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2008.01.06

『は』

Ha 合宿でなんとなく古事記関係の本を読んでいまして、昨日の「も」と、それから「は」という助詞について考えていたんですね。でも、どうもよく分からなかった。
 で、勉強の合間に家にパンツを取りに帰ったら、子どもたちがポケモンのビデオを観ておりまして、こんなセリフが聞こえてきました。愛すべき悪役ロケット団の二人のお決まりの口上です。
 「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情…(中略)…ラブリーチャーミーな敵役、ムサシ、コジロウ…」 
 この瞬間、あることに気づいたんですよ。とっても大切なこと。古事記につながること。そして、昨日のつまらぬ記事にもつながること。
 さっきのセリフ、潜在的には、「お前たち『は』何者だ?」という質問に対して、「(私たち『は』)ムサシ&コジロウです」と答えてるわけですね。それで気づいたんですよ。「は」の本質について。
 というわけで、今日は「は」という助詞について考えてみましょう。
 実はこの「は」は厄介ものでして、というか、なんだか厄介に考えられすぎているようでして、私はずいぶん前からその点に関して、違和感を抱いておりました。
 というのはですねえ、この助詞について考える時、「が」や「も」と並べて考えすぎる傾向があるんですよ。たとえば「『が』と『は』はどのように使い分けられているのか」とか「『は』と『も』は語法的に似ている部分が多く、双方とも係助詞や副助詞としてまとめられる」とかね。
 私からしますと、「は」は、「が」とも「も」ともかなり違っているように思われるのですが。で、今日は「は」についての私見を述べてみたいと思います(興味のない方すみませんね。いちおう私の専門分野なんで、ちょっと語らせてください)。
 さっきの、「は」と「が」の使い分け、これっていまだに誰もうまく説明できてないんですよね。偉い(賢い)人たちがいろんな説を出してますが、どうもしっくり来ない。そりゃあそうですよ。第一この二つを比べること自体間違っているんですから。だって、現代語の「が」は古来の日本語の「の」とか「こそ」とか「ぞ」とか「なむ」とか「は」とかの機能を、いつのまにかみんな身につけてしまっているんですから。一方の「は」はけっこう古態を保っていますので、そういう違う素性のものどうしを並べちゃいかんでしょ。総合格闘技の選手とボクシングの選手を同じリングで闘わせるようなものです。
 「も」の方も、昨日書いたように現代語ではだいぶ昔と違う機能を持ってしまっているので、「は」と一絡げにしてほしくない。
Locket では、私の考える「は」の本質とはなんでしょうか。実はそれをロケット団の二人が教えてくれたんですよ。サンキュー、ムサシ&コジロウ。
 そう、それは「質問をする」という本質です。
 言語というのは伝達を目的としています。ですから、必ず相手がいるわけでして、たとえばこうして書いている文章というのも、実は潜在的に会話形式になってるんですよ。文章にせよ、独白にせよ、一方的な語りにせよ、実は会話を仮想している。誰かに伝わるように表現するというには、必ずその誰かの心の中を忖度しながらことを進めねばならないわけですね。常に相手の質問(疑問)に答えるように表現していく必要がある。
 もちろん自問自答形式の文もありますよね。さっき私も使いました。しかし、いちいち一つ一つの文章に質問文を挿入するのは正直面倒です。そんな時、「は」が役立つんですよ。たとえばこういうことです。有名どころで行きますか。

・春はあけぼの…「春は(春と言えば)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「あけぼの!」
・たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり…「マッチョな武士の心をも慰めるのは(何)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「歌です!」
・吾輩は猫である…「あなたは(誰)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「(吾輩は)猫である!」
・名前はまだない…「名前は(何)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「まだない!」

