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2007.10.31

「学習」と「教育」〜『アンデス 神の糸を刈る日(シリーズ 天涯の地に少年は育つ)』(NHKハイビジョン特集)

Ck01 何気なく観たこの番組、地味でしたが何かとても感じるところがありました。ちょっと前に紹介した「天空の民 ブロックパ」と同じようなことを思いましたね。
 アンデスの高地、標高4500メートルの村で年に一度だけ行われる「チャク」という狩り。ビクーニャという野生動物を生け捕り「神の糸」を紡ぐ毛を刈ります。男も女も、そして子どもたちもそれぞれ役割を与えられて、神からの恵みを得るために、皆で協力します。子どもたちはそんな中でいろいろなことを学んでいきます。
 共同体における教育、いや学習ですね、学習の本来のあり方。ブロックパのところでも書きましたとおり、日本に一番欠けている部分です。日常の生活や仕事ぶりを通じて、いったい私は娘たちに何を伝えているのだろうか。非常に心もとない。情けないことです。
 「学習」は「学んで習う」ということです。「学ぶ」は「真似ぶ」、「習う」は「慣らう」、すなわち本来の学習とは「真似をして慣れていく」ことです。子どもにとってまず真似るのは、言うまでもなく親でしょう。親の真似をしていろいろやってみて、そして慣れていく。
 今の日本ではその点どうなんでしょうね。欲望を満たすことに奔走する大人(親)の真似をして、その文明的生活に慣れていくというのが実情ではないでしょうか。誤った「学習」ですよね。
Ck02 番組の中では「学校」も登場しました。けっこう、学級崩壊してました(笑)。まあ、あんなもんでしょう。いかにもな先生が「教育」にいそしんでましたね。「教え、育てる」っていうやつです。ああ、ここにも近代化の波が…。もちろん、こういう世界になっているわけですから、彼らにも教育を受ける権利や義務はあるでしょう。それはかまいません。ただ、日本のように、家庭や地域での「学習」の機会が減って、学校での「教育」ばかりになってしまわないか、なんとなく心配になりました。ブロックパの時もそうでしたね。
 つまり、「学習」は子どもの主体的な活動であり、「教育」はあくまでも大人からの押しつけだということです。「学習」と「教育」は、同じことを違う視点で言ったものにすぎないと考える方もいるかもしれません。でも、どうなんでしょう。本当にそう言って片づけていいものでしょうか。本当はどちらが先にあるべきなんでしょうか。
 自分はいちおう教育者と言われてしまう仕事をしているので、この点に関しては常に気をつけています。たとえば大学受験の指導にしても、「俺はこうやって解いてるんだよ。真似したきゃ真似してくれ」とよく言います。ま、場合によっては生徒の方が自分よりできる時もありますから、その時は私が「学習」させていただいてますけど(笑)。今、ちょうどそういう時期でしてね。3年生の「真似したい、慣れたい」という気持ちが盛り上がっています。そういう時が一番伸びます。だからこちらも忙しいけれど楽しい。
Ck03 番組では、父親、母親、近所のおっちゃん、おばちゃんが、見事な技術と知恵と連携でビクーニャを捕まえていました。子どもはそれを見て「よし来年はオレも…」とか思うのでしょう。素晴らしい「学習」の場だと思いました。そう考えると、私も受験という1年に一度の「狩り」とか「刈り」を一緒にやってるようなものですね。一見全然違うような気がしますが、実は同じようなことをやってるのかもしれない。「○○大学」という獲物…いや神からの恵みをゲットするために、技術と知恵と連携を駆使しているとも言えますね。来年春の猟果はどんなもんでしょう。ペルーの彼らもビクーニャを一頭も捕れない年もあるとか…いやいや、そんなことは考えないようにしよう(笑)。
 いやあ、チャクの独特の雰囲気には静かに興奮してしまいました。特にお母さんたちのたくましさにはびっくり。ビクーニャと思いっきり格闘してました。母は強しですねえ。そんなところからも子どもたちはいろいろ学ぶのでしょう。教えずとも教えることはできるわけですね。そうするとですね、「教育」なんてものは、「自然」が語らずともやってくれるわけで、大人もまた子どもにとって「自然」であればいいのかなあ、とも思えてきます。今の私たち、日本の大人、親たちは、子どもにとって全く「自然」ではないのでしょう。じゃあ何なんでしょう。子どもの方がずっと「自然」ですよね。なんかいやになってしまいますね。

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2007.10.30

『般若心経は間違い?』 アルボムッレ・スマナサーラ (宝島新書)

79666032 非常に面白かった。勉強になりました。
 私も大好きな般若心経。私の人生を変えたと言ってもいい般若心経。それを間違いだと断ずるこの本、とってもいい本でした。
 ふつう、大好きなものにダメ出しされると、がっかりしたり、腹が立ったり、たいがい不快になりますよね。でも、この本はどこか爽快ですらあった。実に気持ちのいい本です。
 今だけでなく、ずっとずっと日本では般若心経ブームでした。いろんな偉い人がたくさん本を書きました。私もそのうちの十冊近くを読んでいるでしょう。そのたびに、なるほど〜と感心してきました。そして、仕事上最低1週間に一度はこのお経を大声で上げます。また漢文の授業で、書き下しの練習にこのお経を使ったりしています。そうしているうちに、最近、自分なりの般若心経解釈というのができてきて、ますますこのお経が身近になってきました。つくづく素晴らしいと思います。
 で、まさにそういうところが「間違い」の証拠であると、著者は言うんです。いろんな人のいろんな般若心経があるということ自体、間違っている証拠だと。仏陀の言葉は真理なので、そんなブレはないはずだと。
 これは正直目から鱗でした。ああ、たしかにそうだ。言われてみれば変だぞ。真理を語っているはずなのに、なんでたくさんの解釈が成り立つんだ?
 さて、そうしたたくさんの解釈、私の心を動かしてきた解釈、このブログでは桐山靖雄ダライ・ラマ玄侑宗久のそれを紹介しました。
 それらの記事を見ても分かる通り、やはり私の、いや世の中の皆さんが難解だと感じているのは、「色不異空」や「色即是空」のあとに出てくる「空不異色」「空即是色」ですね。たとえばそれらについて、この本では間違い以外の何ものでもなく、解釈も何もないとします。般若心経の作者が本来の仏陀の教えを理解していない、特に実践、体験が足りていない証拠だとします。なるほどこういう「解釈」もあるんだな(笑)。
 その他の部分についても、著者の舌鋒鋭く、般若心経の作者はケチョンケチョンに非難されます。さらに大乗仏教、日本製仏教、キリスト教なんかも、上座部仏教の立場から強く疑問を提示されます。でも、なんでしょうかね、筆者の人柄なのか、慈悲心の現れなのか、決して原理主義的な感じはしませんし、どこかユーモアさえ漂っていて、不快になったり、反論したくなったりしないんですね。まあ、私自身がどちらかというと上座部に憧れを持っているかからかもしれませんけど。
 とにかく、般若心経の作者、大乗仏教のお坊さん、そして私たちが、みんな仏教の原点(原典)に関して勉強不足であるということを、スマナサーラ長老は強く語っているわけですね。それはその通りだと思います。「空」から虚無主義に行ってはいかん!呪文を唱えてすませるな!実践を怠るな!たしかにそうです。
 しかし、一方で「文学」としての般若心経の魅力もまた捨て難いものがあるよな、と思いました。つまり「○○の般若心経」、究極は「私の般若心経」というのがあってもいいような気もしたのです。私はもちろんブッダにはなれませんし、今はとりあえず普通の人間ですので、こうして様々な人間、それも至らない立派な人間がたくさん関わった人間的な般若心経も、やっぱり好きです。上座部と大乗と、どちらが高級かという議論ではなく、どちらにしても私たち至らない人間によって「縁起」しているものです。そんなふうに考えていくと、私たちが真理だと思っていることもまた「空」なのかもしれない、という究極の真理に至るわけでして…おっと、もしかして仏陀を超えた?
 とにかく、やはりお釈迦さまと言えども、「言葉」を介してしか我々には伝えられなかったわけでして、もしかすると、私たちは、永久に「私たちの○○」の中で生きるのかもしれません。仏教に限らず。それもまたいいのではないでしょうか。

