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2007.07.31

源氏物語に学ぶ「通奏低音奏法」

13312_11349060506095527365_300 ここ富士山麓は今、正直寒いっす。まじでストーブをつけたいくらいです。外の気温は11度(!)と表示されています。静岡の真冬の最高気温と変んないじゃん!ありえね〜。ニュースでは日本全国暑い暑いって言ってるのに…。
 そんなひんやりな夜もセクスィー部長のおかげでかな〜り熱く暑くなりました。ということで(かなり強引ですが)、今日は平安のセクスィー部長、光源氏さんから通奏低音について学びましょう(?!)。巻もちょうど「常夏」ですし。
 源氏物語の「常夏」の巻に、セクスィー部長が…いや光源氏が玉鬘に通奏低音のチェンバロについて語る部分があります(?!)。
 まあ、とにかく読んでみて下さい。まずいちおう本文を。

 (源氏)「…ことことしき調べもてなし。しどけなしや、このものよ。さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき。…同じくは、心とどめて物などに掻き合はせて習ひたまへ。…深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに弾き得ることはかたきにやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし。ただはかなき同じ菅掻きの音に、よろづのものの音、籠もり通ひて、いふかたもなくこそ、響きのぼれ」

 では、訳します。いつもの我流(無手勝流)訳で失礼します。

(源氏)「(チェンバロは)…決まったメロディーはありません。自由なんですね、この楽器は。でも、多くの楽器の音やリズムを調える役割をしているところがとても重要なんですよ。…同じ習うなら、注意しながら他の楽器などに合わせて弾いてお習いになりなさい。…深い奥義といっても、どうということはないのですが、一方で本当に弾きこなすことは難しいのでしょうか、現在では、あの内大臣に並ぶ人はいませんねえ。ただなにげない同じアルペジオの音に、全ての楽器の音が、こもり通って、言いようもなく響きのぼるのです」

 ね、素晴らしいでしょ。これこそ通奏低音におけるチェンバロ演奏の醍醐味ですよ。さすが源氏です。よくわかっていらっしゃる。ちなみにこの文の中に見えるチェンバロの名手とは、源氏の親友でありライバルである頭中将のことです。出世して頭中将じゃないんですよね、もう。
Wagon なんて、冗談はこのくらいにいたしましょう。平安時代の日本にチェンバロがあるわけありません。でも、同じような原理で発音し、同じような音楽的役割を果たした楽器があったってことですよね。それが「和琴(わごん)」です。
 「和琴」というのは、今のお琴、すなわち「箏のこと」とは違う楽器ですね。もう少しシンプルで素朴な楽器です。また「琴(きん)」と言われる中国から来た琴柱のないタイプものとも違いますね。右の写真を参考にしてください。もう少し平らに持って弾いたと思われますが。
 ですから、冗談とは言っても、半分以上は冗談ではないわけです。おそらくチェンバロで通奏低音を弾いたことがある方は、源氏の言葉のあまりの鋭さにドキッとされたのではないでしょうか。それほどに本質をついた言葉なんです。
 実は、この部分の私の訳は、一般的な訳とは違うかもしれません。しかし、ちょっと音楽をかじっている者として、また、「モノ・コト論」を展開するものとして、自信をもってこういう解釈をいたしました。「物の音」の「もの」は外部を表します。自分から発する音である「歌」や「声」に対する「楽器音」ということですね。「ことことし」という形容詞が出てきますが、これは「型にはまった、固定された」という意味です。
 というわけで、この源氏の和琴論は、通奏低音のチェンバロのみならず、もちろんテオルボやリュート、あるいはジャンルは違いますが、ジャズのギターやピアノの奏法にもつながりますよね。
 この前、友人であるチェンバリストの方と話したんですが、どうも最近の若い演奏家は自己主張ばかりが強くて、「響きを立ち上らせる」ことができないようです。ぜひ、源氏の言葉に耳を傾けてもらいたいですね。まじで。

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2007.07.30

『スポーツとは何か』 玉木正之 (講談社現代新書)

1494541 夏の甲子園出場校がそろそろ出そろいますかね。私の勤務する高校の野球部は、結局優勝校に負けてしまいました。ウチは秋の優勝校、先方は春の優勝校ということで、あの試合が実質上の決勝戦だったのかもしれません。また、私の母校は春の全国制覇校に延長戦で惜敗いたしました。今年はいずれかで甲子園に応援に行けるかと思っていたので、ちょっと残念です。
 しかし、この高校野球というのは不思議な世界ですね。もう充分に議論し尽くされているとは思いますが、どう考えても純粋なスポーツとは言えませんね。一番暑い時期に、一番蒸し暑い地方で、一番暑い時間帯に決勝戦が行なわれる。偶然性の高い球技にもかかわらずトーナメント方式である。軍隊式の行進が行われる。原爆の日、終戦記念日、お盆、郷土愛、汗と涙、連投、連帯責任…全てが、日本人の好むノスタルジックなドラマ性を準備しているように思われます。
 まあ、野球自体不自然なスポーツですからね。いろいろな意味で不均衡ですし、ボールデッドの時間が異様に長い(間が多い)。団体球技のくせに、まるで戦国時代の名乗りあいのように、あるは仮面ライダーとショッカーのように一騎打ちだし。
 この本では、そんな野球に限らず、イギリス発祥のもの、アメリカ発祥のものなど、様々なスポーツやその周辺の事象を取り上げられています。そのルーツや文化的背景、さらに日本での問題点などについて解説が施されていきます。結果としてなかなか面白い比較文化論になっていると言えるでしょう。
 内容的にはどこかで聞いたことのある話ばかりですが、それらをこれだけまとめて提示されると、たしかに読んでいて飽きない。ちょいと牽強付会ぎみなところもありますが、「へえ〜」というトリビア的なネタ本として、あるいは高校生などに「別の視点」を与える教材としては、けっこう使える本でしょう。
 この本のもう一つの面白さというか、読みやすさの原因というのは、筆者が自らに課した「型」にあります。筆者は、「スポーツ用語からスポーツを読み解く」として、用語(テーマ)を最初から最後まで「あいうえお順」に並べています。50音順に並べるということによって、内容に流れがない、すなわち辞書的な構成になるかと思いきや、途中まで(最後までかも)その並べ方に気づかないほどに、前後のテーマがうまくつながり、全体にわたるメインストリームもできているという離れ業、ウルトラCを筆者は実現しています。さらに一つの用語の記述が全て1ページぴったりに収まっている(それぞれ600字くらいの小論にまとめられている)。これは面白い書き方だと感じましたね。
 私のブログもたいてい同じくらいの長さ(長過ぎさ?)ですし、全然違う対象を取り上げつつ、けっこう前後のつながりがあったり、全体としてのテーマ性があったり…してるかな?…いや、自分としてはそういう感じがしてるんですけどね、この本はそれを徹底していますね。まあ連続コラムをまとめた感じなのかもしれません。とにかく、長いフツーの本を読むのが苦手な私には、実に読みやすかった。
 あとがきで筆者も書いている通り、その「あいうえお順」スポーツ用語は「す」までしか進んでいません。「せ」以降も早く読んでみたいところですね。
 ところで、筆者はスポーツライターとして有名ですが、もう一つの顔、音楽ライター(音楽評論家)としても重要な仕事をしています。「スポーツ」にせよ、いわゆる「音楽」にせよ、明治にどっと流入した西欧文化なわけであって、それらがどのように日本に受容されたか、そしてそれらがどのように日本的に変容せられたか、その歴史の中に、玉木さんは「日本とは何か」を見ようとしているように感じますね。

