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2007.10.31

「学習」と「教育」〜『アンデス 神の糸を刈る日(シリーズ 天涯の地に少年は育つ)』(NHKハイビジョン特集)

Ck01 何気なく観たこの番組、地味でしたが何かとても感じるところがありました。ちょっと前に紹介した「天空の民 ブロックパ」と同じようなことを思いましたね。
 アンデスの高地、標高4500メートルの村で年に一度だけ行われる「チャク」という狩り。ビクーニャという野生動物を生け捕り「神の糸」を紡ぐ毛を刈ります。男も女も、そして子どもたちもそれぞれ役割を与えられて、神からの恵みを得るために、皆で協力します。子どもたちはそんな中でいろいろなことを学んでいきます。
 共同体における教育、いや学習ですね、学習の本来のあり方。ブロックパのところでも書きましたとおり、日本に一番欠けている部分です。日常の生活や仕事ぶりを通じて、いったい私は娘たちに何を伝えているのだろうか。非常に心もとない。情けないことです。
 「学習」は「学んで習う」ということです。「学ぶ」は「真似ぶ」、「習う」は「慣らう」、すなわち本来の学習とは「真似をして慣れていく」ことです。子どもにとってまず真似るのは、言うまでもなく親でしょう。親の真似をしていろいろやってみて、そして慣れていく。
 今の日本ではその点どうなんでしょうね。欲望を満たすことに奔走する大人(親)の真似をして、その文明的生活に慣れていくというのが実情ではないでしょうか。誤った「学習」ですよね。
Ck02 番組の中では「学校」も登場しました。けっこう、学級崩壊してました(笑)。まあ、あんなもんでしょう。いかにもな先生が「教育」にいそしんでましたね。「教え、育てる」っていうやつです。ああ、ここにも近代化の波が…。もちろん、こういう世界になっているわけですから、彼らにも教育を受ける権利や義務はあるでしょう。それはかまいません。ただ、日本のように、家庭や地域での「学習」の機会が減って、学校での「教育」ばかりになってしまわないか、なんとなく心配になりました。ブロックパの時もそうでしたね。
 つまり、「学習」は子どもの主体的な活動であり、「教育」はあくまでも大人からの押しつけだということです。「学習」と「教育」は、同じことを違う視点で言ったものにすぎないと考える方もいるかもしれません。でも、どうなんでしょう。本当にそう言って片づけていいものでしょうか。本当はどちらが先にあるべきなんでしょうか。
 自分はいちおう教育者と言われてしまう仕事をしているので、この点に関しては常に気をつけています。たとえば大学受験の指導にしても、「俺はこうやって解いてるんだよ。真似したきゃ真似してくれ」とよく言います。ま、場合によっては生徒の方が自分よりできる時もありますから、その時は私が「学習」させていただいてますけど(笑)。今、ちょうどそういう時期でしてね。3年生の「真似したい、慣れたい」という気持ちが盛り上がっています。そういう時が一番伸びます。だからこちらも忙しいけれど楽しい。
Ck03 番組では、父親、母親、近所のおっちゃん、おばちゃんが、見事な技術と知恵と連携でビクーニャを捕まえていました。子どもはそれを見て「よし来年はオレも…」とか思うのでしょう。素晴らしい「学習」の場だと思いました。そう考えると、私も受験という1年に一度の「狩り」とか「刈り」を一緒にやってるようなものですね。一見全然違うような気がしますが、実は同じようなことをやってるのかもしれない。「○○大学」という獲物…いや神からの恵みをゲットするために、技術と知恵と連携を駆使しているとも言えますね。来年春の猟果はどんなもんでしょう。ペルーの彼らもビクーニャを一頭も捕れない年もあるとか…いやいや、そんなことは考えないようにしよう(笑)。
 いやあ、チャクの独特の雰囲気には静かに興奮してしまいました。特にお母さんたちのたくましさにはびっくり。ビクーニャと思いっきり格闘してました。母は強しですねえ。そんなところからも子どもたちはいろいろ学ぶのでしょう。教えずとも教えることはできるわけですね。そうするとですね、「教育」なんてものは、「自然」が語らずともやってくれるわけで、大人もまた子どもにとって「自然」であればいいのかなあ、とも思えてきます。今の私たち、日本の大人、親たちは、子どもにとって全く「自然」ではないのでしょう。じゃあ何なんでしょう。子どもの方がずっと「自然」ですよね。なんかいやになってしまいますね。

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2007.10.30

『般若心経は間違い?』 アルボムッレ・スマナサーラ (宝島新書)

79666032 非常に面白かった。勉強になりました。
 私も大好きな般若心経。私の人生を変えたと言ってもいい般若心経。それを間違いだと断ずるこの本、とってもいい本でした。
 ふつう、大好きなものにダメ出しされると、がっかりしたり、腹が立ったり、たいがい不快になりますよね。でも、この本はどこか爽快ですらあった。実に気持ちのいい本です。
 今だけでなく、ずっとずっと日本では般若心経ブームでした。いろんな偉い人がたくさん本を書きました。私もそのうちの十冊近くを読んでいるでしょう。そのたびに、なるほど〜と感心してきました。そして、仕事上最低1週間に一度はこのお経を大声で上げます。また漢文の授業で、書き下しの練習にこのお経を使ったりしています。そうしているうちに、最近、自分なりの般若心経解釈というのができてきて、ますますこのお経が身近になってきました。つくづく素晴らしいと思います。
 で、まさにそういうところが「間違い」の証拠であると、著者は言うんです。いろんな人のいろんな般若心経があるということ自体、間違っている証拠だと。仏陀の言葉は真理なので、そんなブレはないはずだと。
 これは正直目から鱗でした。ああ、たしかにそうだ。言われてみれば変だぞ。真理を語っているはずなのに、なんでたくさんの解釈が成り立つんだ?
 さて、そうしたたくさんの解釈、私の心を動かしてきた解釈、このブログでは桐山靖雄ダライ・ラマ玄侑宗久のそれを紹介しました。
 それらの記事を見ても分かる通り、やはり私の、いや世の中の皆さんが難解だと感じているのは、「色不異空」や「色即是空」のあとに出てくる「空不異色」「空即是色」ですね。たとえばそれらについて、この本では間違い以外の何ものでもなく、解釈も何もないとします。般若心経の作者が本来の仏陀の教えを理解していない、特に実践、体験が足りていない証拠だとします。なるほどこういう「解釈」もあるんだな(笑)。
 その他の部分についても、著者の舌鋒鋭く、般若心経の作者はケチョンケチョンに非難されます。さらに大乗仏教、日本製仏教、キリスト教なんかも、上座部仏教の立場から強く疑問を提示されます。でも、なんでしょうかね、筆者の人柄なのか、慈悲心の現れなのか、決して原理主義的な感じはしませんし、どこかユーモアさえ漂っていて、不快になったり、反論したくなったりしないんですね。まあ、私自身がどちらかというと上座部に憧れを持っているかからかもしれませんけど。
 とにかく、般若心経の作者、大乗仏教のお坊さん、そして私たちが、みんな仏教の原点(原典)に関して勉強不足であるということを、スマナサーラ長老は強く語っているわけですね。それはその通りだと思います。「空」から虚無主義に行ってはいかん!呪文を唱えてすませるな!実践を怠るな!たしかにそうです。
 しかし、一方で「文学」としての般若心経の魅力もまた捨て難いものがあるよな、と思いました。つまり「○○の般若心経」、究極は「私の般若心経」というのがあってもいいような気もしたのです。私はもちろんブッダにはなれませんし、今はとりあえず普通の人間ですので、こうして様々な人間、それも至らない立派な人間がたくさん関わった人間的な般若心経も、やっぱり好きです。上座部と大乗と、どちらが高級かという議論ではなく、どちらにしても私たち至らない人間によって「縁起」しているものです。そんなふうに考えていくと、私たちが真理だと思っていることもまた「空」なのかもしれない、という究極の真理に至るわけでして…おっと、もしかして仏陀を超えた?
 とにかく、やはりお釈迦さまと言えども、「言葉」を介してしか我々には伝えられなかったわけでして、もしかすると、私たちは、永久に「私たちの○○」の中で生きるのかもしれません。仏教に限らず。それもまたいいのではないでしょうか。

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2007.10.29

『里山保育が子どもを変える』 (NHK ETV特集)

Img1028_02s NHK教育の「教育フェア2007」、興味深い番組が目白押しです。しかし、どうにも忙しすぎてなかなか観ることができません。録画して時々HDDレコーダの早見機能でちょこちょこと観るのが精一杯。
 さて、今日は寝る前に90分の番組を60分で早見しました。なんだか現代人っぽくていやだなあ、こういう時間を圧縮するっていうのは。ま、しょうがない。
 「里山保育が子どもを変える」…千葉県の木更津社会館保育園(私立)で実践されている里山保育の様子を1年間追ったドキュメンタリー。
 子どもに(親に)神経質なほど気を遣う学校や幼稚園、保育所が多い中、この保育園では全く逆の教育が行われていました。毎日どろんこ、刃物を使って怪我はする、ケンカもするする、自然の木の実やなんやかや食べる食べる。
Img1028_03s ものすごく面白かった。面白かったというのは、子どもたちの様子がです。彼らと同い年の子どもを持ち、田舎に住んでいる私としては、特に彼らが特別な感じはしません。どちらかというと、ああこういうヤツいるよな、こういうことあるよな、という面白さです。子どもはみんな一緒だなって。自分もあんなんだったし、つまりどの時代も子どもはあんな感じなんだよなって。
 この園の保育を手放しで賛美するつもりは全くありません。あのやり方を、素晴らしい、本来こうあるべきだ、と単純に言うこともできますが、反面、集団的幼児教育として考えれば、欠けている点もあると思いました。もちろん理想的な教育現場とか学校というものはありえないというのを前提にしていますから、そこに野暮なツッコミはしませんが。
 そういう意味でちょっと想像されたのは、この園のやり方については、地元では本当に賛否が分かれているんではないかということです。特に母親たちは。それが、大人社会や、ひいては小学校に入学して他と合流した子どもたちに、悪影響を及ぼしていないかということです。
 こと子どもの教育に関して、母親は盲目的になりがちです(父親はもともと関心がない…ポーズだけはとりますが)。愛情(もしくは世間的義務感)が理性を越えてしまうからです。はっきり言ってしまうと、本当の親「バカ」になってしまいがちです。特に女性は敵対するものを作りたがりますから(失礼)、男性不在になりがちな子育て世界において、女親どうしのアホくさい抗争がどれほど子どもたちを不幸にしていることか。
Img1028_04s おっと、全然関係ない話になってしまったぞ。いや、別にウチのまわりにそういう事例があるということではありません。ここは田舎ですので基本的に平和です(笑)。ただ、この番組を観て、また両極端な原理主義的母親が出てくるんじゃないかと心配なんです。
 で、田舎ということで言えば、ウチのカミさんは世界に誇る里山に育ちましたので、この番組を観ながら、まだまだ甘い!みたいなことを言っていました。ハハハ。田植えのシーンを観ながら、「はぁ?田植えはレクレーションじゃない!泣きながら怒られながらヒルに血を吸われながらやるんだよ!」とか吠えてました(笑)。たしかにウチの子は平気で山のものを食べたりしてるな。だいいちここは里山どころか富士山だし。
 私は高度経済成長の東京都大田区に育ちました。たしかにカミさんに比べれば十分都会だったわけですが、それでも子どもたちは常に自然の中を探検していましたね。案外森や小山や草むらや空き地がたくさんありましたからね。多摩川の河川敷も面白かったし。ヘビなんかもけっこういました。だから、私もこの園の保育はそれほど特別には思えませんでした。
 つまり、こういうことは家庭で、近所でやるべきなんですよ。ただそれだけ。で、幼稚園や保育園では、ちゃんとした集団生活、じっと椅子に座っていることとか、不条理な勉強というものへの抵抗力とかを身につけるべきなんです。それで、バランスが取れると思うんですが。
 はたして、あの子どもたちが普通の小学校に入ってどうなるのか。ちょっと興味がありますし、不安でもありました。まさか同じ千葉県のこんな小学校みたいになってないでしょうねえ。そこまで追いかけてくれると、子どもがどう「変わった」のか、ホントのところが分かるのかもしれませんね。無理を承知でそんなことを思ってしまいました。

番組紹介

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2007.10.28

BUMP OF CHICKEN 『メーデー』&『花の名』

51jadn6raal_aa240_ 来月頭のコンサートに向けて最後の合わせで八王子へ。車中でじっくり聴いてみました。今回も彼ららしい濃い世界が展開されてました。
 私はバンプのものすごいファンというわけでもないし、ふだんそれほど聴いているわけではありません。だいたいバンプのファンというのはかなりコアな人が多く、他はあんまり聴かない、バンプ最高という人が多い。逆に「何がいいの?」「きもい」という人も多い。そういうバンドですね。私は時々聴いて感動するというタイプのファンです。
 ここのところやや商業的な活動も目立ちましたが、それでもなんというか、ただ売れ線を狙ったというか、あからさまなメジャー路線になったわけではなく、いつもどおりの彼ららしいアプローチでした。
 それでもそういう動きに抵抗を持つファン、まあたいがいそういう人たちは昔からのオタクなファンであるわけですが、そういう人もいるようです。今回のシングルもなんだか違う、という声も聞きます。「花の名」はメジャーな映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の主題歌ということですからね。単純に喜べない気持ちも分かりますが。いつかもどこかで書きましたけれど、ファンというのは実にわがままなものです。才能のある人たちの成長に、凡人である自分がついていけていないことに気づかずに…。
 さてさて、今回のシングル、疾走感あふれる「メーデー」と叙情感あふれる「花の名」、見事なコントラストを描いていますね。ものすごく名曲だとか、あっやられた、とかいう感じはありませんが、好感は持ちました。じっくり味わってみたいタイプの曲。カップリングもしみじみとしていて良い。
 彼らの、というか藤原くんの楽曲というのは、コード進行にはほとんどひねりや新味はない、と言いますか、すでに多くあるおいしい展開がほとんどなんです。でも、そこに乗せるメロディーにのびのびとした解放感、浮遊感があって魅力的なんですよね。上空を飛んでいる感じなのに、不思議と安定しているのがよろしい。
51qdn0ggsl_aa240_ そしてなんといっても歌詞。バンプの多くのファンはそこに惚れているんでしょう。今回も実に美しく感動的な日本語が並んでいます。特に今回は、人の縁と恩についての言葉が多く、ふむふむと感じるところ多々あり。
 先ほど失礼にも「オタク」という言葉を使いましたが、これはある意味ほめ言葉でありまして、つまり、心が外ではなく内に向かう人、能天気に今を楽しむというタイプではなく、なんとなく日常が生きにくいと思っている人、そういう意味では実は人生や世の中の本質をわかってしまっている人が共感するのが、藤原くんの詩です。
 簡単に言ってしまうとですね、そういう人への応援歌的なところがある。彼の曲はほとんどが長調ですし、とても伸び伸びとしていて自由な感じがする。いろいろと悩んでいるところに、とっても優しく希望を与えてくれる言葉を投げ掛けてくれたりする。さっきも書いた通り、日常って実は一番厄介じゃないですか。それを誰かの支えでなんとか乗り越えていこう。やたら大きな夢を描いたりするんじゃなくて、まずはお互い助け合って毎日をしっかり生きていこう。そんなメッセージを感じるんですよね。言い古された言葉ですけど、「一人じゃない」ってやつですか。
 思い通りにいかないのが、すなわち「もののあはれ」が人生の本質です。それを表現して共感を得るというのが、日本の文学や「歌」の特徴です。「ああ(あはれ)」と言ってため息をついて終わるタイプもありますし、バンプのようにそれでもなんとかやっていこうよという一歩進んだものもある。いずれにしても、「もののあはれ」を感じないような鈍感な人、あるいは意図的に感じないようにしているずるい人、または「もののあはれ」に沈殿してしまっている人には、彼らの歌はあんまり意味がないんじゃないでしょうか。
 まさにメーデー(SOS)を発する人、たくさんの花の中から一つを選び出す人、そういうもう一歩の努力ができる人たちのために、彼らは唄い続けるのでしょう。

