『世界の調律 サウンドスケープとはなにか』 R.マリー・シェーファー/鳥越けい子ほか訳 (平凡社ライブラリー)
サウンドスケープの基本文献。初めて読みました。仕事上読む必要が生じたためで、本来ならこんなに分厚い本は買っても読まないでしょう。
思ったよりも面白かったのですが、ちょっと眠くなったかな…違和感とともに。いつものように内容の紹介は他の人に任せまして、ちょっと読みながら考えたことを記しておきましょうか。
視線をはずして何かを見ないようにしたり、目を閉じて瞑想したりするのは比較的簡単です。聴線というのは、なんとなくイメージとしてはありそうな気もしますけど、しかし言葉としてないということは、あんまり一般的ではない(重要ではない、もしくは機能していない)ようですね。また、耳を閉じて瞑想するというのも物理的に難しいそうです。人間にとって「音」というのが、基本的に無害なものなのか、あるいは他人の「言語」をよく聴きなさいという神様の意思なのか、よくわかりませんけれど、とにかく私たちはそういうふうに進化してこなかったんですね。結果、いやおうなしに様々な音に囲まれて生活することになるわけです。
ちょっと考えると、そういう無数の音の中にも意識される音と意識されない音があり、また、(自分にとって)意味のある音とない音とがあることが分かります。心地よい音と不快な音というのもありますね(もちろん個人差があります)。
それらを音楽と騒音とか、自然音と信号音とかいうふうに、ちょっと乱暴な仕分けをするんじゃなくて、ていねいに、そして目に見えるように捉え直したのが「サウンドスケープ」です。
先ほど、聴覚が視覚よりも、対象を自由に選択できないかのような記述をしましたが、実はそうではないというのを、私たちは経験的に知っています。つまり、無意識のうちに、あるいは意識的な場合もありますが、私たちの耳は(脳は)かなり恣意的に音を取捨選択しています。視覚以上にそういうことをしている。つまらない授業では、先生の口から発せられる音声は、ほとんど無音と同じく無意味であったりしますね。
そういう聴覚の世界を「スケープ」として捉え直す「サウンドスケープ(音の風景)」に、私は眠気とともに違和感を催しました。シェーファーが「見た」音世界は、あくまでスケープ化を目的として捉えられたものだったからです。この本に展開されていく音の風景たちは、正直私の知っている、私の脳内に展開されていくそれとは明らかに違っていました。シェーファーは作曲家ですし、マクルーハンの弟子ですからね、かなり慎重かつ学際的な論を展開してはいるんですが、いかんせんマイクロフォンによってつかまえられ、数値化された音風景が登場する段になると、どうしても私の脳内スクリーンには?が点滅してしまいます。
というよりも、ここは日本だしなあ。いきなり、西洋の街の風景を見せられても、私には本当の音は全く響いてきません。もちろん、日本のサウンドスケープ研究家やデザイナーが、母国の音の視覚化をやってくれていますが、それが私の脳内風景と一致するかというと、その可能性はあんまりなさそうです。
では、サウンドスケープというのが全く意味がないかというと、もちろんそんなことはないと思います。私の個人的な風景にとっては意味がないかもしれませんが、「私」の総体である社会には有用となるでしょう。公共的な音空間は、たしかにデザインされるべきものであるし、それ以前に個人的な音というのが、実は個人的なものではない、社会的なものであるということを認識する上でも。
しかし、先ほど書いたように、シェーファーの発想があくまで西洋的な環境のもとにあること、また、この本のタイトルでもある「調律」という言葉が象徴していますが、その発想自体が西洋的な価値観のもとにあることに、私は正直違和感を持ちました。世界は調律されるべきなのでしょうか。平均率的に?
で、いきなり話がぶっ飛びますが、サウンドスケープという言葉を何度も目にするうちに、私は「観音さま」を思い起こしました。「音を観る」…私たちの中にいる観世音菩薩は、機材を持ってきてやれ何㏈だとか、そんな無粋なことはしないでしょう。
ムジカムンダーナ(天上の音楽)はきっとあります。あるからと言って、それが地上に再現できるとは限りません。再現できていればとっくに地上のものになっています。天才たち、ピタゴラスやダ・ヴィンチやケプラーやハーシェルや、もちろんバッハやモーツァルトもそれを試みたと思いますが、彼らの失敗はそこに「神」という言葉を置いた時点で始まっていたとも言えます。今、私たちは「科学」という言葉のもとで、同じ過ち、いやもっと下世話な過ちを犯そうとしているかもしれません。
では、どうすればいいのか。どうもしないのがいいのか。地上の騒音を消し去り、地上の音楽を奏でていればいいのか。いや、地上のというのはおこがましい。動物や植物や石ころや空気にとっては、騒音が音楽で、音楽が騒音かもしれませんからね。結局、人間の人間による人間のためのチューニングが施されていくんでしょうか、音の世界にも…。
究極は、ただ単に観音するだけでいいのかもしれませんが、でもやっぱりそれが難しいのでした。ふぅ、またよく分からなくなってきたんで、ここらでおしまい。
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