『物語の役割』 小川洋子 (ちくまプリマー新書)
特殊な「物語論」を展開しているワタクシですが、いちおう普通の物語論も勉強しています。と言いますか、「物語論」という言葉自体が一時期ずいぶん流行りまして、なんとなく独り歩きしてしまったというかですね、雰囲気論になってしまっていたと思うんです。
で、結果として、その「雰囲気」こそが「物語」の本質的なところであるというなんとも皮肉なことになってるんですけど、そうですね、今またちょっとだけブーム再燃かなという感じもしますね。
私、どこかで書きましたね、人は物語なしには生きられないと。自らの欠落感を埋めるのにどうしても必要であると(「物語とは」参照)。ですから、物語が重宝がられ、物語論がちやほやされる時代というのは、何らかの欠落感が世の中に蔓延、跋扈してるんでしょうね。物の怪です。
さて、そんな中、一人の物語屋さん(物語家?物語者?モノガタリスト?)である小川洋子さんが現場の声としての物語論を語ります。小川さんと言えば、藤原正彦さんとのコラボレーションから生まれたと言える「博士の愛した数式」を書いた小説家さんですね。
その「博士の愛した数式」が生まれた背景や、ご自身の物語体験などを通じて、人間にとって物語とはなんなのかを、平易で優しい語り口によって明らかにしていきます。
印象に残ったのは、こういう考え方ですね。
「たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、 人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、 どうにかして現実を受け入れようとする。もうそこでひとつの物語を作っているわけです」
なるほど、現実を受け入れるためにその現実を変形していくということ、ある意味自分をだますということは、私たちにとってとても重要な行為です。小川さん自身も幼い時から、自らの欠落感(たとえば劣等感や失敗など)を埋めるために、多くの物語を紡いできたと書いています。
つまり、基本的に小川さんの語る「物語論」は、フィクション(嘘)を基にしているということですね。もちろんそれもありというか、それが一般的な立脚点だと思います。私は今まで繰り返してきた通り、それが事実であれ嘘であれ、とにかく誰かの知らない情報をその誰かに何らかの形で伝えることを「モノガタリ」と定義していますから、ちょっと小川さんとはスタンスが違う。
しかし、この本の終わりの方に書かれていた一つの結論、
「物語とはまさに、普通の意味では存在し得ないもの、人と人、人と物、場所と場所、時間と時間等々の間に隠れて、普段はあいまいに見過ごされているものを表出させる器ではないでしょうか。…あいまいであることを許し、むしろ尊び、そこにこそ真実を見出そうとする。それが物語です」
という部分は、ある意味ほとんど私の考えと一致していますね。「あいまい」が「モノ」であり、それを表出するのが「カタリ」であるというのが、私の考えと言えますから。
私の「物語論」はあくまでも「モノ」と「カタリ」という言葉の解釈から発したものであって、実際の「物語」表現者、あるいは受容者としての視点が欠けています。そういう意味では、この本はまさに私にとって欠落を補う「物語」であって、私はこの本にずいぶん助けられたというわけです。いい本でした。
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