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メーデー
花の名

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2007.10.27

『無香空間』 (小林製薬)

02 芳香剤とか消臭剤とか、あんまり好きじゃなかったんですが、いよいよ使う時が来ました。
 ウチは基本的に杉の木で出来ているので、築10年ほど経ちましたが、まだ木の香りがしています。それで、なんとなく生活の臭いや、あとウチは猫が2匹いますからね、そういう臭いがごまかされていたというか、実際杉には除菌や消臭効果がありますので、だいぶ助けられていたと思います。
 ですから、今まではそういう化学的なものに頼らないでやってこれたんです。ところが、つい先日、仕事からウチに帰りますと、もう玄関に入る前からなんか焦げ臭いんですよ。なんだ?庭でバーベキューでもしたのかって感じ。ドアを開けると珍しくカミさんがお出迎え。だいたいこういう時は何かやらかした時です。
 私の予感は的中しました。なんだか、それこそ珍しく朝から煮物を作り始めたらしいんですよ。それで、よくあるパターン、煮込んでるのを忘れて外出しちゃったと。で、家に帰ってきたら全て炭化していたと。あ〜あ…てか、火事にならなくてよかった。安全装置がちゃんと働いてました…orz。
 それで、家の中全てが炭の香り…いや臭いでいっぱいです。いくら杉の木とは言え、これは無理だ。考えようによっては、古民家のような、つまり囲炉裏のある家のような香りですが、なんだか喉が痛くなるような気もする。2階が特にひどく、衣類やらふとんやらの布類の臭いが全て炭化しています。いやあ、まじでホントに(本体が)炭化しなくてよかった。危ないよなあ。
 それで、二人で夜中にふき掃除ですよ。まあ、10年ぶりにふく所もたくさんありましたからね、たまには掃除しろっていう神様の思し召しでしょうか。
 でも、表面的にふいただけでは全然臭いが取れないし、週末にお客さんが来るということもあって、もう仕方なく本来嫌いな消臭剤を買ってきました。こういう「焦げ」の臭いに効果があるのか正直わかりませんが、とりあえず。
 もともと、こういう消臭剤が嫌いだったのは、その成分やメカニズムが不明だったからです。消臭にはいろいろな方法があるようですが、どうも眉唾なものが多い。カモフラージュしてしまう、いわゆる「芳香」は、皆さんご存知の通り、たいがい逆効果、臭いと香りの醜悪なアンサンブルを醸し出してしまうことがほとんどです。その他の「消臭」をうたったものも、どんな化学物質が空中を舞っているか分かりません。
 で、本当はそういう成分とかメカニズムをちゃんと調べてから使用するのですが、今回は緊急事態です。そんな理屈は言ってられませんね。まあとにかく醜悪なアンサンブルだけは避けたいので、これ、すなわち「無香空間」をいくつか買ってきたというわけです。
 さて、実際置いてみますと、たしかに臭いが取れてきたような気がする。あくまで「気がする」ですけど。そんなに劇的に「無香」にはなりません。ま、このネーミングの本意は「非芳香」ということでしょうし。
 最近、このあたりも最低気温2度くらいまで下がるようになったんですが、窓を全開にして寝たりしてますから、たぶん自然の節理に従って、すなわちエントロピー増大の法則に従って、臭いが拡散していっているのだと思います。あと、鼻が慣れた。鼻って偉いですよね。すぐ慣れる。でも、外に出て帰ってくると、あいかわらず古民家の臭いがします。
 というわけで、なんだかよく分かりませんが、この「無香空間」、大きな透明のゲル玉がいかにも臭いをやっつけますっていう感じで、つまり多分に感覚的、イメージ的な効果が絶大なのだと思います。それでも、少し安心するわけですから、この製品は使う価値があるということでしょうかね。でも、逆にこれが家中に陳列してあったら、お客さんは「いったいこの家の本来の臭いはどんななんだ?」と思い、それこそ逆効果でしょうね。
 あっそうそう、こんなのを家中に並べておくとイメージ的にもいいんじゃないでしょうか(笑)。
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2007.10.26

テープのり

Pic_story_06 仕事柄、比較的のりを使うことが多い…と書いたけれど、よく考えてみると、2年前に記事にしたパワープリットが残ってるくらいですから、実はあんまり使ってないみたいですね。
 パワープリットの時にも書きましたが、受験シーズンになりますと、生徒が「先生のり貸して」と来ます。受験票の写真を貼るのに使うんですね。で、パワープリットは記事に書いたとおりあまりに強力で速乾なので貼るのが難しい。うまく貼れたら合格とか言って面白がってるんですけど。
 で、実は2005年にはとっくに「テープのり」が開発されてたんですね。正直知らなかったし、こんな便利なものが存在するなんて想像すらしなかったっす。これ、ホント素晴らしい発明ですよ。それこそ受験票に写真貼るのには、これが一番いい。水のりやスティックのりだと、どうもあの写真というのは不安が残るんですよね。第一、大学もはがれるのを前提に、写真の裏側に名前とか書かせたりするもんだから、よけいにこっちは不安になる。
 今年はもうぜったいテープのりです。これは貼りやすいし、写真表面や周辺が汚れないし、粘着力も文句ないし。乾いて貼れなくなるなんてことないので、慎重にきれいに作業できますし。うん、これは素晴らしい。
 たしかに、文房具の中で「のり」というやつはどうも洗練されにくい商品でしたね。原始的なところからなかなか脱せなかった。でんぷんから合成物質になっても、液体やゲルのタイプでは、もうその本質的なところから、貼られる物質である「紙」との親和性がない。ある意味天敵ですからね。スティックのりも便利そうでいまいちでした。だいたい細かいところに手が届かない。普通の液体のりよりも大ざっぱな作業になってしまう。
 そういった人類史上の、なんとなく解決しなかった身近な問題を、見事にクリアーしたのがこれですね。考えてみると、テープのりというのはかなり古くからあるにはあったんですね。それはたとえばセロテープです。これもテープのりですよね。両面テープにいたってはほとんど発想的にこれと同じです。しかし、それを修正テープの発想と結びつけるとはねえ。出来上がってみれば自然なアイデアなのかもしれませんけど。
 詳しくはわかりませんが、こういう粘着(圧着)系の樹脂の技術ってここのところ急速に進んでるんじゃないでしょうか。基本液体が固体になって接着するんじゃなくて、物質の粘着力自身によって剥離を防ぐっていうこと…かな?あんまり詳しくないんですが。そういえばネットの世界でも粘着系が増加してるな(笑)。
 さて、いまやあらゆる会社から「テープのり」が発売されてますし、100円ショップでもそこそこの製品が手に入ります。各メーカーがそれぞれ工夫をこらしていますので、強力タイプからはがせるタイプまでいろいろ選べるようになりました。用途に合わせていくつか使い分けてもいいでしょう。個人的にはコクヨさんの「ドットライナー」が「切れ味」…これが実はのりには重要な要素です…が素晴らしく好きです。
 ところで、このタイプの製品、最初に開発したのはどこなんでしょうね。ノーベル文房具賞でも贈りたいところです。

ドットライナー公式

Amazon ドットライナーホールド

パワープリット

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2007.10.25

最近の若者は…

↓この粘土板は本文とは関係ありません。
Amaruna_letters 「最近の若者は…すばらしい、偉い」と断言します。今日小論文の指導をしながら、ふと気づきました。こいつら偉いなって。
 「最近の若者はダメだ」「最近の若いもんはなっとらん」というようなことが3000年くらい前の粘土板に彫り込まれていたとかいうネタが、もうだいぶ前ですけどネットに流れてましたね。なんだか眉唾です。プラトンだか誰かが「最近の若者は…」と愚痴ったという話も同じくらい眉唾ものですが、まあ今の大人たちを見るかぎり、昔もそういうこと言う人はたくさんいたと想像されることはたしかです。いや、たぶんネアンデルタール人あたりもそんなこと言ったんじゃないかな。最近のクロマニョン人とやらは…まったくぅ、どんだけ〜(とは言わねえよ!)。
 そうすると、1万年以上にわたって我々は悪くなり続けたわけでして、ずいぶんと人類というのは悪いヤツになってるはずですよね。で、実際はですね、まあ多少問題はあるけれど、いちおう当時より豊かで平和になってますから、どうも人類史上大量に生産された「最近の若者は…」という言葉の信憑性というのは、十分疑われるに値することがわかります。つまり、歴代の大人たちは自分たちのことを棚に上げて、愚痴り続けてきたわけでして、それはそれでなんとなく共感できるような気もしますが。
 さて、今日私が珍しく自分のことを棚に上げず「最近の若者は偉い!」って思ったのはですね、ある重要なバカバカしいことに気づいたからです。
 小論文の指導をしてますとね、現代の様々な社会問題を扱うことになるんです。「年金問題」「環境問題」「地域格差」「グローバル化」「いじめ」「ニート」「ネット社会」「少子高齢化」「偽装・捏造」…で、それらの解決法なんかを高校生に書かせるというパターンが多い。まあ、ありそうな話ですよね。普通のことです。
 でも、ちょっと考えてみてください。これらの問題って、全部全部私たち大人が用意した問題ですよね。用意したというのは、問題を作った、問題を作ったというのは小論文の問題を作ったということではなくて、その社会問題自体を作ったってことです。私たち大人が自分たちの欲望の実現に躍起になった結果生じた問題ばかりです。
 自分の娘たちのことを考えてみても、実に話は単純です。彼女らに関わる心配事、たとえば交通事故、変質者、ゲーム、ケータイ、ネット、アレルギー、いじめ、学級崩壊…どれもこれも大人や親が自ら用意してしまった危険ばかりです。本当に子どもたちのことを思えば、たとえば車に乗らなければいいし、ケータイも廃止すればいい。化学物質は使わなければいい。家でちゃんと道徳を教えればいい。そういうことです。でも、それはできない。する気がない。だいいちそういう発想がない。自分たちで自分たちの最も大切にすべきものを危険にさらしている。
 で、こうやって大人な人類は自分たちの集団的罪を反省せず、つまり棚に上げて、恥ずかしいことに、理論的になんの罪もないはずの若者、すなわち自分の子どもたちに対してグチリ続けてきたわけです。
 なんで、こういうホントのことを誰も言わないのでしょうね(笑)。
 それでですねえ、話をもとに戻しますが、小論文の課題って、そう考えるとものすごく変ですよね。
 だって、大人たちが作り出してしまった問題を提示して、若者たちに解決策を考えろ!って言うんですから。おいおい、なんだよ、その責任転嫁は。責任転嫁じゃないな。責任放棄ののち、しりぬぐいお願い、って言ってようなもんじゃないですか。その問題の解決策はあなたが考えるべきでしょう!?
 まったくひでえ話です。もちろん自分も含めてね。私もふだんは自分のこと棚上げしっぱなしですが、たまには棚卸ししますよ。てか、皆さんもたまには棚卸ししましょうよ。
 これほど多くの、大人が用意した誘惑があるこの世の中で、ホントに若者はそれに流されることなく、あるいは振り回されることなく、よく頑張ってますよ。もし、我々の世代の若い頃、こんなに誘惑があったらどうなっていたでしょう。だいいち、あの頃、今よりひどい犯罪や非行ばっかりじゃなかったですか。今の方がずっと平和ですよ。親殺し、子殺し、少年の犯罪、暴走族、シンナー吸引、喫煙、スケバン(笑)…今よりずっと盛りだくさんでした。もし、今の世の中に彼ら(私たち)がいたら、もっと道をはずれてますよ、きっと。
 というわけで、今日はホント反省しちゃいました。だから、生徒に心から「今どきの若者は偉い!おもえらはホントに立派だ!」って言ってやりました。やつらは「また変なこと言ってる」って感じで大笑いしてました。私は珍しくまじめだったんですけどね(笑)。まあ、ホントほめてやりたいです。少なくとも私の高校時代よりずっと勉強してるし…。

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2007.10.24

『時間はどこで生まれるのか』 橋元淳一郎 (集英社新書)

08720373 難しいし面白かったので、とりあえず2回読んでみました。
 最近の私のテーマは「時間」でして…と言っても私は物理学者でも哲学者でもないので、本当に稚拙な考えであって、それはほとんど子どもの「時間って何?」という程度のものであります。いずれはまとまるかもしれませんが、やたらなこと書くと、橋元さんみたいに怒られちゃうんでやめときます。
 そう、Amazonのレビューをご覧になるとわかると思いますが、この本、賛否両論、甲論乙駁なのです。我々庶民には難しいけど面白いなあって思うんですが、でも、偉い人は呆れるか腹を立てるみたい。どうなってるんだ?時間ってそういう性質のものなんでしょうか。頭がいい人にはわかるけれど、我々にはわからない。そんなものがこの世に一様に流れていて、しかし、偉い人もそうでない人もそれに抗うことができず、老いて死んでいくんでしょうか。
 昨日のSFの話になりますが、彼らがサイエンスを基礎にしながら、それがフィクションでありえたのは、まさに「時間」を自由に操っていたからでした。彼らの偉いところは、この本を非難したりする偉い人とは違って、最初から開き直って「時間」を操作してしまえと考えたところです。つまり、逆に言えば、時間というものの本質が分かろうが分かるまいが、とにかく人間が人間であるかぎり(生きているかぎり)「時間」には抗えないということを諦観していたのです。だから、私たちが語ることはフィクションですよと言った。ある意味、彼らは日本文学の主流だったんですね。「もののあはれ」…「全てのモノ(存在)は無常であるということにため息をつく」を逆説的に語ったんですから。
 私も、相対論や量子論によって時間論が大きく変わったというのは、頭では理解できます。しかし、それがファクトであるかどうか、それについての実感は全く持つことができません。SFと同じ領域なんです。だから、この本を読んでもなんとなくワクワクはするけれど、なるほど〜!とはならない。で、それってホントなの?全然実感と違うんだけど…となる。
 まあ、もともと相対論も量子論も我々の実感からほど遠くなっていて、いやもう科学というのはどんどんフィクション(すなわち私の言うコト)の方に行ってしまって(そうそう、この前のポアンカレ予想なんかもそうですね)、全く実学からかけ離れてしまった。実(ファクト)ではないということは、フィクションそのものですね。私からするとそれらの面白さや価値というのは、文学や宗教のそれと何ら変わらないような気がするんです。科学者の方、バリバリの理系の方には申し訳ないのですが、それらはどんどん文系化してるようにしか思えません(笑)。
 まあ、そんな私の実感(生活感)は別としまして、この本の内容にもちょっと触れときましょうか。
 たしかに橋元さん、先人の成果をかいつまんで並べて、そして最後は「意思」を登場させるという具合であり、なんだか物理なのか哲学なのか、思いつきなのか、妄想なのか、それこそ文学なのか、全然わからないことになるんですが、そういう正直ワケわからん最先端の「トンデモ科学(失礼)」を、多少私たちの実感の方に引き寄せてくれたという、まさに「ワケわからんモノをカタル」という「物語」としては、なかなか優秀であったと思います。
 そんな神話のような物語に対して、感動する人もいれば、そんなことあるわけないって言う人もいるし、またそれはもうすでに誰かが語ったことだと言う人もいる。また、科学的に検証すると間違っている!と言い出す人もいるわけです。
 いや、時間の本質がそういう性質のものなんでしょう。いろいろな次元での「時間」があって、しかし、いずれにしても我々はそれをコントロールできない。相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、フィクションだろうと、とにかく生きていることにおいては人間はそれに縛られているということです。
 で、私が考えている時間論(なんてほどのものではありませんが)は、時間というものは実は人間にだけ存在するものであって、すなわち人間を人間たらしめているものである、なんて感じなんですが、ま、あんまりまじめに考えてないのでまとまらないで終わるでしょう。
 こうしているうちにも時間は流れてゆき、そして私は人間であるわけですな。

