身の作られた虚構世界にはまりこんでしまっているように思われますね。
一度ウソをつくと、どんどん深みにはまっちゃうんですよね。
「鬼」を「もの」と読むということについてはこちらに少し書いていました。
「鬼」
先生とJ.-P Levet 氏の説こそ、私がムムムッと反応したところです!
私はそこに推量の助動詞「む」と過去の助動詞「き」を絡めて考えているところです。
偶然か、必然か、未と既(過も去もでしょうか)もmとkですねえ(あんまり飛ばしすぎるとトンデモになっちゃいますので自重しますが)。
やはり、外部(認識外・未知)と内部(認識内・既知)のイメージと、m・kは関係しているよう思います。
nとtについては、まだ考えが及んでいませんでしたので、先生方の御説には大いに刺激と希望を感じました。
ぜひ勉強したいところです。
秋田の学力と自殺率については、私の「モノ・コト論」的に申しますと、秋田はそれこそ「モノ」の国ですので、遊び(エンターテインメント)としての「コト」が少ないのがその根底にあると思います。
遊びとしてのコトが欠如しますと、コト化(カタリ)は学問に向かいます。
家内が申しますに、遊びがないから勉強するか悩むかしかないんだ…そうです。
半分冗談ですが、半分事実かもしれませんね。
無明舎(大好きです)の御本、ぜひお譲りいただきたく存じます。
友人も名前を伝えて良いとのことですので、それも含めましてメールにて連絡申し上げます。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.06.08 19:05
お久しぶりです。私は書いたもの大学のサイトに載せていますが、その内容はほとんど同時にグーグルサイトに引っこ抜かれて載ります。きょうたたまた私のサイトを覗いたら、私の項目のすぐあとに不二草紙氏の、私の本に関する昨年五月の記事が出ていて驚きました。「グーテンベルグからグーグルへ」という本(翻訳)が慶応大学出版から出ましたが、こういうネットの力とそれに伴う編集の変化には底知れないものを感じます。著作権を、ネットは無視しているのではなく、越えてしまっているように思えます。
私のお訊ねしたいことは、言葉はお金にすべきか、ということです。キリストは文字を知りながら、文章は書きませんでした。聖書を書いた人はキリストの弟子です。西洋で印刷術が出来てから、文章(言葉)は換金されるようになった。それまでの写本による本つくりに個人的な文章は厳禁だったのが、印刷術以来、発表する文章はこれまでだれも書かないことでなくてはならず独創が求められるようになった。これがいままで続いています。グーグルはこうした事態をまったく変えてしまうような感じがあります。それはもしかしたらよいことではないか?言葉は金にしてはならないのではないか?不二草紙氏の考えをお聞きしたい。
投稿: 工藤進 | 2009.12.27 18:56