『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』 森田浩之 (日本放送出版協会)
某大学の過去問を生徒と一緒に解いてましたら、国家論についての評論が出てまいりました。「他者」との対比としての「われわれ」という幻想が「国家」である、言語や神話はそのためのフィクションであるという、まあよくある論でしたが、それを読みながらこの本を思い出したので紹介します。昨年読んだものです。
この本、なかなか読み物としては面白かった。ツッコミどころ満載でして。
誰もが感じているスポーツニュースの特殊性。それを好きか嫌いか、あるいはそれに違和感を感じるか感じないかは別として、NHKのニュース番組の中でのスポーツコーナーでさえ特別な明るさを持っていることを、誰も否定できないと思います。
その特殊性に注目し、それを「オヤジによる洗脳」と捉えて憂慮したのがこの本です。なるほど、女性選手へのセクハラ的興味や、日本的ジェンダーや集団主義の押しつけ、そしてナショナリズム…たしかに日本のオヤジ臭いですね。そのこじつけ方は非常にうまかったと思います。
ま、でも、考えてみればスポーツニュースを見るのは実際オヤジが多いわけでして、テレビ局としても当然顧客に合わせた作りをせねばならないのですから、スポーツニュースによって我々が洗脳されているというよりは、オヤジたちによってスポーツニュースが洗脳されていると言った方が、正しい因果関係を表しているのかも知れませんねえ。
この本ではとにかくそういうスポーツニュースのウソ臭さにだまされるな!的なことが繰りかえされるわけですが、どうなんでしょうね。私たちはスポーツで起きた事実のみを知りたいと思っているんでしょうか。スポーツというのは一般のニュース的な単なる出来事なんでしょうか。
私は全くそのように考えていません。特にプロスポーツについては。つまり、それらはエンターテインメントそのものであり(スポーツという言葉自体本来そういう意味ですよね、たしか)、演劇性があるのは当然だということです。演劇性とはフィクションであり「物語」であります。
筆者も本書の中で何度も「物語」という言葉を使っています。もちろん憎むべきものとしてね。一般新聞までいかにもな「物語」風な文章を書くと。ミシェル・ド・セルトーまで登場させて心配してます。いいじゃないですかねえ。たしかにちょっとやりすぎ(痛すぎ)な文にこちらが照れることもありますけど、まあスポーツというのはそういう性質のものだから、それでいいのではないでしょうか。この前、宮沢賢治の言葉として紹介しました「物語」のあり方に照らしてみれば、そうやって本人も意識していないようなナラティブを作り上げていく行為というのは、案外高尚なものなのかもしれませんよ。
私はこの本で大笑いさせていただきましたよ。なにしろ、そういう「物語」的な新聞の記事やタイトル、テレビのスポーツニュースのコメントなんかを、たくさん集めてくれてるんです。それにいちいち目くじら立ててる筆者も含めて、大変に面白い。よくぞここまでツッコミどころを集めたなと。だから、スポーツVOWみたいな感じで作れば良かったんですよ。カミさんも言ってました。みうらじゅんみたいな感性で書けば良かったのにって。たしかにそうだ。
もうこうなると文学の一ジャンルって感じ。そうですねえ、私のVOW大賞は、谷亮子選手についてのこの記事ですかね。『戦うママは忙しい「一本勝ち」→「授乳」→「一本勝ち」→「授乳」と畳の内外を走り回る』(笑)
さてさて、この本では、なぜイチローは「物語」を背負わないかという疑問に対する答えとして「イチローのもつイメージがとっくに〈日本人〉の枠をはみだしている」と片付けてしまっています。そうじゃないでしょう。彼は十分に日本人のイメージを代表してますよ。つまり、リアルに彼はアメリカを単身打ち負かす「侍」であり、それはすなわち、我々が作りたがる物語の主人公像とその物語の結末なわけでして、そう、私たちの想像力と創造力を超えた、まさに生ける伝説、生ける神話、生ける物語だからです。私たち凡人が物語る必要がないほどにとんでもない存在なんですね…と、これもまたある意味大仰な物語とも言えますか(笑)。
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今とっても忙しいシーズンでして、なかなか本を読めません。机の上に20冊くらい積み上がっているんですけど。
