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2008.02.29

井伏鱒二からの年賀状

Imgp1046 最近、何が起きても驚かないんですよ。あまりにいろいろな、思いもよらないことがどんどん起きるので。しかし、今日はさすがにびっくりしましたし興奮しました。いや、タイミングもよすぎですし。
 ちょうど昨日、吉井和哉さんと太宰治を重ねて語っちゃったじゃないですか。そこにも登場した「富嶽百景」。太宰はそこに逗留していた師と仰ぐ井伏鱒二を頼って、御坂峠の天下茶屋にやってきたのでした。ですから、当地と太宰の縁は井伏が作ったようなものです。その井伏が天下茶屋の主人にあてた年賀状を、今手にしています。なんということでしょう。
 今、ちょうどあるクラスで太宰をやってるんですね。そうしたら、そのクラスの女の子が「ウチに井伏鱒二から来た年賀状があるよ」と言い出したのです。「はぁ?!」ということで、よく聞いてみますと、なんと彼女、「富嶽百景」に出てくる「おかみさん」のひ孫だと言うじゃないですか!そうです。一昨年不慮の事故で亡くなった外川ヤエ子さんが、ひいおばあさんなんだそうです。驚きました。
 いや、実は少し前に、「富嶽百景」に出てくる茶屋の娘さんの孫もウチの学校にいました。また、ヤエ子さんの孫にあたる方も、私は直接知りませんがウチの卒業生だということです。
 地元におりますと、まあこういうことがいろいろあるわけですね。非常に有難いことです。昨日の吉井さんや、レミオロメンやフジファブリックもそうですが、もともと好きだった方々となんなとく空間的に近く接することができるというのは、これはもうファンとしては最高の喜びですね。あらゆる表現者にとって、風土とその土地の人との縁というのは、非常に重要なファクターですから。それをこうして少しでも共有できるというのは、本当に有難いことです。
 で、彼女、今日3枚の年賀状とお手製の家系図を持ってきてくれました。年賀状はひいおじいさん(天下茶屋初代店主外川政雄さん)の遺品を整理した際にお父さんがもらってきたものとのこと。昭和63年、64年、そして平成4年のものです。上の写真は平成4年のもの。「御自愛専一に願い上げます」と一筆添えられています。うむ、宛名書きもそうですが、いかにも井伏という字で、ちょっとカッコいいというか、カワイイですね。面白いのは、それぞれの宛名書きです。いかにも井伏らしい、ある意味いいかげんな、いやあまり細かいことを気にしない大物ぶりを発揮しています。
 昭和63年のものは「山梨県河口湖町河口○○」と、「南都留郡」は省略されているものの、しっかり番地まで書いてありますが、昭和64年のものは「山梨県川口町河口湖」という、とんでもない存在しない住所になってます(笑)。で、平成4年のものは「山梨県河口湖町河口」と、少し反省してか、やや正しい(?)ものに戻っていました。
 単純には言えませんけど、こういうのを見ますと、ピカレスクでも触れられていた井伏の人柄、太宰に最期「井伏さんはずるい」と言わしめた井伏のキャラクターというのが、なんとなく分かるようなしてきます。私はそんな井伏が好きなんですよね。太宰も人のこと言えないでしょう、ねえ。
 ちなみに彼女が書いてくれた家系図(親戚の皆さんで作ってくれたようです)によると、私が7年ほど前にその天下茶屋で太宰の霊にいたずらされ(?)こっぴどく怒られた、その時の怒り主は、初代店主の息子さんだということです。ははは。今となってはそれこそ有難い思い出ですなあ。
 今度彼女を介して、その方とも和解したいと思っています。それこそ7年ほど天下茶屋に行ってませんので。てか、行けませんでしたので。

富嶽百景(青空文庫)

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2008.02.28

『失われた愛を求めて―吉井和哉自伝』 吉井和哉 (ロッキング・オン)

86052071 「全てを語る!父の死、結婚、母への想い、イエロー・モンキー解散、そして、ソロへ」
 これは太宰治だ。天才のサガ、女。天才的な表現者とは、新たな生命を生み出す者であるから、それは当然の運命なのです。本能的に女を求める。それも次から次へと。しかし、それは「弱さ」の裏返し…。
 万人に愛の歌を歌い、女を愛し、子どもを愛し、しかしそれらよりもなんといっても自分が愛おしい。その共存しがたいいくつもの「愛」に苦しみ、逃亡をはかる男。
 「失われた愛を求めて」とはうまいことを言いましたね。天才ではないけれども同じ男として、これはちょっとずるいなと思いました。太宰もそうでした。「母の愛」を求めるということで正当化される非社会的な行為。それが許される才能。そう、彼はそれでも許される才能を持っているんです。音楽の才能とか、そういう次元ではなく、「許される」という才能を。
 実はこの本はずいぶん前に読んでいたんです。カミさんも泣きながら読んでました。しかし、この「物語」に登場する一方の主人公たちを直接知る私たちとしては、こうして記事にすることは憚られました。あまりにリアルな内容であるから…いや、そうではありません。やはり文字にならない、言葉にならないものが多すぎるからです。かたやこうして好きなようにパブリッシュして、そこに一つのカタルシスとビジネスを得、かたやそういうことが許されない人たちがいるんです。それがどうも許せなかった。
 しかし、さっき書いたように、やっぱり私の大好きな、そして尊敬する、男として惚れる「吉井和哉」は天才でした。太宰と同じようにやっぱり許される。やっぱり甘えさせてもらえる。そういう天才でした。私の彼へのジェラシーにも似た敬愛の情は、なるほど男としての憧れなのか。
 そうなんです。やっぱり許されていたんです。私の怒りや落胆や同情は、結局杞憂だったようです。ある意味安心しました。もちろん、それこそパブリッシュされない様々な思いの末の決断であり、明るさであり、諦観なのでしょう。そこに甘えて、吉井和哉はまた許された。それも太宰と同じ、「告白」という手法によって。現実を「物語」に昇華してしまうことによって。それを確認して、私は記事に書いてもいいかなと思いました。ある意味、もう一人の主人公の勝ちだと思ったからです。
 彼はある時に富士山麓に引っ越してきたわけですが、そこはまさに太宰治の棲む土地でした。こちらにも少し書きました「富嶽百景」の舞台、御坂峠は目と鼻の先です。私は彼がここに来たことに霊的な力を感じます。そういう観点で吉井さんを見る人はそんなにいないと思いますが、私は地元に住む者として、あるいは太宰を読む者として、本気でそんなことを思うんです。吉井さん自身はそのへんについて意識していたんでしょうか。いつか聞いてみたいところです。
 それにしても、この本、一つの安心を得てから読み返してみますと、本当に太宰の自伝的小説なみに面白い。太宰も私の生活圏と重なるところがあって、そういう共感というか共鳴のようなものがあります。吉井さんはさらに私の人生とダブるところが多いんですよ。
 彼の両親が出会ったところが、私の生まれた町、静岡県の焼津ですし、彼が幼少期を過ごした東京の十条は、私の恩人が住んでいたところで、ずいぶんと通いました。お父さんが亡くなったのち、彼が母親といっしょに引っ越したのが静岡市。その後私もちょうど静岡に引っ越しまして、まあ同じようなところで暗い青春時代を送っていたわけですね。静岡市のロック好きが行くところなんかかなり限られてますから、一度くらいは同じ空間にいたことがあるかもしれません。そして、今…「39108」に始まった不思議な縁は、これからどういうふうに動いて行くのか、それは分かりません。
 この自伝の太宰的だと感じるもう一つの理由。これが聞き書き(インタヴューの書き起こし)だということです。ご存知のように、太宰のある時期の作品は口述筆記によって成ったものが多い。2番目の奥さん石原美知子さんが書き取りました。優れた聞き手、書き取り手との共同作業によって名作が誕生したわけです。吉井さんのこの自伝的小説(?)も渋谷陽一という優れた聞き手を介して生まれたものです。それをまた「甘え」と取ることもできますがね。
 いずれにせよ、そうした他者への「甘え」や他者の「許し」をベースとして、優れた生命力溢れる魅惑的な作品を生み出し続ける吉井和哉という一人の天才がいて、そこから放たれるどす黒い光を身近で浴びることは(つまりプライベートを知るということは)、我々ファンにとっては辛いことでもあり、ある意味踏み絵的な体験を余儀なくされるものです。この自伝を読んでショックを受け、もうイエモンは聞かないと言い放つ人もいるでしょうし、音楽はいいが人間としては最低だと簡単に言ってしまう人もいるかもしれません。しかし、私は自らの太宰体験からも、そんなふうに吉井さんを突き放せないんですね。太宰がそうであるように、彼もまた「弱さを持ち続ける強さ」を持っており、いつまでも「自立した大人」になんかならない崇高さと純粋さを持っているわけですし、そんな彼の姿に自らの奥底に眠らせている非社会的な本能が共鳴するからです。だから、この本の衝撃というのは、プラスであってもマイナスであっても、結局は自らへの衝撃なのでした。
 「失われた愛」…それは私たちが自らのどこかに幽閉した「自己愛」なのかもしれません。現代の太宰のこの名作、御一読をすすめます。

