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2008.01.31

『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』 森田浩之 (日本放送出版協会)

14088232 某大学の過去問を生徒と一緒に解いてましたら、国家論についての評論が出てまいりました。「他者」との対比としての「われわれ」という幻想が「国家」である、言語や神話はそのためのフィクションであるという、まあよくある論でしたが、それを読みながらこの本を思い出したので紹介します。昨年読んだものです。
 この本、なかなか読み物としては面白かった。ツッコミどころ満載でして。
 誰もが感じているスポーツニュースの特殊性。それを好きか嫌いか、あるいはそれに違和感を感じるか感じないかは別として、NHKのニュース番組の中でのスポーツコーナーでさえ特別な明るさを持っていることを、誰も否定できないと思います。
 その特殊性に注目し、それを「オヤジによる洗脳」と捉えて憂慮したのがこの本です。なるほど、女性選手へのセクハラ的興味や、日本的ジェンダーや集団主義の押しつけ、そしてナショナリズム…たしかに日本のオヤジ臭いですね。そのこじつけ方は非常にうまかったと思います。
 ま、でも、考えてみればスポーツニュースを見るのは実際オヤジが多いわけでして、テレビ局としても当然顧客に合わせた作りをせねばならないのですから、スポーツニュースによって我々が洗脳されているというよりは、オヤジたちによってスポーツニュースが洗脳されていると言った方が、正しい因果関係を表しているのかも知れませんねえ。
 この本ではとにかくそういうスポーツニュースのウソ臭さにだまされるな!的なことが繰りかえされるわけですが、どうなんでしょうね。私たちはスポーツで起きた事実のみを知りたいと思っているんでしょうか。スポーツというのは一般のニュース的な単なる出来事なんでしょうか。
 私は全くそのように考えていません。特にプロスポーツについては。つまり、それらはエンターテインメントそのものであり(スポーツという言葉自体本来そういう意味ですよね、たしか)、演劇性があるのは当然だということです。演劇性とはフィクションであり「物語」であります。
 筆者も本書の中で何度も「物語」という言葉を使っています。もちろん憎むべきものとしてね。一般新聞までいかにもな「物語」風な文章を書くと。ミシェル・ド・セルトーまで登場させて心配してます。いいじゃないですかねえ。たしかにちょっとやりすぎ(痛すぎ)な文にこちらが照れることもありますけど、まあスポーツというのはそういう性質のものだから、それでいいのではないでしょうか。この前、宮沢賢治の言葉として紹介しました「物語」のあり方に照らしてみれば、そうやって本人も意識していないようなナラティブを作り上げていく行為というのは、案外高尚なものなのかもしれませんよ。
 私はこの本で大笑いさせていただきましたよ。なにしろ、そういう「物語」的な新聞の記事やタイトル、テレビのスポーツニュースのコメントなんかを、たくさん集めてくれてるんです。それにいちいち目くじら立ててる筆者も含めて、大変に面白い。よくぞここまでツッコミどころを集めたなと。だから、スポーツVOWみたいな感じで作れば良かったんですよ。カミさんも言ってました。みうらじゅんみたいな感性で書けば良かったのにって。たしかにそうだ。
 もうこうなると文学の一ジャンルって感じ。そうですねえ、私のVOW大賞は、谷亮子選手についてのこの記事ですかね。『戦うママは忙しい「一本勝ち」→「授乳」→「一本勝ち」→「授乳」と畳の内外を走り回る』(笑)
 さてさて、この本では、なぜイチローは「物語」を背負わないかという疑問に対する答えとして「イチローのもつイメージがとっくに〈日本人〉の枠をはみだしている」と片付けてしまっています。そうじゃないでしょう。彼は十分に日本人のイメージを代表してますよ。つまり、リアルに彼はアメリカを単身打ち負かす「侍」であり、それはすなわち、我々が作りたがる物語の主人公像とその物語の結末なわけでして、そう、私たちの想像力と創造力を超えた、まさに生ける伝説、生ける神話、生ける物語だからです。私たち凡人が物語る必要がないほどにとんでもない存在なんですね…と、これもまたある意味大仰な物語とも言えますか(笑)。
 
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2008.01.30

『実践 学校危機管理―現場対応マニュアル』 星 幸広 (大修館書店)

Hjugi 今とっても忙しいシーズンでして、なかなか本を読めません。机の上に20冊くらい積み上がっているんですけど。
 そんな中、久々に読んだのがこの本。う〜ん、これもまた仕事の一部であって読書とは言えないか。いや、別に上司に読めと言われたわけではありません。どちらかというと上司に読んでいただこうと思って、図書室に入れてもらったものです。
 ウチの学校は、まあ田舎の小さな学校ですから、ある意味平和でして、今までのところ危機的な事件・事故はありませんし、モンスターなペアレントもあんまりいません(スチューデントはある意味かわいいモンスターですけど)。しかし、こういう時代ですからいつ何どきそういうことに巻き込まれるかわかりません。ある意味、こういう平和な学校ほど、いざそういう事態になった時にいろいろな処理ミスが生じやすいのかもしれませんし。
 企業でもそうですね。ここのところ会社のトップ3が頭を深々と下げるような記者会見をたくさん見ますけど、そういう会社って、どちらかというと在庫の管理や製品の管理が出来ていなかったというより、危機管理に失敗したような気もします。有名企業、常に修羅場の企業は、そのへんの管理・処理が上手で、表に出てこないんじゃないでしょうか。よくわかりませんが。
 とにかく世の中で最も危機管理に対する意識が低いのが学校であるのはたしかです。ま、世間知らずの集合体みたいなところですからね。これはしかたがない。だから勉強しなくてはならないわけです。私は「悲鳴をあげる学校」「でっちあげ」を読んで、これはもしかして対岸の火事ではないのではと危機感を募らせたのでした。それで買ってもらったのです。
 この本は、実際に学校にまつわる事件・事故、あるいは訴訟やクレームなどに関わってきた元警察官の方が書いた本でして、たしかに参考になる記述がたくさんありました。さすがその道のプロでして、内容がリアル。なるほど〜と思うことばかりでした。
 印象に残ったのは、相手がモンスターであれば、あんまりまともに取り合わなくていいんだということです。まともに取り合わないというのは、いいかげんにしていいということではありません。いわゆる本当の意味での、というか、教育現場的な意味での「誠意」や「真心」や「サービス精神」はいらないということです。
 いや、星さんはある部分ではそういうことこそ大切と説いているんですけど、なんていうかなあ、どうも先生という「善人」は、自他に「善人」であることを期待されすぎてるんですよね。なかなか「悪人」になりきれないと。私もそうかもしれません。そうすると、相手が「悪人」の場合は、その悪人の思うつぼになりがちなんですね。それはよくわかります。わかっているけれど、まず相手が「悪人」であると決めつけたくないというのがある。生徒に対してもそうですね。で、先生って「大人」と接するのが苦手ですから(笑)、大人の悪人(モンスター)が登場しちゃったりすると、うまく対応できないんです。
 で、いつも大人の悪人(モンスター)と対峙している警察官だった星さんは、その退治方法、それも最も適当な(ある意味テキトーな)退治方法を知っているわけですよ。それをリアルに教えてくれているわけです、この本で。
 非常に参考になったのは、実際の会話例ですね。相手の質問やらおどしに対してこちらからも絶妙な質問を織り込んでいく技。これはさっそく使ってみましょう(使う場面があったら)。マスコミとの対応コーナーも面白かった。小泉元首相がいかに見事に適当(テキトー)だったかよく分かります。彼はそういう意味では天才的な受け答えができる人でしたね(正しい、正しくない、好き、嫌いは別として)。そして、ヤクザさんとの対応については、これは学校でというより、日常生活で役に立ちそうですね。いつそういう方々とお友達なるか分かりませんから(笑)。
 と、読んでいて思ったのは、これはやっぱりプロレスだな、演劇だなっていうことです。純粋なリアルファイトでは絶対負けます。生徒に対する戦闘能力だけでは、絶対に大人なモンスターにはかないません。そういう時こそ冷静に相手の出方をうかがって、相手の勢いを利用して、賢く対処しなければなりません。そういうことを、恥ずかしながら教師歴二十数年目にして初めて知ったウブなセンセイでありました。
 あと、「悲鳴をあげる学校」にもありましたが、そういう闘いこそ相手を理解し近づくチャンスでもあるということ。たしかにそれもありますね。そう思わなきゃやってられないってのもありますが。

