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2007.12.31

大晦日格闘技のMVPは…(2007)

Kanemura だいぶ遅くなりましたが、心のプロレスラーとして書かずにはいられません。
 2007年もまた、格闘技イベントで締めくくり。いつからでしょうかね。紅白に対して格闘技がぶつけられるようになったのは。これは面白いことだと思いますよ。歌の祭祀性に対し、格闘技の祭祀性をぶつける。どちらもガチンコであり、どちらも演劇であり、どちらも日常であり、どちらも非日常であるという事実。
 とにかく、大晦日というのは「大いなる三十日」なのです。年をまたぐ、その寸前の場という意味で、過去と現在と未来をつなぐ時間であり、日常と非日常、ケとハレ、現実と夢をつなぐ空間でもあるわけですね。
 そんな特別な時を、我々は歌を聴き、歌を歌い、格闘技に心震わせ、そしてソバを喰ってすごすわけです。おそらく唯一全国民が一つになる祭が大晦日でしょう。
 歌はやはり恋の歌。格闘技は「レッスル」すなわち「じゃれあい」。ソバは「細く長く」。いずれにせよ、我々の子孫繁栄、ひいては五穀豊穰を祈る、きわめて「性的」な祭なのであります(なんちゃって)。
 さてさて、そんなレッスルですが、今年はいわゆる「大連立」などありまして、大いに興味深い闘いが繰り広げられました。ウチのカミさんなんかは、もちろん桜庭和志の大ファンでありますので、いわゆる「東北百姓対決」…いやいや、「レジェンド対決」(だいぶ違うなあ…でも五穀豊穰を願うとすれば、百姓対決で良かったのかも)と、因縁(怨念)深い「秋山vs三崎」に大興奮しておりました。いや、今思えば、昨年の「ヌルヌル」もまた過度に性的だったのかもしれないな(笑)。
 まあ、とにかくそれぞれの戦いについて書き出すとキリがありませんので、今日はワタクシが選ぶMVPだけ発表しておきましょう。ジャジャ〜ン!!それは…

 キンターマン選手

です!上の写真で思いっきりハイキックをもらっている、その人です!これはもう圧倒的差をつけてMVPですよ。ちなみに2位はこのハイキックの主、ミルコ・クロコップ選手です。
 格闘技に詳しい方でないと全く分からないと思いますけど、ミルコがハッスルのリングに立つこと自体、もう大変なお祭りなのであります。夢にも思わなかったというのはこのことです。可能性0%なんですよ。福田総理がM-1に出るようなもんです(?)。
 で、このミルコという人はハイキックの鬼(神)でして、ガードの上からでもこれを喰らうとまずKOなんです。我々凡人では死ぬでしょう、間違いなく。それを、見てください、上の写真。キンターマン選手は完全にノーガードで受けています。ありえません。
 これは命をかけた闘いです。奇跡的に降臨した神のため、祭の完成のため、日本国民の幸福のため、彼はあえて完全ノーガードで神業を受けました。
 実際、この後、キンターマン選手はリング上でいびきをかくという危険な情態に陥り、救急車で病院へ。その後の年末年始の仕事は全てキャンセルになってしまいました。
 ところで、キンターマン選手は、本名…ではなくて本リングネームを金村キンタローと言う素晴らしいプロレスラーです。私は今年の7月に初めて彼の試合を生で観ました。この記事に書いたLOCK UPの大会ですね。彼は実は在日韓国人レスラーです(本名は金珩皓)。在日の彼がクロアチアのミルコにやられる…それも日本の大晦日、そしてお正月のために…。二人とも偉いっす。
 それに比べて、空気を読めない在日格闘家もいましたねえ。秋成勲です。彼は昨年の大晦日、日本の(ウチの)大晦日とお正月を台無しにしてくれました。その彼、今年は、キンターマン選手と同じくKOされて病院送りになりました。これは空気を読んだのか…いや全然違うな。あれは本気で負けてたな。まあ、でもああやって負けたことで、かなりの日本人(たとえばウチのカミさん)は溜飲を下げたわけで、まあ結果としては祭の成功に寄与したということですかね。
 紅白にせよ、格闘技にせよ、日本の大晦日は在日の皆さまが大活躍です。これは正直素晴らしいことだと思いますよ。そこんとこの歴史的、文化的考察をし始めるとたぶん丸1年かかってしまうので、省略。
 いずれにせよ、キンターマン選手こと金村キンタロー選手は素晴らしすぎました。私はますます彼のファンになってしまいました。心のプロレスラーを標榜するワタクシとしてましては、まさに身も心もプロレスラーであるキンターマン選手の大玉砕に、心の底から敬意を表したいと思います。ありがとうキンターマン!オレも頑張るよ!!
 ps キンターマンというネーミングも子孫繁栄を祈るものなんでしょうね(笑)。

 この件に関するカクトウログのこちらの記事もいろいろと考えさせられます。

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2007.12.30

BUMP OF CHICKEN 『orbital period』

4988061862453 昨日の記事で「詩」についてちょっと考えてみましたが、書いてみてからやっぱりいろいろと迷うこともありました。そんな簡単に答えは出ませんよね。あたりまえです。
 ただ、私にとって、こいつは真性の「詩人」だなと思わせる人がいることは確かです。私は音楽が好きなので、どちらかというと「歌詞」の中に「詩」を見ることが多い。たとえばこのバンプの藤原基央くんなんかかなりいい詩人だと思います。彼の言葉にはいつも何かを発見させられます。そして、本来の「歌」…日本古来の歌ですね、言葉と旋律とリズムの一体になったメッセージのあり方を考えさせてくれます。
 このニューアルバム、前作「ユグドラシル」が超名作だっただけに、そしてそこから3年以上も経っていることもあって、ファンの間でも期待や不安が高まっていました。実際、リリースされてから、聴いた人たちが語る語る(笑)、Amazonのレビューの数の多さは異常ですよ。つまり、みんな詩人になっちゃうんですね。それぞれのリスナーがみんな言葉を発したくてしかたなくなるんですね。そこが彼らの音楽や言葉の力だと思います。
 私なんかは、もういい歳なんで、それなりにいろいろな音楽を聴いたり演奏したり、またいろいろな言葉に接してきたり、こうして書いたりしてきたわけですし、まあいちおう人生経験もいろいろと積んでいるしですね、彼らの若々しい叫びにちょっと恥ずかしさを感じる時もあるんですけどね、それでもやっぱり魂が揺さぶられたり、なぜか涙が出てしまったり、頭で解釈しようとしたり、自分もこうやって表現ができたらいいなとか、いろいろと動き出すんです。
 で、このアルバムです。この前、『メーデー』&『花の名』の記事の中で「なんとなく日常が生きにくいと思っている人、そういう意味では実は人生や世の中の本質をわかってしまっている人への応援歌」というようなことを書きましたね。全く偶然ですが、今回「才悩人応援歌」という曲が入っていました。その歌詞が彼ららしいですね。こちらで読めます。パラドクシカルな応援歌です。時々こういう厳しい言葉も吐く彼らですが、それがなんというか、こちらだけに投げかけられるんでなく、いっしょに痛みを背負ってくれるんですね。そしてまた優しい言葉に帰って行く。そんな大きな波のようなものが、彼らのアルバムの良さです。シングルでは味わえない大切な部分です。シングルの寄せ集めだとか、作品としてのコンセプトが見えないという方は、おそらくその本質を読み落としてると思いますよ。
 そう、今回痛感したんですけど、彼の言葉って聖書的ですね。音楽的にもゴスペルっぽいし。実際藤原くんはブルーグラスやカントリーが好きなようだし、コード進行や演奏の形態にもその影響が聴いてとれます。
 つまり、日本語と音楽による福音なのかもしれない。彼らの言葉や音楽に救われる人、勇気づけられる人、きっとたくさんいることでしょう。こういう、豊かだけれどどこか欠落感を抱いてしまう世の中で、なんとなく不安になったり、孤独感を味わったりする人たち…きっと自分もちょっぴりそういうところがあるんでしょうね…と苦しみや悩みを共有し、そして一緒に頑張って行こうと励ましてくれる、そういう言葉や音楽なんでしょうね。
 おそらく藤原くんはそういうところを意識しているというか、自分自身もきっと何かの音楽や言葉にそうしてもらってきたんでしょうね。だから自分たちの音楽活動の意味もそこに見出しているんでしょう。商業的なことよりも、もっと深いところで歌い続けている彼らの姿勢には私も共感しますし、これからもずっとそういうバンドであってほしいと心から願います。
 それぞれの楽曲については、もっともっと聴き込まないと語れません。何度も聴いて噛みしめて分かるのがバンプですからね。今日はとりあえず全体的な感想だけということで。とにかくいいアルバムであることは確かですよ。

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2007.12.29

『詩のボクシング13 日本列島に響け!魂の言葉たち』(NHK)

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 今年もやってまいりました「詩のボクシング」の放映。昨年は本当に感動しました。感動したなんて、全く詩的な表現じゃなくて申し訳ないんですが、言葉にならない気持ちがあって、詩にならない瞬間があるからこそ、詩はどこかに向かい続ける、つまり生き続けるんでしょうね。
 さて、昨年は記事を書いてから、優勝者の木村恵美さんから直接連絡をいただきまして、ありがたいお言葉(お誘いも含めて)をいろいろと頂戴いたしました。そして、本年から山梨大会も始まるとういうことで、これは玉砕覚悟でもなんでも参戦せねば、と思っていたんですが、本職の(?)表現活動の方が忙しい時期で、結局観戦すらできませんでした。
 山梨大会では、これまた大学の後輩であり、いろいろな意味で世話にもなっている人が優勝したということで、まあ結果として身内対決にならなくて良かったな、と少し安心したりして。
 いやあ、それ以前に、私はこうして言葉をたれ流し続けてはいるものの、それは全く詩的世界からはかけはなれておりますし、あの聖なるリングに上がる資格はないのかもしれませんね。ハッタリで勝負できるほど甘くはないでしょう。
 さて、今年の全国大会はどうだったでしょう。まずは正直な感想を。
 やっぱり去年はすごかった。木村さんだけではなく、他のボクサーたちの技術や魂も、今年よりハイレベルだった。それを痛感しました。それこそ私が批評できる立場ではないと思いますが、今年は全体に言葉の力が弱かったかなあ。ある意味「詩」の陥りがちな方向に行っていたような気がしました。
 象徴的だったのは優勝者の晴居彗星さんです。私は彼の芸風は好きですし、その切り口も悪くないとは思ったんですけど、あれが「詩」なのかどうかと。つまり、「詩」が持っているその「詩」的な性格、すなわち「詩」自身ですら自己を定義できない、その自由さと制約、根拠のない自信と漠然とした不安、みたいなものでしょうかね、なんでもありの難しさみたいなものですね。それを感じてしまった。
 もともと「詩のボクシング」は「朗読」が主体であり、あまり「詩」という形式にこだわってはいないわけですが、一般人のつぶやき(あくまでも表現方法としてのつぶやきですが)にまで、その間口を拡げてしまうのはちょっと危険な気もしました。正直なことを言いますと、今日の夜何気なく観た「お笑いDynamite!! 」の方が、そういう意味では「詩的」だと思ってしまいましたよ。
 私の「モノ・コト論(物語論)」から考える「詩」というのは、「コトノハ」による「コト」への挑戦、あくまで生々しく流転する無常なる「モノ」を生み出す行為だと思うんです。それはやはり「騙り」であってほしくない。「語り」であってほしいんです。
 回りくどい説明になってしまって申し訳ありません。大切なことなんで説明させてください。
 相手にとって未知なる「モノ」、また自分自身も消化しきれていない「モノ」を、例えば言葉というメディア(「コトの端」=「コト」化のきっかけになる何か)を通じて形にすることが私の言う「カタル」ということになるんですが、それを受ける例えば聞き手は、自分の内部(コト)に、相手が語った「コトの端」が放り込まれる状況になるわけですね。そして、池に石が投じられた時のように波紋や飛沫が生じるように、日常的に平静だった「ココロ」に動きが生じます。その動き自身はほとんど反射的なものであって感情以前の「モノ」です。つまり自分の意志の外にある。そして、それに対して発動する自分の意志が、それが感情だと思います。つまり、その動きを止めて平静に戻したいとか、あるいはその動きがずっと続いてほしいとか、そういう「〜したい」というのが感情だと、私は考えています。
 で、詩だけでなく、あらゆる芸術(物語)の自分にとっての価値というのは、その自らの願望たる感情が発動しえないくらい、あるいは発動しても全く機能しないくらいの、そういう波紋や飛沫を生む「モノ」なんですよ。「コト」化を目的としていながら、しかしその「コト」化を拒否するような、と言いますか、それこそなんかうまく表現できないんですけど。とにかく「モノ」の持つ無常性や不随意性、不可知性や豊饒性の伝播こそが「物語(モノガタリ)」の本質であり価値であると思ってるんですよ、私は。
 長々と語って(騙って)しまいましたが、そういう意味において、今年の「詩」には生命力が不足していたような気がするんです。もちろん、それは全体の印象であって、個々には素晴らしい力を持った言葉があったと思います。しかしやっぱり、晴居彗星さんの「詩」は、私の中ですぐに消化され、解釈されてしまった、つまりすぐに死んでしまったよなあ…。
 一方、やはり昨年のあの私の「涙」は、やはり私自身の心の飛沫、抑え難い波紋そのものだったと思います。あらためて木村恵美おそるべし。
 木村さん、今年はジャッジとして参加されておりました。その場の空気も含めた「モノ」は編集されたテレビの画面からは伝わってきません。いずれ、彼女から生きた感想を聞きたいと思います。

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2007.12.28

ウラジミール・ゴンチャロフ博士

Senrigan 本日、仕事納め。やばい!年賀状印刷しなきゃ。今年の、いや来年の年賀状は(も)すごいですよ。毎年いかにくだらないパロディーをやって元旦早々人を笑わせるかということだけを考えている我が家の年賀状。今回のはあまりに馬鹿げてるので、元旦にこのブログで公開しようと思ってます。ついに私の素顔がさらされる!?
 さて、くだらなさ、脱力系、嘘八百、トンデモ、といった世界において、私が常に注目し、あるいはそこから学んでいるのは、雑誌によくある「開運グッズ」広告であります。昨日は広告業界の芸術性について書きましたけど、これもまたある意味芸術的世界であります。
 みなさんもご覧になったことありますよね、開運グッズの広告。財布とかブレスレットとかペンダントとか石とか。とにかくそれを買って身につければ、金持ちになる、人間関係が改善する、彼氏彼女ができる、ギャンブルで勝ちまくる…夢のような話が、写真入り体験談とともに紹介されてるヤツです。札束で左うちわの家族とか、あるじゃないですか。
 まあ、あれを信じて買うかどうか、それはまあ自由でして、いや実は私も一回くらいわざとだまされて買ってみたいと思ってますよ。あまりに馬鹿げていて面白いじゃないですか。この前粉砕した(?)「神世界」の「力ライセンス」とか「神書」とかもウチにありますけど(買ったんじゃありませんよ)、ああいうのとはちょっと違う気がする。悪意のようなものも感じますけど、なんとなく「バッカですよ〜」と宣言してるようなところがあって、なんかそこんとこは微妙に許せたりするんですよね。
 でも、たとえばこんな風に許されない時もある。公正取引委員会は「アート」を解さないのか!?ってか、だまされて買っちゃって、それでクレームをつける人がいるっていうことですよね。ご愁傷様なことです。
 で、なぜかそのフジアートとかなりご近所にあるイセイコーポレーションが先月出した広告が最高だったので、今日はその中のさらに最高級の部分を紹介させていただきます。
 そのグッズは何かと申しますと、「超(スーパー)千里眼」というルーペでして(ルーペというのはなかなか斬新!)、それをのぞくと、ロト、宝くじ、パチンコ、パチスロ、株、競馬…なんでも当たるらしい。なんでも旧ソ連諜報機関が極秘開発したそうで、今回その開発に携わった最高技術責任者と接触に成功し、この超千里眼を発売することになったと書かれています(笑)。
 例によって、サクラの方々が札束とおぼしき塊(モザイクがかかるようになりましたね、最近)を持って、満面の笑みを浮かべております。彼女ができた佐藤智一さんもいるぞ(笑)。もうそれぞれのコメントの文学的センスが最高なんで紹介したいところですが、今回はそれよりなにより!その最高責任者の方ですよ。
Vladimir ウラジミール・ゴンチャロフ博士(Владимир Гончаров/Vladimir Goncharov)!!最強です。写真を観てくださいよ〜。この方が諜報部超能力研究チームの最高責任者じゃあ、旧ソ連も崩壊するわ(笑)。
 これってギャグですよねえ。この髪形ありえませんよ。そして、なんと言っても、その顕微鏡を覗く覗き方ですよ。いくら超能力、超千里眼でも、覗く方の目をつぶってちゃねえ(笑)。すごすぎます。ご本人からしてすでに崩壊してます。いいなあ、この味。
 「神世界」の皆さんにもぜひ見習ってもらいたい。いや、「神書」なんて読むと、けっこうゴンチャロフ級のギャグが書いてありますけど、なんていうかなあ、博士のような品格が感じられないというか(笑)、知性が感じられないというか(笑)、とにかくダメです。このあたりの微妙な差異ってなんなんでしょうね。理論では説明できないような気がします。
 というわけで、私の2007年の「この人」はウラジミール・ゴンチャロフ博士に決定です。いくら開運グッズ広告でも、これからこれを超えるのは難しいでしょう。おめでとう!博士!

