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2008.02.29

井伏鱒二からの年賀状

Imgp1046 最近、何が起きても驚かないんですよ。あまりにいろいろな、思いもよらないことがどんどん起きるので。しかし、今日はさすがにびっくりしましたし興奮しました。いや、タイミングもよすぎですし。
 ちょうど昨日、吉井和哉さんと太宰治を重ねて語っちゃったじゃないですか。そこにも登場した「富嶽百景」。太宰はそこに逗留していた師と仰ぐ井伏鱒二を頼って、御坂峠の天下茶屋にやってきたのでした。ですから、当地と太宰の縁は井伏が作ったようなものです。その井伏が天下茶屋の主人にあてた年賀状を、今手にしています。なんということでしょう。
 今、ちょうどあるクラスで太宰をやってるんですね。そうしたら、そのクラスの女の子が「ウチに井伏鱒二から来た年賀状があるよ」と言い出したのです。「はぁ?!」ということで、よく聞いてみますと、なんと彼女、「富嶽百景」に出てくる「おかみさん」のひ孫だと言うじゃないですか!そうです。一昨年不慮の事故で亡くなった外川ヤエ子さんが、ひいおばあさんなんだそうです。驚きました。
 いや、実は少し前に、「富嶽百景」に出てくる茶屋の娘さんの孫もウチの学校にいました。また、ヤエ子さんの孫にあたる方も、私は直接知りませんがウチの卒業生だということです。
 地元におりますと、まあこういうことがいろいろあるわけですね。非常に有難いことです。昨日の吉井さんや、レミオロメンやフジファブリックもそうですが、もともと好きだった方々となんなとく空間的に近く接することができるというのは、これはもうファンとしては最高の喜びですね。あらゆる表現者にとって、風土とその土地の人との縁というのは、非常に重要なファクターですから。それをこうして少しでも共有できるというのは、本当に有難いことです。
 で、彼女、今日3枚の年賀状とお手製の家系図を持ってきてくれました。年賀状はひいおじいさん(天下茶屋初代店主外川政雄さん)の遺品を整理した際にお父さんがもらってきたものとのこと。昭和63年、64年、そして平成4年のものです。上の写真は平成4年のもの。「御自愛専一に願い上げます」と一筆添えられています。うむ、宛名書きもそうですが、いかにも井伏という字で、ちょっとカッコいいというか、カワイイですね。面白いのは、それぞれの宛名書きです。いかにも井伏らしい、ある意味いいかげんな、いやあまり細かいことを気にしない大物ぶりを発揮しています。
 昭和63年のものは「山梨県河口湖町河口○○」と、「南都留郡」は省略されているものの、しっかり番地まで書いてありますが、昭和64年のものは「山梨県川口町河口湖」という、とんでもない存在しない住所になってます(笑)。で、平成4年のものは「山梨県河口湖町河口」と、少し反省してか、やや正しい(?)ものに戻っていました。
 単純には言えませんけど、こういうのを見ますと、ピカレスクでも触れられていた井伏の人柄、太宰に最期「井伏さんはずるい」と言わしめた井伏のキャラクターというのが、なんとなく分かるようなしてきます。私はそんな井伏が好きなんですよね。太宰も人のこと言えないでしょう、ねえ。
 ちなみに彼女が書いてくれた家系図(親戚の皆さんで作ってくれたようです)によると、私が7年ほど前にその天下茶屋で太宰の霊にいたずらされ(?)こっぴどく怒られた、その時の怒り主は、初代店主の息子さんだということです。ははは。今となってはそれこそ有難い思い出ですなあ。
 今度彼女を介して、その方とも和解したいと思っています。それこそ7年ほど天下茶屋に行ってませんので。てか、行けませんでしたので。

富嶽百景(青空文庫)

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2008.02.28

『失われた愛を求めて―吉井和哉自伝』 吉井和哉 (ロッキング・オン)

86052071 「全てを語る!父の死、結婚、母への想い、イエロー・モンキー解散、そして、ソロへ」
 これは太宰治だ。天才のサガ、女。天才的な表現者とは、新たな生命を生み出す者であるから、それは当然の運命なのです。本能的に女を求める。それも次から次へと。しかし、それは「弱さ」の裏返し…。
 万人に愛の歌を歌い、女を愛し、子どもを愛し、しかしそれらよりもなんといっても自分が愛おしい。その共存しがたいいくつもの「愛」に苦しみ、逃亡をはかる男。
 「失われた愛を求めて」とはうまいことを言いましたね。天才ではないけれども同じ男として、これはちょっとずるいなと思いました。太宰もそうでした。「母の愛」を求めるということで正当化される非社会的な行為。それが許される才能。そう、彼はそれでも許される才能を持っているんです。音楽の才能とか、そういう次元ではなく、「許される」という才能を。
 実はこの本はずいぶん前に読んでいたんです。カミさんも泣きながら読んでました。しかし、この「物語」に登場する一方の主人公たちを直接知る私たちとしては、こうして記事にすることは憚られました。あまりにリアルな内容であるから…いや、そうではありません。やはり文字にならない、言葉にならないものが多すぎるからです。かたやこうして好きなようにパブリッシュして、そこに一つのカタルシスとビジネスを得、かたやそういうことが許されない人たちがいるんです。それがどうも許せなかった。
 しかし、さっき書いたように、やっぱり私の大好きな、そして尊敬する、男として惚れる「吉井和哉」は天才でした。太宰と同じようにやっぱり許される。やっぱり甘えさせてもらえる。そういう天才でした。私の彼へのジェラシーにも似た敬愛の情は、なるほど男としての憧れなのか。
 そうなんです。やっぱり許されていたんです。私の怒りや落胆や同情は、結局杞憂だったようです。ある意味安心しました。もちろん、それこそパブリッシュされない様々な思いの末の決断であり、明るさであり、諦観なのでしょう。そこに甘えて、吉井和哉はまた許された。それも太宰と同じ、「告白」という手法によって。現実を「物語」に昇華してしまうことによって。それを確認して、私は記事に書いてもいいかなと思いました。ある意味、もう一人の主人公の勝ちだと思ったからです。
 彼はある時に富士山麓に引っ越してきたわけですが、そこはまさに太宰治の棲む土地でした。こちらにも少し書きました「富嶽百景」の舞台、御坂峠は目と鼻の先です。私は彼がここに来たことに霊的な力を感じます。そういう観点で吉井さんを見る人はそんなにいないと思いますが、私は地元に住む者として、あるいは太宰を読む者として、本気でそんなことを思うんです。吉井さん自身はそのへんについて意識していたんでしょうか。いつか聞いてみたいところです。
 それにしても、この本、一つの安心を得てから読み返してみますと、本当に太宰の自伝的小説なみに面白い。太宰も私の生活圏と重なるところがあって、そういう共感というか共鳴のようなものがあります。吉井さんはさらに私の人生とダブるところが多いんですよ。
 彼の両親が出会ったところが、私の生まれた町、静岡県の焼津ですし、彼が幼少期を過ごした東京の十条は、私の恩人が住んでいたところで、ずいぶんと通いました。お父さんが亡くなったのち、彼が母親といっしょに引っ越したのが静岡市。その後私もちょうど静岡に引っ越しまして、まあ同じようなところで暗い青春時代を送っていたわけですね。静岡市のロック好きが行くところなんかかなり限られてますから、一度くらいは同じ空間にいたことがあるかもしれません。そして、今…「39108」に始まった不思議な縁は、これからどういうふうに動いて行くのか、それは分かりません。
 この自伝の太宰的だと感じるもう一つの理由。これが聞き書き(インタヴューの書き起こし)だということです。ご存知のように、太宰のある時期の作品は口述筆記によって成ったものが多い。2番目の奥さん石原美知子さんが書き取りました。優れた聞き手、書き取り手との共同作業によって名作が誕生したわけです。吉井さんのこの自伝的小説(?)も渋谷陽一という優れた聞き手を介して生まれたものです。それをまた「甘え」と取ることもできますがね。
 いずれにせよ、そうした他者への「甘え」や他者の「許し」をベースとして、優れた生命力溢れる魅惑的な作品を生み出し続ける吉井和哉という一人の天才がいて、そこから放たれるどす黒い光を身近で浴びることは(つまりプライベートを知るということは)、我々ファンにとっては辛いことでもあり、ある意味踏み絵的な体験を余儀なくされるものです。この自伝を読んでショックを受け、もうイエモンは聞かないと言い放つ人もいるでしょうし、音楽はいいが人間としては最低だと簡単に言ってしまう人もいるかもしれません。しかし、私は自らの太宰体験からも、そんなふうに吉井さんを突き放せないんですね。太宰がそうであるように、彼もまた「弱さを持ち続ける強さ」を持っており、いつまでも「自立した大人」になんかならない崇高さと純粋さを持っているわけですし、そんな彼の姿に自らの奥底に眠らせている非社会的な本能が共鳴するからです。だから、この本の衝撃というのは、プラスであってもマイナスであっても、結局は自らへの衝撃なのでした。
 「失われた愛」…それは私たちが自らのどこかに幽閉した「自己愛」なのかもしれません。現代の太宰のこの名作、御一読をすすめます。

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2008.02.27

チック・コリア・トリオ 『ドクター・ジョー〜ジョー・ヘンダーソンに捧ぐ』

31xl7dumlcl_aa240_ ジャズバンド部の顧問の先生に聴かせていただきました。なんか、久々にチック・コリアをじっくり聴いたなあ。
 このアルバムは日本のファンのためのトリオ5枚シリーズの1枚ということで、ジョン・ヘンダーソンに捧げる内容になっています。ベースはジョン・パティトゥッチ、ドラムスはアントニオ・サンチェスです。たしかにこの組み合わせは聴いたことなかったなあ。
 もちろんチックとパティトゥッチが一緒にやってるのは何度も聴いてますし(生でも聴いてるなあ)、サンチェスはパット・メセニー・グループでの演奏をいやというほど聴いてます。でも、この3人でトリオというのは…けっこう新鮮ですねえ。だって、私の中で、チックとパットってクロスしそうでクロスしないんですよ。もちろんこういうとんでもない名作もありますけど、それ以来あんまりなんじゃないですか。またプロレスのたとえで申し訳ないんですが、この前の記事的に言えば、馬場さんのところに猪木のもとで修行した長州が乗り込むって感じかな。いや、そんなに殺伐としたものでも緊張感のあるものでもないか(笑)。
 私のシロウト印象では、3人ともとにかくリズムが鋭いというイメージがある。チックのピアノの魅力は、とにかくタッチの細かさ(お分かりになりますかね)と正確さに乗っかった独特のメロディック・リリシズムにあります。朗々と歌って聴かせるというより、詩のようにリズムで聴かせるところがあると思うんです。そして、パティトゥッチもまずは強力なビートが基本。チックと手が合うというのは、彼のリズム感によるのではないでしょうか。まあ、息が合ってるわけですね。そして、サンチェスです。
 彼の、パット・メセニー・グループにおけるドラミングは、どちらかというとファンタジックな、フィルハーモニックなイメージが強い。それはまさにパットの音楽性によるわけですけど、今回は全く違う印象だなあと思ったら、こんなインタビューを見つけました。これは実に興味深い内容です。まずはお読みになってみてください。
 これを読みますと、サンチェスがいかに謙虚で柔軟性に富むアーティストであるか分かりますね。ドラムの役割に関する発言部分や尊敬するドラマーを列挙するところには、正直ドキドキしてしまいました。喜びというか興奮というか。うわぁ!すごい人だなと。レベルは違いすぎるとは言え、音楽(特にアンサンブル)をたしなむ者としては、この内容は刺激的ですし、勉強になりますよ。素晴らしい音楽家ですね、彼。
 というわけで、そういうサンチェスの心意気というか人間性みたいなものを意識して、もう一度このアルバムを聴きますとね、本当にまた感動的です。ジャズのものすごいセッションというのは大概こういう独特の精神性〜たぶんそれは宗教的な領域にまで達すると思いますよ〜に裏付けされていることが多い。おそらく他のジャンルよりこういうアンサンブルが多いんじゃないかなあ。そこがジャズの良さでもありますよね。
 チックもローズやムーグを駆使して、そういう空気をより楽しいものにしていますし、パティトゥッチも楽しそうにアコースティックとエレクトリック両ベースを弾きまくってます。個人技はもう言うまでもないんですけど、やはりこういう「合奏」の心、そう、テクニックではなくて心…いや、もしかすると心以前のそれこそ「からだ」の表現なのかもしれませんね。昨日の東大の問題じゃありませんが。
 ロックやクラシックの方々には是非とも見習ってもらいたい「心」であり「体」であり、その総体たる「人間」たちでありますね。私も少しはあやかりたいものです。
 あっ、まるで追伸になっちゃいましたけど、こういう奇跡をとりもった「ドクター・ジョー」ことジョー・ヘンダーソン様にもお礼を言わなきゃね。

Amazon ドクター・ジョー

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2008.02.26

東京大学入試問題(国語)

Toudai1 昨日、今日と国立の二次試験が行なわれました。3年生のみんな、どうだったかなあ。私は担任する2年生のギャル8人と一緒に、先輩が受けに行っている東大の問題を早速やってみました。
 以前、「心より物の時代」という記事にも書いたように、とにかく東大の国語の問題というのは素晴らしいんですよ。解いてて楽しいし、感動すらしてしまうのであります。今年の問題もなかなかの良問でありました。
 2年生でも基本的に解けてしまいます。東大用の記述テクニックは教えてないので実際には正解とはなりませんが、何を書けばいいのかというのは分かります。
 で、今日も出題者の意図、出題者が何を書いてほしいのか、採点基準はどこにあるのかを読み取りながら一緒に解いてみました。それが楽しいんですよ。出題者との対話ができるかどうか。
 私もそれなりに模範解答を作りますが、面白いのはですね、各予備校の模範解答を比べることなんです。全然違うんですよ。問題を解いたあと、それを並べて比較するんです。そして、ツッコミを入れる。この問題ではこの予備校の答えは○点しか取れないなとか、焦って対話しきれてないなとか、こいつ落ちたなとか(笑)。それがとっても勉強になるんです。
 去年の今頃メイド服着て踊ってたキャピキャピギャルどもも、なんかなあ、こういう問題解いてこういう会話ができるようになったんだなあ、としみじみする瞬間です。あっ、そうだ、来月またメイド服着て踊るとか言ってたな。元副担任の結婚式で(!)。
 さて、それはいいとして、今年の現代文の問題ですけど、私が昨日書いたことと深く関連する内容でした。
 第一問は宇野邦一さんの「反歴史論」から。歴史と歴史学、記憶と記述などに関する内容。まあ、よく言われる、歴史は誰かの恣意的な切り取り作業の上にあるという話ですね。つまり、ワタクシ的に言うと「言語化」「コト化」されたものであるということで、実際にはそれ以外の茫漠たる「モノ」や妄想(神話など)が無限に広がっているのが本質なわけです。
 なのに人は「コト化」された歴史に縛られてしまうと。これは昨日書いた、言葉に人が縛られる(はじめに言葉ありき)と全く同じことですね。私たちはそこに安心を得ようともしますが、結果は不自由を招くことの方が多いような。
 第四問は竹内敏晴さんの『思想する「からだ」』からの出題。役者の感情表現についての随筆。これも基本的に同じ話だなあと思いました。「悲しい」とか「楽しい」とか、言語で「コト化」された感情を表現するのではダメだ、「からだ」の中を満たし溢れているなにか(モノ)を表現せねば、と。
 まさに言語(コトの葉)の功罪、特に罪のお話ですね。やっぱり東大でも「心より物の時代」なのかな。てか、最近の世の中のはやりなんでしょう。20世紀文化のカウンターってことで。だから私が言ってることも、まあ普通なことなんでしょうね。
 そうそう、第二問の古文、第三問の漢文も、ネタがかぶってましたっけ。両方とも「夢」がポイントになってました。夢に観音やら老人やらが出てきて予言したりするんです。こういうのを読みますと、ああ昔は「うつつ」と「ゆめ」が同等だったのかな、いやもしかすると夢の方が重視されてたのかな、なんて思われます。これも考えようによっては、「コト」と「モノ」の関係につながりますよね。
 21世紀はいよいよ「物語」の復権の時代なのかもしれませんね。そんなことを考えながらギャルどもとああでもない、こうでもないと言い合った一日でした。実は私の答にも、彼女たちけっこうダメ出ししたのでした(笑)。
 今年の東京大学の問題をお読み(お解き)になりたい方は、こちらからどうぞ。

