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2008.05.15

『チーズスイートホーム』 こなみかなた (モーニングKCDX)

07139507 最近ウチの家族がはまっているマンガ。猫好きにはたまらない一冊。
 私もかなりの猫好きですけど、やっぱりウチのカミさんや子どもたちにはかなわないな。とにかく三度のメシよりネコという感じ。
 今ウチには三匹の黒猫がいます。10年前から一緒にいる大和守弥右衛門と丹後守新之助に、最近子猫のミー(いきなり普通の名前だな)も加わりました。これがねえ、なんとも可愛いんですよ。どうもどこからか落ちたかなにかしたらしく、脊髄を損傷していて、下半身が不随なんです。で、当然もらい手がいなかったのをちょっと預かったら、これもまた当然ずっと預かることになっちゃったと。
 私は最初反対しました。ハンディーキャップ猫を育てるのは大変だからです。自分たちの生活だけでなく、ヤエとシンの生活も脅かされると思ったからです。でも、カミさんや子どもたちは、まあ母性本能を刺激されちゃったのか、責任やら運命やらを感じちゃったのか、もう泣いて「飼う」と言い張るわけです。
 私もかなり強硬に抵抗しましたけれど、しかししばらく一緒にいるうちに、様々な心配が杞憂であったことが判明してゆき、今では全く自然に家族4人黒猫3匹の幸せな生活が続いています。
 ということで、迷子の子猫と、それを飼うことになってしまう家族をテーマにしたこのマンガには、たしかに共感するところが多い。
 で、私はそれほどでもないんですけれど、カミさんなんて毎日何度も読んで泣いてる。可愛いと思って、つまり「萌え〜」と思って読んでるのかと思いきや、そうではなくて「切ない…」と思いながら読んでるらしいのです。つまり、古語で言えば、「をかし」ではなく「あはれ」で読んでるんですよね。
 こういうことらしい。このマンガの主人公猫のチーは、最初はママのところに一生懸命帰ろうとしてるんですね。本来のおうちへ。ところが、拾われて人間の家に住み始めて、だんだんとママのことや本来のおうちのことを忘れていってしまう。そして、次第に人間を親だと思ったり、人間の家をおうちだと思うようになってしまう。そのへんの描写がとても上手なんですね。
 時々ふとしたことから思い出すんだけれども、だんだん本当のママの姿や感触が薄れていってしまう。「あれ?なっだったっけ…」という感じで。何か大切なものを思い出しかけるんだけれど、そこは猫だし子どもだから、だんだん「…まあ、いいか」という感じになってしまう。つまり、チーのスイートホーム(ママ、おうち)の変化がテーマなわけです。
 そういう姿をウチのミーやおじさん猫たちに重ねているんです。まあたしかにそういう大切なことを忘れていく、親子の別れというのは、古今東西を問わず文学の重要なファクターでした。「もののあはれ」というやつですね。時間の流れに従って、淡々と悲しむべきことが進んでいく。桜の花が散るように。特に日本人はそこに「切ない美」を感じてきましたからね。ただ悲しいとういことでなく。
 作者もかなりの猫好きですね。猫の表情、動作、人間の様子も非常にリアルです。逆に言えば、猫があまり好きでない人、猫を飼ったことがない人には、ほとんどその微妙なニュアンスはわからないでしょうね。
 このマンガを読んで、猫を飼うようになる人も多いと聞きます。いいことですね。最近、世間は猫ブームです。景気がいい時は犬がはやり、景気が悪いと猫がはやる。なんとなく分かりますね。いつかも書きましたが、私たち人間にとって、犬は生活のためのパートナー、猫は文学のためのパートナーですから。
 今年春からアニメも始まりました。おかげで子どもたちも早起きになりましたよ。

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2008.05.14

「Love or Money」のお話

Ai 「」か「金(カネ)」か。
 妙な問いですね。この問いはだいたい恋愛とか結婚とかのシチュエーションで登場するものです。本来はそういう場合、たとえば女性だったら、「彼」か「金」かと問うべきです。つまり、「彼」を愛するべきか、「金」を愛するべきかで悩むのが本当なんです。
 で、「彼」か「金」かという問いの、一般的な答は「金」です。それは普通に考えて、あなたの「愛」に答えてくれる可能性は、圧倒的に「金」の方が高いからです。なんの保証もない「彼」に見返りを期待するより、社会が担保してくれている「金」に見返りを求める方が得策です。
 「金」は「神」だと考えるとよくわかります。その虚構性や契約性、そして悪魔性においても、両者はとてもよく似ていますよね。信じる者は救われるわけです。あの、紙切れや金属の円盤に価値があると思い込み続け、そして、ある意味それに魂を売って(入信して=システムに参入して)、その恩恵(愛)を受けるべく仕事する(修行する)わけです。
 それに比べると「彼」は多少頼りない存在です。「彼」もあなたと同じく、「彼女」か「金」か考えているからです。彼もあなたと同様、あくまでも受容者であって、「神」のような与える者にはなかなかなれないのです。
 というわけで、私たちは「神」の「愛」にすがるように、「金」の「愛」に依存して毎日を生活しています。しかし、それは先ほど書いたように、あくまでも契約(システム)上のことであって、いつそれがスーパーインフレを起こすか、実は分かりません。突然価値を失って、愛を与えてくれなくなってしまうかもしれないんですね。「神」や「金」の「愛」は、保険や年金みたいなものでして、システムが破綻して、全てがご破算になる可能性もまたあるのです。
Kane たぶん「金」が「愛」を大安売りしたのがバブルで、それが破綻してしまったのが現在の不景気なんでしょうね。バブルとその崩壊は、「神」の世界でもよくあることです。そんな時、「金」や「神」は突然「悪魔」に変ったような気がします。ま、実は変ったのは自分たちなんですけどね。
 で、我々は、我々が作ったシステムの不備や負の可能性、そして自分が気分屋であることをよく知っているので、実はそのシステムに没入できないものなんです。だから、たまには「彼」や「彼女」を信じてみたくなる。あるいは依存してみたくなる。「彼」や「彼女」の「愛」を享受できる可能性はたしかに少ないのですが、ある種の幻想や夢を抱かせてくれるし、人間自体はシステムではなくて実在なので、完全なる破綻というのはないような予感がするからです。
 恋愛は基本的に1対1の実在どうしの関係、究極はそこに他者や社会のシステムが入りこむ余地がないわけですから、自分の意志でどうにかなるような気がするんですね。世間が相手だと自分の意志ではどうにもできないことばかりです。ま、そんな恋愛も所詮フィクション、幻想であって、世の中以上にままならないことがほとんどなわけですが(笑)。
 さて、それでは本当の「愛」というのはどこにあるかと言いますと、これはワタクシ的には「完全なる贈与」にしかないと思うんですね。愛とは、見返りを期待しない贈与。実在を賭すことができる贈与、つまり命をかけられるか、というなんだか俗っぽい結論になってしまうのです。
 で、実際にはそれは自己に対してか、あるいは半分自己である自らの子どもぐらいにしか与えられない。まあせいぜい孫くらいまででしょうか。あるいは逆方向に半分自分である親とかでしょうかね。そのあたりまでしか及ばない。あとは、みんな他人です(遺伝子的には人類皆兄弟ですけど)。
 そうなんです。他人には「愛」は与えられないんです。他人へは「親切」しか与えられない。だから現実的には「愛」は負けても「親切」は勝つという表現が生まれる。他人へは完全なる贈与はありえないのです。おわかりになりますか?
 そうすると、「彼」や「彼女」も通常は他人ですからね、本当は恋愛というのは「親切」ベースでなければならないはずです。だから、冒頭の問いに対する私の訂正もまた誤りなのでした。本当は、「彼」に親切にすべきか、「金」を信じるべきか、ですね(笑)。
 さて、いろいろと戯言を述べてきましたが、この記事の本当の目的は自分の考えを披瀝することではなくて、ある文章をおススメすることなのでした。
 今では教材にもなっている次の文章、経済学者の岩井克人さんが、数年前に朝日新聞のコラムに書いたものです。『宝島』で有名なスティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編と、自らの「貨幣論」を結びつけて面白いエッセイに仕上げていますね。これを読んで感動する生徒も多いのですが、皆さんはどう感じますか?
 私はちょっと違和感を覚えます。小瓶に住む悪魔は貨幣の悪魔性とは無関係だし、彼がハイパーインフレーションと読む部分は、私にはマイナス利子の比喩と読めますし、結末も「愛(倫理)」が「金(貨幣)」に勝ったというより、人の幸福は他者の命の犠牲によっているというメッセージに読めるんですが。
 ああ、そうか、そういう意味では、これはアル中のおっちゃんの「愛」の物語なのか!なるほど(笑)。
 まあ、とにかく時間のある方は読んでみて下さい。『瓶の妖鬼』はいい物語です。