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2007.12.27

『CM』 小田桐昭, 岡康道 (宣伝会議)

Cm お二人の肩書きは「クリエーティブ・ディレクター」でしょうか。なんだかカッコいいですね。もうこの時点でイメージが先行している。
 広告業界、特にCM界におけるカリスマ二人による対談集。
 教え子に、いろんな意味で天才的なヤツがいて、そいつが貸してくれたんです。彼女は今、日芸の放送学科で勉強してるんですけど、ある授業で提出した彼女の課題が、カリスマの一人岡康道さんの目に留まって、なんだか知らんが岡さんと食事をしたんだとか…いやはや、すごいことになってるなあ。あいつ運をつかむ天才なんだよなあ。ちょっと嫉妬(笑)。ま、私の教え「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を最も忠実に実行してるとも言えるな。
 さて、そんなプチ天才が貸してくれた本物の天才の言葉。やはり面白く勉強になりました。一気に読んでしまった。
 いや、実は私、彼女にも言ったんですけど、アンチCM派だったんです。なにしろ消費や市場経済を悪と決めつけてるくらいですからね、当然ですよね。人の消費欲、購買意欲をいたずらに煽り、無駄遣いさせ、人を虚しさのどん底に落とし、さらに地球環境を破壊する、なんだか地球の破滅を狙う悪の組織って感じがしてたんです。
 だから彼女が岡さんに会うっていうのを聞いた時も、オレはアンチだからな、刺客としてお前を送り込むからしっかりツッコミを入れてこい!と命令しました。
 で、彼女のお食事の感想は「すごいオーラだったけど、案外普通の話でしたよ」と。そして、私もこの本を読みましてね、正直岡さんや小田桐さんのことかなり好きになってしまいました。いかん、いかん。
 この本には人間の温かさが満ちていたんです。彼らが目指すのは、たしかに人の心を動かすものです。しかし、それが単に消費意欲をかき立てる類いのものではなく、もっと深いところ、ただ商品の説明ではなく、それを通して人生を考えるというか、他者のことを考えるというか、またその商品を実際に買って所有して使って新たな物語を紡ぐとか、そういういわば芸術の目指すところと同じところを目指していることに気づかされたんです。恥ずかしながら、食わず嫌いだった。また知ったかぶって恥をかいてしまいました。
 私の心をいとも簡単にひっくり返してしまったのは、彼らが「小津安二郎」をやりたいと語り合っていたからです。言葉にならない言葉。語りすぎない表現。なんだ!そうだっのか。私も単純ですよね。
 小津のパロディーCMはありましたが、それってあくまでもパロディーであって、あれを見た時私は、小津ワールドと対極にあるCMだからこういうパロディーが生きるんだよな、と思いました。まさか真剣にCM界で小津をやろうなんてことを考えている人たちがいたとは。と言いますか、私の認識不足でして、全く先入観というのはこわいものだと再確認させられちゃいました。
 考えてみれば、彼ら「電通」を飛び出してるんですよね。彼らが言うことをワタクシ流の言葉に無理やり訳してしまうと、まさに電通は「悪の組織」になってしまっているということでしょうか。お二人とも、かなり厳しい口調で今の広告業界を憂えています。自分たちを育ててくれた組織がそういうことになって、そして裏切るような形で独立しなければならなかったのですから、それはそれは辛い複雑な心境でしょうね。
 ところで、この本のある意味面白かったところは、お二人の生い立ちについて語られている部分でしょう。お二人ともなかなか個性的な人生を歩まれております。完全に体育会系だし。
 お二人(あるいは世の全ての成功者に)に共通しているのは、逆境を生かす、不随意な「もの」の中から多くを学び取るということでしょう。そういう意味では単純に「根性がある」とも言えますね。私には完全に欠落しているものです。お二人とも、持って生まれた才能というのもお有りでしょうが、やっぱり時流に乗る運と、人に可愛がられる人柄、そしてバカみたいな根性、そういったものが揃っていないとカリスマにはなれなかったんじゃないでしょうか。
 さて、CMというものについて一言書いておきましょう。今、CMという「もの」と書きましたが、私はこの本を読むまで、CMとは単なる「コト」だとおもっていました。例の「神世界」みたいなもんだと決めつけていたんですね。「騙り」だと。そういうCMもけっこうあると思いますが、やっぱりそれだけじゃないんですよね。だって、自分が子どもの頃見たCMで覚えてるのってたくさんあるじゃないですか。それが、たとえば車の宣伝だったりして、自分が買うことはできなかったとしても、そのCM作品自身が心に残るっていうことありますよね。あるいは何の商品だったか忘れたけれど、やはりその作品自体はなんだかよく覚えてるってやつ。
 つまり、優れた作品というのは、それがたとえテレビというメディア上の刹那的なものであっても、昨日の宝塚のように、フィクションやルールや言葉(コト)によって我々受容者が新たな物語を紡いでいくものなんだなあと。
 そう考えますと、芸術と言われるもの、優れた表現と言われるものは、自己創造性を持つとともに、他者の創造性をもかき立てる、まさに「モノ」的な性質を持った存在だということが明らかになっていきます。自他に対して、縁起(縁によって生起する)を促していくモノの豊かさ…。
 小田桐さんや岡さんは、「物」に「言葉」を与えることによって、そこに「物語」を生み出していくわけでして、そういう意味では「クリエーティブ・ディレクター」という名前も単なるイメージではないことがわかってきます。まさに自他の「クリエーティブ(創造性)」を「ディレクト(方向付け)」する人なんですね。私も自称でもいいから「クリエーティビティ・ディレクター」になりたいなあ、なんて無理なことを夢見てしまいました。

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2007.12.26

宝塚に見る「女の嫉妬」の行方

Tcad187 今日は法学部で学ぶ卒業生が学校に遊びに来ました。彼女はいわゆるヅカファンです。特に月組がごひいき。
 私、今までも半ば強引に宝塚のDVDを見せられてきました。最初は正直よくわからんなあ、と思っていたんですけど、やはり世の中で素晴らしいと言われ何十年も生き残っているいるものには、その生き残る理由があるんですね。ジャニーズも実際観に行ったらたしかに素晴らしいエンターテインメントだった。
 で、来年はいよいよ宝塚も観に行くことになりそうです。例によってファンの方々なんかの様子も含めて楽しんでこようと思います。
 今日強引に見せられたDVDは「MAHOROBA/マジシャンの憂鬱」であります。まあ、MAHOROBAの一部だけしか観てませんけど、もうとにかくそれだけでも濃過ぎて最高に面白かった。もう瀬奈じゅんがイザナギとして登場して、いつのまにかヤマトタケルになってる時点で笑えたわけですけど、そうだなあ、やっぱりオウス(ヤマトタケル)が熊襲征伐するシーンかな。そう、オウスが女装してカワカミタケルをだまして殺すところです。
 とっても興味深いですねえ。現実世界では女性である瀬奈じゅんが、まずオウスという男に扮し、そして、そのオウスが女装しているわけですから、えっと、女が男になって女になってるんですね。二重のフィクションです。面白いですね。そして、その女装してめでたく女に戻った(?)瀬奈じゅんは、妙にエロチックに踊り歌います。宝塚ではだいたい巧妙に女性性が消し去られているんですが、このシーンは珍しく女性性が強調されていました。それが実にウソくさくて良かった。
 歌舞伎は男が男と女の両方を演じます。舞台にはリアルには男しかいません。女性不在です。女形は記号化され象徴化された女であってリアル女ではありません。宝塚はどうでしょう。歌舞伎の逆ですね。舞台にはリアル女しかいません。男性不在です。男役さんは記号化象徴化された男ですね。さらに面白いのは女役、娘役さんも記号化されているということです。彼女たちの女性性は巧みに隠蔽されているんです。彼女たちは決してエロチックではない。ボディーコンシャスすら許されません。
 ちょっとそのへんについて考えてみました。
 観客としての女性、市場経済における消費者としての女性を成立させるため、継続成長させるためには、女性に内在するドロドロ、すなわち「嫉妬心」を消し去らねばならない。リアル女性にとって、リアル世界の男女関係における「嫉妬心」は、基本的に不快な感情です。消費者たる女性はそんな不快な感情に対してお金を払ってくれるわけがありません(実はもうちょっと複雑なしくみなんですが、今日は割愛)。
 で、面白いのはですねえ、日本でそういう「嫉妬心消去」のシステムが発達したということですね。世界の中でも特別だと思います。それがそう、歌舞伎や宝塚やBL(ボーイズラブ)なんです。これは、日本の女性が特に嫉妬心が強いということではなく、自らの嫉妬心をシステム(フィクション)の中で消去できてしまうくらい、日本の女性が賢いのだと、私は思います。あるいは、女の嫉妬心の処理方法を各種考案した日本の男が賢かったのかな。ま、とにかく日本はこの点に関しては特別ですし、それらを芸術にまで高めてしまったわけで、まったくすごいことだと思います。
 今日も教え子に聞いてみました。「お前さあ、ほら大好きな瀬奈さまがさあ、こんな可愛い女の人とからんでるけど、嫉妬とかしないの〜?」そしたら、彼女「あっ、言われてみると全然嫉妬しません」って。ほらね。彼女、言われて初めて気がついたのか、リアルな自分と比較して不思議だ不思議だと言っておりました。面白いですね。
 ちなみに、8月に関ジャニ∞に行った時には、こちらに書いたように、5万5千の女の嫉妬心が大爆発して東京ドームを揺らしましたっけ。これは実は見事な演出だったわけですが、そうですねえ、ジャニーズにおける「ホモ伝説」もやっぱり嫉妬心除去システムの一つなのかもしれませんね。
 女の嫉妬心はどんな場合も女に向かいます。ある共通した嫉妬を中心に女が一群をなして盛り上がる場合もありますけど、基本的には彼女たち、そんな自己に内在する「鬼」はなるべく外に出したくないようです。そのためにリアルな「性」を消し去る文化が、それこそ源氏物語あたりから日本では見事に発達したということですね。
 というわけで、そんなフィクション(「コト」)世界に、こいつホントは女じゃんとか、女が男になって女になってるよとか、イザナギがブーツはいてるよとか、歌詞が文語なのに音楽は思いっきり洋楽じゃんとか、そういう野暮なツッコミを入れず、上手にだまされるのこそ大人な世界ですよね。
 そうそう、最後は彼女の専門である法学にまで話が発展しました。私にかかれば、宝塚も法律も全く同じです。そう、法律なんて最たるフィクション(「コト」)ですからね。全てのルールはフィクションです。それに野暮なツッコミを入れたりせず、なんとなくみんなでそれを遵守していく。なんで赤信号は止まれなんだ、オレは進むぞ、とか言わないで。そう考えると、法律は我々国民をある方向に動かしていく演出であることがわかります。そのへんについてはまたいつか。

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2007.12.25

百人一首に見る「もののあはれ」

412hsfd9w2l_aa280_ 今日は、仕事上お世話になっている英会話スクールのクリスマスパーティーにおじゃまして、ヴァイオリンでクリスマスソングを弾いたり、皆さんと一緒に英語のゲームに参加したりして、楽しませていただきました。昔の教え子との再会など、出会い多数あり。
 さて、22日の記事に書いたとおり、ウチではちょっと早めにイヴやら偉い人の誕生日パーティーをやってしまったのですが、いちおう世間様の慣習にも従って、子どもたちへのプレゼント贈呈を行ないました(形としてはサンタさんが深夜家宅侵入したという設定)。
 子どもたち、いつもより早起きして、二つの包みを見つけました。一つはけっこう大きめ。一つは小さいけれどかなり重い。期待は膨らみます。
 そして、両親に促されるままに包みを開けると…ガ〜ン…なんか固まってます。大きいつづらはオセロゲーム。渋い。さっそくやり方を教わってゲーム開始。なんとなく盛り上がりに欠けるので、これは黒猫と白猫の勢力争いだという設定を与えましたら、少しその気になってきた…とその瞬間、ウチの本物の黒猫(下半身不随の子猫ミー)が盤面の上をズズズ〜ッといざって行きまして、全てが終了。黒猫の勝ち〜(笑)。
 で、もう一つの小さいが重いつづらはと言いますと、これがもっと渋い。渋すぎる。子どもは「何これ?」って感じ。
 そう、なんと「百人一首」なのです!
 言っておきますが、これを選んだのは私ではありません。カミさんです。自分が小さい頃オセロと百人一首をやっていたのを思い出したのでしょうね。だからってねえ、それを子どもにも押しつけるのはねえ。今日娘たち、小学校や保育所に行ってどういう会話したんでしょうね。みんなはDSだとかWiiのソフトだとか言ってるのに、ウチは…オセロと百人一首かよ。「ウチは電気で動くものは買ってくれないの」…切ないなあ(じゃあ買ってやれよ)。
 で、百人一首です。せっかくですからこれについてちょっと面白い話、というか私の最新の研究成果(?)を書いておきましょう。
 もうご存知の方もいらっしゃるでしょうね。百人一首の謎、秘密。実は壮大な歌織物が構成されていて、そこに暗号が隠されている…。
 織田正吉さんと林直道さんによる研究が有名ですね。というか、織田さんの発見を林さん(経済学者として超有名な方)が発展させたということで、二人の間に微妙な空気が漂ってます。
 お二人の本を読むとよくわかるんですが、今日はこちらのまとめサイトを紹介しておきます。上手に、そしてきれいにまとまっています。ぜひご覧ください。

百人一首に秘められた謎

 これはもう単なるこじつけではありませんよね。もしこじつけだとしたら、それはそれですごいことですよ。
 さてそんなわけで、私から見ましても、かなり駄作の多い不思議な歌集であります。で、私は私なりに私の「モノ・コト論」で百人一首を料理している最中なんですね。特に注目しているのは「もの」いう言葉です。みなさんも漠然と「もの思ふ」系の言葉がたくさん出てくるなあとお感じなったことがあるのではないでしょうか。
 単独で「もの」という名詞も出てきますし、「ものを」という助詞もよく出てくる。それから、「もがな」。これは私の考えでは「ものかな」が語源ですので、これも数に数えます。
1001 それに色を付けてみますと、右の写真のようになります。百人一首は基本的に年代順に並んでいます。この表は横書きなので、上が古いもの、下が新しいものになります。
 どうでしょう、まあ当たり前と言えば当たり前ですけど、下の方がカラフルですよね。つまり時代が下ると和歌のテーマが「もの」になっていく、ワタクシ的に言いますと、歌の内容が「不随意」への詠嘆になっていくということです。
 これこそ「もののあはれ」ですよね。何度も書いて申し訳ありませんが、本居宣長センセーはダメです。あんなにいばって「もののあはれ」論を書いておいて、肝腎の「もの」は「なんとなく付けたものだ」みたいなこと言ってごまかしてる。というか最も大切なことに気づいてない。「もの」という言葉の意味をとらえきれてないんです。あんまり神格化しない方がいいですよ、彼の「もののあはれ論」。
 というわけで、こうして百人一首を並べるといろんなことがわかるんです。まだまだいろいろ書きたいこと、あるいはそれぞれの歌の新解釈なんかたっぷりあるんですが、それはこれから小出しにして行きます。駄作へのツッコミも含めて、時々一首ずつ取り上げて紹介していこうかな。
 それにしても娘たちちょっと可哀想ですね。こんな話をしても絶対わからないしなあ。いちおう、今は「これもポケモンカードみたいなもんだ。世界で一番古いタイプかもしれない」とか言って、その気にさせてますが。彼女ら、この歳で早くも「もののあはれ」を感じてたりして(笑)。

林直道の百人一首の秘密

Amazon 絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く 百人一首の秘密 任天堂 百人一首 舞扇

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2007.12.24

toto当せん!?

