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2008.04.30

中吊り広告

Yhhjs のように田舎に住んでますと、あんまりお目にかからない電車内の中吊り広告。電車に乗らないし、それ以前に富士急行線には中吊り広告なんかありませんね。車両の壁に渋〜い広告はありますけど。
 昨日、久々に東京の電車に乗ったので、じろじろと見ながらいろいろと考えました。また、考えたのと同時に、見事に購買意欲をかき立てられ、あるものを買うハメになりました。いやあ、都会の人は大変だなあ。いろんな欲望をかき立てられる。それに従うとお金がかかる。ある意味修行だな。
 と、タイミング良く、今日のNHK「cool japan」で「広告」が取り上げられ、その中で中吊り広告も紹介されていました。外国人から見ますと、あの中吊り広告はかなり不思議な存在らしい。彼らの中でも意見が分かれ、華やかだしヒマつぶしになるしカワイイ女の子はいるし、とってもcool!という人と、邪魔だ!not cool!という人と、両方いましたね。とりあえず、海外にはこういうのはないらしい。
 たしかに、部屋の中央にあんなにいろんなポスターがぶら下げてあったら、邪魔は邪魔ですね。でも、無視しようと思えば無視できるし、最近ではデザインに凝ったものも多く、一つの表現の場になっていますよね。実際目を楽しませてくれるものも多い。
1774048028_2100cc3c82_m 今日の番組でも、上に載せたお茶の広告や、右のNHKきょうの料理のテキストの広告などが紹介されていました。こうなると、電車の車内が一つのアート空間になるわけで、日常空間…いや、会社への(あるいは家庭への)道のりという特殊な時空に新たな意味が付加されることになるのかもしれませんね。
 同じく番組で取り上げられていた都会のネオンサインもそうですけど、とにかく全体のことを考えない、あるいは周辺との調和をあえて図らない、ああいう雑多なカオスな表現というのが、日本の風景の特徴になっていることはたしかです。以前はそういうコーディネイトの存在しない街並みなど、私はあんまり好きではなかったのですが、最近はこうやって外国人がcool!と言ってくれるし、なんとなくこれこそ自然な美なのかなと思うようになりました。
 自然界も基本自己中心的だし、隙間や油断があればそこに蔓延る存在ですよね。それが全体として俯瞰すると一つの美を構成したりする。そういう、ある意味「コト化」されない多様性の美しさ、豊かさ、そしてそこに自然に溶け込んで生きる日本人というのは、案外cool!なのかもしれませんね。
 それにしてもですね、日本にはビキニ姿が本当に蔓延してますなあ。この前の「オタクはすでに死んでいる」にも書いてありましたっけ。そして、番組で外国人も言ってましたよ。子どもの雑誌から大人の雑誌まで、とにかく半裸の女ばっかり。言われてみると世界的には異常な事態ですね。実際の街中では、女性のボリューム感、そして露出度の比較的低い日本ですが、なぜか2次元世界になると異様にセクシー満載になりますよね。さすが妄想王国ですね。実は国民総オタク、総萌えなんですかね。
 ああ、そう考えれば、ネットの世界なんか、ある意味世界の中吊り広告みたいなもんだな。カオスにしてセクシー、欲望をかき立てられるし、偶然性も高い。無視しようと思えば無視できるし。ネットは自然のアフォーダンスを再現なのかもしれませんね。
 そうそう、ネットで中吊り広告を実現しようとしたこのサイト、今のところ全く広告主が現れず、ものすごく閑散としてますよ。やっぱり中吊りがないと落ち着かないよな…。
 ちなみにリアル山手線の中吊り広告、2日間で210万円(各車両1枚ずつ)だそうです。案外安い?

Amazon NHK Cool Japan 外国人が感激するニッポンの魅力

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2008.04.29

Logitec 『iPod対応 ICレコーダーアダプタ LIC-IREC01』

41ef2d2r9ml_sl500_aa280_ 日は、家族+1で東京方面へ出かけました。カミさんは「DREAM.2」観戦のためにさいたまスーパーアリーナへ。私は新宿で5月24日のコンサートのための練習。子ども(+お友だち)は浜松町のポケモンセンターへ。それぞれ違う目的です。
 カミさんのお目当てはもちろん桜庭和志選手。DREAM.1では、その桜庭選手と念願の握手を交わしましたが、今回は「闘うマスオさん芸人」ことベルナール・アッカ選手と駅でバッタリ出会い握手したそうです。さらに King of 39 fan の方とも知り合いになれたということで、大変ゴキゲンのカミさんでありました。あっ、もちろん桜庭選手は勝ちましたよ。思ったより苦戦したみたいですけど。
 子どもたちも久々のポケモンセンターに大満足。大人から見るとただのショップなんだけどな。いやあ、私はポケモンよりもリアル・モンスターにびっくりですよ。まあ先ほどの King of 39 fan の方もカミさんの話によれば相当すごいらしいんですが、大人のポケヲタもすごかったなあ。カゴいっぱいにぬいぐるみを大人買いしてたり、店員さんと仲よくなってものすごくディープな会話してたり。なんだかぬいぐるみの棚の前にしゃがみこんで、ピカチューとポッチャマを両手に持って会話させていたり…笑。いやあ、やっぱりここまで極めなければオタクとかファンとか言えないんでしょうね。尊敬します。
 さて、私は相変わらずディープではなくシャロウな生き方をしてまして、今日紹介するものなんかも、結局あんまりこだわりの感じられない物ですね。いかんなあ。
 私はバロックのアンサンブルの練習をしたわけですが、今日は初めて自分たちの演奏を録音してみました。録音した機材はiPod nanoとロジテックのマイクです。
 最近もYahoo!ニュースに 「高品質ICレコーダー リニアPCMが人気」という記事がありましたね。再び生録ブームだとか。私も昔はデンスケやらDATのデッキやらを持っていて、いろんな音を録りまくった時期がありました。バイノーラル・マイクまで自作してね。あの頃の方がずっとヲタしてましたな。
 このブログではZOOMのH4H2を紹介したりして、実際知人の何人かはこれらを購入されたようなんですが、自分自身は、まあお金もないものですから買わずじまいだったんですね。で、この前の奇跡の救出劇のあと、親父用のMacBookを購入した時にオマケでiPod nanoが付いてきたんで、それを自分のものにしまして、そして、ロジテックの新しく出たマイクを接続して使ってみたわけです。
Licirec01 結論から言いますと、お値段と見た目からすれば、そこそこの音質。練習のチェック用、あるいはコンサートなどの記録用には充分の音ではないでしょうか。ただ、ステレオ感に乏しく、やや低音が弱いのにはがっかり。てか、しょせんボイスレコーダーですからね。基本ボイス用の設定なんでしょう。
 ただiPodによる操作性は非常にイージーでわかりやすく、本当に気軽に録音するにはいいですね。ポケットにすっぽり入りますから、ちょっとした密録にも最適ではないでしょうか(笑)。
 周波数特性は20Hz~16kHz、ファイル形式はWAVE、ビットレートは1441kbbs、サンプルレートは44.1kHzということで、いちおうCD並みの音質ということです。詳しい仕様などはこちらでどうぞ。
 恥を忍んで(?)昨日録音したサンプルを置いときましょうか。ファイルサイズがでかいので、ちょっとだけです。適当に切り取ったものです。えっと、これはルクレールのソナタの、コテコテ演歌風(もしくは韓国ドラマ風)の泣きの楽章ですね。音程の悪さ、アンサンブルの甘さ、わけわからんコブシなどではなく、あくまで録音品質のみをお確かめ下さい。
 マンションの一室での演奏を、3メートルくらい離れた場所に無造作に置いて録音しました。編成はバロック・ヴァイオリン2本、バロック・チェロ、チェンバロです。アッテネータはHiです。イヤフォンで聴くとチェンバロがよく聞こえるのに、ウチのスピーカーだと全然聞こえないな。なんでだろ。ぜひイヤフォンかヘッドフォンでお聴き下さい。
 
 サンプルを聴く

 うぐいすの鳴き声を録ってみました

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2008.04.28

『正則 ニューナショナル 第三リードル獨案内』 森修一 訳著 (大阪書房)

3reader の前の「哲学の東北」にも、南方熊楠はものすごく英語が上手だったという話がありました。明治の知識人はけっこう外国語得意でしたよね。いったいどういう勉強をしていたんでしょう。今の日本の英語教育はなんだか迷走していますけど、あの頃はどうだったんでしょうね。
 と思っていたら、今日あるクラスの生徒が「ひいおじいちゃんが使ってたテキストが見つかった」ということで、何冊かの古い本を貸してくれました。そのうちの一冊がこれです。
 これはリーダーのテキストの虎の巻ですね。先生用のようです。今の教科書ガイドのように生徒も使ったんでしょうか。当時の学生や先生たちがどのように英語を学習していたかよく分かる貴重な資料です。
Catmouse_2 ちょっと右の写真をクリックしてみてください。ネコとネズミの会話ですね。ご覧のように、本文の上にカタカナで発音が、下には訳が載っています。そして訳の下には漢数字で訳す順番が書いてあります。まるで漢文の書き下しですよね。
 発音のカタカナをよく見ると今の感覚とはちょっと違うものもあって興味深い。「t」を「ツ」に半濁音の○をつけて表したり、独自のルールがあるようです。ただ、カタカナをそのまま読めばいいわけではありません。時々、「生徒に発音の練習をさせよ」みたいな注記がありますから、やはりカタカナ英語ではダメだという感覚があったんでしょうね。でも、こうしてカナで発音を示すのは悪いことではありせまんね。当時のルビ文化と同じで、私はそこに積極的な意義を認めます。
 日本語訳がそれこそ漢文訓読調(文語文)で面白いですね。このシーンは会話ですのでまだ分かり易い。ほかのところではまず日本語が難しくて生徒たちは面食らってましたよ。時々「意訳」が載ってるんですけど、それでもまだ難しい。我々は、英語を漢文訓読調に訳したものの意訳をさらに現代語訳しなくてはならないわけです。面白いですねえ。
 そして、なんといっても漢文の返り点のような漢数字の存在ですね。これは今の英語教育的観点からしますと、どうなんでしょうね。私はけっこう目からウロコでしたよ。漢文もそうなんですけど、とにかくこうして語順を日本語調にしながら解釈していくと、いつのまにか外国語の文法的構造がわかるようになるんですよね。遠回りのようですが、実は効率的な学習方法のような気もします。
 昔の人は、漢文や英語をこのようにしてとにかく多読して、そしていつのまにか白文でも理解できるようになっていったんでしょうね。発音はできなくとも意味がわかる、すなわちリーディングとライティングを先に完璧にして、そして必要があればスピーキングやリスニングに移行したんでしょう。今の外国語教育は逆のケースが多い。とにかく会話から入りたがる。もちろん、国際関係の状況が今と昔とでは全く違うわけですから、一概にどちらがいいとは言えませんけどね。でも、なんか私たちが忘れている大切な智恵がそこにあるような気もします。
Newwords あと、面白かったのは、新しい単語の学習の部分ですね。左の写真をクリックしてみてください。ご覧のように、新しい単語のスペリングが同時に発音記号になっているんです。いろいろな記号や異字体を使ってスペルと発音を有機的に関係づけて学習させてますね。この発想は私の中にはありませんでした。なるほどなあ、と思いました。もしかすると、ネイティヴの感覚に近いのかもしれませんね。無意識的でしょうけれど、つづりと発音の関係はこのように把握されているのかもしれない。これは学校教育の現場で復活させてもいいのでは。
 途中、国語教師に対するアドバイスも載っています。英語と国語、今よりももっと上手に連携していたみたいですね。なるほど。
Sanjutu この本のほかに、数学(算術)のテキストもありました。「受験問答叢書 新撰算術問答」という本です。これもなかなか興味深い内容でした。「算術とは何か」「数とは何か」というところからスタートして、四則計算、小数、分数、比例、歩合、利率といった内容に進んでいきます。最後には当時の高等学校や師範学校、陸軍士官学校や海軍兵学校の入試問題が載っていまして、それを見ますと、今の数学の試験とは違って、生活に根ざしたより実用的な問題が課されているのがわかります。今の数学はずいぶんと抽象的な世界になっているんだなあと思いました。それがいいのか悪いのか、なんとも言えません。
Oshibana さて、この算術のテキストを繰っていたら、とっても素敵なものを見つけました。押し花です。きっと若かりしひいおじいちゃんが、勉強の合間に野の花を摘んできて、なんらかの気持ちをこめて押し花にしたものでしょう。なんかジーンとしちゃいました。明治のロマンですね。今の若い男で、こういうシャレたことする人いませんよね。私はそこに本当の「日本男児らしさ」を感じましたね。おそらくこの名もない花、百年ぶりくらいに陽の光を浴びたのではないでしょうか。美しいなあ。豊かだなあ。ちょっとうらやましくも思いました。

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2008.04.27

ツタサラダ(特別仕様マカロニサラダ)

 は今、学校にお泊まりしてます。先日の非ヲタの祭典球技会が終わってそのまま、宿泊学習会に入っております。すごいスケジュール設定だなあ。文武両道ということでしょう。生徒たちは若いので、あれだけ騒いどいて、夜遅くまで勉強、そして朝までまた騒いでる。すげえなあ。こっちは死にそうです。
Erty さて、その球技会では、ウチのギャルどもは恒例のお弁当の持ち寄りをやってました。一人一品ずつというやつですね。で、その輪の中に参加させていただきまして、私としては珍しく昼食を食べました。
 どの一品も逸品でありましたが、中でも激ウマだったのが、ある生徒が持ってきたマカロニサラダです。え〜、最近のJK(女子高生)は料理も上手…なわけなく、ほとんどの逸品はお母さんの手作りだったりするわけですけど、こちらのマカロニサラダはおばあちゃんの作品であります。
 その生徒の住む地域では、というか、日本の田舎ではけっこうあることではないでしょうか、何かイベントがあった時、例えばお祭りとか、田植えとか、法事とかあった時にですね、子どもが家に集まったりするじゃないですか、そういう時に、大量のマカロニサラダとカレーを作るんですね。それをみんなで食べる。車座になって、子どもだけじゃなくて、大人も食べる。
 なぜマカロニサラダなんでしょう。それも必ずフルーツが入っていて甘い。りんごのスライスとか、みかんの缶詰めとかパイナップルの缶詰めとか、場合によっては干しぶどうなんか入ってたりする(今、聞いたら砂糖も入れるんだとか。あと○○も…企業秘密だそうです)。
 その甘さが祝祭性を感じさせるんですね。ふだんは甘いサラダはちょっと苦手なんですけど、こういうハレの日にはそれが異常に美味く感じられる。まさに非常にして異常なる甘さ美味さであります。そうそう、「うまい」は本来「あまい」なんですよね。昔の日本ではたしかに甘いものを食べる機会なんて、そうそうありませんでしたからね。やっぱりハレの日の味覚ですよ。
Tuta で、なぜマカロニサラダかってことです。というか、マカロニサラダって日本独自の料理ですよね。あんパンみたいなものでしょう。ポテトサラダにマカロニが混入している。ポテトサラダが主体なのか、それともマカロニが主体なのか。そのへんも微妙ですよね。サラダパスタとは格というか品格が違います。魚肉ソーセージなんか入ってたりして、聖俗で言えば俗なのに、しかしハレの日にふるまわれる。これは文化的に興味深い現象ですね。
 あんまりうまいので、みんなで大量に食べてしまいました。マカロニやジャガイモが入っているおかげで腹持ちもいいですよね。また、フルーツも入っていますからある意味デザートとしても楽しめる。ある意味、ごはんとおかずとデザートをいっぺんに食べられる、とも言えますね。
 このマカロニサラダを作ったのは、生徒のおばあちゃん「ツタ」さんですので、この逸品に「ツタサラダ」という名前を付けさせていただきました。で、みんながおいしいおいしいと言って食べたというのをツタさんが聞いて、とっても喜んでくれまして、今日の朝食もまたツタサラダでした。ありがたや、ありがたや。またハレの日にぜひ作っていただきたいですね。
 いや、まずは孫がこのワザを継承しなくてはなりませんな。聞くところによると、味付けは長年の勘としか言えないとのことです。これこそ文化ですな。