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2007.10.29

『里山保育が子どもを変える』 (NHK ETV特集)

Img1028_02s NHK教育の「教育フェア2007」、興味深い番組が目白押しです。しかし、どうにも忙しすぎてなかなか観ることができません。録画して時々HDDレコーダの早見機能でちょこちょこと観るのが精一杯。
 さて、今日は寝る前に90分の番組を60分で早見しました。なんだか現代人っぽくていやだなあ、こういう時間を圧縮するっていうのは。ま、しょうがない。
 「里山保育が子どもを変える」…千葉県の木更津社会館保育園(私立)で実践されている里山保育の様子を1年間追ったドキュメンタリー。
 子どもに(親に)神経質なほど気を遣う学校や幼稚園、保育所が多い中、この保育園では全く逆の教育が行われていました。毎日どろんこ、刃物を使って怪我はする、ケンカもするする、自然の木の実やなんやかや食べる食べる。
Img1028_03s ものすごく面白かった。面白かったというのは、子どもたちの様子がです。彼らと同い年の子どもを持ち、田舎に住んでいる私としては、特に彼らが特別な感じはしません。どちらかというと、ああこういうヤツいるよな、こういうことあるよな、という面白さです。子どもはみんな一緒だなって。自分もあんなんだったし、つまりどの時代も子どもはあんな感じなんだよなって。
 この園の保育を手放しで賛美するつもりは全くありません。あのやり方を、素晴らしい、本来こうあるべきだ、と単純に言うこともできますが、反面、集団的幼児教育として考えれば、欠けている点もあると思いました。もちろん理想的な教育現場とか学校というものはありえないというのを前提にしていますから、そこに野暮なツッコミはしませんが。
 そういう意味でちょっと想像されたのは、この園のやり方については、地元では本当に賛否が分かれているんではないかということです。特に母親たちは。それが、大人社会や、ひいては小学校に入学して他と合流した子どもたちに、悪影響を及ぼしていないかということです。
 こと子どもの教育に関して、母親は盲目的になりがちです(父親はもともと関心がない…ポーズだけはとりますが)。愛情(もしくは世間的義務感)が理性を越えてしまうからです。はっきり言ってしまうと、本当の親「バカ」になってしまいがちです。特に女性は敵対するものを作りたがりますから(失礼)、男性不在になりがちな子育て世界において、女親どうしのアホくさい抗争がどれほど子どもたちを不幸にしていることか。
Img1028_04s おっと、全然関係ない話になってしまったぞ。いや、別にウチのまわりにそういう事例があるということではありません。ここは田舎ですので基本的に平和です(笑)。ただ、この番組を観て、また両極端な原理主義的母親が出てくるんじゃないかと心配なんです。
 で、田舎ということで言えば、ウチのカミさんは世界に誇る里山に育ちましたので、この番組を観ながら、まだまだ甘い!みたいなことを言っていました。ハハハ。田植えのシーンを観ながら、「はぁ?田植えはレクレーションじゃない!泣きながら怒られながらヒルに血を吸われながらやるんだよ!」とか吠えてました(笑)。たしかにウチの子は平気で山のものを食べたりしてるな。だいいちここは里山どころか富士山だし。
 私は高度経済成長の東京都大田区に育ちました。たしかにカミさんに比べれば十分都会だったわけですが、それでも子どもたちは常に自然の中を探検していましたね。案外森や小山や草むらや空き地がたくさんありましたからね。多摩川の河川敷も面白かったし。ヘビなんかもけっこういました。だから、私もこの園の保育はそれほど特別には思えませんでした。
 つまり、こういうことは家庭で、近所でやるべきなんですよ。ただそれだけ。で、幼稚園や保育園では、ちゃんとした集団生活、じっと椅子に座っていることとか、不条理な勉強というものへの抵抗力とかを身につけるべきなんです。それで、バランスが取れると思うんですが。
 はたして、あの子どもたちが普通の小学校に入ってどうなるのか。ちょっと興味がありますし、不安でもありました。まさか同じ千葉県のこんな小学校みたいになってないでしょうねえ。そこまで追いかけてくれると、子どもがどう「変わった」のか、ホントのところが分かるのかもしれませんね。無理を承知でそんなことを思ってしまいました。

番組紹介

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2007.10.28

BUMP OF CHICKEN 『メーデー』&『花の名』

51jadn6raal_aa240_ 来月頭のコンサートに向けて最後の合わせで八王子へ。車中でじっくり聴いてみました。今回も彼ららしい濃い世界が展開されてました。
 私はバンプのものすごいファンというわけでもないし、ふだんそれほど聴いているわけではありません。だいたいバンプのファンというのはかなりコアな人が多く、他はあんまり聴かない、バンプ最高という人が多い。逆に「何がいいの?」「きもい」という人も多い。そういうバンドですね。私は時々聴いて感動するというタイプのファンです。
 ここのところやや商業的な活動も目立ちましたが、それでもなんというか、ただ売れ線を狙ったというか、あからさまなメジャー路線になったわけではなく、いつもどおりの彼ららしいアプローチでした。
 それでもそういう動きに抵抗を持つファン、まあたいがいそういう人たちは昔からのオタクなファンであるわけですが、そういう人もいるようです。今回のシングルもなんだか違う、という声も聞きます。「花の名」はメジャーな映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の主題歌ということですからね。単純に喜べない気持ちも分かりますが。いつかもどこかで書きましたけれど、ファンというのは実にわがままなものです。才能のある人たちの成長に、凡人である自分がついていけていないことに気づかずに…。
 さてさて、今回のシングル、疾走感あふれる「メーデー」と叙情感あふれる「花の名」、見事なコントラストを描いていますね。ものすごく名曲だとか、あっやられた、とかいう感じはありませんが、好感は持ちました。じっくり味わってみたいタイプの曲。カップリングもしみじみとしていて良い。
 彼らの、というか藤原くんの楽曲というのは、コード進行にはほとんどひねりや新味はない、と言いますか、すでに多くあるおいしい展開がほとんどなんです。でも、そこに乗せるメロディーにのびのびとした解放感、浮遊感があって魅力的なんですよね。上空を飛んでいる感じなのに、不思議と安定しているのがよろしい。
51qdn0ggsl_aa240_ そしてなんといっても歌詞。バンプの多くのファンはそこに惚れているんでしょう。今回も実に美しく感動的な日本語が並んでいます。特に今回は、人の縁と恩についての言葉が多く、ふむふむと感じるところ多々あり。
 先ほど失礼にも「オタク」という言葉を使いましたが、これはある意味ほめ言葉でありまして、つまり、心が外ではなく内に向かう人、能天気に今を楽しむというタイプではなく、なんとなく日常が生きにくいと思っている人、そういう意味では実は人生や世の中の本質をわかってしまっている人が共感するのが、藤原くんの詩です。
 簡単に言ってしまうとですね、そういう人への応援歌的なところがある。彼の曲はほとんどが長調ですし、とても伸び伸びとしていて自由な感じがする。いろいろと悩んでいるところに、とっても優しく希望を与えてくれる言葉を投げ掛けてくれたりする。さっきも書いた通り、日常って実は一番厄介じゃないですか。それを誰かの支えでなんとか乗り越えていこう。やたら大きな夢を描いたりするんじゃなくて、まずはお互い助け合って毎日をしっかり生きていこう。そんなメッセージを感じるんですよね。言い古された言葉ですけど、「一人じゃない」ってやつですか。
 思い通りにいかないのが、すなわち「もののあはれ」が人生の本質です。それを表現して共感を得るというのが、日本の文学や「歌」の特徴です。「ああ(あはれ)」と言ってため息をついて終わるタイプもありますし、バンプのようにそれでもなんとかやっていこうよという一歩進んだものもある。いずれにしても、「もののあはれ」を感じないような鈍感な人、あるいは意図的に感じないようにしているずるい人、または「もののあはれ」に沈殿してしまっている人には、彼らの歌はあんまり意味がないんじゃないでしょうか。
 まさにメーデー(SOS)を発する人、たくさんの花の中から一つを選び出す人、そういうもう一歩の努力ができる人たちのために、彼らは唄い続けるのでしょう。