Toto これはクリスマスプレゼントなのでしょうか、それともちょっと早いお年玉?
 toto当たりました。6億円です…なわけない。4080円です。
 miniBIGの3等です。miniBIGは初めて買ってみたんですが(1口200円を5口)、いきなり当たってしまった。これまで1等6億円のBIGを数回買ってたんですけど、まったくかすりもせず、当たる予感が全然しなかったんで、今年最後のチャンスはminiに切り替えてみたんです。
 いやあ、実はですねえ、私2等だと思ってたんですよ。九つの試合結果を全部当てると1等で100万円くらい。一つはずれで2等、2万円くらい。で、私は試合の結果だけ見てたんで、一つはずれの2等だと思ってた。やった!2万円だ。メガネでも作るかなって思ってたんです。で、当選照会したら3等だって言うじゃないですか。ありゃりゃ。
 実は一つの試合が延長戦で勝負がついていたんですね。つまり正規の試合時間の中では引き分けだったわけです。それを私は一方の勝ちとしてしまっていた…単に結果をよく見てなかっただけです。まあいいや。元は取れたから。BIGの購入費のことを考えれば、ちょうどトントンくらいでしょう。
 サッカーくじtotoの中でも、BIGは私のようなシロウトには買いやすいくじです。自分で勝敗を予想しなくていいんで。ただネット上で「購入する」ボタンを押すだけです。自分で予想するタイプのくじだったら面倒くさくて買わないでしょうね。
 第一予想するほどの知識もない。私は特別サッカー好きというわけではありません。試合を観ることもほとんどありません。それぞれのチームの戦力や個性なんかも全然わかりません。だから本当に宝くじと一緒なわけです。
 ただ、今回なんかもあと数試合になってくれば、やっぱり試合の経過が気になるわけで、普段は見ない速報サイトなんかを頻繁にチェックするようになる。で、全然ひいきでもなんでもないチームでも「よし!行け〜!」「そのまま守りきれ!」と応援するようになる。まあこうしてサッカーへの興味を引くというのが、このくじの大きな目的の一つなんでしょうね。
 今シーズンはこれで開催終了です。来年はminiBIG一本で行こうかな。6億円もらってもどうしていいか分かりませんし、人生変わっちゃうような気がして怖い気もする(その前に当たらないって)。100万円くらいだとちょっとうれしいじゃないですか。現実味があって。それにしても14試合(BIG)と9試合(miniBIG)とでは、ずいぶんと「当たりそうな感じ」のレベルが違いますね。ま、数学的に言えばたしかに雲泥の差があるわけですけど、そういう確率の実感みたいなものって、なんとなく面白いですし、この予感みたいなものに、我々は動かされて日常を過ごしているんでしょうね。恋愛とかもそうかもね。
 予想可能な「コト」と予想不可能な「モノ」の間、虚実皮膜の間の妙こそ、「くじ」や「占い」の面白みです。全部わかってしまってもつまらないし、全部わからなくてもつまらないということですね。
 あっ、しまった!年末ジャンボ宝くじ買うの忘れた。こっちも当たるわけないとはわかっていても、ついつい買ってしまうんですよね。私なんて数十年買い続けて、3000円が数回当たっただけ。どう考えても赤字です。夢を買うとか言いますけど、夢には裏切られてばかり。
 ところで「くじ」という言葉ですが、語源はなんなんでしょうね。中世の文献に「くず」という動詞の用法が見られます。ザ行の上二段活用ですね。だいたいイ段で終わる和語は動詞の連用形であることが多い。ただ、この「くず」に関しては用例が少ないようでして、「ググる」みたいに名詞が動詞化した可能性も捨てきれません。
 私にとっての次の「くじ」は初詣での「おみくじ」でしょうかね。「おみくじ」とはもちろん「くじ」に二つの尊敬(美称)の接頭語がついたものです。「おみこし」とか「おみき」と同じですね。そうそう、「おみおつけ」ってすごいですよね。単なる「付け物(ここでは汁物のこと)」に三つも美称をつけてしまう日本人って。「御御御付け」、いいですねえ。

toto公式

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2007.12.23

『太陽』 アレクサンドル・ソクーロフ監督作品

The Sun
Sun これは名作でしょう。久々に来ましたよ。小津以来かもしれません。結局DVDも買って何度も観ました。そして今日も観ました。今日は特別な日ですから、また特別の感慨がありましたね。
 昨日は「神の子」という言葉を連発しましたっけ。考えてみれば、今日は「神の子」から「人の子」になった「人」の誕生日ということになりますね。どこかにも書きましたけれど、世界史上「私は神だ」と宣言した人は案外たくさんいますが、「私は人間だ」と宣言した人(神?)は裕仁さんだけだと思うんですよ。たとえば私が「私、実は人間だったんです」と言えば、頭がおかしいと思われるだけですよね。
 そんな昭和天皇が主人公の映画。もうその時点でありえないわけですね(いろいろな意味で)。それもイッセー尾形が演じてしまった。もうこれは不敬罪にあたります…いやイッセー尾形さんがじゃなくて、観た私たちがですよ。だってヤバい似てるって心の中で笑っちゃうんですから。
 これほどの適役はありません。形態的に似ているだけではないんですよね。存在も似ている。そう、一人芝居ですよ。孤独に耐えながらひたすら演技しなくてはならない。本当の自分とは何だったのか分からなくなるくらいに一人芝居なわけです。だけれど、その声を聴きたい人はたくさんいる。そして、その責任は全部背負わねばならない。
 ソクーロフ監督の素晴らしさは、この世にも奇妙な事実を、美しい物語に昇華させてしまったところです。歴史上たしかにあった事実ではあっても、もともとそれ自体が多分にフィクションとして構成された「コト」であったのですから、この映画(物語)に対して、やれ史実に忠実でないとか、時代考証はどうなってるんだとか、ロシア人に何がわかるんだとか、いろいろ文句をつけるのは、それこそ芸術に対する不敬罪です(笑)。即刻逮捕し収監して勉強しなおさせた方がよろしい(冗談ですよ、冗談)。
 私は、そうですねえ…出口王仁三郎のファンであるのと同じようなレベルで、昭和天皇のファンでもあるんです。両者はいろいろな意味で対照的、相容れない存在であったようですが、しかし考え方によってはグルっと回って一つの何かに統合されるのかもしれないし、あるいは合わせ鏡のようになっているのかもしれません。まさに「モノ」と「コト」。「モノノケ」と「ミコト」。
 この二人の神のような人を検証することによって、日本の近代、いや古代から連綿と続いてきた「日本」という国を明らかにすることができると、私は真剣に考えています。もちろん、そこに自分も絡んでくるわけで、そういう意味では自分のライフワークとも言えるかもしれない。
 そのためには、伝説だけでなく、まさに人間としての生身の彼ら、私と同じ体を持つ人としての彼らに思いを馳せることが必要不可欠なのです。それは彼らと融合することでもあるし、彼らと闘うことでもある。
20050630155621 天皇裕仁に対して、それを見事になしとげたのがソクーロフ監督でした。そしてイッセー尾形でした。本当に見事に天皇と対話しています。だからそれが芸術であれ、物語であれ、フィクションであれ、美の力を持つことができた。これは人間の生き方のお手本のような作品です。史実を追う姿勢、言わば学問の姿勢だけでは、この美は生まれません。この静かな力、この暗い輝きは、生命の佳きアンサンブルによる奇跡と言ってもいいでしょう。
 どのシーンも見事に作られています。観るたびに新たな意味が生まれてくる。発見だけでなく、創造もそこにある。観る自分もまた、そのアンサンブルに参加させてもらえる。無数の意味が立ち上がってくる。そして、自分も豊かになってくる。一つ一つのシーンに、あらゆる喜怒哀楽、愛憎や、幸不幸や、生き死にや、「もののあはれ」や「ことのあはれ」が表現されていきます。
 内容的なこと、技術的なことは、とにかく作品を観てもらうのが一番だと思いますので、私は特に書きません。もう少し具体的に知りたいという方ちは、このインタビュー記事やこちらの脚本を含めたレポートが大変に参考になりますのでご覧下さい。
 さてさて、せっかくですから、ちょっと天皇の戦争責任について私見を述べておきましょうか…と思って書き始めたら、これが長くなってしまった。そしてかなり世間的に痛い内容になってしまったので、全面的にカットしました。ごめんなさい。ただ、ここだけは残しておこうっと。私の発想は単純なんですよ。
 「…もし、極論するとして、先の戦争やそれに伴う悲劇が天皇一人の責任だとしたら、戦後の平和や繁栄の責任も天皇一人に負っていただきたい。仮に戦争の全責任量の5%が彼のせいだとしたら、やはり戦後の平和についても5%ほど彼のおかげだとしたい。私の感覚ではそういうことになるのです。神であれ象徴であれ、いずれにしても我々国民が演じさせているコトです。私もそうですが、悪いことは人のせいにし、いいことは自分の手柄にしたい、というのが人間の本質ですよね。これは天皇個人の問題でなくて、私たちの問題なのです…」
 
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2007.12.22

天皇誕生日イヴ…「神の子」多数降臨!!

 今日はイヴですよね、イヴ。えっ?イヴは24日じゃないかって?いやいや今日でしょ、普通に考えて。外来の神(の子)の誕生前夜を祝う前に、国内の神(の子)の誕生前夜を祝うべきでしょう。
 本当に面白い国ですね、日本は。そういう能天気なところこそ世界に誇るべき日本人の特質です。品格です。原理主義に陥らないための最大の防御はこれです。ある意味攻撃こそ最大の防御(ちょっと違うか)。
 そんなわけで、本日、我が家ではちゃんと古来のイヴの習慣に従ってイベントをこなしました(ホントか?)。すごいスケジュールでしたよ。
Shop_mark_tokyo 朝、日本の象徴富士山を出発いたしまして、まずは東京は浜松町にあります、もののけの館「ポケモンセンター」へ。ここは、かつてはまつろわぬモノ(蛮族の神の子)であったポケモンたちが、大和民族によって飼いならされ、集められている場所であります。まずはそこで娘二人がそれぞれ一種類ずつポケモンをゲット!これで彼女らの魂も鎮められまして、その後の予定がスムーズに進むはずです。
 ところで、言うまでもなく「ポケモン」とは「ポケットモンスター」の略ですけど、「モンスター」の「mon-」という冠部は、これは日本語の「もの」と同源に違いありません。これはトンデモ説ではなくて、おそらくまじめに正しいと思います。太平洋の島々に伝わる「マナ(霊魂)」、旧約聖書に出てくる「マナ(食べ物…元々は『これはなに?』という意味のヘブライ語)」も同源ぽいですね。私のモノ・コト論でいう「外部・不随意・未知」を表しているわけです。このあたりについては、いつかゆっくりと。
Oomori39 さてさて、そんなモノノケどもをゲットしたその次は、ウチの神さま、すなわちカミさんの機嫌を取るため、つまり彼女の荒ぶる腐女子魂を鎮めるために大森へ。ここには八郎神社の神の子(?)桜庭和志さんの新しい道場があります。実はまだオープンしていないんですが、どうしても行ってみたいということなので、連れていってあげました。大森は以前私が住んでいたところです(拉致被害者の横田めぐみさんと一緒に遊んでいたんです…同じ寮に住む同い年だったんで…)。道場は完成していませんが、おおみそかの船木戦のために彼はそこでトレーニングを開始しています。しかし、行ってみるともぬけの空。誰もいませんでした。しかし、もうその聖地にいるだけで、ウチの単純な神様は上機嫌。これでよしと。
Meijijingu さてお次は原宿へ移動です。なんか十数年ぶりだな原宿に降り立つの。おお、ゴスロリがいるぞ!そしてそのゴスロリ軍団の先には明治神宮が。なんというコントラスト。私、自分の七五三以来ですよ、明治神宮をお参りするの。子どもたちはゲットしたポケモンを片手に参拝。天皇陛下のひいおじいちゃんがいるんだよ、と教えましたが、そんなことはどうでもいいようでして、なんだかポケモンの人形にも柏手を打たせています(笑)。まあいいでしょう。相変わらず結婚式もたくさんやってました。明治神宮に誰が祀られてるかなんてあんまり考えてないんでしょうね。まあそれもいいことです。参拝者の半数以上は外国人でした。おそらく台湾の方が多いのでは。それもまあいいか。お土産に教育勅語の巻紙でも買って帰ろうかと思いましたが、仕事柄面倒なことになるのも面倒なのでやめました。
 そして、ついに我々は最大の目的地国立代々木競技場へと向かったのでありました。そう、ここで「天皇杯全日本レスリング選手権大会」の二日目が行われるのであります。プロレスマニア、格闘技マニアであるウチの家族ではありますが、その基本となるアマレスの試合を観るのは初めてです。ウチの職場の(教え子でもある)後輩が、ちょっとレスリング界に詳しくてですねえ、一度大会を観るべきだとかねがね私に言っていたんですよ。それが今日実現する。ドキドキワクワク。
Yoyogi2 会場である国立代々木競技場(第二体育館)は言うまでもなく、神の子「丹下健三」の設計による神殿(?)であります。実は初めて入りました。第二の方は。ちなみに第一では、ある意味神「チャゲ&飛鳥」がコンサートをしていました。信者が多数列を成しておりました。やはり古めの神ということで、信者も年季が入っているような(笑)。
Tennouhai さてさて、アマレスです。うわぁ、思ったより近い。入場テーマや選手のコールなど、かなりプロレスチックです。三沢のテーマやプライドのテーマで入場してくる選手がいたりして、私たち家族は大笑い。楽しいぞ。試合中も実況で解説がつくので初心者にもルールがわかります。さすが昔からプロアマの交流の深いレスリング界ですね。
 私たちは各階級の決勝だけ観ました。なんとなく「自衛隊体育学校」応援団の隣に陣取りましてね。試合内容は、グレコローマン、フリー、女子と、それぞれ個性が全く違っていて面白い。プロレス的、総合格闘技的な視点から観ても、ああこういう動きはここに原点があるのかという感じで興味深い。これからプロレスや格闘技を観るにしても、やっぱりこうやって基本や原点を知るということは非常に大切だと思いました。また、今活躍しているあの選手やあの選手、往年の名レスラーの多くが、こういう競技をこうしてやっていたんだな、という純粋な感慨もありました。
Kaori やっぱり伊調馨の圧倒的存在感と強さが印象に残りましたね。考えてみれば世界一強い人(オリンピック金メダリスト)の試合を無料で観ることができるわけですからね。ぜいたくな話です。男子も高校生の活きのいい選手がいたりして、新しい「神の子」の登場を予感させました。もっと観る目をつけたら、これは結構はまるかもしれませんねえ。
Miyuu ところで!試合終了後、帰ろうと思って移動していたら、本当の「神の子」に偶然出くわしました。KIDが「神の子」なんですから、そのお姉ちゃんももちろん「神の子」ですよねえ。そう、テレビ解説していた山本美憂さんが目の前に…う、美しい…!女神降臨!あまりの突然の出来事に私固まってしまいなんにもできませんでした。ああ、タックルくらい…いやいや握手くらいすればよかった…。なんかオーラがすごかったっす。体は思ったより小さかったのですが、発する光が神々しかった…。
 とっても長くなって申し訳ないのですが、実はもう一人、神の子のイベントがあったんです。でも、そちらには行けませんでした。先日ガンから復帰した小橋建太のサイン会です。並べばサイン&握手してもらえたと思いますけど、子ども連れでしたし、寒かったので。残念です。でも、ホント充実したイヴでした。多くの神の子に感謝。

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2007.12.21

『蒲団』 田山花袋 (先生と生徒の微妙な関係)

10107901 四半世紀ぶりに読みました。なんで、今「蒲団」なのか…、深い意味があるような、ないような。
 ここのところ、いろんな世代の卒業生からメールや電話が大量に来まして、そのほとんどが女性。大概が恋の相談だったりして、まあいつまでも先生を頼るなよと言いつつ、どうもいらぬ「親切心」がふつふつと湧いてきて、これはなんなんでしょうね、前にも書いたような気がしますが、父親みたいな心境でもあるし、教育者的おせっかいな気持ちもあるし、友達感覚でもある…とにかく他人という感じにはなれず、ずいぶんと時間を割いてしまうのでありました。
 だいぶ寒くなってきたし、クリスマスも近いからかなあ。そういう季節なんでしょうか。変な話、人間にも発情期というのがあるのやも。
 で、思いっきり正直に書きます(田山花袋なみに)が、そういう私のおせっかいな行動について、カミさんはあまり面白く感じていません。当たり前です。でも、幸いなことに、ウチは生徒と家族ぐるみで付き合うことがほとんどなので、その生徒の名前を挙げればカミさんも「あああの子ね」みたいな感じなんですね。だから逐一報告します。相談者には悪いかもしれんが、全部カミさんに報告しているわけです。そうして、一つは若い女とのいらぬ秘密を作らないということ、そしてその案件について(いちおう)大人の女の意見を聞くということを必ず実行しておくわけです。これは大人の知恵でありルールであります。
 ところで、これまた実にきわどい話になりますけど、先生と生徒の間の恋愛関係というのはどうなのかという、おそらく世間様の非常に興味のおありだろうことに関して。これは当然人間どうしですからあります。私はとうにそういう年齢ではありませんし、だいいちキャラからしてそういうタイプではないので(面倒なのであえてそうしている部分もある)、そんな心配はありませんが、まあ昔は手紙くらいはもらいましたよ。
 あっそうそう、もう時効だろうから書いちゃおうかな。いやいや、別にそんなアヤシイ内容じゃありませんよ。
 私がまだ20代のころでしたかね、ある生徒が熱烈に手紙をよこしてきたんですよ。で、まあ諸般の事情から当然お断りをしなければならないわけですね。そしたら彼女、最後にこういう手紙をくれたんです。
 「私、先生のことあきらめます。あきらめたくないけど、あきらめます…」
 お〜、なんと健気な…と思いきや、彼女、国語の先生に手紙を書くということだからでしょうかね、「あきらめる」っていうのを一生懸命漢字で書いてきたんですよ。ところが、つめが甘かった。「諦める」と書くべきところを、偏を間違って「締める」と書いてしまった…結果、
 「私、先生のことしめます。しめたくないけど、しめます…」
 となってしまった!おいおい、放課後体育館の裏に呼ばれて「おめえ、調子に乗ってんじゃねえよ」とか言ってしめられるのか…あるいは首でもしめられるのか(笑)。
 ああ、ごめん、純粋な気持ちを笑い話にしてしまって…いや、彼女はもうとっくに結婚していい奥さん母親になってますし、この話は自分でも面白いからどんどんしていいよって言ってくれてるんで。
 彼女の恥ずかしい話を書いたついでに、私もちょっと恥ずかしい内心を吐露します。たとえばその彼女の結婚式に呼ばれてスピーチとかしちゃったんですが(締めるの話はしませんでしたよ)、その時ものすごく切ない気持ちになった。別に恋愛したわけではないのに、この気持ちはなんだ、これが娘を嫁にやる父親の心境なのか…。実は教え子の結婚式のたびにそういう気持ちになるんですよ。案外男でもそんな気がする。なんだか寂しいんだよなあ。嬉しい反面。
 おっと、なんか個人的な昔話になってしまったぞ。えぇと、「蒲団」だ。そう、そんな、いやそれ以上の、先生の生徒に対する煩悶を描いたのがこの「蒲団」です。これは田山花袋の実生活をモチーフにしたもので、まあいわゆる「私小説」の走りとなった作品ですね。結婚して子どもも3人いる小説家の先生のところに、若く現代的で美しい娘が弟子入りする。その弟子に恋人ができたことを知って激しく嫉妬する先生。いろいろあった末、弟子は帰郷し、残された彼女の「蒲団」の匂いをかぐ先生…(あぶねえな)。そのラストの部分だけ引用しておきます。