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2008.04.26

『哲学の東北』 中沢新一 (青土社)

Tohoku 沢新一さんも、私と同じモノを東北に感じているんですね。やはり何かあるんです。あそこには。
 「東北の哲学」でなくて「哲学の東北」。これもよくわかります。艮ですよ。鬼門。出口王仁三郎も言います。日本は世界の艮(東北)だと。そこになにかが幽閉されている。それは…。
 私もどういうわけか東北に惹かれていました。若い時にも何回か足を運んでいます。そこには啄木や賢治寺山太宰がいました。彼らの言葉を通じて知った東北はなぜか我々都会人よりずっとオシャレでした。この本でいうアヴァンギャルドというヤツでしょう。
 しかし、矛盾も深く感じていました。彼の記した言葉と、実際に東北の人たちが語る言葉、あるいは村々に記された言葉とのとんでもない(!)乖離。いったい何が起きているのだ。
 その後、棟方志功や土方巽に出会い、そして縁あって東北の女を嫁にして、そうして違った意味で東北に通うようになってようやく分かりました。ああ、ここは「モノ」の国だと。「コト」の国ではない。懐かしい物の怪の国だ。
 「モノ」の国だからこそ、そこに現れる「コト」はみんなウソくさい。ウソであることをはばからない。それがエロティシズムであり、フィクションであり、ユーモアであり、いかがわしさであり。まるで人間の活動が全て見世物であるように輝いている。
 賢治や啄木や太宰や寺山や土方の言葉が特別なのは、そうか、単に外国語だからだ。カミさんはそれをいとも簡単に私に教えてくれました。なんだ、それだけのことか。あれは全部ウソだから輝いていたのか。だからタモリの寺山はあまりにそれらしくて面白いのか。
 この本でも、そうした言葉の問題が取り上げられています。東北があいさつとことわざの世界だというには大賛成です。あいさつしかない。それはよくわかります。私なんか東北にいるとしゃべりすぎてしまいます。彼らがしゃべる時は、それはフィクションとしての作品を生む時です。そうそう、あの時の皆さんの武勇伝大会は面白かったなあ。どこまでが本当かわからない、本当の物語を聞いたような気がしましたっけ。
1 中沢さんと対談者たちは言います。異質の「もの」どうしが結びつくエロティックな力。それはロゴスでもコスモスでもない。贈与の力。イマジネールからリアルへ。客観の方へ。物の方へ。コミュニケーションとしての言語ではない。モノとしての言語。嘘こそが存在の様式。
 唯物論的な物言いはあんまり好きではないのですが、しかし、やはり「モノ」がベースであるような気がするのです。「コト」は我々の意識であり、だからこそ存在はフィクションであると。「モノ」という大地に咲く「コト」という花だから美しい。本書にもありましたが、まさに仏教を象徴する蓮の華ですよね。
 土方巽のよき理解者であり、よき継承者であり、よき体現者である森繁哉さんとの対談が刺激的でした。「物」と一体化するんではなく、「物」は他者のままにしておかねばならないと。接続はするけれども一体化はしない。できない。私たちの肉体からしてそうだと。舞踏の基本姿勢ですね。
 思い通りにならないことの素晴らしさでしょうね。あっそうか。「ものにする」という言葉、あるいは「ものになる」という言葉、なんとなく自分の「モノ・コト論」とは矛盾しているような気がしていたんですが、そんなことなかったんだ。一体化ではなく、あくまでも外部の他者と接続するという意味なんだ。そうすると「仕事は体で覚えるな」「習熟するな」という言葉の意味もよくわかるというものです。
 やはり東北(艮)には、近代が忌み嫌った「モノ」が幽閉されていました。だから懐かしく恐ろしいのですね。大物忌神社はその総本宮なんですね。私の後半生は間違いなく「東北」とともにあるでしょう。東北というブラックホールに吸い取られて良かったなあ。
 
Amazon 哲学の東北 幻冬舎文庫版

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2008.04.25

Eve〜Songs For Sweet Memories

Img55489633 月、久々に歌謡曲バンドのライヴをやります。今回は松田聖子と中森明菜だけでプログラムしようと思ってます。『松田聖子と中森明菜』にも書きましたバロック的コントラストの二人を並べて(おそらく交互に演奏するでしょう)、この世界の表裏を再確認したいと思ってます…なんてね。
 え〜、そこでやる予定の「あなたに逢いたくて」も入っているこのアルバム、生徒のお母さんのを拝借して聴いてみました(とうとう自分より若い親が多くなってきた…orz)。
 まず曲目とデータをコピペします。ご覧下さい。

1. M (プリンセスプリンセス)
 Diamonds C/W(1989)
2. PRIDE (今井美樹)
 ドラマ「ドク」主題歌(1996)
3. 会いたい (沢田知可子)
「トゥナイト」エンディングテーマ(1990)
4. ただ泣きたくなるの (中山美穂)
 ドラマ「もしも願いが叶うなら」主題歌(1994)
5. DEPARTURE (globe)
 JR東日本「JR Ski Ski」CMソング(1996)
6. Choo Choo Train (ZOO)
 JR東日本「JR Ski Ski」CMソング(1991)
7. 恋しさと せつなさと 心強さと (篠原涼子)
 映画「ストリートファイターII MOVIE」主題歌(1994)
8. 男 (九宝留理子)
 三貴「カメリアダイアモンド」CFソング(1993)
9. 慟哭 (工藤静香)
 ドラマ「あの日に帰りたい」主題歌(1993)
10. TOMORROW (岡本真夜)
 ドラマ「セカンド・チャンス」主題歌(1995)
11. やさしい気持ち (CHARA)
 資生堂「ティセラJ」CMソング(1997)
12. 人魚 (NOKKO)
 ボクたちのドラマシリーズ「時をかける少女」主題歌(1994)
13. 部屋とYシャツと私
 (平松愛理) (1992)
14. あなたに会いたくて -Missing You- (松田聖子)
 「ビートたけしのTVタックル」エンディング・テーマ/ キャノン「PIXEL」イメージソング(1996)
15. 誰より好きなのに (古内東子) ドラマ「俺たちに気をつけろ。」挿入歌/
 「目玉とメガネ」エンディングテーマ(1996)
16. Swallowtail Buttrefly~あいのうた~ (YEN TOWN BAND)
 映画「スワロウテイル」主題歌(1996)

 実は私、この時代のJ-POPが一番苦手なんです。苦手というか、ほとんど聴いてなかった。ちなみに洋楽もほとんど聴いてない。では、当時(80年代後半と90年代前半)は何を聴いていたのか。たぶんジャズだったんではないでしょうか。キース・ジャレットとか聴きまくってましたね。そういう年頃だったんでしょう。
 でも、さすがにこのCD、全曲知ってましたね。たぶんテレビで聴いていたんでしょう。つまり、そういうことなんですね。80年代にMTVが始まり、90年代にはCMやドラマとのタイアップこそが売れる条件になった。もう一つカラオケブームですね。楽曲の価値がカラオケで歌えるか、歌いたいと思うか、という方に行ってしまった。音楽がメディア戦略の道具になり、イメージの一部になり、使い捨て商品になった…。
 私、当時はそこんところに非常な違和感をおぼえていまして、また、その打ち込み的無機的な音作りにも拒否反応を示しておりましてですね、そしてその対極的な位置にあるジャズなんかに行っていたんでしょうね。
 そして、こうして十数年経ってまとめて聴いてみますと、まあそんなに悪くないじゃないかと。そういう予想通りの展開であります。なんでも思い出は美しくなるんでしょうか。
 この中で、当時もいいなと思い、そして演奏もしたのが、「Swallowtail Buttrefly~あいのうた~」ですね。それも、なんと学校の体育館の真ん中で、なななんと古楽器で演奏したんですよ。チェンバロ、バロック・ヴァイオリン3本、フラウト・トラヴェルソ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴィオローネというすごい編成でした。わけわかりませんね。音が残ってるはずなので探したんですが、見つかりませんでした。今聴いたらいろんな意味ですごそうだな(笑)。
 と、なんだかよくわからん話になってしまいましたけど、こういう初期オジサン、オバサンをターゲットにしたコンピレーションがたくさん出てまして、まあ当時の自分(おそらくは独身時代後期、あるいは新婚時代)を懐かしんだり、若気の至りを反省したりする道具として使われているようです。てか、そういう道具になっていること自体、音楽としては幸せなことなんでしょうかね。
 バブルとその崩壊とその余韻。宴の後のむなしさ。人間のサガが詰まった名品とも言えます。40前後の人は一度借りてでも聴いてみて、いろいろと反省するのもいいのでは。まさに Sweet Memories …甘い夢でしたからね。人生を、世界をなめてました(笑)。
 しかし、音楽って不思議だなあ。なんで「時代」までもが再生されるんだろう。それも自分と社会両方の時代がね。

Amazon Eve~Songs For Sweet Memories

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2008.04.24

『オタクはすでに死んでいる』 岡田斗司夫 (新潮新書)

10610258 なたは(オレたちは)頑張った。よくやった。安らかに眠れ。オタキングによるオタクへの追悼文です。
 独自の(無手勝流な)オタク論を展開しているワタクシとしては、あるいは、オタクになりきれずコンプレックスを抱いているワタクシとしては、なんだかこのライト評論もまた、オタク的だなあ、感傷的にすぎるよ、と思われました。しかし、そして、そこが実に面白かった。
 つまり、私は岡田センセイの説にいちいち賛同はしたけれども、共感のようなものはなかったのです。なんというかなあ、オタクの一つの属性としてですねえ、私は「ナルシシズム」というのを重要視しているんですよ。自己愛ですね。
 世界の歴史を見てもよくわかります。被差別集団や少数民族、迫害された宗徒に見える矜持や一体感は、これは物語的ナルシシズムに基づくものです。いつかも書いた通り、物語は欠落の上に成り立ちますから、やはりそういう意味では彼らは社会的に何かが欠落していたんですね。
 ところが、その欠落部分にここのところ恐ろしい量の価値が注入されてしまったんです。それは社会的(さらには国際的)認知であったり、文化的評価であったり、経済的価値であったり。そうなると物語は醸成されません。つまり、ナルシシズムさえ生まれなくなってしまった。
 ナルシシズムって自信の表現ではないんですよね。逆です。たいがいコンプレックスの裏返しなんです。
 そういう物語的ナルシシズムという基盤が喪失して、それである社会や国家や集団や個人や文化の勢いがなくなっていくというのは、本当に普通なことですね。そうして新しいナルシシズムが台頭してゆき、いつのまにか、かつてのそれは前時代の遺産になっていく。あるものは忘れられ、あるものは伝統文化として研究対象になっていく。
 ですから、岡田センセイが盛んに「昭和は死んだ。だからオタクは死んだ」と言っても、それはそうだよ、としか言いようがないわけです。それはあまりに自明なことで、あるいはどちらかというとセンチメンタルになるよりも、めでたがるべきものだと思うんです。
 それはですねえ、岡田センセイがダイエットに成功して、見事にオシャレになっちゃったのと同じことですよ。デブというコンプレックスが生み続けた濃厚なナルシシズムは死に、新たにオシャレなナルシシズムが彼に棲みついたってことです。めでたいですよね…いや、たしかにちょっとさみしいかもしれない(笑)。
 私はこのブログに書き散らしているように、オタク文化とは平安時代(あるいはそれ以前の)貴族文化、国風文化の系統だと思っているんですね。そのへんは岡田センセイの説とも重なる部分が多い。そうそう、そう言えばセンセイ、昔、私の萌え論に賛同しかけたけど、結局ピンと来なかったようですね。この本でも岡田センセイは「萌えがわからん」と何度も言ってます。たぶん、旧ナルシシズムの亡霊が理解を妨げてるんでしょう(笑)。
 私は「萌え」は本当によくわかるんですよ。それはこちらに書いたとおりです。全然新しい価値観でも言葉でもない。歴史の中で時々言語化される普遍的な感情なんですよね。私はオタクではない(と自他ともに認めます)のに、「萌え」はあるんです。だからもちろん岡田センセイの言うとおり、「萌え」=オタクだとは思いません。
 で、平安から鎌倉、戦国時代への流れや、江戸から明治、昭和への流れを見ると分かるように、国風文化の爛熟と腐敗が進みますと、次に民衆宗教が流行るんですよ。で、そのうちになぜか戦争が始まる。だから、今ちょっと危険な時期に入ったんだと思いますよ、日本は。その点はちょっと憂慮します。今ふたたび宗教ブームですよ。
 オタク的(貴族的)文化って、どうしても妄想系ですので、宗教と結びつきやすいんですよねえ。疑似科学や超能力や妙な神仏が跋扈しがちです。岡田センセイの言うオタクの共同幻想、それはとっても平和的なものなんです。で、その次に来る共同幻想はちょっと危険。今そういうところに我々はいるわけです。
 いつもの繰り返しになりますけれど、また書きます。
 我々は時間を微分し、対象を分析し、疑似的な永遠性を求めて、そこに耽溺したがります。「コト化」の欲求です。「萌え=をかし(こちらに招きたい)」の感情です。それを反社会的になってまで徹底するのがオタクの人たちです。それはたしかに修行に似ています。そして、それを続けているとある時むなしさにとらわれ、「もののあはれ」を感じるようになる。「コト」の極めて「モノ」の本質を知る。本当に「物心がつく」わけです。
 そうしたら、宗教家になって瞑想するか、戦争でも起こして自ら築いた「コト」的文明を破壊するしかないんですね。悟るか自傷行為(あるいは自死行為)に走るしかない。私は痛いの嫌いなので瞑想したいんです。世の中は瞑想なんて退屈なんで戦争の方に行っちゃうんですけどね。
 話が前後しますが、修行僧のようなオタクがいなくなったのは、これはもちろんオタクの一般化、大衆化のおかげです。簡単に「をく(招く)」ことができるようになってしまった。メディアの発達と同時に商品としてのコピーが増殖しちゃったわけです。だから、当然それぞれの価値は下がりますし、求道者も求道しようにもできなくなってしまいます。そこに必ず昔は良かった的な反勢力も登場しますけど、まあ世の流れは止められませんね。鎌倉仏教なんか見るとよくわかります。大衆は楽な方に進みますから。
 そうすると、岡田センセイみたいなちょっとセンチメンタルな諦め派も現れる。一方、日蓮みたいな過激な人も現れたりするかもしれません。これから、日本の文化…というか、日本人の精神はどうなっていくんでしょうね。
 ということで、なんだか話が壮大になってしまいましたね。でも、私は本気でそんなことを考えてるんですよ。馬鹿みたいでしょう。
 さてさて、最後にもっと現実的なお話。
 今日は新入生歓迎球技大会というイベントの第1日目でした。ヲタ率70%、スポーツマン率30%の我が校としては、多くの生徒にとって辛いイベントです(笑)。一部の活発な非ヲタの先輩が大活躍して、新入生の女子をかっさらっていってしまう大会です(笑)。4月にしてすでにヲタは負け組…orz。
 だから、私は常に言ってるんです。新入生歓迎コミケとか、新入生歓迎ギャルゲー大会とかやれよって(笑)。たまにはスポーツマンに肩身の狭い思いをさせたいなあ。

