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2008.05.31

フジファブリック 『TEENAGER FANCLUB TOUR』追加公演 at 富士五湖文化センター

終演後のメンバーと。お疲れさま!そして、ありがとう!
Ff080531_2 当に素晴らしいライヴでした。心が震え、心が笑い、心が泣き、心が踊り…これほどに自分の中の奥の方から大きな「何か」が湧き上がった経験、もしかすると初めてだったかもしれません。これほど歌い手の心がわかるコンサートというのも初めてだったかも。
 いやあ、大げさでなく、今まで44年間生きてきて、自分なりにいろいろなものを感じ取ってきて、本当に良かったと思いました。それほどに、今日のフジファブリックは、特に志村正彦くんは素晴らしかった。この歳になって、若者からこんなに力をいただけるなんて…本当に私は幸せ者です。
 昨日今日と私の職場では宿泊学習会が行われていました。前にも書きましたように、ウチの学校は志村くんの生まれ育った地域にあります。今日休み時間に少し外に出てみますと、その古びた街、いつものあの街が、異様な雰囲気になっていました。全国から集まったファンの人たちが、小さな月江寺駅周辺にたくさんいるんです。冷たい雨の中、熱いエネルギーが次第に集結していくその感じが、日常のそこを知っている私たちにとっては、本当に異常にさえ感じられました。
 駅にはお手製の横断幕が。「夢よ叶え!聴かせておくれよフジファブリック!」「富士山から世界へ響け!フジファブリック!」もうそれを見ただけで、私の目には涙が…。ああ、本当に彼らが来るんだ。この月江寺駅の改札を全国のファンが通るんだ。まさに夢よ叶え!です。志村くんにとっては12年越しの夢の実現。私にとっても、そう、前に『蒼い鳥』の記事のコメント欄で教え子と、そしてZeppライヴの記事で友人たちと妄想していた富士五湖文化センターでの凱旋ライヴが実現するんですから!
 実は昨日、学習会の中で三者懇談をしまして、ウチのクラスのある生徒の親と志村くんの話をしたんです。お母さんは志村くんの保育園時代の先生でして、3歳の頃の「まーくん」をよ〜く覚えていたんですよ。その話がまた、本当にいい話でしてね。ああ、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、その頃の彼にすでに今の彼の片鱗がうかがえたんです。表現は下手だったけど、ものすごく繊細で…。いろいろと胸に迫るお話をいただきまして、生徒そっちのけでお母さんと盛り上がる盛り上がる(笑)。
 さて、そんなことも重なりまして、今日の朝から私の心はフジファブリック一色(かなりサイケな一色ですけど…)だったわけですが、少し早く学習会を上がらせてもらい、東京方面から駆けつけた数人の友人と落ち合って、いざ富士五湖文化センターへ!
Culturec_2 現場はそれこそ非日常的な状況です。いつもの見慣れた、今にも壊れそうなあのコンクリートの塊(!)の前に若い女性を中心とした時ならぬ長蛇の列が…。いやがおうにも興奮は高まります。そして、その時奇跡が…。
 連れの一人が志村くんのお父様を見つけたものですから、さあここからはいつもの突撃力の発揮です。私も志村くんの詞(詩)を教材として使わせてもらっていたりしますから、これはしっかり挨拶せねばということですね。実は私ご家族とは全く面識がありませんでした。しかし、こちらから「○○高校の○○と申します、本日はまことにおめでとうございます…」と言いかけたところで、お父様、「ああ、ああ、どうもいつもブログ読ませていただいてます…」と…な、な、なに〜〜!!??ぐわぁ〜!あ、ありえない…えっ?ど、どうして私のこのブログを知ってるの?
 その後、お父様がお母様に私を紹介してくれまして、ご挨拶をしましたら、ななななんと、お母様、私の名前まで知ってらっしゃるではないですか!「いやあ、本当によくわかっていらっしゃて、詳しく分析してくださって、授業で使っていただいたりして…これからも応援してください…」いやいや、恐縮するのはこちらですよ…。もちろん応援し続けます!!
 開演寸前にこの驚きはないでしょう!本当に不思議なものです。いやはや、ブログやってて良かった。毎日ヒーヒー言いながら書き続けて良かった。なんというご褒美でしょう。感謝感謝です。
 さて、興奮冷めやらぬ状態で着席した(前から10列目の真ん中という好位置!)我々を待っていたのは、見慣れたあの富士山と忠霊塔の五重の塔の縫い込まれた緞帳と、なんと下吉田中学校の生徒たちの歌声による(志村くんの声も成分として含まれている)「大地讃頌」(のCD)!それもフルコーラス!これには笑わせていただきました。ハハハ、志村くんらしい演出ですな。
 さあ、ついに緞帳が上がりました。ここからはもう何をか言わんや…昨年、Zepp Tokyo両国国技館のライヴに参戦し、存分に彼らの世界を堪能したつもりだったんですが、いやあ、全く違った印象も持ったのは、これはやはり地元凱旋ということなんでしょうか。そう、たしかにそれもあったと思います。なにしろ、志村くんのTEENAGERの頃の夢が今ここで実現しているんですから。あの忠霊塔で見た「市民会館で日本中からファンを集めてコンサートをやる」という夢が、今まさにこうして現実のものになっていく…。
 そして、それを温かく迎える私たち地元民の気持ちと、その現場に居合わせメンバーのみんなと一緒に一つの物語を紡ごうとする全国のファンが終結して、この奇跡が生まれたんでしょうね。演奏からMCまで、まさに神がかっていました。楽しく、切なく、熱く、懐かしく、いとおしく、色っぽく、彼らの音楽が富士五湖文化センターに響き渡りました。何か、40年近い歴史を刻み、そしてそろそろその命を終えようとしているあの建物も、ともにライヴを楽しんでいるかのように感じられました。
5379h_2 中盤、「線香花火」から「浮雲」へと流れていったあたり、本当に切なかった。涙が止まらなくなってしまった。隣でカミさんも号泣。今までも何度も書いてきましたが(右の人気検索ワードをクリックして読んでみてください)、志村くんの抱える、いや我々男が抱える、いや全ての人が抱える、それこそ10代の、鬱屈した、どうにも扱いづらい、壊れそうなくせにしかし妙にしぶとい、「センチメンタリズム」や「ナルシシズム」や「妄想」や「エロティシズム」や、そして「恋」でしょうか、そういう自分たちの中のドロドロした、しかし純粋な「もの」を、彼は見事に音楽に昇華して聴かせてくれました。
 そう、私たち凡人は、そのやり場のない「もの」をですね、やり場がないからこそ、いいかげんに隠蔽して大人になってしまうんです。そして、時々思い出して、ノスタルジーの対象にするのが関の山です。それがフツーな大人になる唯一の方法ですから。
 今日、アンコール前のMCで志村くんは、こんなようなことを言いました。「9年前、普通の大人になりたくないと思って上京した。でも、普通の大人になっていく人たちを見て、幸せそうだなと感じたりすることもあった。楽しいことだけでなく、辛いこともいっぱいあった…」そう、彼はいわゆる普通の大人の幸せを放棄して、自ら茨の道を歩んで、苦しんで、そうして我々普通の大人に普通でない幸せを分けてくれているんです。それはものすごく崇高なことですし、美しいことだと心から感じました。素晴らしい「仕事」をしているな…本心からそう思いました。
 「いろいろなコトやモノがあって…この曲を歌うためにやってきた…」そう言って彼が歌い始めたのは、先日私が「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」として生徒たちと一緒に読み、聴いた「茜色の夕日」でした。私も涙で前が見えなくなるほど泣きましたが、志村くんも途中涙で歌えなくなってしまいました。本当にいろいろな思いが彼の脳裏をよぎったのでしょう。まさに彼は「思い出すモノ」を一つ一つ言葉にして、「コト」にしていったのでしょう。故郷を思って18の時に東京で歌ったこの歌を、今こうして故郷で歌っている…その歌が生まれた東京を始発駅とすれば、ここ富士吉田はたった一つの終着駅なのです。その道のり、その時々の風景、それぞれの駅で乗り込んできた人たち、降りていった人たち…彼はその一つ一つをかみしめながらこの歌を心の底から歌ったのでしょう。もうここまで来ますと、私のような者がとやかく言うべきものではありません…。
 ただ、私はこの曲を聴いている間中、自分の中の「母性」のようなもの(初めての経験だったので、なんとも説明のしようがないのですが)が、よどみなく湧いてくるのを感じました。不思議な体験でした。頑張っている彼を本気で抱きしめたくなってしまいました。ありがとう…って(気持ち悪いなんて言わないでくださいね)。カミさんも全く同じことを感じたと、あとで申しておりました。私たちでさえこんな感じですから、お父様やお母様、あるいはおばあちゃまの感慨と言ったら、これはもうどんなものなのでしょう。
 いやあ、本当に素晴らしい時間と空間を体験させていただきました。心からありがとう。終演後、全く予期せぬことになり、幸運にも直接メンバーにご挨拶することができました。彼らの優しい笑顔、そして澄んだ瞳(4人とも本当にきれいな目をしていた!)は美しかった。疲れていたでしょうに、本当に本当にありがとうございました。
 私も彼らのように、少しでも生徒たちに「何か」を伝えられるような先生(大人)になろうと、今さらながら思いましたね。毎日 TEENAGER を相手にしている者として、いろいろと反省もしてしまいましたよ。
 ああ、他のメンバーのことについてもいろいろと書きたいところなんですが、今日は志村くんにとっての特別な日ということで、お許しくださいね。いや、ホントにいいバンドですよ。志村くんもあの仲間たちだから、という部分もありますね。これから、フジファブリックは終着駅から折り返します。きっと新たな世界を私たちに聴かせてくれることでしょう。期待しましょう。
 初参戦のカミさんもすっかりはまってしまったようです。これからも地元富士吉田の雄として、いやそれだけでなく、純粋に表現者としての彼らを、家族や生徒と一緒に応援していこうと思います。今日は本当にありがとう!生きてて良かったよ〜!そして、音楽が生む全ての縁に感謝!

 本日の演奏曲目(セットリストという言い方は間違いでしょう)
1.ペダル
2.記念写真
3.B.O.I.P.
4.Sunny Morning
5.chocolate panic
6.桜の季節
7.唇のソレ
8.ロマネ
9.線香花火
10.浮雲
11.まばたき
12.若者のすべて
13.星降る夜になったら
14.銀河
15.TAIFU
16.Surfer King
17.TEENAGER
En1.茜色の夕日
En2.陽炎

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2008.05.30

『日本語はどこから生まれたか』 工藤進 (ベスト新書)

「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説
Kd08 日、秋田弁はフランス語に似ているなどと半分冗談で書きましたが、この本の著者である工藤さんは、秋田県の出身、そしてフランス語・フランス文学の専門家でいらっしゃいます。そして、東京弁が外国語に感じられるとどこかでおっしゃっておりました。
 そう言えば、秋田人(いやむしろロシア人か?)であるウチのカミさんも、標準語でしゃべっていると疲れる、あるいは本当に疲れ切ると標準語が話せなくなると言っています。私なんか見事に方言(母語)を持っていない超標準日本語話者なので、その感じがどうしてもわかりません。
 さてさて、そんな日本在住秋田人(?)である工藤先生の本、日本語と印欧語の起源を同一とするなどと言いますと、どうしてもその筋の(名前とnameみたいな)トンデモ系を想起してしまいますが、それこそトンデモありません、ほとんど学術論文と言って良い内容の本でした。そして、なかなか刺激的、案外難解、また言語の本質を鋭く突いた記述も多く、楽しく読ませていただきました。
 帯にはポスト「タミル語起源説」とあります。これはある意味正しい。○○語起源というものは提示されていませんから、なんだ看板に偽り有りじゃないか、ということにもなりそうですが、あくまで工藤先生が言いたいのは、日本語と印欧語に共通の祖語があるということなんだと思います。ですから、一つの言語に日本語のルーツを求めようとするタミル語起源説とは、その基本的な姿勢というか考え方が違うわけです。
 つまり、誰かさん(大野晋さん)の「日本語はどこから来たか」という発想ではなく、また安易に「どこで生まれたか」でもなく、「どこから生まれたか」であるわけでして、そのスタンス自体が売りなのです。
 いや、私もですねえ、誰かさんから直接お話をうかがう機会もありましてね、なるほどよく出来た学説だと感心した記憶もあるんですが、どうも基本的(おそらく生理的)なところで拒否反応が出るんですよ。単純にですね、タミル語と日本語は似ている、それは日本語がタミル語起源だからだ、ではなくて、タミル語と日本語が同源なんではないか、と思っちゃうんですよね。
 Aさんと私が似ているからといって、Aさんを私の生き別れたお母さんだと決める必要はありませんよね。もしかすると兄弟かもしれない。そういうシンプルな可能性というものを捨ててしまっていいのか…と。
 というわけで(?)、工藤先生は日本語と印欧語が似ている点を列挙していきます。それはもちろんナメーとナーメのような次元、あるいは誰かさんの(語呂合わせやこじつけにも見えないとも言えない)語彙や文法、文化面での類似の列挙とは違いますよ。数(数え方)や人称、あるいは否定の概念的な部分での類似を説明してくれているんです。これは非常に興味深くエキサイティングな内容です。まさに日本語と印欧語と、そして秋田語(!)に精通した方ならではの知見です。そう、時々秋田弁も登場しますよ。
 さて、こんな興味深い内容の中で、特にワタクシ的にムムムッと反応したのは、双(総)数「モロ」とその対義語「カタ」についての記述の部分です。そう、ワタクシの「モノ・コト論」と大きく共鳴するものがあるんですよね。「モロ」と「モノ」対「カタ」と「コト」という構図です。ここではまだ詳しく書けませんが、私は大きなヒントを得ましたよ。
 (たとえば、貨幣と文字といった)「コト」を拒否し続けた、「モノ」の国みちのくが生んだ学者さんが見た言語宇宙には、妙な思い込みや、あるいは変に常識的な「枠」や「境界線」などがなかったようです。それだけでも素晴らしい。ま、この本自体、なんだかうまくまとまっていないカオスの香りがプンプンしてますけど(笑)。
 最終的には、工藤さんってやっぱり縄文人だなっていう感じがしましたね。では、誰かさんは弥生人なのか!?そして私は…。

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2008.05.29

伊藤秀志 『御訛り』

411checbbvl_sl500_aa240_ れはネタを完全に超えています。正直美しい。カミさんは大笑いしてましたが、私は「まんずさっぱりわがらね」から、この「外国語」の美しさと伊藤さんの温かい歌声に感激してしまいました。
 まずは有名な「大きな古時計」のサンプルをこちらで聴いてみてください。
 東北弁(特に秋田弁)を日常使っている方には、最初からこれが日本語であるとわかるかもしれませんが、他の90%の日本人には、これはフランス語に聞こえるかもしれません。伊藤さん本人も多少はそのあたりを意識しているかもしれません。彼の声質がそれに似合っていますし、まあもともと秋田弁の音韻はフランス語のそれに似ている…ウチのカミさんなんか秋田弁で近所のフランス人シェフと会話してますからね(笑)。
 今では中部地方を代表するシンガー、そして人気ラジオ・パーソナリティーとなっている伊藤さん、ウチのカミさんの故郷の隣の隣の町の生まれの方です(「の」がたくさんあるな)。ですから、カミさんはほとんど全て理解できる…かと思うと案外そうでもなく、歌詞カードを見て初めて大笑いというケースも多々あるようです。ま、英語のネイティヴでも英語曲の歌詞はもちろん全部聴きとれない…とマーティ・フリードマンも申しておりましたっけ。
 このアルバムに収められている曲目は次の通りです。

1. 夢の中へ(ZuZuバージョン)
2. 東京(ZuZuバージョン)
3. 赤ちょうちん(ZuZuバージョン)
4. 案山子(ZuZuバージョン)
5. BROKEN-HEART
6. SA・SYELE-TA
7. 亜麻色の髪の乙女(ZuZuバージョン)
8. サボテンの花(ZuZuバージョン)
9. SYMPHONY
10. 大きな古時計(ZuZuバージョン)
11. クラリネットをこわしちゃった(ZuZuバージョン)
12. UNDABA-SYEBANA

 どれも素晴らしい出来なんですが、伊藤さんのうまさが光るのは「夢の中さ」でしょうかね。本当にネタとかそういうのを超えて歌がうまいっす。ちなみにこの演奏には三味線が入ってますが、それがまた妙にオシャレに聞こえますよ。
 これら秋田弁ヴァージョンの独特の質感は、伊藤さんの訳詞の妙による部分も大きいと思います。彼は秋田弁にない言葉はそのまま使わず、しっかり秋田の人にもわかるように言い換えをしています。そのために単語の数が原詞の1.5倍近くになっています。それを同じメロディー、すなわち時間の中に入れるわけですから、どうしてもフレーズ内のシラブル数が増えます。それが独特のリズム感を出しているんですね。フランス語風に聞こえる理由の一つはそこにあると思います。
 ネイティヴであるカミさんに、そのへんを解説してもらいましょう。
 きどった表現は秋田弁にはない。それを全部日常語に訳し直しているところがすごい。たとえば、次のような部分。
 