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メーデー
花の名

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2007.10.27

『無香空間』 (小林製薬)

02 芳香剤とか消臭剤とか、あんまり好きじゃなかったんですが、いよいよ使う時が来ました。
 ウチは基本的に杉の木で出来ているので、築10年ほど経ちましたが、まだ木の香りがしています。それで、なんとなく生活の臭いや、あとウチは猫が2匹いますからね、そういう臭いがごまかされていたというか、実際杉には除菌や消臭効果がありますので、だいぶ助けられていたと思います。
 ですから、今まではそういう化学的なものに頼らないでやってこれたんです。ところが、つい先日、仕事からウチに帰りますと、もう玄関に入る前からなんか焦げ臭いんですよ。なんだ?庭でバーベキューでもしたのかって感じ。ドアを開けると珍しくカミさんがお出迎え。だいたいこういう時は何かやらかした時です。
 私の予感は的中しました。なんだか、それこそ珍しく朝から煮物を作り始めたらしいんですよ。それで、よくあるパターン、煮込んでるのを忘れて外出しちゃったと。で、家に帰ってきたら全て炭化していたと。あ〜あ…てか、火事にならなくてよかった。安全装置がちゃんと働いてました…orz。
 それで、家の中全てが炭の香り…いや臭いでいっぱいです。いくら杉の木とは言え、これは無理だ。考えようによっては、古民家のような、つまり囲炉裏のある家のような香りですが、なんだか喉が痛くなるような気もする。2階が特にひどく、衣類やらふとんやらの布類の臭いが全て炭化しています。いやあ、まじでホントに(本体が)炭化しなくてよかった。危ないよなあ。
 それで、二人で夜中にふき掃除ですよ。まあ、10年ぶりにふく所もたくさんありましたからね、たまには掃除しろっていう神様の思し召しでしょうか。
 でも、表面的にふいただけでは全然臭いが取れないし、週末にお客さんが来るということもあって、もう仕方なく本来嫌いな消臭剤を買ってきました。こういう「焦げ」の臭いに効果があるのか正直わかりませんが、とりあえず。
 もともと、こういう消臭剤が嫌いだったのは、その成分やメカニズムが不明だったからです。消臭にはいろいろな方法があるようですが、どうも眉唾なものが多い。カモフラージュしてしまう、いわゆる「芳香」は、皆さんご存知の通り、たいがい逆効果、臭いと香りの醜悪なアンサンブルを醸し出してしまうことがほとんどです。その他の「消臭」をうたったものも、どんな化学物質が空中を舞っているか分かりません。
 で、本当はそういう成分とかメカニズムをちゃんと調べてから使用するのですが、今回は緊急事態です。そんな理屈は言ってられませんね。まあとにかく醜悪なアンサンブルだけは避けたいので、これ、すなわち「無香空間」をいくつか買ってきたというわけです。
 さて、実際置いてみますと、たしかに臭いが取れてきたような気がする。あくまで「気がする」ですけど。そんなに劇的に「無香」にはなりません。ま、このネーミングの本意は「非芳香」ということでしょうし。
 最近、このあたりも最低気温2度くらいまで下がるようになったんですが、窓を全開にして寝たりしてますから、たぶん自然の節理に従って、すなわちエントロピー増大の法則に従って、臭いが拡散していっているのだと思います。あと、鼻が慣れた。鼻って偉いですよね。すぐ慣れる。でも、外に出て帰ってくると、あいかわらず古民家の臭いがします。
 というわけで、なんだかよく分かりませんが、この「無香空間」、大きな透明のゲル玉がいかにも臭いをやっつけますっていう感じで、つまり多分に感覚的、イメージ的な効果が絶大なのだと思います。それでも、少し安心するわけですから、この製品は使う価値があるということでしょうかね。でも、逆にこれが家中に陳列してあったら、お客さんは「いったいこの家の本来の臭いはどんななんだ?」と思い、それこそ逆効果でしょうね。
 あっそうそう、こんなのを家中に並べておくとイメージ的にもいいんじゃないでしょうか(笑)。
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2007.10.26

テープのり

Pic_story_06 仕事柄、比較的のりを使うことが多い…と書いたけれど、よく考えてみると、2年前に記事にしたパワープリットが残ってるくらいですから、実はあんまり使ってないみたいですね。
 パワープリットの時にも書きましたが、受験シーズンになりますと、生徒が「先生のり貸して」と来ます。受験票の写真を貼るのに使うんですね。で、パワープリットは記事に書いたとおりあまりに強力で速乾なので貼るのが難しい。うまく貼れたら合格とか言って面白がってるんですけど。
 で、実は2005年にはとっくに「テープのり」が開発されてたんですね。正直知らなかったし、こんな便利なものが存在するなんて想像すらしなかったっす。これ、ホント素晴らしい発明ですよ。それこそ受験票に写真貼るのには、これが一番いい。水のりやスティックのりだと、どうもあの写真というのは不安が残るんですよね。第一、大学もはがれるのを前提に、写真の裏側に名前とか書かせたりするもんだから、よけいにこっちは不安になる。
 今年はもうぜったいテープのりです。これは貼りやすいし、写真表面や周辺が汚れないし、粘着力も文句ないし。乾いて貼れなくなるなんてことないので、慎重にきれいに作業できますし。うん、これは素晴らしい。
 たしかに、文房具の中で「のり」というやつはどうも洗練されにくい商品でしたね。原始的なところからなかなか脱せなかった。でんぷんから合成物質になっても、液体やゲルのタイプでは、もうその本質的なところから、貼られる物質である「紙」との親和性がない。ある意味天敵ですからね。スティックのりも便利そうでいまいちでした。だいたい細かいところに手が届かない。普通の液体のりよりも大ざっぱな作業になってしまう。
 そういった人類史上の、なんとなく解決しなかった身近な問題を、見事にクリアーしたのがこれですね。考えてみると、テープのりというのはかなり古くからあるにはあったんですね。それはたとえばセロテープです。これもテープのりですよね。両面テープにいたってはほとんど発想的にこれと同じです。しかし、それを修正テープの発想と結びつけるとはねえ。出来上がってみれば自然なアイデアなのかもしれませんけど。
 詳しくはわかりませんが、こういう粘着(圧着)系の樹脂の技術ってここのところ急速に進んでるんじゃないでしょうか。基本液体が固体になって接着するんじゃなくて、物質の粘着力自身によって剥離を防ぐっていうこと…かな?あんまり詳しくないんですが。そういえばネットの世界でも粘着系が増加してるな(笑)。
 さて、いまやあらゆる会社から「テープのり」が発売されてますし、100円ショップでもそこそこの製品が手に入ります。各メーカーがそれぞれ工夫をこらしていますので、強力タイプからはがせるタイプまでいろいろ選べるようになりました。用途に合わせていくつか使い分けてもいいでしょう。個人的にはコクヨさんの「ドットライナー」が「切れ味」…これが実はのりには重要な要素です…が素晴らしく好きです。
 ところで、このタイプの製品、最初に開発したのはどこなんでしょうね。ノーベル文房具賞でも贈りたいところです。