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2008.04.23

『図解<出口式>論理力ノート』 出口汪 (PHP研究所)

56965625 日はある意味での出口王仁三郎の後継者を紹介しました。今日はまさに正統的な後継者の本です。これは素晴らしい。今、カミさんが「痛快!」と言いながら読んでます(というか図を見ています)。自分も含めて世の奥様方に読んで(見て)いただきたい、と申しております。賛成です(笑)。
 それにしても、まったく不思議なものですね。職場では出口汪さんの「論理エンジン」を教材にしていますし、汪さんのいとこである出口光さんの天命本に癒され励まされ、汪さんのお父さん出口和明さんの残した名著「大地の母」に興奮しつつ難渋し(膨大な量なので)、そして和明さんのおじいちゃんである王仁三郎の耀盌を毎日拝する…。はたから見ますと、私が出口教の信者に見えることでしょう。まあ、私は彼らの生徒みたいなものですよ。学ぶことがたくさんあります。「モノ」と「コト」の総合された、その先の世界を学べるんですね。
 私の「モノ・コト論」を読んでおられる方には、論理とはまさに「コト」であり、私はどちらかというとそれを否定し、「モノ」の復権を目指しているように感じられるでしょう。
 汪さんはその「論理」を身につけることを強くすすめます。「コト」の権化である「言葉」を正しく使うことこそ大切だと説きます。それだけ見ますと、私とは意見が真っ向から衝突しているように感じられるでしょう。なのになぜ私は彼に共感するのか。
 彼のすごいところは、「論理=言葉=コト」を武器に受験やビジネスのリングで勝つことだけを目指しているのではないというところです。
 彼はこの本の冒頭でこう述べています。
 「論理は他者意識から生まれる」「恋愛によって他者の存在を知り、受験によって自立の覚悟ができる」「論理に習熟した人間は、やがて論理など意識しなくなる」「真の国際語は論理である」
 つまり、彼の目指すところは、もっと先の「モノ」なんです。「コト」を通過したのちの「モノ」世界。それはなんなのか。あるいは悟りというものなのかもしれませんね。あるいはデカルト的に言うところの、分析の先の総合、知性の先の理性という世界なのかもしれません。あるいは不立文字の境地かもしれない。言語の集合体でありながら、言語以前の言語に帰っている、王仁三郎の「霊界物語」の世界かもしれない。
 いずれにしても、そこには調和や協調、人間の脳ミソのレベルを超えたところの(一見無秩序、渾沌に見える)秩序世界、ミクロとマクロの統合したような世界が開けているような気がします。あのペレリマンがポアンカレ予想の証明の先に見た「モノ」。彼がこの社会から姿をくらまし、全く語らなくなったというのは象徴的です。
 彼らとは実際レベルが違いすぎるんですけれど、実は私もそんなところを目指しているんです。こうして毎日書き散らしているうちに、何か全体像のようなものが立ち上がってくることを期待してるんです。もちろんなかなかそうは行かないわけですが。
 やっぱり、コトはモノの一部なんだと思います(反対のことを言っている有名な方もいますけど)。論理の習得や、いわゆる勉強や、修行という「コト」が結局前提になってるんですね。人間が、目指すべきところに到達するためには、どうしても通過しなければならないコトがあるわけです。
 今、カミさんが娘を叱ってました。「無理!」とか「意味不明!」とか言うなって。まったくです。最近、小学校ではみんなそう言うらしい。高校生ももちろんそうです。すぐに「無理!」「意味わかんね!」って言う。口癖になってるんです。
 で、汪さんも書いてますが、そういう言葉を使っているとそういう脳ミソになってしまう。そういう人間になってしまう。そうすると、「超やべえ」とか「ムカツク」とか「キモい」とか、そんなことしか言えなくなっちゃうんですね。まさにそこには自分の感覚というものしかありません。他者意識や思いやりや譲歩や尊敬なんてものはありませんね。
 それって原始人ですよねえ。言語以前の言語(笑)。我々は人間界から畜生界に行こうとしているのかもしれませんね。論理(コト)を使いこなせるのが人間なんでしょう。そして、その先の世界こそが天界なのかもしれません。できれば私はそっちを目指したいし、生徒や子どもたちにもそっちを見てもらいたいですね。その第一歩として、この本は素晴らしい導入になると思いますよ。

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2008.04.22

デヴィッド・ヘルフゴット ピアノ小品集(深見東州作曲)

Isbn4886926134 チにあるレアCDの中でもかなりのツワモノですなあ。たぶん当時コスモメイト(現ワールドメイト)の信者だった友人にもらったのだと思います。
 当時というのは今から10年くらい前のことです。97年でしょうか。映画「シャイン」が大ヒットし、そのモデルとなった不遇の(奇跡の)ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットが脚光を浴びていた時です。私もこの映画で彼のことを初めて知り、彼のラフマニノフか何かを聴いて、それなりの感銘を受けた記憶があります。
 で、突然私のところにやってきたこのCDは、彼の得意とするラフマニノフでもショパンでもなく、なんと深見東州の作品集だったのです。な、なに?!
 ヘルフゴット人気にあやかった深見氏らしい便乗商法(失礼)かと思いきや、なんとヘルフゴットは世に知られる前から深見氏との交流があったとのこと。91年には来日してライブ・ビデオを残しているらしい。
 今思えば、奥さんが占星術師ですし、なにかと深見氏との縁があるパースにお住まいということですので、そういう接点があったのでしょう。もちろん、ヘルフゴット自身の精神疾患や独特の感性が、深見氏の宗教性とどこかでかみ合ったのでしょうね。まあ、それはいいでしょう。
 さて、さて、その興味深い内容でありますが、ええと、私のような凡人には、なぜヘルフゴットが深見氏の曲をラフマニノフやショパンのそれ以上に愛しているのか、ちょっと理解不能なところがあります。いや、もちろんこれは一般的な社会における音楽の常識という狭い世界観の中での話であって、あっちの世界ではどうなのか私は知りませんよ。
 まだまだ私は修行が足りないのか、深見氏の音楽はたしかに純粋で子どもの音楽のようには感じますが、ヘルフゴットのように涙が止まらなくなるということはありませんでした(笑)。
Image02 それにしてもあらためて深見東州という人はとんでもない人ですね。それこそ一般的なこの世では「トンデモ」に属してしまうことでしょう。ご存知の方も多いとは思いますが、彼自身も自らを現代の出口王仁三郎だとお考えのようでして、たしかにその妙ちくりんな宗教活動のみならず、芸術活動の幅の広さは尋常ではありません。王仁三郎ファンの私としては、まあたしかに似ている部分もあるとは思うんですが、それで感心する以前に笑ってしまうのはなんでなんでしょう。そういう笑い自体も彼ら二人に共通している部分なんですけどね。
 久々に深見東州関係のホームページを見て、それこそ大笑いしてしまいました。面白い人ですなあ。皆さんもどうぞ。いちおう神道系の宗教団体の教祖さんですので、その点承知の上ご覧下さい。
 しっかし、大作ちゃんもそうですけど、教祖さんたちってなんでみんな称号コレクターなんでしょうね。やっぱり私がここに書いたように、宗教ってオタク的活動なんでしょうか。

深見東州 芸術・音楽活動の歴史
戸渡阿見 公式サイト

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2008.04.21

小学館の図鑑・NEO 10『地球』

09217210 日の木喰展でも実際感じましたし、図録を買ってきて眺めながらまた考えたんですけど、本当に日本人はそういうものが好きですね。そういうものというのは、何か「物」を一ヶ所に集めたり、またそれらのレプリカや写真を自宅に持ち帰って眺めたり、ということです。
 これは私のモノ・コト論で言いますと、基本、目前の「コト」への執着、すなわち「萌え=をかし」の心性を中心とした伝統的なオタク文化だということになります。
 ただ日本人は、そうした「コト」に執着している時には、その刹那性に没頭するあまり、対象の無常性を無視しがちなのですが、その「コト」の刹那を蓄積していくうちに、いつのまにか虚しさを感じるようになるんですね。そして、「モノ」の本来の性質に気づき嘆息する。すなわち「もののあはれ」を知るようになるわけです。
 微分から積分へ。鑑賞から感傷へ。だから、私はオタク文化万歳派です。デジタル技術やフィギュア製作技術や言葉や絵などで、どんどん永遠性獲得に挑戦してほしい。それだけではダメだというのも事実ですが、それがなければより高い境地には至れません。煩悩なくして悟りなし!?
 日本に大人のオタクがたくさんいるというのは、これはいわゆるネオテニーの結果でしょうね。人類発祥の地アフリカから最も遠い地。極東の孤島に取り残された地球の子どもたち。日本人ってやっぱり最強ですね(笑)。
 さて、また導入が長くなりました。えっと、今日は図鑑の話だった。そう、図鑑というやつはまさにそういう博覧文化、オタク文化の入り口の役割をするものです。私は子どもの教育なんて、図鑑と百科事典にまかせておけばいいという考えの人間でして(おかげでいちおう娘に課している通信教育…進研ゼミじゃないっすよ…は小学校3年生の段階ですでに半年分ためこんでいます…笑)、そうあとはやっぱり外で遊ぶことですね、そういうどっちかというと前世紀的な古典的な子育てをしています(と言うより放置している)。
 なにしろ、カミさんも超自然児として育ち(今でもそうかも)、私も根っからの(学校の)勉強嫌いですから、まあ仕方ないですね。親の影響は強い。
 で、親の影響というのは面白いなと思ったのは、図鑑の選択です。ウチは全巻いっぺんに揃えるのではなく、興味を持ったもの、より執着しそうなものを選んで買い与えています。つまり本人の希望重視ということですね。
 一番最初に買ったのは「虫」でした。これは完全にカミさんの影響。幼少期、「虫」しか友達がいなかった(?)カミさんは、本当に虫好きです。その影響で、娘二人も男の子以上の虫好きになってしまいました。だから、図鑑「虫」は隅から隅までなめるように食い入るように鑑賞し模写し記憶してしまったようです。
 そんな感じなので、では次は何がいいかな、と上の娘に聞いてみたところ、今度は「地球」がいいと言うんです。これもちょっと男の子的ですねえ。こちらは完全に私の影響でしょう。私は仕事は国語の先生ですが、実態は地学の先生ですので、たしかに家では文学の話なんか全くしない。星の話や火山の話や天気の話や地震の話ばっかりしてるよな、やっぱり。
 というわけで、今日その「地球」が届きました。娘といっしょに眺めてみたんですけど、なかなか面白い。昨年発刊されたものですから、最新の情報満載ですね。私も勉強になります。巨大な地球が箱庭的に凝縮されて展示され、さまざまな現象の瞬間が記録されている。これはまさに博物館ですね。
 それで一つ思ったのは、博物館と言えば、現代ではインターネットという利器があるじゃないですか。でも、今一つ子どもはそこにのめり込まないんですね。これはやはりネットに溢れる情報が「コト」だからでしょう。何度も書きますが、情報はそれ自体変化しない死体です。養老孟司流に言えば「スルメ」であって生きたイカではありません。
 たしかに図鑑に固定された絵や文字は情報で、その内容は不変かもしれませんが、それらが載っているベースとしての「本」という「モノ」の質感、実体感、さらには無常性こそが、何物にも変えがたい魅力なのだと思います。
 ネットの情報は死体ではありますが、どんどんその死体は更新されていきます。常に刹那的であろうとします。そうして新鮮な死体を維持していきます。一方、図鑑の情報は日々古くなっていきます。まさに死体が風化し腐敗していくんです。そちらの方がより自然なんですよね。
 これはまさに昨日の木喰仏への「場」や「時間」や「念」の堆積と同じです。私の感覚としては、そうして堆積して凝縮していく「モノ」と、エントロピー増大則に従って雲散霧消していく「モノ」との平衡のようなものがあるような気がします。それこそが世の変化であり、そこに感激し詠嘆するのが「もののあはれ」だと思うんですよ。
 大人もネットばかりやってないで、図鑑や百科事典…古いものでもいいと思います…をじっくり眺めてみる必要があるかもしれませんね…と自分に言ってみる。

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2008.04.20

『木喰展−庶民の信仰・微笑仏』(山梨県立博物館)