「胸」→「乳」
「田園」→「田んぼ」
「走馬燈のように」→「盆につける灯籠みでに」
「やさしく微笑む」→「良ぇ風に笑った様に見しぇる」
「城跡」→「殿様の家の跡」
「キャベツばかりをかじってた」→「キャベツ何も付けねでかじってあんだ」
「おでん」→「醤油で煮だコンニャク・はんぺん・デゴン・玉子」
「消える」→「ねぐなる」
「造り酒屋」→「酒こしぇる家」
「レンガ」→「焼き土」

 つまり秋田では「おでん」という概念がないのである。いわんや「走馬燈」などという言葉はない!
「キャベツばかりをかじってた」が「キャベツ何も付けねでかじってあんだ」になるのは、説明するのは難しいが、ネイティヴにはそうとしか言えない「何か」がわかるんだよなあ。
 …ということらしいです、ハイ。私も秋田へのホームステイ(?)を重ね、最初0.3%だった理解率も30%にまで上昇しておりますが、まだまだですなあ。いやあ、日本語が単一言語だなんて誰が言ったんだろう。日本人が単一民族だなんて、とても言えませんね。
 ちなみに秋田弁は共通語からの距離の遠さは、ある研究によると琉球語に次ぐ2位の座を薩摩弁とともに争っているとか。たしかに津軽弁(青森弁)の方が私にはわかりやすかった。
 来月にはその外国をまた訪問する予定です。いろんな意味で楽しみですなあ。
 あっそうそう、収録されている伊藤さんのオリジナル曲「SYMPHONY」では、奥さんの言葉は標準語(共通語)、御自身の言葉は秋田弁と使い分けられています。私は曲を聴いても、あるいは歌詞カードを読んでもさっぱり意味がわからなかったのですが、カミさんにトランスレートしてもらったら、ようやく笑えました(笑)。
 
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2008.05.28

人工光合成〜光合成人間

Ecorepo_11_03 うすぐ洞爺湖サミットが始まりますね。その中心課題は当然(?)地球温暖化問題です。しかし、その実体は当然政治経済問題です。いつも書いている通りです。
 「クールアース推進」とか、数十年前では考えられないスローガンですよね。実に面白い。
 で、いつものように二酸化炭素がずいぶんと悪者にされているわけですけど、二酸化炭素が増え、気温が上がると喜ぶ生き物もけっこういるんですよね。植物なんかその最たるものです。なぜなら、彼らの生きるための仕事「光合成」が盛んになり、彼は炭水化物という最もほしいものをたくさん手に入れることができるからです。
 もちろん、これは単純化したお話ですけど、こういう発想って案外出てこないもんなんですよね。生徒たちも、こういう話をすると、「あっそうか」っていう顔をする。みんな自分中心の考え方しかしないからです(もちろん、人間以外の生き物も全てそうでしょうが)。
 光合成している植物たちだって、別に我々人間のために二酸化炭素を固定しているわけではありません。彼らは自らが生きるためだけに、二酸化炭素と水と光をなんとかたくさん仕入れて、そして働いて炭水化物という食べ物を得ようとしているだけです。酸素という副産物はポイポイ捨てちゃいます。そんなにたくさんいらないからでしょう。
 我々くらいですよ、いちおう他の生物のことまで考えて、洞爺湖に集まったりするのは。人間ってエライですよ。なんて、もうお分かりと思いますが、「他の生物」がすなわち自分たちの「食料」、つまり生きる糧だから、というのが真実なんですけどね。
 さて、最近私が、そういう自己中心的な発想から注目しているのは、「人工光合成」です。これが開発されれば、我々はバンバン燃料を燃やして二酸化炭素を排出できる。そうすると機械か何かが、その二酸化炭素を喜んで吸収してくれまして、そして、酸素やらジャガイモ(?)やらをどんどん産出してくれる。実に結構な話です。
 実際そういう研究や、もっとシンプルに「水の光分解」…水を酸素と水素に分解する…研究が、ある程度進んでいるようです。ただ、昨日の話じゃありませんが、あまりに複雑に進化したのか、あるいは神様がドンとお創りになったのか、我々生物は動物も植物もとにかく複雑な工業製品でして、どういう仕組みでエネルギーを変換したり備蓄したりしているか、よく分からないんですね。ですから、私の夢の実現はそうとう後の話になりそうです。
 今でも人工光合成が実現したという話はよく聞きます。しかし、どれもエネルギー変換効率が0.1%以下だったりして、今のところ実用化にはほど遠いようです。つまり、実際に木を植える方が楽だし効果もあるみたい。あるいはソーラーパネルを作った方がまだましなようです。
 いや、小学生の時からよく妄想してたんですけどね、人間も光合成できればなって。腹が減ったら外に出て陽の光の下でお昼寝すればいい。なんとも幸せな生活じゃないですか。そうそう、触媒とか開発して人工光合成するよりも、クロロフィルを人間に埋め込む技術の開発の方が手っ取り早くないかな。呼吸で排出される二酸化炭素を全て回収して、あとは適当に水飲みながら日なたでお昼寝。いやあ、理想的じゃないですか。ついでに炭水化物からお酒も合成したりしてね(笑)。
 なんて、冗談ぽく言っていますが、実はけっこう真剣なんですよ。誰か私と組んでこの壮大かつ実効的なプロジェクトを立ち上げませんか?連絡お待ちしてます。

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2008.05.27

「自然淘汰」は自然淘汰された(!?)

Shinka 〜!?まじで〜!?ということが起きました。いや、起きていました。いろんな意味でショックだなあ。人間は進化してるのか?それとも退化してるのか?
 というのは、中間テストである大学の過去問を出したんですね。そこに語句の問題があった。読みと意味を答えなさいという問題。その中にこういう言葉があったんです。

 「自然淘汰」

 そしたらですねえ、なんと一人も正解がいなかったんですよ!読みと意味両方できたヤツは一人もいない。というか、意味を知っていたヤツが一人もいなかった。まあ、それを選択受験した生徒はたったの5人だったわけですが、いちおう国立大学受験を目指す連中ですよ〜。信じられん。
 なんで知らねえんだよ〜!?と半ば罵倒すると、なんと逆ギレするじゃないですか。そんな言葉今まで聞いたこともない。見たこともない。習ったこともない。そんなのわかるわけないだろ!と。
 さすがにそんなことないだろうと、一つ下の学年の教室で聞いたら、なんとそこでも全員知らないとのたまわるではないですか!ま、まさか、「自然淘汰」という言葉は絶滅した…?
 さっそく、理科の先生に愚痴を申しましたところ、その理科の先生も落胆した表情で、「そうなんですよ。今や学校の理科では、進化は習わないので…中学では進化どころかイオンすら習わない…」とつぶやかれました。
 う〜む、ウワサには聞いていたが、本当にそうなのか…。詳しく説明してもらったところ、現在中学の理科では進化は扱わない、高校の生物Iでも扱わない、選択の生物IIには進化の項はあるが、必修ではないので(入試にはほとんど出ないので)やらない生徒もいると。進化を習わず大学で生物を専攻するということもありうるわけですね。
 まあ、たしかにそういう話は聞いてましたけど、ホントにそうなんだ、と実感してしまいました。それにしても、つまり学校で進化は習わずとも、「自然淘汰」という言葉は知っているだろう…と思いきや、このような結果であったわけで、これはまた違った理由で憂慮すべき事態ですよね。
 進化論が学校で扱われなくなった理由はまあいろいろありますね。進化論自体が学問的に絶対ではないというのはよくわかります。ま、アメリカやその他のキリスト教国のように過激ではないにしても、やはりダーウィンの学説を疑う立場の人が相当数いるわけですから、教科書には載せるべきではないというのもわかります。
 そして、「自然淘汰」という言葉が使われなくなった理由もなんとなくわかります。実は、今、進化論を説明する際にも、「natural selection」の訳は「自然淘汰」ではなく、「自然選択」というのが普通であり、もちろん教科書でもそのように…というか「自然選択論」という言葉で説明されているんですね。「selection」の意味は「良いものを選び残す」ということですから、たしかに「淘汰」より「選択」の方がいいかもしれませんね。「淘汰」は「悪いものを捨てる」という意味ですよね。選択はポジティヴな感じですが、淘汰はネガティヴなイメージがある。「淘汰される」といういわゆる「迷惑の受身」の形で使われることが多いのもうなずけるというわけです。
 あと、「淘汰」という漢字が両方とも常用漢字ではないというのもあるのかな。選択だったらそういう問題もないし。
 訳語としての正確性、あるいは社会性を重視すると、自然「自然淘汰」という言葉は淘汰され消えてゆくというわけですかね。なんとも皮肉なことであります。いや、これは「自然」ではなく「人為淘汰」なのかもしれないな。なんか、「自然淘汰」という言葉を日常でも使っている私たちが、淘汰されているような気すらしてくるぞ。何かの悪意が感じられる。いかんなあ…なんかものすごく不満だぞ。
 ところで、なんで進化論を信じない人が多いんでしょうね。ID論とか、創造論とか、私には全く理解できません。生物に限らず、芸術や文化でさえも、全て「進化論」で説明できるじゃないですか。疑う者はポケモンを御覧なさい。ポケモンは目の前で進化してくれますよ。なんちゃって(笑)。
 そうそう、今の子どもたちにとって、「進化」とは、理科の教科書のダーウィンでもなければ、社会の教科書のあの原人から現代人への進化図でもなく、ポケモンの世界の話なんですね。ははは。ところで、アメリカなどのキリスト教国では、ポケモンの進化はどのように考えられているんでしょう。やっぱり神の意思でメタモルフォーゼが起きると考えられているのかな。それとも、日本人によるインテリジェント・デザインだと考えられてるのかな。
 いずれにせよ、生徒たちの様子を見て、彼らが進化しているのか退化しているのか、正直わからなくなってしまったのでありました。そして自分は…ふぅ。

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2008.05.26

『新書アフリカ史』 宮本正興, 松田素二 (編集)  (講談社現代新書)

Yuj90 さってから横浜でTICAD(アフリカ開発会議)が始まるということで、読んでみました。新書とは言え、600ページもある本ですし、今までほとんど興味がない分野だったので、けっこう時間がかかりました。でも、面白かったなあ。知らない世界のことを知るというのは楽しいし刺激的なものです。
 TICADが日本で行われるのにはいろいろな事情がありましょう。ただ、最もわかりやすい説明としては、やはり日本とアフリカ諸国の関係が比較的良好であるということが挙げられるのでしょうね。もちろんヨーロッパとアフリカとの間に存する暗く重い歴史の裏返しとして、そういうことが言われるわけです。
 この本では、もちろんそのような暗く重い部分も取り上げられていますが、ある意味より面白かったのは、非常に豊かで多様性に富んだ歴史と文化を持つアフリカという側面でした。
 基本文字のなかったアフリカを学問的にとらえることは非常に困難です。そう、そこが問題なんですよね。文字(コトバ)が学問(科学)を生む、そしてそれを文明ととらえるという、私たちの常識にはいったいどんな根拠があるのでしょう。
 はじめに言葉ありきという発想は、ヨーロッパが生んだ(ヨーロッパに採用された)、彼らに適した武器にすぎなかったはずです。
 これはもちろんアフリカに限った話ではありません。日本の神話時代もそうですよね。また、それは音楽についても言えますね、楽譜なんてないのが普通の音楽のあり方です。楽譜を生み出し、それをもとに構築された近代西洋音楽を標準とする発想は非常に危険です(今、隣で娘がそれに毒された教材を練習しています…笑)。
 ところで、私が日本人のネオテニー性を指摘する時、いつも使うのが「人類発祥の地からある意味最も遠い国日本」という表現です。もちろん、これは学術的な意味合いではなく、比喩であるわけですが、最近私が思うのは、柳田国男の方言周圏論みたいにですね、遠いところに古いものが残っているというのが、世界的にもあるんじゃないかと。つまり、日本に人類発祥の頃のアフリカの人々の記憶が沈滞しているんではないかと。
 アフリカは砂漠ではなく、森林の大陸です。彼らが培ってきた(しかし、今や消されつつある)森林文化は案外日本に残っていたりするのではないでしょうか。
 日本もある意味西洋化が進みましたし、戦争では負けてしまいましたが、しかし、アフリカと違ってあまりに小さい国土だったためか、植民地にはなりませんでした。おかげでいまだに英語すらまとも話せませんね。そう、それはまさに、ロゴス(コト)の侵略を受けずに生きているモノノケのままでいるということです。
 私はかねがね、これからはコトよりモノの時代だと叫んでいますが、そういう意味でも、こうしてアフリカという、ある意味モノの発祥地と、日本というモノの終着点が仲良くするのはとってもいいことだと思いますね。別にアンチ欧米というわけではありません。そんなことをいちいち考えなくとも、モノ社会の方が生命体としては絶対強いと思いますので。
 本の内容からはずいぶんと離れてしまいましたが、なんとなくこんなことを考えさせられてしまったのでした。まあ、日本に限らず、アジア的なモノとアフリカ的なモノが協力する時代が、これから来るんじゃないかなと予感したのでしょうね。

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2008.05.25

「アンサンブル・ナルコ」 コンサート at 河口湖円形ホール

080525 日のライヴも思いっきり楽しませていただきましたが、そのあとすぐに行われたバロック・アンサンブルのコンサートの方も非常に充実いたしました。いやあ、音楽っていいですねえ。楽器をやってて本当に良かったと思います。
 昨日は、ライヴ終了後ヘリコプターで(冗談)すぐに河口湖に移動し、公開リハーサル的な演奏会を行いました。これはもともと、円形ホールのお隣にある「木ノ花美術館開館10周年」のイベントの一つとしてお手伝いさせていただいたものです。エレキ・ヴァイオリンからバロック・ヴァイオリンへの持ち替えというのは、実は全く違和感がないのでありまして、歌謡曲からバロック音楽というのも、気持ち的にも案外スムーズに移行できるんですよ。特に、今回の歌謡曲は「聖子と明菜」という、まさにバロック的コントラスト世界でしたからね(笑)。
 さて、円形ホールを使わせていただく、この我々にとってもぜいたくなコンサートですが、そう、あの日、私の憧れのロックスタージュニアの前で演奏した日にですね、木ノ花美術館の館長さまと知り合いまして、そして、とんとん拍子に話が進んで、昨日今日の実現に至ったのであります。またもや人の縁の素晴らしさ、そしてそれを紡ぎ出す音楽の素晴らしさを感じないわけにはいかないのでありました。
 また、この「アンサンブル・ナルコ」も本当にひょんなことから始まった合奏団でして、古くからの知り合いでありながら、ここ10年以上一緒にやることがなかった(というかほとんど会うこともなかった)メンバーがいつのまにか集まったという感じだったんですね。ま、具体的に申しますと、ここのところ全然会っていなかったけれども、年賀状のやりとりだけはしていた仲間という感じです。
 ちなみに「ナルコ」とは、医学的には突然眠ってしまう病気のことを言うようで、まあ、私たちの美しく、癒しの効果抜群の音楽によって、たしかに今回も相当数のお客様の意識が飛んでましたな(笑)。いや、それこそが本当に我々の理想なんです。リラックスして眠くなってもらいたい…なんて、本当は「ナルコ」というのは、練習しているメンバーのマンションの隣に「成子天神」があるからです。ただ、そういうことでした、ハハハ。
 さて、今回のプログラムはこんな感じでした。

1 コレルリ トリオソナタ ホ短調
2 バッハ (G線上の)アリア
3 ヘンデル チェンバロ組曲よりアルマンド
4 ルクレール トリオソナタ ニ長調
5 ヴィヴァルディ トリオソナタ ニ短調(フォリア)
6 ヘンデル トリオソナタ ト長調

 どういう雰囲気だったか、ちょっとだけお聴かせしましょう。最後のヘンデルからメヌエットです。

 メヌエットmp3

 古楽器の演奏会としては、円形ホールは初めて使わせていただきました。広さはバロックのトリオにぴったりですね。響きは思ったより少なかったのですが、あるくらいがちょうどいいのかもしれないなあ。演奏する方としても合わせやすかったし。
 昨日も今日も、なんだかんだ言って満員に近いお客様に来ていただきまして、本当にありがたく思いました。おそらく古楽器の音を初めて聴く方々ばかりだったのでしょう。特にチェンバロに関しては、皆さん大変興味を持たれたようで、チェンバリストは休憩時間もなく解説に追われておりました。
 さてさて、実はですねえ、今日の演奏は自分としてはちょっときつかったんですよ。というのは、昨日の夜、メンバーと大宴会になってしまい、呑みすぎちゃったんですね。特にモンゴルのお酒(ウォッカみたいなヤツ)はうまい上に強い。はっきり言ってかなりお酒が残った状態で演奏してました。ま、それが功を奏したとも言えますかね。あんまり緊張しないですみましたから。
 終演後、館長さんから大変に嬉しいお褒めの言葉をいただきました。それもただ「良かった」とか、そういう言葉ではなく、なんと言いますかね、バロック音楽の本質を再発見させてもらえたような、あるいは我々の目指すべき音楽の形を示唆してくれたような、そういう言葉でした。キーワードは「貴族のぜいたくな遊び」です。
 今回の演奏会にかかわった全ての人に感謝申し上げます。聴きに来て下さった皆さん、館長様、美術館のスタッフの皆さん、そしてメンバーの皆さん、本当にありがとうございました。また、こういう機会を作りたいですね。

