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2007.12.31

大晦日格闘技のMVPは…(2007)

Kanemura だいぶ遅くなりましたが、心のプロレスラーとして書かずにはいられません。
 2007年もまた、格闘技イベントで締めくくり。いつからでしょうかね。紅白に対して格闘技がぶつけられるようになったのは。これは面白いことだと思いますよ。歌の祭祀性に対し、格闘技の祭祀性をぶつける。どちらもガチンコであり、どちらも演劇であり、どちらも日常であり、どちらも非日常であるという事実。
 とにかく、大晦日というのは「大いなる三十日」なのです。年をまたぐ、その寸前の場という意味で、過去と現在と未来をつなぐ時間であり、日常と非日常、ケとハレ、現実と夢をつなぐ空間でもあるわけですね。
 そんな特別な時を、我々は歌を聴き、歌を歌い、格闘技に心震わせ、そしてソバを喰ってすごすわけです。おそらく唯一全国民が一つになる祭が大晦日でしょう。
 歌はやはり恋の歌。格闘技は「レッスル」すなわち「じゃれあい」。ソバは「細く長く」。いずれにせよ、我々の子孫繁栄、ひいては五穀豊穰を祈る、きわめて「性的」な祭なのであります(なんちゃって)。
 さてさて、そんなレッスルですが、今年はいわゆる「大連立」などありまして、大いに興味深い闘いが繰り広げられました。ウチのカミさんなんかは、もちろん桜庭和志の大ファンでありますので、いわゆる「東北百姓対決」…いやいや、「レジェンド対決」(だいぶ違うなあ…でも五穀豊穰を願うとすれば、百姓対決で良かったのかも)と、因縁(怨念)深い「秋山vs三崎」に大興奮しておりました。いや、今思えば、昨年の「ヌルヌル」もまた過度に性的だったのかもしれないな(笑)。
 まあ、とにかくそれぞれの戦いについて書き出すとキリがありませんので、今日はワタクシが選ぶMVPだけ発表しておきましょう。ジャジャ〜ン!!それは…

 キンターマン選手

です!上の写真で思いっきりハイキックをもらっている、その人です!これはもう圧倒的差をつけてMVPですよ。ちなみに2位はこのハイキックの主、ミルコ・クロコップ選手です。
 格闘技に詳しい方でないと全く分からないと思いますけど、ミルコがハッスルのリングに立つこと自体、もう大変なお祭りなのであります。夢にも思わなかったというのはこのことです。可能性0%なんですよ。福田総理がM-1に出るようなもんです(?)。
 で、このミルコという人はハイキックの鬼(神)でして、ガードの上からでもこれを喰らうとまずKOなんです。我々凡人では死ぬでしょう、間違いなく。それを、見てください、上の写真。キンターマン選手は完全にノーガードで受けています。ありえません。
 これは命をかけた闘いです。奇跡的に降臨した神のため、祭の完成のため、日本国民の幸福のため、彼はあえて完全ノーガードで神業を受けました。
 実際、この後、キンターマン選手はリング上でいびきをかくという危険な情態に陥り、救急車で病院へ。その後の年末年始の仕事は全てキャンセルになってしまいました。
 ところで、キンターマン選手は、本名…ではなくて本リングネームを金村キンタローと言う素晴らしいプロレスラーです。私は今年の7月に初めて彼の試合を生で観ました。この記事に書いたLOCK UPの大会ですね。彼は実は在日韓国人レスラーです(本名は金珩皓)。在日の彼がクロアチアのミルコにやられる…それも日本の大晦日、そしてお正月のために…。二人とも偉いっす。
 それに比べて、空気を読めない在日格闘家もいましたねえ。秋成勲です。彼は昨年の大晦日、日本の(ウチの)大晦日とお正月を台無しにしてくれました。その彼、今年は、キンターマン選手と同じくKOされて病院送りになりました。これは空気を読んだのか…いや全然違うな。あれは本気で負けてたな。まあ、でもああやって負けたことで、かなりの日本人(たとえばウチのカミさん)は溜飲を下げたわけで、まあ結果としては祭の成功に寄与したということですかね。
 紅白にせよ、格闘技にせよ、日本の大晦日は在日の皆さまが大活躍です。これは正直素晴らしいことだと思いますよ。そこんとこの歴史的、文化的考察をし始めるとたぶん丸1年かかってしまうので、省略。
 いずれにせよ、キンターマン選手こと金村キンタロー選手は素晴らしすぎました。私はますます彼のファンになってしまいました。心のプロレスラーを標榜するワタクシとしてましては、まさに身も心もプロレスラーであるキンターマン選手の大玉砕に、心の底から敬意を表したいと思います。ありがとうキンターマン!オレも頑張るよ!!
 ps キンターマンというネーミングも子孫繁栄を祈るものなんでしょうね(笑)。

 この件に関するカクトウログのこちらの記事もいろいろと考えさせられます。

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2007.12.30

BUMP OF CHICKEN 『orbital period』

4988061862453 昨日の記事で「詩」についてちょっと考えてみましたが、書いてみてからやっぱりいろいろと迷うこともありました。そんな簡単に答えは出ませんよね。あたりまえです。
 ただ、私にとって、こいつは真性の「詩人」だなと思わせる人がいることは確かです。私は音楽が好きなので、どちらかというと「歌詞」の中に「詩」を見ることが多い。たとえばこのバンプの藤原基央くんなんかかなりいい詩人だと思います。彼の言葉にはいつも何かを発見させられます。そして、本来の「歌」…日本古来の歌ですね、言葉と旋律とリズムの一体になったメッセージのあり方を考えさせてくれます。
 このニューアルバム、前作「ユグドラシル」が超名作だっただけに、そしてそこから3年以上も経っていることもあって、ファンの間でも期待や不安が高まっていました。実際、リリースされてから、聴いた人たちが語る語る(笑)、Amazonのレビューの数の多さは異常ですよ。つまり、みんな詩人になっちゃうんですね。それぞれのリスナーがみんな言葉を発したくてしかたなくなるんですね。そこが彼らの音楽や言葉の力だと思います。
 私なんかは、もういい歳なんで、それなりにいろいろな音楽を聴いたり演奏したり、またいろいろな言葉に接してきたり、こうして書いたりしてきたわけですし、まあいちおう人生経験もいろいろと積んでいるしですね、彼らの若々しい叫びにちょっと恥ずかしさを感じる時もあるんですけどね、それでもやっぱり魂が揺さぶられたり、なぜか涙が出てしまったり、頭で解釈しようとしたり、自分もこうやって表現ができたらいいなとか、いろいろと動き出すんです。
 で、このアルバムです。この前、『メーデー』&『花の名』の記事の中で「なんとなく日常が生きにくいと思っている人、そういう意味では実は人生や世の中の本質をわかってしまっている人への応援歌」というようなことを書きましたね。全く偶然ですが、今回「才悩人応援歌」という曲が入っていました。その歌詞が彼ららしいですね。こちらで読めます。パラドクシカルな応援歌です。時々こういう厳しい言葉も吐く彼らですが、それがなんというか、こちらだけに投げかけられるんでなく、いっしょに痛みを背負ってくれるんですね。そしてまた優しい言葉に帰って行く。そんな大きな波のようなものが、彼らのアルバムの良さです。シングルでは味わえない大切な部分です。シングルの寄せ集めだとか、作品としてのコンセプトが見えないという方は、おそらくその本質を読み落としてると思いますよ。
 そう、今回痛感したんですけど、彼の言葉って聖書的ですね。音楽的にもゴスペルっぽいし。実際藤原くんはブルーグラスやカントリーが好きなようだし、コード進行や演奏の形態にもその影響が聴いてとれます。
 つまり、日本語と音楽による福音なのかもしれない。彼らの言葉や音楽に救われる人、勇気づけられる人、きっとたくさんいることでしょう。こういう、豊かだけれどどこか欠落感を抱いてしまう世の中で、なんとなく不安になったり、孤独感を味わったりする人たち…きっと自分もちょっぴりそういうところがあるんでしょうね…と苦しみや悩みを共有し、そして一緒に頑張って行こうと励ましてくれる、そういう言葉や音楽なんでしょうね。
 おそらく藤原くんはそういうところを意識しているというか、自分自身もきっと何かの音楽や言葉にそうしてもらってきたんでしょうね。だから自分たちの音楽活動の意味もそこに見出しているんでしょう。商業的なことよりも、もっと深いところで歌い続けている彼らの姿勢には私も共感しますし、これからもずっとそういうバンドであってほしいと心から願います。
 それぞれの楽曲については、もっともっと聴き込まないと語れません。何度も聴いて噛みしめて分かるのがバンプですからね。今日はとりあえず全体的な感想だけということで。とにかくいいアルバムであることは確かですよ。