 『…夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた』

 う〜む、これは過激ですなあ。当時はそうとうショッキングだったのでは。実話だしなあ。そして、これは四半世紀前の私じゃわからんな。この歳になるとよくわかる(というのもあぶねえな)。
 「性慾と悲哀と絶望」…これすなわち「もののあはれ」なんですよね。文学古来のテーマが「私小説」という形で昇華したのがこの作品なのです。
 興味を持った方は、ぜひこちら(青空文庫)でお読みください。女性には面白くないかも。大人の男は我が身と我が心と我が歴史に照らして切なくなるかもしれませんね。
 ああ、そうだ、「文學ト云フ事」では、弟子の恋人役(あまり美男でない)をバナナマンの日村(かなり美男でない)がやってましたっけ。

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2007.12.20

『日本の10大新宗教』 島田裕巳 (幻冬舎新書)

34498060 皆さんもニュースやワイドショーなどでご存知と思いますが、私が1ヶ月程前にこちらで「粉砕する!」と宣言した某霊感商法団体が警察の捜査を受けました。近い内にとりあえずは消えるでしょう。私と○○(ウチのご神体)を怒らせるとこういうことになるんです(笑)。
 あまりのタイミングの良さと、効果の覿面さに相談者もびっくりしておりました。私ももうちょっとかかるかなと思っていたんで驚きましたよ。これで全勝記録をまた伸ばしたな(笑)。
 というわけで、今日は祝杯を上げながら新宗教についての本を読みました。島田さんの本読むの久しぶりだなあ。この本はなかなか良い。入門書としては最高傑作ではないでしょうか。ここで取り上げられている10の団体は次のようになっています。

 天理教
 大本
 生長の家
 天照皇大神宮教と璽宇
 立正佼成会と霊友会
 創価学会
 世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
 PL教団
 真如苑
 GLA

 うん、私が選んでもこれにかなり近くなるな。10選ぶのは難しいですね。ま、島田さんも難しいと言いつつ、結局10以上選んでるんですが(笑)。
 今回粉砕した団体もここに挙げた団体の一つの系列であることはたしかです。そのブツやホンを見れば瞭然です。私が知る限りはその親団体は迷惑しているようですので、まあ一部の元信者が勝手にやったことでしょうね。で、その親団体の親団体もここに挙げられています。そのまた親団体が大本であります。
 この本でも強調されていますが、カリスマ的な創始者の死後、つまらぬ内輪もめがあって分裂していく団体がほとんどです。そこには信仰に関する対立もあります。しかしそれ以上に多いのが「金(かね)」と「権力」ですね。そのへんについてのリアルな話はビートたけしの教祖誕生で分かり易く物語化されていましたっけ。
 で、だいたい分裂してダメになっていくんですね。今回の一件もそうです。カリスマ性というのもエントロピー増大の法則に従って雲散してしまうんでしょうかね。残念です。
 さてさて、この本の優れているところ、それはまず島田さんによる解説が実に公平かつ客観的であるということです。ご本人も述べている通り、この本は各宗教の優劣を計ることを目的としていません。あくまでも宗教学者として、世界中の宗教に精通した上で、それぞれをその中に位置づけている。歴史的な流れを記述しつつ、その経営的手腕や思想の現代性、また将来予想される問題点なんかも挙げている。なるほどなあ、とうなずく点が多々ありました。
 また、彼はそれぞれの団体をちゃんと訪問しているのがよろしい。それは私と同じです。で、その印象を正直に書いている。ある意味それは私感であって客観的ではないとの批判もあるかもしれませんが、信者ではないものの印象を表現するということは大切なことなんです。なぜなら、世に出るのは内側からのプラスイメージばかりなので。あるいは、マスコミによるマイナスイメージですね。だからバランスを取らなくてはならない。
 しかし、ここで思い出されるのは、あの件ですね。島田さんは大変なバッシングにあいましたっけ。そうオウム真理教についてですねえ。あの時、島田さんや中沢新一さんは最初好意的な評価をしてたんですよね。実際に訪問して、その印象からそういう発言をしていたんです。実は私も初期のオウムをよく知っているんですが、正直非常にまじめな出家集団だと思いましたよ。今どき珍しいよって人に言ってましたから。
 あれから10年以上経って、島田さんの心の傷もやっと癒えたんだなと思いました。そして、そういう経験を通じて彼も一回り大きくなったような気がします。基本的な姿勢を変えなかったのは立派ですよ。それこそ修行だったでしょう。
 さて、この本を読みますと、あるカリスマがやはり突出した存在であることがわかります。島田さん自身、そのカリスマだけは研究のしようがないと白旗を揚げています。大本の出口王仁三郎です。やっぱりそうなんだろうなあ。私もオニさんの大ファンなんですけど、こちらで紹介したように、彼に関してはどんな頭がいい人、どんな芸術家も、みんな白旗を揚げてしまう。言葉にならなくなってしまう。
 ま、ウチのご神体はその王仁三郎の手ごねによるものですから、そりゃあ最強でしょう。ありがたや、ありがたや。

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2007.12.19

『愛は負けても親切は勝つ』

Shinsetu 今日はバンプのニューアルバムを聴いたのでそれについて書こうかとも思いましたけど、もうちょっとじっくり聴き込んでからにしようかな。それにとっても重要な問題、ちょうど今から書こうとしていることが彼らの音楽や言葉に含まれているんで。
 それで今日はこれを書きます。とっても重要なことです。昨日放送された「爆笑問題のニッポンの教養リミックス~総集編~」の録画を観てビビッと来ました。何かが氷解。そして別の何かが結氷(笑)。
 今シーズンの同番組、けっこう見逃していた回が多かったので、この総集編は助かりました。特に気になっていた10月30日放送「ひきこもりからセカイへ」の一部を観ることができたのは非常にうれしい。太田と全く同様に、高校時代友達のいない心のひきこもりだった私には、とっても興味あるテーマ。そして、先生はサブカルチャー批評でもカリスマである(というか私はそっちの彼しかよく知らなかった)斉藤環さん。爽風会佐々木病院の精神科医で精神医学が御専門の先生です。
 私の言葉を代弁してくれる太田。「外に開いていくのと内に閉じていくのは同じくらいのスケール。むしろ、中に行った方が広いんじゃないか」私もその通りだと思います。外は時間にも空間にも思いっきりしばられますからね。斉藤先生も若い頃に長く思索に沈潜することによって生まれるものがあることを語ります。
 もう、この時点で私は一人うんうんと得心していたんですけど、次の言葉、今年亡くなったカート・ヴォネガットの言葉を先生の口から聞いた時、何か雷が落ちて空が裂けるような感じがしました。
『愛は負けても親切は勝つ』
 太田はさすが「KANが聞いたら怒っちゃうね」と即妙にボケました。そして私は気づかされます。ああ、そうだ。そうそう、「愛は勝つ」の違和感だ。
 もうすぐクリスマスということもあり、また今日のバンプのアルバムを聴きながら考えたことでもあるんですが、キリストの愛とか神の愛が、もし、もしですよ、やっぱり単なる愛であって、斉藤先生が我々人間の愛について語ったのと同じように「自己愛」の危険性をはらんでいたらどうしよう…イエスやゴッドに怒られちゃうかもしれませんね…でも、こういう検証って大事なんじゃないでしょうか。たとえ神の愛やそれに類似する種の愛があったとしても、それをただ無条件に無思索に無懐疑に受け入れて賛美するだけでいいんでしょうか。
 どうも私はそこんところが気になっていたのですよ。もしかして神もイエスもあるいは仏陀も、自己愛が強くて我々衆生を救おうとしているのかもしれない。神仏への冒瀆と言われてもいいんです。そういう検証って、結局自分の「愛」に対する検証になるわけでしょう。
Shinsetsu 私は基本的に「愛」という言葉を信用していません。いや信用するところまで来ていないというのが正しいかもしれない。その言葉を信用できるほど、私自身の愛の実体を見極めていない。みんなはどうしてああいうふうに簡単に言葉にできちゃうんだ?
 以前エッセイ「大切」に書きましたね。amor(love)の訳語としての「大切」について。大切っていい言葉なんですが、これも実は「御身大切」ということがあり得るわけです。自分が大切だから、大きく切ないから、だから他者に施すということもあって当然です。とっても意地悪な言い方をするなら、聖書におけるイエスのスプランクニゾマイだって、もしかすると「御身大切」かもしれない。彼は自らのはらわたのわななきに突き動かされているんですから。
 そうすると、今日語られた「愛は負けても親切は勝つ」というヴォネガットの言葉(実際は彼の読者であった高校生の言葉だそうです)の意味は非常に重要に感じられます。そう、「親切」です。親切心は負けません。「愛」はどうしても相互的になります。聖書にも書いてあります。無償の愛と言っても、それが相互に要求されれば、それはやはり契約になります。愛し合うってことですね。それに対して、親切は一方的でありうる。もちろんお互い親切にし合うということもありますし、見返りや報酬や「情けは人のためならず」を期待するレベルの低い親切もあり得ます。しかし、そうじゃない純粋な親切の存在も想定することができるじゃないですか。とりあえず「自己親切」っていうのはない。
 私は「愛」は信用できないけれど、「親切」は信用できるんですね。自分で言うのもなんですが、自分の生き方、仕事の仕方はこれだと思っています。親切にしてやることしかできないんです。愛するなんて大それたことは誰に対しても、何に対してもできません。
 相互的なものを要求する(目指す)ということは、その要求に応えないものを敵視する危険性をはらんでいます。これももちろん自己愛の裏返しです。世の宗教にまつわる戦争はこれが原因ですよね。そういう意味でも、やっぱり「無償の」というのは難しい。標語として掲げてしまったけれど、我々凡人にはとっても難しいのです。同様に「利他」「布施」というのも難しい。子どもを愛するように…というのも他者に対しては無理です。なぜなら親子の愛は遺伝子という自己への愛にほかならないからです。
 そう考えるとジョン・レノンは鋭いよなあ。 Love is wanting to be loved. とか普通に歌っちゃうんだもんなあ。
 ところで「自己親切」ってあり得ないんでしょうか。人にも自分にも親切にするって悪くないような気がしますね。今度はそこんとこを検証してみようかな。来年のテーマはこれかもなあ…。

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2007.12.18

『蹴る』の命令形

写真はおおみそか参戦が決まった田村潔司が蹴っているところ。
Tamura 突然ですが、皆さんは「蹴る」の命令形をなんと言いますか?本日ある教室で生徒に聞きましたところ、半数が「蹴れ」半数が「蹴ろ」となりまして、どっちが正しいかを巡って大変な騒ぎになりました。みんな口々に言ってみるんですが、言ってるうちにどっちかわからなくなってしまって、さらに騒ぎは拡大。なんか質問したワタクシもわかんなくなっちゃった。
 ちょっと聞いた話では、東日本では「蹴れ」西日本では「蹴ろ」が多いとか。実際どうなんでしょうね。方言だとまた違うバージョンがあるでしょうし。で、私の生まれた静岡や、今住んでいる山梨は、フォッサマグナ付近にありますから、いろんな面で東西がせめぎ合っている。混ざり合っている。重なり合っている。言葉もご多分にもれず、語彙、アクセントなんかかなり揺れています。
 「蹴る」の命令形って、たとえば格闘技を観戦してる時なんかよく使いますよね。日常でもサッカーやってる時に、トロトロしてるヤツに対して「早く〜」って具合に使います。それなのになんでこんなに不安定なことになってるんでしょう。ことは山梨や静岡に限ったことではないみたいです。
 皆さん、高校の古典文法の授業を思い出してください。下一段活用ってヤツがあったの覚えてますか?そう、「蹴る」だけがこの下一段活用に属していました。というか、「蹴る」のためだけに下一段活用が設置されていました。変な活用するんですよね。
 変なら、いわゆる変格活用にすればいいのに。そう、カ変(来)、サ変(す)、ナ変(死ぬ)、ラ変(あり)みたいに。でも、すでにカ行変格活用は存在するので、それも叶わなかったのかな。いや、それ以前に変格活用って、英語の不規則動詞と同様に古くからある語、すなわち日本人にとって重要な意味のある動詞なんですよね。その点「蹴る」はいまいち重要度が低い。なのに、活用表にはこうあります。
 け(ず) け(て) ける(。) ける(こと) けれ(ども) けよ(!)
 私もそれこそ高校時代から、なんでコイツだけ変なんだよって疑問に思ってきました。まあ結論としては、kickを表す日本語は昔からいろいろと揺れていて、下二段で活用していたものが、だんだんと一段化し、しまいには現代文法でいう五段活用になったらしい。で、今学校で教えられている活用表なんてものは大変に無責任に誰かが決めたものでして、ある時期のある地方に残っている文献の例をただ組み合わせただけのものですからね、まあ、こんな下二段と四段の混ざったような変な表になっちゃったんだと思います。それを丸暗記させられる生徒もかわいそうだし、それを無思慮にテストに出す現代の教師たちも困ったものです(私は出しませんよ。第一、活用表は覚えるな派ですので)。
 で、ですねえ、いちおう学校文法に従うと、古語での命令形は「けよ」です。ほかに「〜よ」となる動詞を考えてみますと、「見よ(見る)」とか「受けよ(受く)」とか「起きよ(起く)」ですね。それが現代語ではどうなっているかといいますと、「見ろ」「受けろ」「起きろ」となっているわけです。そういう発想からしますと「けよ」も「けろ」になっておかしくない。しかし、五段活用的に言えば当然仮定形「けれ(ば)」と同じ形「けれ」になるわけでして、そういった理由もあって今でも大揺れに揺れているんでしょうね。
 ついでに言いますと、古い連用形「け」も今でも使うんですよ。我々は日常的に使ってます。「蹴飛ばす」「蹴散らす」「蹴落とす」「蹴躓く」…本来の現代文法に従えば「蹴り飛ばす」のようになるはずです。
 さて、それでもっと面倒な話をさせていただくとですね、実は文献に従えば平安時代には「こゆ」「くゆ」と言っていたこともあるみたいなんです。ヤ行下二段ですね。あるいは終止形は「く」だけだったり。もうこうなるとはっきり言えるのは「カ行」すなわち「k」の音素がkickの意味を表していたということだけでして、そうすると「くつ」という名詞の「く」もまたそれに通じるのかななんていう新しい考えも出てくるわけです。ついでに言えば「ける」の発音も「kweru(クェル)」だった可能性もあり、もうわけわからんどころか、どうでもよくなってしまいますね。
 さてさて、最後に秋田出身のカミさんに聞いてみました。「蹴るの命令形ってなんていう?」そしたら…
「はえぐけってけれ(早く蹴ってくれ)…『蹴れ』だ!」
…おいおい、その「けれ」は違う「けれ」だろって(笑)。

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2007.12.17

リベンジ!『消せるボールペン』(PILOT フリクションボール)