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 先日知人から次のような内容の電子メールを受け取りました。
 「子供の頃、スティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編を読んで強い印象を受けた記憶がある。岩波文庫で最近復刊された『南海千一夜物語』に収録されている。『貨幣論』の立場から読み解くと、面白いのではないかと思うがいかが」
 スティーヴンスンとはあの『宝島』の作者です。私は急いで『南海千一夜物語』を注文して『瓶の妖鬼』を読んでみました。私も強い印象を受けました。今回は、その理由を話してみたいと思います。
 それは、ハワイ人のケアウェとその妻コクアの物語です。
 ケアウェはまだ独身であった時、50ドルで一つの小瓶を買います。それは中に恐ろしい顔をした小鬼が済む不思議な小瓶で、持ち主の願う事は永遠の命以外ならなんでも叶えてくれるというのです。ケアウェには、花が咲き乱れる庭に囲まれた王宮のような家を持つ夢がありました。その夢はたったの50ドルで直ちに実現されてしまったのです。
 もちろん、小瓶は呪われています。それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂はその中の小鬼によって地獄に引きずり降ろされてしまうんです。難を逃れるには、ケアウェは生きている間にその小瓶を他人に買った価格よりも安く売らなければ売り手の元に戻ってきてしまいます。タダで譲ってもやはり戻ってきてしまうのです。
 小瓶の最初の持ち主であったアビシニアの王様は、悪魔に数百万ドルも支払ったといいます。だが人から人へ売り渡された数百年の間にその価値は大幅に下がり、ケアウェが買い取った時には50ドルにまで下がっていたのです。ケアウェは小瓶を友人のロパカに売り渡します。
 ある日、ケアウェはコクアという娘と出会います。二人は即座にお互いを好きになるのです。だがじきに、ケアウェは自分が不治の伝染病におかされていることを知ります。病をうつさずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶に病気を取り去ってもらうことです。だが小瓶は既にロパカの元を離れ、何人もの手を渡っていました。ようやく小瓶を探し当てると、その持ち主はなんと人から2セントで買ったという。ケアウェは泣く泣く小瓶を1セントで買い取ります。地獄へ堕ちる決心をしたのです。ハワイでは1セント以下の効果はありません。小瓶は死ぬまで誰にも渡せないのです。
 私は9年前に『貨幣論』という本を出版しました。小鬼の住む小瓶とは、知人が示唆してくれたように、まさに「貨幣」の象徴として読むことができるのです。
 人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。
 だが、貨幣の実体は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値を持つのは、他人がそれを1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションと呼ばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実体である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。
 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いでも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は小鬼によって地獄に引きずり込まれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価格が下がるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが始めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。
 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する論理が語られているのです。
 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領タヒチでは1セントより小額の1サンチーム硬貨が流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。
 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐにそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内証で小瓶を買い取る決心をするのです。
 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段に過ぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。
 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そして、そのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕とさなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小鬼は恐ろしい顔をしているはずです。
 だが、コクアとケアウェがそれぞれの相手に内証で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来何ものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。
 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣の価値をもつモノ同士の交換ではありません。二人がそれぞれ、何ものとも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。
 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。
 もちろん奇跡が起こります。
 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買い取ったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。
 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。

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2008.05.13

「おかえりなさいませ、ご主人様」の不思議

Fig200501305 〜、本格メイドカフェメイド教室(?)には行ったことはありますが、実はホンモノのメイド喫茶には行ったことがありません。ですから、「おかえりなさいませ、ご主人様」などと言われたことはありません。もちろんウチに帰ってきても、妻も二人の娘もそんなこと言うわけありません(「言え」と言えばギャグで言ってくれるでしょうけど、むなしいのでやめときます)。
 さて、そんなメイド喫茶での常套句「おかえりなさいませ、ご主人様」でありますが、これって不思議じゃないですか?いや、別にメイド喫茶じゃなくてもいいんですよ。とにかく「ただいま」「おかえり」の「おかえり」です。
 今日授業中、ウチのメイド…ではなくてギャルどもと漢文の問題を解いてる時、なんだかまた話が脱線して、挨拶の話になったんですね。それでふと気づいたんです。

 「おかえり」「おかえりなさい」「おかえりなさいませ」
 これって命令形じゃん!?
 帰ってきた人に「帰れ!」って言ってるってこと?

