「物語(ものがたり)」とは
昨日書くべきだったことを書きますね。昨日は八ケ岳の麓、北杜市を訪ね「第一回小淵沢ものがたりフェスティバル」という催し物に参加してきました。そこで、「物語」についていろいろ考えてきたんです。その後、小橋の復帰戦も観たりしまして、さらに私の考えは深まっていきました(かな?)。
いきなりですが、皆さん「物語」ってなんだと思いますか?私、昨日も小橋の復帰に興奮して「新しい物語の始まりだあ」みたいなことを書いてますね。こういう時の「物語」って、なんとなく雰囲気はあるけれども実体は実はよくわからない。我々はまさにムードで使ってしまっています。でも、なんとなく万人に共通のムードというのがあるわけでして、そういう意味ではこれこれこういうものだと定義できそうな気もします。いずれにせよ、なんとなく魅力的な気がしますよね。単なる「おはなし」とか「ストーリー」ではなくて。
実は今までもいろいろな偉い方々が「ものがたり」を定義しようとしたんですが、まだ結論には至っていません。で、そのへんを私もちょっと真面目に考えてるんです。あくまでもちょっと真面目にですが。
そう、「物語」を「もの」と「かたり」に分けた時、「かたり」の方はまあ「言葉にして表現する」とか適当に辞書的に説明して納得できるんですけど(私はちょっと違う解釈してますが)、問題はやっぱり「もの」なんです。なんで「もの」がくっつくのか。これについては、今までもこのブログでも何回か語ってきました(いろんなところに散在してるんで自分でもどこに書いたかわかりません。早くまとめろとの声にこたえて、来年にでもまとめます…と言いつつ早10年)。
今までも知の巨人たちがこの問題に取り組んできたんですね。ちょっと思いつくだけでも、和辻哲郎さんとか折口信夫さんとか大野晋さんとか藤井貞和さんとか。で、「もの」は「霊魂」だとか「運命」だとか「他愛のない」という意味だとか、いろいろな案が提出されました。でも、なんとなくすっきりしなかったわけです。
で、私なんですが、これはもう実に簡単に片付けてしまっていて、このブログを長くご覧の方にはしつこくて申し訳ありません、そう私はいろいろな根拠から、「もの」=「自己の外部」と捉えていますから、かなり砕いて言ってしまうと「(相手の)知らない情報を形にして提示する」というふうに考えてるんです。そうしますと、古典作品に頻出する女同士のちょっとした「ものがたり」も、「ねえ、ねえ奥様、知ってらっしゃる?○○ってねえ…」「あら〜!ホント?そうそう、そう言えばワタクシもこんなこと聞きましたわ…」というよくある井戸端会議としてすんなり解釈できるわけです。
さらに物語っちゃいますとね、「モノ」というのは自己ではないので、言い方によっては「自己の欠落部」あるいは「欠落部を埋める何か」とも言えるのですよ。そうそう、先ほどたまたま岸田秀さんの文章を読んだんですけど、そこにこんなことようなことが書いてありました。
「動物をペットにしたり動物園に閉じこめて眺めるのは人間だけだ。人間がそんなことをするのは動物に憧れているからだ。不完全な自己の欠落を埋めるため、不全感の補償のために動物を飼う。さらに空想の動物や怪獣などをつくりあげる…」
なるほど、これこそ私の言う「物語」ですよ。つまり、岸田さんが言う通り、人間(だけ)は自己不全感を持っており、それを埋めるための「何か」を常に待望していると。その「何か」は外からやってくる、たとえ自分自身に関する変化であっても予想外なものとしてやってくる(人間は未来を完全に予知できませんので、自己の未来もまた「もの」です)。
で、例えば私の不全感として、例えば私は鳥ではないので空を飛ぶことができませんね、それはいかんともし難い不全です。ですから、羽を得て空を飛ぶという話をすれば、それはもう立派な物語になるわけですね。さらに私はかなりヤワな肉体しか持っていない、加えて精神的にも軟弱だ、となれば小橋に憧れるのも理解していただけると思います。小橋は私の不全を補完する自分以外の「もの」であって、彼を観て、彼を読み解くことは、そのまま「物語」を受容するということになるわけです。
このように自分以外の「もの」をメディア(例えば言語、肉体の運動、映像など)を通じて伝達する(それが私の考える「かたる」=型る=コト化です)ことこそ「ものがたり」だというわけです。ですから、私たちは常に他者のために物語り、そして自分のために物語ってもらっているんですね。不全を補いあっている。
それが、喜劇であっても、悲劇であっても、ファンタジーであっても、主婦の井戸端会議であっても、そこで望まれるのは今の自分にはない何か(モノ)なんです。で、そういう欠落感の虚しさ、埋めてもらってもそれが現実の自分とは決して同一化しないという虚しさを味わったり、あるいは逆に予想外の招来に喜んだり感激したりするのが「もののあはれ」だと、私は解釈しています。
…と、なんかそれこそとりとめもない「もの」を語って(騙って?)しまいましたね。しかし、人間だけがおそらくは物語る存在、いや「物語られたい」存在なんだと考えた時、私の屁理屈にも似た物語論も、少しは面白いものだと感じていただけるかもしれません。
書こうと思ったことと違うことを書いてしまった。本来は「ものがたりフェスティバル」における杉山亮さんと黒須和清さんの素晴らしい「物語」とその方法について語りたかったんだ。でも、長くなってしまうんで割愛させていただきます(すんません)。しかし、こうして今までポカンと虚しく空いて落ち着かなかった私の空洞を、彼らが「何か」で埋めてくれて、そしてこうして新しい考えも生まれたわけですから、まさに彼らの「物語」は大成功だということでしょう。それにしてもお二人とも見事な語りっぷりでした。小橋に負けずとも劣らず。
すなわち、「物語」こそ連続性・創造性・多様性の根源、つまり生命の本質であると…続きはまたいつか。
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コメント
拝啓 薀恥庵御亭主様
私自身・・・「話芸」に関心を持って
日暮しをいたしております。
「不二草紙」様は 拝読いたしておりまして・・・
とても 気持ちが楽になります。
こころ が 軽くなるかんじです。
これは とても大切なことです。
ついつい・・・「不二草紙」様での滞在時間が
超過いたしまして・・・本来の仕事が・・・
どんどん停滞いたしております。苦笑
まぁぁぁ・・・それくらい楽しいのです。
子供達がゲームセンターから・・・なかなか
抜け出せない感覚ですね。笑
私にとっては・・・・この場所が
自分にとっての「オアシス」なのです。
私自身まさに・・・ここが「物語」の源ですね。笑
同時に憧れでもありましょう。
昔々の「パソコン通信」の時代より・・・
仏教関連 福祉関連 落語関連と・・・・
様々な 御部屋を拝見(拝読)させて
いただきましたが・・・・この御部屋ほど
居心地のよい御部屋はございません。笑
この御部屋の御亭主様に足を向けて眠る
ことなんて とても できません。笑
益々の御活躍を祈念いたしております。
合唱おじさん 九拝
投稿: 合唱おじさん | 2007.12.04 18:38
合唱おじさん様、こんばんは。
なんか申し訳ありません。
私の駄文につきあわせてしまって。
私は本当に勝手なことばかり書いて、
そして書きっぱなし。
無責任きわまりありません。
でも、気持ちが楽になる、居心地が良い…など、
嬉しいお言葉、本当にありがたく存じます。
毎日書いている甲斐があるというものです。
今後も力まず自然体で思ったことを書いていきます。
よろしかったらおつきあいくださいませ。
少しでも新しい「物語」が紡げたら幸いであります。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.12.04 21:40