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2008.01.31

『スポーツニュースは恐い―刷り込まれる〈日本人〉』 森田浩之 (日本放送出版協会)

14088232 某大学の過去問を生徒と一緒に解いてましたら、国家論についての評論が出てまいりました。「他者」との対比としての「われわれ」という幻想が「国家」である、言語や神話はそのためのフィクションであるという、まあよくある論でしたが、それを読みながらこの本を思い出したので紹介します。昨年読んだものです。
 この本、なかなか読み物としては面白かった。ツッコミどころ満載でして。
 誰もが感じているスポーツニュースの特殊性。それを好きか嫌いか、あるいはそれに違和感を感じるか感じないかは別として、NHKのニュース番組の中でのスポーツコーナーでさえ特別な明るさを持っていることを、誰も否定できないと思います。
 その特殊性に注目し、それを「オヤジによる洗脳」と捉えて憂慮したのがこの本です。なるほど、女性選手へのセクハラ的興味や、日本的ジェンダーや集団主義の押しつけ、そしてナショナリズム…たしかに日本のオヤジ臭いですね。そのこじつけ方は非常にうまかったと思います。
 ま、でも、考えてみればスポーツニュースを見るのは実際オヤジが多いわけでして、テレビ局としても当然顧客に合わせた作りをせねばならないのですから、スポーツニュースによって我々が洗脳されているというよりは、オヤジたちによってスポーツニュースが洗脳されていると言った方が、正しい因果関係を表しているのかも知れませんねえ。
 この本ではとにかくそういうスポーツニュースのウソ臭さにだまされるな!的なことが繰りかえされるわけですが、どうなんでしょうね。私たちはスポーツで起きた事実のみを知りたいと思っているんでしょうか。スポーツというのは一般のニュース的な単なる出来事なんでしょうか。
 私は全くそのように考えていません。特にプロスポーツについては。つまり、それらはエンターテインメントそのものであり(スポーツという言葉自体本来そういう意味ですよね、たしか)、演劇性があるのは当然だということです。演劇性とはフィクションであり「物語」であります。
 筆者も本書の中で何度も「物語」という言葉を使っています。もちろん憎むべきものとしてね。一般新聞までいかにもな「物語」風な文章を書くと。ミシェル・ド・セルトーまで登場させて心配してます。いいじゃないですかねえ。たしかにちょっとやりすぎ(痛すぎ)な文にこちらが照れることもありますけど、まあスポーツというのはそういう性質のものだから、それでいいのではないでしょうか。この前、宮沢賢治の言葉として紹介しました「物語」のあり方に照らしてみれば、そうやって本人も意識していないようなナラティブを作り上げていく行為というのは、案外高尚なものなのかもしれませんよ。
 私はこの本で大笑いさせていただきましたよ。なにしろ、そういう「物語」的な新聞の記事やタイトル、テレビのスポーツニュースのコメントなんかを、たくさん集めてくれてるんです。それにいちいち目くじら立ててる筆者も含めて、大変に面白い。よくぞここまでツッコミどころを集めたなと。だから、スポーツVOWみたいな感じで作れば良かったんですよ。カミさんも言ってました。みうらじゅんみたいな感性で書けば良かったのにって。たしかにそうだ。
 もうこうなると文学の一ジャンルって感じ。そうですねえ、私のVOW大賞は、谷亮子選手についてのこの記事ですかね。『戦うママは忙しい「一本勝ち」→「授乳」→「一本勝ち」→「授乳」と畳の内外を走り回る』(笑)
 さてさて、この本では、なぜイチローは「物語」を背負わないかという疑問に対する答えとして「イチローのもつイメージがとっくに〈日本人〉の枠をはみだしている」と片付けてしまっています。そうじゃないでしょう。彼は十分に日本人のイメージを代表してますよ。つまり、リアルに彼はアメリカを単身打ち負かす「侍」であり、それはすなわち、我々が作りたがる物語の主人公像とその物語の結末なわけでして、そう、私たちの想像力と創造力を超えた、まさに生ける伝説、生ける神話、生ける物語だからです。私たち凡人が物語る必要がないほどにとんでもない存在なんですね…と、これもまたある意味大仰な物語とも言えますか(笑)。
 
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2008.01.30

『実践 学校危機管理―現場対応マニュアル』 星 幸広 (大修館書店)

Hjugi 今とっても忙しいシーズンでして、なかなか本を読めません。机の上に20冊くらい積み上がっているんですけど。
 そんな中、久々に読んだのがこの本。う〜ん、これもまた仕事の一部であって読書とは言えないか。いや、別に上司に読めと言われたわけではありません。どちらかというと上司に読んでいただこうと思って、図書室に入れてもらったものです。
 ウチの学校は、まあ田舎の小さな学校ですから、ある意味平和でして、今までのところ危機的な事件・事故はありませんし、モンスターなペアレントもあんまりいません(スチューデントはある意味かわいいモンスターですけど)。しかし、こういう時代ですからいつ何どきそういうことに巻き込まれるかわかりません。ある意味、こういう平和な学校ほど、いざそういう事態になった時にいろいろな処理ミスが生じやすいのかもしれませんし。
 企業でもそうですね。ここのところ会社のトップ3が頭を深々と下げるような記者会見をたくさん見ますけど、そういう会社って、どちらかというと在庫の管理や製品の管理が出来ていなかったというより、危機管理に失敗したような気もします。有名企業、常に修羅場の企業は、そのへんの管理・処理が上手で、表に出てこないんじゃないでしょうか。よくわかりませんが。
 とにかく世の中で最も危機管理に対する意識が低いのが学校であるのはたしかです。ま、世間知らずの集合体みたいなところですからね。これはしかたがない。だから勉強しなくてはならないわけです。私は「悲鳴をあげる学校」「でっちあげ」を読んで、これはもしかして対岸の火事ではないのではと危機感を募らせたのでした。それで買ってもらったのです。
 この本は、実際に学校にまつわる事件・事故、あるいは訴訟やクレームなどに関わってきた元警察官の方が書いた本でして、たしかに参考になる記述がたくさんありました。さすがその道のプロでして、内容がリアル。なるほど〜と思うことばかりでした。
 印象に残ったのは、相手がモンスターであれば、あんまりまともに取り合わなくていいんだということです。まともに取り合わないというのは、いいかげんにしていいということではありません。いわゆる本当の意味での、というか、教育現場的な意味での「誠意」や「真心」や「サービス精神」はいらないということです。
 いや、星さんはある部分ではそういうことこそ大切と説いているんですけど、なんていうかなあ、どうも先生という「善人」は、自他に「善人」であることを期待されすぎてるんですよね。なかなか「悪人」になりきれないと。私もそうかもしれません。そうすると、相手が「悪人」の場合は、その悪人の思うつぼになりがちなんですね。それはよくわかります。わかっているけれど、まず相手が「悪人」であると決めつけたくないというのがある。生徒に対してもそうですね。で、先生って「大人」と接するのが苦手ですから(笑)、大人の悪人(モンスター)が登場しちゃったりすると、うまく対応できないんです。
 で、いつも大人の悪人(モンスター)と対峙している警察官だった星さんは、その退治方法、それも最も適当な(ある意味テキトーな)退治方法を知っているわけですよ。それをリアルに教えてくれているわけです、この本で。
 非常に参考になったのは、実際の会話例ですね。相手の質問やらおどしに対してこちらからも絶妙な質問を織り込んでいく技。これはさっそく使ってみましょう(使う場面があったら)。マスコミとの対応コーナーも面白かった。小泉元首相がいかに見事に適当(テキトー)だったかよく分かります。彼はそういう意味では天才的な受け答えができる人でしたね(正しい、正しくない、好き、嫌いは別として)。そして、ヤクザさんとの対応については、これは学校でというより、日常生活で役に立ちそうですね。いつそういう方々とお友達なるか分かりませんから(笑)。
 と、読んでいて思ったのは、これはやっぱりプロレスだな、演劇だなっていうことです。純粋なリアルファイトでは絶対負けます。生徒に対する戦闘能力だけでは、絶対に大人なモンスターにはかないません。そういう時こそ冷静に相手の出方をうかがって、相手の勢いを利用して、賢く対処しなければなりません。そういうことを、恥ずかしながら教師歴二十数年目にして初めて知ったウブなセンセイでありました。
 あと、「悲鳴をあげる学校」にもありましたが、そういう闘いこそ相手を理解し近づくチャンスでもあるということ。たしかにそれもありますね。そう思わなきゃやってられないってのもありますが。

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2008.01.29

今までありがとう egbridge & egword そして…これからも

Eg 国語の試験問題を作るために、まさに egbridge と egword を使っている時でした。突然の販売終了を告げる一通のメールが…。10年間つきあい続けてきた彼女とデート中、突然彼女の父親から「別れてくれ」と言われたようなもの…。
 予想だにしなかった突然の知らせに、何が起こったのかさえ分からず、本当に動揺してしまいました。
 egbridge とは Mac で使う日本語入力システム(かな漢字変換システム)、 egword は Mac専用のワープロソフトです。私は本当に両egにお世話になりっぱなしでした。と言いますか、正直、これらがないと仕事が出来ません。今もこのブログを書きながら egbridge の優れた変換機能に依存していますし、国語の教師ということで、横書きの文書をほとんど作らない私からしますと、egword 以外で文書を作るということはありえません。一般ユーザー用で、これほど美しい縦書きの文書を作れる.ワープロ・ソフトがないからです。
 私の縦書きへのこだわりは、まあ私の作る(最近全然更新してませんが)サイトをご覧になっていただけば分かると思います。本当はこのおススメも縦書き表示したいくらいです(ちょっと検討中)。
 とにかく、某 word のように、ただ文字を並べるだけの縦書きワープロでは満足できないのです。例えば、ちょうど今もそういうシーズンなのですが、ウチは私立学校ですから自前で入試問題を作るんですね。以前は原稿だけ自分で作っていました。今はレイアウトから印刷まで自分たちでやっています。これは外部に出るものですから、それなりの体裁で作らなければなりません。また、当然受験生が読みやすく解きやすいものにする必要があります。そのためには、ただ字を並べるだけでなく、部分的に字間や行間を調整したり、ベースラインを動かしたり、場合によっては字の縦横率を変えたりする必要があるんです。ま、いわゆる商用DTPに近いことをしなければならないんですね。そんな時、私たちシロウトは10万円近くするプロ用のソフトは使えません。ですから、手頃なお値段(そんなに安くはありませんが)で、かつ動作が軽く安定している egword は重宝していたのです。いや、重宝とかではなく、egword しか頼るものがなかったのです。
 そんな素晴らしいソフトが突然の開発中止、販売終了…ありえません。たしかに市場としては儲からないのでしょう。でも、でも、やっぱり日本語の縦書きは大切な文化ですから、なんとか生き残ってほしかった。とりあえずは今のバージョンを使えるまで使い倒すしかありません。
 恥ずかしい話ですが、あまりのショックに職場で泣きべそかいてしまいました。そして帰宅し、いったい何が起きたのかを確認すべく、2ちゃんねるのegスレを見てみました。みんな私と同じようにかなり動揺しているようです。すると…次のような書き込みが!!

______________________

236 名前:中の人 メェル:sage 投稿日:2008/01/29(火) 09:39:50 ID:8s5ku6u40
中の人こと、開発責任者の廣瀬と申します。

こんなにたくさんの方に多くの感想をいただき大変驚いています。
自宅はUSENなんですが、昨夜はUSEN規制中で書き込めませんでした。

現場の責任者として力が及ばずこのような結果になってしまい
大変申し訳ありませんでした。
また、これまでお使いいただいたお客様には心より御礼申し上げます。

この掲示板では多くのフィードバックや励ましのお言葉を頂き、毎日チェックして
少しずつですが製品に反映して参りました。
しかし何も回答しないこともありました。不愉快な思いをされた方にはお詫び申し上げます。

多くの方からご要望いただいた禁則処理や表計算機能などを盛り込む予定だった
Universal 3 は幻となってしまいましたが、私のワープロにかける情熱の火は
消えていません。

35歳でプログラマは定年なんてことをブログに書きましたが、
もう一度書いてみようと思います。

家族も理解してくれました。

いつか皆様にお披露目できる日が来るようにがんばります。

______________________

 うぉ〜、神降臨!!
 実はこのスレには、今までも「中の人」というHNで、エルゴの社員と思われる方が頻繁に現れていました。妙にリアルな書き込みをなさるし、みんなが書いた要望が次期製品で実現したりするので、いったいこの人は誰なんだ?サポートセンターの人か?みたいになってたんですよ。そしたら、なんと創り主様であったと!
 廣瀬さん、あなたは本当に素晴らしい方です。まさに神です。ネ申です。仏、イムです。なんという優しさ。愛。慈悲。こだわり。情熱。
 いや、まずは感謝と労いの言葉を…廣瀬さん、スタッフの皆さん、今まで私たちのために素晴らしいソフトを開発してくださりまして、本当にありがとうございました。そしてお疲れさまでした。今の私があるのはeg〜のおかげです。これは大げさでなく、実際にeg〜のない生活は考えられませんから。
 う〜、しかし感激だなあ。10年来の恋人と強制的に別れさせられると思ったら、本人に「いつかまた会いましょう。待っていて下さい」って言われたようなものですから。泣けます。今、本当に涙が頬を伝いました。
 本当に大変だとは思いますが、ぜひ私たちを見捨てないで下さい。そして日本の大切な文化の継承のためによろしくお願いいたします。何かできることがあれば何でも協力いたします!
 入試、定期試験、卒業式、そして日々の教材…明日も egbridge & egword と頑張って仕事します!!

ps 私は親指シフト使用者でもあります。なんで、普通に「かな」で「かな」を打って、美しい縦書き文書を作ることが、どんどん難しくなっていくのでしょうか。何か間違っているような気がします…orz

開発者廣瀬さんのブログ

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2008.01.28

矢野沙織 『Little Tiny』

5125bs65rl_aa240_ 遅ればせながら聴いてみました。ずいぶん変ったなあ、というのが最初の印象。
 ジャズにおいて「若さ」というのが何を意味するのか、これはなかなか難しい問題です。日々、自分の学校のジャズバンド部の音や、その音を奏でる「若者」に触れている私は、その魅力というのがあるということは確実に言えるのですが、それがジャズの本質とどう関わるのかというのはなかなか分かりません。
 ジャズは老練な世界であるという印象があり、そこにその対極にあるような人や音が登場すると、大変に新鮮に感じられる、というのもあるかもしれません。なんというか、未来のジャズ・プレイヤーとして見るというか、何が足りないのかという観点で聴くというのではなく、私たちが「子ども」に対してそうであるように、理屈抜きに今「カワイイ」と思っているのかもしれません。
 まあ、これはジャズに限ったことではなく、いろいろな世界であり得ることです。そして、決して悪いことではないと思います。とにかく、日々の彼ら彼女らを見ていると、なんとも大人の「ジャズ」的な生活からはかけ離れてますし、知識やこだわりもいわゆる「ジャズ・ミュージシャン」らしくありません。しかし、たしかにそこに「楽しさ」があるのは事実であって、もしかすると、いわゆる老練な大人たちは、経験やら知識やら学術やら思い込みやらで武装してしまった自らのジャズ観をいとも簡単に崩し溶解してくれる若者の音に、ジャズの根っこの根っこを聴いているのかもしれませんね。
 しかし、これがですねえ、プロを目指す若者となるとちょっと難しくなります。あるいはもうプロである若者。
 矢野沙織はまさにもうとっくにプロである若者です。21歳になったのかな。21歳でもう7枚もアルバムを出しています。彼女の場合は、もう最初の頃からチャーリー・パーカー節を聴かせてくれたりして、まあ、単なる「カワイイ」ではなかった。10代の頃から大人なプロ顔負けの世界を作り上げていました。だからこそ、厳しい評価も受けました。「カワイイ」ではなく「ムカツク」対象にすらなっていたようです。野暮な大人がいるもんですねえ(笑)。ま、期待もこめての痛言だったのだとは思いますけど。
 しかし、彼女は強かった。まだ子どもだったのにねえ、そういう大人な試練をしっかり受け止めてですねえ、そしてちゃんと成長しました。そのあたりのプロセスというか、その強さを支える彼女の性根のようなものは、こちらの番組ではっきり分かりましたね、私は。
 結局は野暮じゃない立派な大人に出会った、いい師匠に出会ったってことでしょうね。ジェームズ・ムーディー。きっと彼に音楽だけでなく、人生といいますか、音楽とジャズと何十年もかけてどうつきあっていけばいいか教わってるんでしょうね。ムーディーの存在自体が身をもって教えてくれそうですね。
 というわけで、このアルバムは今までと大きく印象が変わっています。正直、彼女のアルバムというより、ロニー・スミス・トリオwith矢野沙織という感じで聴けます。つまり、単なるテクニックや音色だけでなくて、アンサンブルできているということですよ。意識がかなり高い次元にあるんでしょう。
 大御所の演奏という感じではありませんけれど、ベテランの伴奏に乗って落ち着いて吹いていますね。ある意味では、吹き飛ばすような若さは感じられなくなったのかもしれません。しかし、そこに物足りなさは微塵も感じませんでした。充実感ていうのかな、安心して全体像を聴いたなという実感。
 そして!しかし!最後のトラックは…。そう、あの美空ひばりとの共演ですよ。私も絶賛したジャズ&スタンダードに収録されている10代のAトレインですね。いやあ、うまい具合にミックスしましたね。けっこう自然な仕上がりじゃないですか。きっと痛いことになるんだろうなと思って恐る恐る聴いたら、案外よかった。
 で、やっぱり美空ひばりはなあ…天才ですわ。矢野沙織も天才の部類に入ると思いますけどね、ああやって絡むと,天才における「格」の違いを感じちゃいますね。なんだろ。やっぱりあのリズム感ね。スウィング感とかじゃなくて、リズム感。なんかなあ、矢野沙織のリズムが甘く聞こえてしまうのは、なぜ?w…もう、少女ひばりは全然「カワイクナイ」けど「ムカツカナイ」…天才少女という言葉はひばりのためだけにあるのかもしれません。ふぅ。
 よくこんな恐ろしいことに挑戦しましたね。原信夫を消して自分の音を入れちゃったってことですな。それだけでも恐れ多いっす。そんな無謀な挑戦を聴くだけでもこのアルバムは価値ありかもです。