Imagelfb20f ちょうど3年くらい前に同じパイロットの「D-ink」についての記事を書きました。消しゴムで消せるという触れ込みだったのですが、結局私の指でも普通に消せてしまうので、これは「プロジェクト╳(ペケ)」だ、みたいなこと書いてます。そんな評にパイロット開発陣が奮起したのか(ないない)、今年の3月に新しい発想の「消せるボールペン」を発売しました。私はこの前東京に行った時に初めて購入して使ってみました。いろいろ言った手前、すぐにでも使ってみるべきだったのにね。
 さあ今回、満を持して、いや雪辱を果たす意気込みで開発した(と思われる)この「消せるボールペン」、どんな仕組みでどんな使い心地なんでしょう。
 まず面白いのは、消しゴムで消すのではないということです。一見ペンのお尻に付いているのは消しゴムのようですけど、実は単なる半球形の樹脂の塊でして、使い方としても消しゴムのようにこするんですが、消しカスが出たり減ったりはしません。ただこするだけです。そうすると確かに書いた文字が消える。
 そう、これはなんと摩擦熱によってインクが無色化するという仕組みなのです。う〜む、そう来たか。やられた。
 この前のD-inkや他社の製品は、たいがいインクの粒子を大きく設計して、つまり紙の奥深くにしみ込まないようにして、それで紙の表面にへばりついているインクを消しゴムで削り取るというような仕組みだったんですね(たぶん)。だから、私の指のように性能のよい指でも消す(削り取る)ことができた。それがいけなかったんです。
 しかし、このフリクションシリーズはインク自体を無色化するわけですから、もちろん紙にしみ込んでもほとんど問題ないわけです。発想が前と全然違いますね。
 インクの粒子が大きかったことで、実は前の製品は書き心地もなんだかイマイチだったんです。インクが紙にのらないというか、いや、なんかホントに乗ってるだけというか、とにかくいかにもこすれば取れそうな感触だったんです。それが今回は普通の水性ボールペンと同じようにちゃんと紙と一体になっている感じがする。good!
 で、実際にお尻のニセ消しゴムでコシコシやってみますと、うんちょっとタイムラグはあるけど、たしかにきれいに消える(無色になる)。インク自体は残っているわけですから、光の具合で書き跡が見えるのかなと思ってよく見てみましたが、ほとんど見えません。実用上問題ありませんね。
 今回、私は東京でのバンドの練習で使ったんです。つまり楽譜への書き込みですね。いつもは鉛筆を使います。4Bとかの。で、訂正や変更がある時は消しゴムでコシコシするんですけど、そうするとたいがい汚くなってたんですね。それに赤鉛筆とかは基本使えなかった。それが、このフリクションボールにはいろいろな色がありますし(8色)、消え味もいいので、ちょっと便利です。まあ、譜面台に楽譜を立てた状態のままこするのはちょっと無理がありますが。
Gder という感じで、これはなかなか使えそうだぞ。しかし、待てよ。ものは試しだ。私の超高性能の指をもってすれば、こいつも消すことができるのではないか…なんていう邪念がまたフツフツとわいてきたぞよ。いざ勝負!コシコシコシコシ…。
 う〜、指先がやばいっす。どうもこのインク60度くらいにならないと無色にならないらしい。指先で60度まで摩擦熱を起こすのはかなりきついっす。つまり指先も60度になるわけでして、私の超高性能高感度の指にはちょっと刺激的すぎます(笑)。よってフリクションボールの勝ち!う〜負けた…orz。
 で、試しに今すぐ横にあるファンヒーターの温風の出口に紙を持っていったら、すぐに字が消えました。面白い。そして、温風から離すとすぐに字がまた復活する。おお、楽しい。あぶり出しの逆バージョンみたい。ん?ということは、温度が下がるとまた字が復活しちゃうってことか?それじゃあ、お尻のラバーで消してもすぐに復活しちゃうじゃんねえ。
 いろいろ試してみますと、どうも温度が上がると化学反応が起きる仕組みのようでして、ある程度時間をかけて暖めると、もう常温では復活しなくなります。つまり、さっきのファンヒーターの場合は、字が消えた瞬間に常温に戻していたので、反応が逆戻りしたみたい。
 さて、ついでに実験。完全に文字が消えた紙を冷凍庫に入れてみました。はたしてどうなるか。
 10分経過…お〜っと、字が復活してまいりました!ということは、これは可逆反応ということですな。ん?ということは、ということは…もしかして。
 え〜っ!?ダメじゃないですか。ウチみたいな寒冷地は余裕で−10℃以下になりますよ。今だって−8℃です。私なんかいろんな楽譜やメモなんかを車の中に放置してますから、そうすると消したはずのものが全部出てきちゃうってこと?うわぁ〜、そりゃ困る。パイロットさん、次は寒冷地仕様、あるいは不可逆反応仕様をお願いします。
 まっ、逆に考えれば消しちゃったものも復活するということで、それはそれで実は便利なのかもしれませんね。書誌学的には(笑)。というか、これで年賀状とか書いて、いったんファンヒーターで消しといてですねえ、そして、冷凍庫に入れて下さいみたいなこともできますね。あぶり出しならぬ冷やし出し(笑)。
 いずれにせよ、ボールペンで書いた字を消したいなんていうのは人間の煩悩の最たるもの。やってしまったことを消してしまいたい、やり直したい。そんなに世の中甘くないってことですか。でも、今回のパイロットさんのリベンジには合格点を差し上げたいと思います。これで私の中のD-inkの記憶は消えました(…かな?)。

フリクションボール公式

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2007.12.16

『鳥獣戯画がやってきた!』(サントリー美術館)

国宝『鳥獣人物戯画絵巻』の全貌
Giga1 昨夜、両国国技館でのライヴ終了後、上北沢にて車中泊。ふとんを積み込んで行ったんで、けっこうぬくぬく暖かかったっす。ちょっと呑み過ぎて、朝はやや二日酔いぎみ。
 午後から新宿でバロック・バンドの練習がありまして、さてそれまでどうしようかな、どっか美術館でも行ってくるかなと思い、コンビニで情報誌を見たら、あららなんと今日までじゃないですか!鳥獣戯画。これは行かねば…ということで行ってきました。
 鳥獣戯画については、今までも『鳥獣人物戯画』と『無伴奏チェロ組曲』『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』という記事の中で書いてきましたね。その実物に会える。これは一つの夢の実現であります。
 六本木のサントリー美術館に着くと、さすが最終日、入場に30分近くかかりました。人気ありますね。中も大変な混雑で、最初から順に全部見ていくとこれは何時間もかかってしまう。いや、全体的な時間よりも何より、止まって観たいところも自動的に流れていかねばなりません。それはいやです。行列に従って自分がベルトコンベアみたいになって順に見ていくというのは、もちろん本来の絵巻物の観賞法ではないわけですね。
 そこで、私は列の後ろからのぞき見ですませました。これが案外面白い。で、私は自分を固定して、目の前の前の人垣のスリットから絵巻物をちらっと観るわけです。普通ならけっこういらいらする状況かもしれませんね。じっくり観られませんから。
 ところがですね、ものは考えようでして、瞬間的に見える絵は、それこそまるでアニメのセル画みたいなもので、脳内でその前後を補って案外ダイナミックな動きを感じさせるんです。行列に参加していたら、きっと単なる静止画にしか見えなかったでしょうね。もちろん、こんなのぞき見も本来の絵巻物観賞法ではありませんけど。ま、本物を前にこんな実験的なことできるのも、ぜいたくな話ですよね。
9882 ちなみに本物の上には写真版が掲示されていて、それは常に見えるわけですよ。でも、やっぱり複製はだめですね。全然躍動感が違う。ちょうど音楽のライヴと録音の違いみたいなもので、筆致の生命感があまりにも違う。これは予想以上でした。この作品の作者の天才性はもう分かりきったことですが、1本1本の線がここまで生々しいメッセージを持っているとは…。
 運筆のリズム感、これはもうほとんど舞踏のようでした。それがスリットからぐいぐい伝わってくる。ウサギやカエルがどうのということではなく、線自体が擬人化している。うん、そうだ。これは動物の擬人化なんかではない。逆なんじゃないかな。いや逆以上に、人間や動物が「線化」してるのかもしれない。
 今までは、それが芸術であれ記録であれ報道であれ、人間が表現するものは全て「モノ」の「コト」化だとしてきましたが、最近どうも違う気がしてきました。芸術に関しては「モノ」の「モノ」化じゃないのか。コト=情報はスルメと同じで死んでいます。変化しません。しかし、芸術は御存知のとおり、非常に生き生きして生々しいものです。作者の意図(コト)以上に、受け取り手の側でどんどん成長していってしまう。どうにも抑えられないモノです。
 すなわち、芸術家たる作者はあくまで作者(クリエイター)であって、記録者ではない。自らと世界との接点に生まれるいかんともしがたい「モノ」を「物」を通じて表現し、そこに新たな「モノ」を生み出していく。縁が縁を生み、どんどんいろいろな「コト」や「モノ」を吐き出していく。優れた作品はそれをほとんど無限に続ける。時間軸も空間軸も超えて、気味が悪いほどにその根を広げ、そこに新たな幹や葉を増やしていく。
 上に掲げられた写真版は、いわば記録であって、それは「モノ」の「コト」化されたものです。それなりの意味はありますが、やはり本家の繁殖力(生殖力)にはかないません。昨日のライヴもカメラクルーが入って記録されていました。いつかテレビで放映されるようですね。しかし、それもやはり所詮は「コト」であって、生(ライヴ)の生命感(ライヴ)はないわけです。
 やはりそうしますと、お釈迦さまの悟られた「コト(不動の真実)」である「無常(もののあはれ)」というのは世の中のどうしようもない本質であり、それは決して空虚なものではなく、逆に豊かなものであることが、自然と首肯されるのでありました。
 …と、また私の頭の中がもののけ状態になってきましたので、このへんにしておきます。ところで、このブログの文章というのは「コト(記録・情報)」なんでしょうか、それとも「モノ(芸術)」なんでしょうか。なんかどっちでもないなあ(笑)。ちょっと不安だ。
(今日ホントは戯画の中の猫に関して書こうと思ったんですけど、話が勝手にそれてしまいました)

サントリー美術館

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2007.12.15

『フジファブリック ライヴ at 両国国技館』(フジファブリックツアー 武者巡業2007 ファイナル)

41qgvwuvlgl_aa240_ 6月のZeppに続いてフジファブリックのライヴに参戦してまいりました。
 今日は忙しくて、仕事が終わってすぐに地元の教会でちょっぴり演奏。それから両国まですっとんで行きました。富士吉田を出発したのが午後3時、開演は5時でした。Zeppの時と同様にギリギリに入場。それでもこうして2時間で東京の会場に行けるわけですから有難いとしましょう。
 あっそうそう、今回は教会に行く前に、フジファブリックのバンド名の由来となった「富士ファブリック」の横を通ってきました。独身時代のワタクシの巣のご近所であります。いちおうライヴ前の聖地巡礼(?)ですね。
 さて、ライヴの内容です。私は6月と全く同じ感想を持ちました。音楽的なことはそちらの記事をお読みください。今回は初のアリーナということもあってか、あるいは単に大相撲の聖地だからか、なんだか会場がシ〜ンとなるシーンが多く、私としてはじっくり音楽を聴くことができて楽しかったのですが、皆さんのノリ的にはイマイチだったのでは。
Ff34 やっぱりお客さんが大会場に慣れてないって感じでしたね。志村くん本人も言ってましたけど、地方のライヴハウス規模だと、やっぱり「近い」。そういうのを大切にするバンドですし、音楽的、パフォーマンス的、あるいはMC的な微妙な味わいは、ホント近くないとわかりませんよ。金澤くんの靴下の裏の水玉なんか、私のいた2階席からじゃあ、全く見えませんよ(笑)。全然関係ないけど、いくらお相撲さんがでっかくても、この距離だと細かいとこ(ってどこ?)は見えませんね。やっぱりお金払わなきゃ…か。
 1月発売のニューアルバム収録の新曲も何曲か披露されました。あいかわらずやりたい放題。気持ちがいいほどに「なんだこいつら」って感じです。好きですねえ、こういうの。エセプログレ的展開、調性すら確かでない曲があるかと思えば、コテコテの歌謡曲調あり。本当にいろいろな要素を織り交ぜ、しかし木に竹を接ぐような違和感はない。これこそが彼らのセンスの良さだと思いますね。
 まじめとふまじめ、和と洋、かっこいいとかっこわるい、難解と簡明、屈折と直截、反復と変化、都会と田舎、悩みとお気楽、成熟と未熟、老獪さと若さ…そういう相矛盾するものをバランスよく配合するのが、彼らの魅力です。非常に多様なんだけれども、一本のフジ節というのがあるんですよね。正直やるな(ニヤッ)と思います。
 今回は何曲かジーンと来てしまった。特にMCを含めて「若者のすべて」はぐっと来ましたね。切ないなあ。若いっていうのも切ないし、若さを失うっていうのもまた切ない。40も半ばにさしかかろうかというオジサンは両国国技館で妙におセンチになってしまったのでありました。
 とにかくとっても楽しく充実した時間でしたよ。体も脳ミソもよく動きました。原始的本能的な「もの」と、理知的オタク的な「こと」の両方を満たしてくれる数少ないバンドであることはたしかです(もしかして私にとってはビートルズ以来だったりして!)。これからも応援しつづけましょう。
 
ps 奥田民生のカバーも演奏しました。私は奥田民生のわざとらしさ…いい意味でも悪い意味でも…よりもフジの自然なおかしさの方が好きですね。それを確認しました。奥田さんはやや才能におぼれてるのかも(なんてね)。

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若者のすべて(YouTube)

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2007.12.14

ふたご座流星群(2007)〜枕草子「星は」

写真はいただきものです↓
Gem2004s 今年もまたやってきましたふたご座流星群。3年前にも書いた通り、私の最も好きな天文現象です。今年は月明もなく好条件。ここ数年出現数も増加傾向でしたので期待できました。
 本来なら庭で寝袋にでも入って観測すべきなんでしょうね。というか、庭で6等星まで見えるというのは、本当に幸せなことですね。普通なら山にでも出かけるところです。それがですねえ、ここ自体が山、それも富士山ですから、家にいながらにして天体観測ができる。
 で、今日はちょっと雲も出ていましたし、子どもたちも見たいというので、なんと家の中からぬくぬくと観測いたしました。寝室の窓からはけっこういい条件で西天を望むことができるんです。東の空は東京の光にやられてますし、人間の目の視野なんて実は大したことないので、窓2枚分くらいでちょうどいいんですよ。それに、まだ11時すぎですから、ふたご座は東の空です。ちょっと離れた西天には、長いのが流れますので見栄えもいいと。
 子どもたちはすぐに眠くなってしまったようですが、それでも20分くらいの間に6個ほど「見えた!」って言ってました。私もふとんに寝ながら観ていたので、結局40分ほどで眠りに落ちてしまった…と思います。でも、これもまた贅沢な話ですよね。ふとんの中で流星を見ながら夢路を辿る…。
 ふたご群の流星は痕が残ったりはしませんが、比較的明るいものが多いので、目に残像が残り、それが美しい尾や痕のように見えるんですよね。それはまさに夢の中の宝石のような輝きです。あるいは天の涙でしょうか。dropという感じなんですよね。
 ところで、ある意味ロマンチック、ある意味リアルな話になってしまいますけど、日本では古来、流星のことを「よばひ星」と呼んできましたね。枕草子に「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ(宵の明星=金星のこと)。よばひぼしすこしをかし。尾だになからましかば、まいて」とあるのは有名ですね。「流れ星はちょっと萌え」って言ってるんですね。いつも言うとおりをかし=萌えです。で、そのあと「尾さえなければもっといいのにね〜」と。流れ星は尾が「萌え」だと思うんですけど。なんで清少納言はこう言ったのでしょう。
 当時、流星の尾は不吉なものであったとも言われています。中国の影響のようです。なんでも「天の狗」だとされたそうで、つまり「天狗」の原形ですね。そんなわけで日本でも嫌われたようです。今でも流星の尾を見たら、ねずみなきをしておまじないをする所があるとか。
 あと、こういう解釈もできますね。あくまでも「夜這い」ネタとして考えるんです。夜這いってナイショでするものじゃないですか。だから、「尾」とか「痕」とか残るのは困る。バレちゃいますからね。たしかに「尾」がなければいい。「ましかば」というのは受験勉強的に言うと「反実仮想」っていうやつですね。事実に反することを妄想するんですよ。ってことは、清少納言のところに誰かか夜這いに来たのが実際バレたんでしょうね。まあ、当時の宮中なんてそんなネタくらいしかありませんでしたから。
 「よばふ」とは、「呼ぶ」に反復を表す「ふ」がついた、あるいは「呼び合ふ」の短縮形の「呼ばふ」でしょう。辞書をひくと「求婚する・言い寄る」とあります。そして「夜這ひ」という字が当てられた。ものすごくリアルな当て字ですね。

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2007.12.13

『スギッチブック』 (R2 ASSOCIATES)

スギッチだよ、全員集合 公式キャラ全113体(1000部限定)
Sugicchibook 今日帰宅するとこんな本が…。なんでもカミさんの自分へのクリスマスプレゼントなんだそうな。まあ安上がりでよろしい。
 以前、こちらに秋田のキャラ文化について書きました。あのあと、ウチではたいへんなスギッチブームがやってきまして、今いったいどのくらいあるんだろう、スギッチグッズ。少なくとも山梨県では一番たくさん持ってるでしょう。Tシャツをカミさんの妹から送ってもらったり、教え子が国体に行ったんでいろいろゴミみたいなものも含めて持ってきてもらったり。ポケモングッズなみにあるかも。
Fujikun3 ちなみに山梨県は杉の花粉症に悩む人が日本で一番多いそうでして、そういう意味では「杉」のキャラには怨みを抱きこそすれ、萌えはしないだろうなあ。ついでに言っておくと、山梨の国体キャラは当然「富士山」の「ふじくん」でした。でも、全然可愛くなかった。今ではちょっとりりしくなって山梨県警のキャラに格上げ(格下げ?)されてます。
 花粉症を克服したワタクシから見ますと、たしかにスギッチはカワイイ。いいデザインです。さすが「ゆるキャラ日本一決定戦」で優勝しただけのことはある(ニコ動→スギッチ~日本一への軌跡~)。このたび晴れて秋田県のキャラに格上げされるということで、これは非常にめでたいことであります。国体のキャラがそのまま県のキャラになったという前例はあるんでしょうかね。
 スギッチの優れている点は、やはりムダがないということでしょう。非常にシンプルなデザインです。その中で上手にそれぞれのスポーツの特徴を表現している。また、基本、目と口だけで表情を作り出している。このあたり、記号化ということで言えばたしかにかなり高いレベルと言えましょう。デザイナーさんの才能がうかがえます。だいたいこの手のキャラはデザイン的にやりスギッチになりがちなんですよね。いろいろその県の名物や大会のコンセプトを詰め込みすぎちゃう。そのへんスギッチは「若杉」だけで勝負しましたから…てか、秋田には名物もコンセプトもない…とも言えるか(笑)。まあ秋田の控え目な県民性が表れてるのかもね。
 この本、いちおう隅々まで見ましたけど、「目」がポイントなのかなって思いました。うるうる目。ある意味古典的なコテコテパーツではありますが、それを堂々と使ったのが功を奏したのかも。寄り目萌えのところにも書いた通り、人間(動物)にとって「目」の記号性というのは非常に重要であります。
Sugi1 その点ちょっと面白いなと思ったのは、時々スギッチの目が変わることです。片目をつぶったりするのはまあよくあるパターンとしても、一部の格闘技のキャラで使われている「にらみ」は興味深い。たとえば、この写真の左側は空手ですね。右は柔剣道。ほかに柔道やレスリングもこんな感じ。なぜか、なぎなたや剣道や相撲は普通のうるうる目です。このへんの「格闘技」か「武道」か、はたまた「伝統芸能」か「神事」かの境目は微妙です(笑)。柔剣道は「口」にも注目です。柔剣道のみで採用されているこの口。にらみ目と相まってかなりの「わるキャラ」を演出していますね。
Sugi2 そんな中でも笑えるのがデモンストレーション競技の「武術太極拳」ですねえ。これはもう完全に「体育」の領域をはみ出ています。スギッチもすでに瞑想に入ってる。これは最強でしょう。目もいいけど、口がなあ。最高だなあ。気を吐き出してるのか吸い込んでるのか。体の部分を見なければ、これは単に眠るスギッチだな。というか、このデモンストレーション自体を観てみたかったような。
Sugi3 さて、長くなってしまいますが、目と言えばまつげのあるスギッチが唯一これ。かわいいですよね。萌えです。いったい何の競技なんだろう、女子バスケか?それならウチの生徒たちはこれってことか?なんて思って調べてみましたら、どうも普通のバスケットボールは普通のまつげなしバージョンとして存在する…では、これはいったい…この「萌え」を催すカワイイキャラの元になった女の子たちとはいったい…ガ〜ン!!わかりました。これはなんと「ママさんバスケットボール」でした!うわっ、人妻に萌えてしまった(笑)。 
 とまあ、いろいろと楽しませていただきました。たしかにじっと見ていると愛着がわいてきますね。スギッチ自身が秋田の新名物になることを祈ります(ついでに「のしろっち」も全国デビューしてほしい)。