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2007.10.23

『21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜』(NHK ETV特集)

Sf50 「センス・オブ・ワンダー」…今の私を育ててくれたのはSFだったのかもしれません。
 おととい放送されたこの番組の録画を観ました。なんかものすごく感激してしまいました。今まであまり意識してこなかったことに、少し情けないような申し訳ないような気さえしてしまった。もっとSFに感謝すべきだったのかもしれません。
 60年代70年代、高度成長の中で未来に希望を持ち、あるいは科学に懐疑的になりながら、そして純文学界からの蔑視に堪えながら、素晴らしい作品とジャンルを作り上げていったSF作家の皆さん。彼らのエピソードやインタビューを中心に、さらにお宝映像、音声などもまじえながらのこの番組。出てくる人たちや作品たちの懐かしいこと、そして濃いこと。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、半村良、眉村卓、豊田有恒、光瀬龍、福島正実…。
 SF(Science Fiction)というジャンルが生まれて50年。今や世界に誇るジャパニーズ・カルチャー(オタク文化とも言える)はほとんど全てここに端を発しているのでした。なんか説明されると当たり前なんだけど、どういうわけか自分の意識はそこんとこにあんまり意識的じゃなかった。バカだなあ。
 それにしても面白かったのは「SF作家クラブ」のものすごいパワーですね。たしかにあの時代、いろんな分野でああいう若者の集団があって、新しいことに挑戦し、世の中に挑戦し、大いに語り、大いに働き、大いに遊び、大いに呑んでましたね。世の中全体がそういう雰囲気でした。
 私はまさにそういう時代に育てられた少年だったわけでして、小学校の図書室で彼らの本を片っ端から読みましたし、特撮ものやアニメのお世話になったのはもちろん、NHKの「少年ドラマシリーズ」なんかにも大きな影響を受けました。影響を受けたというのは、そう、日常生活が完全にそれらに侵されていたということです。日常の風景をそういうSFの舞台と見紛うていたし、自分は実は地球人ではないとか、そういう妄想を抱いて生きていましたからね(ヤバイ)。
 なんかそういう自分のベースメントの部分というか、血や肉というか、いや骨かな、いや脳の中枢部分だな、とにかく自分の中心にそういうものがあったということに、今回遅まきながら気づかされましたね。あまりに自然に自分に染みついているんで(洗脳されてるってことか)、意識し忘れてたんでしょうね。それほど自分そのものだということです。
Sf50s その後、私はいちおう大人になっていったわけですが、その途中を思い出してみますと、SFから理系分野に興味を持ち、特に天文学ですね、将来はそっちに進もうとしました。しかし数学的センスのなさがアダとなり、研究者への道は諦めまして、じゃあセンス・オブ・ワンダーの面白さを伝えようと理科の先生を目指すことにしました。しかしとんでもない理由で受験に失敗し、なぜか国語の先生になるという、全くワケわからん過程を経て今に至るわけです。
 また一方では、いわゆるオタク文化の方には行かず、違う意味での(文系的かな?)センス・オブ・ワンダー世界である「宗教」「芸術」に興味を持つようになりました。そして今、外側からオタク文化を観察し研究する立場に至っています。
 ま、自分の復習はいいとして、とにかく私みたいな私の世代って多いんじゃないでしょうか。特に男。実はSFの血が流れている。SF的世界を生きている。あの頃のSF的未来、SF的21世紀の幻想の中に生きている。逆に言えば現実に対峙できないってことですが。
 彼らSF作家たちは実は予言者だったのかもしれません。だって、あの頃の作品に描かれた未来や21世紀の通りになってるじゃないですか。もちろんそこに描かれていたのは明るい未来ばかりではありませんでしたよね。結局あそこに登場していた宇宙人や異次元人、狂った人間たちは、今の私たちなのかもしれませんね。
 ところで、この番組をチラチラ見つつポケモンカードに熱中している娘たち、彼女たちにとっての未来ってどんな感じなんでしょうね。いや、現在も、あの幻想的高度経済成長の現在とは全く違うものでしょう。私は早く大人になりたいと思っていましたが、娘たちは子どものままがいいってよく言います。ま、男と女という違いもあるでしょうが。
 いずれにせよ、大人がまず現在や未来に期待してないといけませんね。つまり「センス・オブ・ワンダー」の心を忘れないってことです。また、いつものやつが出てしまいますが、「モノ」ですよ。未知のもの。自分の外部の「モノ」へのセンスですね。それは近代合理主義においては「妄想」とか言われますが、やっぱり人間にとって大切なものなんじゃないでしょうか。そう考えますと、現代の若者が熱中するオタク文化もまたとっても健全なものに思えてきますね。
 いやあ、面白かった、この番組。特にああいうはちゃめちゃなパワーですね。みんなどうかしてますよ。疲れを知らない暴走族ですな、ありゃ。昔は良かった的な言い方はしたくありませんが、でもなあ、やっぱり明らかにあの時代はすごかった。

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2007.10.22

松田聖子 『Seiko Matsuda Concert Tour 2007 Baby’s breath』 (DVD)

↓いい笑顔ですねえ。
Msbb え〜、どちら様がわかりませんが、こちらのブログ経由でウン十万円のお買い物をドカンとしてくださった方がいらっしゃいまして、そのアフィリエイトのポイントで、これ(+何冊かの本)を購入させていただきました。ホントにありがとうございました。
 というわけで、なんとなく申し訳ないような気もするのですが、誰かからのプレゼントだということで、ありがたく頂戴いたします。拝。
 もうあれから4ヶ月以上ですか。なんかあっという間でした。今日このDVDを家族で観ながら、あの感動をよみがえらせるとともに、あらためて聖子様と彼女を支える皆さんの素晴らしいを痛感いたしました。拝。
 私にとっての初聖子様ライヴが、こうして立派な作品となって残るというのは、本当にラッキーで幸せなことですね。私たちの席はけっこう前の方でしたから、まあよく見れば自分も映りこんでるんでしょうけど、まあそれにしてもお客様の皆さんもすごいですねえ。いやあ、あの会場の平均年齢は何歳だったんだろう。当日は私も興奮していて、あんまり周囲を観察していなかったんですけどね、こうして映像で観ますと、かなりすごいことになってます。やっぱりこれは宗教的儀式だわ。「痛い」の一歩手前、いやその領域にかなり入ってるかな…なんて、自分もしっかり参加してたんですが(笑)。
 内容的には当日の様子を報告した一連の記事をご覧下さいませ。一部アクシデント的なところはカットされていましたが、あのトリプルアンコールも含めまして、当日のあの感動的な雰囲気はよく伝わってくる作品となっています。MCもたっぷり収録されていまして、楽曲披露時以外のあのマッタリした空気も楽しめます。
 今回こうして冷静に鑑賞してみますとですね、やはり小倉さんのバンドの良さがよ〜く分かりますね。いちおう女性歌手(?)のバックバンドをやっている者として、これは勉強になりました。ああいう安定した、さりげに超絶テクな、しかししゃしゃり出ない、大人なバンド、いいですねえ。皆さんの人柄が伝わってくるような演奏です。かっこいいっす。
 えっと、ライヴで謎だったストリングスの件ですが、DVDで見てもどうやって音を拾っているのか分かりません。どなたか関係者の方、教えてください。指向性の高いマイクが吊ってあるのかなあ。当日もそうでしたが、このDVDでも、とってもきれいに拾われているんですが…。
 それにしましても、改めて驚きなのは、ツアーの初日をこうして作品化してしまうことですね。そのへんの発想自体、ほかのミュージシャンじゃああり得ません。しかし結果として、これは正解だったと思います。初日は本当に何が起きるか分からない、いやアクシデントとかそういう意味ではなくて、聖子様がどんな服装で登場するのか、どんなセットなのか、曲は何をやるのか、全て分からないわけで、まさに神降臨の現場に立ち会えるわけですからね、観客の興奮も独特なものがあるわけです。全ての時間が新鮮で神聖な期待と感動なんですよね。
 ライヴは行くならツアー中盤にさしかかる頃がいいとか、いやファイナルがいいとか、よく言われますけど、初日ならでは良さというのがあるということが今回分かりました。慣れるとか、こなれるとか、そういう次元じゃないですし、神になれば。逆に神様にさえもあるであろう「初めて」の緊張感というのは味わい深いものなのかもしれませんね。
 とにかく、こうしたいろいろな意味での奇跡的な瞬間がふんだんに収録されたこのDVD、とってもいい出来だと思いますので、もし興味を持たれた方はご覧になってみてくださいませ。
 最後にもう一度、このDVDを恵んでくださった方、本当に感謝いたします。あなたは神です!…えっ?もしかしてご本人様?!(なわけない…でも、あんなお買い物をドカンとしちゃうなんて…いやいや、まさか)

Amazon Seiko Matsuda Concert Tour 2007 Baby’s breath

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2007.10.21

『北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景』 (山梨県立博物館)

8733hh 今日は数ヶ月ぶりの何もない日曜日。笛吹市御坂の山梨県立博物館に行きまして、富士山をたくさん観てきました。
 途中すっかり秋めいた河口湖畔を走りながらふと目をやると、ホンモノの富士山もいつのまにか雪化粧していてびっくり。富士山に住んでいながら、富士山を見ない日が案外多いんですよ。こういうのも灯台下暗しって言うんでしょうか。近すぎると見えなくなるというコトやモノ、本当にたくさんありますね。
 さてさて、私にとってはそれほどに身近な存在である富士山、いよいよ世界文化遺産になりそうな雰囲気ですね。自然遺産ではないところが、なんとも哀しいところですが、考えようによって「自然」より「文化」の方が人間臭くていいかもしれません。私の富士山への興味も、どちらかというと「自然」より「文化」に偏っていますし。
 さて、そんな文化遺産への気運の高まりの中で、県立博物館が企画した特別展が「北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景」であります。両者の富士山はそれぞれ何度も観てきましたが、こうして並べて観る機会というのは案外少ない。これは面白そうだと出かけたわけです。年間パスポート持ってるし。
 結論から申しますと、予想通りたいへん面白かった。二人の天才の名作を一挙に観ることができたと同時に、それこそ富士山の文化的価値、江戸の人々にとっての富士山というものを改めて考える機会にもなりました。そして、なんといっても、二人の違いが鮮明に分かったのが楽しかった。これは予想を上回る体験でしたね。
 私、絵画や写真を観る時、必ずやることがあるんです。そう、これです。独眼流立体視。写真については単に楽しむためにやるんですが、絵画の場合はそれによって、作者の空間認知がどの程度正確か、あるいは作者が正確さを期していたか、空間の写実性にどれほど価値を置いていたかを知ることができるんです。
 画家の方って実景を片目で見ながら写生しますよね。私もちょっと絵をたしなんでいたんで分かるんですけど、あれって3次元の2次元化には非常に有効ですよね。理屈の上からも分かると思います。で、その作業の逆をやるんです。2次元の3次元化。これは意外に皆さんやらない。美術館に行っても、片目で観ている人はほんの少ししかいません。
 で、そういう変なことをしますとね、北斎と広重、実に対照的だということが分かるんです。つまり空間の認知の違い、いや空間の表現の違いが際立つんです。さっそくやってみましょうか。わかりやすいところで、まず北斎から。
Hokusai066 別に片目で観なくとも彼の空間表現が歪んでいることは明白ですね。実は今日観た全ての北斎がこうだったんです。両目だと一見不自然でない絵も、片目で観ますとね、こちらの脳が混乱を引き起こすんです。本当か?と思われる方は、北斎でイメージ検索して片っ端からやってみてください。かなりおかしなことになってますよ。これはたぶん北斎の意図によるものだと思います。彼の空間認知がおかしかったのではなくて。
 そうした空間の写実性を重んじない傾向は日本絵画の一つの特徴であり、別に彼だけが変だとか、ましてや下手だとか言うべきものでないことは当たり前です。しかし、時代性ということを考えますと、ちょっと異質なような気もしますし、それがまた大変にポピュラーな存在になったというのも、興味があるところですね。
18 一方の広重は、北斎とは本当に対照的でした。ほぼ全て完璧です。脳は全く混乱を起こしません。これも彼の意図だと思われます。今回の企画展でも紹介されていましたけれど、広重が北斎の構図を「恣意的に過ぎる」というような言い方で非難しているのは有名な話です。ある意味アンチ北斎から、あのような正確な空間表現が生まれたのだとも言えそうです。もちろん西洋画の影響、具体的には秋田蘭画の影響でしょうかね、そういうものを指摘することもできるのですが、なんかムキになってるような気さえする正確さです。
 しかし、これは単純に遠近法とかリアリズムとかいうくくりで考えるべきものではありません。広重でさえ、様々なデフォルメや強調を行なっているのは言うまでもありません。
 私が今回感じたのは、彼らは二人ともそれぞれのやり方で3次元の2次元化という絶対的な矛盾を克服したのだということです。すなわち、矛盾を自由ととらえて感性で勝負した北斎と、矛盾に対して理論的に挑戦した広重ということですね。
 いや、本当は私、そんな難しいこと考えてたんじゃありません。広重って私みたいに片目で自分の作品を観て、空間チェックしてたんじゃないかなあ…。あるいは片目で観ることを前提に作ったとか。そう考えると、広重は江戸のステレオ写真だと言った赤瀬川原平さんは、やっぱり鋭いなあ。たしかに、近景にドカンと何かを配する構図は完全にステレオ写真のセンスですね。つまり、広重の絵の面白さは、片目で体験するまさに「独眼流立体視」の面白さであったのかもしれません。
 ほかにもいろいろと書きたいことはありますが(縄文の大豆の話とか…)、今日はここまで。
 とにかく私が今日書いたことに興味を持たれた方は、山梨県立博物館に行きましょう。来月の18日までこの企画展やってます。

山梨県立博物館

Amazon 江戸切絵図・富士見十三州輿地全図で辿る北斎・広重の冨岳三十六景筆くらべ

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2007.10.20

大人な対応

 いきなりですが、「大人な対応」をおススメします。皆さん大人な対応をしましょう。
2007101700000952sanspothum000 最近、反則・偽装・捏造・裏切りのオンパレードですね。いや、別に最近それらが急に増えたわけではありません。いつの世にも当たり前にあったわけです。ただ、それをみんなで糾弾して、怒って、呆れて「楽しむ」風潮があるということですね。ま、これも昔からよくありました。勧善懲悪ものは基本それですから。
 で、面白いのは、そういう時には必ず「大人なヒーロー」が登場するということです。たまに「悲劇のヒロイン」も登場しますが、それは単に同情を買うだけの存在であり、やっぱり「大人なヒーロー」の人気にはかなわない。
2007101700000039jijpspothum000 最近ではやはりこの人でしょうね。内藤大助さん。いじめられっ子がいじめっ子に勝った。それも、いかにもいじめっ子らしい手段を選ばぬ反則技を受けつつ、見事勝利した。ある意味KOじゃないところがそれらしくてよろしい。その後の悪役の消沈ぶりも含めて、まるでマンガやアニメのようでした。これは盛り上がるわ。そうそう、それで、内藤さんの一連の対応、コメントですね。「大人な対応」。これはまた見事でした。これもまたマンガ的ですらあった。
 ウチのカミさんなんか、また「燃え」…いや「萌え」てましたよ。ご存知のように、カミさんはそういうのに一番弱いんで。昨年末のヌル山の件で一気に桜庭熱(萌)が上昇し、いまや聖域にまで侵入するほどの痛い腐女子ぶりを発揮しております。つまり、マンガ読者的な単純さを彼女は持ち備えているわけです。
 大衆はそういうのが好きなんですよ。もちろん私も好きですよ。たとえば、最近ではこんな大人に萌え(燃え)ました。格闘技ネタが続いて申し訳ありません。
Hbt0710202ns 昨日ですかね、「無我ワールド」の西村修選手が、若手ホープの征矢学選手を伴って、武藤敬司社長率いる全日本プロレスに電撃移籍しました。「無我」の中心選手であった二人が、全くなんの前触れも、そして藤波辰巳社長に何の相談も挨拶もなくいきなり移籍しちゃったんですね。これは社会的にはもちろん、プロレス的にも反則ですよ。あまりに「無我」すぎます(笑)。たしかに試合数があまりに少なく収入がなければ、いくら仏陀を目指す者とは言えキツイですよね。プロレスラーが断食行してるようなもんですから。で、ある意味ホントに無我の境地に至り、周囲の流れ、すなわち「縁」にまかせて移籍してしまった。でもなあ、「報恩」は忘れちゃいかん、仏教徒として(笑)。
 さて、それで彼らかなりのバッシングに合ってるんですが、「無我」の同僚である後藤達俊選手のブログでのコメントが泣かせるんですよ。彼こそ仏陀に近いぞよ。

BdgotoMr.バックドロップ 後藤達俊 西村&征矢 退団!