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2008.05.24

歌謡曲バンド「ふじやま」ライヴ at 富士山アリーナ(富士吉田ジャズストリート)

080524
 らが歌謡曲バンド「ふじやま」、久々のライヴをやらせていただきました。今回は初のアリーナ公演(?)であります。富士吉田ジャズストリートというイベントの中で、なぜ歌謡曲バンドが…?まあ、ある意味ジャムセッションですから、私たちのはいつも。
 今回は(も?)全員集合したのは本番が初めてであります。そしてリハもなしにいきなり一発合わせ。これこそジャズの醍醐味でしょう…か。ま、スタンダードをいきなり合わせるというのは、ジャズの世界でもよくあることですからね。
 さて、今回のライヴでは「松田聖子と中森明菜 夢の競演」という、まさに私の夢であったことを実現してしまいました。いやあ、ホント、こんなことを実現しちゃうとは、あの頃(高校時代)は全く考えもしませんでしたねえ。
 気の合う仲間がいるというのは本当に楽しいことです(メンバーなど詳細はこちら)。そして、今回はさらに新しい仲間が加わりました。ドラムスの遠藤まさお氏であります。初対面の挨拶もそこそこでいきなり本番でしたからねえ。しかし、まあ細かいことは抜きにしまして、なんとなくうまく行ってしまうあたり、さすがプロという感じでしたね。時間が全くなくて、ほとんど話はできませんでしたが、もう音楽を通じてすっかり仲間になった気がします。また次もお願いしますね!
 さて、恒例となりましたね、mp3をアップしておきます。アリーナがものすごく残響が多いものですから、なんとなく聞き取りにくいとは思いますが、ジャムセッションの緊張感(いや、どっちかというと弛緩してたな、みんな)を味わいたい方はクリックしてみてください。

チェリーブラッサム(松田聖子)

スローモーション(中森明菜)

夏の扉(松田聖子)

ミ・アモーレ(中森明菜)

あなたに逢いたくて~Missing You~(松田聖子)

飾りじゃないのよ涙は(中森明菜)

帰ってこいよ(松村和子)

 相変わらず肝心なとこで間違ってますねえ。特に私(ヴァイオリン)とカミさん(ヴォーカル)。やっぱり練習不足ですかねえ。しかし、楽しかったなあ。いろんなジャンルの音楽やってますけど、これが一番楽しいなあ。
 さて、ライヴが終わってすぐに私は次の会場へ。エレキ・ヴァイオリンをバロック・ヴァイオリンに持ち替えて古楽のコンサートです。それについては明日の記事で触れます。

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2008.05.23

キム・カシュカシャン&キース・ジャレット 『バッハ ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ』

41wcbv92fql_sl500_aa240_ 近、音楽ネタが多いですね。いや、実は本も数冊読んでいて、それについて書かなければならないと思っているんですが、どうもその気になれません。自分の中で言語についてはかなり迷いがあるんです。一方、音楽については、いろいろと新しい発見があるものですから、ついつい。ま、こういう時もあるでしょう。良かった、ジャンルを絞らないブログで(笑)。そう考えるとやっぱり松岡正剛はすごいなあ…。
 さてさて、今、ソロ・コンサートのために来日中のキース・ジャレット。死ぬまでに一度は、生であのインプロヴィゼーションを聴いてみたいなあ(トリオは数回聴きました…すごかった)。
 今月の8日が彼の誕生日だそうで、なんともう63歳になったとのこと。病気を克服して第二の音楽家人生を歩んでいるんですよね。こうしてソロ・コンサートができるまで回復したということです。良かった良かった。
 私は基本的に彼の作品はどれも好きです。ソロもトリオもバッハも。これまでいくつか紹介してきましたね。検索するといろいろと出てきます。どちらかというと、彼の作品の中でも特殊なものを選んでおススメしてきたような気がします。
 本来の活動、たとえばトリオの作品はほとんど全て持っていますけれど、あれらについては語るのも野暮というものです。というか何も言えません。
 で、今日紹介するのも、またちょっと特殊な作品ということになるんでしょうか。バッハの「ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ」です。ここでキースはチェンバロを弾いています。この時点ですでにある意味特別ですよね。そして、ガンバのパートはヴィオラによって演奏されています。
 しかし、ここで聴かれる音楽は実に「正統的」とも言われそうですね。よくキースのバッハ作品に言われること、意外に(と言うか、ほとんど残念なほどに)普通というヤツです。たしかに比較的平坦なアーティキュレーション、テンポです。即興的な部分も案外普通と言えば普通。ちょこちょこ装飾音を付けていますが。とてもジャズ・ミュージシャンとは思えない表現です。たとえば、チック・コリアのモーツァルトなんかかなり期待を裏切りませんよね。それに比べると期待外れだと感じる方も多いことでしょう。
 しかししかし、古楽人からしますと、これは意外に(と言うか、ほとんど受け入れられないくらい)変なのではないでしょうか。他のチェンバロ使用作品、平均率の第二巻とかゴールドベルクとかもそうなんですが、いわゆるオーセンティックな奏法からかなり遠いところにあると思います。
 彼も彼ですから、当然そういう勉強をしていると思います。ガーディナーと競演したりしてますしね。しかし、いわゆる専門家と何が違うかと言いますと、あくまで彼は楽器が教えてくれるままに自らの演奏法を作り出しているということです。バッハの音楽の解釈もそういうことです。理屈や伝統以前に、楽器やバッハの音楽が示す通り、それを受け取った自分の感性の通りに演奏しているという感じです。
 ですから、ジャズ・ファンの期待も、バロック好きの期待も、両方とも裏切ってしまうんでしょうね。面白いのは、彼のバロック作品の全てが、ジャズの専門誌においても、レコ芸(!)においても、メチャクチャ評価が低いということです。私はそれを読むたびにしてやったりと思っていましたけどね(笑)。
 なんででしょうね、私はいちおうその両方の世界に属する人間だと思うんですが、不思議と彼のチェンバロ演奏が好きなんです(それでずいぶん変人扱いされましたけど)。このCDもずいぶんと愛聴しました。自分がガンバを弾けないヴィオラ弾きであるということもあるかもしれませんね。そう、キースもいいんですけど、ヴィオラのカシュカシャンがいいんですよ。
 カシュカシャンはクレーメルともよく一緒にやっている世界を代表するヴィオラ奏者ですね。ここでの彼女のバッハは実に美しい。ガンバのための作品であることを忘れてしまいますよ。音色もいいですねえ。バッハはヴィオラ弾きだったようですから、もしかすると、この作品も自らヴィオラで弾いたかもしれませんね。そんなことを想像させるいい演奏です。
 そう言えば、去年私もプロレス観たあとヴィオラで2番を弾きましたっけ(こちら)。
 ところで、ご存知の方も多い思いますが、キース・ジャレットのチェンバロと言えば高橋辰郎さんですよね。日本のチェンバロ製作家です。キースは高橋さんのチェンバロに惚れ込み、(おそらく)全ての録音に使用しています。この録音でも使われていると思います(クレジットがない)。
 高橋辰郎さんのチェンバロもまた、ちょっと正統派から外れているかもしれない。彼も必要以上にオリジナル主義にならず(すなわち遺産のコピーに終始せず)、自らの信念の下、独自の世界を持った楽器を作り続けています。私もずいぶん前になりますが、何回かお会いしたことがあります。面白い方でしたよ。刺激的なお話をしてくださいましたっけ。
 以前紹介したキースの隠れた超名盤『Book of Ways』で使われているクラヴィコードも高橋さんの手によるものだと思います。
 キースの演奏や高橋さんの楽器の音色を聴くと、オリジナル主義とかオーセンティックな奏法とかピリオド楽器とか…そういう「言葉」がバカバカしくも感じられるから面白いですね。私はどのへんに身を置こうかな…このCDはそんなことを考えさせられる名演奏です。
 
Amazon Bach: Sonatas for Viola da Gamba and Harpsichord

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2008.05.22

島津亜矢 『ヨイトマケの唄』

Aya07 りました!ありました!ウチ中探したら出てきました。おとといの記事で少し触れた亜矢姫のヨイトマケの唄。これは絶対に聴いてください!聴かねば死ねませんよ。ホント素晴らしい唄です。
 右の人気記事のランキングを見ますと、バンプを島津亜矢が追い上げる(そこに松田聖子とグルーヴァーズもくい込む)という、いかにも不二草紙的な展開になってますね(笑)。ワケわからないなんて言わないでください。音楽にジャンルなんて関係ありませんから。
 さて…この歌ですよ!
 これはソウルですか?シャンソンですか?アリアですか?カンツォーネですか?はたまたロック・バラードですか?レチタティーヴォですか?演歌ですか?ブルースですか?いや、とにかくこれこそが「唄」でありましょう。
 それこそジャンルなんか関係ありません。このブログの読者さんには、ロック・ファン、クラシック・ファン、ジャズ・ファンが多いと思いますけれど、ぜひともこの魂の歌もお聴き下さい。
 これは某公共放送の某番組での歌唱です。私も家内もたまたまこの番組を観ていたんですが、もう本当に号泣でした。以前、本家美輪明宏様の歌唱米良美一さんの歌唱桑田佳祐さんの歌唱などで、感動の涙を流してきましたが、これはまた違った意味ですごい。
 女性がこの歌を歌うのも、実は初めて聴きました。いわゆる男歌を得意とする島津亜矢さんですし、亜矢さんはまさにお母様と二人三脚でやってきた方ですからね、まあある意味この歌を歌ってもおかしくはないわけですが、正直彼女が舞台に出てきて、「ヨイトマケの唄」というタイトルが出た時、私はちょっと不安になりました。それは、今まで何回か、この難曲そのものに押しつぶされてしまった人たちを見てきたからです。
 それほど、この曲はあまりに直截的に深い。音楽的にはこの上なくシンプルです。だからこそ歌い手に与えられる使命は、とんでもなく大きく重要なものになります。そこに乗る真に美しい日本語を、いかに音楽と有機的に結びつけるか。いや、その逆でしょうか。いや、音楽と言葉などという二元論を排除して、単純に「歌」を語るということでしょうか。
 本来私たち日本人が歌い継いできた、たとえば「和歌」の伝統というのは、まさにこういうものだったはずです。これはこの前の BUMP OF CHICKEN のライヴでも感じたことですね。言葉と音楽は、もともと一つのものだったのです(もちろん言葉を離れた肉体の鼓動として生まれた音楽のジャンルもありますが…いや、声帯の震えも肉体の鼓動の一つでしょうか)。
 さあ、この島津亜矢さんの「ヨイトマケの唄」、これはまさに言葉と音楽的表現の一体となった素晴らしいパフォーマンスだと思います。もちろん好き嫌いはあると思いますけれど、私は、ここに一つの理想を見ました。彼女がどのような気持ちでこの曲に挑戦し、どのような努力と試行錯誤を経て、この芸に達したか。美輪明宏さんの作り上げた言葉と音楽の世界と、島津亜矢さんの技術と魂とが、見事に強力な反応を起こして、新しい「ヨイトマケの唄」が誕生しました。
 それぞれの言葉に対して、彼女がどのような表現法を使って歌っているか。演歌を歌う時の彼女とはまた違う一面がたくさん聴かれます。私のような楽器奏者にとっても、本当に勉強になりますね。ディナーミク、アーティキュレーション、呼吸、音色、音程…私が特にぐぐっと来るのは(あくまで冷静にテクニックとして聴いた場合の話ですが)、後半にある「ぐれかけたけど」の部分で音程を低くし、微妙なブルーノートを作り出しているところです。本来の音程とはなんぞやというのを教えられますね。
 ここに音を載せることは本来なら憚られるべきことですが、私はどうしてもこれを皆さんに聴いてもらいたいのです。これを聴いて、そしてそれぞれに何かを感じてもらいたい。世界中の人に聴いてもらいたい。これは日本の宝です。
 長いこと放送禁止の憂き目に遭ってきたこの曲が、こうして女性の手によって歌われ、NHKで堂々と放送されるようになったということも、正直うれしいことですね。それでは下のリンクをクリックしてじっくりお聴きください。おそらく期間限定の公開になると思いますので、お早めに。

島津亜矢「ヨイトマケの唄」

Amazon 島津亜矢リサイタル2007~邂逅~

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2008.05.21

『SONGS〜松田聖子』 (NHK)

Pic_m_080521 曜日に松田聖子と中森明菜をカバーするライヴをやります。ジャズのイベントの中でのステージなので…というわけではありませんが、なんと当日本番が初めての合わせです(!)。というわけで、さすがに個人練習をしっかりやっておかねばなりません。今晩は睡眠時間を少し削って夫婦で練習いたしました。今頃楽譜(と言ってもメモ程度)を作ったり、歌詞カードを作ったりしている私たちって…。
 ちょうど練習が終わったあたりで、NHKのSONGSが始まりました。実にタイムリーなことに今日の歌い手は松田聖子さんです。バンドの演奏も含めて実にいい勉強になりましたねえ。素晴らしい内容でした。ああ、そうか、今日は聖子さんのニューアルバム発売日でもありますね。
 SONGSは、我々の世代にはたまらない音楽番組です。民放のようなガシャガシャした演出がなく(ある意味NHKらしいぜいたくな演出で)、落ち着いた気持ちでじっくり名曲、名人芸を堪能することができる。インタビューや資料映像もよく練られていて実に濃い30分間を味わえます。
 さて、今日の聖子ちゃん(46歳!)が歌った楽曲は次の通りでした。

花びら舞う季節に
(Seiko Summer Medley)
ピンクのモーツァルト・小麦色のマーメイド・チェリーブラッサム
あなたに逢いたくて~Missing You~
涙がただこぼれるだけ

 う〜む、なんとも素晴らしい選曲ではありませんか!新曲の「花びら〜」で入るのはまあお決まりとしまして、続くメドレーの選曲が渋い!全然「夏」じゃないし(笑)。予想を裏切るセレクトですねえ。やっぱり神の考えることは違う。
 「あなたに〜」はやはりはずせない名曲ですよね。へえ、110万枚も売れたんだ。ライヴでは特別な編曲や歌い回しが聞かれることが多いのですが、今日はオリジナル・バージョンを見事に再現していましたね。サックスのソロも原曲通りでした(今回は私も完全コピーします…ヴァイオリンでね…笑)。この曲への思いがひしひしと伝わってくる名演でしたね。
 そして、ワタクシたち夫婦的に感激したのは、「涙がこぼれるだけ」のエピソードを紹介したインタビューと映像でした。そう、昨年の、あの神公演の時の、お客さんの大合唱から奇跡のアンコールへと続くところですね、あの感激を語ってくれたんです。こうして、1年近く経って、ああいうふうに語るということは、本当に感動してくれていたんですね。そんな場所に実際にいられた私たち夫婦も、本当に幸せでした。なにしろ、あれが初めての参戦(参拝)だったんですから。NHKとしては珍しく、こちらのDVDの映像もそのままことわりなく使っていましたね。ちょっと驚き。あらためて、「涙が…」が名曲であることを実感して涙が…うるる。しかし、これもあらためて…なんでケインなんだ?
 というわけで、私たちがカバーする3曲のうち2曲、「チェリーブラッサム」と「あなたに逢いたくて」をしっかりフルコーラスやってくれるなんて。さすが聖子様!「しっかりやってね」という励ましと受け取りました(笑)。まあ、当たり前すぎますけど、小倉良バンドの方々も、相変わらずお上手(渋い)ですね。
 我々のバンドの方は、明日キーボード奏者と私たち夫婦で最終チェックをします。なんとなく気合いが入ったぞ。本家に負けないように、私たちも前向きに頑張ります。その結果を聴いてみたいという奇特な方は、ぜひライヴ会場に足をお運びください。いちおう、下に宣伝しておきます。

2008年5月24日(土)午後1時30分くらい  道の駅 富士吉田 富士山アリーナ

 ふじよしだジャズストリート2008
 歌謡曲バンド「ふじやま」ライヴ

1 チェリーブラッサム(松田聖子)
2 スローモーション(中森明菜)
3 夏の扉(松田聖子)
4 ミ・アモーレ(中森明菜)
5 あなたに逢いたくて(松田聖子)
6 飾りじゃないのよ涙は(中森明菜)
7 帰ってこいよ(松村和子)