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2008.01.29

今までありがとう egbridge & egword そして…これからも

Eg 国語の試験問題を作るために、まさに egbridge と egword を使っている時でした。突然の販売終了を告げる一通のメールが…。10年間つきあい続けてきた彼女とデート中、突然彼女の父親から「別れてくれ」と言われたようなもの…。
 予想だにしなかった突然の知らせに、何が起こったのかさえ分からず、本当に動揺してしまいました。
 egbridge とは Mac で使う日本語入力システム(かな漢字変換システム)、 egword は Mac専用のワープロソフトです。私は本当に両egにお世話になりっぱなしでした。と言いますか、正直、これらがないと仕事が出来ません。今もこのブログを書きながら egbridge の優れた変換機能に依存していますし、国語の教師ということで、横書きの文書をほとんど作らない私からしますと、egword 以外で文書を作るということはありえません。一般ユーザー用で、これほど美しい縦書きの文書を作れる.ワープロ・ソフトがないからです。
 私の縦書きへのこだわりは、まあ私の作る(最近全然更新してませんが)サイトをご覧になっていただけば分かると思います。本当はこのおススメも縦書き表示したいくらいです(ちょっと検討中)。
 とにかく、某 word のように、ただ文字を並べるだけの縦書きワープロでは満足できないのです。例えば、ちょうど今もそういうシーズンなのですが、ウチは私立学校ですから自前で入試問題を作るんですね。以前は原稿だけ自分で作っていました。今はレイアウトから印刷まで自分たちでやっています。これは外部に出るものですから、それなりの体裁で作らなければなりません。また、当然受験生が読みやすく解きやすいものにする必要があります。そのためには、ただ字を並べるだけでなく、部分的に字間や行間を調整したり、ベースラインを動かしたり、場合によっては字の縦横率を変えたりする必要があるんです。ま、いわゆる商用DTPに近いことをしなければならないんですね。そんな時、私たちシロウトは10万円近くするプロ用のソフトは使えません。ですから、手頃なお値段(そんなに安くはありませんが)で、かつ動作が軽く安定している egword は重宝していたのです。いや、重宝とかではなく、egword しか頼るものがなかったのです。
 そんな素晴らしいソフトが突然の開発中止、販売終了…ありえません。たしかに市場としては儲からないのでしょう。でも、でも、やっぱり日本語の縦書きは大切な文化ですから、なんとか生き残ってほしかった。とりあえずは今のバージョンを使えるまで使い倒すしかありません。
 恥ずかしい話ですが、あまりのショックに職場で泣きべそかいてしまいました。そして帰宅し、いったい何が起きたのかを確認すべく、2ちゃんねるのegスレを見てみました。みんな私と同じようにかなり動揺しているようです。すると…次のような書き込みが!!

______________________

236 名前:中の人 メェル:sage 投稿日:2008/01/29(火) 09:39:50 ID:8s5ku6u40
中の人こと、開発責任者の廣瀬と申します。

こんなにたくさんの方に多くの感想をいただき大変驚いています。
自宅はUSENなんですが、昨夜はUSEN規制中で書き込めませんでした。

現場の責任者として力が及ばずこのような結果になってしまい
大変申し訳ありませんでした。
また、これまでお使いいただいたお客様には心より御礼申し上げます。

この掲示板では多くのフィードバックや励ましのお言葉を頂き、毎日チェックして
少しずつですが製品に反映して参りました。
しかし何も回答しないこともありました。不愉快な思いをされた方にはお詫び申し上げます。

多くの方からご要望いただいた禁則処理や表計算機能などを盛り込む予定だった
Universal 3 は幻となってしまいましたが、私のワープロにかける情熱の火は
消えていません。

35歳でプログラマは定年なんてことをブログに書きましたが、
もう一度書いてみようと思います。

家族も理解してくれました。

いつか皆様にお披露目できる日が来るようにがんばります。

______________________

 うぉ〜、神降臨!!
 実はこのスレには、今までも「中の人」というHNで、エルゴの社員と思われる方が頻繁に現れていました。妙にリアルな書き込みをなさるし、みんなが書いた要望が次期製品で実現したりするので、いったいこの人は誰なんだ?サポートセンターの人か?みたいになってたんですよ。そしたら、なんと創り主様であったと!
 廣瀬さん、あなたは本当に素晴らしい方です。まさに神です。ネ申です。仏、イムです。なんという優しさ。愛。慈悲。こだわり。情熱。
 いや、まずは感謝と労いの言葉を…廣瀬さん、スタッフの皆さん、今まで私たちのために素晴らしいソフトを開発してくださりまして、本当にありがとうございました。そしてお疲れさまでした。今の私があるのはeg〜のおかげです。これは大げさでなく、実際にeg〜のない生活は考えられませんから。
 う〜、しかし感激だなあ。10年来の恋人と強制的に別れさせられると思ったら、本人に「いつかまた会いましょう。待っていて下さい」って言われたようなものですから。泣けます。今、本当に涙が頬を伝いました。
 本当に大変だとは思いますが、ぜひ私たちを見捨てないで下さい。そして日本の大切な文化の継承のためによろしくお願いいたします。何かできることがあれば何でも協力いたします!
 入試、定期試験、卒業式、そして日々の教材…明日も egbridge & egword と頑張って仕事します!!

ps 私は親指シフト使用者でもあります。なんで、普通に「かな」で「かな」を打って、美しい縦書き文書を作ることが、どんどん難しくなっていくのでしょうか。何か間違っているような気がします…orz