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2008.02.27

チック・コリア・トリオ 『ドクター・ジョー〜ジョー・ヘンダーソンに捧ぐ』

31xl7dumlcl_aa240_ ジャズバンド部の顧問の先生に聴かせていただきました。なんか、久々にチック・コリアをじっくり聴いたなあ。
 このアルバムは日本のファンのためのトリオ5枚シリーズの1枚ということで、ジョン・ヘンダーソンに捧げる内容になっています。ベースはジョン・パティトゥッチ、ドラムスはアントニオ・サンチェスです。たしかにこの組み合わせは聴いたことなかったなあ。
 もちろんチックとパティトゥッチが一緒にやってるのは何度も聴いてますし(生でも聴いてるなあ)、サンチェスはパット・メセニー・グループでの演奏をいやというほど聴いてます。でも、この3人でトリオというのは…けっこう新鮮ですねえ。だって、私の中で、チックとパットってクロスしそうでクロスしないんですよ。もちろんこういうとんでもない名作もありますけど、それ以来あんまりなんじゃないですか。またプロレスのたとえで申し訳ないんですが、この前の記事的に言えば、馬場さんのところに猪木のもとで修行した長州が乗り込むって感じかな。いや、そんなに殺伐としたものでも緊張感のあるものでもないか(笑)。
 私のシロウト印象では、3人ともとにかくリズムが鋭いというイメージがある。チックのピアノの魅力は、とにかくタッチの細かさ(お分かりになりますかね)と正確さに乗っかった独特のメロディック・リリシズムにあります。朗々と歌って聴かせるというより、詩のようにリズムで聴かせるところがあると思うんです。そして、パティトゥッチもまずは強力なビートが基本。チックと手が合うというのは、彼のリズム感によるのではないでしょうか。まあ、息が合ってるわけですね。そして、サンチェスです。
 彼の、パット・メセニー・グループにおけるドラミングは、どちらかというとファンタジックな、フィルハーモニックなイメージが強い。それはまさにパットの音楽性によるわけですけど、今回は全く違う印象だなあと思ったら、こんなインタビューを見つけました。これは実に興味深い内容です。まずはお読みになってみてください。
 これを読みますと、サンチェスがいかに謙虚で柔軟性に富むアーティストであるか分かりますね。ドラムの役割に関する発言部分や尊敬するドラマーを列挙するところには、正直ドキドキしてしまいました。喜びというか興奮というか。うわぁ!すごい人だなと。レベルは違いすぎるとは言え、音楽(特にアンサンブル)をたしなむ者としては、この内容は刺激的ですし、勉強になりますよ。素晴らしい音楽家ですね、彼。
 というわけで、そういうサンチェスの心意気というか人間性みたいなものを意識して、もう一度このアルバムを聴きますとね、本当にまた感動的です。ジャズのものすごいセッションというのは大概こういう独特の精神性〜たぶんそれは宗教的な領域にまで達すると思いますよ〜に裏付けされていることが多い。おそらく他のジャンルよりこういうアンサンブルが多いんじゃないかなあ。そこがジャズの良さでもありますよね。
 チックもローズやムーグを駆使して、そういう空気をより楽しいものにしていますし、パティトゥッチも楽しそうにアコースティックとエレクトリック両ベースを弾きまくってます。個人技はもう言うまでもないんですけど、やはりこういう「合奏」の心、そう、テクニックではなくて心…いや、もしかすると心以前のそれこそ「からだ」の表現なのかもしれませんね。昨日の東大の問題じゃありませんが。
 ロックやクラシックの方々には是非とも見習ってもらいたい「心」であり「体」であり、その総体たる「人間」たちでありますね。私も少しはあやかりたいものです。
 あっ、まるで追伸になっちゃいましたけど、こういう奇跡をとりもった「ドクター・ジョー」ことジョー・ヘンダーソン様にもお礼を言わなきゃね。

Amazon ドクター・ジョー

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2008.02.26

東京大学入試問題(国語)

Toudai1 昨日、今日と国立の二次試験が行なわれました。3年生のみんな、どうだったかなあ。私は担任する2年生のギャル8人と一緒に、先輩が受けに行っている東大の問題を早速やってみました。
 以前、「心より物の時代」という記事にも書いたように、とにかく東大の国語の問題というのは素晴らしいんですよ。解いてて楽しいし、感動すらしてしまうのであります。今年の問題もなかなかの良問でありました。
 2年生でも基本的に解けてしまいます。東大用の記述テクニックは教えてないので実際には正解とはなりませんが、何を書けばいいのかというのは分かります。
 で、今日も出題者の意図、出題者が何を書いてほしいのか、採点基準はどこにあるのかを読み取りながら一緒に解いてみました。それが楽しいんですよ。出題者との対話ができるかどうか。
 私もそれなりに模範解答を作りますが、面白いのはですね、各予備校の模範解答を比べることなんです。全然違うんですよ。問題を解いたあと、それを並べて比較するんです。そして、ツッコミを入れる。この問題ではこの予備校の答えは○点しか取れないなとか、焦って対話しきれてないなとか、こいつ落ちたなとか(笑)。それがとっても勉強になるんです。
 去年の今頃メイド服着て踊ってたキャピキャピギャルどもも、なんかなあ、こういう問題解いてこういう会話ができるようになったんだなあ、としみじみする瞬間です。あっ、そうだ、来月またメイド服着て踊るとか言ってたな。元副担任の結婚式で(!)。
 さて、それはいいとして、今年の現代文の問題ですけど、私が昨日書いたことと深く関連する内容でした。
 第一問は宇野邦一さんの「反歴史論」から。歴史と歴史学、記憶と記述などに関する内容。まあ、よく言われる、歴史は誰かの恣意的な切り取り作業の上にあるという話ですね。つまり、ワタクシ的に言うと「言語化」「コト化」されたものであるということで、実際にはそれ以外の茫漠たる「モノ」や妄想(神話など)が無限に広がっているのが本質なわけです。
 なのに人は「コト化」された歴史に縛られてしまうと。これは昨日書いた、言葉に人が縛られる(はじめに言葉ありき)と全く同じことですね。私たちはそこに安心を得ようともしますが、結果は不自由を招くことの方が多いような。
 第四問は竹内敏晴さんの『思想する「からだ」』からの出題。役者の感情表現についての随筆。これも基本的に同じ話だなあと思いました。「悲しい」とか「楽しい」とか、言語で「コト化」された感情を表現するのではダメだ、「からだ」の中を満たし溢れているなにか(モノ)を表現せねば、と。
 まさに言語(コトの葉)の功罪、特に罪のお話ですね。やっぱり東大でも「心より物の時代」なのかな。てか、最近の世の中のはやりなんでしょう。20世紀文化のカウンターってことで。だから私が言ってることも、まあ普通なことなんでしょうね。
 そうそう、第二問の古文、第三問の漢文も、ネタがかぶってましたっけ。両方とも「夢」がポイントになってました。夢に観音やら老人やらが出てきて予言したりするんです。こういうのを読みますと、ああ昔は「うつつ」と「ゆめ」が同等だったのかな、いやもしかすると夢の方が重視されてたのかな、なんて思われます。これも考えようによっては、「コト」と「モノ」の関係につながりますよね。
 21世紀はいよいよ「物語」の復権の時代なのかもしれませんね。そんなことを考えながらギャルどもとああでもない、こうでもないと言い合った一日でした。実は私の答にも、彼女たちけっこうダメ出ししたのでした(笑)。
 今年の東京大学の問題をお読み(お解き)になりたい方は、こちらからどうぞ。