無料

SONGS公式

Amazon 花びら舞う季節に My pure melody

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2008.05.20

島津亜矢 『富士』


 々にNHK歌謡コンサートを観ました。島津亜矢さんが「海鳴りの詩」を熱唱していました。島津亜矢さんと言えば、何かの番組で聴いた「ヨイトマケの唄」が心に残っています。あれは素晴らしかったなあ。泣けた。あれは一度生で聴きたいなあ。
 私、最近バロック・ヴァイオリンを弾く時、曲によっていろいろな歌手になりきることにしてるんです。よくなりきるのが、美空ひばり、松田聖子、そして島津亜矢さんです(ってよくわからないでしょうが、私にとっては非常に重要なんですよ)。
 島津亜矢さんの特長は、艶のある声と伸び伸びとした表現です。演歌歌手としてはやや細い声質で(声量はすごい)、単調に聞こえるむきもあるようですが、ある意味そこがヴァイオリン的であります。節回しのテクニックも多様で音程も正確な上、ヴィブラートも小さめなので、私のような演歌素人でもあまり抵抗なく聴くことができます。
 まあ、そんなところが演歌玄人には逆に物足りないのだと、ウチの演歌歌手が申しております。いや、充分上手いけれども、好き嫌いは分かれるかもしれないなと。う〜む、そういうものか。
 とにかく、私は演歌として聴くというより、自分の楽器での表現の目標として聴いているのであります。ま、そんな人もいないと思いますけどね。私は結構好きですね。もしかすると洋楽なんか歌っても上手かもしれないな。
 さて、そんな島津亜矢さんの最大のヒット曲となったのが、この「富士」です。富士山に住む者として、この曲には特別な思いを持ちますね。田久保真見さんの歌詞、遠くから富士山を眺めている設定でありますが、そんな日本人の憧れであり、心の支えであるお山に住まわせてもらっている幸福を感じずにはいられませんね。
 岡千秋さんによるメロディーは、こりゃホントに真っ向勝負の演歌ですね。王道すぎます(笑)。ある意味ひねりもないコテコテのメロディーですから、だからこそ亜矢姫の技が試されているとも言えます。
 と思ったら、ウチの演歌歌手が、いやこのサビの頂上部分が微妙に特徴的でいいのだと言い出しました。いろいろと似たメロディーを歌ってくれまして、その個性を説明してくれました。なるほど。あとは裾野だからなんでもいいのだと。演歌に関して(だけ)は、カミさんに完敗ですな(笑)。
 ところで、ふと思ったんですけど、日本の象徴「富士山」を歌った演歌って、案外ないんじゃないですか。なんでだろう。古事記・日本書紀に富士山が出てこないというのと同じ理由かな(?)。

島津亜矢「ヨイトマケの唄」

Amazon 富士

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2008.05.19

エックスバイク

Xb 京の人は運動してますねえ。昨日、新宿駅で痛感しました。そう、東京では同じ名前の駅で乗り換えるのに、10分歩くなんてザラですよね。
 たまに田舎から出て行くと、不安になりますよ。昨日もなんだか地下街から外に出られなくなっちゃった。ちゃんと案内に従って歩いてきたのに、なんだかいつのまにかその案内がなくなってる。ウチのすぐ近所の青木ケ原樹海の方がずっと安心して歩けます。コツがわかってるから。私にとっては、東京の方が「死」の予感がします(笑)。知らない人があんなにたくさんいるっていうのも怖いし。
 というわけで、都会の人は結構「自然」の中で運動してるんですよね。さらにジムに通ったりする人もいる。田舎の人はですね、案外運動不足なんですよ。駅で歩くなんてことは絶対ありえませんし、普段の移動もほとんど車。ドアtoドアです。
 森の中を散歩できていいですね、なんて言われますけど、そんなこと年に数回くらいしかしません。富士山の上に住んでますが、富士登山なんかもう10年以上してませんし。
 要は私、最近本当に運動不足なんですよ。一日一食生活をもう4年ほどしてますが、それでもコレステロール値が高くなってしまうほどです。ほとんどひきこもりみたいなもんですね。
 さすがにいい歳になってきたので、毎日30分くらい運動しようと思いまして、最近このエックスバイクというのを買いました。いわゆるエアロバイクですね。ネットで一番安いのを探して買ってみましたが、これがなかなかいいもので、今のところ毎日ちゃんと続いています。
 手軽な運動器具というのはいろいろありますけど、やっぱりこのエアロバイクが一番長続きするんじゃないでしょうか。なんと言ってもすわって運動できるというのがいい。一番手軽なステッパーみたいなのって、昔持ってましたけど、立って足踏みするというだけでなんとなく面倒くさいものなんですよ。 
 座るという動作は基本休む姿勢であり、精神的にリラックスできるので、運動開始時に気合いを必要としません。よしやるぞ〜!と意気込まなくていいわけです。そして、いざ始めてからも、テレビを観ていたり、マンガや本を読んだり、音楽を聴いたりしていると、もうほとんど無意識のうちに足が動いてますから、全くストレスになりません。いつのまにか、しっかり有酸素運動をしているという感じです。だいたい30分連続でこいでいると、300kcalくらい使います。東京の人の通勤分くらいは消費してるんじゃないでしょうか。
 ちょっと場所は取りますけど、このエックスバイクはシンプルなデザインと地味な色合いなので、あんまり存在感がありません。折りたたむのも簡単。ま、ほとんどたたまないでそのまま放置してありますが。子どもたちにとってもいい遊び道具になってますし、これは良い買い物でした。
 あと、このエックスバイクのいいところは、非常に静かだということです。ほとんど無音という感じです。マグネット負荷式ですので、ベルトが摩耗するというようなこともありません。
 最近ニュータイプが出たんですけど、こちらはベルト式だし、デザインや色も自己主張が強いのでイマイチですね。私は旧タイプをおススメしますよ。

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2008.05.18

BUMP OF CHICKEN ライヴ at さいたまスーパーアリーナ

2008 BUMP OF CHICKEN TOUR ホームシック&シップ衛星
080518b ンプのライヴに初参戦。一発で彼らの偉大さと魅力に打たれました。神ライヴでした。
 聴く方もやる方も、いろいろなジャンルのライヴを体験してきましたが、あの一種独特なムードは、正直予想以上というか、未体験ゾーンでしたね。おそらくあの会場のほとんどの人が不思議な興奮と陶酔の渦に呑まれていたと思いますけど、まあそこはある意味いつも冷静な(?)ワタクシのことであります…というか、単にそこまでコアなファンでなく、また年寄りだからかな…、皆さんとは多少違ったレポートができるのでは。
 まず一言。やっぱり彼らの音楽はゴスペルでした。以前こちらで語ったように、彼らの言葉と音楽は福音である…いや、彼らの存在自体がファンにとってはまさに励ましであり、癒しであると思いました。あるいは言い方としては不適切かもしれませんけれど、これは一種の宗教的関係だなと感じました。もちろん、私はそれが悪いことだと思いませんよ。本来の音楽の力、言葉の力とはそういうものであるべきだからです。
 私、さいたまスーパーアリーナは松田聖子の命降臨ライヴ以来なんですが、あの時感じた宗教性とはまた違った宗教性ですね。なんというかなあ、より身近な神なのかなあ、より共依存性が高かったような気もします。聖子さまとファンの関係にも、もちろん支え合い的な雰囲気はありますけど、より現実感のある言葉を通じての接続というのかな、バンプとファンの間には、かなり太くて短い回路を感じました。
 客層は幅広かったと思います。予想以上に男性が多く、また自分があるいは最年長なのではと思って会場入りしましたけれど、実際「負けたな」と思えるおじさんおばさん(特におじさん)もチラホラと。他のバンドのライヴとは明らかに違う雰囲気でした。なんとなく顔つきやファッションなんかもある種の傾向があるような(笑)。
 私は400レベル(チャマ的には3階になるのかな…笑)でしたから、スタンディングであるアリーナの様子をはじめ、全体をよく見渡すことができました。会場の全ての人が、とにかくバンプと同じ空間にいることを体全体で感じ、彼らの言葉と音楽を一粒残さず味わおうとしている雰囲気でしたね。アリーナを中心に、それなりにロックのコンサートという雰囲気もあった。けれども、その集中力というかですねえ、特にバラード曲での、あの直立緊張状態は普通じゃなかったなあ。祈りの形ですよ、あれは。
 実際、藤原くんは変え歌詞、変えメロディーを頻繁に行います。そこに耳を澄ましていなければならない。そういう集中力というのもあるのでしょう。そういう意味でも、今回はバンプは実にライヴ・バンドだなあと思いましたね。演奏技術も意外なほど(失礼)高かった。特に藤原くんってやっぱりギタリストだなあと感じました。さすが、藤井一彦さんの申し子ですな。正直、地味な増川くんよりもギタリストしていたかもしれません。
 演出的にも全くの必要最小限で、あの広い会場でも、とにかく音楽勝負、余計なことよりもひたすら音楽による一体感を追求していました。何かとエンターテインメントになりがちな(それもそれで価値がありますが…例えば昨年の関ジャニ∞など)ライヴが多くなっている中、彼らのストレートな気持ちというのは実に純粋に、そして崇高に感じられました。
 音楽的には、繰り返しになりますが、ゴスペルだなと。バックボーンがカントリーやブルーグラスであるのは一聴瞭然。スリーコードを主体として、そして特にサブドミナント指向が強いので、それは当然の印象です。終止もいわゆるアーメン終止な曲が多数あるので、それはもうほとんど賛美歌に近く感じられます。そこにあの歌詞、そしてライヴならではの節回しは、これはもうR&B風ですからね、もう完全にWhiteとBlackの融合、すなわちゴスペルですよ(象徴的だったのは「花の名」でしょうか)。さらにクリーンなギターサウンド、無駄や派手さのないアレンジなどもまた、そちら風な味わいを醸します。いいんじゃないですか。こういう形で世界の伝統音楽を継承するというのは。
 さて、藤原くん以外のメンバーのキャラというのは、今回初めて知ることができたわけですね。増川くんはさっき書いたようにとにかくギタリストにしては地味で大人しいなと。ベースの直井くんは…うん、ああいう人、絶対必要だな。あのバンドにとって彼は非常に重要なポジションを担当してますね。音楽的にというよりも、社会的にね。ああいう社会性がなかったら、このバンドは…笑。ドラムの升くんは私の好みのタイプ(笑)なんですけど、あいかわらず社長然としていて、全体を静かに安定感たっぷりで支えていました。ある意味、かの会場全体を見えない力で取りまとめていたのかもしれない。社長じゃくて名誉会長って感じ(?)。
 まあ、ほかにもいろいろと書きたいことがありますが、あんまり知ったかぶって語りますとマニアの方(生徒)に怒られるので、このへんにしておきます。最後にセットリストを。たぶん合ってます。ワタクシ的には生ギルドが聴けたのと、あとほぼ新曲だったプレゼントを聴けたのが収穫かと。

01. 星の鳥
02. メーデー
03. 才悩人応援歌
04. ラフ・メイカー
05. アルエ
06. ハンマーソングと痛みの塔
07. ひとりごと
08. ギルド
09. 花の名
10. arrows
11. 飴玉の唄
12. 真っ赤な空を見ただろうか
13. かさぶたぶたぶ
14. ダイヤモンド
15. 天体観測
16. supernova
17. 星の鳥reprise
18. カルマ
19. flyby

EC1. プレゼント
EC2. グロレボ
EC3. ガラスのブルース(ノーマルver)

 あっ、あとテレビの撮影が入っていました。本格的にたくさんのカメラを入れてましたので、DVDかなとも思いましたけど、どうもNHKのスーパーライブらしい。きっと夏にやるのでしょう(…7月25日でした!)。
 最後に愚痴を一つね。音悪すぎました。低音出し過ぎ、響き過ぎ。せっかくの歌詞が聴きとれない。残念。

ps ひまがあったら、プレゼントの歌詞を上げます(今、数人で復元中)。
 数人の記憶をパズルのように組み合わせておりますが、正直難航してます(笑)。いちおう私国語のセンセイなので、ストーリー的に記憶していたつもりなんですが、参戦した生徒たちの話を聞くうちにどんどん混乱してきました(ある程度メモったんですけど)。
 こんな調子じゃ、発売まで待った方がいいかもしれませんね。でも、ちょっとだけ、絶対自信があるところだけは載せちゃいましょう。既存の部分は省略。かな〜〜り虫喰い状態っす。
(6/18追記 発売後、答合わせしてみました。〈 〉内が正解…30点くらいかな。人間の記憶というのは案外いい加減で、案外正しいということですな)

 そこ〈世界〉にいない気がした夜があって
 自分がいない気〈気分〉にひたった朝があって
 目を〈は〉閉じて…(?)
 口を〈も〉閉じれば…(?)
 …作った感情だって今〈頑丈な扉〉
 この世で一番高い〈固い〉壁で囲った〈囲んだ〉部屋
 …(両)耳が待つのは
  この世で一番軟らかい動き〈ノック〉の音(?)

 (サビ)きっと今もまだふるえながら笑おうとしない〈笑おうとして泣いて〉(?)
 …今日も〈音のない声で〉助けを呼ぶ…それは正しい(かなしい?)姿

 (中間部)…笑ってごらん〈←なし〉
 壁だけでいい所にわざわざ扉作った(?)
 嫌いは〈だ〉全部好きなのに
 (間奏)
 ええと、うん
 大丈夫、君はまだ君自身をちゃんと見てあげてないだけ
 誰だってそうさ、君一人じゃない
 ひどくはずかしいことで
 でも…(?)
 ぼくだってね…誰にも足りない〈頼めない〉ことで

 まあいいや
 少なくとも…

 (全然違ったら笑えるな…あんまりあてにしないでくださいね) 


追伸 もひとつオマケに。今日は新宿でバロック・アンサンブルの練習ののち、たまアリに向かったのですが、ウチのバンド(?)もバンプも、チューニングはA=415ですので、調性的な違和感はありませんでした。意外なところで我々はつながっている!?

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2008.05.17

横浜高校に惜敗!(春季高校野球関東地区大会)

080517 〜ん、本当に感動した。久々にいい野球の試合観させていただきました。
 春の関東大会に私の奉職する高校が出場し、1回戦、超強豪の横浜高校と対戦し、延長戦の末2対3で惜敗しました。惜敗ではありましたが、しかし悔しさはありません。本当によくやってくれたと思います。
 本年の春季関東大会は地元山梨開催ということで、本校はギリギリ山梨4位で出場を決めていました。エースが本調子でなかったこともあり、県予選ではどうも実力を発揮できなかったのですが、本大会では最高の試合をしてくれました。GJ!!
 正直戦前はコールド負けにならなければいいなあ、というムードだったんです。なにしろ相手はあの横浜高校ですからね(松坂の母校というだけでビビりますな)。たしかに、公式戦で全国レベルのチームと当たることができるのは、夏の大会を前に非常にいい経験になります。しかし、あまりに力の差を見せつけられたりしますと、逆に自信を喪失する可能性もあったんですね。ですから、まあ胸を借りて思いっきりやってみよう、というのが選手達の本心だったのではないでしょうか。
 ところが試合が始まってみると、がっぷり四つどころか、全体としては終始ウチの学校のペースでした。初回に連打から先取点を取ると、いつも通りの継投策で横浜打線を翻弄し、3回までは1点リード。4回裏に逆転を許しますが、そこからがまさにウチのペース。軟投派のエースが強力打線を沈黙させます。そして7回に9番打者がレフトにホームランを放ち同点。そのまま延長戦に突入しました。
 最後はウチのエラーからピンチを招き、ポテンヒットでサヨナラを許してしまいましたが、しかし、本当に素晴らしい試合内容であったと思います。横浜もかなり焦りを感じていたのではないでしょうか。
 結果として負けではありましたが、収穫は実に大きかった。特に不調が続いていたエースが、ほぼ完璧に横浜打線を抑えたことは、本人はもちろんのこと、チームに大きな自信を与えたことでしょう。いやあ、本当にカッコよかったなあ、あいつ。
 実はそいつ、身長162センチしかない小さなエースなんですよ。こんな言い方は適切ではないかもしれませんが、今日の試合、遠くから観ていると、なんだかプロ対少年野球という感じでした(笑)。体が根本的に違うんですね。まあ、そこも本校の大きな課題なんでしょうけど。柔よく剛を制すというか、小よく大を制すというか、隣に座っていた卒業生は、窮鼠猫を噛む…いや虎を噛むだな、なんて言ってましたっけ。
 まあこういう意外な展開になるのが、スポーツの面白さでしょうね。特に高校生、そして一回勝負ということになりますと、精神的なものが大きく影響しますからね。
 いずれにせよ、悔しいというよりも、本当にいいものを見せてもらったという感じです。本当によく頑張った。これは夏の大会が楽しみですね。もちろんこれに満足することはなく、今日見つかった様々な課題を克服する努力をしましょう…なんて、いかにも先生らしいこと言ってしまいましたが(笑)、こうして成長していく生徒たちを観られるのは、教師としては最高の喜びですね。
 でも、やっぱり今日のような実際の経験こそが、本当の先生なのかもしれませんね。そして、こうして我々教師も生徒にいろいろと教えられているのでしょう。卒業生とも話しましたが、何か忘れかけていたものがフツフツと湧き上がってきましたよ。いい仕事させてもらってます…感謝。

