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2007.10.24

『時間はどこで生まれるのか』 橋元淳一郎 (集英社新書)

08720373 難しいし面白かったので、とりあえず2回読んでみました。
 最近の私のテーマは「時間」でして…と言っても私は物理学者でも哲学者でもないので、本当に稚拙な考えであって、それはほとんど子どもの「時間って何?」という程度のものであります。いずれはまとまるかもしれませんが、やたらなこと書くと、橋元さんみたいに怒られちゃうんでやめときます。
 そう、Amazonのレビューをご覧になるとわかると思いますが、この本、賛否両論、甲論乙駁なのです。我々庶民には難しいけど面白いなあって思うんですが、でも、偉い人は呆れるか腹を立てるみたい。どうなってるんだ?時間ってそういう性質のものなんでしょうか。頭がいい人にはわかるけれど、我々にはわからない。そんなものがこの世に一様に流れていて、しかし、偉い人もそうでない人もそれに抗うことができず、老いて死んでいくんでしょうか。
 昨日のSFの話になりますが、彼らがサイエンスを基礎にしながら、それがフィクションでありえたのは、まさに「時間」を自由に操っていたからでした。彼らの偉いところは、この本を非難したりする偉い人とは違って、最初から開き直って「時間」を操作してしまえと考えたところです。つまり、逆に言えば、時間というものの本質が分かろうが分かるまいが、とにかく人間が人間であるかぎり(生きているかぎり)「時間」には抗えないということを諦観していたのです。だから、私たちが語ることはフィクションですよと言った。ある意味、彼らは日本文学の主流だったんですね。「もののあはれ」…「全てのモノ(存在)は無常であるということにため息をつく」を逆説的に語ったんですから。
 私も、相対論や量子論によって時間論が大きく変わったというのは、頭では理解できます。しかし、それがファクトであるかどうか、それについての実感は全く持つことができません。SFと同じ領域なんです。だから、この本を読んでもなんとなくワクワクはするけれど、なるほど〜!とはならない。で、それってホントなの?全然実感と違うんだけど…となる。
 まあ、もともと相対論も量子論も我々の実感からほど遠くなっていて、いやもう科学というのはどんどんフィクション(すなわち私の言うコト)の方に行ってしまって(そうそう、この前のポアンカレ予想なんかもそうですね)、全く実学からかけ離れてしまった。実(ファクト)ではないということは、フィクションそのものですね。私からするとそれらの面白さや価値というのは、文学や宗教のそれと何ら変わらないような気がするんです。科学者の方、バリバリの理系の方には申し訳ないのですが、それらはどんどん文系化してるようにしか思えません(笑)。
 まあ、そんな私の実感(生活感)は別としまして、この本の内容にもちょっと触れときましょうか。
 たしかに橋元さん、先人の成果をかいつまんで並べて、そして最後は「意思」を登場させるという具合であり、なんだか物理なのか哲学なのか、思いつきなのか、妄想なのか、それこそ文学なのか、全然わからないことになるんですが、そういう正直ワケわからん最先端の「トンデモ科学(失礼)」を、多少私たちの実感の方に引き寄せてくれたという、まさに「ワケわからんモノをカタル」という「物語」としては、なかなか優秀であったと思います。
 そんな神話のような物語に対して、感動する人もいれば、そんなことあるわけないって言う人もいるし、またそれはもうすでに誰かが語ったことだと言う人もいる。また、科学的に検証すると間違っている!と言い出す人もいるわけです。
 いや、時間の本質がそういう性質のものなんでしょう。いろいろな次元での「時間」があって、しかし、いずれにしても我々はそれをコントロールできない。相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、フィクションだろうと、とにかく生きていることにおいては人間はそれに縛られているということです。
 で、私が考えている時間論(なんてほどのものではありませんが)は、時間というものは実は人間にだけ存在するものであって、すなわち人間を人間たらしめているものである、なんて感じなんですが、ま、あんまりまじめに考えてないのでまとまらないで終わるでしょう。
 こうしているうちにも時間は流れてゆき、そして私は人間であるわけですな。

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コメント

はじめまして。

多苗尚志と申します。


メアドは@以前はtanaehisashiが正しいです

> 相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、
> フィクションだろうと、とにかく生きているこ
> とにおいては人間はそれに縛られているという
> ことです。

なるほど。

時間を我々がコントロールできないことに関しては同感です。

しかし、縛られているとおっしゃる表現には抵抗を感じます。

富士山蘊恥庵庵主様がどういった意味あいで「縛られている」という表現をお使いか正確に分からず恐縮なのですが、己(おれ)はそこにネガティブなイメージを捉えるからです。

というか、以前は己も時間に対しそういった表現を使っていたのです。

しかし、本書を読んで考えが変わりました。

人間は自分たちの世界、歴史を創造するために時間を生み出したのではないでしょうか。

縛りというか創造のためのルールなのであり、それはネガティブではないと思います。

> で、私が考えている時間論(なんてほどのもの
> ではありませんが)は、時間というものは実は
> 人間にだけ存在するものであって、すなわち人
> 間を人間たらしめているものである、なんて感
> じなんですが、

なるほど。

以前から独自の時間論をお持ちであったこと、素晴らしいと思います。

橋本氏も本書で同じ意味を述べていらっしゃるように思いますがいかがでしょうか。

投稿: 多苗尚志 | 2008.02.07 18:29

多苗さん、こんばんは。
引用、対話、コメントありがとうございました。
さて早速ですが、「縛られている」という言葉ですね。
これはあくまで私の実感です。
どちらかというと「ネガティブ」かもしれません。
しかし、私は独自の「モノ・コト論」「もののあはれ論」を展開していまして、その中では「あはれ」=ため息な感じを大切にしています。
このため息には、実は快感も含まれています(あぶねえなあ)。
なんていいますかね、自分が徹底的にサブミットされている快感(よけいあぶねえぞ)。
まあ、神に対する恍惚みたいなもんですかね。
うまく説明できませんけど、そんな感じです。
ですから、当然縛られて意識される前向きなエネルギーもあるわけでして(って私はMではありませんので…)、
そういう意味では多苗さんのおっしゃる創造にもつながると思いますよ。
独自の時間論については、これを書いた時の頭の中身を、今すっかり忘れてしまっているので(ヤバイ…これも時間のなせるワザか)、うまくお答えできません。
橋元さんが書いていた内容も時間の彼方へ…(笑)
彼の考えと私のその時の考えと、どこかずれてたんでしょうね。
もう1回読んでみますよ。
まあ、とにかく空気を空気だと思ったり、自分を自分だと思ったりするのと同様に、時間を時間だと意識するのは人間だけっていうことでしょうね。
ただし、時間だけはちょっと違うような気もしますなあ。
空気は酸素と窒素となんとか…みたいに言い換えられますし、自分も人間とか男とか日本人とか言い換えられます。
時間は…どうでしょうね。
そんなところにもしかするとヒントがあるかも。
ある意味時間こそが相対的に(しかし絶対的に)自己(人間)を存在せしめる存在だったりして…う〜ん、よくわかりません。
ごめんなさい、対話になりませんね。

投稿: 蘊恥庵庵主 | 2008.02.07 19:09

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» 『』 [多苗尚志のヘヴンズドアァァァァッッッ]
()は引用者補足 1.色の哲学が流行らないのは、色についての右のような物理学的説明と人間的考察に、何の矛盾もなく、明快な答えが用意されているからである。いわば解決済みの哲学的課題と言っていいだろう。 6.(時間論はあまた語られているが、そうなのか!と思う... [続きを読む]

受信: 2008.02.07 18:22

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