ドットライナー公式

Amazon ドットライナーホールド

パワープリット

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2007.10.25

最近の若者は…

↓この粘土板は本文とは関係ありません。
Amaruna_letters 「最近の若者は…すばらしい、偉い」と断言します。今日小論文の指導をしながら、ふと気づきました。こいつら偉いなって。
 「最近の若者はダメだ」「最近の若いもんはなっとらん」というようなことが3000年くらい前の粘土板に彫り込まれていたとかいうネタが、もうだいぶ前ですけどネットに流れてましたね。なんだか眉唾です。プラトンだか誰かが「最近の若者は…」と愚痴ったという話も同じくらい眉唾ものですが、まあ今の大人たちを見るかぎり、昔もそういうこと言う人はたくさんいたと想像されることはたしかです。いや、たぶんネアンデルタール人あたりもそんなこと言ったんじゃないかな。最近のクロマニョン人とやらは…まったくぅ、どんだけ〜(とは言わねえよ!)。
 そうすると、1万年以上にわたって我々は悪くなり続けたわけでして、ずいぶんと人類というのは悪いヤツになってるはずですよね。で、実際はですね、まあ多少問題はあるけれど、いちおう当時より豊かで平和になってますから、どうも人類史上大量に生産された「最近の若者は…」という言葉の信憑性というのは、十分疑われるに値することがわかります。つまり、歴代の大人たちは自分たちのことを棚に上げて、愚痴り続けてきたわけでして、それはそれでなんとなく共感できるような気もしますが。
 さて、今日私が珍しく自分のことを棚に上げず「最近の若者は偉い!」って思ったのはですね、ある重要なバカバカしいことに気づいたからです。
 小論文の指導をしてますとね、現代の様々な社会問題を扱うことになるんです。「年金問題」「環境問題」「地域格差」「グローバル化」「いじめ」「ニート」「ネット社会」「少子高齢化」「偽装・捏造」…で、それらの解決法なんかを高校生に書かせるというパターンが多い。まあ、ありそうな話ですよね。普通のことです。
 でも、ちょっと考えてみてください。これらの問題って、全部全部私たち大人が用意した問題ですよね。用意したというのは、問題を作った、問題を作ったというのは小論文の問題を作ったということではなくて、その社会問題自体を作ったってことです。私たち大人が自分たちの欲望の実現に躍起になった結果生じた問題ばかりです。
 自分の娘たちのことを考えてみても、実に話は単純です。彼女らに関わる心配事、たとえば交通事故、変質者、ゲーム、ケータイ、ネット、アレルギー、いじめ、学級崩壊…どれもこれも大人や親が自ら用意してしまった危険ばかりです。本当に子どもたちのことを思えば、たとえば車に乗らなければいいし、ケータイも廃止すればいい。化学物質は使わなければいい。家でちゃんと道徳を教えればいい。そういうことです。でも、それはできない。する気がない。だいいちそういう発想がない。自分たちで自分たちの最も大切にすべきものを危険にさらしている。
 で、こうやって大人な人類は自分たちの集団的罪を反省せず、つまり棚に上げて、恥ずかしいことに、理論的になんの罪もないはずの若者、すなわち自分の子どもたちに対してグチリ続けてきたわけです。
 なんで、こういうホントのことを誰も言わないのでしょうね(笑)。
 それでですねえ、話をもとに戻しますが、小論文の課題って、そう考えるとものすごく変ですよね。
 だって、大人たちが作り出してしまった問題を提示して、若者たちに解決策を考えろ!って言うんですから。おいおい、なんだよ、その責任転嫁は。責任転嫁じゃないな。責任放棄ののち、しりぬぐいお願い、って言ってようなもんじゃないですか。その問題の解決策はあなたが考えるべきでしょう!?
 まったくひでえ話です。もちろん自分も含めてね。私もふだんは自分のこと棚上げしっぱなしですが、たまには棚卸ししますよ。てか、皆さんもたまには棚卸ししましょうよ。
 これほど多くの、大人が用意した誘惑があるこの世の中で、ホントに若者はそれに流されることなく、あるいは振り回されることなく、よく頑張ってますよ。もし、我々の世代の若い頃、こんなに誘惑があったらどうなっていたでしょう。だいいち、あの頃、今よりひどい犯罪や非行ばっかりじゃなかったですか。今の方がずっと平和ですよ。親殺し、子殺し、少年の犯罪、暴走族、シンナー吸引、喫煙、スケバン(笑)…今よりずっと盛りだくさんでした。もし、今の世の中に彼ら(私たち)がいたら、もっと道をはずれてますよ、きっと。
 というわけで、今日はホント反省しちゃいました。だから、生徒に心から「今どきの若者は偉い!おもえらはホントに立派だ!」って言ってやりました。やつらは「また変なこと言ってる」って感じで大笑いしてました。私は珍しくまじめだったんですけどね(笑)。まあ、ホントほめてやりたいです。少なくとも私の高校時代よりずっと勉強してるし…。

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2007.10.24

『時間はどこで生まれるのか』 橋元淳一郎 (集英社新書)