遅ればせながら聴いてみました。ずいぶん変ったなあ、というのが最初の印象。
さて興奮さめやらぬワタクシは、その興奮を抑えるため、いや、その興奮をさらなる高みに昇華するため、上野毛に戻りました。そうです。いきなりですが、茶道具の展覧会に向かったのです(笑)。五島美術館で行われている「茶道具取合せ展」。
ただ、なんていうかなあ。その道具たちも、今日は美術品として並べられているわけであって、まあこれは私服姿の小橋選手みたいなものであって、リング上の本来の姿とは違うんですね。茶席における、それこそ場の空気の中に存在する「もの」ではない。それは仕方ないんですけれど、どこか物足りなさを感じたのも事実です。実は一番インパクトがあったのは一休宗純の掛け軸「梅画賛」でした。あれは悪役レスラーだな。なんか怖かったっす、あの字。
1時間半ほど車内で勉強したのち、向かうは新宿。5月の演奏会に向けてトリオ・ソナタの練習です。今日はヴィヴァルディのラ・フォリアを集中的に。小橋→茶道具の洗礼を受けた私は、いつもよりアンサンブルの調子がいいぞ。相手の技を受けつつ自己主張し、全体の構成をみんなで作り上げていく。これはまさにプロレスの試合作りや茶会の進行に似ているぞ。そして、ヴィヴァルディのラ・フォリア自体、みごとな「統一」と「変化」だ。今まで何回も弾いてきた曲ですが、今日は新たな発見が多くありました。
やられた…。これもすごい。ムローヴァさん本気だわ、こりゃ。
賢治が受信した「何ものか」は、この前
文句なし!名盤です!これはいろんな人に聴いてもらいたいなあ。iTunesでも買えるのでぜひぜひ。既発のシングルもたくさん入ってますけど、それらが浮かないどころか、なぜか新鮮に溶け込んじゃうところがフジらしさですね。1枚目、2枚目と比べてやっぱり大人になったようなと思います。それもいい大人にね。哀愁を帯びた大人。若さをという恥ずかしさをずるずると引きずっている大人。ある意味カッコいい大人の音楽です。
今日はちょっと疲れてるのか、授業中変な発言が頻発してしまいました。この「実写版キューティーハニー」の話も昨日したのに、また今日同じクラスでしてしまった。で、生徒に「若年性アルツハイマーですか?」とかつっこまれたので、「いや、もう若年…でもない」と言おうとして、「若年性キューティーハニー」って言っちゃいました(笑)。なんなんだそれ?じゃあ「実写版アルツハイマー」ってか?生徒たち、異様にウケてました。とほほ。
受け入れることと受け入れないこと。今日のイチローのトークは面白かったなあ。
今日は土方巽の命日です。1986年の今日、57歳で亡くなりました。
土方巽の存在自体、あるいは彼の「舞踏」というもの、またこの「鎌鼬」という写真集に漲るエネルギーとは何なのかといいますと、これはまさに「モノ」の生命力であると思います(いつも自分の「モノ・コト論」で片づけてしまって申し訳ありません)。西洋化とはまさに「コト化」そのものです。それに対するアンチテーゼであり、また逆襲でもあった土方。彼の名前は「巽」ですが、彼に内在するものは完全に「艮」でした。
で、もう一度話を元に戻しますと、「鎌鼬」、あれは「モノノケ」と「モノノケ」の出会いによって生まれたものすごい生命体なんです。土方巽という(芸術家ではなく)物の怪を、田代の物の怪たちが迎え入れた。繰り返しますが、物の怪という言葉に私は敬意をこめています。
センター二日目の夜です。生徒たちは学校に集合して自己採点。まあそこそこの結果でしょう。安心しました。国語は案外取れてないのでちょっとがっかり。やっぱり漢文ができてないなあ。いちおう教えたことを駆使すれば出来るはずの問題だったんですけど、う〜ん、その「駆使」の部分をもうちょっとちゃんと教えなきゃダメだな。反省。
今日はセンター試験1日目。今年の国語はどうだったでしょうか。
最近の若手モダン・ヴァイオリニストでは、この人は悪くないなあと思っていました。やはり新世代だからでしょうか、古楽器演奏の影響も受けているようで、彼の弾くバッハの無伴奏やヴァイオリンとチェンバロのソナタなんか、ヴィブラートも抑え気味、ボウイングが軟らかく弱音もそこそこきれいでしたからね。昨年は小澤征爾指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にソリストとして抜擢されるなど、大活躍だったようです。