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2007.12.29

『詩のボクシング13 日本列島に響け!魂の言葉たち』(NHK)

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 今年もやってまいりました「詩のボクシング」の放映。昨年は本当に感動しました。感動したなんて、全く詩的な表現じゃなくて申し訳ないんですが、言葉にならない気持ちがあって、詩にならない瞬間があるからこそ、詩はどこかに向かい続ける、つまり生き続けるんでしょうね。
 さて、昨年は記事を書いてから、優勝者の木村恵美さんから直接連絡をいただきまして、ありがたいお言葉(お誘いも含めて)をいろいろと頂戴いたしました。そして、本年から山梨大会も始まるとういうことで、これは玉砕覚悟でもなんでも参戦せねば、と思っていたんですが、本職の(?)表現活動の方が忙しい時期で、結局観戦すらできませんでした。
 山梨大会では、これまた大学の後輩であり、いろいろな意味で世話にもなっている人が優勝したということで、まあ結果として身内対決にならなくて良かったな、と少し安心したりして。
 いやあ、それ以前に、私はこうして言葉をたれ流し続けてはいるものの、それは全く詩的世界からはかけはなれておりますし、あの聖なるリングに上がる資格はないのかもしれませんね。ハッタリで勝負できるほど甘くはないでしょう。
 さて、今年の全国大会はどうだったでしょう。まずは正直な感想を。
 やっぱり去年はすごかった。木村さんだけではなく、他のボクサーたちの技術や魂も、今年よりハイレベルだった。それを痛感しました。それこそ私が批評できる立場ではないと思いますが、今年は全体に言葉の力が弱かったかなあ。ある意味「詩」の陥りがちな方向に行っていたような気がしました。
 象徴的だったのは優勝者の晴居彗星さんです。私は彼の芸風は好きですし、その切り口も悪くないとは思ったんですけど、あれが「詩」なのかどうかと。つまり、「詩」が持っているその「詩」的な性格、すなわち「詩」自身ですら自己を定義できない、その自由さと制約、根拠のない自信と漠然とした不安、みたいなものでしょうかね、なんでもありの難しさみたいなものですね。それを感じてしまった。
 もともと「詩のボクシング」は「朗読」が主体であり、あまり「詩」という形式にこだわってはいないわけですが、一般人のつぶやき(あくまでも表現方法としてのつぶやきですが)にまで、その間口を拡げてしまうのはちょっと危険な気もしました。正直なことを言いますと、今日の夜何気なく観た「お笑いDynamite!! 」の方が、そういう意味では「詩的」だと思ってしまいましたよ。
 私の「モノ・コト論(物語論)」から考える「詩」というのは、「コトノハ」による「コト」への挑戦、あくまで生々しく流転する無常なる「モノ」を生み出す行為だと思うんです。それはやはり「騙り」であってほしくない。「語り」であってほしいんです。
 回りくどい説明になってしまって申し訳ありません。大切なことなんで説明させてください。
 相手にとって未知なる「モノ」、また自分自身も消化しきれていない「モノ」を、例えば言葉というメディア(「コトの端」=「コト」化のきっかけになる何か)を通じて形にすることが私の言う「カタル」ということになるんですが、それを受ける例えば聞き手は、自分の内部(コト)に、相手が語った「コトの端」が放り込まれる状況になるわけですね。そして、池に石が投じられた時のように波紋や飛沫が生じるように、日常的に平静だった「ココロ」に動きが生じます。その動き自身はほとんど反射的なものであって感情以前の「モノ」です。つまり自分の意志の外にある。そして、それに対して発動する自分の意志が、それが感情だと思います。つまり、その動きを止めて平静に戻したいとか、あるいはその動きがずっと続いてほしいとか、そういう「〜したい」というのが感情だと、私は考えています。
 で、詩だけでなく、あらゆる芸術(物語)の自分にとっての価値というのは、その自らの願望たる感情が発動しえないくらい、あるいは発動しても全く機能しないくらいの、そういう波紋や飛沫を生む「モノ」なんですよ。「コト」化を目的としていながら、しかしその「コト」化を拒否するような、と言いますか、それこそなんかうまく表現できないんですけど。とにかく「モノ」の持つ無常性や不随意性、不可知性や豊饒性の伝播こそが「物語(モノガタリ)」の本質であり価値であると思ってるんですよ、私は。
 長々と語って(騙って)しまいましたが、そういう意味において、今年の「詩」には生命力が不足していたような気がするんです。もちろん、それは全体の印象であって、個々には素晴らしい力を持った言葉があったと思います。しかしやっぱり、晴居彗星さんの「詩」は、私の中ですぐに消化され、解釈されてしまった、つまりすぐに死んでしまったよなあ…。
 一方、やはり昨年のあの私の「涙」は、やはり私自身の心の飛沫、抑え難い波紋そのものだったと思います。あらためて木村恵美おそるべし。
 木村さん、今年はジャッジとして参加されておりました。その場の空気も含めた「モノ」は編集されたテレビの画面からは伝わってきません。いずれ、彼女から生きた感想を聞きたいと思います。

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2007.12.28

ウラジミール・ゴンチャロフ博士

Senrigan 本日、仕事納め。やばい!年賀状印刷しなきゃ。今年の、いや来年の年賀状は(も)すごいですよ。毎年いかにくだらないパロディーをやって元旦早々人を笑わせるかということだけを考えている我が家の年賀状。今回のはあまりに馬鹿げてるので、元旦にこのブログで公開しようと思ってます。ついに私の素顔がさらされる!?
 さて、くだらなさ、脱力系、嘘八百、トンデモ、といった世界において、私が常に注目し、あるいはそこから学んでいるのは、雑誌によくある「開運グッズ」広告であります。昨日は広告業界の芸術性について書きましたけど、これもまたある意味芸術的世界であります。
 みなさんもご覧になったことありますよね、開運グッズの広告。財布とかブレスレットとかペンダントとか石とか。とにかくそれを買って身につければ、金持ちになる、人間関係が改善する、彼氏彼女ができる、ギャンブルで勝ちまくる…夢のような話が、写真入り体験談とともに紹介されてるヤツです。札束で左うちわの家族とか、あるじゃないですか。
 まあ、あれを信じて買うかどうか、それはまあ自由でして、いや実は私も一回くらいわざとだまされて買ってみたいと思ってますよ。あまりに馬鹿げていて面白いじゃないですか。この前粉砕した(?)「神世界」の「力ライセンス」とか「神書」とかもウチにありますけど(買ったんじゃありませんよ)、ああいうのとはちょっと違う気がする。悪意のようなものも感じますけど、なんとなく「バッカですよ〜」と宣言してるようなところがあって、なんかそこんとこは微妙に許せたりするんですよね。
 でも、たとえばこんな風に許されない時もある。公正取引委員会は「アート」を解さないのか!?ってか、だまされて買っちゃって、それでクレームをつける人がいるっていうことですよね。ご愁傷様なことです。
 で、なぜかそのフジアートとかなりご近所にあるイセイコーポレーションが先月出した広告が最高だったので、今日はその中のさらに最高級の部分を紹介させていただきます。
 そのグッズは何かと申しますと、「超(スーパー)千里眼」というルーペでして(ルーペというのはなかなか斬新!)、それをのぞくと、ロト、宝くじ、パチンコ、パチスロ、株、競馬…なんでも当たるらしい。なんでも旧ソ連諜報機関が極秘開発したそうで、今回その開発に携わった最高技術責任者と接触に成功し、この超千里眼を発売することになったと書かれています(笑)。
 例によって、サクラの方々が札束とおぼしき塊(モザイクがかかるようになりましたね、最近)を持って、満面の笑みを浮かべております。彼女ができた佐藤智一さんもいるぞ(笑)。もうそれぞれのコメントの文学的センスが最高なんで紹介したいところですが、今回はそれよりなにより!その最高責任者の方ですよ。
Vladimir ウラジミール・ゴンチャロフ博士(Владимир Гончаров/Vladimir Goncharov)!!最強です。写真を観てくださいよ〜。この方が諜報部超能力研究チームの最高責任者じゃあ、旧ソ連も崩壊するわ(笑)。
 これってギャグですよねえ。この髪形ありえませんよ。そして、なんと言っても、その顕微鏡を覗く覗き方ですよ。いくら超能力、超千里眼でも、覗く方の目をつぶってちゃねえ(笑)。すごすぎます。ご本人からしてすでに崩壊してます。いいなあ、この味。
 「神世界」の皆さんにもぜひ見習ってもらいたい。いや、「神書」なんて読むと、けっこうゴンチャロフ級のギャグが書いてありますけど、なんていうかなあ、博士のような品格が感じられないというか(笑)、知性が感じられないというか(笑)、とにかくダメです。このあたりの微妙な差異ってなんなんでしょうね。理論では説明できないような気がします。
 というわけで、私の2007年の「この人」はウラジミール・ゴンチャロフ博士に決定です。いくら開運グッズ広告でも、これからこれを超えるのは難しいでしょう。おめでとう!博士!