08720373 難しいし面白かったので、とりあえず2回読んでみました。
 最近の私のテーマは「時間」でして…と言っても私は物理学者でも哲学者でもないので、本当に稚拙な考えであって、それはほとんど子どもの「時間って何?」という程度のものであります。いずれはまとまるかもしれませんが、やたらなこと書くと、橋元さんみたいに怒られちゃうんでやめときます。
 そう、Amazonのレビューをご覧になるとわかると思いますが、この本、賛否両論、甲論乙駁なのです。我々庶民には難しいけど面白いなあって思うんですが、でも、偉い人は呆れるか腹を立てるみたい。どうなってるんだ?時間ってそういう性質のものなんでしょうか。頭がいい人にはわかるけれど、我々にはわからない。そんなものがこの世に一様に流れていて、しかし、偉い人もそうでない人もそれに抗うことができず、老いて死んでいくんでしょうか。
 昨日のSFの話になりますが、彼らがサイエンスを基礎にしながら、それがフィクションでありえたのは、まさに「時間」を自由に操っていたからでした。彼らの偉いところは、この本を非難したりする偉い人とは違って、最初から開き直って「時間」を操作してしまえと考えたところです。つまり、逆に言えば、時間というものの本質が分かろうが分かるまいが、とにかく人間が人間であるかぎり(生きているかぎり)「時間」には抗えないということを諦観していたのです。だから、私たちが語ることはフィクションですよと言った。ある意味、彼らは日本文学の主流だったんですね。「もののあはれ」…「全てのモノ(存在)は無常であるということにため息をつく」を逆説的に語ったんですから。
 私も、相対論や量子論によって時間論が大きく変わったというのは、頭では理解できます。しかし、それがファクトであるかどうか、それについての実感は全く持つことができません。SFと同じ領域なんです。だから、この本を読んでもなんとなくワクワクはするけれど、なるほど〜!とはならない。で、それってホントなの?全然実感と違うんだけど…となる。
 まあ、もともと相対論も量子論も我々の実感からほど遠くなっていて、いやもう科学というのはどんどんフィクション(すなわち私の言うコト)の方に行ってしまって(そうそう、この前のポアンカレ予想なんかもそうですね)、全く実学からかけ離れてしまった。実(ファクト)ではないということは、フィクションそのものですね。私からするとそれらの面白さや価値というのは、文学や宗教のそれと何ら変わらないような気がするんです。科学者の方、バリバリの理系の方には申し訳ないのですが、それらはどんどん文系化してるようにしか思えません(笑)。
 まあ、そんな私の実感(生活感)は別としまして、この本の内容にもちょっと触れときましょうか。
 たしかに橋元さん、先人の成果をかいつまんで並べて、そして最後は「意思」を登場させるという具合であり、なんだか物理なのか哲学なのか、思いつきなのか、妄想なのか、それこそ文学なのか、全然わからないことになるんですが、そういう正直ワケわからん最先端の「トンデモ科学(失礼)」を、多少私たちの実感の方に引き寄せてくれたという、まさに「ワケわからんモノをカタル」という「物語」としては、なかなか優秀であったと思います。
 そんな神話のような物語に対して、感動する人もいれば、そんなことあるわけないって言う人もいるし、またそれはもうすでに誰かが語ったことだと言う人もいる。また、科学的に検証すると間違っている!と言い出す人もいるわけです。
 いや、時間の本質がそういう性質のものなんでしょう。いろいろな次元での「時間」があって、しかし、いずれにしても我々はそれをコントロールできない。相対的であろうと、時間の流れがなかろうと、フィクションだろうと、とにかく生きていることにおいては人間はそれに縛られているということです。
 で、私が考えている時間論(なんてほどのものではありませんが)は、時間というものは実は人間にだけ存在するものであって、すなわち人間を人間たらしめているものである、なんて感じなんですが、ま、あんまりまじめに考えてないのでまとまらないで終わるでしょう。
 こうしているうちにも時間は流れてゆき、そして私は人間であるわけですな。

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2007.10.23

『21世紀を夢見た日々〜日本SFの50年〜』(NHK ETV特集)

Sf50 「センス・オブ・ワンダー」…今の私を育ててくれたのはSFだったのかもしれません。
 おととい放送されたこの番組の録画を観ました。なんかものすごく感激してしまいました。今まであまり意識してこなかったことに、少し情けないような申し訳ないような気さえしてしまった。もっとSFに感謝すべきだったのかもしれません。
 60年代70年代、高度成長の中で未来に希望を持ち、あるいは科学に懐疑的になりながら、そして純文学界からの蔑視に堪えながら、素晴らしい作品とジャンルを作り上げていったSF作家の皆さん。彼らのエピソードやインタビューを中心に、さらにお宝映像、音声などもまじえながらのこの番組。出てくる人たちや作品たちの懐かしいこと、そして濃いこと。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、半村良、眉村卓、豊田有恒、光瀬龍、福島正実…。
 SF(Science Fiction)というジャンルが生まれて50年。今や世界に誇るジャパニーズ・カルチャー(オタク文化とも言える)はほとんど全てここに端を発しているのでした。なんか説明されると当たり前なんだけど、どういうわけか自分の意識はそこんとこにあんまり意識的じゃなかった。バカだなあ。
 それにしても面白かったのは「SF作家クラブ」のものすごいパワーですね。たしかにあの時代、いろんな分野でああいう若者の集団があって、新しいことに挑戦し、世の中に挑戦し、大いに語り、大いに働き、大いに遊び、大いに呑んでましたね。世の中全体がそういう雰囲気でした。
 私はまさにそういう時代に育てられた少年だったわけでして、小学校の図書室で彼らの本を片っ端から読みましたし、特撮ものやアニメのお世話になったのはもちろん、NHKの「少年ドラマシリーズ」なんかにも大きな影響を受けました。影響を受けたというのは、そう、日常生活が完全にそれらに侵されていたということです。日常の風景をそういうSFの舞台と見紛うていたし、自分は実は地球人ではないとか、そういう妄想を抱いて生きていましたからね(ヤバイ)。
 なんかそういう自分のベースメントの部分というか、血や肉というか、いや骨かな、いや脳の中枢部分だな、とにかく自分の中心にそういうものがあったということに、今回遅まきながら気づかされましたね。あまりに自然に自分に染みついているんで(洗脳されてるってことか)、意識し忘れてたんでしょうね。それほど自分そのものだということです。
Sf50s その後、私はいちおう大人になっていったわけですが、その途中を思い出してみますと、SFから理系分野に興味を持ち、特に天文学ですね、将来はそっちに進もうとしました。しかし数学的センスのなさがアダとなり、研究者への道は諦めまして、じゃあセンス・オブ・ワンダーの面白さを伝えようと理科の先生を目指すことにしました。しかしとんでもない理由で受験に失敗し、なぜか国語の先生になるという、全くワケわからん過程を経て今に至るわけです。
 また一方では、いわゆるオタク文化の方には行かず、違う意味での(文系的かな?)センス・オブ・ワンダー世界である「宗教」「芸術」に興味を持つようになりました。そして今、外側からオタク文化を観察し研究する立場に至っています。
 ま、自分の復習はいいとして、とにかく私みたいな私の世代って多いんじゃないでしょうか。特に男。実はSFの血が流れている。SF的世界を生きている。あの頃のSF的未来、SF的21世紀の幻想の中に生きている。逆に言えば現実に対峙できないってことですが。
 彼らSF作家たちは実は予言者だったのかもしれません。だって、あの頃の作品に描かれた未来や21世紀の通りになってるじゃないですか。もちろんそこに描かれていたのは明るい未来ばかりではありませんでしたよね。結局あそこに登場していた宇宙人や異次元人、狂った人間たちは、今の私たちなのかもしれませんね。
 ところで、この番組をチラチラ見つつポケモンカードに熱中している娘たち、彼女たちにとっての未来ってどんな感じなんでしょうね。いや、現在も、あの幻想的高度経済成長の現在とは全く違うものでしょう。私は早く大人になりたいと思っていましたが、娘たちは子どものままがいいってよく言います。ま、男と女という違いもあるでしょうが。
 いずれにせよ、大人がまず現在や未来に期待してないといけませんね。つまり「センス・オブ・ワンダー」の心を忘れないってことです。また、いつものやつが出てしまいますが、「モノ」ですよ。未知のもの。自分の外部の「モノ」へのセンスですね。それは近代合理主義においては「妄想」とか言われますが、やっぱり人間にとって大切なものなんじゃないでしょうか。そう考えますと、現代の若者が熱中するオタク文化もまたとっても健全なものに思えてきますね。
 いやあ、面白かった、この番組。特にああいうはちゃめちゃなパワーですね。みんなどうかしてますよ。疲れを知らない暴走族ですな、ありゃ。昔は良かった的な言い方はしたくありませんが、でもなあ、やっぱり明らかにあの時代はすごかった。