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2007.07.29

第3回富士山の森ジャズフェスタ2007

Jazz0729 昨日は「なんちゃって」について語ってしまいましたが、今日になると本当に恥ずかしい。いつも生徒に教えられます。
 今日は近所の河口湖ステラシアターにおいて、「第3回富士山の森ジャズフェスタ2007」が開かれました。この学生ビッグバンドの祭典は、私の勤める高校のジャズバンド部が中心になって主催運営されました。合宿明けということで、私は後半しか聴くことができませんでしたが、それでも3時間以上にわたり、各校のフレッシュかつ熱気溢れる演奏に心躍り、また心打たれました。
 今回の出演校およびゲスト、講師は以下の通り。
富士吉田市立明見小学校・府中市立府中第4小学校・山中湖村立山中湖中学校・さいたま市立与野東中学校・東京都暁星中・高等学校・静岡ジュニアジャズオーケストラ・山梨県富士学苑高校・横浜市立大学・日本大学・早稲田大学・法政大学・東京大学
ゲスト TOKYO F.O LAB BAND
講師 瀬川昌久氏(ジャズ評論家)、内堀勝氏(作編曲家)
 いやあ、本当に感激しましたよ。ジャズの素晴らしさ、ビッグバンドの素晴らしさは当然として、やはり、学生ならではの一生懸命さや、緊張感、いい意味での若気の至りでしょうかね。純粋に楽しもう、楽しませよう、目立っちゃおう、そして、やばいビビってるという感じ。謙虚さと前向きな無謀さ。自分の限界を知らないために生じるプラスのエネルギー。どれをとっても、私のようなゴマカシばかり考えているなんちゃっておじさんの音楽とは違います。
 第一、練習の総量が違う。昨日のなんちゃってなんて、本番が全員で合わせる「2回目」ですから(笑)。そういうことを平気でやってしまうこと自体、ある意味音楽をなめてますね。お客さんに申し訳ない以前に音楽に申し訳ないっす。
 もちろん、おじさん的視点、すなわちエセ評論家的視点(聴点)からしますと、彼らには若いからこその問題もあります。中学、高校生は、まだ楽器をしっかり鳴らすところまで行っていませんし、アンサンブルや曲作りは粗削り。大学生は、上手になり始めた時期にありがちな、アンサンブルが小さくまとまりすぎる、ソロではやりすぎ、という二つのパターンにしっかり陥っているバンドが多かった。しかし、それは一つの過程として非常に健全なことであり、そこを通って、それを指摘されて当たり前なわけですが。
 そんな中、これは身内びいきでもなんでもなく、最も素晴らしかったのは我が富士学苑高校の「ムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ」でした。音楽全体にみなぎるエネルギー、テクニックを超えた楽器の言葉、エンターテインメント性、あらゆる意味で心にぐっと来ました。身内としてもちろん、彼らがこの祭典の企画・運営を裏から支え、そうした裏方的雑用の合間に自分たちの練習や本番があるという現実をよく知っているからこそ、そして、彼らの純粋な人間性を知っているからこその感動というのもあります。しかし、それ以前に本当に音楽の内容で圧倒的でした。
 講師のお二人がおっしゃっていたこと、それはまさに私が生徒たちの演奏を聴きながら思ったことでした。ここまでは練習、努力で来ることができる。ここから先、いかに聴く人を感動させるか、そういう次元に入っていくと、もう技術論とか解釈論とかいうものはほとんど無意味になってくるわけです。その人の人間性、生き様が音楽そのものになってくる。それは私が思うに「縁」によって醸成されるものだと思います。
 若い彼ら(全てのバンドの皆さん)が、この後、いったいどういう音楽を、人生を奏でていくのか。講師の先生方もおっしゃっていましたが、「怖い」し「楽しみ」でもあります。自分の才能の限界にぶちあたることもあるでしょうし、思うように音楽できない環境に置かれることもあるでしょう。ある人は楽器に触ることすらなくなるかもしれません。自分の学生時代を懐かしく顧みつつ、また今の自分の置かれたある意味幸福な状況に感謝しつつ、若者たちに心からエールを送りたいと思います。
 そして、自分の音楽についても、もう一度原点に帰って…それがなあ、いっつも生徒諸君から刺激をいただくのに、全然ダメなんだよなあ…大人になるってこういうことなんでしょうかねえ。哀しいような、でもちょっと楽しいような(笑)。

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2007.07.28

(なんちゃって)イパネマの娘

Ipanema 今日は勉強合宿の合間をぬって、歌謡曲バンド「ふじやま」のライヴ(in 富士吉田市市制祭 市民夏まつり)をやってまいりました。そして…
 憧れのボサノバをいきなり人前で演奏してしまいました。なんちゃって道も極めればそれなりのものになることを信じて…るわけないっす。なんちゃってはなんちゃって。しかし、そのなんちゃってこそ、ディレッタントの特権であり、武器でもあります。
 憧れって大切ですよね。そしてなんちゃってでもいいからマネてみる。これは子どもの時にはみんなよくやっていたことです。
 今日、先輩の先生と話したんですけど、最近アンダースローのピッチャーをすっかり見かけなくなりました。いちおう、というか、かなりの野球少年であった私は、真剣にアンダースローの練習をしましたよ。だって、当時のプロ野球には、山田さんや足立さんら、たくさんの名アンダースローピッチャーがいましたし、漫画やアニメの世界でもドカベンの里中くんや、野球狂の詩の水原勇気さんや、そうそう巨人の星の星飛雄馬も最後はアンダースローでしたね。子どもたちは、そういう憧れの対象がありますと、とにかく真似してみるわけです。
 よく言われるように、「学ぶ」は「真似ぶ」であります。私たちいい大人の歌謡曲バンドも、基本はこうした「学ぶ・真似ぶ」姿勢を忘れてはならない、少年少女の心を失ってはならない、と常々思っている…わけでは決してないっす。単に子供っぽい集団なんでしょう(笑)。
 で、今回なんてひどいですよね。ボサノヴァ…全然歌謡曲ではないし。いや、歌謡曲に多大な影響を与えているし、ブラジルの歌謡曲とも言える(まあ、なんとでも言える)。とにかく、とにかく、私たち共通の憧れだったんですよ。私だって、4000円近くする「ジョアン・ジルベルト奏法」の本を買って、ひそかに練習した時期がありました。そして、1ページ目で挫折しました(笑)。それほどに高い壁であり、高いからこその憧れの花だったわけですね。
 それを、この年になって、こういう形で演奏するようになるとはなあ。感無量です。
 今回は、正直どのパートも見事ななんちゃってだったんですけど、その最たるものはやはりヴォーカルでしょう。つまりウチのカミさんです。
 え〜、最近のいくつかの記事でおわかりのとおり、今彼女の心は、秋田もしくは東京もしくはブラジルに飛んでおります。まったく理解しがたい腐女子ぶりを発揮しておるのでありますが、しかし、そのFパワーなくして、今回のなんちゃってもなかったでしょうし。すなわち、私たちの共通の夢の実現(なんちゃってですが)もなかったということです。そういう意味では「おそるべしFパワー」と言うよりも「ありがとうFパワー」ということになります。
 彼女は、友人の(というか、これを機に友人になったのではないだろうか…)ブラジル人の指導も仰ぎながら、この非常に短い期間内、すなわち1週間ほどでブラジルポルトガル語をマスターしたのであります(もちろんなんちゃってですが)。
 ということで、我々の究極のなんちゃってぶりをmp3にしましたのでどうぞ聴いてやってください。演奏中、なぜか数人の少年(ガキ)がステージ前に陣取り、我々を指さして笑っていました。きっと、彼らは本当の(本来の)子どもの心をもって、我々の邪(よこしま)な子ども心を見抜いていたのでしょう。ハハハハハハ。
 また、この曲で降り番だったメンバーも腹を抱えて笑ってました。そんなに可笑しいでしょうか。いや、たしかにこれは…。
 あと、録音の途中で観客が「小野リサが歌ってる…」みたいなこと言ってますねえ。これはどういう意味なんでしょうか(笑)。
 ボサノバと言えば、非和声音が特徴ではありますが、各パートともちょっとやりすぎじゃないですか?(笑)。お客さんの手拍子も微妙だしね。とにかく本場、本職の方は聴かないでね。