購入方法など

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2007.12.12

『浮草』 小津安二郎監督作品

Ukikusa 今日は小津安二郎監督の誕生日にして命日。毎年この日は小津にちなんだ話題を書いております(昨年はちょっと無理があったけど)。
 ところで、ニコニコ動画も今日が誕生日なんですね。こっちは1歳です。で、思ったんですけど、小津の映画ってツッコミどころ満載じゃないですか。だからニコ動にもあっておかしくないかなって。ところが小津の作品は一つもアップされてませんでした。オタクの中には小津を語れる人、けっこういると思うんですが。不思議です。
 さて、今日は私の好きな小津作品の一つを紹介しましょう。この作品なんかもニコ動で人気出そうだよなあ。なにしろ変わり種なので。
 小津マニアの方はよくご存知でしょうし、ある意味この作品は好きではないという方もいらっしゃるかもしれませんね。なにしろ異例づくめなんですよね。
 まあ昨日の記事的に言えばですねえ、ジャンボ鶴田が谷津と組んで新日本の大会に乗り込み、木村・木戸組と戦ったというくらい、いや全然それ以上だな、馬場と組んで猪木・藤波組とやるって感じかな…まあとにかくそれくらい「不思議」かつ「興奮する」作品なんですね。つまり微妙に異種格闘技っぽいところがある。
 こういうことなんです。小津はもちろん松竹の人ですよね。で、松竹で「彼岸花」を撮った時、大映から看板女優の山本富士子を借りてきた。その見返りとして大映で一本撮りましょうと。つまり、小津はいつものタッグパートナー脚本家の野田高梧と一緒にライバル団体のリングに乗り込んだということです。セコンドに杉村春子と笠智衆を連れてね(笑)。
 ということはキャメラはもちろん厚田雄春じゃなくて宮川一夫。もうこれだけで映画マニアにはドキドキワクワクですよねえ。これは小津と宮川の越境タッグではありません。作品を観るとわかりますが、これは敵として戦ってますよ。プロレス的にね。ものすごい化学反応が生じて、とんでもない名作が生まれています。いわゆる「小津調」に宮川は合わせつつ、しかしものすごい自己主張をしている。大映スタイル、宮川スタイルを貫いている(ま、それしかできなかったのかもしれませんけど、化学反応は化学反応ですね)。
 全体としては小津の文法で撮られているわけですが、やはりそれへの迷いや緊張が画面から伝わってくる。そうそういわゆる「赤いヤカン事件」は有名ですね。この映画のあるシーンで赤いヤカンをキャメラの前にドンと置いた小津監督に対して、宮川は「この赤は出ない」と拒否します。小津は「いいですよ」とあっさりヤカンを下げます。あまりの素直さに宮川が驚いていると、夜になって小津が宮川を訪ね、「ライトの角度で色が変わることを初めて知ったよ」と言いいました。宮川は、神のような巨匠の思わぬ謙虚さに触れて、いたく感動したそうです。う〜ん、いい話だなあ。
 そして、化学反応、戦う、といった意味では、なんといっても小津の演出と大映の俳優・女優陣との奇跡的な出会いを忘れるわけにはいきません。中村鴈治郎(人間国宝…もちろん中村玉緒のお父さんです)と京マチ子のすさまじい存在感、そして両者の見事なアンサンブル(特に有名な土砂降りの中の言い合いのシーン…ありえません、なんですかあの「間」は…)。若々しく新鮮な川口浩と若尾文子(特に小津には珍しい二人のキスシーンは何度観てもドキドキする…なんでもないキスなんだけどね、小津映画の中だからでしょう)。う〜ん、いいなあ。
 こんな感じですから、ついつい1年に一度は観てしまう作品なんです。いちおう小津調も大映調(溝口とか黒澤とか)もある程度わかってるつもりですので、より楽しめますね。そういう意味ではちょっとマニアックなのかもしれませんが、しかし、ある意味化学反応のおかげで純正小津調が薄まって、演出も絵も濃くなってるんで、初心者には比較的とっつきやすいのかも。
 小津が大映で撮ったのはこれが最初で最後でした。それで良かったのかもしれませんね。たった一回の他団体との交流戦。異種格闘技戦。ちょっとした浮気(厚田は嫉妬したでしょうなあ)。そこに奇跡、伝説が生まれたのです。必見。
ps もちろん、この作品は小津自身の旧作「浮草物語」のリメイクです。そういう意味での比較も楽しめますよ。

Amazon 浮草

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2007.12.11

『ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル』 ジャンボ鶴田 (ナツメ社)

プロレス流筋力パワーアップ・トレーニングとスーパータフネスの秘密
Img10174022703 これは鶴田ファンならずともプロレスファンなら絶対に持っていなければならない、まさにバイブル。発売当時から買おう買おうと思っていましたが、鶴田さんの死、そして絶版ということでなかなか手に入れられず、最近ようやく古書で買いました。
 この本が出版された頃、鶴田さんはプロレス界から引退しました。レスラーとしてピークを迎えていた時、突然肝炎を患ってプロレスの一線を退き、筑波大学の大学院に進学(その時の受験勉強について書かれたのがこちら)、修士課程を修了し、慶應大学や中央大学で教鞭をとりました。そして、引退宣言ののちアメリカへ留学。ボートランド大学に教授として迎えられる…。
 まさに怪物級の人生でした。怪物的文武両道。この本の情報の質と量もまたすさまじい。それまでのプロレスラー人生で得たものと、大学院での研究で得たものの両方がたっぷり詰まっています。章ごとに見どころを紹介しましょう。
 まず、INTRODUCTION「鶴田友美はこうしてジャンボ鶴田になった」。これは鶴田さんの自伝です。女の子のように小さかったので「友美」…それが世界の怪物になっていく過程。それこそナチュラルパワーの源泉です。自然の中で遊び、働き、学んでいる中で培われた筋力。山梨県民としては非常に嬉しい。あの牧丘の美しい風景と急な坂道(そうそう鶴田のふるさとについてはこちらに書きましたっけ)。
 そんな自然児は神様からとんでもない才能をもらっていました。あらゆるスポーツをこなすだけでなく勉強もできる。なにしろ中央大学法学部に一般入試で合格してるんですからね。そして、バスケットボールからレスリングに転向して2年足らずで日本一になりオリンピック代表になる(そうそう、ミュンヘンリオリンピックではこちらの神と一緒だったんだよなあ…怪物と神、すごいですねえ)。
 続いてPART1「ナチュラルパワーへの道」。ここが大学院での研究内容なんでしょうかね。日常の中で鍛えた生活筋力や、様々なスポーツを経験することで得られる筋力がいかに重要かを唱えています。勉強になる内容です。
 そしてPART2「私が戦った手ごわいヤツらのナチュラルパワー」。ここがマニア的にはたまらない。往年の名レスラーや今トップの当時の若手と戦った鶴田さんならではの各レスラー評です。とりあげられているレスラーは23人。え〜い、全員名前書いちゃえ!知らない人にはワケわからないと思いますが。
 ルー・テーズ、カール・ゴッチ、バーン・ガニア、ザ・デストロイヤー、ミル・マスカラス、ニック・ボックウインクル、フリッツ・フォン・エリック、アントン・ヘーシンク、ビル・ロビンソン、ハーリー・レイス、リック・フレアー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、三沢光晴、川田利明、小橋健太(建太)、田上明、天龍源一郎、ジャイアント馬場。
 ちなみにナチュラルパワー度が一番高い(95%)と評価されているのはルー・テーズです。最近こちらのDVDで老テーズ(失礼)のすさまじいパワーとテクニックを見ていましたので、超納得です。とにかく、ほかのレスラーについても、実際に肌を合わせた者でないとわからないであろうことが満載でして、感動しきりであります。
 さて、次PART3「スーパーファイターの必殺技を支える筋力」。ここでは、プロレスの代表的な技と筋力との関係が述べられます。ここは我々一般人にはあまり役立たないかもしれませんね。だって、こんな技日常でかけませんし受けませんから(笑)。でも、それぞれの技に関する「パワフル解説」のコーナーは最高のネタを提供してくれます。ここもプロレスマニアにはたまりませんよ。いわゆる「プロレス的世界」の本質がたくさん書かれています。相手に怪我をさせないために、そしてお客さんを盛り上げるために、彼らがどれほど努力をしているか、そしてそれらを高次元で成し遂げた者こそ名レスラーであることがよくわかります。感動。
 最後PART4「ナチュラルパワーをおぎなう基礎トレーニング」。ここでは我々一般人でも簡単にできる筋力トレーニングの方法が詳細に解説されています。それぞれ鶴田さん自身がモデルになっている写真が載っているんですが、ペアでやるトレーニングのパートナーがですねえ、デビューしたての丸藤正道なんですよ。ワタクシ的にはそこに感動しました。彼もこうしてジャンボの指導を受けて強くなったんだよなあ…。
 と、こんな感じで読みごたえありすぎ。我が家のバイブルがまた一冊増えました。うん、バイブルは多ければ多いほどいいですね。だめですよ、○○こそ唯一の教典だ!なんて言ってるのは。

Amazon ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル

ジャンボ鶴田のナチュラルパワー強化バイブル

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2007.12.10

久留米袢纏 (桑野新研産業)

Hanten カミさんがちょっと早いクリスマスプレゼントだと言って買ってきてくれました。渋いプレゼントだ。
 …と思ったら、これが非常に良い。素晴らしい。ありがとう妻よ。
 今年はとにかく原油高で灯油が高い。しかし、大歓迎!原油高なんて記事書いちゃった手前、ブーブー言っていられない。我が家では相変わらず床暖房禁止令が敷かれていて、1階と2階まとめて6畳用の小型ファンヒーターで暖めています。でも、実際にはなんだかんだいって、昼間は太陽の光で充分に暖かく暖房はいりませんし、夜はその余熱の上にファンヒーターを使えば18度くらいまで室温が上がります。床が冷たいのは仕方ありませんが、そんなのスリッパを履けば問題ない。なんか、今までのムダにぬくぬくしていた生活がアホらしく感じられます。これで月間1万5千円は燃料費が浮きますね。ひと冬で6万円。10年で60万円か。
 で、体がちょっと寒いなと思ったら、これですよ。この袢纏(はんてん・半天・半纏)の暖かさはまさに天国的です。今まではなんとなく仕事に着ていくジャンパーをそのまま着ているみたいな感じでしたが、暖かさの質が根本的に違う。ホコホコ、ホッコリ。
 これはひとえに「綿」のおかげでしょう。表面の生地はもちろん綿(めん)100%ですし、中綿(わた)は綿(めん)70%のポリエステル30%です。安価な外国製はほとんど中も外もポリエステル100%ですからね。それは違いますよ。
 つくづく自然のものはいいなあと思った次第です。それなりのお値段はしますが、ひと冬、いやこれからの冬も含めて浮く燃料代のことを思えば安いものです。10年で100着買えます(笑)。
 ずいぶん前に買った綿入り作務衣は安物だったので、本当のことを言うと富士山の真冬には対応できませんでした。やっぱりポリエステルだったからでしょうね。初冬までは調子よく使ってたんですが、ある気温以下になると全然暖かくなくて逆に冷たい。結局修行になってしまったわけです。
 まあ、寒いとは言っても今年はまだまだ甘い。早朝も外はマイナス5度くらいにしかなりません。家の中は、朝起きてリビングに降りると寝る前の余熱が残っていて8度くらいはあります。ウチには猫が3匹いますが、今までは床暖房の上でグータラしてましたが、今は自分たちでちゃんと暖かいところを見つけてそこで固まってじっとしています。なんだ、人も猫も努力すればなんとかなるんじゃん。
 こういう当たり前のことを再発見したりするのも、ある意味原油高という「不便」のおかげですね。やはり私たちは「便利」のおかげでずいぶんと愚かになってしまっているんだなあ。そんなことを、このクリスマスプレゼントは教えてくれました。ああ、そうしたいろいろな発見こそが最大のプレゼントだったのかもしれませんね。さすがカミさん…なんて、本人はそんなこと考えてないでしょうけど。まあ、自分がふとんの中でぬくぬく寝坊している数時間の間、私は早起きしていろいろやってるんで(ちゃんと部屋も暖めて待ってるし)、さすがに悪いと思ったのかな(笑)。
 というわけで、皆さんこの袢纏買いましょう。絶対にポリエステル綿の安物は買ってはいけません。いろいろな意味で原油の無駄遣いになります。ちなみにこの桑野新研の製品、久留米絣パッチワーク入りとなっていますが、それが地味にオシャレで気に入っています。左右非対称のラインがなにげにハイセンスだと思います。あっ、写真の袖についている四角いものは商品タグですので、実際にはあれはありません(とりはずします、もちろん)。

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2007.12.09

ハタハタ

07120901 そう言えば1年ほど前、漢検1級に苦しんでいたっけ。結果は113点、見事な玉砕でした。やっぱりいきなり1級は無理でした。ということでこの前準1級を申し込みました。これはさすがに受からんとカッコ悪いっす。
 さて、その漢検1級のテキストに「鰰」「鱩」が出てきました。なんと読むのでしょう。そう、「はたはた」です。魚偏に「神」「雷」と書きます。なんとも強そうですね。
 今日、そのハタハタが秋田のカミさんの実家からクール宅急便で届きました。そして、さっそく頂きました。
 本当なら「しょっつる鍋」にしたいところですが、残念ながら魚醤がないので、半分は焼いて、半分は普通の鍋にしました。ちなみに今日のお酒は久保田。
 まずは食べる前に発音練習です。ご当地秋田では、「ハタハタ」は「ハタハタ」とは発音されません。ネイティヴであるカミさんが娘たちに一生懸命発音を教えるのですが、なかなか彼女たちうまくできません。私もいまいち。「ハダハダ」と聞こえるので、そのように発音するのですが、カミさんから厳しいダメ出しが。で、よく聞いてみると、「ダ」の前に小さな「n」の音が入ってるようにも聞こえる。「ダ」自体も微妙に鼻に抜けているようですし、これは一朝一夕にできるしろものではないぞよ。
 そんなことをしているうちに、食卓に鰰たちが並びます。お腹からはちきれんばかりに、いや、もう完全にはちきれてますな、無数の卵(ブリコ)が顔をのぞかせています。子どもたちはこれをプチプチ食べるのが好きです。
07120902 今日のハタハタは新鮮なんでしょうね、とにかく「神」レベルにおいしかった。おいしいとともに、ブリコのネバネバのすごいこと。ちょっと異常なほどに糸を引きます。ホント秋田の食べ物って糸引きますよね。納豆、おくら、ながいも、モロヘイヤ、とろろこんぶ、ぎんばそう、なっとう、なめこ、わらび、みず、さし、 じゅんさい…これがうまいんだよなあ。酒にも合うし。桜庭和志を挙げるまでもなく、秋田県民って粘り強い印象がありますが、やっぱり食生活が影響してるんでしょうかね。私もネバネバの恩恵にあやかりたいっす。
 それにしてもうまい魚ですねえ。白身の肉、卵(ブリコ)、お酒の順番でいただくのがオツであります。それを繰り返す。鍋の方はダシもなんにも入れずにただ野菜と煮ただけですし、焼き魚の方も別に塩も振らずに焼いただけなんですが、とってもおいしく頂くことができました。
 ところで、「ハタハタ」の「ハタ」ですけど、これって古代朝鮮語の「パタ」でしょうかね。「海」という意味です。日本語になって「旗」「畑」「羽田」「秦」「綿」「和田」「渡」などの漢字が与えられ名字などで身近になっている語です。「鰰」は、海からの、それも朝鮮半島からの神の恵みだったのかもしれませんね。ごちそうさまでした。

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2007.12.08

明けの明星…全ては相対的な「モノ」であるという「コト」

07120801 今年もやってまいりました歴史的特異日。私にとっては今日が1年の中で最も意味の大きな日であります。自分の誕生日や元旦などよりも、いろいろな意味で気持ちが高ぶります。そして、いろいろな決意をする日でもあります。
 昨年は力道山、一昨年はジョン・レノンについて書きました。今年はお釈迦さまです。そう、今日は成道会(臘八会)、お釈迦様がお悟りを開かれた日です。お釈迦様のお悟りについては、日本にはこのように伝わっております。