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2008.01.27

小橋→茶道具→フォリア

 今日は濃い一日でしたなあ。テーマは「アンサンブル」「様式美」「演劇性」。
 まずは、フジファブリックをガンガン聴きながら東京へ移動。彼らもけっこうアンサンブル感や演劇性の強いバンドですね。
Thumb_im00068460 上野毛の駐車場に車を置いて、いざ渋谷のHMVへ!そうです。今日は小橋建太選手のトークショー&握手会があるのです。店内で12.2のDVDを購入しイベント参加券をゲット。150人のファンの皆さんとともに小橋選手を待ちます。と、出てきたのはなんと谷口周平選手。お約束のボケですね。結局谷口選手は温かいブーイングを浴びてしまいます。そしてにわかに起こるコバシコール。本物の登場です。
 今までも生小橋選手は何回も見てきましたが、こんなに近くなのは初めてかな。感激。そして、楽しいトークのあとの握手会で、ついに小橋選手と握手!そして会話!小橋選手、本当に一人一人とていねいにお話しをしてくれます。本当に誠実で実直な方ですね。改めて感じましたが、こういうタイプのキャラクターで人気を得るプロレスラーというのは稀有ですね。逆にプロレスが伝えることができるものの幅広さとも言えますか。
 あっそうそう、ついでと言ってはなんですが、せっかくですから谷口選手とも握手してきました。彼(と青木選手)には話さなきゃならないことがあったんですが(これを話せば一緒に食事に行けるらしい…)、時間がなかったので、それは次回どこかで。
Chadougup さて興奮さめやらぬワタクシは、その興奮を抑えるため、いや、その興奮をさらなる高みに昇華するため、上野毛に戻りました。そうです。いきなりですが、茶道具の展覧会に向かったのです(笑)。五島美術館で行われている「茶道具取合せ展」。
 私はお茶はやらないんですけど、なんとなくその世界に興味はありまして、特にプロレスとの類似性についてよく考えます。これは冗談ではなくて、その「演劇性」「様式美」「アンサンブル」という点において似た部分が多々あるような気がするんです。「虚構性」の中の「真剣勝負」と言いますかね。その勝負は別に亭主と客に限られたものではありません。その「場」や「道具」との闘いもあるんですね。そこに現れる規則性と即興性。統一と変化。壮大で深遠なる変奏曲。
 まあなんとでも言えるわな(笑)。でも、私の中ではたしかにプロレスと茶道はつながってるんです。自然に。両者とも日本文化の真髄とも言えます。で、今回の展覧会ですが、うん、たしかにこいつらと勝負するのはそれなりの訓練が必要だなという逸品ぞろいでした。私なんかは観戦だけでいいや。やっぱりシロウトの私には楽茶碗が印象的だったなあ。光悦、長次郎、のんこう…すさまじい存在感の名品が並んでいます。
Umegasan_top ただ、なんていうかなあ。その道具たちも、今日は美術品として並べられているわけであって、まあこれは私服姿の小橋選手みたいなものであって、リング上の本来の姿とは違うんですね。茶席における、それこそ場の空気の中に存在する「もの」ではない。それは仕方ないんですけれど、どこか物足りなさを感じたのも事実です。実は一番インパクトがあったのは一休宗純の掛け軸「梅画賛」でした。あれは悪役レスラーだな。なんか怖かったっす、あの字。
 前にも書きましたが、できればお茶の名勝負も観戦したい。DVD(副音声で実況と解説付き)とかで出してくれるとシロウトとしては嬉しいんですけどね。けっこう異種格闘技なこともあるようですし、他団体との交流戦というのも面白そうですしね。超一流選手の試合はやるかやられるか的な部分もあるとかないとか…。こればっかりは自分が参戦するしかないみたいですね。残念。 
 さて、五島美術館をあとにした私はしばし駐車場でガチンコ勝負。漢検の勉強です。昨年1級に挑戦し玉砕したワタクシは今年は階級を下げて参戦です。カーラジオからは昨年末行われたバッハ・コレギウム・ジャパンのメサイアのライヴ録音が流れています。お〜いいアンサンブルだぞ。
V112 1時間半ほど車内で勉強したのち、向かうは新宿。5月の演奏会に向けてトリオ・ソナタの練習です。今日はヴィヴァルディのラ・フォリアを集中的に。小橋→茶道具の洗礼を受けた私は、いつもよりアンサンブルの調子がいいぞ。相手の技を受けつつ自己主張し、全体の構成をみんなで作り上げていく。これはまさにプロレスの試合作りや茶会の進行に似ているぞ。そして、ヴィヴァルディのラ・フォリア自体、みごとな「統一」と「変化」だ。今まで何回も弾いてきた曲ですが、今日は新たな発見が多くありました。
 皆さんからしますと、なんだこの人?っていう感じがもしれませんけど、私の中では今日のいろいろな出来事は全て自然につながっています。私はどれもみんなエセですけど、エセも極めていきますと、それなりの世界観というものが出来上がってくるんですよね。もっともっと裾野を広げて一流のエセになりたいな(笑)。

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2008.01.26

J.S. バッハ 『ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集 (ムローヴァ/ダントーネ)

J.S.Bach Sonatas
Onyx4020 やられた…。これもすごい。ムローヴァさん本気だわ、こりゃ。
 今日は本当は東京へ行く予定だったんですけど、娘が熱を出したりして、すみません、いろいろと約束をしていた皆さん。で、ウチにこもってたんですけど、いい出会いがありました。
 昨年ヴィヴァルディのコンチェルトでかなりガツンとやられてダウンしたんですけど、今回はその流れで、立ち上がりざまに顔面にいいキックが入ったって感じです。これは4点ポジションにおける顔面キックを禁止したルールに抵触するのでは…(笑)。
 あれだけモダンの奏法を極めておいて、ピリオド楽器をここまで弾きこなす…いや極めるなんて。これは総合を極めた上でプロレスでも超一流になるようなものです。すごいなあ。
 ちなみにムローヴァさんはダンナさんと一緒にジャズもやってるんですよね。そちらは聴いたことがありません。ちょっと前にベンヤミン・シュミットのジャズを紹介しましたっけ。そこでは多少の苦言を呈しましたが、やっぱり彼も基本偉いですよ。そういう枠をはずして勉強することによって、それぞれの本職の演奏も充実してくるでしょうね。ムローヴァはバロックだけでなくいわゆるクラシックの方でもオリジナル楽器を使うことが増えてきました。そういう演奏ではもちろんですが、普通のモダン楽器の演奏においても、最近はボウイングに軽みが出てきました。弱音が大変に美しい。これはたぶんプロレス(=バロック)を勉強したからでしょう(笑)。
 それにしてもこのバッハは美しい。実はこのヴァイオリンとチェンバロのためのソナタたちは、聴く方も弾く方にとっても微妙な作品なのであります。成立事情にもいろいろと特殊な部分があるんですけど、とにかくやや難解なんですね。ものすごく分かり易く言ってしまうと、あんまりキャッチーじゃない。弾く方としては、なんだか♯や♭がたくさんついてるし、ヴァイオリンの特性(弾きグセ)を全く無視した作曲がなされていて、そういう意味ではもしかすると無伴奏より難しいかもしれない。で、一生懸命練習して弾きこなしても(私はそこまでやってませんけど)、それに見合った効果がないというか、あんまり喜ばれないし、自分も喜ばしくない。もちろん、バッハがそういう「辛い」効果を狙ったという可能性もあるんですが…。
 まあ、そういう作品なんですね。ですから、録音もあんまり積極的に聴こうと思わなかった。いろいろ持ってるんですけどね(昔は、ガンバも入ったアーノンクール盤と、ロックなゲーベル盤だけはよく聴いてました)。もちろん弾く方も全然積極的じゃありません。ここ十年以上弾いてないような…。
 そんな作品なんですけど、私にとってはどうもこのムローヴァ盤が決定盤になりそうです。ヴィヴァルディの記事にも書きましたが、ヴァイオリンの本質である「色気」が、この作品の「辛さ」を覆い隠している…わけではなく、逆にもっと高い「色香」にまで昇華してくれている気がするんです。ダントーネは比較的淡々と弾いています。その上に彼女の馥郁たる音の香が配されることによって、なんといいますかね、私にとっては今まで気づかなかった、この作品におけるバッハの歌心、それも「哀しみ」の歌心、「もののあはれ」の歌心が浮かび上がってきた。
 この作品の特殊な印象というのは、その編成にあるというよりも、バッハの心理によるものなのかもしれません。同様の編成であっても、ガンバやフルートのソナタでは、このような印象がありませんからね。ムローヴァ自身がそういうことを意識したかどうかは分かりませんが、彼女の演奏における「女性性」のようなものが、もしかすると今まで隠れていた(少なくとも私にとってはそう言えます)この曲の本質を現代に復活させたのかもしれません。チェンバロ・パートはバッハ自身、ヴァイオリン・パートは亡き妻…なんて考えるのは考え過ぎでしょうかね。
 とにかくテクニックも解釈も素晴らしい。音色も美しい。特に緩徐楽章の「語り」は格別ですねえ。いや、早い楽章もいいなあ。そしてそして、オマケで収録されている通奏低音付きソナタがまたカッコいい。それらがあることによって、さらに本作の特殊性が際立って聞こえます。
 う〜む、人によっては理解できない可能性もありますが、私は完全KO、病院送りでしたね。私はルール違反だ!とか、そんな野暮な提訴はしませんよ(笑)。素直に負けを認めます。

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2008.01.25

『注文の多い料理店〜序』 (宮沢賢治)

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Chumon1 今まで、この「序」をちゃんと読んでいなかった。いけませんねえ。本文の方については、これはどういう意味なんだろうとか、いろいろ考えてきたんですが。
 この「序」がこんなにすごかったなんて。気がつかなかったということは、こちらに受け入れる態勢ができていなかったってことでしょうね。それなりに「物語論」なんかを考えてきましたので、そういう回路が始動したんでしょう。何十年かかってるんだろう、いったい。
 これは見事な「物語論」です。私の考える「モノガタリ」のイメージにピッタリ。もう説明の必要がないほど完璧です。とりあえず読んでいただきましょう。


 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

 大正十二年十二月二十日
               宮沢賢治


 どうですか、美しい日本語ですねえ。賢治のすごいところは、たとえば「鉄道線路」なんていう漢語や外来語、歴史の浅い日本語も、すっかり和語のようにしてしまうところです。これはいつも不思議に思います。おそらく彼にとっては鉄道線路も林や野はらや虹や月あかりと同じ「モノ」なんでしょうね。
 彼はそういった「モノ(外部・外界)」からいろいろな「何ものか」を受信します。「…もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」、つまり、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いている。
Kenji6 賢治が受信した「何ものか」は、この前イチローのトークスペシャルのところで書きました、「感覚(=クオリア?)」であって、私の言う『「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態』です。イチローはそれを野球というメディアで「形」にして「語り」ます。一方賢治は、自然や人工物から何ものかを受信し、とにかくそれを言語というメディアで「形」にして「語る」と書いているわけです。
 さて、私、「物語(ものがたり)とは」の記事で、物語とは欠落を埋めるものであるというようなことを書きました。この序の最後にある「すきとほつたほんたうのたべもの」というのは、まさに欠落を埋めるべきものでしょう。我々が欠如した栄養を食べ物から摂取するように、何ものかで我々は満たされたいわけですね。
 後半で述べられている「わけがわからない」ということ。これも重要です。その「わからなさ(未知・不随意)」は「モノ」の性質であり、その性質のおかげで、ある意味どうにでも解釈でき、どうにでも変形でき、どうにでも新たな意味を付加できるという物語の「生命力」は保証されているのです。いつも言う「もののあはれ」を催す、その原点になる力です。
 ですから、賢治のような表現者(作家・モノガリスト)は、それ自身が「モノ」と「コト」、「モノ」と「モノ」、「ヒト」と「ヒト」を結びつけるメディア(ミーディアム=媒介者)であるとも言えます。もちろん、これは文学に限ったことではありません。スポーツにおけるイチローもそう、音楽や絵画や演劇や舞踏やお笑いやテレビ番組などにおけるあの人たちもみんなそうなんです。あるいは極論すれば、私たち人間は全てそういう存在とも言えます。物語の受容者であるとともに、意識せずともその発信者になっているのかもしれませんね。
 長くなりそうなので、このへんで。いろいろな理屈は抜きにしてもう一度賢治の「序」を味わってみましょうか。

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2008.01.24

フジファブリック 『TEENAGER』

21hbe4rwzll_aa192_ 文句なし!名盤です!これはいろんな人に聴いてもらいたいなあ。iTunesでも買えるのでぜひぜひ。既発のシングルもたくさん入ってますけど、それらが浮かないどころか、なぜか新鮮に溶け込んじゃうところがフジらしさですね。1枚目、2枚目と比べてやっぱり大人になったようなと思います。それもいい大人にね。哀愁を帯びた大人。若さをという恥ずかしさをずるずると引きずっている大人。ある意味カッコいい大人の音楽です。
 昨年はなんだかんだZeppTokyo両国国技館2回ライヴに行ってますので、ある意味今一番お気に入りのバンドということになるかもしれません。
 彼らの独特の存在感や音楽性については、いろいろなところに書きましたので繰りかえしません。そうですねえ、あえて付け加えるとすれば、魅力的なリフレインのことかな。これは書き忘れていたような気がします。彼らのリフは本当に耳に残りますね。イントロだけではなく全編に織り込まれていたり、あるいはポイント、ポイントでダメ押しされたり、とにかく印象に残ります。全体には変化に富んだ予想外の展開が多いフジ節の中にあって、あれら単純かつ妖しいリフたちはまるで生き物の鼓動のように私たちに刻み込まれます。
 ビートルズなんかもそうなんですが、いかにカッコいい、あるいは個性的なリフ(特にギターリフ)を作るかっていうのが、実は曲作りのポイントになってたりしますよね。そういう意味ではフジファブリックはなかなかうまいと思いますよ。少なくとも本家(?)奥田民生さんよりは(笑)。
 さてさて、このアルバム、「TEENAGER」と銘打たれております。彼らはもう二十代後半に突入していると思いますが、なぜ「TEENAGER」なのか。
 それはもちろん十代があまりにも「ガラスの十代」だからですよね(ってなんなんだ…笑)。おそらく誰にとっても特別な時代であり、誰もがいくつになっても自分の根っこにこれを引きずっているものです。私もそうです。かなり引きずっています。
 彼らもそろそろ大人になる頃ですし、業界でもまれたりもして、それこそ社会的な存在になりつつあるわけで、十代のころをそれなりに切なく感じ始めてるんじゃないでしょうかね。
 さっき「ガラスの…」って書きましたが、これは確かにうまい表現ですね。輝いていると言えば輝いている。ただし自分自身だけでは光ることができない。壊れやすく、壊れれば人を傷つける。透明で純粋かと思えばすぐに曇る。ある意味周りの枠に守られてるし、優しく取り扱われるし。案外それ自身は冷たいしなあ。で、案外長持ちして、ずっと同じ場所に固定されてる感じがするし、周りはそれなりに古びてきても、けっこうガラスって昔のままだったりしますからね。捨てるのもなんだか面倒くさそう。まあ、こういうのを青春とか言ったんでしょう、昔は。
 さて、志村正彦くんが、まさにそういうガラスの十代を送ったここ富士吉田市下吉田ですが(今、ワタクシ下吉田の職場にいます)、なんとも昭和レトロ、ノスタルジーを絵に描いたような街でして(それを売りにしております)、それこそ彼がTEENAGERだった頃、私は同じ下吉田の渋いアパートで一人暮らししておりました。自らの青春を引きずりつつ、仕事がら現在進行形の十代と毎日つきあわないきゃいけない、そんな毎日に沈潜しておりました。なんとも切ない二十代(とちょこっと三十代)でしたなあ。結局自分もそうやって自分の窓ガラスにノスタルジーを感じていたんでしょう。
 と、なんか四十過ぎたオジサンの独り言になってしまいましたけどね、つまりはそういうオジサン(大人)誰しもが抱えているレトロ・ガラスへの郷愁や哀愁や憧憬が、このアルバムには見事に詰まってると感じたのですよ。年甲斐もなく泣けてしまいました。あの、たしかに若さとしか言いようのない、愚かさと変態さ(笑)、内側にはじけていく無駄なパワーみたいなものへの、大人としてのオマージュとでも言うのかな。とりあえず私の心のガラスは妙に鈍く輝き、そしてビリビリと共振したのでありました。
 御本人たちもおっしゃってましたが、これは十代の人にも聴いてもらいたいけど、やっぱりそれ以上の人たち、元十代の人たちにこそ聴いていただきたい。そして、「あれ、なんだっんだろう」って自分の恥ずかしいあんなことこんなことを思い出して、それらと酒でも酌み交わしながら語り合ってもらいたいですね。あっ、相手は未成年だから酒はなしか(笑〉。
 志村くん、大晦日と元旦はこっちに帰ってきてたみたいですね。また吉田のうどんで年越ししたんでしょうか。いつか彼とも呑んでみたいですねえ。