開発者廣瀬さんのブログ

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2008.01.28

矢野沙織 『Little Tiny』

5125bs65rl_aa240_ 遅ればせながら聴いてみました。ずいぶん変ったなあ、というのが最初の印象。
 ジャズにおいて「若さ」というのが何を意味するのか、これはなかなか難しい問題です。日々、自分の学校のジャズバンド部の音や、その音を奏でる「若者」に触れている私は、その魅力というのがあるということは確実に言えるのですが、それがジャズの本質とどう関わるのかというのはなかなか分かりません。
 ジャズは老練な世界であるという印象があり、そこにその対極にあるような人や音が登場すると、大変に新鮮に感じられる、というのもあるかもしれません。なんというか、未来のジャズ・プレイヤーとして見るというか、何が足りないのかという観点で聴くというのではなく、私たちが「子ども」に対してそうであるように、理屈抜きに今「カワイイ」と思っているのかもしれません。
 まあ、これはジャズに限ったことではなく、いろいろな世界であり得ることです。そして、決して悪いことではないと思います。とにかく、日々の彼ら彼女らを見ていると、なんとも大人の「ジャズ」的な生活からはかけ離れてますし、知識やこだわりもいわゆる「ジャズ・ミュージシャン」らしくありません。しかし、たしかにそこに「楽しさ」があるのは事実であって、もしかすると、いわゆる老練な大人たちは、経験やら知識やら学術やら思い込みやらで武装してしまった自らのジャズ観をいとも簡単に崩し溶解してくれる若者の音に、ジャズの根っこの根っこを聴いているのかもしれませんね。
 しかし、これがですねえ、プロを目指す若者となるとちょっと難しくなります。あるいはもうプロである若者。
 矢野沙織はまさにもうとっくにプロである若者です。21歳になったのかな。21歳でもう7枚もアルバムを出しています。彼女の場合は、もう最初の頃からチャーリー・パーカー節を聴かせてくれたりして、まあ、単なる「カワイイ」ではなかった。10代の頃から大人なプロ顔負けの世界を作り上げていました。だからこそ、厳しい評価も受けました。「カワイイ」ではなく「ムカツク」対象にすらなっていたようです。野暮な大人がいるもんですねえ(笑)。ま、期待もこめての痛言だったのだとは思いますけど。
 しかし、彼女は強かった。まだ子どもだったのにねえ、そういう大人な試練をしっかり受け止めてですねえ、そしてちゃんと成長しました。そのあたりのプロセスというか、その強さを支える彼女の性根のようなものは、こちらの番組ではっきり分かりましたね、私は。
 結局は野暮じゃない立派な大人に出会った、いい師匠に出会ったってことでしょうね。ジェームズ・ムーディー。きっと彼に音楽だけでなく、人生といいますか、音楽とジャズと何十年もかけてどうつきあっていけばいいか教わってるんでしょうね。ムーディーの存在自体が身をもって教えてくれそうですね。
 というわけで、このアルバムは今までと大きく印象が変わっています。正直、彼女のアルバムというより、ロニー・スミス・トリオwith矢野沙織という感じで聴けます。つまり、単なるテクニックや音色だけでなくて、アンサンブルできているということですよ。意識がかなり高い次元にあるんでしょう。
 大御所の演奏という感じではありませんけれど、ベテランの伴奏に乗って落ち着いて吹いていますね。ある意味では、吹き飛ばすような若さは感じられなくなったのかもしれません。しかし、そこに物足りなさは微塵も感じませんでした。充実感ていうのかな、安心して全体像を聴いたなという実感。
 そして!しかし!最後のトラックは…。そう、あの美空ひばりとの共演ですよ。私も絶賛したジャズ&スタンダードに収録されている10代のAトレインですね。いやあ、うまい具合にミックスしましたね。けっこう自然な仕上がりじゃないですか。きっと痛いことになるんだろうなと思って恐る恐る聴いたら、案外よかった。
 で、やっぱり美空ひばりはなあ…天才ですわ。矢野沙織も天才の部類に入ると思いますけどね、ああやって絡むと,天才における「格」の違いを感じちゃいますね。なんだろ。やっぱりあのリズム感ね。スウィング感とかじゃなくて、リズム感。なんかなあ、矢野沙織のリズムが甘く聞こえてしまうのは、なぜ?w…もう、少女ひばりは全然「カワイクナイ」けど「ムカツカナイ」…天才少女という言葉はひばりのためだけにあるのかもしれません。ふぅ。
 よくこんな恐ろしいことに挑戦しましたね。原信夫を消して自分の音を入れちゃったってことですな。それだけでも恐れ多いっす。そんな無謀な挑戦を聴くだけでもこのアルバムは価値ありかもです。

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2008.01.27

小橋→茶道具→フォリア

 今日は濃い一日でしたなあ。テーマは「アンサンブル」「様式美」「演劇性」。
 まずは、フジファブリックをガンガン聴きながら東京へ移動。彼らもけっこうアンサンブル感や演劇性の強いバンドですね。
Thumb_im00068460 上野毛の駐車場に車を置いて、いざ渋谷のHMVへ!そうです。今日は小橋建太選手のトークショー&握手会があるのです。店内で12.2のDVDを購入しイベント参加券をゲット。150人のファンの皆さんとともに小橋選手を待ちます。と、出てきたのはなんと谷口周平選手。お約束のボケですね。結局谷口選手は温かいブーイングを浴びてしまいます。そしてにわかに起こるコバシコール。本物の登場です。
 今までも生小橋選手は何回も見てきましたが、こんなに近くなのは初めてかな。感激。そして、楽しいトークのあとの握手会で、ついに小橋選手と握手!そして会話!小橋選手、本当に一人一人とていねいにお話しをしてくれます。本当に誠実で実直な方ですね。改めて感じましたが、こういうタイプのキャラクターで人気を得るプロレスラーというのは稀有ですね。逆にプロレスが伝えることができるものの幅広さとも言えますか。
 あっそうそう、ついでと言ってはなんですが、せっかくですから谷口選手とも握手してきました。彼(と青木選手)には話さなきゃならないことがあったんですが(これを話せば一緒に食事に行けるらしい…)、時間がなかったので、それは次回どこかで。
Chadougup さて興奮さめやらぬワタクシは、その興奮を抑えるため、いや、その興奮をさらなる高みに昇華するため、上野毛に戻りました。そうです。いきなりですが、茶道具の展覧会に向かったのです(笑)。五島美術館で行われている「茶道具取合せ展」。
 私はお茶はやらないんですけど、なんとなくその世界に興味はありまして、特にプロレスとの類似性についてよく考えます。これは冗談ではなくて、その「演劇性」「様式美」「アンサンブル」という点において似た部分が多々あるような気がするんです。「虚構性」の中の「真剣勝負」と言いますかね。その勝負は別に亭主と客に限られたものではありません。その「場」や「道具」との闘いもあるんですね。そこに現れる規則性と即興性。統一と変化。壮大で深遠なる変奏曲。
 まあなんとでも言えるわな(笑)。でも、私の中ではたしかにプロレスと茶道はつながってるんです。自然に。両者とも日本文化の真髄とも言えます。で、今回の展覧会ですが、うん、たしかにこいつらと勝負するのはそれなりの訓練が必要だなという逸品ぞろいでした。私なんかは観戦だけでいいや。やっぱりシロウトの私には楽茶碗が印象的だったなあ。光悦、長次郎、のんこう…すさまじい存在感の名品が並んでいます。
Umegasan_top ただ、なんていうかなあ。その道具たちも、今日は美術品として並べられているわけであって、まあこれは私服姿の小橋選手みたいなものであって、リング上の本来の姿とは違うんですね。茶席における、それこそ場の空気の中に存在する「もの」ではない。それは仕方ないんですけれど、どこか物足りなさを感じたのも事実です。実は一番インパクトがあったのは一休宗純の掛け軸「梅画賛」でした。あれは悪役レスラーだな。なんか怖かったっす、あの字。
 前にも書きましたが、できればお茶の名勝負も観戦したい。DVD(副音声で実況と解説付き)とかで出してくれるとシロウトとしては嬉しいんですけどね。けっこう異種格闘技なこともあるようですし、他団体との交流戦というのも面白そうですしね。超一流選手の試合はやるかやられるか的な部分もあるとかないとか…。こればっかりは自分が参戦するしかないみたいですね。残念。 
 さて、五島美術館をあとにした私はしばし駐車場でガチンコ勝負。漢検の勉強です。昨年1級に挑戦し玉砕したワタクシは今年は階級を下げて参戦です。カーラジオからは昨年末行われたバッハ・コレギウム・ジャパンのメサイアのライヴ録音が流れています。お〜いいアンサンブルだぞ。
V112 1時間半ほど車内で勉強したのち、向かうは新宿。5月の演奏会に向けてトリオ・ソナタの練習です。今日はヴィヴァルディのラ・フォリアを集中的に。小橋→茶道具の洗礼を受けた私は、いつもよりアンサンブルの調子がいいぞ。相手の技を受けつつ自己主張し、全体の構成をみんなで作り上げていく。これはまさにプロレスの試合作りや茶会の進行に似ているぞ。そして、ヴィヴァルディのラ・フォリア自体、みごとな「統一」と「変化」だ。今まで何回も弾いてきた曲ですが、今日は新たな発見が多くありました。
 皆さんからしますと、なんだこの人?っていう感じがもしれませんけど、私の中では今日のいろいろな出来事は全て自然につながっています。私はどれもみんなエセですけど、エセも極めていきますと、それなりの世界観というものが出来上がってくるんですよね。もっともっと裾野を広げて一流のエセになりたいな(笑)。