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2008.02.25

はじめに言葉ありき…

Sad さっきAmazonのトップページを開いたら、左のような広告が出ていました。なに〜?SADですと。哀しい名前つけるなよ。誰だって人前では緊張して普段の自分を出せないに決まってるじゃん。毎日人前でしゃべる仕事やってる私でも、あるいは音楽やってて舞台に上がることが多い私でも、緊張して実力が発揮できないなんていうのは当り前。つまり、ほとんどの人はSADということになります。で、薬で治るってことですか?
 いろいろありますよね。こういう病気の名称。「うつ」なんかもその典型です。うつ診断なんてやると、ほとんど9割の人が軽度の「うつ」に認定されます。教育現場でも「多動」やら「学習障害」やら、いろいろありますなあ。
 「分節」「概念化」「名づけ」「コト化」…こうやって世の中にいろいろなコトが立ち上がってきます。その功罪について考えることが多いこの頃であります。特に「言葉」が「金」になるのはどうなんだろう。そう言えば、昔こんな記事も書いたっけな。
 先日、「Rh−の血液が足りない!」みたいなメールが飛び交って、奥さん方が大騒ぎしてました。これもまた「騙り」による感情や行動の醸成であります。ちょっと考えれば分かるでしょう!そうそう、3年前には集団気分について書きました。
 聖書の「はじめに言葉ありき」…これに関しては、私はこちらに書きましたように一般的な解釈とはちょっと違う考えを持っております。しかし、今書いたような「言葉が先にあって存在があとから付いてくる」という意味では、たしかに「はじめに言葉ありき」だと思いますね。
 で、面白いのは、病気の名前なんかは、さっきみたいにアルファベットを並べたり、難しい漢語を並べたりして、いかにも深刻な感じ、しかしなんとなく身近でないような感じ、なんだか分かったような分からないような感じを出すんですが、対照的なのは和語の新語ですね。
 これは大概動詞の連用形の形をとります。「いじめ」とか「ひきこもり」とか「ねじれ」とかですね。これは和語なだけに身近な感じがする。生々しい感じがする。薬で治らない感じがする。「ボケ」と「認知症」なんていうのも面白いコントラストですね。
 「いじめ」と同様なことは昔も散々ありましたが、それが「いじめ」という名称を与えられた途端に社会問題化しました。そして、私は「いじめ」の対象だとか、私は「いじめ」の犯人だとか、そういう概念が生まれて問題を複雑化してしまいました。「ひきこもり」なんかもそうですね。そうして自分に名称が与えられて、そこにはまってしまう。分節された一部屋、箱みたいな中に、それこそひきこもってしまう。
 それで安心を得るというのもありますし、実際対処や治療が可能になることも多いので、一概には言えないのですが、私から見ますと、どうも「コト化」がマイナス方向に働くことが多いように感じます。
 ちなみに「偽装」みたいな漢語一語のヤツはですねえ、大概流行語止まりなんですね。今までも使われて新味もないし。
 さて、おまけの話ですが、今日の授業の脱線について。まあ、私の授業は脱線どころか次元を超えてしまうくらい、あっちこっち行っちゃうことで有名(?)なんですね。で、今日も授業中いろいろと話が脱線しまくりまして、さあ大変。はっと気づいた時はとんでもない所にいたりするんで、そういう時は生徒とどうやってこんなとこまで来たんだ?と考えるんです。つまり、どこからどう話がそれてここまで来たかというプロセスをさかのぼるんです。で、最初の脱線のきっかけを作ったヤツは誰だ?というのを追及するわけです。それがみんなで考えても案外思い出せない。今日はなんとか辿って行って、結局犯人は私だったんですけど(笑)。
 そう、それで「ニート」という言葉についての話。これは私なんかは「きちんとした」「すてきな」っていう意味だと思ってたんですよ。つまり「NEAT」の方ですね。だって、ジムニーのキャッチフレーズが「タフ&ニート」でしたから。思いっきりアウトドア系でたくましいっす。でも、皆さん御存知の通り、今は逆のイメージになってしまいました。
 それで、「ニートなニート」っているのかなっていうくだらない話になったのでした。つまり「きちんとした怠け者」みたいな。いや、「NEET」を怠け者と言い換えてはいけない。ある意味「NEAT」すぎると「NEET」になるのかもしれないぞ。社会性なんていうものは、適度な諦めや妥協やウソで出来ているものですから。
 ついでに「ひきこもりのホームレス」ってのはどうかなっていう話。ホームがないっていうことはひきこもれないっていうことかな。いや、段ボールにひきこもるというのもあるのではないか、とまじめな論議になってしまったのでした。なんとなく不謹慎なような気もしますけど、しかし、こうして命名してイメージを固定して、それを組み合わせて「どうかな」なんて考えるのも、言葉の功罪の一つなのでした。いちおう生徒にはそういう話もして、「国語の勉強」っぽくしておきましたよ(笑)。
 最後にこんな話もしたっけな。比較的近所にあるお店があって、それが「ニート」っていう名前なんですよ。昔はいい名前だなと思ってたんですけど、今じゃあねえ…かわいそうに。

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2008.02.24

LAT-FM300U(MP3再生機能付きトランスミッター)