 「苦行に疲れたシッダールタはスジャータの乳粥供養を受けられ、明けの明星が朝焼けの東空に消えるガヤーの清澄な早朝、一樹下に坐したシッダールタは未曾有の覚りを得られ、仏陀となられました」

 早起きの方はご存知かもしれませんが、今年はちょうど金星が明けの明星として東天に輝いております。ものすごくきれいです。私は早起きなので毎日その宝石のような輝きを拝んでいます。
 今日は特に美しかった。私もコーヒーにスジャータを入れて飲み(笑)、そして庭に出て菩提樹…ではなく落葉松の下で少し坐禅をしてみました。半眼の私の視線の先には金星が鮮やかに輝いています。
 さて、私は悟りを得ることができたでしょうか。
 実は、ここのところ「物語論」を続けてきたのにはこういう意味があったのです。そう、私はもちろん悟りを得て仏陀になることなんかできませんが、私のレベルで私なりの仏教観というのがありまして、それをこの12月8日に確認したいなと思っていたのです。
 つまり、「人は物語なしには生きられない」ということです。自らに必ず欠落感を抱いており、誰かに何かにそれを埋めてもらわなければならない存在。あるいは前向きに考えるなら、常に他に対して開いており、他を受け入れ続ける存在であるということ。そして、そうしてたくさんの「もの」を注ぎ込んでも永遠に絶対的な自分は完成しないということ。
 これは、正統的な表現をとれば、「無我」「色即是空」「因縁」「不二」「縁起」「無常」などとなるのでしょうね。
 私は私の言葉で考えてみたかったのです。自分の得意な分野、得意な言葉、(あるいは特異な実感)で、今日考えてみたかった。
 では、黎明の中の金星は何かを教えてくれたのでしょうか。結論から言いますと、何も語ってくれませんでした。でも、大切なことを気づかせてくれたような気がします。
 坐っているうちに、確実に太陽は地平線に近づき、だんだんと明るくなり、周囲の風景が見えるようになってゆく、その中で金星の光は次第に弱くなっていくように感じられました。本当は金星の明るさは変っていません。絶対的な光度は一定です。しかし、相対的には弱くなっていくように感じる。
07120802 ふと目を落としますと、そこに本当に細い細い月があるではないですか。それがちょうど落葉松の木に刺さっているように見えました。刃物のような月は見る見るうちにどんどん木の幹に食い込んでいきます。月が動いているのです。
 そのうちに朝焼けはさらに鮮やかな赤に変わってゆき、そして太陽が顔を出しました。もう金星も月も私の目には見えません。その時、私は気づきました。悟りなんていうものではありませんが、当たり前のことを確認したのです。
 それは全てが「相対的」であるということです。金星の明るさも、月や太陽の動きも、そして自分の存在も。私が見た金星も月も太陽も、「私」の感覚を中心にしたものにすぎません。本当はそれらが動いているのではなく地球が動いているのです(もちろん金星も月も太陽も宇宙空間の中を移動していますが)。私はその地球に乗っかっているだけ。もうこれだけでも、自分なんていうもの存在は、ちっとも確かではなくなってしまいます。
 お釈迦様は、たぶん意識が自分から離れて、地球からも離れて、さらに宇宙からも離れて、一番遠いところ(実は一番近いのかもしれませんが)から、自分を、そして世の中を見たのではないでしょうか。なんとなくそんな気がしました。
 「モノ」というのはそのように「相対的」な存在の象徴です。逆に絶対的な存在が「コト」なのではないでしょうか。ですから、世の中の「コト」は過去の事実である「情報」しかないわけです。情報自体は不変です。あとは「ミコト」つまり神様ですね。そして「真理」。つまり、現在と未来の私たちは全て相対的、無常なる存在、すなわち「モノ」なのです…ということだけは絶対的な「コト」ですね。それがお釈迦様の得た真理なのではないでしょうか。
 「物語」とは「もの」を固定しようとする(コト化しようとする)行為です。しかし、実際には永遠に固定されることなく、逆に多くの人々を通じて無限級数的に相対的になっていく存在です。それはまさに生命の継続性と多様性を象徴していますね。
 …と、いろいろ語ってしまいましたが、正直よくわからないところもたくさんあります。でも、今朝のあの時間と空間の中で私が感じた「もの」は私に力を与えてくれたのはたしかです。その美しさだけは絶対的なような気もしました。そういうところに、神や心理や悟りが宿っているかな…なんて思いながら、すっかり明るくなった日常に戻っていく私でありました。おしまい。

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2007.12.07

『仕事は体で覚えるな〜文化財修理技術者・鈴木 裕』(NHK プロフェッショナル 仕事の流儀)

Photo01 火曜日の放送の録画を観ました。ここのところ、「物語論」が続いていますが、実はこれには意図がありまして…明日にはお解りになると思いますよ。
 ということで、今日もまた「私流物語論」でこの番組を料理いたします。
 今回のプロフェッショナルは文化財修理技術者の鈴木裕さんでした。文化財の修復のカリスマである鈴木さん。彼の語った「仕事は体で覚えるな」「習熟するな」という言葉はずんと胸に響きます。
 普通は「体で覚えろ」「習熟しろ」と言いますし、言われますよね。もちろん鈴木さんも修行時代はそう言われてきました。体で覚え、習熟して「技術者」になったのは事実だと思います。しかし、プロフェッショナルはそこで止まらない。
 自分の仕事や趣味や勉強のことを考えればわかることですね。たしかにある時期に「体で覚えた」「習熟した」と思えるものです。そこで満足してしまったり、やっとこういう境地になったかと安心してしまったりすると、どうしてもマンネリになり進歩がなくなる。
 これは本当にいろいろなことに当てはまりますね。もちろん、そこで止まっていいものもたくさんありますよ。私のヴァイオリンなんてまさにそれでして、ある時期から全く練習しようと思わなくなってしまいました。ま、プロフェッショナルじゃないのでそれでもなんとかなってるんですが(笑)。
 さてさて、「体で覚える」ということ「体で覚えるな」ということを「物語論」的に言いますとどうなるのでしょう。
 私の定義では「もの」は自分の外部全てを指します。自分の「こと」になっていない「もの」です(「ものにする」という言葉はどうなるんだとの質問をよく受けますが、それについてはのちほど)。で、「ものをかたる」というのは、相手にとっての「もの」すなわち未知の情報をメディアを通じて形にして伝えるという意味でした。それは別の言い方をすれば、相手の欠如を埋めてあげる行為です。受け手から言いますと、自分の欠落感、欠如感、不安感、好奇心を満たしてくれるのが「物語」ということになりますね。
 外からやってくる新しい情報に接して、そしてそれを受け入れて自らをどんどん補強していく、これはある意味物語の受容ということになります。知らなかったこと、できなかったことを自分のもの(ワタクシ的には「こと」)にしていきます。それすなわち「事にする」つまり「仕事」とも言えますね。
 しかし、ある程度補完されたところで満足、安心してしまい、より新しい情報を得ようとする意欲を失ってしまいますと、そこで「仕事」は終わりになってしまいます。もちろん未知の「もの」というのは無限にあるわけですね。それは、一つの事象についてもですねえ、ミクロ方向に進んでもマクロ方向に進んでも無限に世界が広がっているわけですから当然です。
 つまり、ここでいう満足や安心というのは、そういう無限の世界への感受性を閉じてしまうということなのです。心が閉じる。そうすると、ある意味においては(生活レベルにおいては)たしかに満足や安心です。人間にとって未知のもの不可解なもの(「もののけ」ですね)は怖いですから。でも、そこから先には行けません。実生活で普通に平凡にやっていくにはそれで充分とも言えますけれど、さらにその先、そう、プロフェッショナルを目指すには、そこで止まってしまうわけにはいきません。
 ですから、鈴木さんの言う、「体で覚えるな」「習熟するな」というのは、無限の「もの」に対する感受性を失うなということなんですね。物語をどこまでも受容せよと。「なりきる心」…自分でない「もの」になりきって、そこから学ぶということ…を止めるなと。昨日のお酒の話で言えば、いつまでも「聞く」「利く」「相手に合わせる」「調和を図る」っていうことですよ。プロレスも音楽も一緒。私の中ではこんなふうに全部つながっているんです…理解してもらえますでしょうか。
 鈴木さんも「紙の声を聞く」と言っていました。これは「神の声」にかけたものでしょうけれど、私に言わせますと、神は鬼(もの)ですから、まさに「物の声を聞く」ということにもなりますね。繰り返しになりますが、「きく」という日本語はlistenと同義ではありません。「親の(先生の)言うことを聞きなさい!」「言うことを聞かないヤツだ」「聞き分けがいい(ない)」と言う時の「きく」です。相手に合わせる。相手から学ぶ。相手と調和するという意味です。
 ところで、「プロフェッショナル仕事の流儀」ですが、お正月スペシャルでイチローをとり上げるようです。これは楽しみですね。私の最も尊敬するプロフェッショナル、そして物語の受容者にして創造者、そしてそして禅僧(?!)であるイチロー。早く彼の語る言葉を聞きたい。

番組公式

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2007.12.06

『山廃純米吟醸 濃いめの上善如水』

20070403_304082 お酒大好きな私ですが、なんとお酒の席はあんまり好きじゃなかったりして…。一人静かに呑むのが好きです。ひとり酒、手酌酒、演歌を聞きながら…。
 世の中では忘年会のシーズンなんでしょうが、私なんて下手すると一つも参加しないかもしれません。カミさんなんて毎週出かけてますが(笑)。
 で、今日呑んだのがこのお酒です。久しぶりにローソンに寄ったら(週刊プロレスを読むため)、このお酒が目につきまして、ついつい買ってしまいました。
 なんで興味を引いたかと言いますと、まあ日本酒通の方にしか分からないと思いますが、「上善如水」と言えば、さっばりすっきりした、どちらかというとオシャレな感覚のお酒なんです。そのイメージにいきなり「濃いめ」と冠されたからビックリしたと。さらにお酒自身の色合いが全然「如水」じゃなくて、黄金色なんですよ。黄金水か!?(笑)これは浴びねば…いやいや呑まねば(すみません、お下品で…決して酔っぱらってませんので、ハイ)。
 さ〜て、そんなわけで早速ウチに帰って呑んでみました。そして、呑んでみてビックリ!全く意外な香りと味と舌触りであります。うむうむ、これは今まで飲んだどんな酒にも似ていないぞ。トロリとして濃厚ではありますが、なぜか軽みもあって、喉ごしはすっきりしています。甘いなと思った次の瞬間にはその甘さはもう口には残っていません。これはちょっと不思議な感じ。私、甘いとちょっとお酒が進まなくタチなんですが、この上善は違う。酒の肴に箸をつける間もなく半分呑んでしまった。
20070403_304217 ものすごく個性的な日本酒ですね。普通の上善如水は、ある意味たしかに水のように飲みやすく、しかし私には少し物足りないお酒でもあったわけですが、これは本当に全く違う酒という感じがする。よくこれを同じ銘柄として発売したなという感じです。もちろんいい意味でね。本家とは違って、とても何気なくは飲めない酒です。こちらに「ん?」と構えさせる強い主張を持っています。これはこれで酒を呑む(それもひとり酒)にぴったりかも。誰かとペチャクチャ喋りながらという、BGS(Back Ground Sake)とは違うぞ。酒自身と対話しなくてはならない、そういうお酒です。
 と書いていて、面白いなと思いました。お酒って音楽みたいなものですね。その場(シチュエーション、空気)に合った酒、今の気持ちに合った酒というのがある。当たり前と言えば当り前ですけど、そう考えると家にたくさんあるCDのように、たくさんのお酒に囲まれていて、そしてその時に合ったお酒をチョイスして呑むのが、最高の贅沢ということになるでしょうか。
 ちなみに「利(き)き酒」の「きく」は「聞く」にも通じています。古語の例を見てみますと、「聞く」も「利く」もどちらも「相手に合わせる」「調える」といった語感を持っているように思えます。現代でも「気が利く」とかいいますね。「聞く」も単に音を捉えるというよりも、「言うことを聞く(従う)」というニュアンスがあります。英語のlistenとは明らかに違いますよ。
 こちらが合わせ、相手が合わせ、周りも合わせ、全体が調和していく。ああ、これはプロレスかも…なんて、だんだん酔っぱらってきましたぞ。そう言えば、ここのところ記事として続いている「物語」というテーマにも通じるな。お互いの欠落を埋め合う…いや、こういう場合は欠落なんていうマイナスイメージの言葉ではなく、受け皿とでもしておこうか、そういうところに何かを注ぎ合う美しさですな。これぞ、世の中の楽しみではありませんか。ふぅ、だいぶいい気分になってきたぞ。
 白瀧酒造さん、なかなか若々しいいい蔵元です。こうしてローソンなんかとタイアップして、こういうある意味マニアックなお酒を売ってしまうんだから、大したものです。てか、ローソンがすごいのかも。

白瀧酒造

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2007.12.05

自我(自己)からの解放〜ある二冊の本から

92475158 自我(自己)からの解放…私はもちろんこんな境地には至っていませんが、今日はあえてこの言葉をとりあげましょう。ふと思い出した本が2冊ありましたので、それに絡めて。
 一昨日書いたように、自己の欠落を埋める「物語(ものがたり)」こそ「生命」の本質であり、人間の「存在」の本質であるわけで、その証として、一度「物語」が動き出しますと、どんどんと新たな連関が生まれ(発見され)、新たな意味が創造されていきます。
 人生が楽しいかどうか、充実しているかどうかというのは、こういう連関(連環)の中に自分が入っているかどうかで決まるような気がする今日この頃であります。今の私は、ありがたいことにそういうものの流れに棹さして、案外優雅に毎日を送らせていただいているという実感があります。
 で、今日もまた、ささやかですが、私にとっては大きな発見がありました。以前読んだことのある、ある2冊の本に再び出会ったからです。まずは3年生の教室にあった本、「アインシュタイン 150の言葉」。ずいぶん前に読んだことがあります(読むと言ってもただ150の短い言葉が並ぶだけですから、10分もかかりませんよ)。今日はその中のこの言葉にピンと来ました。前はなんとも思わなかったのですが。

『人間の真の価値は、おもに、自己からの解放の度合いによって決まる』

 ただそれだけです。それでも、昨日一昨日からの流れ、すなわち「物語論」的流れからしますと、この言葉は実に重い意味を帯びてくるわけですね。何度も繰り返したとおり、私にとっての物語の受容とは、自らの欠落を埋めるために外部の何かを受け入れる行為ですから、それは今の自分からの解放と同義になります。今の自己に執着しないということです。
 もちろん、欠落に対する不安というのは、一般的に「欲望」と呼ばれるものに直結しますから、安易にそれを埋めることが、(特に宗教的な意味において)自分からの解放にはつながらないと思います。でも、まずは他者を受け入れるためにそういう態勢を作ることが大切なのではないでしょうか。心が開いている状態とでも言いましょうか。
08720387 続きまして、教材で使った某大学の過去問に登場した鈴木道彦さんの文章です。この本は半年ほど前に読みました。その時は、純粋に「在日」の問題についての勉強という意味で読んだので、この冒頭部分については本当に軽く読み飛ばしてしまったのでした。しかし、今日はぐっと心に来た。腑に落ちたってやつでしょう。もしかすると私の心が開いていたのかもしれません。冒頭部分を要約します。

『あまりにもちっぽけで醜く利己的な(嫌悪すべき)自己をどう越えるかという課題に、文学的なヒントを与えたのはプルーストであり、哲学的なヒントを与えたのはサルトルであった』

 いやはやかなり強引な要約ですな(笑)。ここではサルトルは置いといて、プルーストについてだけ書いておきます。私はプルーストについては何も知りませんが、鈴木さんはこのように書いています。

『彼の小説は、一見「私」の意識に閉じこもっているように思われるが、実は作品の創造を通して自己を乗り越え、他者に開かれてゆく過程を描いたものであること、他者との交流を求めるものである…』

 なるほど、これはまさに「物語」の機能ですね。彼は小説という物語を通じて、自己と他者の欠如を埋めようとしたのでした。小説は近代の物語の王道です。
 今日はこの二つの言葉(物語)に出会って、私は一人自分の穴を埋めてもらって心地よくなりました。皆さんにとってはどうということはないのかもしれませんし、そんなこと当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、なんとなく書き留めておきたかったので。
 ここに紹介した2冊の本、それぞれとってもためになる本ですから、よろしかったら御賞味ください。

Amazon 越境の時 一九六〇年代と在日 アインシュタイン150の言葉

楽天ブックス 越境の時 一九六〇年代と在日 アインシュタイン150の言葉

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2007.12.04

『爆笑問題のニッポンの教養 「コトバから逃げれられないワタクシ〜社会言語学 田中克彦」』(NHK)