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2008.01.26

J.S. バッハ 『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集 (ムローヴァ/ダントーネ)

J.S.Bach Sonatas
Onyx4020 やられた…。これもすごい。ムローヴァさん本気だわ、こりゃ。
 今日は本当は東京へ行く予定だったんですけど、娘が熱を出したりして、すみません、いろいろと約束をしていた皆さん。で、ウチにこもってたんですけど、いい出会いがありました。
 昨年ヴィヴァルディのコンチェルトでかなりガツンとやられてダウンしたんですけど、今回はその流れで、立ち上がりざまに顔面にいいキックが入ったって感じです。これは4点ポジションにおける顔面キックを禁止したルールに抵触するのでは…(笑)。
 あれだけモダンの奏法を極めておいて、ピリオド楽器をここまで弾きこなす…いや極めるなんて。これは総合を極めた上でプロレスでも超一流になるようなものです。すごいなあ。
 ちなみにムローヴァさんはダンナさんと一緒にジャズもやってるんですよね。そちらは聴いたことがありません。ちょっと前にベンヤミン・シュミットのジャズを紹介しましたっけ。そこでは多少の苦言を呈しましたが、やっぱり彼も基本偉いですよ。そういう枠をはずして勉強することによって、それぞれの本職の演奏も充実してくるでしょうね。ムローヴァはバロックだけでなくいわゆるクラシックの方でもオリジナル楽器を使うことが増えてきました。そういう演奏ではもちろんですが、普通のモダン楽器の演奏においても、最近はボウイングに軽みが出てきました。弱音が大変に美しい。これはたぶんプロレス(=バロック)を勉強したからでしょう(笑)。
 それにしてもこのバッハは美しい。実はこのヴァイオリンとチェンバロのためのソナタたちは、聴く方も弾く方にとっても微妙な作品なのであります。成立事情にもいろいろと特殊な部分があるんですけど、とにかくやや難解なんですね。ものすごく分かり易く言ってしまうと、あんまりキャッチーじゃない。弾く方としては、なんだか♯や♭がたくさんついてるし、ヴァイオリンの特性(弾きグセ)を全く無視した作曲がなされていて、そういう意味ではもしかすると無伴奏より難しいかもしれない。で、一生懸命練習して弾きこなしても(私はそこまでやってませんけど)、それに見合った効果がないというか、あんまり喜ばれないし、自分も喜ばしくない。もちろん、バッハがそういう「辛い」効果を狙ったという可能性もあるんですが…。
 まあ、そういう作品なんですね。ですから、録音もあんまり積極的に聴こうと思わなかった。いろいろ持ってるんですけどね(昔は、ガンバも入ったアーノンクール盤と、ロックなゲーベル盤だけはよく聴いてました)。もちろん弾く方も全然積極的じゃありません。ここ十年以上弾いてないような…。
 そんな作品なんですけど、私にとってはどうもこのムローヴァ盤が決定盤になりそうです。ヴィヴァルディの記事にも書きましたが、ヴァイオリンの本質である「色気」が、この作品の「辛さ」を覆い隠している…わけではなく、逆にもっと高い「色香」にまで昇華してくれている気がするんです。ダントーネは比較的淡々と弾いています。その上に彼女の馥郁たる音の香が配されることによって、なんといいますかね、私にとっては今まで気づかなかった、この作品におけるバッハの歌心、それも「哀しみ」の歌心、「もののあはれ」の歌心が浮かび上がってきた。
 この作品の特殊な印象というのは、その編成にあるというよりも、バッハの心理によるものなのかもしれません。同様の編成であっても、ガンバやフルートのソナタでは、このような印象がありませんからね。ムローヴァ自身がそういうことを意識したかどうかは分かりませんが、彼女の演奏における「女性性」のようなものが、もしかすると今まで隠れていた(少なくとも私にとってはそう言えます)この曲の本質を現代に復活させたのかもしれません。チェンバロ・パートはバッハ自身、ヴァイオリン・パートは亡き妻…なんて考えるのは考え過ぎでしょうかね。
 とにかくテクニックも解釈も素晴らしい。音色も美しい。特に緩徐楽章の「語り」は格別ですねえ。いや、早い楽章もいいなあ。そしてそして、オマケで収録されている通奏低音付きソナタがまたカッコいい。それらがあることによって、さらに本作の特殊性が際立って聞こえます。
 う〜む、人によっては理解できない可能性もありますが、私は完全KO、病院送りでしたね。私はルール違反だ!とか、そんな野暮な提訴はしませんよ(笑)。素直に負けを認めます。

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2008.01.25

『注文の多い料理店〜序』 (宮沢賢治)

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Chumon1 今まで、この「序」をちゃんと読んでいなかった。いけませんねえ。本文の方については、これはどういう意味なんだろうとか、いろいろ考えてきたんですが。
 この「序」がこんなにすごかったなんて。気がつかなかったということは、こちらに受け入れる態勢ができていなかったってことでしょうね。それなりに「物語論」なんかを考えてきましたので、そういう回路が始動したんでしょう。何十年かかってるんだろう、いったい。
 これは見事な「物語論」です。私の考える「モノガタリ」のイメージにピッタリ。もう説明の必要がないほど完璧です。とりあえず読んでいただきましょう。