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2008.02.25

はじめに言葉ありき…

Sad さっきAmazonのトップページを開いたら、左のような広告が出ていました。なに〜?SADですと。哀しい名前つけるなよ。誰だって人前では緊張して普段の自分を出せないに決まってるじゃん。毎日人前でしゃべる仕事やってる私でも、あるいは音楽やってて舞台に上がることが多い私でも、緊張して実力が発揮できないなんていうのは当り前。つまり、ほとんどの人はSADということになります。で、薬で治るってことですか?
 いろいろありますよね。こういう病気の名称。「うつ」なんかもその典型です。うつ診断なんてやると、ほとんど9割の人が軽度の「うつ」に認定されます。教育現場でも「多動」やら「学習障害」やら、いろいろありますなあ。
 「分節」「概念化」「名づけ」「コト化」…こうやって世の中にいろいろなコトが立ち上がってきます。その功罪について考えることが多いこの頃であります。特に「言葉」が「金」になるのはどうなんだろう。そう言えば、昔こんな記事も書いたっけな。
 先日、「Rh−の血液が足りない!」みたいなメールが飛び交って、奥さん方が大騒ぎしてました。これもまた「騙り」による感情や行動の醸成であります。ちょっと考えれば分かるでしょう!そうそう、3年前には集団気分について書きました。
 聖書の「はじめに言葉ありき」…これに関しては、私はこちらに書きましたように一般的な解釈とはちょっと違う考えを持っております。しかし、今書いたような「言葉が先にあって存在があとから付いてくる」という意味では、たしかに「はじめに言葉ありき」だと思いますね。
 で、面白いのは、病気の名前なんかは、さっきみたいにアルファベットを並べたり、難しい漢語を並べたりして、いかにも深刻な感じ、しかしなんとなく身近でないような感じ、なんだか分かったような分からないような感じを出すんですが、対照的なのは和語の新語ですね。
 これは大概動詞の連用形の形をとります。「いじめ」とか「ひきこもり」とか「ねじれ」とかですね。これは和語なだけに身近な感じがする。生々しい感じがする。薬で治らない感じがする。「ボケ」と「認知症」なんていうのも面白いコントラストですね。
 「いじめ」と同様なことは昔も散々ありましたが、それが「いじめ」という名称を与えられた途端に社会問題化しました。そして、私は「いじめ」の対象だとか、私は「いじめ」の犯人だとか、そういう概念が生まれて問題を複雑化してしまいました。「ひきこもり」なんかもそうですね。そうして自分に名称が与えられて、そこにはまってしまう。分節された一部屋、箱みたいな中に、それこそひきこもってしまう。
 それで安心を得るというのもありますし、実際対処や治療が可能になることも多いので、一概には言えないのですが、私から見ますと、どうも「コト化」がマイナス方向に働くことが多いように感じます。
 ちなみに「偽装」みたいな漢語一語のヤツはですねえ、大概流行語止まりなんですね。今までも使われて新味もないし。
 さて、おまけの話ですが、今日の授業の脱線について。まあ、私の授業は脱線どころか次元を超えてしまうくらい、あっちこっち行っちゃうことで有名(?)なんですね。で、今日も授業中いろいろと話が脱線しまくりまして、さあ大変。はっと気づいた時はとんでもない所にいたりするんで、そういう時は生徒とどうやってこんなとこまで来たんだ?と考えるんです。つまり、どこからどう話がそれてここまで来たかというプロセスをさかのぼるんです。で、最初の脱線のきっかけを作ったヤツは誰だ?というのを追及するわけです。それがみんなで考えても案外思い出せない。今日はなんとか辿って行って、結局犯人は私だったんですけど(笑)。
 そう、それで「ニート」という言葉についての話。これは私なんかは「きちんとした」「すてきな」っていう意味だと思ってたんですよ。つまり「NEAT」の方ですね。だって、ジムニーのキャッチフレーズが「タフ&ニート」でしたから。思いっきりアウトドア系でたくましいっす。でも、皆さん御存知の通り、今は逆のイメージになってしまいました。
 それで、「ニートなニート」っているのかなっていうくだらない話になったのでした。つまり「きちんとした怠け者」みたいな。いや、「NEET」を怠け者と言い換えてはいけない。ある意味「NEAT」すぎると「NEET」になるのかもしれないぞ。社会性なんていうものは、適度な諦めや妥協やウソで出来ているものですから。
 ついでに「ひきこもりのホームレス」ってのはどうかなっていう話。ホームがないっていうことはひきこもれないっていうことかな。いや、段ボールにひきこもるというのもあるのではないか、とまじめな論議になってしまったのでした。なんとなく不謹慎なような気もしますけど、しかし、こうして命名してイメージを固定して、それを組み合わせて「どうかな」なんて考えるのも、言葉の功罪の一つなのでした。いちおう生徒にはそういう話もして、「国語の勉強」っぽくしておきましたよ(笑)。
 最後にこんな話もしたっけな。比較的近所にあるお店があって、それが「ニート」っていう名前なんですよ。昔はいい名前だなと思ってたんですけど、今じゃあねえ…かわいそうに。

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2008.02.24

LAT-FM300U(MP3再生機能付きトランスミッター)

Img23192192 今日はバロック・バンドの練習で久々に東京へ。時間があったので一般道で行ったところ、途中事故渋滞に巻き込まれ、新宿まで5時間もかかってしまいました。
 で、そんな長〜い車内での時間を過ごすのに欠かせないのが音楽ですね。MacBookを買った時付いてきたiPod nanoはカミさんにあげちゃったので、私はいつもはCDで聴いていました。しかし、どうもCDだと短時間で交換しなければならず面倒。また、なんだか車内が裸のCDで散らかるという状況でして、ああ、オレもMP3プレイヤーほしいなあ、安いのでいいから…と思っていたところ…いいもの見つけました。
 これ、面白いですよ。車内用のトランスミッターってあるじゃないですか。それにMP3(とWMA)の再生機能が付いてるんですよ。で、今回はアウトレット価格で2838円、ポイントもあったので結局1500円の出費ですみました。ラッキー!
 MP3の再生機能というのはどういうものかといいますと、本体の頭にUSBメモリがさせるんですね。で、そのメモリに入っているMP3ファイルを再生してくれると。私はこちらのCFが遊んでいる状態だったので、そこにiTunes内の大量のデータからテキトーにコピーして、リーダーを介してさしてみました。いちおう説明書には4GBまでって書いてあるんですが、8GBでも全然大丈夫でした。これでトランスミッター付きiPod shuffle 8GBの出来上がりです。
 そう、これってディスプレーなんかありませんから、基本的にシャッフルで使うことになるんですね。いちおう通常再生モードではある法則に従って順に再生してゆき、またレジューム機能も付いてるんですけど、なにしろ8GBもありますと、目的の曲を探すのはもうほとんど不可能に近いので、結局シャッフル再生モードで楽しむことになるんです。
 いや、私、iPod shuffleが出た時、これは不便だよなあって思ったんです。曲を基本選べないのってどうなのかなあって。ところが今回シャッフルを経験してみますと、案外これが面白いんですね。次に何が来るか分からないというスリルというか、楽しみというか。
 そう、入っている曲はいちおう自分が選んだ1000曲くらいなわけじゃないですか。その時点では自分の思い通りなんですが、その再生順序は全く思い通りにならない。これは私のモノ・コト論で言いますと、「コト(随意)」と「モノ(不随意)」の微妙なバランスの状態でして、それがいいんですね。「コト」ばかりでは飽きますしパターン化します。「モノ」だけでは不満や不安になります。人間ってそういうワガママな奴ですから。ある一定の範囲内での偶有性を欲するものなんですね。
 それにしても、今日5時間近くシャッフルで聴きましたが、非常にへんちくりんで楽しいことになってました。美空ひばりの次がバッハで、その次がMJQ。そしてレミオロメンが3曲続いたと思ったら、いきなりELOが2曲。そこからサザンに行ったと思ったらグラッペリがなぜか4曲続く。倉木麻衣を久々に聴いたと思うといきなりブクステフーデ。フジファブリックがようやくかかったと思ったらマイケル・ジャクソン。山口百恵のあとに松田聖子が3曲続いてお次はキース・ジャレット。そしてビートルズから王仁三郎の言霊へ(!)…まさにカオス・ワールド全開でして、自らの音楽的趣味のハチャメチャさを確認するハメとなりました。
 しかし、こうして聞きなれた曲を違ったアレンジメントで聴くと、たしかに印象が変わりますし、あっ、この二人はここが似てるなとか、時代の音ってこういうものかとか、いろいろ発見がありますね。勉強にもなりました。また、ついつい聴かずじまいになりがちな曲もしっかり聴けてそれも良かった。
 なるほど、人生にはこういうシャッフルも必要なんだなと思いましたよ。
 さて、この製品、音質もまあまあいいですし、もちろん単なるトランスミッターとしても機能しますから、iPodなどをつなぐこともできますし、ケータイの音源も再生できます。またUSB充電機能もついてますから、何かと便利ですよ。これは隠れた名アイデア商品ではないでしょうか。本家のショップで時々アウトレット品が出ますので、チェックをしていると格安で手に入れられますよ。

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 いくつかのUSBメモリーにジャンル別に分けて入れるのもいいかもですね。私はこちらの超小型USBメモリーをおススメいたします。5枚セットとかもありますし。2GBのも安いですね。

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2008.02.23

『世界一やさしい 問題解決の授業』 渡辺健介 (ダイヤモンド社)

47800049 先に言っときますが、今日は酔っぱらってます。
 昨日と同じくダイヤモンド社の本ですけど、中身はだいぶ違いますね。もしかすると反対なのかもしれない。こちらはロジカル・シンキングの方法を教えてくれます。カオスを整理して分節していくわけですからね。
 そういえば、王仁三郎のひ孫である出口汪さんも論理エンジンを提唱してますね。ウチの学校でも採用させていただいてます。生徒たち、とってもお世話になってます。力つきますよ。
 そういう論理的な思考の習得っていうのが、今学校ではやっているんですよね。社会がそういう力を求めているからでしょう。この本も慶応義塾高校で使われているといいます。
 大人になるということは、すなわち論理的な思考ができるということとも言えます。感情や感性や霊感にまかせるのではなく、因果関係をしっかり捉えて考えていく。
 私もそういう力は大切だと思いますよ。そういう力がないと損をする世の中ですから。でもそれだけでもダメだよなあ。「コト力」だけじゃなくて「モノ力」も必要ですよ。ただ、その「モノ力」は学校では教えにくいんです。
 まあ、それはちょっと置いときまして、この本です。この本は中高生にもわかる「ミッシー(MECE)」と「ロジック・ツリー」の本です。とっても具体的な例とイラストなどを駆使して、本当にわかりやすく問題解決の手順を説明してくれています。
 こういうのって、一般の企業では当たり前にやってることだと思いますけど、なかなか学校では教えてもらえないんですよね。あるいは家庭でも。だいいち、自分もこういうふうに問題を解決してるかというと、全くやってません。カンと経験とハッタリ力ばっかりです(笑)。
 この本を読んで、たしかになるほど〜と思ったんですけど、でもなあ、なんか私にはこういうじっくり考える根性はないよなあ。正直面倒くさい。これじゃあダメだよなあ…。だから問題がなかなか解決しません。私は問題をどんどん先送りし、その問題自身が死ぬのを待ちます(笑)。もしかして究極の問題消滅法だったりして。
 ロジック・ツリーでどんどん原因をつきつめて方法を絞り込んでいくというのはたしかに面白いんですが、逆に言えば誰でも同じ結論になるわけで、多様性や偶然性、セレンディピティーみたいな「モノ」は排除されていってしまいますよね。そこんとこがちょっと残念な気もします。
 昨日の王仁三郎と赤塚不二夫なんか、まさに人生や作品がロジックからは大きくはずれていて、それが魅力ですし、それが生命力の素になっていると思います。ですから、意地悪な言い方をすれば、ロジカル・シンキングとは生命力を奪う考え方とも言えます。暴れる「問題」をじわじわと攻めて動けなくするわけですからね。
 なんか今日はお酒を飲み過ぎたせいか、それこそ全然論理的な文章が書けません。言葉は「コトの葉」つまりロジックの友ですけど、酒はロジックの敵ということですね。赤塚さんでなくとも、人が酒を欲するということは、やっぱりロジックばっかりじゃあやってられないってことなのかなあ。
 あと、問題問題って言うけど、問題はもしかすると敵じゃないかも…。いわゆる問題を愛することもできるんじゃないかなあ。仲良くやってくこともできるんじゃないかなあ…酒がそう言っております(笑)。
 
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2008.02.22

『出口王仁三郎 "軍国日本"を震憾させた土俗の超能力者』長谷邦夫 フジオプロ (ダイヤモンド社 コミック 世紀の巨人)