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2007.10.22

松田聖子 『Seiko Matsuda Concert Tour 2007 Baby’s breath』 (DVD)

↓いい笑顔ですねえ。
Msbb え〜、どちら様がわかりませんが、こちらのブログ経由でウン十万円のお買い物をドカンとしてくださった方がいらっしゃいまして、そのアフィリエイトのポイントで、これ(+何冊かの本)を購入させていただきました。ホントにありがとうございました。
 というわけで、なんとなく申し訳ないような気もするのですが、誰かからのプレゼントだということで、ありがたく頂戴いたします。拝。
 もうあれから4ヶ月以上ですか。なんかあっという間でした。今日このDVDを家族で観ながら、あの感動をよみがえらせるとともに、あらためて聖子様と彼女を支える皆さんの素晴らしいを痛感いたしました。拝。
 私にとっての初聖子様ライヴが、こうして立派な作品となって残るというのは、本当にラッキーで幸せなことですね。私たちの席はけっこう前の方でしたから、まあよく見れば自分も映りこんでるんでしょうけど、まあそれにしてもお客様の皆さんもすごいですねえ。いやあ、あの会場の平均年齢は何歳だったんだろう。当日は私も興奮していて、あんまり周囲を観察していなかったんですけどね、こうして映像で観ますと、かなりすごいことになってます。やっぱりこれは宗教的儀式だわ。「痛い」の一歩手前、いやその領域にかなり入ってるかな…なんて、自分もしっかり参加してたんですが(笑)。
 内容的には当日の様子を報告した一連の記事をご覧下さいませ。一部アクシデント的なところはカットされていましたが、あのトリプルアンコールも含めまして、当日のあの感動的な雰囲気はよく伝わってくる作品となっています。MCもたっぷり収録されていまして、楽曲披露時以外のあのマッタリした空気も楽しめます。
 今回こうして冷静に鑑賞してみますとですね、やはり小倉さんのバンドの良さがよ〜く分かりますね。いちおう女性歌手(?)のバックバンドをやっている者として、これは勉強になりました。ああいう安定した、さりげに超絶テクな、しかししゃしゃり出ない、大人なバンド、いいですねえ。皆さんの人柄が伝わってくるような演奏です。かっこいいっす。
 えっと、ライヴで謎だったストリングスの件ですが、DVDで見てもどうやって音を拾っているのか分かりません。どなたか関係者の方、教えてください。指向性の高いマイクが吊ってあるのかなあ。当日もそうでしたが、このDVDでも、とってもきれいに拾われているんですが…。
 それにしましても、改めて驚きなのは、ツアーの初日をこうして作品化してしまうことですね。そのへんの発想自体、ほかのミュージシャンじゃああり得ません。しかし結果として、これは正解だったと思います。初日は本当に何が起きるか分からない、いやアクシデントとかそういう意味ではなくて、聖子様がどんな服装で登場するのか、どんなセットなのか、曲は何をやるのか、全て分からないわけで、まさに神降臨の現場に立ち会えるわけですからね、観客の興奮も独特なものがあるわけです。全ての時間が新鮮で神聖な期待と感動なんですよね。
 ライヴは行くならツアー中盤にさしかかる頃がいいとか、いやファイナルがいいとか、よく言われますけど、初日ならでは良さというのがあるということが今回分かりました。慣れるとか、こなれるとか、そういう次元じゃないですし、神になれば。逆に神様にさえもあるであろう「初めて」の緊張感というのは味わい深いものなのかもしれませんね。
 とにかく、こうしたいろいろな意味での奇跡的な瞬間がふんだんに収録されたこのDVD、とってもいい出来だと思いますので、もし興味を持たれた方はご覧になってみてくださいませ。
 最後にもう一度、このDVDを恵んでくださった方、本当に感謝いたします。あなたは神です!…えっ?もしかしてご本人様?!(なわけない…でも、あんなお買い物をドカンとしちゃうなんて…いやいや、まさか)

Amazon Seiko Matsuda Concert Tour 2007 Baby’s breath

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2007.10.21

『北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景』 (山梨県立博物館)

8733hh 今日は数ヶ月ぶりの何もない日曜日。笛吹市御坂の山梨県立博物館に行きまして、富士山をたくさん観てきました。
 途中すっかり秋めいた河口湖畔を走りながらふと目をやると、ホンモノの富士山もいつのまにか雪化粧していてびっくり。富士山に住んでいながら、富士山を見ない日が案外多いんですよ。こういうのも灯台下暗しって言うんでしょうか。近すぎると見えなくなるというコトやモノ、本当にたくさんありますね。
 さてさて、私にとってはそれほどに身近な存在である富士山、いよいよ世界文化遺産になりそうな雰囲気ですね。自然遺産ではないところが、なんとも哀しいところですが、考えようによって「自然」より「文化」の方が人間臭くていいかもしれません。私の富士山への興味も、どちらかというと「自然」より「文化」に偏っていますし。
 さて、そんな文化遺産への気運の高まりの中で、県立博物館が企画した特別展が「北斎と広重 ふたりの冨嶽三十六景」であります。両者の富士山はそれぞれ何度も観てきましたが、こうして並べて観る機会というのは案外少ない。これは面白そうだと出かけたわけです。年間パスポート持ってるし。
 結論から申しますと、予想通りたいへん面白かった。二人の天才の名作を一挙に観ることができたと同時に、それこそ富士山の文化的価値、江戸の人々にとっての富士山というものを改めて考える機会にもなりました。そして、なんといっても、二人の違いが鮮明に分かったのが楽しかった。これは予想を上回る体験でしたね。
 私、絵画や写真を観る時、必ずやることがあるんです。そう、これです。独眼流立体視。写真については単に楽しむためにやるんですが、絵画の場合はそれによって、作者の空間認知がどの程度正確か、あるいは作者が正確さを期していたか、空間の写実性にどれほど価値を置いていたかを知ることができるんです。
 画家の方って実景を片目で見ながら写生しますよね。私もちょっと絵をたしなんでいたんで分かるんですけど、あれって3次元の2次元化には非常に有効ですよね。理屈の上からも分かると思います。で、その作業の逆をやるんです。2次元の3次元化。これは意外に皆さんやらない。美術館に行っても、片目で観ている人はほんの少ししかいません。
 で、そういう変なことをしますとね、北斎と広重、実に対照的だということが分かるんです。つまり空間の認知の違い、いや空間の表現の違いが際立つんです。さっそくやってみましょうか。わかりやすいところで、まず北斎から。
Hokusai066 別に片目で観なくとも彼の空間表現が歪んでいることは明白ですね。実は今日観た全ての北斎がこうだったんです。両目だと一見不自然でない絵も、片目で観ますとね、こちらの脳が混乱を引き起こすんです。本当か?と思われる方は、北斎でイメージ検索して片っ端からやってみてください。かなりおかしなことになってますよ。これはたぶん北斎の意図によるものだと思います。彼の空間認知がおかしかったのではなくて。
 そうした空間の写実性を重んじない傾向は日本絵画の一つの特徴であり、別に彼だけが変だとか、ましてや下手だとか言うべきものでないことは当たり前です。しかし、時代性ということを考えますと、ちょっと異質なような気もしますし、それがまた大変にポピュラーな存在になったというのも、興味があるところですね。
18 一方の広重は、北斎とは本当に対照的でした。ほぼ全て完璧です。脳は全く混乱を起こしません。これも彼の意図だと思われます。今回の企画展でも紹介されていましたけれど、広重が北斎の構図を「恣意的に過ぎる」というような言い方で非難しているのは有名な話です。ある意味アンチ北斎から、あのような正確な空間表現が生まれたのだとも言えそうです。もちろん西洋画の影響、具体的には秋田蘭画の影響でしょうかね、そういうものを指摘することもできるのですが、なんかムキになってるような気さえする正確さです。
 しかし、これは単純に遠近法とかリアリズムとかいうくくりで考えるべきものではありません。広重でさえ、様々なデフォルメや強調を行なっているのは言うまでもありません。
 私が今回感じたのは、彼らは二人ともそれぞれのやり方で3次元の2次元化という絶対的な矛盾を克服したのだということです。すなわち、矛盾を自由ととらえて感性で勝負した北斎と、矛盾に対して理論的に挑戦した広重ということですね。
 いや、本当は私、そんな難しいこと考えてたんじゃありません。広重って私みたいに片目で自分の作品を観て、空間チェックしてたんじゃないかなあ…。あるいは片目で観ることを前提に作ったとか。そう考えると、広重は江戸のステレオ写真だと言った赤瀬川原平さんは、やっぱり鋭いなあ。たしかに、近景にドカンと何かを配する構図は完全にステレオ写真のセンスですね。つまり、広重の絵の面白さは、片目で体験するまさに「独眼流立体視」の面白さであったのかもしれません。
 ほかにもいろいろと書きたいことはありますが(縄文の大豆の話とか…)、今日はここまで。
 とにかく私が今日書いたことに興味を持たれた方は、山梨県立博物館に行きましょう。来月の18日までこの企画展やってます。