(なんちゃって)イパネマの娘(mp3)

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2007.07.27

『神々の軍隊 三島由紀夫、あるいは国際金融資本の闇』 濱田政彦 (三五館)

Kamigami 冒頭の三島の自決、少し遡って「英霊の声」を聞くシーンは、今までにも充分すぎるほど語られてきましたので、別段感慨もなく読み始めたのですが、続く、美輪明宏が三島由紀夫の背後に磯部浅一の霊を見るシーンに鳥肌してから、新しい物語が一気に動き出しました。「国際金融資本」と「神々の軍隊」の戦いの行方は、すなわち私自身の存在そのものに関わるものでした。
 こちら「昭和天皇伝説」もなかなか刺激的でしたが、こちらはその数倍面白いノンフィクションでしたね。すごい本です。人物関係と流れを復習するために2度読みました。昨日のシェーファーに負けず劣らずのヴォリュームなんですが、思わず引き込まれました。
 著者の濱田さん、私よりずっとお若い方のようですが、知識も豊富、独自の視点によるそれらの結びつけ方も絶妙、文章もなかなか達者で、感心しきりです。
 「貨幣(かね)」という無表情でウイルスチックな「神」に、本来の「神」の象徴であったはずの天皇さえも感染し、国が亡んでいく。そんな国を、天皇を、人民を憂え、必死に抗しながらむなしく散っていった人々。神風連の乱の太田黒伴雄や2.26事件の磯部浅一、大本の出口なお、そして三島由紀夫ら。彼らが紡いだ「縦糸」は、今本当になくなってしまったのでしょうか。
 私はこの本を読んでいて、たいへんに胸苦しくなってしまいました。明らかに新しい「神」の理論の上に生活し、先生という仕事を通じて、それを次の世代に「縦糸」として紡ぎ出している自分の存在に、そら恐ろしささえ感じました。出口なおの言う「われよし(利己主義)」「つよいものがち(弱肉強食)」世界でのうのうと生きている私。
 この本の一つの特徴は、本来の「縦糸」の中心人物として、出口なお(この本ではナオと表記されています)を置いている点でしょう。彼女の素朴にして重厚な純日本的存在感は、確かに非近代そのものでした。彼女の言葉「お筆先」は、ある意味言葉(ロゴス)にすらなっていません。
 さらに面白いのは、彼女の後を継いだ出口王仁三郎を、徹底的に「横糸」として描いていることですね。彼は常に「贋作師」「政治屋(フィクサー)」「経営者」「無軌道な男」として登場します。彼にはたしかにそういう側面もありましたからね。いや、ある方向から見れば、まさにそのとおりであったと思います。しかし、あまりに多面的な王仁三郎のことです。濱田さん、「横糸」にこだわりすぎて、王仁三郎に関しては描ききれていなかったかもしれません。
 ここでまた私の勝手な「モノ・コト論」になってしまいますが、なおが近代化の波の中で吐き出した糸は、まさに「モノ」でした(もちろんこの「モノ」は物質という意味ではありません)。それに対して、貨幣(=かね)は「コト」の象徴であります。王仁三郎は「モノ」も「コト」も併呑し、結局「モノガタリ」を吐き出した。彼があえてなおとぶつかり合ってみせたのは有名な話です。そうして、彼女の吐き出した「モノ」を、自らがメディアになって世間に提示して見せた。まさに物語ったわけです。
 そして、再び自分を省みてみますと、私たちは今、完全に「モノ」より「コト」に生きているということになりますね。ある意味、三島由紀夫がああいう形で物語ったのを最後に、私たちは「神話」を失ってしまった。あの時三島が絶望した、市ケ谷の若い自衛隊員の姿は、すなわち私たち自身のそれだったのでした。
 いやあ、それにしてもこれはすごい本でした。軍部や天皇家と財閥、宗教団体の関係など、私が今まで知らなかったことが、もちろんたくさん書かれていまして勉強になったんですけれども、それ以上に、ああやっぱりあの戦争が大きな分岐点だったのだな、ということを改めて痛感しましたね。戦争がいけないことだというのは単純に知っていますが、あの時、日本人が(正確に意識しなかったにせよ)何と戦ったのか、何に負けたのかを、いろいろな視点から考えてみることは、とても重要なことでしょう。
 この本が、今絶版になっていて手に入りにくいというのは、実に残念なことです。どうでもいい本が書店に山積みにされ、こういう本が消えていくこと自体、新しい「神」のシステムがしっかり機能していることを証明しています。今回、この本を貸してくださった伯爵さま、本当にありがとうございました。

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2007.07.26

『世界の調律 サウンドスケープとはなにか』 R.マリー・シェーファー/鳥越けい子ほか訳 (平凡社ライブラリー)