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2008.01.23

キューティーハニー THE LIVE (テレビ東京)

Honey 今日はちょっと疲れてるのか、授業中変な発言が頻発してしまいました。この「実写版キューティーハニー」の話も昨日したのに、また今日同じクラスでしてしまった。で、生徒に「若年性アルツハイマーですか?」とかつっこまれたので、「いや、もう若年…でもない」と言おうとして、「若年性キューティーハニー」って言っちゃいました(笑)。なんなんだそれ?じゃあ「実写版アルツハイマー」ってか?生徒たち、異様にウケてました。とほほ。
 というわけで、最近硬くて長い話が多かったので、今日は少し軟らかいものを短く紹介しましょう。いや、ある意味これは硬いかも…いや、軟らかすぎるのかも…。
 まったく不覚なことですが、9月に放映開始になったこの番組、今日初めて観ました。本当のことを言いますと、生徒に教えてもらうまで知らなかったんですよ、このような素晴らしい(?)ことが起きているとは。
 キューティーハニーの原作やアニメについては改めて説明する必要はありませんね。で、実写版アルツ…ではなくてキューティーハニーと言えば(…ん?ということは「実写版アルツハイマー」には原作やアニメ版があるってことか?)、佐藤江梨子主演の映画がありましたよね。あのサトエリ版は正直あんまり好きじゃなかったんです。たぶん私の個人的な趣味の問題だと思いますけど。
 で、こちらの実写版はどうかといいますと、これがですねえ、かなり良かったっす。如月ハニー役の原幹恵さん、グラビアアイドルだそうですけど、顔立ちはちょっと地味ですが、なんといってもGカップのボディーはかなりインパクトありますね。アクションもなかなか立派ですよ。あとなんだか良くわかりませんが、クールな青い人とちょっと狂気な白い人(?)もかっこよくてよろしい。
 全体に深夜枠ということで微妙にHな感じがありまして、それがなんとなく懐かしかった。そう、私なんかは9歳とかそのあたりに少年チャンピオンで原作を読んでいた世代ですからね。なんとなく家族にナイショであのHなページを繰る感覚というか、そんなのを思い出しました。つまり、この番組もさすがに娘たちの前では観れない(カミさんとは観ましたけど)。なんかコソコソHなシーンを観るという緊張感が懐かしいんですね。この歳になってキューティーハニーでこういう気持ちを味わうとは(笑)。
 まあ、考えてみれば永井豪ですからね、それが本質であって、そういう意味ではこの実写版はもしかすると王道を行ってるのかもしれない。エロティック・アクション。アニメ版よりもその空気感は原作に近いのかもしれない。受け手に与える精神的作用としてはいい線行ってるのかもしれませんね。
 というわけで、全国的には観れるところが限られていますが、もし皆さんお住いの地域で鑑賞可能ならば是非ともご覧下さい。案外はまるかも、です。少なくともパンシャーヌよりはかなりまともな作りですね(笑)。

キューティーハニー THE LIVE 公式

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2008.01.22

『イチロー・トークスペシャル』(NHK プロフェッショナル仕事の流儀)

Photo01 受け入れることと受け入れないこと。今日のイチローのトークは面白かったなあ。
 私にとってはアイドルであり、神であり、物の怪であり、師匠であり、いや唯一無二のエンターテイナー・イチローである彼。彼の言葉は不快なほどに私を刺激しました。すごいなあ。
 不快なほどに、と書きましたが、おそらくお相手した茂木健一郎さんもちょっとカチンと来たんじゃないでしょうか(住吉美紀アナはキャーキャー言ってただけ…笑)。だって、いきなり「茂木さん…本気で笑ってないですよね」ですから。年上の学者さん(タレントさん?)をつかまえていきなりこれですからねえ。いくらイチローと言えども失礼でしょう(笑)。いや、茂木さんがやられるのってあんまり見れないんで、こちらとしては楽しかったんですけどね。やれやれ〜みたいな感じで。
 彼はとにかく自分流にこだわっています。自分の感覚を信じきっています。人のアドバイスをはなから拒否するわけではないと、自ら言い訳していましたが、本当のところはやっぱり自分の感覚のみを信じています。
 その自分の感覚を信じるということの二面性を、私ははっきりそこに読み取りましたね。
 どういうことか、またまた私の「モノ・コト論」で説明しましょう。
 彼の言う感覚というのは、例えばバットという道具(物)から伝わってくる感覚です。すなわち自己の外部たる「モノ」ですね。それらから何ものかを受信して、イチローの脳の中で起きた何ものか、それが「感覚」です(クオリアなのかはよくわかりません)。これはワタクシ的に言うと、「モノ」と「コト」の中間に位置する状態です。何かあるんだけれど、言葉や理屈では説明できない。しかし、何モノかがあるコトだけは確かだ、という状態です。
 で、突然茂木さんの方に行っちゃいますが、彼は彼の感覚をすぐに「言葉」にしてしまうんですね。これは実は私もそうなんでよくわかるんですよ(もちろんレベルは違いすぎますが…)。すぐに理屈をこねてしまう。言葉にするコト、言葉にできるコトに快感を覚えてしまう。これはまさに私の言う「コト化」です。情報化。内部化。不変化。人間のサガです。
 イチローはそれを言葉にするんじゃないんですよね。いや、今日も言葉でたくさん語ってましたが、もういつもそうなんですけど、彼の言葉はほとんど「無門関」なみです。正直意味のあるようなないような。なんとなくケムに巻かれているような。実は答えがないような。まさに禅問答の本質に近いところがあるんです。お前らどうせ分からないだろ、そこから出発しろ、みたいな。
 だから、彼は、たとえば茂木さんの言葉にいつも同意しないんです。同意する時は、「はい、そうです」とは絶対言わないで、「そんなの当たり前じゃないですか!」とか言ってしまう。否定したり、微妙に外したりするのはもちろん、同意する時でも、常に上に立とうとしている(実際上なんでしょうが)。これはまさに老師の恫喝にも似ていますね。一つの正解を出した途端、「そんなのは当たり前だ!もう一度坐り直して来い!」って言い出すんですよ(笑)。
 さっき書いた通り、茂木さんは「コト化」が大好きな方です。で、イチローはそういう他人の脳に発生した「コト」は基本信じないし受け入れない人なんですね。一方、バットやボールが教えてくれる何ものかは信じて受け入れるわけです。つまり、「コト」は受け入れないが「モノ」は受け入れるということですよ。そういう意味では、まさに彼は職人に近いですね。モノによって成長させられていく。モノの中に自らの到達点を見る。自分の中じゃないんです。
 今日は感心するとともに、ちょっと不快になりました。というのは、イチローはああいう神ですから全然いいんですけどね、最近の若者の傾向として、「はい、そうですね」と言えない人が多いものですから、私も日常において茂木さんが体験した不快感を得ることがたびたびなんですよ。「っていうか…」という返しが多すぎる。イチローレベルなら許せますけど、一般人は一般人らしくもっと謙虚になりましょうよ。「っていうか…」の後の内容が貧弱すぎるんで。なんてね。つい日頃思ってることを言っちゃった(笑)。っていうか、自分もそうじゃん。
 さて、私、正月二日のスペシャルを不覚にも見逃してしまったんですが、来月再放送するということで少し安心しました。楽しみです。トークスペシャルを先に観たのは正解だったかもしれませんね。

イチロー・トークスペシャル

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2008.01.21

土方巽の命日にちなんで

Kamaitachi08 今日は土方巽の命日です。1986年の今日、57歳で亡くなりました。
 先日書きましたように、私と、というよりウチのカミさんと「鎌鼬」との濃い関係が発覚してからというもの、すっかり彼に取り憑かれたような気がしまして、それこそ心がおどろおどろしく踊っております。全く不思議としか言いようがありません。今は早く田代に行きたくて仕方ありません。
 正直、今までは義母の実家に行くと言っても、まあご挨拶やら、またそこに住むカワイイ猫のミケちゃんに会いに行くというのが目的であって、自分にとってこのような意味があるなんて、夢にも思いませんでした(まあ、夢に出てきたとしても、とんでもない夢として片づけられちゃう内容ですがね)。
 ちなみにウチのカミさんの生家は、その「鎌鼬の里」田代からさらに一つ峠を越えた軽井沢という山里です。その反対、田代から町の方へ、つまり横手盆地に方に峠を下ると、土方の生まれ故郷である新成に至ります。彼はどうして七曲峠を越えて田代に来たんでしょうね。親戚でもいて、遊びにいったことがあったのでしょうか。小さい子どもがちょっと遊びに行くというような距離ではありません。小学校に入る頃には秋田市に越していたようですから、友だちがいたとかも考えにくい。そのへんについては細江さんや田代の長老さんにうかがってみたいと思っています。
 さて、実はセンター試験やら、自分の学校の入試の準備やらで忙しく、「鎌鼬」もしっかり鑑賞していないのですが、ちょっと思ったことを。
Higikatanikutai 土方巽の存在自体、あるいは彼の「舞踏」というもの、またこの「鎌鼬」という写真集に漲るエネルギーとは何なのかといいますと、これはまさに「モノ」の生命力であると思います(いつも自分の「モノ・コト論」で片づけてしまって申し訳ありません)。西洋化とはまさに「コト化」そのものです。それに対するアンチテーゼであり、また逆襲でもあった土方。彼の名前は「巽」ですが、彼に内在するものは完全に「艮」でした。
 東北…おとといの記事にも書きましたとおり、大物忌神社から「奥」は陸奥のまた奥であり、まさに物の怪の棲み処です。これはもちろん誉め言葉ですよ。憧れです。土方の舞踏や言語、いやその存在自体も縄文やアイヌのように、まさに大地に根ざした「モノ」です。彼は西洋的に「立つ」ところから始めるのではなく、「立てない」あるいは根を張って「動けない」ところから踊り始めます。本来「モノ」である身体をコントロール(コト化)するのではなく、そのモノの本質である外部性や不随意性を根拠に動きを生み出します。それがいわゆる「不具」への憧憬として言語化されたりもしてますね。
 言語ということで言えば、土方や寺山修司、あるいは太宰治もそうですけれど、彼らの使う日本語は外国語なんです。彼らにとっては(ウチのカミさんにとっても)標準語は外国語です。彼らのあの魅力的な「日本語」は実は「不随意」や「不具」から生まれるものなんですね。「コトの葉」というより「モノの葉」。
 私は残念ながら標準語が母語だというある意味不具者なんですが、彼らの「標準語」に魅力を感じるのは、それが彼らの「母語」のフィルターを通した「標準語」だからだと思っています。いや、違うな。「標準語」のフィルターを通した彼らの「母語」だからだ。少なくとも私の使う、私の知っている「標準語」とは明らかに違う。私の使う「標準語」はまさに作られた「コトの葉」であり、そこには「土」に根ざした命は感じられません。
1297164542 で、もう一度話を元に戻しますと、「鎌鼬」、あれは「モノノケ」と「モノノケ」の出会いによって生まれたものすごい生命体なんです。土方巽という(芸術家ではなく)物の怪を、田代の物の怪たちが迎え入れた。繰り返しますが、物の怪という言葉に私は敬意をこめています。
 あそこには「モノ」を受容する時の笑顔と驚きの表情が満ち溢れている。私はその表情こそ「もののあはれ」の形だと思うんです。「あはれ」を哀れと取れば暗い「嘆息」になりがちですが、「あはれ」には「天晴れ(あっぱれ)」という意味も含まれています。私も外部の者として、秋田の方々に受容されていることを身にしみて感じているので、あの農村で奇跡的な出会いがあり、そしてとんでもない「物」が創造されたことを理解できます。
 でも例えば私のような「よそモノ」ではあのような奇跡は起こりません。また、単なる同じ村の住人どうしでもそういうことは起きませんね。同村の生まれでありながら、秋田市へ出て、そして東京へ出て、そして最後は世界に飛翔していく(いや根を張っていくかな)土方巽と、ある意味その「土」から逃れられない農民の方々との出会いだったから、ああいう物が生まれたんでしょうね。
 言葉に限らず、土方の「存在」が(西洋的な意味での)都会のフィルターを通過することによって、結果としてそこに彼の「土(土俗性と言うのは少し抵抗がありますね)」が凝結していった。それが故郷の「土」と強力な化学反応を起こしたんでしょう。そんな気がします。
 いずれにせよ、今の私は、ゆっくりとその「物」を味わい、そして春にその「土」の上に自分も少し根を張ってみようと思っているわけです。楽しみです。

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2008.01.20

夏目漱石『彼岸過迄』@センター試験

Soseki22 センター二日目の夜です。生徒たちは学校に集合して自己採点。まあそこそこの結果でしょう。安心しました。国語は案外取れてないのでちょっとがっかり。やっぱり漢文ができてないなあ。いちおう教えたことを駆使すれば出来るはずの問題だったんですけど、う〜ん、その「駆使」の部分をもうちょっとちゃんと教えなきゃダメだな。反省。
 さて、その国語ですが、昨日は第1問の話をしました。今日は第2問についてちょっと。
 漱石が出たんですよ。びっくりしました。しかし、おかげで読みやすかったかも。生徒たちもワケわからん感覚的な現代小説よりも良かったと言ってました。漱石って論理的ですからね。
 作品は「彼岸過迄」。私もずいぶん前に読んだまま忘れていました。でも、出たところはなんか妙に印象に残っているところでしたね。いわゆる「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」のシーンです。別に好きではない女、どちらかというと一緒になりたくない女に関しても、そこに別の男の影がさすとなぜか妙な嫉妬心が湧くというやつです。
 と言いますか、私の知る限りの漱石って案外これにこだわっている。「嫉妬心」、これは彼に言わせれば「愛情」の裏返し(裏打ち)なんですけど、彼は小説の中でその様々なパターンを試している感じがありますね。単純に男女の愛情を描くのではなく、逆説的に表現している。
 正直教師なんかやってますとね、以前「蒲団」のところで書いたように、「存在の権利を失った嫉妬心」がふつふつとわいてくることもあるわけでして、そういう点では漱石に共感することもあるけれども、一方ではまた、そのふつふつを抑え込んで日常を生きる自分と照らして、おいおい漱石さんよ、いい歳していつまでもそんなことにこだわってらっしゃるな、とも言いたくなるわけですよ。なんかそう考えると漱石って年甲斐もなく青春してたオジサンだったような気もしてきます(ま、小説家、芸術家はそういうものなんでしょうけど)。
 で、面白いのは、その嫉妬心が女性だけでなくいろいろな方面に向かったことでしょう。特に西洋文化に対する屈折した嫉妬心は面白い。イギリス留学ですっかり萎えて帰ってきた漱石。つまりハイカラな女にさんざん心奪われた末に、そいつに弄ばれて、さらにはずいぶんとこっぴどくバカにされたと。で、もうこんな女のことなんか知らねえやと言いつつ、いざ離れてみると…って感じですかね。いざ離れてみて「日本」というホームグラウンドに帰ってきたんですけど、世間はやっぱり西洋さんとイチャイチャしてる。それを見るにつけ、ふつふつと男の嫉妬心が…ということです。
 この前女の嫉妬について書きましたね。女の嫉妬は女に向かうけれど、男の嫉妬はですねえ、まずは対象に向かうんじゃなくて関係に向かうんですよ。つまり三角形にね。三角形自体に向かう。
 そしてそれぞれの頂点たる、まず敵である(べき)男に対してはコンプレックスという感情がわく。女は女に怒りや憎しみをぶつけますが、男は男に劣等感を抱く。「彼岸過迄」の「僕」も高木に異常なコンプレックスを抱いてますね。
 女に対してはどうかといいますと、これは難しい。これはですねえ、そうした関係性への嫉妬の裏返しとして、違った意味の愛情が結露していくんですよね。実はここが男にとって一番辛いところです。望んでいない愛情ほど厄介なものはありませんから。
 さらに困ったことに、三角形の最後の頂点である自分ですね、その自分に対してもある種の感情が爆縮していく。ブラックホールのごとく。ここんとこを漱石は描いたのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。もちろん、さっき書いたように、それは女に関することだけではありません。国家やら言語やら文化やら哲学やら文学やら…。
 これについてはもっと語れるような気がしますけど、このへんでやめときます。と言いますか、大人な(?)私はそれに真面目に対峙してるヒマも根性もないので、それこそ漱石センセイにおまかせしますわ。
 まあ、ここまでの機微を理解せよとは高校生には言えませんな。出題した大学の先生はきっと理解してると思いますけどね(笑)。