 私四十ウン年生きてきまして、もうおそらく何万回も言ったり言われたりしてきたんでしょうけど、今まで気づきませんでした。
 たとえば「おやすみなさい」。これは命令形の尊敬表現として不自然ではないですよね、状況的に。もうそろそろ寝なさいということですね。お互いにそう言い合っても変ではない。
 しかし、帰ってきた人に対して、「帰れ」とはどういうことでしょう。「なんだよ、もう家に帰ってきたのかよ。さっさと会社に(学校に)帰れや!」ってことでしょうか(笑)。
 メイドカフェ風に言いますと、「なんだよ、このキモヲタ!さっさとジュースでも飲んでおウチに帰ってゲームでもしてろや!」っていうことしょうか(冗談ですよ)。
 まあ、「おはよう」とか「こんにちは」とか「さようなら」とか「ただいま」とか「Hello」とか、とにかく挨拶語というのは、本来の意味を失った形式的なものになるんですけど、それでも今挙げたものたちなんか、語源に遡ればそれぞれ「なるほどね」と納得できます。しかし、「お帰りなさい」は納得できないぞ。どういうわけでしょう。
 似たような命令形の尊敬表現では、「いらっしゃいませ」というのがありますね。これも似たような矛盾をはらんでいるんですけど、でもちょっと違うような気もする。基本、店の前を通過する人たちに「いらっしゃい、いらっしゃい(お店に入れ)!」と言って呼びかけるわけじゃないですか。それで実際店に入ってきた時に「いらっしゃい(ませ)」と言う。家で客人を迎える時も、基本玄関先で「いらっしゃい(ませ)」と言うわけですよね。そうすると、「Come in!」的なニュアンスで、「さあさあ、どうぞ中までいらっしゃい」という意味で使っているともとれます。店でも入り口から店の奥へ誘う感じがあるとも言えますよね。
1123580060 それに比べると「おかえりなさい(ませ)」というのは、やっぱり異質です。たしかに玄関が開いた音を聞いて「おかえり!」と言う時もあります。それを「いらっしゃい」と同じように考えることも可能ですけれど、我々はもちろんそんな意識をもってこの言葉を使っているわけではありません。
 歴史的に見ますと、どうも江戸時代にはこの表現があったようです。明治の初期の小説にもけっこう多くサンプルを拾うことができそうです。古いものを読んでいると、時々「今、おかえり」みたいなのも見かけます。これは「今、帰ったんですね?」的なニュアンスで分かる気がします。また、「おかえりなさい」の「なさい」を「なされ」の音便ととらえるのではなく、「なさる」の連用形「なさり」の音便と考えて、「お帰りなさりましたね」的に考えると、なんとなく納得できます。
 しかし、「おかえりなさいませ」と「ませ」まで付きますと、これはもう命令としか考えられなくなります。あるいは「ませ」を已然形と考え、すなわち係り結びの係り部分の欠落と考える…こりゃあ、無理だな(笑)。
 あと、出かける人に対して「お早くお帰り(なさい)」みたいな挨拶というのも実在しますね。これは完全に命令表現です。そういう願望があるからで、実現してほしいことだからです。しかし、帰宅時の「おかえりなさいませ」はそういうことではない…。
 う〜ん、なんだか分からなくなってきたぞ。「おかえり」の意味の他の表現、古語や方言なんかを調べてみても面白いでしょうね。あるいはこういう不思議な命令表現がほかにもあるかもしれない。まあ、もちろんちゃんと調べて論文書いてる人もいるでしょうけど。
 英語ではどうなんでしょうね。「ただいま」は「Hi, I'm home [back].」らしいけど、本当にそういうふうに言うんでしょうか。で、それに対する「おかえり」は、辞書にはただ「Hello!」と書いてある。実際のところどうなのか、今日ALTに聞いてみます。
 というわけで、かなり気になり始めたので、私なりに研究し、いずれ「メイド喫茶における挨拶語に関する一考察」という論文を書きます(笑)。

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2008.05.12

『プロレス黄金期伝説の名勝負』 (別冊宝島スペシャル)

Typ6 っと、またプロレスネタだぞ。どうした自分。それも昭和プロレスへのノスタルジー的記事、多くないか?
 今日、昭和プロレス旗揚げ戦という興行が行われました。本当は行きたかったけれど、平日ではとても無理です。行った方の報告を見ますと、往年の名選手たちは、皆それなりに加齢な(!)動きを見せてくれたようですが、なにしろ客席の雰囲気が、あの昭和のプロレス会場そのままだったとか。温かい野次が飛び交う交響的空間。
 会場に行けなかった私は、そんな昭和プロレスを懐かしむため、この本をじっくり読んでみました。う〜、なんか懐かしいとともに、ほのかな哀しさが…。もののあはれかあ。
 昭和が終わって20年。いや、昭和の余韻が消えて10年。10年ひと昔とはよく言ったものです。昔語りを始めるようになった私も、そろそろ後期中齢者(?)になろうとしています。
 多くの語り手がそうであるように、私もまた、あの頃は良かったという時、あの頃の日本は良かったという感慨とともに、「あの頃の自分は良かった」という感懐をも、そこに含ませています。
 先日『プロレス「悪夢の10年」を問う』の記事に書きましたように、まず変ったのは社会であり、それにつれて「私たち」も変り、そして、それに迎合する形でプロレスという商品も変ってしまいました。
 「私たち」が社会やプロレスを変えてしまったのだという、そういう言い方もレトリックとしては可能でしょうが、やはりそれは事実ではないでしょう。私たちにそんな意思などなかった。あくまで、政治という「集団気分」を醸成するメディアに流されてしまったのです。
 私は何度も小泉劇場を評価する文章を書いてきました(検索すればたくさん出てきます)。その一方で、たとえば「談合」を肯定し、アメリカ的な(エセ)ガチンコ市場至上主義を否定するような文章もたくさん書きました。そこに矛盾を感じる方もいらっしゃるとは思いますけれど、あくまで、私は小泉さんを役者として高く評価しているのであって、彼の騙ったシナリオの内容を賛美するものではありません。
 談合や根回しのような、まさにプロレス的世界を否定し排除しようとし続けたこの10年で、日本はさらに疲弊してしまった。なんだか「遊び」がなくなって、そう、柔道着から「遊び」が消えて柔道がJUDOになってしまったように、私たちも、みんなただの人間として窮屈に自分のなわばりを守ろうとするようになってしまった。常に緊張して相手のスキを狙っているような、そんな貧しい動物のようになってしまった。
 プロレスの凋落と総合格闘技の興隆の裏には、たとえばヤクザさんのお仕事事情の変化もありますよね。いわゆる「興行」という、地方の伝統に根ざした旧来のお仕事がしにくくなったおかげで、彼ら(の一部)は違うスタイルのお仕事をするようになりました。
 昭和の時代に誰が、さいたまスーパーアリーナに数万人の人を集めて地下プロレスをやるようになるなんて想像したでしょう。プロレスや柔道やその他の格闘技の領域で、人を傷つけない、また他の領域を傷つけない「道」を極めていた人たちが、ほとんど素手で本気で殴り合って潰し合いをするなんて、誰が考えたでしょう。
 それは夢として、妄想として、物語としてはありました。しかし、それはある意味侵すべからざる領域、すなわち聖域であったはずです。歴史的にもそういう聖域を守ってきたはずのヤクザさん自らが、俗世間の悪神たちに魂を売って、今のような状況を生んでしまった。あの法外な放映料はなんですか。リングサイド席ウン十万円とかいうそれこそヤクザなチケットはなんですか。
 さて、こんなふうにグチをこぼしても、もう時間は戻ってはくれません。ただ、私に出来ることは、「あの頃は良かった」という気分を醸成すべく、自分を演出していくことだけです。おじさんとか年寄りとか言われても全然構いません。なぜなら、歴史は常にそうしたうねりを繰りかえしてきたからです。その時に必要なのはやはりノスタルジーなんです。
 現状に早く飽きてしまえ。そして、反省して昔に戻れ、社会よ、自分よ、プロレスよ(その他、音楽や秋葉原やプロ野球や…いくらでも出てきますね)。
 そういう意味で、この本のような昭和の余韻が復刻されて、コンビニに並べられているというのは、実に結構なことです。気分の醸成に、最先端の商売が協力してくれているわけですから。
 この本の元本は、1993年すなわち15年前に発行された別冊宝島179号『プロレス名勝負読本』です。大きな変革期を迎えようとしていた、だからこそ古いものと新しいものがぶつかり合ってエキサイティングであった、80年代、90年代初期のプロレス名勝負について、そうそうたる人々がそれぞれ濃く熱く語っています。ああ、ライターも昭和してるなあ。そこにはまだまだ物語が息づいています。
 特に私が面白く読んだのは、今や東大の大学院の先生でもある松原隆一郎さんの文章ですね。今でも彼の格闘技論はなかなか本質を突いていて勉強になるんですけど、この頃からやっぱり視点が鋭いですね。社会学的、コミュニケーション論的な視点というのは、どちらかというと私のセンスに近い気がします。彼はジャズのマニアとしても有名ですし、ジャズと格闘技を本質的に同じものだと考えているあたり、私と気が合いそうです。一度お話してみたいですね。盛り上がると思うんですけど…なんて、東大大学院の先生をつかまえて何を妄想してるんだ(笑)。いや、こういう夢、妄想こそが「遊び」であり、明日へのエネルギーになるんですよね。
 それにしても、全編を通して読んでみますとね、猪木という男と前田という男、この二人がいかに天才的なアホだったか、よく分かりますよ。彼らが時代を動かしてしまった。政治的な動きと格闘技界を結びつけてしまった。もちろんヤクザの世界も含めてね。う〜ん、功罪半ばでしょうか。一つの文化を殺してしまったとも言えるけれども、一方で格闘家の食いぶちを供給したとも言えるしなあ。難しいところです。
 ということで、今日もすっかり懐古的な一日でした。しかし、先ほども書いた通り、こうした負方向への気分こそが次の時代への動力になるんです。そう、ゴムを引っ張ってパチンコ玉を飛ばすように、まずは逆ベクトルに加担しなくちゃ。