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2007.12.27

『CM』 小田桐昭, 岡康道 (宣伝会議)

Cm お二人の肩書きは「クリエーティブ・ディレクター」でしょうか。なんだかカッコいいですね。もうこの時点でイメージが先行している。
 広告業界、特にCM界におけるカリスマ二人による対談集。
 教え子に、いろんな意味で天才的なヤツがいて、そいつが貸してくれたんです。彼女は今、日芸の放送学科で勉強してるんですけど、ある授業で提出した彼女の課題が、カリスマの一人岡康道さんの目に留まって、なんだか知らんが岡さんと食事をしたんだとか…いやはや、すごいことになってるなあ。あいつ運をつかむ天才なんだよなあ。ちょっと嫉妬(笑)。ま、私の教え「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を最も忠実に実行してるとも言えるな。
 さて、そんなプチ天才が貸してくれた本物の天才の言葉。やはり面白く勉強になりました。一気に読んでしまった。
 いや、実は私、彼女にも言ったんですけど、アンチCM派だったんです。なにしろ消費や市場経済を悪と決めつけてるくらいですからね、当然ですよね。人の消費欲、購買意欲をいたずらに煽り、無駄遣いさせ、人を虚しさのどん底に落とし、さらに地球環境を破壊する、なんだか地球の破滅を狙う悪の組織って感じがしてたんです。
 だから彼女が岡さんに会うっていうのを聞いた時も、オレはアンチだからな、刺客としてお前を送り込むからしっかりツッコミを入れてこい!と命令しました。
 で、彼女のお食事の感想は「すごいオーラだったけど、案外普通の話でしたよ」と。そして、私もこの本を読みましてね、正直岡さんや小田桐さんのことかなり好きになってしまいました。いかん、いかん。
 この本には人間の温かさが満ちていたんです。彼らが目指すのは、たしかに人の心を動かすものです。しかし、それが単に消費意欲をかき立てる類いのものではなく、もっと深いところ、ただ商品の説明ではなく、それを通して人生を考えるというか、他者のことを考えるというか、またその商品を実際に買って所有して使って新たな物語を紡ぐとか、そういういわば芸術の目指すところと同じところを目指していることに気づかされたんです。恥ずかしながら、食わず嫌いだった。また知ったかぶって恥をかいてしまいました。
 私の心をいとも簡単にひっくり返してしまったのは、彼らが「小津安二郎」をやりたいと語り合っていたからです。言葉にならない言葉。語りすぎない表現。なんだ!そうだっのか。私も単純ですよね。
 小津のパロディーCMはありましたが、それってあくまでもパロディーであって、あれを見た時私は、小津ワールドと対極にあるCMだからこういうパロディーが生きるんだよな、と思いました。まさか真剣にCM界で小津をやろうなんてことを考えている人たちがいたとは。と言いますか、私の認識不足でして、全く先入観というのはこわいものだと再確認させられちゃいました。
 考えてみれば、彼ら「電通」を飛び出してるんですよね。彼らが言うことをワタクシ流の言葉に無理やり訳してしまうと、まさに電通は「悪の組織」になってしまっているということでしょうか。お二人とも、かなり厳しい口調で今の広告業界を憂えています。自分たちを育ててくれた組織がそういうことになって、そして裏切るような形で独立しなければならなかったのですから、それはそれは辛い複雑な心境でしょうね。
 ところで、この本のある意味面白かったところは、お二人の生い立ちについて語られている部分でしょう。お二人ともなかなか個性的な人生を歩まれております。完全に体育会系だし。
 お二人(あるいは世の全ての成功者に)に共通しているのは、逆境を生かす、不随意な「もの」の中から多くを学び取るということでしょう。そういう意味では単純に「根性がある」とも言えますね。私には完全に欠落しているものです。お二人とも、持って生まれた才能というのもお有りでしょうが、やっぱり時流に乗る運と、人に可愛がられる人柄、そしてバカみたいな根性、そういったものが揃っていないとカリスマにはなれなかったんじゃないでしょうか。
 さて、CMというものについて一言書いておきましょう。今、CMという「もの」と書きましたが、私はこの本を読むまで、CMとは単なる「コト」だとおもっていました。例の「神世界」みたいなもんだと決めつけていたんですね。「騙り」だと。そういうCMもけっこうあると思いますが、やっぱりそれだけじゃないんですよね。だって、自分が子どもの頃見たCMで覚えてるのってたくさんあるじゃないですか。それが、たとえば車の宣伝だったりして、自分が買うことはできなかったとしても、そのCM作品自身が心に残るっていうことありますよね。あるいは何の商品だったか忘れたけれど、やはりその作品自体はなんだかよく覚えてるってやつ。
 つまり、優れた作品というのは、それがたとえテレビというメディア上の刹那的なものであっても、昨日の宝塚のように、フィクションやルールや言葉(コト)によって我々受容者が新たな物語を紡いでいくものなんだなあと。
 そう考えますと、芸術と言われるもの、優れた表現と言われるものは、自己創造性を持つとともに、他者の創造性をもかき立てる、まさに「モノ」的な性質を持った存在だということが明らかになっていきます。自他に対して、縁起(縁によって生起する)を促していくモノの豊かさ…。
 小田桐さんや岡さんは、「物」に「言葉」を与えることによって、そこに「物語」を生み出していくわけでして、そういう意味では「クリエーティブ・ディレクター」という名前も単なるイメージではないことがわかってきます。まさに自他の「クリエーティブ(創造性)」を「ディレクト(方向付け)」する人なんですね。私も自称でもいいから「クリエーティビティ・ディレクター」になりたいなあ、なんて無理なことを夢見てしまいました。

