夏目漱石『彼岸過迄』@センター試験
センター二日目の夜です。生徒たちは学校に集合して自己採点。まあそこそこの結果でしょう。安心しました。国語は案外取れてないのでちょっとがっかり。やっぱり漢文ができてないなあ。いちおう教えたことを駆使すれば出来るはずの問題だったんですけど、う〜ん、その「駆使」の部分をもうちょっとちゃんと教えなきゃダメだな。反省。
さて、その国語ですが、昨日は第1問の話をしました。今日は第2問についてちょっと。
漱石が出たんですよ。びっくりしました。しかし、おかげで読みやすかったかも。生徒たちもワケわからん感覚的な現代小説よりも良かったと言ってました。漱石って論理的ですからね。
作品は「彼岸過迄」。私もずいぶん前に読んだまま忘れていました。でも、出たところはなんか妙に印象に残っているところでしたね。いわゆる「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」のシーンです。別に好きではない女、どちらかというと一緒になりたくない女に関しても、そこに別の男の影がさすとなぜか妙な嫉妬心が湧くというやつです。
と言いますか、私の知る限りの漱石って案外これにこだわっている。「嫉妬心」、これは彼に言わせれば「愛情」の裏返し(裏打ち)なんですけど、彼は小説の中でその様々なパターンを試している感じがありますね。単純に男女の愛情を描くのではなく、逆説的に表現している。
正直教師なんかやってますとね、以前「蒲団」のところで書いたように、「存在の権利を失った嫉妬心」がふつふつとわいてくることもあるわけでして、そういう点では漱石に共感することもあるけれども、一方ではまた、そのふつふつを抑え込んで日常を生きる自分と照らして、おいおい漱石さんよ、いい歳していつまでもそんなことにこだわってらっしゃるな、とも言いたくなるわけですよ。なんかそう考えると漱石って年甲斐もなく青春してたオジサンだったような気もしてきます(ま、小説家、芸術家はそういうものなんでしょうけど)。
で、面白いのは、その嫉妬心が女性だけでなくいろいろな方面に向かったことでしょう。特に西洋文化に対する屈折した嫉妬心は面白い。イギリス留学ですっかり萎えて帰ってきた漱石。つまりハイカラな女にさんざん心奪われた末に、そいつに弄ばれて、さらにはずいぶんとこっぴどくバカにされたと。で、もうこんな女のことなんか知らねえやと言いつつ、いざ離れてみると…って感じですかね。いざ離れてみて「日本」というホームグラウンドに帰ってきたんですけど、世間はやっぱり西洋さんとイチャイチャしてる。それを見るにつけ、ふつふつと男の嫉妬心が…ということです。
この前女の嫉妬について書きましたね。女の嫉妬は女に向かうけれど、男の嫉妬はですねえ、まずは対象に向かうんじゃなくて関係に向かうんですよ。つまり三角形にね。三角形自体に向かう。
そしてそれぞれの頂点たる、まず敵である(べき)男に対してはコンプレックスという感情がわく。女は女に怒りや憎しみをぶつけますが、男は男に劣等感を抱く。「彼岸過迄」の「僕」も高木に異常なコンプレックスを抱いてますね。
女に対してはどうかといいますと、これは難しい。これはですねえ、そうした関係性への嫉妬の裏返しとして、違った意味の愛情が結露していくんですよね。実はここが男にとって一番辛いところです。望んでいない愛情ほど厄介なものはありませんから。
さらに困ったことに、三角形の最後の頂点である自分ですね、その自分に対してもある種の感情が爆縮していく。ブラックホールのごとく。ここんとこを漱石は描いたのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。もちろん、さっき書いたように、それは女に関することだけではありません。国家やら言語やら文化やら哲学やら文学やら…。
これについてはもっと語れるような気がしますけど、このへんでやめときます。と言いますか、大人な(?)私はそれに真面目に対峙してるヒマも根性もないので、それこそ漱石センセイにおまかせしますわ。
まあ、ここまでの機微を理解せよとは高校生には言えませんな。出題した大学の先生はきっと理解してると思いますけどね(笑)。
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コメント
お久しぶりです。
数年前にセンター試験・大村はま先生について、お相手いただいた者です。
現在は地方都市で小さな学習塾を相棒と二人でやっています。
易化傾向ではありますが、国語は思ったよりも取れていないようですね。