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プロレス黄金期伝説の名勝負

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2008.05.11

ゆとりありすぎ!?

Sany0074 ←click!
 真は去年撮ったものです。今日ふと思い出したので紹介しておきます。
 山中湖から篭坂峠を越えて、御殿場方面に向かって国道138号線を下っていますと、カーブの正面にこのシュールな看板が目に飛び込んできます。けっこうよく使う道なんですけど、通るたびに笑ってしまうというか、戦慄するというか、なんというか…。
 いや、気づくまで、おそらく百回単位でそこを通過し、何気なくこの絵も見てたんですよね。でも、それほど深く考えなかったのか、特に変だとも思わなかったのです。それが、ある瞬間からもうツボにはまってしまい、とても無視できなくなってしまいました。
 だって、どう考えても「安全運転」じゃないっすよ!(笑)。まず第一、運転してるのはどう見ても子どもでしょう!これがもし成人だったら、それはそれでコワイっすよ。
 さらに運転手も同乗者も、窓から顔を出して、というより身を乗り出して、そしてこっちに向かって手を振ってます。非常に危険な運転ですよね。暴走族の箱乗りに近い状態です。
 さらによく観察しますと、この運転手、妙に顔がでかい。これは運転中に顔を出したというより、最初からこの状態で運転していたと考える方が自然です。とても窓から出し入れできる大きさではありませんから。
 そして、その運転手の顔の大きさと、同乗者の顔の大きさの比が不思議なことになっている。遠近法を無視したおそろしい構図です。同乗者は助手席に乗っているんでしょうか?それとも、後部座席に座っているんでしょうか。それを考えると、こちらは運転中、心のゆとりは失われ、全く楽しくないドライブになってしまいます(笑)。もしかして、これはホラーなのでは…。
 この二人、いちおうシートベルト様の物体を体にからめているようです。そんなところは妙に律義なんですけど、しかし、やはり非常に危険な状況には変わりありません。
 いったい、御殿場警察署はいかなる意図をもってたのような看板を設置したのでしょう。だいいち、背後の木が生い茂って、字が読めなくなっています。「心のゆとり○ 楽しいドライブ」の○の部分はいったいなんという文字が入るのでしょう。「で」が一般的な可能性でありますが、いや、このシュールさから言って、そんなに単純なはずはない。少年的に「さ」かもしれないし、やや断定的に「だ」かもしれない。いや、彼らのことです、暴走族的に「じゃ」かもしれない…((((;゜Д゜)))。
 とにかくこいつら「心のゆとり」ありすぎじゃありませんか?一般の運転手たちを戦慄させ、たしかに自身は「楽しいドライブ」を実現しているかもしれない。しかし、とても安全運転とは言えませんな。
 皆さんも一度生でご覧下さい。このあたりには他にもシュールな看板や標語が散在しております。そういう意味ではたしかに「楽しい」のかもしれません。
 ちなみに看板の足に刻まれている文字は「贈 泰平サービス」です。

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2008.05.10

純米吟醸生酒『丁子屋』(富士高砂酒造)

Imgcnv 今日は嵐の中、父方母方双方のお墓参り。毎日楽しく幸せな生活ができるのも、ご先祖様のおかげであります。
 いやはや、今日は本当にお墓参り日和でしたよ(笑)。静岡なのに寒い寒い。風も雨も激しく、さすがにこんな日にお墓参りする人はほかにいませんでした。ちなみに富士山の家の最高気温は5度台だったそうです。それに比べればまあさすが静岡、10度は超えてたんじゃないでしょうか。
 そんな過酷な環境の中、子ども連れのお墓参りしたからでしょうか、ご先祖様も哀れに思ったんでしょうかね、昼間っからいいものを食べさせていただきました。
 そう、ちょうどそっち方面に出かけたものですから、年に何回かは訪れるとろろ汁『丁子屋』に行ったんです。
 いやあ、さすが江戸時代のファーストフード。まず早いっす。少なくともモスよりは早いな。まあ、昼過ぎということで、あんまりお客さんがいなかったというのもありますが、ちょっとトイレに行ってくると言って消えた子どもたちが帰ってきた頃には、もう机の上はいっぱいになってました。
 給仕のおばさんが食べ方を説明してくれました。机の上にも食べ方の説明があります。

「麦めし、茶碗に半分盛ったならば、
 めしつぶ泳ぐよに、とろろかけ、
 お薬味上からふりかけて、
 ザァザァ音たて流しこみゃ、
 いいじゃん、いいじゃん、うまいじゃん」

 早い上においしくて体にいいんですから言うことないっすね。これこそ全国チェーンにしてもらいたい。いや、静岡ならではの山の幸、海の幸ばっかりだから、そりゃ無理か。
453 さて、ワタクシ、今日は昼間っからおいしいご先祖様からのプレゼントをいただいちゃいました。日本酒です。写真に写っている揚げとろと日本酒がよく合うんですよねえ。
 今日、頼ませていただいたのは、三種類ある冷酒のうち、真ん中の銘柄「丁子屋」です。この前、一番上の「丸子の宿」をいただいたので、今日は少し遠慮気味にこれにしました。
 いやあ、そしたらご先祖様のおかげでしょうかね、とってもとってもおいしかったんです。で、これはどこのなんというお酒かな、と思い観察してみますと、おお、富士高砂酒造のお酒ではないですか。
 富士高砂酒造さんは、富士宮市の浅間神社本店…じゃなくて本宮のすぐ隣にある酒蔵です。そこそこ近所ですので、けっこうよく呑むブランドなんですが、この純米吟醸生酒は初めてでしたね。
 「丁子屋」のラベルが貼ってありますけど、おそらく中身はここにある純米吟醸生酒でしょうね。
 日本酒の味もしっかりしますけれど、ものすごくまろやかでフルーティー。とろろ系の食べ物は比較的あっさりした味ですので、こうしたスッキリしたお酒は合いますね。気に入った!
6523 と言うわけで、とってもおいしくとろろ汁&麦飯、その他とろろ料理、そして私はお酒をいただきまして、ごちそうさまです。実は、みんな出かける前に早めのお昼ご飯を食べていまして、さすがにたくさん食べられないんじゃないかとか言ってたんですけど、みんな食べる食べる。ふだんは夕飯しか食べない私も、とろろなら昼間っからいくらでも食べられます。
 結果として、ネギ一つ残さず、キャベツの破片一つ残さずものすごくきれいに食べきりました。子どもなんて、禅僧風に最後はとろろのついたお茶碗にお茶を注いで、たくあんできれいに拭き取り、そしてゴクッと飲みきってました(笑)。いいことです。残さず有難くご先祖様からの贈り物をいただく。これこそ最高の供養でありましょう。