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2007.12.26

宝塚に見る「女の嫉妬」の行方

Tcad187 今日は法学部で学ぶ卒業生が学校に遊びに来ました。彼女はいわゆるヅカファンです。特に月組がごひいき。
 私、今までも半ば強引に宝塚のDVDを見せられてきました。最初は正直よくわからんなあ、と思っていたんですけど、やはり世の中で素晴らしいと言われ何十年も生き残っているいるものには、その生き残る理由があるんですね。ジャニーズも実際観に行ったらたしかに素晴らしいエンターテインメントだった。
 で、来年はいよいよ宝塚も観に行くことになりそうです。例によってファンの方々なんかの様子も含めて楽しんでこようと思います。
 今日強引に見せられたDVDは「MAHOROBA/マジシャンの憂鬱」であります。まあ、MAHOROBAの一部だけしか観てませんけど、もうとにかくそれだけでも濃過ぎて最高に面白かった。もう瀬奈じゅんがイザナギとして登場して、いつのまにかヤマトタケルになってる時点で笑えたわけですけど、そうだなあ、やっぱりオウス(ヤマトタケル)が熊襲征伐するシーンかな。そう、オウスが女装してカワカミタケルをだまして殺すところです。
 とっても興味深いですねえ。現実世界では女性である瀬奈じゅんが、まずオウスという男に扮し、そして、そのオウスが女装しているわけですから、えっと、女が男になって女になってるんですね。二重のフィクションです。面白いですね。そして、その女装してめでたく女に戻った(?)瀬奈じゅんは、妙にエロチックに踊り歌います。宝塚ではだいたい巧妙に女性性が消し去られているんですが、このシーンは珍しく女性性が強調されていました。それが実にウソくさくて良かった。
 歌舞伎は男が男と女の両方を演じます。舞台にはリアルには男しかいません。女性不在です。女形は記号化され象徴化された女であってリアル女ではありません。宝塚はどうでしょう。歌舞伎の逆ですね。舞台にはリアル女しかいません。男性不在です。男役さんは記号化象徴化された男ですね。さらに面白いのは女役、娘役さんも記号化されているということです。彼女たちの女性性は巧みに隠蔽されているんです。彼女たちは決してエロチックではない。ボディーコンシャスすら許されません。
 ちょっとそのへんについて考えてみました。
 観客としての女性、市場経済における消費者としての女性を成立させるため、継続成長させるためには、女性に内在するドロドロ、すなわち「嫉妬心」を消し去らねばならない。リアル女性にとって、リアル世界の男女関係における「嫉妬心」は、基本的に不快な感情です。消費者たる女性はそんな不快な感情に対してお金を払ってくれるわけがありません(実はもうちょっと複雑なしくみなんですが、今日は割愛)。
 で、面白いのはですねえ、日本でそういう「嫉妬心消去」のシステムが発達したということですね。世界の中でも特別だと思います。それがそう、歌舞伎や宝塚やBL(ボーイズラブ)なんです。これは、日本の女性が特に嫉妬心が強いということではなく、自らの嫉妬心をシステム(フィクション)の中で消去できてしまうくらい、日本の女性が賢いのだと、私は思います。あるいは、女の嫉妬心の処理方法を各種考案した日本の男が賢かったのかな。ま、とにかく日本はこの点に関しては特別ですし、それらを芸術にまで高めてしまったわけで、まったくすごいことだと思います。
 今日も教え子に聞いてみました。「お前さあ、ほら大好きな瀬奈さまがさあ、こんな可愛い女の人とからんでるけど、嫉妬とかしないの〜?」そしたら、彼女「あっ、言われてみると全然嫉妬しません」って。ほらね。彼女、言われて初めて気がついたのか、リアルな自分と比較して不思議だ不思議だと言っておりました。面白いですね。
 ちなみに、8月に関ジャニ∞に行った時には、こちらに書いたように、5万5千の女の嫉妬心が大爆発して東京ドームを揺らしましたっけ。これは実は見事な演出だったわけですが、そうですねえ、ジャニーズにおける「ホモ伝説」もやっぱり嫉妬心除去システムの一つなのかもしれませんね。
 女の嫉妬心はどんな場合も女に向かいます。ある共通した嫉妬を中心に女が一群をなして盛り上がる場合もありますけど、基本的には彼女たち、そんな自己に内在する「鬼」はなるべく外に出したくないようです。そのためにリアルな「性」を消し去る文化が、それこそ源氏物語あたりから日本では見事に発達したということですね。
 というわけで、そんなフィクション(「コト」)世界に、こいつホントは女じゃんとか、女が男になって女になってるよとか、イザナギがブーツはいてるよとか、歌詞が文語なのに音楽は思いっきり洋楽じゃんとか、そういう野暮なツッコミを入れず、上手にだまされるのこそ大人な世界ですよね。
 そうそう、最後は彼女の専門である法学にまで話が発展しました。私にかかれば、宝塚も法律も全く同じです。そう、法律なんて最たるフィクション(「コト」)ですからね。全てのルールはフィクションです。それに野暮なツッコミを入れたりせず、なんとなくみんなでそれを遵守していく。なんで赤信号は止まれなんだ、オレは進むぞ、とか言わないで。そう考えると、法律は我々国民をある方向に動かしていく演出であることがわかります。そのへんについてはまたいつか。

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2007.12.25

百人一首に見る「もののあはれ」

412hsfd9w2l_aa280_ 今日は、仕事上お世話になっている英会話スクールのクリスマスパーティーにおじゃまして、ヴァイオリンでクリスマスソングを弾いたり、皆さんと一緒に英語のゲームに参加したりして、楽しませていただきました。昔の教え子との再会など、出会い多数あり。
 さて、22日の記事に書いたとおり、ウチではちょっと早めにイヴやら偉い人の誕生日パーティーをやってしまったのですが、いちおう世間様の慣習にも従って、子どもたちへのプレゼント贈呈を行ないました(形としてはサンタさんが深夜家宅侵入したという設定)。
 子どもたち、いつもより早起きして、二つの包みを見つけました。一つはけっこう大きめ。一つは小さいけれどかなり重い。期待は膨らみます。
 そして、両親に促されるままに包みを開けると…ガ〜ン…なんか固まってます。大きいつづらはオセロゲーム。渋い。さっそくやり方を教わってゲーム開始。なんとなく盛り上がりに欠けるので、これは黒猫と白猫の勢力争いだという設定を与えましたら、少しその気になってきた…とその瞬間、ウチの本物の黒猫(下半身不随の子猫ミー)が盤面の上をズズズ〜ッといざって行きまして、全てが終了。黒猫の勝ち〜(笑)。
 で、もう一つの小さいが重いつづらはと言いますと、これがもっと渋い。渋すぎる。子どもは「何これ?」って感じ。
 そう、なんと「百人一首」なのです!
 言っておきますが、これを選んだのは私ではありません。カミさんです。自分が小さい頃オセロと百人一首をやっていたのを思い出したのでしょうね。だからってねえ、それを子どもにも押しつけるのはねえ。今日娘たち、小学校や保育所に行ってどういう会話したんでしょうね。みんなはDSだとかWiiのソフトだとか言ってるのに、ウチは…オセロと百人一首かよ。「ウチは電気で動くものは買ってくれないの」…切ないなあ(じゃあ買ってやれよ)。
 で、百人一首です。せっかくですからこれについてちょっと面白い話、というか私の最新の研究成果(?)を書いておきましょう。
 もうご存知の方もいらっしゃるでしょうね。百人一首の謎、秘密。実は壮大な歌織物が構成されていて、そこに暗号が隠されている…。
 織田正吉さんと林直道さんによる研究が有名ですね。というか、織田さんの発見を林さん(経済学者として超有名な方)が発展させたということで、二人の間に微妙な空気が漂ってます。
 お二人の本を読むとよくわかるんですが、今日はこちらのまとめサイトを紹介しておきます。上手に、そしてきれいにまとまっています。ぜひご覧ください。