Eru67 先日紹介した名著『漫画に愛を叫んだ男たち』を書いた、準トキワ荘メンバーであり、長く赤塚不二夫のプレーンを務めた長谷邦夫さん。こんなマンガを書いていたんですよ。びっくり。本当に不思議なリンクですよ、ワタクシ的には。でも、なんとなく納得。
 王仁三郎ファンであり、赤塚ファンでもあり、霊界物語全巻と天才バカボン全巻を聖典として神棚に奉納している(笑)私やカミさんは、よく話してたんです。バカボンの世界って霊界物語だよなあ…って。あるいは霊界物語ってバカボンじゃん!って。両方ともカオスのエネルギーに満ちています。諧謔に宿る真理であったり、ナンセンスの中の意味であったり、常識や時空を簡単に飛び越えたり…そして、なんといっても、私からしますと、両者の言語センスが似ているように感じられるんです。お二人ともものすごい言葉の感覚をお持ちですよ。日本語なんていうちっちゃな枠にとらわれていませんし。とにかくいろんなところを自由に行き来する感じですね。
Do1 そんな王仁三郎と赤塚不二夫が、こんなふうにコラボレーションするとは。王仁三郎とバカボンのパパが同じところにいるなんて!長谷さんのおかげです。いや、右の写真はですねえ、バカボンのパパが出口なおに変身してるところです(笑)。すごいよなあ。夢の共演…てか、共演ではなく本人になってしまっているわけで…これはまさにカオスです。そして!レレレのおじさんが「霊霊霊の霊〜ッ!」ですから(笑)。素晴らしすぎます。もうこの時点でワタクシは撃沈されました。
Do2 そして左のページは王仁三郎とニャロメとパパが同一画面に。ちなみに左のコマのおじさんが、長谷さん自身です。ほかにも本官さんやウナギイヌやおそ松くんやイヤミやチビ太やケムンパスやベシや、赤塚キャラが総出演してます。まさに霊界物語みたいですね。個性的なキャラが無意味に(しかし有意味に)登場しては消えてゆきます。基本的に王仁三郎の生涯を時系列的に紹介するのですが、そこにニャロメ一郎という人物(?)がカオス神党という新党を作るという現代劇が絡んでいきます。それでますますカオスになっているかというとそうでもなくて、途中こうして長谷さん自身がたくさん解説してくれているので、これは王仁三郎初心者にも実にわかりやすいと思います。いろんな王仁三郎伝が出ていますけど、やっぱりコミックはわかりやすいですね。
Do3 さて、右の写真は長谷さんが耀わんの中に入っているところです(笑)。もう一人の人物は赤塚不二夫さんであります。これぞ本当の王仁三郎と赤塚不二夫の共演ということになりますね。このページでは赤塚さんが一つの結論的なことを述べています。
 赤塚「七〇歳にしてこの明るさとエネルギーをもちえた点でも驚異だね」
 長谷「かれをカリスマだの巨人だのといってまとめようとしてもまとめきれない」
 赤塚「現代でいえばまさに『カオス』の人だな」
 長谷「そう!それカオスの巨人だ!」
 これはなかなか上手な結論づけですね。次のページでは長谷さんが「決定論的カオス」、赤塚さんが「無秩序状態に潜む法則」という言葉を使っています。これは私が考える「モノ」に潜む真理と重なるところがありますね。私のモノ・コト論では、「モノ」はカオス、「コト」はロゴスに相当しますので。
 いやあ、それにしても面白かったなあ。普通の人が読んだらよくわからんマンガかもしれませんが。もう絶版になってしまったのでなかなか手に入らないようです。私も最近ネットの古本屋で見つけたんですよ。このコミック世紀の巨人シリーズ、ほかには「ノストラダムス」「フロイト」「アインシュタイン」「南方熊楠」があるようです。なるほど。 

Amazon 出口王仁三郎 "軍国日本"を震憾させた土俗の超能力者

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2008.02.21

ジャンボ鶴田伝説 Vol.3「最強の章」

Jumbo 最強のビデオ入手!やっと適正価格で手に入りました。プレミアが付いてずいぶんいいお値段で取引されてますよね。しかし、たしかにそれだけの価値はある。最強すぎます。
 今137分見終わったところですが、なんというか、この充実感、う〜んこれはガチですねえ。本当のガチですわ、こりゃ。興奮だけでなく戦慄もおぼえました。それに比べて最近のプロレスや総合格闘技のしょぼいことと言ったら…。
 エネルギーが違います。選手やお客さんの気持ちが違います。物語が息づいています。ドロップキック一つ取っても全然今とは違う。美しくて強い。選手が大きく見えます。偉大に見えます。私たちとは違う世界の「神」に見えます。だからそこには畏敬の念が生まれます。物の怪たちによる神事。誰が人類最強かなんていう次元ではありません。
 収録されているのは1985年から1989年まで試合です。まさにジャンボ鶴田全盛期。

ジャンボ鶴田・天龍源一郎 VS 長州力・マサ斎藤
ジャンボ鶴田・天龍源一郎・大熊元司 VS 長州力・谷津嘉章・アニマル浜口
長州力 VS ジャンボ鶴田(ノーカット)
ジャンボ鶴田・タイガーマスク VS 天龍源一郎・阿修羅原
天龍源一郎 VS ジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田 VS 天龍源一郎(ノーカット)

 実はこれ以外にも、フレアー対長州、ハンセン対天龍やブロディー対鶴田などがダイジェストで収録されており、本当に素晴らしい内容になっています。
 う〜ん、熱いわあ。そして鶴田強いわ。やっぱり最強です。この前の天龍の「七勝八敗で生きよ」を読んでからこのビデオを観ますとね、いかに天龍がジャンボに対してむかついていたか(いろいろな意味でね)、そしてそのために鶴田をどれだけ本気にさせたか、それによってジャンボのみならず天龍自身も輝いたか、よ〜くわかります。前半、鶴田と組んで長州たちとやりあっていた時、彼が何を思っていたのか、それを知って観ると実に面白い。後半鶴田と袂を分かってライバルになってからも、天龍の「むかつき」は収まらない、そして…。
 そう考えると、このビデオは最強の鶴田の裏にある天龍のドラマとも言えますね。たしかに全編にわたってドス黒く輝く負のオーラを発している、あの天龍の憂鬱感はたまりません。そしてそれがまた何も考えていない天才鶴田を際立たせてしまう。そして天龍のブラックホールはさらに爆縮していく…。
 最後にノーカットで収められている伝説の三冠戦。最後あの危険きわまりない鶴田のパワーボムで天龍ブラックホールは限界点を越えてしまいました。あれは何度観ても危なすぎる。さすがの鶴田も心配してましたっけ。「ちょっと本気出しちゃった」とか後でコメントしてましたけど。普通死んでます。死なない天龍の、いやプロレスラーの凄みを感じる瞬間ですね。
 さてさて、天龍がらみの試合もすごいんですけど、何と言っても長州との60分フルタイムドローですね。これがノーカットで収録されている。私は自分が録画していたダイジェスト版を紛失してしまっていたので、5年ぶりくらいに観ました。ノーカットは初めてかな。
 いやあ、これは本当にすごいですね。馬場さんの言う「格闘技を超えたものがプロレス」という意味がよくわかります。サソリ固めと四の字固めの応酬など、今のプロレスからすると動きがないようにも見えるかもしれませんが、よく観ると実に深い戦いをしている。お互い60分の中でどういうドラマを作ろうか、お互いの強さを引き出しつつ、自分の方が「さらに強い」というのを主張しようとしているのがわかります。
 長州もけっこう細かいことできるんですねえ。というか、二人ともミュンヘン五輪の代表だもんなあ。あのKIDのお父さん山本郁榮さんといっしょにミュンヘン行ったんだもんなあ。考えてみるとすごいメンバーだわ。
 結論から言いますと、世間でもよく言われているとおり、あの試合は完全に鶴田の勝ちでした。試合後息が上がって立つことも困難になっている長州を尻目に、全く息も乱さずコーナーに登って「オ〜!」をやる鶴田…怪物の面目躍如です。第一試合中も口を閉じて鼻で息してるもんなあ。ありえない心肺能力、スタミナです。ちょっと思ったんですけど、あの鼻の穴のデカさがあのスタミナを生んでるのかも(笑)。
 あとですねえ、いろいろな選手が画面に映りこんでいるわけですが、亡くなってしまった方の多いこと…。鶴田や馬場さんはもちろん、ブロディー、冬木、薗田、大熊、羽田…辛いですね。特にブロディーの突然の死にショックを受け暴走するハンセンの姿が哀しみを助長します。ベルトを取って「ブロディー!」と叫ぶシーンが入っていました。泣けるなあ。そして、時々顔を見せるハル薗田さん…87年、新婚旅行を兼ねた遠征で彼と奥さんの乗った飛行機が墜落してしまいました。あまりに辛い出来事でした。
 まあ、とにかくとてもここでは語り尽くせないほどの「伝説」「物語」が詰まった137分です。これはお宝でしょう。今だからこそ分かることもたくさんあります。こういう語り継がれるプロレスや格闘技やスポーツや芸能、芸術といったものがどれほどあるでしょうか。物語を紡ぎ続ける生命力溢れる「もの」。何が変ってしまったのかと言えば、それはたぶん選手たちや表現者たちと言うよりも、私たち観る者の中の何かなんでしょうね。そんなことを感じました。

Amazon ジャンボ鶴田伝説 Vol.3「最強の章」

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2008.02.20

『偉大な、アマチュア科学者たち』 ジョン・マローン著 石原薫訳 山田五郎監修 (主婦の友社)

07238724 昨日のプロフェッショナルは「素人力」「素人魂」でした。番組としては自己撞着に陥っていた…かと言いますと、単純にはそうとも言い切れません。プロと素人が反対語とは限らないからですね。私だって教師という仕事でメシを喰っているという意味ではプロなのかもしれませんが、その仕事ぶりは今も昔も素人ですし。素人の対義語は玄人であり、玄人がプロとは限らないということでもあります。では、プロの対義語は…?
 これは一般にはアマチュアということでしょうね。プロとアマは常にペアで意識されます。この場合は、やはりそれでメシを喰っているかどうかというのがポイントになっていますね。そうしますと、私はプロの教師であり、アマの音楽家ということになるのかな。
 で、音楽なんかでもそうですし、昨日の社長さんもおっしゃってましたけど、案外アマチュアというのは楽しい。自由な発想ができる。腰が軽い。場合によってはプロが驚くこと、プロがうらやむことをできたりする。
 そう、だから私は昨日書いたように「マチュアなアマチュア」になりたいんですよ。究極のアマが一番強いし面白いんじゃないかなって。あっそうそう、「mature」と「amateur」で検索すると、たいがいエロサイトが出てきます。日本語で言えば「素人熟女」ってことかな(笑)。
 いや、そっちの話ではない。科学者の話をしなくちゃ。
 教科書に載っているあの有名な科学者が実はアマチュアだった、というのがこの本です。理科の先生にお借りしました。科学の世界でも究極のアマチュアというのがあるようで、やっぱりある意味憧れの存在だそうです。縛られないからこその大発見。偶然も味方せざるをえない純粋なひたむきさ…。
 そういうお話がたくさん載っています。具体的に何人か名前を挙げましょうか。よく知られた人。
 メンデル(遺伝)、ファラデー(電磁法則)、クラーク(通信衛星)、ジェファーソン(考古学)…へ〜、みんなアマチュアだったんだ。知らんかった。
 趣味が高じて偉大な科学者と呼ばれるようになったわけですね。たしかにちょっとかっこいいな。ある意味オタクを極めたとも言えますかな。芸術の世界にもそういう人たちいますね。生前は認められず、それでメシが喰えなかったので結果としてアマチュア、というパターンもありますが。
 この本で特に印象に残ったのはレビーです。私もいちおうアマチュア天文家だった時代がありまして(小学校から大学まで)、彗星の発見というのは一つの憧れでした。あれは自分の名前がつきますからね。そして、彗星探索みたいな地味な作業はプロはやらないので、アマチュアの天下ですし。日本人で言えば関勉さんなんかカリスマでした。私、小学校の時、尊敬する人として関さんと藤井旭さんを挙げてましたっけ。お二人ともアマチュアですね。
 なんかこの本を読んで、またまたアマチュア魂が燃えてきましたよ。本気で素人熟女…ではなく「マチュアなアマチュア」目指したいなあ…ってなんの分野のだよ!と自分てツッコミを入れちゃいました。まあ、浅く広くというのもアマチュアの特権でしょうから、このブログなんかを何十年も続ければ、何かが生まれるかもしれませんね。偉大なブロガーか?たしかにブログって究極のアマチュアリズムの集積だよなあ。ま、なんだかんだ言っても、私には純粋なひたむきさはありませんので、一生ただのアマチュアで終わるでしょう。楽しければそれでもいいか。

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2008.02.19

厚い思い?