 こんな感じです。「○○は╳╳」という表現の背後には、「○○は(いかに)?」という読者の質問が潜在してるんですね(あえてまとめちゃうなら「How about ○○?」って感じかな)。
 いわゆる「ウナギ文」でもそうです。「(あなたは)何になさいますか?」「オレはウナギ」。あるいは、うどん屋で店員が無言で立っていても、「オレはタヌキ」「オレはキツネ」「オレは月見」…というようなことがありうる。ちなみにこれらは(潜在的)質問に対する答えですから、現場でより簡略化するとしたら、「は」の前、つまり分かり切った質問の部分を省略するということになります。すなわち、それぞれ一言ずつ「タヌキ」「キツネ」「月見」という具合に。
 このように「○○は╳╳」という文は、その中に質問と答えを含んでいるのです。表現者の側の言いたいことは、実は「は」の後ろの部分だけで、前は誰かの質問だと考えるんです。
 2+3=5というのも、日本人は「にぃたすさん『は』ご」と読みます。これは「=」をはさんで左右がイコール、つまり等価であるという感じではなく、あくまでも左側が質問で「2+3は?」と聞かれているイメージがあるからではないでしょうか。そして、「5!」と答える。「春はあけぼの」や「オレはウナギ」というのもそれと同じ構造だという気がするんです。
 一方、「○○が╳╳」はちょっと複雑でして、「どちら様がタヌキですか(タヌキはどちら様ですか)?」と聞かれて、古語だったら「我なむ」「我なり」みたいに答えるところを現代語では「私がタヌキ」と言えてしまう(もちろん「タヌキは私」とか単に「私」とかも言えますが)。本来主格を表すだけでよかったはずの「が」が係助詞的な性質をも獲得してしまっているんですね。つまり質問文を内在することができてしまうんです(逆に言えば、古語における係助詞は「は」以外のものも質問を内在できるということです)。でも、本来の単なる叙述の流れをくむ「春が来た」みたいな文には、たとえば「何が来た?」のような質問文は内在しないのが普通です(ちなみに古文ではこういう場合「が」は使いません。「春来ぬ」とか「春来にけり」とか)。
 ついでに言うと、「にさんがろく」「さんしじゅうに」とか九九の暗記では「は」は使いません。これは質問と答えではなく、単なる暗記、事実の叙述に過ぎないからですね。
 「○○は╳╳」は質問と答えであり、答えにはブレがあってはいけませんから、「象は鼻が長い」とは言えても「象は鼻は長い」はちょっと変な感じがする。いろいろな動物の鼻について質問している中で、「じゃあ、象はどう?鼻はどうかな?」っていうシチュエーションもありえますが、やや無理があります。つまり、基本的には、答えに質問が入ってはいけないんですね。
 一方、「象が鼻は長い」とは言えないのは当然です。叙述に質問が入るのは変ですから。「象が鼻が長い」はありえます。それはさっき言ったように「が」に係助詞的な意味合いが含まれてしまったからです。つまり「鼻が長いのは何という動物?」という質問を内在できてしまうということです。そういう質問をされたら古文では「象なむ鼻長き」「象こそ鼻長けれ」、あるいは「(そは)象なり」と言うでしょう。たぶん。
 「誰が」「何が」とは言えても「誰は」「何は」とは言えないのも、「は」自体に質問・疑問のニュアンスがあるからでしょうね。How about who?/How about what?というのは変です。
 そうそう、古事記ではどんな具合かと言いますと(訓み下しの問題はありますけど)、こんなふうになっています。
 「天地初めて発はれし時に、高天原に成れる神の名は、天之御中主神」
 これはロケット団風に言いますと、「…神の名は?と聞かれれば、答えてやるのが世の情、天之御中主神!」ということになりますね。
 ついでにもう少し行きます。
 「次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此の三柱の神は(どういう神か?と聞かれれば、答えてやるのが世の情)並に独神と成り坐して、身を隠しき」
 こういう具合になっていきます。すごいですねえ。古代の神話「古事記」と現代の神話「ポケモン」のコラボレーション(笑)。たぶん世界初でしょうなあ。
 と、こういう新しい視点を持って、我々が書いている文を見直してみますと、全ての文が「は」系(質疑応答系)と「が」系(単純叙述系)に分類されることが分かってきます。それは、私たちが、相手の質問・疑問に答える形で述べる文と、一方的に自分の知っている情報を述べる文とを、うまいこと織り交ぜながら表現のタペストリーを作り上げていっていることを示しています。
 思い出してみますと、ウチの子どもなんかも幼い時、とにかく会話と言ったら「○○は?」という質問ばかりでした。たぶん彼女らは「は」は質問のための言葉だと思っていたことでしょう。そこにこそ「は」の本質があったのです。
 ただし、「姿は見えないが、声は聞こえる」のような「は」の用法については、昨日の「も」の用法と関連させて考えた方がいい。並べているけれども、やはり後者の方が言いたいことになるという意味で、「も」の効果的並列用法に近い。これは、質問の「は」とは本質的に違う「は」だということです。
 それに関して、辞書を見ていて気になったこと。古今集のこの和歌が例文として出ているんです。
 「秋は来ぬもみぢは宿に散りしきぬ道踏み分けて訪ふ人はなし」
 この三つの「は」をただ主題の提示、題目を示すとして「秋は来た。紅葉はわが家の庭に散り敷いた。道を踏み分けて訪れる人はいない」と訳してあるんです。これはひどいですね。これは、お題目の「は」ではなくて、効果的並列の「は」ですよね。「ちゃんと秋は来た。で、紅葉も散り敷いた。なのに誰も来ねえよ(悲しすぎる!)」っていうニュアンスなのに…。
 と、今日も思いつきをつらつらと書いてしまいました。読んでくれた方、ありがとうございました。では、仕事に復帰します(って今まで何やってたんだよ!?)。

 ps 気がついたら「春はあけぼの」について以前こちらに書いていました。「春はあけぼの」は「春はあけぼの」だって。

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コメント

率爾ながら一筆啓上。

「は」と「が」には切っても切れない関係があります。
「は」と「が」の定義は次の通りです。
  「は」は主題部を受けて叙述部につなぐ助詞。
  「が」は叙述部を受けて主題部につなぐ助詞。

主題とは質問の項目、叙述とは質問の答えに相当しますから、「は」の定義は了解していただけると思います。

「誰が」といえても、「誰は」とはいえません。
「誰が」の場合、「誰」を受けるのが「が」なので、「誰」は叙述部(質問の答)です。
「誰は」の場合、「誰」を受けるのは「は」なので、「誰」は主題部です。主題部が疑問詞では疑問文になりません。

以上から「が」の定義も了解していただけるのではないでしょうか。

文は主題部と叙述部だけから構成されますから、「は」も「が」もない日本語の文は存在しません(「も」でもよいが、この話は割愛)。

「は」も「が」ない文は、語り手が「言わなくても分るだろう」と思っているはずです。典型的なのは、
 昔、男ありけり。・・・男(が)いた。

なお、「は」と「が」は万葉集で普通に出てきます。
  信濃路は 今のはりみち かりばねに ・・・
  父母が 頭掻きなで さくあれて ・・・

                            草々
  

投稿: 赤井 新也 | 2009.04.22 23:45

赤井さん、コメントありがとうございます。
うん、なんとなく分かります。
ただ、自分の言語的実感とはちょっと違う感じがするんですね。
私は研究者ではないので、まずは実感から入ろうかと思っています。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2009.04.23 16:50

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