 う〜ん、大人だ。顔に似あわず菩薩レベルだ(笑)。当事者(被害者)としてすぐにこうは言えませんよ。かっこいいぞ。そう、以前から後藤選手のブログは大変に評判が良かったんです。更新頻度や記事の内容はもちろん、非常にマナーがしっかりしており、あるいはマナーの悪いコメンターに喝を入れたりと、リング上でのヒールのイメージとは正反対の雰囲気に、皆さんギャップ萌えしてたんですよね。今回もリング上なら大暴れというところでしょうが、このコメントですからね。正直やられました。うん、やっぱりいいレスラーは「無我」…すなわちリング上では自己を捨てて、お客さんの望むキャラクターになりきる…ですねえ。プロレスの本質です。
2007101900000001jijpsocithum000 さてさて、こちらはどうでしょうか。「赤福」問題です。ずいぶんと世間のバッシングを受けてますね。ところで、古い赤福を食べて誰か腹を壊したんでしょうか?誰か「まずい!」ってクレームつけたんでしょうか?たぶんそういう人いないんじゃないでしょうかねえ。「うまい、うまい」って喰ってたんじゃないでしょうか。やっぱり赤福だよなって。
 まあ嘘の表示をしたのはいけませんが、余ったものを再利用するのは悪いことではないと思います。「もったいない」という考え方こそ大切ですから。伊勢と言えば伊勢神宮。赤福と言えば伊勢参りのお土産です。神様、特に食べ物の神様である外宮の豊受大神(トヨウケビメ)さんは、怒るどころかほめると思いますよ。残った赤福をポイポイ捨てる方がいかんでしょ。だから、我々も「大人な対応」しましょう。これからは表示偽装しないでね。余ったものは冷凍して再利用してもいいから、ちょっと安く売ってくれればいいよ。そんなんでいいのではないでしょうか。とりあえず大好きな赤福が食べられないっていうのは、ちょっとなあ。

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2007.10.19

THE YELLOW MONKEY 『SICKS』

41w7a63nwsl_aa240_ やっぱり名盤だ。日本人ならこれを聴かずして死ねませんね。日本のロックでこれを超えるのは正直難しいでしょう。
 10年前、このアルバムを聴いた時のあの衝撃は忘れません。そして最近、吉井和哉さんのニュー・アルバムが出たのきっかけに久々にじっくり聴いてみて、また違った衝撃が走りました。
 私が邦楽を聴き始めたきっかけは、まさにこのアルバムでした。基本的に洋楽、特にロックは洋楽しか聴かなかった私、いや、日本語でのロックは不可能だろうと思っていた私、正直邦楽をバカにしていた私(実際、当時のメジャー・シーンはひどかったが)は、この恐るべき音と言葉の塊に完全に打ちのめされました。なんだこりゃあ!!
 日本語にこんなにもロック性があったとは。そう、彼らの音もたしかにすごかったんですが、やっぱり吉井さんの歌詞…いやいやあれは叙情詩そのものですね、あの言霊はいつ聴いてもすごい。理屈ではなくとにかく「すごい」としか言いようがないんです。
 なんかとっても大袈裟に聞こえるかもしれませんが、自分の中で初めて現代日本語の「歌」が古典の「歌」とつながったような気がしたんです。確かにそれからですね、演歌の歌詞を聴くようになったり、あるいは浜崎あゆみの歌詞が分かるようになったのは。そして現代詩が読めるようになったのは。それくらい私にとっては衝撃だったんです。
 音楽的にも何かがパッと開けたような気がした。私の音楽ライフは一気に数倍広がりました。今こうしてジャンルを問わず音楽を聴き、そして弾くようになっているのは、完全にイエモンのおかげ、特にこのアルバムのおかげです。
 彼らの音楽性は、それこそジャンル的に言えば、UKロックとUSロックと日本の歌謡曲の絶妙な融合ということになるんでしょうが、それが成功しているとかそういう次元ではなくて、やはり、ザ・イエロー・モンキーというジャンルを作ってしまったいるんですね。本当に世界に無二です。
 どの曲も奇跡的に素晴らしく、また全体としても、それこそ恐るべき塊であり、いろいろと語りたいけれどそれすら拒否してしまうほど完璧なんです。10年前、当時としては全く信じられないことですが、カラオケ嫌いの私が一生懸命彼らの歌の練習をしましたし、ギター譜を買って長らく弾いていなかったギターを引っ張り出してきました。ある意味そういう表現しかできなかったんです。
 ただ、あまりに素晴らしかったので、ちょっと怖さもありました。これってもしかして奇跡なんじゃないかなっていう危惧。実際彼ら自身、あるいはソロになったのちの吉井和哉さんもこれを超えられず、また様々な日本のロックバンドがこれを超えられず苦しんだ、苦しんでいるとも言えます。
 当時のイエモン自身はもちろんその奇跡を奇跡だとは思っていませんでした。このアルバムこそがスタートで、これからもっとすごい日本語ロックが生まれると思っていたんですね。そのあたりについては今年発掘されたこちらの番組を観るとよ〜くわかります。ノリノリの彼らにはその後10年間の憂い(もちろんイエモン解散も含めて)の微塵も感じられません。
 こういう奇跡的な作品というのは、往々にして不幸を招来してしまうものです。多くの人を幸福にし、人生を変え、一方で自らを不幸にし、人生を変えてしまうようなものこそ、歴史的な作品と言われるのかもしれませんね。
 蛇足になるかもしれませんが、私がこのアルバムの中でも最も好きな曲の一つである「淡い心だって言ってたよ」の歌詞にインスパイアされて書いたエッセイ「大切」、これが吉井さんのアルバム「39108」をめぐって不思議な因果とご縁を生んでいったのでありました。

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2007.10.18

『TABLE FOR TWO』→『頭陀行』

↓某企業での様子
070514_03_2
 26時間ぶりに食事をしながらニュースを観ていましたら、こんな話題が取り上げられていました。なんだか、ちょっと笑っちゃいました(失礼)。
 「TABLE FOR TWO」…社員食堂などで通常の料金を払いながら、料理の量を減らし、その分を途上国の給食費として寄付するという社会活動のことらしい。実際には一食につき20円くらいの寄付になるとのこと。そうすると、途上国の子どもたちの2食分くらいになるのだとか。
 特集の中ではこんなデータも紹介されました。「世界で10億人が生活習慣病、10億人が飢餓」…10億人はメタボで腹が出、10億人は飢餓で腹が出ているということか。
 なんという馬鹿げた事態なんでしょうね。そんな馬鹿げた事態を少しでも是正しよう、全体としてバランスを取ろうというのが、この「TABLE FOR TWO」だということです。
 もちろん、いいことですし、発想としてもわかりやすい。大変結構なことです。でも、不謹慎にも私が笑ってしまったのは、この「当たり前」であるべき行動が、「活動」として「アクション」として行われているからです。
 テレビで紹介されていたのも、大企業の社員食堂での活動でした。社員の皆さんも「カロリー制限できる」「健康にいい」「人助けができる」と語り満面の笑みを浮かべていました。「社会貢献もできて、社員が健康になって会社の生産性も上がる」と。
 最初に書きましたが、私は今日は26時間ぶりに食べ物を口にしました。え〜!?という方もいらっしゃるかもしれませんが、私にとってはこれが日常ですので、別にどってことありません。別に仕事が忙しくて食事をとるヒマもないのではありませんよ。ご存知のとおり、私は一日一食なんです。
 よく堪えられますね、と言われますが、人間はそんなにヤワじゃないですよ。慣れればなんでもありません。というか、ある意味昼間は常に飢餓状態なんですが、それが実に心地よい。いわゆるハングリー精神ですよ。おかげさまで一日一食にした3年前から、病気はしないし、仕事は進むし、趣味も充実。まあ、直接私を知る人はよくわかると思いますが、ずいぶんとバイタリティーが向上してます。
 そう、だから、企業に限らず、日本人全員が一日一食にすべきなんですよ(笑)。ちょっと料理の量を減らすなんて甘いっす。食事自体を3分の1にしましょう!今の食事、食材は栄養豊富ですから、1食で1日分のエネルギーを補給できます。3食も食べてメタボになる、それでビリーズブートキャンプをやる、あるいはロデオに乗るなんてのは、最も愚かな行為です。温暖化の元凶です(笑)。
 「TABLE FOR TWO」…結局、企業や自治体のイメージアップのためにやってるようにしか思えないんです。実際、キャンペーン的に期間を限って行なっているところが多い。それをプレスに発信して、要は宣伝してるんです。社員の方々は、なんとなくいい人になったような気がして気持ちいい。その期間だけはちょっとカロリー制限できて、ほんのちょっと痩せたりもするのかな。いや、昼飯軽かったから夕飯はたらふく喰っちゃうんでしょうね、きっと。「やっぱり、腹が減っては戦はできぬ」とか言いながら。
 とにかくですね、食の本能に従うことは本当はカッコ悪いことなんです。他の本能、たとえば睡眠欲とか性欲とかに従って生きることは、あんまりいいこととされませんよね。会社でそういうことが行われていたら当然まずいし、キャンペーンでそれらを制限する前に、その人はクビになるか警察行きでしょう。なのに、1日3食食べましょう!みたいに国を挙げて食欲万歳ってやるから困るんです。いったいどうなってるんでしょう。かたや飽食せよ、かたやメタボ検診じゃあね。ワケ分かりません。
 さてさて、では私の主張する本当の地球への、そして自己への貢献活動をなんと呼びましょうか。「ONE MEAL A DAY」…じゃ、まんまか。やっぱりこれかな。『頭陀行』(ZUDAGYO)。仏教における衣食住への執着を払う行。「食」だけじゃないところがいいな。

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2007.10.17

マトリョミン嬢来たる!

Mt5523 ああ、なんだかとっても忙しいのに、また「何か」がやって来たぞ。「モノ」が来た。うむ、これはたしかに「何か」だ。「モノ」だ。普通の人にはいろんな意味で理解できないでありましょう。
 先日、紹介した大人の科学〜テルミン(写真左)にすっかり魅了され、そして広告に載っていたこのロシア娘(写真右)に一目ぼれしてしまい、時間も金もないのについつい注文ボタンをクリックしてしまったのでありました。そして、今日、彼女がウチにやってきたのです。
 まったく何やってるんだか…と半分あきれつつ、しかしこの久々のドキドキはなんなんだろう。また新たな楽器に挑戦できるという喜び…とは違う。なんなんでしょうね。だいたい私はこれを楽器ととらえているのだろうか。
 とにかく電池を入れてみよう。そしてスイッチオン。お〜。たしかにテルミンじゃあ!さっそく右手を近づけてみると、ブ〜ウ〜ピ〜…まず猫が耳を立てる、そして娘たちは怖いと言う(顔が怖いらしい)、そしてカミさんは呆れ顔。うん、全てが想像通り、25年間のイメージトレーニング通りだ。
 というわけで、買っちゃいました。マトリョミン。もうどうしても欲しくて我慢できなかったんです。この前のあの付録テルミンでは正直満足できなかったんです。でも、10万円近くする本格的なテルミンは買えないし、数千円のキットではたぶん付録のとそんなにかわらないだろうし、ああ四半世紀に及ぶ私の夢は叶わないのかと思ったら、こいつと目が合ってしまった。ああ、マトリョーシカよ…あなたはなんでテルミンなの?
 さてさて、さっそく彼女に歌わせてみました。私、付録テルミンの記事のところで書いたように、絶対この楽器には自信があったんです。イメージの中ではもう完全に弾きこなしてたんですよ。で、実際弾いてみたら、ホントにもう弾けました。とりあえず5オクターヴの音階は2回目にして完璧(たぶん)。付録の弾き方DVDはさっと飛ばして、さっそく「白鳥」やら「G線上のアリア」やら「タイスの瞑想曲」やら、思いつく名曲を弾いてみました。まあ、それなりに音程が狂ったりしますが、聴いている人たち(家族だけですが)は「すごいじゃん」と言ってくれました。どうだと言わんばかりの私であります。ヴィブラートも、これはもう仕事みたいなもんですから、最初から何種類ものパターンができます。
 なんて、なんか自慢話みたいですけど、正直これはヴァイオリンや三味線を弾く感覚と同じです。音程を取るのは左手ではなく右手ですが、あの音程と空間の関係における「雰囲気」というか「空気感」みないなやつ。これはやっぱり経験者にしかわからないものがあるだろうなあ。単に音感があるとかではなくて。
 とりあえず時間がありませんので、今日は彼女の到着のみを報告しておきます。そのうち、演奏会で使ったり、宴会芸で唄わせたり、いろんな形で登場するでしょう。その時には音も聴いてもらえるかもしれません。あるいは練習の模様をアップできるかもしれませんね。久々に楽器の練習をしようとしている自分がいる…なんて、本職(?)のコンサートも近いのにまったく何やってるんでしょうねえ。すみません。
 と言いつつ、明日学校に持っていって生徒に自慢しようとしている私。あっそうそう、生徒にウケるのは、手じゃなくて坊主頭で演奏する必殺技です(笑)。

手を触れずに演奏できる歌うマトリョーシカ

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2007.10.16

「心より物の時代」(自己より他者)