Photo01 今日のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」、プロフェッショナルなのに「素人力」がキーワードになっていて面白かった。ちょうど今読んでいる本とリンクしてましてね。その本はまた近いうちに紹介します。私なんかも、このブログを通じて、プロフェッショナルではなく「マチュアなアマチュア(成熟した素人)」を目指してます(笑)。
 また、私の職場がある町も織物の町でしてね、今まったく元気がありません。その活性化のヒントもあったような気がします。「あきらめなければ、失敗ではない」か。あきらめたら失敗なんですね。
 さてさてところで、プロなのにどうもこれはいかんということ。今日のこの番組でも連発してましたよ。
 最近、といいますか、ここ数年テレビを観ていて気になること。「熱い〜」のアクセントですねえ。いまやNHKのアナウンサーでさえヘーキで「熱い戦い」を「厚い戦い」のように発音します。つまり「LHHHHHH」というふうにいわゆる平板アクセントにしちゃうんですね。
 ほかによく聞く例としては、「熱い思い」「熱い声援」「熱い気持ち」などがあります。これらも全部「厚い〜」に聞こえる。ただし、「熱い思い」の「思い」は中高型(LHL)なので全体としては「LHHLHL」となります。したがって他の語に見られる単純な平板化とは違う現象のようでもあります。
 一方で、同じ中高のアクセントを持つ「暑い」は、たとえば「暑い一日」が「厚い〜」風になったりすることはありません。また、意味的に誤解が生じやすい「あつい鉄板」なんかは、ちゃんと「熱い鉄板」と「厚い鉄板」を発音し分けていますよね。ほかの中高3拍の形容詞、たとえば「白い」などが「LHH」となることはないようですから、これは実に不思議な現象です。
 いろいろ聞いてみますと、気にならないという方の方が多いようですけど、ま、いちおうアクセント史を専門で勉強した者からしますと、どうも気持ち悪くてしかたないんですよねえ。皆さんどうですか?
 今日の「プロフェッショナル仕事の流儀」にも出てくる出てくる。ナレーターの橋本さとしさんが「厚い素人魂」「厚い注目」「厚い出会い」、住吉アナが「厚い社長」…NHK的にはこれでいいんでしょうか。まあ、「〜的には」なんてヘーキで書いてる国語のセンセイに、そんなことを言う権利ありませんけどね(笑)。
 言葉は生き物でどんどん変化するのは当然ですし、特にアクセントはですね、これは勉強するほどよくわかるんですけど、とにかく常に変化している。文法や音韻や語形や語彙なんかよりずっと変わりやすい。一番変わりやすいんですね。また、地域差も非常に大きい。しかし、いちおうNHKさんにはちゃんとしてもらいたいなあ。
 でも、こういう逆のこともあるんですよ。NHKのアクセント辞典に則っていると、たとえば、インターネットを表す「ネット」は頭高に発音しなければなりません。すなわち「HLL」となるわけです。そうすると逆に私たちの感覚とずれてしまう。もろ「網」っていうふうにとらえちゃいますよね。
 これは現代(若者)語の特徴であるカタカナ語の平板化との兼ね合いなんですよね。「クラブ」とか「ショップ」とか「パンツ」とかね。アクセントによって意味の使い分けをしているということで言えば「ドライバー」なんかはもうそれぞれのアクセントで発音されているようですが。揺れている過渡期のものとしては「ブログ」とかね。そうそう、若者の間では「ギター」とか「ビデオ」なんかも平板化してます。私はちょっと抵抗ありますけど。とにかく身近になると平板化するんですよ。特に外来語は。そう考えると、肝心の「テレビ」が全く平板化の兆しすら感じられないのは面白いですね。なんでだろ。
 あと、「を」の発音についてとか、いろいろあるんですが、またいつか。
 あ、今思ったんですけど、タイトルにした「厚い思い」ってもしかして「厚意」っていう意味だったら正しいのかな。なんだかわからなくなっちゃった。まあ、なんとなく通じればいいのか、素人どうしにおいては。

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2008.02.18

『イングランド、我が祖国〜パーセルの生涯』(英チャンネル4)

England, My England - The Story of Henry Purcell
England_my_england_purcell 先日のトキワ荘の青春と同じビデオに録画されていたもの。10年以上ぶりに観ました。ちなみにあと2本映画が入ってました。「Undo」と「ロマンス」…なんだか独身時代が懐かしいな(笑)。
 さて、このテレビ映画ご存知ですか?イギリス・バロックの天才作曲家、私も大好きなヘンリー・パーセルの生涯を描いた作品です。全編に彼の音楽が鳴り続け、まるでそれ自体がオペラのような作りになっています。たぶん96年にNHKで放映されたものだと思います。
 パーセルの生涯を描くということは、彼の仕えたチャールズ2世やメアリー女王、そして当時の複雑なイギリスの状況を描くことになります。ある意味そちらの方がメインと言えるかもしれません。私は世界史、特に英国史には全く暗いので、どの程度歴史的に正しい脚本になっているかわかりませんが、全体的に皮肉をこめた諧謔的な明るさと、死への暗さのようなコントラストが感じ取られ、そういう意味でもバロック的と言えるような気がしました。意識したのかな。
 そして、なんと言っても見ものなのは、衣装やセットの豪華さですね。けっこうお金かかってると思いますよ。また、「観る」という意味では当時のダンス・シーンや楽団の演奏シーンですね。かなりリアルです。
 それもそのはず。音楽はかのジョン・エリオット・ガーディナーが担当してるんです。ですから、オケは当然イングリッシュ・バロック・ソロイスツ、合唱はモンテベルディ合唱団です。そして、小編成の合奏(ガンバ・コンソートなど)はフレット・ワークです。
 当時、この番組のサントラ盤CDが発売されたようですね。ガーディナーもかなり本気で取り組んだようです。現代のバロックの名手たちが、ちゃんとカツラをかぶって演奏しているっていうのもなかなかいいですね。私もこれからの演奏会はこれで行こうかな。なにしろ今スキンヘッドなので、あまりに非バロック的、非ヨーロッパ的、非キリスト教です(笑)。
 ああ、そうそうネットで検索したら、こんな素晴らしい曲目リストを作ってくれた方がいらっしゃいました。GJ!ほかにはほとんど記事がないので、あんまり観た人がいないのかなあ。日本ではもちろんDVDとかになってませんし。ちなみに本国では昨年ようやくDVD化されたようです。
 あまりに音楽が素晴らしいので、ついついストーリーに没入できなくなってしまうんですが、ちょっと冷静に観ますと、なんともこの時代のイングランドというのも大変だなあと思いますね。フランスやオランダとは仲が悪そうだし、国内では疫病や火事や陰謀や新教旧教の争いやら、内憂外患も内憂外患。鎖国してた当時の日本はまあ平和だわな。
 ところで、というか、肝腎のパーセルについてですけど、やっぱり天才ですね。ある意味では彼もバッハと同様に「パーセル」というジャンルを作ってしまったのかもしれません。倍くらい長生きしてくれればなあ。いったいどういう音楽を作ったことか…。モーツァルトと同様に早く大成しすぎたんでしょうかね。天才のサガでしょうか。
 エンドクレジットの中に「ウェンディー・カーロス」の名前があったので、「え?」と思って見直してみたら、どうも、現代にもパーセルは生き続けているということを言いたかったようですね。つまり、「時計じかけのオレンジ」におけるシンセサイザー版「メアリー女王のための葬送行進曲」のことですね。なるほど、たしかに。

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2008.02.17

スノーブレード(ソフトブーツ仕様)

Fujiten01 久しぶりにスキーに行きました。私自身3年ぶりくらいかな。子どもたちは初体験です。やっと家族全員で行けるようになりました。
 考えてみれば、スキー場までウチから車で7分ですからね。行かなきゃもったいない。あんまり近くにあるのでいつでも行けると思うと行かないんですよね。そうそう、以前、歩いて行ったこともあります。到着した時には疲れ果ててましたが。
 私、実はスキーには数々のトラウマがありまして(生徒たちの間では有名な笑い話がたくさん…)、もう一生やらん!と決めていたんですけど、10年前の大雪の時(一晩で1.5m積もった)、山の中のウチでは車(ジムニー!)が全く使い物にならず、しかたなく新雪に腰まで埋まりながら徒歩で3.5kmほど下ったんです。もうホントに途中で遭難しそうでした。まじで眠くなった。3時間くらいかかりました。もっとかな。まいりました。で、これはたまらん。もうスキーで通勤するしかないと思い、帰りにスポーツ用品店に寄って一番小さいスキーをスキーをください!って言ったんです。それがサロモンのスノーブレードの最初期型だったんですね。
Fujiten02 それを背負ってまた数時間歩いてウチに帰りました。そして、その晩少し家の前で練習したんですが、なにしろただでさえスキーが苦手なのに、妙に短い(90センチ)板だし、ストックはないと来ましたから、なんだかうまく行かない。見てた人には「狂牛病の牛」と言われる始末(笑)。それでも仕方がないので翌朝は3.5kmの新雪林間コースを下ったんです。
 そしたら、まあ、やっぱり人間は追いつめられると強いですね。その全く整備されてない林間コースを下るうちにコツがつかめちゃったわけです。それからすっかりスノーブレードにはまっちゃいましてね、毎週末生徒と滑りに行ってました、当時は。長女が生まれた日の前夜もナイターで4時間ほど滑っていたので、カミさんの腰をさすりながら眠いこと眠いこと…辛かったっす(笑)。
 さて、そんなわけでもう10年もこの板を使っています。例えば今日なんかこんな板の人は私だけでしたよ。だからある意味目立つ。
 この板が出て以来、いわゆるファンスキー(今ではスキーボード)が大流行しましてね、ボードほどではないにせよ、けっこうたくさんのファンスキーヤーを見かけるようになりました。もちろん今日も全体の2%くらいはいました。でも、私のようにソフトブーツという人はいません。
 ソフトブーツだと実に快適なんですよ。だって、家の玄関からソフトブーツを履いて、そして車を運転してスキー場まで7分、あと小さな板をかかえて行くだけでいいんですから。スキーのハードブーツみたいに歩きにくくないし、ボードや普通のスキーみたいに荷物がでかくない。楽ちんですよ。私のような無精者には最適です。もちろんストックもいりませんし。
 これだけ短いとですね、技術的にはスケートに近いんですよね。だから私でもすぐできるようになった。スケートはそこそこ滑れましたから。それに気づいたら簡単だった。スキーだと思ってたら狂牛病になっちゃった。
Fujiten03 で、これですと、ただ滑るだけじゃなくて、スピンしたりバックで滑ったりスケーティングしながら滑ったり、いろいろできるじゃないですか。もう若くないのでジャンプとかしませんけどね。短いのでそれほどスピードも出ませんから安心ですし。左の写真は、調子に乗って一番下までバックで下りようとして見事にコケたところです。まあご愛嬌ということで。
 ただ、この頃のスノーブレードはビンディングにリリース機能がないので、派手に転ぶと足首を複雑骨折する可能性が高いそうです。私は今のところそういうことはありませんけど。
 もうソフトブーツ用のスキーボードは売ってないようなので、これをずっと使い続けるしかありませんね。それにしてもこんなに便利なものがなんでなくなっちゃったんでしょう。たぶん、ソフトだと足首がフニャフニャなので踏ん張りがきかないんでしょうね。私は比べたことがないので、こんなもんだと思って滑ってますけどね。たしかに30度以上の斜面だとうまくエッジを立てられず必ずコロコロと雪だるまになりますね。ですから、そういうところには行きません。もう若くないので緩斜面をゆっくり、で満足です。

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2008.02.16

『漫画に愛を叫んだ男たち』 長谷邦夫 (清流出版)

4860290755 昨日の続き。「トキワ荘の青春」を観てからこの本を読むと、また感慨もひとしおです。
 この本は友人に借りて一度読んでいたんですが、もう一度読んでみたら、今度はかなり泣けました。前回はなんとなく(一級)資料として読んだっていう感じだったんですね。いや、資料としてもこれはすごいですよ。
 長谷さんは、いわゆるトキワ荘通い組で、住人というわけではありません。しかし、赤塚不二夫のプレーンとして、ゴーストライターとして、それ以前に無二の親友としてほとんど半生をともにしていた人ですからね、客観的かつ濃〜く彼らを描写しています。
 感心するのは、とにかくものすごい記憶量だということです。脚色の部分がどの程度あるかわかりませんが、私なんて10年前のことでもこんなによく覚えてないっす。あと、赤塚不二夫以外にもものすごい人脈をお持ちだということ。漫画界のみならず、SF界、映画界、ジャズ界などなど、なんか昭和を象徴するすさまじい面々と行動を共にしています。出てくる名前だけでもウォ〜っていう感じですよ(特にタモリ登場のくだりは圧巻)。まあ、当時は才能が才能を呼び、ジャンルを越えて一つのエネルギーの塊が出来ていたようですけどね。
 そういう強烈な昭和へのノスタルジーというのも感じます。自分の少年時代と重ねての感慨というのもあります。でもなあ、やっぱり、寺田ヒロオの切なさかなあ。
 この本によれば、寺田ヒロオは「トキワ荘の青春」に描かれた通り、優しく面倒見のよい人だったようです。新漫画党の党首だったというだけでなく、いろいろな意味で多くの天才たちの拠り所になっていたんですね。彼が彼らを支えた、生かした、導いたと言えるかもしれない。彼が手塚治虫以降の漫画文化を生んだ、いや育てたという感じすらする。孤独な天才たちの親代わりみたいにね。たぶん兄貴以上の役割でしょう。
 そんな彼は、トキワ荘を出たのち、華やかに活躍を続ける子どもたちと微妙に距離を取ります。そして、漫画界、いやマンガ界に違和感を感じながらコツコツと地味な仕事を続けます。昨日も書きましたが、トキワ荘解体に際しての同荘会にも彼だけは参加しませんでした。そこに集まった、立派に成長した天才たちが、のちに寺さんの死を知った時の衝撃はどれほどのものだったでしょう。酒浸りの末の衰弱死…。
 そんな寺田ヒロオの生と死が、長谷さんの気持ちを動かしたのかもしれませんね。ある意味この本を書くきっかけになったとも言える。長谷さんは、寺田ヒロオと同様に酒に依存する赤塚の姿を見て、彼との別れを決意します。
 この本には赤塚不二夫の意外な一面が描かれています。それを書くための本とも言えるかもしれません。豪放磊落で楽天的で行動的で社交的だと思われがちな赤塚に潜む弱さと孤独…。もうそれだけでも切ないですよ。挫折、成功、栄光、凋落、逃避、友情、裏切り、家庭、芸術…天才たちほど、自らの人生に翻弄されるものです。自らの天才性に照射される自らの欠落部分。まさに「天才バカボン」ですね。自己矛盾こそ最も残酷な刃(やいば)となります。
 私は漫画やマンガ、そして今どきのコミックにははなはだ疎い人間なので、あんまり偉そうことは言えませんけど、それでもなあ、やっぱり人間の、特に表現する人間の、大衆に愛される人間の切なさは感じますよ。まさに、予想外・不随意に対する詠嘆・嘆息…「もののあはれ」だなあ。究極の「もののあはれ」はですねえ、こうした自分に対する「もののあはれ」なんですよね。だって、自分こそが(プラス方向にもマイナス方向にも)不随意な存在(「もの」)であると気づかされるわけですから。
 酒ってそういう「もののあはれ」を一瞬忘れさせてくれる魔法の薬みたいなものなんですね。あくまで一瞬ですが。と言いつつ今呑んでいます。今日は自分のと言うより、寺田ヒロオの「もののあはれ」に乾杯かなあ…なんか切ない酒です。