 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

 大正十二年十二月二十日
               宮沢賢治


 どうですか、美しい日本語ですねえ。賢治のすごいところは、たとえば「鉄道線路」なんていう漢語や外来語、歴史の浅い日本語も、すっかり和語のようにしてしまうところです。これはいつも不思議に思います。おそらく彼にとっては鉄道線路も林や野はらや虹や月あかりと同じ「モノ」なんでしょうね。
 彼はそういった「モノ(外部・外界)」からいろいろな「何ものか」を受信します。「…もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」、つまり、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いている。
Kenji6 賢治が受信した「何ものか」は、この前イチローのトークスペシャルのところで書きました、「感覚(=クオリア?)」であって、私の言う『「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態』です。イチローはそれを野球というメディアで「形」にして「語り」ます。一方賢治は、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いているわけです。
 さて、私、「物語(ものがたり)とは」の記事で、物語とは欠落を埋めるものであるというようなことを書きました。この序の最後にある「すきとほつたほうたうのたべもの」というのは、まさに欠落を埋めるべきものでしょう。我々が欠如した栄養を食べ物から摂取するように、何ものかで我々は満たされたいわけですね。
 後半で述べられている「わけがわからない」ということ。これも重要です。その「わからなさ(未知・不随意)」は「モノ」の性質であり、その性質のおかげで、ある意味どうにでも解釈でき、どうにでも変形でき、どうにでも新たな意味を付加できるという物語の「生命力」は保証されているのです。いつも言う「もののあはれ」を催す、その原点になる力です。
 ですから、賢治のような表現者(作家・モノガリスト)は、それ自身が「モノ」と「コト」、「モノ」と「モノ」、「ヒト」と「ヒト」を結びつけるメディア(ミーディアム=媒介者)であるとも言えます。もちろん、これは文学に限ったことではありません。スポーツにおけるイチローもそう、音楽や絵画や演劇や舞踏やお笑いやテレビ番組などにおけるあの人たちもみんなそうなんです。あるいは極論すれば、私たち人間は全てそういう存在とも言えます。物語の受容者であるとともに、意識せずともその発信者になっているのかもしれませんね。
 長くなりそうなので、このへんで。いろいろな理屈は抜きにしてもう一度賢治の「序」を味わってみましょうか。

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2008.01.24

フジファブリック 『TEENAGER』

21hbe4rwzll_aa192_ 文句なし!名盤です!これはいろんな人に聴いてもらいたいなあ。iTunesでも買えるのでぜひぜひ。既発のシングルもたくさん入ってますけど、それらが浮かないどころか、なぜか新鮮に溶け込んじゃうところがフジらしさですね。1枚目、2枚目と比べてやっぱり大人になったようなと思います。それもいい大人にね。哀愁を帯びた大人。若さをという恥ずかしさをずるずると引きずっている大人。ある意味カッコいい大人の音楽です。
 昨年はなんだかんだZeppTokyo両国国技館2回ライヴに行ってますので、ある意味今一番お気に入りのバンドということになるかもしれません。
 彼らの独特の存在感や音楽性については、いろいろなところに書きましたので繰りかえしません。そうですねえ、あえて付け加えるとすれば、魅力的なリフレインのことかな。これは書き忘れていたような気がします。彼らのリフは本当に耳に残りますね。イントロだけではなく全編に織り込まれていたり、あるいはポイント、ポイントでダメ押しされたり、とにかく印象に残ります。全体には変化に富んだ予想外の展開が多いフジ節の中にあって、あれら単純かつ妖しいリフたちはまるで生き物の鼓動のように私たちに刻み込まれます。
 ビートルズなんかもそうなんですが、いかにカッコいい、あるいは個性的なリフ(特にギターリフ)を作るかっていうのが、実は曲作りのポイントになってたりしますよね。そういう意味ではフジファブリックはなかなかうまいと思いますよ。少なくとも本家(?)奥田民生さんよりは(笑)。
 さてさて、このアルバム、「TEENAGER」と銘打たれております。彼らはもう二十代後半に突入していると思いますが、なぜ「TEENAGER」なのか。
 それはもちろん十代があまりにも「ガラスの十代」だからですよね(ってなんなんだ…笑)。おそらく誰にとっても特別な時代であり、誰もがいくつになっても自分の根っこにこれを引きずっているものです。私もそうです。かなり引きずっています。
 彼らもそろそろ大人になる頃ですし、業界でもまれたりもして、それこそ社会的な存在になりつつあるわけで、十代のころをそれなりに切なく感じ始めてるんじゃないでしょうかね。
 さっき「ガラスの…」って書きましたが、これは確かにうまい表現ですね。輝いていると言えば輝いている。ただし自分自身だけでは光ることができない。壊れやすく、壊れれば人を傷つける。透明で純粋かと思えばすぐに曇る。ある意味周りの枠に守られてるし、優しく取り扱われるし。案外それ自身は冷たいしなあ。で、案外長持ちして、ずっと同じ場所に固定されてる感じがするし、周りはそれなりに古びてきても、けっこうガラスって昔のままだったりしますからね。捨てるのもなんだか面倒くさそう。まあ、こういうのを青春とか言ったんでしょう、昔は。
 さて、志村正彦くんが、まさにそういうガラスの十代を送ったここ富士吉田市下吉田ですが(今、ワタクシ下吉田の職場にいます)、なんとも昭和レトロ、ノスタルジーを絵に描いたような街でして(それを売りにしております)、それこそ彼がTEENAGERだった頃、私は同じ下吉田の渋いアパートで一人暮らししておりました。自らの青春を引きずりつつ、仕事がら現在進行形の十代と毎日つきあわないきゃいけない、そんな毎日に沈潜しておりました。なんとも切ない二十代(とちょこっと三十代)でしたなあ。結局自分もそうやって自分の窓ガラスにノスタルジーを感じていたんでしょう。
 と、なんか四十過ぎたオジサンの独り言になってしまいましたけどね、つまりはそういうオジサン(大人)誰しもが抱えているレトロ・ガラスへの郷愁や哀愁や憧憬が、このアルバムには見事に詰まってると感じたのですよ。年甲斐もなく泣けてしまいました。あの、たしかに若さとしか言いようのない、愚かさと変態さ(笑)、内側にはじけていく無駄なパワーみたいなものへの、大人としてのオマージュとでも言うのかな。とりあえず私の心のガラスは妙に鈍く輝き、そしてビリビリと共振したのでありました。
 御本人たちもおっしゃってましたが、これは十代の人にも聴いてもらいたいけど、やっぱりそれ以上の人たち、元十代の人たちにこそ聴いていただきたい。そして、「あれ、なんだっんだろう」って自分の恥ずかしいあんなことこんなことを思い出して、それらと酒でも酌み交わしながら語り合ってもらいたいですね。あっ、相手は未成年だから酒はなしか(笑〉。
 志村くん、大晦日と元旦はこっちに帰ってきてたみたいですね。また吉田のうどんで年越ししたんでしょうか。いつか彼とも呑んでみたいですねえ。

Amazon TEENAGER

フジファブリック公式

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2008.01.23

キューティーハニー THE LIVE (テレビ東京)