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2008.01.19

「闇」「奥」「深さ」「もの」@センター試験

Oku 今日はセンター試験1日目。今年の国語はどうだったでしょうか。
 今までずいぶんとケチをつけてきたセンター試験の国語ですが、今年はほとんど問題のない問題でして、本番としては生涯2回目の満点を取ることができました(おいおいたった2回かよ!)。
 つまり、自分が間違った問題は悪問と決めつけ、けっこう徹底的にケチをつけていたんですよね。まあそれは生徒に対する、あるいは自分に対する慰めの意味もあったのでありまして、そういう意味においては、今年は生徒に対して厳しい先生にならなければなりませんね。
 漢文が難しかったとみんな言ってました。いや、今までが簡単過ぎたんだと思いますよ。今年は論理的な読みを要求するいい問題でした。古文もようやく高校生レベルまで易化しましたので、これで評・小・古・漢のバランスが取れたと思います。
 さて、今日はその中の第1問、評論の内容について書きます。昨年も「予言が当たった!」とかほざいていたワタクシですが、今年もウチの生徒にとっては解きやすかったかもしれません。実際ほとんど間違わなかったようですし(てか、全国的にこれは平均点高いでしょう)。
 狩野俊次さんの「住居空間の心身論−『奥』の日本文化」からの抜粋。前半は、「闇」の積極的な意味を考えることで、「明るい近代」を批判します。これはですねえ、ワタクシの駄エッセイ「暗黒」を読ませられていた生徒諸君には分かりやすかったのでは(笑)。
 後半の「奥」論は面白いですね。「奥」は時間的な要素も含んでいると。たどりつくまでのプロセスが大事だと。なるほどと思いました。「間」との類似性の指摘も納得。
 これは私の「モノ・コト論」で言いますところの、「モノ」ですよね。闇にしろ夜にしろ奥にしろ。私は「モノ」としての「道の奥」すなわち「陸奥」論を展開したこともあります。今回もこの評論を読みながらついついいろいろと妄想してしまいました。私にとってはあの「大物忌神社」から北は完全なる「道の奥」ですから。
 さてさてついでにもう少し妄想しておきますと、「闇」に存在する「深さ」や「奥」における時間的要素ですが、これはもちろん芸術にも当てはまりますね。あらゆるジャンルにおいていわゆる深みのない作品の多い昨今。分かりやすさはやっぱり近代の所産であって、そこには共通認識はあるけれども、多様性はない。つまり、奥の院へ向かう参道に立った時の、あの緊張や恐怖や興奮がないんですね。プロセスでの自分の感情や感性の参与が拒絶されている。いつも言うように、これは生命力の減退する状況です。多様な縁起がないんですから。
 一昨日登場した土方巽なんか、完全なる「闇」であり「奥」です。「暗黒舞踏」の「暗黒」とはそういう意味ですよ。「ワケわからん」ですましてしまう人はそれまでです。つまり、そういう人は参道の奥に何も見えないのを理由に歩を進めない人なんです(私もまだそういう人ですが)。緊張や恐怖や興奮の中で対象に近づこうとすることによって見えてくるもの。その「モノ」は実は最初からそこにあるのではなくて、自分のその働きかける存在によって生起するものなのでした。
 というわけで、今年の評論問題は解きながら様々な妄想の浮かぶ、なかなか奥深い内容でありました。

興味を持った方はこちらでお読み(お解き)下さい。

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2008.01.18

『グラッペリの思い出』 ベンヤミン・シュミット(ヴァイオリン)

Beni Schmid Obsession - Hommage a Grappelli
Oc554 最近の若手モダン・ヴァイオリニストでは、この人は悪くないなあと思っていました。やはり新世代だからでしょうか、古楽器演奏の影響も受けているようで、彼の弾くバッハの無伴奏やヴァイオリンとチェンバロのソナタなんか、ヴィブラートも抑え気味、ボウイングが軟らかく弱音もそこそこきれいでしたからね。昨年は小澤征爾指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にソリストとして抜擢されるなど、大活躍だったようです。
 そんな彼がジャズのアルバムを出しているとは今日まで知りませんでした。今日聴いた録音のほかに、もう一枚入れているようです。今年はジャズ・トリオとして来日するという情報まで。それもあのビレリ・ラグレーンとの共演だと言うじゃないですか(このアルバムでもゲスト出演してます)。ベースはもちろん、元ウィーン・フィルのカリスマコントラバス奏者(今ではすっかりジャズ・ベーシスト)のゲオルク・ブレインシュミットです。
 これはなかなか興味深い組み合わせですね。まあ、ビレリ・ラグレーンもジプシー・ジャズが本業とは言え、けっこうクラシックもいけるようですし、いやいやちょっと待てよ、彼らはクラシックを演奏するんじゃなかった、ジャズだ…えっと、ライヴでビレリ・ラグレーンが二人をどのように引っぱるか聞き物です。
 というのは、このアルバム、なかなかいいですし、みんなうまいんですが、やっぱり全体に固いんですよ。アルバムタイトルにあるように、これは完全にステファン・グラッペリに対する敬意を表した作品なんです。ですから、シュミットも思いっきりグラッペリ風に弾こうとしている。しかし、しかしですねえ、やっぱり一流モダン・ヴァイオリニストの性でしょうか、やっぱりちゃんとしすぎている。
 このアルバムを聴くと、いわゆるクラシックの王道的レッスンの内容、あるいはその目指すものが、ジャズ的なものとはあまりに性質が違うということがわかります。ひるがえって、やはりグラッペリが孤高のジャズ・ヴァイオリニストだったということが確認できますね。彼がクラシックを弾くと、逆に完全にジャズになってましたから。つまり、両立は非常に難しいということです。
 では、クラシック奏者が弾くジャズと、ジャズ奏者が弾くクラシックと、どちらが面白いかというと、これは間違いなく後者です。モーツァルト・イヤーのチック・コリアによるピアノ・コンチェルトはとっても楽しかった。前者はたいがい痛くなるんですね。このアルバムはかなり奮闘していますけど、それでもやっぱり痛い直前くらいまでは行っています。今、世界で活躍するいわゆるジャズ・ヴァイオリニスト(日本人にもたくさんいますね)は、ほとんどちゃんとクラシックを勉強した方々です。ですから、どうも軽みが足りないんですよね。逆に音大とかで勉強してない、民族音楽のフィドラーたちなんかの方がずっと上手だったりします。結局はボウイングだと思うんですけどね。いわば、クラシックは楷書、ジャズは草書。そして、クラシック奏者によるジャズは行書って感じかな(バロック・ヴァイオリン奏者の方が草書に近いかも)。
 本当は楷行草三体完璧にできるのが理想なんですがね。書の世界でもそれは難しいようです。
 ちなみに私はどれもできません。てか、まともにできるジャンルがありません(笑)。そんな人間が偉そうなことは言えませんけど、聴いて違いはわかりますよ。
 でも、まあこうしてクラシック界の人が違うジャンルに挑戦するというのはいいことです。特に硬直化しがちなクラシック界に生命を送り込むという意味では、充分に価値のあることだと思いますよ。シュミットさんの今後の活躍に期待しましょう。というか、生ビレリ・ラグレーン聴きたいなあ、今年は。

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2008.01.17

『鎌鼬 KAMAITACHI 細江英公写真集』 (写真・細江英公、舞踏・土方巽、装丁・田中一光 )

103_2 来ました!『鎌鼬(かまいたち)』。二十数年前、どうしても手に入れたいと思った。けれども、とても学生が買える金額ではありませんでした。その幻の写真集が今手もとにあります。それも全く予想しなかった特別な意味をもって…。
 『鎌鼬』…写真の世界及び舞踏の世界ではあまりにも有名な写真集です。私も二十数年前、この、稲架の上にとまった鴉のような土方巽に、言葉では言い表わせない衝撃を覚えました。土俗的でありながら、しかし、すさまじくてっぺん。のちに他の数枚も見る機会がありましたが、どれもまさに舞踏している。写真が舞踏するというのはどういうことだ。それもまるで土方が大地に焼き付けられるがごとく。私の頭は混乱しました。
 そんなわけで、私の頭の中には常に数葉の鎌鼬が存在していたんですけれど、しかしその後格別に写真や舞踏の世界に興味を持っていたわけでもなかったので、自分の人生にとってもどこか幻の写真集となっていたのです。逆に言えば、今その不勉強を恥じています。
 …その事実が判明したのはついこの前のことです。
 な、なんと、このてっぺんの写真、カミさんのお母さんの実家の前の田んぼで撮影されていたのです!!!秋田県雄勝郡羽後町田代天神堂…たしかに、義母の生家のある場所です。
 いやはや、本当に信じられません。そして繰りかえしますが、自分の不勉強を恥じます。カミさんと結婚してそろそろ10年になりますが、今まで全然知らないでそのお宅を何度も訪問していました。そしてその田んぼを何も考えず臨んでいました。あまりにも不覚…。
 本当に人生何が起きるか分かりません。今までもけっこう不思議なことに巻き込まれる人生ではありましたが、これはけっこうショックです。
Kamaitachi2 で、この写真集、多少のお金はかかっても手に入れるしかないじゃないですか。1969年の初版は限定1000部(実際には200部程度しか世に出ていないとの噂も)で、ほとんど入手不可能。よって、2005年に限定500部で完全復刻された青幻社版を古本屋から購入しました。細江さんのサイン入り。218番/500でした。それなりの金額でしたが、もうそれ以上の価値があることは間違いありません。特にウチにとっては…。
 その衝撃的な内容については後日あらためて紹介します。とりあえず今日は、自分にとって信じられないことが起きた、そのことだけを報告しておきます。
 さっそくカミさんの実家に電話して聞いてみました。(当時12歳の)母「そう言えばそんな変な人が来たっけ」…。(地元の農協に勤め始めたばかりの)父「そう言えば、稲架に登りたいって言うからみんなで組んだっけ」…。う〜む、その何気なさがたまりませんね。興奮しているのは私だけです。
 さらに恐ろしいことに、当然羽後町出身であるウチのカミさんに至っては、「ヒジカタタツミ…?誰それ?」おいおい!!(笑〉ちなみに伝説の舞踏家(神)土方巽は羽後町の郡山(新成)の生まれのようです。
 しかし、そんな素朴な秋田の農村の方々とのコラボレーションだったからこそ、あの世界的に有名な、奇跡的な写真集が出来上がったのです。そのへんについては、またのちほど。
 ふぅ、それにしてもなんでこうなるんだろう。今年は土方生誕80年です。何か不思議な縁を感じます。春には田代を訪問して、この写真集に写っている人たちを訪ねてみることになりました。いったいどんな話が聞けるのか。そして、今後私はこの流れにどう巻き込まれていくのか。非常に楽しみです。
 いやあ、ありえない…やっぱりありえない…。

関連記事
土方巽の命日にちなんで
土方巽・生誕80年記念  HOMAGE TO HIJIKATA vol.1
『土方巽 絶後の身体』 稲田奈緒美 (NHK出版)
『鎌鼬』 巡礼の旅 その1 (土方巽生家訪問)
『鎌鼬』 巡礼の旅 その2 (高橋市之助さん宅訪問)
土方巽〜白井晟一…秋田で昭和の奇才の面影に触れる
藤波さんと…細江さんと…またまた夢実現

参考サイト

Amazon 鎌鼬

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2008.01.16

名著復刻全集 近代文学館

2008011600000315yomsocithum001 芥川賞と直木賞の受賞作が決まったようですね。最近は比較的若い女性が「性と死」を描くケースが多くてですね、なんとも小説自体の逼塞感しか感じないといいますか、ああまたやってらあ的な感慨しかありません。
 私は常々小説というジャンルはとうに死んだって言ってるんです。あれらは近代化という特殊状況の中のナルシシズムが生んだ腫瘍みたいなもので、もうそれ自体の繁殖力もないし、最初は気にしていたその腫瘍の宿主も、もうすっかりその存在を忘れてしまったというか、慣れてしまったというか、これは癌になるんじゃないかとか気にすることもなくなってしまってですね、逆にいつのまにかポロッと取れちゃうんじゃないかという別の不安から、なんだか文化財として保護されているという感じじゃないですかね。
 まあそれは大変に意味のある時代もありましたよ、でも今のこの世の中ではなあ…第一商売になりません。いや、今回直木賞を獲った桜庭一樹さん(桜庭和志ファンなのか?)はいわゆるライトノベル作家さんですから、けっこうもうけてるんじゃないでしょうか。いやあ、いよいよライトノベルが直木賞獲るようになったか。いやいや、直木賞ってもともとライトノベルなのか。まあ、どう考えても芥川賞より直木賞の方が良性腫瘍だよな。
 なんて偉そうなこと言ってますが、私は全く小説というものを読みませんし、もちろん書くこともできません。よって以上の記述は無責任な自意識の発露であり、またそれを無責任に人に押しつけつつ、しかしどこかで共感を期待するという、まさに小説のパロディーとなっております(なんちゃって)。
Fukkoku さてさて、今日のおススメはそうした「できもの」がまだまだ瑞々しく新鮮で、日本人にもてはやされていた頃の状態、すなわち往年の「文学」という文化財を復元したものであります。
 ウチの怪しい和室にある父親お手製の渋い本棚に並んでおりますこれらの本は、いわゆる文学華やかなりし頃の初版本を復刻した全集であります。装丁はもちろん紙質についてもかなりこだわったもので、それなりの評価を得ているしろものです。私がまだ二十代の頃、ある生徒の家に家庭訪問に行きましたらこれが並んでましてね、冗談半分で「譲って下さい」と言ったら、ご両親が本当に格安で譲ってくれました。ほとんど全てアンカット状態、すなわち新品同様だったので、非常にありがたく頂戴いたしました。その後20年間にわたり、ウチのインテリアの中心として相変わらずペーパーナイフを入れない状態で鎮座しております(つまり読んでない)。
 これは本当に譲ってもらって正解でした。調べたら4期にわたって刊行されたこのシリーズ(新選・特選・精選・秀選)全部あるようですし(ちゃんと調べてない)、なにしろ状態がいい。まあ所詮復刻復元コピーモデルと言えばそれまでですが、オリジナルがなかなか手に入らない事情を考えれば充分に価値があるでしょう。楽器と一緒だな。
 そうだなあ、退職後にでもじっくり読もうかな。その頃にはさすがに「性と死」、すなわち「もののあはれ(不随意に対する詠嘆)」も理解できるようになっているでしょう。いや、もしかしすると、一生ナイフを入れないで終わるかもしれまんせが、その時は美術品として子孫に譲りましょう。なんだかウチはそんなようなもんばっかだな。

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2008.01.15

PIANO SOLO やさしく弾ける『松田聖子 ピアノソロアルバム』 (ケイ・エム・ピー)