百人一首に秘められた謎

 これはもう単なるこじつけではありませんよね。もしこじつけだとしたら、それはそれですごいことですよ。
 さてそんなわけで、私から見ましても、かなり駄作の多い不思議な歌集であります。で、私は私なりに私の「モノ・コト論」で百人一首を料理している最中なんですね。特に注目しているのは「もの」いう言葉です。みなさんも漠然と「もの思ふ」系の言葉がたくさん出てくるなあとお感じなったことがあるのではないでしょうか。
 単独で「もの」という名詞も出てきますし、「ものを」という助詞もよく出てくる。それから、「もがな」。これは私の考えでは「ものかな」が語源ですので、これも数に数えます。
1001 それに色を付けてみますと、右の写真のようになります。百人一首は基本的に年代順に並んでいます。この表は横書きなので、上が古いもの、下が新しいものになります。
 どうでしょう、まあ当たり前と言えば当たり前ですけど、下の方がカラフルですよね。つまり時代が下ると和歌のテーマが「もの」になっていく、ワタクシ的に言いますと、歌の内容が「不随意」への詠嘆になっていくということです。
 これこそ「もののあはれ」ですよね。何度も書いて申し訳ありませんが、本居宣長センセーはダメです。あんなにいばって「もののあはれ」論を書いておいて、肝腎の「もの」は「なんとなく付けたものだ」みたいなこと言ってごまかしてる。というか最も大切なことに気づいてない。「もの」という言葉の意味をとらえきれてないんです。あんまり神格化しない方がいいですよ、彼の「もののあはれ論」。
 というわけで、こうして百人一首を並べるといろんなことがわかるんです。まだまだいろいろ書きたいこと、あるいはそれぞれの歌の新解釈なんかたっぷりあるんですが、それはこれから小出しにして行きます。駄作へのツッコミも含めて、時々一首ずつ取り上げて紹介していこうかな。
 それにしても娘たちちょっと可哀想ですね。こんな話をしても絶対わからないしなあ。いちおう、今は「これもポケモンカードみたいなもんだ。世界で一番古いタイプかもしれない」とか言って、その気にさせてますが。彼女ら、この歳で早くも「もののあはれ」を感じてたりして(笑)。

林直道の百人一首の秘密

Amazon 絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く 百人一首の秘密 任天堂 百人一首 舞扇

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2007.12.24

toto当せん!?

Toto これはクリスマスプレゼントなのでしょうか、それともちょっと早いお年玉?
 toto当たりました。6億円です…なわけない。4080円です。
 miniBIGの3等です。miniBIGは初めて買ってみたんですが(1口200円を5口)、いきなり当たってしまった。これまで1等6億円のBIGを数回買ってたんですけど、まったくかすりもせず、当たる予感が全然しなかったんで、今年最後のチャンスはminiに切り替えてみたんです。
 いやあ、実はですねえ、私2等だと思ってたんですよ。九つの試合結果を全部当てると1等で100万円くらい。一つはずれで2等、2万円くらい。で、私は試合の結果だけ見てたんで、一つはずれの2等だと思ってた。やった!2万円だ。メガネでも作るかなって思ってたんです。で、当選照会したら3等だって言うじゃないですか。ありゃりゃ。
 実は一つの試合が延長戦で勝負がついていたんですね。つまり正規の試合時間の中では引き分けだったわけです。それを私は一方の勝ちとしてしまっていた…単に結果をよく見てなかっただけです。まあいいや。元は取れたから。BIGの購入費のことを考えれば、ちょうどトントンくらいでしょう。
 サッカーくじtotoの中でも、BIGは私のようなシロウトには買いやすいくじです。自分で勝敗を予想しなくていいんで。ただネット上で「購入する」ボタンを押すだけです。自分で予想するタイプのくじだったら面倒くさくて買わないでしょうね。
 第一予想するほどの知識もない。私は特別サッカー好きというわけではありません。試合を観ることもほとんどありません。それぞれのチームの戦力や個性なんかも全然わかりません。だから本当に宝くじと一緒なわけです。
 ただ、今回なんかもあと数試合になってくれば、やっぱり試合の経過が気になるわけで、普段は見ない速報サイトなんかを頻繁にチェックするようになる。で、全然ひいきでもなんでもないチームでも「よし!行け〜!」「そのまま守りきれ!」と応援するようになる。まあこうしてサッカーへの興味を引くというのが、このくじの大きな目的の一つなんでしょうね。
 今シーズンはこれで開催終了です。来年はminiBIG一本で行こうかな。6億円もらってもどうしていいか分かりませんし、人生変わっちゃうような気がして怖い気もする(その前に当たらないって)。100万円くらいだとちょっとうれしいじゃないですか。現実味があって。それにしても14試合(BIG)と9試合(miniBIG)とでは、ずいぶんと「当たりそうな感じ」のレベルが違いますね。ま、数学的に言えばたしかに雲泥の差があるわけですけど、そういう確率の実感みたいなものって、なんとなく面白いですし、この予感みたいなものに、我々は動かされて日常を過ごしているんでしょうね。恋愛とかもそうかもね。
 予想可能な「コト」と予想不可能な「モノ」の間、虚実皮膜の間の妙こそ、「くじ」や「占い」の面白みです。全部わかってしまってもつまらないし、全部わからなくてもつまらないということですね。
 あっ、しまった!年末ジャンボ宝くじ買うの忘れた。こっちも当たるわけないとはわかっていても、ついつい買ってしまうんですよね。私なんて数十年買い続けて、3000円が数回当たっただけ。どう考えても赤字です。夢を買うとか言いますけど、夢には裏切られてばかり。
 ところで「くじ」という言葉ですが、語源はなんなんでしょうね。中世の文献に「くず」という動詞の用法が見られます。ザ行の上二段活用ですね。だいたいイ段で終わる和語は動詞の連用形であることが多い。ただ、この「くず」に関しては用例が少ないようでして、「ググる」みたいに名詞が動詞化した可能性も捨てきれません。
 私にとっての次の「くじ」は初詣での「おみくじ」でしょうかね。「おみくじ」とはもちろん「くじ」に二つの尊敬(美称)の接頭語がついたものです。「おみこし」とか「おみき」と同じですね。そうそう、「おみおつけ」ってすごいですよね。単なる「付け物(ここでは汁物のこと)」に三つも美称をつけてしまう日本人って。「御御御付け」、いいですねえ。