タウンページ「丁子屋」

富士高砂酒造

静岡県内の地酒蔵元の中から名蔵元と言われる6蔵元の日本酒をセット。しずおか「ふじのくに地酒のみくらべセット」

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2008.05.09

障子に桜咲く

Syouji 子というのはよく考えるとすごいモノですね。世界中探しても、なかなかこういうものはない。なにしろ紙ですからね。昔はもちろんガラス戸なんかありませんから、紙一枚で内と外を画していたわけです。
 通気性があり、また、外界の光をおよそ半分透過拡散し、案外断熱性も高く、湿度の調整までしてしまう。紙だから破損しやすいかと思うと、専用の障子紙はなかなかの強度を持っています。適度な弾力がその強さの秘訣ですね。
 あと、格子状の直線的デザインも和室には欠かせない要素の一つです。この写真は拾ってきたものですけど、円窓の曲線と障子の直線の対比が美しいですね。
 さて、今日は先週に続き実家に来ております。いよいよ実家もブロードバンドになるということで、無線LANやら何やらの設定をしに来ております。
 家族みんなついてきまして、オマケに黒猫のミーも来ました。彼女はまだ子猫なんですが、下半身不随なので、泊まりのお出かけとなると、どこにでも連れていかなければなりません。自力で排尿ができないので、置いてけないんですね。
0093 で、ミーがですねえ、なんだかいつのまにかケージから脱出しまして、実家の和室の障子をガリッとやってしまったんですよ。ガーン。
 そこで登場するのが「ザ・障子張り職人」ウチの親父です。この前、iBookをハサミでジョキジョキ切り刻んだ恐ろしい人です。しかし、あの大胆な行動とは対照的に、障子張りに関しては、非常に繊細な仕事ぶりでありました。
 だいたい、「障子張り用」と書かれた箱にいろいろとマニアックな道具が入っている時点ですごい。私なんか面倒だからアイロンで貼るタイプでてきとうにごまかしちゃうんですが、父はちゃんと昔ながらに障子貼り糊から作ります。なんだか見たこともない障子張り用の定規なんかもあるぞ。
 なのにカッターの刃が逆さにつけてあって、つまり上下前後が逆、すなわち持つ方から刃が出ていたりするのは、まあご愛嬌(笑)。さすがにちょっとボケて来ているのか、あるいは職人的にはそこはこだわらない部分なのか…。
0094 で、今回は被害が小さめでしたので、すでに数枚用意されている桜の花の形をした当て紙で補修いたしました。これもまたいかにも日本的な世界観ですね。張りたての完全なる障子世界も美しいものですが、こうして、完全の欠けてしまった、いわば不完全な世界を、一つ発想を変えて、一つ何かを加えることによって、違う完全世界を作ってしまうんですね。
 こうして桜が咲きますと、障子世界のみならず、部屋の風景や、こちらの気持ちまでも変ってしまうから不思議です。また、咲いた桜に、この日のミーや私たち家族の記憶が残るわけですよね。この桜の花を見るたびに、この日を思い出すことができるわけですから、これまたオツなものであります。
 最近ではこのように猫でも破れない障子紙が発売されていますけど、ある意味味わいがないとも言えますね。こうなると逆に猫ちゃんガンバレ!と言いたくなるかも。

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2008.05.08

○○始まったな…

Cut_nayami の微妙な萌えキャラは総務省のホームページから無断転用しております。総務省さん許してね。「え〜?勝手に使わないでよ」と困った顔をしている彼女、「電波りようこ」という名前だそうです。
 で、こういう意外なことが起きた時、ネット上ではいろんな人たちが「総務省始まったな」と言います。これは面白い表現ですね。一般には「総務省終わったな」の逆説的表現だととらえられますが、実は一概にそうとも言えない場合もあるんですね。つまり、本当に「始まった」という意味で使われることもあるというわけです。
 つまり、このイラストを見て、「おいおい、総務省とあろうものがこんな萌え系のキャラを使うなんて、ああ、もう総務省も終わりだ。日本も落ちたもんだな」と真剣に思った人が揶揄として「始まったな」と言う場合と、「うお〜!萌え〜。総務省さんもこんなことするんだ。りようこちゃんも萌えだけど、総務省も萌えだなあ。いやあ日本に生まれてよかった」(笑)という意味で「始まったな」と言う場合があるということですね。
 修辞法としての反語や逆説というのは、実はこのように解釈が難しいのです。日常の会話でも解釈に迷うことはよくありますし、古文を読んでいたりすると、そんなことばっかりです。これは一つの婉曲表現であり、朧化法であります。
 こんな例もあります。例の秋田県羽後町の「スティックポスター」に関して、こんなふうな表現がされています。発展的な用法です。
 「秋田で最も始まっている羽後町始まり過ぎ」
 これをどう解釈すべきか…なかなか難しい国語の問題ですね。中間テストに出そうかな(笑)。ある意味この文章だけでは答を出すのは困難です。いわゆる文脈が必要になります。また、表現者の立場や心情によって解釈が変わってくる場合があります。いろいろと考えてみてください。面白いですよ。
 ちなみに、今「北京オリンピック始まったな」と言った人に対して、「えっ?まだ始まってませんよ」なんて言うのは愚の骨頂です。KYです(笑)。
 ところで、今気がついたんですけど、こうした逆説的揶揄表現には一つのルールがありますね。すなわち、悪いイメージのものに対して良いイメージの言葉を使って表現することはありますが、その逆はないということです。つまり、「終わったな」という意味で「始まったな」とは言うけれども、「始まったな」という意味で「終わったな」とは言わないんですね。
 ちょっと卑近な例になりますが、美女や美男子に対して不細工とは言わないけれど、不細工に対しては美女とか美男子とか言いますよね(笑)。私なんかよくハンサムとかイケメンとか言われますよ…ハハハ。
  まあ、基本揶揄とか皮肉とか罵倒とか嘲笑なわけですから、当然のルールといえば当然のルールですな。難しいことじゃないか。
 そうそう、これは敬語の使用についても言える現象ですよ。敵や見下すべき存在に対して、「御前」とか「貴様」とか言うじゃないですか。「てめえ(手前)」とかもそうかな。「おまえ何様だ?」とかも。そして、結果として敬意の逓減と言われる現象につながっていきます。
 その逆ってありえませんよねえ。ま、謙遜という形で自分を卑下する場合はありますが。でも、とっても細い女の人が、メタボなおばさんを前にして「私最近太っちゃって…」とか言うと、反感買いまくりますけどね(すなわち、自分を卑下するのではなく、相手を卑下してしまう…笑)。言葉は難しいっすね。
 あっそうだ、感嘆詞的な用法としては、すばらしいものに対して、「チョーやべえ」とか「まじ死ぬ」とか「ありえねー」とか言いますね。そういうのは古文の時代からたくさんあります。
 というわけで、今回の「総務省始まったな」はどっちなんでしょうね。総務省さんとしては、始まらせたんでしょうか。ま、自ら終わらせる人もいないでしょうけど。ただ、KYな人が始まらせようとして終わらせてしまうことも往々にしてありますので。
 電波利用のページということで、アマチュア無線の方々が対象になるでしょうから、やっぱり狙ったんでしょうか。まずは総務省さんに聞いてみましょうか、始まらせようとしたのか。
 いや、ちょっと待てよ。電波利用子(りようこ)…う〜む、冷静に考えるとこのネーミング…やっぱり、「始まったな」(笑)。