Sms222 昨年は初ライヴ(生神…なまがみ)体験もありました。また自らのライヴでも何度も演奏しましたね、松田聖子。いろんな意味で彼女の神っぷりを再確認させられました。
 もちろん、そういう彼女自身のすごさというのは、ワタクシなどには到底語り尽くせない(って結構語ってますけどね)わけですが、やはり忘れてはいけないのは、彼女に提供された楽曲のクオリティーの高さでしょう。
 そのへんに関しましても、今までいろいろな記事の中で語ってきましたからあえて繰りかえしませんが、一言結論として申しておけば、あのそうそうたる作曲家陣(男も女も)みんな聖子ちゃんに恋しちゃったわけですよ。だから彼ら自身の作品の中でも特に優れたものが生まれて彼女に贈られた。これは恋です。そして、それぞれの天才作曲家たちはお互いが恋のライバルだったわけですよ。そりゃあ「神」曲が生まれるはずです。もし、もしですよ、私が作曲家で彼女に曲を提供することになったら、おそらく歴史に残るとんでもない曲を作ってしまったことでしょう(笑)。
 で、そんな彼らの恋心の発露、すなわち恋の歌(雄叫び…もしくは雌叫び)はどんなふうに奇跡的なのかを知るためには、それらを音楽的に分析するのが一番よい。そして、私たちみたいに実際に演奏してしまうのが一番よい。よい、というか一番ショッキングですよ。ガツーンとやられます。
 ところが聖子ちゃんの楽譜というのはあんまり出版されてないんですよね。まとまったものとしては、このkmpのピアノソロ譜しかないんじゃないでしょうか。まあこの楽譜集には往年の名曲から最新のアルバム曲まで47曲も収録されていますからね、研究したり楽しんだりするには充分でしょう。
 私も昨年末に買ってみましたが、とにかく1ページ1ページすごいことすごいこと。感動しますし、とっても勉強になります。初心者用に移調してあったり、コードもずいぶんと簡略化されていたり、ポイントになるバックアレンジが割愛されていたりしますが、まあそれはそれで自分で補えばいいわけですし、ある意味シンプルな骨組みだけにされていることによって、よりそれぞれの個性が浮き彫りになっているとも言えます。
 それぞれの曲についていろいろと書きたいこともありますが、紙面が許さないのでここでも一言結論だけ。「意外にシンプル」。
 コード進行なんか本当に基本通りなんですね。たまにおやっ?ていうくらい。もちろん、アイドルの楽曲であるとか、イメージ的に(あるいは中森明菜との対比において)長調の曲に限られるといった制約があるため、比較的明瞭な作りにならざるをえないのは理解できます。しかし、その中でそれぞれがここまで深みのある、繰り返しの「消費」に耐え得る作品になっているのは、これはもうメロディーの生命力によるとしか言いようがありません。
 やっぱり、音楽は旋律ですね、最後は…いや最初から。シンプルなコードの上にどれだけ魅力的な旋律を乗せるか。これは実は一番難しいことであって、だからこそあの作家陣が必要だったわけですね。
Mie12 今、ウチの新参猫が発情期を迎えておりまして、一日中スバラシイ歌声を聞かせてくれています。彼女は楽器を弾きませんし、専属のバンドもおりません。ただただ自らの声で(猫にとっては)魅力的なな旋律を奏でるしかないんですね。歌の本質はそこにあるわけです。
 あとですねえ、痛感したのは松本隆の歌詞のすごさですね。阿久悠さんがうつろう時代性、すなわち「もののあはれ」を表現したとすれば、松本さんは時代性を超越したうつろわないイメージを表現していますね。阿久悠さんの「モノ」に対して、松本隆さんは「コト」というわけです。そこが永劫不変な松田聖子という神…「ミコト」を演出しているんですね。そして、その「コトの葉」に刺激された作曲家陣も、時代を超え古びないメロディーを生み出していったと。すごいなあ。まいった。
 では、最後にこのすさまじい収録曲をご覧下さい。これは宝でしょう。宝物館でしょう。四十七士、いや、八百万の神々が集結した出雲大社でしょう(笑)。ありがたく拝読いたしましょう。

【収録曲】秘密の花園/赤いスイートピー/青い珊瑚礁/小麦色のマーメイド/渚のバルコニー/瞳はダイアモンド/野ばらのエチュード/ハートのイアリング/時間の国のアリス /ピンクのモーツァルト/風立ちぬ/白いパラソル/風は秋色/裸足の季節/夏の扉/天国のキッス/天使のウインク/SWEET MEMORIES/ガラスの林檎/Rockn' Rouge/ボーイの季節/Photograph of Yesterday's~蒼いフォトグラフ/瑠璃色の地球/雛菊の地平線/Strawberry Time/制服/抱いて/旅立ちはフリージア/大切なあなた/時間旅行/輝いた季節へ旅立とう/きっと、また逢える…/あなたに逢いたくて~Missing You~/私だけの天使~Angel~/哀しみのボート/Unseasonable Shore/櫻の園/あなたしか見えない(Album Version)/逢いたい/素敵な明日/永遠さえ感じた夜/ウェディングロード/bless you/I'll fall in love/しあわせな気持ち/涙がただこぼれるだけ/蒼い雨/以上全47曲。

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2008.01.14

『誰も見たことのないときめきの富士』 ロッキー田中 (飛鳥新社)

41shvnwrgkl_aa240_ 今年も年賀状をたくさんいただきました。その中の何枚かは「郵便番号 富士山 氏名」だけでウチに届いています。ちょっとカッコいいでしょ。住所「富士山」だけです。別に自分が偉いわけじゃないんですが、なんとなく自慢したくてなってしまいます。
 そんなわけで、私は小さい頃からの夢を叶えて富士山の上に家を建ててしまったわけですが、「灯台下暗し」というやつで、10年も富士山に抱かれて生活していますと、その姿を見るのを忘れる日さえあるんですね。まあ、皆さんも地球の上に住んでいて地球を意識しないでしょうけど。
 それでも通勤途中とか、仕事の途中とか、あるいは東京に遊びに行った時とか、ふと美しい富士山に目が留まる時があります。特に遠くから富士山を見た時、それからこれは今日も朝あったんですけど、テレビで映るじゃないですか、ニュースの途中とかに生中継で…そういう時、子どもと「あっ富士山だ。この辺に住んでるんだよ」って指さして、ついでになんだか知らんけど手を振ったりする。映らないって(笑)。変な話ですよね。
 で、どういうわけだか、いわゆる富士山の写真集って今まであんまり好きじゃなかったんですよ。何て言いますかね、ものすごくずうずうしい比喩を使いますとね、ハウスメーカーのCMみたいな感じ。あるいは車のCMかな。あまりに自分が知っている現実と違って美しすぎる。作られた感じがする。写真だからある意味真実のはずなんですけどね。その時間と空間の切り取り方が図ったものだからでしょうか。いや、写真は時間を重層させることのできるメディアなんですよね。切り取るどころか重ねていくことが出来る。そうして「作られた」写真が多すぎるからでしょうか。
 しかし、例えば北斎や広重の富士は大好きだったりする。これって何なんだろうってずっと思ってきたんですよ。見合い写真に照れてるのかなあ…とか。あるいは自分には富士山のいい写真が撮れない…それは機材の違いもありますが、おもに根性の問題でしょうね…というコンプレックスからなのか。
 ところが最近になって純粋にいいなあと思えるようにもなってきたんです。コテコテの絵はがきみたいなのも悪くないなと。単純に富士山のあの神懸かり的な造形を楽しめばいいんじゃないかと。これもまたとっても良くないたとえですけど、絵だと思えばいいのではと。もっと言ってしまうと、写真の場合は塗り絵なのではないかと。
 つい先日発売されたこのロッキー田中さんの写真集も見事な塗り絵です。これはけなしてるんじゃありませんよ。本当に感心してるんです。ものすごくきれいです。実際の生活の中の富士山はこんなにきれいじゃありません。そう、素顔で普段着の富士山は美しいというよりこわい。恐ろしいんです。つまり、こういう写真って、女性が化粧をしてきれいに着飾ってるんですね。それはそれで写真集としては大いに意味があるわけですね。
 ぜひこちらロッキー田中さんの公式ページでその一部をご堪能ください。モデルさんみたいな富士山に正直「萌え〜」ですよ。私も富士山のあの逆三角形を使って塗り絵してみようかな。
 
Amazon 誰も見たことのないときめきの富士

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2008.01.13

『最後のマタギ〜秋田・阿仁比立内の四季〜』(BS朝日)〜なぜか桜庭和志論

Matagi 今日は秋田デーでした。仕事が忙しいはずだったんですが、はっきり言ってそれらが手に付かないほどいろいろありまして。中でも土方巽に関する信じられないような事実が発覚しました。これはもう少ししっかり調べてから報告しますが、とにかくあまりに身近な情報だったので頭がクラクラしてしまったのですよ。まあ、とにかくそれについては後日。
 で、今日はその前に観て感動した番組について。BS朝日の「最後のマタギ〜秋田・阿仁比立内の四季〜」です。昨日録画したものを今朝観ました。秋田県阿仁の第14代マタギのシカリ(頭領)松橋時幸さんに密着したドキュメントです。
 2003年に制作されたものですから、5年ほど前の作品。近代化の波の中で消え行くマタギ文化。松橋さんの生活を1年間追うことで、彼らの狩猟技術だけでなく、その精神性や世界観をも紹介する作品でした。
 これがなかなか良かった。ぐっと来ましたね。いろいろと考えさせられました。本当は録画したものを1.5倍速で観ようと思ってたんですけど、なにしろ秋田弁にテロップが付かないところが多く、私は最近かなり秋田弁リスニングができるようになったとはいえ、さすがにきつい。というわけで、カミさんを通訳にしてじっくり観ることにしました。
 いやはや、秋田の山奥出身のカミさんでさえも、松橋さんの素晴らしい山での生活ぶりに相当感動してましたね。そんなんですから、都会育ちの私なんてもう彼が神にしか見えません。
 冬の熊狩りやウサギ狩りはもちろん、春の山菜採り、夏のイワナ釣り、秋のキノコ狩り。全てがあまりに高度でして、ああこれは人間の進化した姿だなと思いました。五感のみならず第六感まで含めて、どう考えても私たちより数倍優れていますよ。それは全て経験に基づくものでして、理屈とかではない、まさに神懸かり的な技術と智恵です。なんというか、彼は決して古くさくなく、逆に最も進んだ人間、未来の人間に見えてしまいました。
 彼はとにかく遠くを見るんですね。空間的にも時間的にも。遠くを見通して、そして「今、ここ」で行動する。
Matagi2 もろちん、遠くの山の獲物を見通す力というのもあります。音や空気から見えないものを見るということもあります。しかし、それだけではない。たとえば、動物にしろ植物にしろ、とにかく全部とってしまわない。来年のため、いや後世のために全てを自分のものにはしない。これは昔であれば当たり前のことでしょうね。縄文からの智恵でしょう。しかし、強いもの勝ち、早いもの勝ちの現代においては、それはとてもカッコいい姿に映ります。
 見えないものやまだ訪れていない時というのは、ワタクシ流に言えば「モノ」の世界です。現前し明確である「コト」よりも、「モノ」を重視する。これは次のような彼の生き方にも感じられました。たとえば獲物を逃した時、あるいは予想がはずれた時、彼はいとも簡単にあきらめます。悔しがるわけでもない。不随意を実に自然に受け入れています。それはやはり「モノ」への畏敬の念があるからではないか。
 もともと、彼らにとって獲物や収穫物は山の神様からの授かり物です。そう、番組にも出てきましたが、大山祇命やいわゆる醜女からの贈り物なのです。だから、彼らはそうした山神への祈りと獲物への供養は絶対に怠りません。テレビでは紹介できないでしょうが、いろいろと性的な秘儀もあるんですよね、たしか。
 そうそう、番組の中で、松橋さんが秘伝の古文書を取り出してきましたっけ。「山達由来記」と書いてあるようでしたから、いわゆる阿仁マタギによくある日光系ではなく、高野系なのでしょうか。ちょっと意外でした。
K1_071231 さてさて、そんな感じで大変感激してしまったんですが、カミさんとちょっと違った視点から話したことがありました。それは秋田出身の格闘家(プロレスラー)桜庭和志についてです。彼の格闘技に関する技術や考え方には、マタギに通じるところがあるのではないかと。
 桜庭選手には総合格闘技に関する特別な師匠はいないはずです。経験の中から理屈ではなく、いろいろな技の感覚や流れをつかんでいった。彼の試合には何か近代的でない「モノ」を感じるんです。だから、彼は今道場を開く準備をしているんですが、たぶんそこでも近代的な指導というのはなされないような気がするんですね。マタギのシカリ松橋さんもそうでした。教えるというよりも、真似しろと。誰も真似ができないんだったら、別にここでマタギの歴史と伝統が途絶えてもいいとさえ考えています。無理に何かを継承しようとして中途半端になるんだったら、継承しない方がいいと。
 松橋さんの神業的な手づかみイワナ漁は、じわじわと相手を追い込み、自分の有利な状況に持っていく桜庭の戦い方にものすごく似ていました。また、先ほど書きました、失敗した時、相手の智恵と技術に負けた時の潔さみたいなものも似ているなと。相手に対する敬意がそこにあるような気がしました。動物や植物相手でも、松橋さんは決して相手を下に見ることなく、あくまで対等につきあおうとしている…それも桜庭の姿勢に似ている。
 そう考えると、秋田のそうした縄文的文化が、桜庭の格闘技にも表れているのかなという気もしてくるわけです。秋田の男に共通する、寡黙で辛抱強く、決して威張らない性格というのには、あるいはそうした下地があるのかもしれない。そんなことを考えちゃいましたね。
 いずれにせよ、もしかすると阿仁マタギの伝統はもうすぐ途絶えてしまうのかもしれません。それも時代の流れとしてしかたないのかもしれませんが、その技術は継承できなくとも、「モノ」を見る、そして「モノ」への畏敬の念を忘れない、そういう精神性だけは、ちゃんと継承していかねばならない。今度、旅館松橋に泊まりに行こうと思います。秋田内陸縦貫鉄道にも乗りたいしね。

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2008.01.12

村の成人式(2008)

080112 昨年に引き続き、今年も鳴沢村の成人式にゲストとして招待されまして、記念のミニコンサートをさせていただきました。
 今年は最近ご一緒する機会の多い、音楽家の渡辺敏晴さんに無理をお願いして共演していただきました。おそらくこの田舎の小さな村の皆さん、初めてチェンバロの音を聴かれたのではないでしょうか。
 式自体は昨年と同様、厳粛な中に温かさあふれる素晴らしいものでした。いろいろと騒がれている中、こういう若者たちがいて、こういう共同体があって、そしてこういう成人式があるということをぜひ全国の皆さんに知っていただきたいですね。でもなあ、この村もいつか隣町と合併してまえば、この成人式もなくなってしまうのか…。
 さて、今年は何を演奏したかといいますと、まずは「のだめカンタービレ」の新春スペシャルでも流れてましたっけ、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。当日朝にこれをやることに決めまして、ほとんどぶっつけでの演奏でしたが、さすが渡辺さん、うまいことこなしてくれました。チェンバロとヴァイオリンでこの曲を演奏するというのもちょっと珍しいのではないでしょうか。案外いい雰囲気でしたよ。
 続きまして、昨年秋のお寺のコンサートでも披露した「縁」についてのお話と演奏。そしてそこからの流れでレミオロメンの「3月9日」。こういう旅立ちの席でのこの曲というのは、本当に弾いていても感動してしまいます。いい曲だなあ…。
 次は渡辺さんのソロコーナーで、イギリスとフランスの舞曲をじっくりと。皆さん初めて聴くであろうチェンバロによるバロック音楽の響きに、すごい集中力で耳を傾けていましたよ。渋いと言えば渋い演目ですが、それをちゃんと聴ける彼らは偉い!
 あっそうそう、今回、渡辺さんはなんと紋付き袴といういでたちだったんです。紋付き袴でチェンバロ演奏っていうのもなかなかオツですねえ。実は世界初だったりして。いつも思うんですけど、チェンバロってお寺とか和服とか、和のムードに案外似合うんですよね。私たちはたまたま二人とも邦楽もやるんですが、最近いろんなジャンルとか国とか楽器とか奏法とかにとらわれない音楽のあり方に興味がありまして、昨夜もたらふく呑みながら二人で「スーパー古楽」の話で盛り上がりました。これからの展開に大いに期待です。
 さてコンサートの最後、300年前のヴェルサイユの音楽から、いきなり10年前の鳴沢村に帰ってきまして、新成人の方々と一緒に「鳴沢小学校校歌」を演奏しました。皆さん立って歌いましょうと呼びかけましたら、ちゃんと全員立ってくれましてね、男の子も大きな声で懐かしい校歌を歌ってくれました。そういうことをちゃんとできるというのも案外珍しいことなのではないでしょうか。彼らの純粋さ、村に対する愛情を感じる感動的な瞬間でした。
 いずれにせよ、このような大切な式典に私どもを呼んでいただき、そして私たちの演奏や話を一生懸命聴いていただき、本当にありがたく思います。今日の音楽がほんの少しでも彼らの思い出に残れば私たちとしても幸甚であります。
 もう一度申し上げます。新成人の皆さん、本当におめでとうございました。これからたくさんの縁を得て豊かな人生を歩んでください。そして、鳴沢村を愛しつづけ、できればずっとこの村に住んでください。そして、村の関係者の皆さま、いろいろとありがとうございました。そしてそして、渡辺敏晴さん、本当にありがとうございました。楽しかったっすよね。またいろいろとお願いします。

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2008.01.11

『物語の役割』 小川洋子 (ちくまプリマー新書)