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2008.02.15

『トキワ荘の青春』 市川準監督作品

Akatuka0027 いい映画でした。しみじみ。あったかくも切ない。久々に静かに「日本映画」を鑑賞。
 昨年の9月、本当に偶然ですね、たまたま車を停めた町を散歩していてある路地を曲がったら「トキワ荘跡」に出くわしました。トキワ荘がどこにあったかなんて全く頭の中にありませんでしたから、それはビックリしましたよ。その時、この映画の録画がウチにあるな、帰ったら観よう、と思ったんですが、なかなかこういう静かな映画を観れるチャンスがない。子どもがギャーとか言ってる中ではなかなか…。
 そこでマイナス15℃にもなろうかという早朝4時に起きて観るしかありません。これならさすがに静かですね。
 う〜ん、いいなあ。この空気感いいなあ。特にストーリーがあるわけではない。いろいろな日常をつないでいるだけとも言える。それがある意味ではドキュメンタリー風でもあって、こちらの気持ちがそこの時代、場にすぅっと入っていく。
 皆さん淡々と演技していて、セリフも聞き取りにくいくらいボソボソしています。しかし、それがまたリアル感を増す要因になっている。市川準作品はそういう傾向がありますけど、それはある意味「言葉」に頼らない表現ということでしょう。実際、私たちの生活や記憶の、その「時」と「場」には、発せられた「言葉」というのは少ないものです。
Tanjo05 この映画はいわゆる「トキワ荘伝説」の数々とは違った視点による作品です。トキワ荘伝説のそうそうたるメンバーの中でも、決して主役とは言えなかった寺田ヒロオが、この映画では主役になっているのです。たしか、トキワ荘が取り壊される時でしたか、NHKの番組か何かで当時のメンバーが現地に集まった時にも、彼は参加しなかったんですよね。そういう複雑な気持ちがこの映画には満ちています。
 現実でも他の主役級のメンバーは皆「寺さん」をほめています。年長であり、面倒見がよく、優しく、正直で、漫画にもまっすぐな寺さんを、みんな尊敬していた。しかし、他の後輩たちが時流に乗って売れ出したのに、寺田はいつまでも古典的な少年漫画にこだわり、なかなか売れません。そして、彼はトキワ荘を出ます。
 「青春」という言葉に潜む残酷さといいますかね。切なさといいますかね。夢に満ち、同じ志に満ちた友情が微妙な形で崩れて行く。そこにはかない恋心やはかない命もかかわり、そして別れへ。
 これはある意味ではステロタイプの青春像なのかもしれません。形やレベルは違っても、私たち大人の全てが通ってきた道かもしれませんね。そういう共感も含めて、実にやるせない映画でした。
 この名作が、今DVDにもならず、ほとんど観ることが叶わなくなっているというのは実に残念なことですね。私の記憶では、赤塚不二夫を筆頭にトキワ荘メンバーからの評判も良かった(たぶん)。少なくとも銀河テレビ小説「まんが道」よりは味わい深いと思うんですが…。
 キャスティング的に、今だからこそ面白いのは、生瀬勝久や阿部サダヲの若かりし頃ですかね。あと原一男監督が編集者役で出ています。
 以下にスタッフ・キャストのデータを転載しておきます。

監督 市川準 (1996年)
脚本 市川準 鈴木秀幸 森川孝治
原案協力 『トキワ荘の時代』梶井純、『まんが道』藤子不二雄A、 『トキワ荘青春日記』藤子不二雄A、『まんがのカンヅメ』丸山昭、『トキワ荘の青春物語』手塚治虫他、『トキワ荘の青春』石ノ森章太郎

配役    
寺田ヒオロ  本木雅弘
安孫子素雄  鈴木卓爾
藤本弘     阿部サダヲ
石森章太郎  さとうこうじ
赤塚不二夫  大森嘉之
森安直哉  古田新太
鈴木伸一  生瀬勝久
角田次郎  翁華栄
水野英子  松梨智子
手塚治虫  北村想
石森の姉  安部聡子
つげ義春  土屋良太
棚下照生  柳ユーレイ
編集者・丸山  きたろう
藤本の母   桃井かおり
寺田の兄  時任三郎
学童社編集長・加藤  原一男
学童社編集者・本多  向井潤一
学童社事務員  広岡由里子
娼婦  内田春菊

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2008.02.14

『日本進化論―二〇二〇年に向けて』 出井伸之 (幻冬舎新書)

34498042 カミさんが、新しい総合格闘技イベント「DREAM」に興奮しています。私はプロレス派です。というわけで、元ソニーのCEO出井さんのこの本を読んでいろいろ考えました。そのこころは…。
 書かれたのが昨年の上半期ですので、サブプライムローン問題から生じたアメリカ経済の停滞や金融不安が起こる前っていうことですかね、「世界同時好況」を実感できない日本というような書き出しになっています。
 で、楽観的に日本のポテンシャルをとらえ、「競争」ではなく「共創」資本主義によって日本は進化(深化)するという結論に至っています。
 途中、金融資本主義やネットワーク社会についての解説、そして各分野の未来予測のようなものが書かれていましたが、特に目新しいものや画期的なものはなかったと思います。案外普通だなと。
 「共創」資本主義というのも、別に新しい提案ではなくて、昔ながらの日本的経営を言い換えたもののように感じました。
 というわけで、あんまり得るところがなかった本ではありましたが、それは逆に考えれば、やっぱりそういう当たり前なことしかないんだな、こういうカリスマ的な経済人も我々庶民と同じようなことしか考えられないんだな、ということでもあります。
 それは結局自分自身の幸福が基本になっているからです。もっと言ってしまえば、みんな居心地いい環境を保ちつつお金がほしいということですよね。それは出井さんのようなお金持ちでも、私たちのような貧乏人でも同じだということです。自分に関する目的は「お金」、他者に関する目的は「自分に害を及ぼさない」です。それが普通ですね。
 その二つの目的(願望)は別に矛盾するものではありません。私は経済の本質や本義はその両者のバランスを取ることだと考えているんですが、今の「競争」資本主義ではなかなかそれが両立しません。理由は簡単でして「競争」だからです。いや、「競争」しかないからです。
 ここでまたバカみたいなたとえをしてみます。冒頭に書いたヤツです。
 「競争」は総合格闘技?「共創」はプロレス?…実はそんなに単純ではない…。
 面白いもので、プロレスから総合へ世の中の興味が動いたのは、いわゆる小泉改革に沿ったものだったんですね。説明するまでもないと思いますけど、日本伝統の演劇的慣れ合い世界から、アメリカ的なガチンコ世界に変ったということです。もちろん、高度成長期から長期安定期の日本は前者がうまく回転していました。よってプロレスも全盛でしたね。
 ガチンコは勝ち組と負け組を作ります。プロレスにもいちおう勝ち負けはありますが、その意味は全く違います。負けは「勝ち」ではありませんが、「価値」にはなりえます。小橋とのチョップ合戦に負けた健介元彌に負けた鈴木復帰戦で敗れた小橋の例を挙げるまでもありません。
 つまり互いに技術や精神を「競争」してしのぎを削っても、結果として「共創」になることもあるんです。「競争」と「共創」は相反するものではなく、実は共存可能なんですね。
 話を経済に戻します。「競争」しつつ「共創」できる経済システムっていうのはあるんでしょうか。私はあると思いますよ。いつかも書きましたが、それが第三の経済学と言われる「仏教経済学」なんです。
 つまり、「競争」を「修行」ととらえるんですよ。プロレスラーのように、訓練して自らを鍛えるとともに、相手を活かす方法を学ぶんです。「利他」「布施」の精神ですよ。つまりそれこそが結果として「共創」になる。
 いかに自らの「勝ちたい願望」を抑えるか。そこんとこで「競争」するんです。心のレベルでの「競争」ですね。相手に勝たせる強い心を身につける。リアルに言ってしまえば、「お金」をいかに「いらない」と思えるか。最低限の「願望成就」で満足するということです。そうすることによって、結果として自らの価値も上がる。相手を活かして自分も活きる。これこそ「仏教経済学」だと思いますよ。
 なんて、ずいぶん話がぶっ飛んでますが、実はまじめな話なんです。プロレスと仏教と経済を結びつける人もそうそういないと思いますが、私はまじめにそう考えてるんですよ。いくらカリスマ出井さんと言えども、これは思いつかないでしょう(笑)。
 と、これ以上妄想が暴走するとかえって危険なのでこのへんで終わりにしておきます。
 ところで、カミさんは異論があるようです。いや、彼女は実はプロレス派なんですよ。殺伐としがちな、そして弱肉強食で使い捨てにもなりがちな総合格闘技の世界で、一人仏陀として奮闘する(?)桜庭和志の信者だということです。なるほどね。それならいいや。

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2008.02.13

音楽バラエティー「スイングはお好き」 (NHK蔵出しエンターテインメント)

8301 帰宅してふとテレビをつけたら…お〜、これは!いきなりジミー原田のドラムと歌だあ!!カッコいい!!
 松田聖子の時もそうでしたが、この番組って突然観るのが一番いいですね。いきなりタイムマシンで連れてかれちゃうのが快感です。
 今日のタイムマシンは1983年12月3日に飛びました。この時オレ、何やってたかなあ。大学1年かな(笑)。さすがにリアルタイムでは観てないなあ。
 それにしてもこの番組はすごいですねえ。いったいどういう企画だったんでしょうか。
 日本ジャズ界の大御所が勢ぞろいかと思ったら、なんとメインは松坂慶子さんではないですか!!!
 あれ?松坂慶子ってジャズシンガーだったの?愛の水中花じゃないの?
 面白いのはですねえ、そのシロウト松坂慶子さんがにわかレッスンを受けているシーンがちゃんとドキュメントされてるんですよ。それがなんともNHKらしい。教えているのは、服部克久さん、マーサ三宅さんら。松坂さんはこの時たぶん31歳ですが、まだ独身。清純かつ実直なイメージでおじさま方に大人気でしたね。慶子ちゃんが一生懸命ジャズやタップに挑戦!って感じが萌えを誘います。
8303 結局、番組全体の半分以上の曲を堂々と日本語で歌い上げています。ダンスもお見事。レオタード姿も立派です(笑)。で、本家の皆さんは案外楽しそうに彼女を支えています。その本家の皆さんは以下のようなそうそうたる方々です。曲目の一部もどうぞ。

阿川泰子、アンリ菅野、鹿内孝、マーサ三宅、タイム・ファイブ、EVE、ジミー原田とオールドボーイズ、服部克久、原信夫とシャープス&フラッツ、水野照也とロイヤル・デュークスほか
曲目:「WHEN YOU'RE SMILING」「MY BLUE HEAVEN」「DINAH」「SOMEONE TO WATCH OVER ME」「SINGIN' IN THE RAIN」「SING SING SING」「SWEET JENNIE LEE」ほか

 普通ジャズの方々ってシロウトがにわかで参加するのをよく思わないんですよね。でも、ここは松坂慶子さんのキャラというか人格のおかげでしょう。とっても和やかな雰囲気になってます。それどころか、服部さんや原さんなんか、それこそ「萌え〜」って感じで鼻の下長くしてます(たぶん…笑)。
8302 私が松坂さん以外で心に残ったのは、そうですねえ、皆さんお上手なのは当り前ですが、やっぱりタイム・ファイブの完璧なコーラスですかねえ。某ゴスペラーズや某EXILEなんかはぜひとも見習っていただきたいっす。
 あと、けっこう新鮮だったのは水野照也とロイヤル・デュークスのサックス・アンサンブルですねえ。ああいうサックスの音色って久々に聴いた気がしました。なんとも哀愁漂い、過剰な感じもしますが、なぜか下品ではないという、日本的なサックスの音色であります。古き佳き昭和の香りがしますねえ。
 というわけで、いきなりタイムマシンで昭和に飛びまして、とってもいい気分になりました。
 そうそう、考えてみますと、松坂慶子さんと言えばいろいろと騒動にもなった旦那さまの件がありますね。ジャズ・ギタリストの方と結婚されたんでした。もうこの頃からジャズがお好きだったのか、あるいはこの番組を機にジャズ界にお近づきになったのか…。

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2008.02.12

『右翼と左翼』 浅羽通明 (幻冬舎新書)

34498000 さて昨日、紀元節…いやいや建国記念の日にちなんで読んでみたこの本。結局ナンダコリャの過剰さに寄り切られ、昨日の記事の座を奪われてしまいました。ま、右も左もあの楳図かずお先生の赤と白には叶わなかったってことでしょうか(笑)。
 ところで、左は「赤」っていう感じですけど、右は何色なんですか?やっぱり緑なんでしょうかね。飛行機って右翼は赤いランプ、左翼は緑のランプですよね、たしか。
 と、冗談はさておきまして、昨日も「日本人は案外中庸が苦手」みたいなことを書きましたけど、私たちって特にまじめなことになりますと中庸のないデジタル思考になりがちですよね。私のいる教育界なんてのも、まあ形だけはまじめなところですから、すぐに「ゆとり」だ「つめこみ」だって両翼のはじっこを行ったり来たりします。えっと、今度は「つめこみ」でしたっけ。はいはいって感じです。
 で、政治はおそらく一番まじめぶらなければならないステージですから、それはついつい「右」か「左」かという二元論に陥りやすい。つまり、まじめなことは難しいので、なるべくわかりやすくする必要があるんでしょうね。そうしないと、みんながまじめなことに取り組まなくなる。取り組まなくなっちゃうよりは、あっちとこっちで行ったり来たり、あるいはケンカしてる方がいいということです。
 これはいつかも書いた「政治と文学」とか「政治の演劇性」とつながることだと思います。
 で、それらの記事でも作家や役者として評価され、またこの本でも取り上げられている小泉さんなんかも、一見「右」という感じがしながら、実際にはけっこう玉虫色だったとも言えます。格差を容認し市場主義にまかせる自由という意味では「右」ですが、官から民へという面では「左」のようにも見えます。アメリカ追随や靖国問題では「右」らしさを発揮してますが、保守的な自民党をぶっこわす改革という意味では「左」のイメージもなくもない。
 と、あれほどわかりやすい人でもこんな感じですから、たとえば自分は右なのか左なのかと問われると、私はですねえ、いちおう「ソフトな右」って言ってますけど、平和主義という面では左寄りだって言われる時もありますし、いやいや日教組の方々には完全に「右」だと思われてるし(彼らはデジタル思考の権化みたいなもんですから気にしませんが)、極右の人と論議する時は「あれ?自分って左だっけ」と思うこともしばしば、親父と喧嘩になる時は正真正銘右の人だし(笑)…てな具合で非常に難しい。
 そう、しょせん「過剰なデジタル思考」なんてものは「虚構」や「演劇」や「プロレス」や「音楽」や「ゲージツ」での話であってですね、現実の社会や政治や自分や他者はそんなに一刀両断に二分できるものじゃないんですね。そういう本来のカオスがどうしてきれいさっぱり「赤白」じゃなくて「赤緑」じゃなくて「右左」に分かれちゃったのか、世界史的にどうなのか、日本にはどういう特殊事情があったのかという、ある意味非常にわかりにくい現実を非常にわかりやすく解説してくれたのが、この本というわけです。
 今までも右と左を対比して説明する、すなわちデジタル的な解説書はいくつもありましたが、こうして一つ上の次元から虚構としての全体像を見たものって案外なかった。第一、自分たちもそういう視点から自分を見ることなく、どうしても楽でファッショナブルな(あるいはファッショな)デジタルの潮流に乗ってしまうことが多かったじゃないですか。ですから、この本は、私たちデジタル庶民にもわかりやすい、そして最終的により高度な視座を与えてくれるという意味で名著だと思います。名著なんて堅苦しい言葉はふさわしくないかも。浅羽さんGJ!!って感じかな。
 今、正直右も左も形骸化してるじゃないですか。そういう中でどうして「ネトウヨ(ネット右翼)」なんかが出てくるのか。自分もどちらかというとそういうのを面白がっている不逞の輩なんですが、まあネットという無責任な場での空いばりって感じは分かりますよ。なんとなく右翼の方が勇ましいじゃないですか。実際にはそんなことできないけれど、やれやれ〜!みたいなの。今のネトウヨには勇気は必要ないんですよ。だからそういうのを見て右傾化してるとか心配しなくていいんですよ。彼ら(私も)「たくましからず」の「不逞」ですから(笑)。
 それにしても、人間というのは、二つに分けたがりますね。「松田聖子と中森明菜」とか(笑)。あなたはどっち派?って帯に書いてありましたし。そう、つまり人間は徒党を組みたがると。で、グループを作るにはとりあえず全体を二分するしかないですよね。全体のことはグループとはいいませんし、一つしかないものをテリトリーとかカテゴリーとかジャンルとかパーティーとか言えませんからね。そして、どちらかに属し、もう一方を批判し攻撃することによって、自らのグループの結束を強化し、そして自分たちのアイデンティティーを堅固にして、自らの安全や安心を確保する。基本、我々はさびしがり屋で、自信もないのに強がり、そのくせ依存心も強い存在ですからね。
 この本でも、結論としては、そういう二元論的な思考の危険性を説いているような気がしました。私もこれからはカオスや多様性に耐えられる強さを身につけたいですね。目標はやっぱり全てを併呑した出口王仁三郎かなあ。あれは一般人には行きすぎかな。