Img23192192 今日はバロック・バンドの練習で久々に東京へ。時間があったので一般道で行ったところ、途中事故渋滞に巻き込まれ、新宿まで5時間もかかってしまいました。
 で、そんな長〜い車内での時間を過ごすのに欠かせないのが音楽ですね。MacBookを買った時付いてきたiPod nanoはカミさんにあげちゃったので、私はいつもはCDで聴いていました。しかし、どうもCDだと短時間で交換しなければならず面倒。また、なんだか車内が裸のCDで散らかるという状況でして、ああ、オレもMP3プレイヤーほしいなあ、安いのでいいから…と思っていたところ…いいもの見つけました。
 これ、面白いですよ。車内用のトランスミッターってあるじゃないですか。それにMP3(とWMA)の再生機能が付いてるんですよ。で、今回はアウトレット価格で2838円、ポイントもあったので結局1500円の出費ですみました。ラッキー!
 MP3の再生機能というのはどういうものかといいますと、本体の頭にUSBメモリがさせるんですね。で、そのメモリに入っているMP3ファイルを再生してくれると。私はこちらのCFが遊んでいる状態だったので、そこにiTunes内の大量のデータからテキトーにコピーして、リーダーを介してさしてみました。いちおう説明書には4GBまでって書いてあるんですが、8GBでも全然大丈夫でした。これでトランスミッター付きiPod shuffle 8GBの出来上がりです。
 そう、これってディスプレーなんかありませんから、基本的にシャッフルで使うことになるんですね。いちおう通常再生モードではある法則に従って順に再生してゆき、またレジューム機能も付いてるんですけど、なにしろ8GBもありますと、目的の曲を探すのはもうほとんど不可能に近いので、結局シャッフル再生モードで楽しむことになるんです。
 いや、私、iPod shuffleが出た時、これは不便だよなあって思ったんです。曲を基本選べないのってどうなのかなあって。ところが今回シャッフルを経験してみますと、案外これが面白いんですね。次に何が来るか分からないというスリルというか、楽しみというか。
 そう、入っている曲はいちおう自分が選んだ1000曲くらいなわけじゃないですか。その時点では自分の思い通りなんですが、その再生順序は全く思い通りにならない。これは私のモノ・コト論で言いますと、「コト(随意)」と「モノ(不随意)」の微妙なバランスの状態でして、それがいいんですね。「コト」ばかりでは飽きますしパターン化します。「モノ」だけでは不満や不安になります。人間ってそういうワガママな奴ですから。ある一定の範囲内での偶有性を欲するものなんですね。
 それにしても、今日5時間近くシャッフルで聴きましたが、非常にへんちくりんで楽しいことになってました。美空ひばりの次がバッハで、その次がMJQ。そしてレミオロメンが3曲続いたと思ったら、いきなりELOが2曲。そこからサザンに行ったと思ったらグラッペリがなぜか4曲続く。倉木麻衣を久々に聴いたと思うといきなりブクステフーデ。フジファブリックがようやくかかったと思ったらマイケル・ジャクソン。山口百恵のあとに松田聖子が3曲続いてお次はキース・ジャレット。そしてビートルズから王仁三郎の言霊へ(!)…まさにカオス・ワールド全開でして、自らの音楽的趣味のハチャメチャさを確認するハメとなりました。
 しかし、こうして聞きなれた曲を違ったアレンジメントで聴くと、たしかに印象が変わりますし、あっ、この二人はここが似てるなとか、時代の音ってこういうものかとか、いろいろ発見がありますね。勉強にもなりました。また、ついつい聴かずじまいになりがちな曲もしっかり聴けてそれも良かった。
 なるほど、人生にはこういうシャッフルも必要なんだなと思いましたよ。
 さて、この製品、音質もまあまあいいですし、もちろん単なるトランスミッターとしても機能しますから、iPodなどをつなぐこともできますし、ケータイの音源も再生できます。またUSB充電機能もついてますから、何かと便利ですよ。これは隠れた名アイデア商品ではないでしょうか。本家のショップで時々アウトレット品が出ますので、チェックをしていると格安で手に入れられますよ。

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 いくつかのUSBメモリーにジャンル別に分けて入れるのもいいかもですね。私はこちらの超小型USBメモリーをおススメいたします。5枚セットとかもありますし。2GBのも安いですね。

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2008.02.23

『世界一やさしい 問題解決の授業』 渡辺健介 (ダイヤモンド社)

47800049 先に言っときますが、今日は酔っぱらってます。
 昨日と同じくダイヤモンド社の本ですけど、中身はだいぶ違いますね。もしかすると反対なのかもしれない。こちらはロジカル・シンキングの方法を教えてくれます。カオスを整理して分節していくわけですからね。
 そういえば、王仁三郎のひ孫である出口汪さんも論理エンジンを提唱してますね。ウチの学校でも採用させていただいてます。生徒たち、とってもお世話になってます。力つきますよ。
 そういう論理的な思考の習得っていうのが、今学校ではやっているんですよね。社会がそういう力を求めているからでしょう。この本も慶応義塾高校で使われているといいます。
 大人になるということは、すなわち論理的な思考ができるということとも言えます。感情や感性や霊感にまかせるのではなく、因果関係をしっかり捉えて考えていく。
 私もそういう力は大切だと思いますよ。そういう力がないと損をする世の中ですから。でもそれだけでもダメだよなあ。「コト力」だけじゃなくて「モノ力」も必要ですよ。ただ、その「モノ力」は学校では教えにくいんです。
 まあ、それはちょっと置いときまして、この本です。この本は中高生にもわかる「ミッシー(MECE)」と「ロジック・ツリー」の本です。とっても具体的な例とイラストなどを駆使して、本当にわかりやすく問題解決の手順を説明してくれています。
 こういうのって、一般の企業では当たり前にやってることだと思いますけど、なかなか学校では教えてもらえないんですよね。あるいは家庭でも。だいいち、自分もこういうふうに問題を解決してるかというと、全くやってません。カンと経験とハッタリ力ばっかりです(笑)。
 この本を読んで、たしかになるほど〜と思ったんですけど、でもなあ、なんか私にはこういうじっくり考える根性はないよなあ。正直面倒くさい。これじゃあダメだよなあ…。だから問題がなかなか解決しません。私は問題をどんどん先送りし、その問題自身が死ぬのを待ちます(笑)。もしかして究極の問題消滅法だったりして。
 ロジック・ツリーでどんどん原因をつきつめて方法を絞り込んでいくというのはたしかに面白いんですが、逆に言えば誰でも同じ結論になるわけで、多様性や偶然性、セレンディピティーみたいな「モノ」は排除されていってしまいますよね。そこんとこがちょっと残念な気もします。
 昨日の王仁三郎と赤塚不二夫なんか、まさに人生や作品がロジックからは大きくはずれていて、それが魅力ですし、それが生命力の素になっていると思います。ですから、意地悪な言い方をすれば、ロジカル・シンキングとは生命力を奪う考え方とも言えます。暴れる「問題」をじわじわと攻めて動けなくするわけですからね。
 なんか今日はお酒を飲み過ぎたせいか、それこそ全然論理的な文章が書けません。言葉は「コトの葉」つまりロジックの友ですけど、酒はロジックの敵ということですね。赤塚さんでなくとも、人が酒を欲するということは、やっぱりロジックばっかりじゃあやってられないってことなのかなあ。
 あと、問題問題って言うけど、問題はもしかすると敵じゃないかも…。いわゆる問題を愛することもできるんじゃないかなあ。仲良くやってくこともできるんじゃないかなあ…酒がそう言っております(笑)。
 
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2008.02.22

『出口王仁三郎 "軍国日本"を震憾させた土俗の超能力者』長谷邦夫 フジオプロ (ダイヤモンド社 コミック 世紀の巨人)