Hg7y8 特殊な「物語論」を展開しているワタクシですが、いちおう普通の物語論も勉強しています。と言いますか、「物語論」という言葉自体が一時期ずいぶん流行りまして、なんとなく独り歩きしてしまったというかですね、雰囲気論になってしまっていたと思うんです。
 で、結果として、その「雰囲気」こそが「物語」の本質的なところであるというなんとも皮肉なことになってるんですけど、そうですね、今またちょっとだけブーム再燃かなという感じもしますね。
 私、どこかで書きましたね、人は物語なしには生きられないと。自らの欠落感を埋めるのにどうしても必要であると(「物語とは」参照)。ですから、物語が重宝がられ、物語論がちやほやされる時代というのは、何らかの欠落感が世の中に蔓延、跋扈してるんでしょうね。物の怪です。
 さて、そんな中、一人の物語屋さん(物語家?物語者?モノガタリスト?)である小川洋子さんが現場の声としての物語論を語ります。小川さんと言えば、藤原正彦さんとのコラボレーションから生まれたと言える「博士の愛した数式」を書いた小説家さんですね。
 その「博士の愛した数式」が生まれた背景や、ご自身の物語体験などを通じて、人間にとって物語とはなんなのかを、平易で優しい語り口によって明らかにしていきます。
 印象に残ったのは、こういう考え方ですね。
「たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、 人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、 どうにかして現実を受け入れようとする。もうそこでひとつの物語を作っているわけです」
 なるほど、現実を受け入れるためにその現実を変形していくということ、ある意味自分をだますということは、私たちにとってとても重要な行為です。小川さん自身も幼い時から、自らの欠落感(たとえば劣等感や失敗など)を埋めるために、多くの物語を紡いできたと書いています。
 つまり、基本的に小川さんの語る「物語論」は、フィクション(嘘)を基にしているということですね。もちろんそれもありというか、それが一般的な立脚点だと思います。私は今まで繰り返してきた通り、それが事実であれ嘘であれ、とにかく誰かの知らない情報をその誰かに何らかの形で伝えることを「モノガタリ」と定義していますから、ちょっと小川さんとはスタンスが違う。
 しかし、この本の終わりの方に書かれていた一つの結論、
「物語とはまさに、普通の意味では存在し得ないもの、人と人、人と物、場所と場所、時間と時間等々の間に隠れて、普段はあいまいに見過ごされているものを表出させる器ではないでしょうか。…あいまいであることを許し、むしろ尊び、そこにこそ真実を見出そうとする。それが物語です」
という部分は、ある意味ほとんど私の考えと一致していますね。「あいまい」が「モノ」であり、それを表出するのが「カタリ」であるというのが、私の考えと言えますから。
 私の「物語論」はあくまでも「モノ」と「カタリ」という言葉の解釈から発したものであって、実際の「物語」表現者、あるいは受容者としての視点が欠けています。そういう意味では、この本はまさに私にとって欠落を補う「物語」であって、私はこの本にずいぶん助けられたというわけです。いい本でした。

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2008.01.10

マグネット装着式 デジカメ用ワイド・コンバーション・レンズ(トダ精光)

Image_product_s_5 今日は買ってないけれどおススメしたいもの。つまり今ほしいものです。お金がないので買えません。
 先日、UnidenのデジカメUDC-5Mを購入しました。たいへん使い勝手がよく、大満足しております。特にバッテリーの持ちは驚異的ですね。あと、音声なし動画。これでウチは大盛り上がりです。白黒にして再生速度を1.5倍くらいにして、それで昔のニュースフィルムみたいにアナウンスを当てレコするんです(カミさんが)。さっき撮った映像がすぐに50年くらい前のものになっちゃう。これは面白すぎます(って変な遊びしてるな、ウチは)。
 ま、それはいいとして、家庭用のコンパクトデジカメやコンパクトビデオカメラで不満と言えば、レンズが広角側に弱いということではないでしょうか。何倍ズームなんてのはよく強調されますけど、基本ズーム(望遠)は作品を汚すものでして、だいいち大きく撮りたければ近づけばいい。なんか遠くから相手に気づかれないように撮ってるみたいで、どうも好きになれません。近づく時の「気持ち」というのが大切だと思うんですが。で、その反対、遠ざかるのって案外難しいんですよね、物理的に。景色なんかに至っては、ちょっとあとずさりした程度ではどうにもなりません。人間の視野というのが大変に広いものですから、見た目どおり記録するというのはほとんど不可能に近いわけですし。
 そんなわけでいろんな時に、ああもう少し焦点距離が短ければなあ、と思うわけですね。ユニデンも換算35ミリ〜105ミリの3倍ズームレンズですから、もうちょっと広角で撮りたいなという時があるわけです。
 そんな時使いたいのがワイド・コンバーション・レンズですね。カメラのレンズの前に装着して広角化するシロモノです。以前私はビデオ用に0.5倍のワイコンを使っていました。けっこう重宝しましたよ。1回付けるとはずせなくなります。ワイコンを付けてももちろんズームはできます。結果として望遠も過度にならず好結果を生むケースが多い。
 で、私が今ほしいなあと思うのは、このトダ精光さんのマグネット式コンバーション・レンズです。この磁石でくっつけるという発想、今まであるようでなかった。単純と言えば単純、いや単純なだけにやられた〜と思いました。
 ホームページを見ていただければ分かる通り、ワイドだけではなく、望遠、魚眼(フィッシュアイ)もありますね。携帯電話用のものもあって、これはなかなか面白い商品展開です。デザインもいいし、付属品も気が利いていて好感を持てます。もっと宣伝すればきっと売れるのになあ。
 こう考えますと、カメラメーカーは最初から広角側に寄せて設計すればいいと思うんですが、やっぱりイメージ的には近づく方に魅力を感じるのが人間です。引くより迫りたいんですね。
 しかし、木を見て森を見ずではいけません。何事も全体像を捉える方が大事だったりします。我々もついついいろいろな事象をズームアップしがちです。たまには頭の中にワイコンや魚眼レンズを装着して、全体像を俯瞰するようにいたしましょう。

トダ精光

DIGITAL KING マグネット式 コンバージョンレンズ 804-SW Sサイズ 広角レンズ0.45倍

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2008.01.09

ベートーヴェン 『ピアノ・ソナタ第1番, 第5番, 第8番「悲愴」, 第10番』 ランカスター (フォルテピアノ)

BEETHOVEN: Piano Sonatas Nos. 1, 5, 8 and 10 / CLEMENTI / HUMMEL: Preludes
Geoffrey Lancaster (fortepiano)
Abc4545012 音大を受験する生徒が課題曲としてベートーヴェンのピアノソナタ1番の第1楽章を選んだということで、音楽室で曲作りを一緒にやりました。
 彼女、ジャズバンド部のピアニストなので、それらしい曲作りをしようと。そうすると私の出番ですな(笑)。いわゆるクラシックの正統的な演奏をこころがける必要がないんで、これは楽しい。ふだんベートーヴェンをほとんど弾いたり聴いたりしない私ですけど、こうして実際楽譜を読んで曲を作っていくとですねえ、やっぱりベートーヴェンが天才的な作曲家であることがわかります。というより、案外シンプルだということがわかりますね。無駄な音がないですね。逆に即興でいろいろ入れたくなる(おいおい、音大受験で即興しちゃうか!?)。まあ、選んだ曲が初期のものだということもありますが。
 小一時間遊びながら、ちょっと新鮮なベートーヴェンを作ってみました。いやあ楽しいなあ。鍵盤奏者の方々がうらやましくなりましたね。私なんか、基本みなさんとアンサンブルしないと音楽が作れませんので、やっぱりあんまりメチャクチャなことできないじゃないですか。今日はこういう気分だから、こう弾いちゃえ!とか、ここに1小節分なんか入れちゃえ!とか、そういうことはダメです。空気を読まねば。空気読まないで本気で暴れると、前田日明みたいにプロレス界を追放されちゃう(笑)。
 でも、一人で音楽を完成させられる鍵盤楽器だと暴走できますよね。もちろん人には聞かせられないかもしれませんけど。ましてや入試でそれをやるのは…いや、そういう演奏を認める音大になってもらいたいですね。
 ああ来世では鍵盤楽器もやろう、なんてことを考えながら帰宅しまして、このソナタ第1番、いったいプロの方々はどんな演奏してるのかな、ちょっと聴いてみようということで、さっそくナクソス・ミュージック・ライブラリーで検索してみますと、ありゃあ、こんなにあるぞ。やっぱり有名なんだな。
 いろいろ聴いてみたんですが、まあ案外普通な解釈が多く(当たり前)、自分のはやりすぎだったかなと反省いたしました…と、思ったらですねえ、けっこういいのがありましたよ。やっぱりオリジナル楽器(フォルテピアノ)による演奏だ。
 こちら、オーストラリアのフォルテピアノ奏者ジェフェリー・ランカスターによる演奏です。NMLに入ってない方も、ここをclickして試聴してみてください(それぞれの曲30秒ずつですが…てか、クレメンティは全曲聴けます。21秒の曲なんで)。
 これは私のやりたい放題を超えています。なかなかファンタジックでいい演奏ですよ。フォルテピアノの表現力をかなり限界まで使い尽くしてますね。楽しい。
 ランカスターさん、モーツァルトのスカトロ趣味をとりあげたアルバム「Mozart Unexpurgated!(未検閲!モーツァルト)」でも演奏しているような面白い方のようです。たまにはこういう雰囲気の演奏もいいですよ。というか、普段あんまり面白いと思わない曲を聴くには、こういうのが効果的です。
 ついでに、オーストラリアのフォルテピアノと言えば、映画「ピアノ・レッスン」を思い出しますね(舞台はニュージーランドですけど)。あれはなんとも切ない映画でした。久しぶりに観てみようかな。

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2008.01.08

ありがたや…楽器が生むご縁

080108 思わぬ人たちに遭遇!今日はホントにいい日でした。楽器をやっていることの幸せを存分に感じる佳き一日でしたね。
 本来なら、今夜はブルーノート東京でハンク・ジョーンズの予定だったんですが、一緒に行ってくれるはずの人が、なんだか4日にもう一人で行ってしまったとかで中止。ふられた〜!(笑)…でもそれ以上の感激がありました。
 午前中、隣町のある保育所に呼ばれて軽いコンサートを。「新春バイオリンコンサート」と銘打たれておりましたが、内容はハチャメチャ。結局、ヴァイオリン、チェロ、マトリョミンディジュリドゥと、様々な楽器を演奏…というか、動物の鳴き声とかそんなんばかりだったような…(笑)。それでも、子どもたちが知っている曲を演奏すると、みんな一緒に歌を歌ってくれたり、くだらないトークに大笑いしてくれたり、会場の一体感はブルーノート東京以上。こういうのが一番いいですね。
 さてさて、あんまり詳しく書けないんですが、実はここで私は大変な出会いを体験してしまったんです!
 最初の曲を演奏している最中ですねえ、子どもたちの様子をちょっと見渡してみたんですけど、後ろの方になんだかとってもよく知っている顔が…。あれ?誰だっけ?あのたたずまいは…。
 そうなんです。な、な、なんと私の敬愛して止まない、このブログにも何度も登場願っているあるミュージシャン(カリスマロッカー)の方にそっくりなお子ちゃまが!目、鼻、口、髪形、スタイル…全てがミニチュアだ。相似形。
 私、演奏しながら思い出しました。あっそうだ、あの方のお宅はこの近所。絶対にホンモノだ。
 で、コンサート終了後、みんなでマトリョミンを弾いてみようというコーナーになりまして、その子が来た時に胸の名札を確認すると…ふぅ、やっぱりホンモノでありました。か、か、感動、そして、なぜか、き、き、緊張…。
 さらに帰り際にちょっとしたチャンスがありましたので、少し話をしました。なんだか私、緊張で汗だくだ…なんで、こんな小さな男の子に緊張してるんだ…いや、あまりに似ているもので。なんでも、音楽より絵の方が好きだとか。所長さんの話では、ホント天才的な絵の才能をお持ちだと。うんそれも納得。しかし、あの歳であのオーラはないっしょ。
 私、すっかり腐女子?魂全開で、「ねえ、ヴァイオリンやらない?」とか聞いちゃいましたが、彼、すげなく「いい…」ですって。断り方もかっこいいぞ(笑)。
Cafe2 と、そんな思わぬご縁にびっくりしたのち、所長さんに連れられて湖畔のオシャレなレストランへ。そこでも感動の出会いが…。そこで働くウエイトレスの女の子とコックの男の子が、たまたまウチの学校の卒業生でして、偶然の再会にお互いびっくり。高校時代はまだまだ子供っぽく甘ちゃんな二人でしたが、もうすっかり大人っぽくなってしまって驚いてしまいました。その後、そのレストランを含む施設の館長さんとお話しする機会を得まして、ああ、この方に鍛えてもらったんだな、2年間でこんなに成長させてくれたんだな…と納得。館長さんも「1ヶ月でやめると思ってたけど、こんなに頑張るとは…」とおっしゃってました。感激。
 ホント、私たち教員が学校でできる教育なんてタカが知れてますね。社会に出て、こうして立派な社会人の方に厳しく教えられて大人になっていくんですね。感謝です。ま、いつも言ってるように、学校の先生なんか生まれてからほとんど学校にしかいない、つまり社会人になったことのないダメ人間ですからね。そんな自分に変な自信を持ってしまわないようにしなければ。今年の目標、立派な社会人になろう!…だな。
 こういうことがあるのも、私が楽器をやっているからなんですね。今回のコンサートの件も、本当に何人もの人を経由して私のところに来た話でした。こうして、楽器が、音楽が、新しいご縁を生んでいく。それによって新たな自分も生まれる。本当に素晴らしいことです。ありがたいことです。
 そのレストランでコンサートをさせていただくお話もいただきました。感謝の気持ちも含めまして、それもぜひとも実現したいですね。
 本当につくづく、楽器をやっていて良かったと思った今日一日でありました。
Asama 最後、車を停めさせてもらっていた神社に参拝。なんだかんだ言って私にとってはこれが初詣でです。ここは、この地域のいわゆる浅間神社としては最も古いものでして、貞観七年に勅命によって創建されたものと言われています(いろいろと異論や問題があるのが現実ですが)。この神社にまつわるマニアックなネタもいろいろあるんですが、それはまたいつか。
 
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2008.01.07

コンパクト無線LANブロードバンドルータ「CG-WLBARGPXW」 (corega)

Wlbargpxw_200 昨日の続きですが(笑)、「コレガ」って「これが」ってことですかね。「これは」ではなくて「これが」。
 ドコモもそうですが、和語をカタカナで表記し、そしてアクセントを変えたりしますと、もう立派なエセ外来語になります。もちろん「corega」とか「DoCoMo」とかローマ字表記したり、英語やフランス語風のつづりにしてしまったりすると、もうホントにそれらしくなります。
 そういえば、スズキのバイクは昔「コレダ」でしたね。「これだ!」ってことです。「バイクはこれだ!」っていうことでしょう。昨日書いたように「〜は」は省略できることが多い。逆に「これが今はやりのルーターだ!」みたいな感じだと、「〜が」の方が重要なケースが多く、「が」以降を省略することが多い。ちなみにこの「が」は係助詞的な機能を持った「が」です。
 おっと、またそんな話になってしまいました。
 このコレガのルーターをウチで使っています(「私は」を省略しました)。今や、パソコンを買えば無線LAN機能が内蔵されているのは当たり前の時代です。そうすると、当然電波を飛ばす機械も必要になるのでありまして、それがこういう無線LANルーターです。
 数年前まではこういうものも数万円していましたが、たとえばこのルーターなんか、近所の量販店で6000円台で買えました。安くなりましたね。
 今や一家に一台無線LANルーターの時代です。職場でも無線LANを利用していますが、電波をサーチしますと、近所のウチから飛んでくるものが三つほど見つかります。セキュリティーを設定していないものには勝手にアクセスできてしまいますから、なんとも不用心な話です。
 なんて、私もいろいろと面倒なのでウチでは完全に開放状態になっています。今日で合宿が終わったんですけど、実はその合宿所というのは我が家のすぐ裏にありまして、その施設の駐車場の端に立てば、ウチの電波が届いていてメールのチェックなんかもできるわけです。便利と言えば便利ですが、物騒と言えば物騒ですね。
 さて、このルーター、昨年のグッドデザイン賞を受賞したということです。たしかに非常にコンパクトでシンプル、機能的にも必要充分ですし、Windowsなら設定もワンプッシュ(Macではそうはいきませんでした)ということで、一般人には優れた製品だと思います。私としてはやはり小さいのが魅力的。いろんなところに持ち歩いて使っています(場合によっては密かにつないで使ってたり…笑)。おススメいたします。