総務省

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2008.05.07

『プロレス「悪夢の10年」を問う』 (別冊宝島)

世紀の「大沈没劇」を検証する
Seuyuy たプロレスネタですみません。でも、これは私にとって、自分の生き方そして社会の変化について考える、非常に重要なヒントを与えてくれるもの、いやほとんどテーマそのものなので、どうしても避けて通れないんです。
 やはり、プロレスは自分や社会を映す鏡なんですよね。ですから、プロレスの凋落激しかったこの10年というのは、まさに自分たちや社会が、そういうふうに変わった10年だったということなんです。
 世間ではいったい犯人は誰だ!?のような議論が盛んに行われました。そして、実際にいくつかの原因が取りざたされましたが、どうもすっきりしない。そう、最も激しく犯人扱いされたのは、ミスター高橋の暴露本でしょう。もちろん私もそれを読みましたが、それはまあ不文法を明文化しただけであって、何を今さらとは思いましたが、世の中を改革してしまうほどの力は感じませんでした。やっぱり原因はそれじゃあない。
 このムックも基本、一般論に対する懐疑的な立場をとっています。しかし、だからと言って何か一つの結論が提示されているわけでもない。冒頭に「変わったのはプロレスか、自分か、それとも−」とある通り、結局よく分からないまま終わっています。というか、ずいぶんと話がそれていって、あれ?この本って何の本だっけ?という感じ。そして、なぜかそのそれた部分の方が読み物としては面白かった。
 特に、昭和を彩った怪物記者、怪物編集者の皆さんのくだらない(失礼)ぶっちゃけ話と、彼らに対するある意味プロレス的なわざとらしさを伴った宝島側のツッコミには、大いに興奮させられました(笑)。
 あと、「大沈没劇」のおかげで味わえる哀愁という意味では、最後の阿修羅原のインタビューと劇画が秀逸でした。もうほとんど演歌の世界ですよ。そうそう、去年泣いたラッシャー木村の劇画と同じ「もののあはれ」だな。沈没の美…国際プロレスって本当にいいですねえ。カミさん曰く「人生の春夏秋冬…(涙)」。
 さて、いきなりですが、私はよく分かってるんですよ。なんでプロレスが凋落したか。変わったのは、プロレスであり、自分であり、社会なんです。そうですねえ、順番としては、まず社会が変わった。そして自分(私たち)、最後にプロレスなんじゃないでしょうか。
 2001年、ミスター高橋の暴露本が出版された年ですね、この年は小泉構造改革が始まった年でもあります。そして、どんどん世の中のいわゆる「ムダ」が排除されていきました。全てがリアルにオープンの方向を目指し、それこそがいいという神話が形成されていきました。ガチンコ社会こそが「機会の平等」を生むという幻想が生まれたんです。
 そこで消えたのが例えば談合です。私はこちらで書いた通り、談合こそプロレスであり、それが人間の本質と智恵であると考え、行きすぎた談合はですね、それはいかんとは思いますが、だからと言って、それを徹底的に排除して自分たち個人個人の欲望と無力さを露呈させるのには大反対なんです。
 でも、世の中はみんなそっちの方向に行ってしまった。リアルを求めてしまった。総合格闘技の人気が出たのも、そういう我々の意識が商売になるからでしょう。談合じゃなくて、ガチンコでオープンのオークションの方が正しいし、面白いと思ってしまった。
 レスラーたちも喰っていかねばなりませんから、市場がそちらに流れれば、自然とそういう方向に行きたくなります。特に体の小さな人たちはそうでした。体が小さいと、プロレス的にはルチャをやるしかないわけですから。
 そういう意味で、このムックで一番勉強になったのは元UWFインター山本喧一選手のインタビューでした。彼は本当にいいことを言っています。今、彼は格闘技の世界で頑張っているわけですけど、彼も体が小さかったので、いわゆるプロレスラーにはなれなかったクチです。自分でもそう言っています。彼は「プロレスは化け物の世界」と語っていますが、まさにそれですね。今のプロレス界には馬場や猪木やアンドレや鶴田のような化け物がいません。プチ化け物やシロウトがずいぶんと増えてしまいました。それも凋落の原因でしょうね。
 逆に言えば、それは「見世物文化」の衰退とも言えます。世の中のエセ福祉、エセ思いやり、エセ平等、エセ人権、エセヒューマニズムが、そういう「モノ」を幽閉しつつあります。教育現場でもモノノケはずいぶんと生きにくくなってますよ。まったくねえ。
 大相撲の凋落も、まったく同じ原因でしょうね。日本古来の素晴らしき神道的伝統である、談合的全体主義と見世物的福祉と物の怪への畏敬の念が消えてしまった。残ったのは、我々人間個人の不純なる「自己」と単純な勝ち負けの図式だけでした。そういう「コト」を包み込んでいた母性のようなモノはどこに行ってしまったのでしょうか。人間のデジタル化なんでしょうかね。アナログ的なあいまいさと、美しきムダやムラはもう評価されないんでしょうか。
 …と、話がふくらみすぎてしまいましたね。なんだか自分でも何を言っているのかわからなくなりました。とにかく、とんでもない怪物が現れて、総合でも完全王者になってくれるしかないですね。私たちの欠落感を埋める物語を紡ぐ、そういうある意味天皇みたいな、恒星みたいな、そういう存在が現れねば。朝青龍もジョシュ・バーネットもいいけど、やっぱり日本人のそういう怪物が現れてくれないかなあ…やっぱり三沢さん?