山梨県立博物館

Amazon 江戸切絵図・富士見十三州輿地全図で辿る北斎・広重の冨岳三十六景筆くらべ

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2007.10.20

大人な対応

 いきなりですが、「大人な対応」をおススメします。皆さん大人な対応をしましょう。
2007101700000952sanspothum000 最近、反則・偽装・捏造・裏切りのオンパレードですね。いや、別に最近それらが急に増えたわけではありません。いつの世にも当たり前にあったわけです。ただ、それをみんなで糾弾して、怒って、呆れて「楽しむ」風潮があるということですね。ま、これも昔からよくありました。勧善懲悪ものは基本それですから。
 で、面白いのは、そういう時には必ず「大人なヒーロー」が登場するということです。たまに「悲劇のヒロイン」も登場しますが、それは単に同情を買うだけの存在であり、やっぱり「大人なヒーロー」の人気にはかなわない。
2007101700000039jijpspothum000 最近ではやはりこの人でしょうね。内藤大助さん。いじめられっ子がいじめっ子に勝った。それも、いかにもいじめっ子らしい手段を選ばぬ反則技を受けつつ、見事勝利した。ある意味KOじゃないところがそれらしくてよろしい。その後の悪役の消沈ぶりも含めて、まるでマンガやアニメのようでした。これは盛り上がるわ。そうそう、それで、内藤さんの一連の対応、コメントですね。「大人な対応」。これはまた見事でした。これもまたマンガ的ですらあった。
 ウチのカミさんなんか、また「燃え」…いや「萌え」てましたよ。ご存知のように、カミさんはそういうのに一番弱いんで。昨年末のヌル山の件で一気に桜庭熱(萌)が上昇し、いまや聖域にまで侵入するほどの痛い腐女子ぶりを発揮しております。つまり、マンガ読者的な単純さを彼女は持ち備えているわけです。
 大衆はそういうのが好きなんですよ。もちろん私も好きですよ。たとえば、最近ではこんな大人に萌え(燃え)ました。格闘技ネタが続いて申し訳ありません。
Hbt0710202ns 昨日ですかね、「無我ワールド」の西村修選手が、若手ホープの征矢学選手を伴って、武藤敬司社長率いる全日本プロレスに電撃移籍しました。「無我」の中心選手であった二人が、全くなんの前触れも、そして藤波辰巳社長に何の相談も挨拶もなくいきなり移籍しちゃったんですね。これは社会的にはもちろん、プロレス的にも反則ですよ。あまりに「無我」すぎます(笑)。たしかに試合数があまりに少なく収入がなければ、いくら仏陀を目指す者とは言えキツイですよね。プロレスラーが断食行してるようなもんですから。で、ある意味ホントに無我の境地に至り、周囲の流れ、すなわち「縁」にまかせて移籍してしまった。でもなあ、「報恩」は忘れちゃいかん、仏教徒として(笑)。
 さて、それで彼らかなりのバッシングに合ってるんですが、「無我」の同僚である後藤達俊選手のブログでのコメントが泣かせるんですよ。彼こそ仏陀に近いぞよ。

BdgotoMr.バックドロップ 後藤達俊 西村&征矢 退団!

 う〜ん、大人だ。顔に似あわず菩薩レベルだ(笑)。当事者(被害者)としてすぐにこうは言えませんよ。かっこいいぞ。そう、以前から後藤選手のブログは大変に評判が良かったんです。更新頻度や記事の内容はもちろん、非常にマナーがしっかりしており、あるいはマナーの悪いコメンターに喝を入れたりと、リング上でのヒールのイメージとは正反対の雰囲気に、皆さんギャップ萌えしてたんですよね。今回もリング上なら大暴れというところでしょうが、このコメントですからね。正直やられました。うん、やっぱりいいレスラーは「無我」…すなわちリング上では自己を捨てて、お客さんの望むキャラクターになりきる…ですねえ。プロレスの本質です。
2007101900000001jijpsocithum000 さてさて、こちらはどうでしょうか。「赤福」問題です。ずいぶんと世間のバッシングを受けてますね。ところで、古い赤福を食べて誰か腹を壊したんでしょうか?誰か「まずい!」ってクレームつけたんでしょうか?たぶんそういう人いないんじゃないでしょうかねえ。「うまい、うまい」って喰ってたんじゃないでしょうか。やっぱり赤福だよなって。
 まあ嘘の表示をしたのはいけませんが、余ったものを再利用するのは悪いことではないと思います。「もったいない」という考え方こそ大切ですから。伊勢と言えば伊勢神宮。赤福と言えば伊勢参りのお土産です。神様、特に食べ物の神様である外宮の豊受大神(トヨウケビメ)さんは、怒るどころかほめると思いますよ。残った赤福をポイポイ捨てる方がいかんでしょ。だから、我々も「大人な対応」しましょう。これからは表示偽装しないでね。余ったものは冷凍して再利用してもいいから、ちょっと安く売ってくれればいいよ。そんなんでいいのではないでしょうか。とりあえず大好きな赤福が食べられないっていうのは、ちょっとなあ。