Honey 今日はちょっと疲れてるのか、授業中変な発言が頻発してしまいました。この「実写版キューティーハニー」の話も昨日したのに、また今日同じクラスでしてしまった。で、生徒に「若年性アルツハイマーですか?」とかつっこまれたので、「いや、もう若年…でもない」と言おうとして、「若年性キューティーハニー」って言っちゃいました(笑)。なんなんだそれ?じゃあ「実写版アルツハイマー」ってか?生徒たち、異様にウケてました。とほほ。
 というわけで、最近硬くて長い話が多かったので、今日は少し軟らかいものを短く紹介しましょう。いや、ある意味これは硬いかも…いや、軟らかすぎるのかも…。
 まったく不覚なことですが、9月に放映開始になったこの番組、今日初めて観ました。本当のことを言いますと、生徒に教えてもらうまで知らなかったんですよ、このような素晴らしい(?)ことが起きているとは。
 キューティーハニーの原作やアニメについては改めて説明する必要はありませんね。で、実写版アルツ…ではなくてキューティーハニーと言えば(…ん?ということは「実写版アルツハイマー」には原作やアニメ版があるってことか?)、佐藤江梨子主演の映画がありましたよね。あのサトエリ版は正直あんまり好きじゃなかったんです。たぶん私の個人的な趣味の問題だと思いますけど。
 で、こちらの実写版はどうかといいますと、これがですねえ、かなり良かったっす。如月ハニー役の原幹恵さん、グラビアアイドルだそうですけど、顔立ちはちょっと地味ですが、なんといってもGカップのボディーはかなりインパクトありますね。アクションもなかなか立派ですよ。あとなんだか良くわかりませんが、クールな青い人とちょっと狂気な白い人(?)もかっこよくてよろしい。
 全体に深夜枠ということで微妙にHな感じがありまして、それがなんとなく懐かしかった。そう、私なんかは9歳とかそのあたりに少年チャンピオンで原作を読んでいた世代ですからね。なんとなく家族にナイショであのHなページを繰る感覚というか、そんなのを思い出しました。つまり、この番組もさすがに娘たちの前では観れない(カミさんとは観ましたけど)。なんかコソコソHなシーンを観るという緊張感が懐かしいんですね。この歳になってキューティーハニーでこういう気持ちを味わうとは(笑)。
 まあ、考えてみれば永井豪ですからね、それが本質であって、そういう意味ではこの実写版はもしかすると王道を行ってるのかもしれない。エロティック・アクション。アニメ版よりもその空気感は原作に近いのかもしれない。受け手に与える精神的作用としてはいい線行ってるのかもしれませんね。
 というわけで、全国的には観れるところが限られていますが、もし皆さんお住いの地域で鑑賞可能ならば是非ともご覧下さい。案外はまるかも、です。少なくともパンシャーヌよりはかなりまともな作りですね(笑)。

キューティーハニー THE LIVE 公式

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2008.01.22

『イチロー・トークスペシャル』(NHK プロフェッショナル仕事の流儀)

Photo01 受け入れることと受け入れないこと。今日のイチローのトークは面白かったなあ。
 私にとってはアイドルであり、神であり、物の怪であり、師匠であり、いや唯一無二のエンターテイナー・イチローである彼。彼の言葉は不快なほどに私を刺激しました。すごいなあ。
 不快なほどに、と書きましたが、おそらくお相手した茂木健一郎さんもちょっとカチンと来たんじゃないでしょうか(住吉美紀アナはキャーキャー言ってただけ…笑)。だって、いきなり「茂木さん…本気で笑ってないですよね」ですから。年上の学者さん(タレントさん?)をつかまえていきなりこれですからねえ。いくらイチローと言えども失礼でしょう(笑)。いや、茂木さんがやられるのってあんまり見れないんで、こちらとしては楽しかったんですけどね。やれやれ〜みたいな感じで。
 彼はとにかく自分流にこだわっています。自分の感覚を信じきっています。人のアドバイスをはなから拒否するわけではないと、自ら言い訳していましたが、本当のところはやっぱり自分の感覚のみを信じています。
 その自分の感覚を信じるということの二面性を、私ははっきりそこに読み取りましたね。
 どういうことか、またまた私の「モノ・コト論」で説明しましょう。
 彼の言う感覚というのは、例えばバットという道具(物)から伝わってくる感覚です。すなわち自己の外部たる「モノ」ですね。それらから何ものかを受信して、イチローの脳の中で起きた何ものか、それが「感覚」です(クオリアなのかはよくわかりません)。これはワタクシ的に言うと、「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態です。
 で、突然茂木さんの方に行っちゃいますが、彼は彼の感覚をすぐに「言葉」にしてしまうんですね。これは実は私もそうなんでよくわかるんですよ(もちろんレベルは違いすぎますが…)。すぐに理屈をこねてしまう。言葉にするコト、言葉にできるコトに快感を覚えてしまう。これはまさに私の言う「コト化」です。情報化。内部化。不変化。人間のサガです。
 イチローはそれを言葉にするんじゃないんですよね。いや、今日も言葉でたくさん語ってましたが、もういつもそうなんですけど、彼の言葉はほとんど「無門関」なみです。正直意味のあるようなないような。なんとなくケムに巻かれているような。実は答えがないような。まさに禅問答の本質に近いところがあるんです。お前らどうせ分からないだろ、そこから出発しろ、みたいな。
 だから、彼は、たとえば茂木さんの言葉にいつも同意しないんです。同意する時は、「はい、そうです」とは絶対言わないで、「そんなの当たり前じゃないですか!」とか言ってしまう。否定したり、微妙に外したりするのはもちろん、同意する時でも、常に上に立とうとしている(実際上なんでしょうが)。これはまさに老師の恫喝にも似ていますね。一つの正解を出した途端、「そんなのは当たり前だ!もう一度坐り直して来い!」って言い出すんですよ(笑)。
 さっき書いた通り、茂木さんは「コト化」が大好きな方です。で、イチローはそういう他人の脳に発生した「コト」は基本信じないし受け入れない人なんですね。一方、バットやボールが教えてくれる何ものかは信じて受け入れるわけです。つまり、「コト」は受け入れないが「モノ」は受け入れるということですよ。そういう意味では、まさに彼は職人に近いですね。モノによって成長させられていく。モノの中に自らの到達点を見る。自分の中じゃないんです。
 今日は感心するとともに、ちょっと不快になりました。というのは、イチローはああいう神ですから全然いいんですけどね、最近の若者の傾向として、「はい、そうですね」と言えない人が多いものですから、私も日常において茂木さんが体験した不快感を得ることがたびたびなんですよ。「っていうか…」という返しが多すぎる。イチローレベルなら許せますけど、一般人は一般人らしくもっと謙虚になりましょうよ。「っていうか…」の後の内容が貧弱すぎるんで。なんてね。つい日頃思ってることを言っちゃった(笑)。っていうか、自分もそうじゃん。
 さて、私、正月二日のスペシャルを不覚にも見逃してしまったんですが、来月再放送するということで少し安心しました。楽しみです。トークスペシャルを先に観たのは正解だったかもしれませんね。