Eru67 先日紹介した名著『漫画に愛を叫んだ男たち』を書いた、準トキワ荘メンバーであり、長く赤塚不二夫のプレーンを務めた長谷邦夫さん。こんなマンガを書いていたんですよ。びっくり。本当に不思議なリンクですよ、ワタクシ的には。でも、なんとなく納得。
 王仁三郎ファンであり、赤塚ファンでもあり、霊界物語全巻と天才バカボン全巻を聖典として神棚に奉納している(笑)私やカミさんは、よく話してたんです。バカボンの世界って霊界物語だよなあ…って。あるいは霊界物語ってバカボンじゃん!って。両方ともカオスのエネルギーに満ちています。諧謔に宿る真理であったり、ナンセンスの中の意味であったり、常識や時空を簡単に飛び越えたり…そして、なんといっても、私からしますと、両者の言語センスが似ているように感じられるんです。お二人ともものすごい言葉の感覚をお持ちですよ。日本語なんていうちっちゃな枠にとらわれていませんし。とにかくいろんなところを自由に行き来する感じですね。
Do1 そんな王仁三郎と赤塚不二夫が、こんなふうにコラボレーションするとは。王仁三郎とバカボンのパパが同じところにいるなんて!長谷さんのおかげです。いや、右の写真はですねえ、バカボンのパパが出口なおに変身してるところです(笑)。すごいよなあ。夢の共演…てか、共演ではなく本人になってしまっているわけで…これはまさにカオスです。そして!レレレのおじさんが「霊霊霊の霊〜ッ!」ですから(笑)。素晴らしすぎます。もうこの時点でワタクシは撃沈されました。
Do2 そして左のページは王仁三郎とニャロメとパパが同一画面に。ちなみに左のコマのおじさんが、長谷さん自身です。ほかにも本官さんやウナギイヌやおそ松くんやイヤミやチビ太やケムンパスやベシや、赤塚キャラが総出演してます。まさに霊界物語みたいですね。個性的なキャラが無意味に(しかし有意味に)登場しては消えてゆきます。基本的に王仁三郎の生涯を時系列的に紹介するのですが、そこにニャロメ一郎という人物(?)がカオス神党という新党を作るという現代劇が絡んでいきます。それでますますカオスになっているかというとそうでもなくて、途中こうして長谷さん自身がたくさん解説してくれているので、これは王仁三郎初心者にも実にわかりやすいと思います。いろんな王仁三郎伝が出ていますけど、やっぱりコミックはわかりやすいですね。
Do3 さて、右の写真は長谷さんが耀わんの中に入っているところです(笑)。もう一人の人物は赤塚不二夫さんであります。これぞ本当の王仁三郎と赤塚不二夫の共演ということになりますね。このページでは赤塚さんが一つの結論的なことを述べています。
 赤塚「七〇歳にしてこの明るさとエネルギーをもちえた点でも驚異だね」
 長谷「かれをカリスマだの巨人だのといってまとめようとしてもまとめきれない」
 赤塚「現代でいえばまさに『カオス』の人だな」
 長谷「そう!それカオスの巨人だ!」
 これはなかなか上手な結論づけですね。次のページでは長谷さんが「決定論的カオス」、赤塚さんが「無秩序状態に潜む法則」という言葉を使っています。これは私が考える「モノ」に潜む真理と重なるところがありますね。私のモノ・コト論では、「モノ」はカオス、「コト」はロゴスに相当しますので。
 いやあ、それにしても面白かったなあ。普通の人が読んだらよくわからんマンガかもしれませんが。もう絶版になってしまったのでなかなか手に入らないようです。私も最近ネットの古本屋で見つけたんですよ。このコミック世紀の巨人シリーズ、ほかには「ノストラダムス」「フロイト」「アインシュタイン」「南方熊楠」があるようです。なるほど。 

Amazon 出口王仁三郎 "軍国日本"を震憾させた土俗の超能力者

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2008.02.21

ジャンボ鶴田伝説 Vol.3「最強の章」

Jumbo 最強のビデオ入手!やっと適正価格で手に入りました。プレミアが付いてずいぶんいいお値段で取引されてますよね。しかし、たしかにそれだけの価値はある。最強すぎます。
 今137分見終わったところですが、なんというか、この充実感、う〜んこれはガチですねえ。本当のガチですわ、こりゃ。興奮だけでなく戦慄もおぼえました。それに比べて最近のプロレスや総合格闘技のしょぼいことと言ったら…。
 エネルギーが違います。選手やお客さんの気持ちが違います。物語が息づいています。ドロップキック一つ取っても全然今とは違う。美しくて強い。選手が大きく見えます。偉大に見えます。私たちとは違う世界の「神」に見えます。だからそこには畏敬の念が生まれます。物の怪たちによる神事。誰が人類最強かなんていう次元ではありません。
 収録されているのは1985年から1989年まで試合です。まさにジャンボ鶴田全盛期。

ジャンボ鶴田・天龍源一郎 VS 長州力・マサ斎藤
ジャンボ鶴田・天龍源一郎・大熊元司 VS 長州力・谷津嘉章・アニマル浜口
長州力 VS ジャンボ鶴田(ノーカット)
ジャンボ鶴田・タイガーマスク VS 天龍源一郎・阿修羅原
天龍源一郎 VS ジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田 VS 天龍源一郎(ノーカット)

 実はこれ以外にも、フレアー対長州、ハンセン対天龍やプロディー対鶴田などがダイジェストで収録されており、本当に素晴らしい内容になっています。
 う〜ん、熱いわあ。そして鶴田強いわ。やっぱり最強です。この前の天龍の「七勝八敗で生きよ」を読んでからこのビデオを観ますとね、いかに天龍がジャンボに対してむかついていたか(いろいろな意味でね)、そしてそのために鶴田をどれだけ本気にさせたか、それによってジャンボのみならず天龍自身も輝いたか、よ〜くわかります。前半、鶴田と組んで長州たちとやりあっていた時、彼が何を思っていたのか、それを知って観ると実に面白い。後半鶴田と袂を分かってライバルになってからも、天龍の「むかつき」は収まらない、そして…。
 そう考えると、このビデオは最強の鶴田の裏にある天龍のドラマとも言えますね。たしかに全編にわたってドス黒く輝く負のオーラを発している、あの天龍の憂鬱感はたまりません。そしてそれがまた何も考えていない天才鶴田を際立たせてしまう。そして天龍のブラックホールはさらに爆縮していく…。
 最後にノーカットで収められている伝説の三冠戦。最後あの危険きわまりない鶴田のパワーボムで天龍ブラックホールは限界点を越えてしまいました。あれは何度観ても危なすぎる。さすがの鶴田も心配してましたっけ。「ちょっと本気出しちゃった」とか後でコメントしてましたけど。普通死んでます。死なない天龍の、いやプロレスラーの凄みを感じる瞬間ですね。
 さてさて、天龍がらみの試合もすごいんですけど、何と言っても長州との60分フルタイムドローですね。これがノーカットで収録されている。私は自分が録画していたダイジェスト版を紛失してしまっていたので、5年ぶりくらいに観ました。ノーカットは初めてかな。
 いやあ、これは本当にすごいですね。馬場さんの言う「格闘技を超えたものがプロレス」という意味がよくわかります。サソリ固めと四の字固めの応酬など、今のプロレスからすると動きがないようにも見えるかもしれませんが、よく観ると実に深い戦いをしている。お互い60分の中でどういうドラマを作ろうか、お互いの強さを引き出しつつ、自分の方が「さらに強い」というのを主張しようとしているのがわかります。
 長州もけっこう細かいことできるんですねえ。というか、二人ともミュンヘン五輪の代表だもんなあ。あのKIDのお父さん山本郁榮さんといっしょにミュンヘン行ったんだもんなあ。考えてみるとすごいメンバーだわ。
 結論から言いますと、世間でもよく言われているとおり、あの試合は完全に鶴田の勝ちでした。試合後息が上がって立つことも困難になっている長州を尻目に、全く息も見出さずコーナーに登って「オ〜!」をやる鶴田…怪物の面目躍如です。第一試合中も口を閉じて鼻で息してるもんなあ。ありえない心肺能力、スタミナです。ちょっと思ったんですけど、あの鼻の穴のデカさがあのスタミナを生んでるのかも(笑)。
 あとですねえ、いろいろな選手が画面に映りこんでいるわけですが、亡くなってしまった方の多いこと…。鶴田や馬場さんはもちろん、プロディー、冬木、薗田、大熊、羽田…辛いですね。特にブロディーの突然の死にショックを受け暴走するハンセンの姿が哀しみを助長します。ベルトを取って「ブロディー!」と叫ぶシーンが入っていました。泣けるなあ。そして、時々顔を見せるハル薗田さん…87年、新婚旅行を兼ねた遠征で彼と奥さんの乗った飛行機が墜落してしまいました。あまりに辛い出来事でした。
 まあ、とにかくとてもここでは語り尽くせないほどの「伝説」「物語」が詰まった137分です。これはお宝でしょう。今だからこそ分かることもたくさんあります。こういう語り継がれるプロレスや格闘技やスポーツや芸能、芸術といったものがどれほどあるでしょうか。物語を紡ぎ続ける生命力溢れる「もの」。何が変ってしまったのかと言えば、それはたぶん選手たちや表現者たちと言うよりも、私たち観る者の中の何かなんでしょうね。そんなことを感じました。