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2007.10.19

THE YELLOW MONKEY 『SICKS』

41w7a63nwsl_aa240_ やっぱり名盤だ。日本人ならこれを聴かずして死ねませんね。日本のロックでこれを超えるのは正直難しいでしょう。
 10年前、このアルバムを聴いた時のあの衝撃は忘れません。そして最近、吉井和哉さんのニュー・アルバムが出たのきっかけに久々にじっくり聴いてみて、また違った衝撃が走りました。
 私が邦楽を聴き始めたきっかけは、まさにこのアルバムでした。基本的に洋楽、特にロックは洋楽しか聴かなかった私、いや、日本語でのロックは不可能だろうと思っていた私、正直邦楽をバカにしていた私(実際、当時のメジャー・シーンはひどかったが)は、この恐るべき音と言葉の塊に完全に打ちのめされました。なんだこりゃあ!!
 日本語にこんなにもロック性があったとは。そう、彼らの音もたしかにすごかったんですが、やっぱり吉井さんの歌詞…いやいやあれは叙情詩そのものですね、あの言霊はいつ聴いてもすごい。理屈ではなくとにかく「すごい」としか言いようがないんです。
 なんかとっても大袈裟に聞こえるかもしれませんが、自分の中で初めて現代日本語の「歌」が古典の「歌」とつながったような気がしたんです。確かにそれからですね、演歌の歌詞を聴くようになったり、あるいは浜崎あゆみの歌詞が分かるようになったのは。そして現代詩が読めるようになったのは。それくらい私にとっては衝撃だったんです。
 音楽的にも何かがパッと開けたような気がした。私の音楽ライフは一気に数倍広がりました。今こうしてジャンルを問わず音楽を聴き、そして弾くようになっているのは、完全にイエモンのおかげ、特にこのアルバムのおかげです。
 彼らの音楽性は、それこそジャンル的に言えば、UKロックとUSロックと日本の歌謡曲の絶妙な融合ということになるんでしょうが、それが成功しているとかそういう次元ではなくて、やはり、ザ・イエロー・モンキーというジャンルを作ってしまったいるんですね。本当に世界に無二です。
 どの曲も奇跡的に素晴らしく、また全体としても、それこそ恐るべき塊であり、いろいろと語りたいけれどそれすら拒否してしまうほど完璧なんです。10年前、当時としては全く信じられないことですが、カラオケ嫌いの私が一生懸命彼らの歌の練習をしましたし、ギター譜を買って長らく弾いていなかったギターを引っ張り出してきました。ある意味そういう表現しかできなかったんです。
 ただ、あまりに素晴らしかったので、ちょっと怖さもありました。これってもしかして奇跡なんじゃないかなっていう危惧。実際彼ら自身、あるいはソロになったのちの吉井和哉さんもこれを超えられず、また様々な日本のロックバンドがこれを超えられず苦しんだ、苦しんでいるとも言えます。
 当時のイエモン自身はもちろんその奇跡を奇跡だとは思っていませんでした。このアルバムこそがスタートで、これからもっとすごい日本語ロックが生まれると思っていたんですね。そのあたりについては今年発掘されたこちらの番組を観るとよ〜くわかります。ノリノリの彼らにはその後10年間の憂い(もちろんイエモン解散も含めて)の微塵も感じられません。
 こういう奇跡的な作品というのは、往々にして不幸を招来してしまうものです。多くの人を幸福にし、人生を変え、一方で自らを不幸にし、人生を変えてしまうようなものこそ、歴史的な作品と言われるのかもしれませんね。
 蛇足になるかもしれませんが、私がこのアルバムの中でも最も好きな曲の一つである「淡い心だって言ってたよ」の歌詞にインスパイアされて書いたエッセイ「大切」、これが吉井さんのアルバム「39108」をめぐって不思議な因果とご縁を生んでいったのでありました。

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2007.10.18

『TABLE FOR TWO』→『頭陀行』

↓某企業での様子
070514_03_2
 26時間ぶりに食事をしながらニュースを観ていましたら、こんな話題が取り上げられていました。なんだか、ちょっと笑っちゃいました(失礼)。
 「TABLE FOR TWO」…社員食堂などで通常の料金を払いながら、料理の量を減らし、その分を途上国の給食費として寄付するという社会活動のことらしい。実際には一食につき20円くらいの寄付になるとのこと。そうすると、途上国の子どもたちの2食分くらいになるのだとか。
 特集の中ではこんなデータも紹介されました。「世界で10億人が生活習慣病、10億人が飢餓」…10億人はメタボで腹が出、10億人は飢餓で腹が出ているということか。
 なんという馬鹿げた事態なんでしょうね。そんな馬鹿げた事態を少しでも是正しよう、全体としてバランスを取ろうというのが、この「TABLE FOR TWO」だということです。
 もちろん、いいことですし、発想としてもわかりやすい。大変結構なことです。でも、不謹慎にも私が笑ってしまったのは、この「当たり前」であるべき行動が、「活動」として「アクション」として行われているからです。
 テレビで紹介されていたのも、大企業の社員食堂での活動でした。社員の皆さんも「カロリー制限できる」「健康にいい」「人助けができる」と語り満面の笑みを浮かべていました。「社会貢献もできて、社員が健康になって会社の生産性も上がる」と。
 最初に書きましたが、私は今日は26時間ぶりに食べ物を口にしました。え〜!?という方もいらっしゃるかもしれませんが、私にとってはこれが日常ですので、別にどってことありません。別に仕事が忙しくて食事をとるヒマもないのではありませんよ。ご存知のとおり、私は一日一食なんです。
 よく堪えられますね、と言われますが、人間はそんなにヤワじゃないですよ。慣れればなんでもありません。というか、ある意味昼間は常に飢餓状態なんですが、それが実に心地よい。いわゆるハングリー精神ですよ。おかげさまで一日一食にした3年前から、病気はしないし、仕事は進むし、趣味も充実。まあ、直接私を知る人はよくわかると思いますが、ずいぶんとバイタリティーが向上してます。
 そう、だから、企業に限らず、日本人全員が一日一食にすべきなんですよ(笑)。ちょっと料理の量を減らすなんて甘いっす。食事自体を3分の1にしましょう!今の食事、食材は栄養豊富ですから、1食で1日分のエネルギーを補給できます。3食も食べてメタボになる、それでビリーズブートキャンプをやる、あるいはロデオに乗るなんてのは、最も愚かな行為です。温暖化の元凶です(笑)。
 「TABLE FOR TWO」…結局、企業や自治体のイメージアップのためにやってるようにしか思えないんです。実際、キャンペーン的に期間を限って行なっているところが多い。それをプレスに発信して、要は宣伝してるんです。社員の方々は、なんとなくいい人になったような気がして気持ちいい。その期間だけはちょっとカロリー制限できて、ほんのちょっと痩せたりもするのかな。いや、昼飯軽かったから夕飯はたらふく喰っちゃうんでしょうね、きっと。「やっぱり、腹が減っては戦はできぬ」とか言いながら。
 とにかくですね、食の本能に従うことは本当はカッコ悪いことなんです。他の本能、たとえば睡眠欲とか性欲とかに従って生きることは、あんまりいいこととされませんよね。会社でそういうことが行われていたら当然まずいし、キャンペーンでそれらを制限する前に、その人はクビになるか警察行きでしょう。なのに、1日3食食べましょう!みたいに国を挙げて食欲万歳ってやるから困るんです。いったいどうなってるんでしょう。かたや飽食せよ、かたやメタボ検診じゃあね。ワケ分かりません。
 さてさて、では私の主張する本当の地球への、そして自己への貢献活動をなんと呼びましょうか。「ONE MEAL A DAY」…じゃ、まんまか。やっぱりこれかな。『頭陀行』(ZUDAGYO)。仏教における衣食住への執着を払う行。「食」だけじゃないところがいいな。

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2007.10.17

マトリョミン嬢来たる!

Mt5523 ああ、なんだかとっても忙しいのに、また「何か」がやって来たぞ。「モノ」が来た。うむ、これはたしかに「何か」だ。「モノ」だ。普通の人にはいろんな意味で理解できないでありましょう。
 先日、紹介した