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2008.05.16

BUMP OF CHICKEN 『orbital period (DVD)』

4988061180878 さって、さいたまスーパーアリーナで行われるバンプのライヴに行ってきます。いろいろと紆余曲折がありましたが、結局行けることになりました。本当は小さな箱で聴きたいところですが、まあぜいたくは言えません。楽しんできたいと思います。
 さて、ちょうどそんな時にこのDVDが届きました。届いたとは言ってもワタクシのものではなく、いつものように生徒に頼まれて代理購入したものです。で、早速放課後何人かの生徒と大画面で観てみました。
 うむ、これはライヴに向けてテンション上がりますね。まあ、それほどコアなファンではなく、そしていい年したオジサンではありますが、それでも、彼らの音楽を生で聴き、彼らの姿を豆粒大ながら観ることができると思うと、ワクワクするものです。
 このDVD、アルバム『orbital period』に収められたシングルを中心としたPV集なんですけど、それぞれの楽曲のクオリティーと同様にビデオ・クリップのクオリティーも高く、かなり集中して見入ってしまいました。彼らは本当に独特の世界を作り上げることが出来るアーティストですね。その言葉と音楽と映像の世界に思いっきり吸い込まれて、オジサンはいい気持ちになったのでした。特にああやって暗幕を閉めて大画面で観るといいよなあ。それぞれが一篇の映画のようでもありました。
 今日はそんな感動をちょっとお裾分けいたします。いろんなところから拾ってきたPV映像を順番に貼っておきます。いろいろ理屈をこねるより、聴いてもらい、観てもらうのが一番ですから。リンクが切れていたりしたらごめんなさい。
 いやあ、みんないい曲だなあ。特に「ギルド」は好きだなあ。生で聴いたら泣くな、きっと。
 それにしても藤原は幽霊みたいだな(笑)。細すぎるし白すぎる。まあヲタ的に言えば、あのノドボトケとか鎖骨がいいのでしょう。ワタクシの好みはやっぱり升くんの叩きっぷりですがね。
 あ、あと、バンプお得意の隠しトラック、今回もちゃんとありました。くっだらないけどね(笑)。



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さいたまスーパーアリーナのライヴに行きました

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2008.05.15

『チーズスイートホーム』 こなみかなた (モーニングKCDX)

07139507 近ウチの家族がはまっているマンガ。猫好きにはたまらない一冊。
 私もかなりの猫好きですけど、やっぱりウチのカミさんや子どもたちにはかなわないな。とにかく三度のメシよりネコという感じ。
 今ウチには三匹の黒猫がいます。10年前から一緒にいる大和守弥右衛門と丹後守新之助に、最近子猫のミー(いきなり普通の名前だな)も加わりました。これがねえ、なんとも可愛いんですよ。どうもどこからか落ちたかなにかしたらしく、脊髄を損傷していて、下半身が不随なんです。で、当然もらい手がいなかったのをちょっと預かったら、これもまた当然ずっと預かることになっちゃったと。
 私は最初反対しました。ハンディーキャップ猫を育てるのは大変だからです。自分たちの生活だけでなく、ヤエとシンの生活も脅かされると思ったからです。でも、カミさんや子どもたちは、まあ母性本能を刺激されちゃったのか、責任やら運命やらを感じちゃったのか、もう泣いて「飼う」と言い張るわけです。
 私もかなり強硬に抵抗しましたけれど、しかししばらく一緒にいるうちに、様々な心配が杞憂であったことが判明してゆき、今では全く自然に家族4人黒猫3匹の幸せな生活が続いています。
 ということで、迷子の子猫と、それを飼うことになってしまう家族をテーマにしたこのマンガには、たしかに共感するところが多い。
 で、私はそれほどでもないんですけれど、カミさんなんて毎日何度も読んで泣いてる。可愛いと思って、つまり「萌え〜」と思って読んでるのかと思いきや、そうではなくて「切ない…」と思いながら読んでるらしいのです。つまり、古語で言えば、「をかし」ではなく「あはれ」で読んでるんですよね。
 こういうことらしい。このマンガの主人公猫のチーは、最初はママのところに一生懸命帰ろうとしてるんですね。本来のおうちへ。ところが、拾われて人間の家に住み始めて、だんだんとママのことや本来のおうちのことを忘れていってしまう。そして、次第に人間を親だと思ったり、人間の家をおうちだと思うようになってしまう。そのへんの描写がとても上手なんですね。
 時々ふとしたことから思い出すんだけれども、だんだん本当のママの姿や感触が薄れていってしまう。「あれ?なんだったっけ…」という感じで。何か大切なものを思い出しかけるんだけれど、そこは猫だし子どもだから、だんだん「…まあ、いいか」という感じになってしまう。つまり、チーのスイートホーム(ママ、おうち)の変化がテーマなわけです。
 そういう姿をウチのミーやおじさん猫たちに重ねているんです。まあたしかにそういう大切なことを忘れていく、親子の別れというのは、古今東西を問わず文学の重要なファクターでした。「もののあはれ」というやつですね。時間の流れに従って、淡々と悲しむべきことが進んでいく。桜の花が散るように。特に日本人はそこに「切ない美」を感じてきましたからね。ただ悲しいとういことでなく。
 作者もかなりの猫好きですね。猫の表情、動作、人間の様子も非常にリアルです。逆に言えば、猫があまり好きでない人、猫を飼ったことがない人には、ほとんどその微妙なニュアンスはわからないでしょうね。
 このマンガを読んで、猫を飼うようになる人も多いと聞きます。いいことですね。最近、世間は猫ブームです。景気がいい時は犬がはやり、景気が悪いと猫がはやる。なんとなく分かりますね。いつかも書きましたが、私たち人間にとって、犬は生活のためのパートナー、猫は文学のためのパートナーですから。
 今年春からアニメも始まりました。おかげで子どもたちも早起きになりましたよ。

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楽天ブックス チーズスイートホーム(1)

テレビ東京 チーズスイートホーム

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2008.05.14

「Love or Money」のお話

Ai 「」か「金(カネ)」か。
 妙な問いですね。この問いはだいたい恋愛とか結婚とかのシチュエーションで登場するものです。本来はそういう場合、たとえば女性だったら、「彼」か「金」かと問うべきです。つまり、「彼」を愛するべきか、「金」を愛するべきかで悩むのが本当なんです。
 で、「彼」か「金」かという問いの、一般的な答は「金」です。それは普通に考えて、あなたの「愛」に答えてくれる可能性は、圧倒的に「金」の方が高いからです。なんの保証もない「彼」に見返りを期待するより、社会が担保してくれている「金」に見返りを求める方が得策です。
 「金」は「神」だと考えるとよくわかります。その虚構性や契約性、そして悪魔性においても、両者はとてもよく似ていますよね。信じる者は救われるわけです。あの、紙切れや金属の円盤に価値があると思い込み続け、そして、ある意味それに魂を売って(入信して=システムに参入して)、その恩恵(愛)を受けるべく仕事する(修行する)わけです。
 それに比べると「彼」は多少頼りない存在です。「彼」もあなたと同じく、「彼女」か「金」か考えているからです。彼もあなたと同様、あくまでも受容者であって、「神」のような与える者にはなかなかなれないのです。
 というわけで、私たちは「神」の「愛」にすがるように、「金」の「愛」に依存して毎日を生活しています。しかし、それは先ほど書いたように、あくまでも契約(システム)上のことであって、いつそれがスーパーインフレを起こすか、実は分かりません。突然価値を失って、愛を与えてくれなくなってしまうかもしれないんですね。「神」や「金」の「愛」は、保険や年金みたいなものでして、システムが破綻して、全てがご破算になる可能性もまたあるのです。
Kane たぶん「金」が「愛」を大安売りしたのがバブルで、それが破綻してしまったのが現在の不景気なんでしょうね。バブルとその崩壊は、「神」の世界でもよくあることです。そんな時、「金」や「神」は突然「悪魔」に変ったような気がします。ま、実は変ったのは自分たちなんですけどね。
 で、我々は、我々が作ったシステムの不備や負の可能性、そして自分が気分屋であることをよく知っているので、実はそのシステムに没入できないものなんです。だから、たまには「彼」や「彼女」を信じてみたくなる。あるいは依存してみたくなる。「彼」や「彼女」の「愛」を享受できる可能性はたしかに少ないのですが、ある種の幻想や夢を抱かせてくれるし、人間自体はシステムではなくて実在なので、完全なる破綻というのはないような予感がするからです。
 恋愛は基本的に1対1の実在どうしの関係、究極はそこに他者や社会のシステムが入りこむ余地がないわけですから、自分の意志でどうにかなるような気がするんですね。世間が相手だと自分の意志ではどうにもできないことばかりです。ま、そんな恋愛も所詮フィクション、幻想であって、世の中以上にままならないことがほとんどなわけですが(笑)。
 さて、それでは本当の「愛」というのはどこにあるかと言いますと、これはワタクシ的には「完全なる贈与」にしかないと思うんですね。愛とは、見返りを期待しない贈与。実在を賭すことができる贈与、つまり命をかけられるか、というなんだか俗っぽい結論になってしまうのです。
 で、実際にはそれは自己に対してか、あるいは半分自己である自らの子どもぐらいにしか与えられない。まあせいぜい孫くらいまででしょうか。あるいは逆方向に半分自分である親とかでしょうかね。そのあたりまでしか及ばない。あとは、みんな他人です(遺伝子的には人類皆兄弟ですけど)。
 そうなんです。他人には「愛」は与えられないんです。他人へは「親切」しか与えられない。だから現実的には「愛」は負けても「親切」は勝つという表現が生まれる。他人へは完全なる贈与はありえないのです。おわかりになりますか?
 そうすると、「彼」や「彼女」も通常は他人ですからね、本当は恋愛というのは「親切」ベースでなければならないはずです。だから、冒頭の問いに対する私の訂正もまた誤りなのでした。本当は、「彼」に親切にすべきか、「金」を信じるべきか、ですね(笑)。
 さて、いろいろと戯言を述べてきましたが、この記事の本当の目的は自分の考えを披瀝することではなくて、ある文章をおススメすることなのでした。
 今では教材にもなっている次の文章、経済学者の岩井克人さんが、数年前に朝日新聞のコラムに書いたものです。『宝島』で有名なスティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編と、自らの「貨幣論」を結びつけて面白いエッセイに仕上げていますね。これを読んで感動する生徒も多いのですが、皆さんはどう感じますか?
 私はちょっと違和感を覚えます。小瓶に住む悪魔は貨幣の悪魔性とは無関係だし、彼がハイパーインフレーションと読む部分は、私にはマイナス利子の比喩と読めますし、結末も「愛(倫理)」が「金(貨幣)」に勝ったというより、人の幸福は他者の命の犠牲によっているというメッセージに読めるんですが。
 ああ、そうか、そういう意味では、これはアル中のおっちゃんの「愛」の物語なのか!なるほど(笑)。
 まあ、とにかく時間のある方は読んでみて下さい。『瓶の妖鬼』はいい物語です。

==============================

 先日知人から次のような内容の電子メールを受け取りました。
 「子供の頃、スティーヴンスンの『瓶の妖鬼』という短編を読んで強い印象を受けた記憶がある。岩波文庫で最近復刊された『南海千一夜物語』に収録されている。『貨幣論』の立場から読み解くと、面白いのではないかと思うがいかが」
 スティーヴンスンとはあの『宝島』の作者です。私は急いで『南海千一夜物語』を注文して『瓶の妖鬼』を読んでみました。私も強い印象を受けました。今回は、その理由を話してみたいと思います。
 それは、ハワイ人のケアウェとその妻コクアの物語です。
 ケアウェはまだ独身であった時、50ドルで一つの小瓶を買います。それは中に恐ろしい顔をした小鬼が済む不思議な小瓶で、持ち主の願う事は永遠の命以外ならなんでも叶えてくれるというのです。ケアウェには、花が咲き乱れる庭に囲まれた王宮のような家を持つ夢がありました。その夢はたったの50ドルで直ちに実現されてしまったのです。
 もちろん、小瓶は呪われています。それを持ったまま死ぬと、持ち主の魂はその中の小鬼によって地獄に引きずり降ろされてしまうんです。難を逃れるには、ケアウェは生きている間にその小瓶を他人に買った価格よりも安く売らなければ売り手の元に戻ってきてしまいます。タダで譲ってもやはり戻ってきてしまうのです。
 小瓶の最初の持ち主であったアビシニアの王様は、悪魔に数百万ドルも支払ったといいます。だが人から人へ売り渡された数百年の間にその価値は大幅に下がり、ケアウェが買い取った時には50ドルにまで下がっていたのです。ケアウェは小瓶を友人のロパカに売り渡します。
 ある日、ケアウェはコクアという娘と出会います。二人は即座にお互いを好きになるのです。だがじきに、ケアウェは自分が不治の伝染病におかされていることを知ります。病をうつさずにコクアとの愛を貫く道はただ一つ。小瓶に病気を取り去ってもらうことです。だが小瓶は既にロパカの元を離れ、何人もの手を渡っていました。ようやく小瓶を探し当てると、その持ち主はなんと人から2セントで買ったという。ケアウェは泣く泣く小瓶を1セントで買い取ります。地獄へ堕ちる決心をしたのです。ハワイでは1セント以下の効果はありません。小瓶は死ぬまで誰にも渡せないのです。
 私は9年前に『貨幣論』という本を出版しました。小鬼の住む小瓶とは、知人が示唆してくれたように、まさに「貨幣」の象徴として読むことができるのです。
 人はみな貨幣を欲しがります。貨幣を持てば、どのような商品でも手に入れることが出来るからです。
 だが、貨幣の実体は、何の価値もない単なる紙切れや金属片でしかありません。その紙切れや金属片が1万円や1ドルの価値を持つのは、他人がそれを1万円や1ドルの価値として受け取ってくれるからにすぎません。そしてその他人が受け取ってくれるのも、さらに他人が受け取ってくれるからにすぎないのです。それゆえ、誰も貨幣を受け取ってくれないと人々が思い始めれば、実際に誰も貨幣を受け取らなくなってしまいます。ハイパーインフレーションと呼ばれる現象がそれです。その時、貨幣は急速に価値を失い、最終的にはその実体である単なる紙切れや金属片に戻ってしまうのです。
 そのことを極端な形で表しているのが小瓶です。それは一見すると、どのような願いでも叶えてくれる素晴らしいものに見えます。だが、その実体は地獄なのです。誰かが買ってくれなければ、持ち主の魂は小鬼によって地獄に引きずり込まれてしまいます。しかも、人から人へと売り渡される度に価格が下がるこの小瓶には、ハイパーインフレーションが始めから仕込まれているのです。誰かの魂が必ず地獄に堕ちるのです。そして、その運命がケアウェに降りかかったのでした。
 だが、話はまだ終わりません。この物語にはさらに、貨幣の論理を超越する論理が語られているのです。
 コクアは幸せなはずの結婚生活なのに、ケアウェが絶望しているのに気がつきます。その理由を知ると、聡明な彼女はフランス領タヒチでは1セントより小額の1サンチーム硬貨が流通していることを思い出し、ケアウェとともに移り住みます。
 しかし、タヒチでは誰も小瓶を買ってくれません。そこでコクアは意を決し、人を介してケアウェに内緒でケアウェから小瓶を買い取ってしまうのです。だが、ケアウェはすぐにそのことを察します。今度はケアウェが、人を介してコクアから内証で小瓶を買い取る決心をするのです。
 貨幣を手に持つ人間にとって、他人はすべて自分のための手段に過ぎません。自分の手元の紙切れや金属片を貨幣として受け入れてくれさえすれば、その人間がどのような人間であっても構わないのです。
 すべての人間がすべての人間にとっての手段となってしまう世界―それは、まさに地獄です。そして、そのことを単なる比喩ではなくしてしまうのが小瓶です。その持ち主にとって、すべて他人は自分の魂を地獄に堕とさないための手段でしかありません。いや誰か他人の魂を地獄に堕とさなければ、自分の魂が地獄に堕ちてしまいます。道理で小鬼は恐ろしい顔をしているはずです。
 だが、コクアとケアウェがそれぞれの相手に内証で相手から小瓶を買おうとした時、貨幣の論理が逆転します。二人は共に、相手を自分の手段とするのではなく、逆に自分を相手の手段としようとしたのです。本来何ものとも交換しえない絶対的な価値であるべき自分の魂を犠牲にして、相手の魂を救おうとしたのです。
 ここに、魂の交換が成立したことになります。だがそれは、同じ貨幣の価値をもつモノ同士の交換ではありません。二人がそれぞれ、何ものとも交換しえない絶対的な価値を一方的に相手に与えることによって、結果的に成立した交換なのです。それは、貨幣的な交換を超越したまさに倫理的な交換であるのです。
 そして、この交換には別名があります。「愛」という別名です。
 もちろん奇跡が起こります。
 ケアウェに頼まれて小瓶をコクアから買い取ったアル中の水夫長が、お酒欲しさにそれをケアウェに売り渡すことを拒否してしまうのです。
 二人が末永く幸せに暮らしたことは言うまでもありません。

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2008.05.13

「おかえりなさいませ、ご主人様」の不思議

Fig200501305 〜、本格メイドカフェメイド教室(?)には行ったことはありますが、実はホンモノのメイド喫茶には行ったことがありません。ですから、「おかえりなさいませ、ご主人様」などと言われたことはありません。もちろんウチに帰ってきても、妻も二人の娘もそんなこと言うわけありません(「言え」と言えばギャグで言ってくれるでしょうけど、むなしいのでやめときます)。
 さて、そんなメイド喫茶での常套句「おかえりなさいませ、ご主人様」でありますが、これって不思議じゃないですか?いや、別にメイド喫茶じゃなくてもいいんですよ。とにかく「ただいま」「おかえり」の「おかえり」です。
 今日授業中、ウチのメイド…ではなくてギャルどもと漢文の問題を解いてる時、なんだかまた話が脱線して、挨拶の話になったんですね。それでふと気づいたんです。

 「おかえり」「おかえりなさい」「おかえりなさいませ」
 これって命令形じゃん!?
 帰ってきた人に「帰れ!」って言ってるってこと?