Mokujikiten 梨県立博物館で開かれている「木喰展」に行ってまいりました。ここ数日の悲しみに沈んだ心が、少し救われたような気がします。そんなことからも、信仰の本質というものがなんなのか、知ることができたのかもしれません。
 昨年「木喰仏の笑み」という記事を書きまして、ぜひとも実際にあの笑顔にお会いしたいと願っておりました。それが、春爛漫の美しい御坂の、私の大好きな山梨県立博物館で実現しました。
 それぞれの「場」の風土と時間と心を吸収し、木喰さんのふるさとに帰って来たとも言える、100体に及ぼうかという仏像たち。大変に素晴らしい展覧会であり、そして私にとっては巡礼となりました。
 「場」には時間が堆積する…昨日もそのようなことを書きました。そういう意味では、こうして本来「場」にあるべき仏像群が一所に会するというのは、正しいあり方ではないのでは、とも思いながら博物館に向かったのですが、それを超える「モノ」がそこに存在しました。
 つまり、「モノ」に「場」が浸透しているということなのでしょう。「場」には時間が堆積しているわけですから、すなわち「モノ」には時間がしみ込んでいるということですね。人間もまた「モノ」ですから、それと同じ現象が起きるわけですけれど、しかし人間の一生は短いし、妙な意思というものまであるので、自分から「場」の記憶を拒否したり、それをあえて忘却したりします。
2208 その点、こうした物たちは、素直に時間を経過させますね。「場」に集う人々の心までも全て吸収し、風雪に耐え、場合によっては自らを削り与えることによってそれを為してそこにある。
 そんな物の偉さを感じました。しかもみんな笑ってそれをこなしている。なんと美しいのでしょうか。人間はつまらぬ顔をしてそれを怠っている。恥ずかしいことだと思いました。
 今日は、博物館のお隣の施設で、ちょうど記念講演がありまして、木喰研究家として著名な小島梯次さんのお話を聞くことができました。たいへん興味深いお話で、今まで知らなかった木喰像に触れることができました。講演の前に一度展覧会を観たのですが、お話を聞いてもう一度観たくなり、再び入館してじっくり拝見(こういう時パスポートを持っていると得ですね)。やはり同じ像や書画が違って見えました。これこそ、小島さんのお話によって縁起した自分が見た新しい木喰の作品なのでしょう。そして、その感動もまた、あの物たちに吸収されていくのでしょうね。
9708 さて、ここからはあえて表現として、あるいは造形としての木喰作品について書きたいと思います。信仰とは違った視点です。
 昨日の田中泯さんの舞踏では、「前衛は古典」と感じましたが、木喰さんの表現はその逆「古典は前衛」でしたね。ものすごく新しく感じました。
 庶民信仰の象徴的存在ということで言えば、身近なアイドル(偶像)とも言えるわけでして、たしかにキャラクターデザインとして見ますと(失礼)、いわゆる「カワイイ」とも言えます。実際、その曲面(曲線)を中心にした全体的なデザインと、そして時々対照的に配される直線、あるいは全体的なプロポーションや顔の表現におけるデフォルメは、それこそアニメキャラのようでもあります。神像などほとんど「ビックリマン」の世界そのものだと思ってしまいました。
 いや、アニメキャラ(すなわち日本的デザイン)のルーツは実は木喰さんたちにあったのでは。そんなことすら思ってしまうほどある意味斬新でしたね。
 親しみやすさや慈悲という表現が、そうした主に子どもを対象にした現代大衆作品には非常に重要なわけですが、木喰仏にはそれが見事に備わってる。特にお薬師さんや子安地蔵さんには、その要素が強く現れているように思われました。
 体に比して顔が大きめであり、目鼻口にはある種の記号化がなされています。また、首を少し前に出して猫背になって、まるでこちらの話に一生懸命に耳を傾けているような姿には、それこそこちらが子どもに帰ったような気さえするのでした。それにしても、多くの子安地蔵がマリア像のように感じられたのは、これは偶然ではないように思いましたね。九州にも長くいらした方ですし、宗派にこだわらなかった方ですので、あるいは…。
1908 さて、もう一つデザインとして衝撃的だったのは、木喰さんの書画でした。特に利剣名号などに見られるフォントのデザインにはショックを受けました。木像群とは明らかに違う表現です。そのコントラストもあってか、鳥肌が立ちまくり。利剣名号は他にも見たことがありましたが、これは抜群のデザインセンスですよ。すごい。かっこいい。煩悩を断ち切り続ける鋭利な現代性。
 それにしても、木喰さんのバイタリティーは素晴らしいですね。小島さんもさかんに強調していましたが、80歳、90歳過ぎてからのさらなるパワーアップはすごい。本人は600歳まで生きる予定だったようです。歳とともに「願」が増えていくというのもいいですね。「願」というのは願望や欲望ではありません。自らの生の目的です。それも利他を基礎にしている。私もそのように歳をとりたいですね。木食行しようかな。そして廻国。
2021 ああ、そうだ。最後に気になったこと一つ。書画に多く「禁常皇帝」と書かれている(上の写真では珍しく今上ですが)、あれはどういう意味を込めていたのでしょう。「今上皇帝」は、たとえば円空などもたくさん今上皇帝像を彫ったりしてますから、まあ当時としてはメジャーなアイドルだったわけですが、「禁常」という当て字は珍しいのではないでしょうか。その真意を知りたいところです。
 あとなあ、木喰が残した和歌についても書きたいところですが、長くなりますので、またいつか。

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祈りのかたち−甲斐の信仰−
縄文の美とエネルギー
北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景

山梨県立博物館

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2008.04.19

田中泯 『場踊り〜森の奥へ』

 ー私は、場所で踊るのではなく場所を踊るー
000033910 方巽の舞踏の重要な継承者の一人である田中泯さんの場踊りに行ってまいりました。場は富士吉田市のナノリウム裏の森の中。
 本当にここのところ、土方との縁から舞踏の世界に半ば強制的に引き込まれている私です。自らのキャリアから、私は舞踏と言語の関係について、あるいは舞踏と音楽の関係について考えることが多いのですが、今日はそんな小さな試みに対する大きなヒントを多く得ることができました。また、最近の一つのキーワードである「場」についても。
 それにしてもこれほど語るのが難しい体験というのも珍しい。たしかな実感があるのに「コト化」できないとはいかなることなのか。しかたがないので、私の脳に生起した言葉の断片をここに記しておきます。語ることはできずとも、記すことはできましょう。

 我々は重力でつながっている
 時機よく降り出した小雨もまっすぐに地に落ちる
 我々はなぜそれに逆らおうとするのか
 人間という根無し草
 言語もまた重力に従う
 土方の言葉を聞け
 文脈という社会性などいらない
 楽譜の呪縛と恍惚
 我々は自由を得ようとして死にさらされる
 なぜに我々は表現にまでアフォーダンスを求めるのか
 プラグマティズムという名の自傷行為
 さまよう人間の不安定さと
 そこにあり続ける木々のしなやかさ
 そしてしたたかさ
 頭上に飛行機の音の軌跡
 我々はそこまで飛ばねば不幸なのか
 目の前の障害物から逃げ続け
 森を切り開き道を作る
 それでも不安なら
 雲の上まで飛んでしまえ
 そして気づけ
 大地から遠く遠く見放されたことを
 話すとは放すことであった
 無責任に放された言葉たちが
 無意味に充満する世界
 なら黙ってしまうのも一つの手だ
 そこに現れるのは無言の音楽
 見事な緩急を蔵した分子の振動
 それがあればもう充分だ
 今までと違う耳と目と皮膚と
 そして呼吸
 人間はもっと隠れて生きるべき存在なのかもしれない
 木々の間に不安そうに擬態して
 息を潜めることの安心と興奮
 発見されることの不幸
 言語以前の言語
 前衛という名の古典
 田中泯は
 大きく動揺して
 再び
 大地と自らを断絶する靴を履き
 宇宙と自らを断絶する帽子を被り
 そして森の奥へ帰っていった

Ba08 写真は彼の舞踏が堆積したのちの「場」の風景です。

田中泯 公式

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2008.04.18

『フォーレ レクイエム(ピアノ編曲版)』 ナウモフ

Lvc1007 日はレクイエムを聴かねばなりません。昨年の春も大変に辛い別れがあったのですが、今年もまた…。あまりに若すぎます。辛すぎます。
 私の人生を変えるきっかけを与えてくれた方がまた亡くなってしまいました。それも私よりいくつも若い…。また永遠に恩に報いる機会を失ってしまいました。
 悲しすぎると涙なんて出ないものです。と言いますか、正直まだ事実を処理しきれていません。ですから、もう生きている私が、とにかくしっかり、この時を大切にしていくしかありません。
 ただこのふわふわしたような気持ちをいかにすればよいのか、たいへんに難しいのです。そんな私のどこかたよりない魂を、優しく鎮めてくれる音楽がここにあります。
 レクイエムとは、いったい誰の魂を鎮めるものなのでしょう。レクイエムを聴くのはいったい誰なのでしょう。誰のために演奏されるべきものなのでしょうか。これは音楽がいったい誰のためのものなのかという、根本的なテーマにも関わってきます。
 フォーレのレクイエムと言えば、私はこちらのラター盤を最高のものと思っているのですが、今日はあえて珍しいピアノ独奏版を聴きました。この演奏はもう10年近く前にもなりましょうか、FMか何かでふと耳にして、大変に好ましく思った記憶があります。
 それが、今日NMLのトップページを開いたら、ちょうどそこに紹介されていました。これも不思議なことでした。もう、これは彼と自分のために聴くしかありません。
 人の声からピアノの音へ。この抽象が、私の魂を透明にしてくれます。
 しかし、彼にとって、この現世の音の連なりがどれほど意味のあるものなのか、それは分かりませんし、正直どこか頼りないような気もします…。
 もしかすると、音楽は、生きている私たちにとっては、単なる麻薬のようなものなのかもしれません。そんな気すらしてしまうのでした。そうでないと信じたい自分ももちろんいるのですが…。

NMLジャパンで聴く(会員用)
NML本家で聴く(15分間フリー)

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2008.04.17

奇跡の救出劇に見る「日本文化」(?)

Ibook 親のiBookが起動しなくなり、もうずいぶん長く使っているのでそろそろ新しく買い替えたらどうかという話になりました。で、結果としてMacBookの一番安いヤツを買うことになったんですね。もうすぐ80になろうかという父親ですが、心身ともにある意味私より若いんですよ。MacBookを使いこなす爺さんというのもなかなかカッコいい。
 さてそれで困ったのは彼が作りためた書類たちです。なんだか得体のしれない怪文書がたくさんあるようです。なんとかしてくれとの要請がありましたので、救出作戦開始です。
 バックアップなんてものは取っていなかったので、内蔵ハードディスクを救出するしかありません。まあやることは簡単と言えば簡単ですよね。iBookからHDDを取り出して、外付けケースに収めるだけのことです。
 ところがまずはそのHDDを取り出す作業が大変でした。今のMacはどの機種も内部へのアクセスが非常にしやすくなっていますが、ちょっと前のは案外苦労します。
 いちおうネットで調べた手順でやってはみたのですが、どうにもボトムカバーがはずれません。ネジというネジをはずして、すきまにいろんなものを差し込んでみたりしても、なかなか頑固です。
 私が難渋しておりますと、持ち主の親父が業を煮やしたのかやってきて、なんだか非常に手荒な作業を始めました。手にはでっかい金切り鋏をもっています。えっ?これで何するの?
080415 と思う間もなく、おじいさんはiBookをジョキジョキ切り始めたではありませんか!(昔話みたいだな)…これは衝撃的な映像です。まじで動画でその過程をおさめておけばよかった。YouTubeにアップすれば評判になったかも(笑)。
 まあ、もう使わないというのは分かりますけどね、なんだか大切に使っていたMacをこういうふうにできる感性って…。それもガハハハ笑いながらやってるぞ。こっちもつられて笑いが止まらなくなり、さらには彼のハサミを奪い取りバキバキッとやり始めてしまう始末。
 むむむ、これはさっき親父と議論した南京大虐殺につながるものがあるような気もするぞ…。こういう心理状態って、怖い。
 と、まああんまり難しいことは言わないようにしましょう。とにかくすごい惨状になりました。結果として無事HDDは救出されましたが、もちろんその他の部分は壊滅です。完全に死亡。
Hddc 奇跡の救出劇(?)ののち、ネットで一番安いケースを注文。それがこれです。アキバなんか行けばもっと安いものもありますけど、まあ600円台ならいいでしょう。送料も同じくらいかかるんですけど、電車賃を考えれば安いもんです。
 で、今日そのケースが着きましたので早速HDDを収めてウチのMacBookに接続してみましたら、無事認識されました。あの手荒な作業の中でも全くの無傷で生還したのですから、まさに奇跡の救出劇だったのでは(笑)。
 しかしですねえ、人間というのはどうしてこのように「コト(データ・情報)」にこだわるんでしょうね。昨日の記事にも関連してきますけど、データ(情報)というのは、それ自体は「死体」みたいなものです。でもそれがなくなるとなると非常に不安になる。常にインデックス化して自分の管理下に置いておきたいんですね。まさに本能です。
 そのために、苦楽を共にしてきた(?)、風体もカワイイiBookちゃんを、でっかいハサミでああやって切り刻んじゃうんだから、こりゃあホントに「もののあはれ」ですねえ。なんだか虚しいモノを感じました。たしかにもう使わないからいいんでしょうし、考えようによってはああやって決別することも必要なのかもしれませんが。ウチなんか決別できない、それこそMacの死体たちがたくさん陳列してありますよ。それもまた困ったものなんですけど。
 データの保存にこだわるにしても、本体の保存にこだわるにしても、いずれにしてもですね、こうして「死体」にこだわるのが、ワタクシ的な言い方だと「萌え=をかし」にこだわるオタク的性質だと思うんです。データをコピーして疑似的な永遠性を得る。または、フィギュアを保管保存することによって疑似的な永遠性を得る。ある意味では虚しい行為ですね。
 この前、NHKクローズアップ現代で「文化財のデジタルコピー」についてやってました。これなんかまさにオタク道極まれりといった内容で、笑っちゃうやら感心しちゃうやら、実に興味深かったんです。日に日に劣化していく(当たり前ですがね)文化財をデジタルコピーして、そのコピーを本来の場に置き、本物は別の場所で保管すると。そのうちに、コピーが商品として販売までされるようになってると。コピーしてるうちにどれが本物かわからなくなっちゃうし、コピーで満足してしまう。日本に特有な妙な文化ですよ。一概に悪いとは言えませんが、なんだかやっぱり虚しさを感じました。
 このページでは、ついに人間をスキャンしてるし…(笑)。