08118804 忙しいということは楽しいことですね。外部からいろいろやってくるわけですから、自分が自分でなくなる。「忙」は「心が亡くなると書く」と誰かが言ってましたけど、それは私にとっては悪いことではなくて、いいことなんです。つまり、外からの強制力がかかるということは、今までの自分に「何か」が加味されることであって、それすなわち成長です。自分がやりたいことだけやっている時というのは、実はなんのメリットもない。どちらかというと不快なことがある時の方がチャンスなんです。いやいややっている時の方が案外得をしたりするものです。
 というわけで、相変わらず前向きな私ですが、実はその外部からやってくる「何か」が多すぎまして、完全に自分の処理能力を超えてしまっています。しかし、私が得をしているのはたしかでして、損をしているのはたいがいその「何か」を持ってくる人なんですよね。ごめんなさい。ま、頑張って処理しますのでお待ちください。そうすればお互い得をするはずです。
 なんてこと考えているさきから、どんどん「何か」が押し寄せてきます。えっと、えっと、これはなんだっけ…頭を切り替えるのが大変。実際頭が切り替わらないために妙なことを言ってしまうこともしばしば。しかし、また、頭が切り替わらない、すなわち「何か」と「何か」が結びついて新しい確信が生まれるのも事実です。今日もそんなことが数回ありました。やっぱり得してるな。
 それは、いつも私が標榜している「これからは心より物の時代」ということについてです。ある大学の小論文の課題文に「これからは物より心の時代」というありがちな文言が載っていました。「自分の心に素直に生きる」ともあって、ついつい笑ってしまったんですね。生徒ももちろん筆者に賛成するっていう文章を書いてきました。当然、私は「おいおい、逆だろ」って言ってやりましたよ。
 「自分の心に素直」…これってよく言われますが、私は絶対に反対です。気持ち悪いし腹が立つ。だって、私たち近代人はまさにこれをやってきて、「物(物質・生産物・消費物)の時代」を作ってしまったんですよね。「自分の心に素直」って冷静に考えてみてください。たとえば私の「心」に素直になると、「楽したい、金持ちになりたい、自分さえよければいい、あれしたい、これしたい…」って感じですよ。それをみんながみんなやったと考えたら、これは恐ろしいことになります。弱肉強食。大量消費はもちろん、戦争やいじめも当然起きます。というか、私たちは今そうして生きているんですよ。だから、こういう世の中になったんじゃないですか。それを「これからは心の時代だ」って…笑うより悲しくなりますよね。
 「心(ココロ)」というのは「凝る」が語源とも言われています。外部の「何か」が自分の内部で処理されて、そして固成したものです。つまり、私の「モノ・コト論」で言うところの「コト」の現場です。そして外部からやってくる「何か」こそが「モノ」です。だから、私は自己の内部を重視するよりも、外部である「何か」、すなわち「物(モノ)」を重視せよ、と言っているのです。「心(コト)より物(モノ)の時代」。
 なんてことを生徒には詳しくは言いませんが(たぶんこう書いたら受かるところもあるだろうけど、落ちるところもあるだろう。分かる大学の先生はどれくらいいるだろうか)、前半部分についてはちょっと伝えました。納得してました。
 さあて、その次の生徒は東大の2005年の現代文です。毎度毎度東大の問題は良問です。感心します。さすがだと思います。それにくらべて某大学の問題は…(笑)。まあいいや、それをなんとかするのも仕事です。で、で、東大ですが、この年の第1問は三木清の文章でした。一見難解ですが、よく読むと納得でき、また設問自体が読解を助けるという良質なものなので、やっていて心地よい。解答を導いた時の快感は最高ですね。これこそ外部からの「何か」が与えてくれる「得」です。
 三木清の文、「得」ではなくて「徳」の話です。「徳」は「行為」であり「技術」であるというような話なんですが、そこでやはり「心より物」という話が出てくるんですね。心の技術は自己完結するが、物の技術は社会的だと。つまり、私がさっき書いたことですよ。心に素直になっても「徳」にならないんです。物に素直になって初めて「徳」。そういう書き方はされてませんが、たぶんそういうことを言いたいのだと思いました。
 というわけで、忙しいということは「何か(モノ)」がやってくることで、そのためにこうして「得」をしていく。うまく「何か(モノ)」を処理すればラッキーなことに「徳」までついてくるかもしれない。やっぱり「ココロよりモノ」だな。なんだか分からん未知なる「物の怪(モノノケ)」万歳です。こういう時、つまり忙しい時、すなわち想定外の出会いがある時こそ、自分が拡張する思いがするものなのです。
 (…「〜するものなのです」の「もの」もそういう意味なんですよ。想定外のいいこと、悪いことを表すのです。「〜なんだもん」なんていう「もん」もそういう終助詞です。)

Amazon 東大の現代文25カ年(名文良問ぞろいです)

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2007.10.15

C.P.E.バッハ 『ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ集』(ホイマン他)

BACH, C.P.E: Viola da gamba Sonatas / ABEL: Works for Viola da gamba
Friederike Heumann/Gaetano Nasillo/Dirk Borner
Alpha080 時間がホントにありません。推薦やAO入試の季節になり、毎日、毎休み時間・放課後、行列ができてまして、予約制にしたんですけど、どうにもさばききれません。加えて東大やら一橋やらの骨のある(ありすぎ!)問題を持ってくる生徒もいまして、頭がフル回転というか正直パニックしてます、ハイ。
 というわけで、ネタを作ったり記事を練ったりするヒマが全くありません。ですので、昨日に続きCDの紹介ですませます。ごめんなさい。
 バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ。彼の音楽性は父親とはだいぶ違います。対照的とも言えます。名前のフィリップはテレマンから取ったとも言われていますね。小難しい音楽を作り続け、とても売れっ子とは言えなかった父バッハが、実は、売れっ子量産型ヒット曲メーカーテレマンに嫉妬ではなく憧れを抱いていたらしい。面白いですね。
 父の時代とはかなり世情も音楽シーンも変わっていたようですが、父の才能や心意気と、テレマンの親しみやすさや商魂の両方を兼ね備えた、なかなか立派な作曲家であったエマヌエル。ハイドンやモーツァルト、ベートーベンに与えた影響は多大です。もっともっと評価されていいのではないでしょうか。
 さて、彼の曲、私も大好きなんですが、このヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタは特にお気に入りです。すでに時代遅れになっていたであろう、この楽器のために、こんなに素敵な曲を書くなんて、彼もなかなかオツですな。このCDにも入っているアーベルの作品と並んで、ガンバ最後の輝きと言ってもいいでしょうね。
 この録音、オブリガート鍵盤と通奏低音がフォルテピアノ(クリストフォリ)によって演奏されているのがミソです。ガンバとピアノの組み合わせが実にいい。意外なほどマッチしています。正直グッと来てしまいました。ものすごくきれいな演奏ですよ。
 NMLに入ってない方も、ぜひ30秒の試聴だけでもいいですから、とにかく聴いてみて下さい。
Heumann4s ここでガンバを弾いているのはホイマンというドイツの女性奏者です。サバールのお弟子さんのようですね。とっても女性的なしなやかな演奏を繰り広げてくれています。そのちょいとフェミニンな感じがエマヌエルの雰囲気にぴったりですね。そう、どういうわけか、私、前古典から古典にかけての音楽がなんとなく「女性的」に感じるんですが。バロックはけっこう男性的だと思うんですけど。私だけでしょうか。
 では、最後にいちおう収録曲などを紹介しておきます。

カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ
1. ヴィオラ・ダ・ガンバとオブリガート鍵盤のためのソナタ ト短調 Wq.88
2. ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のためのソナタ 第1番 ハ長調 Wq.136
3. ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のためのソナタ 第2番 ニ長調 Wq.137

カール・フリードリヒ・アーベル(1723〜87)
4. 無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバのためのアダージョ
5. 無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバのための後奏曲

フリーデリケ・ホイマン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
ディルク・ベルナー(フォルテピアノ)

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Amazon BACH, C.P.E: Viola da gamba Sonatas

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2007.10.14

ブクステフーデ 『ソナタ集とシャコーナ』 (スティルス・ ファンタスティクス)

Dietrich Buxtehude 「Chamber Works, Vocal Works」
「Ciaconna, il mondo che gira」
Stylus Phantasticus, Kiehr(S), Torres(Br)
Alpha047 いったいどれが正式タイトルなんでしょう。日本盤はなぜか「うつろいゆく浮世」です(笑)。「もののあはれ」ってことだな。
 たしかにブクステフーデの即興性や循環性はなんとなく浮世の営みを思わせます。彼のそういう音楽性をスティルス・ ファンタスティクス(幻想様式・型破りな様式)と呼ぶ人もいるようですね。そのスティルス・ ファンタスティクスをバンド名、いや団体名にしたのがこのCDを演奏している人たちです。なんとなくスタイリスティックスみたいだな。全然正反対だけど。
 さて、曲目と演奏者をいちおう紹介しておきましょう。

ディートリヒ・ブクステフーデ
1.ドイツ語によるカンタータ「主よ、天にはあなたのほかに」
2.ソナタ ヘ長調 BuxWV269
3.パッサカーリャ ニ短調BuxWV161
4.ソナタ イ短調BuxWV272
5.ディートリヒ・ベッケル:ソナタ ニ長調
6.ソナタ第3番 ト長調BuxWV261
7.チャコーナ第4番 ホ短調BuxWV160
8.ソナタ第6番 ホ長調 BuxWV264
9.ラテン語によるカンタータ「牡鹿が小川を恋しがるように」

録音:2002年11月、スイス、ゼーヴェンの教会

マリア・クリスティーナ・キーア(ソプラノ)
ビクトル・トーレス(バリトン)
スティルス・ファンタスティクス
パブロ・バレッティ(ヴァイオリン)
ソフィー・ワティヨン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
エドゥアルド・エグエス(テオルボ)他

 このアルバムの良さは、循環バスの曲が多く集められていることです。冒頭のカンタータもバスが下降して上昇するブクステフーデお得意のパターンをずっと繰り返しています。その上でソプラノが美しいメロディーを変奏していきます。
 そしてなんといっても私の大好きな「パッサカリア(パッサカーリャ)ニ短調BuxWV161」と「シャコンヌ(チャコーナ)第4番 ホ短調BuxWV160」が2本のヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバ、通奏低音に編曲されて演奏されているのが素晴らしい。いつか自分も編曲して弾こうと思ってたんですが、先を越されましたね。それも予想とは違うイメージになっていてちょっとビックリ。かっこいいぞ。
 バロック・ヴァイオリンのパレッティさん、アルゼンチンの方なんですね。ちょっと粗削りなところが本来のヴァイオリンらしくて好感が持てます。ソナタでも大変魅力的な演奏を聴かせてくれます。なかなかにファンタスティックだ。
 このアルバムを聴いて、再確認しました。私ブクステフーデ好きだわ。オルガン曲も合奏曲も声楽曲もワタクシのツボにはまる。バッハよりもすんなりツボに来ます。以前こちらに書いたプログレ性がすなわち「幻想・型破り」なんでしょうね。そういうのが好きなようです。自分がもし作曲家だったらこういうの書きたいもの。
 1曲だけベッケル(DIETRICH BECKER)という人の作品が入っています。初めて聴きました、この人の曲。ブクステフーデより単純ですがいい曲です。ここでもバスが循環しています。流行ってたんだろうな。というか、本来の民族音楽の性質を残していたんでしょう。バッハがそういう民族性、土俗性みたいなのを消しちゃったというか、昇華しちゃったんだな、きっと。ちょっと残念。
 というわけで、私もじっくりブクステフーデに取り組んでみようかなあ。誰かやりませんか?

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Amazon Dietrich Buxtehude: Ciaconna, il mondo che gira

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2007.10.13

『PCTV-hiwasa mini (ワンセグチューナー)』 ログファーム

Pctvhiwasa_mini 発売当初に買いましたが、実際に使う機会がなく2ヶ月以上放置してました。先週久々に使ってみたら、なんだか全然受信しない。不具合が発生しているようなのでログファームにメールしましたら、どうも初期ロットに不具合があったようで、すぐに新品が送られてきました。それは問題なく動作しています。
 もともと買った目的がやや不純でありまして、つまり、別にパソコン上でテレビを観ようということではないんですね。まだ実験していないんですけど、実はここ富士山で東京のワンセグを受信しようと考えてるんです。
 富士山での東京の地デジ受信作戦の顛末は、こちらからの始まる一連の記事をご覧下さい。結果として現在は地元の地デジを受信し、東京の放送はアナログで受信している我が家であります。
 で、皆さんご存知のとおり、2011年7月にアナログ放送が終了してしまう予定でして、そうなるとここでは今まで普通に観ることができ、生活の一部になっていた東京の放送が基本的に観られなくなってしまうわけです。これはとんでもない事態です。便利になるどころかそれまでのサービスが全く享受できなくなるんですからね。ほとんど暴力です。
 その横暴に対抗すべく、庶民は虚しい努力を日々試みているのであります。このワンセグチューナーを購入したのも、そのような作戦の一環なんですね。地デジが難しいならしょうがない、ワンセグで我慢しようと。全く観られないよりは小さな画面で観られた方がいいに決まってる。ま、ホントのこと言いますとテレ東を観たいだけなんですけどね。
 あっそうそう、テレビ東京が静岡で観られるようになりそうなんですよね。そうなるとまたいろいろと試すことが増えるぞ。ここは静岡の波も受信可能ですので(たぶん)。あるいは静岡の実家をサーバにして、こっちで遠隔受信という手もある(そこまでしてテレ東を観たいのか?)。
 話を戻します。で、Macで使えるワンセグチューナーってあんまりなくて、また私のような使用目的に適した製品がなかったんですね。どうしようかな、と思っていたところ、6月にログファームからこの製品が発売になりました。性能的にも機能的にもデザイン的にもこれはいいぞと思いました。
 Macにも対応というよりもMacの方をメインに開発しましたという感じがよろしい。たいがいの製品はMacの方に機能制限がありますよね。(Windowsのみ)という表示を何回見たことか。ところが、この製品と付属の受信ソフトでは(Macのみ・Mac専用機能)という文字がいくつも…涙(笑)。
 ま、それはいいとして、当然遠距離恋愛…じゃなくて遠距離受信のためには大型のアンテナを接続しなければなりませんからね、F型変換ケーブルがオプションで用意されているというのもいいですね。この小さなチューナーに30素子の巨大アンテナをつなぐというだけでもかなり燃え(萌え)る状況ですねえ(笑)。
 地元局の遮蔽作戦も含めて、近いうちに実験しますので、また報告します。
 え〜、話があっちこっち行って申し訳ありません。いちおう普通に製品のレビューをしますと、他と比較したことがありませんのでなんとも言えませんが、受信感度もまあまあですし、ソフトの使用感も及第点。付属の外部アンテナもカワイイし全体に満足しています。選曲やバッファに時間がかかるのはどれも一緒でしょう。
 ところで、このログファームさんですが、徳島の会社です。住所を見ますと「徳島県海部郡美波町奥河内字奥潟」とあります。渋いっすね。あっ、だから「hiwasa」なのか!最初「hiwasa」ってなんだ?と思いましたが、「日和佐」なんですね。旧日和佐町です。四国には行ったことがありませんが、このあたりの海はきれいそうだなあ。
 日和佐の名が最新機器に乗って世界に発信されているわけですね。徳島といいますとジャストシステムを思い出しますよね。徳島ってそういう風土があるんでしょうか。

ログファーム

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2007.10.12

『メディア・リテラシー—マスメディアを読み解く』 カナダ・オンタリオ州教育省 (リベルタ出版)