 私四十ウン年生きてきまして、もうおそらく何万回も言ったり言われたりしてきたんでしょうけど、今まで気づきませんでした。
 たとえば「おやすみなさい」。これは命令形の尊敬表現として不自然ではないですよね、状況的に。もうそろそろ寝なさいということですね。お互いにそう言い合っても変ではない。
 しかし、帰ってきた人に対して、「帰れ」とはどういうことでしょう。「なんだよ、もう家に帰ってきたのかよ。さっさと会社に(学校に)帰れや!」ってことでしょうか(笑)。
 メイドカフェ風に言いますと、「なんだよ、このキモヲタ!さっさとジュースでも飲んでおウチに帰ってゲームでもしてろや!」っていうことしょうか(冗談ですよ)。
 まあ、「おはよう」とか「こんにちは」とか「さようなら」とか「ただいま」とか「Hello」とか、とにかく挨拶語というのは、本来の意味を失った形式的なものになるんですけど、それでも今挙げたものたちなんか、語源に遡ればそれぞれ「なるほどね」と納得できます。しかし、「お帰りなさい」は納得できないぞ。どういうわけでしょう。
 似たような命令形の尊敬表現では、「いらっしゃいませ」というのがありますね。これも似たような矛盾をはらんでいるんですけど、でもちょっと違うような気もする。基本、店の前を通過する人たちに「いらっしゃい、いらっしゃい(お店に入れ)!」と言って呼びかけるわけじゃないですか。それで実際店に入ってきた時に「いらっしゃい(ませ)」と言う。家で客人を迎える時も、基本玄関先で「いらっしゃい(ませ)」と言うわけですよね。そうすると、「Come in!」的なニュアンスで、「さあさあ、どうぞ中までいらっしゃい」という意味で使っているともとれます。店でも入り口から店の奥へ誘う感じがあるとも言えますよね。
1123580060 それに比べると「おかえりなさい(ませ)」というのは、やっぱり異質です。たしかに玄関が開いた音を聞いて「おかえり!」と言う時もあります。それを「いらっしゃい」と同じように考えることも可能ですけれど、我々はもちろんそんな意識をもってこの言葉を使っているわけではありません。
 歴史的に見ますと、どうも江戸時代にはこの表現があったようです。明治の初期の小説にもけっこう多くサンプルを拾うことができそうです。古いものを読んでいると、時々「今、おかえり」みたいなのも見かけます。これは「今、帰ったんですね?」的なニュアンスで分かる気がします。また、「おかえりなさい」の「なさい」を「なされ」の音便ととらえるのではなく、「なさる」の連用形「なさり」の音便と考えて、「お帰りなさりましたね」的に考えると、なんとなく納得できます。
 しかし、「おかえりなさいませ」と「ませ」まで付きますと、これはもう命令としか考えられなくなります。あるいは「ませ」を已然形と考え、すなわち係り結びの係り部分の欠落と考える…こりゃあ、無理だな(笑)。
 あと、出かける人に対して「お早くお帰り(なさい)」みたいな挨拶というのも実在しますね。これは完全に命令表現です。そういう願望があるからで、実現してほしいことだからです。しかし、帰宅時の「おかえりなさいませ」はそういうことではない…。
 う〜ん、なんだか分からなくなってきたぞ。「おかえり」の意味の他の表現、古語や方言なんかを調べてみても面白いでしょうね。あるいはこういう不思議な命令表現がほかにもあるかもしれない。まあ、もちろんちゃんと調べて論文書いてる人もいるでしょうけど。
 英語ではどうなんでしょうね。「ただいま」は「Hi, I'm home [back].」らしいけど、本当にそういうふうに言うんでしょうか。で、それに対する「おかえり」は、辞書にはただ「Hello!」と書いてある。実際のところどうなのか、今日ALTに聞いてみます。
 というわけで、かなり気になり始めたので、私なりに研究し、いずれ「メイド喫茶における挨拶語に関する一考察」という論文を書きます(笑)。

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2008.05.12

『プロレス黄金期伝説の名勝負』 (別冊宝島スペシャル)

Typ6 っと、またプロレスネタだぞ。どうした自分。それも昭和プロレスへのノスタルジー的記事、多くないか?
 今日、昭和プロレス旗揚げ戦という興行が行われました。本当は行きたかったけれど、平日ではとても無理です。行った方の報告を見ますと、往年の名選手たちは、皆それなりに加齢な(!)動きを見せてくれたようですが、なにしろ客席の雰囲気が、あの昭和のプロレス会場そのままだったとか。温かい野次が飛び交う交響的空間。
 会場に行けなかった私は、そんな昭和プロレスを懐かしむため、この本をじっくり読んでみました。う〜、なんか懐かしいとともに、ほのかな哀しさが…。もののあはれかあ。
 昭和が終わって20年。いや、昭和の余韻が消えて10年。10年ひと昔とはよく言ったものです。昔語りを始めるようになった私も、そろそろ後期中齢者(?)になろうとしています。
 多くの語り手がそうであるように、私もまた、あの頃は良かったという時、あの頃の日本は良かったという感慨とともに、「あの頃の自分は良かった」という感懐をも、そこに含ませています。
 先日『プロレス「悪夢の10年」を問う』の記事に書きましたように、まず変ったのは社会であり、それにつれて「私たち」も変り、そして、それに迎合する形でプロレスという商品も変ってしまいました。
 「私たち」が社会やプロレスを変えてしまったのだという、そういう言い方もレトリックとしては可能でしょうが、やはりそれは事実ではないでしょう。私たちにそんな意思などなかった。あくまで、政治という「集団気分」を醸成するメディアに流されてしまったのです。
 私は何度も小泉劇場を評価する文章を書いてきました(検索すればたくさん出てきます)。その一方で、たとえば「談合」を肯定し、アメリカ的な(エセ)ガチンコ市場至上主義を否定するような文章もたくさん書きました。そこに矛盾を感じる方もいらっしゃるとは思いますけれど、あくまで、私は小泉さんを役者として高く評価しているのであって、彼の騙ったシナリオの内容を賛美するものではありません。
 談合や根回しのような、まさにプロレス的世界を否定し排除しようとし続けたこの10年で、日本はさらに疲弊してしまった。なんだか「遊び」がなくなって、そう、柔道着から「遊び」が消えて柔道がJUDOになってしまったように、私たちも、みんなただの人間として窮屈に自分のなわばりを守ろうとするようになってしまった。常に緊張して相手のスキを狙っているような、そんな貧しい動物のようになってしまった。
 プロレスの凋落と総合格闘技の興隆の裏には、たとえばヤクザさんのお仕事事情の変化もありますよね。いわゆる「興行」という、地方の伝統に根ざした旧来のお仕事がしにくくなったおかげで、彼ら(の一部)は違うスタイルのお仕事をするようになりました。
 昭和の時代に誰が、さいたまスーパーアリーナに数万人の人を集めて地下プロレスをやるようになるなんて想像したでしょう。プロレスや柔道やその他の格闘技の領域で、人を傷つけない、また他の領域を傷つけない「道」を極めていた人たちが、ほとんど素手で本気で殴り合って潰し合いをするなんて、誰が考えたでしょう。
 それは夢として、妄想として、物語としてはありました。しかし、それはある意味侵すべからざる領域、すなわち聖域であったはずです。歴史的にもそういう聖域を守ってきたはずのヤクザさん自らが、俗世間の悪神たちに魂を売って、今のような状況を生んでしまった。あの法外な放映料はなんですか。リングサイド席ウン十万円とかいうそれこそヤクザなチケットはなんですか。
 さて、こんなふうにグチをこぼしても、もう時間は戻ってはくれません。ただ、私に出来ることは、「あの頃は良かった」という気分を醸成すべく、自分を演出していくことだけです。おじさんとか年寄りとか言われても全然構いません。なぜなら、歴史は常にそうしたうねりを繰りかえしてきたからです。その時に必要なのはやはりノスタルジーなんです。
 現状に早く飽きてしまえ。そして、反省して昔に戻れ、社会よ、自分よ、プロレスよ(その他、音楽や秋葉原やプロ野球や…いくらでも出てきますね)。
 そういう意味で、この本のような昭和の余韻が復刻されて、コンビニに並べられているというのは、実に結構なことです。気分の醸成に、最先端の商売が協力してくれているわけですから。
 この本の元本は、1993年すなわち15年前に発行された別冊宝島179号『プロレス名勝負読本』です。大きな変革期を迎えようとしていた、だからこそ古いものと新しいものがぶつかり合ってエキサイティングであった、80年代、90年代初期のプロレス名勝負について、そうそうたる人々がそれぞれ濃く熱く語っています。ああ、ライターも昭和してるなあ。そこにはまだまだ物語が息づいています。
 特に私が面白く読んだのは、今や東大の大学院の先生でもある松原隆一郎さんの文章ですね。今でも彼の格闘技論はなかなか本質を突いていて勉強になるんですけど、この頃からやっぱり視点が鋭いですね。社会学的、コミュニケーション論的な視点というのは、どちらかというと私のセンスに近い気がします。彼はジャズのマニアとしても有名ですし、ジャズと格闘技を本質的に同じものだと考えているあたり、私と気が合いそうです。一度お話してみたいですね。盛り上がると思うんですけど…なんて、東大大学院の先生をつかまえて何を妄想してるんだ(笑)。いや、こういう夢、妄想こそが「遊び」であり、明日へのエネルギーになるんですよね。
 それにしても、全編を通して読んでみますとね、猪木という男と前田という男、この二人がいかに天才的なアホだったか、よく分かりますよ。彼らが時代を動かしてしまった。政治的な動きと格闘技界を結びつけてしまった。もちろんヤクザの世界も含めてね。う〜ん、功罪半ばでしょうか。一つの文化を殺してしまったとも言えるけれども、一方で格闘家の食いぶちを供給したとも言えるしなあ。難しいところです。
 ということで、今日もすっかり懐古的な一日でした。しかし、先ほども書いた通り、こうした負方向への気分こそが次の時代への動力になるんです。そう、ゴムを引っ張ってパチンコ玉を飛ばすように、まずは逆ベクトルに加担しなくちゃ。

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プロレス黄金期伝説の名勝負

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2008.05.11

ゆとりありすぎ!?

Sany0074 ←click!
 真は去年撮ったものです。今日ふと思い出したので紹介しておきます。
 山中湖から篭坂峠を越えて、御殿場方面に向かって国道138号線を下っていますと、カーブの正面にこのシュールな看板が目に飛び込んできます。けっこうよく使う道なんですけど、通るたびに笑ってしまうというか、戦慄するというか、なんというか…。
 いや、気づくまで、おそらく百回単位でそこを通過し、何気なくこの絵も見てたんですよね。でも、それほど深く考えなかったのか、特に変だとも思わなかったのです。それが、ある瞬間からもうツボにはまってしまい、とても無視できなくなってしまいました。
 だって、どう考えても「安全運転」じゃないっすよ!(笑)。まず第一、運転してるのはどう見ても子どもでしょう!これがもし成人だったら、それはそれでコワイっすよ。
 さらに運転手も同乗者も、窓から顔を出して、というより身を乗り出して、そしてこっちに向かって手を振ってます。非常に危険な運転ですよね。暴走族の箱乗りに近い状態です。
 さらによく観察しますと、この運転手、妙に顔がでかい。これは運転中に顔を出したというより、最初からこの状態で運転していたと考える方が自然です。とても窓から出し入れできる大きさではありませんから。
 そして、その運転手の顔の大きさと、同乗者の顔の大きさの比が不思議なことになっている。遠近法を無視したおそろしい構図です。同乗者は助手席に乗っているんでしょうか?それとも、後部座席に座っているんでしょうか。それを考えると、こちらは運転中、心のゆとりは失われ、全く楽しくないドライブになってしまいます(笑)。もしかして、これはホラーなのでは…。
 この二人、いちおうシートベルト様の物体を体にからめているようです。そんなところは妙に律義なんですけど、しかし、やはり非常に危険な状況には変わりありません。
 いったい、御殿場警察署はいかなる意図をもってたのような看板を設置したのでしょう。だいいち、背後の木が生い茂って、字が読めなくなっています。「心のゆとり○ 楽しいドライブ」の○の部分はいったいなんという文字が入るのでしょう。「で」が一般的な可能性でありますが、いや、このシュールさから言って、そんなに単純なはずはない。少年的に「さ」かもしれないし、やや断定的に「だ」かもしれない。いや、彼らのことです、暴走族的に「じゃ」かもしれない…((((;゜Д゜)))。
 とにかくこいつら「心のゆとり」ありすぎじゃありませんか?一般の運転手たちを戦慄させ、たしかに自身は「楽しいドライブ」を実現しているかもしれない。しかし、とても安全運転とは言えませんな。
 皆さんも一度生でご覧下さい。このあたりには他にもシュールな看板や標語が散在しております。そういう意味ではたしかに「楽しい」のかもしれません。
 ちなみに看板の足に刻まれている文字は「贈 泰平サービス」です。

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2008.05.10

純米吟醸生酒『丁子屋』(富士高砂酒造)

Imgcnv 今日は嵐の中、父方母方双方のお墓参り。毎日楽しく幸せな生活ができるのも、ご先祖様のおかげであります。
 いやはや、今日は本当にお墓参り日和でしたよ(笑)。静岡なのに寒い寒い。風も雨も激しく、さすがにこんな日にお墓参りする人はほかにいませんでした。ちなみに富士山の家の最高気温は5度台だったそうです。それに比べればまあさすが静岡、10度は超えてたんじゃないでしょうか。
 そんな過酷な環境の中、子ども連れのお墓参りしたからでしょうか、ご先祖様も哀れに思ったんでしょうかね、昼間っからいいものを食べさせていただきました。
 そう、ちょうどそっち方面に出かけたものですから、年に何回かは訪れるとろろ汁『丁子屋』に行ったんです。
 いやあ、さすが江戸時代のファーストフード。まず早いっす。少なくともモスよりは早いな。まあ、昼過ぎということで、あんまりお客さんがいなかったというのもありますが、ちょっとトイレに行ってくると言って消えた子どもたちが帰ってきた頃には、もう机の上はいっぱいになってました。
 給仕のおばさんが食べ方を説明してくれました。机の上にも食べ方の説明があります。

「麦めし、茶碗に半分盛ったならば、
 めしつぶ泳ぐよに、とろろかけ、
 お薬味上からふりかけて、
 ザァザァ音たて流しこみゃ、
 いいじゃん、いいじゃん、うまいじゃん」

 早い上においしくて体にいいんですから言うことないっすね。これこそ全国チェーンにしてもらいたい。いや、静岡ならではの山の幸、海の幸ばっかりだから、そりゃ無理か。
453 さて、ワタクシ、今日は昼間っからおいしいご先祖様からのプレゼントをいただいちゃいました。日本酒です。写真に写っている揚げとろと日本酒がよく合うんですよねえ。
 今日、頼ませていただいたのは、三種類ある冷酒のうち、真ん中の銘柄「丁子屋」です。この前、一番上の「丸子の宿」をいただいたので、今日は少し遠慮気味にこれにしました。
 いやあ、そしたらご先祖様のおかげでしょうかね、とってもとってもおいしかったんです。で、これはどこのなんというお酒かな、と思い観察してみますと、おお、富士高砂酒造のお酒ではないですか。
 富士高砂酒造さんは、富士宮市の浅間神社本店…じゃなくて本宮のすぐ隣にある酒蔵です。そこそこ近所ですので、けっこうよく呑むブランドなんですが、この純米吟醸生酒は初めてでしたね。
 「丁子屋」のラベルが貼ってありますけど、おそらく中身はここにある純米吟醸生酒でしょうね。
 日本酒の味もしっかりしますけれど、ものすごくまろやかでフルーティー。とろろ系の食べ物は比較的あっさりした味ですので、こうしたスッキリしたお酒は合いますね。気に入った!
6523 と言うわけで、とってもおいしくとろろ汁&麦飯、その他とろろ料理、そして私はお酒をいただきまして、ごちそうさまです。実は、みんな出かける前に早めのお昼ご飯を食べていまして、さすがにたくさん食べられないんじゃないかとか言ってたんですけど、みんな食べる食べる。ふだんは夕飯しか食べない私も、とろろなら昼間っからいくらでも食べられます。
 結果として、ネギ一つ残さず、キャベツの破片一つ残さずものすごくきれいに食べきりました。子どもなんて、禅僧風に最後はとろろのついたお茶碗にお茶を注いで、たくあんできれいに拭き取り、そしてゴクッと飲みきってました(笑)。いいことです。残さず有難くご先祖様からの贈り物をいただく。これこそ最高の供養でありましょう。