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2008.01.06

『は』

Ha 合宿でなんとなく古事記関係の本を読んでいまして、昨日の「も」と、それから「は」という助詞について考えていたんですね。でも、どうもよく分からなかった。
 で、勉強の合間に家にパンツを取りに帰ったら、子どもたちがポケモンのビデオを観ておりまして、こんなセリフが聞こえてきました。愛すべき悪役ロケット団の二人のお決まりの口上です。
 「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情…(中略)…ラブリーチャーミーな敵役、ムサシ、コジロウ…」 
 この瞬間、あることに気づいたんですよ。とっても大切なこと。古事記につながること。そして、昨日のつまらぬ記事にもつながること。
 さっきのセリフ、潜在的には、「お前たち『は』何者だ?」という質問に対して、「(私たち『は』)ムサシ&コジロウです」と答えてるわけですね。それで気づいたんですよ。「は」の本質について。
 というわけで、今日は「は」という助詞について考えてみましょう。
 実はこの「は」は厄介ものでして、というか、なんだか厄介に考えられすぎているようでして、私はずいぶん前からその点に関して、違和感を抱いておりました。
 というのはですねえ、この助詞について考える時、「が」や「も」と並べて考えすぎる傾向があるんですよ。たとえば「『が』と『は』はどのように使い分けられているのか」とか「『は』と『も』は語法的に似ている部分が多く、双方とも係助詞や副助詞としてまとめられる」とかね。
 私からしますと、「は」は、「が」とも「も」ともかなり違っているように思われるのですが。で、今日は「は」についての私見を述べてみたいと思います(興味のない方すみませんね。いちおう私の専門分野なんで、ちょっと語らせてください)。
 さっきの、「は」と「が」の使い分け、これっていまだに誰もうまく説明できてないんですよね。偉い(賢い)人たちがいろんな説を出してますが、どうもしっくり来ない。そりゃあそうですよ。第一この二つを比べること自体間違っているんですから。だって、現代語の「が」は古来の日本語の「の」とか「こそ」とか「ぞ」とか「なむ」とか「は」とかの機能を、いつのまにかみんな身につけてしまっているんですから。一方の「は」はけっこう古態を保っていますので、そういう違う素性のものどうしを並べちゃいかんでしょ。総合格闘技の選手とボクシングの選手を同じリングで闘わせるようなものです。
 「も」の方も、昨日書いたように現代語ではだいぶ昔と違う機能を持ってしまっているので、「は」と一絡げにしてほしくない。
Locket では、私の考える「は」の本質とはなんでしょうか。実はそれをロケット団の二人が教えてくれたんですよ。サンキュー、ムサシ&コジロウ。
 そう、それは「質問をする」という本質です。
 言語というのは伝達を目的としています。ですから、必ず相手がいるわけでして、たとえばこうして書いている文章というのも、実は潜在的に会話形式になってるんですよ。文章にせよ、独白にせよ、一方的な語りにせよ、実は会話を仮想している。誰かに伝わるように表現するというには、必ずその誰かの心の中を忖度しながらことを進めねばならないわけですね。常に相手の質問(疑問)に答えるように表現していく必要がある。
 もちろん自問自答形式の文もありますよね。さっき私も使いました。しかし、いちいち一つ一つの文章に質問文を挿入するのは正直面倒です。そんな時、「は」が役立つんですよ。たとえばこういうことです。有名どころで行きますか。

・春はあけぼの…「春は(春と言えば)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「あけぼの!」
・たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり…「マッチョな武士の心をも慰めるのは(何)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「歌です!」
・吾輩は猫である…「あなたは(誰)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「(吾輩は)猫である!」
・名前はまだない…「名前は(何)?」と聞かれたら、答えてやるのが世の情、「まだない!」

 こんな感じです。「○○は╳╳」という表現の背後には、「○○は(いかに)?」という読者の質問が潜在してるんですね(あえてまとめちゃうなら「How about ○○?」って感じかな)。
 いわゆる「ウナギ文」でもそうです。「(あなたは)何になさいますか?」「オレはウナギ」。あるいは、うどん屋で店員が無言で立っていても、「オレはタヌキ」「オレはキツネ」「オレは月見」…というようなことがありうる。ちなみにこれらは(潜在的)質問に対する答えですから、現場でより簡略化するとしたら、「は」の前、つまり分かり切った質問の部分を省略するということになります。すなわち、それぞれ一言ずつ「タヌキ」「キツネ」「月見」という具合に。
 このように「○○は╳╳」という文は、その中に質問と答えを含んでいるのです。表現者の側の言いたいことは、実は「は」の後ろの部分だけで、前は誰かの質問だと考えるんです。
 2+3=5というのも、日本人は「にぃたすさん『は』ご」と読みます。これは「=」をはさんで左右がイコール、つまり等価であるという感じではなく、あくまでも左側が質問で「2+3は?」と聞かれているイメージがあるからではないでしょうか。そして、「5!」と答える。「春はあけぼの」や「オレはウナギ」というのもそれと同じ構造だという気がするんです。
 一方、「○○が╳╳」はちょっと複雑でして、「どちら様がタヌキですか(タヌキはどちら様ですか)?」と聞かれて、古語だったら「我なむ」「我なり」みたいに答えるところを現代語では「私がタヌキ」と言えてしまう(もちろん「タヌキは私」とか単に「私」とかも言えますが)。本来主格を表すだけでよかったはずの「が」が係助詞的な性質をも獲得してしまっているんですね。つまり質問文を内在することができてしまうんです(逆に言えば、古語における係助詞は「は」以外のものも質問を内在できるということです)。でも、本来の単なる叙述の流れをくむ「春が来た」みたいな文には、たとえば「何が来た?」のような質問文は内在しないのが普通です(ちなみに古文ではこういう場合「が」は使いません。「春来ぬ」とか「春来にけり」とか)。
 ついでに言うと、「にさんがろく」「さんしじゅうに」とか九九の暗記では「は」は使いません。これは質問と答えではなく、単なる暗記、事実の叙述に過ぎないからですね。
 「○○は╳╳」は質問と答えであり、答えにはブレがあってはいけませんから、「象は鼻が長い」とは言えても「象は鼻は長い」はちょっと変な感じがする。いろいろな動物の鼻について質問している中で、「じゃあ、象はどう?鼻はどうかな?」っていうシチュエーションもありえますが、やや無理があります。つまり、基本的には、答えに質問が入ってはいけないんですね。
 一方、「象が鼻は長い」とは言えないのは当然です。叙述に質問が入るのは変ですから。「象が鼻が長い」はありえます。それはさっき言ったように「が」に係助詞的な意味合いが含まれてしまったからです。つまり「鼻が長いのは何という動物?」という質問を内在できてしまうということです。そういう質問をされたら古文では「象なむ鼻長き」「象こそ鼻長けれ」、あるいは「(そは)象なり」と言うでしょう。たぶん。
 「誰が」「何が」とは言えても「誰は」「何は」とは言えないのも、「は」自体に質問・疑問のニュアンスがあるからでしょうね。How about who?/How about what?というのは変です。
 そうそう、古事記ではどんな具合かと言いますと(訓み下しの問題はありますけど)、こんなふうになっています。
 「天地初めて発はれし時に、高天原に成れる神の名は、天之御中主神」
 これはロケット団風に言いますと、「…神の名は?と聞かれれば、答えてやるのが世の情、天之御中主神!」ということになりますね。
 ついでにもう少し行きます。
 「次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此の三柱の神は(どういう神か?と聞かれれば、答えてやるのが世の情)並に独神と成り坐して、身を隠しき」
 こういう具合になっていきます。すごいですねえ。古代の神話「古事記」と現代の神話「ポケモン」のコラボレーション(笑)。たぶん世界初でしょうなあ。
 と、こういう新しい視点を持って、我々が書いている文を見直してみますと、全ての文が「は」系(質疑応答系)と「が」系(単純叙述系)に分類されることが分かってきます。それは、私たちが、相手の質問・疑問に答える形で述べる文と、一方的に自分の知っている情報を述べる文とを、うまいこと織り交ぜながら表現のタペストリーを作り上げていっていることを示しています。
 思い出してみますと、ウチの子どもなんかも幼い時、とにかく会話と言ったら「○○は?」という質問ばかりでした。たぶん彼女らは「は」は質問のための言葉だと思っていたことでしょう。そこにこそ「は」の本質があったのです。
 ただし、「姿は見えないが、声は聞こえる」のような「は」の用法については、昨日の「も」の用法と関連させて考えた方がいい。並べているけれども、やはり後者の方が言いたいことになるという意味で、「も」の効果的並列用法に近い。これは、質問の「は」とは本質的に違う「は」だということです。
 それに関して、辞書を見ていて気になったこと。古今集のこの和歌が例文として出ているんです。
 「秋は来ぬもみぢは宿に散りしきぬ道踏み分けて訪ふ人はなし」
 この三つの「は」をただ主題の提示、題目を示すとして「秋は来た。紅葉はわが家の庭に散り敷いた。道を踏み分けて訪れる人はいない」と訳してあるんです。これはひどいですね。これは、お題目の「は」ではなくて、効果的並列の「は」ですよね。「ちゃんと秋は来た。で、紅葉も散り敷いた。なのに誰も来ねえよ(悲しすぎる!)」っていうニュアンスなのに…。
 と、今日も思いつきをつらつらと書いてしまいました。読んでくれた方、ありがとうございました。では、仕事に復帰します(って今まで何やってたんだよ!?)。

 ps 気がついたら「春はあけぼの」について以前こちらに書いていました。「春はあけぼの」は「春はあけぼの」だって。

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2008.01.05

『も』

Mo 今日は長くてつまらないネタです。すみません。興味のない方にはどうでもいいことです。でも、実は大変な発見だったりして(笑)。
 今、新春合宿の真最中です。生徒たちは一日中黙々と勉強しております。偉いなあ。で、刺激を受けて私「も」久々にじっくりお勉強…ということで、今「も」という助詞を使いました。今日はこの「も」という助詞に関して、私の考えを発表しておきます。ま、考えというほどのものじゃありませんが。思いつきということで。
 普通この「も」という言葉、係助詞や接続助詞、終助詞に分類され、次のように説明されます。手もと(パソコン上)に大辞泉しかないので、そこからコピペ。

も〘係助〙種々の語に付く。
1 ある事柄を挙げ、同様の事柄が他にある意を表す。…もまた。「国語―好きだ」「ぼく―知らない」
「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜(こよひ)―我(あ)がひとり寝む」〈万•七四〉
2 同類の事柄を並列•列挙する意を表す。「木―草―枯れる」「右―左―わからない」
「銀(しろかね)―金(くがね)―玉―何せむに優(まさ)れる宝子にしかめやも」〈万•八〇三〉
3 全面的であることを表す。
㋐ 不定称の指示語に付き、全面的否定、または全面的肯定を表す。「疑わしいことは何―ない」「どこ―いっぱいだ」「だれ―が知っている」
「何―何―、小さきものは皆うつくし」〈枕•一五一〉
㋑ 動詞の連用形や動作性名詞に付き、打消しの語と呼応して、強い否定の意を表す。「思い―よらぬ話」「返事―しない」
4 おおよその程度を表す。…ぐらい。…ほど。「一週間―あればできる」「今なら一万円―しようかね」
5 驚き•感動の意を表す。「この本、三千円―するんだって」
「限りなく遠く―来にけるかなとわびあへるに」〈伊勢•九〉
6 ある事柄を示し、その中のある一部分に限定する意を表す。…といっても。…のうちの。「中世―鎌倉のころ」「東京―西のはずれ」→もこそ →もぞ →もや

も〘接助〙
形容詞•形容詞型活用語の連用形、動詞•動詞型活用語の連体形に付く。逆接の意を表す。…とも。…ても。…けれども。「見たく―見られない」「努力する―報われなかった」
「いつしかと涼しき程待ち出(い)でたる―、なほ、はればれしからぬは、見苦しきわざかな」〈源•宿木〉
「身一つ、からうじて逃るる―、資財を取り出(い)づるに及ばず」〈方丈記〉

も〘終助〙
文末で、活用語の終止形、助詞、接尾語「く」に付く。感動•詠嘆を表す。…ことよ。…なあ。→かも →ぞも →はも →やも
「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴く―」〈万•四二九〇〉

 まあこんなものでしょう。どの辞書もこんな感じで説明してあると思います。で、今日ふと思ったんですよ。なんだかいろいろと分類されてるけど、「も」の持つ本来のニュアンスってどんなだろうって。たしかに古今の使用例を詳細に見ていけば、こういうふうに細分化されちゃうけれど、もともと「も」は一つの「も」であったわけで、そこんとこを知りたいなと。
 実は私はそうやっていろいろな語のルーツを辿るのが好きなんです。ここには詳しくは書きませんが、古文の助詞や助動詞なんかも、そうやって自分流のイメージで教えているんです。単純な音義説や言霊論、誰かさんのようなトンデモ説には流されたくはないけれども、自分の実感の中にやはり音と意味との連関というのがはっきりとあるんで。
 それでですねえ、この「も」なんですが、「モノ・コト論」から還元された私の考えでは、「もの」と同じように「外部」を表すんじゃないかと。面倒ですが逐一検証していきます。

係助詞
1 「他にある」というのが「外部」「想定外」。「(数学が好きだという情報に未知なる情報を加えて)国語も好きだ」「(あなたが知らないのに加えて)ぼくも知らない」。現代語の「も」は「もまた(too)」の意で使われることが多い。しかし、本来の「も」には並列・添加の機能はなかったと考える。よって万葉集の例はここに入れるべきでない。あくまでこれは不本意の「も」…「(不本意だが)今夜も一人で寝る」。
 
2 ここでの例も不適切。「木も草も枯れる」「右も左もわからない」の「も」は並列ではなく、「木や草でさえ」「右と左すら」という意味。万葉集の「銀も金も玉も…」も同様。特にこれは単なる列挙ではなく、次第に「予想外」ぶりが高まっていく演出効果を狙ったもの。最後に「子ども」という答えを持ってくる巧みさ。
3 ㋐不定の語につく点、すでに「外部」。いずれの例も相手の想定外(え~マジでぇ?)の状況。ちなみにDoCoMoは予想外にどこでもつながるのか、それともつながらないのか…(笑)。
㋑想定外そのもの。
4 相手にとって予想外に短期間だったり、高価だったり。
5 明らかに予想外なニュアンス。
6 「中世~」は「は」がいいような気がする。これは微妙。よくわからん。「東京~」の方は「も」でいい。限定するというのが、相手にとって想定外の部分。「東京も東京、新宿のど真ん中に住んでる」みたいな言い方の「も」も相手にとっては想定外、予想外。
 「もこそ・もぞ」は古文の学習では有名な表現。強意の係助詞「こそ」「も」を伴って究極の想定外。「こんなことが起こったらもう大変!」「頼むから起こらないでくれ…」という強い懸念を表す。
接続助詞 これも想定外、不本意そのまんま。ついでに「とも」「ども」の「も」も同系。
終助詞 予想外のことに感動。ちなみに終助詞「もがな」は「ものかな」の転で、「無理だけど~だったらなあ」という、まさに不随意を象徴する語。

 と、こんな感じです。お分かりになりましたか?
 究極のことを言ってしまうと、和語の「マ行音」はそういう「もやもや」した不確実性(自己の外部)を表すと思ってるんです(って誰かのトンデモ説と同レベルですな)。したがって、推量・意志・婉曲の助動詞と言われる「む」、またその東国方言である「も」もまた基本的にそういう性質のものだと考えます。
 その対極にあるのが「カ行音」。「かちかち」した確実性。過去の助動詞「き」「けり」や「こと」にもつながりますね。彦と姫、イザナキとイザナミにおける語尾の「カ行音」と「マ行音」もそのへんと関係があるのでは。男は論理、女は情緒ってことでしょうか。それとも、男の体は硬くて、女は軟らかいとかね。こじつけと言われればそれまでですが、実はこんなこと「も」あったりして。皆さんにとってはまさに想定外(トンデモ)でしょうね。

 ついでですから、古語の例もいくつか考察しておきます。

・武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり(伊勢)→「あなたは知らないでしょうし、予想外でしょうが、妻(夫)も隠れている上に私までも隠れているんですよ。だから火をつけないで!」
・木の花は濃きも薄きも紅梅(枕)→「世間一般の意見では濃い紅梅はいいって言われてますね。でもワタシはね、信じられないかもしれないけど薄い紅梅にも萌え~!」
・潮も満ちぬ。風も吹きぬべし(土佐)→「ちょうど潮も満ちた。ついでに風も吹くよ、きっと。ラッキー!」
・家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり(土佐)→「(家はまだしも)まさか人の心までねえ…」
・夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ。蛍の多く飛びちがひたる(枕)→「月夜はみんな知ってるようにいいに決まってる。で、みんなにとっては信じられないかもしれないけど、闇夜だっていいんだってば!」
・家に行きて何を語らむあしひきの山ほととぎす一声も鳴け(万葉)→「無理かもしれないけど、一声だけでも鳴いてくれたらなあ(予想外の幸運を希望)」
・かかる人も世に出でおはするものなりけり(源氏)→「こんな素晴らしい人がこの世に…アンビリーバブル!」
・暑きほどはいと起きもあがり給はず(源氏)→「起き上がることすらしない…信じられない」
・いづれも木はものふり、大きなるよし(徒然)→「特定できない=不確定」
・うれしくものたまふものかな(竹取)→「全く予想外、ありがたいことです」
・熟田津に船乗りせむと月まてば潮もかなひぬ今はこぎ出でな(万葉)→「ラッキー(予想外)」
・やうやう天の下にもあぢきなう人のもてなやみぐさになりて(源氏)→「アンラッキー(予想外)」
・心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(新古今)→「まさか心ない人まで感動するとはね」
・浪の下にも都のさぶらふぞ(平家)→「浪の下に都があるわけねえだろ」
・心あるも心なきも皆鎧の袖をぞぬらしける(平家)→「心ある人はもちろん、心ない人まで泣いた!」
・竜の馬も今も得てしか青丹よし奈良の都に行きて来むため(万葉)→「無理だとわかってるけどほしい…」
・信濃なる千曲の川の小石も君し踏みてば玉と拾はむ(万葉)→「あの小石が玉になっちゃうんだから、インクレディブル!でしょ?」
・あやしの鳥けだものも恩を報じ徳をむくふ心は候ふなり(平家)→「人ならまだしも鳥やけだものまで…」

