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2008.01.25

『注文の多い料理店〜序』 (宮沢賢治)

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Chumon1 今まで、この「序」をちゃんと読んでいなかった。いけませんねえ。本文の方については、これはどういう意味なんだろうとか、いろいろ考えてきたんですが。
 この「序」がこんなにすごかったなんて。気がつかなかったということは、こちらに受け入れる態勢ができていなかったってことでしょうね。それなりに「物語論」なんかを考えてきましたので、そういう回路が始動したんでしょう。何十年かかってるんだろう、いったい。
 これは見事な「物語論」です。私の考える「モノガタリ」のイメージにピッタリ。もう説明の必要がないほど完璧です。とりあえず読んでいただきましょう。


 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

 大正十二年十二月二十日
               宮沢賢治


 どうですか、美しい日本語ですねえ。賢治のすごいところは、たとえば「鉄道線路」なんていう漢語や外来語、歴史の浅い日本語も、すっかり和語のようにしてしまうところです。これはいつも不思議に思います。おそらく彼にとっては鉄道線路も林や野はらや虹や月あかりと同じ「モノ」なんでしょうね。
 彼はそういった「モノ(外部・外界)」からいろいろな「何ものか」を受信します。「…もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」、つまり、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いている。
Kenji6 賢治が受信した「何ものか」は、この前イチローのトークスペシャルのところで書きました、「感覚(=クオリア?)」であって、私の言う『「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態』です。イチローはそれを野球というメディアで「形」にして「語り」ます。一方賢治は、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いているわけです。
 さて、私、「物語(ものがたり)とは」の記事で、物語とは欠落を埋めるものであるというようなことを書きました。この序の最後にある「すきとほつたほんたうのたべもの」というのは、まさに欠落を埋めるべきものでしょう。我々が欠如した栄養を食べ物から摂取するように、何ものかで我々は満たされたいわけですね。
 後半で述べられている「わけがわからない」ということ。これも重要です。その「わからなさ(未知・不随意)」は「モノ」の性質であり、その性質のおかげで、ある意味どうにでも解釈でき、どうにでも変形でき、どうにでも新たな意味を付加できるという物語の「生命力」は保証されているのです。いつも言う「もののあはれ」を催す、その原点になる力です。
 ですから、賢治のような表現者(作家・モノガリスト)は、それ自身が「モノ」と「コト」、「モノ」と「モノ」、「ヒト」と「ヒト」を結びつけるメディア(ミーディアム=媒介者)であるとも言えます。もちろん、これは文学に限ったことではありません。スポーツにおけるイチローもそう、音楽や絵画や演劇や舞踏やお笑いやテレビ番組などにおけるあの人たちもみんなそうなんです。あるいは極論すれば、私たち人間は全てそういう存在とも言えます。物語の受容者であるとともに、意識せずともその発信者になっているのかもしれませんね。
 長くなりそうなので、このへんで。いろいろな理屈は抜きにしてもう一度賢治の「序」を味わってみましょうか。

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