小説・漢文にやられたのみならず、意外なことに論説で失点する生徒もいたようです。
漢文版「トムとジェリー」から2年、問2Bと問5については選択肢のつくり方からして「お!本気だ!」と感じました。
本来これが普通のはずですが、印象としては「急激に難化」したかのように感じるのも致し方ないのかも。
漱石が出たのは私も驚きました。
やっと鷗外も出たし、永井荷風あたりかなと思っていたところ…。「新課程の二年目は漱石」というのは90年代の『道草』のときもそうだったはず。
振り返ると、三島由紀夫『剣』や、山田詠美『眠れる分度器』前半部のような「硬質な論理的叙述」がセンターの好み(?)で、高橋和己『悲の器』『我が心は石にあらず』などもありうるのかもしれません。
ご考察の「男の嫉妬は対象にではなく、関係に向かう」は「ウン」と膝を打つ思いです。
勝つことも負けることもあることを前もって覚悟し対処しようという気構えがあると、自然「嫉妬心」の対象は自分と他者との「関係性」に向きますよね。
「恨(ハン)」の文化とは異なる土壌が、我が日本人にはあるような気がします。
相変わらず唐突に大げさなことを書き連ねますが、御容赦ください(笑)。
投稿: いなかっぺ | 2008.01.22 06:13
いなかっぺさん、お久しぶりです。
ちょうど昨日、昔の記事を読んでいて、いなかっぺさんお元気かな?などと考えていた折でしたので、ビックリしました。
今年のセンターはようやく全体のバランスが良くなって(つまり古文が易しくなり、漢文が難しくなり)、昔のような不条理は感じなくなりましたね(笑)。
現代文も私にはなかなかの良問(答えがはっきりわかる)でした。
ウチの生徒たちは、現代文で90点以上稼いだのが多く、なんとか体裁を保った感じでしたが、やはり漢文で落としたのが残念でした。
古文は勉強している生徒なら普通に得点できましたね。
やってないヤツはやっぱりダメでした。
でも、以前のようなやってもやらなくてもワケわからん古文とは違いますよね。
やっと正常になってきたという感じです。
そうそう、
たしかに日本人は「恨」だけではないですね。
では何がそこにあるのか。
それが、最近私もテーマとして取り組んでいる「もののあはれ(不随意性に対する嘆息)」なのかもしれません。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.01.22 10:13
昔の受験参考書に『古文研究法』(小西甚一先生)がありました。
最近本棚から取り出して読み返すと、今の高校生にはやはり無茶な例題も多いなとは思います。
しかし、ふと、私はこの本の前書きと後書きに影響を受けて柄にもなく国文学科を専攻したような気さえしています。
「日本の古典には、いま若い人が情熱をもってよみふけることのできるような作品が、残念なことに、あまり多くはない。…だが、すこし人生の経験をつんで、社会の重要なしごとを受けもつころになると、どうしても日本の古典に帰らざるを得ない。また、そのころになると、古典の味がほんとうにわかってくる…『徒然草』に書いてあるようなことは、諸君をあまり同感させないだろう。しかし、二十年の後には、きっとうなずくにちがいない。同感できないものは、いま無理に同感するにはおよばない。それは、青春をゆがめるだけだから。しかし、青年期の感じ方が唯一のものだと思ってはいけない。・・・」
ひょっとしたら、「もののあはれ」のことかな…ご返信をいただいて、ぼんやり思いました。
高校を卒業した年に思い切り背伸びをして購入した『本居宣長』(小林秀雄)の最初のほうにも、小折口信夫氏が「宣長は源氏ですよ…」と述べたエピソードがありました。
また、寄らせてください。
お互いに、一人でも多くの生徒たちが上手く自らの道を切り開いてくれるといいですね。
投稿: いなかっぺ | 2008.01.23 07:47
いなかっぺさん、おはようございます。
『古文研究法』…私も全く同様、これを読んで国文学科に行く決心をしました(もともとは理系でした)。
これは本当に名著、聖書ですね、我々にとって。
そういえば最近手にしてないので、私も引っ張り出してきますね。
そう、今思えば、つまり二十年後になってみますと、たしかにそれは「もののあはれ」ですね。
納得です。
こういう本当に長期的な、人生をまたにかけた教育というのができればいいですね。
かといって、あんまり国文学科に進んでほしくないような気もしますが(笑)。
また、おいでください。いろいろ教えてください。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.01.24 06:28