toto公式

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2007.12.23

『太陽』 アレクサンドル・ソクーロフ監督作品

The Sun
Sun これは名作でしょう。久々に来ましたよ。小津以来かもしれません。結局DVDも買って何度も観ました。そして今日も観ました。今日は特別な日ですから、また特別の感慨がありましたね。
 昨日は「神の子」という言葉を連発しましたっけ。考えてみれば、今日は「神の子」から「人の子」になった「人」の誕生日ということになりますね。どこかにも書きましたけれど、世界史上「私は神だ」と宣言した人は案外たくさんいますが、「私は人間だ」と宣言した人(神?)は裕仁さんだけだと思うんですよ。たとえば私が「私、実は人間だったんです」と言えば、頭がおかしいと思われるだけですよね。
 そんな昭和天皇が主人公の映画。もうその時点でありえないわけですね(いろいろな意味で)。それもイッセー尾形が演じてしまった。もうこれは不敬罪にあたります…いやイッセー尾形さんがじゃなくて、観た私たちがですよ。だってヤバい似てるって心の中で笑っちゃうんですから。
 これほどの適役はありません。形態的に似ているだけではないんですよね。存在も似ている。そう、一人芝居ですよ。孤独に耐えながらひたすら演技しなくてはならない。本当の自分とは何だったのか分からなくなるくらいに一人芝居なわけです。だけれど、その声を聴きたい人はたくさんいる。そして、その責任は全部背負わねばならない。
 ソクーロフ監督の素晴らしさは、この世にも奇妙な事実を、美しい物語に昇華させてしまったところです。歴史上たしかにあった事実ではあっても、もともとそれ自体が多分にフィクションとして構成された「コト」であったのですから、この映画(物語)に対して、やれ史実に忠実でないとか、時代考証はどうなってるんだとか、ロシア人に何がわかるんだとか、いろいろ文句をつけるのは、それこそ芸術に対する不敬罪です(笑)。即刻逮捕し収監して勉強しなおさせた方がよろしい(冗談ですよ、冗談)。
 私は、そうですねえ…出口王仁三郎のファンであるのと同じようなレベルで、昭和天皇のファンでもあるんです。両者はいろいろな意味で対照的、相容れない存在であったようですが、しかし考え方によってはグルっと回って一つの何かに統合されるのかもしれないし、あるいは合わせ鏡のようになっているのかもしれません。まさに「モノ」と「コト」。「モノノケ」と「ミコト」。
 この二人の神のような人を検証することによって、日本の近代、いや古代から連綿と続いてきた「日本」という国を明らかにすることができると、私は真剣に考えています。もちろん、そこに自分も絡んでくるわけで、そういう意味では自分のライフワークとも言えるかもしれない。
 そのためには、伝説だけでなく、まさに人間としての生身の彼ら、私と同じ体を持つ人としての彼らに思いを馳せることが必要不可欠なのです。それは彼らと融合することでもあるし、彼らと闘うことでもある。
20050630155621 天皇裕仁に対して、それを見事になしとげたのがソクーロフ監督でした。そしてイッセー尾形でした。本当に見事に天皇と対話しています。だからそれが芸術であれ、物語であれ、フィクションであれ、美の力を持つことができた。これは人間の生き方のお手本のような作品です。史実を追う姿勢、言わば学問の姿勢だけでは、この美は生まれません。この静かな力、この暗い輝きは、生命の佳きアンサンブルによる奇跡と言ってもいいでしょう。
 どのシーンも見事に作られています。観るたびに新たな意味が生まれてくる。発見だけでなく、創造もそこにある。観る自分もまた、そのアンサンブルに参加させてもらえる。無数の意味が立ち上がってくる。そして、自分も豊かになってくる。一つ一つのシーンに、あらゆる喜怒哀楽、愛憎や、幸不幸や、生き死にや、「もののあはれ」や「ことのあはれ」が表現されていきます。
 内容的なこと、技術的なことは、とにかく作品を観てもらうのが一番だと思いますので、私は特に書きません。もう少し具体的に知りたいという方ちは、このインタビュー記事やこちらの脚本を含めたレポートが大変に参考になりますのでご覧下さい。
 さてさて、せっかくですから、ちょっと天皇の戦争責任について私見を述べておきましょうか…と思って書き始めたら、これが長くなってしまった。そしてかなり世間的に痛い内容になってしまったので、全面的にカットしました。ごめんなさい。ただ、ここだけは残しておこうっと。私の発想は単純なんですよ。
 「…もし、極論するとして、先の戦争やそれに伴う悲劇が天皇一人の責任だとしたら、戦後の平和や繁栄の責任も天皇一人に負っていただきたい。仮に戦争の全責任量の5%が彼のせいだとしたら、やはり戦後の平和についても5%ほど彼のおかげだとしたい。私の感覚ではそういうことになるのです。神であれ象徴であれ、いずれにしても我々国民が演じさせているコトです。私もそうですが、悪いことは人のせいにし、いいことは自分の手柄にしたい、というのが人間の本質ですよね。これは天皇個人の問題でなくて、私たちの問題なのです…」
 
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2007.12.22

天皇誕生日イヴ…「神の子」多数降臨!!

 今日はイヴですよね、イヴ。えっ?イヴは24日じゃないかって?いやいや今日でしょ、普通に考えて。外来の神(の子)の誕生前夜を祝う前に、国内の神(の子)の誕生前夜を祝うべきでしょう。
 本当に面白い国ですね、日本は。そういう能天気なところこそ世界に誇るべき日本人の特質です。品格です。原理主義に陥らないための最大の防御はこれです。ある意味攻撃こそ最大の防御(ちょっと違うか)。
 そんなわけで、本日、我が家ではちゃんと古来のイヴの習慣に従ってイベントをこなしました(ホントか?)。すごいスケジュールでしたよ。
Shop_mark_tokyo 朝、日本の象徴富士山を出発いたしまして、まずは東京は浜松町にあります、もののけの館「ポケモンセンター」へ。ここは、かつてはまつろわぬモノ(蛮族の神の子)であったポケモンたちが、大和民族によって飼いならされ、集められている場所であります。まずはそこで娘二人がそれぞれ一種類ずつポケモンをゲット!これで彼女らの魂も鎮められまして、その後の予定がスムーズに進むはずです。
 ところで、言うまでもなく「ポケモン」とは「ポケットモンスター」の略ですけど、「モンスター」の「mon-」という冠部は、これは日本語の「もの」と同源に違いありません。これはトンデモ説ではなくて、おそらくまじめに正しいと思います。太平洋の島々に伝わる「マナ(霊魂)」、旧約聖書に出てくる「マナ(食べ物…元々は『これはなに?』という意味のヘブライ語)」も同源ぽいですね。私のモノ・コト論でいう「外部・不随意・未知」を表しているわけです。このあたりについては、いつかゆっくりと。
Oomori39 さてさて、そんなモノノケどもをゲットしたその次は、ウチの神さま、すなわちカミさんの機嫌を取るため、つまり彼女の荒ぶる腐女子魂を鎮めるために大森へ。ここには八郎神社の神の子(?)桜庭和志さんの新しい道場があります。実はまだオープンしていないんですが、どうしても行ってみたいということなので、連れていってあげました。大森は以前私が住んでいたところです(拉致被害者の横田めぐみさんと一緒に遊んでいたんです…同じ寮に住む同い年だったんで…)。道場は完成していませんが、おおみそかの船木戦のために彼はそこでトレーニングを開始しています。しかし、行ってみるともぬけの空。誰もいませんでした。しかし、もうその聖地にいるだけで、ウチの単純な神様は上機嫌。これでよしと。
Meijijingu さてお次は原宿へ移動です。なんか十数年ぶりだな原宿に降り立つの。おお、ゴスロリがいるぞ!そしてそのゴスロリ軍団の先には明治神宮が。なんというコントラスト。私、自分の七五三以来ですよ、明治神宮をお参りするの。子どもたちはゲットしたポケモンを片手に参拝。天皇陛下のひいおじいちゃんがいるんだよ、と教えましたが、そんなことはどうでもいいようでして、なんだかポケモンの人形にも柏手を打たせています(笑)。まあいいでしょう。相変わらず結婚式もたくさんやってました。明治神宮に誰が祀られてるかなんてあんまり考えてないんでしょうね。まあそれもいいことです。参拝者の半数以上は外国人でした。おそらく台湾の方が多いのでは。それもまあいいか。お土産に教育勅語の巻紙でも買って帰ろうかと思いましたが、仕事柄面倒なことになるのも面倒なのでやめました。
 そして、ついに我々は最大の目的地国立代々木競技場へと向かったのでありました。そう、ここで「天皇杯全日本レスリング選手権大会」の二日目が行われるのであります。プロレスマニア、格闘技マニアであるウチの家族ではありますが、その基本となるアマレスの試合を観るのは初めてです。ウチの職場の(教え子でもある)後輩が、ちょっとレスリング界に詳しくてですねえ、一度大会を観るべきだとかねがね私に言っていたんですよ。それが今日実現する。ドキドキワクワク。
Yoyogi2 会場である国立代々木競技場(第二体育館)は言うまでもなく、神の子「丹下健三」の設計による神殿(?)であります。実は初めて入りました。第二の方は。ちなみに第一では、ある意味神「チャゲ&飛鳥」がコンサートをしていました。信者が多数列を成しておりました。やはり古めの神ということで、信者も年季が入っているような(笑)。
Tennouhai さてさて、アマレスです。うわぁ、思ったより近い。入場テーマや選手のコールなど、かなりプロレスチックです。三沢のテーマやプライドのテーマで入場してくる選手がいたりして、私たち家族は大笑い。楽しいぞ。試合中も実況で解説がつくので初心者にもルールがわかります。さすが昔からプロアマの交流の深いレスリング界ですね。
 私たちは各階級の決勝だけ観ました。なんとなく「自衛隊体育学校」応援団の隣に陣取りましてね。試合内容は、グレコローマン、フリー、女子と、それぞれ個性が全く違っていて面白い。プロレス的、総合格闘技的な視点から観ても、ああこういう動きはここに原点があるのかという感じで興味深い。これからプロレスや格闘技を観るにしても、やっぱりこうやって基本や原点を知るということは非常に大切だと思いました。また、今活躍しているあの選手やあの選手、往年の名レスラーの多くが、こういう競技をこうしてやっていたんだな、という純粋な感慨もありました。
Kaori やっぱり伊調馨の圧倒的存在感と強さが印象に残りましたね。考えてみれば世界一強い人(オリンピック金メダリスト)の試合を無料で観ることができるわけですからね。ぜいたくな話です。男子も高校生の活きのいい選手がいたりして、新しい「神の子」の登場を予感させました。もっと観る目をつけたら、これは結構はまるかもしれませんねえ。
Miyuu ところで!試合終了後、帰ろうと思って移動していたら、本当の「神の子」に偶然出くわしました。KIDが「神の子」なんですから、そのお姉ちゃんももちろん「神の子」ですよねえ。そう、テレビ解説していた山本美憂さんが目の前に…う、美しい…!女神降臨!あまりの突然の出来事に私固まってしまいなんにもできませんでした。ああ、タックルくらい…いやいや握手くらいすればよかった…。なんかオーラがすごかったっす。体は思ったより小さかったのですが、発する光が神々しかった…。
 とっても長くなって申し訳ないのですが、実はもう一人、神の子のイベントがあったんです。でも、そちらには行けませんでした。先日ガンから復帰した小橋建太のサイン会です。並べばサイン&握手してもらえたと思いますけど、子ども連れでしたし、寒かったので。残念です。でも、ホント充実したイヴでした。多くの神の子に感謝。