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2008.04.16

検索エンジンと「私」

08g 世界中の情報をインデックスする。そう豪語するGoogle。インターネットとは脳と脳とを(主に言語を通じて間接的に)つなぐ網のことですから、彼らの言うインデックスとは、我々の脳の中の「コト」の索引ということです。
 今まで何度も書いてきたように、我々には「コト化」の本能があり、それに従って、あるいはそれは完全なる実現が可能であるという前提に従って西洋科学や哲学などは進歩してきました。
 私は言わずもがな「モノ派」、すなわち、そりゃ無理だろ派ですから、自然Google的発想には反発したくなります。でも、実のところ私にも「コト化願望(欲求)」は大いにありますから、Googleには大変にお世話になっているんですね。ちょうど市場経済、資本主義を否定しながらも、普通にお金を使い、お金のために働いているのと同じです。ま、そこんとここそが人生の修行なわけですけどね。
 で、お金の悪口を言ってるせいでお金が私のところに集まってこないのと同様に、Googleの悪口を書きすぎたせいか(たとえばこちらで「死体集め」とか言ってるし)、最近Googleにずいぶんと嫌われてるんです。
 いや、もともと逆にGoogleにずいぶんとよくしていただいてたんですよ。読者の皆さんの中にも、このブログを知ったきっかけがGoogleによる検索結果だったという人も多いことでしょう。もしかすると8割くらいそうなのかもしれない。実際、身の程以上に検索結果の高いところに位置させてもらっていました。それがなんでかよく分からなかったんですね。それほど多く引用されたりリンクを張られたりしてませんので。
 それが、えっと3月9日(!)を境にドカンと全記事の検索順位が下がりまして、まあようやく身の丈になったというか、順当な位置に落ち着いたわけです。おかげでGoogle経由でいらっしゃる方は激減。なんとなく寂しいような、いやちょっとホッとしたような…。
 人もお金も検索エンジンも、やはり恩を仇で返されたら、そりゃあ怒るでしょう。私だってそうです。仕事柄そういうことが多いんですが、まあ怒らないにしても落胆しますよね。で、Googleも結局人だったということでしょうか、いやいや違うか、言語も索引もGoogleの技術も人間が作った完全なるフィクションであり、そういう意味では「神」なのかもしれませんね。ということは、神の逆鱗に触れたってことかな。お前には目をかけてやっていたのに、なんじゃあ!その態度は!と。
 ページランクは下がっていないんですけど、まあなんか向こうのアルゴリズムの変更でもあったんですかね、とにかくドカンと落とされました。今まではなんだか知らんが検索結果の1ページ目に載ることが多かったんですけど、今やいくらページを繰っても出てこない。こりゃあ誰も来ないわ。いろんな方々が1ページ目に載ろうとしてSEOに励むのもよくわかります。特に商用ではね。
 さて、そんなわけなんですが、ここ数日の間にGoogle以外の検索エンジンのクローラーがいくつか本ブログを訪れました。というか、今もいます。
08c 3日くらい前からじっくりゆっくり私の脳ミソの中をインデックスして歩いているのは「Cuill」。クールと読むそうです。これは元Googleの社員を中心に開発された新型スーパーステルス検索エンジンだそうで、なんでもGoogleを脅かす技術らしい。Googleよりもずっと早く、低コストでインデックスを作ることが可能であり、今年中の開業を目指しているとのことです。はたしてウチはどのくらいの評価を得るのだろう。楽しみです。
 Googleを超える検索サービスになる可能性大…かと思いきや、どうせGoogleに買収されてしまうだろう、あるいはいろいろな意味で潰されるだろうともウワサされています。ああ、怖い世界だ。
 それにしてもずいぶんとゆっくり私の脳ミソの中をクロールしてますね。なんだか、頭の中にロボット(スパイ)がいるみたいで気持ち悪いんですよ。
08a もう一つはAmazonのサービスである「AWS」のクロールロボット。これはものすごいスピードで嵐のようにやってきて去っていきました。おいおいちゃんと読めよ!ってツッコミを入れたいくらいです。Amazonのサービスの中でどのように使われるのかよく分かりませんが、やはり彼らもGoogleとは違った方法で世界の「ことば」をインデックス化しようとしてますからね。そして、実際にそのコピーたちを物として売ろうとしている。古来の経済システムに乗っかりつつ、Google的な野望を抱いている。ある意味最強かもしれませんね。だって「コト」と「モノ」の両方を支配しようとしてるんですから。
 そのほか、以前紹介した音楽検索の新派であるseeqpodのクローラーも来ましたね。っていうことは、我々のバンドのmp3ファイルも世界に発信されているということか?!
 そのうち、クローラーどうしが戦うような日が来るかもしれませんね。私たちの脳を戦場にして、各社の(あるいは各国の)スパイロボットどうしがハイテク戦を繰り広げる…なんだかSFみたいなことになってきたなあ。
 こうなったら、やはり私は彼らに対抗して行かねばならないような気もします。3月9日というのが象徴的じゃないですか。土方巽の誕生日ですよ。自らの「モノ性」によって、「コト化」に邁進する現代社会にたった一人で立ち向かった土方。私もこのブログを通じて、検索技術という「悪神」(?)を混乱させていきたいと思います…なんちゃって。

関連記事
『グーグル・アマゾン化する社会』 森健 (光文社新書)
『グーグル革命の衝撃 〜あなたの人生を“検索”が変える〜』(NHKスペシャル)

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2008.04.15

増田町 りんごジュース 100 (秋田ふるさと農業協同組合 増田町ジュース加工所)

Img10233914976 今日は真においしいジュースを紹介しましょう。
 秋田県の増田町(現横手市)は、カミさんの妹さんがお嫁に行ったところです。増田町と言えば並木路子の「リンゴの唄」と、釣りキチ三平の「矢口高雄」ですね。私も以前、リンゴの唄に関してはこちら、そして町内にあるマンガ美術館に行った時の記事はこちらに書きましたっけ。とてものどかでいい所です。そこから毎年送っていただいているのが、このりんごジュースです。
 私、りんごジュース大好きなんですけれど、はっきり申しましてこのジュースは世界で一番おいしいと思います。ホントお世辞抜きで、ダントツうまい。
 これが本当の100%ジュースですよ。原料はリンゴだけ。それも皮まで。もちろん濃縮還元なんていうずるいことはしません。
 リンゴを皮ごとかじったことのある方はお分かりと思いますが、リンゴの一番おいしいところ(リンゴに限りませんね)は、皮と果肉の間のところなんですよ。これは文学と一緒ですね。虚実皮膜の間ですよ。そこのところに旨味、甘味が凝縮されています。
 ですから、とにかくこのジュースは一口飲みますと驚くほど甘いのです。砂糖か何かを添加してるんではないかと思うくらい。でも、これは天然の甘味なんですね。リンゴってこんなに甘くておいしいんだ。
 もちろん、原料となるリンゴの品質が高いのでしょうね。なにしろ、リンゴの唄のふるさとですから。世界最高級のリンゴだと地元の方は言います。それも納得。
 とにかくこれを飲んでしまうと、某アメリカメーカーの100%アップルジュースなんて飲めなくなっちゃいますよ。別物です。
 あとですねえ、このジュースは便秘気味の方にもおススメしますよ。ホント効果てきめんであります。やっぱり繊維質のおかげなんでしょうか。あるいはトータル的な自然の力なんでしょうか。
 本当の100%ですから赤ちゃんにも安心ですし、子どもたちも大喜び。冷凍庫に入れてシャーベットにするとまた絶品。非常にぜいたくなジュースであります。
 果糖(フルクトース)は冷やすと甘味を増しますので、そのあたりの変化を楽しむのも面白い。常温でさっぱりいただくのも良し、キンキンに冷やして濃厚に楽しむのも良しと。
 ただ、果糖は案外カロリー高いですので飲み過ぎには注意しましょう。
 このような素晴らしいジュースが200ccで100円程度なんですから、ふだん120円も払って飲んでるフツーの缶ジュースやら何やらが、いろんな意味で馬鹿げているということを痛感しますね。ぜひ、この本物のジュースをご賞味下さいませ。

増田町りんごジュース 【ふじ】 1箱/20パック

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2008.04.14

『Wonderful&Beautiful』=侘び(?!)

Ooguro01s 今日は新入生のあるクラスで最初の授業。いつものようにいきなり天地がひっくり返るような妙な即興話を2時間ほど。彼らすっかりケムに巻かれて、ワケも分からずニコニコしてましたな。まさに「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」だったのでは。それにしても毎年やってる教科書を使っての独眼流立体視の術、ウケがいいな(笑)。みんなホント知らないんですよね、この事実。
 さて、そのあと、ちょっと自分のお勉強の時間に、はっと想ったことがありましたので、記録、紹介しておきます。一昨日、昨日の記事の流れが、ひょんなところとつながりました。ここでもまた「古今東西・硬軟聖俗なんでもござれ」ですねえ。
 昨日、レミオロメンの『Wonderful&Beautiful』が歌い上げている、「間違えもある」「不完全でも」「不確かであれ」「不自由であれ」と言った言葉たちが「もののあはれ」を表すと書きましたね。それと同じことを全く違う分野の方が違う形で表現されていたので、うんうんと首肯しきりでした。
 たまたま「楽茶碗」のことをいろいろと調べていたんです。昨日、花畑で陶器の展示即売会がありまして、そこに楽もあったんですね。その時、ちょっと気になることがあったんで、今日ネットであちこち飛び回りました。
 そうしたら、こういうページがあって、樂家15代の樂吉左衛門さんの講演というか講義が載っていたんです。

桑沢デザイン塾<特別講座>デザインの21世紀

 これが非常に面白く勉強になりました。デザイン塾で「デザインにならないように」なんて言うあたりが吉左衛門さんらしいですし、全体に禅味が感じられて素晴らしいお話ですね。
 で、短いものなので読んでいただければすぐにお分かりと思いますけれど、彼が言っていることは藤巻くんが常々歌っていることと本質的に同じですよね。また、彼らがぶつかっている問題点でもあり、私たちファンも共有すべき人生の課題でもあるなと思いました。

「コアを持ちながら変質していく」
「欠けている状態そのままがいい」
「相対的な美’‘流動的な美’‘未完の美’」
「日本語は、何かある物事を‘たった一つのこのようなもの’と表す言語ではない」
「とらえようとするが抜け出ていくという、うつろう感覚がある」
「身体という時間軸を含めた具体性」
「作品に自己意識を持ち込んで完結させ『これです』と出すのが後ろめたい。定点を持つのが嘘くさい」
「作品と自己意識がダイレクトにつながるよりも、(焼き物には)火という自然の不確定さが加わって、自分自身の世界も変質することの‘救い’がある」
 
 ここで吉左衛門さんがおっしゃっているのは、私の言う「モノ」の本質ばかりですね。さすがです。私のような野狐禅とは違う。
 そして、本当に昨日書いたことや、昨日経験したことと見事につながっているような気がします。妙に腑に落ちました。すすすっと。
 しかしこうして、レミオロメンを通じて、私の中では「もののあはれ」と「侘び」がすっとつながるわけですから、本当に縁というのは面白い。
 藤巻くんの歌う「予報ははずれて 予感は当たった」というのは、前後はそれぞれ逆ですが、吉左衛門さんの言う「偶然と必然’‘自然と人為’という両義性」というのと深く関わっていますしね。ワタクシ的には「モノとコト」というやつです。
 さらに、

「陶芸のへこみや書の筆跡は、時間の中で作家が手を動かした軌跡そのもの。それを見る人も、同じように自分の感性を軌跡に乗せる」

という言葉、これは見る人、聞く人のあるべき姿を語ってお見事ですね。音楽を聴く時も全く同じだと思います。そして、それが、藤巻くんの歌う

Wonderful 限界はない
&Beautiful どんな小さな
幸せでも見つけ出し
光で照らし出すよ
役割だけじゃ 満たされぬまま
冬の中 手を繋いだ
Wonderful 冷たい雪ね
&Beautiful 絡めた指を
ほどかないでと 笑って泣いたね
Wonderful 変わりたいんだ
&Beautiful 奇跡だろうと
降りしきる雪を越え
光を探したのさ
あなたを探したのさ

だと思うんですね。これは単なる恋愛の歌ではない。不確かで不完全で無常なるこの世界を生きていくために必要な私たちの心のあり方が描かれているのだと思います。そう、茶碗の軌跡に乗ろうとするのと同じく、私たちからアプローチして、その人や場を知り、時間の堆積の中に自分自身をもうずめ、そしてつながり続ける。そうすると、私たちは変ることができる。そして、その変ることに「Wonderful&Beautiful」と言えるようになるんです。樂吉左衛門さんの言う、「ただし、きちんと絞り込みがないと偶然性の恩恵はない」…これは深いしある意味厳しい言葉です。
 うん、まさにこれは日本文化の伝統そのものですなあ。「もののあはれ」の本質的な部分が急によく見えるようになりました。本当にいろいろな自分以外の「モノ」に感謝です。

興味を持った方はYouTubeで「Wonderful&Beautiful」をお聴きください。

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2008.04.13

桃の花見 in 御坂 2008

080413f 昨日の静岡ライヴに続きまして、本日もレミオロメンを大満喫。彼らの故郷で恒例の桃の花見です。
 今年もまた彼らを生んだ美しく温かい風土、「場」というものを体と心でじんわり感じてきました。
 まったく縁というのは不思議なもので、二日続けてのご挨拶もあり、初めてのご対面もあり、感謝感激満開であります。
 花曇りのもと、御坂から甲府盆地、八ケ岳方面まで臨める絶景の場所にシートを敷いて、レミオロメンのおかげで知り合った多くの友人たち、そして地元の方とお弁当を食べまして、まったりまったり。桃の桃色、梨やすももの白、菜の花やたんぽぽの黄色、そして、うぐいすやひばりの鳴き声、子どもたちが笑い声に囲まれる…こんな幸せがあるでしょうか。もう何十年も続けている花見でありますが、今年はまた格別なものがありました。
080413u 人と風土が「人」を育て、その「人」が「音楽」を生み、その「音楽」が「縁」を生んで行くんですね。ここのところ私のテーマになっている「場」というものが、いかに我々にとって、あるいは芸術というものにとって大切であるか、再確認した次第です。
 「場」というのは、すなわち「ライヴ」であると思います。「live」とは「生きている」ことであり「本物」ということです。本物であるということはすでに決定して固定された「コト」ではなく、実は未決定であり変化し続ける「モノ」だということです。たしかにliveという英単語にもそういう意味があったと思います。
 たとえばCDで聴く彼らの音楽は、基本デジタル化されていて、それ自体の現象としては変化しない「コト」です。それは本来変化している「モノ」をメディアによって固定して「コト化(カタリ)」したものであって、過去の記録に過ぎません。つまり、それは「物語」なのです。いつかも書いたように、それは受け取り手の欠落を埋めるという意味で、私たちを変化させる機能は持っていますが、それ自体は変化しません。私たちが同じCDを違ったように感じたりするのは、それは私たち自身が変化しているからにほかならないのです。
080413z その点、「ライヴ」は相互作用的に変化が起きます。表現者もその「場」の力によって変化を余儀なくされます。それはコンサートなどだけでなく、たとえば、こうして花見をしている場合、私たちは観客であるわけですが、一方の表現者たる「花」たちも常に変化を余儀なくされます。その原因は、季節の移り変わりによるものであったり、農家の方々の摘花作業であったり、子どもたちの無邪気な花摘みであったりします。
 これは写真鑑賞ではありえないことですね。この幸せな時間もいつか終わってしまう、この花たちもいつか散ってしまう。しかしまた、次に新しい季節が到来し、新しい風景が生み出されていく、おいしい桃がたわわに実る。子どもたちが美しい花を摘んでしまうのは、ある意味残酷であることかもしれませんが、そこには美を愛でる心があるのも事実です。まさにそうした移り変わり行く運命にある「美」に対する慈しみと哀しみの心こそが、「もののあはれ」だと思います。「モノ」の本質である時間の経過を共有することこそ、「場」をともにするということであり、それを理解して自らを処するのが、今風な(しかし古来の)言葉で言うところの「空気」や「雰囲気」を読むということなんでしょうね。
080413t ライヴの素晴らしさとは、まさに互いの「語り合い(語らい)」による相互変化の妙ということになりましょうか。それが人生や人間関係の本質であり、それを象徴的に表現すべきものが「芸術」ということになるのでしょう。
 こんなことを考えてみますと、また「Wonderful&Beautiful」の歌詞も新しい意味をもって聞こえてきます。そう、彼らの感じたWonderful&Beautifulとは「もののあはれ」だったのですね。
 なんて、小難しいことは何も考えずに、無心で風景や人々と語り合った一日でありました。ウチに帰ってきて、自分なりに復習して「コト化」するとこういうことになるというわけです。私の表現はとても「芸術」とは言えない独りゴトですね。失礼致しました。
 あっ、ちなみに最後の写真の奥に見える森は彼らが神社時代を過ごした「埋草神社」の杜です。

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“Wonderful&Beautiful”レミオロメン TOUR 2008 at 静岡市民文化会館
『Wonderful&Beautiful』=侘び(?!)