タウンページ「丁子屋」

富士高砂酒造

静岡県内の地酒蔵元の中から名蔵元と言われる6蔵元の日本酒をセット。しずおか「ふじのくに地酒のみくらべセット」

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2008.05.09

障子に桜咲く

Syouji 子というのはよく考えるとすごいモノですね。世界中探しても、なかなかこういうものはない。なにしろ紙ですからね。昔はもちろんガラス戸なんかありませんから、紙一枚で内と外を画していたわけです。
 通気性があり、また、外界の光をおよそ半分透過拡散し、案外断熱性も高く、湿度の調整までしてしまう。紙だから破損しやすいかと思うと、専用の障子紙はなかなかの強度を持っています。適度な弾力がその強さの秘訣ですね。
 あと、格子状の直線的デザインも和室には欠かせない要素の一つです。この写真は拾ってきたものですけど、円窓の曲線と障子の直線の対比が美しいですね。
 さて、今日は先週に続き実家に来ております。いよいよ実家もブロードバンドになるということで、無線LANやら何やらの設定をしに来ております。
 家族みんなついてきまして、オマケに黒猫のミーも来ました。彼女はまだ子猫なんですが、下半身不随なので、泊まりのお出かけとなると、どこにでも連れていかなければなりません。自力で排尿ができないので、置いてけないんですね。
0093 で、ミーがですねえ、なんだかいつのまにかケージから脱出しまして、実家の和室の障子をガリッとやってしまったんですよ。ガーン。
 そこで登場するのが「ザ・障子張り職人」ウチの親父です。この前、iBookをハサミでジョキジョキ切り刻んだ恐ろしい人です。しかし、あの大胆な行動とは対照的に、障子張りに関しては、非常に繊細な仕事ぶりでありました。
 だいたい、「障子張り用」と書かれた箱にいろいろとマニアックな道具が入っている時点ですごい。私なんか面倒だからアイロンで貼るタイプでてきとうにごまかしちゃうんですが、父はちゃんと昔ながらに障子貼り糊から作ります。なんだか見たこともない障子張り用の定規なんかもあるぞ。
 なのにカッターの刃が逆さにつけてあって、つまり上下前後が逆、すなわち持つ方から刃が出ていたりするのは、まあご愛嬌(笑)。さすがにちょっとボケて来ているのか、あるいは職人的にはそこはこだわらない部分なのか…。
0094 で、今回は被害が小さめでしたので、すでに数枚用意されている桜の花の形をした当て紙で補修いたしました。これもまたいかにも日本的な世界観ですね。張りたての完全なる障子世界も美しいものですが、こうして、完全の欠けてしまった、いわば不完全な世界を、一つ発想を変えて、一つ何かを加えることによって、違う完全世界を作ってしまうんですね。
 こうして桜が咲きますと、障子世界のみならず、部屋の風景や、こちらの気持ちまでも変ってしまうから不思議です。また、咲いた桜に、この日のミーや私たち家族の記憶が残るわけですよね。この桜の花を見るたびに、この日を思い出すことができるわけですから、これまたオツなものであります。
 最近ではこのように猫でも破れない障子紙が発売されていますけど、ある意味味わいがないとも言えますね。こうなると逆に猫ちゃんガンバレ!と言いたくなるかも。

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2008.05.08

○○始まったな…

Cut_nayami の微妙な萌えキャラは総務省のホームページから無断転用しております。総務省さん許してね。「え〜?勝手に使わないでよ」と困った顔をしている彼女、「電波りようこ」という名前だそうです。
 で、こういう意外なことが起きた時、ネット上ではいろんな人たちが「総務省始まったな」と言います。これは面白い表現ですね。一般には「総務省終わったな」の逆説的表現だととらえられますが、実は一概にそうとも言えない場合もあるんですね。つまり、本当に「始まった」という意味で使われることもあるというわけです。
 つまり、このイラストを見て、「おいおい、総務省とあろうものがこんな萌え系のキャラを使うなんて、ああ、もう総務省も終わりだ。日本も落ちたもんだな」と真剣に思った人が揶揄として「始まったな」と言う場合と、「うお〜!萌え〜。総務省さんもこんなことするんだ。りようこちゃんも萌えだけど、総務省も萌えだなあ。いやあ日本に生まれてよかった」(笑)という意味で「始まったな」と言う場合があるということですね。
 修辞法としての反語や逆説というのは、実はこのように解釈が難しいのです。日常の会話でも解釈に迷うことはよくありますし、古文を読んでいたりすると、そんなことばっかりです。これは一つの婉曲表現であり、朧化法であります。
 こんな例もあります。例の秋田県羽後町の「スティックポスター」に関して、こんなふうな表現がされています。発展的な用法です。
 「秋田で最も始まっている羽後町始まり過ぎ」
 これをどう解釈すべきか…なかなか難しい国語の問題ですね。中間テストに出そうかな(笑)。ある意味この文章だけでは答を出すのは困難です。いわゆる文脈が必要になります。また、表現者の立場や心情によって解釈が変わってくる場合があります。いろいろと考えてみてください。面白いですよ。
 ちなみに、今「北京オリンピック始まったな」と言った人に対して、「えっ?まだ始まってませんよ」なんて言うのは愚の骨頂です。KYです(笑)。
 ところで、今気がついたんですけど、こうした逆説的揶揄表現には一つのルールがありますね。すなわち、悪いイメージのものに対して良いイメージの言葉を使って表現することはありますが、その逆はないということです。つまり、「終わったな」という意味で「始まったな」とは言うけれども、「始まったな」という意味で「終わったな」とは言わないんですね。
 ちょっと卑近な例になりますが、美女や美男子に対して不細工とは言わないけれど、不細工に対しては美女とか美男子とか言いますよね(笑)。私なんかよくハンサムとかイケメンとか言われますよ…ハハハ。
  まあ、基本揶揄とか皮肉とか罵倒とか嘲笑なわけですから、当然のルールといえば当然のルールですな。難しいことじゃないか。
 そうそう、これは敬語の使用についても言える現象ですよ。敵や見下すべき存在に対して、「御前」とか「貴様」とか言うじゃないですか。「てめえ(手前)」とかもそうかな。「おまえ何様だ?」とかも。そして、結果として敬意の逓減と言われる現象につながっていきます。
 その逆ってありえませんよねえ。ま、謙遜という形で自分を卑下する場合はありますが。でも、とっても細い女の人が、メタボなおばさんを前にして「私最近太っちゃって…」とか言うと、反感買いまくりますけどね(すなわち、自分を卑下するのではなく、相手を卑下してしまう…笑)。言葉は難しいっすね。
 あっそうだ、感嘆詞的な用法としては、すばらしいものに対して、「チョーやべえ」とか「まじ死ぬ」とか「ありえねー」とか言いますね。そういうのは古文の時代からたくさんあります。
 というわけで、今回の「総務省始まったな」はどっちなんでしょうね。総務省さんとしては、始まらせたんでしょうか。ま、自ら終わらせる人もいないでしょうけど。ただ、KYな人が始まらせようとして終わらせてしまうことも往々にしてありますので。
 電波利用のページということで、アマチュア無線の方々が対象になるでしょうから、やっぱり狙ったんでしょうか。まずは総務省さんに聞いてみましょうか、始まらせようとしたのか。
 いや、ちょっと待てよ。電波利用子(りようこ)…う〜む、冷静に考えるとこのネーミング…やっぱり、「始まったな」(笑)。

総務省

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2008.05.07

『プロレス「悪夢の10年」を問う』 (別冊宝島)

世紀の「大沈没劇」を検証する
Seuyuy たプロレスネタですみません。でも、これは私にとって、自分の生き方そして社会の変化について考える、非常に重要なヒントを与えてくれるもの、いやほとんどテーマそのものなので、どうしても避けて通れないんです。
 やはり、プロレスは自分や社会を映す鏡なんですよね。ですから、プロレスの凋落激しかったこの10年というのは、まさに自分たちや社会が、そういうふうに変わった10年だったということなんです。
 世間ではいったい犯人は誰だ!?のような議論が盛んに行われました。そして、実際にいくつかの原因が取りざたされましたが、どうもすっきりしない。そう、最も激しく犯人扱いされたのは、ミスター高橋の暴露本でしょう。もちろん私もそれを読みましたが、それはまあ不文法を明文化しただけであって、何を今さらとは思いましたが、世の中を改革してしまうほどの力は感じませんでした。やっぱり原因はそれじゃあない。
 このムックも基本、一般論に対する懐疑的な立場をとっています。しかし、だからと言って何か一つの結論が提示されているわけでもない。冒頭に「変わったのはプロレスか、自分か、それとも−」とある通り、結局よく分からないまま終わっています。というか、ずいぶんと話がそれていって、あれ?この本って何の本だっけ?という感じ。そして、なぜかそのそれた部分の方が読み物としては面白かった。
 特に、昭和を彩った怪物記者、怪物編集者の皆さんのくだらない(失礼)ぶっちゃけ話と、彼らに対するある意味プロレス的なわざとらしさを伴った宝島側のツッコミには、大いに興奮させられました(笑)。
 あと、「大沈没劇」のおかげで味わえる哀愁という意味では、最後の阿修羅原のインタビューと劇画が秀逸でした。もうほとんど演歌の世界ですよ。そうそう、去年泣いたラッシャー木村の劇画と同じ「もののあはれ」だな。沈没の美…国際プロレスって本当にいいですねえ。カミさん曰く「人生の春夏秋冬…(涙)」。
 さて、いきなりですが、私はよく分かってるんですよ。なんでプロレスが凋落したか。変わったのは、プロレスであり、自分であり、社会なんです。そうですねえ、順番としては、まず社会が変わった。そして自分(私たち)、最後にプロレスなんじゃないでしょうか。
 2001年、ミスター高橋の暴露本が出版された年ですね、この年は小泉構造改革が始まった年でもあります。そして、どんどん世の中のいわゆる「ムダ」が排除されていきました。全てがリアルにオープンの方向を目指し、それこそがいいという神話が形成されていきました。ガチンコ社会こそが「機会の平等」を生むという幻想が生まれたんです。
 そこで消えたのが例えば談合です。私はこちらで書いた通り、談合こそプロレスであり、それが人間の本質と智恵であると考え、行きすぎた談合はですね、それはいかんとは思いますが、だからと言って、それを徹底的に排除して自分たち個人個人の欲望と無力さを露呈させるのには大反対なんです。
 でも、世の中はみんなそっちの方向に行ってしまった。リアルを求めてしまった。総合格闘技の人気が出たのも、そういう我々の意識が商売になるからでしょう。談合じゃなくて、ガチンコでオープンのオークションの方が正しいし、面白いと思ってしまった。
 レスラーたちも喰っていかねばなりませんから、市場がそちらに流れれば、自然とそういう方向に行きたくなります。特に体の小さな人たちはそうでした。体が小さいと、プロレス的にはルチャをやるしかないわけですから。
 そういう意味で、このムックで一番勉強になったのは元UWFインター山本喧一選手のインタビューでした。彼は本当にいいことを言っています。今、彼は格闘技の世界で頑張っているわけですけど、彼も体が小さかったので、いわゆるプロレスラーにはなれなかったクチです。自分でもそう言っています。彼は「プロレスは化け物の世界」と語っていますが、まさにそれですね。今のプロレス界には馬場や猪木やアンドレや鶴田のような化け物がいません。プチ化け物やシロウトがずいぶんと増えてしまいました。それも凋落の原因でしょうね。
 逆に言えば、それは「見世物文化」の衰退とも言えます。世の中のエセ福祉、エセ思いやり、エセ平等、エセ人権、エセヒューマニズムが、そういう「モノ」を幽閉しつつあります。教育現場でもモノノケはずいぶんと生きにくくなってますよ。まったくねえ。
 大相撲の凋落も、まったく同じ原因でしょうね。日本古来の素晴らしき神道的伝統である、談合的全体主義と見世物的福祉と物の怪への畏敬の念が消えてしまった。残ったのは、我々人間個人の不純なる「自己」と単純な勝ち負けの図式だけでした。そういう「コト」を包み込んでいた母性のようなモノはどこに行ってしまったのでしょうか。人間のデジタル化なんでしょうかね。アナログ的なあいまいさと、美しきムダやムラはもう評価されないんでしょうか。
 …と、話がふくらみすぎてしまいましたね。なんだか自分でも何を言っているのかわからなくなりました。とにかく、とんでもない怪物が現れて、総合でも完全王者になってくれるしかないですね。私たちの欠落感を埋める物語を紡ぐ、そういうある意味天皇みたいな、恒星みたいな、そういう存在が現れねば。朝青龍もジョシュ・バーネットもいいけど、やっぱり日本人のそういう怪物が現れてくれないかなあ…やっぱり三沢さん?

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2008.05.06

富士山麓の初夏を満喫(うぐいす&モリーユ)

080506 日はいい天気でしたね。雲一つない五月晴れ。ようやく富士北麓にも初夏の気配がやってきました。
 虫捕りをしたいという娘たちといっしょに近くの森を散歩。うぐいすが鳴いていたので、いつものレコーダー(iPod nano + LIC-IREC01)で生録をしてみました。
 マイクのアッテネータはLowポジション、すなわち高感度(ややこしいな)。このモードは会議なんかの記録用なんですが、かなり感度が高いですね。ウグイスの声が少し割れました。たしかにすぐに近くにいましたけどね。かなり遠くの犬の鳴き声もしっかり録れてます。下のファイルをクリックしてお聴きください(かなり音が大きいので注意)。
 うぐいすmp3
 なんだかちょっと字余りな感じのうぐいすですねえ。ホーホケキョケキョ。このレコーダー、ノイズも思ったより低く、ちょっとした生録にも使えますな。
Amigasatake 結局モンシロチョウを一匹捕獲しただけで、ウチに帰ってきたんですが、庭で遊んでいた娘たち、今度は高級食材を見つけました。そう、以前紹介したチブル星人ことモリーユですね。アミガサタケです。なかなか立派なものです。
 今年はどういうわけか春の山菜があんまり出ませんでした。いつもならちょっと困るくらい庭を占拠するフキノトウもいつもの2割くらい。フジザクラやソメイヨシノもいつ満開だったのか分からないうちに散ってしまうし、どういうわけなんでしょう。それほど異常気象という感じではないんですが。自然というのは微妙なものです。
 さて、このチブル星人、どういうふうに料理しようかな。

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2008.05.05

『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』 ビル・ロビンソン (エンターブレイン)

65hj 先から帰ってきて、録画してあったサラリーマンNEOを観ましたら、また「サラリーマン体操」にプロレスネタが…。ついに馬場と鶴田の登場です。どう考えてもこれは私の趣味を考慮して番組を作ってますな(笑)。「オーッ」までやってくれました。
 しかし、この前カール・ゴッチについての間違いを指摘させていただいたのと同様に、今回も一つ間違いを指摘いたします。
 写真をご覧になってわかりますかね。字幕には「眠気覚ましの三冠王者 J鶴田のジャンピング・ニーバット」とありますが、これは「バット」ではなくて「パット」ですよ。NHKさん、しっかりしましょう(笑)。
75772082 さて、カール・ゴッチは「神様」ですと指摘させてもらったのに関しまして、違った意味で再び反論しているのがこの本です。帯にはこうあります。
『カール・ゴッチは決して神様などではない!』
 そう、著者であるビル・ロビンソンさんは、実際に手を合わせた者として、ゴッチを神格化する日本のプロレス界(というかマスコミでしょうかね)に苦言を呈しています。たしかにゴッチは優れたシューターの一人ではあったが、彼以上のレスラーはいくらでもいると断言しています。
 この本では、ゴッチだけではなく、往年の名レスラー、テーズやガニア、猪木や馬場、そして鶴田などの評価がかなり詳細に書かれています。それらは非常に興味深い内容です。結論だけ言ってしまうと、彼が最も「強い」としているのはダントツでビリー・ジョイスです。私は彼について全く知識がありませんが、とんでもないテクニックを持ったシューターだったらしい。おそらく、今の総合格闘技の試合にビリー・ジョイスやビル・ロビンソンが出たら、余裕で勝つんでしょうね。
 日本人ではやはりダントツで猪木を高く評価しています。鶴田はいまいち。馬場はビジネスマン。あとは生徒扱い(笑)。
 それから興味深かったのは、桜庭和志を高く評価している点ですね。それと比較して田村や高田の欠点を指摘しています。なるほど、という部分です。
 そう、やっぱり桜庭なんかが、ちゃんと「プロレスラー」として、「プロレス」をやればいいんですよ。この本を読んで再びそのことを痛感しました。
 この本を読みまして、私のいろいろな疑問が氷解しましたね。なぜプロレスが凋落したか。なぜ総合格闘技に違和感をおぼえるか。真のプロレスラーとはどういう人たちなのか。
 つまり、ロビンソンが活躍していた時代のプロレスには、「ショー」も「ガチンコ」も全部含まれていたんですね。馬場もそういうこと言ってたじゃないですか。それが、どういうわけか、「ショー」と「ガチンコ」に分かれてしまった。それで、お互いがいがみあっている、というか全く相容れないものどうしになってしまっている。
 この本を読めば、そんな二分法がいかに幼稚でプロ意識の低いものか、よ〜く分かりますよ。象徴的なのは、ロビンソンが語気を荒げて(たぶんね)不快感を表明している『「シュート」と「ワーク」』の章です。ここで、彼は「シロウトが軽々しくシュートとかワークとか言うな」というようなことを述べています。その理由は大変に奥深く、だからこそ完全に言葉になっていないような気もしますが、その理由こそが、今のプロレス界、格闘技界が見失っているものだと思いました。
 去年買った国際プロレスのDVDの最後に、ビル・ロビンソンさんと宮戸優光さんによる、伝説の名勝負の一つ「ビル・ロビンソン対バーン・ガニア」の解説があったんですよ。それはそれはすごい内容でした。いかに彼らが高度な攻防を繰り広げていたか、それは単に自分が勝つための技術的な攻防だけではありません。相手を活かし、お客さんを盛り上げるための、非常に知的な攻防がそこにあるんです。
 ロビンソンさんは、彼の理想とする「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」すなわちランカシャー・スタイルのプロレスリングを「フィジカル・チェス」と表現しています。そこに全てが表現されていますね。
 今、ロビンソンさんは、高円寺に住み、スネークピットジャパンでコーチをしています。古き良き本当のプロレスを後世に伝えるべく、自ら手取り足取り指導をしてくれているそうです。心のプロレスラーとしては、ぜひとも一度行ってご指導いただきたい!
 近いうちに訪問したいと思います。