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2008.05.06

富士山麓の初夏を満喫(うぐいす&モリーユ)

080506 日はいい天気でしたね。雲一つない五月晴れ。ようやく富士北麓にも初夏の気配がやってきました。
 虫捕りをしたいという娘たちといっしょに近くの森を散歩。うぐいすが鳴いていたので、いつものレコーダー(iPod nano + LIC-IREC01)で生録をしてみました。
 マイクのアッテネータはLowポジション、すなわち高感度(ややこしいな)。このモードは会議なんかの記録用なんですが、かなり感度が高いですね。ウグイスの声が少し割れました。たしかにすぐに近くにいましたけどね。かなり遠くの犬の鳴き声もしっかり録れてます。下のファイルをクリックしてお聴きください(かなり音が大きいので注意)。
 うぐいすmp3
 なんだかちょっと字余りな感じのうぐいすですねえ。ホーホケキョケキョ。このレコーダー、ノイズも思ったより低く、ちょっとした生録にも使えますな。
Amigasatake 結局モンシロチョウを一匹捕獲しただけで、ウチに帰ってきたんですが、庭で遊んでいた娘たち、今度は高級食材を見つけました。そう、以前紹介したチブル星人ことモリーユですね。アミガサタケです。なかなか立派なものです。
 今年はどういうわけか春の山菜があんまり出ませんでした。いつもならちょっと困るくらい庭を占拠するフキノトウもいつもの2割くらい。フジザクラやソメイヨシノもいつ満開だったのか分からないうちに散ってしまうし、どういうわけなんでしょう。それほど異常気象という感じではないんですが。自然というのは微妙なものです。
 さて、このチブル星人、どういうふうに料理しようかな。

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2008.05.05

『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』 ビル・ロビンソン (エンターブレイン)

65hj 先から帰ってきて、録画してあったサラリーマンNEOを観ましたら、また「サラリーマン体操」にプロレスネタが…。ついに馬場と鶴田の登場です。どう考えてもこれは私の趣味を考慮して番組を作ってますな(笑)。「オーッ」までやってくれました。
 しかし、この前カール・ゴッチについての間違いを指摘させていただいたのと同様に、今回も一つ間違いを指摘いたします。
 写真をご覧になってわかりますかね。字幕には「眠気覚ましの三冠王者 J鶴田のジャンピング・ニーバット」とありますが、これは「バット」ではなくて「パット」ですよ。NHKさん、しっかりしましょう(笑)。
75772082 さて、カール・ゴッチは「神様」ですと指摘させてもらったのに関しまして、違った意味で再び反論しているのがこの本です。帯にはこうあります。
『カール・ゴッチは決して神様などではない!』
 そう、著者であるビル・ロビンソンさんは、実際に手を合わせた者として、ゴッチを神格化する日本のプロレス界(というかマスコミでしょうかね)に苦言を呈しています。たしかにゴッチは優れたシューターの一人ではあったが、彼以上のレスラーはいくらでもいると断言しています。
 この本では、ゴッチだけではなく、往年の名レスラー、テーズやガニア、猪木や馬場、そして鶴田などの評価がかなり詳細に書かれています。それらは非常に興味深い内容です。結論だけ言ってしまうと、彼が最も「強い」としているのはダントツでビリー・ジョイスです。私は彼について全く知識がありませんが、とんでもないテクニックを持ったシューターだったらしい。おそらく、今の総合格闘技の試合にビリー・ジョイスやビル・ロビンソンが出たら、余裕で勝つんでしょうね。
 日本人ではやはりダントツで猪木を高く評価しています。鶴田はいまいち。馬場はビジネスマン。あとは生徒扱い(笑)。
 それから興味深かったのは、桜庭和志を高く評価している点ですね。それと比較して田村や高田の欠点を指摘しています。なるほど、という部分です。
 そう、やっぱり桜庭なんかが、ちゃんと「プロレスラー」として、「プロレス」をやればいいんですよ。この本を読んで再びそのことを痛感しました。
 この本を読みまして、私のいろいろな疑問が氷解しましたね。なぜプロレスが凋落したか。なぜ総合格闘技に違和感をおぼえるか。真のプロレスラーとはどういう人たちなのか。
 つまり、ロビンソンが活躍していた時代のプロレスには、「ショー」も「ガチンコ」も全部含まれていたんですね。馬場もそういうこと言ってたじゃないですか。それが、どういうわけか、「ショー」と「ガチンコ」に分かれてしまった。それで、お互いがいがみあっている、というか全く相容れないものどうしになってしまっている。
 この本を読めば、そんな二分法がいかに幼稚でプロ意識の低いものか、よ〜く分かりますよ。象徴的なのは、ロビンソンが語気を荒げて(たぶんね)不快感を表明している『「シュート」と「ワーク」』の章です。ここで、彼は「シロウトが軽々しくシュートとかワークとか言うな」というようなことを述べています。その理由は大変に奥深く、だからこそ完全に言葉になっていないような気もしますが、その理由こそが、今のプロレス界、格闘技界が見失っているものだと思いました。
 去年買った国際プロレスのDVDの最後に、ビル・ロビンソンさんと宮戸優光さんによる、伝説の名勝負の一つ「ビル・ロビンソン対バーン・ガニア」の解説があったんですよ。それはそれはすごい内容でした。いかに彼らが高度な攻防を繰り広げていたか、それは単に自分が勝つための技術的な攻防だけではありません。相手を活かし、お客さんを盛り上げるための、非常に知的な攻防がそこにあるんです。
 ロビンソンさんは、彼の理想とする「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」すなわちランカシャー・スタイルのプロレスリングを「フィジカル・チェス」と表現しています。そこに全てが表現されていますね。
 今、ロビンソンさんは、高円寺に住み、スネークピットジャパンでコーチをしています。古き良き本当のプロレスを後世に伝えるべく、自ら手取り足取り指導をしてくれているそうです。心のプロレスラーとしては、ぜひとも一度行ってご指導いただきたい!
 近いうちに訪問したいと思います。

Amazon ビル・ロビンソン自伝

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2008.05.04

日本平動物園

080504 日より、ワタクシの実家のある静岡市に来ております。山梨はなんとなく寒くてストーブなんてたいたりしてたんですけど、こっちはもう完全に夏です。寝苦しいなんてもんじゃない。いやあ、隣の県なのにこうも違うか…。
 さて、今日は私の母と私のカミさんは東京へ行っております。シャンソン歌手のしますえよしおさんのコンサートに行ってるんです。きっと感動して帰ってくることでしょう。そして、カミさんによるものまねショーが絶対始まります(結果、やっぱり始まりました…笑)。
 で、残された私と娘たちと父は、4人で日本平動物園に行ってきました。私は、そうですねえ、まじで40年ぶりくらいに行くんじゃないでしょうか。日本平動物園と言えば直立レッサーパンダの風太ですね。そう、彼はここ日本平動物園で生まれたんですが、千葉の動物園に連れていかれて、そこで大人気になりました。日本平としては複雑な心境だったでしょうね。
 日本平動物園は、静岡市営の動物園として1969年に開園しました。全国で動物園ブームが起こっていた時期ですね。まさに私の幼少期のことです。それから、なんだかんだ言って、動物園というのは家族レジャーの定番施設として、脈々とその命をつないできました。最近は経営難のところが多いようですけど。
 よく言われるように、動物園というのは実に近代的、暴力的、植民地支配的な発想による歓楽施設なわけでして、それについてはある意味いろいろと問題もあるわけですね。動物愛護どころか動物虐待ではないかと。
 まあそんなふうにも言おうと思えば言えますが、まあ動物の気持ちなんて案外分からないものでして、彼らも、命の危険にさらされず、それこそ近代的な生活を満喫しているとも言えるわけですから、もしかすると幸せだ、ラッキーだったかも、と思ってるやもしれません。
 そして、これもまたよくある言い方ですが、オリの中から我々人間をウォッチングしているのかもしれませんね。オリの中にいるのは私たち人間たちなのかも…。まあ、なんとでも言えますな。
 さて、そんな動物園に久々に行ったわけですけど、なんだか、私は違った意味で衝撃(笑撃)を受けましたねえ。全く、ウチの娘たちと来たら、本当におかしい。本物の動物たちに、まあそれなりに感動はしてましたけれど、それ以上に、なんだか違うことで盛り上がってる。
 それはすなわち、ポケモンであります。えっ?動物園でポケモン?
 そうなんですよ〜。それぞれの動物を見るなり、ほとんど全てポケモン化するわけです。サルはヒコザルとか、カメはカメックスとか、キリンはキリンリキとか、ペンギンはポッチャマとか…よくわかりませんが、なんでも32体ゲットしたらしい。
 おいおい、どっちがオリジナルなのか分かってるのか!?リアルよりフィクション、ファンタジーの世界の方が大事なのか!?
 ま、考えようによっては、子どもというのはこのくらい妄想的な方がいいのかなあ。夢があるというか、物語的世界に生きるというのか。なんだか、いろいろ考えちゃいましたよ。
 だいたい、ポケモンだって、実に近代的な支配被支配関係に成り立つ物語ですよね。物の怪を飼いならし、そして闘犬、闘鶏的バトルをさせるわけですからね。いかんなあ。たしかに、ポケモンには人とポケモンとの信頼関係や、相互的な成長なんかも見られるわけで、まあリアルな動物園的世界よりは多少救いがあるのかもしれませんね。いや、そうでもないか…笑。
 今思い出してみれば、幼少のワタクシも、動物を見てはウルトラマンの怪獣の名を叫んでいたような気もします。ああ、こうしてヲタの遺伝子は継承されていくのでしょうか(笑)。
0805042 あと、面白かったのは併設されている遊園地(?)でしょうか。それこそ昭和を感じさせる遊具がたくさん。一番笑ったのはメリーゴーランドです。遊具自体の渋さは言うまでもありませんが、なぜか回転中ずっと「山口さんちのツトムくん」がかかってました(笑)。
 ところで、よく見るとメリーゴーランドの馬って、テオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」風のデザイン、すなわちあり得ない走り方してるんですね…なんて、そんなとこにツッコミを入れるなんて、私も野暮な大人になったものですね。