イチロー・トークスペシャル

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2008.01.21

土方巽の命日にちなんで

Kamaitachi08 今日は土方巽の命日です。1986年の今日、57歳で亡くなりました。
 先日書きましたように、私と、というよりウチのカミさんと「鎌鼬」との濃い関係が発覚してからというもの、すっかり彼に取り憑かれたような気がしまして、それこそ心がおどろおどろしく踊っております。全く不思議としか言いようがありません。今は早く田代に行きたくて仕方ありません。
 正直、今までは義母の実家に行くと言っても、まあご挨拶やら、またそこに住むカワイイ猫のミケちゃんに会いに行くというのが目的であって、自分にとってこのような意味があるなんて、夢にも思いませんでした(まあ、夢に出てきたとしても、とんでもない夢として片づけられちゃう内容ですがね)。
 ちなみにウチのカミさんの生家は、その「鎌鼬の里」田代からさらに一つ峠を越えた軽井沢という山里です。その反対、田代から町の方へ、つまり横手盆地に方に峠を下ると、土方の生まれ故郷である新成に至ります。彼はどうして七曲峠を越えて田代に来たんでしょうね。親戚でもいて、遊びにいったことがあったのでしょうか。小さい子どもがちょっと遊びに行くというような距離ではありません。小学校に入る頃には秋田市に越していたようですから、友だちがいたとかも考えにくい。そのへんについては細江さんや田代の長老さんにうかがってみたいと思っています。
 さて、実はセンター試験やら、自分の学校の入試の準備やらで忙しく、「鎌鼬」もしっかり鑑賞していないのですが、ちょっと思ったことを。
Higikatanikutai 土方巽の存在自体、あるいは彼の「舞踏」というもの、またこの「鎌鼬」という写真集に漲るエネルギーとは何なのかといいますと、これはまさに「モノ」の生命力であると思います(いつも自分の「モノ・コト論」で片づけてしまって申し訳ありません)。西洋化とはまさに「コト化」そのものです。それに対するアンチテーゼであり、また逆襲でもあった土方。彼の名前は「巽」ですが、彼に内在するものは完全に「艮」でした。
 東北…おとといの記事にも書きましたとおり、大物忌神社から「奥」は陸奥のまた奥であり、まさに物の怪の棲み処です。これはもちろん誉め言葉ですよ。憧れです。土方の舞踏や言語、いやその存在自体も縄文やアイヌのように、まさに大地に根ざした「モノ」です。彼は西洋的に「立つ」ところから始めるのではなく、「立てない」あるいは根を張って「動けない」ところから踊り始めます。本来「モノ」である身体をコントロール(コト化)するのではなく、そのモノの本質である外部性や不随意性を根拠に動きを生み出します。それがいわゆる「不具」への憧憬として言語化されたりもしてますね。
 言語ということで言えば、土方や寺山修司、あるいは太宰治もそうですけれど、彼らの使う日本語は外国語なんです。彼らにとっては(ウチのカミさんにとっても)標準語は外国語です。彼らのあの魅力的な「日本語」は実は「不随意」や「不具」から生まれるものなんですね。「コトの葉」というより「モノの葉」。
 私は残念ながら標準語が母語だというある意味不具者なんですが、彼らの「標準語」に魅力を感じるのは、それが彼らの「母語」のフィルターを通した「標準語」だからだと思っています。いや、違うな。「標準語」のフィルターを通した彼らの「母語」だからだ。少なくとも私の使う、私の知っている「標準語」とは明らかに違う。私の使う「標準語」はまさに作られた「コトの葉」であり、そこには「土」に根ざした命は感じられません。
1297164542 で、もう一度話を元に戻しますと、「鎌鼬」、あれは「モノノケ」と「モノノケ」の出会いによって生まれたものすごい生命体なんです。土方巽という(芸術家ではなく)物の怪を、田代の物の怪たちが迎え入れた。繰り返しますが、物の怪という言葉に私は敬意をこめています。
 あそこには「モノ」を受容する時の笑顔と驚きの表情が満ち溢れている。私はその表情こそ「もののあはれ」の形だと思うんです。「あはれ」を哀れと取れば暗い「嘆息」になりがちですが、「あはれ」には「天晴れ(あっぱれ)」という意味も含まれています。私も外部の者として、秋田の方々に受容されていることを身にしみて感じているので、あの農村で奇跡的な出会いがあり、そしてとんでもない「物」が創造されたことを理解できます。
 でも例えば私のような「よそモノ」ではあのような奇跡は起こりません。また、単なる同じ村の住人どうしでもそういうことは起きませんね。同村の生まれでありながら、秋田市へ出て、そして東京へ出て、そして最後は世界に飛翔していく(いや根を張っていくかな)土方巽と、ある意味その「土」から逃れられない農民の方々との出会いだったから、ああいう物が生まれたんでしょうね。
 言葉に限らず、土方の「存在」が(西洋的な意味での)都会のフィルターを通過することによって、結果としてそこに彼の「土(土俗性と言うのは少し抵抗がありますね)」が凝結していった。それが故郷の「土」と強力な化学反応を起こしたんでしょう。そんな気がします。
 いずれにせよ、今の私は、ゆっくりとその「物」を味わい、そして春にその「土」の上に自分も少し根を張ってみようと思っているわけです。楽しみです。

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2008.01.20

夏目漱石『彼岸過迄』@センター試験

Soseki22 センター二日目の夜です。生徒たちは学校に集合して自己採点。まあそこそこの結果でしょう。安心しました。国語は案外取れてないのでちょっとがっかり。やっぱり漢文ができてないなあ。いちおう教えたことを駆使すれば出来るはずの問題だったんですけど、う〜ん、その「駆使」の部分をもうちょっとちゃんと教えなきゃダメだな。反省。
 さて、その国語ですが、昨日は第1問の話をしました。今日は第2問についてちょっと。
 漱石が出たんですよ。びっくりしました。しかし、おかげで読みやすかったかも。生徒たちもワケわからん感覚的な現代小説よりも良かったと言ってました。漱石って論理的ですからね。
 作品は「彼岸過迄」。私もずいぶん前に読んだまま忘れていました。でも、出たところはなんか妙に印象に残っているところでしたね。いわゆる「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」のシーンです。別に好きではない女、どちらかというと一緒になりたくない女に関しても、そこに別の男の影がさすとなぜか妙な嫉妬心が湧くというやつです。
 と言いますか、私の知る限りの漱石って案外これにこだわっている。「嫉妬心」、これは彼に言わせれば「愛情」の裏返し(裏打ち)なんですけど、彼は小説の中でその様々なパターンを試している感じがありますね。単純に男女の愛情を描くのではなく、逆説的に表現している。
 正直教師なんかやってますとね、以前「蒲団」のところで書いたように、「存在の権利を失った嫉妬心」がふつふつとわいてくることもあるわけでして、そういう点では漱石に共感することもあるけれども、一方ではまた、そのふつふつを抑え込んで日常を生きる自分と照らして、おいおい漱石さんよ、いい歳していつまでもそんなことにこだわってらっしゃるな、とも言いたくなるわけですよ。なんかそう考えると漱石って年甲斐もなく青春してたオジサンだったような気もしてきます(ま、小説家、芸術家はそういうものなんでしょうけど)。
 で、面白いのは、その嫉妬心が女性だけでなくいろいろな方面に向かったことでしょう。特に西洋文化に対する屈折した嫉妬心は面白い。イギリス留学ですっかり萎えて帰ってきた漱石。つまりハイカラな女にさんざん心奪われた末に、そいつに弄ばれて、さらにはずいぶんとこっぴどくバカにされたと。で、もうこんな女のことなんか知らねえやと言いつつ、いざ離れてみると…って感じですかね。いざ離れてみて「日本」というホームグラウンドに帰ってきたんですけど、世間はやっぱり西洋さんとイチャイチャしてる。それを見るにつけ、ふつふつと男の嫉妬心が…ということです。
 この前女の嫉妬について書きましたね。女の嫉妬は女に向かうけれど、男の嫉妬はですねえ、まずは対象に向かうんじゃなくて関係に向かうんですよ。つまり三角形にね。三角形自体に向かう。
 そしてそれぞれの頂点たる、まず敵である(べき)男に対してはコンプレックスという感情がわく。女は女に怒りや憎しみをぶつけますが、男は男に劣等感を抱く。「彼岸過迄」の「僕」も高木に異常なコンプレックスを抱いてますね。
 女に対してはどうかといいますと、これは難しい。これはですねえ、そうした関係性への嫉妬の裏返しとして、違った意味の愛情が結露していくんですよね。実はここが男にとって一番辛いところです。望んでいない愛情ほど厄介なものはありませんから。
 さらに困ったことに、三角形の最後の頂点である自分ですね、その自分に対してもある種の感情が爆縮していく。ブラックホールのごとく。ここんとこを漱石は描いたのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。もちろん、さっき書いたように、それは女に関することだけではありません。国家やら言語やら文化やら哲学やら文学やら…。
 これについてはもっと語れるような気がしますけど、このへんでやめときます。と言いますか、大人な(?)私はそれに真面目に対峙してるヒマも根性もないので、それこそ漱石センセイにおまかせしますわ。
 まあ、ここまでの機微を理解せよとは高校生には言えませんな。出題した大学の先生はきっと理解してると思いますけどね(笑)。