↓オマケです(こんな写真まで撮らせていただき恐縮です)

Asagao

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2008.04.12

“Wonderful&Beautiful”レミオロメン TOUR 2008 at 静岡市民文化会館

Rs1 レミオロメンの下が民謡、渋いな。そしてその下の「萌」の会とはどっち系でしょうか(笑)。
 山梨凱旋ライヴに続いて2回目のW&Bツアー参戦です。今日は私の出身地静岡。実家から歩いて行ける距離にある静岡市民文化会館でのライヴでした。
 かの幻の迷作「駿府会館」の消滅とともに現れたこの会館。ウン十年前、私も数回ステージに上がっております。まさに思い出のステージ。同じ場所に彼らが立っていると思うと妙な感慨があるのでありました。
 ちなみにこの会館の客席に座るのは22、3年ぶりのことです。あの本田美奈子さんのコンサート以来です。アイドルとして絶頂期の彼女のパワフルなステージを思い出して切なくなってしまいました。
 さて、そんな思い出深い市民文化会館に到着した私とカミさんは、まず楽屋入り口でメンバーのご両親にご挨拶。クワガタのお礼など申し上げます。その後友人たちと合流し座席へ。
 今回の席は一番端ということで、ちょっと音響のバランスが悪かったのが残念でしたが、おかげでいわゆる会場のノリからはいい意味で外れることができ、ゆっくり鑑賞いたしました。二度目ですから違った聴き方ができたのはラッキーだったかも。
 えぇと、でも今回は音楽的なことは書きません。ま、山梨と同じ構成、同じ曲目だったわけで、多少のアレンジの違い、藤巻くんの唄い方の違いなどはありましたが、感想は山梨の時と基本変りませんので。
 今回なんと言っても面白かったのはMCですねえ。山梨、静岡両方に住んだことのある私としては、非常によくわかる話満載でした。
 そう、山梨の人って「海見に行こう」的なノリでよく静岡に来るんですね。静岡=海だと思ってるんです。なにしろ甲斐の国は海なし県ですので。
 逆に静岡の人は、たまに山に行こう、あるいは湖に行こうという感覚で山梨に行く。山梨=山だと思っています。実際そうですが。
 で、今日も彼らがバイクや車で海に遊びに来た時の楽しいエピソードを語ってくれましたが、そういう山梨ナンバーのバイクや車(特に若者)が来るとですねえ、静岡の人は「あっ、山猿ナンバーだ。山から猿が下りてきた」と言ったものです(笑)。ごめんなさい、山梨の皆さん。なんて、私も今ではすっかり山猿なわけですが。
Rs2 駿河の国と甲斐の国の関係は古くからこういう感じだったんですよ。決して仲が良いわけではありませんでした。
 今、私が住んでいるあたりがちょうど関所があった所でして、駿河と甲斐の文化の接点、あるいは衝突点になった場所です。
 それにしても、彼らのやんちゃな話は面白すぎました。ケツは出すし、全裸にはなるし、木馬(?)に乗るし…いや、話の中でですよ(笑)。なんだか、生徒たちを見ているような感じでした。高校生のノリのままやってる。そんなところがまた彼らの魅力なんですね。ほかにもここには書けないような話もあり、そういう意味では地元山梨での公演よりもリラックスしていたような気もします。やっぱり凱旋って特別な緊張や気遣いがあるんだろうな。そんなふうに思いました。
 あっ、あと前田くんの「洗濯ネタ」は今日限定だったのでしょうか。わかる人にはわかる、ツボを押さえたお話でして、腹をかかえて笑わせていただきました。
 さて、明日は彼らの故郷御坂で桃の花見をしてきます。楽しみです。
 「桃の花見in御坂2008」の記事へ

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2008.04.11

源氏物語に学ぶ「通奏低音奏法」その2

Dftf 今日は、チェンバロ&ヴァイオリン製作家の卵がウチに遊びにいらっしゃったので、いろいろと話をうかがいました。そこで思い出したものがあったので記しておきます。
 以前、源氏物語に学ぶ「通奏低音奏法」という記事を書きました。平安のセクスィー部長光源氏さんによるチェンバロ奏法指南です。あそこのシーンでチェンバロ(和琴)の名手として挙げられている当時の内大臣こと「頭中将」が、さらに出世して太政大臣になっていたころ(巻名では若菜上)、彼の息子の柏木(衛門督)が和琴を弾くシーンがあるんです。お父さん秘蔵の名器で通奏低音パート(?)を担当します。今日はまず我流(無手勝流)の訳を載せましょう。本文は最後に。


 朱雀院の御病気が、まだ完治なさらないことから、楽人などはお召しになりません。御笛など、太政大臣がその方面はお整えになって、
 「世の中に、この御賀よりまた素晴らしく美しさを尽くすような催しはないでしょう」
 とおっしゃって、優れた楽器や奏者の限りをかねてから熟慮し準備なさっていたので、忍びやかに音楽のお遊びが催されます。
 とりどりに演奏申し上げる中で、和琴は、かの太政大臣が第一にご秘蔵になっていた御琴です。この楽器の名人が、愛情を注ぎ込んで弾き馴らしていらっしゃる音が全く並ぶものがないほどなので、他の人は音を出しにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを無理に催促なさると、本当にとても素晴らしく、ほとんど父に負けないように弾きます。
 「何ごとでも、名人の後嗣と言っても、このようには継げないものですよ」と、感心しあっぱれだと人々はお思いになります。
 メロディーに従って楽譜の残っている曲や、演奏すべき音が決まっている中国伝来の曲などは、かえってどう演奏すればよいか尋ね知る方法がはっきりしていますが、心にまかせて、ただ弾き合わせるアルペジオに、すべての楽器の音が調えられている様子は、本当に素晴らしく、不思議なまでに響きます。
 父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低くチューニングし、響きを多く合わせて弾き鳴らしなさります。息子の方は、たいそう軽やかに昇り立つような音で、親しみやすく明るい調子なのを、「まったくこのようにお上手とは知りませんでした」と、親王たちも驚きなさります。


 どうでしょう。息子の柏木もなかなかやるようですね。お父さんに負けず、そしてお父さんのコピーに陥らずオリジナリティー溢れる演奏をしたようです。特に、楽譜通りでなく、他の楽器の音を自らの響きにおさめてまとめるアルペジオでの即興演奏は素晴らしかったと。これはまさにチェンバロやリュート、テオルボなどの撥弦楽器による通奏低音奏法の理想ですね。
 あと面白いのは調律法でしょうか。頭中将は低めにチューニングしたようですね。テンションを下げるとたしかに響きは豊かになります。
 そうそう、いきなり現代に話が飛びますが、最近復活したX-JAPANも半音下げチューニングしてましたね、たしか。あれはバロック・チューニングを意識したのだと聞いたことがあります。ホントかな。ちなみにBUMP OF CHICKENもほとんど全て半音下げですね。今度5月に彼らのライヴに行く予定なので確かめてきます。彼らも古楽的な要素を持ったバンドですからね。案外、我々古楽人のスタイルが現代ロックに影響を与えてるんですよ。
 洋楽ではヴァン・ヘイレンが有名でしょうか。ジャズでも誰かいたような…。結構いるんですよね。独特の響きを出したい時は頭中将流が手っ取り早いというわけです。
 というわけで、あいかわらず「古今東西・硬軟聖俗」めちゃくちゃな内容になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。では、最後にいちおう本文を載せときます。

 朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。御笛など、太政大臣の、その方は整へたまひて、
 「世の中に、この御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ」
 とのたまひて、すぐれたる音の限りを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。
 とりどりにたてまつる中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり。さるものの上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくくしたまへば、衛門督の固く否ぶるを責めたまへば、げにいとおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く。
 「何ごとも、上手の嗣といひながら、かくしもえ継がぬわざぞかし」と、心にくくあはれに人びと思す。調べに従ひて、跡ある手ども、定まれる唐土の伝へどもは、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。
 父大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに昇る音の、なつかしく愛敬づきたるを、「いとかうしもは聞こえざりしを」と、親王たちも驚きたまふ。

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2008.04.10

『兵士たちが記録した 南京大虐殺』 (NNNドキュメント'08)

Nankin1 ダライ・ラマが来日。チベットでの暴動、北京五輪について記者会見しました。その様子を見て、日曜深夜に録画したこの番組をようやく観る気になりました。
 いろいろな意味で辛かった。殺された捕虜、殺した兵士、軍、国家、陣中日記を収集する小野さん、この番組を作ったスタッフ、放送した放送局、観ている私たち、ネット上で繰り広げられる無責任な議論、まじめに向き合おうとしている研究者、頑なに口を閉ざす元兵士…みんな辛いじゃないですか。
 南京大虐殺に関しては、いろいろと議論の分かれるところであり、私はその研究家でもないし、あまりに知識も不足しています。ですから、あったなかった、5万だ30万だとか、誰の責任だとか、そんなことは声高には言えません。ぼんやりしたイメージのようなものはあったとしても、それを言う必要も責任もありません。
 こういうことを言ってしまうといろいろな方面から怒られるかもしれませんけれど、やはり私は語れないものを語ろうとすることの危険性の方が気になります。語れないことを「モノガタリ」してしまうと、そこにはどうしても「自分」が強く表れてしまい、結果として原理主義的になってしまうからです。
 この番組への意見や感想も、予想通り真っ二つに分かれているようです。だからこそ、この問題は放送界ではタブー視されてきたんでしょうね。まあそういう意味ではこのドキュメントをよくぞ放映したなとも思います。
Nankin2 しかし、ここで描かれた南京での出来事は、あくまでも陣中日記やテレビ番組として「語られた」ものであり、もちろん本当の出来事の一部でしかありません。物語やメディアの本質はそういうところにあるのだということをしっかり把握してかからないと、つい自分の口からも妙な「語り(騙り)」が始まってしまいます。それがどんどん伝播して増殖して、そうしてあの戦争も起きたんでしょう。そこのところをしっかり意識して臨まねばなりません。
 そうすると結局何も言えなくなってしまうんです。で、何も言わないと「忘れてしまう」。忘れてしまうとまた愚行を繰りかえす可能性も増える。それはいかんと、たとえば我が教育界でもそう叫ぶ先生がたくさんいるわけです。
 そう、結局、語っても語らなくても、それが極端になれば同じような結果を生むんですよ。私はそれが昔からイヤでたまらないんですね。だから、そういう世間の流れの中には、どちらにしても身を投じることができなかった。どこにいても安心できないし、燃えもしない。そんな自分も辛かった。
 う〜ん、今もこうして書いていることが辛い。結論なんて出やしないんですから。でも、知りたい自分もいるし、知ってもらいたい自分もいるし、知りたくない自分もいるし、知ってほしくない自分もいる。そして、誰かと議論になればその時だけは熱くなる自分もいるし、でもそんな時も相手によって自分の言っていることはコロコロ変っているし。
Nankin3 結局、こういう無責任で自己中心的な人間個人の集合体としての「人間」が悪いんでしょう。罪を憎んで人を憎まず、なんていうのは最も無責任な非人道的な物言いです。でも、そう言ってしまって終わりにしてしまうのが「人間」であり、また、そう言ってでも終わりにしてしまいたいと思うのも「人間」であり、そういう逃げ道を作っておいて再び馬鹿なことをしてしまうのもまた「人間」なのでありました。
 そんなふうに考えてくると、最終的には口をつぐんだ兵士たちが一番正しいような気もします。知っていながら、語れないから語らない、というのが人間として正しいあり方なのかもしれませんね。
 ですから、私もこれ以上語りません。

 (この番組について)知りたいという方は、一部ですがYouTubeにアップされていますのでご覧下さい。あくまでほんの一部のごく一部なわけですが…。

YouTubeで観る

Amazon 南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記

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2008.04.09

「平左衛門」(タイヘイ丸大豆しょう油)

Heizaemon 春はいろいろと頂き物が多い季節であります。ありがたいことです。特に発酵食品や発酵飲料が多いのが特徴であります。これはおそらくワタクシの嗜好をよくご存知の方が多いためであります。
 発酵系食品や飲料や調味料がなんで旨いのか。なぜ私はそれらを好むのか。
 それは、やはり「他力」だからでしょうね。漫画もやしもんが人気なのは、その「他力」感ゆえでしょう。見えざる他力のパートナーをキャラクター化したことと、その強力な「他力」が「微力」の結集によるものであるギャップ、また人間とその微なるものたちのコントラストによって、世の中の本質を表現していると思います。
 そうそう、そう言えばその「もやしもん」の舞台になった東京農大の醸造科に行ってる教え子が、日本酒の醸造実習で造った酒を送ってくれましたっけ。ものすごく美味かったんですが、笑えたのは銘柄。ラベルに江戸文字で本人の名前が印刷してありました。そう言われるとなんとなく酒の味がそいつのキャラに似ていたような気がします。明るくマイルドな喉ごし(笑)。ネーミングって重要ですね。
 さてさて、今日紹介するのは、発酵飲料ではなく発酵調味料です。これも頂き物であります。ごちそうさまです。
 普段はもちろんキッコーマンとか使ってます。てか、それしか知らなかった。醤油はああいうものだと思ってました。たまに秋田に行くと、食卓に普通の醤油と東北醤油キーコーヒメの「味どうらく」が並んでまして、ああ地方には地方の醤油文化があるんだなあと思うくらい。あ、あと秋田と言えば「しょっつる」ね。あれは魚醤を使うらしい。
 今回初めて本来の醤油を体験したという感じですね。この「平左衛門」、原材料は大豆・小麦・食塩だけです。ちなみに一般的な醤油は脱脂加工した大豆を使いますが、これは丸大豆をそのまま使っています。まあ最近の原材料イメージブーム(?)のおかげで、普及品にも丸大豆を銘打ったものが多くなりましたけどね。でも、ああいうものでも、けっこう甘味料や保存料、アミノ酸なんかが添加されています。それに比べてこの平左衛門のなんとシンプルなこと。
 味はかなり濃厚な感じがします。複雑な味ではありませんが、口の中にじんわりしみ込む味わいがなかなかよろしい。私はアミノ酸調味料過敏症なんで、どうもあの作られた「旨味」というのが嫌いなんですよ。それがないだけでも、心理的にもおいしく感じます。濃厚なのにさわやかです。
 もともとが醤油はあくまでも調味料なわけでして、あんまり強烈に自己主張しない方がいいですよね。この平左衛門、何にかけてもそれぞれの食材本来のおいしさを引き立ててくれます。特にシュンギクのおひたしに少しかけるのが絶品でした。
 それにしても本当に発酵系食品や飲料っておいしいですよね。腐敗と発酵は原理は同じです。納豆なんかもそうですけど、一見(一嗅)腐っていると思われるものを最初に口に入れた人に敬意を表したいと思います。マイナスなものの中からプラスなものを見つける、あるいは前に書いたように他の力にまかせる、そして他者(この場合微生物)にとって快適な環境を作ることに職人魂を注ぎ込む…そんなあたりが、いかにも日本人、日本文化という感じがしていいですね。調味料もあくまで「調える」すなわち「アンサンブル」を目的とするものです。こちらの記事で書いた「きく」というのとも通底してますね。私もそういう世界の中で生きていきたいものです。

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2008.04.08

『ほんとうの環境問題』 池田清彦 養老孟司 (新潮社)

