自我(自己)からの解放〜ある二冊の本から
自我(自己)からの解放…私はもちろんこんな境地には至っていませんが、今日はあえてこの言葉をとりあげましょう。ふと思い出した本が2冊ありましたので、それに絡めて。
一昨日書いたように、自己の欠落を埋める「物語(ものがたり)」こそ「生命」の本質であり、人間の「存在」の本質であるわけで、その証として、一度「物語」が動き出しますと、どんどんと新たな連関が生まれ(発見され)、新たな意味が創造されていきます。
人生が楽しいかどうか、充実しているかどうかというのは、こういう連関(連環)の中に自分が入っているかどうかで決まるような気がする今日この頃であります。今の私は、ありがたいことにそういうものの流れに棹さして、案外優雅に毎日を送らせていただいているという実感があります。
で、今日もまた、ささやかですが、私にとっては大きな発見がありました。以前読んだことのある、ある2冊の本に再び出会ったからです。まずは3年生の教室にあった本、「アインシュタイン 150の言葉」。ずいぶん前に読んだことがあります(読むと言ってもただ150の短い言葉が並ぶだけですから、10分もかかりませんよ)。今日はその中のこの言葉にピンと来ました。前はなんとも思わなかったのですが。
『人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる』
ただそれだけです。それでも、昨日一昨日からの流れ、すなわち「物語論」的流れからしますと、この言葉は実に重い意味を帯びてくるわけですね。何度も繰り返したとおり、私にとっての物語の受容とは、自らの欠落を埋めるために外部の何かを受け入れる行為ですから、それは今の自分からの解放と同義になります。今の自己に執着しないということです。
もちろん、欠落に対する不安というのは、一般的に「欲望」と呼ばれるものに直結しますから、安易にそれを埋めることが、(特に宗教的な意味において)自分からの解放にはつながらないと思います。でも、まずは他者を受け入れるためにそういう態勢を作ることが大切なのではないでしょうか。心が開いている状態とでも言いましょうか。
続きまして、教材で使った某大学の過去問に登場した鈴木道彦さんの文章です。この本は半年ほど前に読みました。その時は、純粋に「在日」の問題についての勉強という意味で読んだので、この冒頭部分については本当に軽く読み飛ばしてしまったのでした。しかし、今日はぐっと心に来た。腑に落ちたってやつでしょう。もしかすると私の心が開いていたのかもしれません。冒頭部分を要約します。
『あまりにもちっぽけで醜く利己的な(嫌悪すべき)自己をどう越えるかという課題に、文学的なヒントを与えたのはプルーストであり、哲学的なヒントを与えたのはサルトルであった』
いやはやかなり強引な要約ですな(笑)。ここではサルトルは置いといて、プルーストについてだけ書いておきます。私はプルーストについては何も知りませんが、鈴木さんはこのように書いています。
『彼の小説は、一見「私」の意識に閉じこもっているように思われるが、実は作品の創造を通して自己を乗り越え、他者に開かれてゆく過程を描いたものであること、他者との交流を求めるものである…』
なるほど、これはまさに「物語」の機能ですね。彼は小説という物語を通じて、自己と他者の欠如を埋めようとしたのでした。小説は近代の物語の王道です。
今日はこの二つの言葉(物語)に出会って、私は一人自分の穴を埋めてもらって心地よくなりました。皆さんにとってはどうということはないのかもしれませんし、そんなこと当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、なんとなく書き留めておきたかったので。
ここに紹介した2冊の本、それぞれとってもためになる本ですから、よろしかったら御賞味ください。
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コメント
「自我」に関する本で、今年読んだ本です。前者はいくつか訳がでているようです。後者はテニスのメンタルに関するものですが、これを読んでから60%くらいプレーが改善された気がします。
Maxwell Maltz著 Psycho-Cybernetics
W.ティモシー ガルウェイ著 『新インナーゲーム―心で勝つ!集中の科学』
ひとりの人間には行動や思考を監視する「自我」Ego と本質的な自分が2人いて、いかにこの「自我」とつきあうべきかということが書かれています。
20世紀からの芸術には、自分を表現するだとか、自分らしさとか、そのようなものにこだわったものが多すぎると思います。
投稿: 龍川順 | 2007.12.06 09:14
龍川さんこんにちは。
両方とも面白そうですねえ!
なるほど、最近は自分を二つに分ける考え方もはやってますね。
たしかにその方がしっくり来ます(ワタシなんか、もっとたくさんいるような気もしますが)。
心理学や宗教の方でも、「心」と「魂」を分けています。
いずれにしても厄介なのは表面の「私」ですねえ。
ということは、外部の影響を受ける自分をうまいことコントロールするべきなんでしょうか。
そもそも自我を否定する禅との関係もあって、興味の尽きないところです。
もともと「自我」自体、自分が意識している対象である点、他者なのかもしれませんし。
20世紀は自意識過剰の時代ですねえ、ホント。
まじめすぎたんじゃないですか?
それこそ趣味のためや、ヒマつぶし程度にしておくのが無難かと。
投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.12.06 13:34
自分をしっかり持っていない人が、「自我からの解放」を実践できはしません。己を知って、他者を知る、です。ですから、自分を極めることが大切なのであり、そこから他者といかに関係できるかを模索することであります。
投稿: カキン | 2011.07.11 15:24