Amazon ジャンボ鶴田伝説 Vol.3「最強の章」

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2008.02.20

『偉大な、アマチュア科学者たち』 ジョン・マローン著 石原薫訳 山田五郎監修 (主婦の友社)

07238724 昨日のプロフェッショナルは「素人力」「素人魂」でした。番組としては自己撞着に陥っていた…かと言いますと、単純にはそうとも言い切れません。プロと素人が反対語とは限らないからですね。私だって教師という仕事でメシを喰っているという意味ではプロなのかもしれませんが、その仕事ぶりは今も昔も素人ですし。素人の対義語は玄人であり、玄人がプロとは限らないということでもあります。では、プロの対義語は…?
 これは一般にはアマチュアということでしょうね。プロとアマは常にペアで意識されます。この場合は、やはりそれでメシを喰っているかどうかというのがポイントになっていますね。そうしますと、私はプロの教師であり、アマの音楽家ということになるのかな。
 で、音楽なんかでもそうですし、昨日の社長さんもおっしゃってましたけど、案外アマチュアというのは楽しい。自由な発想ができる。腰が軽い。場合によってはプロが驚くこと、プロがうらやむことをできたりする。
 そう、だから私は昨日書いたように「マチュアなアマチュア」になりたいんですよ。究極のアマが一番強いし面白いんじゃないかなって。あっそうそう、「mature」と「amateur」で検索すると、たいがいエロサイトが出てきます。日本語で言えば「素人熟女」ってことかな(笑)。
 いや、そっちの話ではない。科学者の話をしなくちゃ。
 教科書に載っているあの有名な科学者が実はアマチュアだった、というのがこの本です。理科の先生にお借りしました。科学の世界でも究極のアマチュアというのがあるようで、やっぱりある意味憧れの存在だそうです。縛られないからこその大発見。偶然も味方せざるをえない純粋なひたむきさ…。
 そういうお話がたくさん載っています。具体的に何人か名前を挙げましょうか。よく知られた人。
 メンデル(遺伝)、ファラデー(電磁法則)、クラーク(通信衛星)、ジェファーソン(考古学)…へ〜、みんなアマチュアだったんだ。知らんかった。
 趣味が高じて偉大な科学者と呼ばれるようになったわけですね。たしかにちょっとかっこいいな。ある意味オタクを極めたとも言えますかな。芸術の世界にもそういう人たちいますね。生前は認められず、それでメシが喰えなかったので結果としてアマチュア、というパターンもありますが。
 この本で特に印象に残ったのはレビーです。私もいちおうアマチュア天文家だった時代がありまして(小学校から大学まで)、彗星の発見というのは一つの憧れでした。あれは自分の名前がつきますからね。そして、彗星探索みたいな地味な作業はプロはやらないので、アマチュアの天下ですし。日本人で言えば関勉さんなんかカリスマでした。私、小学校の時、尊敬する人として関さんと藤井旭さんを挙げてましたっけ。お二人ともアマチュアですね。
 なんかこの本を読んで、またまたアマチュア魂が燃えてきましたよ。本気で素人熟女…ではなく「マチュアなアマチュア」目指したいなあ…ってなんの分野のだよ!と自分てツッコミを入れちゃいました。まあ、浅く広くというのもアマチュアの特権でしょうから、このブログなんかを何十年も続ければ、何かが生まれるかもしれませんね。偉大なブロガーか?たしかにブログって究極のアマチュアリズムの集積だよなあ。ま、なんだかんだ言っても、私には純粋なひたむきさはありませんので、一生ただのアマチュアで終わるでしょう。楽しければそれでもいいか。

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2008.02.19

厚い思い?

Photo01 今日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」、プロフェッショナルなのに「素人力」がキーワードになっていて面白かった。ちょうど今読んでいる本とリンクしてましてね。その本はまた近いうちに紹介します。私なんかも、このブログを通じて、プロフェッショナルではなく「マチュアなアマチュア(成熟した素人)」を目指してます(笑)。
 また、私の職場がある町も織物の町でしてね、今まったく元気がありません。その活性化のヒントもあったような気がします。「あきらめなければ、失敗ではない」か。あきらめたら失敗なんですね。
 さてさてところで、プロなのにどうもこれはいかんということ。今日のこの番組でも連発してましたよ。
 最近、といいますか、ここ数年テレビを観ていて気になること。「熱い〜」のアクセントですねえ。いまやNHKのアナウンサーでさえヘーキで「熱い戦い」を「厚い戦い」のように発音します。つまり「LHHHHHH」というふうにいわゆる平板アクセントにしちゃうんですね。
 ほかによく聞く例としては、「熱い思い」「熱い声援」「熱い気持ち」などがあります。これらも全部「厚い〜」に聞こえる。ただし、「熱い思い」の「思い」は中高型(LHL)なので全体としては「LHHLHL」となります。したがって他の語に見られる単純な平板化とは違う現象のようでもあります。
 一方で、同じ中高のアクセントを持つ「暑い」は、たとえば「暑い一日」が「厚い〜」風になったりすることはありません。また、意味的に誤解が生じやすい「あつい鉄板」なんかは、ちゃんと「熱い鉄板」と「厚い鉄板」を発音し分けていますよね。ほかの中高3拍の形容詞、たとえば「白い」などが「LHH」となることはないようですから、これは実に不思議な現象です。
 いろいろ聞いてみますと、気にならないという方の方が多いようですけど、ま、いちおうアクセント史を専門で勉強した者からしますと、どうも気持ち悪くてしかたないんですよねえ。皆さんどうですか?
 今日の「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出てくる出てくる。ナレーターの橋本さとしさんが「厚い素人魂」「厚い注目」「厚い出会い」、住吉アナが「厚い社長」…NHK的にはこれでいいんでしょうか。まあ、「〜的には」なんてヘーキで書いてる国語のセンセイに、そんなことを言う権利ありませんけどね(笑)。
 言葉は生き物でどんどん変化するのは当然ですし、特にアクセントはですね、これは勉強するほどよくわかるんですけど、とにかく常に変化している。文法や音韻や語形や語彙なんかよりずっと変わりやすい。一番変わりやすいんですね。また、地域差も非常に大きい。しかし、いちおうNHKさんにはちゃんとしてもらいたいなあ。
 でも、こういう逆のこともあるんですよ。NHKのアクセント辞典に則っていると、たとえば、インターネットを表す「ネット」は頭高に発音しなければなりません。すなわち「HLL」となるわけです。そうすると逆に私たちの感覚とずれてしまう。もろ「網」っていうふうにとらえちゃいますよね。
 これは現代(若者)語の特徴であるカタカナ語の平板化との兼ね合いなんですよね。「クラブ」とか「ショップ」とか「パンツ」とかね。アクセントによって意味の使い分けをしているということで言えば「ドライバー」なんかはもうそれぞれのアクセントで発音されているようですが。揺れている過渡期のものとしては「ブログ」とかね。そうそう、若者の間では「ギター」とか「ビデオ」なんかも平板化してます。私はちょっと抵抗ありますけど。とにかく身近になると平板化するんですよ。特に外来語は。そう考えると、肝心の「テレビ」が全く平板化の兆しすら感じられないのは面白いですね。なんでだろ。
 あと、「を」の発音についてとか、いろいろあるんですが、またいつか。
 あ、今思ったんですけど、タイトルにした「厚い思い」ってもしかして「厚意」っていう意味だったら正しいのかな。なんだかわからなくなっちゃった。まあ、なんとなく通じればいいのか、素人どうしにおいては。