Med 昨日、メディアリテラシーの教材を提示いたしましたが、今日もまたメディアリテラシーの必要性を感じる出来事やらニュースやらがたくさんありましたので、そのあたりについてウブでもヤボでもないと自認する私が、ちょっとグチります。
 まずこれからいきますか。今日、職場つまり学校で「食育」についての講演会がありました。保護者対象です。3食ちゃんと食べましょう、食べさせましょうと。ま、その内容自体は成長期の高校生に関することが中心でしたので、それほど問題はなかったし、至極当然のこと、世間でよく言われてることでした。1日1食しか食べない、それも朝昼抜きで丸3年以上、いたって健康の私にとっては耳の痛い話でしたけどね。大人の、たとえばメタボの話や生活習慣病の話も出てきましたので、私はクラスごとの会合では、その講演者と逆の話をさせていただきましたが。大人は減食によってカロリー制限せよとね。肥満も生活習慣病も3大疾病も、日本人が3食ちゃんと食べるようになってから急増したと。
 で、その講演の中にも当然のように出てきたんですが、「朝食を食べない子どもはキレやすい、集中力がない」ってやつ。どう思いますか?私はいつも逆だと思ってるんですよ。逆。
 つまり、「キレやすい、集中力がない子どもの親は(ダメ親で)朝食すら作らない、食べさせない」ってこと。現場の人間から言わせると、たぶんこっちの方が正しいっす。ものすごく乱暴に言ってしまうと、「ダメな子どもの親はダメ親」、いや「ダメな親の子どもはダメ」ってことです。
 なんて話をしたんですが、親御さんたちはいったいどんなリテラシーをもって私の話を聞いたことでしょう。ちなみに生徒は私の話はまず疑って聞きますので、「またハッタリ言ってる〜」って言うでしょう。いいことです。でも、実はホントのこと言ってるんだよなあ、オレ…(笑)。
 さて、さて、テレビやネットや新聞のニュースがまた面白かった。
 「内藤vs亀田」…昨日観れなかったので、今日ニコ動で観ました。コメントも含めて大変楽しませていただきました。あれはまさにルール無視の自爆テロ。プロレスにもなってません。いや、ルール厳守のプロレスとは正反対です。単なるガキのケンカ。毎度のことですが、TBSの「煽り」に対しては皆さんちゃんとリテラシーを発揮されているようですね。いいことです。そういう意味ではGJなのかもしれません、TBS。
 ビックリしたのはゴアさんがノーベル平和賞を獲ったことです。ちょうどイギリスで(!)この本に誤りがあったという判決が出たところでしたし、なんとも面白いタイミングでした。これによってまた、メディアリテラシーのない連中は無批判無責任に「地球温暖化だ!地球を守れ!」って言い出すんでしょう。ノーベル賞もずいぶんと政治的なものですよね、昔から。どうせじゃ、ゴアさん、ペレリマンみたいに辞退した上に出家でもして見せればいいのに。飛行機乗り回してないでさあ。それこそ地球に優しいっすよ。
 そのほかにも「角福」「赤福」「赤白」という、まるでしりとりのようなニュースが連続していて笑ってしまいました。「角福」はもちろん第二次角福戦争のこと。「赤福」は赤福の製造年月日捏造のこと。「赤白」は楳図かずおさんの赤白ストライプの家の話です。どれもニュースが煽る、煽る。特に民放。
 とにかくちゃんと私たちがメディアに対する接し方を知ってなきゃダメです。メディアとは私の「モノコト論」ですと、「コト化」の装置のことです。「モノ」と「コト」の中間、ミーディアムの複数形です。中間といいますか、コトの最先端部分なんですね、それが「コトの端(言の葉)」です。私たちにとって外部の未知情報(モノ)が内部の既知情報(コト)になる、その瞬間部分なんです。そこんとこを無防備にしておきますと、他人の「カタル(語る・騙る)」コトがそのままこっちの内部に侵入してきて、そして成長増殖するんですよ。だから、ちょっと関所を設けるといいますか、免疫力をつけるというか、フィルタリングするというか、そういう知恵が必要なわけです。それを世の中ではメディアリテラシーって言うようですね。
 ちょっと前に「国語におけるメディアリテラシー教育」の発表をした(させられた)ので、その時大量の参考文献を読みました。本を読みながら西洋からの直輸入に自己満足している輩が多いことに辟易しつつも、なんとか得意のハッタリ力で発表は乗り切りました。まあ、勉強になることも多々ありましたよ。ですので、いちおう今日はメディアリテラシー教育のバイブルというか古典と言われている本を紹介しておきます。

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2007.10.11

『911の嘘をくずせ ルース・チェンジ』

LOOSE CHANGE 2ND EDITION
911 9.11はアメリカによる自作自演、捏造だった!
 …という内容の映像作品。ちまたでは密かに人気のようです。無料で誰でも観られるというのがミソ。しかも日本語吹き替え&字幕版で。
 このような実際に何千人もの人が亡くなった大惨事に対して、面白いとか興味深いとか、これは娯楽作品だとか、そんな不謹慎なことは言えませんし、第一、冒頭からして「警告 この情報を所有する者は、アメリカ愛国者法第802条の下、国内テロの容疑で身柄を拘束され、裁判抜きでグアンタラモ収容所に拘留されるおそれがある」ですからね(笑)。軽々しく記事にできませぬ。
 ただ、一言。こういう陰謀論は古今東西に蔓延していますし、私はそういう「モノガタリ」が嫌いではありません。いや、どちらかというと好きであり、いや大好きであり、自分のライフワークの一つもその類いのものであります。かと言って、こうしたモノ、というか「コト」「カタリ(語りor騙り)」を鵜呑みにするほど、ウブでもヤボでもありません。
 ですから、今日はこの作品をメディア・リテラシーの教材としてここにおススメしておきます。
 ついでにもう一言。アメリカは(特にブッシュは)こういうウワサを立てられるだけの国(人)であるということです。それだけはたぶん事実でしょう。
 それでは、この作品に関するリンクを張って(貼って)おきますので、どうぞご覧下さい。83分です。ダウンロードも出来ます。

 消えてたら(消されてたら)ごめんなさい。

Stage6で観る

Google Videoで観る

YouTubeで観る

Loose Change 鑑賞案内(批判サイト)

911の嘘をくずせ公式

きくちゆみ公式

Amazon 暴かれた9.11疑惑の真相

楽天ブックス 暴かれた9.11疑惑の真相

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2007.10.10

『ナノかわゆす・ピコかわゆす』

61ti5bxwnhl_aa240_ 忙しい中頑張って出したこのCDもなかなかの売れ行きだとか。ちょっと生徒に聞かせてもらいましたが、それなりに歌もうまく、ああこの人はいろんな意味で「タレント」がおありだな、と40過ぎたオヤジは思うのでありました。言うまでもなく彼女、ヲタクの中のネ申的存在であり、またカリスマ的ブロガーでもあります。
 さて、そんな「しょこたん」こと中川翔子たんでありますが、私が注目しているのは彼女の生み出す言語であります。いわゆる「しょこたん語」ですね。
 中でも代表的な言葉である「ギザかわゆす」はなかなか興味深いのであります。「ギザ」は「ギガ(giga)」の打ち間違いをそのまま使ったのだそうでして、まあ今風に言えば「超」、古風に言えば「いと」のような強調の副詞ですね。
 「かわゆす」は「かわいい」ということで、単独では「カワユス」とカタカナ書きすることが多い。しかし、前に「ギザ」などのカタカナ語がつくとひらがな表記になるようです。これはなんとなく分かる。「ギザカワユス」よりも「ギザかわゆす」の方がいい。本当のところなぜかは分からないけれど、でもなんとなく分かります。
 さて、もうあまりに当たり前のことで書くのも憚られますが、「ギザ」の本来の形「ギガ」にせよ、「カワユス」にせよ、2ちゃんねるから発した言葉ですね。2ちゃんにおける日本語の様態については、すでに多くの学者さんたちによって研究されている(はずです)ので、ここでは詳しく書きません(本当は書きたいが)。
 で、先に「カワユス」の方について書きますけれど、しょこたんはこれを発展させて「カワユシ」という使い方もするんですよね。これはもう完全に古語返りであります。もちろん、「〜ス」という用法は単純に古語における形容詞の復権、すなわち語尾の「し」を「す」に読み替えたものではないことは、「カナシス=悲しい」「キモス=気持ち悪い」「ウラヤマシス=うらやましい」「ワロス=笑える」などの例を挙げるまでもなく明らかであります。しかし、紆余曲折を経たとは言え、しょこたんによって復元された「カワユシ」にせよ、あるいは若者語として一般化しつつある「なにげに」「さりげに」などの形容動詞連用形に類似する語群にせよ、それらが与えるイメージの中にある種のノスタルジーが含まれているのは確かなようです。2ちゃんでも多用される疑似歴史的仮名遣いなんかもその類ではないでしょうか。
 次に「ギザ」です。このような強調の副詞は、日本語史上決して無視できないものであり、その変遷については既に多くの専門家によって研究しつくされている(はずです)ので、そちらに譲ります。こうした感嘆的な強調表現を憂える方々も多いのですが、では枕草子を見よ!「いと」だ「いみじう」だ「いたく」だ、やたらに出てきます(関連記事)。
 「ギザ」は先ほど書いたように「ギガ」の誤表記なんですが、もう時代は「ギガ」を超えて「テラ」ですので、そちらもかなり使われるようになってます。つまり、こうして感嘆的強調語は、そのインパクトが逓減し、さらなるインパクトを持つ新語にその座を譲っていくわけです。つまり、感嘆的強調語の寿命は短いんですね。それこそが日本語史上の大きな流れであり、多くの副詞が消長した歴史そのものなのであります。
 ま、それはいいとしてですねえ、突然ですが、今日はしょこたんに負けじと新語を考えてみたので、皆さん使ってみて下さい(笑)。
 それはこの記事のタイトルにもした「ナノかわゆす」と「ピコかわゆす」であります。
 今日、ウチのクラスのギャルどもに提案したら、かなり評判よかった。これ使える!これ使おう!はやらそう!って盛り上がってくれました。どうもヤツらの感性のある部分を表現するのに適していたようです。
 つまりですねえ、感嘆的強調ばかりが彼女らの感情ではないということです。「ちょっと」とか「微妙に」とかそういう程度の表現も欲しているわけですね。「ちょっとかわいい」とか「とりたてて強調するほどではないけれど、普通ではなく微妙に惹かれる」とか。で、そんな時たとえば「なにげにかわいくない?」みたいな表現もあるにはあるのですが、そこまでは行かない、だけれど心には止まる、そういう程度を表すいい語がなかった。
 そこに登場したのが、てか、私が生み出したのが「ナノ〜」「ピコ〜」であります(笑)。どうっすか?悪くないでしょう。もちろん「ギガ」とか「テラ」とかのパクリです。逆の発想。
 「ナノワロス」「ピコウラヤマシス」…いいでしょ?音的にもなにげにナノかわゆす(笑)。
 もう誰か使ってるかもしれませんが、まあいいでしょう。気にしません。言ったもん勝ちです。

ps 副詞としての「ナノ」も「ピコ」も科学の発展とともに消え行くのでしょうね。言葉の哀しいサガであります。

しょこたんぶろぐ

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2007.10.09

『Bach Meets the Beatles』 John Bayless (Pf)

『バッハ・ミーツ・ザ・ビートルズ』 ジョン・ベイレス(ピアノ)
51ss8et8dcl_aa240_ 今日はジョン・レノンの誕生日ですね。昨年はいいこととんでもないことが起きましたっけ。あれからもう1年かあ。
 というわけで、ジョンの誕生日にちなんで何か書こうかなあと思っていたんですが、どうも最近忙しすぎていかん。で、目に付いたCDを紹介します。
 私、何度も書いてますが、ビートルズとバロックが自分の音楽的なルーツの重要部分を占めていまして、どういうわけかその両者の融合みたいなものに異常に執着してきました。
 最近の大ヒットは、古楽器による完全コピーであるこのシリーズと、あのリフキン先生による超スーパーぶっとびなこちらですね。リフキンのは聞いたのは最近ですが、実際録音されたのは1965年です(!)。
 と、どうも妙な趣味なんですが、しかたありませんね。自分でも高校時代に何曲か編曲までして、学園祭で披露したりしてましたから。そういう病気なんだと思います。
 それで今日紹介するのはバッハの様式で即興演奏されたビートルズです。1984年の録音。演奏はジョン・ベイレス。今でも人気のあるピアニストです。いや、ピアニストというかピアノ・エンターテイナーですかね。昨年も来日してすさまじいステージを見せてくれたようです。モーツァルト・イヤーでしたから、モーツァルト風の即興でいろんな曲(演歌とか)を聞かせてくれたとのこと。こちらにたくさん動画がありますので、参考までにどうぞ(バッハ風のテイク・ファイブはなんだかわからんがすごいな)。
 この人、リフキンさんなみのセンスを持ってますね。バッハの様々な様式を完全にマスターしているように聞こえます。このCDでも、コンチェルトやコラール前奏曲、フーガなどのテクニックを駆使して即興演奏しています。メロディーに入るとビートルズだとわかりますが、そこに至るまでの部分は完全にバッハです(本当のバッハも時々出てきます)。まあ、どこまで即興かわかりませんけど、ミスタッチもけっこうあるし、本人の手グセみたいなのもの感じられ、そういう意味では即興らしく聞こえます。
 こういう企画って大概、木に竹を接いだ感じになっちゃいますよね。でも、これはビートルズのメロディーやコード進行を素材にして違う楽曲を作っているという感じなので、比較的不自然なことにはなってません。けっこうきれいな曲が多く、BGMとして流したりしてもいいんじゃないでしょうか。私、実は好きです。
 こういうのを聴いてますとね、またまた繰り返しになっちゃいますが、ビートルズがいかに西洋古典音楽の上にいるかがよくわかります。ある意味、彼らはクラシック的世界を初めてポピュラー音楽に持ち込んだとも言えるわけです。古典を復活させたとも言えるのです。もちろん、彼らにはそういう意識は希薄でしたし、他の民俗音楽なども同じように取り入れていましたが。
 いや、彼らにとっては、いわゆるクラシック音楽は単なる民俗(民族)音楽だったのかもしれない。ヨーロッパの特定の地域で特定の期間(案外短期間)に異常に発達した特殊な音楽だということを感じていたのかもしれない。だから、別にそこに敬意を払うこともないし、差別することもなかったのかも。そういういわゆるクラシック音楽の本質をあぶり出してしまったのかもしれませんね。だから、そこにはまる人と、そこを嫌う人がはっきり分かれるのかもしれません。
 いずれにせよ、ビートルズは偉大なり…ということを、このCDを聴いて改めて確認した次第であります。

Amazon Bach Meets the Beatles
Bach Meets the Beatles(試聴可)

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2007.10.08

修斗

Shooto この3連休はe2が無料開放でしたので、私は普段観れない「FIGHTING TV サムライ」を満喫。さすがにこれだけ格闘技やプロレスを続けて観ますと、ちょっと疲れますな。
 硬軟いろいろなものを観たわけですが、中でも一番面白かったのは「修斗」でした。いつもは総合格闘技の悪口ばかり書いているのに、と言う方もいらっしゃるでしょう。いや、実は修斗、今回初めてちゃんと観たんですよ。何しろ普段テレビでは観る機会がないもので。私の中では初代タイガーの創設時から時間が止まってたんです。
 今回修斗の面白さがわかったと同時に、この前ホントに消えちゃったPRIDEやK-1HERO'Sのつまらなさの原因もよくわかったような気がしました。そして、私の格闘技観やエンターテインメント観を確認するよい機会にもなりました。
 考えてみれば、修斗は初代タイガーマスクこと佐山聡がシナリオのある従来のプロレス(世間では八百長と言いますが)を否定して、競技としてのプロフェッショナルな格闘技を目指して創設したものです。プロレス大好き(つまりシナリオのあるショー大好き)の私としては、そこからしてすでに自分とは相容れないようにも感じていたのですが、単純にそうとも言えないということがよくわかりました。つまり、修斗は単純なMMAやバーリ・トゥードではなく、明らかに美しい「型」があるということなんですね。そういう意味では完全に「武道」であり、あるいは本来の意味での「武士道」であり、単純で無粋な「ケンカ」の延長では決してないということです。
 逆に言えば、私の好まないPRIDEやHERO'Sは、私から見ると単純で無粋だということです。そこには一定の「型」や「思想」がないために、かみ合うアンサンブル的美しさや心地よさがありません。お互いが尊重しあう何かがない、どころか、お互いの型の潰しあいにしか見えないのです。そして、そこに中途半端な演出が加わるんで最悪です。ビッグネームによる話題性や、どのジャンルの格闘技が一番強いのかという二義的な興味関心だけで大きなお金が動いているような気がするんですね。つまり、これは地下プロレスの延長、すなわちケンカ見世物の延長にしか過ぎないんだということに遅ればせながら気づきました。
 一方、修斗にはたしかに勝敗以上に尊重すべき「何か」があると感じました。創始者佐山聡はこう言っています。

 「打て」という“打”ではなく「投げろ」という“投”ではなく「極めろ」という“極”ではないまた単に打・投・極を総合的に闘えばいいというものでもない。自然の流れにのった技術がとぎれなく連係し、なめらかに回転することが修斗の姿である。そして闘いを修めていく修斗の思想が、競技者を人格的に正しく導く。それこそが修斗の理念である。礼に始まり、礼に終わる。礼こそ修斗の基本姿勢であり、自然に発せられることが、修斗体得への第一歩である。