日本平動物園公式

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2008.05.03

角石(かどいし) 『若き百姓よ/休耕田に佇つ百姓』

Kadoishi1 日の中世ヨーロッパ音楽とは全く違う…かと思いきや、案外似たものを感じたのであります。なんというかなあ、土着の音楽というか、風土が生む歌というか、言葉が先というか…。とにかく非近代西洋音楽であります。
 今日中古レコード屋さんから届いたこのEP盤、知る人ぞ知る「百姓フォーク」伝説のグループ「角石(かどいし)」のシングルであります。今でも日本の音楽史の中の珍盤として、たとえばこちら「」にも収録されていたりします。
 で、実はこのグループのリーダーで、この濃〜い曲の作曲も手がけ、そして味わい深いボーカルを担当している阿部養助さんがですねえ、ウチのカミさんの実家の3軒隣のご主人なんですよ。全くビックリです。
 いやあ、最近、ウチのカミさんの生まれ育った秋田県の羽後町が、本当にワタクシ的にブームになっちゃってて、ホント驚きなんですね。ちょっとまとめてみますとですね、次のようになります。

 1 土方巽
 2 かがり美少女イラストコンテスト
 3 古典的メイドカフェ
 4 角石 関係記事…この記事
 5 佐藤信淵 関係記事…いずれ書きます

 私のセンサーに引っかかりまくり。いくらなんでも、これは偶然ではないでしょう。あまりにピンポイント過ぎます。日本にはたくさんの「田舎」があるでしょうが、ここまで私の心をひきつける所はないですよ。自然も豊かで素晴らしい上に、独自の文化があまりに私好みです。
 それにカミさんとは結婚してちょうど10年になりますけど、今年になってからなんですね、いろいろと分かり始めたのは。てか、カミさんはほとんど知らなくてですね、私が「○○って知ってる?」と聞くと、「ああ、それは…」という展開が多い。お互いにとって驚くことばかりです。結婚10年目にして、ようやくこの人と結婚した意義が解った…なんちゃってね。
 話を「角石」に戻しましょう。とにかくこの伝説のグループ&楽曲、聴いていただきたいですねえ。すごすぎますよ。著作権の問題もありますが、ここは思いきって音を載せます。あえて音を劣化させるために(?)、こちらのレコーダーで生録したものです。あくまで、部屋の音を生録したということで。たまたま、かかってた曲がこの曲だったと(ありえね〜!ww)。

若き百姓よ
休耕田に佇つ百姓

Kadoishi2
 どうですか!?もう解説は不要ですよね。すごすぎます。ソウルフル過ぎます。かっこよすぎます。このメッセージ性、今のJ-POPなんていうチャラチャラしたものとは比較するのもおこがましい。
 歌詞は右を画像をクリックしてご確認ください。作詞はこれも伝説の農民彫刻家である皆川嘉左衛門さんです。ジャケットの農民像(彫刻ですよ、これ)も彼の作品らしい。
 1979年と言えば、私は一生懸命洋楽を聴いていた時期です。高校に入学した年でしょうか。ヴァイオリンを弾き始めた頃でもありますね。そんなチャラチャラしたことをやっていた少年がいた一方で、当時5歳かそこらだったカミさんの棲む集落では、こんなに熱い音楽をやっている青年がいたわけです。なんということでしょう。
 今度、近いうちに羽後町でウチの歌謡曲バンドのライヴをやろうと考えているんですが、これはもう当然この曲をやらないわけにはいかないでしょう。やりたいっす。ストリングスも重厚に入ってますし、いいんでねえが。こうなったら、養助さんにぜひヴォーカルを!頼んでみようかな。
 ちなみに阿部養助さん、今年町議会議員に当選されたそうでして、また、今でも音楽活動をされているとのことで、町おこしのために一つ音楽の力を利用していただきたく思います。今度、秋田に行った際には、ぜひお会いしたいものです。
 いやあ、不思議な縁が続きますなあ。人生は面白いっす。アンテナを張り巡らせていると、まあとんでもないメッセージがつかまるものですよ。心を開いて待っているという姿勢って大切ですね。
 しっかし、すごい!角石!ぜひカバーさせていただきたい!

Amazon 幻の名盤解放歌集 ワーナー ミュージック 春の紅白歌合戦 白組編

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2008.05.02

アンサンブル・ラルバ 『ソプラノとリュートで紡ぐ 中世の愛の歌』

542ga 士吉田パプテスト教会で行われたヨーロッパ中世音楽のコンサートに行ってまいりました。
 歌とサンフォニーは夏山美加恵さん、リュートはルネ・ジェニス=フォルジャさん。
 セフェルディックやトルバドゥールの歌といった、11世紀から13世紀にかけてのイベリア半島の音楽を中心とする大変渋いプログラムでしたが、会場は満員大盛況。私のような古楽人でもなかなか生で聴く機会のないジャンルでしたから、一般の方はどのような印象を持たれたのでしょうね。きっと不思議な感じがしたのではないでしょうか。いわゆるヨーロッパのクラシック音楽のイメージを抱いて会場にいらした方々は、あの非和声的、旋法的、即興的、詩的な世界は、全くの新しい体験だったのでは。
 当時のイベリア半島には、イスラムやユダヤの文化が多く流入し、中世キリスト教音楽