10423104 このおススメに何度も登場願っているお二人。そのお二人による夢の最強タッグが実現しました。
 結果、あまりに上等なエンターテインメントが完成。予想をはるかに超えるのがエンターテインメントです。断絶していたものどうしを結びつけるのがエンターテインです。
 何が断絶していたか。それは「人」と「自然」です。そして「私」と「『ほんとうの』真実」です。何が断絶させているのか。犯人は「カネ」です。そして「政治」です。
 私は何度も何度も繰りかえしてきました。資本主義、市場経済を続ける限り環境問題は解決しないと。真剣に地球にやさしくするんだったら、もういっそのこと清貧に甘んじろと。いや、死んでしまえと。
 私がいくら吠えたところで、そんなことは実現しっこありません。いや、このある種の天才二人がこうして吠えても、基本世の中は変わらないでしょう。カネは暴力と仲がいいのです。だから、一旦カネが本気を出せば、我々はひとたまりもないんです。
 うん、そうだ。いっそ、カネの力を借りてカネを制すか。そういう楽観的な未来展望というのもずいぶんとなされてきました。どうせ最後は自滅するよ、人類なんて。この本にも少しそういう臭いがあります。石油は全部使ってしまえとか。
 でも、それじゃあ、あんまり哀しいじゃないですか。人類というレベルではそれでいいし、そういうレベルならば人類ごとき絶滅しても、宇宙にとっては、あるいは地球にとっても、全然痛くもかゆくもないのかもしれません。でも、やっぱり、自分というレベルで考えると哀しい。
 その人々共通の哀しさ、それは倫理とはちと違うのかもしれませんけれど、そこんとこにまたつけこむ悪い企業や政治家がいるわけです。それが今、環境問題として騒がれているところの本質だと思います。なぜ、今環境問題が声高に叫ばれるのか、なぜ温暖化論が加熱しているのか。それは、それがカネになるから、すなわち政治になるからにほかありません。
 この虫好きオヤジ二人に共通しているのは、「ほんとうのこと」をいつも言ってしまうことです。それで商売している人です。それで虫採りの資金を稼いでいる。あるいは二人に共通していないのは、池田さんは私に好かれていない(たとえばこちら)けれども、養老さんは好かれている(たとえばこちら)という点です。その違いはどうして生じるのかというと、これはものの言い方によるものでしょう。ユーモアの質の違いでしょうかね。いや、虫としての質感の違いかな。ほら、虫の中でも、これは許せるけど、これは許せないっていうのあるじゃないですか。生理的に。
 というわけで、とにかく面白かったんです。私はここでついても表明しているとおり、完全なる環境問題懐疑主義者でありまして、そういう意味において、この本は私の知識や想像力をはるかに凌駕していましたから、それはそれは面白く読みました。それこそ30分もかからなかったのでは。そして、その30分間、ずっとニヤニヤしてましたよ。ウンウンうなずいてましたよ。
 内容については実際読んでいただく、あるいはAmazonのレビューを読んでいただけばいいですね。で、この本を読んで腹が立つ人ってどういう人なんでしょう。私の身近にもけっこういそうなんですけどね。なんとなく虫が好かないんでしょうか。スローガンやアクションで武装しなくちゃいられない人なんでしょうか。それともやっぱり自然よりカネ、すなわちワタクシ流に言えば「モノよりコト」の人なんでしょうか。
 繰りかえします。やっぱり私は「心より物(コトよりモノ)の時代」を標榜して行動していきたい。この本を読んで笑いながら真剣にそう思いました。

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2008.04.07

サラリーマンNEO season3 第1回(NHK)

 いやあ、最初からこんなに飛ばしていいんですか?!もう様々なピンポイントがあって、これはもう私(とカミさん)のために番組作ってるんじゃないかと…笑。
 一日遅れですみません。私、10時には寝てしまう人間なので、基本月曜日の朝4時とかに観ます。去年までは火曜日だけは頑張って11時半まで起きてた、つまり自分の生活リズムを変えてまでサラリーマンNEOを観ていたんですけど、さすがに翌日からサラリーマン生活に戻らねばならない日曜日は無理できません。
 いや、実は月曜日の早朝はプロレスリング・ノアの録画も観なければならないので大変なんですよ。サラリーマン生活に戻る寸前が、これからしばらくはノア対ネオということになりますな。どっちを先に観るか、これはワタクシにとってはその週を占う大切な決断になることでしょう。
 さてさて、今回、シーズン3の初回、冒頭に書きましたように、ひどくワタクシにピンポイントでした。いちおう順を追って復習いたしましょう。
 まずオープニング。これはファミコン風味ですね。そういうサラリーマン層を意識しましたね。合格。
Exp31 続いてNEOエクスプレス。これは面白い展開でした。中田有紀さん扮する中山ネオミにライバル出現!吉瀬美智子さん扮する吉川アレクサンドリーネです。これはキャスティングの妙ですね。中田さんに吉瀬さんをぶつけたのは大正解。この二人はホントにいがみあいそう(笑)。こうなると突然ネオミの報さんへの攻撃が甘くなる。女の嫉妬の矛先は女に向かいますから。別に報道男を好きでなくとも、新たな女にその男の視線を奪われてしまうと、ネオミのベクトルは新人のアレク…ではなくヨッシーに向かいます。これって、どんな社会にもある醜い女の戦いってやつですね。とにかくうまい人をぶつけましたよ。リアルすぎます。で、なんとなく助かったような、いやさらに面倒なことに巻き込まれたのか、報さんは複雑な表情になってます。生瀬さん、相変わらずこういうのうまい。今後の展開が楽しみですね。ますますネオミにトゲとツノが…(笑)。
Sb31 さて、ここでもうすでにやられたと思ってたんですが、次、いきなりセクスィー部長でした。それも博多編。博多と言えば入江雅人さんですね。どんなコーナーでも彼の博多弁コーナーは最高です。もう、ウチの夫婦はその時点で撃沈されちゃいました。そこにいつもの色香恋次郎が…。今回のヒロインはなななんと岡本麗さん。はぐれ刑事…というより、往年のロマンポルノの名女優ですよね。セクスィーの大先輩もさすがに今回は…笑。いやあ、あのやられっぷりはさすがという感じでした。最後のアドリブしめは、今回から田中要次さんに。これも楽しみですね。
 まだまだ続くピンポイント。次はサラリーマン体操ですよ。パタパタ動画がこちら公式にあります。今回から紅一点中越典子さんも参加。なかなか上手だし、初回から思いっきり手荒く扱われてましたね。
Gm まずツボだったのは「ゴッチ式」。ブリッジじゃなくてジャーマンだったらホントすごかったんですけどね。まあ良し。ただ、「鉄人」はルー・テーズですよ。カール・ゴッチは「神様」っす。NHKさん、しっかりしましょう(笑)。
Mb2 そして、次はルチャですよ。ルチャ式の名刺渡し。コルバタ、それも2回転か!ドラゴンキッドの「デジャ・ヴ」なみです。すごい!マニアックすぎるなあ。ルチャの説明は時間の関係で無理とのこと。詳しくはホームページで…とのこと(実際書いてありました)。
Mb3 最後の大回転は、これはガチでしたね。プロレスでもあんなにぶん回しません。第一、プロレスだったら仰向けの状態で回されるのが基本です。うつぶせは危険だからです。それを見事受けきってフラフラになった中越さん、あんたはエライ!!
Sk まだ続くよ〜。次が一番のツボかなあ。就活一直線。ウチの夫婦としてはね。まさか「昭和の生き残り型」西條浩一に再会できるとは…ウルウル…感激です。てか、笑いすぎて息が止まりましたよ。山西惇さん、今回は自分の演技に笑ってしまうようなことはなく(つまりかなり練習したんでしょう)、最高の演技をなさってました。新たな人気キャラ登場なんでしょうか。それともウチだけかなあ、こんなに面白がってるの。もちろん脇の田口浩正さんも相変わらず絶妙。みんなうますぎです。いつかも書きましたが、これはアドリブも含むジャズのセッションですよ。最高レベルの…。昭和のプロレス並みのアンサンブルですね。もう、うっとりです。プロはすごい。
8031 まだ続くからこわいっす。次の新コーナー「喫茶80's」。やっぱりあの時代っておバカでしたよねえ。それをいまだに引きずっている人もいるんでしょうか。さりげないスリラーから現実への戻りが爆笑でした。そして、沢村一樹さんのズレね。素かなあ、ネタかなあ…。壁にはなぜかチェンバロの写真がかかってるし。
Oe2 人妻原史奈さんのNYAOをはさんで、最後の「はじめての寿司」もなあ…ずっとNHKドラマのセルフ・パロディーで行っといて、最後ああいうカタストロフィーが来るとはねえ。しっかし、ビックリしたのはあの「超うめぇ」ギャルが奥田恵梨華さんだったということです!私、実はひそかに奥田さんのファンだったんですけど、全然気づきませんでした。誰だ?誰だ?カワイイぞ、うまいぞ、真性ギャルなのか?って思っちゃいましたよ。役者さんてすごいですね。だまされました。と言うか、はっきり言ってあのギャルぶりにまた惚れ込んじゃいましたよ、私。奥田恵梨華様ステキです。
 というわけで、いやあ、濃い〜30分でしたね。もしかすると今までで一番面白かったかもなあ。気合い入り過ぎでしょう。さすがエミー賞ノミネートですからね。これはNHK本気(マジ)ですわ。まいった…。これは日曜日の夜は(私にとっては)夜更かししなければならなくなりそうです。観ずに寝ろというのは無理です、ハイ。

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2008.04.06

リアル「茜色の夕日」

Yuuhi08 今日は新宿で練習。5月24、25日に河口湖木ノ花美術館と円形ホールにてコンサートをします。詳細はいずれ。
 今日は楽器がよく鳴り、実に気持ちいい演奏ができました。やっぱり昨日マニアックな話に花を咲かせ、やや二日酔い気味だったからでしょうか。いや、やっぱり「アンサンブル」「モノとの共鳴」「外部の共有」みたいな話をしたからかなあ。なんかとっても腑に落ちるものがあったんで。言葉以上に体が納得したし。
 さて、練習を終え、5時過ぎに首都高に乗り富士山への帰路につきました。そうしたら、本当に見事なタイミングでしてね、まさに「茜色の夕日」が山並みに沈むところでした。すぐにiPodを操作して、例のフジファブリックの「茜色の夕日」を聴きました。
 昨日の話のとおり、「場」というのは実に重要でして、ちょうど環状七号線をまたぐ辺りでしたし、胸にぐっと来るものがありましたね。時間というのは、その場所にどんどん堆積していくものなので、とにかくその「場」に行く、あるいは同じような状況をシミュレーションしてみるということは非常に大切なことです。私がバカみたいに様々な分野での聖地巡礼に励むのはそういう意味があるのです。とにかくその「場」に行って、体で共有したいんです。これはもう理屈ではありません。
 ところで、一昨日書きました「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」という記事、ずいぶんとたくさんの人読んでもらえているようで、ちょっと恥ずかしいような気がします。以前にもよくありましたけれど、どなたか奇特な方が2chのフジスレに貼ってくれたようなんですね。どうもです。
 最近アクセス数が半減していたんで、こういうことがありますと、刹那的とは言え少し安心します。アクセス数が半減した理由は単にGoogle八分にあっているからで(おそらく一時的なもの)、通りすがりの方のご来店がほとんどなくなったからです。ある意味純粋な読者だけになっているわけで、それはそれでいいんですけどね。なんとなく不安になるんですよ。売れなくなった歌手の気持ちってこんなんかな(笑)。
 で、ある方からメールで「2chに思いっきり貼ってある」との連絡をいただき、恐る恐るそこをのぞいてみますと、

『志村の歌詞で授業するとはすごい先生もいるもんだな w
 ちょっと感動した』

と言った感じでして、ハハハ、なんかバカにされてるのか、感心されてるのか、よくわかりませんけど、でもやっぱり「感動」が少しでも共有されているのであれば、それは非常にうれしいことですよね。
 常々2chというのは立派な「場」であると考え、どっぷりそこに住まわせていただいているワタクシとしては、こういうことがありますと正直ヤターッなのでありました。
 で、一番笑えたレスはこれであります。どこまで冗談かわからないところが2chのいいところですね。

『フリーダムなティーチャーだなあ。志村の知人かなあ。
  文章を読むに頭の冴える美人娘なんだろうな 』

 なんでわかるんだ(笑)。文は人なり…ですか。三つの文のうち、まあ最初のは当たってるかな。二番目は微妙に不正解。私は直接は知りません。まあ、彼の野球部時代の顧問の先生の娘が、この授業受けてましたけどね。狭い町ですから、いろいろとありますよ、そりゃ。でも、私は知人の知人程度です。そして、三番目は大正解ですな(笑)。こういうところが2chらしさです。このレスした人はなかなかのセンスですよ。読解力および表現力において「優」を差し上げましょう。
 というわけで、リアル「茜色の夕日」を眺めてたら少し思い出すものがありました。繰りかえしますが、「場」を共有することは、他者(モノ)の理解において非常に重要な意味を持つのであります。そういう意味では、2chという場はあくまでもヴァーチャルな「コト(言葉)」によるトポスであって、そこに立ち現れるフィクションとしての「共感」「共有」「共振」を楽しむ、それこそ文学的な「場」であるのかもしれませんね。実に面白いですね。

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2008.04.05

徐福祠(富士古代王朝政庁跡)

富士吉田市明見にある徐福祠
Jofuku
 今日は東京から友人が来まして、ひたすらマニアックな話をしました。古武道、プロレス、出口王仁三郎、グルジェフ、土方巽、宮下文書…夜は近所の方々も多数いらして飲み会になったんですけど、正直皆さんには私たち二人の会話はさっぱりわからなかったでしょう。かなり妖しい会話でした(笑)。
 でも、私としては非常に勉強になりまして、特に「場」の持つ力について対話は面白かったですね。「場」というか「場所」というか「トポス」というか。その方は地図の専門家なんですけど、地図に表せない「場力」とでもいいましょうかね、そういうものがあるという話です。あと、地図は言語以前の言語であるという話もありましたね。あとは酔っぱらって忘れちゃいました(笑)。
 で、飲み始める前に彼をある「場」に案内しました。それが、富士王朝の政庁跡であります…と、いきなりまた怪しすぎですね。まあ、とにかく当地には宮下文書(富士古文献)という謎の(トンデモな)古文書がありまして、それによると…これ以上書くとまた皆さんついてこれなくなっちゃいますから、やめときます。知りたい方はウチまで来てください。ああ、もう眠くて死にそうです。おやすみなさい。たまにはこんな記事もいいでしょう…。