 今日の放送を観ていて明らかに違うなと思ったのは、技の攻防の美しさでした。これは、「何でもあり」ではなく一つの同じ「型」の中で磨きあってきた互いの技や魂に対する「思い」を感じさせるに充分なものでした。まさに正々堂々の形です。例えば、私の大嫌いなマウントしてのパウンドのシーンはほとんどありませんでした。最近は多少変わってきたとも聞きますが、やはり最後は「極める」のが理想だと考える選手が多いようです。
 私はどうもそういう「型」や「様式美」が好きなようですね。修斗にもプロレスにも理想とする「美」が存在します。その表現は全く正反対とも言えそうですが、よくよく考えてみるとその根本の部分では一致しているような気もしてきます。「型」の中の微妙な味わいの違い、あるいは一見予定調和的に見えるストーリーの繰り返しにおける微妙な変化。そして、最終的には相手に対する敬意と信頼、相手とのコラボレーション、アンサンブル。
 そんなふうに考えてきますと、佐山聡が再びプロレスをやり始めたというのは、ますます面白い事象ですね。

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2007.10.07

『天空の民“ブロックパ”〜ブータン・秘境に生きる〜』(NHKハイビジョンスペシャル)

Bhutan01 2002年に放送されたものの再放送。9月に録画しておいたのをようやく観ました。いろいろなことを考えさせられる番組でした。
 今日はNHKスペシャルで「激流中国・チベット・聖地に富を求めて〜鉄道開通で聖地に富が▽骨董品ブーム▽揺れる民族の心」というのをやってました。これはけっこうショックでしたね。中国さん、たのむよ〜、という感じでした。このNスペを観る前に観たのが、 『天空の民“ブロックパ”』でした。こちらにも程度の違いはあれ、同じテーマが…。
 すっかり近代化し、経済的な豊かさを謳歌する私たち日本人が他人事のようにこの件について語るのは気が引けますが、自分たちの成功と失敗について考え、他国が同じ轍を踏まないかと気をもむ権利くらいはあるでしょう。
 『五木寛之 21世紀・仏教への旅〜ブータン』を観てから、がぜんブータンに興味を持ち始めたワタクシ。それとともに現代日本のいろいろな問題や矛盾、特に自分の世代の大人たちのダメさ加減にうんざりし始めました。
 実は今すぐにでもブータンに行きたいくらいなんですけど、そうもいきません。そこでいろいろ本を読んだり、ネットで調べたりしてました。そして、いろいろ思いを巡らす。自分の生活を見直してみる。そう最近では『美しい国ブータン—ヒマラヤの秘境のブータンに学ぶ「人間の幸せ」とは!?』を読みましたっけ。
 で、ブータンの中でも特別な民族、東部国境地帯の山岳部に住むブロックパの生活を取り上げたこの番組を、満を持して観てみたわけです。
 内容などはこちらのサイトに詳しいので譲りたいと思います。そのかわり、最近思っていることをずらずらと書きます。独り言みたいなものです。
 自然の中で生きること、利他、共同体のあり方、宗教や信仰のあり方、一妻多夫制、ドゥンチャン(日本のドンチャン騒ぎと同じ!)など、いろいろと考えることがありましたが、特に私がこの番組で深く考えさせられたのは「教育」についてです。
Bhutan02 本来、ブロックパは遊牧民族ですから、学校はありませんでした。あくまでも親が子どもに仕事を手伝わせることによって生きる術を教えていきます。教育の本来の形でしょう。今の日本では、そこのところがもうすでにできていませんね。親は子どもが学校に行っててくれれば安心。楽。そんな感じです。父親の仕事はもちろん、母親の仕事である家事を手伝う機会も減っていますね。ウチももちろんそうです。
 また、自然の中で遊び、楽しい思いや怖い思いをし、達成感をえたり、あるいは怪我をしたりしながら、いろいろなことを学んでいく。それが仕事にも生きる。大人として必要な技や智恵、それはすなわち自然の中でいかにうまく生きていくかということです。それを生活の中で身につけていきます。その基本的な単位は、やはり家族でありました。が…
Bhutan03 ブータンも政府の近代化政策の一つとして学校教育の徹底を進めています。そして、その波がブロックパにも押し寄せていました。集落に学校ができ、そこに子どもたちが通うようになります。国語以外は英語で授業が行われていました。学校に通うために家の仕事を手伝えなくなっていく子どもたち。みんなでサッカーをして遊ぶ姿は、なんら日本の子どもたちと変わりません。それは素晴らしいことであるとともに、恐ろしいことでもあると感じました。
 ブータンはチベット仏教の流れをくむ国です。世界で唯一チベット仏教が国教の国です。その教えは「知足」「布施(利他)」「中道」などの言葉に集約されます。一方、近代化とはすなわち「不知足」「利己」「経済的発展至上主義」です。そんな抗いがたい大きな波が、ブータンの僻地にまで及んでいることに驚きました。それは学校だけではありません。軍隊という、これまた近代化の権化のようなものへの入隊も強制されていました。
 これはまさに日本も体験してきたことですね。この百数十年の中で、私たちはあっという間に近代化のリーダーにまでなってしまいました。そして、今のこの世の中、この自分です。なんとも言えない苦しい気持ちになりました。
 考えれば考えるほど、これから自分がどのように生きていけばいいのか、自分が親として教師として何を伝えていけばいいのか迷うばかりです。自分の感情や感覚、発想や思想と、実際の行動や生活の矛盾が恐ろしい。
 ただ、この番組やいろいろな本を読んだりして、最近一つ分かったこと。あるいは決めたことはこれです。これだけはこれから実行していきたいと思います。
 「見返りを期待する暇があったら、自分ができることを施すことに時間とエネルギーを費やそう」
 ふだん口には出してはいませんが、「見返り」すなわち「対価」「お礼」「称賛」「名声」「地位」を期待している自分に気づかされたからです。

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2007.10.06

『おはなし迷路ポスター 赤ずきんちゃん』 作 杉山亮 絵 中川大輔

P_akazub これは面白い!
 今日カミさんと子どもが、近くの図書館で行われた杉山亮さんの講演会に行ってきまして、これをお土産に買ってきました。
 私、不勉強で杉山亮さんのこと知らなかった。肩書きはおもちゃ作家さんでよろしいのでしょうか。最近は児童書の執筆も多いようですが。小淵沢にお住まいなんですね。「本っておもしろい」という講演の内容も、読書と教養とか、教養と笑いとか、江戸の文化や教育に関することだったようで興味を持ったんですけど、このお土産もまた実に面白かった。たしかに江戸のセンスだな、こりゃ。おもちゃ絵ですね。
 とにかく彼女たちが買ってきたお土産を紹介しましょうか。←こんな感じです。
 とは言っても、この画像じゃ何がなんだかわかりませんね。
 これは迷路になってるんですけど、正しい道をたどっていくと、そこには正しい赤ずきんちゃんのお話が展開していくわけですね。それで、間違った道に行きますと、別の物語になっていってしまいまして、で、普通の迷路と同じで途中で行き止まりになっちゃうんですね。つまりお話が変な方向に行ってしまって、突然終わってしまうわけです。
 そのお話のはずれ具合、終わり方がなんとも面白い。絶妙なセンスなんですよ。これははまりますね。最初の部分だけ見ていただきましょうか。
Meiro12 ちょっと小さく見にくいと思いますが、冒頭部分なんか、「むかし、あるところに…」と行くべきところ、「むか…」の分岐点で道を間違うと「むかでだぁ!」でお話が終わってしまいます。「あるところに…」のところには「赤ずきんという名の女の子がいました」と「赤ずぼんという男の子がいました」と「キンという名の女の子がいました」の三つの分岐がありますね。ちなみに「キン」の方に行きますと、彼女は「赤津(あかづ)さん」と結婚して「あかづきん」という名前になってお話が終わりです(笑)。
 まあ、こんな感じで無数の分岐点から無数のメチャクチャなお話生まれ、そして突然終わってしまうわけですね。そのはずし具合がホント絶妙なんです。違う昔話になったり、現代日本の光景になってしまったり、おばあさんがおしりに花火をつっこまれてロケットにされたり(笑)、とにかく正しい道なんかどうでもよくて、全ての間違った道を歩みたくなるわけです。
 こういうセンスの中にナンセンスを生んでいくというのは、まさに江戸の笑いの文化であります。パロディーですね。オリジナルを知っていなければ楽しめないという意味では、まさに教養を必要とする笑いです。そして、このたった1枚の紙の中に、本当に無数の笑いがあり、この1枚の紙で何時間も何日も楽しめるわけです。こういうことは、今の子どもの文化にはなかなかないですね。その場の刺激だけ。はい次、はい次って感じで。
 講演の中にもそういう話があったようですが、とにかく今の子どもを見ていますと、一つの物を繰り返し楽しんだり、味わったりすることが少ない。なんでも二度目だと「知ってる〜」「つまんない〜」「新しいのがいい〜」ということになってしまいます。高校生でもそうだよなあ。これはいかんでしょ。
 つまりよく言われるように、彼らは自分から何かを発見することがないんですよね。与えられたもの、情報をただ受け取るだけ。飽きたらおしまい。
 昔は飽きてからが勝負でしたよね。そこにいかにオリジナルな意味や価値を見出すか。つまり何もないところに「物語」をつくるということです。私の「モノ・コト論」でいいますと、なんだかわからない外部の「モノ」を「カタル」ことによって「コト」化していくわけです。今の子どもたちは「モノ」を感じることすらできない。だから「カタル」こともないし、新しい「コト」も生まれない。ただ、大人がお金もうけのために作った「コト(いわゆる物もほとんどがコトに属します)」を受け取るだけ。ちっとも創造的じゃない。
 で、このおはなし迷路、とっても面白いので、これは生徒やウチの子どもにも作らせてみようかなと思ったのです。パロディーというのは、元があるだけに、何もないところから何かを生み出すよりもとっつきやすい。もちろん、そこにはパロディーならではの特別なセンスが必要ですから、本当は難しいんですけどね。
 とにかく言葉遊びとしても、物語づくりとしても、実際のゲームとしても実に面白いと思います。高校生くらいなら昔話じゃなくて、短編小説なんがでもいいかもしれないし、古文でやったりしたらかなり高度な勉強ができますね。
 まずは自分でやってみようかな。杉山亮さんのアイデアをちょっと拝借させていただきます。

Nekomeiro ps とりあえず全部のストーリーを追ってみようと思って床にポスターを広げていましたら、ウチのバカ猫がこんなふうにドカンと…。なんで、猫って人が見たり読んだりしてるものの上にドカンと来るんでしょうね。新聞なんか絶対読めませんよね(笑)。大事なものにソソウをしたりするのも得意ですし、どうも人の視線とか、愛情線みたいなものを感じるようですね。なんなんでしょう、いつも不思議に思います。

Amazon おはなしめいろせかいのたび イソップものがたり

杉山亮のなぞなぞ工房 on the web

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2007.10.05

菊姫 大吟醸 (菊姫合資会社)

Kdigin たいへん贅沢なことですが、ちょっと前、ご近所のフランス人シェフ宅でご馳走になりました。その時、男3人で飲み干してしまったのが、この菊姫大吟醸です。
 加賀のお酒は今までもいくつか紹介してきましたね。「加賀鳶」と「白山」です。金沢大学に行っている教え子に頼んでいつも何か買ってきてもらってるんです。そのたびいつも満足です。私好みのお酒が多いんですね。
 実は一度も加賀には足を踏み入れたことがないんですが、ぜひとも近いうちに一度行ってみたいですね。そして、ホタルイカをつまみにおいしい日本酒を…。
 この前もBSデジタルを観ていたら、この菊姫のCMをやっていました。なんだか、最近世界一になったとか。調べてみると、「菊姫合資会社」の山廃純米酒「鶴乃里」が、世界最大規模のワインコンテスト「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」の「SAKE」部門で最優秀賞を獲ったということらしい。毎年イギリスで行われるIWCに今年から日本酒部門が出来たとのことで、その純米酒部門で最優秀になったとか。
 まあ、全然本場じゃないイギリスで選ばれたということで、なんとも微妙ではありますが、これからは日本酒もワールドワイドな存在にならなくてはいけませんからね…あっそうか、いちおうライス・ワインだから、ワイン・コンテストにこういう部門が出来たのか。今気づいた。
 「鶴乃里」は今どきの飲みやすい純米酒とは一線を画す、どちらかというと古いタイプのしっかりした味のお酒のようですが(飲んだことない)、そういうのが向こうで評価されるというのも面白いですね。それこそワインのテイスティング的発想なんでしょう。素材の味が上手に残っている方がいいと。そして、酸味に対する要求も日本人と違いますからね。
 ああ、話が本題からそれまくり。というか、「菊姫大吟醸」ですが、うますぎてもうあんまり言葉にならないんですよ。それこそ飲みやすいけれど味も芳醇でありました。このレベルになりますと、もう理屈じゃないっすよ。ってか、もう最後の方は酔っぱらってたし。今思えばもっとじっくり味わえば良かった…orz
 後日、いったいいくらくらいのお酒なんだろうって調べてみてビックリ!!こんないいお酒、自分で買って飲むなんてことありえません。またご馳走になれる日を楽しみにしております(なんとずうずうしい)。
 ところで「菊姫」といえば、菊理姫ってことですね。白山信仰です。菊理姫については語り出すと長くなるんで、またいつかということにします。この富士北麓には独特の菊理姫伝説が残っております、ハイ。では。
 今日はちょっと忙しいのでこのへんで。
 
【菊姫 大吟醸】菊姫を代表する大吟醸しっかりとした口当たり飲み応えのある大吟醸1800ミリ

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2007.10.04

SeeqPod Music(音楽ファイル検索・再生サイト)

Playable Search
Seeqpod けっこうお世話になっているサイトです。著作権とかどうなってるのか知りませんが(FAQには合法だと書いてあるようですが…)、ま、利用できるうちに利用しておきましょう。
 簡単に言うと、世界中のインターネット上にあるmp3ファイルを片っ端から探し出して、そのサイトに飛んだり、そのファイルをダウンロードすることなく再生することができるというサービスです。ついでに関係するYouTubeの動画も表示してくれます。なにかと便利ですね。
 この前、このブログにもSeeqpodのクローラーがmp3ファイルを探しに来てました。もしかして、私のサザエさんロックとか歌謡曲バンドの音とか拾ってったのか?と思っていろいろ検索してみましたが、ありません。良かった…(笑)。
Beatles1935 さて、実際どんな感じかと言いますと、たとえば、beatlesと入力して検索してみますと…瞬時に1935のファイルがあることが分かります。で、聴きたい曲を右側のプレイリストに入れて再生するわけです。
 もういきなり聴いたことがない音源がたくさんあります。単に私が知らないだけとはいえ、これだけ新しい音が聴けてしまうのは、正直ありがたいですし、正直申し訳ないような気もします。
 皆さんもお好きなアーティスト名を検索して試してみてください。サインインすれば、そのプレイリストも保存できたりするらしい。でも、普段はただその曲を聴くだけですから、別に登録しなくても問題ありません。
 この検索サイトの優れているところは、先ほども書いたように、検索サイト内でそのまま再生したり、プレイリストを作れたりする点ですね。世間でいろいろ言われる前には、Yahoo!やgooなんかでも音楽ファイルの検索ができましたが、それは基本的にそのファイルにアクセスしなければ再生できなかった。それが、ここではただクリックするだけで、その場で再生してくれる。これは案外便利です。ダウンロードする必要もない(基本的にダウンロードできないし、直接そのファイルにアクセスすることもできない)ので、そこんとこでいちおう著作権をクリアーしているということでしょうか(微妙)。
 作ったプレイリストは誰かと共有することもできますし、ブログなどに貼り付けることもできます(Embed用のコードも生成してくれます)。なかなかいいでしょ?YouTubeの動画を探してくれるのも案外発見があって楽しいっす。
 私は、昔聴いたあの曲あるかな?という使い方が多い。買うまでもないけど聴きたい曲ってけっこうあるじゃないですか。
 日本語の検索には対応していませんが、邦楽(J-POP)もけっこうありますし、ジャズやクラシックもありますね。podcast的なファイルもたくさん引っ掛かりますので、マニアックな情報が手に入ることもあります。まあ、いろいろ遊んでみてください。きっといいものが見つかりますよ。アルバム1枚まるごと、なんてファイルもありますし。
 それにしてもすごい世の中になりましたね。不思議な世の中です。こんなこと、ちょっと前まで考えられなかった(もしかすると、ちょっと後にも考えられなくなるかもしれませんが)。

