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2007.12.27

『CM』 小田桐昭, 岡康道 (宣伝会議)

Cm お二人の肩書きは「クリエーティブ・ディレクター」でしょうか。なんだかカッコいいですね。もうこの時点でイメージが先行している。
 広告業界、特にCM界におけるカリスマ二人による対談集。
 教え子に、いろんな意味で天才的なヤツがいて、そいつが貸してくれたんです。彼女は今、日芸の放送学科で勉強してるんですけど、ある授業で提出した彼女の課題が、カリスマの一人岡康道さんの目に留まって、なんだか知らんが岡さんと食事をしたんだとか…いやはや、すごいことになってるなあ。あいつ運をつかむ天才なんだよなあ。ちょっと嫉妬(笑)。ま、私の教え「はったり・ちゃっかり・ぼったくり」を最も忠実に実行してるとも言えるな。
 さて、そんなプチ天才が貸してくれた本物の天才の言葉。やはり面白く勉強になりました。一気に読んでしまった。
 いや、実は私、彼女にも言ったんですけど、アンチCM派だったんです。なにしろ消費や市場経済を悪と決めつけてるくらいですからね、当然ですよね。人の消費欲、購買意欲をいたずらに煽り、無駄遣いさせ、人を虚しさのどん底に落とし、さらに地球環境を破壊する、なんだか地球の破滅を狙う悪の組織って感じがしてたんです。
 だから彼女が岡さんに会うっていうのを聞いた時も、オレはアンチだからな、刺客としてお前を送り込むからしっかりツッコミを入れてこい!と命令しました。
 で、彼女のお食事の感想は「すごいオーラだったけど、案外普通の話でしたよ」と。そして、私もこの本を読みましてね、正直岡さんや小田桐さんのことかなり好きになってしまいました。いかん、いかん。
 この本には人間の温かさが満ちていたんです。彼らが目指すのは、たしかに人の心を動かすものです。しかし、それが単に消費意欲をかき立てる類いのものではなく、もっと深いところ、ただ商品の説明ではなく、それを通して人生を考えるというか、他者のことを考えるというか、またその商品を実際に買って所有して使って新たな物語を紡ぐとか、そういういわば芸術の目指すところと同じところを目指していることに気づかされたんです。恥ずかしながら、食わず嫌いだった。また知ったかぶって恥をかいてしまいました。
 私の心をいとも簡単にひっくり返してしまったのは、彼らが「小津安二郎」をやりたいと語り合っていたからです。言葉にならない言葉。語りすぎない表現。なんだ!そうだっのか。私も単純ですよね。
 小津のパロディーCMはありましたが、それってあくまでもパロディーであって、あれを見た時私は、小津ワールドと対極にあるCMだからこういうパロディーが生きるんだよな、と思いました。まさか真剣にCM界で小津をやろうなんてことを考えている人たちがいたとは。と言いますか、私の認識不足でして、全く先入観というのはこわいものだと再確認させられちゃいました。
 考えてみれば、彼ら「電通」を飛び出してるんですよね。彼らが言うことをワタクシ流の言葉に無理やり訳してしまうと、まさに電通は「悪の組織」になってしまっているということでしょうか。お二人とも、かなり厳しい口調で今の広告業界を憂えています。自分たちを育ててくれた組織がそういうことになって、そして裏切るような形で独立しなければならなかったのですから、それはそれは辛い複雑な心境でしょうね。
 ところで、この本のある意味面白かったところは、お二人の生い立ちについて語られている部分でしょう。お二人ともなかなか個性的な人生を歩まれております。完全に体育会系だし。
 お二人(あるいは世の全ての成功者に)に共通しているのは、逆境を生かす、不随意な「もの」の中から多くを学び取るということでしょう。そういう意味では単純に「根性がある」とも言えますね。私には完全に欠落しているものです。お二人とも、持って生まれた才能というのもお有りでしょうが、やっぱり時流に乗る運と、人に可愛がられる人柄、そしてバカみたいな根性、そういったものが揃っていないとカリスマにはなれなかったんじゃないでしょうか。
 さて、CMというものについて一言書いておきましょう。今、CMという「もの」と書きましたが、私はこの本を読むまで、CMとは単なる「コト」だとおもっていました。例の「神世界」みたいなもんだと決めつけていたんですね。「騙り」だと。そういうCMもけっこうあると思いますが、やっぱりそれだけじゃないんですよね。だって、自分が子どもの頃見たCMで覚えてるのってたくさんあるじゃないですか。それが、たとえば車の宣伝だったりして、自分が買うことはできなかったとしても、そのCM作品自身が心に残るっていうことありますよね。あるいは何の商品だったか忘れたけれど、やはりその作品自体はなんだかよく覚えてるってやつ。
 つまり、優れた作品というのは、それがたとえテレビというメディア上の刹那的なものであっても、昨日の宝塚のように、フィクションやルールや言葉(コト)によって我々受容者が新たな物語を紡いでいくものなんだなあと。
 そう考えますと、芸術と言われるもの、優れた表現と言われるものは、自己創造性を持つとともに、他者の創造性をもかき立てる、まさに「モノ」的な性質を持った存在だということが明らかになっていきます。自他に対して、縁起(縁によって生起する)を促していくモノの豊かさ…。
 小田桐さんや岡さんは、「物」に「言葉」を与えることによって、そこに「物語」を生み出していくわけでして、そういう意味では「クリエーティブ・ディレクター」という名前も単なるイメージではないことがわかってきます。まさに自他の「クリエーティブ(創造性)」を「ディレクト(方向付け)」する人なんですね。私も自称でもいいから「クリエーティビティ・ディレクター」になりたいなあ、なんて無理なことを夢見てしまいました。

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コメント

 結婚する以前の15年間、テレビを所有しておりませんでした。日常生活に支障は殆ど無かったです。(当時流行のドラマの話題について行けないのは、今も昔も変わらず。)で、結婚してテレビのある生活が始まったのですが、そういう刺激に対する免疫が無くなっていましたから、いやぁ~本当に面白い、CM が。結婚当初は CM の度にゲラゲラ笑っていましたね。日本の CM はセンス良いですよ。

投稿: LUKE | 2007.12.28 17:22

LUKEさん、こんばんは。
へえ〜、そうだったんですかあ。
テレビをお持ちでなかったとは。
テレビってホントなければないで全然困らないんですよね。
そうそうこの前オーストラリアに修学旅行に行きまして、ちょっと意識してCMを観てたんですけど、たしかに日本の方が面白いと思いましたね。
向こうは芸術性なんか皆無でした。
ユーモアのレベルも低い感じでした。
東部の方は違うのかもしれませんけど。
ほかの国は知りませんが、たしかに日本はセンスいい、といいますか、真剣にお金をかけて作ってますね。
でも、最近のCMは今一つじゃないでしょうか。
小田桐、岡両氏も言ってましたが、2社の寡占状態で、結局硬直化しちゃってると。
若手が実験的なことをできなくなってるんでしょうね。
まあ,どの世界でも成熟期によくあることです。
小田桐さんがあえて日本の伝統に縛られない外資系に行き、岡さんがTUGBOATという小回りの利く会社を設立したのは、業界全体の運命だったと言えるかもしれません。
それにしても様々な縛りがあるCMの世界で、自分を発揮し表現できるってことはすごいですよねえ。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2007.12.28 21:41

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