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2008.04.04

「茜色の夕日(フジファブリック)」に見る「もの」と「こと」


 今日は久々に授業でJ-POPの歌詞をやりました。いかに現代の歌詞の世界が日本の伝統的な文学、特に「もののあはれ」の伝統を継いでいるかいうことです。生徒たちも新しい発見があったのでは。
 いくつかの人と作品を採り上げました、そのうちの一つがフジファブリックの「茜色の夕日」です。来月の富士吉田凱旋ライヴの宣伝もかねて生徒に読んで聴いてもらいました(ちなみに他にはレミオロメン、バンプ、浜崎あゆみ)。
 さて、この何気ないが実に切ない曲の歌詞。これは見事に「もののあはれ」の本質を教えてくれます(マジで)。
Akanel 冒頭からハッと気づかされます。「茜色の夕日眺めてたら 少し思い出すものがありました」…これは散文なら「思い出したことがありました」となるところでしょう。それをいきなり「思い出すものがありました」としたところが、志村正彦くんの天才的なところです。詩人なところです。
 そう、私の「モノ・コト論」では「もの」は不随意、漠然、未知、無常、すなわち固定されていない、自分の意識でコントロールされていない状態を表す語でした。それに対して生じる虚しさや無力感、あるいは逆に驚きや感謝、畏怖などを表したのが「もののあはれ」ということですね。つまり、日本の文学に通底する「思い通りにならないことに対するため息」が「もののあはれ」という解釈です。
 で、今私は「思い通りにならないこと」…と「もの」を説明するのに「こと」という言葉を使いましたよね。これこそが、この「茜色の夕日」のテーマだと思うんです。
 さあ、歌詞をご覧下さい。「思い出すものがありました」と、ふと誘発的に思い出された情景や感情は最初ははっきりしません。言葉に、説明になりません。これは私たちも普通に体験することです。自分の意志とは関係なくふと思い出してしまうことってありますよね。
 それを自分で確認していくんです。志村くんもたくさん確認しています。それが「…歩いたこと」であったり、「…笑っていたこと」であったり、「…悲しいこと」であったり。そのあとたくさんたくさん確認して「こと」にしていってますね。
 つまり、確認していくと、それは全て過去の「こと」であって、つまり動かせない「こと」になっているということです。茜色の夕日によって誘発された過去の記憶、それは志村くんにとって、実に切ない、辛い、でもなんか懐かしいことなんですね。どの「…こと」を見ても、思い通りにならなかったことや、なんとなく不本意なことばかりです。その動かせない過去の「こと」全体が、実は「思い通りにならない」という「もの」の本質を構成しているわけです。
 つまり、「もの」は「こと」を内包している、そういう物事の本質を感じさせるんですね。冒頭で「もの」でくくっておいて、その中の「こと」を開陳していく。動かせない「こと」が「もの思い」の原因になっている。過去が動かせない変えられないこと自体が「もののあはれ」の本質になっていると。どこかの有名な哲学者さんは「もの」は「こと」の一部であるみたいなことを言っていましたが、間違いですね(笑)。
 西欧人は一般に不随意を悪として、思い通りにならないことを不快なこととしてとらえ、それをいろいろなワザで乗り越えようとします。日本人はそういう行為を否定しました。「わざわい」という言葉がありますよね。これは「わざはひ」、すなわち人間の仕業の度が過ぎて、よけいに苦しむ状態です(ちなみにその反対が「さいわい(さきはひ)」です)。
 日本人は不随意な「もの」に美を感じ取った。それをどんどん歌にしてきたんです。それが日本文学です。志村くんもしっかりそういう伝統の上に歌を作っていますね。そう、「無責任」でいいんだよ…。身を任せるのが日本人です。
 で、この歌詞の素晴らしいところは、一つだけいい意味での「もののあはれ」が入っていることです。いい意味でのため息があるんですよ。どこでしょう。
 それはサビの部分です。「東京の空の…見えないこともないんだな」のところですね。これは予想を裏切られてはいますけれど、しかし、ちょっと得したというか、救われたというような感じですよね。このコントラストといいますか、スパイスといいますか、とってもよく効いてますね。
 志村くんはそれほど気にせず自然に作っているに違いありません。そこが詩人たるゆえんでしょう。私はしょせんエセ評論家にすぎません。しかし、今日も生徒にたくさん言いましたけれど、作者本人の意思を超えて様々な解釈の可能性があり、それを受け入れて、そして作者の手を離れて勝手に成長していくのが優れた芸術作品の本質であると思います。
 また、こうして解釈してから、彼の作ったメロディーを聴き、彼の歌声を聴きますと、また違った感じがしますよね。生徒もそれを体験したようです。そして、その体験こそが本来国語の授業で教えるべきことだと思うんです。
 「茜色の夕日」…東京から夕日の沈む西の方、すなわちふるさとの富士吉田を眺めていて、いろいろ思い出しちゃったんだろうなあ。私も両国国技館で聴いた時そんなことを思ってしまって泣いてしまいましたよ。短い夏…ここに住んでいればわかりますね。生徒たちもそういう意味でも共感したのでは。
 …と、生徒に興味を持ってもらったおかげか、たくさんゲットしてしまったチケットがさばけそうです(笑)。やっぱりプロモートというのは大切ですなあ。評論家の仕事というのは実に重要なのでありました。

リアル「茜色の夕日」

フジファブリック富士吉田凱旋ライヴ

TEENAGER

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2008.04.03

『山下洋輔のジャズの掟(オキテ)』 (NHK趣味悠々テキスト)

Jazz45 今週から始まった「[新]趣味悠々・国府弘子の今日からあなたもジャズピアニスト」を観て、10年前のこの講座を思い出しまして、久々に本棚から引っ張り出してきました。
 ジャズは理論が大切です。自由度が高いからこそルールもたくさんあります。ジャズの演奏をするのには大きな壁がいくつかありますが、この理論の学習も大変なことの一つですね。ジャズのそれに比べればクラシックの理論はちょろいもんです(私はもちろん両方とも完璧…なわけありませんが…笑)。
 私もジャズが大好きでして、楽器をやるものとしてジャズの演奏を志した時もありました。今では完全に諦めちゃってますけどね。そう、今までいろいろなことに挑戦してきましたけど、どうもゴルフとジャズに関してはセンスがないようです。今ではどちらも観る・聴くだけになりました。
 無理なことに果敢にも挑戦していた若かりし頃、何冊かのジャズの理論書を買いました。で、どれも最初の20ページくらいで放り出しちゃったんですね。まあ、音楽の習得は言語の習得に似てますからね。文法はつまらんわけですよ。早くペラペラしゃべりたい、その欲求ばかり先走りましてね。リスニングはそこそこできていたつもり(実際には雰囲気に酔っていただけですが)だったので、辛かったんですね、地道な学習が。
 一番たくさん演奏してきた古楽に関しては、文法の前に無理やり会話させられる機会が多かったので、比較的楽しく習得できました。そう、合奏の経験がすなわち会話の経験だったわけです。もちろん、ずいぶんと時間がかかりましたし、あいかわらずなんちゃってでネイティヴにはほど遠いんですけどね。
 ジャズではそういう機会は全くありませんでしたから。まあ、いきなりNew Yorkかどっかでジャズをやらないと喰っていけないとかいう状況に置かれていたら、今ごろできるようになっていたかもしれませんね、なんちゃってでも。
 で、話を戻しますと、いろんな理論書が無駄になった中で、この本だけは本当に役に立ちました。いや、これによって理論が習得できたということではなく、これによってジャズをあきらめた(そんなレベルじゃないけど)という意味において。
 これ、業界でもけっこう伝説の書なんですよね。とにかくあの山下洋輔さんが「掟」と言い、「掟」を破るなら自己責任で、そして人前ではやらないようにと釘を刺すんですから。一見(一聴)メチャクチャに聞こえる彼の音楽は、実はその掟をベースにして、それをギリギリまで破るところに存在しているのだ、いうことですね。説得力ありすぎ。
 この講座、カトリヤン教授こと香取良彦さん、大坂昌彦さん、納浩一さん、道下一彦さんというそうそうたるメンバーによる模範演奏もあったりして、初心者のみならずベテランをもうならせる内容でした。私も何回か録画しているはずですけど、見つけるの大変だろうなあ。今もう一度観るとまただいぶ違った感想を持ちそうな予感がします。
 とにかくテキストは読んでいて楽しい。理論なんて習得しなくても、ただ読んでるだけで楽しい。山下さん独特の言い回しが面白い。導入の文章は比較的まじめですけど、実践に入るともう山下節全開。リズムは「渋谷」と「御徒町」になるし、ハナモゲラ語まで登場する始末。
 最後、出演者によるジャムセッション(対談)は、ある意味またまじめモードに戻ります。これが深いんだな。全ての音楽を志す人に読んでもらいたい。ジャンルは関係ないですよ。そして、実は音楽に限らない真理もそこにあるんです。人間の生き方、社会のあり方、デモクラシー、喜びや楽しさとは何か…。
 本当に素晴らしいテキストです。もちろん理論書としても優れていますよ。特にブルースとモードの解説は絶品です。

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2008.04.02

『三島由紀夫―剣と寒紅』 福島次郎 (文藝春秋)

Img270a_thumb 先輩の先生にお借りしていたものをようやく読みました。
 三島は私にとって大きな壁であり、いまだそれを乗り越えるどころか、それに対面しようとさえしていない人物です。
 最近で言えば土方巽、美輪明宏や寺山修司、あるいは赤塚不二夫、出口王仁三郎、さらに昭和天皇と、その周辺、外堀はこのブログでもずいぶんと扱ってきました。そこから浮かび上がる三島像はそれぞれ神秘的で魅惑的ではありましたが、どういうわけかその人本人について考えたり調べたりすることもなく、いや、それ以前にその作品すらほとんど読まないという不思議な事態。近くにある三島由紀夫文学館にも、あえて足を運ばないでいます。
 しかし、そんな自分に対して不安や不満はありません。なんとなくですが、来年あたり、そうですねえ、三島の自決した年齢くらいに私もなりますので、そのあたりから自分の中の三島が起動するような気がしているんです。だから、今はあえて外堀付近から彼をちらと眺める程度にしておきます。
 それなのにいきなりこの本か、と言われそうですね。しかし、この本は私にとってはいわば安全圏なのです。彼がゲイであろうと、福島次郎と肉体関係にあろうと、あまり驚くべきことではありませんし、それが彼の生み出した芸術や思想にとって、まあ全く影響がないとは言えませんが、本質であるとも言えないと思います。
 今からちょうど10年前ですね。この本は発刊されてすぐに発禁となりました。三島の遺族から訴えられたのです。表向きは三島の書簡を無断引用したという著作権に関する訴えでしたが、もちろん実際にはその衝撃的な内容への否定と反発であったわけです。
 正直私は大変に感動しました。二人の濃厚なベッドシーンにはたしかに気恥ずかしさを感じましたけれど、それ以上に人間三島に初めて出会えたことの方が私にとっては衝撃的でした。その衝撃は私にある種の安心を与えてくれたと思います。高い壁だと思っていた三島が、なんとなく等身大というか、自分の目線と同じ存在というか、いずれにせよ、私の中で神格化されつつあり、あるいは偶像化されつつあった三島が、再び人間の血を通わせたような気がしました。
 ものすごく繊細で弱々しく、そのために意識と肉体において「耽美」の鎧を身につけずにはいられなかった人間三島の姿がそこにありました。それを浮き彫りにしたのが、たまたま同性愛という形式であったというだけでしょう。形式の違いだと思えばなんでもありません。男女の仲という通常の形式においては、あまりに普通な人間性の発露のあり方だと思います。
 ところで、本書に先日お会いした細江英公さんの名前が出てきました。もちろん、三島の裸体写真集「薔薇刑」の撮影者としてです。この「薔薇刑」はいろいろな意味で重要な作品ですよね。改めて細江さんの力…それはカメラマンとしての力とともに人間としての力でしょうか…を思い知りました。私はとんでもない人を被写体にしてしまいましたな(笑)。
 ということで、この本は三島を神格化したい人は読まない方がいいでしょう。しかし、私のようにいずれ彼を身近に感じてみたい人には非常に重要な参考文献でしょう。フィクションとして読んでもそれなりに楽しめると思います。福島さんもそこそこの筆力のある方ですので。そういう意味で面白かったのは、福島さんが自身の作品を三島に送ったのに対し、三島がそれを評した手紙ですね。三島の文学的感覚の核心に触れたように感じました。
 再刊はありえないと思いますが、比較的簡単に手に入りますので、興味がある方はご一読を。

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2008.04.01

USBメモリーの洗濯

F90w ついこの前、USBメモリー購入〜大事なものは取っておくべきかという記事を書いたばかりなのに、またUSBの選び方の話か…と思いきや、選択ではなくて「洗濯」であります(誤変換ではありません)。
 そう、このたび、ためしに(!?)仕事上とっても大事なデータの入ったこちらのUSBメモリーをシャツの胸ポケットに入れたまま洗濯機でガラガラと洗ってみたのです。
 いつもは財布に入れてるんですけど、MP3プレイヤーにさし込んで音楽ファイルを再生したんですね。それで車から降りる時に、財布に入れるのは面倒だったので胸ポケットに放り込んだんですよ。で、あとはよくある展開。風呂に入る時にフツーに洗濯機にシャツを放り込んだと。
 同じ放り込む行為なのに、どうしてこうも意識が違うのでしょう。いや、「放り込む」という時点で何か「いいかげん」臭さがありますね。半分捨ててるような感じじゃないですか。大切なものであっても、放ってる(リリースしている)わけで、まあお賽銭なんかもそうですね、もう自分の所有でなくなる感じがある。
 野球のピッチャーなんかも、球をリリースする瞬間はとんでもなく集中し、念を込めているわけですよね。でも、一度自分の手から離れてしまえば、もうあとは運を天に任せるしかない。やはり、スポーツのような「かけごと」以外では、大切なものは放ってはいけないんですね。
 あと、思ったのは、胸ポケットって案外危険な存在だということ。心臓の所にあっていかにも「大切」という感じなのに、今までもいろいろな物をそこに潜ませたまま洗濯機にinしました。半年くらい前には、それこそ大切な大切なデータの蓄積された手帳を胸ポケットに入れておいて、見事カミさんに洗濯されました。その時はもう表紙以外きれいさっぱり溶けてしまって、まったく潔いほどに藻くずに帰しました。うん、胸ポケットはブラックホールだ。魔の四次元ポケットだ。
 で、で、今回の実験(?)の結果はどうだったのでしょう。
 ジャ〜ン!なんと予想に反して全く無傷の生還でありました!ちょっとビックリですね。
 カミさんが暗い表情でさし出したそのUSBメモリーはすでに渇き、見た目上は全く何事もなかったかのようです。たしかにこのメモリー、LEDランプなんていうものも付いてないし、つまり回路のようなものは存在しなさそうだし、表面に現れているのは金色の端子のみ。機密性…じゃなくて気密性は高そう、というか内部に「気」の入る空間もなさそうです。
 で、そんな期待と、やはり一方では不安というか覚悟のようなものを抱きながら、MacBookにさし込んでみたんですよ。そうしたら、数秒後、全くフツーに認識してるじゃないですか。ためしにデータを開いてみたら、あらら、全然問題ない。まるで何事もなかったかのように気丈に振る舞うメモリー。
 いやあ、すごいですね。なんとなくUSBメモリーというと電気製品のような気がしますよね。で、電気製品を洗濯するというのは、水責め洗剤責め回転責めでほとんど死刑に処すようなものです。だから普通は死亡を予想しますよね。しかし、フラッシュメモリーは強かった。
 冷静に考えれば、自ら電源を持っているわけでもないし、さっき書いたように回路があるのかないのか、いやあるけれど密閉されていて露出してないのか、たしかに従来の電気製品とは明らかに違うキャラも持ち主ですよね。
 というわけで、実験(?)は大成功というか、大失敗というか…。大切なものほど消えやすい、という理論が崩れたような気もします。いやいや、二度「放り込んだ」時点で、やっぱり大切じゃなかったんですね、きっと。

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参考記事 デジカメの洗濯

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