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2008.01.19

「闇」「奥」「深さ」「もの」@センター試験

Oku 今日はセンター試験1日目。今年の国語はどうだったでしょうか。
 今までずいぶんとケチをつけてきたセンター試験の国語ですが、今年はほとんど問題のない問題でして、本番としては生涯2回目の満点を取ることができました(おいおいたった2回かよ!)。
 つまり、自分が間違った問題は悪問と決めつけ、けっこう徹底的にケチをつけていたんですよね。まあそれは生徒に対する、あるいは自分に対する慰めの意味もあったのでありまして、そういう意味においては、今年は生徒に対して厳しい先生にならなければなりませんね。
 漢文が難しかったとみんな言ってました。いや、今までが簡単過ぎたんだと思いますよ。今年は論理的な読みを要求するいい問題でした。古文もようやく高校生レベルまで易化しましたので、これで評・小・古・漢のバランスが取れたと思います。
 さて、今日はその中の第1問、評論の内容について書きます。昨年も「予言が当たった!」とかほざいていたワタクシですが、今年もウチの生徒にとっては解きやすかったかもしれません。実際ほとんど間違わなかったようですし(てか、全国的にこれは平均点高いでしょう)。
 狩野俊次さんの「住居空間の心身論−『奥』の日本文化」からの抜粋。前半は、「闇」の積極的な意味を考えることで、「明るい近代」を批判します。これはですねえ、ワタクシの駄エッセイ「暗黒」を読ませられていた生徒諸君には分かりやすかったのでは(笑)。
 後半の「奥」論は面白いですね。「奥」は時間的な要素も含んでいると。たどりつくまでのプロセスが大事だと。なるほどと思いました。「間」との類似性の指摘も納得。
 これは私の「モノ・コト論」で言いますところの、「モノ」ですよね。闇にしろ夜にしろ奥にしろ。私は「モノ」としての「道の奥」すなわち「陸奥」論を展開したこともあります。今回もこの評論を読みながらついついいろいろと妄想してしまいました。私にとってはあの「大物忌神社」から北は完全なる「道の奥」ですから。
 さてさてついでにもう少し妄想しておきますと、「闇」に存在する「深さ」や「奥」における時間的要素ですが、これはもちろん芸術にも当てはまりますね。あらゆるジャンルにおいていわゆる深みのない作品の多い昨今。分かりやすさはやっぱり近代の所産であって、そこには共通認識はあるけれども、多様性はない。つまり、奥の院へ向かう参道に立った時の、あの緊張や恐怖や興奮がないんですね。プロセスでの自分の感情や感性の参与が拒絶されている。いつも言うように、これは生命力の減退する状況です。多様な縁起がないんですから。
 一昨日登場した土方巽なんか、完全なる「闇」であり「奥」です。「暗黒舞踏」の「暗黒」とはそういう意味ですよ。「ワケわからん」ですましてしまう人はそれまでです。つまり、そういう人は参道の奥に何も見えないのを理由に歩を進めない人なんです(私もまだそういう人ですが)。緊張や恐怖や興奮の中で対象に近づこうとすることによって見えてくるもの。その「モノ」は実は最初からそこにあるのではなくて、自分のその働きかける存在によって生起するものなのでした。
 というわけで、今年の評論問題は解きながら様々な妄想の浮かぶ、なかなか奥深い内容でありました。

興味を持った方はこちらでお読み(お解き)下さい。

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2008.01.18

『グラッペリの思い出』 ベンヤミン・シュミット(ヴァイオリン)

Beni Schmid Obsession - Hommage a Grappelli
Oc554 最近の若手モダン・ヴァイオリニストでは、この人は悪くないなあと思っていました。やはり新世代だからでしょうか、古楽器演奏の影響も受けているようで、彼の弾くバッハの無伴奏やヴァイオリンとチェンバロのソナタなんか、ヴィブラートも抑え気味、ボウイングが軟らかく弱音もそこそこきれいでしたからね。昨年は小澤征爾指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にソリストとして抜擢されるなど、大活躍だったようです。
 そんな彼がジャズのアルバムを出しているとは今日まで知りませんでした。今日聴いた録音のほかに、もう一枚入れているようです。今年はジャズ・トリオとして来日するという情報まで。それもあのビレリ・ラグレーンとの共演だと言うじゃないですか(このアルバムでもゲスト出演してます)。ベースはもちろん、元ウィーン・フィルのカリスマコントラバス奏者(今ではすっかりジャズ・ベーシスト)のゲオルク・ブレインシュミットです。
 これはなかなか興味深い組み合わせですね。まあ、ビレリ・ラグレーンもジプシー・ジャズが本業とは言え、けっこうクラシックもいけるようですし、いやいやちょっと待てよ、彼らはクラシックを演奏するんじゃなかった、ジャズだ…えっと、ライヴでビレリ・ラグレーンが二人をどのように引っぱるか聞き物です。
 というのは、このアルバム、なかなかいいですし、みんなうまいんですが、やっぱり全体に固いんですよ。アルバムタイトルにあるように、これは完全にステファン・グラッペリに対する敬意を表した作品なんです。ですから、シュミットも思いっきりグラッペリ風に弾こうとしている。しかし、しかしですねえ、やっぱり一流モダン・ヴァイオリニストの性でしょうか、やっぱりちゃんとしすぎている。
 このアルバムを聴くと、いわゆるクラシックの王道的レッスンの内容、あるいはその目指すものが、ジャズ的なものとはあまりに性質が違うということがわかります。ひるがえって、やはりグラッペリが孤高のジャズ・ヴァイオリニストだったということが確認できますね。彼がクラシックを弾くと、逆に完全にジャズになってましたから。つまり、両立は非常に難しいということです。
 では、クラシック奏者が弾くジャズと、ジャズ奏者が弾くクラシックと、どちらが面白いかというと、これは間違いなく後者です。モーツァルト・イヤーのチック・コリアによるピアノ・コンチェルトはとっても楽しかった。前者はたいがい痛くなるんですね。このアルバムはかなり奮闘していますけど、それでもやっぱり痛い直前くらいまでは行っています。今、世界で活躍するいわゆるジャズ・ヴァイオリニスト(日本人にもたくさんいますね)は、ほとんどちゃんとクラシックを勉強した方々です。ですから、どうも軽みが足りないんですよね。逆に音大とかで勉強してない、民族音楽のフィドラーたちなんかの方がずっと上手だったりします。結局はボウイングだと思うんですけどね。いわば、クラシックは楷書、ジャズは草書。そして、クラシック奏者によるジャズは行書って感じかな(バロック・ヴァイオリン奏者の方が草書に近いかも)。
 本当は楷行草三体完璧にできるのが理想なんですがね。書の世界でもそれは難しいようです。
 ちなみに私はどれもできません。てか、まともにできるジャンルがありません(笑)。そんな人間が偉そうなことは言えませんけど、聴いて違いはわかりますよ。
 でも、まあこうしてクラシック界の人が違うジャンルに挑戦するというのはいいことです。特に硬直化しがちなクラシック界に生命を送り込むという意味では、充分に価値のあることだと思いますよ。シュミットさんの今後の活躍に期待しましょう。というか、生ビレリ・ラグレーン聴きたいなあ、今年は。

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