58276575 サウンドスケープの基本文献。初めて読みました。仕事上読む必要が生じたためで、本来ならこんなに分厚い本は買っても読まないでしょう。
 思ったよりも面白かったのですが、ちょっと眠くなったかな…違和感とともに。いつものように内容の紹介は他の人に任せまして、ちょっと読みながら考えたことを記しておきましょうか。
 視線をはずして何かを見ないようにしたり、目を閉じて瞑想したりするのは比較的簡単です。聴線というのは、なんとなくイメージとしてはありそうな気もしますけど、しかし言葉としてないということは、あんまり一般的ではない(重要ではない、もしくは機能していない)ようですね。また、耳を閉じて瞑想するというのも物理的に難しいそうです。人間にとって「音」というのが、基本的に無害なものなのか、あるいは他人の「言語」をよく聴きなさいという神様の意思なのか、よくわかりませんけれど、とにかく私たちはそういうふうに進化してこなかったんですね。結果、いやおうなしに様々な音に囲まれて生活することになるわけです。
 ちょっと考えると、そういう無数の音の中にも意識される音と意識されない音があり、また、(自分にとって)意味のある音とない音とがあることが分かります。心地よい音と不快な音というのもありますね(もちろん個人差があります)。
 それらを音楽と騒音とか、自然音と信号音とかいうふうに、ちょっと乱暴な仕分けをするんじゃなくて、ていねいに、そして目に見えるように捉え直したのが「サウンドスケープ」です。
 先ほど、聴覚が視覚よりも、対象を自由に選択できないかのような記述をしましたが、実はそうではないというのを、私たちは経験的に知っています。つまり、無意識のうちに、あるいは意識的な場合もありますが、私たちの耳は(脳は)かなり恣意的に音を取捨選択しています。視覚以上にそういうことをしている。つまらない授業では、先生の口から発せられる音声は、ほとんど無音と同じく無意味であったりしますね。
 そういう聴覚の世界を「スケープ」として捉え直す「サウンドスケープ(音の風景)」に、私は眠気とともに違和感を催しました。シェーファーが「見た」音世界は、あくまでスケープ化を目的として捉えられたものだったからです。この本に展開されていく音の風景たちは、正直私の知っている、私の脳内に展開されていくそれとは明らかに違っていました。シェーファーは作曲家ですし、マクルーハンの弟子ですからね、かなり慎重かつ学際的な論を展開してはいるんですが、いかんせんマイクロフォンによってつかまえられ、数値化された音風景が登場する段になると、どうしても私の脳内スクリーンには?が点滅してしまいます。
 というよりも、ここは日本だしなあ。いきなり、西洋の街の風景を見せられても、私には本当の音は全く響いてきません。もちろん、日本のサウンドスケープ研究家やデザイナーが、母国の音の視覚化をやってくれていますが、それが私の脳内風景と一致するかというと、その可能性はあんまりなさそうです。
 では、サウンドスケープというのが全く意味がないかというと、もちろんそんなことはないと思います。私の個人的な風景にとっては意味がないかもしれませんが、「私」の総体である社会には有用となるでしょう。公共的な音空間は、たしかにデザインされるべきものであるし、それ以前に個人的な音というのが、実は個人的なものではない、社会的なものであるということを認識する上でも。
 しかし、先ほど書いたように、シェーファーの発想があくまで西洋的な環境のもとにあること、また、この本のタイトルでもある「調律」という言葉が象徴していますが、その発想自体が西洋的な価値観のもとにあることに、私は正直違和感を持ちました。世界は調律されるべきなのでしょうか。平均率的に?
 で、いきなり話がぶっ飛びますが、サウンドスケープという言葉を何度も目にするうちに、私は「観音さま」を思い起こしました。「音を観る」…私たちの中にいる観世音菩薩は、機材を持ってきてやれ何㏈だとか、そんな無粋なことはしないでしょう。
 ムジカムンダーナ(天上の音楽)はきっとあります。あるからと言って、それが地上に再現できるとは限りません。再現できていればとっくに地上のものになっています。天才たち、ピタゴラスやダ・ヴィンチやケプラーやハーシェルや、もちろんバッハやモーツァルトもそれを試みたと思いますが、彼らの失敗はそこに「神」という言葉を置いた時点で始まっていたとも言えます。今、私たちは「科学」という言葉のもとで、同じ過ち、いやもっと下世話な過ちを犯そうとしているかもしれません。
 では、どうすればいいのか。どうもしないのがいいのか。地上の騒音を消し去り、地上の音楽を奏でていればいいのか。いや、地上のというのはおこがましい。動物や植物や石ころや空気にとっては、騒音が音楽で、音楽が騒音かもしれませんからね。結局、人間の人間による人間のためのチューニングが施されていくんでしょうか、音の世界にも…。
 究極は、ただ単に観音するだけでいいのかもしれませんが、でもやっぱりそれが難しいのでした。ふぅ、またよく分からなくなってきたんで、ここらでおしまい。


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2007.07.25

『レッスルする世界』 ロラン・バルト (「神話作用」所収)

Barthes さて、昨日の迷いの続きになりますか。「上手にだまされる」話など…。
 こちらの記事のコメントでも友人が紹介してくれていましたこの古典的名エッセイを、本当に遅ればせながらですけど、読んでみました。めっちゃ面白かった。感心どころ、ツッコミどころ満載でした。
 私が手に入れたのは、例の篠沢教授が珍訳した(?)古典的な方(1967年版)でして、「プロレスする世界」ではなく「レッスルする世界」というタイトルになっております。内容的には、たしか「プロレスする世界」の方がいいかな、とも思いましたが、いや、もしかすると、篠沢教授のトンデモぶりこそ、バルトらしさを見事に表現しているのかもしれない…。
 もともとバルト自身がレッスルな存在とも言えます。彼はエクリチュールに注目することによって、結果としてパロールへの復讐心を表現していると感じるからです。彼が言うレッスルとは、表面的には記述された神話であり、いい意味での見世物であるわけですが、このエッセイの内奥に描かれているのは、反神話的世界、近代的世界への憎悪です。
 今や、この古典的エッセイ、総合格闘技からプロレスを守るための、それこそ古典的な(アナクロな)決め技になってしまった感がありますね。でも、バルトがプロレスが好きでガチンコに興味ないと表明しているからと言って、それがすなわち日本のプロレスが総合より優れているという論拠にはなりえませんよね。その辺に関しては、私は多少冷静でありたいと思っています。
 バルトが今から50年くらい前に強く嫌悪した非神話的世界は、たしかに今も存在していますが、いわゆる神話時代や古典時代よりも、それらが優勢になっているとは言えないと、最近の私は思うんです。温暖化などと同じで、大きな振幅の中の、もしかすると端っこの方にいるのかもしれませんが、かならず揺り戻しがあって、均衡を保つようになっていくのだと思います。実際、昨年あたりから総合格闘技の勢いが明らかになくなってきている。そして、プロレス的世界に人々は帰りつつあるような気もします。
 バルトの愛した50年代フランスのプロレスがどういうものだったか、私は直接的には全く知り得ませんが、このエッセイを読む限り、たしかに演劇性の濃いアメプロ的世界のようですね。バロック的な善悪の配役と、象徴的(記号的)外見、大袈裟な動作、そして観客の望むものを提供するプロフェッショナルな芸。そんな中でバルトが、特に敗者(主に悪玉)の屈辱的な姿に注目しているのは面白いですね。きっとバルト自身も、そうしたみじめな記号を見て、さまざまな意味で溜飲を下げたことでしょう。
 しかし、他の記号論者や構造主義者たちが陥ったように、バルトも結果として大きな錯誤を犯しているようにも思えます。彼らはそうした神話的な、物語的な総体をとらえようとして、記号の世界、数学の世界、言語の世界に近づきすぎてしまった。いつかも書きましたが、ミクロ的、オタク的になりすぎてしまったような気がします。あまりのこだわりのために、結果として敵(たとえば、非神話的世界、近代、パロール)に対する復讐心をあらわにしすぎてしまった。そこに私は、屈折した精神を感じずにはいられません。
 結局のところ、敵への羨望や嫉妬のようなものが見え隠れするようになってしまったということです。劣等感→羨望→嫉妬→憎悪→復讐というシナリオ、それはどの時代でも、どの国でもかなりカッコ悪いことです。
 別に現代フランス思想をどうこう言いたいのではなく、単にこの頃の自分の迷いもそこにあるような気がしてるんですよ。例えば、昨日も書きましたが、「原理主義はいけない」と言うと、誰かも言っているようにそれも結局原理主義になってしまう。いくらいろいろなものを理解し受け入れているフリをしても、それは究極的には、いろいろなものを理解しない受け入れない人を糾弾しているとも言える。そんな感じで、結局相対的にしか(あるいは敵を作るしか)自分の存在は安定しないということなんですね。
 それが当たり前だと言えばそれまでなんですが、わかっているけれどなんとなくそんな自分にガッカリもしたりするんですね。まだお子ちゃまだってことでしょうか。
 「レッスルする世界」に仕組まれたバルトのこの言葉が全てを象徴しているのかもしれません。やっぱりバルトは大人だったのか。
 『正義は故に、有り得べき違反の総体である』
 そう言えば、「wrestle」って「動物がじゃれ合う」って意味でしたね。

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2007.07.24

『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』 松永和紀 (光文社新書)