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2008.02.18

『イングランド、我が祖国〜パーセルの生涯』(英チャンネル4)

England, My England - The Story of Henry Purcell
England_my_england_purcell 先日のトキワ荘の青春と同じビデオに録画されていたもの。10年以上ぶりに観ました。ちなみにあと2本映画が入ってました。「Undo」と「ロマンス」…なんだか独身時代が懐かしいな(笑)。
 さて、このテレビ映画ご存知ですか?イギリス・バロックの天才作曲家、私も大好きなヘンリー・パーセルの生涯を描いた作品です。全編に彼の音楽が鳴り続け、まるでそれ自体がオペラのような作りになっています。たぶん96年にNHKで放映されたものだと思います。
 パーセルの生涯を描くということは、彼の仕えたチャールズ2世やメアリー女王、そして当時の複雑なイギリスの状況を描くことになります。ある意味そちらの方がメインと言えるかもしれません。私は世界史、特に英国史には全く暗いので、どの程度歴史的に正しい脚本になっているかわかりませんが、全体的に皮肉をこめた諧謔的な明るさと、死への暗さのようなコントラストが感じ取られ、そういう意味でもバロック的と言えるような気がしました。意識したのかな。
 そして、なんと言っても見ものなのは、衣装やセットの豪華さですね。けっこうお金かかってると思いますよ。また、「観る」という意味では当時のダンス・シーンや楽団の演奏シーンですね。かなりリアルです。
 それもそのはず。音楽はかのジョン・エリオット・ガーディナーが担当してるんです。ですから、オケは当然イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、合唱はモンテベルディ合唱団です。そして、小編成の合奏(ガンバ・コンソートなど)はフレット・ワークです。
 当時、この番組のサントラ盤CDが発売されたようですね。ガーディナーもかなり本気で取り組んだようです。現代のバロックの名手たちが、ちゃんとカツラをかぶって演奏しているっていうのもなかなかいいですね。私もこれからの演奏会はこれで行こうかな。なにしろ今スキンヘッドなので、あまりに非バロック的、非ヨーロッパ的、非キリスト教です(笑)。
 ああ、そうそうネットで検索したら、こんな素晴らしい曲目リストを作ってくれた方がいらっしゃいました。GJ!ほかにはほとんど記事がないので、あんまり観た人がいないのかなあ。日本ではもちろんDVDとかになってませんし。ちなみに本国では昨年ようやくDVD化されたようです。
 あまりに音楽が素晴らしいので、ついついストーリーに没入できなくなってしまうんですが、ちょっと冷静に観ますと、なんともこの時代のイングランドというのも大変だなあと思いますね。フランスやオランダとは仲が悪そうだし、国内では疫病や火事や陰謀や新教旧教の争いやら、内憂外患も内憂外患。鎖国してた当時の日本はまあ平和だわな。
 ところで、というか、肝腎のパーセルについてですけど、やっぱり天才ですね。ある意味では彼もバッハと同様に「パーセル」というジャンルを作ってしまったのかもしれません。倍くらい長生きしてくれればなあ。いったいどういう音楽を作ったことか…。モーツァルトと同様に早く大成しすぎたんでしょうかね。天才のサガでしょうか。
 エンドクレジットの中に「ウェンディー・カーロス」の名前があったので、「え?」と思って見直してみたら、どうも、現代にもパーセルは生き続けているということを言いたかったようですね。つまり、「時計じかけのオレンジ」におけるシンセサイザー版「メアリー女王のための葬送行進曲」のことですね。なるほど、たしかに。

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2008.02.17

スノーブレード(ソフトブーツ仕様)

Fujiten01 久しぶりにスキーに行きました。私自身3年ぶりくらいかな。子どもたちは初体験です。やっと家族全員で行けるようになりました。
 考えてみれば、スキー場までウチから車で7分ですからね。行かなきゃもったいない。あんまり近くにあるのでいつでも行けると思うと行かないんですよね。そうそう、以前、歩いて行ったこともあります。到着した時には疲れ果ててましたが。
 私、実はスキーには数々のトラウマがありまして(生徒たちの間では有名な笑い話がたくさん…)、もう一生やらん!と決めていたんですけど、10年前の大雪の時(一晩で1.5m積もった)、山の中のウチでは車(ジムニー!)が全く使い物にならず、しかたなく新雪に腰まで埋まりながら徒歩で3.5kmほど下ったんです。もうホントに途中で遭難しそうでした。まじで眠くなった。3時間くらいかかりました。もっとかな。まいりました。で、これはたまらん。もうスキーで通勤するしかないと思い、帰りにスポーツ用品店に寄って一番小さいスキーをスキーをください!って言ったんです。それがサロモンのスノーブレードの最初期型だったんですね。
Fujiten02 それを背負ってまた数時間歩いてウチに帰りました。そして、その晩少し家の前で練習したんですが、なにしろただでさえスキーが苦手なのに、妙に短い(90センチ)板だし、ストックはないと来ましたから、なんだかうまく行かない。見てた人には「狂牛病の牛」と言われる始末(笑)。それでも仕方がないので翌朝は3.5kmの新雪林間コースを下ったんです。
 そしたら、まあ、やっぱり人間は追いつめられると強いですね。その全く整備されてない林間コースを下るうちにコツがつかめちゃったわけです。それからすっかりスノーブレードにはまっちゃいましてね、毎週末生徒と滑りに行ってました、当時は。長女が生まれた日の前夜もナイターで4時間ほど滑っていたので、カミさんの腰をさすりながら眠いこと眠いこと…辛かったっす(笑)。
 さて、そんなわけでもう10年もこの板を使っています。例えば今日なんかこんな板の人は私だけでしたよ。だからある意味目立つ。
 この板が出て以来、いわゆるファンスキー(今ではスキーボード)が大流行しましてね、ボードほどではないにせよ、けっこうたくさんのファンスキーヤーを見かけるようになりました。もちろん今日も全体の2%くらいはいました。でも、私のようにソフトブーツという人はいません。
 ソフトブーツだと実に快適なんですよ。だって、家の玄関からソフトブーツを履いて、そして車を運転してスキー場まで7分、あと小さな板をかかえて行くだけでいいんですから。スキーのハードブーツみたいに歩きにくくないし、ボードや普通のスキーみたいに荷物がでかくない。楽ちんですよ。私のような無精者には最適です。もちろんストックもいりませんし。
 これだけ短いとですね、技術的にはスケートに近いんですよね。だから私でもすぐできるようになった。スケートはそこそこ滑れましたから。それに気づいたら簡単だった。スキーだと思ってたら狂牛病になっちゃった。
Fujiten03 で、これですと、ただ滑るだけじゃなくて、スピンしたりバックで滑ったりスケーティングしながら滑ったり、いろいろできるじゃないですか。もう若くないのでジャンプとかしませんけどね。短いのでそれほどスピードも出ませんから安心ですし。左の写真は、調子に乗って一番下までバックで下りようとして見事にコケたところです。まあご愛嬌ということで。
 ただ、この頃のスノーブレードはビンディングにリリース機能がないので、派手に転ぶと足首を複雑骨折する可能性が高いそうです。私は今のところそういうことはありませんけど。
 もうソフトブーツ用のスキーボードは売ってないようなので、これをずっと使い続けるしかありませんね。それにしてもこんなに便利なものがなんでなくなっちゃったんでしょう。たぶん、ソフトだと足首がフニャフニャなので踏ん張りがきかないんでしょうね。私は比べたことがないので、こんなもんだと思って滑ってますけどね。たしかに30度以上の斜面だとうまくエッジを立てられず必ずコロコロと雪だるまになりますね。ですから、そういうところには行きません。もう若くないので緩斜面をゆっくり、で満足です。