 いずれも想定外な感じですね。自分の判断や相手の常識の外にあったことが起きている感じです。なお、上で見るように、古文での「~も~も」の文型は、後者の方が話題の中心なんですね。現代語のような単なる並列はないように思えます。
 と、今日はなんとなくこんなことを考えましたので、備忘のために書いておきました。これが単なるこじつけなのか、はたまた大変な発見なのかは、全然わかりません。もう誰か言ってることかもしれないし。ああ、「かもしれない」の「も」も「外」って感じですね。

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2008.01.04

『医療の限界』 小松秀樹 (新潮新書)

10610218 小松さんが繰り返す「不確実性と死を受け入れられるか」という課題…これはまさに私の考える「もののあはれ」そのものではないですか!
 医学部受験の生徒のためにと読み始めたこの本でしたが、興味の対象はすっかりそっちへ行ってしまいました。そんなこと考えてこの本を読んだ人もそうそういないだろうなあ。
 いえいえ、本文中には「武士道」「無常観」「葉隠」「渋江抽斎」なんていう言葉も時々出てきます。すなわち、小松先生自身、「もののあはれ」とは言っていませんが、そういう日本古来の感慨や思索がなくなってしまったことを憂えているのです。そして、それが現在の医療崩壊を生んでいると。
 たしかに、私たち患者は、医療に完璧(確実性)を求めがちです。そして、いずれ必ず訪れる「死」、あるいは医療の不確実性に伴う死のリスクについて、思いを馳せようとしない。逃げ、そして医師や薬に依存する。期待と結果を混同する。
 小松先生は、そうした状況の原因の一つとして、「想像力の欠如」を挙げています。私も同感です。先ほど死に思い馳せないと書きましたが、これも想像力の欠如の一つです。そして、医者も自分と同じ人間であって神ではないということ、あるいはその人間が大変厳しい環境の中で仕事をしているということすら想像できない。そこにモンスター・ペイシャントが生まれます。自己愛の怪物です。
 モンスターで思い出しましたが、この本で書かれている医療の現状は、教育界にも完全に当てはまりますね。モンスター・ペアレントです。あるいはモンスター・スチューデント…いや、生徒はいつの時代もカワイイ怪物ですから、それを言っては仕事になりませんね(笑)。
 しかし実際教育界で起きているワケの分からない状況というのも、まさに想像力の欠如によるものであります。生徒、親、教師の全てに想像力が足りない。お互いに思いを馳せるのではなく、ただただ期待し結果を混同し続ける。
 この本にも書いてありましたが、これは医療や教育の市場経済化の結果でしょう。紹介されていたアメリカの医療の実態には本当に驚きました。そこにヒューマニズムなんてものはかけらもない。カネ、カネです。私、もともと新古典派嫌いだったんですけど、ますます嫌いになっちゃいましたよ。市場原理ってそんなに魅力的なんでしょうか。金持ちはもっと金もうけしたいんでしょうか。
 さてさて、私のフィールドである「もののあはれ」に話を持って行きます。繰り返しになりますが、私の考える「モノ」とは「不確実性」そのものです。「自分の意志や知覚の外にあり、不随意であるもの」「常に変化し固定できない存在」です。それに「ああ(aha!)」とため息をつくのが「もののあはれ」です。
 ため息をつくというのは、単にガッカリしているわけではありませんね。感心したり感激したりした時にも、私たちはため息をつきます。また安心した時にもふっと息をもらします。そこなんですよ。いかんともしがたい運命によって、我々は常に翻弄され、予想外ないいことや悪いことに直面して生きなければなりません。それに対して、「仕方ないな(哀れ)」でも「ありがたいな(天晴れ)」でも、とにかく受け入れる時に「あはれ」となるわけです。
 この前の百人一首についての記事に、「もの思ふ」が多いというようなことを書きました。これがすなわち「思いを馳せる」「想像力」なんです。思い通りにならないことを受け入れるために、結局は自分と闘っている姿なんですね。決して消極的な悲観的な態度ではありません。そこに「歌」や「物語」が生まれるわけですから、それだけのエネルギーを内在した行為、思索なんです。
 今、私たちは「コト」ばかりを求めます。思い通りになり、確実で、不変な「コト」があると信じて、自分を含めた世の中が「モノ」であるということを直視せず、経済や科学の道をひた走っています。
 繰り返します。世の中の全ては「もの」である(無常である)というのが、唯一の「まこと(真実)」だということを忘れてはいけません。今こそ「もの思ふ」「もののあはれ」の復権を願います。

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2008.01.03

ザ・ジェンツ 『舟唄』

The Gents 「Funauta」

 YouTubeに上がっていたので紹介します!これはすごいっすよ〜。
 今日は大晦日に録画しておいた「第40回年忘れにっぽんの歌」を家族で観ました(聴きました)。「にっぽんの歌」については昨年の今日も書いていますね。紅白なんか比較にならないほど素晴らしい歌番組です。今年の歌手と曲目はこちら
 で、昨年は阿久悠さんがお亡くなりになったということで、彼の特集が組まれていました。それがねえ、もうとっくに分かっていることなんですが、やっぱりすごい。神ですね。彼自身もそうですが、それにメロディーをつけた作曲家陣の才能も。
 そのコーナーで、八代亜紀さんが「舟唄」を熱唱したんです。それで思い出した。そう言えば数ヶ月前、とんでもない「舟唄」を聴いたっけ!あれもう一度聴きたいなあ…。
 そしたらYouTubeにありましたよ。ほんと便利な時代です。
 ザ・ジェンツ(The Gents)は人気実力ともに世界一と言っていいオランダの男声アカペラ・グループです。ジェンツっていうのは「紳士たち」っていう意味ですよね。イケメンかどうかはよく分かりませんが、追っかけもいるくらい日本でも特に女性に人気があります。
 私たち古楽人からしますと、ルネサンス、バロック期の合唱曲ですさまじいパフォーマンスを聴かせてくれる実力派という感じです。たしかにそのあたりのレパートリーこそ彼らの十八番なんですけど、そのほかにも、ビートルズや武満徹に及ぶまで何でも歌っちゃうんです。
 その彼らの日本公演の模様がNHKで何回か放映されました。で、その最後、アンコールにこの「舟唄」が歌われたというわけですね。私は朝仕事に出かける前になんとなく聴いていたんです。プーランクとかイギリス民謡とか、ああやっぱりうまいなあ、この人たちって思ってたら、最後これが始まったわけです。もう面白過ぎて面白すぎて、いやものすごくうまいんですけど、うまいからこそ面白い。これは最高のエンターテインメントですよ。最高の宴会芸ですよ。
 私もよく宴会芸で古楽版演歌やりますけど(たとえばこちら)、こりゃあ完全に負けですな。クオリティーが違います。う〜む、もっと研鑽を積まねば。修行が足りん!
 これを聴いたウチのカミさんも死にそうなくらい笑ってました。そして早速ものまねしてました(笑)。皆さんも楽しんでください。

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The Gents公式

THE GENTS(オランダ)来日公演2006

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2008.01.02

UDC-5M(Uniden)購入

↓この写真はケータイで撮りました
 Udc5mこちらで紹介したユニデンのデジカメ「UDC-5M」を買いました。メインカメラだった名機サンヨーMZ3がいよいよ調子悪くなってしまいまして、またこのユニデンの名機もそのうちに製造中止になりそうですし、Amazonのポイントがかなりたまっていたので、年末年始用に思い切って購入いたしました。eneloopと充電器含めて、実質今回の出費は4000円くらいでした。
 まず結論。買って大正解です。はっきり言って想像以上に私の趣味に合っていました。これは皆さんも1台購入しておくといいのではないでしょうか。2台目としても最高の製品でしょう。
 色はグッドデザイン賞を獲ったホワイト&ゴールドにしました。まず、その色使いがいいですねえ。全体のデザインとともに非常に個性的です。絶妙な厚さと重さが手になじみます。最近のデジカメは薄すぎて本当にホールドしにくいんですよ。仕事で使っている某社の売れ線デジカメなんか、構えにくすぎてイライラしてしまいます。手ブレはするし、これは自分のクセなんですけど、そのデジカメで撮るといつも右に傾いた絵になってしまいます。片手では非常に不安定なので、結局両手で一生懸命持つ(つまむ)はめになるんですよね。
 このUDC-5Mは乾電池仕様ですので、その電池ケース部分の厚みがちょうどいいホールド感を生み出しています。まあ、昔のデジカメはみんなそうでしたよね。あと、一見安っぽく見える全体の樹脂感がですねえ、これがまた絶妙な感触でして、右手片手で撮影しても安心です。あらためて某社のデジカメを片手で持ってみましたが、ほとんどブレますね。UDC-5Mの場合は両手で持つ時も、右の中指を謎のすべり止め部分にピッタリくっつけますと、大変安定します。気持ち的に安心して撮影できるというのはいいですね。
 起動も実質2秒。連写モードはありませんが、撮影、再生ともレスポンスがいいので(MZ3なみ)ストレスはありません。これも某社のだとほんとイライラするんですよ。あっそうそう、私は実際の撮影の際には5Mではなく3M(300万画素)にスペックダウンして使っています(5M、3M、1M、0.3Mが選べます)。これは、私のポリシーというか、実際上の必要性からそうしてるんです。普通のL判プリントでは300万画素でも充分すぎますし、A4にプリントするなんてことは一生に一回あるかどうかでしょう。そして、ファイルサイズは小さいに越したことありませんよね。ちなみに5Mと3Mだとファイルサイズは倍近く違います。いつも書いてるように、700万画素とか1Gとか、もう絶対にオーバースペックです。私たちはプロのカメラマンじゃないんですから。
 もちろん、デジタルズームのことを考えたり、のちのち画像処理することなんかを考えれば、画素数は多いに越したことはありません。しかし、一般人がインスタントカメラの感覚で撮る写真に何を求めろというのでしょう。ちなみに、いずれハイビジョンの大画面で観るようになるだろう、という人もいますが、フルスペックハイビジョンでも、せいぜい200万画素程度ですからね。それ以上の画素数は、やはり意味がありません。
 さて、UDC-5Mですが、画質の良さ(質感)にも驚きました。色調やコントラストの感じも私好みでして、これも某社のものではいかにも作り物という感じがしてイヤだったんですが、UDC-5Mは自然な感じでよろしい。オートホワイトバランスもいいですねえ。MZ3や某社の売れ線デジカメは白熱灯の下での色合いがちょっと赤すぎたんですよ。ウチは照明が全部白熱灯だものですから、どうも家の中で撮った写真が不自然でいかんかったのです。それがこのユニデンは見事に自然。基本ストロボを使わない私としては、これは嬉しかった。ISO800相当の感度も、この値段のデジカメとしては充分です。
 操作もシンプルで、たしかに説明書の必要がありません。マニュアルモードはほとんどないに等しいわけですが、たくさんあるシーンモードをうまく使い分ければ、それなりに思い通りの写真が撮れそうです。
 あとですねえ、これは私が変なんでしょうけど、動画に音声がないというのがいい!これは再発見でした。つまり昔の8ミリなんですよね。私はwebモード(320×240ピクセル/15fps)で撮りますから、ホント昔の8ミリ風な画質でいいですよ〜。音声がないということがこんなに魅力だとはねえ。たしかに普通の動画だったらビデオカメラで撮ればいいわけですしね。音を自分の想像力で補うというのがこんなに面白いとはなあ。ま、マニアックな私ならではの特殊な感覚なんでしょうが。
 そして、今回実際に使ってみてあらためて感心したのは、バッテリーの持ちの良さです。私はeneloopを購入して使っています。eneloopを買ってきたまんま充電せずに使っていて、今250枚ほど撮影してみました(再生も頻繁にしてます)が、まだ電池マークが出ません。説明書には550枚撮れるとありますが、たしかにフル充電ならそれも可能でしょうね。これは素晴らしい。いざという時のために普通のアルカリ単三電池をケースに入れて持ち歩いていますので、本当にストレスレスです。最高!

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2008.01.01

明けましておめでとうございます

2008_2 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 すっかりお正月気分で、早朝から酔っぱらっております。昨日の記事(やっぱり格闘技についてでしょう)と正月の記事は、あとでまとめてアップいたします。
 とりあえず今年の年賀状を期間限定でアップいたしますので、画像をclickしてご笑納ください。ワタクシ、プロレスラーになるという夢がこのような形で実現し(?)大変うれしく思っております。では、またのちほど。
 今年も楽しく行きましょう。2008年が皆さまにとって素晴らしい年になりますように。乾杯!

…ということで、復活したので記事の書き初めします。
 いやはや、四十数年生きてきましたが、こんなに濃い元旦は初めてです。一年の計は元旦にありって言いますけど、こんな1年だったら大変だわ。やばい。
 今日は94歳の祖母を中心に、母方の親戚衆が大集合したんですよ。ま、これは日本中ある光景でしょう。で、朝から呑んでる。これもよくある光景でしょう。
 しかし、その後がすごかった。ま、簡単に言えば大カラオケ大会になってしまったんですね。で、これはですねえ、いくら説明してもどうすごかったのかは、読者の方々には伝わりませんし、かと言って写真や動画を載せるのは憚られます。だいいち、そんな人んちのカラオケ大会見たくありませんよね(笑)。
 ただですねえ、私はなんで今年こんな大惨事(?)になってしまったのか考えてみたんですけど、まあウチの母方の親戚が異常に明るくテンションが高いというのもありだと思います。そこに私のカミさんのようなさらにテンションが高い嫁が加わったり、私の義理の兄のような猛者が加わったりするわけですから、こうなって当然とも言えるかもしれないんですね。
 それにしても、今まではここまでの祭にはならなかった。なんで今年にかぎって…。
 実はですねえ、その義理の兄が怪しいものを持ってきたんです。いや、彼はサラリーマンでありながら漁師でもあるという超強力なキャラの持ち主であり、今回も見事な金目鯛を何尾も釣ってきてくれまして、まさにメデタイ状況の演出に貢献してくれたんですけど、そんな彼がなぜかディジュリドゥを持ってきたんですよ。
Didgeridoo ディジュリドゥ…オーストラリアの先住民アボリジニの楽器ですね。世界最古の木管楽器だとか。シロアリが食って空洞になったユーカリの木に、アボリジニアートがほどこされています。こちら(YouTube)で名人の演奏をどうぞ。
 私、ちょうどこの前の修学旅行の時に現地のアボリジニの方の素晴らしい演奏を聴いたばかりでした。それでいつかやってみたいなとは思っていたんですけど、正月早々それが実現するとは。とにかく義兄は私にくれるから練習しろと言うのです(いったいどこで手に入れてきたんだ?)。いちおう発音の原理やら表現のヴァリエーションなんかはイメージトレーニング済みでしたので、10分も練習したらまあそれなりの音が出るようになりました。もちろん循環呼吸はできませんが。
 で、宴会ですからね、みんな吹きたがるわけですよ。本当は女性は吹いてはいけない、いや触れてもいけないと言われている楽器なのに、しまいには94歳のおばあちゃんまで吹き出す始末(なぜか一発で音が出てみんなビックリ!)。私も調子に乗ってブウォンブウォン吹いてたら、あれまあ、前歯(差し歯)が取れて、カラカラコロコロとディジュリドゥの中を転がって、先っちょから飛び出したりして、もうメチャクチャ(笑)。次第にみんなのテンションが上がっていきます。
 そうなんですよ。この楽器、本来はアボリジニの祭祀のための楽器なんですね。この音は世界と共鳴し、そして霊界とも共鳴し、何かが降りてくるんです。アボリジニの皆さんはこの音に乗って、いろいろな動物の真似をしたり、不思議な踊りを踊ったりします。いわば吹く方も聴く方もトランス状態に引き込まれるんですね。
 で、きっとなんだかわからんモノノケがみんなに取り憑いちゃったんでしょうねえ。とにかくひどいことになってしまった。異常にテンションが上がって爆発してしまった。我々の太古の記憶や原始のスピリットが呼び起こされてしまったんでしょうね。
 おそるべし、ディジュリドゥです。いやはや、今年はすごい年になりそうです。楽しみと言えば楽しみだよなあ。せっかくですから、マトリョミンとディジュリドゥの両方をマスターしましょう。そんな人はそうそういないでしょうねえ。
 というわけで(どういうわけだ?)、本年もよろしくお願いします。

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