33403398 (ココログメンテナンスのため更新が遅れました)
 私は全く先生らしくない(いわゆる先生らしい自意識を持たない)先生らしいのですが、いちおう先生という名前の仕事をしている者として、これだけは教えておきたいということがあります。また、私は全く国語の先生らしくない(いわゆる国語の先生らしい授業をしない)先生らしいのですが、いちおう国語の先生という名前の仕事をしている者として、これだけは教えておきたいということがあります。
 それは、「だまされない人になりなさい」ということです。今風に言えば情報リテラシーを身につけろってことにもなりますかね。世の中の「言葉」を鵜呑みに資するなということでもあります。
 たとえば、この本でも糾弾されている「みのもんた」の言葉。まあ、みのさんの言葉はいかにも胡散臭いのでまだ罪はない方かも。バラエティーですからね、存在自体が。それより罪なのは、やっぱり新聞やテレビでしょう。いわゆるマスコミの言葉です。生徒は、新聞やテレビのニュースは本当のことを語っていると信じています。てか、それ以前に学校の先生の言うこと、あるいは教科書に書いてあることが正しいと思っていますね。
 ということで、まずは私の言うことを信じるな、疑えというところから始まりますが、私はどういうわけか初めから信用されてないので、そこんとこは軽くクリアーです(笑)。次は小学校、中学校の先生の言うことを検証します。続いて、テレビのニュースや新聞記事、ネット上の情報やなんかを俎上でぶった切ります。と言いますか、つまり同じ話題にしてもいろいろな視点や表現の仕方があるということを教えるわけですね。そして、なんでそういうふうにいろんな「コト化」が行われているかを教えます。
 特に女子生徒には、そこんとこを強調します。みんなが大好きなアレやコレは実はね…って。そうすると、女の子たちはなんか怒りだすんですよね。面白いことです。つまり、彼女らが信用し切っていた、あるいはそれを越えて信仰していたことから、突然ウサンナ(ポルトガル語…怪しいの意)の臭いがプンプンしてくるからですね。
 うん、確かに最近のテレビ番組やら、広告やら、CFやら、つまり様々な情報は、女性をだますことを目的にしていものが多い。なにしろ、今や女性は男性よりもお金持ちですからね。欲望が強い上に金持ちですから、それは金もうけをたくらむ男どもの餌食になりますよ。ダイエットにアンチエイジングにスピリチュアルにコスメにファッションに育児に恋愛に。いろんなウサンナ餌がばらまかれてます。
 そういう餌をしかける男は、単に市場の原理に則って行動してるだけですから、そんなに責められません。でもやっぱり、それにだまされて食いつく女性にしっかりしてほしいと思うのは私だけではないでしょう。
 この本でまな板に乗せられている、「白インゲンダイエット」「納豆ダイエット」「寒天ブーム」「レタスの快眠作用」「タマネギが糖尿病にいい」「シナモンが糖尿病にいい」「リンゴダイエット」「環境ホルモン」「ダイオキシン」「化学物質過敏症」「添加物」「化学物質無添加」「有機栽培」「オーガニック」「無農薬」「マイナスイオン」「水からの伝言」「遺伝子組み換え大豆」…これらは、たしかに女性が敏感に反応するコトノハばかりですね。
 しかし、この本の矛先は女性たちには向かいません。あくまでもマスコミや科学者など発信者に向かっています。筆者自身が女性ですし、記者生活の長かった方ですので、そのへんは微妙と言えば微妙でして、あくまで矛の向かう先にも表向きと裏向きがあって、それこそメディア・バイアスがかかっているかもしれませんけどね。
 だからという訳ではありませんが、この本は生徒に、特に女子生徒に読んでもらいたいわけですけれど、また逆に彼女たちにはこの本の内容もまた鵜呑みにしてほしくないわけです。つまり、最終的にはいろいろな立場からの情報(コト)を仕入れて、しっかり仕分けして、自分の「コトノハ」「コトワリ」で判断してほしい。そして、もちろんその自らの「コトノハ」「コトワリ」にも懐疑的であってほしい…。
 私自身も、いつも「原理主義はいかん」と言いつつ、でも、いつまでも懐疑論者でいるわけにもいかず、線引きというか、妥協際というか、視座の置き場というか、そういったいつもフラフラして固定されないモノとのつきあい方に苦労しているわけでして、最近もいろんな人に指摘されていますが、このブログの記事の言葉もどこか歯切れが悪かったりする(この文自体かなり気味悪い)。
 こんなことを繰り返していると、結局お釈迦さまのおっしゃる「空」という究極の 「ことわり方」、すなわち「事割・言割」を否定する「ことわり方」に至ってしまうような気もするんですね。でも、またそれが人として(特に現代日本人として)逃避になっていないかという検証も必要なような気もする…と、またまたずいぶんと話が飛んで、トンデモナイことになっていますが、えっと、つまりは、「だまされない人になりなさい」、しかし「上手にだまされる人にもなりなさい」ということかな?そうじゃないと大好きなプロレスも音楽も映画も演劇もコントもトンデモ世界も楽しめませんからね。
 「世俗の人として生きるなら、真に賢いだまされ役も引き受けなさい」ということでしょうか。う〜む、悩める日々の繰り返しでつ。
 すんません、なんか変な独り言になってしまいました。とにかくいい本でした。皆さん読みましょう!

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2007.07.23

『1枚の写真が…横浜事件65年目の証言』(NNNドキュメント'07)

Yokohamajiken 戦中最大の言論弾圧事件と言われる「横浜事件」。私はまったく勉強不足で、その名は知っていても具体的にどのような事件だったか、ほとんど知らずに今まで生きてきました。ここのところ、戦中の、特に昭和18〜20年あたりの日本に興味を持つきっかけがあり、少しこの事件についても調べ始めていたのですが、ちょうどいいタイミングで、今日の未明、ドキュメントが放送されました。
 横浜事件の内容については、以下の平凡社大百科事典の説明が簡潔でわかりやすいでしょう。

 太平洋戦争下の特高警察による,研究者や編集者に対する言論・思想弾圧事件。
 1942年,総合雑誌《改造》8,9月号に細川嘉六論文〈世界史の動向と日本〉が掲載されたが,発行1ヵ月後,大本営報道部長谷萩少将が細川論文は共産主義の宣伝であると非難し,これをきっかけとして神奈川県特高警察は,9月14日に細川嘉六を出版法違反で検挙し,知識人に影響力をもつ改造社弾圧の口実をデッチ上げようとした。
 しかし,細川論文は厳重な情報局の事前検閲を通過していたぐらいだから,共産主義宣伝の証拠に決め手を欠いていた。そこで特高は細川嘉六の知友をかたっぱしから検挙し始め,このときの家宅捜査で押収した証拠品の中から,細川嘉六の郷里の富山県泊町に《改造》《中央公論》編集者や研究者を招待したさい開いた宴会の1枚の写真を発見した。
 特高はこの会合を共産党再建の会議と決めつけ,改造社,中央公論社,日本評論社,岩波書店,朝日新聞社などの編集者を検挙し,拷問により自白を強要した(泊共産党再建事件)。
 このため44年7月,大正デモクラシー以来リベラルな伝統をもつ《改造》《中央公論》両誌は廃刊させられた。一方,特高は弾圧の輪を広げ,細川嘉六の周辺にいた,アメリカ共産党と関係があったとされた労働問題研究家川田寿夫妻,世界経済調査会,満鉄調査部の調査員や研究者を検挙し,治安維持法で起訴した。
 拷問によって中央公論編集者2名が死亡,さらに出獄後2名が死亡した。その他の被告は,敗戦後の9月から10月にかけて一律に懲役2年,執行猶予3年という形で釈放され,《改造》《中央公論》も復刊された。拷問した3人の特高警察官は被告たちに人権じゅうりんの罪で告訴され有罪となったが,投獄されなかった。