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2008.02.11

『日本美ナンダコリャこれくしょん』(NHK BSハイビジョン)

0211_004 面白かった。たしかに「なんだこりゃ」という作品のオンパレードでした。知ってた作品が約半数かなあ。世の中にはまだまだ知らない「トンデモ」たちがたくさんいるんですね。それだけでもうれしくなりました。
 今日は紀元節…いや建国記念の日ということで、なんとなくNHKは古来の日本という雰囲気の番組を多く放送しており、ワタクシとしては非常に楽しい一日でした。ここ数日体調も悪くて、そのおかげですっかりぐーたらモード。今日も一日NHKBS-hiをつけたままで本ばかり読んでました。「右翼と左翼」とかね(笑…明日にでも記事にしますか)。
 で、日本の絶景とか観ながら、やっぱり日本はいいなあ、落ち着いていて簡素で謙虚で繊細で…とか思っていたら、就寝前のとどめがこれですからねえ。やりますなあ、NHK!
 番組の内容は公式ホームページなどでご確認ください。『奇想天外日本にはこんな美の世界があった▽再発見されたスゴイ絵・びっくり建築・不思議な工芸』と銘打って、「過剰」の美を集めてランキングするという番組でした。
 実際登場したのは、えっと全部で21もあるのか。全部紹介するのは面倒ですね(ヒマがあったらあとで全部書き出します)。有名どころでは伊藤若冲とか金閣寺とか日光東照宮とか…と書きますとそれこそコテコテな感じですけど、実際には私の知らなかったものも多く、実に興味深い内容になっていました。
 あと、それぞれの撰者や番付編成者たちですね。スタジオには美術史家の山下裕二さん、サックスプレイヤーの坂田明さん、日活ロマンポルノの(!)美保純さん、そして司会としていとうせいこうさんと神田愛花アナ、ビデオで登場したのが、荒俣宏さん、假屋崎省吾さん、宇崎竜童さん、横尾忠則さん、武田双雲さん、藤森照信さん、う〜ん濃いなあ。おっと一番の「ナンダコリャ」を忘れてた。
Umezu そう、今日の過剰日本美「作品」の中で、私が横綱にランキングしたのは、ジャジャーン!
 「楳図かずお」
 そうです。彼自身が最高のナンダコリャ作品ですよ!彼は岸田劉生の「野童女」すなわち麗子像の一つをリコメンドしたんですけどね、それを紹介するアナタの方がずっと「ナンダコリャ!」ですよ。素晴らしい。まさに過剰の美(?)です。これを理解できず訴訟を起こしちゃう人もいるんだからなあ。野暮を理解しないなんて野暮すぎますよ。粋って野暮を否定するんじゃないんですよ。私だったら、自分の家の隣に紅白の家が建ったら喜んじゃいますけどね(笑)。
 というわけで、なんだかよく分からんことになってしまいましたが、とにかく面白かった。なんていうのかな、一つの視点として、たとえば「待庵」みたいな異常な簡素さというのも、ある意味「過剰」であるということ、これは発見でした。
 そういう「過剰さ」、すなわちそれは「演劇性」「工芸性」「わざとらしさ」なんかにつながっていくんだと思うんですよね。そこに現実以上の現実を見るといいますか、現実を超えた真理を見るというか、いやそんな高邁なものじゃなくて、ウソを楽しむといいますかね、そういうのが今世界で評価されているアニメとかマンガとかメイドとかヴィジュアル系とかにつながってるんでしょう。
 日本人はそれを「カワイイ」とか「きもカワイイ」とか言って片づけちゃいます。つまり私の言う「をかし=萌え」でどんどん処理しちゃうんですね。外国ではそれを「芸術」にまで高めてくれる。それがまた逆輸入されて、今度は「職人芸」や「もののあはれ」にまで昇華されていく。昔からそういうパターンががありますね。
 NHKさんには、ぜひこの企画をレギュラー化してもらいたいですね。「裏・美の壺」とか。まあ考えようによっては「美の壺」で紹介されてるのも、ある意味そういう「過剰さ」が生み出したものたちとも言えますね。日本って案外「中庸」がないんですね。今日読んだ「右翼と左翼」からもそんなことを感じました。面白い紀元節…いや建国記念の日でした。

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2008.02.10

桜庭和志 in 羽後町

080210 カミさんが「ぜひお願いします」とのことなので、おススメします。
 桜庭和志選手がカミさんの生まれ故郷秋田県の羽後町にやってきました。で、人間バーベキューになりました。
 実はですね、もう地元関係者の方から情報が入っていたんですよ。桜庭選手のサイトでは「秋田にロケに行きました」みたいな感じだったんで、「どこに行ったんだろうね。故郷の潟上市かな…」とか言ってたんですが、なんとまあ、よりによって地味に羽後町だったということです。
 え〜、皆さんのご存知だと思いますが日テレに「ザ!鉄腕!DASH!!」という番組がありますよね。その中の企画コーナーに「 ご当地腕比べ 町の大将に挑む! 」というのがありまして、それでいくつかの町の妙な競技に桜庭と松岡が挑戦するという内容だったんですね。そのアヤシイ競技として羽後町の「人間バーベキュー」がなぜか選ばれたと。
 で、町の大将である佐々木さん(55歳)に二人が挑みまして、結果としては松岡は負け、桜庭は勝ちました。さすがに日本を代表する世界的アスリートですからね、一般人、それも55歳の方に負けるわけにはいかないでしょう。
 人間バーベキューとはご覧のように回転するドラム缶にどれだけ長くしがみついていられるかという、なんとも力の入る、しかし立派な脱力系の競技なんですね。使っていいのはタオル一本だけ。まあ、握力や引きつける力、相手をはさむ脚力なんかでは、これは当然専門家である桜庭が有利ですよねえ。さらにいつもの経験からか、上半身裸、すなわち試合姿で臨んだのが功を奏したようです。相手が回転するドラム缶であれ、とにかく相手の動きに合わせ、密着していくという意味では、まあいつもの仕事みたいなもんでしょうね。
 なんだか他にもくだらない競技がいろいろありまして、ああ芸人さんは大変だなあ、これを1日でロケしちゃったりするんだよな、とか思いながら観ていたんですけど、ああそう言えば桜庭は芸人さんじゃなかった、格闘家なんだよな(笑)。ま、半分芸人さんみたいなものですし、そこが彼の魅力なんですが。
 というわけで、カミさんは大好きな桜庭選手が自分の故郷に行ったというだけでも大興奮でした。この情報が入ってきた日は、実は1月24日だったんですね。その日はいろいろとビックリなことが続きました。こちらで紹介した写真集「鎌鼬」の衝撃的な事実(私たちにとってね)、ちょうど24日にNHKで細江英公さんが澁澤龍彦を語る番組をやってまして、この写真集についても触れていました。そしてカミさんのもとに友人から桜庭が羽後町に来たという内容のハガキが着いたのもこの日。広い羽後町の中でも、「鎌鼬」を撮影した田代天神堂から1キロほど山道を登った北沢山牧場にも行ったらしいとのことで、なんでこの広い日本の中、ある意味非常に地味な地域限定で、私たちにとって信じられないようなことが起きるのか、ホントに不思議でなりませんでした。
Gyuukon ちなみになんで人間バーベキューかと言いますと、羽後町は「羽後牛」という高級黒毛和牛で有名なところでして、それにちなんで「うご牛(ベゴ)まつり」というのをやっているらしい。こちらでその様子をご覧下さい。実においしそうですが、なんとも渋いっすね。「みちのく絶叫大会」「懐メロコンサート」…こちらもいい味出してます。
 ちなみに上の写真は数年前に北沢山牧場で撮ったものです。すごいでしょ。「牛魂」!!ですよ。強そうです。いや鎮魂なのかなあ。どういう意図でこの碑を建てたのでしょうね。
 今、カミさんの実家はお隣の市へ引っ越してしまったのですが、カミさんにとってはもちろん、私にとっても「ふるさと…美しい日本の原風景」という感じのする素晴らしい町です。以前紹介したこちらの写真もぜひご覧下さい。

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2008.02.09

『僕の叔父さん 網野善彦』 中沢新一 (集英社新書)

08720269 ここ数年で読んだ本の中でも抜群の面白さ。何ヶ所も犬の耳を折りつつ最後のページに達した私は、思わずもう一度冒頭に帰ってページを繰りだしました。
 好き嫌いははっきりするでしょうね。網野さん中沢さんの共振の中に身を委ねられるか。私はお二人が親戚だとか、山梨出身だとか知る前から、思いっきり共振してしまったクチですので(それでずいぶん苦労させられましたが…笑)、それはそれは楽しかった。
 そう、これは単なる読み物ではないし、追悼文でもありません。完全に「物語」です。ここまで自分が物語の世界に引き込まれたのは、本当に久しぶりでした。内容とは別に、いや最終的には内容に思いっきり関係するんですが、とにかくこれは「モノガタリ」だ。あとがきで中沢さん自身もこう語っています。

『この文章を私は、死者たちといっしょになって書いたような気がしてしようがない。時間と空間が序列をなくして、記憶の破片が自由に飛び交うようになっていた。そして死者たちが自分の思いを、私の書いている文章をとおして、滔々と語り出したのである』

 文章がいい。いつもの中沢さんとは違う。ある意味中沢臭が希薄で、それがいい。いったい誰が書いたんだろう。ああ偉大な小説家たちはこうやって「モノ」を「カタ」ったんだな。こういう境地にならねば、こういう文章は書けないものです。
 この本で繰りかえされるキーワード「トランセンデンタル」…「経験に先んじている」こと。ワタクシ的に言えば、「経験」とは「コト」であって、それ以前の何かこそ「モノ」です。そうした私たちの意識や経験や発想、すなわち理論や科学や政治や経済といったコトの外に無限に広がっているであろうモノの力で何かを語る。あるいはそのモノ世界を少しだけコト世界に引き込んで、つまり「コトノハ」によって私たちの「経験」とすることこそ「物語」の実相であり本質なのでしょう。
 私には、もちろん甲州の人間としての共感というのもあります。甲州弁でお二人が会話するのを読んで、本当に今まで以上に彼らが身近に感じられました。私は外から甲州にやってきたマレビトではありますが、しかしそのルーツにはそれこそ私の経験や知識以前の何か(モノ)があるのは確かです。非常民、非農業民、山の民、縄文、アジール、富士山、なまよみ…私を惹きつけ、そしてここに住まうことを強制した力が、この甲州にはある。その何か(モノ)こそ、私と網野さん、そして中沢さんとの共振の根底にある。その存在だけは確かな気がするんです。
 今考えてみますと、網野さんの孤高の歴史学は、まさに学会において被差別的存在でしたし、忌み物でした。そして、ある意味アジール的であり、無縁的でありました。彼は歴史市民ではなく歴史的民衆でした。つまり、網野さんは、外側に広がる(しかし「コト」世界からするとある場所に幽閉されているように見える)「モノ」の世界を感受し表現したとも言えます。それはまさに「モノガタリ」的行為であり、そういう意味では、網野さんは立派な物語る者だったわけです。
 「叔父と甥」という特別な関係。しかし、考えてみればお二人は血のつながりがあるわけではなく、網野さんは婚姻という儀式によって中沢家にやってきたマレビトであったわけです。そこに生まれた生命力あふれる知的反応。知的であり、聖的である(時に性的である)、その刺激的な関係から生まれる新しい物語に私は多いに興奮しました。
 私は自他ともに認めるトンデモ人間であり、彼らのようなアカデミックな根性のない人間なのですが、ここ甲州の端(しかし宇宙の中心でもある富士山!)に住むようになった意味をこれからも考え続け、そして「何物か」と自分なりの方法でじっくりつきあっていきたいと思っています。