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2007.12.21

『蒲団』 田山花袋 (先生と生徒の微妙な関係)

10107901 四半世紀ぶりに読みました。なんで、今「蒲団」なのか…、深い意味があるような、ないような。
 ここのところ、いろんな世代の卒業生からメールや電話が大量に来まして、そのほとんどが女性。大概が恋の相談だったりして、まあいつまでも先生を頼るなよと言いつつ、どうもいらぬ「親切心」がふつふつと湧いてきて、これはなんなんでしょうね、前にも書いたような気がしますが、父親みたいな心境でもあるし、教育者的おせっかいな気持ちもあるし、友達感覚でもある…とにかく他人という感じにはなれず、ずいぶんと時間を割いてしまうのでありました。
 だいぶ寒くなってきたし、クリスマスも近いからかなあ。そういう季節なんでしょうか。変な話、人間にも発情期というのがあるのやも。
 で、思いっきり正直に書きます(田山花袋なみに)が、そういう私のおせっかいな行動について、カミさんはあまり面白く感じていません。当たり前です。でも、幸いなことに、ウチは生徒と家族ぐるみで付き合うことがほとんどなので、その生徒の名前を挙げればカミさんも「あああの子ね」みたいな感じなんですね。だから逐一報告します。相談者には悪いかもしれんが、全部カミさんに報告しているわけです。そうして、一つは若い女とのいらぬ秘密を作らないということ、そしてその案件について(いちおう)大人の女の意見を聞くということを必ず実行しておくわけです。これは大人の知恵でありルールであります。
 ところで、これまた実にきわどい話になりますけど、先生と生徒の間の恋愛関係というのはどうなのかという、おそらく世間様の非常に興味のおありだろうことに関して。これは当然人間どうしですからあります。私はとうにそういう年齢ではありませんし、だいいちキャラからしてそういうタイプではないので(面倒なのであえてそうしている部分もある)、そんな心配はありませんが、まあ昔は手紙くらいはもらいましたよ。
 あっそうそう、もう時効だろうから書いちゃおうかな。いやいや、別にそんなアヤシイ内容じゃありませんよ。
 私がまだ20代のころでしたかね、ある生徒が熱烈に手紙をよこしてきたんですよ。で、まあ諸般の事情から当然お断りをしなければならないわけですね。そしたら彼女、最後にこういう手紙をくれたんです。
 「私、先生のことあきらめます。あきらめたくないけど、あきらめます…」
 お〜、なんと健気な…と思いきや、彼女、国語の先生に手紙を書くということだからでしょうかね、「あきらめる」っていうのを一生懸命漢字で書いてきたんですよ。ところが、つめが甘かった。「諦める」と書くべきところを、偏を間違って「締める」と書いてしまった…結果、
 「私、先生のことしめます。しめたくないけど、しめます…」
 となってしまった!おいおい、放課後体育館の裏に呼ばれて「おめえ、調子に乗ってんじゃねえよ」とか言ってしめられるのか…あるいは首でもしめられるのか(笑)。
 ああ、ごめん、純粋な気持ちを笑い話にしてしまって…いや、彼女はもうとっくに結婚していい奥さん母親になってますし、この話は自分でも面白いからどんどんしていいよって言ってくれてるんで。
 彼女の恥ずかしい話を書いたついでに、私もちょっと恥ずかしい内心を吐露します。たとえばその彼女の結婚式に呼ばれてスピーチとかしちゃったんですが(締めるの話はしませんでしたよ)、その時ものすごく切ない気持ちになった。別に恋愛したわけではないのに、この気持ちはなんだ、これが娘を嫁にやる父親の心境なのか…。実は教え子の結婚式のたびにそういう気持ちになるんですよ。案外男でもそんな気がする。なんだか寂しいんだよなあ。嬉しい反面。
 おっと、なんか個人的な昔話になってしまったぞ。えぇと、「蒲団」だ。そう、そんな、いやそれ以上の、先生の生徒に対する煩悶を描いたのがこの「蒲団」です。これは田山花袋の実生活をモチーフにしたもので、まあいわゆる「私小説」の走りとなった作品ですね。結婚して子どもも3人いる小説家の先生のところに、若く現代的で美しい娘が弟子入りする。その弟子に恋人ができたことを知って激しく嫉妬する先生。いろいろあった末、弟子は帰郷し、残された彼女の「蒲団」の匂いをかぐ先生…(あぶねえな)。そのラストの部分だけ引用しておきます。

 『…夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた』

 う〜む、これは過激ですなあ。当時はそうとうショッキングだったのでは。実話だしなあ。そして、これは四半世紀前の私じゃわからんな。この歳になるとよくわかる(というのもあぶねえな)。
 「性慾と悲哀と絶望」…これすなわち「もののあはれ」なんですよね。文学古来のテーマが「私小説」という形で昇華したのがこの作品なのです。
 興味を持った方は、ぜひこちら(青空文庫)でお読みください。女性には面白くないかも。大人の男は我が身と我が心と我が歴史に照らして切なくなるかもしれませんね。
 ああ、そうだ、「文學ト云フ事」では、弟子の恋人役(あまり美男でない)をバナナマンの日村(かなり美男でない)がやってましたっけ。

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2007.12.20

『日本の10大新宗教』 島田裕巳 (幻冬舎新書)

34498060 皆さんもニュースやワイドショーなどでご存知と思いますが、私が1ヶ月程前にこちらで「粉砕する!」と宣言した某霊感商法団体が警察の捜査を受けました。近い内にとりあえずは消えるでしょう。私と○○(ウチのご神体)を怒らせるとこういうことになるんです(笑)。
 あまりのタイミングの良さと、効果の覿面さに相談者もびっくりしておりました。私ももうちょっとかかるかなと思っていたんで驚きましたよ。これで全勝記録をまた伸ばしたな(笑)。
 というわけで、今日は祝杯を上げながら新宗教についての本を読みました。島田さんの本読むの久しぶりだなあ。この本はなかなか良い。入門書としては最高傑作ではないでしょうか。ここで取り上げられている10の団体は次のようになっています。

 天理教
 大本
 生長の家
 天照皇大神宮教と璽宇
 立正佼成会と霊友会
 創価学会
 世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
 PL教団
 真如苑
 GLA