 事件自体をげっちあげ、獄死者を出すほどの拷問を行なった特高。これはもちろん許されざることですが、時代も時代、国全体が異常な状態であったことを考えると、彼らだけを責めるわけにはいかないとも言えます。しかし、終戦後、都合の悪い裁判記録を自らの手で焼却し、今に至る戦後裁判の中で、「裁判記録がない」という理由をもって何度も再審請求を棄却していきた司法のあり方には、私も怒りや恐怖を感じます。
 法に疎い私は「免訴」という言葉を初めて知りました。公訴権がないことを理由に裁判を打ち切ることだそうです。裁判所は自ら記録を消し去り、裁判はできないから、まあなかったことにしよう、免訴は無罪みたいなもんだ、有罪じゃないからいいだろう、と言っているわけです。免訴を言い渡された一人木村亨さんの「日本は人権小国、人権後進国」という言葉が重く響きます。
 ドキュメントの中では、事件の発端となった(なってしまった)写真が撮られた富山県泊町の人々がクローズアップされていました。いきなり神奈川の特高に呼び出され、拷問に近い取り調べを受けながら、「あったこと」しか語らなかった彼ら。あのような状況の中で、彼ら善良な一般市民は、よくぞ「誠」と「真」を貫き続けましたね。たしかにそこには一つの救いがあったような気がしました。
 もしかすると、まだ戦後は終わっていない、いや戦中も終わっていないのかもしれませんね。最初に書いたように、今私はある時代の日本に興味を持ち始めています。現代の私たちが、あの時代をそれぞれ自分たちなりに検証していかなければならないのかもしれません。歴史が単なる過去の記録や記憶になってしまわないためにも、それぞれが今の自分と過去とを結びつける作業をしてゆくべきなのでしょうね。

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2007.07.22

『小学校でならう漢字1006字ブック』 藁谷久三 (すばる舎)

88399628 いちおう私は国語の先生なのですが、漢字の書き順には自信がありません。そのあたりの話については、漢字筆順ハンドブックを紹介した記事にも書きましたね。
 小学2年生になった上の娘も、宿題なんでしょうか、漢字の練習をよくやってるんですけど、どうも書き順をちゃんと教わってない感じなんですね。考えてみると、自分も学校であんまり教わってこなかったような気がしますし、教わったとしても、テストには出なかったような気がするし、チェックをされた覚えもありませんね。てか、自分も授業では書き順なんて教えません。ネタとして話すことはありますが。
 もう今やパソコンやケータイの時代ですから、書き順なんてどうでもいいじゃん、という人も多いと思いますし、実際そうだと思いますけどね、やっぱり美しい形の字を書くためには、書き順というのが重要なんじゃないかと、最近思うようになったんです。
 では、書道の世界ではそのあたりにこだわってるのかと言いますと、まあこだわってはいるんですが、書道には書道のこだわり方があって、もちろん楷行草であえて違えることもありますし、一般的な硬筆の筆順とは違うことが多いんですね。
 ですから、筆順ハンドブックみたいなものが重要になってくる。私も最近たいへんお世話になってるんですけど、今回紹介する本は娘のためのものです。孫の漢字練習の様子を見ていて心配になった祖父が買ってくれたんです。大人であり、いちおう国語の先生でもある私にとっても結構いいものだったのでおススメいたします。
 まず、字が大きいのがいい。そして、筆順を表す数字だけでなく、筆を運ぶ方向が矢印で示されているのがいい。けっこうあるじゃないですか、「比」の1画目と3画目みたいに、似てるけど違う書き方するものとか。
 あと、漢字の分類方法が、配当学年順とか音訓順とか部首順ではなく、工夫されたテーマごとになっているという点ですね。たしかに発展的に勉強しやすい。
 ただ、音訓索引がついてないので、調べたい漢字を探すのがかなり大変です。1006字しかないんだから、ぜひともつけてほしいっす。
 ところで、さっき「比」のところで思い出したんですけど、生徒の答案や自分の書く字を見ていると、活字からいろいろな悪影響を受けていることに気づきますね。「比」なんかゴシック体や明朝体だと、どう見ても5画になってますよね。実際は4画です。私の名前にもついている「之」という字なんかもひどいですよね。では、教科書体はいいかと言いますと、案外あれも困りものなんです。ウチの娘もそうなんですが、ああいう毛筆を元にしたフォントを見て勉強しますと、線や点の入りのところをいかにも筆書き風に「くねっ」というか「ずしっ」というか、とにかく曲げて書くクセがついちゃうんです。それもあんまり度を過ぎると不自然です。
 やっぱりそういうところをちゃんと先生が教えなきゃいけないんだよなあ。特に小学校の先生は頑張ってほしいですね。
 高校の先生である私はと言いますと、今思ったんですが、特定の生徒には徹底的に字を直させてますね。受験で小論文が必要な生徒に対してです。見た目の印象というのがとても重要ですので。ま、それ以前に自分の字を直せって感じですけど(笑)。

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2007.07.21

コクワガタ

Kokuwa 今日はクラスのギャルどもがバーベキューをするというので、家族でおじゃましてきました。まあ、あいかわらずすごいパワーだ、あいつら。超ハイテンションのウチのカミさんもタジタジ…。肉や韓国料理の数々をたらふく喰って、河口湖畔で花火などして楽しみました。まだ夏休みじゃないのにね。
 ウチの子どもたちもみんなに可愛がってもらってご満悦のようでした。お世話になりました。ごちそうさま。
 というわけで、ウチの家族はみんな電池切れという感じで、フラフラになってウチに帰ってきました。子どもたちは車の中ですでに夢路をたどっています。上の子を二階の寝室に連れていてって布団の上に寝かせたんですが、その時、カミさんが何かを見つけました。
 そう、子どもの胸のところに何か黒い物体がとまっているのです。よく見るとクワガタムシ君ではないですか。どこからついてきたのでしょう。3センチくらいの可愛いコクワガタです。
 ウチの家族は私以外みんな無類の虫好きです。ですので、なんか虫の形をしたオモチャやらバッジやらいろいろ転がってるので、最初はニセモノだと思いました。まさか子どもの胸のところにくっついてるとは思いもしませんからね。
 さっそく飼育ケースに入れてエサなどをあげました。非常に元気です。明日朝、子どもたちが起きてきたら喜ぶでしょうね。思わぬ夏休みのプレゼントです。
 コクワガタは日本中で見られますし、比較的つかまえやすいクワガタですけど、実はウチのあたりは寒すぎるのか生息していないんですよ。河口湖とは300メートルほどの標高差ですが、その間に境界線があるらしい。最近の温暖化でその境界線も少しずつこちらに迫ってきていると思われますが。
 子どもたちには頑張って飼育していただきましょう。以前はもらってきたカブトムシや、つかまえてきたクワガタを育ててましたけど、こうして向こうからやってきたのは初めてですしね。
 では、おやすみなさい…疲れた。