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2008.02.08

メイド@NHKニュース7〜MADニュース

 今日はカゼ気味で調子悪かったんですけど、面白いことがいろいろありました。地元ならではのラッキーな話が盛りだくさん。私の憧れる大好きな尊敬する人たち、太宰治、吉井和哉さん、フジファブリックの志村正彦くん関係の話がドドドーッと矢継ぎ早に!まじ富士北麓に住んでて良かったなあ…。
 と、感慨にふけりつつ、しかし体調不良でもあったので、早めに帰宅させていただきました。よって久々にウチでNHK7時のニュースを見ました。そしたら…グォ〜、ドゥワァ〜!?
Hstgb いきなりメイドさんですかぁ!皆さんご覧になりましたか?この瞬間を。私は呆気にとられて箸を落としてしまいましたよ。
 番組も後半にさしかかった頃です。NHKの今年度予算・事業計画を国会に提出という、ある意味非常に重要かつお堅い、そして様々な問題もはらむ内容ですよね。最近不祥事が続きいろいろと風当たりも強いじゃないですか。視聴者に対してもかなりナイーヴになるべきニュースです。
 で、その事業計画の中で、テレビ国際放送において「日本文化を世界に紹介する外国人向け番組の充実を図る」というのがありまして、たしかにそのように阿部渉アナが原稿を読んだんですね。で、私もなるほどそれはいいことだと思い、皿の上のカキフライからテレビの画面に目を移したところ…!!
 おいおい、日本文化ってメイドさんかよ〜(笑)。オタク文化かいな。うひょ〜。阿部さんのまじめな声とまじめなテロップの背後になんだか4人のメイドさんが…。それもなんだか微妙な…いやいや、これはすごい。
 久々にウケましたよ。7時のニュースでこんだけ笑わせていただいたのは何年ぶりでしょうか。いやはや。
 日本文化ってこういうことだったんだ。たしかに今さら浮世絵とか歌舞伎とか寿司っていうワケにはいかないでしょうね。冷静に考えて今外国人が興味を持っている日本文化って、いわゆるオタク文化ですからね。かといって、特定のアニメやマンガ、あるいはヴィジュアル系バンド、デザイナーさんなんかを登場させるわけにはいきません。そうすると、不特定性が高く、しかし(ルーツは外国にありながら)今や日本を代表する文化に育ったメイドさんを登場させるしかないですよね。うん、実は実にNHK的な選択であったと。なるほど。何も間違っていない(笑)。
 さて、そんなNHKの7時のニュースですが、今や昔の面影がなくなりつつあります。演出的にも、たとえば番組の入りのところなんか、いきなり映像と「コピー」という、民放のニュース(ほとんどワイドショー)の二番煎じみたいなことになってますし、正直阿部渉アナにも伝統的な重みが感じられない(いい人なんですが)。また、今日も全開でしたが、気象情報の半井小絵たんですね、彼女の存在もオヤジに媚びを売っているようであんまり好きになれません(いい人なんですが)。とにかく、私としては昔のように演出なしの硬派直球勝負をしてもらいたいんですね。ま、時代の流れというのはわかりますが、下手な演出をするとだいたい中途半端になってしまって、結局痛いことになるんですよ。そういう意味ではNEO Expressの方が王道を行ってたりして(笑)。
 ところで、そういう往年のNHKニュースに関連して面白いものを思い出したので紹介しておきます。
 そう、昔のNHKニュースって恐かったじゃないですか。子どもにとって。内容も難しい大人の世界だし、無表情で淡々としてるんで。父親が一生懸命見てるのを「何が面白いんだろう」って不思議に思ってました。
 特にAMラジオのニュースは恐かった。あの音質。あのアナウンス。夜中とか偶然聞いちゃうと、なんだか寝られなくなっちゃうほど。音楽とかもないし、とにかく暗黒というか空白というかに、淡々と冷静に点綴されていくおぞましい殺人事件や交通事故。恐かったなあ。
 で、そういう古き良きNHKワールドを逆手にとってパロディー化したものに、いわゆる「MADニュース」というものがあります。まじめで恐いものが、アレンジを変えるだけでこんなに面白くなってしまう。まじめほど面白いということはいろいろなジャンルであることですけど、その一番いい例がこれじゃないですかね。
 昔から、和歌の上の句と下の句をランダムに入れ替えたりする遊びがあったと聞きます。和歌ではありませんが、この前ウチの子の「アンパンマンかるた」で同じような遊びをしてみました。
 「いつもばたばたバタコさん」「ちんちん上手なめいけんチーズ」
 これらを入れ替えます。そうすると「いつもばたばためいけんチーズ」は全然面白くないんですが、「ちんちん上手なバタコさん」はなぜか面白い。こういうふうにアレンジメントにはセンスが要求されるんですね。で、YouTubeにあったMADニュースで面白かったものを紹介します。お気に召しましたら、関連ビデオも観てみてください。そのへんのセンスの具合で、面白いものもあれば痛いものもあります。私も今度やってみますね。



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2008.02.07

グラッペリのバッハ

J53_4 ちょっと面白い音源を見つけましたので紹介します。この前はグールドのバッハを紹介しましたね。あれはすごかった。こちらは楽しいですよ。あのヴァイオリンの神ステファン・グラッペリの弾くバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲第1楽章です。
 もちろん彼のことですからフツーの演奏ではありませんよ。楽しいというかカッコいいことになっています。
 この録音は1937年のものですから、もう70年以上前ですか。これは著作権の問題もクリアー…なのかな。とにかくアップします。まずは聴いてみてくださいな。

テイク1

テイク2

 伴奏は、これまた神中の神、ジャンゴ・ラインハルトですよ〜!もう一人のヴァイオリンはエディー・サウスという黒人ヴァイオリニストです。
 どうですか。カッコいいでしょ。テイク1では比較的普通に弾いてますけど、テイク2はかなりやりたい放題になってますね。きっとニコニコしながらアドリブ合戦を繰り広げているんでしょう。
 おそらく誰かが「この曲かっこいいからやってみようか」って言い出して、ちょっと録音してみたっていう感じなんでしょう。この時、ジャンゴは27歳、グラッペリは29歳、エディーは33歳。若さ溢れる演奏ですね。
 この演奏を聴いて思ったんですけど、この私も弾き古した曲、実はジプシーっぽいんですね。半音階的進行のフーガのテーマや、10度の跳躍を含むソロのテーマなんか、実はちょっとエキゾチックだったんだ。確かに第3楽章も変だよな。
 バッハの家系ってハンガリーかどこかがルーツではなかったかな。そういう血が流れてるのかもしれませんね。バッハと言いますと、ドイツやヨーロッパを代表する硬い音楽を連想してしまいますが、ちょっと違う観点から見ますと、彼の音楽がある意味特殊で、バロックというより「バッハ」というジャンルを形成していることがわかりますよね。だって変だもん。変だから当時受け入れられなかったんでしょう。当時はやったフランス趣味なんかからしますと、かなりダサい音楽だとも言えますよね。
 そんなことを考えさせられるグラッペリたちのバッハでありました。私、今年はバッハを違う目で見てみようかな、なんて考えています。また何か変なものを探してみます。

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2008.02.06

『もののあはれ知らせ顔なるもの』(枕草子)

Relayphp 古文の演習で、本居宣長の「紫文要領」をやりました。「もののあはれ」を知るためには「源氏物語」を読めというやつです。私は何度も繰り返しているように、彼の「もののあはれ論」にはどうも賛同できない立場の人間なのですが、ある意味彼の入れ込みようというか原理主義的な感じがけっこう面白くて、たまに読みたくなりますね。
 さて、それでぜひとも宣長さんに説明してもらいたいことがあります。彼のよくわからんが高尚なる「もののあはれ」解釈でですねえ、これを納得できるように解説してもらいたいんですよ。枕草子の「もののあはれ知らせ顔なるもの」という段です。
 実は世の「もののあはれ」研究家にとって、かの清少納言さんが書き残したこの短い一文が、とっても厄介なもののようなんです。さすが清少納言さんって感じですね。いいもの残してくれました。
 こういう文です。とっても短いですよ。

 もののあはれ知らせ顔なるもの。はな垂り、間もなうかみつつものいふ声。眉抜く。
(…ハナをたらし、しょっちゅうかみながらわけのわからないことを言う声。眉を抜くシーン)

 これだけです。平安文学のテーマの根幹をなすべき、いや日本人のアイデンティティーの核心たるべき「もののあはれ」をいかにも伝えるものとして、これですからね。やっぱり清少納言、いいなあ。好きだなあ。
 これについて、いろんな偉い人がいろいろ言っているかといいますと、意外にそうでもなくて、みんななんとなく避けている雰囲気すらある。だって、いきなり「洟をかむ」話なんで。妙に卑近な感じですよね。ズルズル、チーン(なんでチーンっていうのかな)が「もののあはれ」だって。ははは。そして、いきなり一言「眉抜く」と。
 これはですねえ、私の「モノ・コト論」流「もののあはれ」をもってすれば、全然不思議でも妙でもないんですけど、宣長さんみたいにあんまり「もののあはれ」を持ち上げちゃいますと、そりゃあ大変ですよね。無視したくなる気持ちもわかります。
 で、ワタクシ流では「もののあはれ」とは「不随意・変化・無常・未知・自己の外部に対する詠嘆」ですから、これはですねえ、前半のハナの話はどちらかというと悲哀を含む「ああ」、眉の話は感慨を含む「ああ」ですね。で、両方とも時の流れとそれに伴う変化に対する「ああ」であるという共通点がある。
 つまり、ハナを垂らしているのは老人ですね。ハナを垂らすということ自体もかっこわるいことだったと思いますが、間断なくチーンとやるのもやっぱりちょっとね。ついでにかみながらモゴモゴ聞き取りにくいことを言う。そう、「もの言ふ」の「もの」にも注意すべきですよ。そのへんも皆さんいいかげんにすませすぎです。
 外見や世間体を気にしていた常識的な人も、いつからかそういうことを全然気にしなくなるっていうのは、現代でもありますよね。自分もそうなりつつありますし。特に女性の場合はこっちがガッカリしてしまうことも多い。あんなキレイだった人も…みたいな(笑)。それですよ。この「もののあはれ」は。人間もしょせん「モノ」ですからね。
 一方の「眉抜く」、これは逆に女性のたしなみ(オシャレ…今の女子高生もけっこう抜きますね)でしたから、つまり外見や世間体を気にする常識的な大人の女性の象徴的行動です。ですから、ここでは、前半との対照というのもあると思いますが、子どもだと思っていた女の子がいつのまにか眉を抜くようになった、あるいはこうして眉を抜いている女性らしい女性も、いつかははな垂れ老婆になってしまうっていう感慨なんでしょう。まあ、後の解釈だと「悲哀」感が強くなりますけどね。とにかく、自分たち人間の力ではどうしようもない時間の流れを感じているんです。
 例の大野晋センセーは、このへんの「もの」を「避けられない運命」「動かしがたいこと」として説明しておられるのですが、私の解釈とは似て非なるもの、ちょっと角度が違いますね。私は私流の方が、他の「もの」についても上手に説明できると思っているんですけど。ま、向こうは大変な大家ですし、私は論文を書く気など毛頭ない小人中の小人ですので、世間的な勝負はもうついてるようなもんです。というか戦う気もありませんし。
 私はこうしてブログという無責任と自己顕示欲と自己満足が許されるメディアにさりげなく書き残しておきます。気が向いた時にね。もしかして数百年後に評価されるかもしれませんし(笑)。言葉すなわち「コト」は情報であり、それは「モノ」とは違って不変なはずですので。では。

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2008.02.05

『松田聖子と中森明菜』 中川右介 (幻冬舎新書)

34498063 読みごたえあり。これは基本文献になりうる。オタク第一世代おそるべし。中川さんはクラシックジャーナルの編集長であり、「カラヤンとフルトヴェングラー」の著者でもあります。
 昨日はある意味「ジャンボ鶴田と天龍源一郎」という、70年代80年代を代表する対照的・相照的な二人を紹介しましたね。今日は「松田聖子と中森明菜」です。今こうしてみると分かります。私がどちらかというと「ジャンボ」や「聖子」のように、根っからの天才、余裕をもって明るく自己の世界を展開した人物が好きだったと。若い頃ね。いや、今でもそうなのかな。ややアマノジャク的な嗜好を持ち、判官贔屓が激しいと思っていた自分の意外な一面…。
 この本、タイトルは「聖子と明菜」となっていますが、ほとんどが聖子に関する記述でした。その前段となる山口百恵に関する記述の方が中森明菜よりも多いくらい。つまり明菜ファンにとってはなんだか悔しい内容になっている。天龍的に言えば「ふざけるな!この野郎!」って感じかな(笑)。私は聖子派ですので全然気になりませんでしたが。
 まあ、結局、聖子と明菜を同じボリュームで語ることが不可能だということでしょう。鶴田は亡くなって歩みを止めてしまいましたからね、天龍はその後の十何年かでなんとか追いついた。だから今なら同列に語れるでしょうけど、そうですねえ、明菜が聖子と同じ紙幅を占めるには、聖子が今すぐに引退して、明菜が90歳くらいまで唄い続ける必要があるのでは。
 さてさて、オタク第一世代を自称する中川さん、この本ではまさにオタク的な仕事をしています。いや、おそらくオタク的な仕事の一部を見せてくれているだけだと思います。とにかく資料集めですよ。徹底的に当時の資料を集めて時系列順に並べて見せる。松田聖子を軸としてその周辺に他のアイドルたちの動向を絡めて、一大絵巻…ではなく一大年表を見せてくれるという感じです。基本的に解釈や意味付けは最低限になっていて、事実を並べることに徹している。
 それが私にはよかった。私、このブログでもかなり我流の松田聖子論を展開してます(芸能・アイドル カテゴリー参照)。私の場合は正直オタクになりきれない人間なので、ちゃんと資料とか読んでないんですね。実は曲も全部聴いてない。それで先走って意味付けや解釈をしてしまってるんです。恥ずかしながら(ま、毎日の記事全部そんな感じですけど)。ですから、たとえその一部であっても、こうして資料を並べて見せてもらえるということは、非常に有難いことなんです。企画展を観るような感じかな。初めて知るばかりで興奮しました。
 やっぱりオタクの基本は「情報」ですね。つまり「モノ」より「コト」。いわゆる「物(グッズ)」もオタク的には「コト」ですからね。たとえばフィギュアとかDVDとか本とかはワタクシ的には情報=「コト」に分類されます。
 で、もちろん話はアイドル歌手自身のみならず、プロデューサーや作家陣たちにも及ぶわけで、ある意味そのあたりの闘い、歌手という商品やメディアを通じての影の部分でのガチンコ勝負が面白かったかもしれませんね。あらためてものすごい才能が彼女たちに集結していたことを確認。
 最終的に興味深かったのは、虚構に徹したように見える松田聖子が、生身で勝負しようとした中森明菜に勝ってしまう点です。これはまあプロレスが総合格闘技に勝つという読み替えですますこともできますけど、よくよく考えてみると、どうも事態はそう単純ではないようなんですね。つまり、聖子の方が、実のところ自己決定権を持っている、ある意味ではずっと主体性を持っていると。虚構や演劇、形式やイメージの中にこそ、彼女らしさが表れている。生身で(本名で)勝負しようとした中森明菜の方が、結果として自己を表現しきれなかった。松田聖子というメディアを通じて蒲池法子が徹底的にそして自然体で蒲池法子を生きた(生きている)のとは対照的に。
 私たちがやっている歌謡曲バンドでは、なんだかんだこの二人が軸になってます。音楽的なコントラスト(メジャーとマイナー、音域や固有の音のピッチの高低)を実際に演奏しながら感じていましたけど、こうして基本文献を読んでみますと、またまたその意味が深く深く感じられますね。勉強になりました。結局は自己プロデュース力かなあ。歌手もレスラーも、そして先生も…(笑)。
 
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2008.02.04

『七勝八敗で生きよ』 天龍源一郎 (東邦出版)