071204 昨日の続き的に言えば、今日もまたワタクシは自らの欠如を埋めてくれる「物語」を求めてこの番組を観る…ということになりますかな。
 そして、今日の物語もまた面白かった。中心となる言語に関する内容は、田中克彦さんの著書をたくさん読んでいる関係もあり、目新しい「もの」はありませんでした。しかし、今回もまた太田が引き出した田中センセイの意外な側面に救われましたね。つまり、それが欠如を埋めてくれた。
 私の田中センセイに対する気持ちというのは微妙だったのですよ。ずいぶん前ですけど、氏の著書についてこんなことを書いています。なんとなく違和感を抱きつつ後書きでジーンとしている私…後書きに何が書いてあったか正直覚えていませんけど、なんとなくその時の私の気持ちと、今日の番組内の田中先生を見る私の気持ちがうまくつながった。それは太田のおかげです。太田の物語に田中先生が巻き込まれた結果です。
 言葉に対するコンプレックス、憎しみ。その裏返しとしてのユーモア。急に田中さんが身近に感じられました。巨乳問題とかね(笑)。
 私、田中先生の書いた言葉には何度もつきあってきましたが、こうして録画とは言え、実際に口から発せられる言葉に接したのは初めてです。顔も初めて知った。表情も。話し方も。
 それなんですよね。書き言葉の危険って。こうして私もまた書いていますけど、直接私を知らないでこれを読む方も多いわけですよ。逆に例えば生徒とか、私をイヤと言うほどよく知っているけど、これを全く読まない人もたくさんいる。そう、たいがい生徒たちは読まないんですよ。いつもと違う先生がそこにいるから。ブログの私は彼らにはあんまり面白くないらしい。もっとライヴかつ下世話な、教室での私の方がいいらしい。私、このブログに書いていることはほとんど教室では話しません。ネタがかぶらないようにあえてしている部分がある。
 田中先生の本なんか、ほとんど論文ですからね。一般書だってどうしても堅苦しい一面だけを提示することになる。つまり、そういう文章って、その人の性格よりも思想を伝えることが目的になっているわけで、ものすごく偏ったものにならざるをえないわけですよね。しかし、それだけを受け取った人は、その人の人となりに関しては、たとえば私の田中先生に対する先入観のように勝手に想像してしまうんです。学問的な指向が違うからと言って、性格も合わないとは限らないのにね。
 そんな具合に、言葉だけで判断して、あの人は嫌いだとか、なんとなくイヤな奴だなとか、そういうふうに思ってしまう。もちろんその逆のパターンもありますよね。そのへんが、田中先生の言う「言葉が社会をつくる。言葉に現実が縛られている。言葉は疑わしい。言葉は照れ臭い」ということそのものなのでしょう。そして、一方では「嘘がつけるから人間は進歩した。現実から離れることができる。言葉は創造。言葉のジレンマは人間のジレンマ。でもだからこそ詩が生まれる」…こういう発言にもなる。
 だからこそ、言葉は憎しみの対象であり、愛情の対象になるんでしょうね。言葉は生き物だと言いますが、それはこうして、私たちの欠落部分を埋めてくれたり、あるいは逆に欠落を生んでくれたりするからでしょうね。
 私はソシュール的な「言葉があって初めて概念が生まれる」という発想には、生理的に(本能的に…決して理論的にではありません)賛成できない立場の人間です。そういう意味で田中先生のみならず、多くの言語学者さんとは仲良くなれないなって勝手に考えていましたけれど、それは間違いだったとよくわかりました。まさに、言葉が作った壁を言葉が崩壊させてくれたというわけです。いつもながら太田くんGJ!
 太田はいつもの通り悩ましい存在です。悩める人。彼もそうとう欠如感を持っている。で、それを埋めるのが、彼にとってはこういう「学問」の世界のようです。それはすなわち彼が疑っている「言葉」で構成されている世界であって、ここでもまた言葉は悪魔と天使のようにふるまっているのでした。面白いですね。
 太田が指摘し田中先生も「面白い」と言った、言語以外のメディアのあり方についても、いろいろと考えましたが、それについてはまた今度。とにかく我々はいろんな「物語」に取り囲まれ、それに救われたり、翻弄されたりしながら生きているのですね。人生は何もかも面白いなあ。

爆笑問題のニッポンの教養 公式

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2007.12.03

「物語(ものがたり)」とは

Fes1 昨日書くべきだったことを書きますね。昨日は八ケ岳の麓、北杜市を訪ね「第一回小淵沢ものがたりフェスティバル」という催し物に参加してきました。そこで、「物語」についていろいろ考えてきたんです。その後、小橋の復帰戦も観たりしまして、さらに私の考えは深まっていきました(かな?)。
 いきなりですが、皆さん「物語」ってなんだと思いますか?私、昨日も小橋の復帰に興奮して「新しい物語の始まりだあ」みたいなことを書いてますね。こういう時の「物語」って、なんとなく雰囲気はあるけれども実体は実はよくわからない。我々はまさにムードで使ってしまっています。でも、なんとなく万人に共通のムードというのがあるわけでして、そういう意味ではこれこれこういうものだと定義できそうな気もします。いずれにせよ、なんとなく魅力的な気がしますよね。単なる「おはなし」とか「ストーリー」ではなくて。
 実は今までもいろいろな偉い方々が「ものがたり」を定義しようとしたんですが、まだ結論には至っていません。で、そのへんを私もちょっと真面目に考えてるんです。あくまでもちょっと真面目にですが。
 そう、「物語」を「もの」と「かたり」に分けた時、「かたり」の方はまあ「言葉にして表現する」とか適当に辞書的に説明して納得できるんですけど(私はちょっと違う解釈してますが)、問題はやっぱり「もの」なんです。なんで「もの」がくっつくのか。これについては、今までもこのブログでも何回か語ってきました(いろんなところに散在してるんで自分でもどこに書いたかわかりません。早くまとめろとの声にこたえて、来年にでもまとめます…と言いつつ早10年)。
 今までも知の巨人たちがこの問題に取り組んできたんですね。ちょっと思いつくだけでも、和辻哲郎さんとか折口信夫さんとか大野晋さんとか藤井貞和さんとか。で、「もの」は「霊魂」だとか「運命」だとか「他愛のない」という意味だとか、いろいろな案が提出されました。でも、なんとなくすっきりしなかったわけです。
 で、私なんですが、これはもう実に簡単に片付けてしまっていて、このブログを長くご覧の方にはしつこくて申し訳ありません、そう私はいろいろな根拠から、「もの」=「自己の外部」と捉えていますから、かなり砕いて言ってしまうと「(相手の)知らない情報を形にして提示する」というふうに考えてるんです。そうしますと、古典作品に頻出する女同士のちょっとした「ものがたり」も、「ねえ、ねえ奥様、知ってらっしゃる?○○ってねえ…」「あら〜!ホント?そうそう、そう言えばワタクシもこんなこと聞きましたわ…」というよくある井戸端会議としてすんなり解釈できるわけです。
 さらに物語っちゃいますとね、「モノ」というのは自己ではないので、言い方によっては「自己の欠落部」あるいは「欠落部を埋める何か」とも言えるのですよ。そうそう、先ほどたまたま岸田秀さんの文章を読んだんですけど、そこにこんなことようなことが書いてありました。
「動物をペットにしたり動物園に閉じこめて眺めるのは人間だけだ。人間がそんなことをするのは動物に憧れているからだ。不完全な自己の欠落を埋めるため、不全感の補償のために動物を飼う。さらに空想の動物や怪獣などをつくりあげる…」
 なるほど、これこそ私の言う「物語」ですよ。つまり、岸田さんが言う通り、人間(だけ)は自己不全感を持っており、それを埋めるための「何か」を常に待望していると。その「何か」は外からやってくる、たとえ自分自身に関する変化であっても予想外なものとしてやってくる(人間は未来を完全に予知できませんので、自己の未来もまた「もの」です)。
 で、例えば私の不全感として、例えば私は鳥ではないので空を飛ぶことができませんね、それはいかんともし難い不全です。ですから、羽を得て空を飛ぶという話をすれば、それはもう立派な物語になるわけですね。さらに私はかなりヤワな肉体しか持っていない、加えて精神的にも軟弱だ、となれば小橋に憧れるのも理解していただけると思います。小橋は私の不全を補完する自分以外の「もの」であって、彼を観て、彼を読み解くことは、そのまま「物語」を受容するということになるわけです。
 このように自分以外の「もの」をメディア(例えば言語、肉体の運動、映像など)を通じて伝達する(それが私の考える「かたる」=型る=コト化です)ことこそ「ものがたり」だというわけです。ですから、私たちは常に他者のために物語り、そして自分のために物語ってもらっているんですね。不全を補いあっている。
 それが、喜劇であっても、悲劇であっても、ファンタジーであっても、主婦の井戸端会議であっても、そこで望まれるのは今の自分にはない何か(モノ)なんです。で、そういう欠落感の虚しさ、埋めてもらってもそれが現実の自分とは決して同一化しないという虚しさを味わったり、あるいは逆に予想外の招来に喜んだり感激したりするのが「もののあはれ」だと、私は解釈しています。
 …と、なんかそれこそとりとめもない「もの」を語って(騙って?)しまいましたね。しかし、人間だけがおそらくは物語る存在、いや「物語られたい」存在なんだと考えた時、私の屁理屈にも似た物語論も、少しは面白いものだと感じていただけるかもしれません。
 書こうと思ったことと違うことを書いてしまった。本来は「ものがたりフェスティバル」における杉山亮さん黒須和清さんの素晴らしい「物語」とその方法について語りたかったんだ。でも、長くなってしまうんで割愛させていただきます(すんません)。しかし、こうして今までポカンと虚しく空いて落ち着かなかった私の空洞を、彼らが「何か」で埋めてくれて、そしてこうして新しい考えも生まれたわけですから、まさに彼らの「物語」は大成功だということでしょう。それにしてもお二人とも見事な語りっぷりでした。小橋に負けずとも劣らず。
 すなわち、「物語」こそ連続性・創造性・多様性の根源、つまり生命の本質であると…続きはまたいつか。

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2007.12.02

おめでとう!小橋建太546日ぶり復帰!(腎臓ガン克服)

07120201 泣けた!家族で号泣しながら生放送を観ました。
 昨年の6月に、こぶし大の腫瘍が発見され腎臓ガンであることが判明した小橋選手。その後すぐに右腎臓を全摘出し、リハビリを続けてきました。そして、リングを去ってから1年半、とうとう復帰の日を迎えました。
 この復帰のカードが素晴らしいではないですか。脳梗塞から奇跡的な復帰を果たした高山善廣がパートナー。対戦相手はノア最強の三沢・秋山組。本来なら1年半の高山の復帰戦はこの組み合わせになるはずでした。
 今日は当然武道館に観戦に行くつもりだったんですけど、全くチケットが手に入らなかった。異常とも言えるほどのフィーバーでした。ああ、こんなに鉄人小橋を待つ人たちがいるんだな、プロレス界には絶対王者小橋が必要なんだなあ。
 チケットはあきらめて、汐留で行われるパブリック・ビューイングに参戦しようかとも思ったんですけど、村のイベントが入ってしまいそれも断念。ただ、今日はラッキーなことに12月第1日曜日じゃありませんか。スカパーe2が無料開放の日です。ということは、G+の生中継が観れるということじゃないですか!ということで、イベント終了後、家族で観戦したわけです。
 それにしても素晴らしい試合内容でした。小橋はそれなりに体を作ってきていました。さすがに最初は動きが固かったけれども、ライバルたちの強烈な技を受けるうちにだんだん調子も上がっていったようです。ムーンサルトやラリアット、各種スープレックスなど、1年半前と何ら遜色ない大技を見せてくれました。そしてそれよりなにより、三沢・秋山の厳しい容赦ない技を見事に受けきりました。プロレスは「受け」が全てですから、そういう意味では非常に安心しましたね。
 今日私たち家族は、小淵沢で行われた「物語」に関するイベントに参加してきたんです(それも非常に面白かったので明日にでも紹介します)。そこで実感したのは、「文脈」と「虚実皮膜の間」と「演出」ということでした。プロレスってまさにそれですね。小橋は見事な「物語」を紡いでいましたよ。
07120202 新しい物語の始まりです。小橋建太、試合は見事に負けました(社長の雪崩式エメラルドフロウジョン)が、矢島アナウンサーは「小橋勝った〜!腎臓ガンに勝った〜!」と叫びました。そして、解説の本田多聞選手の涙が我々の涙を誘いましたね。なんか、つきなみな言い方になってしまいますけど、勇気を与えられたような気がします。ああ、こうして「意志」が物語を作るんだな。
 負けてあれだけ感動を与える…プロレス的な世界ですね。勝者三沢のテーマ曲「スパルタンX」に乗る敗者に対する小橋コール。美しい。武道館で、そして日本中でいったい何リットルの涙が流れたのでしょうか。
 「物語論」的、「モノ・コト論」的に印象的だったのは、試合後のインタビューです。

—小橋選手にとってプロレスとは?
小橋(その答えは)オレが聞きたいです。何だろ?答えが分からないからリングに立つし、これからもプロレスをやめるまでは分からないだろうと思います。だからプロレスをやり続けていくんだろうしね。

 つまり、小橋選手にとっては、プロレスという仕事自体「モノ」、すなわち「わからない」ものなんですね。それを語っていく。語れば語るほど分からなくなるのかもしれない。彼のように本当に真面目に仕事をする「コトを為す」というのは、こういうことなんだなと思いました。私のようないい加減な人間は適当に自分や自分の仕事や世の中を定義づけて(コト化して)、物語を勝手に終わらせてしまっている。そうなるとその物語は誰とも共有されることなく死んでいく。小橋選手のように自分自身にも、そして他者にも語り続けることで、どんどん物語は成長し、新たな意味を創造しつづけ、そして感動・感銘を生む。
 冗談でなく、彼の生き様、物語から明日の生きる力をもらいましたよ。ありがとう小橋。よし、オレも頑張ろう。問いかけ続け、そして語り続けましょう。
 今日は一日中優れた「物語」に接し、最近自分や社会が失ってしまった「モノ」を思い出すことができました。すぐに答えが出るような「コト」ばかりでは、私たちは生きられないのですね。

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2007.12.01

『「世界征服」は可能か?』 岡田斗司夫 (ちくまプリマー新書)

48068762 「いつまでもデブと思うなよ」が好調な岡田センセイ。もしかして私の一日一食の影響受けたんじゃないでしょうねえ。一時期この不二草紙にもいらしてましたので。
 というか、ホントにお痩せになりましたね。すごいインパクトです。50キロ減ですか。このインパクトのためにわざと太ってたんじゃないの?…なんてね。すっかりオシャレになってしまって「オタキング」の面影はいずこへ。脱ヲタかな…と思いきや。
 この本を読んで安心しました。古き良きアニメやマンガや特撮ものがじゃんじゃん登場します。それでいて、とっても楽しく勉強になる現代社会論や一つの哲学にもなっていて、うん、岡田センセイらしさがよく出ているんじゃないでしょうか。適度な脱力感と適度な力みのバランスが絶妙です。
 岡田さんってとっても愛が深い人ですよね。そして、なんとなく悲観的なことを言う時もあるんだけれど、結局は世の中を信じている。性善説というかね。
 いや、岡田さんに限らず、我々オタクは性善説なんですよ。だって、日本のアニメやマンガや特撮物見れば分かりますよね。今も娘たちがポケモン観てますけど、なんですか、このロケット団の愛らしさは。偉いっす。一生懸命だし絶対諦めないし懲りないし。この本に出てくる悪役もみんな魅力的ですが、その他の悪役、たとえばこのロケット団もそうですし、バイキンマンやクロミちゃんとバクなんかも、みんなドカーンとやられてお空に飛んでって、そしてキラン!と星になる。毎回ね。とっても可愛いっす。その星になるってとこが、日本人の優しさの表れですよね。
 判官贔屓というのがあります。昔から。勧善懲悪ものであってもその「悪」はどこか愛らしく魅力的だったりしますよね。あるいは負け組に対する感情移入というのも日本人は強い。南朝へのシンパシーを引き合いに出すまでもなく、いろんなところに表れています。絶対的に強い者は一時的にはもてはやされますが、いずれ必ず刺されます。最近のニュースに登場する人たちを見れば分かりますね。
 さて、性善説の岡田センセイ、結局「世界征服」は可能だと言ってるんでしょうか。たぶんそれは可能ではありますが、あまりに割の悪い仕事なので誰もやらないというのが実情なのでしょう。彼が指摘する通り、たしかに「世界征服」したのちどうするのか分からないことが多い。つまり手段が目的化してしまっていると。地球を征服したところで、実質的なメリットはない…のか?
 そのへんについては、この本でいろいろな角度から検証されているのでぜひ読んでみてください。後半では世界征服の具体的な方法も書かれていますが、結局のところその目的がはっきりしないんですね。でも、それは仮想世界での出来事ではなくて、歴史的な「悪者」や、いや歴史に残らない私たち凡人たちのちょっとした成り上がり願望みたいなものとそれに基づいた行動も、全く同じような事象と言えるかもしれませんね。特に「男」のそれら。女はなぜかそういうこと考えないんだよな。仮想世界にも女の悪者いるけど、彼女たちってけっこう「嫉妬心」で動いてるような気がします。男の支配欲とは違いますね。
 さて、この本で結論づけられている「悪」の定義、これはなかなか面白いし、世の本質を突いていると思いますよ。すなわち、「その時代の価値・秩序基準を破壊するもの」こそ「悪」であるというのです。たしかにそういう定義の仕方もできますね。それは絶対的な悪ではなく、あくまで相対的な悪ではありますが。まあ、歴史は全てそうした相対的な善悪の関係で動いてきたのは確かです。
 そうしますとね、私が提唱している反市場経済的な考え方、「消費は悪徳」的な考え方、仏陀的な考え方は、現代では「悪」ということになりますね。このブログではけっこう世の中の常識と反対のことを言うことが多いので、私はまさに「悪者」だということですね。
 それはそれで大いに結構なことであります。できれば愛すべき「悪者」になりたいなあ…なんて、そこまでの器ではありません…てか、どう考えても彼らほど努力家ではありません。

Amazon 「世界征服」は可能か?

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