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2007.07.20

くるり 『ジュビリー』

QURULI 『Jubilee gemischt von Dietz』
61cfi2xsnl_aa240_ もう発売から1ヶ月近く経ってしまいましたが、けっこう好きなのでおススメしつつ、ツッコミを入れておきます。
 くるりは、それこそ曲調がくるくる変るバンドで、それが売りとも言えますね。でも、ニューアルバム「ワルツを踊れ Tanz Walzer」を聴いた時はさすがにびっくりしました。おいおいシャレもいいかげんにしろよ、と。
 もういきなりウィーンで録音とか、もうその時点でギャグと言えばギャグなんですけどね。なんでウィーンなんだよ(京都とウィーンってなんか全然結びつかない…って、今回初めて思った)。で、ウィーンだからって、この大仰なストリングスはなんじゃ!いわゆるファンの方は笑わないで感動されたようですが、これは笑うところでしょ。
 これは私たち世代、特にビートルズやELOをよく聴いてきた人間にとっては、正直涙腺を刺激される音楽です。生々しいストリングスがロックに絡みついていく感じ、これはもうノスタルジーの世界ですね。それもなんというか、お行儀よく寄りそうのではなく、けっこうバチバチにぶつかって、しのぎを削って、けっこう木に竹を接いだようなところもあったりして、そこが中期のビートルズや初期のELOみたいな感じなんです。
 今回はそのアルバムの中から、シングルカットされた『Jubilee』を聴いてみてください。こちらYouTubeでお聴きくださいませ。
 ね?思わず笑ってしまうでしょ?コテコテです。第一、曲の入りのいきなりなディミニッシュ・コードの使い方もどっかで聴いたことあるし、サビにいたっては、これは何かと何かと何か、とっても有名な曲のメロディーを組み合わせてますね。それが何かどうしても思い出せないんだけど…。最初は「ムーンリバー」だよな、こりゃ。そのあとも絶対元ネタがあるんだけど、思い出せない。長い後奏…だいたい現代日本のシングル盤でこういう構成の曲というのも、すでにシャレですよね…この後奏については言わずもがなであります。
 彼ら、今30歳くらいですよね。彼らくらいの世代にとって、こういう音楽というのはすでにクラシックなわけでして、それをこうして恥ずかしげもなく再生してくれますと、こちらとしては、それこそ恥ずかしいというか、いやちょっとうらやましいというか、なんとなくうれしいといいますか、でもちょっと「違うんだなぁ」と言いたいというか、複雑な心境になります。彼らはやりたいことをやってるだけなんでしょうけどね。
 ちょうど、職場の机の上に「高校生新聞 京都特集号」というのが埋もれてまして、それを引っ張り出して眺めていたら、立命館高校・大学出身の彼らのインタビューが載ってました。「プロになろうと思ったのはいつごろから?」と聞かれて、彼らは「プロを意識したことはなかった」「よく『夢を見つけなさい』って言うけど、無理矢理見つけるのは難しい。それと同じで、プロになろうと思ってなれるものでもない。そこに足を踏み入れ、夢中になってはじめて夢はかなうものと思ってます」と答えています。高校生でもなんでもない私ですが、妙になるほどと思ってしまいました。
 音楽界に限らず、最近の若者は、私たちの世代に比べて力みがなくていいですねえ。我々の頃は、とにかく「アイデンティティー」とか「自我」とか「僕って何?」とか「将来の夢」とか「無限の可能性」とか、なんだか実はないものを追っかけさせられたような気がするんですね。「無限の可能性」って無限だったら可能性じゃないじゃん!とか、今だったらツッコミを入れられますが(笑)。職場では、若者に絶対自分の価値観を押しつけないよう努力してますよ。痛いオヤジにはなりたくありませんからね。
 というわけで、音楽の世界においても、身近なところではレミオロメンフジファブリックやくるりなんかが、こうして私たちの世代を軽く踏み台にして、新しい世界を切り開いてくれています(ま、レミオはちょっとオヤジに振り回されてますけど)。文化の継承とはこんなもんなんでしょうね。別にリスペクトとかなんとかいうものはいらない。ただ恥ずかしげもなくマネしてればいいってことでしょう。きっと私たちもそうやってきたんですから。

 追伸 カミさんにこの曲を聴かせたら、冒頭からELOじゃんって言ってました。サビについても、あああれだ!とか言ってある曲を歌い出しましたが、曲名がわかりません。で、さらに変な話になりました。ファンの間では「くるり史上最高の名曲」って言われてるんだよって言ったら、「え〜、それって、側転パスガードは桜井マッハ速人か桜庭和志かって言ってるのと同じじゃん、ホントはビル・ロビンソンなのに。痛いにわかファンってやつだな」とか言い出しました。それで、言い返してやりました。「ビル・ロビンソンとか言ってる方がある意味ずっと痛いよ!」と。

くるり公式

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2007.07.19

『樹海の歩き方』 栗原亨 (イースト・プレス)

87257437 いちおう青木ケ原樹海の辺縁部に住む者として、この本はいつか読まなきゃと思っていたんですが、いつのまにか絶版になってしまっていて読まずじまいだったんです。最近、ようやく程度の良い古本を見つけたので買ってみたのですが…。
 程度の良いという意味は、巻末の袋とじを開けていないということです。そこには樹海で発見された死体の写真が多数掲載されているからです。結果として、読了ののち、その袋とじを開けることはありませんでした。ま、開けなくても見えちゃうんですが。
 筆者は「廃虚の歩き方」なんていう本も書いている方でして、そちらはなかなか面白かった。私もなんとなく「もののあはれ」を感じさせる廃虚や廃軌道なんかに興味を持っていますから。
 で、この本もその延長線上にある本なんですね。だから、こういう内容になっても仕方なかったのかもしれません。「廃人の歩き方」ってとこでしょうか。
 筆者にせよ、読者にせよ、実はそこに興味があるんですね。ま、簡単に言ってしまえば「死体」を見たいと。日常ではそうそうお目にかかることのない機能停止した人間。死体に限らず、ふだん見ることの能わざる「モノ」を見たい、ちょっとこわいけど見てみたいと思うのは、これは人情であって否定すべきものではありません。私自身にもちょっとはそういう趣味はあります。
 しかし、私のように、実際その周辺に住み、また、それなりに樹海を歩いて、違った意味の「歩き方」を知っている人間としてはですねえ、この本の内容はちょっと許せませんね。もちろん、これは趣味の問題であり、価値がないと言っているのではありません。需要があるから仕方ないのもわかります。でもなあ…。
 さっき書いたように、栗原さんの趣味は「廃○」にあるので、当然そっちに目が向くわけです。一方私は、生きている樹海、生命力に満ちた樹海にも、大いに興味を持っているんですね。だって、こんなに若くてピチピチした原生林は、世界中探してもそんなにないですよ。年齢は千歳かそこらですから。自然の森としては大変に若い。
 この本には、そうした視点の記述は皆無です。植物はあくまで人間の侵入を阻むものですし、あるいは首つりのヒモをかけるための存在、あるいはシャレコウベを覆う苔にしかすぎません。動物も死体をむさぼるハエやアリやネズミやカラスしか登場しません。ま、彼らも生きるためにそうしているわけで、それもまた生命力とも言えますけどね。
 樹海って、この本で紹介されているようなところではないですよ。もちろんそういう部分もよ〜く知ってるつもりですが、それにしてもやっぱりそれだけではない。私にとってはもっと違った意味で楽しいところです。美しいところです。神聖なところです。
 こういう本が売れてしまうと、フツーの人は樹海に近寄らなくなります。そういう趣味の人や、実際「廃人」になりたい人しか来なくなっちゃいますよ。
 そんなわけでこの本、内容には偏りがありますし、自然科学的、あるいは文化的な考証も正直お粗末、おまけに初版本だからでしょうか、前半ほとんどの「確率」が「確立」になっていたりと誤字誤植も多く、正直途中でうんざりしてしまいました…とか言いつつ、20分程度で一気に読んでしまいましたが(笑)。
 袋とじ以外にも、もう一つ付録がついています。巻頭の「樹海完全マップ」です。これにも大変期待していたのですが、これのいったいどこが完全なのでしょう。たしかに私の知らない道も描かれていたり、知らない物件も載っていたりしますけど、たとえばこれを持って樹海に入っても、それこそ死体に遭遇するのがオチでしょう。たとえば洞窟なんかほとんど載っていません。
 というわけで、この本を読むんだったら、こちら『富士霊異記 五湖・山頂・樹海の神秘』を読みましょうね。中身の濃さが違います。
24851_c160 ああ、そうそう、5月の終わりに、ご近所の安倍総理が樹海エコツアーに参加してましたね。ゴミ拾いしたとか(10分ほど)。「美しい国、美しい富士山」とか言って。ちょっと考えればわかることですが、今の樹海は残念ながら「格差社会」の成れの果て、地獄の終着点です。そんなところであんなパフォーマンスするから…。その翌々日でしたっけ、松岡利勝農相が首つり自殺したのは。おにぎり食ってる場合じゃないっしょ。