Amazon ビル・ロビンソン自伝

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2008.05.04

日本平動物園

080504 日より、ワタクシの実家のある静岡市に来ております。山梨はなんとなく寒くてストーブなんてたいたりしてたんですけど、こっちはもう完全に夏です。寝苦しいなんてもんじゃない。いやあ、隣の県なのにこうも違うか…。
 さて、今日は私の母と私のカミさんは東京へ行っております。シャンソン歌手のしますえよしおさんのコンサートに行ってるんです。きっと感動して帰ってくることでしょう。そして、カミさんによるものまねショーが絶対始まります(結果、やっぱり始まりました…笑)。
 で、残された私と娘たちと父は、4人で日本平動物園に行ってきました。私は、そうですねえ、まじで40年ぶりくらいに行くんじゃないでしょうか。日本平動物園と言えば直立レッサーパンダの風太ですね。そう、彼はここ日本平動物園で生まれたんですが、千葉の動物園に連れていかれて、そこで大人気になりました。日本平としては複雑な心境だったでしょうね。
 日本平動物園は、静岡市営の動物園として1969年に開園しました。全国で動物園ブームが起こっていた時期ですね。まさに私の幼少期のことです。それから、なんだかんだ言って、動物園というのは家族レジャーの定番施設として、脈々とその命をつないできました。最近は経営難のところが多いようですけど。
 よく言われるように、動物園というのは実に近代的、暴力的、植民地支配的な発想による歓楽施設なわけでして、それについてはある意味いろいろと問題もあるわけですね。動物愛護どころか動物虐待ではないかと。
 まあそんなふうにも言おうと思えば言えますが、まあ動物の気持ちなんて案外分からないものでして、彼らも、命の危険にさらされず、それこそ近代的な生活を満喫しているとも言えるわけですから、もしかすると幸せだ、ラッキーだったかも、と思ってるやもしれません。
 そして、これもまたよくある言い方ですが、オリの中から我々人間をウォッチングしているのかもしれませんね。オリの中にいるのは私たち人間たちなのかも…。まあ、なんとでも言えますな。
 さて、そんな動物園に久々に行ったわけですけど、なんだか、私は違った意味で衝撃(笑撃)を受けましたねえ。全く、ウチの娘たちと来たら、本当におかしい。本物の動物たちに、まあそれなりに感動はしてましたけれど、それ以上に、なんだか違うことで盛り上がってる。
 それはすなわち、ポケモンであります。えっ?動物園でポケモン?
 そうなんですよ〜。それぞれの動物を見るなり、ほとんど全てポケモン化するわけです。サルはヒコザルとか、カメはカメックスとか、キリンはキリンリキとか、ペンギンはポッチャマとか…よくわかりませんが、なんでも32体ゲットしたらしい。
 おいおい、どっちがオリジナルなのか分かってるのか!?リアルよりフィクション、ファンタジーの世界の方が大事なのか!?
 ま、考えようによっては、子どもというのはこのくらい妄想的な方がいいのかなあ。夢があるというか、物語的世界に生きるというのか。なんだか、いろいろ考えちゃいましたよ。
 だいたい、ポケモンだって、実に近代的な支配被支配関係に成り立つ物語ですよね。物の怪を飼いならし、そして闘犬、闘鶏的バトルをさせるわけですからね。いかんなあ。たしかに、ポケモンには人とポケモンとの信頼関係や、相互的な成長なんかも見られるわけで、まあリアルな動物園的世界よりは多少救いがあるのかもしれませんね。いや、そうでもないか…笑。
 今思い出してみれば、幼少のワタクシも、動物を見てはウルトラマンの怪獣の名を叫んでいたような気もします。ああ、こうしてヲタの遺伝子は継承されていくのでしょうか(笑)。
0805042 あと、面白かったのは併設されている遊園地(?)でしょうか。それこそ昭和を感じさせる遊具がたくさん。一番笑ったのはメリーゴーランドです。遊具自体の渋さは言うまでもありませんが、なぜか回転中ずっと「山口さんちのツトムくん」がかかってました(笑)。
 ところで、よく見るとメリーゴーランドの馬って、テオドール・ジェリコーの「エプソムの競馬」風のデザイン、すなわちあり得ない走り方してるんですね…なんて、そんなとこにツッコミを入れるなんて、私も野暮な大人になったものですね。

日本平動物園公式

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2008.05.03

角石(かどいし) 『若き百姓よ/休耕田に佇つ百姓』

Kadoishi1 日の中世ヨーロッパ音楽とは全く違う…かと思いきや、案外似たものを感じたのであります。なんというかなあ、土着の音楽というか、風土が生む歌というか、言葉が先というか…。とにかく非近代西洋音楽であります。
 今日中古レコード屋さんから届いたこのEP盤、知る人ぞ知る「百姓フォーク」伝説のグループ「角石(かどいし)」のシングルであります。今でも日本の音楽史の中の珍盤として、たとえばこちら「」にも収録されていたりします。
 で、実はこのグループのリーダーで、この濃〜い曲の作曲も手がけ、そして味わい深いボーカルを担当している阿部養助さんがですねえ、ウチのカミさんの実家の3軒隣のご主人なんですよ。全くビックリです。
 いやあ、最近、ウチのカミさんの生まれ育った秋田県の羽後町が、本当にワタクシ的にブームになっちゃってて、ホント驚きなんですね。ちょっとまとめてみますとですね、次のようになります。

 1 土方巽
 2 かがり美少女イラストコンテスト
 3 古典的メイドカフェ
 4 角石 関係記事…この記事
 5 佐藤信淵 関係記事…いずれ書きます

 私のセンサーに引っかかりまくり。いくらなんでも、これは偶然ではないでしょう。あまりにピンポイント過ぎます。日本にはたくさんの「田舎」があるでしょうが、ここまで私の心をひきつける所はないですよ。自然も豊かで素晴らしい上に、独自の文化があまりに私好みです。
 それにカミさんとは結婚してちょうど10年になりますけど、今年になってからなんですね、いろいろと分かり始めたのは。てか、カミさんはほとんど知らなくてですね、私が「○○って知ってる?」と聞くと、「ああ、それは…」という展開が多い。お互いにとって驚くことばかりです。結婚10年目にして、ようやくこの人と結婚した意義が解った…なんちゃってね。
 話を「角石」に戻しましょう。とにかくこの伝説のグループ&楽曲、聴いていただきたいですねえ。すごすぎますよ。著作権の問題もありますが、ここは思いきって音を載せます。あえて音を劣化させるために(?)、こちらのレコーダーで生録したものです。あくまで、部屋の音を生録したということで。たまたま、かかってた曲がこの曲だったと(ありえね〜!ww)。

若き百姓よ
休耕田に佇つ百姓

Kadoishi2
 どうですか!?もう解説は不要ですよね。すごすぎます。ソウルフル過ぎます。かっこよすぎます。このメッセージ性、今のJ-POPなんていうチャラチャラしたものとは比較するのもおこがましい。
 歌詞は右を画像をクリックしてご確認ください。作詞はこれも伝説の農民彫刻家である皆川嘉左衛門さんです。ジャケットの農民像(彫刻ですよ、これ)も彼の作品らしい。
 1979年と言えば、私は一生懸命洋楽を聴いていた時期です。高校に入学した年でしょうか。ヴァイオリンを弾き始めた頃でもありますね。そんなチャラチャラしたことをやっていた少年がいた一方で、当時5歳かそこらだったカミさんの棲む集落では、こんなに熱い音楽をやっている青年がいたわけです。なんということでしょう。
 今度、近いうちに羽後町でウチの歌謡曲バンドのライヴをやろうと考えているんですが、これはもう当然この曲をやらないわけにはいかないでしょう。やりたいっす。ストリングスも重厚に入ってますし、いいんでねえが。こうなったら、養助さんにぜひヴォーカルを!頼んでみようかな。
 ちなみに阿部養助さん、今年町議会議員に当選されたそうでして、また、今でも音楽活動をされているとのことで、町おこしのために一つ音楽の力を利用していただきたく思います。今度、秋田に行った際には、ぜひお会いしたいものです。
 いやあ、不思議な縁が続きますなあ。人生は面白いっす。アンテナを張り巡らせていると、まあとんでもないメッセージがつかまるものですよ。心を開いて待っているという姿勢って大切ですね。
 しっかし、すごい!角石!ぜひカバーさせていただきたい!

Amazon 幻の名盤解放歌集 ワーナー ミュージック 春の紅白歌合戦 白組編

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2008.05.02

アンサンブル・ラルバ 『ソプラノとリュートで紡ぐ 中世の愛の歌』

542ga 士吉田パプテスト教会で行われたヨーロッパ中世音楽のコンサートに行ってまいりました。
 歌とサンフォニーは夏山美加恵さん、リュートはルネ・ジェニス=フォルジャさん。
 セフェルディックやトルバドゥールの歌といった、11世紀から13世紀にかけてのイベリア半島の音楽を中心とする大変渋いプログラムでしたが、会場は満員大盛況。私のような古楽人でもなかなか生で聴く機会のないジャンルでしたから、一般の方はどのような印象を持たれたのでしょうね。きっと不思議な感じがしたのではないでしょうか。いわゆるヨーロッパのクラシック音楽のイメージを抱いて会場にいらした方々は、あの非和声的、旋法的、即興的、詩的な世界は、全くの新しい体験だったのでは。
 当時のイベリア半島には、イスラムやユダヤの文化が多く流入し、中世キリスト教音楽と、現地の民俗音楽が混ざり合う、大変に個性的な音楽や詩、そして言語が発達していました。近代的なそれらに統合される前の一種カオスの状況とも言えますね。そこに立ち現れるエネルギーはどこかアジア的でもあります。ああ、そうか、その頃はまだ、「西洋」は確立してなかったんだよなあ。西洋以前、西洋はまだ世界の一地域に過ぎなかったわけでして。
Nm 今日演奏された曲、そして楽器は、明らかに西アジアを発祥としています。リュートと称された復元楽器はほとんどウードですし、歌われる旋律にもアラブ音階が多く混入していました。私は当時のヨーロッパ語についてはほとんど分かりませんけれど、歌われた詩における言葉もかなり古い形なのだと思われます。いちおう私、古い日本語を専門していますから想像はつきます。1000年前の日本語はつまり平安のそれですからね。語彙、文法だけでなく、音韻的にもとんでもなく今と違います。
 そのへんの復元について、どのように行われているのか、夏山さんにいろいろとうかがいたかったのですが、終演後子どもが早く帰りたがっていたので、充分な時間が取れませんでした。残念。
 そうそう、お客さんから「楽譜が残っていないのに、どうやって当時の音楽を復元するのか」というするどい質問が飛んでいましたね。夏山さんは「企業秘密」とおっしゃっていましたが、まあそのへんの事情については私はよくわかります。そして、その企業秘密の部分こそが、いわゆるクラシック的な発想とは違う古楽的な部分であると思いますし、その現代性とも、またその自己撞着性とも言えると思いますね。そうしたファンタジックなところや、フィクショナルなところが面白いんですよね。
Rgf 西アジアで生まれた音楽が、かたやシルクロードを通って東の果て日本(わかりやく言えば正倉院)にたどりつき、かたや西進してイベリア半島にたどりついた。そこでしばらく醸されたのちに、16世紀に両者はグルッと回って(裏側を回ったわけではありませんけど)九州で出会うわけですよね。う〜む。
 そんなことに思いを馳せながら今日の演奏を聴きますと、普段我々が接している近代ヨーロッパ音楽がいかに特殊なものであるか、再び確認されるのでした。それはまるで共通語としての英語のように世界を席巻しておりますね。英語だけが言葉ではありません。それと同様に音楽も実に多様であるわけです。
 英語が機能的で便利であるのと同じように、近代西洋音楽は「便利」で「共有しやすい」、つまり近代合理主義的価値は高いわけですし、実際その特長を活かして我々は高度な作品を構築したのですが、違った価値基準からすれば、それ以上の言葉や音楽は無数にありますね。私たちがそうした別の価値に気づくよう努力しなければなりません。夏山さんもおっしゃっていました。そのために活動しているのだと。
 あと、「詩=言葉が先」ということに関して。これは日本の歌(和歌)の世界も全く同じです。テキストは残っているけれども、旋律は記録されていません。記録する必要がなかったと言うよりも、記録できなかったわけですね。毎回違っていたわけですから。古い日本語では楽器の音色のことを「もののね」と言いました。歌詞は「コト」として言の葉で固定されましたが、メロディーは常に更新されては消えていく「モノ」であったわけです。そして、コトからモノが発するという、我々の一般的な活動(コト化)と逆のエネルギーの流れこそが、芸術の本質であります。
 今までも何度も書いてきましたので、繰り返しになりますが、「モノ」を「カタル(コト化)」して「コト(作品)」が生まれ、それを受容した人から新たな「モノ」が生まれる、そうした循環がすなわち芸術の生命力であり、人間の生命力であるのです。
 と、こんなふうにいろいろなことを考えさせてくれるいい演奏会でした。私の音楽的後半生のテーマがまた明らかになったような気がしました。ありがとうございました。

アンサンブル・ラルバ公式(視聴も可…ぜひお聴きください)

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2008.05.01

ふぅ、戻った…(4歳の誕生日を前に)

↓セッション数の推移
Ga05 Googleに嫌われたという話を、2週間ほど前に書きました。この記事です。3月9日の境にこのブログの検索順位がドカンと落ちて、アクセス数が半減したという話でした。
 それがどういうわけか、(たぶん)今日の朝あたりに、3月8日以前の状態に戻りました。IT業界のある人に、2ヶ月くらいで元に戻るよ、と言われていたその通りになったので驚きました。
 その人の言葉を信じていたのですが、けっこうこの2ヶ月間は辛かったっすね。自分でもそんなのどうでもいいじゃんと思いつつ、なんていうかなあ…モチベーションというか、やり甲斐というのでしょうかね、誰に頼まれたわけでもありませんが、こうして長文を毎日書くのって案外根性のいることなんですよね。その根性がちょっと萎えた。
 これは商売の世界と同じでしょうね。いわば自分の店の前の道の人通りが急に減って、飛び込みのお客さんが減ったという感じだったんです。常連の方はいつも通りわざわざ立ち寄ってくれるのですが、たまたま店頭にあった商品を見つけて入店し、ついでに他の商品も買ってくれるようなお客さんが激減してしまったわけです。
 ウチの店に来る道の向こうの方で突然工事が始まって通行困難になっていた。その工事が終わって昔の人通りが戻ったって感じかな。正直ほっとしました。
 工事してる現場なんか見えなかったので、実は店の改装とかもしてみたんですよ。なんとなく広告が多くてガシャガシャしてたんで、そういうものを店頭から一掃したり、目には見えないような物やゴミも整理しました。でも、その効果が現れたというよりも、やっぱり道の工事が終わったってことでしょうね。
 こう考えると、なんだかんだ言ってGoogle様に依存してるってことですね。もうこれからは彼らを「死体コレクター」とか言いません。ごめんなさい(笑)。
 と、お店になぞらえて話をしましたが、実際の売り上げも激減してたんです。Amazonのアソシエイトとか楽天のアフィリエイトとか、10分の1以下になってました。おかげで新しい本や物を買う資金も枯渇。つまり商品の仕入れも困難になっていたということです。
 またいつ今回のような事態になるかわかりませんし、あるいは本格的に評価が下がって閑古鳥が鳴くやもしれません。また、いろいろな事情から本当に店じまいする日が来るかもしれません。
 実は今日で不二草紙は丸4年、つまり明日4歳の誕生日なんです。1日早いGoogleからのプレゼントだったのかもしれませんね。このおススメはいちおうこの4年間毎日更新してきましたので、神も憐憫を垂れて下さったのでしょう。ありがたく思いつつ、これからも精進いたします。やっぱり商品の質で勝負しなくては。ウチはよろず屋なわけですから、それらしくその道を極めていきたいと思っています。今後ともご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

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