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2007.12.19

『愛は負けても親切は勝つ』

Shinsetu 今日はバンプのニューアルバムを聴いたのでそれについて書こうかとも思いましたけど、もうちょっとじっくり聴き込んでからにしようかな。それにとっても重要な問題、ちょうど今から書こうとしていることが彼らの音楽や言葉に含まれているんで。
 それで今日はこれを書きます。とっても重要なことです。昨日放送された「爆笑問題のニッポンの教養リミックス~総集編~」の録画を観てビビッと来ました。何かが氷解。そして別の何かが結氷(笑)。
 今シーズンの同番組、けっこう見逃していた回が多かったので、この総集編は助かりました。特に気になっていた10月30日放送「ひきこもりからセカイへ」の一部を観ることができたのは非常にうれしい。太田と全く同様に、高校時代友達のいない心のひきこもりだった私には、とっても興味あるテーマ。そして、先生はサブカルチャー批評でもカリスマである(というか私はそっちの彼しかよく知らなかった)斉藤環さん。爽風会佐々木病院の精神科医で精神医学が御専門の先生です。
 私の言葉を代弁してくれる太田。「外に開いていくのと内に閉じていくのは同じくらいのスケール。むしろ、中に行った方が広いんじゃないか」私もその通りだと思います。外は時間にも空間にも思いっきりしばられますからね。斉藤先生も若い頃に長く思索に沈潜することによって生まれるものがあることを語ります。
 もう、この時点で私は一人うんうんと得心していたんですけど、次の言葉、今年亡くなったカート・ヴォネガットの言葉を先生の口から聞いた時、何か雷が落ちて空が裂けるような感じがしました。
『愛は負けても親切は勝つ』
 太田はさすが「KANが聞いたら怒っちゃうね」と即妙にボケました。そして私は気づかされます。ああ、そうだ。そうそう、「愛は勝つ」の違和感だ。
 もうすぐクリスマスということもあり、また今日のバンプのアルバムを聴きながら考えたことでもあるんですが、キリストの愛とか神の愛が、もし、もしですよ、やっぱり単なる愛であって、斉藤先生が我々人間の愛について語ったのと同じように「自己愛」の危険性をはらんでいたらどうしよう…イエスやゴッドに怒られちゃうかもしれませんね…でも、こういう検証って大事なんじゃないでしょうか。たとえ神の愛やそれに類似する種の愛があったとしても、それをただ無条件に無思索に無懐疑に受け入れて賛美するだけでいいんでしょうか。
 どうも私はそこんところが気になっていたのですよ。もしかして神もイエスもあるいは仏陀も、自己愛が強くて我々衆生を救おうとしているのかもしれない。神仏への冒瀆と言われてもいいんです。そういう検証って、結局自分の「愛」に対する検証になるわけでしょう。
Shinsetsu 私は基本的に「愛」という言葉を信用していません。いや信用するところまで来ていないというのが正しいかもしれない。その言葉を信用できるほど、私自身の愛の実体を見極めていない。みんなはどうしてああいうふうに簡単に言葉にできちゃうんだ?
 以前エッセイ「大切」に書きましたね。amor(love)の訳語としての「大切」について。大切っていい言葉なんですが、これも実は「御身大切」ということがあり得るわけです。自分が大切だから、大きく切ないから、だから他者に施すということもあって当然です。とっても意地悪な言い方をするなら、聖書におけるイエスのスプランクニゾマイだって、もしかすると「御身大切」かもしれない。彼は自らのはらわたのわななきに突き動かされているんですから。
 そうすると、今日語られた「愛は負けても親切は勝つ」というヴォネガットの言葉(実際は彼の読者であった高校生の言葉だそうです)の意味は非常に重要に感じられます。そう、「親切」です。親切心は負けません。「愛」はどうしても相互的になります。聖書にも書いてあります。無償の愛と言っても、それが相互に要求されれば、それはやはり契約になります。愛し合うってことですね。それに対して、親切は一方的でありうる。もちろんお互い親切にし合うということもありますし、見返りや報酬や「情けは人のためならず」を期待するレベルの低い親切もあり得ます。しかし、そうじゃない純粋な親切の存在も想定することができるじゃないですか。とりあえず「自己親切」っていうのはない。
 私は「愛」は信用できないけれど、「親切」は信用できるんですね。自分で言うのもなんですが、自分の生き方、仕事の仕方はこれだと思っています。親切にしてやることしかできないんです。愛するなんて大それたことは誰に対しても、何に対してもできません。
 相互的なものを要求する(目指す)ということは、その要求に応えないものを敵視する危険性をはらんでいます。これももちろん自己愛の裏返しです。世の宗教にまつわる戦争はこれが原因ですよね。そういう意味でも、やっぱり「無償の」というのは難しい。標語として掲げてしまったけれど、我々凡人にはとっても難しいのです。同様に「利他」「布施」というのも難しい。子どもを愛するように…というのも他者に対しては無理です。なぜなら親子の愛は遺伝子という自己への愛にほかならないからです。
 そう考えるとジョン・レノンは鋭いよなあ。 Love is wanting to be loved. とか普通に歌っちゃうんだもんなあ。
 ところで「自己親切」ってあり得ないんでしょうか。人にも自分にも親切にするって悪くないような気がしますね。今度はそこんとこを検証してみようかな。来年のテーマはこれかもなあ…。

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コメント

前略 薀恥庵御亭主 様
「山本玄峯老師」様は・・・・
「人に親切・・・自分に辛切・・・法に深切」と
述べられておられます。
とても大切な御言葉であります。
人間の・・・感情は千差万別ですね。
いつも「善」の状態ではありません。
どす黒い部分も当然あるわけです。
愚僧のお腹(なか)も真っ黒くろすけ。笑
そんな部分を見事にとらえた「演劇」。
落語「髪結新三」・・・歌舞伎では・・・
「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)
とか・・映画では「人情紙風船」(山中貞雄)とか
別タイトルですが・・・あらすじは同じです。
人間の「業」というのでしょうか。
「白子屋政談」という実在の事件を基にした脚本
なのですが・・・・この頃の 怖い事件にも
通じるものがあります。だからこそ・・・
暗い世相には・・・明るい「モノ」が必要です。笑
昔 「ミル・マスカラス」がリングに現れる時
ジグソーの「スカイ・ハイ」が流れると・・・
私自身・・・コタツの上から 飛んでおりました。笑
汚い目出帽と風呂敷姿。幸せな気分になったもんです。
反対に・・・ブッチャーなどの悪人レスラー登場時。
ピンク・フロイドの「吹けよ風呼べよ嵐」が・・・
流れますと腰を落としてスプーン片手に
「地獄突き」のボーズ×。ポーズ。
黒い呪術師に変身。最高の一時でした。懐かしい。笑
「ミル・マスカラス」様も「ブッチャー」様も・・・・
私にとって・・もっとも「御親切な御方々」様でした。
この文章を書いていて 幸せな気分になれました。  
合唱おじさん 拝
            

投稿: 合唱おじさん | 2007.12.20 10:05

山本玄峯老師…間接的にではありますが、因縁深き、尊敬すべき師であります。
素晴らしい言葉ですね。
「人に親切・自分に辛切・法に深切」
人に優しく自分に厳しく、そしてまじめに、ということですね。
深い言葉です。

いずれにせよ、心を尽くして「切」なる想いで臨むべきなのでしょう。
私はせめて最初の「しんせつ」だけは実行したいですね。

マスカラス、ブッチャー、いまだに現役ですからねえ。
まさに神か仏かという感じです。

人情紙風船は観たことがあります。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.12.20 16:37

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