Seeqpod music

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2007.10.03

『大人の科学マガジン Vol.17(ふろく テルミンmini)』 (学研)

Img10142683551 アメリカから突然失踪したロシア人科学者ということでは、昨日のペレリマンに先立つこと60年ということですか。テルミン博士。彼が発明した世界最古の電子楽器といわれる「テルミンヴォックス」。昔から欲しかったんですよ。それが、こういう形で手に入り、そして初演奏!これは行けるぞ!
 私の世代…すなわち大人気(おとなげ)ない大人に大人気(だいにんき)の学研「大人の科学」。マニアックかつノスタルジックな付録で私たちを(静かに)熱狂させてきました。私たちはまさに電子機器の自作世代であります。また、学研の科学と学習の申し子でもあります。特に「科学」の付録は魅力的でした。私は、小学生の頃、学研の本社の近くに住んでいましたからね、けっこう通ってましたよ。付録の余りをもらいに行ったりした記憶があります。ああ、懐かしいなあ。
 そのへんのツボをしっかり押さえつつ、しかし、お母ちゃんにも怒られない程度の金額で買えるという、なんとも見事なコンセプトに、我々の世代はすっかりやられているわけですね。
 そして、とうとう「テルミン」の登場です!最近ちょっとネタ切れかなと思っていましたが、まさかテルミンで来るとはなあ。こういう形で私の夢が叶うとは。学研GJ!です。
 ネット書店では軒並み売り切れでしたので、仕事の帰りに本屋さんに寄りましたら、まだまだ山積みになってました。都会じゃもうないんじゃないのかな。田舎はいいっすね。
Tepmeh 帰宅後ちょっとお酒をいただき、K-1MAXなんぞを見ながら付録の「テルミン」を作ってみました。作ると言っても、電子回路はもう基盤上に完成していますし、ほとんど組立てだけです。せっかくだからハンダ付けとか、そういう懐かしいこともしたいけれど、考えてみればコテすらないな。というわけで、このお手軽さがいいんでしょう。なんちゃってキットですが、そのキット感がよろしい。子どもたちは物と言えばほとんど完成品しか見たことがありませんから、「なになに?」と言って近づいてきます。そして、手際よく組み立てる父親に尊敬のまなざしを注ぐ…なんか気分いいぞ。
 そして、15分もかからず完成。電池を仕込んで音を出してみました。
 ん?むむむ…ン?これは難しいぞ。チューニングとやらが難しい。早く華麗に弾きたいけれど、なかなか音が定まらない。
 しかし、10分もいじっていればもう完璧。今まで25年くらいですかね、イメージトレーニングを積んできただけのことはある。いや、冗談じゃなくて。私の妄想の中では、私はテルミンの名手だったんですよ。もともと、ヴァイオリンとか三味線とか、音程を自分で探す楽器ばっかりやってきましたから、その勘所みたいなものには結構自信があるんですよ。
Theremin おっと、テルミンについてご存知ない方もいらっしゃりますかね。映画にもなりましたから、その音や映像をご覧になった方も多いと思いますが。とにかく楽器に触れることなく両手を宙に舞わせて演奏する不思議楽器なんですよね。左の写真はテルミンを演奏するテルミン博士です。耳に聞こえない高周波を二つ出して、その周波数の差によって耳に聞こえる「うなり」を出すという発音原理ですね。で、そこに人間の体が関与するわけです。2本(ふろくでは1本だけ)のアンテナに手をかざすことによって静電容量が微妙に変り、つまり人間とアンテナで可変コンデンサを作るってことですね、それで音程が変わるわけです。
 昔「エーテルフォン」と言われたとか。なんとなく分かりますね。空間に「何か」があって、それを宙を舞う手によってコントロールしている感じがする。そういう実感を得られるところが、このテルミンの魅力です。今、そういう感覚って減りましたからね。ん?いやいや、Wiiとかちょっとそんなとこあるかも。でも、あれはなんとなく原理が解るし、体の動きはあくまでヴァーチャルなものであって、画面上の結果とは間接的なつながりしかないような気がします。テルミンは直接的です。直接的なのに触感がない。目にも見えない。
 なんとなく「禅」って感じがするんでよ。ムックの中で矢野顕子さんが「能」だとか「テルミン道」だとか言ってますけど、それわかりますね。そういうことが電子楽器で実現しているというパラドックスが面白い。また、彼女やテルミニストの竹内正実さんが言うように、「難しさ萌え」みたいなものもあるし、シンプルなだけに演奏者がそのまま表れるというのもたしかにある。それに、あの演奏時の集中力、特別な体験です。これはハマりますねえ。
 なんて感じで、K-1そっちのけで、ウィ〜ン、ブ〜、ヴィ〜とかやってたら猫は驚くわ、子どもは「うるさい!」って言うわ、カミさんは呆れるわ、魔裟斗は負けるわ、周囲は散々なことになってました(笑)。すごい影響力だ。
 これは本格的なテルミンが欲しくなりますね。いかん、またまた変な楽器を始めることになりそうです。でも、絶対ワタシ得意ですよ、こういうの。変な自信があるんだよなあ。このminiを演奏してみて確信しちゃいました。ああ、ホンモノ欲しいけど高いしなあ。とりあえず自作しますか。
 ま、とにかく皆さんもぜひぜひ体験してみてください。本屋さんへレッツゴー!

ps ←これ(マトリョミン)買っちゃいそうです…orz

マトリョミン公式

オリジナル・マトリョミン

Amazon 大人の科学マガジンVol.17 テルミン (Gakken Mook)

楽天ブックス 大人の科学マガジン Vol.17(テルミン)

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2007.10.02

『数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘〜』(NHKハイビジョン特集)

071001a 昨日録画したものを観ました。これは面白かった。ヘタな映画よりもずっとエキサイティングでした。これは生徒に見せなければ。
 ちょっと前に「コマ大数学科」の記事を書きましたね。あの時のコマ大フィールズ賞はコマ大チーム(たけし軍団)が獲りましたっけ。で、今日はホントのフィールズ賞のお話。数学のノーベル賞と言われる、そのフィールズ賞を辞退した上に、行方までくらましてしまったロシアの天才数学者グリゴリ・ペレリマンをめぐる物語(ドキュメント)です。
 20世紀の数学的難問の一つ、フランスのこれまた天才数学者アンリ・ポアンカレ(ポワンカレ)が残した「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」というあれですね…って全然わかりません(笑)。当たり前です。番組でも紹介されていましたが、とにかく100年間天才たちがこの難問に翻弄され続けてきたのですから。
 この番組では、まずはこの難解なポアンカレ予想を、私たち凡才にもわかりやすく説明してくれました。ここがまず秀逸でした。1本のロープをロケットにくくりつけて宇宙を1周させ、そのロープを地球で引っ張って回収できたら、宇宙は丸いという証明になる、ということを、NHKは実写やCGを駆使して見事に説明してくれました。今回の番組は特に映像や編集が優れていたように思います。BBCの上質な科学ドキュメントを観ているような感覚におそわれました。いずれにせよ、難しいことを易しく(優しく)伝えるというのは易しくなく難しいことでして、そこには優しさが必須なのです(って難解な文だな)。
 さて、なんだか難しいけれど壮大で面白いポアンカレ予想。あっそうそう、ポアンカレ自身についても少し紹介されてましたね。彼もかなりの天才的変人というか、変人的天才というか…こちらにも書きましたが、数学者ってホント魅力的です(ハタから見てるとね)。で、その後もこのポアンカレ予想に変態的…いや天才的な数学者たちが振り回され続けます。なんでしょうね。もうこれは恋愛ですね。ライバル同士の心理状態は、これは完全に恋愛状態です。ほかのことなんかどうでもいい。もうポアンカレ予想ちゃんだけが人生になってしまう。ますます変態的でよろしい。
 途中、伝統的な微分幾何学の世界からトポロジーへと、その主役が移っていきます。すなわち、ポアちゃん(…ポアってなんか懐かしい響きだな)をゲットしそうな、ナウいイケメンが現れたって感じです。トポくん。このトポロジーというのもかなりぶっ飛んでますね。たしかに革命的な発想です。トポロジーはある意味視覚的ですし、一見シンプルですので、CGの得意とするところですよね。実際、番組のトポロジーに関する部分は実に活き活きとしていました。序盤と終盤のどよ〜んとした空気に対して、中盤はポップな感じで楽しかった。
 実はそのままポップなトポくんが、なにげにさりげにポアちゃんゲットしそうな雰囲気だったんですね、実際の数学界でも。フィールズ賞もトポロジー系が独占していたとか。中でもサーストンの幾何化予想はすごいですねえ。「宇宙がどんな形であれ、必ず八つの断片からなりたっているはずだ…3次元多様体は一様な幾何構造の断片に分解できるだろう」。なんだかよくわかりませんが、意外なほどシンプルで美しい。これにはポアちゃんも参るだろう…。
 そんなところに現れたのが崩壊ソ連からアメリカにやってきたペレリマンです。彼はとにかく自由人であり、また明るく社交的だったと言います。彼の専門は時代遅れともとられていた微分幾何学でした。難問の一つソウル予想を実に簡潔に証明してしまったり、その天才ぶりを発揮しつつあった頃、彼は運命的な出会いをしてしまいます。物理学の分野であるリッチフロー方程式を入り口にポアンカレ予想の世界に取り憑かれてしまうんですね。
 ロシアに帰ったペレリマンは、全く人が変わってしまったようにひきこもってしまいます。恋の病ですね。そして2年のひきこもりののち、彼はさりげなくインターネット上にポアンカレ予想を証明した論文を掲載します。これには世界中の数学者が驚きました。もちろん、最初は眉唾ものだとタカをくくっていたんですが、どうも論理矛盾が見当たらない。いったいこれは…もしかして。
Perelman アメリカの大学に呼ばれたペレリマンは、ものすごい勢いでその証明について講義をしました。世界中の天才数学者たちの恋が破れる瞬間です。なんとペレリマンは、トポロジーではなく、微分幾何学や物理学を使って証明してしまったのです。
 その瞬間のことについて、ある学者はこう言っていました。「証明が終わってしまったと落胆し、トポロジーが使われないことに落胆し、さらに証明が理解できないことに落胆した」…これって、失恋に落胆した上に、もともと自分には恋の成就の可能性がなかったことに気づかされるってことですよね。たしかにきついわ、こりゃ。
 しかし、しかし、彼はその後数学の世界から、いや数学だけではなくほとんどこの世から姿を消してしまいます。誰も連絡すら取れません。その姿を見かける人もほとんどいません。世の中からは忘れ去られていきます。冒頭でペレリマンの写真を見たロシア人が「俳優?テロリスト?」みたいなことを言っていたのには、つい笑ってしまいましたが。
 いったい彼に何があったのでしょう。今、彼は故郷の森でキノコ狩りをしているのだとか。彼はいったい何を見てしまったのでしょうか。恋が成就した途端、ポアちゃんだけでなく、女全てに興味がなくなってしまったのでしょうか。あるいは、その証明の過程に彼は神と交信してしまったのでしょうか。人の世に嫌気がさしたのでしょうか。何度も書いている通り、数学と宗教は「コト(脳内世界)」の究極の形であり、その意味では両者とも完全なるフィクションとも言えます。その世界を垣間見てしまった彼。彼が「出家」するのもなんとなく理解できなくもありません。
 番組の最後に、彼は恩師の訪問をも拒否します。完全に彼は私たちとは違う世界にいるようです。しかし、友人にはこう語ったと言います。私はその言葉に希望と恐怖を覚えました。
 「今、興味を持っていることがある。それが何かはまだ話せない」

追記 再放送を観て(2009.11.23)

Amazon ポアンカレ予想・100年の格闘 ~数学者はキノコ狩りの夢を見る~ [DVD] ポアンカレ予想を解いた数学者


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2007.10.01

格安デジカメ UDC-5M(Uniden)

Udc5m
 物欲を刺激するもの第3弾。
 先日、最近のデジカメはダメだ!と宣言しましたが、実は一つだけ許せる製品があります。最近のとは言っても、もう1年以上前の製品ですが、いまだに十分魅力的です。
 この前値下げが敢行され、ついに1万円を切りました。そろそろ買いかもなあ。これもまた在庫限りってことでしょう。ほしいなあ。所有したいなあ。
 ユニデンだし、見た目もチープだし、実際安いし、これもいわゆるトイカメラだと思った方が多いと思います。しかし!実はちゃんとした(?)デジカメなんです。それもかなり評価が高い。画質も非常によろしいらしく、いろいろなところでほめられてます。もちろん値段とのバランスを考慮しての高評価でしょうけど、はっきり申して我々が日常使うデジカメの画質なんて、そんなレベルで十分ですからね。
 ユニデン…もうこの時点で私は「萌え」なんです。この前経営に関する本を紹介しました。ユニデンの経営方針はなかなかユニーク、というか理にかなっていまして、もう創業当時からグローバルが当たり前、ダイレクト販売でムダを排除、少数精鋭によるセル的開発と、小さな企業、比較的地味なイメージの企業ではありますが、確実に売り上げを伸ばしています。北米でのコードレス電話のシェア1位というのは、昔から有名ですね。ちなみにウチでもちょっと前までユニデンのコードレス使ってました。
 そんなユニデンが突然発売したデジカメがこれだったんですね。そして、いきなりグッドデザイン賞を獲ってしまった。たしかにどれも同じようなデザインになってしまったデジカメ界にとって、この質感は衝撃的でしたね。おもちゃっぽいけれど、微妙におもちゃにまではなっていない。ダサいとクールの境目をうまく行ったデザインです。そうとう自由な発想がないと出てこない造型とカラーリングです。
 私なんか、そういう個性的な外見だけでもうすっかりファンになってしまったんです。実物を一度見たことがありますが、案外小さいんですよ。その造型とサイズのアンバランスというか、予想を裏切る感覚が「ギャップ萌え」なんですよねえ。
 どうも中身はSANYOではないかという噂もある。デジカメの商標を持つサンヨーさんはそのデジカメからほぼ撤退ですし、そんな意味でもちょっとほしくなります(っていったいなんなんだ自分は…)。
 あと、これもいつも書いてますけど、乾電池仕様が一番いいんですよ。eneloop使えばそうとう長持ちするし安上がりだし。いざという時コンビニで買えるし。後継機種のUDC-7Mはねえ、デザインはいいんですが、充電池になってしまったので、私にとっては最初からボツです。
 まあ、皆さんにはどうでもいいのかもしれませんが、ちょっと人と違うデジカメ、それもある程度ちゃんと撮れるデジカメをご所望の方は、ぜひこいつを候補に入れてやって下さい。なにしろお店では売ってないので、知らない人は知らないまま人生を終えてしまうでしょうね。2台目のデジカメとして持っていてもいいのではないでしょうか。あるいは本当に初めての方にもおススメです。マニュアル読む必要がないほど使い勝手がよろしいようなので。

結局買いました!

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