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2007.07.18

BlogScouter

Blogscouter フューチャリスト宣言の記事でも、結局ネットは自己顕示欲と自己満足の集積だという結論に至りましたが、たしかに自分のこのブログを書くという行為を客観的に見ると全くそのとおりでして、別に慈善事業で書いてるわけじゃないし、誰かのためになるようになんて、そんなカッコいいポリシーがあるわけではない。なんだかんだ言って、ただ人に話を聞いてもらいたい、認められたいっていう、まあよくあるさびしがり屋の自慢大会、愚痴り大会ってとこですかね。
 2ちゃんも基本的にそんな感じだし。Wikipediaや「教えて!goo」みたいなボランティアサイトも、目立ちたがり屋さんやお節介屋さんの熾烈な戦いが繰り広げられるガチンコのリングとも言えますね。
 で、自分のそういう「言葉」をいったいどれほどの人が読んでくれているのか、自慢や愚痴をどれほどの人が聞いてくれているのかというのが、本人はとっても気になるわけですよ。それで、カウンターをつけてみたり、アクセス解析を導入してみたりする。私もそうです。それで一喜一憂する…というほどでもないけれども、なんとなく常に不安なのかもしれないなあ。キモいけど、「誰かとつながっていたい…」とか(笑)。
 さて、そんなさびしがり屋で、かつ自己顕示欲の強い皆さまのために、最近また新しいサービスが始まりました。Yahoo!ニュースで紹介されていましたので、ご存知の方も多いのでは。
BlogScouter
 なんだかよくわかりませんが、自分のブログの影響力が数値化されるという、まさにモヤモヤをスッキリしてくれる、ワタクシ流に言うと「モノ」の「コト」化、それもかなり安易なコト化ツールであります。
 scoutってことは、スカウトってことでしょうかね。それとも単に偵察ということなんでしょうか。いや、この文を読むとわかりますが、やっぱりいわゆるスカウトだな。

『…さらに!!なんとBlogScouterポイントが上位になった方(庵主…ここんとこ、初期には60点以上って書いてありました)には、ブロガーの皆さんにメリットがいっぱいの「すごい体験!すごいブログライフ!CyberBuzz」から直接登録のお誘いが来るかも…?』

 都会の街に暗躍する怪しいスカウトみたいなもんでしょう。つまり、これを運営しているサイバーバズ社としては、シロウトをスカウトして、その気にさせ、本業である新手の広告代理業(?)に参加させようという魂胆でしょうな。
 今までもこういうサービスはありましたが、比較的シンプルかつ手軽な感じが受けて、私のようにちょっとやってみようかな、いったい自分は何点取れるのかなと、なんとなくドキドキワクワク、いやドキドキワナワナしながら取り付けてみたという人、多いんじゃないでしょうか。
 結果として、私のこのブログは70点くらいから90点くらいの間を行ったり来たりしているようです。この成績がどの程度の偏差値になるのかよくわかりませんが、なんか単に前日のアクセス数に比例して変動してるような気もします。説明によるとアクセス数や被リンク数など15の項目を数値化して成績を出しているということですが、その基準や数値化のルールもよく分かりません。
 そんな怪しいものですが、それでも自分への激励としてはそれなりに役立つかもしれません。毎日テストを受けて次の日採点されて返ってくるようなものですからね。なんだか生徒の気持ちがわかるような…。
 つくづく思います。人間は点数をつけられるのが好きなんですねえ。私は仕事柄、いつもは採点する方なんですけど、実際そういう立場に立つと、その数値が示す内容なんてホントはないようなもんだって、よ〜くわかります。世の中では、と言うか、教育の世界では、やれ5段階評価はやめろとか、順位をつけるなとか、偏差値は悪だとか、いろいろ言われてますけど、本心はみんな数値化、ランキング化を欲してるんですよね。面白いことです。

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2007.07.17

神々のネットワーク総集編(「もののあはれ」とは)

鳥海山大物忌神社鳥居
Oomonoimi さて、もう富士山に帰ってきたわけですが、最後に今回の不思議な旅を総括しておきましょう。
 「もののあはれ」…これこそ今回の旅のキーワードでした。
 現代人が、「もののあはれ」という言葉に関して、本居宣長さんや和辻哲郎さんらのおかげですっかり間違った認識を持ってしまっていることは、以前こちらに指摘しました。
 私はこの言葉を非常にシンプルに解していまして、また実感としてもすんなり心に入ってきていまして、正直なところどうして世間では「よくわからない」と言われているかよくわかりません。
 それはたぶん、現代日本人が「モノ」ということばが持つ本来の意味を忘れているため、それに対する感情というのも忘れてしまっているからだと思います。何度も言いますが、「モノ」とは「無常・変化・不随意」など自分の思い通りにならない現象や存在を表す言葉です。「もの」と言うと、現代人は「物=物体」だと思ってしまうために、場合によっては「目に見える、変化しない物」だとらえてしまうこともあります。それでは全く逆ですね。本当は、人間の五感でははっきりと捉えきれない、人知を超えたものなんです。
 現代語でも、こんな例をあげるとわかりやすいと思います。
 「物悲しい」…「なんとなく悲しい」
 「物の怪」…「目に見えない怪物」
 「だって〜なんだもん(もの)」…「自分の意志とは関係なく、なにか外部の力が働いている」
 「大物」…「自分の基準を超えた普通ではない存在」
 「物語」…「相手の知らない情報をメディアを通じて相手の中に固定する」
 と、こんなふうに実は現代語にもそのニュアンスはしっかり残っているんですね。終助詞の「〜もん(もの)」なんか、ちょっと面白いでしょう。ちなみに、この終助詞に関しては、まともな論文がありません。自分で書けばいいんですけど、面倒くさいんで(笑)。
 上の写真は、秋田県と山形県にまたがる鳥海山にある大物忌神社の大鳥居です。この神社はまたまた出口王仁三郎と(また、その父君とも噂される有栖川宮熾仁親王とも)因縁が深い神社なんですが、まあそれは今回は置いておきましょう。
Oomonoimi2 鳥海山の噴火は、ここに祀られている大物忌大神の神威であるとされており、ちょうど富士山における浅間神社のように、その怒りを鎮めるためにこうした神社が造られたものと思われます。「物忌」とはご存知のように、何か不吉なこと不浄なことがあった時に行動を慎むことを言いますね。古文ではそういうふうに使われています。で、元をただしてみますと、これは「物」を「忌む」わけで、つまりワタクシ的には、「人知を超えた何か」に対して、人間がひたすら鎮まってくれと祈り、ほかには何もしないでじっとやりすごすことを言うのだと解釈されます。「忌む」は「斎む」とも書きます。純粋な気持ちで祈るということですね。「大物忌神社」の意味はそういうところにあるわけです。
 さあ、また長くなってしまいそうですが、「もの」のイメージが