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2008.02.16

『漫画に愛を叫んだ男たち』 長谷邦夫 (清流出版)

4860290755 昨日の続き。「トキワ荘の青春」を観てからこの本を読むと、また感慨もひとしおです。
 この本は友人に借りて一度読んでいたんですが、もう一度読んでみたら、今度はかなり泣けました。前回はなんとなく(一級)資料として読んだっていう感じだったんですね。いや、資料としてもこれはすごいですよ。
 長谷さんは、いわゆるトキワ荘通い組で、住人というわけではありません。しかし、赤塚不二夫のプレーンとして、ゴーストライターとして、それ以前に無二の親友としてほとんど半生をともにしていた人ですからね、客観的かつ濃〜く彼らを描写しています。
 感心するのは、とにかくものすごい記憶量だということです。脚色の部分がどの程度あるかわかりませんが、私なんて10年前のことでもこんなによく覚えてないっす。あと、赤塚不二夫以外にもものすごい人脈をお持ちだということ。漫画界のみならず、SF界、映画界、ジャズ界などなど、なんか昭和を象徴するすさまじい面々と行動を共にしています。出てくる名前だけでもウォ〜っていう感じですよ(特にタモリ登場のくだりは圧巻)。まあ、当時は才能が才能を呼び、ジャンルを越えて一つのエネルギーの塊が出来ていたようですけどね。
 そういう強烈な昭和へのノスタルジーというのも感じます。自分の少年時代と重ねての感慨というのもあります。でもなあ、やっぱり、寺田ヒロオの切なさかなあ。
 この本によれば、寺田ヒロオは「トキワ荘の青春」に描かれた通り、優しく面倒見のよい人だったようです。新漫画党の党首だったというだけでなく、いろいろな意味で多くの天才たちの拠り所になっていたんですね。彼が彼らを支えた、生かした、導いたと言えるかもしれない。彼が手塚治虫以降の漫画文化を生んだ、いや育てたという感じすらする。孤独な天才たちの親代わりみたいにね。たぶん兄貴以上の役割でしょう。
 そんな彼は、トキワ荘を出たのち、華やかに活躍を続ける子どもたちと微妙に距離を取ります。そして、漫画界、いやマンガ界に違和感を感じながらコツコツと地味な仕事を続けます。昨日も書きましたが、トキワ荘解体に際しての同荘会にも彼だけは参加しませんでした。そこに集まった、立派に成長した天才たちが、のちに寺さんの死を知った時の衝撃はどれほどのものだったでしょう。酒浸りの末の衰弱死…。
 そんな寺田ヒロオの生と死が、長谷さんの気持ちを動かしたのかもしれませんね。ある意味この本を書くきっかけになったとも言える。長谷さんは、寺田ヒロオと同様に酒に依存する赤塚の姿を見て、彼との別れを決意します。
 この本には赤塚不二夫の意外な一面が描かれています。それを書くための本とも言えるかもしれません。豪放磊落で楽天的で行動的で社交的だと思われがちな赤塚に潜む弱さと孤独…。もうそれだけでも切ないですよ。挫折、成功、栄光、凋落、逃避、友情、裏切り、家庭、芸術…天才たちほど、自らの人生に翻弄されるものです。自らの天才性に照射される自らの欠落部分。まさに「天才バカボン」ですね。自己矛盾こそ最も残酷な刃(やいば)となります。
 私は漫画やマンガ、そして今どきのコミックにははなはだ疎い人間なので、あんまり偉そうことは言えませんけど、それでもなあ、やっぱり人間の、特に表現する人間の、大衆に愛される人間の切なさは感じますよ。まさに、予想外・不随意に対する詠嘆・嘆息…「もののあはれ」だなあ。究極の「もののあはれ」はですねえ、こうした自分に対する「もののあはれ」なんですよね。だって、自分こそが(プラス方向にもマイナス方向にも)不随意な存在(「もの」)であると気づかされるわけですから。
 酒ってそういう「もののあはれ」を一瞬忘れさせてくれる魔法の薬みたいなものなんですね。あくまで一瞬ですが。と言いつつ今呑んでいます。今日は自分のと言うより、寺田ヒロオの「もののあはれ」に乾杯かなあ…なんか切ない酒です。

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2008.02.15

『トキワ荘の青春』 市川準監督作品

Akatuka0027 いい映画でした。しみじみ。あったかくも切ない。久々に静かに「日本映画」を鑑賞。
 昨年の9月、本当に偶然ですね、たまたま車を停めた町を散歩していてある路地を曲がったら「トキワ荘跡」に出くわしました。トキワ荘がどこにあったかなんて全く頭の中にありませんでしたから、それはビックリしましたよ。その時、この映画の録画がウチにあるな、帰ったら観よう、と思ったんですが、なかなかこういう静かな映画を観れるチャンスがない。子どもがギャーとか言ってる中ではなかなか…。
 そこでマイナス15℃にもなろうかという早朝4時に起きて観るしかありません。これならさすがに静かですね。
 う〜ん、いいなあ。この空気感いいなあ。特にストーリーがあるわけではない。いろいろな日常をつないでいるだけとも言える。それがある意味ではドキュメンタリー風でもあって、こちらの気持ちがそこの時代、場にすぅっと入っていく。
 皆さん淡々と演技していて、セリフも聞き取りにくいくらいボソボソしています。しかし、それがまたリアル感を増す要因になっている。市川準作品はそういう傾向がありますけど、それはある意味「言葉」に頼らない表現ということでしょう。実際、私たちの生活や記憶の、その「時」と「場」には、発せられた「言葉」というのは少ないものです。
Tanjo05 この映画はいわゆる「トキワ荘伝説」の数々とは違った視点による作品です。トキワ荘伝説のそうそうたるメンバーの中でも、決して主役とは言えなかった寺田ヒロオが、この映画では主役になっているのです。たしか、トキワ荘が取り壊される時でしたか、NHKの番組か何かで当時のメンバーが現地に集まった時にも、彼は参加しなかったんですよね。そういう複雑な気持ちがこの映画には満ちています。
 現実でも他の主役級のメンバーは皆「寺さん」をほめています。年長であり、面倒見がよく、優しく、正直で、漫画にもまっすぐな寺さんを、みんな尊敬していた。しかし、他の後輩たちが時流に乗って売れ出したのに、寺田はいつまでも古典的な少年漫画にこだわり、なかなか売れません。そして、彼はトキワ荘を出ます。
 「青春」という言葉に潜む残酷さといいますかね。切なさといいますかね。夢に満ち、同じ志に満ちた友情が微妙な形で崩れて行く。そこにはかない恋心やはかない命もかかわり、そして別れへ。
 これはある意味ではステロタイプの青春像なのかもしれません。形やレベルは違っても、私たち大人の全てが通ってきた道かもしれませんね。そういう共感も含めて、実にやるせない映画でした。
 この名作が、今DVDにもならず、ほとんど観ることが叶わなくなっているというのは実に残念なことですね。私の記憶