神々のネットワーク総集編(「もののあはれ」とは)
鳥海山大物忌神社鳥居
さて、もう富士山に帰ってきたわけですが、最後に今回の不思議な旅を総括しておきましょう。
「もののあはれ」…これこそ今回の旅のキーワードでした。
現代人が、「もののあはれ」という言葉に関して、本居宣長さんや和辻哲郎さんらのおかげですっかり間違った認識を持ってしまっていることは、以前こちらに指摘しました。
私はこの言葉を非常にシンプルに解していまして、また実感としてもすんなり心に入ってきていまして、正直なところどうして世間では「よくわからない」と言われているかよくわかりません。
それはたぶん、現代日本人が「モノ」ということばが持つ本来の意味を忘れているため、それに対する感情というのも忘れてしまっているからだと思います。何度も言いますが、「モノ」とは「無常・変化・不随意」など自分の思い通りにならない現象や存在を表す言葉です。「もの」と言うと、現代人は「物=物体」だと思ってしまうために、場合によっては「目に見える、変化しない物」だとらえてしまうこともあります。それでは全く逆ですね。本当は、人間の五感でははっきりと捉えきれない、人知を超えたものなんです。
現代語でも、こんな例をあげるとわかりやすいと思います。
「物悲しい」…「なんとなく悲しい」
「物の怪」…「目に見えない怪物」
「だって〜なんだもん(もの)」…「自分の意志とは関係なく、なにか外部の力が働いている」
「大物」…「自分の基準を超えた普通ではない存在」
「物語」…「相手の知らない情報をメディアを通じて相手の中に固定する」
と、こんなふうに実は現代語にもそのニュアンスはしっかり残っているんですね。終助詞の「〜もん(もの)」なんか、ちょっと面白いでしょう。ちなみに、この終助詞に関しては、まともな論文がありません。自分で書けばいいんですけど、面倒くさいんで(笑)。
上の写真は、秋田県と山形県にまたがる鳥海山にある大物忌神社の大鳥居です。この神社はまたまた出口王仁三郎と(また、その父君とも噂される有栖川宮熾仁親王とも)因縁が深い神社なんですが、まあそれは今回は置いておきましょう。
鳥海山の噴火は、ここに祀られている大物忌大神の神威であるとされており、ちょうど富士山における浅間神社のように、その怒りを鎮めるためにこうした神社が造られたものと思われます。「物忌」とはご存知のように、何か不吉なこと不浄なことがあった時に行動を慎むことを言いますね。古文ではそういうふうに使われています。で、元をただしてみますと、これは「物」を「忌む」わけで、つまりワタクシ的には、「人知を超えた何か」に対して、人間がひたすら鎮まってくれと祈り、ほかには何もしないでじっとやりすごすことを言うのだと解釈されます。「忌む」は「斎む」とも書きます。純粋な気持ちで祈るということですね。「大物忌神社」の意味はそういうところにあるわけです。
さあ、また長くなってしまいそうですが、「もの」のイメージが出来上がったところで、次の「あはれ」に行きましょうか。「あはれ」から派生した現代語に「哀れ」と「天晴れ(あっぱれ)」があります。一見正反対と思われる二つの語が生まれたのは意外かもしれませんが、考えてみると当然のことなんですよね。「あはれ」は古語では感動詞としてもよく用いられました。「ああ…」「Ah!」ってことです。それが基本です。ですから、いいことに対しても悪いことに対しても使われて当然ですね。とにかく「意外なこと、予想外のこと、避けたいこと」が起きた時に、ついつい発してしまうため息や叫びなんですね。ですから、もうお分かりと思いますが、ここにも「不随意」なイメージがあるんです。
そうしますと、「もののあはれ」とは、まさに「不随意な現象、存在に対して、人間が自らの無力さ小ささを感じ、ため息をつくこと、またその時の感情」、さらに一歩進んで「世の中は無常であり、不随意であり、自分はちっぽけな存在であるという、ゆるがしようのない唯一の真実」を表す語だということが解ってくるでしょう。
もちろん、これはいいことにも悪いことにも使われます。とにかく自分の力ではない、「何か」「もの」「神」の力を感じた時に人間が抱く本能的な感情だと思うのです。
で、ようやく今回の旅の話に戻ります。本当に辛いことですが、台風や中越沖の地震のことを思うと、まさに「もののあはれ」ですし、私たち家族のささやかな喜び、全く予想外な幸せな出来事というのもまた「もののあはれ」であるわけです。いずれにせよ、「何か」に、「もの」に、「神」に、「仏」に、「ご先祖様」に祈りたくなる、また身を任せるしかないと思わざるをえないこうした状況や、それに対する自分たちの感情こそが、「もののあはれ」だということなのでした。
とにかくこうして行動してみると、こういう「何か」と出会い、「何か」を感じ、「何か」を知るんですね。紀貫之らが言う「もののあはれを知る」というのは、こういうことなんでしょうね。動いて、出会って、思いをめぐらせて、結局は自分に、他者に、自然に素直になっていく…旅というのは本当に素晴らしいものだと思います。
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