80940663 この本は中年プロレスファンなら必読でしょう。今まで読んだプロレス本の中で最も面白かったかも。
 天龍、今年で58歳になります。しかし、彼は第一線も第一線。バチバチの重い試合から、ハッスルまでどこへ行っても第一線のプロレスを見せてくれています。私はジャンボ鶴田派でしたので、全日時代はあんまり天龍が好きではなかったのですが、今ではもうすっかり「神」的存在ですね。60くらい現役をやったレスラーはたくさんいますけど、彼のようにほとんど衰えを感じさせない、どころか、ある意味どんどん芸風が増えて進化していく人は初めてだと思います。
 なにしろ長年第一線でやってきた人です。戦った選手だけでもものすごい数。それもいろいろな団体を渡り歩きましたから、たとえば馬場と猪木両方からピンフォールを奪うなんていう、それこそとんでもないこともやり遂げた人なわけですね。そういう経験をもとに、とにかくこの本にはいろいろなレスラーが登場します。往年の名レスラーから最近の若者まで。彼らについての天龍しか知り得ない情報や感想というのがプロレスファンにはたまりません。うわぁそうだったんだ…みたいな。
 さて、そんな中、最も多く登場するのが、私の敬愛するジャンボ鶴田です。そして、そのほとんどが「いいかげん」「手抜き」「冷めている」「利己主義」「気づかいがない」など、批判的な記述です。これは予想していたとはいえ、なかなか刺激的でした。もちろん、ジャンボの天才的な才能や圧倒的な強さを認めた上で、いやそれを認めていたからでしょうね、とにかく辛辣な発言が続発です。
 しかし、彼が結局言っているように、天龍の素晴らしいレスラー人生はそうしたジャンボがいたから、ジャンボに対する不満があったから生まれたわけです。天龍の人生の基本姿勢は「ふざけるな!この野郎!」だそうですが、特にそうした奮起を促してしまったのが、あのジャンボののらりくらりした仕事ぶりだったわけです。
 ジャンボは「明日があるさ」、天龍は「今日を生きろ」。ジャンボは明日のために今日深酒をしない、天龍は一生懸命飲む。ジャンボは明日のために摂生をし十年後の人生設計までしている、天龍は明日のことは考えない、「今日を一生懸命やったら嫌でも明日がついてくる」と考える。ここまで対照的な二人なんですね。しかし、そのコントラストがあったからこそ、結果として天龍も鶴田も輝いたわけです。天龍は眠れる獅子ジャンボの目を覚まさせてしまったわけですから。本人たちはもちろん、お客さん(もちろん私も)それはそれは得をしたと思いますよ。
 しかし、なんとも皮肉なことといいますか、因果やなあと思うのは、綿密に人生設計をし明日のために今日がまんしていた鶴田が夭逝し、今日のことだけを考えて生きている天龍がいまだに現役バリバリだという事実。う〜む、これについては本当にいろいろと考えてしまいましたよ。ま、自分はどっちでもない、明日のことも考えないし、今日も一生懸命生きてないダメ人間なんですが…。なんて、実はそのタイプが一番長生きしたりしてね。
 ところで、この本の中で最も衝撃的だったのは、力士時代の「かわいがり」に関する記述です。最近もこれに関する「事件」が報道されていますが、これを読みますと、たしかにこれは死ぬなと思います。そしてそれがそれこそ日常的伝統的に行われている(いた)わけです。そういう意味ではこれは立派な暴露本だと思いますよ。さりげなく「あれで一人前になった」とか書いてますが、たしかに普通の世界からすればありえない暴行です。今回報道されている内容よりもずっとひどい。驚きました。
 「七勝八敗で生きよ」か。これは深い言葉ですね。最初は意味がわかりませんでした。負け越しでいいってことか?と思いました。しかし、最後まで読みますとその深い意味に心動かされます。まずは、プロレスが「勝敗」ではないという点。本書でも何度も繰りかえされるとおり、お客さん不在で勝っても全く意味がないわけです。逆にお客さんの心に残る負け方負けっぷりこそプロレスの醍醐味とも言えます。だから天龍がHGに負けてもいい世界なんですね。小橋が復帰戦でフォールされてもいいんです。プロレスファンは成熟した大人ですから(笑)。
 馬場さんの至言「全てのものを超えたものがプロレス」…これを体験し諦観し体現しているのが天龍源一郎という素晴らしいプロレスラーであることを確認しました。そして、やっぱり私はプロレスが、プロレス的世界が好きだなと再確認しました。単純な勝ち負けではない。相手の選手やお客さんあっての自分。一昨日の記事ではありませんが、私はそこに仏教的な世界観を見ているのでした。まじめに。やっぱり馬場さんはお釈迦様なのか!?(笑)

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2008.02.03

漢字検定準1級受検

070203 今日は大雪。写真は湖面に雪の積もった精進湖です。ここを過ぎて、私は市川大門へ向かいました。
 漢字検定準1級に挑戦したんです。昨年の悲惨な1級玉砕(こちらの記事参照)ですっかり意気消沈し、もう漢検は絶対受けない!と宣言したワタクシではありましたが、人間というのはバカなもので、少し時間が経ちますとね、すっかりいやな思い出を忘れ、さらには変な欲気まで出てくるものでして、ああ、こうして歴史上の戦争なんかも繰りかえされたんだろうなあ、なんて思われるんですね。で、結局受けちゃった。
 昨年の漢検初受験は1級113点という惨憺たる結果であったわけですが、今度はですね、多少は反省したのかな…というか学習したのかな、準1級を受けることにいたしました。しかし、やはりバカな私のこと、ただ受検するというのではつまらない、いやただの受検じゃ勉強しない、ということでしょう、クラスの生徒に「満点で合格してやる!」「準1級なんて1級に比べたら超簡単だぜ!」「満点取れなかったらROYCEの生チョコを全員に買ってやる!」と宣言しちゃいました。
 そして、今日さっそくROYCEを注文いたしました(笑)。はっきり言ってなめてました準1級。1級が1ヶ月で113点でしたから、まあ準1級なら2週間くらいで満点取れるなと踏んでいた私が甘かった。
 いや、そう判断したのにはちゃんとした(?)理由があったんです。昨年の1級の記事に書きましたけど、1級はですね、もうほとんど言葉による暴力、私へのいじめでありました。去年はこんなふうに書いてますね。
「…全く知らない人、数千人の名前を1ヶ月で覚えろって感じですかね。その人の人となりとか分かってれば、それなりに覚えられますけど、国籍も性別も年齢も性格も全然わからない人たちなんですよ」
 うん、これはなかなかいい比喩だ。ホントそんな感じでしたから。で、準1級ってのはですね、テキストや過去問を見ますと、とにかく全部一度は見たことがある字なんですよ。だから「近所の顔見知りの名前を全部覚える」程度の感覚だったわけです。去年に比べたら、これはもう正直楽勝だと思ってました。
 そしたら、それはやっぱり甘かった。近所の顔見知りでも、意外な一面があったり、裏の名前、あだ名とか芸名とか源氏名とかいろいろあるんですね。それも全部覚えなきゃいけなかった。今まで間違って覚えてた名前があったりしてね。あるいは似てる人を混同したり。さらに案外難敵だったのが四字熟語ですね。私もいちおう国語の先生ですからそういうのは得意なはずだったんですけど、9割がた初めて見るものばかり。全然余裕がありませんでした(ちなみに去年は四字熟語は最初から全部捨ててました…よってそこで30点の損失)。
 そうですねえ、自己採点では186くらいだと思います。たぶん細かいところのミスを引かれても合格はできると思うんですけどね。でも、賭けは負けです。男は言い訳しません!…なんて、実は大雪で中止にならないかなあ…なんてそれこそ高校生(小学生)みたいなこと考えてました(笑)。
 でも、たまにはこういう経験もいいですね。先生という仕事、生徒に言いたいことばかり言って、勉強させて、テストの結果に不機嫌になって、そういう一方的なことになりがちです。こうして自分が勉強してテストを受ける立場になりますと、いろいろと反省すべき点が見えてくると同時に、勉強の仕方、テストの受け方なんかで生徒に還元できる点が多々あることに気づきます。
 思わず苦笑したのは、生徒にいつも「問題をよく読め!バカなミスをするな!そういうことがちゃんと出来ないヤツは一流になれない!」みたいなこと言ってるんですが、自分も見直しでいくつかのバカなミスに気づきました。こりゃたしかに一流になれないわな。ま、そういうことを身をもって示しているのが「教師」という仕事なのかもしれませんがね(笑)。

追伸 結果187点でした。当然賭けには負けであります…orz。

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2008.02.02

『ブッダ―大人になる道』 アルボムッレ スマナサーラ (ちくまプリマー親書)

48068749 この本の紹介の前に、ハッとわかったことから。
 昨日の記事で紹介したグールドのバッハを聴きながら、一つ鮮明に腑に落ちたことがあったんです。それを教えてくれたのは、なんとお釈迦様でした!(笑)
 グールドって個性的だよなあ、唯一無二だよなあ、不二だよなあ…これってやっぱり個性なのかな…と考えていたんです。グールドって自分の個性を表現しようとして、こうなったのかなあ、なんか違うような気がするよなあって。
 そしたらお釈迦様がさっと入ってきて簡単なことを教えてくれたんです。いや、別にお釈迦様がここに現れたとかではなくて、お釈迦様が語ったこととグールドの音楽が突然リンクしたってことです。
 この素晴らしい音楽、真似のしようがない個性は、グールド自身の個性じゃないって。彼は自分の個性の表現としてバッハをハープシピアノで弾いたのではない。どちらかというと逆。
 バッハの音楽(ここでは楽譜です)と、ハープシピアノという楽器と、共演者と、テレビ番組という「場」と、とにかくいろいろな要因が重なって作用して、こういうグールドが立ち現れたと。枝葉を捨てて根幹の部分だけで言ってしまえば、バッハの(音楽の)個性がグールドというメディアを通じて立ち現れたと。
 そう思ったらすごくいろんなことがシンプルに見えてきました。そして自分もいろいろと楽になった。個性尊重とか、自己主張とか、自己表現とか、今まで考えあぐねてきたことが、実はあんまり意味がないということがわかって、ちょっと安心しました。
 イチローの番組を観た時に少し予感があったんです。あ、これはイチローの個性じゃないなって。でも、その時は、じゃあそれは何?という答えは出なかった。それが今日分かりました。もしかして「悟った」のか?(笑)
 実はこの本を読んだ影響が大だったんです。ということは、やっぱりブッダが教えてくれたっていうことですかね。ある意味こうして書いていることは、私をメディアとしてブッダ(の教え)が語っているとも言えますよね。
 つまりそういうことなんです。ブッダの語った「真理」。究極の真実。自分が「自分」だと思っているものは、実は「自分」ではない…無我。
 「苦しみ」は普遍であること。その原因が「自己への執着」であること。全てのものは「無常」であり、変化すること。全ては「因果法則」に則っていること。「苦悩」から脱するには、そうした真理を理解し、「自己」への執着を捨てる、すなわち「智慧」によるしかないこと。
 この本はそうしたブッダの教えの核心部分を、本当に分かり易く(中学生にも分かるように)語ってくれています。著者はスリランカ出身の僧侶、『般若心経は間違い?』でも紹介したアルボムッレ・スマナサーラさんです。
 この本は仏教の入門書として最高のものでしょう。こんな私にも本当によく理解できました。読みながら、「うんうん」と何度うなずいたことか。そう、実はブッダの語ったことは実にシンプルでブレがなく誰にも分かり易いことなんです。それを実際に優しく易しく書くというのは難しいものです。仏教は、勉強すればするほどに、余計な「知恵」ばっかり身について、その実体から遠くなりがちなんです。
 私はこの本で久々に仏教の本質の部分に立ち返ることができたわけです。それがものすごく気持ち良かった。ああ、これだ、これだ。いつも感じていたのに、自分ではうまく表現できなかったこと。そうだ、単にお釈迦様の言葉自身に帰れば良かったんだよなって。
 スマナサーラさんは、ブッダの言葉に基づいて、「生きていること」「心」とは何かというところまで語ってくれます。そして、実生活でこうして生きれば「楽」になるし「楽しい」よと、アドバイスしてくれるんです。若者相手に書いたつもりでしょうが、いえいえ、私にピッタリの内容でした。なんか、救われたような気がするなあ。
 それで、なぜかグールドを観ていて、この本の内容が思い出されたんです。そして「グールドの個性」だと思っていたものは「グールドの個性」ではなかったと気づいて、なんかすっきりしたわけですね。
 そして、自分の音楽や、仕事や、またこのブログにおける表現なんかについても、同様のことが理解された。そしたら、急に楽になったし、自身すら出てきたんですよ。お分かりになりますか?そんなこと皆さんとっくにお気づきなのかもしれませんね。私は遅ればせながら本日「プチ悟り」に至りました。なんか恥ずかしくなってきたな。ま、とにかくこの本とグールドのおかげです。感謝いたします。

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2008.02.01

グールドのカンタータ第54番 (バッハ)

54 お〜!これは!!見どころ聴きどころ満載の映像です。なんだか妙に感激してしまいました。グレン・グールドによるバッハのカンタータ54番です。1962年の映像。
 こういうのをこうして観ることができる時代になったんですね。やっぱり嬉しい。これって廃盤になった日本版LDの映像ですよね。超お宝だな、こりゃ。
 それにしても、すごい演奏ですね。もう解説は抜きです。とにかく観てください(DivXをご覧になれない方はプラグインをインストールしてください。あるいはYouTubeでどうぞ。画質音質とも劣りますが)。
 私は素晴らしいバッハだと思いますよ。バッハの音楽(最初の和音からして…)、グールドの指揮、そしてハープシピアノ(!)、オバーリンのカウンター・テナー…今では到底考えられません。

 どうですか?私最初は笑っちゃおうと思ったんですけど、全然笑えませんでした。泣いちゃいました(笑)。
 もちろん曲のすごさというのもあります。グールド自身が語っているように7度で始めるのは反則でしょう。その後もすごい和声が続きます。これは「罪」の象徴なのか、それとも「抗う」象徴なのか。まあとにかく人類が生んだ「すごい」音楽の一つであることは確か。
 グールドの指揮もハープシピアノも「なんじゃこりゃあ」ですよね。グールドがやれば何でも許されると私は思ってますが、このパフォーマンスは間違いなく「グールド」というジャンルを代表するものでしょう。神がかってます。最終楽章ではもう指揮するのを忘れてフーガを弾きまくってる(笑)。かっこいい!!バッハも実はこんな感じだったんじゃないですか?
 ラッセル・オバーリンのカウンター・テナーも、いわゆる今のカウンター・テナーとはずいぶん違いますがなかなかいいですよね。一部では伝説の…と言われてるようですけど、たしかにこの表現力と存在感はすごい。
 …と、「すごい」「すごい」を連発してますね、私。でも、ホントすごいとしかいいようがない。言葉で表せない名演だと思います。Stage6では、この映像をダウンロードできますのでぜひ御手元にお納め下さい。いつ消えちゃうかわかりませんからね。

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