 うん、私が選んでもこれにかなり近くなるな。10選ぶのは難しいですね。ま、島田さんも難しいと言いつつ、結局10以上選んでるんですが(笑)。
 今回粉砕した団体もここに挙げた団体の一つの系列であることはたしかです。そのブツやホンを見れば瞭然です。私が知る限りはその親団体は迷惑しているようですので、まあ一部の元信者が勝手にやったことでしょうね。で、その親団体の親団体もここに挙げられています。そのまた親団体が大本であります。
 この本でも強調されていますが、カリスマ的な創始者の死後、つまらぬ内輪もめがあって分裂していく団体がほとんどです。そこには信仰に関する対立もあります。しかしそれ以上に多いのが「金(かね)」と「権力」ですね。そのへんについてのリアルな話はビートたけしの教祖誕生で分かり易く物語化されていましたっけ。
 で、だいたい分裂してダメになっていくんですね。今回の一件もそうです。カリスマ性というのもエントロピー増大の法則に従って雲散してしまうんでしょうかね。残念です。
 さてさて、この本の優れているところ、それはまず島田さんによる解説が実に公平かつ客観的であるということです。ご本人も述べている通り、この本は各宗教の優劣を計ることを目的としていません。あくまでも宗教学者として、世界中の宗教に精通した上で、それぞれをその中に位置づけている。歴史的な流れを記述しつつ、その経営的手腕や思想の現代性、また将来予想される問題点なんかも挙げている。なるほどなあ、とうなずく点が多々ありました。
 また、彼はそれぞれの団体をちゃんと訪問しているのがよろしい。それは私と同じです。で、その印象を正直に書いている。ある意味それは私感であって客観的ではないとの批判もあるかもしれませんが、信者ではないものの印象を表現するということは大切なことなんです。なぜなら、世に出るのは内側からのプラスイメージばかりなので。あるいは、マスコミによるマイナスイメージですね。だからバランスを取らなくてはならない。
 しかし、ここで思い出されるのは、あの件ですね。島田さんは大変なバッシングにあいましたっけ。そうオウム真理教についてですねえ。あの時、島田さんや中沢新一さんは最初好意的な評価をしてたんですよね。実際に訪問して、その印象からそういう発言をしていたんです。実は私も初期のオウムをよく知っているんですが、正直非常にまじめな出家集団だと思いましたよ。今どき珍しいよって人に言ってましたから。
 あれから10年以上経って、島田さんの心の傷もやっと癒えたんだなと思いました。そして、そういう経験を通じて彼も一回り大きくなったような気がします。基本的な姿勢を変えなかったのは立派ですよ。それこそ修行だったでしょう。
 さて、この本を読みますと、あるカリスマがやはり突出した存在であることがわかります。島田さん自身、そのカリスマだけは研究のしようがないと白旗を揚げています。大本の出口王仁三郎です。やっぱりそうなんだろうなあ。私もオニさんの大ファンなんですけど、こちらで紹介したように、彼に関してはどんな頭がいい人、どんな芸術家も、みんな白旗を揚げてしまう。言葉にならなくなってしまう。
 ま、ウチのご神体はその王仁三郎の手ごねによるものですから、そりゃあ最強でしょう。ありがたや、ありがたや。

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2007.12.19

『愛は負けても親切は勝つ』

Shinsetu 今日はバンプのニューアルバムを聴いたのでそれについて書こうかとも思いましたけど、もうちょっとじっくり聴き込んでからにしようかな。それにとっても重要な問題、ちょうど今から書こうとしていることが彼らの音楽や言葉に含まれているんで。
 それで今日はこれを書きます。とっても重要なことです。昨日放送された「爆笑問題のニッポンの教養リミックス~総集編~」の録画を観てビビッと来ました。何かが氷解。そして別の何かが結氷(笑)。
 今シーズンの同番組、けっこう見逃していた回が多かったので、この総集編は助かりました。特に気になっていた10月30日放送「ひきこもりからセカイへ」の一部を観ることができたのは非常にうれしい。太田と全く同様に、高校時代友達のいない心のひきこもりだった私には、とっても興味あるテーマ。そして、先生はサブカルチャー批評でもカリスマである(というか私はそっちの彼しかよく知らなかった)斉藤環さん。爽風会佐々木病院の精神科医で精神医学が御専門の先生です。
 私の言葉を代弁してくれる太田。「外に開いていくのと内に閉じていくのは同じくらいのスケール。むしろ、中に行った方が広いんじゃないか」私もその通りだと思います。外は時間にも空間にも思いっきりしばられますからね。斉藤先生も若い頃に長く思索に沈潜することによって生まれるものがあることを語ります。
 もう、この時点で私は一人うんうんと得心していたんですけど、次の言葉、今年亡くなったカート・ヴォネガットの言葉を先生の口から聞いた時、何か雷が落ちて空が裂けるような感じがしました。
『愛は負けても親切は勝つ』
 太田はさすが「KANが聞いたら怒っちゃうね」と即妙にボケました。そして私は気づかされます。ああ、そうだ。そうそう、「愛は勝つ」の違和感だ。
 もうすぐクリスマスということもあり、また今日のバンプのアルバムを聴きながら考えたことでもあるんですが、キリストの愛とか神の愛が、もし、もしですよ、やっぱり単なる愛であって、斉藤先生が我々人間の愛について語ったのと同じように「自己愛」の危険性をはらんでいたらどうしよう…イエスやゴッドに怒られちゃうかもしれませんね…でも、こういう検証って大事なんじゃないでしょうか。たとえ神の愛やそれに類似する種の愛があったとしても、それをただ無条件に無思索に無懐疑に受け入れて賛美するだけでいいんでしょうか。
 どうも私はそこんところが気になっていたのですよ。もしかして神もイエスもあるいは仏陀も、自己愛が強くて我々衆生を救おうとしているのかもしれない。神仏への冒瀆と言われてもいいんです。そういう検証って、結局自分の「愛」に対する検証になるわけでしょう。
Shinsetsu 私は基本的に「愛」という言葉を信用していません。いや信用するところまで来ていないというのが正しいかもしれない。その言葉を信用できるほど、私自身の愛の実体を見極めていない。みんなはどうしてああいうふうに簡単に言葉にできちゃうんだ?
 以前エッセイ「大切」に書きましたね。amor(love)の訳語としての「大切」について。大切っていい言葉なんですが、これも実は「御身大切」ということがあり得るわけです。自分が大切だから、大きく切ないから、だから他者に施すということもあって当然です。とっても意地悪な言い方をするなら、聖書におけるイエスのスプランクニゾマイだって、もしかすると「御身大切」かもしれない。彼は自らのはらわたのわななきに突き動かされているんですから。
 そうすると、今日語られた「愛は負けても親切は勝つ」というヴォネガットの言葉(実際は彼の読者であった高校生の言葉だそうです)の意味は非常に重要に感じられます。そう、「親切」です。親切心は負けません。「愛」はどうしても相互的になります。聖書にも書いてあります。無償の愛と言っても、それが相互に要求されれば、それはやはり契約になります。愛し合うってことですね。それに対して、親切は一方的でありうる。もちろんお互い親切にし合うということもありますし、見返りや報酬や「情けは人のためならず」を期待するレベルの低い親切もあり得ます。しかし、そうじゃない純粋な親切の存在も想定することができるじゃないですか。とりあえず「自己親切」っていうのはない。
 私は「愛」は信用できないけれど、「親切」は信用できるんですね。自分で言うのもなんですが、自分の生き方、仕事の仕方はこれだと思っています。親切にしてやることしかできないんです。愛するなんて大それたことは誰に対しても、何に対してもできません。
 相互的なものを要求する(目指す)ということは、その要求に応えないものを敵視する危険性をはらんでいます。これももちろん自己愛の裏返しです。世の宗教にまつわる戦争はこれが原因ですよね。そういう意味でも、やっぱり「無償の」というのは難しい。標語とし